進撃の建築家 開拓者たち 第5回 開拓者03+04 八巻秀房+飯島昌之 「鯨の会」の仲間たち アーキテクト・ビルダー,地域住宅工房そしてコミュニティ・アーキテクト「ひきいるハウス」 『建築ジャーナル』 2017年 1月(『進撃の建築家たち』所収)
開拓者たち第5回 開拓者03 八巻秀房+飯島昌之+「鯨の会」の仲間たち
「ひきいるハウス」 八巻秀房+飯島昌之+「鯨の会」の仲間たち
布野修司
「蟻鱒鳶ル」を見て,岡啓輔に「アーキテクト・ビルダー」の行方を問いながら否応なく思い起こしていたのは,新米の教師になった頃のことである。大学の学部の4年はあっという間に過ぎた。「三里塚」という現場で実に多くのことを学んだがろくに講義を受けてはいない。卒業は1ヵ月遅れ,就職どころではなく,思い悩む間もなく大学院に進学することになった。大学院では専ら図書室に籠ってコピーばかりしていた[1]。卒業論文で,C.アレグザンダーのNotes[2]を読んで,グラフを解くコンピューター・プログラミング(HIDECS)に取組んだのであるが,当時,C.アレグザンダー自身も「アーキテクト・ビルダー」など言い出していない。『住宅の建設』[3]を出すのは1985年のことだ。その後の経緯は省略するが,ドクターに入って2年して思いもかけず助手にしてもらうことになった[4]。そして,さらに2年して東洋大学に移ることになる。強力に誘ってくださったのは故内田雄造[5]さんである。
アーキテクト・ビルダーの原像
1978年の4月の中頃,東京大学工学部一号館から1台の古びた小型トラックにそう多くない荷物を積んで川越(鶴ヶ島)の東洋大学川越キャンパスへ向かった。トラックを手配し運転してくれたのは中村良和,僕が最初に出会った東洋大生である。その最初の印象は強烈であった。いまや,大野勝彦さんが初代所長(現所長:倉片恒治)を務めたJKK住環境研究所の代表取締役だ(図②)。
川越街道はひどく混んでおり随分と話し込んだ記憶がある。中村君は,前田尚美研究室の研究生であったが,同時に,北区の滝野川で工務店を営んでいる親父さんの元で大工の修行中であること,続いて,電気屋,建具屋など下職の見習いを数カ月ずつ続けるつもりであること,そうした上で,親父の跡をつぐつもりであること,全く新しい建築家のタイプを目指すことなどなどを語り続けた。その時,一つの世界が開かれたような気がした。振り返ってみれば,僕自身も,祖父は大工で,親父は工業高校の建築学科卒業である。大東京にもそういう世界があるというのは新鮮であった。
ひとつの構想が芽生えた。アーキテクト・ビルダーという言葉は使わなかったけれど,そうした職能の確立に関わっていた。中村君と僕とのその構想は次第に膨らんでいく。そして,着々と実現するかにみえた。
中村良和君が,その後何故,JKKに入社し,積水化学工業に異動,ツーユーホームの開発販売に携わり,100人にも及ぼうとする部下を指揮した後,今のポジションに至ったかについては,人の運命は分からないものだというしかない。中村君は有数の山男でもあった。 川越へ向かう車の中で,中村君は山男としての夢,ヒマラヤ登山の夢を語っていた。海外登山の実績のある山岳会に属していたのである。出会って4年後,登山中に遭難者を助けようとして二重遭難に会い,足腰の骨を複雑骨折,現場作業ができない身体になってしまったのである。彼をセキスイハイムに推薦してくれたのは大野勝彦さんである。
東洋大学の学生たちは多様であった。寿司をにぎらせたら,包丁を持たせたら,本職はだしがいる。音楽にかけてはセミ・プロ級が何人もいたし,野球では甲子園のベンチに入ったものもいた。最初に出会った学生のひとりである本村晃もユニークであった。「建築家は建築を触らないと駄目だ」と宣言,学業をホッぽりだして経師屋のまねごとを始めだしたのである。経師屋といっても,当時,内装工事の学生アルバイト仕事があり,それにのめり込んだのが実情だと思う。職人論を書くよう指導してなんとか卒業だけはしてもらったのであるが,一時期は「先生の年収の数倍だよ」とすごい鼻息であった。その本村晃は今も内装工事業を続けている。先日,我が家の改装を頼んだ。初心を貫いている姿に感銘を受けた。今は,埼玉を拠点として活躍する八巻秀房そして田口隆一,池野健らと「鯨の会」[6]のネットワークとも連携しながら仕事をしているという。今やリノベーションの時代である。
セルフビルダー群像
東洋大の仲間に加えて頂いて,磯村栄一学長の特別研究プロジェクト「東洋における居住問題に関する実証的理論的研究」にいきなり加わることになった。前田尚美,太田邦夫,上杉啓,内田雄造の諸先生を核としたチームが編成され,切盛りを任された。片腕になってくれたのが中村良和君と同級生で親友の当時大学院にいた岡利実(ユー・エス・ピー都市空間研究所代表取締役)である。東洋といっても雲をつかむようであったが,当面のターゲットは東南アジアに絞った。最初に向かったのはインドネシアそしてタイである。1979年1月のことである。東南アジアといっても,ヴェトナム,ラオス,ミャンマーはとても調査を行う状況にはなかった。
アセアン諸国を歩き始めて,強烈なインパクトを受けたのは,各国で行われていたセルフ・ビルドによる住宅建設のプロジェクトである。コア・ハウジングといって骨組み(スケルトン)だけ供給して後は居住者に委ねる方法(図③),そして,フリーダム・トゥ・ビルド(マニラ)(図④),ビルディング・トゥゲザー(バンコク)(図⑤)というインフォーマル・グループの活動はとりわけ刺激的だった。この頃,フリーダム・トゥ・ビルドのW.キース,ビルディング・トゥゲザーのS.エンジェルのリーダー(図⑥)と出会い,“Housing by People”[7],“Freedom to Build”[8]のJ.F.C.ターナーにも会った。S.エンジェルは,C.アレグザンダーの『パターン・ランゲージ』[9]の共著者である。発展途上国の大都市を埋め尽くすバラックを目の当たりにして,建築家がどういう方法を組み立てるかは,以降,大きなテーマであり続けている。
生産組織研究会
八巻秀房[10]が布野研究室に加わるのは1981年である。布野研究室3期生ということになる。研究室は東南アジアプロジェクトにフル回転し始めていたが,一方で,日本のフィールドについて,住宅生産組織研究会の活動が大きな軸になりつつあった。そして並行して,大野勝彦,石山修武,渡辺豊和,そして布野修司で開始したHPU(ハウジング計画ユニオン)の活動を基に『群居』を創刊しようとするまさにその渦中であった(1982年12月に創刊準備号を出して1983年4月創刊,図⑦)。
住宅生産組織研究会とは,地域の住宅生産組織のありかたを総合的に明らかにすることを目的に結成された研究会である[11]。吉武鈴木研で西山計画学も含めて住宅計画学とその歴史を学んだのであるが,その型計画の方法に大いに疑問を感じていたことも大きい。作り手の世界を押える必要がある,という問題意識は,アーキテクト・ビルダー,セルフビルダーへの関心とまさに重なり合っていた。
思い出深いのは,「熊谷うちわ祭り」そして「秩父夜祭り」の調査である。祭りを支え,地域を支える大工さん鳶さんの活き活きとした姿にある種の啓示を受けた。八巻君は修士課程に進学して丸二年間(1982~1984),生産組織研究会の活動にそれこそ朝から夜中まで取り組んだ。そして書いた修士論文が「木造住宅の生産組織に関する研究」(1985)である。
全国住宅消費者連盟
こうして,東洋大学布野研究室の初期の問題意識を一身に受け止めた八巻君は全国住宅消費者連盟という組織に飛び込む。内田雄造さんの紹介である。「全国」の「消費者連盟」をうたうが,実態は,神奈川を中心とする首都圏の工務店の「組合」で,消費者教育の一方で顧客獲得が目的だったという。セミナー開催やヴィデオ制作などに腕を奮い,『家づくりみんなここで失敗する』(かんき出版,1988年)を出版する。
先日(2016年9月29日),斎藤公男先生が主催されるA-Forum[12]のアーキテクト/ビルダー研究会に,八巻君とともに泉幸輔さんや松澤静男さんの「家づくりの会」を招いて議論する機会があったけれどが[13],「家づくりの会」は,建築家は建築家として主体性を持ち,大工工務店と連携するという構えである[14]。直接刺激を受けたかどうかはわからないけれど,「連盟」を離れて,1991年に大野建築アトリエにいた山中文彦と共同で「家づくりネットワーク」を設立する。実体は設計事務所である。しかし,なかなか利益が出ない。一生懸命図面を描いても見積金額が全くあわず,それを調整して行く間に設計が何だかわからなくなる,という悪戦苦闘だったという。
産直住宅―地域住宅工房のネットワーク
そこで,設計だけではなくて施工もやろうということになった。アーキテクト・ビルダーを具体的に目指そうということである。HOPE計画[15]を背景にした大野勝彦の『地域住宅工房のネットワーク』(彰国社,1988年)が輝ける指針になったという。地域で地域らしい住宅をつくろうと思い始めたけれど,東京で地域住宅とは何かということになる。手掛かりを探しあぐねている時,たまたま山形県金山町という杉の産地の山林所有者と知り合いになる。素晴らしく良い杉があり,しかも大工さん達の優れた技能がある,金山町の木材を金山町で刻み,首都圏で組み立てもらう,金山町の大工さんには刻みから上棟して野地板を葺くまでやってもらい,その後は首都圏の大工さんに引き継いで行くという仕組みをつくった。いわゆる産直住宅である。約16年間で90棟程建てたという(図⑦abc)。
そして,次の展開を始める。
地域を循環させる
歳を取ってきた両親の住む実家すなわち生まれ育った地域に拠点を移し,独立するのである。当初しばらくは「コミュニティアーキテクト・ラボ(一級建築士事務所)」を名乗った。本人に言わせると,布野先生のいうことを忠実にやってきただけですと冗談めかすが,『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説―』(2000)以降の京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の活動や滋賀県立大の近江環人の活動が念頭にあったらしい。「鯨の会」でも「コミュニティ・アーキテクト」をめぐって議論する機会があった[16]。
実家の近くとはいえ,縁もゆかりもつながりもない地域では,まず人と人との繋がりを自分達でつくって行かなければならない。自分達の思いに共感してくれる人をとにかく集める,地域の中で自然循環できるようなコミュニティをつくること,それが目標となった。そして,いろんなことを始めた。ペレットストーブで間伐材を燃料に地元の食材で鍋パーティーを開いたり,「協同組合 彩の森とき川」と連携して伐採見学会で立ち木を伐採して希望者に進呈するとか,「ピッカリひきの市」という市場(月一回)も続けている(図⑧⑨)。徐々に仕事が増えてきて,研究室の後輩すなわち「鯨の会」の飯島昌之[17](図⑩)に声をかけた。長野県諏訪市在住で,設計事務所を営む。この飯島君もアーキテクト・ビルダーを目指したひとりである。林泰義さんの計画技術研究所に勤務後,故郷に帰って大工修行の上,一級建築士の資格をとった。『群居』では漫画の連載で評判をとった。僕の『住宅戦争』にもイラストを描いてくれた(図⑪)。いいコンビである。「鯨の会」には、今回触れるスペースがなかったが、宮内康設計工房で「山谷労働者福祉会館」の現場を仕切った、現在、静岡を拠点にする松田和優紀もいる。
2010年から2011年にかけて,これまでの蓄積をもとに地元の杉材を使った「ひきいるハウス」というモデルハウスをつくった(図⑫)。現在の拠点である。2013年には(株)山の木を設立,建設業登録も行った。地域でエネルギーもつくって行こうということで,完全にオフグリッドで,電気は全てソーラーバッテリーでまかなっている。民家を再生する仕事もぼちぼち出てきた。
いさましく「進撃」する建築家というイメージはないかもしれない。むしろ,悪戦苦闘の軌跡が浮かび上がる。しかし,アーキテクト・ビルダーとしての未来を確信する八巻秀房,飯島昌之両君の顔つきは明るい。おそらく,日本の各地にこうしたネットワークが存在しているのだと思う。そうしたアーキテクト・ビルダーたちの仕事に期待し続けたいと思う。
[1] 入ったのは吉武(泰水)研究室である。松川淳子そして下山真司,曽田忠宏の助手の先生たちとの学部での交流が大きかったのだと思う。大学院に入って,何か研究したいということではなかった。同級生の長澤悟は,いまや学校建築の大御所であるが,入室当初から学校建築をテーマにすると決めていて,吉武先生から直接指導を受けていたけれど,僕の場合ほったらかしの感じであった。ただ,吉武先生は,当時「夢」にそれこそ夢中で[1],現象学や精神分析についての本や文化人類学の本を随分読まされた。槇文彦さんの事務所(槇総合計画事務所)で夏休み一ヵ月アルバイトをしたし,月尾さんの事務所(都市システム研究所)で丹下さんの松江の仕事を手伝った。下山さん,曽田さんの事務所で模型をつくったし(筑波町立筑波第1小学校),石井和紘,難波和彦の事務所にいって図面を引いた(54の窓と直島幼稚園)。なんとなく,設計をやっていくのかなあ,という感じであった。
[2] クリストファー・アレグザンダー(1978)『形の合成に関するノート』稲葉武司訳,鹿島出版(C.Alexander(1964), “Notes on the Synthesis of
Form”, Harvard University Press.)。
[3]
Chritpher Alexander(1985), “The Production of Houses”, Oxford University Press.
[4] 修士論文はどうしたものかと思っていたら,吉武先生が突然東大をやめて筑波大の副学長になるという青天の霹靂のような事態が起こる。「君はドクターに行きなさい」といきなり告げられたのであった。原広司先生に来ないかと誘われたことも思い出す。吉武研究室(建築計画第一講座)を引継いだ鈴木成文教授,高橋鷹志助教授体制の初代助手である。初見学助手(東京理科大学名誉教授)も同時就任であった。研究室には,植野糺,田村優樹以下,宇野求(東京理科大学教授),村松伸(東京大学教授),土居義岳(九州大学教授),江幡修(鹿島建設)ら錚々たるメンバーが蝟集してきた。
[5] 内田雄三さんについては,内田雄造追悼論文集『ゆっくりとラジカルに』(私家本,2012年)がある。1969年1月18/19日の安田講堂闘争に参加,逮捕され,公判中の身であった内田さんを助手に採用したのは前田尚美先生他東洋大学の教師陣である。この前田先生,内田先生に声をかけて頂いたのであった。
[6] 東洋大学布野研究室を核とする同窓会。その名は,川越キャンパスが鯨井中野台であったことに因む。1988年以降「鯨の会」という同窓会を組織して,毎月講師を招いて研究会を開いてきた。そして,僕が還暦を迎えようとするころから再開しており,現在,A-Forumのアーキテクト/ビルダー研究会に移行しつつある。
[7] Turner,
John F. C. (1976), “Housing By People:
Towards Autonomy in Building Environments. Ideas in Progress”, London:
Marion Boyars Publishers.
[8] Turner, John F. C. & Fichter, Robert, eds. (1972), “Freedom
to Build, dweller control of the housing process”, Macmillan.
[9] Christopher Alexander, Sara Ishikawa, Murray Silverstein,Shlomo Angel (1977)“A Pattern Language: Towns,
Buildings, Construction ”,Oxford University Press(クリストファー・アレグザンダー(1984)『パタン・ランゲージ―環境設計の手引』平田翰郎訳,鹿島出版会)
[10] 1959年生れ。1982年 東洋大学工学部建築学科卒業/1884年 同大学院修士課程修了/1884年 全国住宅消費者連盟勤務。木造住宅の企画・開発及び設計業務/1986年一級建築士免許取得/1988年 「家づくりみんなここで失敗する」(かんき出版)出版/1991年山中文彦と共同で「家づくりネットワーク」を設立。/2002年「木材供給システム優良事例コンクール」において林野庁長官賞受賞/2006年 独立,コミュニティアーキテクト
ラボ一級建築士事務所を設立/MIDworks飯島昌之と共同で設計監理業務を開始/2013年株式会社山の木を設立。
[11] ,芝浦工業大学藤沢好一研究室,,千葉大学安藤正雄研究室,工学院大学吉田拓郎研究室,都立大学深尾精一研究室,職業訓練大学校松留慎一郎研究室,東京大学松村秀一研究室,大野アトリエおよび布野研究室の8グループである。東洋大学布野研究室が加わることになったのは,大野勝彦さんから藤沢好一先生を紹介されたのがきっかけである。それにクラスメートであった安藤正雄の存在も大きかった。
[12] Archi-neering
Design Forum. アーキニアリング・デザイン(AND)とはArchitectureとEngineering Designとの融合・触発・統合の様相を意味する言葉で,A‐Forumは,このANDの理念の実現のための「集いの場(フォーラム)」となることを目指す。 http://a-forum.info/
[13] AF=Forumアーキテクト/ビルダー研究会・日本建築学会『建築討論)共催)「建築の設計と生産:その歴史と現在の課題をめぐって03「日本の住宅生産と建築家」」。http://touron.aij.or.jp/2016/11/2989
[14] 僕は,昭和から平成へ時代が変わる頃,「家づくりの会」に招かれて連続講演をする機会があった(「住宅生産の構造と建築家」19890930,「建築家と住宅の戦後史」19891021,「工業化住宅と住宅設計」19891202,「地域住宅計画」19900127,「ハウジング計画論の展開-東南アジアのセルフヘルプ・ハウジング」,19900224)が,それには八巻君も参加していたのだという。
[15] 「HOPE」は「地域住宅計画housing with proper
environment(地域固有の環境にともなう家づくり)」をいい,1983年に建設省が施策展開を行った。
[16] 布野修司「裸の建築家/タウンア-キテクトの可能性」,「鯨の会」講演会,2006年5月26日
[17] 1967年生れ。1990年東洋大学工学部建築学科卒業/1990年〜1993年(株)計画技術研究所勤務/1993年〜1997年/塚田大工で大工修行,古民家の移築を学ぶ/1999年一級建築士事務所 エムアイディーワークス 開設/2008年事務所名をMIDworksへ変更 ・ コミュニティアーキテクト ラボ一級建築士事務所 八巻秀房と協業開始。
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