進撃の建築家 開拓者たち 第15回 開拓者16 斎藤正 善根の精神ー塩飽大工衆の再生へ「HANCHIKU HOUSE」『建築ジャーナル』 2017年11月(『進撃の建築家たち』所収)
開拓者たち第15回 開拓者16 斎藤正 建J 201711
善根の精神―塩飽大工衆の再生へ
「HANCHIKU HOUSE」
斎藤正(図⓪)[1]と初めて会ったのは、フィリピンのレイテ島タクロバンで開かれた台風ヨランダ(2013年11月)後の復興計画をめぐる国際シンポジウム[2]の会場であった(2015年8月6日)(図①ab)。
滋賀県立大学のホアンJimenez Berdejo Juan Ramonさんが中心となって復興支援のための展覧会を企画し、東日本大震災直後に被災者にお風呂を供給した「善根湯」プロジェクト(図②)の展示要請したのがきっかけで、唯一シンポジウムにも参加したのである。プレゼンテーションは、阪神淡路大震災(1995年)のポリタンク支援に始まり、新潟県中越地震(2004年10月)、東日本大震災(2011年3月)、そして直前のフィリピン・ボホール大地震(2013年10月)における支援経験の報告であった。板茂の国際的な災害支援活動はよく知られるが、斎藤正のこうした一貫する支援活動は知らなかった。その活動の中には、エボラ出血熱で苦しむリベリアへの遺体収容袋[3]の送付支援もある(図③)。
タクロバンの復興支援に関り、修士論文『タクロバン( レイテ、フィリピン) における居住環境と住宅生産システムに関する研究―台風ヨランダとバランガイ37・シーウォールをめぐって―』(2016年3月)を書いた馬淵好司くんは、タクロバンで斎藤正と会い、その活動に共鳴し、ともにネパール地震(2015年4月)の支援に出掛けることになる。そして、斎藤正・轂工房に勤めることになった。現在は、西予市で一般社団法人ZENKON-nexの一員として「宇和米博物館」 の運営に当たっている。
斎藤正と知り合った直後、「版築の家」で文化庁芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した祝賀会の招待状をもらったけれど、いけなかった。そして昨年、日本大学の広田直行研究室のみんなと香川県庁舎、栗林公園、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館を訪れながら、時間が合わなかった。今回、徳島へ行く仕事があり、ようやく、その作品を見せてもらう機会を得た。折しも、事務所開設25周年を記念する「轂展」(図④)が開催中であった(8月29日~9月3日)。
轂工房
轂工房、英語でAtlier Nave。Naveすなわち轂である。轂(こしき)とは、「車の輪の中央の太い部分で、放射状に差し込まれた輻(や)の集まっている所」をいう。どうして、轂という名前にしたの?と問えば、恩師の澤登宜久先生がこれにしなさい!と有無を言わさずであったという。澤登宜久先生は、早稲田の渡辺保忠研究室の出身である。お会いしたことはないがその名は知っている。日本建築史の専攻で、密教建築研究がその原点である。老子『大道廃有仁義』の「三十輻共一轂。当其無、有車之用。 埏埴以為器。当其無、有器之用。鑿戸牖以為室。 当其無、有室之用。故有之以為利、無之以為用。」[4]を示して、「三十輻共一轂」すなわち、中心は空であるけど、30の矢が集まってくる、そういう事務所になりなさい、と言われたという。老子の有名ないわゆる「無用之用」の条である。
近畿大学工学部(東広島)の出身である。3年生の時に、古谷誠章(1955年~)が赴任するが、古谷がすぐさま文化庁芸術家在外研修員としてマリア・ボッタ事務所に出掛けたので(1986年)、半年ぐらいしか指導してもらえなかったという。一年先輩の玉置順もそうだという。
学生の頃は、しかし、自由奔放に走り回っていたらしい。不思議な縁を思ったのは、太田省吾(1939~2007年)の転形劇場(1968~1988)の芝居を見に行って、写真家の古舘克明(1947年~2003年)、宮本隆司(1947年~)と知り合ったという。僕も2人とは接点がある。古舘とは、鈴木忠志[5]の早稲田小劇場[6]が利賀村に移って国際演劇祭を開始したころ出会った。宮本隆司とは、同時代建築研究会の『悲喜劇 1930年代の建築と文化』(現代建築企画室、1981年)で知り合った。宮本は巻頭グラヴィアを担当している。いずれも同世代である。しばらく、古舘の撮影助手をしながら全国を駆け回ったという。そして、栗生明(1947年~)の作品(カーニバルショーケース 1988年、兵庫県篠山市)の撮影現場に立ち会った縁で、就職することになる。
そして、一級建築士の資格を得て、独立する(1992年)。その時、事務所の名前を決めたのが沢登先生というのである。
玉葱栽培
事務所を立ち上げて四半世紀、その代表的な仕事は「轂展」に展示されていた。最初の仕事は個人住宅(「満濃の家」香川県多度郡まんのう町、1995年)である。コンペで勝った「ロードサイドミュージアムXa104」(広島県三次市、1996年)、馬指の医院(丸亀市、1997年)など、順調なスタートと思いきや、以降、5年間、全く仕事がなかったという。
様々な出来事があった。バブルが弾け、空白の10年と呼ばれることになる時代である。地域で仕事を獲得するのは容易ではなかった。それにコンペで得た仕事が途中で中止になる不運も重なったという。
仕事は無くても下請けはするな、というのが師の教えであった。そこで、田圃を借りて、農業を始めた。玉葱栽培である。丸亀は玉葱の産地という。玉葱と言えば、淡路島の玉葱小屋が目に浮かぶが[7]、香川県には、戦後、麦の代作として導入され、丸亀の他、観音寺市、三豊市、善通寺市で栽培される。「みがきたまねぎ」として全国でも高い評価を受け、5~7月の占有率は約1割を占め、11~3月にも「冷蔵たまねぎ」として数多くの市場に出回っているというが、手掛けたのはこの「冷蔵たまねぎ」という。
相場を見ながら出荷をコントロールする、農作物の生産消費のメカニズムを学んだという。
表現としてのモダニズム
30代後半にさしかかる、21世紀を迎えるころから仕事が得られるようになった[8]。事務所設立25周年を記念する「轂展」を一覧すると、明らかに一貫する形態への拘りがある。水平の屋根、庇、横長の箱形は、かなりの作品に共通する。「Vegetation Vol.1」(専用住宅、丸亀市、2006年)、「ガラスのクリニック」(診療所、丸亀市、2008年)、「うしやまクリニック」(診療所、高松市、2012年)などがそうである。そして、2層以上の場合、一層部分をピロティ状の表現、すなわち、全面ガラスなど素材を替えて上層部を浮いた表現とし、横長の箱形を強調する。「志度の家」(専用住宅、さぬき市、2010年)、「ハレルヤ」(福祉施設、丸亀市、2013年)、「誠心保育園」(保育園、丸亀市、2013年)(図⑤)などがそうである。すべて見て回る時間はなかったのであるが、「誠心保育園」は、通りかかりに見せてもらった。歪んだミラー版が気になって尋ねると園児の地上からの視線を意識したのだという。ファサードの素材は、この間変化しつつあり、視覚的効果が、その都度、意識されていることは理解できた。
いずれにせよ、斎藤正が基礎としてきたのはモダニズム建築の手法である。栗生明、古谷誠章の系譜に連なると言えるだろうか。今のところの到達点は、自社ビルである「イスノキ」[9](事務所・ギャラリー・ショップ・温室、丸亀市、2009年)である。
しかしそれにしても、この「イスノキ」の型枠は自ら組んで、自らコンクリートを打ったというから、相当な職人技である。
善根
洗練された一連のモダニズム建築作品の一方、斎藤正には、何処か泥臭い匂いがある。セルフビルドもそうであるが、災害支援のために何処にでもかけつける、現場の匂いである。災害援助のための母体として立ち上げた社団法人はZENKON-nex[10]という。きっかけは、東日本大震災の復興支援としての善根湯の建設活動である。そして、瀬戸内国際芸術祭2013秋会期に、本島(ほんじま)に土とセメントと水と人力だけで作られた版築建築「とぐろ」を建設したことを契機に「続・塩飽(しわく)大工衆チーム」が集結したのだという。
善根というのは仏教用語である。辞書を引けば、「よい報いを生み出す原因としての善行。諸善のもとになるもの」「種々の善を生じる根本のこと」などとある。他に善本、徳本ともいい、無貪,無瞋,無痴を三善根という。
斎藤は、小さい頃、100円玉の入った善根袋を身につけさせられていて、困った人がいたらあげなさいと言われていた。ヴォランティア精神は子供のころから身についたものである。もちろん、単なるヴォランティアではない。エボラ出血熱の遺体袋もそうであるが、熊本地震では、梱包用のベルトを筋交いに使用することを提案するなど、建築家としての創意工夫の提案がある。
善根湯×版築プロジェクト「とぐろ」を見たいというと、朝早くの本島行につきあってくれた。塩飽[11]大工にはかねがね興味がある。塩飽諸島は、大小合わせて28の島々から成るが(岡山県側は笠岡諸島)、名人大工橘貫五郎(官五郎とも)を生んだ本島がその中心である。行きのフェリーのなかで、塩飽諸島が潮だまりになること、そのため税関また勤番所が設けられていたこと、大岡越前守が漁場争いを裁いた伝説、法然が配流されたこと(讃岐配流、1207年)、大名ではなく、人名(にんみょう)による自治が行われていたことなど、興味深い話を聞かせてくれた。自転車で、笹島伝統的建造物保存地区(図⑥)をはじめ本島の要所を廻ったが、往時を想像することができた。人名墓(図⑦)の奇妙な形はこれまで知らなかった。
HANCHIKU
「とぐろ」(図⑧abc)は思ったより小さかった。しかも、瀬戸内芸術祭に参加した際の趣はなく、夢の跡といった風情であった。竣工時の写真を見ると、サウナの前に浅い水が張られている。浴室内にピンホールで瀬戸内大橋を逆さに写す仕掛けがあったという。最初は、朝一番のフェリーで本島に渡って一人で作業をし、最終便で帰宅する日々だったという。そして、やがて多くのヴォランティアの参加を得て、完成にこぎつけた。この建設作業に参加した一人が「版築ハウス」のお施主さんである。
斎藤の版築は土を固めてつくるいわゆる版築ではない。伝統的な版築は、ほぼ土や石(礫)と少量の石灰や稲藁等の凝固材を混ぜるのであるが、見るからに硬い。セメントが混ぜられている。乾きが遅く、工期を間に合わすためにセメントを使ったという。斎藤正我流のHANCHIKUといっていい。土、砂、セメントの比率は試行を繰り返したという。土は、その土地の土を使う。固まり方はそれぞれ異なるという。
斎藤の版築は、今のところ、構造材として考えられてはいない。「版築の家」(図⑨abc)は、基本的には木造である。版築壁は、施主自らの手になるという。
これまで、斎藤は、自然素材、地域産材についての拘りを必ずしも見せてこなかったけれど、HANCHIKUをどう展開していくのかは興味深い。
米博
斎藤正には、丸亀西中学校の同級生の映画監督本広克行の作品『UDON』のオープンセットのような仕事もある。「建築とは何か。人の生活を外敵から守るバリアとして包み込むもの。その構造体を建築と呼ぶのか?社会そのものに作用するものを建築と思いたい。伝統を守ること。まちを蘇らせること。被災地を支援すること。病気の治療と予防。おいしい食事。私にとって、全てが建築である。」と書く。必ずしも、「建築」の狭い世界に自らを閉じるつもりはない。
LOCA PROJECTというプロジェクトが西予市で進行中である(図⑩abc)。LOCAとは、廊下+ローカル+スペイン語のクレイジーをかけているというが、旧宇和町小学校をオフィスやレンタル・スペース、カフェとしてリノベーションし、新たな「学び舎」として再生を目指すという。施設は新たに米博(宇和米博物館)とよばれるが、コンペで勝ち、ZENKON-nexが指定管理者として運営に当たる。馬淵雅司くんがその担当である。
目指すべき建築は見えている、ようである。
[1] 1965年 香川県生まれ。1988年 近畿大学工学部建築学科卒業。1989年 株式会社栗生総合計画事務所。1992年 齊藤正 轂工房一級建築士事務所 設立。2000年 近畿大学工学部建築学科非常勤講師。2005年 APEC
ARCHITECT登録。2007年 事務所名を株式会社齊藤正轂工房に改称。2009年 中川幸夫プレ美術館運営委員会設立。
[2] Tacloban City, The University of Shiga
Prefecture.., Japan-Philippines Conference for Urban Redevelopment of Tacloban
City, 5-6, Aug. 2015.
[3] リベリアでは、人が亡くなった時に遺体を抱きしめ洗い清める習慣があり、それが理由で感染するケースがしばしばあった。一般に使用される遺体袋は分厚く、遺体も確認できないものであったが、透明で薄く、ジッパーで開閉できる気密性の高いものとし、火葬の際に遺体を取り出さなくていいもの自社開発し、香川県とともに送ったヴォランティアである。
[4] 三十の矢が放射状に集まって、一つの車輪の中心部と共にある。そこに無(空間)があるから、車輪の働きをする。 土をこねて、それで器を作る。その器に無(空間)があるこらこそ、それは、器としての用を為すのである。壁をうがって戸口や窓をつくり、それで以って、部屋をつくる。部屋の中に無(空間)があってこそ、それは部屋の用を為す。従って、有が有としての価値がある為には、そこに何らかの 無の働きがあるからなのである。
[5] 1974年 岩波ホール芸術監督、1988年 水戸芸術館芸術総監督を経て、1995年 静岡県舞台芸術センター芸術総監督。2000年 舞台芸術財団演劇人会議理事長。1994年 テオドロス・テルゾプロス(ギリシャ)、ロバート・ウィルソン(アメリカ)、ユーリ・リュビーモフ(ロシア)、ハイナー・ミュラー(ドイツ)などとともにシアター・オリンピックス国際委員会を結成。1995年、第1回シアター・オリンピックスは、アテネ、デルフォイで開催。1994年、日中韓3カ国共同の「BeSeTo演劇祭」を創設。 2016年から中国・北京郊外の万里の長城の麓にある古北水鎮で、鈴木の演劇理念と訓練を教えるための演劇塾が開始されている。
[6] 鈴木忠志は、早稲田大学在学中に脱新劇を目指して学生劇団「自由舞台」を創立。大学卒業後、1966年「自由舞台」から「早稲田小劇場」と改称した。同劇団には、劇作家の別役実、俳優の小野碩らが在籍し、小劇場運動の旗手としての役割を果たした。1976年、活動の拠点を富山県利賀村(現南砺市)に移し、1984年には「SCOT(Suzuki Company of
Toga)」と改称した。
[8] 満濃の家 (香川県)/ロードサイドミュージアム Xa104 (広島県)/馬指の医院(香川県)/多度津の家(香川県)/上下歴史文化資料館(広島県)/浜名湖花博 国際花の交流館(静岡県)(設計:栗生総合計画事務所+柿内正之+齊藤正)/馬指の医院増築(香川県)/CONSERVATORY(香川県)/VEGETATION(香川県)/NEST-NEST(香川県)/映画「UDON」オープンセット(香川県)/CUREBLOOM(香川県)/KICHI(香川県)/n-OM1(東京都)/サンクリーン歯科(香川県)/舞台「Fabrica10.0.1」舞台装置(東京都)/イスノキ(香川県)
[9] 柞原という地名に由来する。柞(イスノキ)は、玉座をつくる素材で、かつて香川の各地に群生していたという。
[10] 活動内容として以下を挙げる。・激甚災害に備えてのZENKON湯の備蓄普及事業・地域の活性化を促進させるまちづくり事業・塩飽レストランや人命救助講習会などイベント企画運営事業・地域の歴史などを多角的に分析した調査や研究・地域に根ざした職人を育成する職人学校の運営・様々な技術を持ったメンバーたちの商品の販売・災害時にZENKON湯などを被災地に届ける人材の派遣・文化レベルの向上の為の芸術活動の推進やギャラリーの運営・地域の防災訓練などのイベントでのZENKON湯の建て方実演・地域を巻き込んだ新しい農業、酪農、林業の運営
[11] 名の由来は「塩焼く」とも「潮湧く」とも言う。
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