進撃の建築家 開拓者たち 第11回 開拓者13 藤村龍至 建築まちづくりの最前線ー運動としての建築 「OM TERRACE」『建築ジャーナル』 2017年7月(『進撃の建築家たち』所収)
開拓者たち第12回 開拓者14 藤村龍至 建J 201708
建築まちづくりの最前線―運動としての建築
「OM TERRACE」
布野修司
藤村龍至(図⓪)に初めて会ったのは、滋賀県立大学の学生組織「談話室」の講演会(2010年5月26日)においてである。その「グーグル的建築家像を目指して 批判的工学主義の可能性」は、実に筋立てのしっかりした講演であった。振り返って検めて知ったのであるが、前年4つの展覧会[1]を主催、驚異的な来場者を動員、風雲児として日の出の勢いの最中であった。
東京工業大学社会工学科を卒業、大学院では建築学専攻(塚本由晴研究室)に進学、博士課程在籍中に事務所を設立して、設計活動を開始している。僕らの時代には、ごく一般的なパターンである。大手組織への就職は建築家への道とは考えられてはいなかった。著名建築家のアトリエに就職するか、博士課程に籍を置きながら実務経験なしに設計を始めるか、どちらかであった[2]。
藤村龍至は2010年に東洋大学の専任講師となる。34歳。僕は1978年、28歳で講師になった。川越キャンパス開設50周年(2011年)に、東洋大OBということで、原(広司)さんとともにシンポジウム[3]に招かれた。東洋大の後輩ということで何となくシンパシーがある。2016年4月、招かれて東京芸術大学の准教授となる。40歳。審査論文を1本も書かずに42歳で京都大学の助教授になったわが身を振り返って思うに、前途遼遠かつロング・ロング・ウェイ・トゥー・ゴーである。
「社会建築」をめざして
理論家である。「批判的工学主義」あるいは「ソーシャル・アーキテクチャ」をうたう。それを支える設計方法論「超線形プロセス論」の展開がある。また、それを担う新たな職能への展望がある。さらに時代の流れを読み、世界の建築戦線をわかりやすく整理する批評家としてのセンスがある。そして、フリーペーパー『ROUNDABOUT JOURNAL』、ウエブマガジン『ART and ARCHITECTUREREVIW』を企画発行するエディターでもある。キュレーターでもあり、オルガナイザーであり、アジテーターでもある。 東浩紀(『思想地図』、ゲンロンカフェ)に鍛えられたというが、この社会、政治、国家へのアクティブな姿勢は、それこそ藤村のいう「1995年以後」の世代には珍しいのではないか。「建築と社会」でも「社会の中の建築」でもない。「社会」を「建築」する構えである[4]。
「表層派」vs「深層派」
「批判的工学主義」とは、「工学主義」[5]を否定する「反工学主義」ではなく、「工学主義」を新しい社会の原理として受け入れ、分析的、戦略的に再構成する新しい「(建築)運動」である。藤村のいう「工学主義」とは、誰が設計しても同じような、画一的、標準的な建築になる、という意味である[6]。見えない権力(制度)が、建築のありかたやそれと関わるわれわれのふるまいを膨大なデータをもとに工学的な手法やトゥールによってコントロールしつつあるという新たな状況認識がある。
アジアのイスラーム都市の迷路を歩き回りながら、相隣関係のルールやワクフ(寄進)制度がモハッラ(近隣コミュニティ)の空間構成を規定していることを発見(理解)したのであるが、こういう条件でシミュレーションしたらイスラーム街区のかたちそっくりですよと卒論生に指摘されて愕然としたことがある。無数の居住者の居住の歴史が500年もの間重ね合わせられて出来上がった都市組織のかたちが一瞬のうちにそれなりに再現できてしまう。「批判的工学主義」とは、使えるデータはしかるべき「工学的」メディア、トゥールを駆使して利用しろということであろう。
面白いのは、「工学主義」vs「反工学主義」を「深層派」「組織設計事務所」「ゼネコン設計部」vs「表層派」「アトリエ事務所」のディコトミーとしていることである[7]。「反工学主義」とレッテルを張られた「アトリエ事務所」は怒りそうであるが、巨大プロジェクトにおいて、アトリエ派のスターアーキテクトたちが単なる「意匠デザイナー」として位置づけられる事態がこの間進行してきたことは否定しようがない。設計施工の分離を前提としてきた建築家の存在基盤は大きく揺らぎ、「デザインビルド」がむしろ一般化する状況にもある。注目すべきは、「批判的工学主義」という主張が全く新たな「第三」の建築組織のあり方の主張と結びついていることである。先の講演会で1,000人の組織を目指す!と宣言、学生たちの眼を丸くさせた。石山修武がかつて「ゼネコンを一つぐらいぶっ潰す」と言っていたことを想い出すが、その意気やよしと思った。
超線形設計プロセス論
そして関心の的となるのが、「批判的工学主義」の設計方法「超線形設計プロセス論」である。模型をつくりまくる、そして、ジャンプしない、枝分かれしない、後戻りしない。材料がもったいないのではないかと思えるほど膨大な数の模型がつくられているのに圧倒される。CADやBIMなどを駆使するというのでは必ずしもない。いささかプリミティブに思えるけれどわかりやすい。作品の設計プロセスが模型で立体的に示されるのであるから一般のクライアントにも理解しやすい。「SHOP(UTSUWA)」(2005年)「BUILDING K」(2008年)「東京郊外の家」(2009年)といったこれまでの作品についても徹底して模型がつくられている(『プロトタイピング-模型とつぶやき』(LIXIL出版、2014))。
「談話室」の講演でも、わかりやすいからであろう、この「超線形設計プロセス」なる方法についての質問が集中した。その時のやりとりは記録[8]されているから繰り返さないけれど、方法論に潜むクリティカルな問題は、1.与条件はどのように決定されるのか、誰が決定するのか、2.設計案(解答)は如何に一元化されるのか、全てのヴァリエーションをつくすことは可能か、3.決定プロセスをリニアに進めるのためのクライテリアの優先順位はどのように決定されるのか、プロセスは如何に収束するのか、4.フィードバックを認めず、ジャンプを認めないとすれば、フールプルーフ(チェックリスト)をクリアするだけの凡庸な建築にしかならないのではないか、5.設計プロセスに直接関与しない一般の人にはどのように評価されるのか、といったところである。
藤村龍至は、磯崎新の「プロセス・プランニング論」とC.アレグザンダーの『形の合成に関するノート』を批判的に継承するのが「超線形設計プロセス論」という。実は、僕の卒業論文『構造・操作・過程―構造分析への試み―』(1972年)は、C.アレグザンダー論である。“Notes on the Synthesis of Form”を読んで、その核心であるコンピューター・プログラムHIDECS(Hierarchical Decomposition)を書いた[9]。だから、”Notes”の問題(使えない!)はプログラム・レヴェルでわかっている。しかし、設計プロセスを可能な限り論理化して、一般に開くという問題設定には大いに共感し、評価してきた。C.アレグザンダーをシンポジウムに招いて直接話したこともある[10]。むしろ興味を持ったのは“Notes”以後の展開である。 C.アレグザンダーは、“Notes”の決定論の致命的欠陥を知るが故にパターン・ランゲージ論(『パターン・ランゲージ』)に移行していったのであり、建築生産施工の問題を組み込むことが不可避であるが故に生産システム(『住宅の生産』)へ向かったのである[11]。設計プロセスを可能な限り論理化し、公に開いていく方法として僕が使えると思ったのは、「パターン」を「カスケード(滝)」表現したもの(計画決定の優先順位、パターンのウエイト、諸関係を提示、プロセスはオールタナティブ(枝分れ)を含む、ショートカットもありうる。)を開かれた場で作成し、それを用いた設計案を競う方法である。
設計教育・まちづくり・合意形成
いつか作品をみたいと思っていたのであるが、本誌西川直子編集長のアレンジで近作2つを一緒に見る機会を得た。「鶴ヶ島太陽光発電所環境教育施設」(2014年)(図①abc)と竣工間近の「OM TERRACE(大宮駅東口駅前おもてなし公共施設)」(2017年)(図②abcd)である。このふたつについては予めその背景を知る機会があった。東京新国立競技場のデザインビルドをテーマにしたフォーラムで、日本型建築ものづくりをめぐるインテグラル(擦り合わせ)型アーキテクチャvsモジュラー(組み合わせ)型アーキテクチャ)の対比(野城智也・安藤正雄他『建築ものづくり論』有斐閣、2015年)に絡めて、2つのプロジェクトの背景と方法を紹介してくれたのである(http://touron.aij.or.jp/2016/04/1827)[13]。先に触れた「カスケード」というのは、モジュラー型に分類されると思う。藤村は、プログラミングの世界では「ウォーターフォール型」[14]から「アジャイル型」[15]へが流れとなっていて、「アジャイル・プログラミング」の考え方を建築設計に応用するという。「カスケード(滝)」は明らかに「ウォーターフォール(滝)」である。「超線形設計プロセス」に短期の反復フィードバックを組み込もうということであろうか。さらに議論する機会があればと思う。
「鶴ヶ島太陽光発電所環境教育施設」(2014年)と「OM TERRACE(大宮駅東口駅前おもてなし公共施設)」(2017年)は、いずれも、大学(東洋大学、東京芸術大学)の設計教育プログラムを背景として実現した作品である。「設計のプロセスで段階ごとに模型をずっと保存していく」、「プロセスを並べて最終形とプロセスを等価に評価する」、「評価には全員が参加する」といった設計教育の基本方針には異議はない。CADソフトが設計教育を全面支配する中で、模型で徹底して考えること、そしてその評価を公開の場で行う意義は極めて大きい。設計教育に携わる教員たちにも共有され、実践されていると思う。ただ、藤村龍至のこの2つのプロジェクトのように課題を公共の場に開いて、実践的課題とする例は少ないのではないか。多くの大学で地域貢献が求められ(文部科学省のCOC(Center Of Community)施策)、多様な試みがなされつつあるが、大変な労力とネットワーク力が必要だからである。
そして、藤村流ワークショップの手法は、公共のまちづくりの手法として、すなわち、合意形成の手法としてなじみがいい。国、都道府県、市町村が設ける委員会において多用されるようになったワークショップを開いて多様な意見を集約する、ポスト・イットに書いて貼り、それを公開の場でまとめてみせるといった型にはまったやり方には限界がある[16]。形式的な合意形成として機能する場合がほとんどである(拙著『景観の作法 殺風景の日本』京都大学学術出版会、2015年)。藤村のアプローチにはそれを突破する可能性がある。大宮については、UDCO(アーバン・デザイン・センター・大宮)の設立にこぎつけた(図③abcd)[17]。
プロトタイプと作品―架構とディテール
2つの作品は小規模の作品であるが、いずれも、大きなまちづくりプログラム(「鶴ヶ島プロジェクト(2011-2015)」「大宮東口プロジェクト(2013-2016)」)の小さな第一歩である。「鶴ヶ島太陽光発電所環境教育施設」は、鶴ヶ島市内に工場をもっていた企業が太陽光発電所を建設するに際して、小さな小屋(展示室・教室)を環境教育用に設けたものである。「グッドデザイン賞」を受けたというが、卒のないー剝き出しのビニールコードとか、ファサードに邪魔なガードレールとか、停留所ともう少し一体的にデザインできなかったかとか、通りに剥き出しに置いたクーラーの室外機は一箇所にまとめたというけれど敷地の内部に向けて収めた方がよかったのではないかとか、気がつくところはあったがーインティメートな佳品である。庭の鉄のパーゴラのディテールに一番時間をかけたという。完全にエネルギー自律型の建築イメージを強調し表現する手はなかったかとも思うけれど、こうしたディテールへの拘りは楽しい。
「OM TERRASS」は、トイレと駐輪場そして2階テラス(ポケットパーク)という小さな建築である。このプロジェクトについても、多数の模型がつくられていて、すぐ近くのアーバン・デザイン・センターでみることができる(図④ab)。ただ、そうオールタナティブがあるわけではない。大宮駅からの人の流れを2階のテラスへ導いて、溜まりをつくり、S字状に街へ降ろしていく、というのが骨格である。ここでも、鉄骨のディテールに眼が留まる。柱は、三寸五分の径の鋼管に拘ったという。建築の基本には、こうした架構のシステムとモデュラー・コーディネーション、そしてスケールとディテールの世界がある。
竣工間近の現場で、藤村龍至は「色」の決定を求められていた。公共建築と「色」については、苦い経験が何度かある。つい最近も壁の色が問題ではないかと議会でクレームがつきそうになった事件があった。「色」の選好はそれぞれであって、近代の色彩理論で説明しきれるものではない。また、投票で決定すればいいという話でもない。大抵は「色」に、あるいは(屋根の)「形」に、プロジェクトへの不満や批判が集約されて表現されるのであるが、「超線形設計プロセス」論を公共建築の設計やまちづくりの現場で展開しようとすればすぐさま問われるのは、結局、誰が、何を、どこまで決定するかということである。何がしか出来上がったものは誰の「作品」なのか。合意形成というのは、現実には容易くはない。
「色」については、基本的に設計者の判断(センス)にゆだねる、というのが僕の態度でである。『景観の作法 殺風景の日本』で詳述したが、原色を禁止するという国立公園の規定に対しては「神社の緑に朱赤の鳥居は似合うではないか」という。物議をかもした極彩色に彩られた住宅も日本の街並みのコンテクストにおいてはありうるという。一方、個の創造力や想像力に過度の期待はしない。建築の設計は、映画の製作と同様、それ以上に複雑な要素、情報を扱う。集団による作業が不可欠であり、必要なのは、集団的創造力であり、集団的想像力である。藤村龍至はそうした問題を実践的に解く最前線にいる。「地groundの建築」と「図figureの建築」を分けるというのも僕の持論であるが、『プロトタイピング』と題された「藤村龍至」「作品」?集を見ていて思ったのは、少なくとも、「型」として成立しうる「地の建築」の設計方法論として有力な一般化可能な方法である、ということである。
1,000人にするぞ!といっていた事務所はどうなの?と聞くと、40歳で丁度10人、予定通りです、という頼もしい答えであった。まちづくりで巻き込んだ参加者の人数を数え上げれば1000人は突破しているだろう。既に、ソーシャル・ムーブメントである。秋には「保育園」が竣工するという。本稿には、藤村の目指す社会、都市、地域をめぐる議論が抜けている。タイミングが会えば、次なる展開、「作品」を見て、まちづくりの方法をめぐってさらに議論ができればと思う。
[1] 「生成の時代」展(hiromiyoshii,2009年8月),「ARCHITECT2.0」展(表参道ジャイル,2009年8月),「データ/プロセス/ローカリティ」展(日本建築学会建築文化週間,2009年10月),「ARCHITECTURE AFTER
1995」展(大阪,2009年11月)。
[2] 僕が在籍した吉武研究室には5歳年上の石井和紘(1944-2015)がいて,「直島小学校」(1970)の後,池辺陽研究室に在籍した難波和彦(1947-)と組んで「直島幼稚園」(1974),「54の窓」(1975)の設計を行っていた。僕も「直島幼稚園」「54の窓」は図面を引いている。これでも,博士課程在学中には,村野森建築事務所に勤めていた同級生の千葉政継と一緒に何軒か住宅を設計している。塚本研究室の後輩であるツバメ・アーキテクトの千葉元生君は,千葉政継の次男である。世の中狭い。
[3] 2011年10月29日(土) 講演会,座談会,原 広司,武部 實,布野 修司,工藤 和美,藤村 龍至。
[4] 父は、ドイツ・ファシズム、ヒトラーの研究(『ヒトラーの青年時代』(刀水書房、2005年))で知られる津田塾大学名誉教授藤村瞬一(1928-2014)という。建築家になり損ねたヒトラーとナチズムに対する何らかの評価がその思想形成に関わるのであろうか。本連載第一回「闘う建築家」(2016年9月号)で「1968年の帰趨が明らかにしたのは、現実を支配するパワー・ポリティックスである。学んだのは現実を動かす政治力学である」と書いた。僕らが「雛芥子」名で書いた「ベルリン・広場・モンタージュ」(『TAU』04号, 1973年4月)は、ドイツ表現派の映画表現がファシズム体制にインヴォルブされていく過程に関する分析である。「カリガリ博士」S.クラカウアーの『カリガリからヒトラーまで』(みすず書房)が下敷きであった。僕らは、その後、「国家社会主義」をめぐって、戦前・戦後の連続・非連続の問題に関心を集中させていくのであるが、目指すべきは建築社会(建築計画)(学)ではなく、社会建築(社会計画)(学)ではないか、などと議論していたのである。
[5] 「工学主義」とは、藤村の定義によれば[5]、1.建築の形態はデータベース(法規、消費者の好み、コスト、技術的条件)に従って自動的に設計される、2.人々のふるまいは建築の形態によって即物的にコントロールされる、3.建築はデータベースと人々のふるまいの間に位置づけられる「主義」である(『批判的工学主義の建築 ソーシャル・アーキテクチャをめざして』(NTT出版、2014年))。
[6] かつて宮内康が「今日の都市の風景は、建築基準法と都市計画法のほぼ正確な自己表現とみることができる」(「風景としての都市―東京一九七五年」『怨恨のユートピア 宮内康の居る場所』(れんが書房新社、2000年))といったことを思い出す。藤村は「データベース」というけれど、「法規、コスト、技術的条件」を無視して建築はなりたたない。僕らは「消費者の好み」も含めて「制度」といった(「制度と空間,建売住宅文化考」鈴木忠志編『見える家と見えない家』叢書「文化の現在」3,岩波書店,1981年)。
[7] 現実化を前提とするのであれば、工学としての建築技術を否定、無視しては成立しない。工業化の段階における「機能主義」「反機能主義」「批判的機能主義」という三区分もしっくりこない。「機能」を離れて、「建築」は成立しない。問題は「機能」をどう定義するか、「建築」における「機能主義」とは何かということになるが、「無用の用」もある。1920年代以降の工業化段階の「反機能主義」に「アーツ・アンド・クラフツ運動」を挙げるのは混乱の元である。また,ウィリアム・モリスによる「アーツ・アンド・クラフツ運動」は「反機能主義」の運動といえるだろうか。「機械」と「手工業(手技)の対比であれば,産業革命以降,今日に至るまで一貫するテーマである。「工業主義」「反工業主義」「批判的工業主義」というのであればわかる。しかしその場合、いわゆる「モダニズムの建築」は、その理念において「工業主義」を批判的に再構成するものであったと言えるのか、また、「機能主義(工業主義)」はそのまま「工学主義」に接続しているのではないか、近代主義(モダニズム)と反近代主義(ポストモダニズム)、批判的近代主義(近代建築批判)といったほうがわかりやすいのではないか等々、議論は残る。
[8] 「グーグル的建築家像を目指して 批判的工学主義の可能性」『雑口罵乱』⑤(2010年)。
[9] 一般化すれば「グラフ」を解くプログラムであるが、まだパンチ・カードの時代である。徹夜でプログラムを書いて、朝、カードの束をコンピューターに突っ込み、夕方、Errorとプリントアウトされた紙が一枚アウトプットされるといった日々をありありと思い出す。
[10] 国際シンポジウム:環境のグランドデザイン,基調講演C.アレグザンダ-,原広司・市川浩・布野修司(司会),1991年2月26日
[11] 藤村龍至は,C.アレグザンダーが「盈進学園東野高校」設計施工のプロセスにフィードバック・ループを前提にしたから失敗したとするのであるが,問題は施工段階を組み込んでいなかったからであって(ゼネコンがリスクを吸収するしかなかった),「超線形設計プロセス」論も同じ問題を孕んでいる。
[12] 「コーディネーター:布野修司 パネリスト:斎藤公男,安藤正雄,藤村龍至 平成28年2月9日17時~20時:A-Forum(東京お茶の水)。
[13] 「コーディネーター:布野修司 パネリスト:斎藤公男,安藤正雄,藤村龍至 平成28年2月9日17時~20時:A-Forum(東京お茶の水)。
[14] ウォーターフォール型とは,システムの開発を「基本計画」「外部設計」「内部設計」「プログラム設計」「プログラミング」「テスト」という工程に分けて順に段階を経て行う方法をいう。
前の工程には戻らないのが前提。
[15] アジャイルとは『すばやい』『俊敏な』という意味で,反復 (イテレーション) と呼ばれる短い開発期間単位を採用し,リスクを最小化しようとする開発手法の一つという。
[16] 藤村が卒業した東京工業大学工学部・社会工学科(社会理工学研究科・社会工学専攻)は、数理経済学、最適化理論、環境モデル解析といった数理モデル研究の一線の研究者が顔をそろえる一方、原科幸彦先生をはじめとする合意形成をテーマとする学の系譜がある。ややこしい系譜の詳細は不明であるが、藤村龍至もその系譜を何らかの形で引き継いでいるのだと思う。その系譜につらなった哲学者である桑子敏雄先生とは、松江の大橋川改修をめぐる委員会(斐伊川水系大橋川周辺まちづくり事業(国土交通省・島根県・松江市)で随分つきあった(2005~2010年)。そして、桑子流風景論の展開には随分と刺激をうけた。
[17] 手前味噌ながら、京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)、近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生学講座の設立の初心もそうであった。すなわち、サステイナブルな仕組みの構築を目指した。しかし、諸般の事情がそれを許さなかった。というのは簡単であるが、要するに身体のハリカタが足りなかったのである。
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