白井晟一:精神と空間, 磯崎新・白井昱磨・布野修司・松隈洋・谷内克信,青幻社、2010年9月25日.
虚白庵の暗闇―白井晟一と日本の近代建築
布野修司
プロローグ
白井晟一は、僕の「建築」の原点であり続けている。理由ははっきりしている。僕が「建築」について最初に書いた文章が「サンタ・キアラ館」(1974年、茨城県日立市)」についての批評文なのである。悠木一也というペンネームによる「盗み得ぬ敬虔な祈りに捧げられた量塊―サンタ・キアラ館を見て―」(『建築文化』,彰国社,1975年1月号)と題した文章がそれである。『建築文化』誌(彰国社)の田尻裕彦編集長が、一体何故、大学院生で「建築」のケの字も知らない、海のものとも山のものともわからない僕を白井晟一という大建築家の作品の批評家として指名したのか、未だに謎である。
「サンタ・キアラ館」を一日見て、「<求めよ>とささやかに彫り込まれた石の脇を抜けてキャンパスに導き入れられた私は確かに、何か別のある事件の出現を息をつめながら求めていた。・・・量塊の周囲を徘徊する。二つの量塊の交接と見えたものは、そのものズバリの官能的エロスを擽る。楕円の量塊の何ともいえない曲線と縊れ込んだ凹部はやけに艶かしい。そういえば私の立っているここは、うら若き乙女たちの園であった。二つの量塊のディアレクテーク。ここでは、アーティキュレートされずに、閉ざされた楕円の赤い塊りに、白い壁面と、大きく開かれた窓をもつ不定形の、鋭角の楔がしっかりと噛み合っている。二つの鮮やかな対照が淡い光の中で、対話し、交歓しているように見える」などと書いている。読み返して、「建築」に触れたという思いがありありと蘇ってくる。
以上のみであれば、悠木一也の個人的な体験で終わったであろう。しかし、いま読み返しても恥ずかしさに顔が火照ってしまうような拙い文章が掲載されてまもなく思いもかけないことが起こった。「虚白庵」に来なさい、と声をかけて頂いたのである。出迎えてくれたのは次男の白井昱麿さんであった。本人は不在でいささか肩すかしであったが、かえって「虚白庵」を隈なく見ることができた。なんといっても「もの好きで見たがる人があっても、住居の中の公開は遠慮する」(「無窓無塵」)という「虚白庵」なのである。机の上に、道元の『正法源蔵』が毅然と置かれており、凛とした「暗闇」の身に引き締まる感覚を今でも覚えている。何よりも仰天し感激したのは、どこの馬の骨とも分からない怪しげなペンネームの筆者に、5万数千円もする、上梓されたばかりの限定番号入りの『白井晟一の建築』(中央公論社、1974年)を贈呈して頂いたことである。
幸か不幸か、その後も白井晟一の肉声に直接接することはなかったが、白井昱麿さんが父・白井晟一を徹底的に客観視するために創刊した『白井晟一研究』(Ⅱ、1979年)に「虚白庵の暗闇-白井晟一と戦後建築」と題した文章を書く機会を与えてもった。白井晟一とその建築そのものを問うというよりも、白井を通じて、日本の「戦後建築」を問う構えをとった論考である。この白井晟一論を核にして、僕は、処女論集『戦後建築論ノート』(相模書房、1981年)を書いたのである。
Ⅰ 白井神話の誕生
僕が「建築」を志した頃、白井晟一という「建築家」は、謎めいた、神秘的な、実に不思議な存在であった。逝去後30年近い月日が流れた今も、不思議な「建築家」であったという思いはますますつのる。
公認の儀式
白井晟一が「親和銀行本店」で日本の建築界最高の賞である日本建築学会賞を受賞するのは1968年である。63歳であった。「善照寺本堂」で高村光太郎賞を受賞(1961年)しているとは言え、建築界の評価としてはあまりに遅い。しかも、受賞にあたっては「今日における建築の歴史的命題を背景として白井晟一君をとりあげる時、大いに問題のある作家である。社会的条件の下にこれを論ずる時も、敢て疑問なしとしない。」という留保付きであった。
同じ1905年生まれの前川國男が立て続けに[i]日本建築学会賞を受賞してきたのに比較して、白井晟一への建築界の評価は、それまで薄く、冷たかった。前川國男は、同じ年、「近代建築の発展への貢献」というタイトルで、1ランク上の日本建築学会大賞を受賞しているのである。
「日本の近代建築を主導してきた前川國男」VS「近代建築の主流から外れた「異端の建築家」白井晟一」という構図からはいささか意外に思われるが、お互いに交流があり晩年も『風声』同人として親しかった。同い年で、同じように戦前に渡欧した経験のある二人の建築家の対比、そして二人が共有していた「建築」への思いは興味深い。
受賞以降、白井晟一は一躍脚光を浴びることになる。「親和銀行」(Ⅰ期Ⅱ期)に続いて「虚白庵」「NOΛビル」「サンタ・キアラ」「懐霄館」と次々と傑作が発表されていくのである。結果として、白井晟一を「大いに問題のある作家」といった「問題」の内容が問題であり、「疑問なしとしない」といった内容が「疑問」であったことになる。
振り返って1960年代の日本建築をリードしたのは丹下健三であった。建築ジャーナリズムを賑わした1950年代半ばの「伝統論争」において既に丹下健三と白井晟一は対局的と見なされていたが、時代を制したのは丹下健三である。「東京カテドラル聖マリア大聖堂」(1964)「国立屋内総合競技場」(1964)「山梨文化会館」(1966)と傑作が次々に話題を呼び、1970年の日本万国博覧会(大阪万国Expo’70)のマスターデザインが時代を華々しく表現することになった。1960年代を通じて丹下健三は世界を代表する国際建築家となる。
しかし、1960年代末に日本の建築シーンはがらりと変わる。丹下健三の仕事は海外が主となり、日本から消えてしまう。この鮮やかな反転を象徴するのが白井晟一である。この過程を僕らははっきり証言できる。
1968
僕が大学に入学したのが、白井晟一が「公認」された1968年である。「パリ5月革命」の年だ。日本では東大、日大を発火点にして「全共闘運動」が燃え広がり、学園のみならず、街頭もまた、しばしば騒然とした雰囲気に包まれた。東大は6月に入ると全学ストライキに入り、ほぼ一年にわたって授業はなく、翌年の入試は中止された。大学の歴史始まって以来の出来事であった[ii]。
「私は年齢的には1960年世代だけど、建築家としての思考のしかたは1968年に属している」[iii]と、1968年に拘り続ける建築家が磯崎新である[iv]。磯崎新は、「1968年世代」の「異議申し立て」、「反」「叛」、「造反有理」、「自己否定」に共感し、共鳴し続けるのである。その磯崎新が1968年の初頭に「凍結した時間のさなかに裸形の観念とむかい合いながら一瞬の選択に全存在を賭けることによって組み立てられた≪晟一好み≫の成立と現代建築のなかでのマニエリスト的発想の意味」[v]という長たらしいタイトルの白井晟一論を「親和銀行本店」をめぐって書いた。この白井論の影響は圧倒的であった。
丹下健三の事務所URTECを退職して磯崎新アトリエを設立する契機になった「大分県立中央図書館」によって日本建築学会賞を37歳で受賞する。白井の受賞の前年である。翌年には、これまた白井晟一に1年先んじて「建築年鑑賞」を受賞、続いて「福岡銀行大分支店」で文部大臣選奨新人賞を受賞する(1969年)。僕らは、颯爽とデビューした磯崎の白井論を読んで白井晟一を知ったのである。原広司もまた逸早く白井晟一にインタビュー[vi]を試みていた。磯崎新の白井論に、宮内康[vii]、長谷川堯[viii]が続いた。原広司の『建築に何が可能か』(1967年)、宮内康の『怨恨のユートピア』(1969年)、長谷川堯の『神殿か獄舎か』(1972年)、そして磯崎新の『空間へ』(1970年)『建築の解体』(1975年)は、僕らの必読書であった。新進気鋭の建築家・批評家がこぞって白井晟一へのオマージュを捧げるのである。これは、明らかに建築ジャーナリズムにおける歴史的事件であった。
聖地巡礼
僕が「サンタ・キアラ館」について書いたのは、こうした白井ブームの渦中であった。
「白井晟一について語ることは必ずしも容易ではない。白井晟一とその作品をめぐる言説を支える一つの出来上がった構造(いわゆる白井神話)があり、あらゆる言説がそうした前提を免れ得ないでいるからである。白井晟一の特異性を支える構造がすでに語ろうとするものの内部に存在しているのである。極端に言えば、白井晟一については、ひたすらオマージュを捧げ完全なる帰依を表白するか、ひたすら無関心を装いつつ完全なる無視を決め込むか、そのどちらかが許されているだけのように思えるほどである。しかし、当然のごとく、後者の吐露が言説として定着されないとすれば、あらゆる言説が白井神話を増幅し、彼を神格化するヴェクトルのみをもってしまうのである。その結果、白井晟一とその作品を相対化し、それなりのコンテクストへ位置づけようとする試みの方がその説得力を欠いているようにみられてしまう。神話に拮抗するだけの言説を産み出し得ないのである。」[ix]
何故、白井神話なのか。不可解だからである。白井晟一とその作品群がわからないのである。第一に、白井晟一の作品が多義的でわかりやすい位置づけを許さない。すなわち、日本の建築が語られてきたこれまでの文脈では理解できないのである。第二に、白井晟一の履歴が不明で、謎に満ちている、ということがある。謎は謎を呼ぶ。結果として、白井晟一とその作品群は多義的なテクストとして読まれ、場合によっては、矛盾を含んだ両義的な位置づけを許してしまう。
あるものはそのコスモポリタニズムを指摘し、またあるものはその日本的なるものの一貫性を指摘する。あるものはその「精神主義」を賞揚し、またあるものは「物質の肉化」をうたう。あるものは、ラディカルな「変革者」を見、またあるものは「反動的な保守主義者」をみる。あるものはその「フォルマリズム」を指摘し、またあるものはその「ラショナリズム」評価する。あるものがその「マニエリズム」を指摘すれば、あるものは「マニエリスト」とは程遠いという。
とにかく「白井晟一神話」によって、1970年代を通じて、白井晟一の作品を巡る「建築行脚」は「聖地巡礼」とも呼ばれ、建築学生あるいは若い建築家たちの必修科目となった。白井晟一の「呉羽の舎」の図面集『木造の詳細3住宅設計編(呉羽の舎)』(彰国社、1969年)は、実際設計製図の教科書だった。高崎在住で、「煥乎堂」「松井田町役場」の仕事に絡んで濃密な付き合いがあった建築家水原徳言のもとには、白井晟一を卒業論文のテーマとする建築学科の学生が度々訪れることになった[x]。
Ⅱ 建築の前夜
白井晟一の戦前期のヨーロッパでの活動はヴェールに覆われている。カール・ヤスパース、アンドレ・マルローなどとの関係が断片的にのみ語られることで、様々な伝説が増幅されてきた。白井晟一を「見出し」、建築ジャーナリズム界へのデビューを後押ししたとされる川添登が、その履歴をかなり明らかにしているが[xi]、それでも謎は残る。白井晟一は、ヨーロッパで一体何をしていたのか、何故、帰国後、建築家として生きることになったのか、その真相は必ずしも明らかではない。
建築・哲学・革命
白井晟一の建築家としての出発点は、京都高等工芸高校(1924年入学1928年卒業、現京都工芸繊維大学)に遡る。ただ、入学の段階で建築家として生きる決断はなされてはいない。青山学院中等部の頃からドイツ語を学び、哲学を学びたいと思ってきた。一高入学に失敗した挫折感もあって、建築科の講義には身が入らず、京大の教室にもぐりこんで哲学の講義を聞く。そして、三回生の時に英語を教えにきた戸坂潤(1900-1945)に出合った。一夜漬けの卒業設計でなんとか卒業した後、シベリア経由でドイツに向かう。哲学を修めたいという捨てがたい欲求がドイツ留学に駆り立てたというが、戸坂潤との交流がもうひとつの憶測を生む。ドイツでの左翼活動に戸坂潤の影響があるとみるのである[xii]。
バーゼル州の大学入学資格試験を受けて合格、ハイデルベルク大学に入学するが、語学の壁があり、専ら美学のグリーゼバッハ教授のゴシック建築の講義を聞いた[xiii]。学生演劇に参加するなど学生生活を楽しんだ[xiv]。しかし、1930年にはベルリン大学に移っている。ベルリン大学では、シュプランガーとデゾワーに師事したが、ほとんど講義には出ず、終戦直後、読売新聞社の争議を指導した鈴木東民が在留邦人向けに出していた政治色の強い『ベルリン新聞』を市川清敏と一緒に引き継ぐなど、もっぱら政治的な活動に奔走したらしい。川添登によれば、白井晟一の「左傾化」はハイデルベルグ時代ということになる[xv]。
1931年から翌年にかけて義兄の近藤浩一路がパリに滞在すると、白井晟一はパリに赴くことになる。そして、美術評論家今泉篤男の紹介で林芙美子と出会った。林芙美子との交流は白井晟一の青春のひとコマである。林芙美子の白井晟一と目される人物についての表現から断片的な像を得ることが出来る。白井は「清潔で温雅な」振る舞いにつつまれた「富裕な」貴公子であり「盈進的革命論をとばす」人物であった。
哲学、また建築への関心、そして社会主義運動へ、渾然としたヨーロッパ生活である。
1932年から帰国までの一年、モスクワに滞在する。『中央公論』のソビエト特派員からソ連共産党への入党を薦められたのだという。しかし、結局は帰国することになる。川添登は、この帰国の「決断」を革命運動に身を投じるための一時帰国であったとし、「単に若さだけでなく、どうしようもない純情さを、白井晟一という人物は、もっていたのではないだろうか」という[xvi]が、果たして、ただそういう「決断」であったのか、疑問と謎は残る。
スタイルとしての近代
白井晟一がヨーロッパに向かった同じ1928年に、前川國男もまたパリへ赴く。よくよく因縁の二人である。前川國男は、帰国後の「創宇社」主催の「第二回新建築思潮講演会」での講演「3+3+3=3×3」(1930年10月3日)によって建築家としてデビューすることになる。前川國男は、日本に近代建築の理念が受容されるまさにその過程において建築家としてデビューし、その実現の過程を生きた[xvii]。
もっともらしく語られる物語はこうだ。前川國男は、全ての競技設計(コンペ)に近代主義のデザインを掲げて挑むことを決意、「日本趣味」「東洋趣味」を規定する応募要項を無視して、近代建築の象徴としてのフラットルーフ(陸屋根)の建築様式を提案し続ける。落選し続けた挙句、ついには節を曲げ、勾配屋根を用いるに至る。「パリ万国博覧会日本館」(1937年)また「在盤谷日本文化会館」のコンペ案(1942年)は、あれほど拒否し続けた日本的表現そのものではないか。コンペにも破れ、志も曲げた。前川國男は二重の敗北を喫したのだ。この時期を前川國男の「暗い谷間」といい、その掘り下げを主張し続けたのが宮内嘉久である[xviii]。前川國男が日本ファシズム体制に抗し続けた非転向の建築家であったというのは神話にすぎない。前川國男が侵略行為に荷担しなかった、というのも誤りである。また、戦争記念建築のコンペには参加しなかったというのは史実に反する。その歴史は必ずしも栄光にのみ満ちた歴史ではない。前川國男にとって、近代建築の問題は、決してスタイルの問題ではなかった。「私の主張せんとする所は決して所謂『屋根の有無』と云った枝葉な問題ではない」[xix]とはっきり言っているのである。前川には、日本は「建築の前夜」[xx]にあるという認識があった。そして、上述の「3+3+3=+3×3」と題する講演で、予め次のように書いていた。
「建築をだしにつかって社会改革ができると思ったら大間違いであります。キレイな手をもっては革命はできません。真に社会を憂えるならば当然建築を去って社会運動に投じる一途よりないのであります。かくのごとく善良で勇敢な社会改革建築家の中に最後のドタン場において背中を向けて逃げ出さぬものが果たして何人いるでありましょうか。」
「新興建築家」の「悪夢」
前川國男がこう発言した「第2回新建築思潮講演会」(「創宇社」主催)であった。)は、山口文象(1902~1978)の渡欧送別会を兼ねたものであった。同じ日同じ場所で、山口は「新興建築家の実践とは」と題して講演し、次のように覚悟を語っている。
「要するに正当な意味に於けるプロレタリアートの解放運動に参加し、そうして建築家としての任務を果す。此事以外には私達には本当の意味に於て建築を実践するより他に道はないと思います。」
日本の近代建築を主導した前川國男と山口文象は、その出発点において「新興建築」[xxi]の実現という立場を共有しながら方向性を異にしていた。その二人の間に白井晟一の「闇」が絡む。白井晟一と山口文象はベルリンで出会っている。また帰国後、林芙美子邸を設計したのは山口文象であるという因縁がある。
山口文象が清水組を経て逓信省営繕課に入り、製図工仲間たちとともに結成したのが「創宇社建築会」(1923年)である。その「創宇社」は、社会主義運動の高揚に呼応するように急速に左傾化していく[xxii]。そして、山口文象率いる「創宇社」が主導して結成されたのが「新興建築家連盟」[xxiii]である。創立総会が開かれたのは先の講演会の3ヶ月前のことである(1930年7月18日)。しかし、「新興建築家連盟」は創立の年の暮れには解散してしまう。「建築で『赤宣伝』」の新聞記事(12月14日)がきっかけである。山口文象が渡欧するのはまさにその12月下旬であった。
渡欧中の山口の動きについては日記(1930-32)が残されており、ある程度明らかにされている[xxiv]。1931年から1932年にかけて白井晟一と山口文象はベルリンを中心とする同じ空間にいた。山口は、「ドイツで左翼活動をしていたグループに属し、ドイツにいる間にソビエトに入ったりなどしていたものですから、・・・」というから、近かったといっていい。ドイツの白井晟一を知っていたと僕は山口文象から直に聞いたことがある。佐々木宏も、山口文象は「ドイツに滞在していた留学生を中心とする日本人の中に、ドイツ共産党に参加した人びとが少なくなかった・・・ドイツにおいて熱心に政治運動にかかわった経験があるにもかかわらず、日本へ帰国してからは一切そのことに触れたがらない人々がいる・・・自己保身として賢明な生き方であるには違いないが、・・・」[xxv]といっていたという。この留学生の中に白井晟一がいる。ただ、山口文象の回顧には、「グロピウスの家族と一緒にロンドンに逃げた」とか、「帰国に際して、神戸元町の警察に捕まり、荷物をすべて没収された」とか、左翼的活動についての誇張や錯誤が少なくない。また、山口は、戦後しばらく、「光工廠」など、軍需産業のための工場や工員宿舎の設計を行ったことを否定し続けた。そして、1940年に瓦屋根の民家風の自邸を建てたことを「戦時中の悪夢」といい、その「転向」を負目として意識し続けた。「戦時中の国際建築スタイルへの弾圧から、とうとう自分の心の中にあった民家への郷愁の中の、あの日本的なものへの回帰を思い立った」と自邸を発表したのは戦後も10年たった1955年になってからである。
建築修行
1933年に帰国して、東京・山谷に二ヶ月暮らす、34年、千葉県清澄山山中「大投山房」で共同生活、と「白井年表」[xxvi]は記す。また、「山谷の労働者仲間に加わったり、同じく帰国した市川清敏や後藤龍之介らの政治活動に参加したりするが、まもなく自ら袂を分った」という[xxvii]。
レジスタンスをしていたのかと問われて、白井本人は「レジスタンスなどとはいえませんね。あまのじゃくぐらいのことです。思想として戦争に賛成できなかったということでしょう。家の焼けるまで書斎の窓を閉めきって今より充実していたかもしれません」[xxviii]と答えている[xxix]。
白井晟一は、帰国後、「近藤浩一路旧邸」(北大塚、1933年)を皮切りに、「河村邸」(旧近藤浩一路邸、東久留米、1935-36年)、「歓帰荘」(伊豆長岡町、1935-37)、「山中山荘」(山梨県南都留郡、1939年)、「関根秀雄邸」(西荻北、1941年)、「嶋中山荘」(軽井沢、1941年)、「清澤列山荘」(軽井沢、1941年)、「嶋中雄作邸」(新宿区砂土原町、1942年)と次々に木造住宅を設計することになる。帰国後も政治活動を持続していたという上記年表によれば、決断は日本においてなされたということになるが、明らかなのは、白井晟一が帰国後すぐさま建築家としての道をはっきり歩み始めていることである。いずれも身近な依頼者による仕事であり、ほとんどが直営である。この一連の木造住宅の設計施工において、白井晟一は建築を徹底的に学ぶことになる。「向う鉢巻で『数寄屋建築聚成』『書院建築類集』などを離すことがないくらい没頭した」という。
いずれも習作といってもいいが、作品としての表現は当初から意識されていた。処女作といっていい「河村邸」は、『建築世界』や『建築知識』に発表されるのである。
そして確認できるのは、白井晟一が15年戦争期における日本の建築をめぐるプロブレマティーク―「帝冠併合様式」「日本趣味様式」「東洋趣味」「国際様式」―とは無縁に出発したことである。「川村邸」にしろ、「歓帰荘」にしろ、当時の前川國男や山口文象などの住宅作品とは全く次元の異なる表現の位相を示しているのである。
Ⅲ 建築の精神
精一杯のソーシャリズム
白井晟一が、戦後はじめて建築ジャーナリズムにその一歩を記したのは「秋の宮村役場」によってである(『新建築』1952年12月)。「秋の宮村役場」によって、白井晟一に光が注がれる糸口が与えられた。その登場が衝撃的であり得たのは、その作品あるいは造型の特質にかかわる評価以前に、その具体的実践そのものであった。「秋の宮村役場」(1950-51)「雄勝町役場」(1956-57)「松井田町役場」(1955-56)の3つの公共建築、秋田や群馬など地方での仕事、「試作小住宅(渡辺博士邸)」(『新建築』1953年8月号)に代表されるいくつかの小住宅など1950年代前半の作品は、その後の作品の系譜に照らしても、また、当時の他の建築家の活動の状況からみても、驚くべき量と密度を示しているのである。
戦後まもなくの建築界の状況については他に譲るが、議論のみが先行、具体的な展開については後の課題であった。「新建築家集団NAU(New Architect’s Union)」[xxx]の初代会長で、日本の都市計画を主導することになる高山英華も、「いわゆる平和的民主革命が突如としてわがくににもたらされた結果、建築界においても民主化の問題は多少流行的にとりあげられたとみるべき点がある」、また「抽象的一般的なかたちで急進的な民主化が説かれ近代化が叫ばれたのであった」と言いながら、「地道な建築の実践を通じながらしかも革命的技術者としての新しい行き方を創りだしていく必要がある」と述べていた(「建築界展望」『NAUM 1』)。
前川國男は戦後すぐさま「プレモス」と呼ばれる工業化住宅に取り組んでいる。そして、新宿の焼跡に「紀伊国屋書店」を完成させる(1947年)。工業化の分野で戦後建築のあり方に大きな影響を与える池辺陽は、そうした前川國男の建築家としての道を「第三の道」として、困難であるが追求されねばならないとしていた(「現代建築家のえらぶ道」『NAUM 1』)。そうした意味では、白井晟一もまた、いち早く「第三の道」を歩み始めていたというべきである。「地道な建築の実践」を通じて「新しい生き方」を創りだしていく可能性をみせていた。
しかも、白井晟一は、多くの建築家が考えていた通路とは全く別の通路を具体的に切り拓いていた。白井は、「計画化」を語ることはなかったし、「ロウコウストは建築のエレメントである。しかし、人間の生活や精神を引き上げられるロウコウストでなければならない」(「試作小住宅」)というように、工業化をうたうこともなかった。多くの建築家が、「民衆のために」目指すべき建築は上からの近代化、工業化によって実現されると考えていたのに対して、白井にとっての民衆は、彼の出会った地方の具体的な人びとであった。そしてまた、戦後まもなく、白井ほど、風土、自然について考えた建築家はいなかった[xxxi]。
50年代前半の作品に付されたコメントには、白井をつき動かしていたものが見え隠れしている。すなわち、具体的な状況で施主との直接的な関係において創造や民衆や伝統を思索する白井晟一の姿を見いだすことができる。白井晟一のいわゆる「精一杯のソーシャリズム」の時代である[xxxii]。戦後まもなく白井を突き動かしていた精神と思索が戦前戦中期に培われたと考えるのはごく自然であろう。
原爆堂の謎
白井晟一は、そう多くの文章を残しているわけではないし、発言も多くない。まして、建築のおかれている社会的状況に対して直接的に発言をするのは極めて珍しい[xxxiii]。「精一杯のソーシャリズム」というのは、原広司の「俗世間に出てきて発言してほしい」という問いへの応答である(「人間・物質・建築」『デザイン批評』67年6月)[xxxiv]。ただ、50年代を通じての発言は、多かれ少なかれ、状況的なものであり、断片的には、その言説の端々に自らの置かれているコンテクストへの批判がある。例えば「試作小住宅」(『新建築』1953年8月号)には、世間に溢れる「ローコスト住宅」に対する違和のほかにも、近代数寄屋という様式の氾濫に対する不満がみられる。「この様式は花柳狭巷にはよろしい、しかし健全なるべき階級の住宅までこの様式を遂うのは問題である」と言ったりしているのである。
しかし、「原爆堂」とそれに絡むメッセージ[xxxv]極めて唐突でジャーナリスティックである。前年、ビキニ環礁で水爆実験が行われたことが背景にある。敗戦後丁度10年というタイミングでもある。
戦後まもなくの2つのプロジェクト[xxxvi]は実施が前提であった。なんの具体的な条件も前提せずに設計図を提示するスタイルは、後にも先にも「原爆堂」しかない。単なる啓蒙活動でも、「精一杯のソーシャリズム」の帰結というわけでもないだろう。白井晟一自身は、後に「僕は建築を自分の机の上で考えて、うれしそうにこぎれいなデッサンを書いて楽しんだなんてひとつもないんだよ」[xxxvii]と言っている。残されているのは、川添登の英文の前書きが付された10頁の小さなパンフレットだけであるが、思索の密度をプロジェクトに凝縮して直接社会にぶつけるパトスが伝わってくる。発表のスタイルのみならず、その形態、表現も例をみない。本気で実現したかったのかもしれない、実現していたら日本の建築シーンは変わったのではないか、と思わせる迫力がある。
「原爆堂」は、丹下健三の「広島平和記念資料館(現・本館)」(1952年)「広島平和会館(現・資料館東館)」(1955年)、村野藤吾の「世界平和記念聖堂」(1953年)に対比されるべきものとして受け止められた。そして、白井晟一が、「豆腐」(『リビングデザイン』1956年10月)や「めし」(『リビングデザイン』1956年11月)、「待庵の二畳」(『新建築』1957年8月)、「縄文的なるもの」(『新建築』1956年7月)といったエッセイによって、いわゆる「伝統論争」において、一定のポジションを得ることになったのは、「原爆堂」プロジェクト以降である。
「原爆堂」プロジェクトをまとめた1955年、白井晟一は50歳であった。白井が「書」を始めるのも50歳を迎えた同じ頃である。
伝統・民衆・創造:縄文的なるもの
建築家は何を根拠に表現するのか。1950年代において主題とされたのは、日本建築の伝統の中に「近代建築」をどう定着するか、ということであった。そして、近代建築の理念の中に、日本的な構成や構築方法、空間概念を発見すること、「伊勢神宮」や「桂離宮」に典型化される限りにおける日本の建築的伝統に近代的なるものをみるという丹下健三の伝統論がその軸となり、結論ともなった。しかし、白井の伝統論は全く異なる。ただ単に、日本建築の伝統は「弥生的なるもの」ではなく「縄文的なるもの」である、「伊勢」や「桂」ではなく「民家」である、というのではない。白井にとっての「伝統」「民衆」「創造」は、何よりも、自らの具体的な体験をもとに、また歴史の根源に遡って思索されるものなのである。
「原爆堂」計画案によってはじめて白井の作品を知ったという神代雄一郎が「ギリシャの柱と日本の民衆-白井晟一の一面」(『建築文化』1957年7月)という興味深い文章を書いている。「感動も受けなかったし、愛情も感じなかった。・・・白井の作品を黙殺したかったし、避けて通れるものと思っていた。わたしは感心しなかったのである。・・・陰惨きわまりないたまらないものがある」、酷評といっていい。白井晟一は、初めから機能主義に背を向けて出発しており、その作品は「超現実主義」に思えた。白井晟一の表現の迫力は認めるのであるが、現代建築のなかにフルーティングのある柱をもち込むことが、ひとびとの無意識や想像力に、どのように訴えうるのか、が理解できない。神話的素材の使用、サンボリズム、集合的無意識といった、フロイト、ユングを援用した、その分析が全体として明らかにしているのは、白井が日本のコンテクストとは著しくかけ離れた地平にいることであった。
一方、川添登(岩田和夫[xxxviii])をはじめ、吉中道夫・矢向敏郎[xxxix]、栗田勇[xl]らの白井晟一論には、白井晟一を避けて通ろうとする意識、黙殺したい意識はない。近代建築の誤り、その方法論の病根を確認するものとして、白井晟一を積極的に位置づけ、対置し、称揚しようとするのである。すなわち、機能や技術、合理性に対して、精神を、現代ヒューマニズムを、民衆や伝統を、さらに創造や芸術を、白井晟一に即して再発見するのである。単純には、「機能主義」へのアンチテーゼの建築家として、あるいは、「純粋の芸術家」として白井晟一が発見されるのである。以降、彼は、専ら、「純粋建築家」「造型の作家」「孤高の作家」「観念の作家」として、その作品のみが他の側面と切り離されて論じられることになるのである。
こうした白井晟一評価の構図は、それが直接に対置された部分において、裏返しの意識として保持された。その皮相な位置づけにおいて、白井晟一に対する反感もまた広範に組織されるのである。みねぎしやすおは、「善照寺」によせて、「常日頃白井さんの論文をよみ、ある共鳴を感じ作品に対してある反感を感じてもいた」のであるが、「現在の私にはその作品から、自由な健康な人間生活の躍動が感ぜられずに懐古的な排他的な威圧を感ずると同時にそこに次をうみ出すポテンシャルも感じられないのです」というのである。
「民衆の建築家」と称された白井晟一のリアリズム、その実践の重みは、別の脈絡に置き換えられたといえる。問題は、白井への共鳴と反発との間にあったのである。
Ⅳ 建築の根源
白井晟一を「公認」することによって、特に戦後まもなくから1950年代における白井晟一の仕事を突き動かしていたものを正確に受け止める機会は失われてしまう。「虚白庵」に閉じこもり、自らの自我をみつめる方へ向かった白井晟一自身の問題であったが、白井晟一を「異端の建築家」としてしまった、日本の建築界の根底的な問題でもあった。アリバイづくり、というのはそういう意味である。
白井晟一もまた時代を呼吸しながら揺れてきたのである。一貫した「観念の建築家」でもなければ、「純粋の芸術家」でもない。それは、以上のように歴史をざっと振り返るだけで確認できる。それ故、日本の近代建築の展開は、静止した白井晟一という点の回りを螺旋状の軌跡を描いて一周したというような単純なものではあり得ない。歴史を単純化し、繰り返しの図式にしてはならないと思う。
「ジェネレーションとしたら、包括する思想がつかめない時代に育ったものより何分かの徳はあったかもしれない」、また「僕と同じことはやらん方が無難だと思う」[xli]と白井はいう。同じことはできないかもしれない。「包括する思想がつかめない」ものに、それは無理からぬことである。しかし、否、それ故に、僕らは白井晟一に眼を向けるのである。
ひとことで言えば、日本の建築家で、白井晟一ほど日本の近代建築を相対化する視点を示し続けた建築家はいない。相対化する視点とは、批判的視点と言ってもいい。それ故、近代建築批判の過程で「公認」されるのである。致命的なのは、白井晟一を徒らに神格化し、神秘化することによって、自らの問題として問わない態度である。白井神話が近代建築批判を宙吊りにし、無化してしまうことである。
木と石
「西洋の思想や文化に直面せざるをえなかったわれわれが、そのぶ厚い石の壁に体でぶつかり、これを抜きたいという、私には荒唐無稽な考えとは思わなかったのです」[xlii]と白井晟一はいう。本気でこんな課題設定をした建築家は近代日本にはいない。日本に、「パルテノンでなくてもロマネスクやルネサンス、せめてバロックのような遺産があったら、こんな不逞な希いはもたなかった」「西洋近世建築の程度のよくないものの模倣しかつくれなかった日本に生まれたおかげだ」、などという。本人はハムレット劇というが、もちろん、日本で石造建築の生まれる環境が絶望的にないことを意識した上での発言である。
鉄筋コンクリートが一般的になり、その表層が薄っぺらな材料で飾り立てられるなかで、白井晟一の石や煉瓦への拘りは際立っている。「松井田町役場」では、上州で敷石に使われていた多胡石を使っている。「親和銀行東京支店」では四国高松郊外庵治村の花崗岩を使った。流正之の紹介だという。「大波止支店」では、九州産の粘板岩、懐霄館では諫早石が用いられた。地域産材に限らない、韓国や北欧の石も求める。直接仕事のない時には、各地の石材倉庫や石工作業を見て回る。
一般的に言えば、素材への拘り、ということである。あるいは、現場作業、職人技への敬愛である。「石山の持ち主であり、また一家をあげて伐石作業に従事しているみなさんの協力にくらべれば、こちらの建築思想とか自然観などは、まことに机上の何かでしかない」のである。現場の諸職には、常に「きみたちがやっている仕事、つまり建築そのものが施主なんだ。・・いつでも建築はきみたちをまん前からみている。石が、硝子が、壁が・・・みられていない瞬時もないんだよ」(「聴書 歴史へのオマージュ」)といい、竣工式の祝宴などには出なかった、という。
この現場主義は、木造建築についても同じである。そもそも、戦時中の直営の仕事にそれは遡り、原木の物色から製材まで関わる中で身につけられたものである。「嶋中山荘(夕顔の家)」の時には吉野や山陰まで用材を探しに行った。「呉羽の舎」では、雪中、飛騨・越前の山中に栗を求め、外部造作から障子の桟まで、また、机や盆まで、指物師や刳物屋まで運んでつくった。
現場において、ローコストでラショナルなものを求めるのが白井晟一の建築作法である。建築生産体制の全体を主題化した日本の近代建築が、にも関わらず、当初から抹殺してきたのがこうした建築作法である。
アジア
西洋建築にぶつかり、これを抜きたいと思っていた白井晟一が、戦後はじめて洋行するのは、1960年秋である。ドイツは訪れず、イタリア、フランス、スペイン、イギリス、北欧を回った。これは、「白井晟一の精神史において、これは分岐点としての意味をもつ旅であったと見られる。長い年月かれの精神に大きな拘泥として持続していたヨーロッパ、とりわけ文化全体としてのカトリシズムから解放への契機となる。『肝の中から感動させるようなものはヨーロッパにはない。唯此の眼、此の足で、自分をたしかめただけだったかもしれない。之で目的は充分に達した。』帰国した白井は以前にも増して仏教思想、特に道元に情熱的にとりくみ、「書」を行とする生活が明確になる。」と塩谷宋六はいう[xliii]。
分岐点が1960年代初頭のヨーロッパ再訪にあったかどうかはわからない。それ以前からヨーロッパ以外に眼を向けてきたことは間違いないのである。「天壇」「中国の石仏」「仏教の建築」といったエッセイが1950年代に書かれている。すべての建築家が西欧近代VS日本の伝統建築という二項対立的思考の枠組に囚われる中で、中国あるいは東洋への関心を示した建築家は、白井晟一以外にはいない。
そもそも、明治以降、日本の建築家は、伊東忠太のような例外を除いて、アジアの建築への視座を欠いてきた。西欧の建築技術を導入するのが最優先最大の課題であった。戦前には、アジアとの直接的な関係の中で、極めて偏向した形ではあれ、アジアへの視座があった。それが戦後、切れてしまう。晩年にも「東洋のパルテノン」「白磁の壺」「土の造形」など朝鮮半島や中央アジアへの関心が表明される。白井晟一が中国や東洋への関心を持ち続けていたことは不思議と言えるほどである。
その関心は、決して西欧VSアジアという構図を基にしているわけではない。神代雄一郎に「ギリシャの柱」を問われて、「伝統の問題をせまい民族と地域におしこめては、自己の文明を誇示するにすぎず、伝統の発展的な世界的な意味をなくしてしまうものだと考えます。法隆寺や薬師寺に残っているギリシャのDetailを借り物だとしてわれわれの文化の遺産からはじき出して了う人がいるでしょうか。天平にしても平安にしても中国は勿論、ヨーロッパやオリエントがとけこんでいます。伝統の拡大などというまでもなく、もともと伝統というものはその様に世界全体がかかわっているものであり、人類の心の底になにか統一のあることを感ぜざるを得ないのです」と言っていたのである。
デンケンとエクスペリメント:建てることと考えること
おそらくは、記録された最後の白井晟一の発言である「虚白庵随聞」において、インタビュアー(平井俊治、岩根疆、塩屋宋六)が、執拗に密教、曼荼羅、宋廟、白磁など、アジア、ユーラシアについての関心を問うた上で、「都市とか地方独特な風土とかではなく、もっとコスミックな広がりをバックにして建築造型をされているというような感じがしているんですが」というのに対して、以下のようにいう。
「そんな高級なものじゃなくてね、少くとも現代のパターンというもので自分は縛られるものか、というところはあるね。それで僕の歴史把握なり人間的な文化感覚というものを拡大したいという気はある。拡大というのは歴史をずうっと大きく把むことだよ。そこらへんで歴史を遡ったような形の気配が出てくることにしまってるんじゃないかな。それだけのことで、決してコスミックなものを思考しているとかって大げさな問題ではないんだよ。」
すなわち、上記の伝統をめぐる発言も、コスモポリタン的な理念において考えられているわけではない。言うならば、伝統は、歴史把握の問題であり、文化感覚の問題ということである。「逆説的になるかもしれないが、人間社会的にプリミティブに通ずることがコスミックに通ずることだと思うんだ」ともいう。
結局、僕が白井晟一に学んだ最大のことは、経験すること、考えること、そうした上で建てることではないか、と思い至る。白井晟一の自己凝視の世界、例えば「書」の世界を共有することは無理であるとしても、その歴史をとらえる眼、世界をとらえる眼のあり方自体、すなわち、「現代のパターンというもので自分は縛られるものか」という精神に魅かれてきたのではないか。
「思索と経験なんていうけれど、それは別々のものではないと思うんだ。・・・デンケンとエクスペリメントを分けて考えるっていうのは西洋思想から来ているわけだけれど、二元的な建前があるわけだね。しかしそれを煎じつめて生きていることの中で把もうとしていくと、それは別のものでないことがはっきりわかるんだよね」と白井晟一はいう。
「僕の考え方というのは誰かの考え方ではないわけだよ。決してカントなんかの思想でもないし、あるいは道元の思想でもなんでもないと思うんだよ。彼らですらある意味ではずいぶん小世界的なところがある。やっぱり稽古だろうね。ふっとものがクリアーになるようなインスピレーションが湧いてわかるというものじゃないと思うね。不断のエキスペリメントの中で自分をたたいていく以外ないよ。手っ取り早くはいかない。」
エピローグ
白井晟一が亡くなったのは、1983年11月21日である。前川國男は、「日本の闇を見据える同行者はもういない」という弔辞を読んだという。その前川國男が逝ったのは1986年6月26日である。同じ年に「新東京都庁舎」の設計者に丹下健三が決まった。その時のコンペの結果をめぐって僕は「記念碑かそれとも墓碑かあるいは転換の予兆」(『建築文化』1986年5月)という文章を書いた。
確実にひとつの時代が終わり、ポストモダン建築の徒花が咲いて、そして弾けた。日本の建築界は、磯崎新、原広司の時代から、安藤忠雄、伊東豊雄・・・らの時代に確実に移っていった。
丹下健三が亡くなったのは2005年3月22日である。同じ年の暮れに、生誕百年ということで前川國男展が開催され、翌年一杯各地を巡回して、それが終わった頃だったと思う。白井昱麿さんから突然連絡を頂いて会った。30年ぶりである。昔話に花が咲いた、ばかりではない。現時点から見たら白井晟一はどう評価されるのか、白井晟一が生きていたとすれば現代日本の建築をどう評価するのか、話の種はつきなかった。
前川國男展のことは当然話題になった。『建築の前夜 前川國男文集』(而立書房、1996年)の編集に協力したこともあり、前川國男展の実行委員に名前を連ねさせて頂いていた。何も手伝わなかったけれど、「前川國男のモダニズム」と題したパネル・ディスカッションの司会を務めた[xliv]。前川國男展は、建築展としては多くの関心を集めた。大成功であったとされる。しかし、前川國男展があるのであれば白井晟一展もあってしかるべきではないかと密かに思った。思ったところでどうこうなるものでもなく、しばらく時は流れた。昱麿さんに会ってまもなく、研究室の学生に、白井晟一を知っているか、と聞いてみた。前川國男ですら知らない学生が少なくないのだから大いに意外であったのであるが、「知ってます! ファンです!」というひとりの学生がいて少しばかりうれしくなった。聞けば両親が建築家で、子供のころから白井晟一の作品集を見て育ったのだという。両親は若き日に「聖地巡礼」をしたに違いない。その息子である学生も建築を志して、現存する白井作品を全部見て回ったという。
さらにしばらくして、昱麿さんから再び連絡があり、「虚白庵」に来ませんか、という。枝垂桜も最後になりますから、という。 松山巌さんを誘って、虚白庵を訪れ、暗闇の中で楽しい時間を過ごした。建築を志した頃のことを震えるように思い起こした。
[i] 「日本相互銀行本社」(1952年)「神奈川県立図書館並びに音楽堂」(1954年)「国際文化会館」(坂倉準三,前川国男,吉村順三連盟、1955年)「京都会館」(1960年)「東京文化会館」(1961年)「蛇の目ビル」(1965年)。
[ii] 今年(2010年)4月17日、東京に雪が舞ったが、41年前の全く同じ日にも、東京に雪が積もったことを思い出す。「東大闘争」は、1969年1月19日の「安田講堂」陥落の後、急速に収縮し始め、4月には授業が再開されていて、大講義室の外に季節外れの雪が積もっていくのを呆然と眺めた記憶が鮮やかである。
[iii] 「メタボリズムとの関係を聞かれるので、その頃を想い出してみた」『反回想Ⅰ』(GA,2001)p.20
[iv] 拙稿「磯崎新1968 ラディカリズムの原点」『建築ジャーナル』2010年6月号、pp.48-51
[v] 『新建築』1968年2月
[vi] 「人間・物質・建築」『デザイン批評』67年6月
[vii] 「近代の告発」『建築文化』1969年7月号
[viii] 「呼び立てる<父>の城砦」『近代建築』1972年1月号。
[ix] 「虚白庵の暗闇-白井晟一と戦後建築」『白井晟一研究Ⅱ』1978年
[x] 水原徳言「」
[xi] 「白井晟一論ノート」1,2『近代建築』2007年3月号、4月号
[xii] 1928年には、日本共産党、労働農民党などの関係者約1600人が治安維持法違反容疑で検挙された「三・一五事件」が発生している。戸坂潤自身、1930年には共産党員を自宅に泊めた廉で検挙されている。ただ、戸坂がマルクス主義研究を始めるのは29年頃からであり、白井と同い年の佐野碩(1905-1966)が「共産党シンパ事件」に巻き込まれて擬装転向、ドイツに逃れたというような、日本で何らかの活動を開始しており、その延長として渡欧したということはないであろう。
[xiii] 京大哲学科の深田康算(1878-1928)から紹介状得ていたリッケルトは、老齢で講義もままならない状況であり、カール・ヤスパース(1883-1969)の講義を聞いたとされる。
[xiv] 本人によれば以下である。「私たちの若い頃はいろいろな意味で外からの圧制のない時代だったといえます。ニイチェでもヘーゲルでも自由に勉強できた。唯物論もさかんだったけれど、・・・具体的な歴史感情は身についていなかった。そのかわり、人間・自己の内部には貪欲だったと思います。僕などあけてもくれてもカントとベートーヴェンでした。今考えてみると随分我儘勝手な勉強のしかたをやったものです。おとなになって人並みとはいえないけれどとにかく処世していくようになってからも、考え方はいろいろ変わったけれど、我儘勝手さは、若い頃とちょっともかわらない。戦争中もまあ同じでしたね。」(「作家・白井晟一の建築創造をめぐって」白井晟一・神代雄一郎対談『建築文化』1957年7月号)
[xv] 川添登、前掲論文「白井晟一論ノート」2『近代建築』2007年4月号
[xvi] 「もし自分がソ連共産党に入党したら、その類が家族におよぶだろう。それを避けるためには、国籍を抜く以外にないが、それには一度、日本に帰り、これまで親代わりになって、なにからなにまで面倒をみてくれた姉のきよに挨拶して、感謝の気持ちを伝えなければならない」(川添登、前掲論文「白井晟一論ノート」2『近代建築』2007年4月号)と考えたのだという。1932年、コミンテルンとの討議によっていわゆる「32テーゼ」(「日本の情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」)が採択され、日本共産党の活動指針となっている。
[xvii] 拙稿「Mr.建築家―前川國男というラディカリズム」『建築の前夜 前川國男文集』而立書房1996年(布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジーー建築の昭和ー』彰国社1998年所収)。
[xviii] 宮内嘉久、『前川國男作品集ーーー建築の方法 Ⅱ』、美術出版社、一九九〇年
[xix] 前川國男「1937年巴里萬國博日本館計画所感」『国際建築』1936年9月。
[xx] 「わが国における建築技術は、いまだ近代的技術の域に達しておらぬ・・・建築構造学、さらに建築構造学を基礎づける建築本質認識の学としての本来的な建築学の未完成が横たわる」『新建築』1942年4月号
[xxi] この段階で「近代建築」という言葉はない。ヨーロッパにおいて新たに現れてきた建築の動向をひっくるめて「新興建築」と呼んだ。建築に限らない。「新興芸術」「新興文学」「新興演劇」「新興美術」・・・全て、目指すべきものは「新興」であった。
[xxii] 1929年の第六回展覧会以降、「無料図書館」「無料診療所」「労働者クラブ」といった設計案が出品されるようになる。「階級意識に目覚めた」「創宇社」の「左旋回」と言われる。
[xxiii] 「創宇社建築会」に続いて、ラトー(1923年)、メテオール(1923年)、日本インターナショナル建築会(1927年)といった小会派が陸続と結成されるのであるが、1930年に至ってそうした諸集団が大同団結する形で結成される。
[xxiv] 日本を逃れた藤森定吉、勝本清一郎、佐野碩や渡欧中の三枝博音、山田智三郎、矢代幸雄、千田是也等と交流、一方で「社会主義建設同盟Bund für Sozialistisches Bauen」に加盟、「日本プロレタリア芸術連盟」のYozin Satobeの名前で各地でアジ演説を行っている。また、同盟主催の「プロレタリア建築展Proletarisches Bauaussteellung」(1931年5月頃)に「紡績工場の女工寄宿舎提案」を出品している。グロピウスのアトリエには1931年7月下旬以降、1年ほど働いたとされる。ソビエト・パレスのコンペ案、ブレスラウ・ジードルングなどの仕事を手伝っている。
ベルリン工科大学で建築を学んだとも言うが日記にその記録はない。黒部川第2発電所関係のダムに関する水理技術調査のためにカールスルーエの工科大学には何度か足を運んでいる。1932年に入ってコルビュジェのアトリエにいた坂倉準三にベルリンで会っている。また、ウィーンからイタリアへ旅行している。6月下旬マルセイユから帰国の途につくが、帰国前にコルビュジェのアトリエを訪れている。「山口文象年表」『建築家・山口文象』相模書房1982年
[xxv] 佐々木宏「建築家としての山口文象」『建築家・山口文象』相模書房1982年
[xxvi] 平井俊治作成・白井彪介・昱麿監修の「白井晟一年譜」(『建築文化』1985年2月号)
[xxvii] 「年表」『白井晟一研究Ⅴ』
[xxviii] 前掲白井・神代対談
[xxix] 白井晟一が帰国した1933年、共産党委員長であった佐野学、幹部の鍋山貞親が獄中から転向声明を出す(「共同被告同志に告ぐる書」、6月12日)。そして、獄中の党員に動揺が走り大量転向が起きた。1935年3月には、唯一獄外で活動していた中央委員袴田里見の検挙によって共産党中央部は壊滅してしまう。モスクワでの共産主義運動へのコミットがいかに深いものであったとしても、日本の状況において政治的活動を続けることは不可能であったであろう。
[xxx] 敗戦後まもなく、建築界の民主化、新たな建築の実現を目指す様々なグループが呱々の声を上げた。そして、その諸集団が大同団結するかたちで「新建築家集団(NAU)」が結成される(1947年6月28日)。建築界の有力メンバーのほとんどすべてが参加する800名規模の一大団体である。主導したのは、「創宇社建築会」の流れを引く「日本民主建築会」であった。山口文象も顧問格で参加している。そして、その「新建築家集団」もまた、1951年に崩壊、活動停止してしまう。「新興建築家連盟」の結成・崩壊と全く同じような過程を辿ったと揶揄される。
[xxxi] 「秋の宮村役場」について「秋田の文化団体に招かれたのが機縁となり、若し自分の仕事を通じてこの地方の人々に明るい冬を過させ最少の熱燃料であたたかに仕事をしてもらへることが出来るとすれば都会のおおきな規模の建物をつくるために働くよりはるかにたのしいことに違ひないと思ふようになった」と白井はいう。また「雪深い秋田にもやがてはその風土自然に導かれるように民衆のためにほのぼのとした多くの建物があらはれねばならぬ。渺たる一寒村の役場にすぎないこの小作品が、この地方の人々にとってささやかな道標ともなり得るならば望外のよろこびである」といっていた(『新建築』1952年12月)。
[xxxii] 「建築家は施主の夢を占う。施主には個人から共同体まである。大王もあれば明日の幽明すら不調の病人もないとはいえない。『くらしの工夫』信徒も袖には出来ない。桂離宮やパルテノンの建築家はたしかにうまい裁断師、すぐれた医師である前に占眼を具えていたと思う。同じ造型家でも美術家と異なるような負担をのがれられないのが建築家の宿命であろう。………正しく占われざるかぎり、夢は蹉跌が常習であり、術作も創造の媒体となったためしはない。……」と「煥平堂」に即して言っている(『新建築』1954年10月号)。「イデオロギーでは自分の仕事が育たなかったことに気がつきかけたのが、おそかった」とも言う。「かくしもったる啓蒙の旗などは辛棒強くひっこめ」ながら、「啓蒙の赤旗どころか観念の白旗を揚げなければならない」中での悪戦苦闘であった。
[xxxiii] 国立劇場のコンペに関する「伝統の新しい危険」(『朝日新聞』1958年11月22日)および「建築家は二の足踏む」(『朝日新聞』1962年9月15日)である。「建築は誰のものか」われわれは「日記から」(『朝日新聞』1977年1月)において、久々に、その思索の世界の一端に触れ得たといえるのである。
[xxxiv] 「もうでる幕がないと思っているわけじゃないが、生まれて大きくなった時代の人間以外にはなれないんだから時代に対応ということも、そういう『分』のなかで努力してゆくよりほかないね。……ぼくにはそんなことよりどっちかというと淘汰の自然のなかへ還元してゆく自我をみつめるといった方に日常の重点がかかっていく。建築のこともね。」といい、さらに、時代に無関心ではいられないのでは、と畳み掛ける原広司に次のように答えるのである。
「戦後地方の公共建築を造らせてもらった。建築家としての精一杯のソーシャリズムだった。粗末な建物だったが一生懸命にやった。それから、何十何百、そういう建物がつくられる一里塚にはなったらしいが、表面の大義は同じでもすっかり意味が変わってしまった」。
[xxxv] 「原爆堂について」(『新建築』1955年4月号)、「平和を祈る原爆堂」(『朝日新聞』1956年)。
[xxxvi] 戦後まもなく白井晟一は設計活動を開始する。住宅設計の仕事ともに、実現することはなかったが「三里塚農場計画」「光音劇場計画」(1946年)という2つのプロジェクトがあることが知られる。振り返って、前者には「<新しき村>を想起させる」白井の社会的理想が示されているとされる。また、後者の形態には、晩年の美術館建築などの原型をみることができるとされる。
[xxxvii] 「虚白庵随文」『白井晟一研究Ⅰ』南洋堂出版1978年
[xxxviii] 川添登のペンネーム。「伝統と民衆の発見をめざして」『新建築』1956年7月号
[xxxix] 「白井晟一の空間」『建築』1961年12月号
[xl] 「異端の作家・白井晟一」『室内』1961年12月号
[xli] 「人間・物質・建築」『デザイン批評』67年6月
[xlii] 「石と日本建築」『INA REPORT No.3』1976年3月
[xliv] パネリスト:鬼頭梓,林昌二,松山巌:,東京海上火災ビル,2006年01月19日(松隈洋編『前川國男 現代との対話』六曜社2006年10月)
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