進撃の建築家 開拓者たち 第20回 開拓者22,23,24,25 ツバメアーキテクツ 山道拓人(開拓者22)千葉元生(開拓者23)西川日満里(開拓者24)石榑督和(開拓者25) あらゆる場所に巣をつくるーソーシャル・テクトニクスの構築 「ツルガソネ保育所+特養通り抜けプロジェクト」2018年04月(『進撃の建築家たち』所収)
開拓者たち第16回 開拓者22 山道拓人 開拓者23 千葉元生 開拓者24 西川日満里 開拓者25 石榑督和 建J
201803
あらゆる場所に巣をつくる―ソ-シャル・テクトニクスの構築
「ツルガソネ保育所+特養通り抜けプロジェクト」
布野修司
ツバメアーキテクツ(以下ツバメ)の千葉元生くんとは旧知の間柄である。父親の千葉政継と僕はクラスメイト、それも雛芥子の仲間なのである。最初に会ったのは北京である。まだ、学部の学生だった。日本建築学会建築計画委員会の「古都の変貌と建築計画」と題する学術研究集会(2007年6月)に親子で参加してくれたのである[1]。次に会ったのは、A-Cupの試合会場である。僕は「フノーゲルス」のキャプテン、元生くんは、塚本由晴率いる東工大チーム(現Bow-Wow Tech)のメンバーであった。千葉は、芦原(義信)香山(寿夫)研究室出身で、村野森建築事務所に長らく勤めた。箱根プリンスホテルなど村野作品をよく案内してもらった。その後独立、宮城大学で建築教育に携わった。もう時効だから明かすと、村野藤吾のところで建築修業をしながら、頼まれた設計の仕事を相棒として一緒にやった。いわゆる「ウラ事務所」である。きっかけは、夜な夜な泊まり込んで親しくなった東京大学工学部一号館の守衛さんから自宅の設計を頼まれたのである。神楽坂の坂を上がり切ったところにあった木賃アパートを借りて図面を引いた。昼間の建築確認申請とか現場の打合せが僕の役割だった。上尾、荻窪にも住宅を建てた[2]。新井薬師の駅前の事務所に移って給食センターの設計や、宮内康さんのAURA設計工房と一緒に産直住宅や病院を一緒にやった。雛芥子でも最も親しい仲間が千葉政継である。
ツバメアーキテクツという変な?名前のグループがあることを知ったのは、403architecture[dajiba]を取り上げた座談会(『建築討論』005号、2015年7月)[3]である。403とツバメが仕事のスタンス、東京と地方、マジョリティとマイノリティ、メディアとの距離などをめぐって、激論!?しているのである。その後、『SD』などのメディアにもツバメの名を見るし、案内をもらった水谷俊博(京大布野研出身)が設計した「アーツ前橋」で開催された「ここに棲むー地域社会へのまなざし」展(2015年10月~2016年1月)にもツバメが「荻窪家族プロジェクト」(図①)を出展している。実を言うと、元生くんがそのメンバーとはしばらく気がつかなかった。ファーストネームは頭に入ってなかったのである。
石榑督和くんと最初に会ったのは、彼がまだ明治大学の青井研究室に在学中だったと思う。青井哲人君(明治大学教授)と一緒に彦根の滋賀県立大学の研究室をわざわざ尋ねてきてくれた(2010年3月)。青井君は、「布野修司の思考と仕事」という「見取図」を持参してきて、連続インタビューをしたいという。結局、それが開始されるのは2016年のことであるが[4]、石榑くんとは僕の自宅でのインタビューなどで何度か会った。驚いたことに、その石榑くんがツバメに参加したという。
ツバメ
不思議な縁を感じて、ツバメの仕事を見たいと、石榑くんに頼んだ。編集長の西川さんも一緒に、四谷の事務所近くの居酒屋で山道拓人くん、元生くんと会った(2017年3月14日)。小泉雅生研究室(首都大学東京)出身で成瀬猪熊建築設計事務所を経てスタッフとなったばかりの岡佑亮くんも合流した。元生くんはノートパソコン持参で、事務所設立以来やってきたことを一通り説明してくれたのだけれど、何せ、飲み屋でうるさい。説明[5]に最も力が入った「阿蘇草原情報館」(2015年)(図②abc)が、メッツ研究所との共同設計と聞いて、話は「ウラ事務所」など専ら父親(オジン)世代の話に堕した。メッツ研究所[6]は、雛芥子の仲間レジェンド枝松(克己)さんが立ち上げた会社である。1977年設立だから昨年40周年、この間、千葉政継がいくつか一緒に仕事をしてきたことは聞いていた。ウェブサイトを覗くと、この間、専ら阿蘇に関する業務に集中してきたようだ。事務所をたちあげたばかりの事務所にしてはプログラムがしっかりしていると思ったけれど、納得である。飲んだ居酒屋は、彰国社があり、大野勝彦さんのアトリエがあったから、僕もよく知っているホームグラウンドだ。何軒か飲み歩くことになった。山道くんにその後会って聞くと「ウラ事務所」などの話しか覚えていないという。
何故、ツバメなの?と聞いて、その答えだけは覚えている。
ツバメ[7]は、渡り鳥として、縁起がいい鳥で、いろんな家に巣をつくる、そして、壊されない!
通り抜け
熊本地震が気になるし、坂口恭平(1月から表紙「きになるばしょ むかしのじかん」連載)の仕事を覗きに行く話もあるから、見てくる、最新作は何?と聞いたら武蔵野市の「8人のシェアキッチン」(図③)という。面白そうだね、といって散会したのだが、この1年その機会をつくれなかった。気がつくと、2017年には、『新建築』に「ツルガソネ保育所+特養通り抜けプロジェクト」(7月号)(図④)abcd「牛久のおやこ屋根」(10月号)(図⑤ab)の2作品が掲載され、「ソーシャル・テクトニクス展」(7月~9月)も開いて、『KJ』誌(10月号)には「ツバメ」のこれまでの仕事がまとめられている。とにかく何か見せて、ということで、再び西川編集長とともに八潮に出掛けた。山道、千葉、石榑の3人に、昨年末新たに加わった鈴木志乃舞さんが一緒だった。学部は明治大学青井研、修士は東工大塚本研出身である。生憎の大雪で、ツルガソネ保育所のみの見学となった(2018年1月22日)。
ツルガソネ保育園の設計依頼は、「アーツ前橋」での展覧会がきっかけという。「荻窪家族プロジェクト」は、瑠璃川正子氏によって構想され、連健夫氏が設計を手がけた、地域の人が集う工房やラウンジ、集会室などの共用スペースを持ち、住む人、使う人が一緒に作っていく「地域開放型の賃貸共同住宅」である。ツバメアーキテクツの役割は、現場工事と並行してワークショップを開催、小さな公共機能を持つスペース[8]を設計に反映することであった。
社会福祉法人福祉楽団とアトリエ・ワン(塚本由春・貝島桃代)が仕事上のつながりがあり、理事長の飯田大輔さんが「荻窪家族プロジェクト」に興味をもったのだという。内閣府の企業主導型保育事業の一環で、福祉楽団が運営する特別養護老人ホーム(「特養」)「杜の家やしお」の職員のための保育所である。「特養」の補修とともに依頼された隣接する敷地に建てられた小さな保育所であるが、山道くんの現場での説明は、専ら、裏にある八潮高校へ高校生たちをどう通り抜けさせるか、老人ホームと保育所をどうつなげるか、であった。すなわち、エントランスにバスケットのミニ・コートを設けた、裏口にはフリーファイが使えるベンチそして自動販売機を設置した・・・。高校生たちは使うの?と聞くと、よく使われている、という。キーワードは「通り抜け」である。敷地の境界を取り払って考える!である。ただそれだけ? しかし、そこに突破口がある。
地域に開く
戦後の公共建築の設計計画を主導した吉武(泰水)・鈴木(成文)研究室を出自とする僕には感慨深いものがあった。僕が研究室に在籍した1970年代に既に縦割りの施設計画への批判は全面的であった。ティームティーチングやノン・グレーディング(無学年制)のオープン・スクールの提案があり、施設用地の不足を背景に施設の複合化が大きな課題として意識されていた。老人施設と保育施設を融合せよ![9]などと突き上げたけれど、世の中必ずしもそうは動かなかった。しかし今、待機児童問題を背景に、新たな地域ぐるみの保育のあり方が模索され、実際に実践されつつある。ツバメに求められたのは、まちに開かれた地域ぐるみの保育所であり、高齢者施設である。クライアントの飯田大輔福祉楽団理事長は、「そもそも、地域交流の稀薄化というのは歴史的にみると、制度によって老人ホームや保育園、学校、病院というように、本来家庭や地域で担ってきた活動を外部化し、サービスとしてきたことに起因するんですよね」[10]という。施設=制度(インスティチューション)に対する根源レヴェルでの批判である。『戦後建築論ノート』(1981年)の最後の一行に「建築が様ざまな制度を通じてしか自己を実現することがないとすれば、制度と空間、制度とものの間のヴィヴィッドな関係をつねに見続けていく必要があるはずである」と書いた。ツバメは、実に頼もしく「我々はこうした(既存のインスティチューションと社会が大きくズレている)状況にこそ建築の可能性を感じ、実践によって制度や枠組みを替えていく可能性があると確信している」と言い切る(『KJ』2017。10)。
日本列島の至るところで地域コミュニティそのものの衰退がある。一つの閉じた敷地でのみ建築を考えるわけにはいかない。だから、全てのプロジェクトについて周辺を含んで提案するのだという。「牛久のおやこ屋根」は、住宅+医院であるが、まちに開かれた図書室(こひつじ文庫)を併設する。ユニークにもプライベートなコンペによって選ばれたというけれど、まちに開くというのはクライアントの要望でもあった。写真で見る限り、水準の高い空間が実現しているように思える。雪で見学を阻まれたのは残念だった。
Lab
ツバメは2013年に3人で立ち上げた。山道、千葉は坂本・塚本研究室の同級生、西川日満里さんは、Y-GSA出身でシーラカンスを経て設立メンバーになる。いかなる経緯で3人が意気投合したのか、山道くんにメールで聞いたら、学生時代からの友人で、タイミングよくシーラカンスを辞めたので、迷わず誘ったのだという。3人とも1986年生まれである。2016年に加わった石榑くんも同い年である。建築学会の論文発表会で知り合ったという。山道くんは今でも母校の博士後期課程に席を置いているが、小さなアトリエだけれど、当初(2014年)から「空間の設計をする「Design」と空間が成立する前の枠組みや完成後の使い方を思考し、研究開発やまちづくりを行う「Lab」の二部門からなる組織」をうたう。石榑くんは、第1回のツバメゼミで「インフォーマル ―かたい都市とやわらかい都市―」(2016年1月15日)と題して報告している。第2回は元生くんの「Autonomy of Architecture」(2016年3月31日)である。大学の研究室の延長の雰囲気がある。
石榑くんの学位論文そしてそれを基にした『戦後東京と闇市 新宿・池袋・渋谷の形成過程と都市組織』は一級の仕事だと思う[11]。今のところ,大学に席を置きながらの研究担当ということである。元生くんの「建築の自律性」をめぐる議論は極めてポレミカルである。インターン生の泊絢香さん(当時明治大学大学院)のレポートに依れば、「建築の自律性とは、設計者の意思とは関係なく、自分が決定するよりも前にすでにあるもの」であり、「周辺の建築類型や街並みを参照し、現代の環境に合わせて変形する設計手法」に関心があるという。都市組織と建築の自律性、機会があればさらに議論を聞きたいと思う。現在、アソシエーツになった日本大学理工学部出身の川田実可子さんもかつてはインターンである。とにかく日常的な議論があるのはいい。われわれの時代には、徒弟修業と称する無償のムスケル、アルバイト費を浮かすためのオープンデスクが少なくなかった。
ただ、ツバメのLabは、研究開発を企業とも連携して行うもっと積極的に位置づけられた部門でもある。
家具
山道、千葉の両くんには、東工大の塚本研究室で「環境エネルギーイノベーション棟」の基本設計、実施設計、設計監理に携わった経験がある。そして、立ち上がりにおいて「阿蘇草原情報館」を設計する機会に恵まれている。しかし、舞い込んでくるのは 「旬八青果店」(2014年)(図⑥)、「高島平の寄合所と居酒屋」(2014年)(図⑦)などいわゆる小さなプロジェクトである。「荻窪家族プロジェクト」(2015年)も、ツバメアーキテクツのやったことはいわゆる建築家のお手伝いと言えなくもない。インテリアやリノヴェーションの仕事が多いのは、若い建築家には共通である。時代が、日本の社会がそれを要求しているのである。
ツバメの仕事のひとつの方向は、八百屋にしろ、居酒屋にしろ、賃貸集合住宅にしろ、保育園にしろ、委員にしろ、街に開いていく、地域社会との接点を可能な限り拡大していくことである。そして、もうひとつ興味深いのは、家具への着目である。「KINOKO」と名付ける「小径木広葉樹を活用した家具」(図⑧)、「舞パブリック屋台」と名付ける「マトリョーシカ」型の移動家具(図⑨)、「しかく」と「まる」という「居場所をつくる」家具(図⑩)など、楽しそうな家具をいくつか製作している。石山修武のDAMDAN空間工作所が2×4材で遊具などを作ってダイレクト・ディーリングを試みていたことを思い出す。今のところどのような展開を構想しているのか、商品化を考えているのかどうかは不明であるが、第一の方向へ統合していくことが当然考えられる。すなわち、建築を地域に開き、地域を建築にとり込む家具、装置、仕掛けの開発である。巨大な倉庫をシェルターとして、家具を設えて街をつくる「Make Alternative Space」展にはそんな戦略を窺うことができる。
ソーシャル・テクトニクス
ツバメは、「ソーシャル・テクトニクス(社会的構法)の建築」と呼ぶ新しい建築実践の方法論を提示しようとしている、という。「人々」施主・利用者・地域の住人、異なる世代etc:なるべく多くの人が関われる可能性に開かれていること、「資源」タイポロジー、風景、材料、伝統技術:地域資源を発見し関係性に組み込むこと、材料や伝統技術とともに、建築類型やランドスケープなど空間的な資源にも着目しその知性を引継ぐこと、「時間」短期的な可変性・中期的な更新可能性・長期的な持続性・歴史との接続:、「領域」建物協会の拡張・敷地境界の拡張:という4つのヴェクトルを、その場所ごとに相応しい在り方で均衡させ、結び合わせるのだ、と(『KJ』2017.10)。正直、ピントこない。方法というより方針という感じがしないでもない。403であれば「全てはコンテクストである」といい、人材、空間、素材を含めて地域資源として「マテリアルの流動」というところである。方法というのであれば「場所ごとに相応しい在り方で均衡させ、結び合わせる」方法を提示すべきである。昨年、「ソーシャル・テクトニスの建築展」(2017.7.23~2017.9.1)の際に、藤村龍至らゲスト[12]を招いて議論しているが、どんな議論になったのか。
テクトニクスとはラテン語で「建築物」のことだから「・・の建築」と言わなくていい。それに、通常地質学で岩盤、プレートテクトニクスのように用いられるのであるから、ソーシャル・テクトニクス理論でいい。すなわち、社会の基盤となる建築物群をつくるのである。構法というのだから、建築構法も含みこんだ理論が欲しい。N.J.ハブラーケンの都市組織論[13]が思い浮かぶ。都市型の建築類型とその集合が織りなす近隣組織、街区組織のモデルが組み立てられる必要がある、などというと、オールド・パラダイムと言われるだろうか。ひとつひとつの実践で示していく、それがモデルになることを目指すということであろうけれど、ソーシャル・テクトニクスをつくればいいのである。老人施設、保育園そして高校を連結する「ツルガソネ保育所+特養通り抜けプロジェクト」が既にそのモデルになっている。Labを売りにするのであるから、理論構築のためのさらなる展開をーと書いたところで、「テクトニクスの現在形 新しい建築の風」(中川エリカ・稲垣淳哉・山道拓人、ミサワホーム主催、2月26日)というシンポジウムの案内が届いた。本稿に反映する余裕はないが、議論の広がりに-大いに期待したい。
明快で迫力あるのは「建物や敷地境界といった物理的な境界を越境していく」という指針である。そして、建築を地域に開き、地域を建築にとり込む装置への着目がある。シェルターと構法の理論をそれに統合化していく方向は見えているように思えるけれど、如何?
山道拓人 Takuto
Sando
1986 東京都生まれ。2008
Studio of Cityscapers @エディンバラ大学。。2009 東京工業大学工学部建築学科卒業。2011 同大学大学院 理工学研究科建築学専攻(塚本由晴研究室)修士課程修了/2011-同大学
塚本由晴研究室 博士課程/2012 Alejandro Aravena Architects/ELEMENTAL( 南米 / チリ )/2012-2013
Tsukuruba Inc. チーフアーキテクト/2013 株式会社ツバメアーキテクツ設立/2013-2014 横浜国立大学大学院建築都市スクールY-GSA 非常勤教員/015- 東京理科大学 非常勤講師。2009 第35回日新工業建築設計競技大賞受賞。2009 東京工業大学卒業設計優秀賞。2009 WORLD SPACE CREATORS AWARDS 2009
2012 グッドデザイン賞 (塚本由晴研究室での担当作)。2012 Tehran Stock Exchange Competition 1st Prize(Alejandro Aravena
Architectsでの担当作)。2016 グッドデザイン賞(ツバメアーキテクツ)
千葉元生 Motoo Chiba
1986 千葉県生まれ/2009 東京工業大学工学部建築学科卒業 坂本一成研究室。2009-2010 スイス連邦工科大学 ETH。2011 Jonathan Woolf Architect London( イギリス /
ロンドン )。2012 東京工業大学大学院 理工学研究科建築学専攻(塚本由晴研究室)修士課程修了。2012- 慶応義塾大学システムデザイン工学科 ホルヘ・アルマザン研究室テクニカルアシスタント。2013 株式会社ツバメアーキテクツ設立。2015- 東京理科大学 非常勤講師2012年 グッドデザイン賞 (塚本由晴研究室での担当作)
2016 グッドデザイン賞(ツバメアーキテクツ)
西川 日満里 Himari Saikawa
1986 新潟県生まれ。2009 お茶の水女子大学比較生活文化学講座卒業。2010 早稲田大学芸術学校建築設計科修了。2012 横浜国立大学大学院建築都市スクールY-GSA卒業。2012-2013 CAt(Coelacanth and
Associates)勤務。2013 株式会社ツバメアーキテクツ設立。2011 日本建築学会設計競技 最優秀賞。2012 Y-GSA賞。2016 グッドデザイン賞(ツバメアーキテクツ)
石榑督和 Masakazu Ishigure
1986 岐阜県生まれ。2009 明治大学理工学部建築学科卒業。2011 明治大学大学院理工学研究科建築学専攻(青井哲人研究室)博士前期課程修了。2014
明治大学大学院理工学研究科建築学専攻博士後期課程修了 博士(工学)。2015-2016 明治大学理工学部助教。2017-東京理科大学助教。2016- ツバメアーキテクツ参画。2015年日本建築学会奨励賞
[1] 建築計画委員会の委員長として企画開催した。建築計画委員会春季学術研究集会(北京),「古都の変貌と建築計画」,「北京胡同の保存と再生,
呂 斌(北京大学 環境学院 都市・地域計画系 教授)他 北京大学,中国建築学会,6月1日~3日
[2] 上尾の住宅 1974~75(図X)。
[3] 座談会:「「限定」がひらく複合性~403architecture[dajiba]の作品とそのコンテクスト」。辻 琢磨・山道 拓人・千葉 元生・市川 紘司・川井 操・石榑 督和・戸田 穣(『建築討論』005、2015年7月)。
[4] 現在まで3回実施。2回については公表されている。「連続インタビュー 01 1968-69年:東大入学と全共闘運動への共振」http://d.hatena.ne.jp/a_aoi+shuji_funo_interviews/20160806/1469846835「連続インタビュー 02 1968-69年 補遺/1970-72 雛芥子の胎動」http://d.hatena.ne.jp/a_aoi+shuji_funo_interviews/
[5] 地域に見られる農事小屋型の建築類型を参照し、「草原学習館」と「草原情報館」の中心に事務所スペースやワークスペースを設ける雁行形式をとったこと、2つの建物の屋根の連なりと外輪山の雄大な山並みの風景との調和を考えたことなど(KJ201710)。
[6] メッツ研究所は、 「国内外の都市、地方がかかえている問題について研究・調査し、 課題解決に向けた提案、実現に向けた支援を行うコンサルタント会社です。
国立公園地域の整備、自然再生事業、里山保全活用、島づくり、 移住定住促進、物流・交通などの分野を得意としています」とうたう。http://mets-ri.co.jp/
[7] ツバメは、人が住む環境に巣をつくる習性をもつ農村では、穀物を食べず害虫を食べてくれる益鳥として、巣や雛を古来大切にしてきた。ツバメの巣のある家は安全であるとされ、人の出入りの多い商家などでは、商売繁盛の印ともなってきた、という。
[8] 誰でも気軽に訪れ相談することが出来る「暮らしの保健室」、庭の草木を見ながらお茶を楽しめるウッドッデッキ、居住者のためのシェアワインバー、太極拳教室のできる鏡貼りの集会室など。
[9] ベーカリーカフェを併設した「まちの保育園・小竹向原」(2011)以降、吉祥寺、六本木、代々木上原にまちの保育園を展開する松本理寿輝まちの保育園・こども園代表は「若い子育て世代のコミュニティと高齢者世代のコミュニティを橋渡しすることができたら、街全体がネットワークできるのではないかと気付いたんです」という。
[10] ツバメアーキテクツ(山道・千葉)は、作品発表に合わせて、と松本理寿輝まちの保育園・こども園代表にインタビューしている(特集「まちのインフラとしての保育施設」『新建築』2017年7月号)。
[11] 布野修司「東京:祭師と開発業者たちのパラダイス?」書評/石榑督和 『戦後東京と闇市 新宿・池袋・渋谷の形成過程と都市組織』 鹿島出版会 2016年9月20日『建築討論』010号、http://touron.aij.or.jp/2016/12/3277
[12] ツバメゼミ001「社会構築について」:藤村龍至氏(東京藝術大学准教授/建築家)/ツバメゼミ002 「資源について」:浅子佳英氏(建築家/タカバンスタジオ代表)岩岡孝太郎氏(株式会社飛騨の森でクマは踊る執行役) /ツバメゼミ003「福祉について」:金野千恵氏(建築家/teco)アリソン理恵氏(建築家/teco)
[13]N. J.Habraken1998(), The Structure of the Ordinary, Cambridge, London, MIT Pressなど。
0 件のコメント:
コメントを投稿