『建築討論』009号 ◎書評 布野修司
── By 布野修司 |
2016/08/20 | 書評, 009号:2016年秋号(7月-9月)
白井晟一研究所『白井晟一の建築Ⅴ 和風の創造』めるくまーる、2016年7月15日
2013年5月に第1巻が発刊された『白井晟一の建築』全5巻シリーズが完結した。白井晟一自らが選んで編んできた作品集『白井晟一の建築』(中央公論社、1974年)、『懐霄館』(中央公論社、1980年)などを白井晟一研究所(白井昱磨)が新たに編み直した写真集である。いかにも白井晟一らしい上品な装丁で、白井晟一ファンには堪えられないシリーズである。各巻1500円と手ごろでもある。
シリーズを終えての白井昱磨の所感は以下のようである。
「シリーズ「白井晟一の建築」は今回の「和風の創造」で予定した5巻を終えました。「聖なる空間」「公共の追求」「幻の建築と失われた空間」「住宅建築集」など収容できなかった企画をのこしたままではありますが、もともと総括的なカタログを意図したものではありませんので、それはまた別の機会に譲りたいと思います。一人の国内建築家の建築作品を、テーマによって構成したシリ-ズというものはこれまでにはなかったものであると思います。
白井晟一の建築作品も多く失われ、訪れてその空間を経験する機会はますます少なくなりました。写真は書籍や雑誌に発表されて情報として新しいものではなくても、今では手に入りにくくなったものを含めてあらためて対面し、新たなテーマにそって再構成することを試みました。
かれの生時きわめて多くの評説が発表され、白井晟一論は尽くされているようにみえましたが、今回そのほとんどを見直してみて、「塔」や「水」についてさえ言及したものがなかったのは驚きでした。
歴史は主体の歴史的経験を経た自覚的な思考と意識の変革をとおして再生され続けなければ健全さを失ってしまいます。しかし不正確な伝聞、風説や個人的な印象の繰り返しからでは時代にコミットする力と意味を開くこともありません。このシリーズは不十分ではありますが、そのために参考となる資料といくつかの新たな視点を開くことを目指して編まれました。」
ラインナップを列挙すれば、Ⅰ 懐霄館(二つの塔)、Ⅱ 水の美術館(水の美術館)、Ⅲ 虚白庵と雲伴居(KOHAKUAN)、Ⅳ 初期の建築(白井晟一と原爆道の背景 上)、Ⅴ 和風の創造(白井晟一と原爆堂の背景 下)である。括弧内は解説タイトルで、いずれも白井昱磨執筆である。
「Ⅴ 和風の創造」でとり上げられているのは、「呉羽の舎(柿腸舎)」(1975)、「影熙亭」(親和銀行本店)(1967)、「昨雪軒」(横手S邸)(1969)、「雲伴居」(1983)である。「呉羽の舎」については詳細な図面に多くの頁が割かれている。建築を学び始めたころ、彰国社から出版された「呉羽の舎」の図面に圧倒されたことを想い起す。一軒の住居を建てるためにこれほど精緻な図面が必要とされる、実に感動的であった。CAD図面の現代には、図面それ自体が作品である。
「和風の創造」というテーマについては、戦後まもなくの伝統論争が想起される。「縄文的なるものvs弥生的なるもの」「民家vs伊勢神宮」「白井vs丹下」というのが論争のひとつの構図であった。編者である白井昱磨の前言は以下である。
「白井晟一は「創造」の問題として日本の「伝統」を積極的に論じている。その伝統論は「伝統」を典型や様式でとらえるのではなく、日本文化の独特な原思想ともいえる潜在的な能力に目を向けるものだった。伊豆の江川邸に縄文的なポテンシャルを見、「豆腐」に「渾然とした調和」の完全な単純を、「めし」には共同体を支える犠牲の「愛」を見る。閑隠席のような「簡素」の創造に日本建築の真髄をとらえるが、その一方で利休の数寄に「私的価値に釘付けした錯覚や虚栄の原型」を見、「私」に収斂する「好み」の美学を退けた。
日本の近代建築はヨーロッパとアメリカからの輸入である。太平洋戦争の敗戦を経て戦後の日本ではそのような欧米の近代建築がめざましく発展した。かれの伝統論にはしばしば欧米の近代文化への追従と模倣に対する厳しい批判がともなっている。白井にとってヨーロッパはギリシャ・ローマ以来の全体としての空間であり、同時代としての近代はその中で対照化される。それは学ぶべき世界であると同時に、たたかい突き抜けなければならない壁として意識化された。
日本の伝統文化に内在する独自性と卓越性にたいする理解は揺るぎがなかった。幼年時代の禅宗と書の経験が壮年期に入ってからの仏教の学習や書の鍛錬にあらためて向かわせたのであろうが、そこから日本文化の伝統の底にあるものへの関心や理解もさらに開かれたのではなかったか。かれの「和風」の特徴は伝統の近代化や伝統の継承ではなかったところにある。目指されたのは「日本的創造」としての「和風」であり、「豆腐」に見たような、あらゆる部分が緊密に結合して「渾然とした調和」に全体が統一される空間だった。
本シリーズの「塔」「水」「自邸」「初期」とならんで白井の建築を解析するキーワードとして「和風の創造」をとりあげた。」
白井晟一についてはこれまで何度か書いてきた(「盗み得ぬ敬虔な祈りに捧げられた量塊」(悠木一也、『建築文化』1975年1月)、「白井晟一研究のためのノート」(悠木一也、『建築文化』「螺旋工房クロニクル005」、1978年5月)、「虚白庵の暗闇―白井晟一と戦後建築―」(『白井晟一研究Ⅱ』、南洋堂、1979年(布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジー-建築の昭和-』、彰国社、1998年所収)、)。また、その縁で2010年から2011年にかけて開催された白井晟一展の実行委員会にも参加する機会があった(『白井晟一 精神と空間』青幻舎、2010年)。そこで、再び白井晟一について考えた(「虚白庵の暗闇―白井晟一と日本の近代建築―」)。白井晟一をめぐって、繰り返し考えさせられるのは、日本の戦後建築の目指したものであり、その帰趨である。展覧会を通じて、大きな関心を集めたのは「原爆堂」である。白井昱磨はⅣ、Ⅴの解説(「白井晟一と原爆堂の背景」上下)で、その現代的意味を問うている。安保法制が国会で強行成立される過程と白井晟一の戦前戦後が重ね合わせられるのである。そして、東日本大震災による「フクシマ原発問題」が、白井晟一の「原爆堂」計画に眼を向けさせ、その意義を再考させるのは必然である。すなわち、「白井晟一の建築」シリーズは単なる白井晟一回顧ではなく、極めてアクチュアルな提起を含んでいるのである。
並行して、「原爆堂」を実際に建設しようという訴えもなされる。アクティブな提起である。
そして、それに呼応する動きもある。
原爆堂計画実現基金
設立主旨
私たち広島で建築設計活動をする建築家にとっては広島で建築活動を行うことそのものが平和な世界の表現としての建築のありようを探求することです。被曝70周年の本年、核兵器の脅威が風化する中であらためて、未来の世界の永遠の平和への宿願である核兵器廃絶という人類の安全保障のために、私たち広島の建築家が未来にむけて何をするべきかという答えとして建築家・白井晟一の残した原爆堂計画の実現にむけて基金を設立し募金活動をすることにいたしました。
原爆堂計画は1954年南太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁において実施された水爆実験に衝撃を受けた建築家白井晟一が1955年に核兵器の存在を人類に建築造形を通して問いかけることで、人類の共存の希望を願うメッセージとして発表されたものです。白井晟一はこの計画の実現を夢見ていたのですが未だにこの計画は実現されていません。私たちJIA日本建築家協会広島地域会は建築家白井晟一の夢を引き継ぐことで、いつの日か原爆堂計画が実現され、人類が核兵器の廃絶された世界で共存することを希望して、原爆堂計画の実現にむけた努力を被曝70周年記念に被爆地である広島で開始いたします。
2015年11月20日 JIA日本建築家協会中国支部広島地域会
白井昱磨: 1944年生。国際キリスト教大学人文科学科卒業後渡独。ベルリン自由大学及びベルリン造形大学建築科で学ぶ。1974年より白井晟一研究所。1983年より同研究所代表 虚白庵を場として建築設計に従事。主要作品:雪花山房、ユピテルビル、等々力の家。「白井晟一全集」等を編纂。白井晟一研究会:http://www015.upp.so-net.ne.jp/ikuma666/
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