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2021年5月12日水曜日

追悼 毛綱毅曠・・・始源の形態言語へ

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追悼 毛綱毅曠・・・始源の形態言語へ

布野修司

 


 毛綱さんの葬儀の日はシンガポールへの機上であった。南シナ海の上空で冥福を祈った。

 毛綱さんとは浅からぬ縁である。

 しかし、最初に会ったのはいつだったかはっきりしない。印象的な記憶の断片を辿ってみると、新宿の安酒場で、石山さんの紹介ではなかったか、と思う、けれど確信はない。神戸大の後輩、平山さんが一緒だった。当時、石山、毛綱は、六角、石井を加えて、婆娑羅の会などという不穏な四人組を結成したころではなかったか。石山さんは、毛綱さんと組んで、『建築』誌に奇怪な建築を連載していて既に知り合いだった。あるいは、最後まで毛綱さんの同志であった渡辺豊和さんを通じて知り合ったのかもしれない。

 もちろん、それ以前から、毛綱モン太の名前は僕たちには有名だった。今でも『都市住宅』誌で見たプロジェクト「給水塔の家」は鮮烈である。「日吉台の協会」なども印象に残る。生前告白したことはなかったが、学生時代には毛綱ファンであったのだ。僕だけではない。関西に三馬鹿(渡辺豊和、安藤忠雄、毛綱モン太)あり!と東京の学生たちの間では囁いていたのである。 

 毛綱と言えば「反住器」(1972年)であろう。僕は、この傑作「反住器」の最下層に泊めて頂いたことがある。このキューブが三重に入れ子になった建築のプランを読むのはなかなかに大変で、何度も学生の課題(平面図から断面図を起こす)に出したものだ。実際は実にこじんまりと心地よい空間であった。極寒の釧路なのに随分と暖かったことを思い出す。「釧路市立博物館」で日本建築学会賞を受賞し、釧路三部作(弟子屈博物館(アイヌ資料館)、湿原資料展望館)が完成したころである。10年の間、背広をつくる余裕もなかった、と母上がふともらされた。母上自ら仕事をお願いしにいったこともあると聞かされた。オイルショック以降の十年、当時の若い世代の建築家にはほんとに仕事がなかった。バブル期に育った建築家にはおそらく想像できないだろう。食うことより表現に賭けた世代が日本建築のモストモダンを切り開いたのである。

関西では食えない、と上京した頃であろうか、本格的につき合いだしたのは。最初に事務所に行くと、ヨーロッパ帰りの高崎正治がいた。上京まもなく、下北沢の永正寺を見せて頂いて批評を書いた記憶がある。 

 毛綱さんの毒舌は筋金入りだった。『新建築』誌の月評での罵詈雑言は評判であったが、実際はあれ以上だった。罵倒するかと思うと、全く素面なのに、雑踏の中でいきなり土下座して「よろしくお願いします」などとやる。ほんとに婆娑羅大名のような人であった。また、知る人ぞ知るだけれど、人相、骨相、手相など人を読むのは達人であった。姓名判断もやる。毛綱さんと話していて見透かされているという思いをしたのは一度や二度ではない。怖いお兄さんだったけれど、何故か人なつこいところもあった。本名は一裕だけど、また、毅曠に改名しても、「モンちゃん」と呼ばせて頂いた。

建築を読むのももちろん達人であった。風水師、風水建築師ということでは六角鬼丈や渡辺豊和も一目置くだろう。そのコスモロジーの展開にしばしば口を挟む機会があったがいつも煙に巻かれる思いをした。阿部清明についての著作もあるが、時空を瞬時に行き来する役小角のような存在でもあった。毛綱さんは随分一般向けの本を書いた。早い段階で、狭い建築の世界を突き抜けてしまったようにも思える。

建築の形態をその根源において考える、その発想は終生変わらなかったように思う。始源の形態言語に毛綱さんは興味を抱き続けていた。そして、古今東西の建築をその眼で読み解いていた。ジャイプルのジャンタルマンタル(天文台)などへの興味は当然として、あれは金鶏抱卵形だよという平等院の解釈になるほどと思ったことがある。下田菊太郎に興味をもっていたことも思い起こされる。単なる丸三角四角を操作する次元ではない。形態にはコスモスが想定されているのである。とにかく、建築(デザイン)の商品化を峻拒する形態の迫力が魅力であった。

 東洋大時代に、何年か、設計製図の授業を二人で持った。夫人はその時の学生、智恵子さんである。「地球の臍をデザインせよ」などという課題を出すので、それを言葉で学生につなぐのに四苦八苦した記憶がある。それはしかし僕にとっても随分いいトレーニングであった。建築については随分多くを教わった。いくつかの作品について批評させてもらったけれど、彼の建築は何よりも面白かった。技術や収まりを超越した建築の論理が魅力であった。

 京都に移って、さすがに会う機会は減ったが、豊和さんとはいつも「モンちゃん」の動向が酒の肴であった。「最近のモンちゃんの作品、力がないねえ」といった会話である。ポストモダンの時代が去り、時代は、ネオモダニズムなどと称する小綺麗な工業バラック作品が支配する。毛綱さんは何を考えていたのであろうか。

一度大病をされたと聞いて心配していたけれど、二年前に講演に見えて京都で会ったときには、相も変わらず毒舌の毛綱さんであった。

 日本におけるコスモロジー派の命脈をこれからさらに太く築くそんな期待があっただけに実に無念である。合掌。

 


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