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2021年11月30日火曜日

ひろば 連載企画 歴史のうずの中で  日本の近代建築 空白の10年!? 建築の1940年代(企画 構想)

ひろば 連載企画 歴史のうずの中で 

日本の近代建築 空白の10年!? 建築の1940年代

 10年を一年で検証する。一年を振り返って、その一年を象徴する作品(言説)をとりあげ、批評解説する。1月、7月は10年を展望し、総括する。

 一年を振り返る囲み記事ととりあげる作品を中心にパースペクティブを広げる本文という構成はどうか(例えば、1940年だと山口自邸を取り上げながら山口の軌跡にも触れる。一方、皇紀2600年・・・・等を簡単にまとめる)。

 

 年表担当 松本玲子+布野研究室

 一年解説 布野修司

 

 2001年 1月 強迫観念としての屋根 俳聖殿・・・伊東忠太(布野)

 2001年 2月 1940  国民住宅 住宅営団 山口文象自邸(渡辺菊真) 前川國男自邸 皇紀2600年 工場建築 忠霊塔コンペ

 2001年 3月  1941年 川村邸/白井(山田協太) 岸記念体育会館 都市防空

 2001年 4月  1942年 アジア 大東亜記念営造物コンペ 大東亜建築グラフ 南方の建築(山本直彦)         労務者住宅

 2001年 5月 1943  防空壕 女性と住生活(松本玲子)・・・震災と戦災  在盤谷日本文化会館 国民勤労訓練所 

 2001年 6月  1944年 海外神社(青井哲人):日本国民建築様式の問題 

 2001年 7月 戦後建築のゼロ地点(布野修司)

 2001年 8月  1945  岩国徴古館/佐藤武夫(水谷マイケル) 

 2001年 9月 1946年 プレモス/MIDO(山本麻子)

                        新日本の住宅建設 新しき国土建設

 2001年10月  1947  藤村記念堂/谷口吉郎(田中禎彦) これからのすまい 日本住宅の封建制 帝都復興計画 組立住宅

 2001年11月  1948  住宅no.1/池辺陽(柳沢究) 12坪木造住宅 15坪国民住宅

 2001年12月  1949年 新日本文学館/NAU(魚谷繁礼) 法隆寺炎上  自由学園/遠藤新 

 

 2002年 1月 建築の1950年代(布野)

 2002年 2月 1950

 2002年 3月  1951

 2002年 4月  1952

 2002年 5月 1953

 2002年 6月  1954

 2002年 7月 離陸・・・高度成長期へ(布野) 

 2002年 8月  1955

 2002年 9月 1956

 2002年10月  1957

 2002年11月  1958


 2002年12月  1959


強迫観念としての屋根 歴史のうずの中で 空白の10年!?ー建築の1940年代ひろば200101

大東亜建築様式   1942年 丹下健三「大東亜建設忠霊神域計画」 歴史のうずの中で 空白の10年!? 建築の1940年代,ひろば,200104

 戦後建築のゼロ地点1945815原爆ドーム 歴史のうずの中で 空白の10年!?建築の1940年代ひろば200107

公営住宅の胎動建築士の誕生1949,歴史のうずの中で 空白の10年!?ー建築の1940年代ひろば200112

2021年11月29日月曜日

オ-ストラリアの都市と建築3 サルマンのガ-デンサバ-ブ

オ-ストラリアの都市と建築1 グリフィンのキャンベラ,日刊建設工業新聞,19980220

オ-ストラリアの都市と建築2 グリ-ンウエイのシドニ-,日刊建設工業新聞,19980306

オ-ストラリアの都市と建築3 サルマンのガ-デンサバ-ブ,日刊建設工業新聞,19980327 


オ-ストラリアの都市と建築3 サルマンのガ-デンサバ-ブ



2021年11月28日日曜日

オ-ストラリアの都市と建築2 グリ-ンウエイのシドニ-

 オ-ストラリアの都市と建築1 グリフィンのキャンベラ,日刊建設工業新聞,19980220

オ-ストラリアの都市と建築2 グリ-ンウエイのシドニ-,日刊建設工業新聞,19980306

オ-ストラリアの都市と建築3 サルマンのガ-デンサバ-ブ,日刊建設工業新聞,19980327


オ-ストラリアの都市と建築2 グリ-ンウエイのシドニ-


2021年11月27日土曜日

オ-ストラリアの都市と建築1 グリフィンのキャンベラ

 オ-ストラリアの都市と建築1 グリフィンのキャンベラ,日刊建設工業新聞,19980220

オ-ストラリアの都市と建築2 グリ-ンウエイのシドニ-,日刊建設工業新聞,19980306

オ-ストラリアの都市と建築3 サルマンのガ-デンサバ-ブ,日刊建設工業新聞,19980327


 オ-ストラリアの都市と建築1 グリフィンのキャンベラ



2021年11月26日金曜日

虚白庵の暗闇ー白井晟一と戦後建築

 虚白庵の暗闇ー白井晟一と戦後建築,『白井晟一研究』Ⅱ,南洋堂,1979年(布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジー:建築の昭和』収録)

 

虚白庵の暗闇  白井晟一と戦後建築




一 方法としての白井晟一

白井晟一についてはすでに多くが語られてきたし、これからも少なからず語られ続けていくことであろう。建築家としての白井晟一の存在の仕方は今なお特異と言わねばならないし、何が白井晟一を、とりわけ建築文化の表層において特異たらしめているのか、という問いは依然としてアクティブな問いのように思われるからである。

しかし、白井晟一について語ることは必ずしも容易ではない。白井晟一とその作品をめぐる言説を支える一つの出来上がった構造(いわゆる白井神話)があり、あらゆる言説がそうした前提を免れ得ないでいるからである。白井晟一の特異性を支える構造がすでに語ろうとするものの内部に存在しているのである。極端に言えば、白井晟一については、ひたすらオマージュを捧げ完全なる帰依を表白するか、ひたすら無関心を装いつつ完全なる無視を決め込むか、そのどちらかが許されているだけのように思えるほどである。当然のごとく、後者の吐露が言説として定着されないとすれば、あらゆる言説が白井神話を増幅し、彼を神格化するヴェクトルのみをもってしまうのである。その結果、白井晟一とその作品を相対化し、それなりのコンテクストへ位置づけようとする試みの方がその説得力を欠いているようにみられてしまう。神話に拮抗するだけの言説を産み出し得ないのである。

何故、白井神話なのか。その神話作用を成立させ、それを支えるものは何か。

われわれは、一般的な神話の構造に即して、この問いに対する答えを、ひとまず、白井晟一とその作品につきまとってきたある種の謎、不可解さにおいて了解することができる。神話とは言葉であり、何よりも二次的な意味論的体系である。それ故、話すことに属することならすべてが神話でありうる。しかし、われわれが神話を必要とするのは、専ら、不可解なもの、了解不能と思われるものに対する時だからである。完結した意味の欠如であれ、その過度の充満であれーー神話が用意されるのはしばしばこのいずれかであるーー一般の了解を超えるものも、神話によってわれわれのものとすることができる。われわれは、神話によって、世界のどの物体の閉ざされた沈黙をも、豊饒な両義性の海へ誘い、その絶え間ない、意味するものと意味されるもの、言語とメタ言語の戯れの構成の果てに、不可解なものに対する現場不在証明を得ることができるのである。

白井晟一とその作品は安易な位置づけを拒否し続けている。言ってみれば、これまでの日本の建築の文脈と少しく異なった文脈を提示しているがために、われわれはそれをわかりやすくとらえる座標軸を見いだせないのである。それはデラシネであり、ノン・コンテクストであるようにみえる。唯一、白井晟一個人の生と肉体あるいは観念の運動においてのみ、その意味をとらえることが可能となるように思えるのであるが、その個自体もミスティークなヴェールに包まれるが故に、その意味を一点に集中させ、共有することができないでいるのである。それ故、またその裏返しとして、白井晟一とその作品の系譜はあらゆる意味づけを受け入れる多義的なテクストとして存在しているように一見みえる。事実、これまでの白井晟一に対する諸言説がそれを示しているはずである。時には矛盾を含んだ両義的な位置づけを許してしまうのである。あるものは、そのコスモポリタニズムを指摘し、またあるものは、その日本的なるものの一貫性を指摘する。あるものは、その精神主義を賞揚し、またあるものは、その物質の肉化をうたう。あるものは、彼にラディカルな変革者をみ、またあるものは、反動的な保守主義者をみる。あるものは、そのフォルマリズムをいい、またあるものはそのラショナリズムに思い入れる。あるものがそのマニエリズムを指摘すれば、またあるものがマニエリストとは程遠いというのである。

この両義的な現れが、そして、その両義性を媒介する白井晟一とその作品のもつある種の底のしれなさ、不可解さが白井神話の母胎である。それは例えば、磯崎新の饒舌が自ら提示する両義性の世界とは対照的な世界である。その両義性は、むしろ、位置づけを与える側にあるからである。それは、われわれの現場不在証明のために必要とされる世界なのである。

白井神話の謎を解き明かすためには、いくつかの問いが用意されなければならないであろう。確かに、こうした白井晟一とその作品をめぐる言説の構造が、白井晟一とその作品自体の両義的な特性に基礎を置き、われわれの現場不在証明のために必要とされていることは了解できる。しかし、それが今のところあらゆる位置づけを逃れているにしろ、その特異性は、さまざまな尺度において確認されなければならないからである。

例えば、日本の近代建築の歴史において、白井晟一はいかなる位置を占めてきたのか。あるいは占めているのか。われわれは、こうした問いによって、すでに、その特異性を支える単純な構図を手にしているといえるであろう。そもそも、戦後における白井晟一の発見がどのような脈絡においてなされたのか、そして、殊に、六〇年代末に、彼に一つの公認の賞が与えられて以降の白井晟一評価の眼差しが、どのような背景を含んでいたのかを想起してみればよい。それらは、単純化して言えばいずれも、近代主義批判あるいは日本の近代建築のとらえ直しの趨勢に合致しているはずである。皮相な、しかも不毛な図式と言えばいえよう。しかし、白井神話は、そうした意味づけを一次的なものとして成立してきたのである。

白井晟一が、日本の近代建築の流れ(として書かれた歴史)においてヘテロな存在であることはすでに断片的にではあれ語られてきた。それらは無論、こうした図式を内容において超えるものではない。例えば、世代的には分離派と丹下健三らの世代の間にあり、前川国男や山口文象らと同じ時代を呼吸しながら、かれらと全く異なった位相を開示するのはなぜか。神代雄一郎がむしろ彼らの世代との親近性を込めて、かつて問うたように、「多くの人が頬かむりをして戦前から戦後と連続してきた中で、」「なにか群の中の一人として出てこられたという感じでなくて、全然個人的な形で」、「戦後になって出てこられた」のはなぜか。ヨーロッパ体験にしても、堀口捨己、吉田五十八、谷口吉郎らの日本の当時の建築家の一般的パターンと少なくとも一見異なったパターンを示すようにみえるのはなぜなのか。何人かの建築家との距離を尺度とする白井晟一の位置の測定は、こうして、それぞれに白井晟一の特異性を明らかにするようにみえるのである。そこでは、日本のコンテクストにおいて、白井晟一はかつてない型の建築家なのである。いきおい、その特殊性は、建築家としてのその出自や経歴の特殊性に求められ、説明され、アウトサイダーとしての、特殊なケースとしての位置が与えられるのである。すなわち、白井晟一を日本の近代建築の流れに、相対化して位置づけようとする試みは失敗し続けているのだ。それ故、われわれはひとまず、単純な図式を採用することによって、それを丸ごととらえようとするのである。

白井晟一は、同時代の建築ないし建築家が担う課題を必ずしもストレートに内面化してこなかったようにみえる。それ故、われわれが近代建築の史的展開をとらえるいくつかの基本的な軸をすり抜けていくのだともいえる。職能の問題にしろ、技術の問題にしろ、民衆や伝統の問題にしろ、また西洋や日本、あるいはアジアの問題にしろ、彼は独自の視角と平面においてとらえてきたのである。白井晟一は、時代なり状況とのかかわりを、決定的な一線において欠いてきたといいうるかもしれない。もちろん、彼とその作品が状況的でなかったというのではい。むしろ逆である。五〇年代の白井晟一の発言に、明らかに状況的なものを見いだすことはたやすいはずである。しかし、私には、五〇年代の状況への発言を含めて、とりわけ、現在の白井の沈黙と状況のかかわりが示すように、白井は、時代なり状況との直接的な交差を決定的な一線において欠くことにおいて、逆説的に状況的であり得たように思えるのである。そうした意味では、横山正のいうように、白井晟一は徹頭徹尾、観念の建築家であったし、あり続けているといえるかもしれない。「凍結した時間のさなかに裸形の観念とむかいあいながら、一瞬の選択に全存在を賭けることによって組み立てられた<晟一好み>の成立と現代建築の中でのマニエリスト的発想の意味」を、親和銀行本店にみてとったのは磯崎新である。<裸形の観念>そして<凍結した時間>ーーそれは何よりも白井晟一にふさわしいかもしれないのである。

白井神話とは何か。その神話作用の意味するものは何か。

私は、いまのところ、白井晟一自身とその作品自体には興味がない。正直に言えば、これまで語られてきたいくつかの興味深い論考のほかに付け加えるものを持たないからである。また私的な断片的なレクチュールを繰り返していることでとりあえず満足できるからである。必要なら、あえて、詩のみが物自体をとらえ、神話に拮抗し得るのだと居直ってもよい。むしろ、関心は白井神話そのものにある。もちろん、それをめぐる問いのほとんどについては留保しなければならない。しかし、少なくとも、それはより私自身の位相にかかわっていると言わねばならないからである。それは、われわれの眼差しの問題であり、何よりもわれわれの現場不在証明の問題である。白井晟一を何らかの形で、日本の近代建築の流れの中に位置づけようとする眼差しが、逆にその特異性を確認することにのみ終始するとすれば、われわれの眼差し自体が問われざるを得ないからである。

白井晟一と白井神話をめぐる分離が究極的に成立するとは思えない。白井晟一とその作品自体について語ることと、それについて語られたことについて語ることの差異は、語る主体の内部でも微妙に交錯するはずである。その故、前提としての分離は方法的なものといってよい。すなわち、白井晟一とその作品へ向かうのではなく、むしろ、白井晟一とその作品をあたかも鏡として写し出されるものへ向かうのである。それが白井晟一論たり得るかどうかはわからない。おそらく、そうなり得ないであろう。しかし、それは白井神話とその成立にかかわり、それを支えるものを明らかにすることにおいて、逆に白井晟一の位置をも明らかにするはずなのである。もちろん、白井晟一とその作品への直接的な作業が、おそらく、かつてない密度とアプローチでなされなければ、その作業は完結し得ないと言えよう。それが直接的にその神話を解体しようとするものであれば、私の興味は、神話の意味作用を解読し、神話を神話化することにあるのである。

白井晟一をあたかも鏡として写し出されるものは、言うまでもなく、白井神話を支える日本の建築文化のコンテクストである。そして、白井晟一はある意味では、戦後一貫してそうした役割を担ってきたのではなっかたか。白井晟一についての言説自体が既に歴史性をもっており、その歴史自体が、言ってみれば戦後の日本建築に対する切断面を提示するのではないか。

白井晟一を一つの鏡とする歴史のレクチュール、白井晟一とその作品について書かれた膨大な言葉をテキストにしながら、日本の戦後建築の展開を、とりわけその出自の様相をとらえ返してみること、それがここでの私のささやかな関心である。

 

二 戦後建築のゼロ地点

建築ジャーナリズムという建築文化の表層の流れにおいては、白井晟一は、明らかに、戦後にはじめて建築家としての出発を遂げたといいうるだろう。もちろん、戦中、すでに『建築世界』や『建築知識』に、河村邸を発表しており、嶋中邸、清沢山荘、のような習作としての作品や歓帰荘によって彼は建築家としての出発を果たしていたといえる。三十路を超えて、はじめて本格的に建築を学んだという晩学の白井にしても、一九三〇年代の後半には既に、建築家として生きるしたたかな覚悟は自覚されていたはずである。戸坂潤と親交をもっていた彼が、その獄死を強いた時代の重さの中で揺れながら、必ずしも建築家としての将来を見いだし得ていなかったにしろ、その建築家としての出自の母胎が、戦前、戦中の時に求められねばならないことは言うまでもないことである。私が最も興味をもつのは、むしろ、この時期の白井晟一である。川添登や長谷川堯が触れつつあるのであるが、白井の戦後の位相をとらえる上で、この時期の重要性は否定し難いし、白井神話のヴェールにつつまれる以前の白井を見いだしうるという意味でも極めて魅力的なのである。しかし、例えば、同時期にヨーロッパに渡り、ヤスパースの講義を席を並べて聞いたのだという山口文象が既に、昭和の初頭から華々しい活躍をしていたのに比して、また、まさに戦後建築を一身に体現することになった丹下健三が、すでに、三〇年代後半から,コンペを総なめにすることによって華麗なデビューを飾っていたのに比して、ジャーナリズムの白井晟一の発見が、明らかに戦後、それも五〇年代、伝統論華やかなりし過程であったという意味で、白井は戦後にはじめて出発した作家といいうるのである。

なぜ、白井晟一は戦後的な作家として出発したのか。ジャーナリズムの白井晟一の発見というドラマティックな事件はいかにして起こり得たのか。

こうした問いに正確に答えるためには、おそらく戦後建築のゼロ地点に立ち返ってみなければならないであろう。今、われわれに明らかなのは白井晟一とその作品を、戦後の建築家あるいは戦後建築の範疇においてとらえることには無理があるということである。いわゆる戦後建築なるものが規定されなければ、こうした言い方は無意味なのであるが、白井晟一が今のところあらゆる位置づけをすり抜けているという意味において、ひとまずそういってもよいはずである。しかし、白井の登場は戦後的であり得た。もしそうだとすれば、こうした問いによって明らかにされるのは、むしろ、今日の白井神話の母胎となった戦後まもなくの、とりわけ五〇年代の日本建築の有り様であるはずなのである。

一九四〇年代は、日本の近代建築にとって空白の一〇年であった。それは単純に、前半の五年が太平洋戦争によって、後半の五年が戦災復興の準備期として、大半の建築活動が停滞していたからであり、新興建築家連盟の崩壊から建築新体制へという直線的過程として位置づけられる一九三〇年代において、一応の定着をみていた近代建築の理念が一瞬、白紙還元されたようにみえるからであり、またさらに、その問の建築および建築家の問題が必ずしも明らかにされていないからである。この空白の一〇年。建築の一九三〇年代と五〇年代の間にぽっかり口をあけた歴史の裂け目。われわれは、そこに多くの問題が潜んでいることを知っている。戦前・戦後の連続・非連続。戦争責任。転向。それは、建築において最も象徴的には、忠霊塔(一九四〇)、大東亜建設記念営造物(一九四二)、バンコック日本文化会館(一九四三)と続いたコンペに示された、日本建築あるいは大東亜建築の様式をめぐる問題として議論されてきた。いわゆる帝冠様式を、長谷川尭は、近代合理主義建築運動が、後発工業資本主義国において展開する時に、ある歴史生理的必然性から生ずるいわば正常な排泄物に近いものであるという。彼が「『昭和』の中央を汚す傷のようにかなりの数の歴史様式の建築と、さらにはあのファシズムの横行に付随したいわゆる帝冠様式が、分断している」にもかかわらず、「昭和建築」というカテゴリーを提出するのはそうした視点からであった。彼が、戦後建築の展開を戦前に準備され成立してきた近代合理主義の建築=昭和建築としてネガティブにくくり、「大正建築」をすくい取ろうとしてきたことはよく知られていよう。また、それを、丹下健三に即して、例えば大東亜記念営造物コンペ案と広島平和記念会館との間の連続・非連続の問題として執拗に追及する構えをみせたのは中真己や宮内嘉久らであった。磯崎新は、また『建築の一九三〇年代』において、この空白の一〇年にかかわる問いを提出しようとしていたはずである。モダニズムとリアリズムの問題、実証主義の問題、建築生産の合理化、建築の統制、植民都市あるいは大陸での実験、国民住居論、……さまざまなプロブレマティークがそこにはあるのである。

しかし、ここでは戦後建築のゼロ地点に的を絞ろう。まず、この空白の一〇年の中間点、一九四五年八月一五日からしばらくを戦後建築のゼロ地点としよう。そして、その束の間において、日本の建築家たちの内に最もヴィヴィットにイメージされていた建築を、ありうるべきであった戦後建築としよう。白井晟一の戦前・戦中については別稿が用意されなければならない。また、ありうるべきはずであった戦後建築というような指標がたてられるかどうかは必ずしも定かではない。しかし、べったり連なった日本の近代建築の負性をいきなり対象化する一歩手前で、そこにこだわってみる意味はありそうである。方法としての「戦後建築」。戦後建築もまた最低の鞍部で越えてはならないのである。方法としての白井晟一も、少なからず、そうした意識に支えられた歴史のレクチュールにかかわるはずである。

終戦がどのようにむかえられたのかは、戦後まもなく発刊ないし復刊された諸雑誌に現れた活字の端々や、次々に結成された諸団体のスローガンにうかがうことができる。

「君は健在か、僕も健在であり得た。これからのニッポンは引き続き多難な途を歩まねばならないであろう。僕達青年の使命はこれからこそ果されなければならないのだ。逞しく生き抜こう。人類の理想の大旗の下にたたかい抜こう。一九四五年八月一五日 K/これは別府の友人K君から終戦後僕に与えられた初めての便りであった、と共に日本の青年達みんなに贈られて良い言葉だと思う。想へば随分長い苦しい嫌な戦争であった。大日本帝国はとうとうアメリカやイギリスに完全に敗けた。それは紛れもない厳しい現実である。……」

小坂秀雄の「敗戦から都市再建へ」*1は、ある平均的な終戦時の心情を伝えている。そこには、国は敗れたが、軍国主義の敗北によって平和と自由への勝利を勝ち得たのだという底抜けの解放感と思想上の一八〇度回転は兵隊の回れ右ほどたやすい業ではないという内面的苦悩が混在している。そして、そうした心情の揺れと、人類の理想の大旗の下に戦い抜こうという決意の前に廃墟があった。都市再建がそうした心をとらえるのはごく自然なことであった。

建築界の指導的な立場にあった部分の反応はもう少し屈折する。岸田日出刀の講義の様がわりについては、宮内嘉久が建築アカデミー幻想に対する最初の冷水として触れているのであるが、「建築時感」*2において、岸田日出刀は「講義というひとつの小さな問題」について、「しにくくてしようがなかった講義の面目を一新して、ここ数年間の割り切れぬ気持ちを清算して、また昔のように建築を芸術として力強く説くことができるようになったことを限りなく嬉しいと思い、ホッと」しながら次のようにいう。

「戦争は建築を単なる戦争のための道具に堕落させてしまった。……日本の建築家がその知能のあらん限りをつくしてその戦争遂行に協力したことは事実であり、またその効果があまりパッとしたものではなかったことも確かであるが、戦時平時を問はず建築は社会と共に生き社会と共に死ぬといふ厳とした事実は、『太平洋戦争と日本の建築』といふ一事象だけからしても、はっきりと実證されたわけである。『建築を作るのは、単なる建築家の頭や腕では決してなく、建築を作るものそれは大きく社会そのものである』ことの正さが今更にはっきりと認識された。社会を離れて建築は存在しないことを識り、建築の社会性というふやうなことを強く考えさせられる」。

随分、したたかな、内に省みることのない総括である。しかし、こうした認識は根底的なレベルで受け止められる限りにおいて、極めて正当なものであったといえるであろう。今にして振りかえればそうした圧倒的な現実認識こそ唯一の戦後の出発を与えたはずなのである。岸田は続いて、モリスの社会改造運動の妥当さ、自然さについて顧みながら、そうした脈絡において「建築は造形芸術である」という透徹した理解の必要性について述べている。そして最後にポツリというのである。

「かうした根本的な改革も、いづれは必ず行はれる機運に向ふと思ふが、それの具体化は想像以上におくれるのではあるまいか。かうした改革の必要そのものについてもいろいろの論議が出て収拾がつかず、結局事ナカレ主義から旧状維持といふやうなことになったら、日本の建築はいつまでもウダツが上らず、わが国に建築芸術の華が咲くといふ日は永久に訪れないかもしれない」。

こうした危惧がどれだけ広範に存在していたのか知らない。しかし、いずれにせよ、終戦という時間の闇において幻視されたものは、戦後復興が遅々として進まぬ中で、後ろ向きの反省、批判が前向きの展望へ、使命感へすり変わるとともに、やがて危機感に裏打ちされていくのである。

建築家が終戦を機に一斉に主題化したのは、住宅問題であり、都市計画であり、建築生産の近代化であった。とりわけ計画化が、極めて新鮮な言葉としてイメージされていたことは、MIDおよび日本建築文化連盟の機関誌がいずれも、それぞれ『PLAN』、『計画Planning』と名付けられていたことからもうかがうことができるはずである。そうした主題は驚くほど口をそろえて語られていた。課題は明確に共有されていたのである。丹下健三は、都市の封建的土地支配の問題と建設工業の封建的機構の問題を正確に押さえながら、平和的民主革命と経済均衡の回復を大課題とする、建設の計画化、建設技術者の主体性の確立を主張していたし(「建設をめぐる諸問題」『建築雑誌』一九四八年)、西山夘三は、戦前・戦中の蓄積を踏まえて、住宅建設と都市の復興についていち早く指針を提出し得ていた。『新建築』の復刊第一号が西山夘三の「新日本の住宅建設」の特集で始められ、以後、彼を軸とした住宅建設、都市計画に関する一連のキャンペーンを続けたことはよく知られていよう。またそれなりに限界にあったにせよ、エスタブリッシュされた建築家として最も果敢にファシズムと闘ったと目される前川國男は、「単一人類の実現へと向ふ世界歴史の必然からしてここに言語につくし難い困難な時に恐らく前代未聞の「近代」を辿らねばならない我々の同胞の運命を思う時、我々の近代建築の果さねばならない責務の大きさを思はずにはいられない」(『PLAN 1』)と家庭日用生活器具の設計から都市計画、農村計画、国土計画、さらに政治経済のあらゆる人間的形成の基本的原理としての意味を近代建築精神一般にみていたのであるが、そのもとで、MIDグループは組立住宅プレモスを提出することによって実践の一歩を踏み出していたのである。

戦後まもなくの建築家のこうした意識を最も広範に組織し、それに方向性を与え、大きな影響力をおよぼしたのは浜口隆一であり、その「ヒューマニズムの建築」であった。もちろん、NAUの大同団結があり、その「ヒューマニズムの建築」を契機とする近代建築の概念規定をめぐる議論も含めて、当時の建築家の位相をNAUこそが示していたといい得る。しかし、NAUがむしろすでに、危機意識に媒介されており、やがてあえなく崩壊のうきめをみたのに比して、イデオローグとしての浜口は、戦後建築の幻想を精一杯に飛翔させたといいうるのである。その機能主義とヒューマニズムを無媒介的に結びつける近代建築の理念あるいは概念規定は、磯崎新がいみじくも指摘するように、モダニズムがうみ出した諸思考をリアリズムへとつなぐ視点をみせかけた「日本国民建築様式の問題」(『新建築』一九四四年一月)に示された彼の日本建築のパースペクティブを一度断ちきることにおいて提出されたものであった。そこに、つまづきの石をみるのは今ではたやすい。彼は、確かにモダニズムとリアリズムの位置をとりちがえてしまった。それはバラ色の、幸福な束の間の夢であったことは疑いないのである。しかし、それは、現在、われわれの想像を超えた迫力をもっていたといいうるであろう。浜口は、日本近代建築の明日への展望を、近代建築の理想像の実現(1 人民のものであろうとすること、2 機能主義によって制作すること、3 高度の技術水準をもつこと、4 美しい作品、国際的なスタイルであること)を、底抜けに語りながらも、具体的には、(一)住宅、(A)最小限住宅、(B)住宅の工業的生産、(二)公共建築のそれぞれについて指針を提出し得ていたのである。その具体的な課題は、明快な展望として共有化されていたといってもいいはずである。そして、乱暴に言えばそれは、われわれが「五期会」世代と呼ぶ、戦後まもなく活動を始める世代のある部分によって最も無垢な形で、少なくとも五〇年代を通じて意識され続けたといってもいいのである。

この、戦後まもなくの間に幻視されていたものを、モダニズムの名において一蹴すること、それは既に一般の視座である。ありうるべき戦後建築も、所詮、西欧の近代建築を範型とする理念でしかなかったといえる。しかし、すかさずモダニズム批判が起こったように(もちろん、それは近代主義とマルクス主義といった対立図式を超えるものではなかったのだが)、問われていたのは、具体的な課題に対する具体的な実践であり、日本のコンテクストにおけるリアリティにほかならかった。あくまでも、前代未聞の近代であり、誰しもその困難性は認めていたのである。それは、ここでのささやかな脈絡においても確認できるであろう。その困難性をいかに深く認識し、それを具体的な実践によって解いていくか、それこそが戦後建築の、そして日本建築のアポリアであった。

白井晟一は、おそらくそれに根底のレベルにおいてかかわることにおいて見いだされたといえるのである。

 

三 伝統・民衆・創造

白井晟一が、戦後はじめて建築ジャーナリズムにその一歩を記したのは「秋の宮村役場」においてである(『新建築』一九五二年一二月)。いまでは、戦後まもなくの「三里塚農場計画」、「光音劇場計画」についてもわれわれの知るところである。そして、その二つのプロジェクトに、「軒の出の大きい収納庫と、軒の出が全くない車庫と、対照的なタイプになっていることで、その後、白井晟一独特の作風をつくりあげた木造建築の二つの型」(川添登「北国の空間」)を見いだすと同時に、「<新しき村>を想起させる」白井の社会的理想(小能林宏城)に、まさに戦後建築のゼロ地点において幻視されていたもの、そこからのプロジェクションをみることができる。しかし、少なくとも五〇年代を通じて、それらは、戦前のいくつかの作品と同様、一般にはほとんど知られることはなかったといっていい。この「秋の宮村役場」において、白井晟一のささやかな、そして具体的な実践に光が注がれる糸口が与えられたのである。

「秋の宮村役場」、「雄勝町役場」、「松井田町役場」の三つの公共建築、秋田や群馬における、地方での仕事、試作小住宅を含むいくつかの小住宅などの白井晟一の五〇年代前半の作品は、その後の白井晟一の作品の系譜に照らしても。また、当時の他の建築家の活動の状況からみても、驚くべき量と密度を示していたといえる。われわれは、そこに彼のいわゆる、精一杯のソーシャリズムの時代をみる。彼もまた、その時代を確実に呼吸していたのである。戦後建築のゼロ地点において幻想されていたもの、それは明らかに彼をも突き動かしていた。「秋の宮村役場」について「秋田の文化団体に招かれたのが機縁となり、若し自分の仕事を通じてこの地方の人々に明るい冬を過させ最少の熱燃料であたたかに仕事をしてもらへることが出来るとすれば都会のおおきな規模の建物をつくるために働くよりはるかにたのしいことに違ひないと思ふようになった」と彼はいう。また「雪深い秋田にもやがてはその風土自然に導かれるように民衆のためにほのぼのとした多くの建物があらはれねばならぬ。渺たる一寒村の役場にすぎないこの小作品が、この地方の人々にとってささやかな道標ともなり得るならば望外のよろこびである」という。その短いコメントに、われわれは、彼をつき動かしていたものをみるのである。

白井晟一のジャーナリズムへの登場が衝撃的であり得たのは、後の伝統論の文脈における評価、いってみればその作品あるいは造型の特質にかかわる以前に、その具体的実践の重さの衝撃そのものであった、と私は思う。池辺陽は、前川國男の紀伊国屋書店の批判において、その前川國男の建築家としての道を「第三の道」として、困難であるが追求されねばならないとしていた(「現代建築家のえらぶ道」『NAUM 1』)。また、高山英華は、「いわゆる平和的民主革命が突如としてわがくににもたらされた結果、建築界においても民主化の問題は多少流行的にとりあげられたとみるべき点がある」、また「そこでは、主として抽象的一般的なかたちで急進的な民主化が説かれ近代化が叫ばれたのであったが、このような傾向に対しても、最近やや一転機をもたらしつつあるように感じられるのである」と既に言いながら、「地道な建築の実践を通じながらしかも革命的技術者としての新しい行き方を創りだしていく必要がある」と述べていた(「建築界展望」『NAUM 1』)。白井晟一は、当時イメージされていた語にさしてこだわらなければ、いち早く「第三の道」を歩み始めていたし、「地道な建築の実践」を通じて「新しい生き方」を創りだしていく可能性をみせていたのである。しかも、それは、戦後まもなく垣間みられていた通路とは全く別の通路を、具体的に示そうとしていたといえるのである。彼は、計画化を語ることはなかったし、「ロウコウストは建築のエレメントである。しかし、人間の生活や精神を引き上げられるロウコウストでなければならない」という試作小住宅の示すように、工業化をうたうこともなかった。多かれ、少なかれ、ありうべき戦後建築が上からの近代化、工業化によってイメージされており、民衆や人民があくまで抽象的なレベルに措定されていたのに対して、彼の実践は多く、地方においてであり、彼のいう民衆は、少なくともより具体的な、彼の出会った「秋田の人々」なのであった。そしてまた、当時、彼ほど、風土、自然を語った建築家はいなかったのではないか。

NAUによる大同団結の崩壊、それについては既にいくつかの考察がなされているのだが、それとともに、戦後建築の具体的展開は開始される。丹下の離陸がそうであり、池辺陽の立体最小限住居、増沢洵の最小限住居がそうであり、RIAの結成がそうであり、前川、坂倉、レーモンド、村野らの活動が再び開始されるのがそうである。そして、吉田五十八や清家清の、いわゆる新日本調と呼ばれるものも付け加えねばならないのかもしれない。その過程はポジティブにとらえ返せば、近代建築の理念が日本というコンテクストへ定着していく過程であったといえる。そして、ネガティブにとらえ返せば、ありうべき戦後建築がなしくずしにされていく過程であったといってもよい。伝統論は、日本というコンテクストにおける、そうしたモダニズムとリアリズムのコンフリクトの過程の華麗な産物、ある意味では徒花であったといいうるであろう。すでに、戦後建築の出発の光景において、われわれはそうした徴候を認めることができる。五〇年代の日本の建築については、それ故、いくつかの構図を描いてみなければならない。しかし、それはポスト・モダニズムやポスト・メタボリズムをめぐってさまざまな構図が描かれはじめている七〇年代も後半の現在ほど困難ではない。なぜなら、五〇年代においては、その時代を生きつつある各自において、その構図ははっきりと意識され、共有化されていたといいうるからである。戦後まもなくに既に偏在していた危機感は、何よりもそれを示すのである。しかし、白井晟一については、その具体的な実践が、全く別の通路をみせるが故に、確固とした位置づけを欠いていた。それ故、やがて、川添登による、伝統論における丹下と白井という構図が五〇年代の一つの構図として定着していくのである。

 

●白井晟一の、建築家としての現代的価値とは一体どういうことなのだろう。

○むずかしい問題だな……。僕は彼の創作態度は立派だとは思うが、作家というのは個の問題ではなくて、全体の問題だと思っているから、彼を現代の建築作家の理想像として考えることはまずいと思うな。

●ということは現代的価値がないという意味?

○そうじゃないよ、過渡的な現代だけにああいう創作活動をしているということは大いに意味があるよ。

●それは一体なんだろう……?

○そう……、僕達に一番不足しているもの、モダニズムに抵抗する精神……つまり人間愛とか、誠実さとか、現代という宿命の中で自分の過去と闘う、そういった僕達の創作活動にたちかえっても、立派に生活や創造のエネルギーになるものを把んでいて、しかも創造という形で出していることだろう。

●白井晟一とゆっくり話してみたいな。教えられることがあるだろうね。

○あるね。しかし、問題はそれを僕達の現代にどう受けとめて、どうエネルギーに転化するか、ということだ。(「ギリシャの柱と日本の民衆を読んでーー作家・白井晟一の建築創造をめぐって」対談 白井晟一・神代雄一郎…編集独白 『建築文化』一九五七年七月)

 

この編集独白は、当時の白井晟一の位置について伝えている。今、同じ独白を若い編集者が吐いたとしても、さしたる齟齬なく受け入れられるかもしれない。しかし、彼らにとっての問題は、あくまでも「全体の問題」であり、その「全体の問題」こそ、多くが共有していると信じていた問題にほかならない。それに対して、わわれわは、少なくともこれほど自信をもって「全体の問題」を語る位相にはいないのである。そしてまた、そこには、「モダニズムに抵抗する精神」、「個」「創造」において白井晟一をとらえる視点が示されている。それは、いわゆる白井晟一の発見の構図であった。

さらに、この対談のきっかけとなった、神代雄一郎の「ギリシャの柱と日本の民衆●●白井晟一の一面」によれば当時の白井晟一の位置はさらに明らかとなるであろう。神代は、原爆堂計画案によるはじめての白井の作品との出会いが、河原温の一連の作品を想起させたことから書き始めるのである。彼は、白井晟一について何かを書こうなどということは、全く考えてもいなかったのである。彼は、丹下健三の広島の仕事や松山の体育館をみるためにわざわざ酷暑をついて旅をしても、白井の作品は黙殺したかったし、避けて通れるものと思っていたのである。神代雄一郎が、NAU内部での「近代建築論争」(「ヒューマニズムの建築」をめぐって)において、もっとも包括的に、クールに、その行方を総括し得ていたことはよく知られていよう。彼は「近代建築の考え方を(1)日本の特殊事情により、ヨーロッパの形だけ日本にもってきたモダーン・スタイル(薬師寺ほか)(2)上部構造から革新的な世界史的な立場における建築運動(モダン・アーキテクチャー)(浜口)(3)資本主義の下部構造と建築との関係を日本の特殊性を考えて打ち出す(西山ほか)の三つに整理した上で、下部構造のとらえ方の問題を、建築の理解に対する社会経済史的立場(図師)と技術史的立場(浜口)との相関性の問題として提出していたのである。しかし、その神代によって、白井は、全く位置づけ難い存在としてあったのである。白井には、「初めから機能主義に背をむけて出発したと考えられるところがある」としながら、超現実主義と規定したのである。例えば、現代建築のなかにフルーティングのある柱をもち込むこと(過去の断片の再起用)が、ひとびとの無意識や想像力に、どのように訴えうるのか、をめぐるその批評は、極めて水準の高い、すぐれたものである。「多くの建築家が現代の形態言語で語ろうとするなかで、超現実主義的な語法で語ろうとする」その神話的素材の使用、サンボリズム、集合的無意識といった、フロイト、ユングを援用した、その分析が全体として明らかにしようとしたのは、白井が日本のコンテクストとは著しくかけ離れた地平にいることであったのである。

一方、川添登をはじめてとして、吉中道夫、吉島一夫、川添智利らの白井晟一論は少し位相を異にしていたといっていいであろう。そこには少なくとも避けて通ろうとする意識、黙殺したい意識はないのである。それらは、近代建築の誤り、「人間の機能を精神的な諸契機から孤立した機能の技術的追求という部分的真理を絶対的なものとして措定した方法論」の病根を確認するものとして、白井晟一を積極的に位置づけ、対置し、それに学ぼうとするのである。ここに近代主義批判から伝統論への移行のひとつの典型をみることができるのである。すなわち、機能や技術、合理性に対して、精神を、現代ヒューマニズムを、民衆や伝統を、さらに創造や芸術を、再発見するのである。浜口隆一における機能主義とヒューマニズムの無媒介的結合という虚構の崩壊のあとで、「機能主義のアンチテーゼの作家であるというよりは、“人間を欺くことのなかった”純粋の芸術家」として白井晟一が見いだされるのである。そして、それが例えば、川添登によって「ローコストなるが故に、庶民住宅と称し、国民建築へのアプローチと考えているような現代の流行」に抗したものとして賞揚されるとき、そこに戦後建築の一つの転機をみることはたやすいのである。白井晟一のリアリズム、その実践の重みはここでは別の脈絡に置き換えられているといってもよい。神代と川添という、日本の建築評論家を代表する二人の白井の位置づけをめぐるずれは、その後の二人の言説の軌跡を比較する上でも興味深いものといえるであろう。一方が、やがて地方を主題化し、一貫して、それに眼を注ぎながら、サーヴェイを持続したのに対して、他方は、やがてメタボリズム、未来学、生活学、地域主義と揺れていくのである。

ここで川添によって示された白井晟一評価は、皮相に理解すれば、今もなお静止したままである。そうした評価の構図は、それが直接に対置された部分において、裏返しの意識として保持されたといえるであろう。その皮相な位置づけにおいて、白井晟一に対する反感もまた広範に組織されていたからである。みねぎしやすおは、善照寺によせて、「常日頃白井さんの論文をよみ、ある共鳴を感じ作品に対してある反感を感じてもいた」のであるが、「現在の私にはその作品から、自由な健康な人間生活の躍動が感ぜられずに懐古的な排他的な威圧を感ずると同時にそこに次をうみ出すポテンシャルも感じられないのです」といいきっていた。しかし、問題は、むしろ、その共鳴と反発との間にあったといえるのである。

伝統論は、伝統、民衆、創造をめぐって、それにかかわる諸概念をパラダイムとして展開されていた。それはモダニズムとリアリズム、機能主義とヒューマニズム、民衆と建築家などを媒介するものが具体的に求められていたことを示すであろう。もちろん、日本の五〇年代における伝統論は、「現代日本において近代建築をいかに理解するか●●伝統の創造のために」と問う丹下健三を軸に展開されたものであった。それは、まさに五〇年代前半の日本において、近代建築をいかに理解するかという構えをとったものであり、近代建築の理念の中に、日本的な構成や構築方法や透明な空間概念を発見すること、逆に、伊勢や桂に典型化される限りにおける日本の建築的伝統に、近代的なるものをみること、によって成りたっていた。白井の伝統論が、それとは全く異なった位相を持っていたことはいうまでもないであろう。彼のいう伝統、民衆、創造は、何よりも、自らの西洋体験、秋田の人々との出会い、哲学思索に基づきながら、具体的な回路においてとらえられようとしていたのである。しかし、それに対する議論は、この時期の白井晟一評価の構図を超えることはなかったといってもいい。それ以降、彼は、専ら、純粋建築家、造型の作家、しかも近代建築を全く相対化した地平で、「西洋建築」の石の壁と戦う孤高の作家、観念の作家として、その作品のみが他の側面と切り離されて論じられることになるのである。白井晟一が垣間みせようとしていた、その、特に五〇年代における仕事を突き動かしていたもの、それを正確に受け止める機会は失われてしまったのである。白井晟一自身の問題でもあった。しかし、それは、日本建築の抱えていた根底的な問題でもあった。

 

四 虚白庵の暗闇

白井晟一が建築のおかれている状況に対して直接的な発言をなしたのは、少ないが幾度かある。そのうち最も鮮明のは、私の理解では二度ばかりある。一つは、原爆堂のプロジェクトの提出に絡むメッセージ、「原爆堂について」(『新建築』五五 四)および朝日新聞紙上での発言(「平和を祈る原爆堂」一九五六)、一つは国立劇場のコンペに関する「伝統の新しい危険」(『朝日新聞』五八 一一 二二)および「建築家は二の足踏む」(『朝日新聞』六二 九 一五)である。五〇年代を通じての発言は、多かれ少なかれ、状況的なものであり、断片的には、その言説の端々に自らの置かれているコンテクストへの距離を認めることができる。例えば「試作小住宅」(『新建築』五三 八)には、先のローコスト住宅に対する距離のほかにも、近代数寄屋という様式の氾濫に対する不満がみられる。「この様式は花柳狭巷にはよろしい、しかし健全なるべき階級の住宅までこの様式を遂うのは問題である」というのである。しかし、「豆腐」(『リビングデザイン』一九五六年一〇月)や「めし」(『リビングデザイン』五六 一一)、「待庵の二畳」(『新建築』五七 八)、「縄文的なるもの」(『新建築』五六 七)といったエッセイは、確かにその当時のコンテクスト(建築ジャーナリズム)にもかなったものであったが、はるかに射程の長いものであり、日本の建築文化に対する深い洞察を示したものであった。数少ないにもかかわらず、一つの文章論がものされるゆえんである。われわれは「日記から」(『朝日新聞』七七 一)において、久々に、その思索の世界の一端に触れ得たといえるのである。

白井晟一の状況への発言、それ自体は極めて興味深いその一面をみせる。特に、彼を一挙に時代の寵児にした原爆堂のプロジェクトの提出にかかわる発言には、いくつかの問題が潜んでいるように私には思える。ひとつはそれが、後年われわれが白井晟一に対していだくイメージ、自己の内側に向きあうそれとはかけ離れているようにみえることである。六〇年代末に原広司が、「むしろ、デザインしている建物だけじゃなしに、白井さんが俗世間に出てきて発言してほしいというような、そういった感じがあるんです」と問うたのに対して、「もうでる幕がないと思っているわけじゃないが、生まれて大きくなった時代の人間以外にはなれないんだから時代に対応ということも、そういう『分』のなかで努力してゆくよりほかないね。……ぼくにはそんなことよりどっちかというと淘汰の自然のなかへ還元してゆく自我をみつめるといった方に日常の重点がかかっていく。建築のこともね。」と答えている(「人間・物質・建築」『デザイン批評』六七 六)。原爆堂のプロジェクトの提出を支える建築家としての自負には、当時の建築家の意識を良かれ悪しかれ覆っていた啓蒙意識を認めることができる。少なくとも、プロジェクトに凝縮された生と思索の密度を直接社会にぶつけるパトスがあった。そうだとすればその後、白井晟一の内に、決定的に何かが起こったこと、彼が何かを、決定的に何かを、横山正のいうような意味での近代の深淵を彼自身みてしまったことを確認すべきであろうか。原は、なおかつ聞く。「そうですか。だけど、世の中のいろいろなことに無関心でいられるわけにいかない」。白井は答える。「戦後地方の公共建築を造らせてもらった。建築家としての精一杯のソーシャリズムだった。粗末な建物だったが一生懸命にやった。それから、何十何百、そういう建物がつくられる一里塚にはなったらしいが、表面の大義は同じでもすっかり意味が変わってしまった」。そうだとすれば、原爆堂のプロジェクトの提出に、すでに、その精一杯のソーシャリズムの帰結を見いだすべきであろうか。そうかもしれない。そのスタイルは、それまでの、例えば戦後まもなくの二つのプロジェクトとも異なった回路におけるもののように、私には思える。むしろ、それは、戦後建築がアプリオリに前提していた建築家のプロジェクションのスタイルに近いものである。それ故、彼は、伝統論の平面において論じられることになったのではなかったか。

「建築家は施主の夢を占う。施主には個人から共同体まである。大王もあれば明日の幽明すら不調の病人もないとはいえない。『くらしの工夫』信徒も袖には出来ない。桂離宮やパルテノンの建築家はたしかにうまい裁断師、すぐれた医師である前に占眼を具えていたと思う。同じ造型家でも美術家と異なるような負担をのがれられないのが建築家の宿命であろう。………正しく占われざるかぎり、夢は蹉跌が常習であり、術作も創造の媒体となったためしはない。……」(「煥平堂」『新建築』五四 一〇)、「かくしもったる啓蒙の旗などは辛棒強くひっこめ」ながらの彼の精一杯の悪戦苦闘は、このように殊に五〇年代前半の作品に付されたコメントに、ほのぼのと息づいている。われわれは、そこに、具体的な状況において、すなわち施主との直接的な関係において創造や民衆や伝統を思索する白井晟一の姿を見いだす。もし、われわれがあり得べき戦後建築を一つの指標としてたて得るとすれば、一つはそこにあり得たのかもしれないと、私は思う。「イデオロギーでは自分の仕事が育たなかったことに気がつきかけたのが、おそかった」と白井晟一は言うのであるが、「啓蒙の赤旗どころか観念の白旗を揚げなければならない」が故に、そしておそらく原爆堂を契機とすることにおいて、その啓蒙主義の陥穽を見抜いたが故に、自己の内に向き合うことを決意したのである。そこでは、問題は「淘汰の自然のなかへの還元」であり、建築すらも相対化されるのである。

いま、白井晟一は確かに静止しているようにみえる。しかし、静止し続けてきたのではない。時代を呼吸しながら揺れてきたのである。一貫した観念の建築家でもなければ、純粋の建築家でもない。それは、こうした書かれた言説のフィルターを通したささやかな歴史のレクチュールによっても確認できるのである。それ故、日本の戦後建築の展開は、静止した白井晟一という点の回りを螺旋状の軌跡を描いて一周したというような単純なものではあり得ない。それは、歴史を単純化し図式化するわれわれの眼差しによるだけである。

「ジェネレーションとしたら、包括する思想がつかめない時代に育ったものより何分かの徳はあったかもしれない」と白井は言う。また「僕と同じことはやらん方が無難だと思う」という。おそらく、同じことはできないであろう。包括する思想がつかめない時代に育ったものにとって、それは無理からぬことである。しかし、否、それ故に、われわれは白井晟一に眼差しを向けるのである。

ある意味では、丹下健三が世界建築家として、戦後建築のゼロ地点において幻想されていたもの、その一面をつきつめることによって、その帰結を示し続けたとすれば、白井晟一は、その帰結を既に見据えながら別の帰結を提示し得たと言いうるのかもしれない。われわれにとってのアポリアは、依然として、その両者の間に横たわっているのである。

しかし、そのアポリアを否応なく意識させられながら、われわれはなおかつ白井晟一にこだわらねばならないものである。言うまでもなく、それは彼を徒らに神格化し、神秘化することではない。一つには、ここでの脈絡が示すように、日本の戦後建築をとらえ直す尺度としての存在たり得ているからであり、すなわち、ありうべき戦後建築として幻想されていたものをその帰結とともに一瞬垣間みせてくれるからであり、さらに、具体的には、歴史に学ぶことを教えてくれるからである。おそらく、五〇年代の日本の建築家にあって、彼ほどいわゆる近代建築を相対化する視点を示した建築家はいない。「天壇」、「中国の石仏」、「仏教の建築」に示された中国あるいは東洋への関心となると、極めて少ないと言わねばならない。そもそも、明治以降の建築家は、伊東忠太のような例外を除いて、アジアへの視座を欠いてきた。戦前・戦中においてはまだしも、直接的な関係の中で、ある種の、極めて偏向したといわねばならないにせよ、視座があった。それが戦後、ぷつりときれてしまうのである。新生中国の誕生という背景があるにせよ、白井晟一が中国や東洋への関心を持ち続けていたことは不思議と言えるほどである。それは、近年、『日記から』の「東洋のパルテノン」、「白磁の壺」、「土の造形」などにおける韓国や中央アジアへの関心にも持続されているのである。白井晟一の自己凝視の世界、例えば書の世界を共有することは最早無理であるとしても、その歴史をとらえる眼、世界をとらえる眼のあり方自体には学ぶべき多くのものがあるはずなのである。

虚白庵の暗闇は、そのまま建築文化の表層を穿つ穴でもある。それは最早、かつてのようにそれ自らが、われわれに対して啓蒙の光を放つことはない。それは、暗闇の沈黙によって、われわれを、われわれの立っている場所を照らし出すだけである。われわれがその周囲を徘徊するのみであるとすれば、それは暗闇であり続けることであろう。ありうべきはずであった戦後建築のある側面も、その暗闇の中に封じ込めてしまうことになるであろう。

*1 『白井晟一研究』Ⅱ。

*2  『建築文化』創刊号。

*3  『建築文化』一九四六年八月。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       

2021年11月25日木曜日

白井晟一研究所『白井晟一の建築Ⅴ 和風の創造』

 『建築討論』009号  ◎書評 布野修司 

── By 布野修司 | 2016/08/20 | 書評, 009号:2016号(7-9月)

 

白井晟一研究所『白井晟一の建築Ⅴ 和風の創造』めるくまーる、2016715

 

 20135月に第1巻が発刊された『白井晟一の建築』全5巻シリーズが完結した。白井晟一自らが選んで編んできた作品集『白井晟一の建築』(中央公論社、1974年)、『懐霄館』(中央公論社、1980年)などを白井晟一研究所(白井昱磨)が新たに編み直した写真集である。いかにも白井晟一らしい上品な装丁で、白井晟一ファンには堪えられないシリーズである。各巻1500円と手ごろでもある。


 シリーズを終えての白井昱磨の所感は以下のようである。

 「シリーズ「白井晟一の建築」は今回の「和風の創造」で予定した5巻を終えました。「聖なる空間」「公共の追求」「幻の建築と失われた空間」「住宅建築集」など収容できなかった企画をのこしたままではありますが、もともと総括的なカタログを意図したものではありませんので、それはまた別の機会に譲りたいと思います。一人の国内建築家の建築作品を、テーマによって構成したシリ-ズというものはこれまでにはなかったものであると思います。

 白井晟一の建築作品も多く失われ、訪れてその空間を経験する機会はますます少なくなりました。写真は書籍や雑誌に発表されて情報として新しいものではなくても、今では手に入りにくくなったものを含めてあらためて対面し、新たなテーマにそって再構成することを試みました。

 かれの生時きわめて多くの評説が発表され、白井晟一論は尽くされているようにみえましたが、今回そのほとんどを見直してみて、「塔」や「水」についてさえ言及したものがなかったのは驚きでした。

 歴史は主体の歴史的経験を経た自覚的な思考と意識の変革をとおして再生され続けなければ健全さを失ってしまいます。しかし不正確な伝聞、風説や個人的な印象の繰り返しからでは時代にコミットする力と意味を開くこともありません。このシリーズは不十分ではありますが、そのために参考となる資料といくつかの新たな視点を開くことを目指して編まれました。」

ラインナップを列挙すれば、Ⅰ 懐霄館(二つの塔)、Ⅱ 水の美術館(水の美術館)、Ⅲ 虚白庵と雲伴居(KOHAKUAN)、Ⅳ 初期の建築(白井晟一と原爆道の背景 上)、Ⅴ 和風の創造(白井晟一と原爆堂の背景 下)である。括弧内は解説タイトルで、いずれも白井昱磨執筆である。

 「Ⅴ 和風の創造」でとり上げられているのは、「呉羽の舎(柿腸舎)」(1975)、「影熙亭」(親和銀行本店)(1967)、「昨雪軒」(横手S邸)(1969)、「雲伴居」(1983)である。「呉羽の舎」については詳細な図面に多くの頁が割かれている。建築を学び始めたころ、彰国社から出版された「呉羽の舎」の図面に圧倒されたことを想い起す。一軒の住居を建てるためにこれほど精緻な図面が必要とされる、実に感動的であった。CAD図面の現代には、図面それ自体が作品である。

 

 「和風の創造」というテーマについては、戦後まもなくの伝統論争が想起される。「縄文的なるものvs弥生的なるもの」「民家vs伊勢神宮」「白井vs丹下」というのが論争のひとつの構図であった。編者である白井昱磨の前言は以下である。

白井晟一は「創造」の問題として日本の「伝統」を積極的に論じている。その伝統論は「伝統」を典型や様式でとらえるのではなく、日本文化の独特な原思想ともいえる潜在的な能力に目を向けるものだった。伊豆の江川邸に縄文的なポテンシャルを見、「豆腐」に「渾然とした調和」の完全な単純を、「めし」には共同体を支える犠牲の「愛」を見る。閑隠席のような「簡素」の創造に日本建築の真髄をとらえるが、その一方で利休の数寄に「私的価値に釘付けした錯覚や虚栄の原型」を見、「私」に収斂する「好み」の美学を退けた。
 日本の近代建築はヨーロッパとアメリカからの輸入である。太平洋戦争の敗戦を経て戦後の日本ではそのような欧米の近代建築がめざましく発展した。かれの伝統論にはしばしば欧米の近代文化への追従と模倣に対する厳しい批判がともなっている。白井にとってヨーロッパはギリシャ・ローマ以来の全体としての空間であり、同時代としての近代はその中で対照化される。それは学ぶべき世界であると同時に、たたかい突き抜けなければならない壁として意識化された。
 日本の伝統文化に内在する独自性と卓越性にたいする理解は揺るぎがなかった。幼年時代の禅宗と書の経験が壮年期に入ってからの仏教の学習や書の鍛錬にあらためて向かわせたのであろうが、そこから日本文化の伝統の底にあるものへの関心や理解もさらに開かれたのではなかったか。かれの「和風」の特徴は伝統の近代化や伝統の継承ではなかったところにある。目指されたのは「日本的創造」としての「和風」であり、「豆腐」に見たような、あらゆる部分が緊密に結合して「渾然とした調和」に全体が統一される空間だった。

 本シリーズの「塔」「水」「自邸」「初期」とならんで白井の建築を解析するキーワードとして「和風の創造」をとりあげた。」


白井晟一についてはこれまで何度か書いてきた(「盗み得ぬ敬虔な祈りに捧げられた量塊」(悠木一也、『建築文化』19751月)、「白井晟一研究のためのノート」(悠木一也、『建築文化』「螺旋工房クロニクル005」、1978年5月)、「虚白庵の暗闇―白井晟一と戦後建築―」(『白井晟一研究Ⅱ』、南洋堂、1979年(布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジー-建築の昭和-』、彰国社、1998年所収)、)。また、その縁で2010年から2011年にかけて開催された白井晟一展の実行委員会にも参加する機会があった(『白井晟一 精神と空間』青幻舎、2010年)。そこで、再び白井晟一について考えた(「虚白庵の暗闇―白井晟一と日本の近代建築―」)。白井晟一をめぐって、繰り返し考えさせられるのは、日本の戦後建築の目指したものであり、その帰趨である。展覧会を通じて、大きな関心を集めたのは「原爆堂」である。白井昱磨はⅣ、Ⅴの解説(「白井晟一と原爆堂の背景」上下)で、その現代的意味を問うている。安保法制が国会で強行成立される過程と白井晟一の戦前戦後が重ね合わせられるのである。そして、東日本大震災による「フクシマ原発問題」が、白井晟一の「原爆堂」計画に眼を向けさせ、その意義を再考させるのは必然である。すなわち、「白井晟一の建築」シリーズは単なる白井晟一回顧ではなく、極めてアクチュアルな提起を含んでいるのである。


    

並行して、「原爆堂」を実際に建設しようという訴えもなされる。アクティブな提起である。

 そして、それに呼応する動きもある。

原爆堂計画実現基金

設立主旨

 私たち広島で建築設計活動をする建築家にとっては広島で建築活動を行うことそのものが平和な世界の表現としての建築のありようを探求することです。被曝70周年の本年、核兵器の脅威が風化する中であらためて、未来の世界の永遠の平和への宿願である核兵器廃絶という人類の安全保障のために、私たち広島の建築家が未来にむけて何をするべきかという答えとして建築家・白井晟一の残した原爆堂計画の実現にむけて基金を設立し募金活動をすることにいたしました。
 原爆堂計画は1954年南太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁において実施された水爆実験に衝撃を受けた建築家白井晟一が1955年に核兵器の存在を人類に建築造形を通して問いかけることで、人類の共存の希望を願うメッセージとして発表されたものです。白井晟一はこの計画の実現を夢見ていたのですが未だにこの計画は実現されていません。私たちJIA日本建築家協会広島地域会は建築家白井晟一の夢を引き継ぐことで、いつの日か原爆堂計画が実現され、人類が核兵器の廃絶された世界で共存することを希望して、原爆堂計画の実現にむけた努力を被曝70周年記念に被爆地である広島で開始いたします。
        2015年11月20日 JIA日本建築家協会中国支部広島地域会

 


白井昱磨:  1944年生。国際キリスト教大学人文科学科卒業後渡独。ベルリン自由大学及びベルリン造形大学建築科で学ぶ。1974年より白井晟一研究所。1983年より同研究所代表 虚白庵を場として建築設計に従事。主要作品:雪花山房、ユピテルビル、等々力の家。「白井晟一全集」等を編纂。白井晟一研究会:http://www015.upp.so-net.ne.jp/ikuma666/

2021年11月24日水曜日

虚白庵の暗闇―白井晟一と日本の近代建築、 『白井晟一:精神と空間』, 磯崎新・白井昱磨・布野修司・松隈洋・谷内克信,青幻社、2010年9月25日

 白井晟一:精神と空間, 磯崎新・白井昱磨・布野修司・松隈洋・谷内克信,青幻社、2010925日.

虚白庵の暗闇―白井晟一と日本の近代建築

布野修司

 


プロローグ

白井晟一は、僕の「建築」の原点であり続けている。理由ははっきりしている。僕が「建築」について最初に書いた文章が「サンタ・キアラ館」(1974年、茨城県日立市)」についての批評文なのである。悠木一也というペンネームによる「盗み得ぬ敬虔な祈りに捧げられた(マッ)()―サンタキアラ館を見て」(『建築文化』,彰国社,19751月号)と題した文章がそれである。『建築文化』誌(彰国社)の田尻裕彦編集長が、一体何故、大学院生で「建築」のケの字も知らない、海のものとも山のものともわからない僕を白井晟一という大建築家の作品の批評家として指名したのか、未だに謎である。

 「サンタ・キアラ館」を一日見て、「<求めよ>とささやかに彫り込まれた石の脇を抜けてキャンパスに導き入れられた私は確かに、何か別のある事件の出現を息をつめながら求めて(・・・)いた。・・・(マッ)()の周囲を徘徊する。二つの(マッ)()の交接と見えたものは、そのものズバリの官能的エロスを擽る。楕円の量塊の何ともいえない曲線と(くび)れ込んだ凹部はやけに艶かしい。そういえば私の立っているここは、うら若き乙女たちの園であった。二つの量塊のディアレクテーク。ここでは、アーティキュレートされずに、閉ざされた楕円の赤い塊りに、白い壁面と、大きく開かれた窓をもつ不定形の、鋭角の楔がしっかりと噛み合っている。二つの鮮やかな対照が淡い光の中で、対話(ディアローグ)し、交歓(コレスポンド)しているように見えるなどと書いている読み返して、建築に触れたという思いがありありと蘇ってくる。

 以上のみであれば、悠木一也の個人的な体験で終わったであろう。しかし、いま読み返しても恥ずかしさに顔が火照ってしまうような拙い文章が掲載されてまもなく思いもかけないことが起こった。「虚白庵」に来なさい、と声をかけて頂いたのである。出迎えてくれたのは次男の白井昱麿さんであった。本人は不在でいささか肩すかしであったが、かえって「虚白庵」を隈なく見ることができた。なんといっても「もの好きで見たがる人があっても、住居の中の公開は遠慮する」(「無窓無塵」)という「虚白庵」なのである。机の上に、道元の『正法源蔵』が毅然と置かれており、凛とした「暗闇」の身に引き締まる感覚を今でも覚えている。何よりも仰天し感激したのは、どこの馬の骨とも分からない怪しげなペンネームの筆者に、5万数千円もする、上梓されたばかりの限定番号入りの『白井晟一の建築』(中央公論社、1974年)を贈呈して頂いたことである。

 幸か不幸か、その後も白井晟一の肉声に直接接することはなかったが、白井昱麿さんが父・白井晟一を徹底的に客観視するために創刊した『白井晟一研究』(Ⅱ、1979年)に「虚白庵の暗闇-白井晟一と戦後建築」と題した文章を書く機会を与えてもった。白井晟一とその建築そのものを問うというよりも、白井を通じて、日本の「戦後建築」を問う構えをとった論考である。この白井晟一論を核にして、僕は、処女論集『戦後建築論ノート』(相模書房、1981年)を書いたのである。

Ⅰ 白井神話の誕生

僕が「建築」を志した頃、白井晟一という「建築家」は、謎めいた、神秘的な、実に不思議な存在であった。逝去後30年近い月日が流れた今も、不思議な「建築家」であったという思いはますますつのる。

公認の儀式

白井晟一が「親和銀行本店」で日本の建築界最高の賞である日本建築学会賞を受賞するのは1968年である。63歳であった。「善照寺本堂」で高村光太郎賞を受賞(1961年)しているとは言え、建築界の評価としてはあまりに遅い。しかも、受賞にあたっては「今日における建築の歴史的命題を背景として白井晟一君をとりあげる時、大いに問題のある作家である。社会的条件の下にこれを論ずる時も、敢て疑問なしとしない。」という留保付きであった。

 同じ1905年生まれの前川國男が立て続けに[i]日本建築学会賞を受賞してきたのに比較して、白井晟一への建築界の評価は、それまで薄く、冷たかった。前川國男は、同じ年、「近代建築の発展への貢献」というタイトルで、1ランク上の日本建築学会大賞を受賞しているのである。

 「日本の近代建築を主導してきた前川國男」VS「近代建築の主流から外れた「異端の建築家」白井晟一」という構図からはいささか意外に思われるが、お互いに交流があり晩年も『風声』同人として親しかった。同い年で、同じように戦前に渡欧した経験のある二人の建築家の対比、そして二人が共有していた「建築」への思いは興味深い。

受賞以降、白井晟一は一躍脚光を浴びることになる。「親和銀行」(Ⅰ期Ⅱ期)に続いて「虚白庵」「NOΛビル」「サンタ・キアラ」「懐霄館」と次々と傑作が発表されていくのである。結果として、白井晟一を「大いに問題のある作家」といった「問題」の内容が問題であり、「疑問なしとしない」といった内容が「疑問」であったことになる。

振り返って1960年代の日本建築をリードしたのは丹下健三であった。建築ジャーナリズムを賑わした1950年代半ばの「伝統論争」において既に丹下健三と白井晟一は対局的と見なされていたが、時代を制したのは丹下健三である。「東京カテドラル聖マリア大聖堂」(1964)「国立屋内総合競技場」(1964)「山梨文化会館」(1966)と傑作が次々に話題を呼び、1970年の日本万国博覧会(大阪万国Expo70)のマスターデザインが時代を華々しく表現することになった。1960年代を通じて丹下健三は世界を代表する国際建築家となる。

しかし、1960年代末に日本の建築シーンはがらりと変わる。丹下健三の仕事は海外が主となり、日本から消えてしまう。この鮮やかな反転を象徴するのが白井晟一である。この過程を僕らははっきり証言できる。

1968

僕が大学に入学したのが、白井晟一が「公認」された1968年である。「パリ5月革命」の年だ。日本では東大、日大を発火点にして「全共闘運動」が燃え広がり、学園のみならず、街頭もまた、しばしば騒然とした雰囲気に包まれた。東大は6月に入ると全学ストライキに入り、ほぼ一年にわたって授業はなく、翌年の入試は中止された。大学の歴史始まって以来の出来事であった[ii]

「私は年齢的には1960年世代だけど、建築家としての思考のしかたは1968年に属している」[iii]と、1968年に拘り続ける建築家が磯崎新である[iv]。磯崎新は、「1968年世代」の「異議申し立て」、「反」「叛」、「造反有理」、「自己否定」に共感し、共鳴し続けるのである。その磯崎新が1968年の初頭に「凍結した時間のさなかに裸形の観念とむかい合いながら一瞬の選択に全存在を賭けることによって組み立てられた≪晟一好み≫の成立と現代建築のなかでのマニエリスト的発想の意味」[v]という長たらしいタイトルの白井晟一論を「親和銀行本店」をめぐって書いた。この白井論の影響は圧倒的であった。

丹下健三の事務所URTECを退職して磯崎新アトリエを設立する契機になった「大分県立中央図書館」によって日本建築学会賞を37歳で受賞する。白井の受賞の前年である。翌年には、これまた白井晟一に1年先んじて「建築年鑑賞」を受賞、続いて「福岡銀行大分支店」で文部大臣選奨新人賞を受賞する(1969年)。僕らは、颯爽とデビューした磯崎の白井論を読んで白井晟一を知ったのである。原広司もまた逸早く白井晟一にインタビュー[vi]を試みていた。磯崎新の白井論に、宮内康[vii]、長谷川堯[viii]が続いた。原広司の『建築に何が可能か』(1967年)、宮内康の『怨恨のユートピア』(1969年)、長谷川堯の『神殿か獄舎か』(1972年)、そして磯崎新の『空間へ』(1970年)『建築の解体』(1975年)は、僕らの必読書であった。新進気鋭の建築家・批評家がこぞって白井晟一へのオマージュを捧げるのである。これは、明らかに建築ジャーナリズムにおける歴史的事件であった。

聖地巡礼

僕が「サンタ・キアラ館」について書いたのは、こうした白井ブームの渦中であった。

「白井晟一について語ることは必ずしも容易ではない。白井晟一とその作品をめぐる言説を支える一つの出来上がった構造(いわゆる白井神話)があり、あらゆる言説がそうした前提を免れ得ないでいるからである。白井晟一の特異性を支える構造がすでに語ろうとするものの内部に存在しているのである。極端に言えば、白井晟一については、ひたすらオマージュを捧げ完全なる帰依を表白するか、ひたすら無関心を装いつつ完全なる無視を決め込むか、そのどちらかが許されているだけのように思えるほどである。しかし、当然のごとく、後者の吐露が言説として定着されないとすれば、あらゆる言説が白井神話を増幅し、彼を神格化するヴェクトルのみをもってしまうのである。その結果、白井晟一とその作品を相対化し、それなりのコンテクストへ位置づけようとする試みの方がその説得力を欠いているようにみられてしまう。神話に拮抗するだけの言説を産み出し得ないのである。」[ix]

何故、白井神話なのか。不可解だからである。白井晟一とその作品群がわからないのである。第一に、白井晟一の作品が多義的でわかりやすい位置づけを許さない。すなわち、日本の建築が語られてきたこれまでの文脈では理解できないのである。第二に、白井晟一の履歴が不明で、謎に満ちている、ということがある。謎は謎を呼ぶ。結果として、白井晟一とその作品群は多義的なテクストとして読まれ、場合によっては、矛盾を含んだ両義的な位置づけを許してしまう。

あるものはそのコスモポリタニズムを指摘し、またあるものはその日本的なるものの一貫性を指摘する。あるものはその「精神主義」を賞揚し、またあるものは「物質の肉化」をうたう。あるものは、ラディカルな「変革者」を見、またあるものは「反動的な保守主義者」をみる。あるものはその「フォルマリズム」を指摘し、またあるものはその「ラショナリズム」評価する。あるものがその「マニエリズム」を指摘すれば、あるものは「マニエリスト」とは程遠いという。

とにかく「白井晟一神話」によって、1970年代を通じて、白井晟一の作品を巡る「建築行脚」は「聖地巡礼」とも呼ばれ、建築学生あるいは若い建築家たちの必修科目となった。白井晟一の「呉羽の舎」の図面集『木造の詳細3住宅設計編(呉羽の舎)』(彰国社、1969年)は、実際設計製図の教科書だった。高崎在住で、「煥乎堂」「松井田町役場」の仕事に絡んで濃密な付き合いがあった建築家水原徳言のもとには、白井晟一を卒業論文のテーマとする建築学科の学生が度々訪れることになった[x]

 

Ⅱ 建築の前夜

白井晟一の戦前期のヨーロッパでの活動はヴェールに覆われている。カール・ヤスパース、アンドレ・マルローなどとの関係が断片的にのみ語られることで、様々な伝説が増幅されてきた。白井晟一を「見出し」、建築ジャーナリズム界へのデビューを後押ししたとされる川添登が、その履歴をかなり明らかにしているが[xi]、それでも謎は残る。白井晟一は、ヨーロッパで一体何をしていたのか、何故、帰国後、建築家として生きることになったのか、その真相は必ずしも明らかではない。

建築・哲学・革命

白井晟一の建築家としての出発点は、京都高等工芸高校(1924年入学1928年卒業、現京都工芸繊維大学)に遡る。ただ、入学の段階で建築家として生きる決断はなされてはいない。青山学院中等部の頃からドイツ語を学び、哲学を学びたいと思ってきた。一高入学に失敗した挫折感もあって、建築科の講義には身が入らず、京大の教室にもぐりこんで哲学の講義を聞く。そして、三回生の時に英語を教えにきた戸坂潤(1900-1945)に出合った。一夜漬けの卒業設計でなんとか卒業した後、シベリア経由でドイツに向かう。哲学を修めたいという捨てがたい欲求がドイツ留学に駆り立てたというが、戸坂潤との交流がもうひとつの憶測を生む。ドイツでの左翼活動に戸坂潤の影響があるとみるのである[xii]

バーゼル州の大学入学資格試験を受けて合格、ハイデルベルク大学に入学するが、語学の壁があり、専ら美学のグリーゼバッハ教授のゴシック建築の講義を聞いた[xiii]。学生演劇に参加するなど学生生活を楽しんだ[xiv]。しかし、1930年にはベルリン大学に移っている。ベルリン大学では、シュプランガーとデゾワーに師事したが、ほとんど講義には出ず、終戦直後、読売新聞社の争議を指導した鈴木東民が在留邦人向けに出していた政治色の強い『ベルリン新聞』を市川清敏と一緒に引き継ぐなど、もっぱら政治的な活動に奔走したらしい。川添登によれば、白井晟一の「左傾化」はハイデルベルグ時代ということになる[xv]

 1931年から翌年にかけて義兄の近藤浩一路がパリに滞在すると、白井晟一はパリに赴くことになる。そして、美術評論家今泉篤男の紹介で林芙美子と出会った。林芙美子との交流は白井晟一の青春のひとコマである。林芙美子の白井晟一と目される人物についての表現から断片的な像を得ることが出来る。白井は「清潔で温雅な」振る舞いにつつまれた「富裕な」貴公子であり「盈進的革命論をとばす」人物であった。

哲学、また建築への関心、そして社会主義運動へ、渾然としたヨーロッパ生活である。

1932年から帰国までの一年、モスクワに滞在する。『中央公論』のソビエト特派員からソ連共産党への入党を薦められたのだという。しかし、結局は帰国することになる。川添登は、この帰国の「決断」を革命運動に身を投じるための一時帰国であったとし、「単に若さだけでなく、どうしようもない純情さを、白井晟一という人物は、もっていたのではないだろうか」という[xvi]が、果たして、ただそういう「決断」であったのか、疑問と謎は残る。

スタイルとしての近代

白井晟一がヨーロッパに向かった同じ1928年に、前川國男もまたパリへ赴く。よくよく因縁の二人である。前川國男は、帰国後の「創宇社」主催の「第二回新建築思潮講演会」での講演「3+3+3=3×3」(1930103日)によって建築家としてデビューすることになる。前川國男は、日本に近代建築の理念が受容されるまさにその過程において建築家としてデビューし、その実現の過程を生きた[xvii]

もっともらしく語られる物語はこうだ。前川國男は、全ての競技設計(コンペ)に近代主義のデザインを掲げて挑むことを決意、「日本趣味」「東洋趣味」を規定する応募要項を無視して、近代建築の象徴としてのフラットルーフ(陸屋根)の建築様式を提案し続ける。落選し続けた挙句、ついには節を曲げ、勾配屋根を用いるに至る。「パリ万国博覧会日本館」(1937年)また「在盤谷日本文化会館」のコンペ案(1942年)は、あれほど拒否し続けた日本的表現そのものではないか。コンペにも破れ、志も曲げた。前川國男は二重の敗北を喫したのだ。この時期を前川國男の「暗い谷間」といい、その掘り下げを主張し続けたのが宮内嘉久である[xviii]。前川國男が日本ファシズム体制に抗し続けた非転向の建築家であったというのは神話にすぎない。前川國男が侵略行為に荷担しなかった、というのも誤りである。また、戦争記念建築のコンペには参加しなかったというのは史実に反する。その歴史は必ずしも栄光にのみ満ちた歴史ではない。前川國男にとって、近代建築の問題は、決してスタイルの問題ではなかった。「私の主張せんとする所は決して所謂『屋根の有無』と云った枝葉な問題ではない」[xix]とはっきり言っているのである。前川には、日本は「建築の前夜」[xx]にあるという認識があった。そして、上述の「3+3+3=+3×3」と題する講演で、予め次のように書いていた。

「建築をだしにつかって社会改革ができると思ったら大間違いであります。キレイな手をもっては革命はできません。真に社会を憂えるならば当然建築を去って社会運動に投じる一途よりないのであります。かくのごとく善良で勇敢な社会改革建築家の中に最後のドタン場において背中を向けて逃げ出さぬものが果たして何人いるでありましょうか。」

「新興建築家」の「悪夢」

前川國男がこう発言した「第2回新建築思潮講演会」(「創宇社」主催)であった。)は、山口文象(19021978)の渡欧送別会を兼ねたものであった。同じ日同じ場所で、山口は「新興建築家の実践とは」と題して講演し、次のように覚悟を語っている。

「要するに正当な意味に於けるプロレタリアートの解放運動に参加し、そうして建築家としての任務を果す。此事以外には私達には本当の意味に於て建築を実践するより他に道はないと思います。」

日本の近代建築を主導した前川國男と山口文象は、その出発点において「新興建築」[xxi]の実現という立場を共有しながら方向性を異にしていた。その二人の間に白井晟一の「闇」が絡む。白井晟一と山口文象はベルリンで出会っている。また帰国後、林芙美子邸を設計したのは山口文象であるという因縁がある。

山口文象が清水組を経て逓信省営繕課に入り、製図工仲間たちとともに結成したのが「創宇社建築会」(1923年)である。その「創宇社」は、社会主義運動の高揚に呼応するように急速に左傾化していく[xxii]。そして、山口文象率いる「創宇社」が主導して結成されたのが「新興建築家連盟」[xxiii]である。創立総会が開かれたのは先の講演会の3ヶ月前のことである(1930718日)。しかし、「新興建築家連盟」は創立の年の暮れには解散してしまう。「建築で『赤宣伝』」の新聞記事(1214日)がきっかけである。山口文象が渡欧するのはまさにその12月下旬であった。

渡欧中の山口の動きについては日記(1930-32)が残されており、ある程度明らかにされている[xxiv]1931年から1932年にかけて白井晟一と山口文象はベルリンを中心とする同じ空間にいた。山口は、「ドイツで左翼活動をしていたグループに属し、ドイツにいる間にソビエトに入ったりなどしていたものですから、・・・」というから、近かったといっていい。ドイツの白井晟一を知っていたと僕は山口文象から直に聞いたことがある。佐々木宏も、山口文象は「ドイツに滞在していた留学生を中心とする日本人の中に、ドイツ共産党に参加した人びとが少なくなかった・・・ドイツにおいて熱心に政治運動にかかわった経験があるにもかかわらず、日本へ帰国してからは一切そのことに触れたがらない人々がいる・・・自己保身として賢明な生き方であるには違いないが、・・・」[xxv]といっていたという。この留学生の中に白井晟一がいる。ただ、山口文象の回顧には、「グロピウスの家族と一緒にロンドンに逃げた」とか、「帰国に際して、神戸元町の警察に捕まり、荷物をすべて没収された」とか、左翼的活動についての誇張や錯誤が少なくない。また、山口は、戦後しばらく、「光工廠」など、軍需産業のための工場や工員宿舎の設計を行ったことを否定し続けた。そして、1940年に瓦屋根の民家風の自邸を建てたことを「戦時中の悪夢」といい、その「転向」を負目として意識し続けた。「戦時中の国際建築スタイルへの弾圧から、とうとう自分の心の中にあった民家への郷愁の中の、あの日本的なものへの回帰を思い立った」と自邸を発表したのは戦後も10年たった1955年になってからである。

建築修行

1933年に帰国して、東京・山谷に二ヶ月暮らす、34年、千葉県清澄山山中「大投山房」で共同生活、と「白井年表」[xxvi]は記す。また、「山谷の労働者仲間に加わったり、同じく帰国した市川清敏や後藤龍之介らの政治活動に参加したりするが、まもなく自ら袂を分った」という[xxvii]

レジスタンスをしていたのかと問われて、白井本人は「レジスタンスなどとはいえませんね。あまのじゃくぐらいのことです。思想として戦争に賛成できなかったということでしょう。家の焼けるまで書斎の窓を閉めきって今より充実していたかもしれません」[xxviii]と答えている[xxix]

白井晟一は、帰国後、「近藤浩一路旧邸」(北大塚、1933年)を皮切りに、「河村邸」(旧近藤浩一路邸、東久留米、1935-36年)、「歓帰荘」(伊豆長岡町、1935-37)、「山中山荘」(山梨県南都留郡、1939年)、「関根秀雄邸」(西荻北、1941年)、「嶋中山荘」(軽井沢、1941年)、「清澤列山荘」(軽井沢、1941年)、「嶋中雄作邸」(新宿区砂土原町、1942年)と次々に木造住宅を設計することになる。帰国後も政治活動を持続していたという上記年表によれば、決断は日本においてなされたということになるが、明らかなのは、白井晟一が帰国後すぐさま建築家としての道をはっきり歩み始めていることである。いずれも身近な依頼者による仕事であり、ほとんどが直営である。この一連の木造住宅の設計施工において、白井晟一は建築を徹底的に学ぶことになる。「向う鉢巻で『数寄屋建築聚成』『書院建築類集』などを離すことがないくらい没頭した」という。

いずれも習作といってもいいが、作品としての表現は当初から意識されていた。処女作といっていい「河村邸」は、『建築世界』や『建築知識』に発表されるのである。

そして確認できるのは、白井晟一が15年戦争期における日本の建築をめぐるプロブレマティーク―「帝冠併合様式」「日本趣味様式」「東洋趣味」「国際様式」―とは無縁に出発したことである。「川村邸」にしろ、「歓帰荘」にしろ、当時の前川國男や山口文象などの住宅作品とは全く次元の異なる表現の位相を示しているのである。

 

Ⅲ 建築の精神 

精一杯のソーシャリズム

白井晟一が、戦後はじめて建築ジャーナリズムにその一歩を記したのは「秋の宮村役場」によってである(『新建築』195212月)。「秋の宮村役場」によって、白井晟一に光が注がれる糸口が与えられた。その登場が衝撃的であり得たのは、その作品あるいは造型の特質にかかわる評価以前に、その具体的実践そのものであった。「秋の宮村役場」(1950-51)「雄勝町役場」(1956-57)「松井田町役場」(1955-56)の3つの公共建築、秋田や群馬など地方での仕事、「試作小住宅(渡辺博士邸)」(『新建築』19538月号)に代表されるいくつかの小住宅など1950年代前半の作品は、その後の作品の系譜に照らしても、また、当時の他の建築家の活動の状況からみても、驚くべき量と密度を示しているのである。

戦後まもなくの建築界の状況については他に譲るが、議論のみが先行、具体的な展開については後の課題であった。「新建築家集団NAU(New Architects Union)」[xxx]の初代会長で、日本の都市計画を主導することになる高山英華も、「いわゆる平和的民主革命が突如としてわがくににもたらされた結果、建築界においても民主化の問題は多少流行的にとりあげられたとみるべき点がある」、また「抽象的一般的なかたちで急進的な民主化が説かれ近代化が叫ばれたのであった」と言いながら、「地道な建築の実践を通じながらしかも革命的技術者としての新しい行き方を創りだしていく必要がある」と述べていた(「建築界展望」『NAUM 1』)。

前川國男は戦後すぐさま「プレモス」と呼ばれる工業化住宅に取り組んでいる。そして、新宿の焼跡に「紀伊国屋書店」を完成させる(1947年)。工業化の分野で戦後建築のあり方に大きな影響を与える池辺陽は、そうした前川國男の建築家としての道を「第三の道」として、困難であるが追求されねばならないとしていた(「現代建築家のえらぶ道」『NAUM 1』)。そうした意味では、白井晟一もまた、いち早く「第三の道」を歩み始めていたというべきである。「地道な建築の実践」を通じて「新しい生き方」を創りだしていく可能性をみせていた。

しかも、白井晟一は、多くの建築家が考えていた通路とは全く別の通路を具体的に切り拓いていた。白井は、「計画化」を語ることはなかったし、「ロウコウストは建築のエレメントである。しかし、人間の生活や精神を引き上げられるロウコウストでなければならない」(「試作小住宅」)というように、工業化をうたうこともなかった。多くの建築家が、「民衆のために」目指すべき建築は上からの近代化、工業化によって実現されると考えていたのに対して、白井にとっての民衆は、彼の出会った地方の具体的な人びとであった。そしてまた、戦後まもなく、白井ほど、風土、自然について考えた建築家はいなかった[xxxi]

50年代前半の作品に付されたコメントには、白井をつき動かしていたものが見え隠れしている。すなわち、具体的な状況で施主との直接的な関係において創造や民衆や伝統を思索する白井晟一の姿を見いだすことができる。白井晟一のいわゆる「精一杯のソーシャリズム」の時代である[xxxii]。戦後まもなく白井を突き動かしていた精神と思索が戦前戦中期に培われたと考えるのはごく自然であろう。

原爆堂の謎

白井晟一は、そう多くの文章を残しているわけではないし、発言も多くない。まして、建築のおかれている社会的状況に対して直接的に発言をするのは極めて珍しい[xxxiii]。「精一杯のソーシャリズム」というのは、原広司の「俗世間に出てきて発言してほしい」という問いへの応答である(「人間・物質・建築」『デザイン批評』676月)[xxxiv]。ただ、50年代を通じての発言は、多かれ少なかれ、状況的なものであり、断片的には、その言説の端々に自らの置かれているコンテクストへの批判がある。例えば「試作小住宅」(『新建築』19538月号)には、世間に溢れる「ローコスト住宅」に対する違和のほかにも、近代数寄屋という様式の氾濫に対する不満がみられる。「この様式は花柳狭巷にはよろしい、しかし健全なるべき階級の住宅までこの様式を遂うのは問題である」と言ったりしているのである。

しかし、「原爆堂」とそれに絡むメッセージ[xxxv]極めて唐突でジャーナリスティックである。前年、ビキニ環礁で水爆実験が行われたことが背景にある。敗戦後丁度10年というタイミングでもある。

戦後まもなくの2つのプロジェクト[xxxvi]は実施が前提であった。なんの具体的な条件も前提せずに設計図を提示するスタイルは、後にも先にも「原爆堂」しかない。単なる啓蒙活動でも、「精一杯のソーシャリズム」の帰結というわけでもないだろう。白井晟一自身は、後に「僕は建築を自分の机の上で考えて、うれしそうにこぎれいなデッサンを書いて楽しんだなんてひとつもないんだよ」[xxxvii]と言っている。残されているのは、川添登の英文の前書きが付された10頁の小さなパンフレットだけであるが、思索の密度をプロジェクトに凝縮して直接社会にぶつけるパトスが伝わってくる。発表のスタイルのみならず、その形態、表現も例をみない。本気で実現したかったのかもしれない、実現していたら日本の建築シーンは変わったのではないか、と思わせる迫力がある。

「原爆堂」は、丹下健三の「広島平和記念資料館(現・本館)」(1952年)「広島平和会館(現・資料館東館)」(1955年)、村野藤吾の「世界平和記念聖堂」(1953年)に対比されるべきものとして受け止められた。そして、白井晟一が、「豆腐」(『リビングデザイン』195610月)や「めし」(『リビングデザイン』195611月)、「待庵の二畳」(『新建築』19578月)、「縄文的なるもの」(『新建築』19567月)といったエッセイによって、いわゆる「伝統論争」において、一定のポジションを得ることになったのは、「原爆堂」プロジェクト以降である。

「原爆堂」プロジェクトをまとめた1955年、白井晟一は50歳であった。白井が「書」を始めるのも50歳を迎えた同じ頃である。

伝統・民衆・創造:縄文的なるもの

 建築家は何を根拠に表現するのか。1950年代において主題とされたのは、日本建築の伝統の中に「近代建築」をどう定着するか、ということであった。そして、近代建築の理念の中に、日本的な構成や構築方法、空間概念を発見すること、「伊勢神宮」や「桂離宮」に典型化される限りにおける日本の建築的伝統に近代的なるものをみるという丹下健三の伝統論がその軸となり、結論ともなった。しかし、白井の伝統論は全く異なる。ただ単に、日本建築の伝統は「弥生的なるもの」ではなく「縄文的なるもの」である、「伊勢」や「桂」ではなく「民家」である、というのではない。白井にとっての「伝統」「民衆」「創造」は、何よりも、自らの具体的な体験をもとに、また歴史の根源に遡って思索されるものなのである。

「原爆堂」計画案によってはじめて白井の作品を知ったという神代雄一郎が「ギリシャの柱と日本の民衆-白井晟一の一面」(『建築文化』19577月)という興味深い文章を書いている。「感動も受けなかったし、愛情も感じなかった。・・・白井の作品を黙殺したかったし、避けて通れるものと思っていた。わたしは感心しなかったのである。・・・陰惨きわまりないたまらないものがある」、酷評といっていい。白井晟一は、初めから機能主義に背を向けて出発しており、その作品は「超現実主義」に思えた。白井晟一の表現の迫力は認めるのであるが、現代建築のなかにフルーティングのある柱をもち込むことが、ひとびとの無意識や想像力に、どのように訴えうるのか、が理解できない。神話的素材の使用、サンボリズム、集合的無意識といった、フロイト、ユングを援用した、その分析が全体として明らかにしているのは、白井が日本のコンテクストとは著しくかけ離れた地平にいることであった。

一方、川添登(岩田和夫[xxxviii])をはじめ、吉中道夫・矢向敏郎[xxxix]、栗田勇[xl]らの白井晟一論には、白井晟一を避けて通ろうとする意識、黙殺したい意識はない。近代建築の誤り、その方法論の病根を確認するものとして、白井晟一を積極的に位置づけ、対置し、称揚しようとするのである。すなわち、機能や技術、合理性に対して、精神を、現代ヒューマニズムを、民衆や伝統を、さらに創造や芸術を、白井晟一に即して再発見するのである。単純には、「機能主義」へのアンチテーゼの建築家として、あるいは、「純粋の芸術家」として白井晟一が発見されるのである。以降、彼は、専ら、「純粋建築家」「造型の作家」「孤高の作家」「観念の作家」として、その作品のみが他の側面と切り離されて論じられることになるのである。

こうした白井晟一評価の構図は、それが直接に対置された部分において、裏返しの意識として保持された。その皮相な位置づけにおいて、白井晟一に対する反感もまた広範に組織されるのである。みねぎしやすおは、「善照寺」によせて、「常日頃白井さんの論文をよみ、ある共鳴を感じ作品に対してある反感を感じてもいた」のであるが、「現在の私にはその作品から、自由な健康な人間生活の躍動が感ぜられずに懐古的な排他的な威圧を感ずると同時にそこに次をうみ出すポテンシャルも感じられないのです」というのである。

「民衆の建築家」と称された白井晟一のリアリズム、その実践の重みは、別の脈絡に置き換えられたといえる。問題は、白井への共鳴と反発との間にあったのである。

 

Ⅳ 建築の根源

白井晟一を「公認」することによって、特に戦後まもなくから1950年代における白井晟一の仕事を突き動かしていたものを正確に受け止める機会は失われてしまう。「虚白庵」に閉じこもり、自らの自我をみつめる方へ向かった白井晟一自身の問題であったが、白井晟一を「異端の建築家」としてしまった、日本の建築界の根底的な問題でもあった。アリバイづくり、というのはそういう意味である。

白井晟一もまた時代を呼吸しながら揺れてきたのである。一貫した「観念の建築家」でもなければ、「純粋の芸術家」でもない。それは、以上のように歴史をざっと振り返るだけで確認できる。それ故、日本の近代建築の展開は、静止した白井晟一という点の回りを螺旋状の軌跡を描いて一周したというような単純なものではあり得ない。歴史を単純化し、繰り返しの図式にしてはならないと思う。

「ジェネレーションとしたら、包括する思想がつかめない時代に育ったものより何分かの徳はあったかもしれない」、また「僕と同じことはやらん方が無難だと思う」[xli]と白井はいう。同じことはできないかもしれない。「包括する思想がつかめない」ものに、それは無理からぬことである。しかし、否、それ故に、僕らは白井晟一に眼を向けるのである。

ひとことで言えば、日本の建築家で、白井晟一ほど日本の近代建築を相対化する視点を示し続けた建築家はいない。相対化する視点とは、批判的視点と言ってもいい。それ故、近代建築批判の過程で「公認」されるのである。致命的なのは、白井晟一を徒らに神格化し、神秘化することによって、自らの問題として問わない態度である。白井神話が近代建築批判を宙吊りにし、無化してしまうことである。

木と石

 「西洋の思想や文化に直面せざるをえなかったわれわれが、そのぶ厚い石の壁に体でぶつかり、これを抜きたいという、私には荒唐無稽な考えとは思わなかったのです」[xlii]と白井晟一はいう。本気でこんな課題設定をした建築家は近代日本にはいない。日本に、「パルテノンでなくてもロマネスクやルネサンス、せめてバロックのような遺産があったら、こんな不逞な希いはもたなかった」「西洋近世建築の程度のよくないものの模倣しかつくれなかった日本に生まれたおかげだ」、などという。本人はハムレット劇というが、もちろん、日本で石造建築の生まれる環境が絶望的にないことを意識した上での発言である。

 鉄筋コンクリートが一般的になり、その表層が薄っぺらな材料で飾り立てられるなかで、白井晟一の石や煉瓦への拘りは際立っている。「松井田町役場」では、上州で敷石に使われていた多胡石を使っている。「親和銀行東京支店」では四国高松郊外庵治村の花崗岩を使った。流正之の紹介だという。「大波止支店」では、九州産の粘板岩、懐霄館では諫早石が用いられた。地域産材に限らない、韓国や北欧の石も求める。直接仕事のない時には、各地の石材倉庫や石工作業を見て回る。

 一般的に言えば、素材への拘り、ということである。あるいは、現場作業、職人技への敬愛である。「石山の持ち主であり、また一家をあげて伐石作業に従事しているみなさんの協力にくらべれば、こちらの建築思想とか自然観などは、まことに机上の何かでしかない」のである。現場の諸職には、常に「きみたちがやっている仕事、つまり建築そのものが施主なんだ。・・いつでも建築はきみたちをまん前からみている。石が、硝子が、壁が・・・みられていない瞬時もないんだよ」(「聴書 歴史へのオマージュ」)といい、竣工式の祝宴などには出なかった、という。

 この現場主義は、木造建築についても同じである。そもそも、戦時中の直営の仕事にそれは遡り、原木の物色から製材まで関わる中で身につけられたものである。「嶋中山荘(夕顔の家)」の時には吉野や山陰まで用材を探しに行った。「呉羽の舎」では、雪中、飛騨・越前の山中に栗を求め、外部造作から障子の桟まで、また、机や盆まで、指物師や刳物屋まで運んでつくった。

 現場において、ローコストでラショナルなものを求めるのが白井晟一の建築作法である。建築生産体制の全体を主題化した日本の近代建築が、にも関わらず、当初から抹殺してきたのがこうした建築作法である。

アジア

 西洋建築にぶつかり、これを抜きたいと思っていた白井晟一が、戦後はじめて洋行するのは、1960年秋である。ドイツは訪れず、イタリア、フランス、スペイン、イギリス、北欧を回った。これは、「白井晟一の精神史において、これは分岐点としての意味をもつ旅であったと見られる。長い年月かれの精神に大きな拘泥として持続していたヨーロッパ、とりわけ文化全体としてのカトリシズムから解放への契機となる。『肝の中から感動させるようなものはヨーロッパにはない。唯此の眼、此の足で、自分をたしかめただけだったかもしれない。之で目的は充分に達した。』帰国した白井は以前にも増して仏教思想、特に道元に情熱的にとりくみ、「書」を行とする生活が明確になる。」と塩谷宋六はいう[xliii]

 分岐点が1960年代初頭のヨーロッパ再訪にあったかどうかはわからない。それ以前からヨーロッパ以外に眼を向けてきたことは間違いないのである。「天壇」「中国の石仏」「仏教の建築」といったエッセイが1950年代に書かれている。すべての建築家が西欧近代VS日本の伝統建築という二項対立的思考の枠組に囚われる中で、中国あるいは東洋への関心を示した建築家は、白井晟一以外にはいない。

そもそも、明治以降、日本の建築家は、伊東忠太のような例外を除いて、アジアの建築への視座を欠いてきた。西欧の建築技術を導入するのが最優先最大の課題であった。戦前には、アジアとの直接的な関係の中で、極めて偏向した形ではあれ、アジアへの視座があった。それが戦後、切れてしまう。晩年にも「東洋のパルテノン」「白磁の壺」「土の造形」など朝鮮半島や中央アジアへの関心が表明される。白井晟一が中国や東洋への関心を持ち続けていたことは不思議と言えるほどである。

その関心は、決して西欧VSアジアという構図を基にしているわけではない。神代雄一郎に「ギリシャの柱」を問われて、「伝統の問題をせまい民族と地域におしこめては、自己の文明を誇示するにすぎず、伝統の発展的な世界的な意味をなくしてしまうものだと考えます。法隆寺や薬師寺に残っているギリシャのDetailを借り物だとしてわれわれの文化の遺産からはじき出して了う人がいるでしょうか。天平にしても平安にしても中国は勿論、ヨーロッパやオリエントがとけこんでいます。伝統の拡大などというまでもなく、もともと伝統というものはその様に世界全体がかかわっているものであり、人類の心の底になにか統一のあることを感ぜざるを得ないのです」と言っていたのである。

デンケンとエクスペリメント:建てることと考えること

 おそらくは、記録された最後の白井晟一の発言である「虚白庵随聞」において、インタビュアー(平井俊治、岩根疆、塩屋宋六)が、執拗に密教、曼荼羅、宋廟、白磁など、アジア、ユーラシアについての関心を問うた上で、「都市とか地方独特な風土とかではなく、もっとコスミックな広がりをバックにして建築造型をされているというような感じがしているんですが」というのに対して、以下のようにいう。

 「そんな高級なものじゃなくてね、少くとも現代のパターンというもので自分は縛られるものか、というところはあるね。それで僕の歴史把握なり人間的な文化感覚というものを拡大したいという気はある。拡大というのは歴史をずうっと大きく把むことだよ。そこらへんで歴史を遡ったような形の気配が出てくることにしまってるんじゃないかな。それだけのことで、決してコスミックなものを思考しているとかって大げさな問題ではないんだよ。」

すなわち、上記の伝統をめぐる発言も、コスモポリタン的な理念において考えられているわけではない。言うならば、伝統は、歴史把握の問題であり、文化感覚の問題ということである。「逆説的になるかもしれないが、人間社会的にプリミティブに通ずることがコスミックに通ずることだと思うんだ」ともいう。

結局、僕が白井晟一に学んだ最大のことは、経験すること、考えること、そうした上で建てることではないか、と思い至る。白井晟一の自己凝視の世界、例えば「書」の世界を共有することは無理であるとしても、その歴史をとらえる眼、世界をとらえる眼のあり方自体、すなわち、「現代のパターンというもので自分は縛られるものか」という精神に魅かれてきたのではないか。

 「思索と経験なんていうけれど、それは別々のものではないと思うんだ。・・・デンケンとエクスペリメントを分けて考えるっていうのは西洋思想から来ているわけだけれど、二元的な建前があるわけだね。しかしそれを煎じつめて生きていることの中で把もうとしていくと、それは別のものでないことがはっきりわかるんだよね」と白井晟一はいう。

「僕の考え方というのは誰かの考え方ではないわけだよ。決してカントなんかの思想でもないし、あるいは道元の思想でもなんでもないと思うんだよ。彼らですらある意味ではずいぶん小世界的なところがある。やっぱり稽古だろうね。ふっとものがクリアーになるようなインスピレーションが湧いてわかるというものじゃないと思うね。不断のエキスペリメントの中で自分をたたいていく以外ないよ。手っ取り早くはいかない。」

 

エピローグ

白井晟一が亡くなったのは、19831121日である。前川國男は、「日本の闇を見据える同行者はもういない」という弔辞を読んだという。その前川國男が逝ったのは1986626日である。同じ年に「新東京都庁舎」の設計者に丹下健三が決まった。その時のコンペの結果をめぐって僕は「記念碑かそれとも墓碑かあるいは転換の予兆」(『建築文化19865月)という文章を書いた。

確実にひとつの時代が終わり、ポストモダン建築の徒花が咲いて、そして弾けた。日本の建築界は、磯崎新、原広司の時代から、安藤忠雄、伊東豊雄・・・らの時代に確実に移っていった。

丹下健三が亡くなったのは2005年3月22日である。同じ年の暮れに、生誕百年ということで前川國男展が開催され、翌年一杯各地を巡回して、それが終わった頃だったと思う。白井昱麿さんから突然連絡を頂いて会った。30年ぶりである。昔話に花が咲いた、ばかりではない。現時点から見たら白井晟一はどう評価されるのか、白井晟一が生きていたとすれば現代日本の建築をどう評価するのか、話の種はつきなかった。

 前川國男展のことは当然話題になった。『建築の前夜 前川國男文集』(而立書房、1996年)の編集に協力したこともあり、前川國男展の実行委員に名前を連ねさせて頂いていた。何も手伝わなかったけれど、「前川國男のモダニズム」と題したパネル・ディスカッションの司会を務めた[xliv]。前川國男展は、建築展としては多くの関心を集めた。大成功であったとされる。しかし、前川國男展があるのであれば白井晟一展もあってしかるべきではないかと密かに思った。思ったところでどうこうなるものでもなく、しばらく時は流れた。昱麿さんに会ってまもなく、研究室の学生に、白井晟一を知っているか、と聞いてみた。前川國男ですら知らない学生が少なくないのだから大いに意外であったのであるが、「知ってます! ファンです!」というひとりの学生がいて少しばかりうれしくなった。聞けば両親が建築家で、子供のころから白井晟一の作品集を見て育ったのだという。両親は若き日に「聖地巡礼」をしたに違いない。その息子である学生も建築を志して、現存する白井作品を全部見て回ったという。

 さらにしばらくして、昱麿さんから再び連絡があり、「虚白庵」に来ませんか、という。枝垂桜も最後になりますから、という。 松山巌さんを誘って、虚白庵を訪れ、暗闇の中で楽しい時間を過ごした。建築を志した頃のことを震えるように思い起こした。



[i] 日本相互銀行本社」(1952年)「神奈川県立図書館並びに音楽堂」(1954年)「国際文化会館」(坂倉準三,前川国男,吉村順三連盟、1955年)「京都会館」(1960年)「東京文化会館」(1961年)「蛇の目ビル」(1965年)。

[ii] 今年(2010年)417日、東京に雪が舞ったが、41年前の全く同じ日にも、東京に雪が積もったことを思い出す。「東大闘争」は、1969119日の「安田講堂」陥落の後、急速に収縮し始め、4月には授業が再開されていて、大講義室の外に季節外れの雪が積もっていくのを呆然と眺めた記憶が鮮やかである。

[iii] 「メタボリズムとの関係を聞かれるので、その頃を想い出してみた」『反回想Ⅰ』(GA,2001p.20

[iv] 拙稿「磯崎新1968 ラディカリズムの原点」『建築ジャーナル』20106月号、pp.48-51

[v] 『新建築』19682

[vi] 「人間・物質・建築」『デザイン批評』676

[vii] 「近代の告発」『建築文化』19697月号

[viii] 「呼び立てる<父>の城砦」『近代建築』19721月号。

[ix] 虚白庵の暗闇-白井晟一と戦後建築」『白井晟一研究Ⅱ』1978

[x] 水原徳言「」

[xi] 「白井晟一論ノート」1,2『近代建築』20073月号、4月号

[xii] 1928には、日本共産党労働農民党などの関係者約1600人が治安維持法違反容疑で検挙された「三・一五事件」が発生している。戸坂潤自身、1930年には共産党員を自宅に泊めた廉で検挙されている。ただ、戸坂がマルクス主義研究を始めるのは29年頃からであり、白井と同い年の佐野碩(1905-1966)が「共産党シンパ事件」に巻き込まれて擬装転向、ドイツに逃れたというような、日本で何らかの活動を開始しており、その延長として渡欧したということはないであろう。

[xiii] 京大哲学科の深田康算(1878-1928)から紹介状得ていたリッケルトは、老齢で講義もままならない状況であり、カール・ヤスパース(1883-1969)の講義を聞いたとされる。

[xiv] 本人によれば以下である。「私たちの若い頃はいろいろな意味で外からの圧制のない時代だったといえます。ニイチェでもヘーゲルでも自由に勉強できた。唯物論もさかんだったけれど、・・・具体的な歴史感情は身についていなかった。そのかわり、人間・自己の内部には貪欲だったと思います。僕などあけてもくれてもカントとベートーヴェンでした。今考えてみると随分我儘勝手な勉強のしかたをやったものです。おとなになって人並みとはいえないけれどとにかく処世していくようになってからも、考え方はいろいろ変わったけれど、我儘勝手さは、若い頃とちょっともかわらない。戦争中もまあ同じでしたね。」(「作家・白井晟一の建築創造をめぐって」白井晟一・神代雄一郎対談『建築文化』19577月号)

[xv] 川添登、前掲論文「白井晟一論ノート」2『近代建築』20074月号

[xvi] 「もし自分がソ連共産党に入党したら、その類が家族におよぶだろう。それを避けるためには、国籍を抜く以外にないが、それには一度、日本に帰り、これまで親代わりになって、なにからなにまで面倒をみてくれた姉のきよに挨拶して、感謝の気持ちを伝えなければならない」(川添登、前掲論文「白井晟一論ノート」2『近代建築』20074月号)と考えたのだという。1932年、コミンテルンとの討議によっていわゆる「32テーゼ」(「日本の情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」)が採択され、日本共産党の活動指針となっている。

[xvii] 拙稿「Mr.建築家―前川國男というラディカリズム」『建築の前夜 前川國男文集』而立書房1996年(布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジーー建築の昭和ー』彰国社1998年所収)。

[xviii] 宮内嘉久、『前川國男作品集ーーー建築の方法 Ⅱ』、美術出版社、一九九〇年

[xix] 前川國男「1937年巴里萬國博日本館計画所感」『国際建築』19369月。

[xx] 「わが国における建築技術は、いまだ近代的技術の域に達しておらぬ・・・建築構造学、さらに建築構造学を基礎づける建築本質認識の学としての本来的な建築学の未完成が横たわる」『新建築』19424月号

[xxi] この段階で「近代建築」という言葉はない。ヨーロッパにおいて新たに現れてきた建築の動向をひっくるめて「新興建築」と呼んだ。建築に限らない。「新興芸術」「新興文学」「新興演劇」「新興美術」・・・全て、目指すべきものは「新興」であった。

[xxii] 1929年の第六回展覧会以降、「無料図書館」「無料診療所」「労働者クラブ」といった設計案が出品されるようになる。「階級意識に目覚めた」「創宇社」の「左旋回」と言われる。

[xxiii] 「創宇社建築会」に続いて、ラトー(1923年)、メテオール(1923年)、日本インターナショナル建築会(1927年)といった小会派が陸続と結成されるのであるが、1930年に至ってそうした諸集団が大同団結する形で結成される。

[xxiv] 日本を逃れた藤森定吉、勝本清一郎、佐野碩や渡欧中の三枝博音、山田智三郎、矢代幸雄、千田是也等と交流、一方で「社会主義建設同盟Bund für Sozialistisches Bauen」に加盟、「日本プロレタリア芸術連盟」のYozin Satobeの名前で各地でアジ演説を行っている。また、同盟主催の「プロレタリア建築展Proletarisches Bauaussteellung」(19315月頃)に「紡績工場の女工寄宿舎提案」を出品している。グロピウスのアトリエには19317月下旬以降、1年ほど働いたとされる。ソビエト・パレスのコンペ案、ブレスラウ・ジードルングなどの仕事を手伝っている。

 ベルリン工科大学で建築を学んだとも言うが日記にその記録はない。黒部川第2発電所関係のダムに関する水理技術調査のためにカールスルーエの工科大学には何度か足を運んでいる。1932年に入ってコルビュジェのアトリエにいた坂倉準三にベルリンで会っている。また、ウィーンからイタリアへ旅行している。6月下旬マルセイユから帰国の途につくが、帰国前にコルビュジェのアトリエを訪れている。「山口文象年表」『建築家・山口文象』相模書房1982

[xxv] 佐々木宏「建築家としての山口文象」『建築家・山口文象』相模書房1982

[xxvi] 平井俊治作成・白井彪介・昱麿監修の「白井晟一年譜」(『建築文化』19852月号)

[xxvii] 「年表」『白井晟一研究Ⅴ』

[xxviii] 前掲白井・神代対談

[xxix] 白井晟一が帰国した1933、共産党委員長であった佐野学、幹部の鍋山貞親が獄中から転向声明を出す(「共同被告同志に告ぐる書」、612日)。そして、獄中の党員に動揺が走り大量転向が起きた。19353月には、唯一獄外で活動していた中央委員袴田里見の検挙によって共産党中央部は壊滅してしまう。モスクワでの共産主義運動へのコミットがいかに深いものであったとしても、日本の状況において政治的活動を続けることは不可能であったであろう。

[xxx] 敗戦後まもなく、建築界の民主化、新たな建築の実現を目指す様々なグループが呱々の声を上げた。そして、その諸集団が大同団結するかたちで「新建築家集団(NAU)」が結成される(1947628日)。建築界の有力メンバーのほとんどすべてが参加する800名規模の一大団体である。主導したのは、「創宇社建築会」の流れを引く「日本民主建築会」であった。山口文象も顧問格で参加している。そして、その「新建築家集団」もまた、1951年に崩壊、活動停止してしまう。「新興建築家連盟」の結成・崩壊と全く同じような過程を辿ったと揶揄される。

[xxxi] 「秋の宮村役場」について「秋田の文化団体に招かれたのが機縁となり、若し自分の仕事を通じてこの地方の人々に明るい冬を過させ最少の熱燃料であたたかに仕事をしてもらへることが出来るとすれば都会のおおきな規模の建物をつくるために働くよりはるかにたのしいことに違ひないと思ふようになった」と白井はいう。また「雪深い秋田にもやがてはその風土自然に導かれるように民衆のためにほのぼのとした多くの建物があらはれねばならぬ。渺たる一寒村の役場にすぎないこの小作品が、この地方の人々にとってささやかな道標ともなり得るならば望外のよろこびである」といっていた(『新建築』195212月)。

[xxxii] 「建築家は施主の夢を占う。施主には個人から共同体まである。大王もあれば明日の幽明すら不調の病人もないとはいえない。『くらしの工夫』信徒も袖には出来ない。桂離宮やパルテノンの建築家はたしかにうまい裁断師、すぐれた医師である前に占眼を具えていたと思う。同じ造型家でも美術家と異なるような負担をのがれられないのが建築家の宿命であろう。………正しく占われざるかぎり、夢は蹉跌が常習であり、術作も創造の媒体となったためしはない。……」と「煥平堂」に即して言っている(『新建築』195410月号)。「イデオロギーでは自分の仕事が育たなかったことに気がつきかけたのが、おそかった」とも言う。「かくしもったる啓蒙の旗などは辛棒強くひっこめ」ながら、「啓蒙の赤旗どころか観念の白旗を揚げなければならない」中での悪戦苦闘であった。

[xxxiii] 国立劇場のコンペに関する「伝統の新しい危険」(『朝日新聞』19581122日)および「建築家は二の足踏む」(『朝日新聞』1962915日)である。「建築は誰のものか」われわれは「日記から」(『朝日新聞』19771月)において、久々に、その思索の世界の一端に触れ得たといえるのである。

[xxxiv] 「もうでる幕がないと思っているわけじゃないが、生まれて大きくなった時代の人間以外にはなれないんだから時代に対応ということも、そういう『分』のなかで努力してゆくよりほかないね。……ぼくにはそんなことよりどっちかというと淘汰の自然のなかへ還元してゆく自我をみつめるといった方に日常の重点がかかっていく。建築のこともね。」といい、さらに、時代に無関心ではいられないのでは、と畳み掛ける原広司に次のように答えるのである。

「戦後地方の公共建築を造らせてもらった。建築家としての精一杯のソーシャリズムだった。粗末な建物だったが一生懸命にやった。それから、何十何百、そういう建物がつくられる一里塚にはなったらしいが、表面の大義は同じでもすっかり意味が変わってしまった」。

[xxxv] 「原爆堂について」(『新建築』19554月号)、「平和を祈る原爆堂」(『朝日新聞』1956年)。

[xxxvi] 戦後まもなく白井晟一は設計活動を開始する。住宅設計の仕事ともに、実現することはなかったが「三里塚農場計画」「光音劇場計画」(1946年)という2つのプロジェクトがあることが知られる。振り返って、前者には「<新しき村>を想起させる」白井の社会的理想が示されているとされる。また、後者の形態には、晩年の美術館建築などの原型をみることができるとされる。

[xxxvii] 「虚白庵随文」『白井晟一研究Ⅰ』南洋堂出版1978

[xxxviii] 川添登のペンネーム。「伝統と民衆の発見をめざして」『新建築』19567月号

[xxxix] 「白井晟一の空間」『建築』196112月号

[xl] 「異端の作家・白井晟一」『室内』196112月号

[xli] 「人間・物質・建築」『デザイン批評』676

[xlii] 「石と日本建築」『INA REPORT No.319763

[xliii] 『白井晟一研究Ⅴ』「年表」p27











[xliv] パネリスト:鬼頭梓,林昌二,松山巌:,東京海上火災ビル,20060119日(松隈洋編『前川國男 現代との対話』六曜社200610月)