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2021年5月29日土曜日

 「物件」に「物語」を! 「住」を「文化」に!-まちをまるごと再生する魔法 「SODACCO」  進撃の建築家 開拓者たち 第22回 大島芳彦(開拓者27)

 進撃の建築家 開拓者たち 第22回 大島芳彦(開拓者27) 「物件」に「物語」を! 「住」を「文化」に!ーまちをまるごと再生する魔法 「SODACCO」 201806月(『進撃の建築家たち』所収)



開拓者たち第22回 開拓者27 大島芳彦(Blue studio)               建J  201806

 

 「物件」に「物語」を! 「住」を「文化」に!-まちをまるごと再生する魔法

SODACCO

布野修司

 

 今や風雲児、飛ぶ鳥を落とす勢い、それこそ「進撃」を続ける大島芳彦(図⓪)[1]の名前を知ったのは、恥ずかしながらごく最近である。東京に引っ越してきた娘が、ブルースタジオBlue studioって知ってる?と聞く。中古マンションをリノベーションして住みたいと関連の本、雑誌、ネットをいろいろ調べたらしい。作品を見ると、マンションの一室に鉄製のらせん階段がぽつんと置かれたり、なかなか格好いい。オープンAの馬場正尊さんなどの名前が一緒にあるから、リノベーションの仲間と直感、面白いんじゃない、と答えた。娘たちは、ブルースタジオ開催のセミナーにも行って、「物件」探しから頼むことになった。


 松村秀一先生の『ひらかれる建築―「民主化」の作法』が同じ頃上梓された(201610月)。かつて一緒に編集をしてきた『群居』[2]の話が出てくる。工業化住宅について長年研究してきた彼が、最近、「箱の産業」から「場の産業」へ、と主張する。さらに、建築学科には最早可能性がない、と言ったりする[3]。『群居』世代を「民主化」の第二世代といい、今後の建築家のあり方を展望するこの新刊本をネタにAForum[4]で議論しようと持ちかけたら、大島芳彦というすごい奴がいるから呼びたいという。「高品質低空飛行」を唱え、同じく第三世代の旗手とされる島原万丈さんと3人で話してもらうことにした(201743日)[5]。この企画が成立した頃、娘が、今度、ブルースタジオの大島さんがNHK(プロフェッショナル 仕事の流儀 2017116日放映)に出るらしいよ、という。ブルースタジオと大島芳彦の名前が結びついたのはこの時である。「廃墟がよみがえった リノベーションの魔法」と題されたNHKの番組は、そのエネルギッシュな活動を活き活きと伝えるものであった。

 多彩な活動の全貌に触れるわけにはいかないけれど、何か見たいと頼むと、「SODACCO」を案内しましょう、ということになった。西川編集長も一緒に出かけていろいろ話を聞いた(327日)。



         

 SODACCO

SODACCOとは、子どもとクリエイターが「育つ」(「育っ子」)という意味の造語である。オイルショック直前(197173年)に建設され、化粧品会社が使用していたオフィスビル(図②before ABCDE)を、代官山を拠点としてきた「地」の企業(Urban Resort Group(株)佐藤商会)が買収、リノベーションした「物件」である。13階は子ども・キッズをテーマとした事業者向けのテナントスペース、46階にコアテナントしてクリエイター専用シェアオフィス「co-lab代官山」が入居する。

ブルースタジオは、大地山博[6]、大島芳彦、石井健[7]という武蔵野美術大学建築学科の同級生3人を核とするが、Co-lab」を立ち上げた田中陽明も学科は違うが同級生である。今や千駄ヶ谷、西麻布、二子玉川、渋谷アトリエ、墨田亀沢、そして代官山の6カ所に展開、コラボレーション誘発のためのクリイティブ・プラットフォーム(シェア・オフィス)をうたう。確実に時代のニーズに応えている。若きクリエイターたちが自転車で通ってきて仕事をする様子は実にいい雰囲気であった。






 代官山でもヒルサイド・テラス方面とは町の雰囲気は異なる。徹底して市場調査をした。地価や家賃などオープンデータを机上で調べる従来型の調査ではない。聞けば、僕らの臨地調査(フィールド・サーヴェイ)と同じだ。歴史的な形成過程を含めて地区の成り立ちを読む。隈無く歩き回ると意外に子ども関連の店が多い。孫を連れたジージ、バーバの姿も少なくない。SODACCOの企画はこうして組み立てられた。それにオーナーが地元の商店街を束ねてきた「地」に根を張った存在であったことも大きい。その本社ビルのリノベも手がけた(図②before After)。

         

 ブルースタジオ

  立川の旧米軍ハウスでのシェアハウス体験が原点と言うからてっきり、武蔵野美術大学の先輩、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』(芥川賞、1976年)から採ったと思っていたら、「藍は藍より出でて藍よりも青し」に因るという。「師匠を超える」という諺である。命名したのは、グラフィック・デザインに転じていち早く独立してブルースタジオを設立(1997年)した大地山氏である。昨年は設立20周年であった。大島芳彦が、海外遊学の末に就職した(1997年)石本建築事務所を辞して、家業を継いで大島土地建設株式会社、代表取締役に就任し、同時にブルースタジオに合流したのは2000年である。

 もともとは彫刻家になりたかったという。武蔵美で油絵を学んだ母親の影響がある。美大を目指した仲間に東京芸術大学に入った岸健太(現秋田公立美術大学)がいる。僕が今でもフィールドにしているスラバヤで活動[8]していることはかねてから知っている。世の中狭い。ブルースタジオ設立の頃はごく近くにいた。大島さんは竹山実研究室出身というが、武蔵美の近くに住んでいる縁で僕も非常勤で通ったことがある(「東南アジアの住まい」1986年前期)。長尾重武元学長はまだいなかったはずだから、今でも同じ団地に住む源愛日児先生の依頼だったかもしれない。

 高校生(桐朋高等学校)の時パンク系のバンドをやっていたといい、武蔵美では「いかにひねくれるか、斜に構えるか」が自分の価値だと思い、「全部とにかく否定してやろう」「とにかくまずは疑ってみる」という気持ちだったという[9]20年のタイムラグがあるけれど、僕らの学生時代の気分に似ている。「雛芥子」というのは「武蔵野タンポポ団」[10]を意識した命名だった。元々は「本郷雛芥子団」と名乗った。武蔵美には、兄貴分の「遺留品研究所」(真壁智治、大竹誠、中村大助、村田憲亮)が暴れてまくっていた。

 学生時代に時空を共有(活動を共に)しながら熾烈に議論する、そして、散らばってそれぞれが修業した上で再結集する、クリエイター集団誕生の理想の軌跡に僕には思える。


  海外遊学

 バブルが弾け空白の10年へ突入した1990年代前半、僕が京都大学に赴任した頃最初に出会った建築家たちと同世代だ。学生時代、東欧を含めたユーラシアを歩いた。「真面目に大学教育通りに勉強をしてこなかった」ためにダブった間は、磯崎アトリエで模型づくりのアルバイトもした。ベルリンの壁の崩壊(1989年)、そしてソ連邦の解体(1991年)という転換期だ。森田一弥(開拓者14、連載1213回)が同じ頃ユーラシアを放浪したことを思い出した。森田は、西欧建築ではなくアジアの建築を見たかったといい左官修業に向かうのであるが、大島が向かったのは南カルフォルニア建築大学SCI-Arcである。それでいてロンドン大のバートレット・スクールThe Bertlett UCLにも通ったというので、いきさつを聞くと、SCI-Arcがウィーンの応用美術学校やバートレットなどと交換プログラムを持っていて、サマースクールにP.クックそしてE.ミラーレスが教えに来ていた縁である。

 3年の海外遊学を終え28歳になろうとする時、石本建築事務所に就職する。多少寄り道したかもしれないけれど、堂々たる建築家としてのスタートである。精悍なる風貌、そして、既存の建築のあり方を鋭く批判する姿勢にはなんとなくそぐわないと思って、なんで組織事務所を選んだの?と問えば、散々遊んで親に迷惑をかけたのでちゃんと就職するつもりだったという。本人の意識の上では、真っ当に建築を追求してきたということであろう。NHKの番組でも、不動産業には興味がなく、独創的な建築をつくりたいと思っていた、と述懐している。

 転機となったのは、家業の継承である。

 

 土地のデパート

 ブルースタジオの事務所は東中野の駅に接している(図③a)。ドキュメンタリー映画など単館系の映画を上映する「ポレポレ東中野」の向かい側だ。聞けば、お爺さんがすごい人だったらしい。戦前期に東京さらに関東一円の土地を扱う不動産業の草分けで、関東大震災後の東京復興計画に当たっては後藤新平と渡り合ったという。『政経グラフ』の「特集大島土地号」の表裏表紙はそのすごさをうかがわせる(図③b

 大島芳春、北海道江別出身、上京して早稲田専門学校に在学中,アルバイトで土地分譲会社の星野土地(新宿)に通っているうちに「土地事業こそわが生涯の仕事」と思い定めて中退,1925年に東洋土地を設立(1927年,社名を大島土地と改称)した。当初から、東中野駅前が拠点だ。初期には郊外での造成分譲をしたが,やがて「便利な市街地を・狭くても一般市民が買える価格で」をモットーとして駒込,板橋,目白,滝野川などで分譲事業を進めるようになったという(図③c)。全日本不動産協会創設と宅地建物業法施行に尽力し、初代協会副会長を務めた。

  親父さんがその後を継いだ。そして、その親父さんを継ぐことになる。間違いなく、大島芳彦には大島芳春の血が流れている。建築業から不動産業への転業ではない。建築家の職能を拡張していく可能性を家業の流れに見出していくのである。



 

 リノベーションの世界

 家業を引き継いだ頃、所有管理する物件に借り手がつかない、買い手がいない事態に直面する。リノベーションを始めるのは自然の流れであった。松村秀一らがコンヴァージョン研究会を始めるのが2001年、1968年生まれの馬場正尊が博報堂、石山修武研究室を経てOpen Aを設立したのが2002年、振り返れば、世紀の変わり目に潮目の転換がある。

 当初からリノベーション事業がうまくいったわけではない。「任せる」と言われて、喜んで設計しても、借り手、買い手がつくとは限らないのである。立地・価格・広さで不動産価値が決められ、市場が形成される時代ではないことに気づかされる。

 売り手(貸し手)の思い、買い手(借り手)の思いが一致しなければ動かない。物件に物語を!「この人(=キャスト)、この場(=シーン)、このタイミング(=シナリオ)でなければできない、〝物語〞をデザインする」という方針が確信された。

 リノベーションは一大潮流になっていく。2011年に北九州からはじまり地方都市再生のためのワークショップとして、各地で開催されるようになった「リノベーションスクール」でも、大島は大きな役割を果たしていく。学生と共に都市の木造密集地帯の住みこなし方を考える「木賃アパート再生ワークショップ」を展開する一方、業界を束ねる一般社団法人リノベーション住宅推進協議会では理事副会長を務める。

 

 東京スタンダード

 娘の家族がモデルルームを見に行くというので、スポンサーを装って付き合った。そもそもマンション一室のリフォームの仕事は設計料だけでは割に合わない筈だ。かねてから理不尽と思っているのであるが、宅地建物取引業というのは売り手から3%、買い手から3%、合わせて6%を手に入れる。多大なエネルギーをかけて設計しても、住宅スケールの仕事であれば3%ももらえない実態は昔からそう変わらない。かつて、設計施工を一貫して担うアーキテクト・ビルダーという職能の可能性を展望したのは代願料(建築確認申請のための計画概要書作成代)20万円という時代である。東洋大学時代、理解を得られずあえなく潰されたけど、土地と建物を合わせて企画計画設計、維持管理するリアル・エステート(不動産)学科の設立を提案したことがある。黙っているつもりであったけれど、施工体制が気になって多少プロっぽい質問したら正体がバレた。個人を対象とする業務[11]は石井健氏の担当というが、総勢30名(現在は37名)のうち設計が25名、不動産関係が5名というバランスはどうかと思ったのである。

 基本的には、標準仕様(東京スタンダード)を用意しオプションを加えるというシステムであり、一定の施工業者との提携関係が構築されている。問題は、物件探しである。大手不動産会社が情報を支配しているなかで割って入るのは必ずしも容易ではない。施工そのものは、20坪程度のマンションであれば、実際そうであったが、職人一人で対応できる。娘たちは何度か打ち合わせを重ねて満足できるプランを得たようだ。ブルースタジオのウエブ・サイトには「やわらかくてあたたかいもの」というタイトルで紹介されている[12](図④abc)。





 郊外団地

 NHKプロフェッショナル仕事の流儀」がピックアップしたのは、首都圏郊外の団地再生(「ホシノタニ団地」(図⑤ab)、大東市のまちづくり計画、鹿屋の廃校となった小学校の再生「ユクサおおすみ海の学校」などである。リノベの仕事は、都市計画、アーバンデザインの領域に拡がる。それぞれの場所をフィールド・サーヴェイする様子が印象的であった。前述のA-Forumの研究会での「つかいこなす時代の暮らしの価値」と題した講演では、「ホシノタニ団地」と椎名町のまちづくり「シーナと一平」を紹介してくれたのであるが、「常識を疑え、敷地に価値なしエリアに価値あり、結果に価値無しプロセスに価値あり、暮らしの価値とはコミュニケーションの価値である、価値ある不動産・家・街とは、主体性を持つ当事者による共感によって繋がれた持続性のあるコミュニケーション、価値が無いと思っている日常の風景に、身のまわりの人々に、あたりまえの食卓に今一度目を向けてみよう・・・」と畳みかけるようなアジテーションに圧倒された。

 偉大なる日常に潜む価値を再発見していくのだから、その仕事の広がりはとどまるところをしらない。しかし、いかにカリスマ大島芳彦といえども、あらゆる地域にかかわるわけにはいかない。根底にある基本的な問題は、「あなたでなければ、ここでなければ、いまでなければ」という当事者意識である。一方で、建築家として、まちづくりの仕掛け人として、リノべーションの魔術師としての戦略、ブルースタジオとしての企業戦略は当然ある。

 どうやらひとつのターゲットは郊外団地の再生らしい。大島芳春の大島土地の分譲地の沿線分布図が頭に浮かぶ。一方でチームとしては、マンション再生やSODACCOのようなリノべーションも引き受けていく。また、地域で子どもを育てる「まちのこども園 代々木公園」(2017年)の設計も手がけている。まちの再生、ひいては東京全体の再生が視野に置いた、その仕事の拡がりは頼もしい限りである。






 

 「衣食」は文化として成立している。しかし、「住」は文化になり得ていない、と大島芳彦はいう。全く同感である。建築は「物件」であり続けている。新築にしても相も変わらず数多くの建築が「物件」として設計され続けている。リノベーションとは、そもそも、使われなくなった建物(屍体)を蘇生(Re-Innovation)する行為である。「物件」はそのままであれば死体でしかない。「物件」を共感の環と当事者を生む「物語」へ、というスローガンは全ての建築家に投げかけられている。



[1] 1970年東京生まれ。1993年、武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。19941997年、Southern California Instituteof Architecture(米国)・The Bartlett University College London(英国)。1997年、石本建築事務所入所。2000年、株式会社ブルースタジオ参画、専務取締役就任。

[2] 198212月に創刊準備号、19834月に創刊号を出して、200010月の50号、1231日の終刊特別号まで、51号を刊行。 編集長:布野修司、編集同人:大野勝彦、石山修武、渡辺豊和、野辺公一、高島直之、松村秀一。

[3] 箱の産業から場の産業へ-日本の住宅生産:過去・現在・未来-,2015424日(金),八束はじめ・布野修司対論シリ-ズ 第5ゲスト 松村秀一,『建築討論』005号,日本建築学会,201507

[4]  アーキニアリング・デザイン フォーラム(ArchiNeering Design Forum 略称 A-Forum)」。アーキニアリング・デザイン(AND)とはArchitectureEngineering Designとの融合・触発・統合の様相を意味する。斉藤公男、和田章、神田順、金田勝徳をコア・メンバーとして2013年設立。布野は2015年より「建築の設計と生産(アーキテクト/ビルダー)AB研究会」メンバーとして参加。

[5] 建築家の終焉!?「箱」の産業から「場」の産業へ 第13回けんちくとーろん(AF=Forumアーキテクト/ビルダー研究会Architect/Builder Study Group共催)建築の設計と生産:その歴史と現在の課題をめぐって05 コーディネーター:安藤正雄、布野修司、斎藤公男 パネリスト:松村秀一、大島芳彦、島原万丈.日本建築学会『建築討論』2017 summer/04-06

[6] 鹿児島県生まれ。1993年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。1995年株式会社INTEC CG1997年ブルースタジオ創業。1998年株式会社ブルースタジオ法人設立・ブルースタジオ代表取締役社長。

[7] 1993年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業19932001年株式会社TIS & Partners2001年〜現在 株式会社ブルースタジオ 執行役員。不動産商品開発と建築設計を中心業務としつつ、関連するマーケティング調査、ビジネスモデル開発、ITプラットフォームの設計などにも従事。特に日本国内の個人実需向けの中古住宅+リノベーション分野においては市場の黎明期より第1人者として活動。

[8] 1969年東京生まれ。東京藝術大学美術学部建築科を卒業後、Cranbrook Academy of Art (ミシガン・米国) 修了。シンガポールの複数の教育機関で実験的なデザインスタジオを指導した後、1999年より日本での活動を開始。2003年より、都市・建築・デザイン・アートの領域を横断する活動拠点として「LWL -Lab for the Wonder Landscape-」を主催している。近年は、インドネシア・スラバヤ市を対象に、新興都市の変化の過程に着目する調査と表現の活動に、現地市民や様々な専門家とともに取り組んでいる。スラバヤでの都市研究組織「OHS -Orange House Studio-」共同代表。

[9] 大島芳彦「新築でもリノベでも構わない。建物やまちに生まれる状況そのものが僕らの作品だと思っている」田中元子インタビュー 『awesome!No.03, October, 2014.

[10] 日本のジャグ・バンド。フォークシンガー高田渡を中心に、吉祥寺のライブハウスぐぁらんに集まるミュージシャンたちで結成された。高田渡、シバ以外のメンバーは流動的で不定だった。1972年の年末まで活動。その後もぐゎらん堂主催のイベントなど折に触れて再結成することがあった。「走れ!走れ!コータロー」の山本コウタローもいた。

 

[11] ブルースタジオは、個人向けサービスを行うCS(コンシューマーサービス)事業部、法人向けサービスを行うCG(コンサルティンググループ)事業部、SD(スペースデザイン)事業部、および不動産事業部の4部署からなっている(2016年当時)。

[12]  キャンプや音楽がお好きで家族でフェスにも行くTさん家族。長男の小学校入学に間に合うならと家づくりを決意し、バスが便利な三鷹エリアでマンションを購入。和のテイストを取り入れたいという希望だったので、寝室と子ども部屋の壁には漆喰を、玄関は洗い出しの床に日本庭園のように飛び石を配置。子どもたちが裸足でその上を跳べるよう、大きさや向きを慎重に配置した。寝室と子ども部屋は引き戸でつながり、すべて開けると、寝室からリビングを通って廊下へ、そして玄関へと、子どもがぐるぐると走り回れるようになっている。http://www.bluestudio.jp/portfolio/po004767.html

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