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2026年3月22日日曜日

カンポンとKIP ―都市アーバン集落ヴィレッジの存立根拠、未発表、『都市美』3号草稿

 カンポンとKIP 都市アーバン集落ヴィレッジ存立根拠

 

布野修司

目次

カンポンとKIP ―都市(アーバン)集落(ヴィレッジ)の存立根拠... 1

はじめに... 1

1 デサとヘメーンテ... 3

デサ... 3

ヘメーンテ... 4

デサ・アダット... 4

共同体の基礎理論... 6

2 家族システムの起源... 8

家族・私有財産・国家の起源... 8

家族類型... 8

ジャワの家族... 10

ウルマットとルクン... 10

3 カンポンの形成... 11

デサーコターヌガラ... 11

モジョクト... 11

カンポン=デサ・コタUrban Village. 14

4 インヴォリューションと地球の共有... 15

ヒジャウ・ダン・ブルシー(Hijau dan Bersih=Green and CleanKIP... 15

カンポン・ラワス... 17

想像の共同体と隣組... 18

貧困の共有... 18

おわりに... 20

参考文献... 20

 

 

 

はじめに

 カンポンkampungとは,マレー(マレーシア・インドネシア)語で,「ムラ(村)」を意味する。「カンポンガンkampungan」と言えば,「イナカモン」という意味である。マレーシアでは行政村もカンポン(ムラ)であるが,インドネシアの行政村はデサdesaである。カンポンは,専ら都市の居住地,住区をいう。英語にすれば,アーバン・ヴィレッジがurban village(都市村落)がぴったりくる。都市村落の存在はインドネシアに限らない。フィリピンではバロン・バロンbarong barong[1],南米ではバリオbarrios[2]あるいはファヴェーラfavela[3],北アフリカではビドンビルbidonvilles[4],トルコではゲジェコンドゥgedzekondu[5],インドではバスティbustee[6]と各国それぞれに呼ばれている[7]。中国では「城中村」である。

「ポストメモリーとしての「大東亜共栄圏」―隣組と町内会―」(『都市美』第2号)で,このカンポンの住民組織であるRT(ルクン・タタンガRukun Tetanga隣組),RW(ルクン・ワルガRukun Warga町内会)が日本軍によって持ち込まれたことに触れた。そして,日本では,太平洋戦争敗戦後,GHQによって解体された隣組・町内会システムが,インドネシアでは戦後も機能し続け,開発独裁を支える巨大な「集票マシーン」と化したことを指摘した。

一方,カンポンの住民組織は,この間,KIP(カンポン・インプルーブメント・プログラムKampung Improvement Programt)と呼ばれる興味深い居住環境整備の活動を続けてきている。スハルト退陣後の2002年以降,スラバヤでは,バンバン・デウィ・ハルトノBambang Dwi Hartono200210),トゥリ・リスマハリーニ(2010-20152016-2021)と闘争民主党DPI-P(Partai Demokrasi Indonesia Perjuangan)の市長が市政を担ってきた。そのリスマ市長は,20109月に就任すると,

1.スマートシティライフの構築,

2.人道的都市の表現,

3.地域密着型経済の実現,

4.環境に優しい活気のある都市

をヴィジョンとして,積極的な施策を展開してきた。興味深いのは,31すべてのクチャマタン(区)でさまざまなセミナーを実施し,取り組みに意欲的な市民を環境ファシリテーターとして各カンポンに配置し,プログラムの一環として,環境改善コンテストを開催するなど,カンポンの自主的な取り組みを推進してきた(図①)。市政改革や公園整備に力を入れ,東南アジア最大級とされる売春街カンポン・ドリイDollyの閉鎖を宣言するなど,その辣腕ぶりに,市議会の反発を受けるなど必ずしも順風満帆ではないが,フォーチュン』誌(20153月)が,「世界の最も偉大な指導者50人」挙げる中で,「直面している問題について正直に語り,市民を鼓舞する市長」としてリスマ市長を24位に選んだことを最後に触れた。

 本稿では,KIP(カンポン・インプルーブメント・プログラム)を中心とするまちづくりについて紹介しながら[8],カンポンという都市村落の持続可能性,その未来について考えたい。前稿でも触れたが,カンポンという言葉が英語のコンパウンドcompoundの語源であるという有力な説がある[9]。人間社会を構成する最小の居住単位としての1軒あるいは何軒かの家屋の集合体を意味する英語には,ホームステッドhomestead,そしてセツルメントsettlement, そしてあるいはコンパウンドがある[10]。アフリカの集落はコンパウンドと呼ばれる。コンパウンドには通常2つの意味があるが,第1義は,他動詞の「混ぜ合わせる,混合する」,形容詞の「合成,混成の,複合の,混合のcomposite,複雑な,複式の」,第2義は,「囲われた場所」で,強制収容所もコンパウンドである。すなわち,カンポンについて考えることは,世界中のコンパウンドについて考えることである。

テキスト ボックス:  
図① カンポン環境改善コンテスト 出典:PENANGANAN PERMUKIMAN TERPADUDI KOTA SURABAYA, 2015

「共同体」が,その基本特性として構造的二重性(外部経済と内部経済)をもつこと,内部に対する相互扶助規制と外部に対する内部統制という二重規制を基本原理とすることは,共同体の二重性として論じられてきたところである。いささか大風呂敷であるが,デサそしてカンポンに即して,共同体=Communityの起源,形成,変容,転生の歴史を振り返り,その未来について考えてみたい。

 

1 デサとヘメーンテ

 

デサ

インドネシアにおける各民族,各地域の伝統的な集落はさまざまな呼び方をされてきたが[11],現在のインドネシアの行政単位として用いられるのは,農村(郡)部(カブパテンKabupaten)も都市部(コタマジャKotamadya)もクチャマタンKecamatanである。農村部ではデサDesaがクチャマタンの下位単位となり,デサはさらに下位単位ドゥクーDukuhによって構成される。都市部では,クルラハンKelurahanがクチャマタンを構成し,その下位単位となるのがRW(エル・ウェー)(ルクン・ワルガRukun Warga町内会)とRT(エル・テー)(ルクン・タタンガ隣組)である(図②)。

テキスト ボックス:  
図② インドネシアの行政システム
デサは,もともと,ジャワ,マドゥラの村落を指す言葉であった。14世紀に書かれたマジャパヒト王国の年代記『デーシャワルナナ』(『ナーガラクルターガマ』)は「地方の描写」という意味である。それに対して,スンダ(西ジャワ)では,カルラハンkalurahanが村落という意味で用いられていた。そして,カンポンというのはカルラハンを構成する単位であった(R.M.クンチャラニングラット編(1980)。オランダの慣習法学者C.v.フォレンホーフェン[12]によれば,デサとドゥクーの関係とカルラハンとカンポンの関係は同じではない。スンダのカルラハンは,領域的な地域を囲い込んでいないし,カンポンはジャワのデサのように自治領域をもたなかった。しかし,行政単位の名称として採用されたのはデサである。その歴史は,オランダ植民地期の原住民自治体条例Inlandsche Gemeente Ordonantie1906年)に遡る。

 

ヘメーンテ

原住民自治体条例によって,デサが原住民自治体を意味する公用語となるのであるが,自治体と訳したヘメーンテgemeente(ヘメーンシェプgemeenschep)は,ドイツ語ではゲマインデGemeinde(ゲマインシャフトGemeinshaft,すなわち,共同体[13]である。

この条例に基づくデサは,それ以前のデサとは明らかに異なる。1830年以降の強制栽培制度の導入,1870年の農地法Agraische Wetの制定を中心とした,植民地期における村落行政に関わる諸立法によってデサは大きく変容してきているのである。デサの分割と統合のための立法は,まず1879年に行われ,81年,95年と改正されている。そして,原住民自治体条令が制定され,1941年までの間に8回の修正が行われている[14]原住民自治体条例は,オランダの村落(ドルプdorp)についての自治体法をもとにしたものである。

C.v.フォレンホーフェンは,ジャワのデサを「旧法のデサ」(Ouderwetsche desa)と「新法のデサ」(Nieuwerwetscher desa)に分けるが,原住民自治体条例以前のデサが「旧法のデサ」である。「旧法のデサ」とは,「四世紀の回教の影響にもかかわらず,なお一本の木にやどる村霊,すなわちダンジャン・デサdanhjang desaをもち,村落は土地と家畜に関する多くの問題と同様,家族の問題を支配する。住民はしばしば共同体的な家畜のおり或は籾かりおよび共同体的な苗床を所有する。村落成員の相互扶助の義務は村落のため支配者のためばかりでなく,個々の村落民の耕作にも及んでいるし,農作を祈る神事にも及んでいる。村落の合同はしばしば各村落がそれぞれ固有の村霊また固有の古くから祝われる収穫祭りが個別にもたれることを条件として行われた」という。

 

デサ・アダット

この「旧法のデサ」すなわち伝統的村落,慣習法(アダット)に基づく村落デサ・アダットDesa Adatである。このデサ・アダットについて大きな手掛かりとされてきたのが『ジャワ・マドゥラにおける現地人土地権調査最終提要』(以下『最終提要』)全3巻(18761889年)[15]である。土地権についての調査を主目的とするものであったが,調査項目総数は370に及ぶ[16]13世紀にまで遡れる村落があったとされるが,明らかにされるのはせいぜい19世紀中葉の村落の実態である。

『最終提要』をもとにした多くの論考は,19世紀中葉におけるジャワの村落が「共同体的」性格を色濃く残していたとする。

C.ギアツ(Geertz 1965)は,ジャワにおいて都市が成立する以前には,フィリピンのバランガイbarangay[17] によく似た構造をもったデサが存在していたという。大塚久雄の『共同体の基礎理論』は,全世界的な規模における単一の構成として現れる資本主義社会に対して,一つ一つの「共同体」がそれぞれ多かれ少なかれ独立した「局所的小宇宙」をなし,そうしたあまたの小宇宙の連結体として構成される世界を想定するのであるが,「局所的小宇宙le microcosme localisé」の例として,「ジャワの「デッサ」や旧ロシアの「ミール」が「共同体」と同時に「世界」を意味したことを思え」と,1ヵ所「デサ」に触れている[18]

内藤能房[19]によれば,『最終提要』から窺えるデサの,デサの人口は,わずか5世帯から1000人を超えると推測されるものまでかなりのバラ付きがあり,平均100から150世帯,数百人程度である。ただ,その全てが,正規の構成員であったわけではなく,「賦役義務」の面から,いくつかの階層に分けられていた。まず,賦役義務者と非賦役義務者に分けられ,前者は第一階層と第二階層に分けられていた。第一階層は,耕地の占有者で賦役義務を完全に遂行するもの,第二階層は,耕地を持っていない宅地保有者で,①既婚の若者或は新参者,②高齢者,③商人または職人の3グループからなっていた。また,非賦役義務者は,①同居人と②寄遇者menoempangとからなる。同居人は,同一家屋内に居住し,扶養家族を持ち衣食を支給されている。寄遇者は,他人の宅地内に居を構え,労役提供を義務づけられていた。

デサは村長[20],およびクバジャンKebajanと通称される村長補佐,長老(クミトゥワKemitoewa),イスラームの導師,水利役人(オルオル:oeloel),および書記による運営機構によって運営される。以上の村役人の仕事は,治安,税務,賦役義務履行,土地利用,水利,儀式等生活万般に関わっている。村役は,さまざまな特権と官吏としての報酬を得る。土地占有においては共同体的占有地の持分配分や割替えにおいて主導権が与えられ,賦役義務は免除された。また職田においては無償もしくは有償の手伝い労働力が提供される。また,サービス労働としてパンチュン労役(村長のための労役)と呼ばれるさまざまな提供が行われる。パンチュン労役の場合,食事の提供を伴い,相互扶助の慣行としての色彩が強い。村長以外の村役の場合には,必ずしも特権や報酬を得ないものも多い。

デサの土地は,村有地,職田,宅地,耕地,荒蕪地,森林に分けられる。村有地は,デサが処分権をもつ土地と個人との取引によって占有権を獲得した土地からなる。前者は,墓地やマーケットなど公共用地として使われ,後者はデサ成員の賃借や分益小作の対象となっている。職田は村役の報酬のために使われる。宅地は,基本的には私有地もしくは世襲財産とされる。指摘されるのは,土地の「共同占有」の形態が数多くみられることである。『最終提要』は耕地の占有形態を「世襲的個別占有」と「共同占有」とに大きく二分しているが,「共同占有」形態とは,耕地の使用の主体は個人であるが所有権はあくまでデサに属し,個人による相続や処分が不可能な占有形態である。『最終提要』に依れば,「共同占有」の形態が集中するのが中東部ジャワである。「共同占有」の形態においては,その「持ち分」保有者となる資格が厳しく規定されているのが普通であり,その資格を満たすことにおいてデサの正式のメンバーとして認められる。持ち分については定期割替えが行われることが多い。こうした耕地の「共同占有」形態に象徴される共同体規制は林野についてもみられる。

 ただ,中村光男のように,新マタラム王国成立(16世紀末)以後のジャワには,村落共同体なるものは存在しなかったという主張もある[21]16世紀以降は,既に西欧列強との接触が開始されている。19世紀中葉のジャワのデサを16世紀以前の村落共同体として考えることはできない。しかし一方,資本制生産様式との接触が,伝統的な社会構造を弱体化させるのではなく,むしろ強化することがあるという主張もある。内藤能房は,「一九世紀中葉におけるジャワ村落は「共同体的」色調を色濃く有し,しかもこの特色が比較的最近になって形成あるいは変形強化されたのではないかとの予断を有するに到っている」という[22]。しかし,デサの土地占有形態について,「個人的占有」と「共同体的占有」の区別そのものも問題である。内藤能房に依れば,「世襲的個人的占有」と「共同体的占有」は画然と区別されるものではなく,前者についても大きな規制があり,さまざまなヴァリエーションがある。「個人的占有」形態においても,占有主体となる資格や相続・処分のあり方がデサによって規定されている。しばしば,「個人的占有」地が「共同体的占有」地へ転換されている事実があるのである。 そして,興味深いのは,特に「強制栽培制度」の導入(1830年)以降,「共同体的占有」が急増していることである。この事実から,内藤は,デサの共同体的性格は,植民地支配によってむしろ強化されたと判断するのである。森弘之も,デサ共同体が決して自律的なものではなく作り上げられたものであることを強調する[23]。植民地権力が,デサの共同体組織を解体するのではなく,むしろその共同体的性格を強化し,デサの首長の統治能力を最大限に利用することにおいて,植民地支配の秩序をつくり上げる間接統治の手法である。

 

共同体の基礎理論

 デサの「共同体的」性格をめぐる議論の前提にあるのは,共同体の3つの基本形態として,「アジア的形態」「古典古代的形態」「ゲルマン的(封建的)形態」を一定の発展段階として区別したK.マルクスの『資本制生産に先行する諸形態』(飯田貫一訳,岩波書店,1949)である。日本には,K.マルクス,M.ヴェーバーをはじめとする諸論考を踏まえた大塚久雄(1955, 1969)があるが,加納啓良は,大塚久雄(1955)『共同体の基礎理論』に即して,デサ共同体と3つの基本形態の比較を試みている[24]

デサ共同体は,「アジア的形態」を特徴づける諸指標にそのまま当てはまるわけではない,特にアジア的共同体の特性とされる,「家父長制大家族」という家族共同体や血縁をもとにした「部族」といった基本共同体を認めることはできない,デサは,基本的には地縁に基礎を置く近隣共同体の性格が強い,すなわち「古典古代的形態」の特性をもつ。しかし,土地の私的占取の広がりは,そう多くみられない。屋敷地については私的所有がかなり強固に成立しており,耕地についての共同体規制は強い。そうした意味で,共同使用権の持分化が起こり,共同体成員によって私的に占取され,相続される「ゲルマン的形態」とは大きく異なっている。加納は,デサは,私的所有の契機のはなはだ弱いことにおいて,「アジア的」性格を色濃く持った村落共同体と結論づけるが,成員に対して形式的に均一面積の耕地を配分するという点では,「古ゲルマンの村落共同体」との表面上の類似性があるともいう。定期割替えを行う点では,ロシアの「ミール共同体」との共通性を指摘する論考もある[25]

共同体の,「アジア的形態」→「古典古代的形態」→「ゲルマン的形態」という発展段階区分については,大塚久雄自身は,単純な定方的進化を考えているわけではない,各類型についても無数の偏差があるというが,前提とされているのは,アジア的,古典古代的,封建的,資本主義的そして社会主義的という生産様式の発展段階論,世界史の一元的発展史観である。

その限界は,マルクス主義的発展史観によって大きく規定され,共同体の諸形態については,その物質的基盤である土地の占取の形態のみに議論を集中しているところにある。大塚久雄の定義によれば,「共同体」とは,「土地を占取し,成員である諸個人の労働をもって直接それに関係することによって,自己を現実に再生産していく」社会構成体である。すなわち,土地占取の3つの形態は,基本的には,土地を生産手段とする「農業共同体」についての類型である。「都市共同体」や「ギルド共同体」は,「農業共同体」の複雑化した発展型とされる。

共同体の始原に想定されるのは,大地の自然に依拠する採集狩猟の「原始共同体」(血縁的共同組織,部族共同態Stammgemeinschaft)である(原型としての共同体)。そして,定住革命・農耕革命によって「農業共同体Agrargemeinde」へ移行する。K.マルクスは,この「農業共同体la commune agricole」を「原始共同体」の「最終点」であり,「共同体」の「最初の型」(第一次的構成)とするが,そのメルクマールとなるのは,私的土地所有(占取)の原初的成立であり,階級分化の開始である。「共同体」の以降の進展は,土地の私的所有の拡大による形態変化となる。乱暴に要約すれば,「アジア的形態」とは,私的土地所有は「宅地と庭畑地」(ヘレディウム[26])にとどまり,血縁関係に基ずく「部族共同体」によって「共同地Allmende」が共同占取されているものをいい,「古典古代的形態」とは,私的土地所有は「宅地と庭畑地」(ヘレディウム)からいくつかの土地片(フンドゥス)を合わせるかたちで拡大され,「共同地」に匹敵するまでなり,それを基盤にM.ヴェーバーのいう「戦士ギルド」としての「都市共同体」が成立していたものをいう,そして,「ゲルマン的形態」とは,私的所有地は共同体内部で極限にまで拡大され,「共同地」さえも持分化されて私的占取関係に組み込まれており,それと密着したかたちの「村落共同体」および「都市共同体」を基本としていたものをいう。

大塚久雄が直接解明しようとしたのは,「封建的生産様式の崩壊と資本主義的生産様式の展開」という世界経済史の局面である。産業革命による都市と農村の決定的分裂は意識されていない。都市と農村は一定の関係で繋がっており,それ故,農村共同体も都市共同体も連続的に考えることができた。共同体の基礎理論は,「都市共同体」のあり方に焦点をあて,その起源,形成,変容,転生というかたちで再構成されるべきである。

ただ,共同体の基礎理論の核心である,「共同体」の「固有の二元性」(内的矛盾),「構造的二重性」(M.ヴェーバー),すなわち「共同体の二重性」についての指摘は,あらゆる共同体の分析視角として有効であある。共同体の「土地の共同占取と労働要具の私的占取の二元性(固有の二元性」),「内部経済」と「外部経済」の二重性(「構造的二重性」)は,「共同体規制」によって維持再生産されていくのであるが,その基本的な原理は,共同体内においては「平等」であること,しかし一方,共同体は外部からの侵害や撹乱に対しては,全体によって防衛することが優先されなければならない,ということである。共同体を維持するためには,共同体内の個人は規制されることになる。すなわち,「共同体」は,「保護」と「規制」の二重の役割をもつ。共同体の「規制」を個人が拒否する場合,その個人は共同体から追放されるか,その「保護」の外に置かれることになるのである。

 

2 家族システムの起源 

共同体は,世界を構成する人間集団の単位である。その起源を問えば,家族family,氏族clan,部族tribeの起源を問うことになる。すなわち,血縁関係,共通の先祖といった出自を共にする集団がその起源として想定される。

「家族は,個人とその文化を結ぶ橋である。親密な家族集団と親族の者たちからなるより拡大したネットワークは,各人に,世の中のその他の人びとと社会関係を取り結ぶための基本的なモデルを提供するものである」(H.ギアツ(1980)『ジャワの家族』)

 

家族・私有財産・国家の起源

家族の起源とその発展形態については,K.マルクスの死後,F.エンゲルスがL.H.モーガンの『古代社会 野蛮から未開をへて文明にいたる人類進歩の経路に関する研究』(1877,青山道夫訳,岩波文庫,1958)に依拠してまとめた『家族・私有財産・国家の起源―ルイス・H・モーガンの研究に関連して―』(18841891,岩波文庫,1965)において,明快な図式-大きくは,血縁家族(集団婚家族)→対偶婚家族→単婚家族という推移を辿る-を示している。対偶婚家族というのは,インセスト(近親相姦)・タブーを内在化したプナルア家族(L.H.モーガン)を経て,一夫一婦制に到る過渡的形態であり,原則一組の男女を核とする家族で,大家族共同体家族,家父長的家族,一夫多妻家族などを含む形態である。

F.エンゲルスは,「婚姻締結の完全な自由は,資本主義的生産とこれによってつくりだされた所有関係とが除去されて,いまでもなお配偶者の選択にきわめて強い影響をおよぼしているすべて副次的な経済的配慮がそれによってとり除かれたときにこそ,はじめて一般的に達成できるのである。そのときには,相互の愛情以外に,もはや動機も残らないのである。」といい,「単婚家族は文明期の開始以来,改善されてきたし,近代ではそれがきわめて顕著であるから,すくなくともそれは,両性の平等が達成されるまでは,さらに完成される能力をもつことが推定できる。遠い将来において,単婚家族が社会の要求をみたすことができないとしても,そのつぎにくるものがどのような性質のものであるかは,予言することは不可能である。」というモーガンを引いて展望している。19世紀末に『最終提要』がまとめられた同時代の議論である。

 

家族類型

一方,世界中の家族システムを総覧し,類型化しようとするE.トッドは以下のような仮説に到達しつつある(『家族システムの起源』Ⅰ ユーラシア上下(藤原書店,2016))。

 ①起源的家族は,夫婦を基本的要素とする核家族型のものであった。

 ②この核家族は,国家と労働によって促された社会的分化が出現するまでは,複数の核家族的単位からなる親族の現地バンドに包含されていた。

 ③この親族集団は,女を介する絆と男を介する絆を未分化的なやり方で用いていたという意味で,双方的であった。

 ④女性のステータスは高かったが,女性が集団の中で男性と同じ職務を持つわけではない。

 ⑤直系家族,共同体家族[27]その他の複合的な家族構造はこれより出現した。

E.トッドは核家族が先行するという。ただ,原初的家族は,バンドとか,ホルドhordeとか,「現地集団」と呼ばれるより大きな親族集団に包含されていたというのがポイントである。その出現の順序は,今後正確に確定する必要があるというが,E.トッドが想定するのは,核家族→直系家族→共同体家族という順序である。バンド社会は,は通常,拡大家族や一族以下の小さな親族グループで構成されるが,一般的には,3050人の小さな集団であったと考えられる。

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図③ 世界の家族類型 出典:E.トッド『世界の多様性』(1999,『世界の幼少期』(1984))
『最後の転落』(1976)によって,識字率,出産率,乳児死亡率など人口統計学的手法によってソ連邦の解体を予言したと言われるE.トッドが,共産主義体制はプロレタリアートが最も早く大規模に出現したイギリスなど工業化社会においてではなく,平等主義と権威主義を基本的価値とする家族システム(ロシア,中国)において実現したとしたのが『第三惑星―家族構造とイデオロギー・システム』(1983)(『世界の多様性 家族構造と近代性』(1999)所収)である。この段階では,家族類型は7つに整理されていたのであるが,『家族システムの起源』Ⅰ ユーラシア(2011)上下(藤原書店,2016)の段階では,15類型に増えている。父方居住,母方居住,双処居住という同居あるいは共住のパターンを分類に組込んだからであるが,家族類型と言っても極めて多様であることを示しているが,アメリカ,アフリカ,オセアニアについての第Ⅱ巻は未だ未刊行であり,上述の家族の起源に関する仮説も「国家と文字を持つ定住農耕民とその直接の周辺部」についてのものだとしているところである。

 

ジャワの家族

東南アジアは,ユーラシアの中心から最も外れた周辺に位置する。E.トッドは,『世界の多様性』(1999)においては,東南アジアの家族類型は全体としてアノミー型家族としていたが,『家族システムの起源』Ⅰではそれを撤回,57集団についてのモノグラフ(民族誌)をもとに家族類型の分布を示している。サンプル数は少なく,国勢調査なども援用されるが,データに不確実性,脆弱性があることはE.ドット自身認めるが,全体としては核家族の様々な変種(父方居住,母方居住,双処居住)が大半を占めている。中国,インドに接する大陸部北部,そしてバリ島,ロンボク島のササック族,北スマトラのバタク族,スマトラ沖インド洋にニアス島,メンタウェイ諸島に父方居住がみられること,母方居住が大陸部,インドネシアで支配的であること,双処居住がボルネオとフィリピン諸島にまとまって見られることが指摘される。

 ジャワの家族は,E.トッドの分類によれば,母方居住の一時的同居を伴う核家族であるが,主として基にしたのは,G.P.マードック(2011)であり,C.ギアツとともにMITグループのモジョクトMojokt・プロジェクト[28]に参加したH.ギアツ(1961,1980)の『ジャワの家族』である。ジャワの親族体系の「構造」と「機能の様相」が詳述されるが,親族構造は極めてシンプルである。町に居住するジャワ人の核家族は,世帯パターンにおいて,アメリカの場合とほとんど同じ程度の「孤立」の状態であるとH.ギアツはしている。すなわち,一夫一婦制で,新婚当初は両親の屋敷地ないしその近くに住むことになるが,どちらかと言えば,母方が選択されることが多いが,どちらに住むか定まった規則があるわけではない(双処居住,双系制)。

 

ウルマットとルクン

 『最終提要』から60数年後,独立後まもなくの東ジャワの小さな町の家族について,H.ギアツは,結婚,離婚と死亡時の財産分与,妊娠と出産,幼児の保育と躾,少年期の社会関係などを詳細に記述するが,そうした家族のあり方,その生活様式を規定し,ジャワ社会全体の組織を統合し,維持することになるジャワの2つの価値,ウルマットurmat(敬意)とルクンrukun(調和,和合)をあげる。

 ウルマットは,社会的な地位の上下関係について敬意を表す礼儀作法を適切に順守しようとすることをいう。西欧的な敬意の観念と異なっているのは,心から敬意を感じている場合であろうと,そう振舞うにすぎない場合であろうとどちらでもよく,表面上の調和を撹乱しない態度をいう。敬意を表す行動を要求している場面にふさわしいとみなされる感情として,ウェディwedi(恐れ),イシンisin(恥じらい),スンカンsungkan(礼儀)という3つがある。ルクンは,集団の内部でその集団の目的と手段について,少なくとも外面的行動の上で調和の状態,一致の状態になっていることを示している。相互の援助や協力そのものを指すのではなく,意見や感情の違いがあからさまにあらわれていなければルクンの状態である。

  

3 カンポンの形成

 

デサーコターヌガラ 

インドネシアでは,都市をコタkotaという。C.ギアツ(Geertz 1965)によれば,デサを統合した地域的支配者が出現し,その地域的支配者の中から他を制圧した王が誕生することによってつくられたのがコタである。サンスクリット語のコタkoetaに由来し,元来は城壁に囲まれた場所を意味する[29]。デサも,サンスクリット語デシャdeshaに由来し,もともとは「地方」を意味する[30]。デサ形成の歴史は,碑文によって確認される8世紀のサンジャヤ朝(古マタラム王国)の建国以前,さらにインド化の開始(45世紀)以前に遡る。その実態はわからないが,C.ギアツのいうバランガイ型の集落,原初的な農業共同体であったであろう。

コタとは別に,ヌガラnegaranagaranigarinegeri)という,同じくサンスクリットに由来するもともと「町(タウン)」を意味した言葉がある。ナガラNagaraあるいはナガルnagarのつく都市は,シュリナガルShrinagar,アーメドマガルAhmednagar,メンナガラMemnagarなど北インドに多い。ギアツに拠れば,インドネシア語ではヌガラは,本来の意味に加えて,「宮殿palace」「都capital」「国家state」「王国realm」を意味する言葉として用いられてきた(Geertz 1980)。ヌガラは,最も広義には「文明」=都市文化と都市に中心を置く上部政治権威体系を意味する。

C.ギアツ(1989)『ヌガラ 19世紀バリの劇場国家』は,伝統的国家の諸類型(M.ヴェーバー)である封建制国家,官僚制国家,家産制国家などに対して,「劇場国家」という国家類型を,ジャワの伝統的国家ヌガラの,さらには東南アジアにみられる「インド化国家」のモデルとして析出する。すなわち,ヌガラ国家が常に目指したのは,演出であり儀式であり,王と君主が興行主,僧侶が監督,農民が脇役と舞台装置係と観客であるような劇場国家であったとする。華麗極まる火葬や削歯儀礼や寺院奉献式典や巡礼や血の供儀は,政治目的の手段ではなく,それ自体を目的としたのが劇場国家である。そして,国家組織を支える制度として,カーストとそれを支えるダディアと呼ばれる父系の集団を単位とする親族体系,デサとヌガラの関係についても触れるが,ここではジャワに集中しよう。

 

モジョクト 

ジャワにおいて,ヌガラをインド世界そして中国世界と結びつける役割を果たしたのがジャワ海沿岸部に成立した港市である。ギアツは,この内陸と海の世界を結ぶ役割を果たした港市を「パサール都市」と呼ぶ[31]。インドネシア語のパサールpasarはすなわち市場である。ペルシア語のバーザールbāzārbazaar)に由来する。すなわち,ギアツは,インドネシアの都市形成の起源として,「ヌガラ都市」とともに「パサール都市」を想定する。パサールがペルシア語に由来することが示すように,パサール都市の形成にはイスラームのインパクトが大きい。スラバヤはその典型であるが,デマなどジャワ・イスラーム都市の基本的形態については,布野修司(2021)に譲りたい。

そして,オランダによる植民地化は,それまでとは全く異なった都市の成立を生む,すなわち,ヌガラ都市やパサール都市とは異なって,その2つの要素とさらにデサの要素を合わせ持つ,従来のヌガラーデサ関係にパサール要素が持ち込まれることによって新たな都市が成立する。C.ギアツは,「二次的,三次的「支線feeder」都市」と呼ぶが,それとともに成立するのがカンポンである。ギアツがジャワ研究の出発としたモジョクトが,まさに「二次的,三次的支線都市」の典型である。

モジョクトは,モジョクルトModjokertoを想起させるが,東ジャワのクディリ県(カブパテン)のクチャマタン(区)・パレPareの仮称である。パレは,モジョクルルトの西南約40km,スラバヤからは約100kmのところにある。C.ギアツが調査したのは195253年であるが,パレは当時,一つのコタkota(町)と17のクルルラハンからなっていた(図④)[32]。パレ地域一体は,クディリ王朝を初めとする東部ジャワ期のヒンドゥー王国の栄えたところである。パレの北方にはマジャパヒト王国の王都があったトロウランTrowulanがある。そして,そのヌガラの中心地域は,ブランタス川を通じて河口のスラバヤへつながっている。 

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図④ モジョクトの構成 a 居住地と田圃 b 行政単位 c 施設分布
 C.ギアツは,ジャワ社会は,デサ,ヌガラ(国家 政府官僚制),パサール(市場)をそれぞれ中核とする3つの社会層からなるとする。すなわち,アバンガンAbangan,プリヤイPrijai,サントゥリSantriである。アバンガンとはジャワの農民,プリヤイは貴族・官僚,サントゥリは商人である。そして,C.ギアツは,それぞれはジャワのシンクレティック(重層混淆的)な宗教的伝統の3つの系譜を代表すると捉える。すなわち,アニミズム的要素を強調するのがアバンガンであり,ヒンドゥー・仏教的要素を強調するのがプリヤイであり,そしてイスラーム的な要素を強調するのがサントゥリである[33]

 モジョクトは,19世紀の中葉以降,他地域からの移住民によって形成された地域であり,20世紀初頭からは,オランダ砂糖業,エステート企業が進出してきた。最も典型的にインヴォリューションの過程が進行した地域である。その過程において,モジョクトには,アバンガン,プリヤイ,サントゥリの3つの宗教的伝統が持ち込まれるのである[34]

 

カンポン=デサ・コタUrban Village

 モジェクト(パレ)には,最初に,政府機関の設立とともにジャワ人官僚が進出してくる(ヌガラ要素の定着)。ついで表通りに華僑の商店が開かれると,ジャワ人巡回商人が姿を見せ始める。やがて定期市が開かれ,大工や仕立屋などの職人も定着し始めると,モスク周辺にジャワ商人の居住区域(カウマンKauman)が形成される(バーザール要素の定着)。そして最後に,町の形成とともに裏通りにデサから移住してきた人々が住む区域,カンポンが形成されるのである(デサの要素の定着)。興味深いのは都市部の構成である。20世紀の初頭にモジョクトの町はほぼその体裁を整える。町はヌガラ,パサール,デサの3要素からなり,それぞれが隔絶した自足的な身分集団をなす複合的,異質的社会を形成するのである。

  デサの要素を都市に持ち込んで形成されたセクターをC.ギアツはカンポン・セクターという。都市における村落的パターンがカンポンである。カンポンを構成するのは,土地を喪失したアバンガンと「農村サントゥリ」[35]である。

 このカンポン・セクターにおいて最も大きな変動が起こったのが「砂糖ブーム」の時期であった。インヴォリューション過程が進行していくのと並行して,小都市でこうした変化が起こるのである。甘蔗エステート企業はプリヤイやサントゥリ商人が好まない新たな職業を生み出す。オランダ人のための使用人,プランテーション労働者,苦力,鉄道作業員,自転車修理業などである。後にいうインフォーマル・セクターのサービス業が中心である。そしテキスト ボックス:  
図⑤ カンポンの原初的形態
て,人々は農業とのつながりを次第に失い,都市のカンポンに再統合されていくのである。

  C.ギアツは,都市化の過程で都市に再統合された居住地をデサと区別することにおいて,カンポンと呼ぶ。カンポン・セクターあるいはカンポン・タイプの居住地をC.ギアツはモジョクトに即して次のように規定する。

  「カンポン・タイプの居住区はジャワのどこでも都市的生活の特性をもつが,同時に何らかの農村的パターンの再解釈を含んでいる。より密度高く,より異質性が高く,よりゆるやかに組織化された都市環境へ変化したものである。カンポンのパターンにおいては,全体のブロックは,一人ないし二人によって所有されている。通りに面する石造の家に住む人々が所有する場合が極めて一般的であるが,必ずしもそうでない場合もある。村で一般的にみられる小さな竹の家がそのブロック内にバラバラに密集するのであるが,家々の間は隙間がなく,庭もない。それを取り囲むように石造の家が並ぶ。」

  C.ギアツは,カンポン・セクターの地図を示している(図⑤)。ブロックを囲むように並ぶ白い四角がレンガ造・石造の家であり,黒い点がバンブー・ハウスである。この図と上の記述は,,モジョクト(パレ)から北東へ約100Kmに位置するスラバヤのカンポンの形態からも裏づけることができる。幹線道路沿いには大きなオランダ人のコロニアル住宅や事務所,商店が並び,街区の内部には狭小な住宅がびっしりと密集するのである。

 

4 インヴォリューションと地球の共有

 スラバヤのカンポンの臨地調査を開始したのは19822月である。そして,83,84,85年と通って論文(布野修司(1987))をまとめ,そのエッセンスを『カンポンの世界 ジャワの庶民住居誌』(布野修司(1991))にまとめたのは1991年である。それからさらに30,40年もの間,スラバヤのカンポンに通い続けてきた。この間,定点観測してきたカンポンも3つある。『スラバヤ―コスモスとしてのカンポン―』(布野修司(2021))によって,スラバヤのフィジカルな空間形成史については,ほぼ明らかにしえたと思う。残された問題は,カンポンという共同体の行方である。

 

ヒジャウ・ダン・ブルシー(Hijau dan BersihGreen and CleanKIP

カンポン・インプルーブメント・プログラムKIPの歴史は,オランダ植民地期に遡るが,その背景にあったのは,過大都市化による居住環境の悪化,衛生問題である。オランダ植民地政府は,オランダ人居住区にしか関心を払わなかったが,独立後,ほとんど手がつけられてこなかった居住環境問題にようやく手がつけられるようになるのは1960年代末以降,「新秩序」体制においてである。

雨季にぬかるむ道路を舗装し,上下水道を整備する,緑化をし,公衆浴場トイレMCKを設ける,最小限の手当である。多くはカンポンの自発的な活動として開始され,やがて「安上がり」の援助として世界銀行の融資が行われた(「ワールド・バンクは遅れてやってきた」)。詳細は,布野修司(19912021)に譲るが,KIPを住民たちが主体的に担い,ハウスカット(壁面後退)や移転に応じてきたのは,自らの環境の改善につながるのは当然として,改善活動への参加が一定の収入につながったからである。KIPがイスラーム圏の建築活動に対するアガ・カーン賞[36]や国連のハビタット賞,日本の国際居住年賞など数々の賞を受賞したのは,その手法と成果が評価されたからである。

その後,スラバヤのKIP,フィジカルな環境改善から職業訓練,生業支援など経済環境の改善を含めた総合的Comprehensif KIPへ進化してきた。そして,21世紀に入って,リスマ市長の下で環境問題に取り組む。全カンポンで追及されているヒジャウ・ダン・ブルシー KIPは以下のようである(図⑥)。

A:都市農園―緑化

ヒジャウ・ダン・ブルシー KIPを進める中で,もっとも重要な要素であり,景観に関わるのがグリーン(緑化)である。植樹は,舗装道路の両端を土のままに残す工夫によって当初から行われてきたが,ぎっしり建てず詰まったカンポンの街路を埋め尽くすように,ありとあらゆる隙間に,植木鉢を置いたり,棚をつくって緑化が図られる。この緑化によって,外気温が下がる効果が確認される。しかし,目指されているのはただの緑化ではない。アーバン・ファーミング(都市農園)がスローガンとされる。薬草,ハーブ,野菜など農産物を栽培し,自家で食用に供する他,販売し副収入を得ることもねらう。実際,積極的に栽培販売するカンポンもある

B:コンポスト    

クリーンということでは,ゼロ・エミッションがめざされる。家庭から出る生ごみを発酵腐熟させ,堆肥化するコンポストがカンポン内の此処其処に設置される。コンポストも,タイヤのリサイクルでつくったものである。アーバン・ファーミングに用いられるのもコンポストによる堆肥である。このコンポストの設置により,衛生に対する意識が高まり,カンポンのゴミは大幅に減少したと報告される。

C: 水浄化システム

衛生状況の改善については,中水利用も含めて,浄化装置が設置される。活性炭,石,椰子の繊維の3種類の吸着剤をもちいている。

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A 都市農園―緑化
   
B コンポスト      C 雨水浄化
   
D リサイクル
図⑦ ヒジャウ・ダン・ブルシーKIP

D:リサイクル

カンポンの廃棄物についてはリサイクルがめざされる。リサイクルによって、カンポン内で出たゴミを,支援を得ながら,バックや財布,傘などの手工芸品、玩具、衣装などがつくられている。玩具などは実際に販売されている。ドレスなどは、コンテスト参加時などキャンペーンのために用いられている。

 

カンポン・ラワス

こうした、環境改善、資源の再利用、緑化の取り組みは、カンポンのかつてのあり方についての関心を呼び起こすことになる。多彩な活動を行う数多くのカンポンのなかでも注目されるのが「カンポン・ラワスLawas(古村)運動」を開始したカンポン・マスパティである。

カンポン・マスパティは, Kec.ブブタン,Kel.ブブタンに属し,スラバヤの歴史的中心に位置する。その歴史は,はるか昔,マタラム王国の時代に遡り,スラカルタの王室の貴族であったラデン・スモミハルジョRaden Soemomihardjoの土地であったとされる。その名前も古くかあり,1825年の地図にも,小さな集落マスパティの名を確認できる。カンポン・マスパティはまたオランダ植民地時代の学校(オンコ・ロロOngko Loro)も残されていて,オランダ時代の雰囲気を残している。そして,インドネシアの独立戦争(19451110日)の際に戦士の食料提供の食堂となり,その後,宿屋になったハジのイサクのパン工場が残っている。そして,すぐ南はスラバヤ一の繁華街トゥンジュンガン通りで,超高層ビルも建っている。

 そんなスラバヤのど真ん中にあるマスパティ(RTⅣ~Ⅵ)には,350世帯,1350人が居住する図⑦)。1350人のうち,67%は小事業者,5%が就業者,17%が年金生活者,11%が未就業者である。世帯平均人数386人,世帯主は全て女性で,85%は専業主婦,10%は仕事をもち,5%は年金生活者である。高齢化が進行する都心のカンポンと言っていい。このカンポン・マスパティは ,リスマ市長が掲げるgreen and clean KIPの政策の優等生である。住民が積極的に活動を展開し,その取り組みが評価され,多くの賞を受賞している。

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図⑧ カンポン・マスパティ
伝統的な子供の遊び,伝統的な料理,カンポン・ラワス運動とは,かつてのカンポンの生活を体験する様々なプログラムは、多くのツーリストを惹きつつある。ツーリストをターゲットにすることによってカンポンの収入を得る、そうした狙いが背景にある。

 

想像の共同体と隣組

カンポンという魅力ある集団のあり方,都市なのにムラ的な共同体に出会って,すぐに,その末端のRW,RTという組織編制が日本軍政期に遡ることを知った。しかし,日本軍政期はわずか3年半余りであり,隣組tonarigumi制度が導入されたのは太平洋戦争末期(19441月)にすぎない。それが何故現在に至るまで存続しているのか。

強制的に組織化されたRT-RWではあるけれど,自律的,自主的な相互扶助組織として存続してきたのは,デサの伝統と隣組の相互扶助の仕組みが共鳴し合ったからである。しかし,その伝統は,決して古代に遡るわけではない。上述のように、19世紀を通じてオランダが植民地支配を強化する中で,デサの統合・分割など再編成していくことによって形成された伝統である(1 デサ・アダット)。

カンポンの多様なあり方が提起するのは都市共同体のあり方である。インドネシアという「想像の共同体」の成立をめぐっては,インドネシアという概念の成立,また,一つの祖国,一つの民族,一つの言語として,インドネシア国家,インドネシア民族,インドネシア語を承認したインドネシア国民党の第二回全国青年インドネシア会議における「青年の誓い」(1928年)にいたる過程を明らかにする土屋健治(1994)『インドネシア――思想の系譜』などがある。さらに,ナショナリズムの起源とその形成をめぐる理論書として,東南アジアのナショナリズムの形成,特にインドネシア・ナショナリズムの形成について具体的に触れるB.アンダーソンの『想像の共同体』を手にしている。

フランスからの解放100周年を祝うオランダ植民地政庁におけるナショナリズムの高揚の一方で,形成されていったインドネシア・ナショナリズムの担い手がバイリンガルのインテリゲンチャであったこと,多民族の統合にたいして,植民地政府の教育が大きな役割を果たしたこと,出版,放送などが果たした役割などが解き明かされている。第一次世界大戦から第二次世界大戦後の植民地ナショナリズムについて,B.アンダーソンは,ヴェトナム,フィリピン,マレーシア,ビルマ,カンボジア,タイなど東南アジア諸国についても,ナショナリズムの「最後の波」としてそれぞれの形成を具体的に問いながら,「産業資本主義の偉業によってはじめて可能になった新しい型の地球的帝国主義への藩王として発生したものであった」としている。

J.サリヴァンは,カンポンの住民組織を基本的に政治的な構築物とみなし,日本の15年戦争期の町内会・隣組に重ね合わせるが,それは急速な工業化を進める上でのシステムであったといい,日本とインドネシアの比較を提起している(Sullivan, John 1992)。カンポンには,サリヴァンが指摘するように,ポド・ポドpodo-podo(誰もが同じ―階級や地位が違うとしても),ロモlomoでプリpelit(オープンで気さくな―寛大に見える),テポ・シロtepo-shiro(他人の身になる),イシンIshin(,)といった隣人関係に関わる基本的な原理,価値意識が生きている。また,重荷を共有するゴトン・ロヨン,トゥルン・ラヤットtulung layatという災害など死に関わる事態における助け合い,ググル・グヌンgugur gunung(協働,一緒に山に登る)の精神がある。カンポンが保持してきたのは、共同体の原初的なありかたである。

 

貧困の共有

カンポンの生活実態に触れる中で,実に新鮮であったは,というより,懐かしかったのは,ひっきりなしに屋台(ロンボンrombong)や天秤棒(ピクランpikulan)が行き来することである。ありとあらゆるものを売りに来るのである。これについては,『カンポンの世界』(布野 1991)に次のように書いた。

「食べ物。ご飯(nasi)にパン(roti),ソト(soto スープ,雑炊),サテ(sate 焼鳥),肉(daging),各種魚(ikan)にバソ(baso 魚の練り団子),ラーメン(mi won)や焼きソバ(mi goreng)など各種麺類,しゅうまい,いも,饅頭,各種野菜(sayur),ガドガド(gado gado 野菜サラダ)など各種お惣菜,豆腐(tahu)等々。果物は,パパイヤ,マンゴー,バナナ,パイナップル,マンゴスチンなどきりがない。飲物は水,氷,カキ氷,アイスクリーム,各種ジュース。変わったところでは,椰子酒(arak)がある。チューともいうのであるが,冷えててうまい。ムスリムなのだけれど,カンポンの人たちも結構飲むのだ。煎餅(Kerepuk)など各種お菓子も,もちろんある。日用品も無数に近い。灯油(Minyak),薪炭,鍋,釜,包丁などの台所用品,洗剤,スリッパ,サンダルなどの履物,ほうき,バケツ,ござ,布団,机,椅子などの家具,グデック(gedek バンブー・マット)のような住宅資材,植木・・・。 風船,笛,人形などの玩具屋さんは子供たちの人気の的だ。花売りや金魚売り,野鳥や昆虫なども売りにくる。猿回しや蛇使いもやってくる。薬売り(jamu ジャワ伝統の漢方薬)やマッサージ師,そして床屋も回ってくるのだ。カンポンに一日座っているだけで,日常生活に必要なものはほとんど手にいれることができる。出かける必要はないのだ。実に高度なサービス社会である。」(「Ⅰ カンポンの生活宇宙 [4]ロンボンとピクラン))

物売り,屋台による高度なサービスのシステムが成立したのは,言うまでもなく,雇用機会が極めて少ないからである。しかし,居住地におけるサービス体系としてみると,カンポンのシステムは,自律的である。カンポンの人々の生活が身近な圏域で閉じうるのは,こうした屋台を中心としたサービスのシステムがあるからである。先進諸国においては,諸サービスは産業システム化されるのであるが,カンポンの世界は,プリミティブなやり方で,高度なサービス・システムを実現してきたのである。

この高度なサービス・システムは、C.ギアツの「インヴォリューション」[37]あるいは「貧困の共有」という概念によって説明しうる。「貧困の共有」がネガティブなコノテーション(ニュアンス)を含むとすれば、「共同富裕」といってもいいが、限られた仕事、資源,エネルギー,空間を共有し,分かち合い、より豊かにしていく原理が「インヴォリューション」である。

インヴォリューションとは、もともと人類学者A.ゴールデンワイザーが、未開社会でよくみられるある特定の文化型、すなわち「ある確たる型を形成したにもかかわらず、安定もしなければ新しい型へ転換することもなく、むしろその内部でより複雑化することによって展開するような文化型」を説明するのに用いた概念である。A.ゴールデンワイザーは、基本的様式は極限に達し、細部の加工、名人芸的な技巧のみによる装飾の細密化を行う後期ゴシック様式を比喩としてあげるのであるが、経済的には、「一定の耕地面積に対する労働投入量を増加させることだけによって、農業の産出額を増加させていくような、いわば前進なき技術変化のパターン」、「労働集約化のみによって生産を増加させていく、農業の内向的発展」を説明する概念がインヴォリューションである。「インヴォリューション」という概念は、必ずしも、ポジティブなニュアンスはない。

しかし、資源,エネルギー,食糧,自然,環境、・・・すなわち地球という惑星の限界が明確に意識されるようになった現在、重要な概念となる。そもそも無限の成長というのはありえない、だとすれば、内に向かって進化するしかないのである。限られた資源,エネルギー,自然をいかに共有するか,仕事をいかにシェアするか(ワークシェアリング)、その原理が今地球規模で求められているのである。

 

おわりに

 スラバヤの31のクチャマタンの人口は、4500020万人であり、東西南北中の5区の人口は38万~82万人である。東京の23区の人口規模(58000人(千代田区)~90万人(世田谷区))を考えれば、およそ、そのスケールがわかるだろう。今、スラバヤでは、ヒジャウ・ダン・ブルシー KIPを展開する一方で、地域密着型経済の振興に取り組んでいる。

冒頭に触れたカンポン・ドリイは、家内工業のための職業訓練を実施、靴、バティック、工芸品など製造品にドリイの名前を冠して販売を開始している。また、中小規模の企業体が集まって共同企業体Koperasi Kampung Unggulanを設立する試みが各カンポンで行われている。都市農園(アーバン・ファーミング)については上述したが、周辺部のカンポンでは、農業協業組合がつくられ、農作業については他のカンポンと連携する試みがみられる。プラスチック廃材を利用した工芸品制作はスラバヤのみならずインドネシア全国レヴェルの展示会が開かれ、製品が日本に輸出されるまでに育っているカンポンもある。都心のカンポン・ラワス運動に触れたが、沿海部のカンポンでは、マングローブの植樹が行われ、エコ・ツーリズムも進められつつある(布野修司(2021)「SF Ⅳ 6 カンポン曼荼羅」)。

 こうして、スラバヤについては、カンポン共同体をベースにした集団生活の展開を今なお具体的にイメージできる。そもそも、カンポンのあり方は西欧都市とは異なった起源をもつ。

17世紀前半のバンテン(バンタム)の都市図はバナナや椰子の樹で覆われたカンポンの姿を描き出している(図⑧)。緑で包まれたカンポンの集合体としてのスラバヤをひとつのコスモスとして思い描くことも可能であろう。

 しかし、この現代のカンポン共同体は果たして持続可能であろうか。ウルマット(敬意)、ルクン(調和,和合)といった価値意識、ポド・ポド(誰もが同じ),ロモでプリ(オープンで寛大な),テポ・シロ(他人の身になる)といった隣人関係に関わる基本的な対応原理,ゴトン・ロヨン,トゥルン・ラヤット,ググル・グヌンの精神に期待するのみであるとすれば、テキスト ボックス:  
図⑨ バンテン 1635~1639 
おそらく、グローバル資本主義の圧倒的な潜在力に対抗するにはあまりにもナイーブである。

 ソ連邦の解体以後、そしてIT革命以後の世界秩序をめぐる議論は、本稿の議論をはるかに超えることではある。しかし、その後世界を制したかに見えたアメリカ合衆国が9.112001)以降、世界の警察としての役割を縮小しながら「アメリカ・ファースト」を宣言するに至ったこと、21世紀に入って、北京オリンピック(2008)、上海万博(2010)を開催、2010年には日本を抜いて実質GDP(国内総生産)世界第2位となった中国が「一帯一路」構想によって世界支配を強めてきたこと、すなわち、世界経済の米中の対立構図に加えて、イスラーム世界(の分裂)vsヨーロッパ世界、EUvsロシアの関係、さらに経済ナショナリズムが複雑に錯綜し、世界の秩序が見通せなくなる中で、いくつかいえることがある。

 第1に、世界の人口の大半が居住する、冒頭にあげた各地域のアーバン・ヴィレッジの存在、その共同体的組織の存在無くして、世界は立ち行かなくなるであろうことである。第2に、環境、資源、エネルギー、食糧など有限の地球という枠組みが世界秩序の第1の枠組みとなることである。そして、第3に、国民国家の連合、世界共和国への道筋より、世界各地の地域共同体が重層的に結びつくネットワーク形成の方がグローバル資本主義に対する対抗力になるであろうことである。

 

 

参考文献 

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土屋健治(1994)『インドネシア――思想の系譜』勁草書房。



[1] バロンという植物の繊維で織った布で作る民族衣装をいう。フィリピンで,一般的にコミュニティの基本単位は,南米同様,バリオbarrioである。また,タガログ語のバランガイbarangayが用いられる。

[2] スペイン語で,近隣のことをバリオbarrioという。イベロアメリカ(ウルグアイ,アルゼンチン,キューバ,プエルトリコなど)で最小の行政単位として用いられる。その後,ブエノスアイレスのバリオ地区のような特別な低所得者居住地を意味するようになった。ただ,バリオ・セラドというと閉じたコミュニティ(ゲイティド・コミュニティ)を意味する。バリオ・デ・インヴァージョン(あるいはコムーナ) barrio de invasión or comuna 貧困地区をいう。 むしろ,アメリカ合衆国でバリオはスペイン人居住区をいい,スラム(barrio bajo)といったニュアンスをもつ。

[3] ファヴェーラという名称は,ブラジル北東部サヴァンナ地域に生育する植物の名に由来する。19世紀末に反乱(カヌードス戦争)を鎮圧するために政府軍に参加し勝利した兵士が任務を解かれてリオデジャネイロに流入,郊外の土地を占拠し街を形成,モーロ・ダ・ファヴェーラMorro da Favelaと名付けたが,その後,自由黒人らが流入し,ファヴェーラは黒人を主としインディオ,メスティーソらも住む貧民街へと変わっていった。以降,ファベーラはスクオッター・セトゥルメントを意味するようになる。1940年代には住宅危機が起こり,都市部の貧民たちは郊外に無数のバラック街を築いた。また,1970年代に,ファヴェーラはリオデジャネイロ市の範囲を超えて都市圏の外縁部まで達した。

[4] フランス語で,スラムの訳語。貧民街。チュニジアで最初に使われたとされるが,アフリカでもさまざまな呼び方がある。ガボンではマパネMapaneまたはマティティmatiti,アンゴラでムセクMusseques,ケニアでキジジKijijiなど

[5] トルコ語のgece(夜)とkonmak(尋ねる)を合わせた言葉で「一夜建て」の意味。バラック街をいう。

[6] ヒンディ語で住居を意味する。

[7] 過剰都市化による大量の「スラム」の発生は, 発展途上国共通の深刻な居住問題であるが,それは必ずしも西欧における「スラム」という概念で捉えられるわけではない。まず,現象的にその発生の規模において,すなわち,西欧の諸都市がその内部にそうした居住地区を囲い込んだのに対して,発展途上国の大都市では都市全体を覆うほどの規模であることにおいて異なっている。 そして「スラム」という概念においてしばしば指摘される家族解体や個人の疎外,近隣社会の崩壊などさまざまな病理現象が必ずしもみられないことも大きな特徴である。都市化の過程と構造が大きく異なる。

[8] 本稿の基になっているのは,『カンポンの世界』(パルコ出版,1991)と『スラバヤ 東南アジア都市の起源・形成・変容・転生―コスモスとしてのカンポン―』( 京都大学学術出版会,2021)である。両書の間には30年の時間の流れがある。本稿は,本号特集テーマに合わせて,カンポン共同体をさらに大きな歴史的過程に位置づける試みである。

[9] 椎野若菜「「コンパウンド」と「カンポン」―居住に関する人類学用語の歴史的考察―」(『社会人類学年報』262000年)は,人類学者として「居住」に関する英語の語源を確認することを骨子としている。詳細は,Space Formation Ⅰ デサ 4 カンポンとコンパウンド」(布野修司,2021)。

[10] 移動性の高い場合はキャンプcampが用いられる。他には,エンクロージャーenclosure,クラスターcluster,ハムレットhamlet,ヴィレッジvillageがある。

[11] インドネシアにおける各民族,各地域の伝統的な村落は,ミナンカバウはナガリnagariーコタkota,バタック・トバはビウスbius-フタhuta,ニアスはバヌアbanua,マンタウェイはラガイlaggai,フローレスはベオbeo,アチェはガンポンgampong,ブギスはワヌアwanua,バリはバンジャールbanjar・・・など

[12] ファン・フォレンホーフェン Cornelis van Vollenhoven18741933)。オランダの法学者でインドネシア慣習法(Adat)研究の創始者。1901年,ライデン大学教授。1918年,大著『オランダ領東インドの慣習法』C.van Vollenhoven,Het adatrecht van Ned-Indio", 18811931の第一巻を刊行。1910年以降,『慣習法集成』四五巻の刊行を指揮した。C.v.フォレンホーフェンについての記述は主として,岸幸一,「ジャワの村落組織についての覚書・・デッサとカルラハンについて」, 『東洋文化』,No.431967年および植民地期にジャワの村落を法共同体(Rechtsgemeenschap)と定義したC.V.フォレンホーフェン以降の論考については,倉田勇がまとめている。倉田勇,「インドネシア慣習法学と村落研究覚書・・G. van Vollenhorenの『慣習法の発見』などを中心として」,滝川勉編,『東南アジア農業問題研究の現状』アジア経済研究所,1970年による。

[13] 「共同体」という言葉はドイツ語のゲマインデGemeindeの訳語である。ゲマインシャフトGemeinshaftに「共同態」,ゲマインヴェーゼンGemeinwesenに「共同組織」という訳語が与えられるが(大塚久雄),英語では,コミュニティCommunity(GemeindCommunity, GemeindeLocal Communityと訳される)である。コミュニティは,1.特定の地域,国などに居住する全ての人々all the people who live in a particular area, country, etc. when talked about as a group,2. 地域,人種,職業などを共有する集団a group of people who share the same religion, race, job, etc.を意味する(OED)。

[14] 田中則夫,「土地制度史と土地改革」,岸・馬淵編,『インドネシアの社会構造』,アジア経済研究所,1969

[15] Eindresume van het bij Guevernments Besluit dd.10 Juni 1867 No.2 bevolen Onderzoek naar de rechten van den Inlander op den Grond op Java en Madoera, zamengesteld door den chef der Agdeeling Statiseiek ter Algemeene Secretarie.  1830年以降,ジャワ(マドゥラ)は,中部の王侯領を除いて,全てオランダの直轄領となっていたのであるが,植民地政庁は,この直轄領内の808村を選んで186869年にはじめて本格的な土地調査を実施した。その結果まとめられたのが『最終提要』(18761889年)である。土地調査の大きな目的は,私企業プランターの進出を可能にする方向を含めて,土地所有権および利用権を確保することである。その調査は,結果を1870年における農地法の制定に結びつけようとするものであった。

[16] 内藤能房「『ジャワ・マドゥラにおける原住民土地権調査最終提要』全三巻について」,『一橋論叢』,第76巻 第4号,1976年。

[17] イスラーム化,スペイン化を被る以前にフィリピン群島に存在した集落組織をいう。通常,30100世帯程度で構成される。バランガイの構成員は,ダトゥあるいはマギノオと呼ばれる首長の親族あるいは姻族であり,基本的には親族集団である。スペインの渡来以降,行政組織としてバリオbarrioが用いられてきたが,1972年以降,バランガイが用いられてきている。,

[18] 大塚久雄(1955)「第二章 共同体と土地占取の諸形態 二 共同体」『共同体の基礎理論』。

[19] 内藤能房「十九世紀中葉のジャワ村落と村落運営について - 植民地行政との関連において - 」『アジア研究』,第24巻,1979年。

[20] 各地域でさまざまな名称がある。スラバヤではプティンギ:petinggi,ルラー:lurahと呼ばれている。加納啓良(前掲論文)が整理している。現在では,インドネシア全体でルラーが用いられる。

[21] 中村光男,「ジョクジャカルタ市コタグデにおける社会人類学調査の予備報告」,『東南アジア研究』,第10巻 第3号,197212月。

[22] 内藤能房「十九世紀中葉のジャワ村落と村落運営について - 植民地行政との関連において - 」『アジア研究』第24巻,1979

[23] 森弘之,「ジャワの「共同的占有」と強制栽培制度」,『社会経済史学』,Vol.41 No.41976

[24] 加納啓良,「デサ共同体に関する一考察・・『現地人土地権調査最終提要』を素材に・・」,『アジア研究』,第22巻 第4号,1976

[25] J.R.レッテ(J. R. lette)の研究がミール共同体とデサの比較を行っている。田中則夫,「インドネシア土地制度史概要」,岸・馬淵編,『インドネシアの社会構造』所収。

[26] ヘレディウム

[27] ここで,共同体家族というのは,『第三惑星-家族構造とイデオロギー・システム』(1983,『世界の多様性 家族構造と近代性』(藤原書店,2008)所収)の段階では,兄弟関係:平等/不平等,親子関係:自由/権威という2軸による4類型,絶対核家族,平等主義家族,権威主義家族,共同体家族(権威/平等)(外婚制共同体家族)のひとつであるが,『家族システムの起源』では,共同体家族は,さらに双処居住,父方居住,母方居住の3類型に下位分類され,合わせて15類型が区別される。

[28] アメリカの東南アジア研究の初期のプロジェクトとして評価が高い。フォード財団の研究助成によって19535月から翌年9月まで実施された研究プロジェクトで,C.ギアツ夫妻,R.ジェイなど6名の文化人類学者や社会学者が参加した。宗教意識,家族・親族の構造と機能,村落における社会関係,農村市場,地方行政機構,華僑社会をそれぞれ分担,『ジャワの家族』他,C.ギアツの『ジャワの宗教』,R.ジェイの『ジャワの村民』などの成果がある。

[29] 南インドのマラーヤラム語(ドラヴィダ語系)でコタラムkottaramは城砦を意味する。インドのラージャスタン州にコタという都市があるが,語頭や語末にkotaをもつ都市としてシュリハリコタShriharikota(アンドラ・プラデシュ州),コッタヤムKottayam(ケーララ州)などがある。やがて城壁の有無に関わらず,首都あるいは王宮のある都市をコタと呼ぶようになり,さらに一般的に都市(自治体)をコタと呼ぶようになる。スラバヤ市はコタマジャ・スラバヤKotamadya Surabayaである。コタマジャは,「マジャmadya(大きい)」「コタ」。ちなみにコタ・バルーは「バルーbaru(新しい)」「コタ」すなわちニュータウンである。イブコタは,イブ(母)なる都市,すなわち,首都である。

[30] インドの州名マディヤ・プラデシュMadhya Pradesh, アンドラ・プラデシュAndhra PradeshやバングラデシュBangla Deshのデシュも同じ語源に由来する。ヌガラの対語となるのもデサであり,「村」「地方」に加えて,「領域」「場所」,そして「従属」,「統治地域」を意味する。広い意味で,農村世界,一般庶民の世界を意味するのがデサである。

[31] ヌガラを内陸国家として捉えるギアツに対して,ヌガラをムアン(タイ語で,城壁をもった一定規模の集落を意味する)との対比において交易都市として位置づけるのが石井米雄・桜井由躬雄『東南アジア世界の形成』(講談社,1985年)である。それによると,ヌガラとは,川の河口や分岐点に位置し,内陸を海の世界へ結ぶ機能をもった国家である。小規模で,領域というものはなく,川筋をめぐる縄張りのみがある。中部ジャワの(古)マタラム(8世紀)は,ムアン国家の典型であるとする。言葉と概念をめぐる問題であるが,東南アジアの都市の起源,形成過程,類型をめぐって議論は残されている。

[32] 間苧谷栄は,C.ギアツの調査から一〇年経ったモジョクトの状況をトレースしている。間苧谷栄,「東部ジャワの社会」,馬淵東一,岸幸一編,『インドネシアの社会構造』,アジア経済研究所,一九六九年年,所収。

[33] アバンガン,プリヤイ,サントゥリという概念は,ジャワの社会文化を捉える基本的な概念として広く知られるようになったが,いくつかの問題点も指摘されてきた。多くの批判が提出されてきたのであるが,間苧谷栄の整理に依れば,主要な問題点は以下の2点である。一つは,アバンガン,サントゥリという概念とプリヤイという概念がジャワにおいて全く別の次元の概念であるという点,もう一つは,文化類型あるいは宗教意識と特定の社会階層との間に特別な結びつきは存在しないという点である。

 最初の点についてはこうである。プリヤイというのは社会階層の上下に関わる概念であり,支配エリート層を指す。プリヤイと対をなすのは,ウォン・チリク(wong cilik:常民),ウォン・ウィダー(wong widah:平民),ウォン・タニ(wong tani:農民)という概念である。それに対してアバンガンとサントゥリの二つの概念は,宗教意識に関わる概念である。サントゥリはイスラム教に積極的に関わる人を意味する。それに対してアバンガンは名目的にはイスラム教徒であるがあまり熱心ではない人に対して用いられる。アバンガンはウォン・アバンガン(wong abangan:赤衣の人)に由来する言葉であるが,その対となるのはウォン・プティハン(wong putihan:白衣の人)である。イスラム教に熱心で敬虔な人々が白衣を着ることからそう呼ばれてきたのである。アバンガンはまた,広くジャワのシンクレティズム的信仰をもつ人々,あるいはジャワ独自の宗教(アガマ・ジャワ:Agama Jawa)を信ずる人々,さらに非イスラム教徒の全体に対して用いられることもある。以上二つの分類軸からすれば,当然四類型となる筈である。C.ギアツの場合,まず,敬慮なイスラム教徒とそれ以外を区別し,続いて,後者について二類型を考えるのであるが,ヒンドゥー教とジャワ主義を区別して,それにプリヤイ,アバンガンという概念を当てはめるのは適当ではないのである。第二の批判点も,上と関わる。例えば,プリヤイ層にも,イスラム教に熱心なサントゥリ・プリヤイとそうでないアバンガン・プリヤイが存在しており,特定の社会階層と類型の間に必ずしも特定の関係はないのである。

[34] まず,中部ジャワのマタラム地域,北方のスラバヤへと流れるブランタス川流域,南西のクディリ平野の各地域からの農民によってアバンガンの要素が持ち込まれた。また,ほぼ同じ19世紀の中頃,ジャワ北岸部のクドゥスKedusやデマDemakからの移住者によってサントゥリの要素が持ち込まれる。さらに,都市部には,マタラム地域の貴族・官僚によってプリヤイの要素が持ち込まれるのである。そしてさらに,1910年頃,グレシックGresikやラモンガンLamonganの巡回商人や,モスクの最上級役人プンフルpenghuluの一族によって,都市部にサントゥリの要素が持ち込まれる。

[35] 「農村サントゥリ」という言葉の使い方は,C.ギアツがデサ要素即アバンガンと必ずしも単純に考えていないことを示している。 モジョクトの町を官僚制(ヌガラ)・セクター,パサール・セクター,カンポン・セクターの三つの相対的に自律的なものとして区別された社会集団からなるものとして捉えるC.ギアツは,村落部も含めて,モジョクトが10の社会集団から成っていることを明らかにする。すなわち,①新しいプリヤイ,②イスラム改革主義者のインテリ,③古いプリヤイ,④保守的なイスラム教とインテリ,⑤カンポンのアバンガン,⑥カンポンのサントゥリ,⑦アバンガン村落指導者,⑧サントゥリ村落指導者,⑨アバンガン村落民,⑩サントゥリ村落民である。 カンポン及びデサ(⑤~⑩)については,アバンガンとサントゥリが区別され,さらに,デサについては,エリート層と大衆層が区別されているのである。

[36] アガ・カーン賞の受賞について,審査員であった日本の建築家・丹下健三が反対したことについては「ポストメモリーとしての「大東亜共栄圏」―隣組と町内会―」(『都市美』第2号)で触れた。

[37] C.ギアツのインヴォリューション・テーゼをめぐっては,日本でも,加納啓良,内藤能房,間苧谷栄(1983),原洋之介(1985)等によってさまざまな検討が加えられてきた。『農業のインヴォリューション』の邦訳が,C.ギアツのインヴォリューション論批判への反論(「文化と社会変容―インドネシアのケース」)と合わせて『インヴォリューション 内に向かう』(C.ギアツ 2001)として出版されたのは2001年であったが,その後も実証的な作業は続けられ,議論は続けられてきている。

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...