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2021年5月3日月曜日

進撃の建築家 開拓者たち 第1回 序章 闘う建築家

 連載主旨 

新しい動き方をしている30代、40代、50代の建築家を取り上げる。一見、突然変異的、異端のX人だが、成長時代から成熟時代と大きく劇的に変化した日本社会では、20世紀的昭和型建築家職能はもはや通用しない。歴史の必然で生まれたミュータントと位置づける。特に311の原発事故後は、 拡大型成長的価値観の崩壊と反省という点で日本社会の歴史的分岐点となるであろう。そういう意味で第二の戦後建築が始まったとも言えそうだ。そこで、『戦後建築論ノート』の布野修司がこのX人、X作から何を読み取るか、見ものである。建築への絶望から建築を始めたという布野修司。計画学への問いかけ、建築史の検証、アジアへのまなざし、スラム・寄せ場・セルフビルドへの共感、タウンアーキテクト待望など、布野修司の自分語りも重ね合わせて16人の建築家像、建築家職能論を展開する。

編集長(西川直子)

進撃の建築家 開拓者たち 第1回 序章 「闘う建築家」『建築ジャーナル』2016 9

進撃の建築家 開拓者たち-今つくる意味を問う:新たな建築家像を求めて 01 


  闘う建築家

                  布野修司

 



進撃

 「進撃」と言えば進撃の巨人Attack on Titanである。巨人とそれに抗う人間たちの戦いを描いた諌山創の「劇画」[1]の単行本の発行部数は累計5000万部を突破したという。繁栄を築き上げた人類が、突如出現した天敵「巨人」により滅亡の淵に立たされ、巨大な三重の城壁の内側に生活圏を確保することで、辛うじて一部が生き残る、そして、約100年後、いつしか人類は巨人の脅威を忘れ、平和な日々の生活に埋没していた…というのが物語の発端である。漫画雑誌から遠ざかって既に久しく、手に取ってみる余裕はないが、これほどの読者を得ていることは、時代の核心を突いていることは間違いない。

『週刊少年マガジン』[2]は、僕らの学生時代は、100万部発行の大雑誌であった。『巨人の星』[3]『あしたのジョー』[4]などの連載が楽しみで毎週買って読んだ。「右手にジャーナル左手にマガジン」という謳い文句があった。ジャーナルとは『朝日ジャーナル』[5]、当時の学生の必読マガジンである。

そして、「進撃」と聞いてもうひとつ思い起こすのは、東大全共闘の季刊紙『進撃』(図①)である[6]。一体、「全共闘」は何に向かって「進撃」したのか。各大学全共闘の機関紙も、「反逆」「〇〇戦線」「戦砦」(日大全共闘)「ストラグル」(京大全共闘)「バリケード」(京都府立医大全共闘)「コンテスタシオン」(立命館大学全共闘)・・・と、まるで戦争である。確かに、しばしば繰り広げられた石礫と催涙弾が飛交う市街戦は「疑似的戦争」であった。学生たちは何に対して戦ったのか。

いま、若い建築家たちは何に対して「進撃」しようとしているのか?、何に向かって戦おうとするのか、「進んで」「撃つ」「闘う」べき「巨人」とは何か?「進撃の建築家」の作品と活動を取り上げながら、自らの半世紀の歴史を重ねてみたいと思う。


 

1968

大学に入学した1968年は激動の1年であった。

412日の入学式、雨が降っていたが安田講堂には入れなかった(図②)。講堂前には座り込む学生たちがいて、医学部学生処分への抗議の怒号が飛んでいた。620日全学1日ストライキ、626日文学部無期限ストライキ突入、そして72日に安田講堂占拠、5日に東大闘争全学共闘会議(全共闘)結成、同日教養学部も無期限ストライキに突入、以降、1年近く授業がなかった[7]。翌年の東京大学の入学試験は中止である。手元に資料が残されているが、第一学期の試験代わりのレポート問題集が提示されたのは1969年の517日付である。卒業も1ヵ月遅れた。講義で何かを教わった記憶は薄い。クラスの仲間[8]との自主ゼミで高木貞治(18751960)の『解析概論』を読んだ。あとは毎日のように映画を見た。大学は自分で学ぶ空間である、というのが原点である。


『進撃』を見ると[9]激動の1年の最終盤の出来事を思い出す[10]。羽仁五郎『都市の論理』、マルクーゼ『ユートピアの終焉』、竹内芳郎『文化と革命』…といった書籍広告が時代をヴィヴィッドに蘇らせる。とりわけ、1021日の国際反戦デーの新宿周辺の出来事(騒乱罪適用)、1122日の日大・東大闘争勝利全国総決起集会の東大本郷キャンパス安田講堂周辺の出来事は鮮明である。1968年から1970年にかけて、首都の街路は頻繁に「戦場」と化した。戦う学生としてその場にいたわけではない。あくまで「野次馬」としてである。ただ、現場で事態を見ておきたいという衝き動かされるような何かがあった。

出雲から上京した田舎者は、全くの「ノンポリnon political」であった[11]1日ストライキで授業参加を阻止する闘士に「我々は授業を受ける権利がある」などと食ってかかったぐらいである。しかし、様々な情報を得て議論を積み重ねる中で、「全共闘」の主張に理がある(造反有理)という判断にクラス全体も傾いて行った。何に怒ったのかと言えば、登録医制度に反対して無期限ストライキ(1968129日)に入った医学部でその場にいなかった学生が懲戒処分を受けたことにである(311日)。撃つべき「巨人」は、医学部当局、その非を認めない無責任な体制であった。これはひとり医学部の問題でも東大だけの問題でもなかった。日大では裏口入学謝礼金、使途不明金など不正経理問題などが、また、ほとんど全ての大学でマスプロ教育体制や授業料値上げ、教授支配の講座制、産学共同体制などが問題となった。加えて、ヴェトナム戦争、日米安保条約改定など国際情勢に関わる議論が交錯した。当時の言い方では、戦後民主主義体制なるものの全体、その無責任体制(虚妄)を問題としたのである。

そして、それは日本のみの問題ではなかった。パリの「五月革命」(1968510日)がその象徴である。発端は1966年のストラスブール大学学生の教授独占体制に対する民主化要求である[12]。その後運動は全国に波及、523日カルチエ・ラタンで大規模な街頭行動が展開され、10日の参加者約1000万人のゼネストに繋がる。世界中で問われたのは、第二次世界大戦後の世界秩序、東西の冷戦構造、それを支える旧態依然たる価値観、政治支配体制、そして大学の体制であった。

 1968年に拘り続けた建築家が磯崎新であり、宮内康(19371992)である。「私は年齢的には1960年世代だけど、建築家としての思考のしかたは1968年に属している」[13]という磯崎新については『建築少年たちの夢』「第9章「世界建築」の羅針盤」(2011)で詳述した。宮内康についても『怨恨のユートピア 宮内康の居る場所』(『怨恨のユートピア』刊行委員会、れんが書房新社、2000年)をまとめたが、このシリーズでも触れよう。

 1968年の帰趨が明らかにしたのは、現実を支配するパワー・ポリティックスである。学んだのは現実を動かす政治力学である。大学当局の事態収拾への対応、学生内部での秩序回復の動き、全て体制側の強い意志、巨大な権力の駆動である。磯崎新は、「社会変革のラディカリズムとデザインとの間に絶対的裂け目を見てしまった」といい、「デザインを放棄する、あるいは拒否することだけがラディカルな姿勢をたもつ唯一の方法ではないか」といった(『建築の解体』(1975))。宮内康は、裁判闘争を強いられながら「建築」に拘り続けて病魔に倒れることになった(『風景を撃て』(1976))。

 1968年、僕は、将来の自分の道として建築を選ぼうとは思っていなかった。東大闘争がなければ、理論物理を専攻したのではないかと今でも思う。建築を選んだのは、建築が現実のパワー・ポリティックスの中でしか自己を実現することはないことをそれなりに深く理解した上でのことである。

 

雛芥子

建築に進学を決めて出会ったのが「雛芥子」の面々(杉本俊多,千葉政継,戸部栄一,村松克己,久米大二郎,三宅理一,川端直志,布野修司・・・)である(図③)。駒場では、図学教室の樋口清1918~)[14]、広部達也(1932)[15]、横山正(1939~)[16]、野口徹(19411987[17]の各先生に建築に手ほどきを受けた。F.L.ライトに眼を開かれたことが大きい。また、丹下健三「アーバンデザイン」[18]、吉武泰水「建築計画」の講義を受けた。吉武先生の講義は今でも忘れない。建築を学び始めた学生に対する最初の講義のテーマが、東大闘争の発端になった医学部の東大病院北病棟の設計をめぐる問題(北病棟問題)であった。「使う人の立場にたって」というのが建築計画学の基本指針であるが、「1フロア1看護ユニットという従来のシステムに対して、2フロア1看護ユニットがより合理的である」としたら、労働強化につながると看護婦さんたちに大反対され座り込まれた、どう考える?というのである。これは建築計画の原点に関わる問題である。


しかし、圧倒的に建築を学んだのは雛芥子の仲間との自主ゼミでの議論である。原広司『建築に何が可能か』、メルロ・ポンティ『知覚の現象学』など読書会を続けた。また、講演会、シンポジウムなどを組織した(図④)。ゲーテ・インスティチュートにある表現主義映画を全部借りてきて見たり、佐藤信や津野海太郎などの演劇集団「黒テント」を呼んで安田講堂前でテント芝居(緑魔子、石橋蓮司出演)をプロデュースした。夜は、先輩たちに、日本の建築産業をめぐる問題について連続講義を受けた(図⑤)この頃の「雛芥子」の活動を記したのが,故坂手建剛編集長が創刊した『TAU[19]である(「<柩欠季>のための覚書」一九七三年一月)。続けて,「虚構・劇・都市」「ベルリン・広場・モンタージュ」といった原稿[20]を書いたのが僕の建築ジャーナリズム・デビューである。

 



三里塚

建築実習のフィールドとなったのは「三里塚」である。「三里塚」(成田市三里塚および芝山町)は、19667月新東京国際空港建設予定地として閣議決定される。すぐさま「三里塚芝山連合空港反対同盟」(代表:戸村一作)が結成され、「一坪共有地運動」、測量阻止活動など長期にわたる反対運動が展開されることになるが、全国の学生たちも「援農」というかたちで反対運動に参加することになる。そして、団結小屋と称する宿泊所とか、塹壕やトンネルの掘削など様々な建設活動が必要とされた。建築を学ぶ学生たちはそうした建設活動を支援する傭員として参加することになった。多くの教師も参加した。

民家の移築を手伝った。解体して、現地に運んで組立直す。番付のやりかたや継手仕口も理解した。自分で建てるセルフビルド(自力建設)を経験した。また、現場での創意工夫も学んだ。測量も学んだ。僕らは、建築を三里塚で実践的に学んだのである。そして、ハイライトとなったのが三里塚の鉄塔(岩山鉄塔1972312日竣工、1977年撤去)建設である(図⑥)






設計者、構造計算など全体の設計体制は今もって知らない。実に多くの若き建築家が参加していた。われわれに主として要請されたのは、ガセットプレートの原寸図の作製だった。鉄塔が角度を変えるところを担当、角度を出すのに四苦八苦したのを覚えている。建築を学び始めたばかりの学生が、高さ100mにも及ぶ鉄塔の自力建設に参加するなどという経験は最早ありえないのかもしれない。

 

幻視の建築イメージ

 ほんの23年の、めくるめくような体験の中で、強烈な建築の原イメージをみた

 ひとつは、バリケードである。あるいはトーチカである。 外部からの人の侵入を徹底して拒む建築、あらゆる攻撃に耐える建築である。

「空間」の使用、占有をめぐって争いが起こる場合、バリケードが築かれる。1968年以降1970年代初頭にかけて、バリケード建設は、日常茶飯事であった。街路を占拠して、一定の時間、空間を自由に使うためにバリケードは次々に造られた。また、一定期間拠点を確保するためには、より強固な備えが必要である。安田講堂籠城は、その意志の表現であった。何も、特別な建築ということではない。城塞建築はそのように建てられてきたのである。問題は、空間の所有、使用をめぐる諸対立が見えないかたちで処理されていることである。バリケードはその見えない壁を可視化するのである。

 もうひとつは、移動するテント劇場のような建築である。トラック2台で部材を運び、2台で天幕を引張って劇場空間にする黒テントの移動劇場図⑦)は実に刺激であった。移動テント劇場は、都市のいたるところを芝居小屋に変えるのである。バリケードは、有り合せの材料による素朴な建築であるけれど、テント劇場は実にスマートである。しかし、移動テント劇場は次第に見られなくなっていく。新宿の西口広場でのフォークゲリラの集会が「広場」ではなくて「通路」だからという理由で排除されたように、テント劇場もまた都市空間から締め出されていくのである。「雛芥子」が黒テントを張った安田講堂前広場は、今は花壇が設置され、何も起こりそうにない味気ない空間に替えられている。









 そしてもうひとつは、攻撃的な建築である。まさに三里塚の鉄塔のイメージである。人にやさしい、ヒューマンな建築をめざすと多くの建築家はいう。しかし、人を攻撃する、妨害する建築もありうるのではないか。というより、「人にやさしい、ヒューマンな建築」といいながら、人と人を切り分けているのではないか。そもそも、建築は自然を傷つけて成立する暴力的な行為ではないか。

 建築家は「獄舎づくり」といったのは長谷川堯である(『神殿か獄舎か』(1972))。それでも、「制度」への違反、「制度」への回収、そしてさらに違反、そうした闘いを持続しようとする建築家に出会いたいと思う。



[1] 『別冊少年マガジン』(講談社)200910月創刊号から連載。

[2] 『週刊少年サンデー』とも1959年創刊。

[3] 梶原一騎原作・川崎のぼる画、1966-1971

[4] 高森朝雄(梶原一騎)原作・ちばてつや画、1968-1973

[5] 1959年創刊~1992年終刊。

[6] 今でも手元にあるが、1968119日に創刊され、1970227日発行の第19号で終刊している。第4号と第5号の間に号外(1969121日)が出されているから全20号、号外は、1969119日の安田講堂陥落直後の号である。

[7] 明治大学の青井哲人(准教授)、石槫博和(助教)研究室のグループが僕の証言を時代の記録に残したいということで、先日、第1回(2016514日)ということで大学に入学した1968年から建築学科に進学する頃まで、そして第2回(2016620日)は建築を学び始めた以降についてのヒヤリングを受けた。何回続くかわからないけれど詳細はこの記録に委ねたい。

[8] 同じ年に入学したクラスは43S15Bという。昭和431968)年、理科一類(S1)、5B(ドイツ語5組)という記号で、65歳の定年を間近にしたころから同窓会が開催されるようになった。T大理事・副学長、P学会元会長、ITヴェンチャー企業社長…錚々たるクラスメイトがいる。専ら話すことは、東大闘争のことだ。

[9] 東大闘争については、山本義隆による『東大闘争資料集』全23巻('68'69を記録する会 編、'68'69を記録する会、1992年))がある。『進撃』他大学の「全共闘」機関紙も、Website全国学園闘争資料http://www.geocities.jp/meidai1970/gakuentousou.htmlで見ることが出来る。

[10] 記録集として、東大紛争文書研究会『東大紛争の記録』(日本評論社、19691月)以下、様々ある。島泰三『安田講堂1968-1969』(中公新書、2005年)は安田講堂攻防戦に焦点を絞る。

[11] 松江で「ノビノビ」とした高校生時代を過ごしていたけれど、ヴェトナム戦争反対、佐藤栄作首相の南ヴェトナム訪問阻止の第一次羽田闘争(1967108日)で京大一回生の山崎博昭君が虐殺されたこと、681月の佐世保での原子力空母エンタープライズ入稿阻止闘争で学生たちがヘルメットとゲバ棒で激しくデモする様子はテレビを通じて知っていた。上京するに当たって、「間違ってもヘルメット被ったり、ゲバ棒もったりするなよ」と言われた。「ヘルメット」や「ゲバ棒」は別世界のことであった。

[12] これがナンテールに波及、ヴェトナム戦争反対を唱える国民委員会5人の検挙(1968322日)に抗議する学生運動に発展、さらにソルボンヌ(パリ)大学の学生の自治と民主化の運動に火が付いた(H.ルフェーブル『『五月革命』論 突入―ナンテールから絶頂へ』筑摩書房、1969)。

[13] 「メタボリズムとの関係を聞かれるので,その頃を想い出してみた」(『反回想』(GA,二〇〇一)p.二〇「何だか性懲りもなく,一九六八年にもどってしまう」「第六章「歴史の落丁」がはじまった一九六八年の頃を想い出してみた」(『反回想』(GA,二〇〇一)p.一五三

[14] 『ライト、アールトへの旅』(建築資料研究社,1997,『フランク・ロイド・ライト』 天野太郎生田勉共編 (彰国社,1954年)など。

[15] 広部 達也磯田 『図学教室』(東京大学出版会、1976)、広部 武内 照子『デザインの図学』(文化出版局、1985)など。

[16] 『透視画法の眼 ルネサンス・イタリアと日本の空間』(相模書房 1977年)、『箱という劇場』(王国者、1989年)、『ヨーロッパの庭園 歴史・空間・意匠』(講談社 1989年)、『数寄屋逍遥 茶室と庭の古典案内』(彰国社、1996年)など。

[17] 『日本近世も都市と建築』(法政大学出版局、1992年)、『中世京都の町屋』(東京大学出版会、1987年)など。

[18] 丹下先生の講義は2回で後は渡辺定夫先生の代講であったが、ロストウの経済成長理論を下敷きにして「君たちは不幸です。建築はこれから衰退していきます」と言われたことを覚えている(都市工学に、未来はあるか?2015213日(金)18:3020:00会 場:日本建築学会 建築書店https://www.aij.or.jp/jpn/touron/5gou/touron6.html駒場の2年生向けの「アーバンデザイン」という講義でした。丹下先生が二回ほど講義されて、「あとは渡辺くんやれ」ということだったんじゃないかと思っていました。・・・丹下先生の講義はロストウ23の経済理論ですね。また、ギリシャ・ローマのアゴラ、フォーラムのスケールの話も覚えています。広島平和公園の話と思って聞きました。ロストウの経済理論は、成長理論というか、経済発展論ですね。経済発展には、離陸期があり、成長が続いて、衰退していく、ソフト・ランディングができるかどうかが問題だ、というような話でしたね。建築を学びはじめたばかりの学生に「日本の建築界はこれからダメになります」というんで、ずいぶん、ひどいことを言うなあと思ったことを覚えています。日本経済のその後の行方は大体当たってたんですけどね。・・・) 

[19] Trans Architecture & Urban.商店建築社が発行した建築月刊雑誌だが,四号で廃刊。近代建築の反省に伴って勃発した試行を過剰に展開した。創刊号に掲載の丹下批判「丹下健三と庁舎建築:レトリックの分析」は,七〇年代における丹下評価の先駆けとなった。(中村文美)

[20] 『都市と劇場・・・都市計画という幻想』(布野修司建築論集Ⅱ,彰国社,一九九八年六月)所収。

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