進撃の建築家 開拓者たち 第23回 伊藤麻理(開拓者28) 公共建築に哲学をー挑戦し続けるコンペ「サイエンスヒルズこまつ」2018年07月(『進撃の建築家たち』所収)
開拓者たち第23回 開拓者28 伊藤麻理(UAO) 建J 201807
公共建築に哲学をー挑戦し続けるコンペ
「サイエンスヒルズこまつ」
布野修司
その伊藤麻理さんに、鋸南町のコンペに応募しましたよ、と挨拶されたのは「元倉真琴さんとのお別れの会」(2018年1月20日)である。審査委員は幾度となくやったけれど、勝者には喜ばれるけれど、それ以外の全ての応募者には残念がられる。結果には納得したということでほっとしたが、応募案はありありと蘇った。太田邦夫研究室の出身で、元倉さんが東洋大学の大学院に教えに来ていた縁で「スタジオ建築計画」に1年ばかり務めた(1999~2000年)という。ああそういうことか(「サイエンスヒルズこまつ」は元倉真琴(スタジオ建築計画)+伊藤麻理(UAO)の共同応募)と合点した。そして、ラッキーガールというか、才能があるというか、「那須塩原市駅前図書館」(2016年3月)のコンペにも勝ったという。コンペには挑み続けている[4]。今や所員は10人にもなる。
那須塩原市駅前図書館
A-ForumのAB研究会[5]で最近よく会う長谷部勉君に聞くと、東洋大で一緒に非常勤講師をしていてよく知っているから、一緒に事務所を覗こうという。事務所は、渋谷駅から歩いてもほどないところにある。近所には設計事務所が少なくない。かつて、原広司先生のアトリエ・ファイがあり、北川フラム(アートフロント)の「傘屋」があって、しばしば通ったなつかしい場所に事務所はあった。
事務所には、那須塩原市駅前図書館の模型がバーンと置かれてあった(図②ab)。コンペ[6]で勝った後、施工業者も決まって着工直前であったが、猶、図書館の運営をめぐって調整が続いている状況であった。那須塩原は生まれ故郷である。設計にはひときわ思いを込める。図書館は一階を広く市民に開放する意欲的な構成である(図②de)。市内の美術館や学校、老人施設など様々な場所をマラソンでめぐる「アーバントレイル」構想、他地域からも広く講師を呼んで議論する「ラーニング」企画など意欲的な提案がある。しかし、公共建築の実現過程には様々な問題があることを実感してきているようだった。僕も、隈研吾建築設計事務所が勝った守山市立図書館(2018年7月オープン)のコンペで委員長を務めたばかりで、図書館をめぐる行政内部の調整の難しさを含めていろいろ話した。A-Forumで最近市町村の公共建築をめぐって議論をしていると言うと、その後、顔を出してくれるようになった。東洋大学の卒業生の中で、華々しくコンペに勝って公共建築を手掛けるアトリエ派の建築家は初めてじゃないか、コンペで勝ったときにはうれしかった、と長谷部君はいうが、長谷部君も「進撃の建築家」として期待の星である(図③左八巻秀房(開拓者03)右長谷部勉)[7]。(註欄 図Xab)
パラダイス
東洋大学理工学部(川越キャンパス)の建築学科は、2011年に創立50周年を迎えた。僕は、1978年5月に講師となり、1991年8月まで13年余り教員として過ごした。その縁で50周年記念のシンポジウムにパネリストとして招かれた(2011年10月29日)。藤村竜至(開拓者13)が司会を務め、設立時教員として原広司(基調講演)、一期生の武部實(日本都市設計)[8]、現役教員の工藤和美(シーラカンスK&H)、そして80年代を知る僕が加わって歴史を振り返ったけれど、国公私立と5大学を渡り歩いた僕の経験から振り返っても、80年代から90年代にかけての東洋大学建築学科は、実に自由な「天国」のような学科であった。研究費は学科全体で共有、どんぶり勘定で、若い先生は勝手に使いなさい、という。若手にとっては夢のようなパラダイスである。前田尚美先生他教授陣の盾のもと、太田邦夫、安岡正人、上杉啓、内田雄造と錚々たる助教授陣が活き活きと活動していた。
学科の創設者は環境工学の平山嵩[9]先生で、東大閥で編成されていたけれど、アンチ「本郷」の雰囲気もあった。僕を東洋大に招いてくれた内田雄造[10]さんは安田講堂に立て籠もって逮捕された闘士であったし、東京理科大で全共闘運動を支援したとして解雇されて裁判中の宮内康[11]さんを非常勤として採用していたのである。僕は、東洋大建築学科でいうと7期生と同期となる。後にライフサイエンス学部長となる高橋義平さんが同い年の7期生である。東洋大学建築学科の布野研究室出身者は、1980年卒業の15期生から1992年卒業の27期生まで、本連載で触れた八巻秀房(開拓者03)が17期生、飯島昌之(開拓者04)が25期生である。長谷部勉君は1991年卒業の26期生、伊藤麻理さんは1997年卒業、32期生である。
コールハースのオランダ
太田邦夫(故浅井賢治)研究室で「オープンプラン」をテーマとする修論を書いた。そして、元倉さんのスタジオ建築計画に一年務めた。しかし、元倉さんが東北芸術工科大学の教授に就任(1998~2008)したこともあって、海外の設計事務所へ眼をむける。学生時代からレム・コールハースが大好きで、その下で働いてみたかったという。ロッテルダムのクンスト・ハル美術館Kunsthal Rotterdam(1989)が好きだったという。空間の流動性という意味では、「サイエンスヒルズこまつ」「ブタペスト美術館」に通じる。
ポートフォリオ持参してOMA(Office for Metropolitan Architecture)の扉を叩いたけれどうまくいかない。当時、伊東豊雄がOMAに事務スペースを借りていた。同時期に、後に中国中央電視台(CCTV)新社屋を手掛け、OMAのパートナーとしてニューヨーク事務所代表となる重松象平[12]がOMAに入所している。
結局、アンドレ・ケンプAndré Kempe (1968年生)とオリヴァー・ディルOliver Thill(1971年生)というドレスデン工科大学出身の同級生のドイツ人二人がコンペ(Kop van Zuid, Rotterdam) (1999)に勝って立ち上げたばかりのAKT(Atelier Kempe Thill architects and planners)(2000年設立)の仕事を手伝うことになる。ネットでその後のアトリエの進展をみると、2人で始めたアトリエ(「ツーマンバンド」)が中規模(20人程度)の組織事務所になっている。端正なカチッとしたいかにもドイツ人建築家らしい作風である(図④aダッチ・パヴィリオン2003,bロッテルダム野外劇場)。また、仕事もオランダ、ドイツからベルギー、フランス、オーストリア、さらにモロッコ、エジプトに拡がっている。
同世代の邂逅がコールハウスのオランダにあった。ソ連邦の崩壊、ベルリンの壁解体以降のヨーロッパには、何かを生む梁山泊がいくつも発生していた。その一つはコールハウスのオランダである。1992年に欧州連合条約が調印され、翌年欧州連合が発足した。通貨統合が進められ、1998年に欧州中央銀行が発足、翌年には単一通貨ユーロが導入される。伊藤麻理は、そうしたヨーロッパの激動の雰囲気を呼吸しながら出発したのである。
UAO
帰国するきっかけとなったのは、姉の住宅の設計だという。デビュー作にはその片鱗が現れる。どんな設計なの、図面は、と聞いたが、すぐには出てこない。あまり拘りはないらしい。2006年にアトリエインクを立ち上げたが、仕事はないから、「塩尻市図書館複合施設」(2006)(審査委員長:山本理顕。関谷小百合案で第一次選考(5案)通過)など、とにかくがむしゃらにコンペに取り組んだという(『KJ』2016.8)。そして、幸運にも、群馬県の東京ショールーム(銀座)(群馬総合情報センターGIS)のコンペ(2008)(審査委員:古谷誠章、小内進、佐野紀子)に勝った。仕掛け人は、群馬県で数々の2段階公開ヒヤリング方式のコンペの実施を支えてきた新井久敏さんである。テナントビルの1,2階272.02㎡のインテリア設計であり、大きな実績は必要ない。全国から107の応募があったなかでの最優秀賞である。デビュー作品となる。34歳だから決して早いデビューとは言えないけれど自信も得た。残念ながらこのショールームは群馬県が撤退して今はない。しかし、つくづく思うのは、こうした小さなコンペの力である。残念なことに、行政手間がかかるからであろう、日本ではこうしたコンペは実に少ない。
続いて挑んだのが「サイエンスヒルズこまつ」(2011)だ。この仕事でUAOを株式会社とし(2013年)、建築家の基盤を確立することになる。ただ、このコンペの場合は応募資格に欠けた。そこで元倉真琴さんの「スタジオ建築計画」とのJVでの応募のかたちを採った。元倉さんは応募内容に一切口を出さなかったという。竣工まで自力でやりきった。作品も明らかに元倉さんのセンスではない。伊藤麻理にとっては、元倉さんからの優しいすばらしい贈り物となった。若くして大規模な公共建築を設計する機会を得るとともに、今後、ほとんどの公共建築のコンペに応募する資格を得たのである。
UAO(Urban Architecture Office)という命名には、念頭にコールハウスのOMAがあるのだろう。「建築士ではなく、いわゆる建築家でもなく、いうなれば、都市計画を描く「アーバンアーキテクト」という概念」で仕事に取り組みたいという(『KJ』2016.8)。
サイエンスヒルズこまつ
一方で、IWM House(2010), SUI House(2011), FKI House(2011), ABE House(2011), KMB
House(2012)など、不思議な雰囲気の住宅作品がある。「不思議な」というのは、日本ではみかけない、あるいは、あまり一貫するようにみえない、さらに「サイエンスヒルズこまつ」や「ブタペスト美術館」(2014)(図⑤)の流麗な曲線に対していささか武骨な、といった印象であるが、一味違った感性の持ち主のように見える。いくつか見たいと思ったけれど、個人住宅は難しい、という。いささか遠出になるけれど、1泊2日で北陸での花見を兼ねて小松まで出かけてきた(4月3~4日)。施工の完成度が気になっていたのである。
「サイエンスヒルズこまつ」(図⑥abcd)は小松駅のすぐ南に丘のように盛り上がっている。ものづくりを基盤とする産業拠点をうたう絶好の敷地である。駅の直近に人目を引かんと置かれた真黄色の巨大なトラクターにまず驚くが、少し離れて、折り重なった屋根が古墳のように見える。その敷地は、北陸随一の弥生時代の大規模環濠集落の遺跡跡地(「八日市地方遺跡」)であった。北陸は前方後円墳ではなくて四隅突出型古墳だ、などと頭に浮かんだけれど、シンボル性が要求された建築であることはすぐさま理解できた。「建築とランドスケープの融合」を一貫するテーマとするが、加賀平野の南に遠望できる白山連峰が意識されている。
入館して宇宙科学を中心に展示を楽しんだ。よくできている。デッドスペースが気にならないかことさら隅々までみたけれど、スケールに余裕があるからであろう、大きな破綻はない。4つのウェーブと名づける鉄筋コンクリートの曲面体を「ほどよくずらして」並べたのが基本構成である。ウェーブの屋上は全て緑化され、歩けるようにする。室内で行われる多様なアクティビティを機能的には分離しながら視覚的にはつなげる。本人の説明であるが、プランやセクションをみているだけではなかなか空間がイメージできない。平田晃久の「太田市美術館・図書館」でも感じたけれど、この空間感覚は明らかに新たな道具を手にした新世代のものである。「ほどよくずらして」並べるためには、模型で考える必要があるが、3D-CADによるチェックが不可欠である。伊藤麻理の場合、驚いたことに、全て自ら細部まで設計するのだという。学生時代からCADは自在に使ってきたのである[13]。
公共哲学
アトリエ派の未来のひとつの姿がここにある。すなわち、基本的に一人のアーキテクトがCAD-CAMさらにBIMによって、建築の設計を統括出来るのである。コンピューター技術はそれを可能にする。アトリエ派の建築家こそ武器として様々な道具を身につけるべきである。
伊藤麻理は、最近の「新香川県体育館」のコンペも含めて公共建築のコンペに応募し続けている。今後もそうするだろう。コンペを基本にするのはヨーロッパ体験が大きいと思う。東欧出身のAKTの二人もコンペでチャンスを得たのである。彼女のコンペ参加は権利であり義務でもある。
3つのコンペに勝って公共建築の設計施工の現場を体験するなかで、「公共」とは何か、「公共建築とは何をつくることなのか」を考えるようになった、という。
「公共建築は“公共哲学に基づく”はずだ・・・公共哲学とは、「わたし」と「あなた」という対立と調整ではなく、「わたしたち」で一緒に物語を描くことだと考えている。・・・しかしながら要綱には「公共哲学」に及ぶ考えが示されていないことが多い。・・・」(『KJ』2016.8)
この問題はもとより伊藤麻理ひとりのものではない。A-ForumのAB研究会でも、彼女も加わってこのところ議論を積み重ねているところである[14]。しかし、全てのコンペに勝つことはありえないであろう。事務所の経済的基盤について、UAOはしたたかに考えている。大手の建設不動産業者と組みながら、集合住宅のモデル開発(図⑦)にも取り組んでいるのである。
伊藤麻理とAUOには、前途遼遠たるものがある。もしかすると、とてつもない大組織に成長するかもしれない。しかし、「公共哲学」を問う、初心忘るべからず、である。一作品一作品を自ら位置づけながら、設計方法を鍛えながら伸びていって欲しいと思う。
[1] 1974年 栃木県那須塩原市生まれ。1997年 東洋大学工学科建築学科卒業。1999年 東洋大学大学院工学科建築学専攻修士課程修了。1999年 株式会社 スタジオ建築計画(日本)(〜2000年)。2001年 Atelier Kempe Thill architects and planners (オランダ)。2006年 アトリエインク設立。2009年
一級建築士事務所Urban Architecture Office.合同会社に改名。2013年 UAO株式会社に変更。2006年~
東洋大学非常勤講師。
[2] 委員長 滋賀県立大学 副学長 布野 修司/委 員 東京理科大学 教 授 宇野 求/日本大学 名誉教授 斎藤 公男 先生 /
日本大学 教 授 広田 直行/川名副町長(副委員長)ほか3名の町側審査委員計8名。
[3] 審査評は以下である。「提案番号8番:意匠がアイディアに満ちて、かつ、詳細まで検討されている。既存のものをほとんどいじらないことに徹し、ひとつだけ大きなことをやる点は価格低減にも効果のある面白い提案である。一方で、対象がスポーツに限定されており、さまざまな地域住民へのサービスを提供する施設としての機能が不十分であるとの懸念があり、上位3者に提案力が及ばなかったといえる。」。
[4] 2011年8月小松駅東「広域活用ゾーン」利活用施設「サイエンスヒルズこまつ」新築工事公募型プロポーザル設計競技 1等第35回石川県建築賞優秀賞・第46 回中部建築賞・第56 回BCS 賞受賞・石川景観賞受賞・第16回 公共建築賞 優秀賞/2008年
3月群馬県総合情報センター設計者選定競技 1等(銀座)/2013年12月鋸南町都市交流施設整備事業設計業務委託公募型プロポーザル最終選考/2013年12月25年度事業可能性評価事業認定/2014年1月H26年度連携イノベーション促進プログラム
認定/2014年1月H26年度地域資源活用イノベーション創出助成事業
認定/2014 年1 月ハンガリー美術館& 写真美術館設計競技4 位入賞/2014年5月American Society of Landscape Architects Awards
2014 Finalist/2015
年5月The Plan Award 受賞( イタリア)/2015年8月 H27年度経済産業省 新連携認定/2015
年11月World
Architecture Festival ファイナリスト( シンガポール)/2015
年11月BUILD Award 2015 受賞( イギリス)/2016年3月(仮称)駅前図書館等基本設計・実施設計業務委託公募型プロポーザル設計競技 1等/2017年2月八戸市新美術館プロポーザルコンペ 最終選考/2017年8月 静岡市歴史文化施設プロポーザルコンペ最終選考/2017年8月龍ヶ崎市道の駅プロポーザルコンペ 最終選考
[5] アーキニアリング・デザイン フォーラムArchi‐Neering Design Forum 略称 A-Forum)」。「建築の設計と生産(アーキテクト/ビルダー)AB研究会」。
[6] 委員長 三橋 伸夫(宇都宮大学教授)【専門家】委員:古谷誠章(有限会社NASCA代表取締役、早稲田大学教授)【専門家】委員 小嶋 一浩(株式会社シーラカンスアンドアソシエイツ代表取締役、横浜国立大学教授)【専門家】委員 花井 裕一郎(hanajuku/NPO法人オブセリズム 演出家)【専門家】委員 松木 隆雄(那須塩原市図書館協議会委員、アイサポート那須代表)【市民代表】委員 三川 伸明(えきっぷくろいそ図書館部会、一般社団法人黒磯那須青年会議所2015年度理事長)【市民代表】委員 人見 寛敏(那須塩原市副市長)【行政】委員 大宮司 敏夫(那須塩原市教育委員会教育長)【教育】
[7] 1968年 山梨県生まれ。1991年 東洋大学工学部建築学科卒業。1991年 堀池秀人都市・建築研究所勤務。2000年 服部建築計画研究所勤務。2002年 H.A.S.Market設立。2005年~総合資格学院非常勤講師。2006年~東洋大学非常勤講師。
[8] 北海道を拠点に一大組織事務所を育て上げた一期生の武部實さんは出世頭ということであろう。1969年東京都練馬区桜台に、武部實一級建築士事務所設立、1972年株式会社に改組、株式会社武部建築事務所と称し、東京都中野区東中野を本社とする1973年株式会社武部建築設計事務所は日本都市開発設計株式会社を吸収合併し、社名を日本都市開発設計株式会社と称す1975年本社を札幌に移転1979年道東事務所開設1998年商号変更し、日本都市設計株式会社と称す2007年代表取締役に武部幸紀就任。
[9] 1903年東京生まれ~1986年。1926年東京帝国大学卒業。MIT大学院修了。大蔵省入省、営繕局にて国会議事堂建設担当。1930年東京帝大工学部講師、1931年助教授、公衆衛生院建築衛生部長兼任。1940年東大教授。1963年退官、東洋大学工学部教授に就任。1983年日本建築学会大賞。
[10] 1942年大邱生まれ~2011年。1961年東京大学理科Ⅰ類入学。1970年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻単位取得満期退学。東洋大学助手。1990年工学博士『同和地区の住環境整備計画・事業に関する研究』。1999年東洋大学工学部学部長。2006年東洋大学ライフデザイン学部人間環境デザイン学科教授。2010年東洋大学大学院福祉社会デザイン研究科委員長。『同和地区のまちづくり論』(1993)他。内田雄造追悼文集刊行委員会『ゆっくりとラジカルに 内田雄造追悼文集』私家本、2012年。
[11] 1937年飯田市生まれ~1992年。1961年東京大学建築学科卒業。1967年大学院数物系研究科博士課程(吉武・鈴木研究室修了。1968年、東京理科大学講師。1969年設計工房を開設。東京大学時代から学生運動に加わった経験から、当時の全共闘運動に共感し、行動する。69年、宮内嘉久編集『建築年鑑』の編集にかかわり、70年反万博運動にもかかわる。1971年には東京理科大学闘争で学生を支援したことにより、大学当局から免職の通告を受けるが4年間に渡る裁判により勝訴する。著作に、『怨恨のユートピア』(井上書院、71年)、『風景を撃て 1970-75』(相模書房、76年)がある。状況劇場稽古場、山谷労働者福祉会館、青森県七戸町美術館(現、鷹山宇一記念美術館)などの建築作品があるが、設計だけでなく建設も利用者と共に、ものつくりを行うことが重要という主張を身をもって示した。『怨恨のユ-トピア』刊行委員会編:怨恨のユ-トピア・・・宮内康の居る場所,れんが書房新社,2000年6月30日
[12] 1973年久留米生まれ。1996年、九州大学工学部建築学科卒業。ベルラーエ・インスティチュートを経て、1998年よりOMAに所属。2008年にOMAニューヨーク事務所代表就任。ハーヴァード大学デザイン学部大学院、コーネル建築学部大学院の非常勤講師。ハーヴァード大学では、2013年よりデザイン学部大学院GSDにおいてAlimentary Design Studioを担当。建築家。建築設計集団OMAのパートナーおよびニューヨーク事務所代表。主な作品は中国中央電視台(CCTV)新社屋、コーネル大学建築芸術学部新校舎、 コーチ表参道フラッグシップストア、ケベック国立新美術館新館、マイアミビーチの複合商業施設ファエナ・フォーラムなど。ボストンのウォーターフロント再開発、オルブライト・ノックス美術館の拡張計画、サンタモニカの複合用途施設計画、コロンビア・ボゴタの新都心マスタープラン、シリコンヴァレーのFacebook新キャンパスマスタープランなど、世界各地で多岐にわたるプロジェクトが進行中。2013年より3年間、ハーヴァード大学デザイン学部大学院GSDにおいて「Alimentary Design Studio」を率いた。
[13] 施工が大変だったことはいうまでもない。熊谷組の山村芳裕統括所長以下、サイエンスヒルズこまつ・西村章課長・君島康之作業所長がその苦労を語っているが(熊谷組Webサイト76 2014)、一方でやりがいがあった仕事であったことがわかる。伊藤麻理さんも現場は楽しかったという。
[14] 第8,9回公共建築の設計者選定問題を考える01-守山中学校(滋賀)の2段階公開ヒヤリング方式と選定委員会=建設委員会方式をめぐって(2018年2月3日)、02-群馬県の設計者選定(2018年3月31日)。
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