進撃の建築家 開拓者たち 第6回 開拓者05 岡部友彦(前編) 「寄せ場」から世界へ「横浜ホステルヴィレッジ」 『建築ジャーナル』 2017年2月(『進撃の建築家たち』所収)
「寄せ場」から世界へ
「横浜ホステルヴィレッジ(YHV)」
布野修司
八巻秀房(開拓者03、前号)は、独立して「コミュニティ・アーキテクト ラボ」を立ち上げると、「くじら(鯨)の会」を再開、元祖まちづくり伝道師・林泰義(前号註 開拓者04飯島昌之・元計画技術研究所所員)とともに「コミュニティ・ア-キテクト研究会」[1]を始めた。その第2回目の会で若くて実に頼もしい建築家に出会った(2007年12月7日)。『ソ-シャルデザインと地域再生』-寿町再生プロジェクト-」と題して講演した岡部友彦である。横浜・寿町といえば、大阪・釜ヶ崎、東京・山谷に並ぶ「寄せ場」[2]である。今でもそうであるが、「寄せ場」のドヤは3畳一間、日本の最小限住居である(図①)。
東南アジアを歩き始めて様々な出会いがあって[3]日本寄せ場学会の設立(1987年4月、年報『寄せ場』1988年3月創刊(図②)に当初から参加することになった。そして、東京山谷の調査を行う活動を続けるなかで、山谷労働者会館建設の話が持ち上がり、宮内康の指揮のもと、研究室あげて設計建設に取り組むことになる(1989年1月土地取得、1989年9月建築確認申請受理着工、1990年10月竣工。『寄せ場に開かれた空間を』社会評論社、1992年、図③)。当時、山谷は、日本国粋会金町一家と全国日雇労働組合協議会とが激しく抗争し、騒然としていた。日雇い労働者の過酷な労働と生活を描くドキュメンタリー映画を撮ろうとした佐藤満夫監督が虐殺され(1984年)、その志を引継いで映画を完成させた山岡強一監督も凶弾に倒れた(1986年)ばかりであり、調査中や建設中にも発砲事件が起きる、そんな状況である。「寄せ場」でまちづくりを展開するなど当時は思いもかけないことであった。
都市解析からまちづくりへ
11月中旬の今にも雨の降りそうな土曜日(2016年)、西川編集長とともに横浜寿町のYOKOHAMA HOSTEL VILLAGE(YHV)を訪れた。ホステルのフロントには泊り客が次々にチェックイン賑やかだった(2016年図④⑤⑥⑦)。岡部友彦君に会うのは3度目であった。「コミュニティ・ア-キテクト研究会」で出会った2年後、岡部友彦君と再び彦根で会った。僕は全く関与していないのであるが、滋賀県立大学の「談話室」がゲストとして招いたのである。その時のレクチャーと議論(「コトづくりから始めるまちづくり」)は『雑口罵乱』④号(2011年3月)に記録されている[4]。
岡部友彦君[5]は、神奈川県藤沢生まれ、神奈川大学建築工学科で学んで(山家京子研究室)、東京大学生産技術研究所の修士課程に進学(藤井明研究室)する。原広司先生は定年退職、藤井・曲渕研究室体制で、都市解析について研究、修士論文は『都市の時空間変動―パーキング空車情報による記述』(2005年3月)である。
原広司研究室は、隈研吾、竹山聖、宇野求以下多くの建築家、大学教員を輩出してきた[6]。僕は、原さんとは東大の学部生の頃出会って、博士課程に来ないかと言われたこともあるぐらい身近だったから(『建築少年たちの夢』「第八章 集落から宇宙へ」)、山本理顕(『建築少年たちの夢』「第四章 家族と地域のかたち」)、入之内瑛(都市梱包工房)、北川フラム[7]らが蝟集する初期の頃はよく知っている。1970年代の原研究室は、住居集合論として成果がまとめられる世界集落調査を展開する一方、AC(活動等高線Activity Contour)論という数学的トゥールを用いた都市建築事象の解析を2本の柱にしていたが、それはそのまま藤井明研究室に引継がれていて、後者の流れに属したことになる。集落調査にも関わったけれど、渋谷の駅前地区のテナントの変遷を調べたりしたという。また、当時東京大学国際都市再生研究センター特任研究員をしていた太田浩史(ヌーブ)のもとで「PopulouSCAPE」というCG作品制作と展覧会「世界都市~都市は世界へ~」(2003~2006)に関わっている。そうした岡部君が、どうして修士修了と同時に会社設立((株)Funnybee)に関わって設計事務所を立ち上げ、寿町のまちづくりに関わるようになったのか。
寿町の「さなぎ達」
大学院時代にたまたまアルバイトの仕事で横浜と関係することになった。そして、寿町で生活保護を受ける日雇い労働者の支援活動を展開するNPO法人「さなぎ達」のメンバーと出会ったという。「寄せ場」には、実業家とか大学教師とか、実に様々な人たちが集まってくる、そうした中に、哲学者というか、独特な考え方をするカリスマ的な人もいる。寿町では大学では教えてくれないことばかりだった。都市を解析しながら、実践的にやりたいと思っていたこともある、そのまま寿町に飛び込んだ。
そうした寿町の路上生活者たち、生活保護受給者たちを支援するために結成されたのがNPO法人「さなぎ達」(2001年http://www.sanagitachi.com/)である。初代理事長となった桜井武麿が1980年代に始めた、週一回、関内駅、横浜公園周辺を夜回りし、路上生活者に必要な物を提供しながら安否確認を行った木曜路上パトロール(通称木パト)が原点という。この路上パトロールは現在も続けられているが、支援活動は、医、衣、食、職、住の各分野にわたる。寄付の衣類や日用品を提供する「さなぎの家」という路上生活者の立ち寄り所を設け、生活相談をワンストップで行う「寿町なんでもSOS班事業」、安価にバランスのとれた食事を提供するとともに、雇用の場所にもなる「さなぎの食堂」の経営などが展開されている「さなぎの食堂」は、決められた時間に交換しないといけないパン券をいつでも食べられるチケットに交換するとか、コンビニやスーパーで処分されてしまう食材を安く仕入れるなど[8]、先進的できめ細かい支援活動が行われている[9]。岡部友彦君は、現在、NPO法人「さなぎ達」の理事を務める。
「影」のデザイン
寿町に関わりだしてまもなく、岡部友彦は「「影」のデザイン」[10]という一文を書いている。
「日の当たる地域の周囲には、それを支える、または支えていた影ともいえる部分が存在するのだ。光の部分も、影の部分もどちらも積み上げられてきた歴史が存在する。影の地域を無理矢理光に変えようとすれば、他の地域に新たな影が創られることになるだろう。影の地域は、影としてデザインしていくことが重要なのだろう。」
「影の地域」を「影」としてデザインしていく、とはどういうことか。岡部友彦はいきなり「寄せ場」をめぐるアポリアに向き合ったように思える。「影」を「光」に変えれば別の「影」ができる、とすれば、その「影」をなくそうと普通考える。「影」を「影」としてデザインするといっても、「光」と「影」の支配-従属関係を前提とするということ、すなわち「影」のままに押しとどめて置くというのではないだろう。その文章には、「影」の地域を「影」のままにデザインする地平を突破していく視点が既に示されている。要するに、「影」の地域を地域(「影」)としてデザインするということである。「影」であればこそ、それを逆手にとる地域性もある、ということである。
はっきり直感されているのは、片手間や副業、ヴォランティア活動に頼るだけでは「寄せ場」という地域は動かないことである。つまり、地域が自立できる仕組みがなければならない。そして、モノや空間を供給したり整備したりするだけでは地域は活性化しないということである。次のように文章は締め括られている。
「地域を活性化するのに建物や特産物など“モノ”を再生することは第一義的な課題ではないだろう・・・地域の現状に対し、まず何が“資源”となりえるかを再発見することにより、その地域特有のビジネスやしくみなどの“コト”を創り出し、無理なく継続できる環境作りをすることで、その地域に活力を取り戻すことが大切なのではないか。そして、その“コト”が、継続して行なわれることにより、物質的な“モノ”が築き上げられていく。このように元来の街やコミュニティの形成過程とも考えられる一連の流れを、地域や建築に再投入することによりデザインしていくことが必要なのではないか。分野を超えた連携、三位一体となる体系、コトづくりとモノづくりとの融合のかたちをこれからも追求していきたい。」
岡部友彦が「コトラボ合同会社」を設立するのは2007年である。その命名に初心が示されている。
横浜ホステルヴィレッジ
(YOKOHAMA HOSTEL VILLAGE)
まず始めたのはホステルの経営である。寿町には、200m×300mほどの空間に、110軒ほどのドヤ(簡易宿泊所)があり、約8000室の部屋がある。8000室は、ほとんど全て3畳一間である。ドヤ街といっても、今や鉄筋コンクリート造の数階から9階建てのビルが建ち並ぶ大都会の街区である(図⑧⑨⑩)。しかし、街の雰囲気は他とはいささか異なる。現在は約6000人程度の住民がいるが、そのほとんど(95%)が単身者である。また、高齢者は半数を超える。そして、80%以上が生活保護の受給者である。寿町は、関外ではあるが、関内に隣接し、中華街、元町、みなとみらい21地区など横浜を代表する観光地には便利がいい。高度成長期には1万人を収容したけれど、今では1500室を超える空き部屋が存在する。外国人のバックパッカー、横浜球場や横浜アリーナの試合やコンサートで需要は見込めた。この空き部屋をホテルに転換するプロジェクトが開始されることにより、岡部友彦は全面的に寿町再生のプロジェクトにインヴォルブされることになる(YHV:http://yokohama.hostelvillage.com/ja/)。以降、その拠点は、YHVを運営するコトラボ合同会社に置かれている(図⑪)。
フロントの置かれている向かいに20部屋のホステル(「林会館hostel hayashi」図⑪⑫⑬⑭)、他に長期滞在用に2棟(LB flat(2007), Room ASIA(2011))、全部で60室、一時期は4棟管理していたという。宿泊費はオーナーとYHVで折半、オーナーが建物、YHVが経営と清掃など維持管理を受け持つという極めて明快な契約である[11]。問題は、その活動資金で何を展開するかである[12]。
生活保護を受給するための条件に住民票をその地域におくことが必須条件となっているため、寿町には6000票もの票が埋もれている。政治家にとっては魅力でもあり、脅威でもある。区の選挙管理委員と協働で選挙啓発キャンペーンを展開、キャンペーン自体が街のイメージ変革の一端を担うことをねらいながら、一方で政治家の寿町への関心を引きつける。実に巧妙な戦術である。その後、この選挙キャンペーンについては各地からの引き合いがあるという。コトからの発想である。
コトラボ合同会社-拡大するネットワーク
寿再生プロジェクトは、立ち上げ早々多くの関心を引きつけた。内閣府地域再生伝道師に任命されたし(2007年)、横浜文化賞文化・芸術奨励賞も受賞した(2008年)。様々な研究会に呼ばれ、大学で講演する機会も増えた。韓国から講演の依頼もあった。視察も数多い。外国メディアの取材もある。何よりも若い学生たちやアーティストの参加があった。それだけ日本社会の問題の核心をついていたといっていい。しかし、全てうまくいくほど現実は甘くないのではないか。「寄せ場」を取りまく環境がそう簡単に突破できるとは思えない。事実、リーマンショックの後、横浜市中区の生活保護費が200億円も増えたという。社会の歪みが一定の地域に皺寄せされるそうした構造は簡単には揺らがないのである。
しかし、そうした危惧を吹き飛ばすような新たな展開があった。ひとつは、愛媛県松山市の三津浜における都市再生プロジェクトである。そしてもちろん、寿町にも新展開がある。ひとつは、レンタル・スペースRental space(kadobeya)を設け、慶応大学とのコラボレーションを開始したことである。この地域と大学との連携については、YHVがスペースを用意するというのは大学にとっては願ったり叶ったりである。ツーリストだけでなく、若い学生たちが地域と交流することで新たな展開が期待できる。
そしてもうひとつは、木賃アパートを改造してもう少し広い空間(Hanare、Hanare2)を用意したことである(図⑮⑯⑰⑱)。リノヴェーションはそれぞれクリエイターに委ねた。クリエイターにも仕事が入り、外国人留学生が長期に借りるなど、寿町への新たな風を期待することが出来る。この既存ストックのリノヴェーションの流れは山手にも広がり始めている。
「影」を「影」としてデザインするのではなく、あくまで寿町を拠点としながらも、「影」を多様に開いていくことが選び取られつつあるのであろうか。同じように地域で活動する人たちとも交流が広がり、ローカルサミットを続ける場所文化フォーラム(一般社団法人http://www.basyobunka.com/)といったネットワーク組織ともつながりがある。
[1] くじらの会第1回CA研究会,「住む人が生き生きする家づくり,まちづくり」,講師黒崎洋二,林泰義,東京都しごとセンタ-,2007年3月14日。第2回CA研究会「『ソ-シャルデザインと地域再生』-寿町再生プロジェクト-」,講師:岡部友彦,林泰義,東京芸術劇場会議室,2007年12月7日)。第3回CA研究会「集まって住むためのデザイン」講師 杉浦敬彦,林泰義,東京芸術劇場会議室,7月13日:コメンテーター:第4回CA研究会「ファシリテ-タ-の役割」講師 伊藤雅治,INAX GINZA,2008年7月18日。第5回CA研究会「モダニズム建築の保存」,兼松紘一郎,東京芸術劇場会議室,2008年10月10日:第6回CA研究会「一軒から始められる 畑つきエコアパ-トづくり」平田裕之:「スラバヤ・エコハウス」,銀座INAXギャラリ-,2009年1月23日。第7回CA研究会:「高島平団地の再生」:長谷部勉・八巻秀房他,銀座INAXギャラリ-,2009年5月29日。
[2] その名称は「人足寄せ場」に由来する。日雇い労働者をリクルートする場所、戦後は職業安定所(ハローワーク)の周辺にドヤ街が形成された。九州では博多・築港、中部では名古屋・笹島が知られた。
[3] 東南アジアを歩き始めてしばらくして『スラムとウサギ小屋』(青土社,1985年12月)という評論集を上梓した。アジアの大都市のスクォッター・セツルメント(不法占拠地区)を歩き回って居住問題の深刻さに直接触れ、振り返って日本の居住問題を考えるのは当然である。「ウサギ小屋」とは、日本の住宅の代名詞である。ヨーロッパ共同体(EC)の非公式報告書(1979)が「日本人は「ウサギ小屋」に住む「働き蜂」」と日本の居住水準を揶揄していたことが背景にある。引き寄せられるように向かったのは日本のホームレス、「寄せ場」の存在であった。
[4] 学生たちの関心と岡部友彦君の活動が共鳴しあっていることにある種の感慨があった。滋賀県立大学の布野研究室には、大阪・釜ヶ崎をテーマに修論(『あいりん地区(釜ヶ崎)の変容とその整備手法に関する研究~簡易宿泊所に着目して~』(2009年3月))を書いた岡崎まりさん(現アルパック・地域計画研究所)がいて、何回か研究室で地区を歩き回った経験があったことも大きかったのかもしれない。
[5] 1977年 神奈川県藤沢生まれ。2004年 東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士前期課程修了。岡部友彦建築設計事務所/Funnybee株式会社取締役。2007年 コトラボ合同会社 設立。内閣府地域再生伝道師。2008年 横浜文化賞文化・芸術奨励賞。2009年 NPO法人 アクションポート横浜 代表理事就任。2011年 関内イノベーションイニシアティヴ株式会社 取締役就任。
[6] シーラカンスを立ち上げる故小嶋一浩(東京理科大学、横浜国立大学)、堀場弘(東京都市大学)、工藤和美(東洋大学)、立命館大学の及川清昭、東京理科大学の郷田桃代、伊藤香織、国士舘大の南寿裕、神戸大学の槻橋修、近畿大の松岡聡、日本大学の山中慎太郎、そして岡部友彦の指導教官となった神奈川大学の山家京子など。
[7] 1946年新潟県高田市(上越市)生まれ。アート・ディレクター。東京芸術大学美術学部卒業。仏教彫刻史専攻。1971年「ゆりあ・ぺむぺる工房」発足。1982年「アートフロントギャラリー」創設。1997年より越後妻有アートネックレス整備構想に携わり、2000年から開催されている「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」「瀬戸内国際芸術祭」の総合ディレクターを務める。
[8] 「さなぎ食堂」は、住民の食環境改善を目的とし、300円という低価格で通常の定食を提供する。またパン券と呼ばれる行政が生活保護受給者以外に発行するある種の地域通貨を利用して食事を提供する仕組みを作るなど地域の条件に即した運営体系がとられている。さらには、大手コンビニエンス・ストアのローソンとの提携により、工場から出荷されない余剰食品などを、食材として食堂で有効活用するネットワークも構築されている。
[9] その他、家族もなく、簡易宿泊所に住み、孤独で不便な生活を余儀なくされている人々への見守りサービス「寿みまもりボランティアプログラム(KMVP)」、身体、精神・知的など各種障害のため社会に適合できず、路上生活を余儀なくされている人、家族の支えがない状況で依存症とたたかいながら簡易宿泊所等で生活を続けている人々の就労支援をする「寿JUMP」活動、「就労継続支援B型事業てふてふ」、 簡易宿泊所内で、ひとり死を迎える人への介護や看護、往診の提供や必要時の入院先への交渉やお見舞い、役所が開いてない時間帯の葬祭会社への取り次ぎなど。
[10] 『10+1 Ten Plus One』 No.45 都市の危機/都市の再生 ―アーバニズムは可能か?(2006年12月)。
[11] 滋賀県立大学の談話室での議論を読み返してみると、僕は、「貧困ビジネス」についてどう思うかとしきりに聞いている。山谷にしても、釜ヶ崎にしても、ある時期から、ビジネスホテル街に変貌していく経緯がある。その結果、日雇い労働者が排除される事態も出現する一方で、生活保護費を搾取するドヤの事例も現れた。釜ヶ崎では簡易宿泊所をアパート(サポーティブハウス)に転用する行政対応も行われてきた。もちろん、YHVのプログラムは、「影」のビジネスとは一線を画している。あくまで対象は域外のツーリストである。
[12] 3畳一間、いかにも狭い。しかも、屋外空間も貧困で公園や公共施設もない。それどころか、不法投棄された廃棄物や廃車が街の外から運び込まれたりする。そうした中で、横浜市、自治会、住民を交えてまず取り組んだのは外部空間の改善である。プランターを置く緑化運動を皮切りに、縁台を設置したり、街灯を設置したりするなど、街路を住民の憩いの場とする試みが行われた。岡部は、地域のステレオタイプ化した「寄せ場」のイメージを払拭し、再生の方向を示すここでプロモーション・ヴィデオ『KOBOBUKI Promotion』(制作=岡部友彦+福島慶介+川瀬浩介)を作製している。
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