進撃の建築家 開拓者たち 第3回 開拓者01 渡辺菊眞(後編)「地域=地球のデザイン 「宙地の間」」 『建築ジャーナル』2016年11月(『進撃の建築家たち』所収)
進撃の建築家 X人の開拓者たち-今つくる意味を問う:新たな建築家像を求めて 03
開拓者01 渡辺菊真
地球=地域のデザイン
「宙地の間」(渡辺菊真)
布野修司
「宙地の間」は「そらちのま」と読む。英語ではHome between Earth and Skyである。「宙」というのは、日本語では「宙に浮く」「宙に舞う」というように「空」すなわちSky、空間だけれど、中国語では「宙」は時間である。空間は「宇」であり、「宇宙」とはすなわち空間=時間のことである。『淮南子』[1]「斉俗訓」の「往古来今謂之宙、四方上下謂之宇」に由来する。「宙地の間」(図①)には、日時計が組み込まれており、時間の意味も込められている。「間」は、もとより、空間、時間の双方に関わる概念である。S.ギ―ディオンの『時間・空間・建築』を想起させる。
渡辺菊真は、最近の講演などで、「地域地球型建築をめざしてTowards a Glocal Architecture」とうたう。L.コルビュジェの「建築をめざしてVers une architecture」が意識されているのであろう。
「地域地球型建築」とは何か。戦後70年を迎えて本誌に求められ「世界資本主義と地球のデザイン」と題する文章(『建築ジャーナル』2015年12月号)を書いた。そして「「地球」のデザインと「住居」のデザイン、あるいは「地域」のデザインはどう結びつくのか。それこそ「最も豊富なる部分をもつ<全体の>」のデザインの問題である。」と結んだ(『戦後建築の終焉-世紀末建築論ノート』(1995))。「地域地球型建築」という理念とその実践に大いに期待したいと思う。
この場所この地球、あの建築
「この場所この地球(ほし)、あの建築」と題した『高知新聞』の連載は2013年1月から毎週1年連載された(2011年1月10日~12月26日 週刊連載)。毎週送ってもらって感心したのは、「京都CDL」の「ミテキテツクッテ」について触れたように、新たに移り住んだ土地であるにもかかわらず、何気ない風景の意味を深層から読み取って見せる、その眼力である。
「この場所」、そして「この地球」という視線が今建築家に要請されていると思う。 そして、「この建築」にそれを表現したい。
修士論文は、上述のように、「京都における「余白」の発見と、その構成手法に関する考察」と題されていた。そして、個展(1998)は「「風景」建築→建築」と題される(図②)。「余白」ではなく「建築」へ→が向かっている。「風景」がキーワードとされるが、そのプロジェクトは、建都1200年を迎えて喧しい議論が手展開されていた京都の景観問題を背景に[2]、京都ホテルの敷地に京都という都市の機能を全て入れ込もうというある種のカウンター・プロジェクトであった。
想いだすのは、原広司の「住居に都市を埋蔵する」(「最後の砦としての住宅設計))というスローガンである(「第八章 集落から宇宙へ」『建築少年たちの夢』)。例え「猫の額」のような宅地でも、その住宅に都市を、そして宇宙の意味を込めること、渡辺菊真は「あの建築」ではなく、自らの建築として実現しようとしているように見える。
アート・フロント
菊真の手掛けてきた「土嚢建築」は、もう1つの出会いを招く。そして、美術館という制度の中で美術品の展示という形で表現の場を得ることになる。「土嚢建築」は、現代の日本においては建築として自己を実現することはない。建築基準をクリアすることができないからである。仮設建築物としては可能性があるかもしれないが、その実現のためには、とてつもないエネルギーがかかる。きっかけとなったのは、現代美術家高嶺格による「「Good House, Nice Body〜いい家、よい体」展(金沢21世紀美術館)である(2010)。渡辺菊真は、共同で「Good Houseいい家」を高嶺氏と共同で制作した[3](図③)。
住むことwhonen,生きることleben、そして建てることbauen、さらに考えるdenkenことが同じである(M.ハイデガー)位相と格闘してきた渡辺菊真にとって、日本の住宅建設のあり方がむしろ異様に思えたことは当然である。高嶺格は、決してアイロニカルにではなく「Good Houseいい家」を提起しようとしたのであり、「土嚢建築」「鉄骨足場建築」に建築の原初の力を見たのだと思う。
そして、「水と土の芸術祭」の産泥神社のオープン・エア展示がある(図④)。「水」と「土」というのは菊真にぴったりだろう。招待されるべくして招待された。テンポラリーな展示として実現するのであるが、「土嚢建築」だから「黒テント」ほどの機動力はないけれど、都市への強烈な表現手段を意識化することになった。アーティストとしての菊真も魅力十分である。高知県安芸市の大山岬に建つお遍路さんの休憩所「夢のリレー−大山岬にたつ遍路小屋「波動」-」(図⑤)、双隧の間(図⑥)など、インスタレーション作品にその豊かな造形能力の片鱗を示している。
角館の町家
建築家として建築雑誌に発表(住宅特集』2006年6月号)したという意味で処女作となるのは、「角館の町家」(1995)である(図⑦)。渡辺豊和さんの生家のリノべーションである。「みちのくの小京都」角館は、南北二つの町、北の武家屋敷が立ち並ぶ「内町」、南は間口の狭い商家がびっしりと連なる「外町」からなる。渡辺家はこの「外町」にあり、すぐ近くのには、大江宏先生の「角館伝承館」がある。空家となっていた生家にお邪魔して昼寝をさせてもらったことがある。この二つの町の間を走る街路が拡幅されることになり、築100年の町家をそのまま曳家し、新たに水回りを備えた建物を増築する仕事を任されたのである。
日本は最早スクラップ・アンド・ビルドの時代ではない。既に地方は人口減少に向かい、空家問題が深刻である。ずいぶん前から言ってきたけれど、若い建築家が日本で仕事を得ようとすれば、身近なのはリノベーションであり、既存の空間のメンテナンスである。そして、第2には、まちづくりである。地域社会(コミュニティ)のサポート、ケアを仕事にすることである。オーソドックスな建築家として仕事を得ようとするのであれば、需要のあるところ、すなわち海外に行くしかない。渡辺菊真の場合も、リノベーションによって建築家としての歩みを開始したことになる。
ここでも、菊真は、町並みと町家の来歴を読み込むことから始めている。除去した築150年の平屋は3代前、移築した町家は曾祖父、敷地一角には祖父が建てた書庫があり、その3軒をつなげた折れ曲がり渦を巻く動線を活かし立体化した。曾祖父の建てたのは角館最初の2階建町家で、それが典型となったように、移築+増築の方法も「典型」となることを目指した。移築した町家は国の登録文化財に指定されている(2010年)。
土嚢建築
「土嚢建築」はわかりやすい。土嚢という建築材料・部品が大きく全体を規定している。本来、日乾煉瓦によって建設されてきた建築構造システム、空間構成システムを置き換えることによって全体は成り立つ。建設期間を大幅に短縮させる方法はN.ハリーリN(1936~2008)[4]の開発したものだ。渡辺菊真は、上述のように、半ば偶然、カルアース研究所に行って土嚢建築と出会う。
アースバック構法Earthbag Construction、スーパー・アドベSuperadobe構法とも言われるが、土嚢袋を壁状に積み上げ、有刺鉄線や杭などで土嚢袋をズレないように固定していくのがミソである。施工がしやすいこと、安価であり、断熱性や防音性にもすぐれる。問題は、黄麻の土嚢袋が湿気で腐ることである。そこでポリプロピレン袋が使われるが、日光に弱いという問題もある。石化材料を使うのもエコ・アーキテクチャーとして一貫性に欠けるという指摘もあるが、ひとつの構法提案である。何億という住宅難民のために、建築家が果たすべき役割は数多くあるのである。
渡辺菊真の「虹の学校」における独創は、「土嚢建築」「鋼管足場」、竹骨、竹床、アランアラン(草)葺きを巧みに組合せたハイブリッド構法によって、誰も見たことのない空間をつくりあげたことにある。
日時計
さて、「宙地の間」である。「宙地の間」の場合、プリミティブに建築材料が限定されることはないし、「角館の町家」とは異なり、予め前提とすべきフレームもない。しかも自邸であり、要求条件を自ら設定できる。その方法が問われることになる。
渡辺菊真が、空間構成の骨格として選び取ったのは日時計である。具体的には、敷地に合わせた緯度(北緯 34.60°)勾配の南面する大屋根の下に半円筒形の時計版を設置し、屋根のトップライトから注ぐ光線が時刻を示す赤道式日時計が組み込まれ、全体を大きく規定しているのである。何も奇を衒っているわけではない。その骨格に、パッシブデザインの手法が周到に重ねられている[5]。すなわち、井山武司に学んだ「太陽の家(ソラキスSolarchis)」の基礎技術が基本とされている。そして、何よりも、太陽の動き、天候を居ながらにして感じる、自然との交感が意図されている。
実に興味深いのは、渡辺菊真が「標準型の設計」をうたうことである(渡辺菊真「宙地の間—日時計のあるパッシブハウス」『建築討論』006号 https://www.aij.or.jp/jpn/touron/6gou/pdf/pdf_review_work09.pdf)。思い起こすのは、渡辺豊和の「標準住宅001」である。渡辺豊和論として書いたけれど(「第六章 建築の遺伝子」『建築少年たちの夢』)、渡辺豊和さんの一連の住宅作品は、概念建築の作品と思われていたけれど決してそうではない。住宅を芸術作品と考える作家でも、クライアントの要求に丁寧に答える住宅作家でもなく、建売住宅や商品化住宅も含めて、「標準住宅001」という命名が示すように1つの建築類型を提示する基本的構えがあった。「宙地の間」は、その構えを基本的に引き継いでいる。
ユニヴァーサル・ローカリティ
「宙地の間」は、完全に設計方法を内包している。すなわち、地球上どこでもその方法は適用可能である。もちろん、同じ「標準型」がそのままどこでも建てられるということではない。標準設計という概念があるから「標準型Standard Type」という概念は使わないほうがいいと思う。「宙地の間」は「原型Architype」あるいは「基本型Prototype」であり、具体的な場所(敷地)に適用する場合、それなりの設計プロセスが必要である。日時計を機能させるために、建築を正確に南面させて配置する必要があるが、不定形敷地であったり、傾斜地であったり、景観であったり、それぞれに創意工夫が必要である。すなわち、表現は多様でありうるのである。
渡辺菊真は、21 世紀型の空間概念として「ユニヴァーサル・ローカリティUniversal Locality=Universal Sun ×Local Earth 」をミースv.d.ローエの「ユニヴァーサル・スペース」に対置する。「敷地の緯度が建築の標準断面を決定する。次にこの「標準型」を敷地状況へ適応させる。建築資材は地域産材の吉野杉を使用し、その架構に優れた技術を持つ地域の工務店が施工を担う。個別で此処にしかない存在である大地が空間に具体性を生む。」。既に、揺るぎない方法が確信されており、進むべき途は見据えられていると言っていい。
「宙地の間」は決して完成型ではない。日時計が架構方式に組み込まれていないのはいささか不満である。確認申請の手続き上、構造耐力に認められなかったのだという。おそらく、さらなる試行錯誤と洗練化が必要となるだろう。そして、集合住宅モデルなど、多様な建築類型について「宙地の間」の展開を見たいと思う。
もちろん、渡辺菊真への期待はそれにとどまらない。アジア・アフリカをまたにかけた土嚢を積む身体を張った作業からまちづくりまで、職人仕事からアーティストの仕事まで、機会を捉えてまた縁に導かれて、突き進んでほしい。
[1] 前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179~122年)が編纂させた思想書。
[2] 京都の景観問題については、布野修司+アジア都市建築研究会編(1994)「特集:建都1200年の京都」『建築文化』彰国社参照。
[3] 「住居という最も大切で根源的な場所を、しっかりお膳立てされたカタログから選ぶことの奇妙さ、そんな「カタログショッピング」にほぼ一生を費やして大金を払い続けねばならない過酷さ、さらには多種多様のペラペラな壁紙によって保証される「個性」という虚偽(私はこんな壁模様を選んだ、それはお隣の壁とは違う。うちだけの個性!これはドアノブの形状などにもあてはまる)。それは「すみか」と呼ぶにはあまりにかけ離れている。そこで「いい家」では、そんな状況から背を向けて、この手に「すみか」を奪還することを最大テーマとした。」という。
[4]
N.ハリーリはイラン生まれで、トルコ、合衆国で建築を学び、1970年に合衆国の建築家ライセンスを得ている。その土嚢建築が生まれ育った西アジアの伝統的建築に想を得ていることは明らかである。N.ハリーリは、1975年以降、土建築の専門家として、第三世界の住宅開発のための国連のコンサルタントなる。1984年に彼はスーパー・アドベ・システムを開発し、NASAも興味をもったとされるが、国連開発計画UNDP、国連難民高等弁務官事務所UNHCRは、湾岸戦争以降、難民のためのシェルターとして期待している。そして、1991年、カルアースCal-Earth (California Institute of Earth Art
and Architecture)Iを設立する。2004年には、アガ・カーン賞を受賞している。
[5] パッシブハウスの基本であるダイレクトゲインを重視し、南面大開口からの光の受容と遮断を行う庇の出は設置緯度における太陽南中高度により設定されている。外壁および屋根の木部は充填断熱、RC高基礎部は内断熱を施している。そして、部屋に露出するRC高基礎の腰壁は蓄熱体として活用している。切妻屋根頂部に暖気抜きの窓を設け良好な通風が得られるよう留意されている。
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