進撃の建築家 開拓者たち 第21回 丹羽哲矢(開拓者26) 組織と地域の間ーC&Dの方へ 「愛知産業大学工業高等学校伊勢山校舎」2018年05月(『進撃の建築家たち』所収)
開拓者たち第21回 開拓者26 丹羽哲矢 建J 201805
組織と地域の間―C&Dの方へ
「愛知産業大学工業高等学校伊勢山校舎」
布野修司
丹羽哲矢(図⓪)[1]は、渡辺菊真(開拓者01)、森田一弥(開拓者14)、平田晃久(開拓者17)の京都大学建築学科の同級生である。すなわち、僕が1991年9月に京都大学に着任して最初に出会った学生の一人である。この学年にタレントが少なくないことは繰り返し書いてきたけれど、丹羽の場合、組織事務所(久米設計)を経て独立した。佐藤総合計画を経て独立した「アーツ前橋」の水谷俊博も同級生である。もともと川崎清・竹山聖研究室の出身であり、学部時代の印象は薄い。専ら思い出すのは、「シェアハウス」について研究したいと博士後期課程に入学してきた年の夏、一緒に南インドを調査したことである[2]。マドゥライで修士論文を書いた大辻(山本)絢子、ヴァーラーナシーで修論を書いた柳沢究(現京都大学准教授)が一緒だった。思い出すのは調査のことではない。丹羽君がやたらに星に詳しかったことである。マドゥライからシュリランガムを車で往復したときだったと思う。すっかり暮れた南インドの夜空に無数の星が輝いていて、息を飲んで見ていたら、突然、あれは何座だ、これは何座だという。何でそんなに詳しいの?と問えば、小学校時代からの「天文少年」で、プラネタリウムに通ったのだという。
その頃、僕は、既に天文学を本気で学びたいと思い始めていた。古代都城の設計理念を説き明かすためには天文学の知識が不可欠であることが意識されていたからである。滋賀県大に移っても、そんなことをしゃべり続けていたのだろう、今や宮大工の道に入った飯田敏史くんは、移動日時計である「バラモンの杖」を実際につくってくれた。高橋俊也くん(高橋俊也構造建築研究所:D環境造形システム研究所)に言わせると、渡辺菊真の「宙地の間」(日時計の家)(本連載第3回)にも多少の刺激にはなっているらしい。未だに天文学の入口にもたどり着けないのだけれど、天文少年を心底うらやましい、と思った。僕らは、かつては全てであった古来変わらぬ星の動きを全く意識せずに生活しているのである。
シェアハウス
「天文少年」が、何で建築を選んだのか?と多分聞いたと思う。しかし、丹羽の答えは覚えていない。専ら、僕の関心をしゃべったに違いない。星座の見分け方なんかを逆に聞いたのだけれど、にわかに頭に入るわけはない。建築・都市とコスモロジーをめぐっては、渡辺豊和、毛綱毅曠とのつき合い以来の関心事である。実は、わが弟は航空学科を出て、いまでは宇宙開発の最前線にいる。彼は空を見続けながら、僕は地面を見続けながら人生を生きてきたけれど、同じ兄弟ながら、かくも世界が違うのか、とつくづく思うのである。
しかし、何故、シェアハウスだったのか?
久米設計(大阪支社)での泉佐野市営松原団地住宅建替事業の設計(2002年)など今後の住宅のあり方を考えたいというのが、休職して博士後期課程に入学する公式な理由であったが、既に独立する決意はしていたのだと思う。結果的に復職して3年で独立することになるが(2008年)、振り返って履歴には、修士修了時に「clublab.活動開始」と記している。布野研究室に在籍時に、町屋の改修である「法然院の家 奥のある住まい」(2003年4月)(図①提供)、叔父叔母の老後の住まい「岩槻の住宅 空のある住まい」(2004年3月)(図②提供)を手がけている。実質上、この2作品がデビュー作である。
シェアハウスというテーマそのものにはもちろん異議はない。都市組織研究の中心テーマである。丹羽君は自ら京都でシェアハウスに居住しながら実態調査を開始した。しかし、新しい動向だし、布野研究室に蓄積はない。新たな研究分野の開拓を期待したが、3年で学位論文をまとめられるほど甘くはなかった。
これについては、僕の方にも申し訳ない事情がある。相変わらずアジアを飛び回っていた上に、2001年~2003年は日本建築学会の『建築雑誌』の編集長を務めた。そして、丹羽君が博士後期課程を単位認定退学する2005年3月には京都大学を辞してしまうのである。
2004年12月26日には、スリランカのゴールにいてインド洋大津波に会い九死に一生を得るなど、丹羽君が研究室に在籍した2002~2005年は、我が人生においても激動の3年間である。今でも語り尽くせない多くの出来事があった。
名古屋CDフォーラム
独立して10年、いくつかの作品が実現し、評価も受けてきた。『C&D(シーアンドディー)』No.170(Vol.48、2017夏)を送ってもらって、その活躍を改めて知った。巻頭に小特集「いま、活躍するアトリエ系建築設計事務所 言葉にならない 気持ちを捉える clublab.丹羽哲矢」がある。そして、「千種の住宅Horn House」(2009年11月)「豊田の住宅QUALIA」(2009年12月)(2014年第46回中部建築賞入選), 「稲沢の住宅STAGE(S)」(2012年8月)(2013年第45回中部建築賞入選、すまいる愛知住宅賞 名古屋市住宅供給公社理事長賞受賞)「愛知産業大学工業高等学校伊勢山校舎」(2015年9月)(2016年第48回中部建築賞入賞、北米照明学会(IES)国際照明賞受賞)「清州の住宅」(2015年12月)(2016年グッドデザイン賞受賞)(年代順)が掲載されている。
名古屋CD((コミュニティ・デザイン)フォーラム(『C&D』)にはその昔強い縁があった。現代表の瀬口哲夫先生も古くからの知り合いであるが、酒井宣良(NOV建築工房、1945~2008)編集長の時代には結構行き来があった。大島哲蔵(スクオッター(洋書輸入販売)1948~2002)さんと3人でシンポジウム「変貌する公共性-人と建築と社会と」[3]に参加したことがある。『C&D』には「地域に世界を見るメディア」(C&D,名古屋CDフォ-ラム,1994)という文章を書いたこともある。東京―大阪・京都・神戸の間にあって、地域を拠点とした活動を展開するその象徴が名古屋CDフォーラムである。その半世紀に及ぶ活動は実に頼もしい。
丹羽君とは、この間、それなりに行き来はしてきたけれど、作品を見せてもらう機会はなかった。「機会があれば見てください」という添書きに誘われて、403[dajiba]Architectureの取材の折に、名古屋まで足を延ばした(2017年11月26~27日)。
妄想する建築!?
とは言え、丹羽哲矢の仕事をどう位置づければいいのか、いささか戸惑いがあった。というのも、小特集に添えられた丹羽君の文章にはピンと来るところがなかったからである。そもそもタイトル「言葉にならない気持ちを捉える」は何を言おうとしているのだろう。「体験を妄想し、それを空間の配列や形や大きさや色や素材で建築に翻訳する作業が設計という行為なのだけれど、どこまで奥深く妄想することができるかが、その建築を唯一無二のものにする気がしている」などと書いている。一般(クライアント)には通じない。「建築の時間を妄想する」(建築を考えるということは、時間を考えるということだと思う)「物語のある場を生み出す」「敷地は多くのことを語る」「様々な場を散りばめる」「豊かさを生む仕掛け」「まちに居場所をつくる」「機能だけでは足りない」などといった言葉(小見出し)が連ねられるのであるが、言葉のみが浮遊している印象を受けた。短い文章に無いものねだりであるが、具体的な方法が語られるべきではないか。ところが文章は、「機能的に説明できなかったり、理論的に説明できなかったりする「何か」に住まいが持つべき本質があって、それが物語を生むのだと僕は信じている」と締めくくられている。
あとは実作を見てくれ!ということか。いかにも「建築家」然とした態度に思えた。
送ってもらった写真からだけの印象なのだけれど、敷地を無理矢理使おうとする「千種の住宅」(図③提供)「豊田の住宅」(図④提供)の「デコン」風の作品には、「妄想する」建築家?の匂いが感じられたのである。
スキエラ型
とにかく見て、議論してみようということで、「稲沢の住宅STAGE(S)」(図⑤abc)と「清州の住宅」(図⑥abc)を案内してもらった。丹羽君の設定である。二軒とも夫婦に子供二人という丹羽君とほぼ同世代の家族の住宅である。前者は、田園地帯のコートヤードハウス、後者は都市郊外型の戸建住宅、ともによくできている。こどもたちがのびのびと走り回る平面構成がうらやましい。稲沢の住宅のお施主さんは外壁の汚れと結露を気にされていたけど、丹羽君の経験不足と言えば経験不足である。「建築の時間を妄想する」というのだから、建築が生きていくその過程にお施主さんとともに寄り添っていく必要がある。充分?その後もケアしているということであったけれど。
だから欲を言えば、さらにクライアントを挑発?しながら、日本における新たな都市型住宅のあり方への提案を見たいところである。
隙間
全く急な訪問であったけれど、丹羽君が名古屋在住の何人かに声をかけて、夕刻、名古屋駅近くに集まった。議論に参加したのは滋賀県立大学出身の中川雄輔(日建設計)、井上悠紀(大建設計)、田中孝宣(鞄職人、Herz)、梅谷敬三(大工)、そして柳沢究くんである。
上に書いたようなことを問い詰めようとしたわけではない。丹羽君がどういう建築家として活動しようとしてきたかに興味があった。独立以後手掛けてきたのは住宅だけではない。「各務原リハビリテーション病院」(2011年)「イーオン中部本校ビル」(2014年)(図⑦)といった作品がある。多い時には数人のスタッフがいたというが、小さなアトリエ事務所がいきなり得られる仕事ではない。聞けば、勤めていた組織事務所から依頼される場合が多い、という。組織事務所の場合、3000㎡以上の規模がないと採算がとれない。設計の仕事にかかるエネルギーは、必ずしも規模に比例するわけではないのである。極端に言えば、小規模な住宅であれ、大規模なオフィスビルである作業量は変わらない。そこで2000㎡程度の建築についてはフリーランス(アトリエ系)の建築家に声がかかるのだという。
組織事務所とアトリエ事務所の間に隙間がある。議論は専らその隙間をめぐった。石工を目指しながらいい師匠を探しそこね大工を始めたり、建築設計に見切りをつけて皮革職人に活路を見いだしたり、タワーマンションを建てるだけの組織事務所になじめず転職した諸君が議論に加わった。
隙間をつなぎたい、特に、若手をより大きな仕事の世界へつなげたいと丹羽君はいう。丹羽君は、建築士会の名古屋名東支部の支部長を務め、学生コンペ委員会の副委員長を務めている。僕が感心したのは、たまたま引き受けた非常勤講師[4]の仕事がそうであったからかもしれないけれど、学生たち、それも建築に興味をもつ社会人たちに建築を教えることに実に意欲的であることである。住宅作品も教え子たちの依頼が少なくないという。大学との縁はひとつの仕事に繋がった。
階段広場
『C&D』の特集記事の中で、最も興味を惹かれたのは「愛知産業大学工業高等学校伊勢山校舎」の外観写真である(図⑧a)。実際に見て、ミラーグラスをモザイク状に巧みに使って周辺の建物の表情を多彩に反射させるファサード・テクニックと知ったが、単に四角い箱の表面を装うファサード・デザインではない。あくまでも、内部空間の、巧みなシステムがファサードに投影されているのである。
それにしても、8階建ての四角いオフィスビルのような一棟の建物が1500人の生徒が学ぶ工業高校であることには驚いた。僕が通った田舎の高校も一学年10クラス、ほぼ同じ規模であったけど、広いグランドが隣接していたし、自然にも囲われていた。面食らったけれど、工学院大学のような超高層の大学もあるのだから、ありうるとすぐさま思った。大階段が効いている。その上下左右にうまく諸室が収まっている。所要室を考えると「敷地内に残された余白はわずかだった、そこで大きな階段広場が1階から8階までを斜めにつなぐ構想にたどり着いた」という。自然を直接取り込む仕掛けがあればと思ったけれど、南側全面をほぼ全面開放し、隣接する建物からの視線を巧みに制御している。
試験期間中の月曜日であったが、午前中で試験が終わって生徒たちが様々な方向に流れていくのは、なかなかの見ものであった。「学校という集団生活をする場所にとって大きな意味の一つは、生徒同士が刺激しあうことだ。互いを見て他の生徒の活動を知り、集団の中で自分を発見する。・・・そこは単なる移動空間にとどまらず、立ち止まったり座ったりできる居場所でもある。階段の幅や向き、飛び石のような場所による地形的変化が流れの中に止まりやすい場所を生んでいる。」と自ら書くが、成功していると思う。
名古屋を拠点としてこられた「まちづくり伝道師」延藤安弘の訃報が届いた。また、山本理顕さんが名古屋造形大学の学長に就任するからよろしくというメールが来た。かつての天文少年の現在と行く末を考えてきたけれど、おそらく、名古屋を拠点とし続けることは決めているのだと思う。C&Dの伝統を受け止めるなかで、その核になって欲しいと思う。
[1] 1971年名古屋生まれ。1996年3月京都大学大学院工学研究科建築学専攻(川崎・竹山研究室)博士前期課程修了。clublab.活動開始。1996年4月株式会社久米設計大阪支社。2002年3月 株式会社久米設計休職。2002年4月京都大学大学院工学研究科生活空間学専攻(布野研究室博士後期課程)進学。2003年9月大阪府立工業高等専門学校 非常勤講師。2005年3月京都大学大学院工学研究科生活空間学専攻博士後期課程認定退学。2005年4月株式会社久米設計復職。愛知産業大学造形学部建築学科講師。2008年3月株式会社久米設計退職。2008年11月一級建築士事務所clublab.開設、管理建築士。2016年4月愛知工業大学工学部建築学科非常勤講師。名城大学理工学部 建築学科非常勤講師。
[2] 20020722-0801:Kansai Singapore インドChennnai Maduraiマドゥライ調査 Chennai Singapore:発展途上地域(湿潤熱帯)の大都市における居住地モデルの開発に関する研究:布野修司・丹羽哲矢・柳沢究・大辻絢子
[3] シンポジウム:変貌する公共性-人と建築と社会と,大島哲蔵・酒井宣良・布野修司,建築デザイン会議名古屋,1992年11月21日。
[4] 2006年~愛知産業大学造形学部建築学科講師 (建築造形I/ 建築造形II/建築設計IIー1/卒業研究担当)他。
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