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2026年8月12日水曜日

2026年8月11日火曜日

カンポンハウジングプロジェクト,東南アジアの建築世界4,GLASS LIFE,セントラル硝子,199012

 カンポンハウジングプロジェクト,東南アジアの建築世界4GLASS  LIFE,セントラル硝子,199012



東南アジアの建築世界4

カンポン・ハウジング・プロジェクト                        

 

布野修司

 

●東南アジアの現代建築

 東南アジアの現代建築といっても、僕が東南アジアに通いだした70年代末には、そうみるべきものはなかったといっていい。中心業務地区にオフィスやホテルなど高層ビルがパラパラと建つのであるが、あとは粗末な民家が密集するのが、大都市の一般的光景であった。公共施設といっても、欧米のどこかに建っているものをつたなくまねしたようなそんな建築が目立つ程度であったように思う。

 しかし、この十年で、東南アジアの建築も独自の展開を始めたように見える。雑誌『MIMAR』をみているとつくづくそう思う。『MIMAR』というのは、「発展する建築」をサブタイトルとする、アジアを中心とした第三世界の新建築情報をしっかりした編集方針のもとに扱っている、シンガポール発行の建築雑誌である。編集長は、建築家、ハッサン・ウディン・カーン(                )である。僕の直接知っている建築家だと、ウイリアム・リム(           )が編集顧問に名を連ねている。

 もちろん、一方で目立つのは、欧米の建築家による作品だ。例えば、ジャカルタに    年に建ったダルマラ・サクティー(              )ビルは、P.ルドルフの設計である。なつかしい。しかし、一般的に言えば、地域の独自の表現を模索する作品が多いようにみえる。『MIMAR』の編集方針がそうだということもあるが、必ずしもそれだけではない。

  イスラム圏の建築を対象として、すぐれた建築を顕彰するアガ・ハーン(        )賞というのがある。その    年、    年、    年の授賞作品をみても、そうした広がりをみることができるのである。既存の建築の修復、再利用、保存、コンテクスチャリズム、ヴァナキュラリズム、ハウジングといった動向にも大きな光が当てられ、数多くの賞が与えられているのである。

 この間、東南アジアでそのアガ・ハーン賞の授賞作品は3件ある。また、表彰作品が2件ある。そのうち、いわゆる建築作品といえるのは、2件、タンジュング・ジャラ・ビーチ・ホテル(                         マレーシア)とサイード・ナウム・モスク(                 ジャカルタ)である。いずれも、伝統的な民家の形式を生かした作品である。そして、後の3件は、いずれも、コミュニティーによる居住環境改善のプロジェクトである。ここでは、そのカンポン・インプルーブメント・プログラム(                             )と呼ばれる居住環境改善のプロジェクト、そして、その延長としてのあるカンポン・ハウジング・プロジェクトを紹介しよう。

●カンポン・インプルーブメント・プログラム

 カンポン(       )とは、インドネシア(マレー)語でムラのことである。今日、行政単位の村を意味する言葉として用いられるのはデサ(    )であるが、もう少し一般的に使われるのがカンポンである。村というより、カタカナのムラの感じだ。カンポンと言えば、田舎、農村といったニュアンスがある。カンポンガン(         )とは田舎者のことである。しかし一方、都市の居住地も同じようにカンポンと呼ばれる。都市でも農村でも一般にカンポンと呼ばれる居住地の概念は、インドネシア(マレーシア)に固有のものである。

 ところが、しばしば、カンポンはスラムの同義語として用いられてきた。特に、西欧人は、カンポンをスラムと思ってきた。確かに、そのフィジカルな環境条件を見ると、都市のカンポンはスラムと呼ぶに相応しいようにみえる。生存のためにぎりぎりの条件にあるカンポンも多い。スクオット(不法占拠)することによってできあがったカンポンも少なくないのだ。

 そうしたカンポンで行われてきたのがカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)である。KIP(キップ)とは、フィジカルな居住環境整備の手法として、住宅地のインフラストラクチュアである歩車道、上下水道、ゴミ処理設備等、最小限の基盤整備を行い、住宅の改善については、居住者およびコミュニティーの相互扶助の活動に委ねるというものである。この手法は、大きな成果を挙げ、同じように居住問題に悩む発展途上国を中心に、世界的にも注目されてきたのであった。

     年の第一回アガ・ハーン賞の選定にはひとりの日本の高名な建築家が審査員が加わっていた。KIPは、結果的には全員一致で選ばれるのだけれど、その建築家はひとりだけ反対したのだという。余程、インパクトが強かったのであろう、その建築家は、いくつかの場所でその時のことを繰り返し述べている。

 「スクオッターというのは、不法占拠地域という意味です。難民とか、職がなくて都会に出てきた人が、その土地が誰に属していようとおかまいなく集団で丘やら原っぱを占拠し、そこに勝手に家を建てることによってできた村や町をいいます。そこには初めは電気もなければ水道もない。それを徐々に改良していって、道もでき、汚い水を流す開渠もでき、水も電気も引いてきて、さらに全体のコミュニティーセンターになるような施設も造る。こうしてできた村の例をいくつか挙げて、これにも賞をやってほしいというわけですよ。建築賞という名前がついているんですから、ある程度の文化性がないと困るんじゃないかと私は主張したんです。」

 ここで語られているのが、カンポンであり、KIPである。カンポンやKIPには文化性がないというのである。しかし、その意義は受賞においても、また以下の脈絡においても、確認できる筈だ。

●ハウジング・プロジェクトの概要

 アセアン諸国に限らず、発展途上国の多くは深刻な居住問題に悩んでいるのであるが、各国共通の対応策を一般的に整理すれば、およそ以下のような施策を挙げることができる。

  A.ロー・コスト・ハウスの供給ー               

 B.スラム・クリアランスと再開発ー                             

  C.不良住宅地改善、居住環境整備ー                          

  D.宅地分譲(サイト・アンド・サービス)ー               

  E.再定住、移住ー                       

  F.農村住宅供給ー            

  G.住宅資金融資

 公的機関による直接的な住宅供給(A)は、大規模な計画住宅地の開発を中心として各国ともに大きなウエイトをもって行われてきており、住宅融資とともに、居住政策の大きな柱である。しかし、一つには、他の施策に比べてコストが高く、必ずしもロー・インカム・ハウジングとならないこと、また、公的供給による量をはるかに上まわる量が必要とされていること、さらに、殊に高層住宅や集合住宅が必ずしも居住者の生活になじまないことなどから行き詰まっている。国よって、状況は異なるのであるが、公共住宅は、一つのモデルとして、デモンストレーションの意味をもつにすぎないのが一般的である。

 スラム・クリアランスによる再開発(B)は、大規模な住宅地開発とともに試みられてきたのであるが、スラムの存在自体が発展途上国の政治的、経済的、社会的諸問題の集約的表現である状態において、居住者たちの抵抗を受け、むしろ圧礫を生み、矛盾を拡大する傾向にある。

  サイト・アンド・サービス・プロジェクト(D)は、最小限の施設整備(上下水道、道路、公共施設)を行った住宅供給するものであり、各国においてユニークな試みがなされている。住宅の建設は、セルフ・ヘルプを基本とし、資金、技術、材料の援助が行われる。最も一般的なのは、水回りとワン・ルーム程度のコア・ハウス(          )を供給し、増改築のその他を居住者の手に委ねる方法である。こうした手法は、住宅そのものの供給がコストがかかりすぎるという点と、人的資源の有効利用という視点から生み出されたといっていいのであるが、それ故、現実性をもって、かなり広範に行われつつある。サイト・アンド・プロジェクトは、リセツルメント・プロジェクト(E)において行われる場合が多い。

 そのリセツルメント・プロジェクトおよびイミグレーション(E)は、スクオッター・スラムの居住者を都市郊外や他地域(インドネシア、フィルピンでは他島)へ移住させる直接的な人口分散計画である。クリアランス型の再開発とリンクして行われる場合もある。リセツルメントは様々に試みられてきたのであるが、雇用対策が不十分であることが多く、就業機会を求めて都心へUターンする現象がみられ、必ずしも人口分散の実効があがっていないのが現状である。

 ルーラル・ハウジング(F)は、農村の生産基盤の整備充実によって向都移動を抑制すべく試みられている。その場合、地域産材を用い、その地域の伝統を考慮した住宅のあり方が模索されるのが一般的である。 以上のように、新規開発、再開発を問わず、直接的な住宅供給を行う政策に対して、オン・サイトで住環境整備を行おうとするのが、不良住宅地改善(C)である。これは、「スラム」の生活構造を大きく変えずに、都市公共サーヴィスと最大限のインフラストラクチャー(上下水道、歩道、ゴミ処理)の整備を行おうとするものであり、タイ(   )、フィリピン(   )などでも同じような手法によって行われつつある。インドネシアのKIPがその代表である。生存のためにぎりぎりを言ってもいい、劣悪な住環境を改善することは、緊急の課題であり、その根本的解決を将来に残すものと言えるのであるが、波及効果が大きく、投資効果は高い。また、ロー・コスト・ハウシングが土地問題などで行き詰まりをみせてくるにつれて、居住政策のウエイトは次第に、オン・サイトの住環境改善に移行しつつあるのである。

●カンポン・ハウジング・プロジェクト

 こうした中で、J.シラス(建築家、スラバヤ工科大学)を中心とする仲間たちは、ひとつの実験に手をつけ始めた。KIPの延長としてハウジングのプロジェクトを展開しようとするのである。それは、いってみれば、立体コアハウス・プロジェクトといえるようなプロジェクトである。都心部のカンポンは、既に建て詰まりつつあり、その再開発が具体的に問題となりつつある。KIPを一歩進め、あくまでオン・サイトでハウジングも行おうというパイロット・プロジェクトである。

 立体コアハウスというのは、トイレ、バス、キッチンを思い切って共同化した、3階建ての集合住宅だ。カンポンの雰囲気をできるだけ生かしながら、再開発しようというのである。各戸のバルコニーの庇に瓦が用いられている。もちろん、既往のカンポンに住んでいた人がそのまま住み続けるのが条件である。各階には共同の礼拝スペースが設けられている。トコ(店舗)やワルン(小店)はまとめられて一棟平屋でつくられている。集会所もそうである。

 住民たちには好評のようであるが、J.シラスたちは慎重である。こうした住居形態が根付いていくかどうか、じっくりモニター(追跡調査)しながら、進めていくのだという。

 

2026年8月10日月曜日

H.T.カールステン H.M. ポント,東南アジアの建築世界3,GLASS LIFE,セントラル硝子,199009

 H.T.カールステン  H.M. ポント,東南アジアの建築世界3GLASS  LIFE,セントラル硝子,199009


●オランダーインドネシアー日本

 

 東南アジアの近代建築といってもピンとこないかもしれない。そもそもそう顕著な動きが見られなかったせいであろうか、西欧の近代建築の歴史からは全く無視されている。しかし、それぞれの国や地域にとって、近代建築の受容が大きなインパクトとなったことは言うまでもないことだ。そして、その受容の過程にも、それぞれに固有の歴史があるのは当然のことである。

 東南アジア各地に近代建築をもたらしたのはそれぞれの宗主国である。それ以前の植民地化の過程で、西欧建築の影響は徐々に東南アジアに及んできた。まず、初期の段階では、ヨーロッパの建築様式がそのまま持ち込まれようとする。材料や職人も本国から運ばれてきた。しかし、気候条件などの違いからヨーロッパそのもののスタイルでは合わないこともでてくる。少しづつ変更が加えられ、土着化の動きがおこる。土地土地の建築が研究され、学ばれる。一方逆に、ヨーロッパのスタイルが土着の建築に取り入れられ始める。西欧化である。西欧建築の受容の過程は、一般化して言えば以上のようであろう。その影響は既に建築文化の深層にまで及んでいる。西欧建築の影響は既に建築の伝統になっているとも言えるであろう。近代建築もその延長として宗主国の建築家を通じてもたらされるのである。

 インドネシアについてみてみよう。インドネシアに近代建築をもたらしたのはオランダである。アムステルダム・スクール、ロッテルダム・スクール、あるいはデュドックの影響などを様々にみることができる。実に興味深い。これはアムステルダム、これはロッテルダム、明らかにドュドックだろう、と、ジャカルタ、バンドン、スマラン、スラバヤなどの大都市を歩いていると、そんな建物をあちこちで見かけるのである。思わず影響と書いた。しかし、そうした建築が建てられたのは本国と全く同じ時期である。当然のことだ。オランダの近代建築の祖といっていい、H.P.ベルラーヘが設計したアルヘメーネ(生命保険会社)の社屋がスラバヤに竣工したのは    年のことである。また、彼自身、    年にインドネシアを訪れている。オランダの動向はストレートにインドネシアに及んでいたのである。

 オランダの近代建築運動が日本の近代建築運動に多大な影響を与えたことはよく知られている。日本分離派建築会の初期のプロジェクトにははっきりうかがえるのである。オランダ建築についての関心は極めて高かった。それを示すのが堀口捨己の『オランダ現代建築』(岩波書店     年)である。オランダと日本の関係も歴史的に深い。オランダーインドネシアー日本との連関で近代建築の歴史を見直してみるのも興味深いだろう。

 ハーマン・トマス・カールステンとヘンリ・マクレーン・ポントといっても、もちろん知る人は少ないだろう。二人はインドネシアの近代建築の歴史に大きな足跡を残したオランダの建築家である。    年、H.P.ベルラーヘがインドネシアを訪れ、「オランダの近代建築の発展に匹敵するほど重要となるであろう、来るべきインドネシア建築に全てを捧げた二人の建築家」として言及したのがこの二人である。二人は、実は、デルフト工科大学の同級生であった。

 

 

●H.M.ポントとH.T.カールステン

 

 H.M.ポントがインドネシアを訪れるのは    年、  才の時のことである。しかし、もともと彼が生まれたのは、ジャカルタである(    年)。本国で教育を受け、デルフト工科大で建築を学んだのち、いわば帰ってくるのである。    年に卒業した後、アムステルダムの建築事務所で二年実務に携わった後、スマランーチレボン鉄道会社の本社屋を設計するためにジャワへ赴くのである。その本社屋には、ベルラーヘの影響が色濃くにじみ出している。

 この仕事を終えた後、H.M.ポントはスマランに個人事務所を開設する。そして次第に仕事が増えていく。そこで、招いたのがH.T.カールステンである。H.T.カールステンがスマランにやってきたのは    年の暮れのことであった。

 H.T.カールステンはアムステルダムの裕福な家庭に生まれた     年 。父親はアムステルダム大学の哲学の教授である。    年、デルフト工科大に進み、H.M.ポントと出会った。学生時代、カールステンは極めて活動的であり、社会民主運動組織に加わるのであるが、    年には住宅問題委員会の主要なメンバーになったという。後に、インドネシアで都市計画にも精力的に取り組むのであるが、その素地は学生時代に形づくられたのであった。卒業後、カールステンはベルリンで実務につく。H.M.ポントからの手紙が届いたのは、第一次世界大戦前夜のベルリンへであった。

 しかし、二人のパートナーシップは、わずか二年しか続かない。性格が合わなかったらしい。H.T.カールステンは、アクティブであり、H.M.ポントはどちらかというと学究肌である。それに、H.M.ポントの健康がすぐれなかったことも大きい。彼は、    年にオランダに戻り、    年まで戻らない。    年には、H.T.カールステンに事務所の権利を売ってしまう。その後、二人は別々の道を歩むことになったのである。

 

 

●H.M.ポントの仕事ーーーバンドン工科大学(ITB)からポサラン(         )の教会まで

 

     年、帰国中のH.M.ポントは工科系の教育機関の設計を以来される。    年に竣工した、現在のバンドン工科大学(ITB)である。僕が最初にITBを訪問したのは、竣工して  年を経た、    年のことであったが、いささか度肝を抜かれた。とにかく迫力がある。ミナンカバウ族、バタック族の民家をイメージさせる屋根が連なっている。一見、インドネシア版「帝冠様式」か、と思ったのであるが、深みがある。不思議な魅力がある。調べてみるとオランダ人の建築家である。それがH.M.ポントであった。

 H.M.ポントは、インドネシアに着いて以来、時間をみつけてはインドネシア中を旅行し、土着の建築について調べている。余程魅せられたのであろう、その探求は徹底していた。やがて、ジャワ建築の研究にウエイトを移したほどである。H.M.ポントは、ジャワ建築の起源を探り、その本質を明かにしようとする。その架構の原理を解明し、それを現代建築に生かそうとする。伝統的建築の空間構成の方法を読み取り、それをうまく用いようとするのである。

 ITB以降の彼の作品は、そうした試みの積み重ねである。    年から    年まで、彼は東ジャワのトゥラウラン(       )に住んだ。マジャパイト時代について、考古学的、歴史的研究を行うためである。このためポントは、結果的に建築の仕事から遠ざかることになるのであるが、それでも珠玉のような作品を残している。トゥラウランの野外博物館の建物がそうである(    年)。そして、何よりも傑作だと思うのが、東ジャワのクディリの近郊にあるポサランの教会である。H.M.ポントの最後の作品である(         年)。

 昨年(    年)、初めてポサランを訪れてじっくりと見た。小さな作品だけれど、実に見応えがある。インドネシアの友人たちは、H.M.ポントをインドネシアのA.ガウディーという。何故だろうと思っていたのであるが、この作品をみて、なるほどと思う。石積みのベルタワーやフェンスをみるとそんな雰囲気もあるのだ。

 教会は、伝統的形態をとるかのようであるが、極めて意欲的に、大胆なテンション構造が採用されている。H.M.ポントは、インドネシアン・ゴシックと呼んだのだという。伝統の形態と近代的架構方法が緊張関係の中に釣り合っている、そんな感じである。

 H.M.ポントは、第二次世界対戦後、帰国し、公共住宅や空港、大規模な建築など多くの建築を手掛けている。しかし、このポソランの教会に込められたものは、極めて大きかったはずだ。

 

 

●H.T.カールステンの仕事ーーーカンポン・フェアベタリングと都市計画

 

 H.T.カールステンは、ポントに比べるとはるかに多くの作品を手掛けている。    年に、H.M.ポントから事務所を譲り受けると、まず、依頼を受けたのが、ソロ(スラカルタ)のマンクヌガラ宮殿(                    )の増築である(         年)。H.T.カールステンもまたジャワの伝統建築と否応なく出会うのである。

 これも昨年、ユネスコのセミナーの会場としてじっくり見る機会があった。なかなかのものである。    年に建てられたプンドポ・アグン(主殿)の改修より、居住棟の小さなプンドポ(ダイニング・ホール)がこじんまりといい。気に入られたのであろう。    年から    年にかけてもマンクヌガラ宮の仕事をしている。

 スマランの保険会社のオフィス(    年)、ソボカルティー劇場          年 を始めとして、ソロの中央駅(    年)、ジョクジャカルタのソノブドヨ博物館(    年)などが、H.T.カールステンの代表作である。

 H.T.カールステンにとっても、伝統建築と近代技術をどう調和するかは大きなテーマであった。力説したのは、ヨーロッパのスタイルをそのままジャワへ持ち込むことが誤りである、ということである。あくまで、生きているジャワのスタイルを出発点にすべきことである。また、彼は、伝統的な建築技術を新しい材料や建築に適用しようとしている。鉄骨を用いたソロの中央駅がいい例である。

 そして、H.T.カールステンの仕事は、さらに広がりをみせる。住宅問題や都市計画の分野の仕事である。H.M.ポントと違って、社会への関心を失わなかったのがH.T.カールステンである。その都市計画思想について詳述する余裕はないのであるが、前提として予め退けられていたのは、ここでも西欧の理論をそのまま適用すればいいという態度である。スタティックなマスタープランではなく、ダイナミックな計画、有機的な全体性の必要も彼の強調するところである。

 具体的に携わったのは、スマランとマランの都市計画である。いくつか興味深いのは、民族毎に居住地を分けるのではなく、収入階層毎に近隣住区を設定していること、自然の地形をできるだけ大事にすること、都市基盤設備については、可能な限り合理的に配置することなどである。

 こうしたH.T.カールステンの仕事は、一方で、都市計画法の制定につながっていくのであるが、戦前期のインドネシアで注目すべきなのがカンポン・フェアベタリング(                   カンポン改善事業)である。このオランダによるカンポン・フェアベタリングは、今日のカンポン・インプルーブメント・プログラム(                             )の先駆とも見なされる。カンポンの居住環境にも意を注いだのがH.T.カールステンである。

 H.T.カールステンは、    年、日本軍の収容所で死んだ。  才であった。

 

参考文献                                                                                   

                                                                                                                                      

佐藤浩司 「スラバヤのベルラーヘ」 『建築雑誌』    年 月












2026年8月9日日曜日

チャンディ・スク チャンディ・チョト,東南アジアの建築世界2,GLASS LIFE,セントラル硝子,199006

 チャンディ・スク チャンディ・チョト,東南アジアの建築世界2GLASS  LIFE,セントラル硝子,199006



東南アジアの建築世界2

チャンディー・スク    

チャンディー・チョト          

布野修司

 

 東南アジアの建築というとまず想い浮かぶのはアンコールワットやボロブドゥールのような巨大遺跡の建築であろう。東南アジア地域は古くから中国文明とインド文明という二つの大きな文明のインパクトを受けてきたのであるが、とりわけ、インド(ヒンドゥー)文明は東南アジア世界に深く及んでいる。その後、イスラム化の波が東南アジア全体を襲う。現在ではヒンドゥー教が支配的なのはバリ島のような特定の地域にすぎなくなった。しかし、一皮めくった基層文化として共通なのはやはりヒンドゥー文化である。その伝統は様々な形で今日でもみることができるのである。東南アジアのインド化の歴史を示すのが各地に残されたヒンドゥー(・仏教)建築である。そうしたヒンドゥー建築のなかにちょっと変わったチャンディーがある。チャンディー・スクとチャンディー・チョトである。

 

 チャンディー(     )とは、ジャワのヒンドゥー・仏教寺院の総称である。寺院といっても様々な建造物からなるのであるが、チャンディーというとストゥーパ(卒塔婆      )と違って内部空間をもつものをいう。礼拝供養の対象物(仏像、神像、リンガなど)を納めた祠堂である。一般的には、チャイティア・グリハ(              「礼拝物の家」の意)といわれる建造物に当たる。実際に僧侶が住む僧院はヴィハーラ(      )である。しかし、内部空間をもたない立体曼陀羅であるボロブドゥールもチャンディー・ボロブドゥールと呼ばれるし、いくつかのチャンディー群のコンプレックス全体もチャンディーと呼ばれる。ジャワでチャンディーというと、タイのワット(   )と同じように、日本語の「お寺」という感じで一般的に使われているのである。  

 建築物としてのチャンディーは、大きく三つの部分からなる。すなわち、屋蓋、身舎、基壇の三つである。その三層の構成は宇宙の三界(さんがい)を表現しているといわれる。すなわち、ヒンドゥーのチャンディーでは、マハーメールのそびえる神の領域であるスヴァルローカ(天界)、地下世界であるブール・ローカ(地界)、その間に広がるブヴァル・ローカ(空界)の三つをそれぞれが象徴する。また、仏教のチャンディーでも、須弥山を中心とする三界観(大乗の場合は、アルーパダーツ(無色界)、ルーパダーツ(色界)、カーマダーツ(浴界)の三界、南方上座部(小乗)仏教の場合、アルーパローカ(無色界)、ルーパローカ(色界)、カーマローカ(浴界)の三界)に対応してチャンディーも三つにわけられるのである。

 もちろん、ヒンドゥー教の宇宙観はそう簡単に図式化できるわけではない。以上は大まかな構成原理であって、細部は様々である。また、地域によって異なる。チャンディーも中部ジャワと東部ジャワとで違う。ヒンドゥー・ジャワとヒンドゥー・バリの建築も少しずつ違う。中部ジャワから東部ジャワへ、そして、バリへ、ヒンドゥー王国の中心は移動して行くのであるが、チャンディーの様式も地域地域で異なっていくのである。

 大まかにいうと、中部ジャワのチャンディーは、ずんぐりと太めである。それに対して、東部ジャワのチャンディーはスレンダーである。バリにはグヌン・カウィに石窟のチャンディーがあるのであるが、細身で東部ジャワに近い。プロポーションが一見して違うのである。また、チャンディーの向きについても違いがある。中部ジャワではいくつかの例外を除いて、東か西を向くのが原則であるが、東部ジャワではその原則が崩れることが多いのである。東部ジャワでは、東西南北より、ローカルなオリエンテーションの方が重視されるのである。メール山(須弥山)となる山の方向を向くことが一般的なのである。

 また、西部ジャワのチャンディーは装飾が過剰である。東南アジアのヒンドゥー・仏教建築に関する研究の先達であり、第一人者である千原大五郎氏は以下の三つの点をあげる(  )。

 (1)開口部や壁がんがカーラ・マカラ・オーナメントによって縁どりされていること

 (2)階段の両翼の耳石がS字形をなし、その上下端がカーラとマカラで装飾されていること

 (3)主堂の前面に突出して設けられている前房の屋根が日本建築の唐破風に似た曲版屋根であること

  カーラ(    )あるいはマカラ(      )というのは、ヒンドゥー教の宗教的表徴である。半神的性格をもち、動植物をモチーフとする彫刻や文様として表現される。カーラは鬼面のようにみえる。面白いことに中部ジャワでは、上顎までしかないのであるが、東部ジャワでは下顎さらに腕を含めて表現される。カーラとは、「時」あるいは「黒」を意味する。カーリーがカーラの女性形で、カーリー女神は、人の頭蓋骨を綴った飾りを首から垂らし、人の腕を綴った帯を腰につけている。おどろおどろしい。マカラはもともとは山羊だろうか、口の中にライオンがいる。学問の神様ガネシャ(       )は 象である。

 全体的に中部ジャワ期のチャンディーは、インド的祖型を強く残し、その理念型を忠実に実現しようとしているようにみえる。それに対して、東部ジャワ期のチャンディーは、より土着化し、変容を受けているようにみえる。

 

 ところで、そうした中でちょっと珍しいのがチャンディー・スクである。いささか謎めいている。以上に触れたチャンディーとは全く異なったチャンディーのようにみえるのだ。みた瞬間、想起したのはマヤのピラミッドである。よく似ている。きれいな四角錘台の形態をしているのである。

 チャンディー・スクというのは、中部ジャワの古都ソロ(スラカルタ)ーーブンガワンソロのソローーの東方、ラウ山(      )の山腹に位置する。ソロから車で一時間ほどであろうか、中部ジャワといっても、もう東部ジャワとの境界である。昨年、ソロのマンクヌガラ宮で開かれたユネスコの国際会議に出席した際、初めて訪れる機会があった。近くに変わったチャンディーがあるというのでふとでかけてみたのである。チャンディー・スクへ行くというとみんなにやにやする。エロティックなチャンディーというのだ。確かに、性のシンボルがところどころにおおらかに置かれたチャンディーであった。

 チャンディー・スクは15世紀の建造だとされるのであるがわかっていないことが多い。中部ジャワ期のチャンディーは、7世紀後半から10世紀後半の建造とされるから、中部ジャワに位置するといっても、チャンディー・スクが建てられたのは、ヒンドゥー王国の中心が既にクディリ、シンゴサリを経て、モジョパイトへと移ったころである。不思議なのはその形態だけではない。ピラミッドの階段を上がってみると、中央に穴がうがたれていた。そこには巨大なリンガが置かれてあったという。リンガとは男根である。チャンディーの多くはリンガを奉る。しかし、それを覆う建造物が残されていないのは何故か。そこには、バリに見られるような、何層かの木造の塔状の建築があったのではないか。実際、レリーフには、そうした建物が描かれているではないか。

 また、子宮のなかにマハーバーラタの英雄ビマ(    )を描いた巨大なレリーフは一体何に使われたのか。また、無造作に、甲が平らな大きな亀が投げ出されている。これは何を意味するのか。日本で亀の上に墓石を載せるように何かを載せていたのであろうか。亀というと、蛇の上に亀の載ったインドの宇宙図を思い出すのであるが、それであろうか。沢山のレリーフが方々に置かれているのであるが、意味のわからないものが実に多い。

 チャンディー・スクは、実に抜群の見晴らし台にある。軸線は一直線にとられ、下界を見おろしている。何故こんなところにという気がしてくる。立地も他のチャンディーと違っているのである。千原大五郎氏は、ジャワにも、インド化以前の土着固有の巨石文化が生きており、この巨石文化の名残と消え行くヒンドゥー文化が融合して造られたのがチャンディー・スクだという。果してそうだろうか。巨石文化というほどスケールはなさそうなのだ。

 チャンディー・スクで不思議な気分にさせられたあと山を降りようとすると、近くにもうひとつチャンディーがあるという。また、にやにやである。見逃す手はない。好奇心にかられて行ってみた。チャンディー・スクからさらに登ったところになるほど不思議なチャンディーがもうひとつあった。それがチャンディー・チョトである。

 チャンディー・チョトについてはほとんど情報がなかった。ジャワで出された『中部ジャワのチャンディー』(  )という本には記述がないのである。後で調べると丁寧なガイドブックにはちゃんと場所が示されていたのであるが、名のみで何の記述もない、そんなチャンディーである。まずは木造の建物の方形の屋根が目につく。バリのプラ(     寺院)に似ている。第一感はこれは新しいだろうということであった。イジュク(     やしの繊維)で葺かれた屋根や木造が新しいのである。しかし、もちろん、木造の建造物は何度も建て替えてきたはずだ。急な階段を上がると最初の広場に変なものがある。海亀の大きな姿が石のモザイクで描かれている。よくみると、魚や蟹がいる。そしてリンガもある。さらに、チャンディー・スクにあった甲の平らな亀がある。明らかに、チャンンディー・スクの親戚である。ここでは亀は階段の踏石として使われている。とすると、チャンディー・スクの亀石も踏石だったのではないか。

 スケールはチャンディー・チョトの方がはるかに大きい。ここでも軸線は一直線にとられ、はるかに下界をみおろしている。構成原理は同じだ。階段状の構成は、急でダイナミックである。最上部には同じようにピラミッド状のチャンディーがある。何故か、ここも上屋がない。

 チャンディーの前に二対の祠があり、そこにリンガが奉られていた。随分と具象的である。にやにやの理由である。男根崇拝は至るところにあるということか。ところが、その直後にみたものには、いささか度肝を抜かれてしまった。

 最上部のチャンディーのさらに上に建物の陰がみえる。木造の塔のようである。近づいてみると三重の塔である。イジュクに苔が生えているけれど、新しい。木造の技術も稚拙だ。しかし、かってはこうした塔がピラミッドの上に建っていたのではないか、その代わりに近くのカンポン(ムラ)の人たちが建てたのではないか。そう推測した瞬間、異様なものが眼に入った。なんと、塔の上に巨大なリンガがそびえたっていたのである。

 リンガを最重要の崇拝物とするのはシヴァ派である。あるいはシヴァ派と結び付いたタントラ教である。チャンディー・スク、チャンディー・チョトはその流れを汲むのかもしれない。タントラ教は、宇宙の生成、発展を男女の性的結合になぞらえて理解する。そのシンボルがリンガであり、女性性器ヨーニである。ヨーニはリンガを受ける台座として表現される。リンガ、ヨーニに対する崇拝はもちろんタントリズムに固有というより、ヒンドゥー教全体のものである。チャンディー・スクとチョトは、ヒンドゥー・ジャワ文化のデカダンスの姿だという説がある。怪奇的で独特な表現だという。また、イスラムによる偶像崇拝を禁ずるイスラムに対するはかない抵抗だという。しかし、俗っぽい感じはするけど、教義には素直ではないか。抵抗というより大らかな感じが強い。ジャワのチャンディーは、ずいぶんと見て歩いた。リンガもずいぶんみた。チャンディー・チョトの三重の塔の上の、こんなあっけらかんなのは初めてであった。

 

 

 

  *1 千原大五郎:『東南アジアのヒンドゥー・仏教建築』 鹿島出版界 1983年

    千原大五郎:『インドネシア社寺建築史』 1975年 

 *2                                                                             

 

 

 

写真リスト

 

①チャンディー・スク

②チャンディー・チョト 最上部のピラミッド

③チャンディー・チョト  軸線上の階段

④チャンディー・チョト  下から見上げる

⑤子宮のなかのビマ マハーバーラタの物語 :チャンディー・スク

⑥チャンディー・スクのレリーフ

⑦チャンディー・スクのレリーフ

⑧チャンディー・チョト  リンゴ(御神体)

⑨チャンディー・チョト 三重の塔

⑩チャンディー・チョト  三重の塔のリンガ

⑪チャンディー・スク    亀石

⑫チャンディー・チョト  海亀

⑬チャンディー・スクのレリーフ 三重の塔がある

⑭カーラ

⑮マカラ

⑯ガネシャ

⑰チャンディー・カラサン:中部ジャワ

⑱チャンディー・シンゴサリ:東部ジャワ

⑲ボロブドゥール

⑳ロロジョングラン(プランバナン)












2026年8月8日土曜日

『群居』第2号 特集 ”セルフビルドの世界” 1983年7月27日

『群居』第2号 特集 ”セルフビルドの世界” 1983年7月27日
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2026年8月7日金曜日

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...