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2026年2月18日水曜日

快感進化論書評座談会,traverse05, 新建築学研究,2004

 快感進化論書評座談会

 

参加者:石田泰一郎、竹山聖、布野修司、古阪秀三、山岸常人、横尾義貫、伊勢史郎、大崎純

日時:平成16323       場所:建築本館会議室      編集:伊勢史郎

 

トラバース3号に寄稿された『ミームは快楽主義』が元に膨らんだ文章が200312月に『快感進化論』というタイトルで単行本として出版された。その出版を記念しトラバースの編集委員7名に横尾名誉教授が加わり、書評座談会をすることになった。座談会では『快感進化論』というミームがほぼ成熟した状態で複製されたことを確認し、また発見の快感と伝達の快感が生成されていたことも確認した。ここにその記録を示す。

 


1.過剰に遊ぶヒト

竹山:伊勢さんの本の中で、音声がどうしてコミュニケーションのツールとして特権的に選ばれたか、の仮説として水生類人猿説を引用していますね。僕も出たとき読んで、とてもおもしろいと思った。『女の由来』とかも。チンパンジーもゴリラもちゃんとしたコミュニケーションとして音声を使用できない。そこまで声帯が発達していなくて、人間だけがコミュニケーションできる。全生物の中で音声をコミュニケーションに使用する動物は鯨類と鳥類の一部、そして霊長類の一種であるヒトしかいない。僕も一昨年に出版した『独身者の住まい』の中で引用したのですが、鳥、特にジュウシマツを研究している岡ノ谷一夫さんがこうおっしゃっている。性的なメッセージとして小鳥は雄だけが歌うんですけど、そのうち雌は雄の歌が、過剰で無駄になればなるほど反応する。それで雄を選ぶ。そうすると今度は歌が自己目的化してより複雑なより高度なテクニックを持った歌に進化していく。それをハンディキャップの原理と言うのですが、その個体が余力を持っている証しだと。伊勢さんの仮説では、脳科学で明らかにされたA-10神経がドーパミンを分泌して、それは鞘がないからどこでも過剰にホルモンが出ていって、人間の独自の進化を遂げさせたというのがすごくおもしろくて、ネアンデルタール人と現生人類を分けるのがそこの脳の構造にあるというのがこの本のすごく説得力のある部分なんだけれども、やっぱり建築の話にひきつけて考えると、なんでこんなに建築って複雑に、高度に、無駄に、むやみやたらにいろいろなことを繰り返し、試みられてきたかを考えると、鳥が歌を進化させてきたのと同じような原理が働くのではないか。それがおそらく「美」という言葉と重なってくるんですよね。バタイユは『呪われた部分』って表現してますが。音をもとに人間はコミュニケーションを発達させたということを壮大な枠組みの中に捉えようとしたのがこの本だ、ということを強く感じました。

伊勢:クジャクの羽とかもそうですよね。

竹山:そうそう。だから進化というのはある程度科学的にいろんなことを説明してくれるんだけど、この本のおもしろさというのは大胆さ、ある意味で科学的でないところのおもしろさにある。「快感」という言葉を手がかりに、原因と結果がどっちにもつながるウロボロスみたいな構造をとりつつ、様々な事例を膨らましたというところに醍醐味がある。繰り返し言いますが、音への思い入れから、音によるコミュニケーション、それに快感を覚える人間、それによって支えられた文化というような順番で壮大な建築物を作ろうとしているんだ、と読みました。

布野:僕は、伊勢さんの本に大いに刺激を受けたんです。DNAから地球全体まで視野に収める壮大さがある。僕の読むところ、ベースはコミュニケーション論ではないかと思う。ただ、音響学的な話は少しはっきりしない。トラバース3号の時にはピンと来なかったんだけれど、この本で少し分かった。その先が聞きたい。竹山さんの話に続けると、性愛のコミュニケーションも興味深いけれど、伊勢さんが興味があるのは集団とか群れにおけるコミュニケーションでしょ。音響学の原点をそこに求めるのは面白い。集団のコミュニケーションがどういうメカニズムで成り立つかに興味がある。毛繕いの問題ね。

竹山:ただ集団に話をシフトしても、伝えること自体の快感という視点で捉えられている。さらには、小鳥のさえずりにしても、特に何かを伝える必要があるからではないのに、話すかのように独り言を含めて多彩な言語表現をする。これ人間にもあって、伝えることが快感であるということからさらに踏み込んで、伝えられなくてもいい。これを未成熟ミームと言うんでしょうか。伝えられようが、伝えられまいが、ともかく過剰に何かを表現する、それ自体が快感であるっていうようなところを示唆してある。

布野:という竹山先生的読み方はあるんだけれど、横尾先生がミーム論にものすごい興味があるというのがまた興味深いんですけど。

横尾:僕はね伊勢君と同じようなことを考えているんだよ、ずっとね。古いんだよ、僕はずいぶん。動機はいろんなことがある。学園紛争ぐらいのときからはじまって、人間っていろいろあるもんだなって、観察しだした。だけど、僕の場合は結局遊びの問題として捉えた。学園紛争のとき、こいつは遊びが足りないなと思うのが、急にこう、夜叉のごとく変貌する人があったりするもんだから、女性でも男性でもね。それが動機だって言うとぶん殴られそうだけどもね。それから遊びは非常に重要だということで思索が始まったんです。ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』という本を読んで、次はたまたま『帝王的動物』という若い動物学者の本も読んだ。これは、ようするに行動にもグラマーがあると考えているんですね。行動のグラマーを毛繕いとかいろいろと分類して、主として霊長類も包含するような哺乳類的段階で展開していたと思うんです。これが非常におもしろかった。あと、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』とかも非常に参考になった。僕の種はそのぐらい。あとは雑学で脳の話とかも参考にしますが、問題は遊びが人間のビヘイビアの根本で、ミームというのにどこか似ているような気がしますね。遊びの中にもちろん快感がありますからね。でも僕の場合は遊びの原初的タイプというのを考える。ホイジンガにしてもカイヨワにしても、トランプとかスポーツのようなものを対象にしているのだけど、僕はそうじゃなくて、もっと原初的な、一番原始的な子供の遊びのような状態のところに人間の行動原理があるだろうと、こういうふうに思っているんですよ。なまの行動原理があると、そんな気持ちから議論しているんです。だから僕はどちらかというとずっと生物学的アプローチで、伊勢君は心理学的な哲学的なアプローチ。僕のはなかなか心理学までいかないのだけどなまの行動原理として群れを考える。生物は個というよりもむしろ群れとして存在するのであって、人間も群れで生きる生物の中の一つなのだけど、人間は個としても存在する。人間の個としての存在が哲学をもったりするんですよ。でも、人間以外の生物は絶対に個では存在しない。

布野:横尾先生は、「遊び」と仰るけれど、遊びがどうして群に繋がるか、というのを伊勢さんは書いていると思う。ミーム論としてもね。

竹山:ミームっていうのは個じゃなくて群れの問題です。個に刻印される群れの問題。重要な指摘は能動的に環境を知覚しているっていう事じゃないでしょうか。例えば昔は目というのは網膜に映像が映ってそれを脳が解釈するというモデルと考えられていましたけど、そうではなくて身体の動きを含めた能動性が環境を知覚するというような事が、最近の脳科学からわかる。つまり、最近の脳科学の進歩に支えられて、この本の一番説得力のあるところは存在している、というのが僕の読みです。

布野:石田先生に言わせると、それは常識だって言うかもしれない。

横尾:その脳科学との結びつきでもさ、このごろクオリアとか、アフォーダンスとか、モダリティとか、心理学の直前のような脳の見方がありますよね。今の自然科学的なアプローチで行くと結局、ドーパミンとかノルアドレナリンとか、神経伝達物質が生じますね。そういうところの研究が今進んでいるでしょ。快感というのはそこと関係あるわけですね。そこをあなたはきれいにまとめているわけですが。

伊勢:横尾先生の遊びにヒトの本質があるという説は、僕はこの本を書く以前から知っているのですが、やはりなんらかの形で影響されていると思うんですね。おそらくネオテニーの記述の部分で影響されている。例えば動物の多くは子供が遊ぶのですが、大人になると遊ばない。

横尾:そう。大人は子供の相手するくらいね。

伊勢:それで子供のもっている形質が大人になっても持続してしまうような進化の方向性をネオテニーと呼ぶんですね。

布野:幼形成熟ね。

伊勢:例えばチンパンジーの赤ちゃんは人間に良く似ている。大人になると似ていない。特に前頭部のでっぱりが似ていて、前頭葉が発達しているように見える。チンパンジーの赤ちゃんの前頭部はでっぱっているのに、大人になると引っ込んでしまう。チンパンジーの赤ちゃんは遊ぶのが好きなのだけど、大人になると遊ばなくなる。人間は前頭部のでっぱりは大人になっても引っ込まないし、遊びもやめないことから、チンパンジーにネオテニーが働いたのがヒトだという論理ができるんです。

横尾:僕が遊びをとりあげたのもまさに、ネオテニーというか、人間は大人も遊ぶのが特色だということ。だけど、遊びっていうのは非常に生物の生きざまの根本にみんなつながっているような気がするんだけどね。それで遊びが大人までつながっていくか、あるいは生物によっては、子供ができたらそこで死んじゃうということも結構あるでしょ。だけど、人間は子供ができたあとも非常に長いわけで、それが前頭葉の発達と何か関係あるかもしれないけどね。前頭葉だけが発達することはないだろうし、脳の他の部分も発達しながら前頭葉も発達したと思うんだけどね。でも、そこにヒトの遺伝子の99%はチンパンジーと同じで、あとの1%の違いでこんなに差ができているのは何故かというのがあるわけでしょ。遺伝子からいうと差がないのに、なぜこう差ができるのかということは前頭葉が特別の仕組みをもっているというのはありえますよね。

伊勢:だから僕が言っていることは横尾先生が仰っていることとそんなに変わりがないと思います。

横尾:うん。変わりがないと思う。

 

2.建築と進化

竹山:長谷川真理子さんが認知的贅沢と言っていて、これも同じことなんですよね。無駄なことをずっとやり続けられる。遊びをし続けられる。長谷川さんは認知的贅沢を成立させる条件として二つ挙げているのですが、一つは火(fire)でもう一つは言葉なんです。僕はやっぱり建築の座談会だからというわけじゃないですけど、火と言葉のほかに建築を付け加えたい。結局、群れっていうのは人類進化を支えた理由だけれども、群れの拡大は、火と言葉と建築に負っていると思うんです。それらを手にいれたことによって人間がネオテニーを獲得した。

布野:それ僕も考えたけれど、建築は入らないんじゃないかな。

山岸:入らないんじゃない。建築は。

竹山:入る。それは最後にきたんです。ただね、表現形なんですよね。伊勢さんの言うミーム表現形という物理的な実体としてね。でね、建築もね、無意味、無駄、ともかくなんの目的もない高度な複雑性ということに進化していった。

布野:そういう意味か。建築はそんなに複雑かなあ。

竹山:言葉を進化させることによって集団が大きくなって外敵から身を守りやすくなる。火をもつことによって豹とかそういう外敵から身を守る。やはり建築というものを堅固に構築することによって、外敵あるいは他者の人間との淘汰っていうシステムをより高度に作っていったということはいえると思います。

布野:次元が違うんじゃない。

竹山:僕はそれを同じ次元に持っていきたいと思う。

布野:少なくとも18世紀末くらいまで裸で暮らしていた人たちがいるわけだからね。今だって、例えばブッシュマンとかコイサン族とかいる。マガリャンイス(マゼラン)が世界一周したときに見つけた南米南端のフエゴ島というところがあるけれど、平均気温が6度とか5度とかものすごい寒いの中で真っ裸で暮らしていた。火は使っている。伊勢さんに言わせると寒冷地適応っていうんじゃないの。人間はそういう能力を持っていて、そういうところでも暮らしてきていて。必ずしも建築は必要ない。

山岸:時間軸で考えると、やっぱり火を使いはじめるのと、建築をそういう風に表現するのとはぜんぜん重ならないし。

竹山:うん。そうですね。ただ、だから今言っているのは文化っていう位相におくと・・・

布野:建築文化はなくても人類はいますよ。

竹山:じゃなくて、もちろんコイサン族に文化がないなんて言ってないんですけれども、今、伊勢さんがここで問うている、より遊びを高度化させていくっていう文化の中で、非常に大きな役割を果たしたのではないかと思います。

山岸:そういうものだったら例えば着物とか、衣装とかがあるわけだから、建築だけ特化させることはできないんじゃないですか。

竹山:そうですね。でも着物とかは厳しい気候から守るということはありますけど、人間の集団、群れというところに着眼すると、群れのコントロール装置としてはなかなか見逃せない・・・

山岸:集団で身に着けるものってそういう役割果たさないですか、無駄なものとして。

竹山:いや、文化のコードとしては、メッセージとしてどんなものを着ているかというのは言えますけど、物理的に豹が襲ってきたりした時に着物着てたってどうしようもないわけでしょ?今はそういう素朴なレベルの話です。

山岸:建物がそれだけの機能をもっているかどうかわからない。

竹山:いや、もってるじゃないですか。壁が一枚あるだけで逃げられる。

横尾:僕はね人間関係とか政治的な問題に興味が向くほうだから群れというのは重要なの。それで文化というのは群れの中にしか存在しない。僕の定義の文化だとね。例えば言語だったらチョムスキーの言語理論、普遍文法というのがありますね。これは普遍文法という原理みたいなものがあるだけであって、その原理をもつ個が集団の中に入って、はじめて日本語になりドイツ語になり英語になったりするわけですよ。普遍文法というのはひとつの方程式のようなもので、あなたも音響学の理論式のラプラス方程式みたいなものを書いていましたね。宇宙には多分たくさんのシンプルな原理、熱力学みたいな何かシンプルな原理があって、それは自然科学者が追求していると思うけど、原理があってもそれだけではなりたたない。いろいろな群れがぶつかりあって行動していく中で、群れの中でその原理で個がつき動かされながら現れてくる姿が文化だと思うんです。それが英語とかドイツ語とかフランス語を持っているというのが文化であって、チョムスキーの普遍理論というのは基本的な何かだと。

 

3.音という実体

布野:僕も言語学とか記号論はかじったことがある。言語の発生については少し考えたことがあるけれど、伊勢さんはもうちょっとさかのぼるわけですよ。快感物質まで。それを音に即してもうちょっと説明するとどうなるか。群をなして狩りをするわけでしょう。合図してみんなで集団で狩りをするために、音とか目配せが必要でしょう。それは言葉にならなくてもいいわけでしょう。

横尾:音は全部一緒だよ。人間にとって音だけってことはない。音だけじゃなくて、触感だけでもないし、五感も含めてトータルで作用しあって、そこの中で注目するものが音であったり。音に関心が深まっているから、音が中心になってコミュニケーションをはかる種類のものもいれば、あまり音を立てないものもいると。

布野:音が聞こえない人だっているんだから。

伊勢:今の竹山先生の話から横尾先生の話までで思うことは、やっぱり僕は竹山先生がおっしゃるとおり建築とヒトの進化は関係があると思っているんです。でも裸で住んでいるところもあるじゃないかという反論があるわけですよね。だけど裸で住んでいたとしても群れは存在するわけですよ。その人たちは集まって音を出して祭りをして集団意識を高めて、狩に行こうとか戦おうとかそういう祭りをする。祭りをして、生きる動機、モチベーションを高める。僕の視点では建築というのはそういう音をより閉じ込めて集団意識を高めるための境界だっていうふうに考えているんです。

竹山:洞窟の響きっていう言葉がありますよね。

伊勢:そうですね。そういう音だけで群れとして機能できる地域では、境界は必要ないと思いますが、もっと厳しい自然の中で群れとして自分たちが生存するモチベーションを高めるために、ある境界が、枠が必要だったと思うんです。それは単に境界の枠を作ることによって敵の攻撃から守るというということだけではなくて、それよりもある閉じた中で音をだして、それは言語ではなくても、単に音でね。

竹山:それがミーム表現形ですよね。

伊勢:はい。音を出して、自分たちがつながっているんだということを感じて、自分たちは同じ群れなんだと感じることができるような境界が、生存するために必要だったんじゃないか。ヒトが群れとしてモチベーションを高めるための物理的な境界が生存するために必要だったのではないか。

布野:伊勢さんはそれを建築というけれどちょっと違う。

竹山:いや、同じです。3つの伝達形式があって、光と音とにおいだと書いてあって、それはすごく説得力があると思ったんです。まあ光については、人間は視覚をすごく発達させたけど、夜は無力である。においはあまり空間を伝達するスピードが速くない。それで人間が確実に身体のスケールで選び取ったのが音であるというところが、非常におもしろいとこだと思う。もう一つ僕は、フロイトのこの言葉が好きでね、人間の最初の文化的行為は道具の使用、火をてなづけたこと、それに住居の建設だったって言うんですね。やっぱり、集団をコントロールする、外敵から身を守る、そして内部をさらに充実させるため、これも一種のミーム表現形ですけど、建築というファクターはすごく大きかったんじゃないかなと。で、その身体的スケールに対応する群れのスケールを音っていうものは割と本質的に規定しているんじゃないかという気はしますね。

布野:さっき建築について否定的なことを言ったけれど、シェルターの有無は別として、ホームステッドという根拠地を設けることがヒトの進化に繋がったことを僕は否定してるわけではありませんよ。

竹山:レクっていうバスク語があるんですけど、これはホームなんですが、もともとの意味はカマド、あるいは囲炉裏。つまり火を囲んで皆が集う場所のことです。やっぱり、ヒトの群れが集まる場所を築くことが文化の基点にあるいうこと、それと音の広がりがヒトの群れを存続させてきたということが、この本にはずっと響いている感じがしますね。

布野:横尾先生が五感って仰ったことで、僕は腑に落ちたのだけれど。

横尾:人間にとって音は重要だと思うんですけど、でも一番重要なのは運動だと思うんですね。動物として原理的でね。運動と言うのは素朴な一番元になる。音はどうなんでしょう人類にとって、言葉は音からですからね。

伊勢:僕は音を全面的に前に出しちゃっていますが、もちろんそれだけではないと思っているんですね。

竹山:身体だよね。この言葉を使うとね。

伊勢:身体。はい。音を出すこと自体が身体運動で、例えば僕は今、喉を震わせて音を出していますよね。体をこう動かしてコミュニケーションをしているんです。僕は聴覚的快感を中心にして考えていますが、身体全体を動かしてコミュニケーションを今とっているわけです。竹山先生は視覚的快感が中心にあるように感じるんです。布野先生もまた違いますよね。

竹山:布野さんは観念的快感だよね(笑)

伊勢:ただ竹山先生の視覚的快感というのは、言い換えると空間を知覚する快感というのかな、それはおそらく目だけではなくて、体の動きと、やっぱり運動も含まれていると思うんですね。だから空間を知覚する快感というのが、やっぱり僕が言っている聴覚的快感とは別に働いていて、それが建築を駆動する原動力になってきたと思うんです。

 

4.ミーム論

石田:もう議論がどんどん白熱していて全然言葉を挟めないんですが、僕がこれを読ませてもらった最初の感想を言いますと、一つはやはりこれだけの大きなストーリーを作りあげていておもしろかったということ。もうひとつは、同僚として見るとよくこういう本を今の仕事の中で形にしたなという。

布野:よくこんなことを考えてたなって思う(笑)

古阪:隣でまだ考えている(笑)

石田:横尾先生にしてもね、皆さんそういうことをずっと考えているんですね。

横尾:僕が考えたのは暇人になってからなんだから(笑)。伊勢さんは他の仕事をしながらだから。

石田:いや横尾先生も学園紛争の頃から考えていたとおっしゃっていたし。これだけの形にするというのは、あるスイッチが入らないとたぶんできないことだろうと思うんで、それはすばらしいなと思ったことなんですけどね。それから内容もおもしろくて、いろいろ新しくわかったこともありました。ただ、僕が少し違和感を感じたことを一つ言うと、何か目的ありきというのかな。人間の進化とか行動とか、いろいろなふるまいとか、それらは要するに快感を得るために駆動されるという考えが根底にある。それはそうなのかなと思います。例えば、クジャクはメスの関心を引くために羽をきれいに進化させたのではなく、きれいな羽をもった個体がより多く繁殖の機会を得て残ってきたと解釈すべきではないでしょうか。だから、音声によるコミュニケーションをたまたま獲得したある種の霊長類が、周りとのせめぎあいの中で有利な立場にたって進化の過程で残ってきたと、純粋な進化論だとそういうふうに捉えると思うんですよね。伊勢さんの場合は進化のプロセスで音声コミュニケーションによる快感があって、それをヒトの進化の駆動力にしている。そこが伊勢さんのおもしろさでもあり危うさでもあるなと思いました。

布野:栗本先生の前書きもそういうオリエンテーションをしているからだけれど、僕はそういう風には読んでいない。コミュニケーション論が遺伝子レベルから群れのレベルや言語のレベルで語られている。でも、石田さんの言ったような印象を受けますよね。

石田:そうですね。

布野:でも、こういうタイトルをつけたのだから、責任をとらなければいけないよね。

伊勢:そうですね。いわば挑発的で怪しい雰囲気をもたせて、本に少しでも興味をもってもらえればという戦略があったわけですが、それに対する違和感も当然でてくるとは思っていました。それとヒトが進化して、存在する理由を言ってしまったわけですが、そのように理由を考えて言ってしまう性質をヒトがもつ理由もこの本に含めています。だから循環的な論理が含まれているんです。

布野:でも、まず進化論については決着をつけたい。決着はつかないとは思うけれど、言った方がいい。まだ曖昧なことがいっぱい有りますよね。ヒトとチンパンジーの遺伝子との1.2%の違いとか、スイッチがどこで、なぜ入ったのかとかね。しかし、要するに一万年くらい前に、人間の進化は止まってしまっているわけでしょ。その先の話もしたい。

伊勢:身体的にはね。

布野:身体的には止まっている。だから我々は進化のない世界に生きているわけでしょう。

古阪:蒙古斑は消えてきてるんじゃないの。

布野:(笑)それは進化って言うの?

古阪:それも進化だよ。

布野:まずは進化の話を。水性類人猿説の話もあるけれど。建築とはあまり関係ない?

石田:水生説はチンパンジーの進化系統と分かれる前に、人類がどういう身体システムを選んだかという話ですよね。数万年前には現生人類の遺伝子、すなわち身体的な進化はほぼできあがっているわけですね。そして、その後人間は言語を駆使して、文化を蓄積して、ミームを伝達できるようになった。そこで身体的な進化とは別のメカニズム、全く別ではないのだけど、一つのサイクルに入った。そのサイクルは遺伝子や身体的な制約に規定されないミームの複製による進化で、そのサイクルでは人間の進化はまだ続いていると考えるのでしょ。

布野:僕はミームの成立根拠を一番聞きたい。遊びの共有性とか、ドーパミンがどうして出るのかということ。それが伝える喜びなんでしょう。

伊勢:ミームの成立根拠ですね。僕はその根底に暗黙知を置いているんです。暗黙知を置くというのはどういうことかというと、モノあるいは空間、建築でもよいのですが、それらを身体の延長だと捉えているんです。空間やモノを身体の延長として道具化して、それをオプションとしてとっかえひっかえして、僕らは生きている。例えば携帯電話という道具、これは声と耳を空間的に延長した道具で、電波を用いて非常に遠くの人と会話をするための一つの道具で、これも身体なんですね。僕が持っている声と耳というのは標準装備で、携帯電話はオプション。とることもできるし、壊れたら取り替えることもできる。これが進化しているんですね。

布野:だけど人間は進化していない。

伊勢:物理的な人間の身体は進化していないのだけど、代謝が可能な怪我したら壊れてしまうような身体としては進化していないのだけど、道具を進化して脳の中でそれを維持することによって群れとしては進化していると。

布野:それは進化論とは違うんじゃないの。

竹山: 3万年くらい前にネアンデルタール人は死に絶えたけど、現生人類はそのまま生き延びた。これは、なぜならば現生人類の場合はコミュニケーションにおいて快感物質が脳内で出て、それによってコミュニケーション能力が飛躍的にのびたからだ、というような論理ですべて文化を規定している。でも、ネアンデルタール人に快感物質が出なかったっていうことは証明できない。そこが出発点としての仮説の面白さであり、危うさでもあるんだけど、僕はそういう仮説ありだなと思う。

布野:それは鳥とか犬は快感物質は出ないとか言う話にも繋がるの?

竹山:雄の鳥がうまく歌うのを聞いて、雌の鳥がそれを理解する能力があるらしいんですよね。それは雄にはないらしいんですが、そういうのはひょっとすると快感物質がでているのかもしれない。

伊勢:それは快感物質というよりは、情動系としておそらく科学的に分析されていくんでしょうね。

布野:鳥も群れを作るじゃないですか。ある種のコミュニケーション手段を持っている。そうすると、人間の群れとの違い、遺伝子の違いは何か。

伊勢:でもヒトと鳥とは遺伝子はかなり違うじゃないですか(笑)

布野:(笑)遺伝子は違う。じゃぁ快感物質は?

横尾:ちょっと話を戻しますが、DNAのレベルでの身体的な遺伝とは別で、群れの中で型がずっと伝承されていくことがありますね。形質的には変化がないのだけれど、群れの中で何かが伝承されることがある。例えば日本人のDNAとアメリカ人のDNAが違うという言い方をする人がいるわけだけど、それは生物学的にいうとそれはおかしいと思う。でも、日本の文化とアメリカの文化があたかも遺伝子が継承されるようなかたちで、伝承をしていく。そのように文化を変化させていくのが人類だと思うんですよ。その文化の発達というのか変化というものを進化と言うのならば、進化といってよいと思う。だけど生物学者のいう進化というのはそこじゃないんです。それは自由だけどね。言葉の使い方は。

布野:ミームは進化するんですか?

横尾:それは定義の仕方で違ってくるし。

伊勢:横尾先生のおっしゃっていることをミームという言葉で置き換えれば実体として脳の中に文化を記憶するものがあって、それが進化していると言えると思うんです。

横尾:脳の中に進化が起こっているかどうかということは、これは生物学的に実証していかなければならないし、あるいは今は仮説の世界で。

布野:ミームは後天的なものでしょう?

伊勢:個体のレベルでは後天的ですが、群れのレベルでは常に維持されていて、我々が生まれる前から群れの中で維持されているミームがたくさんあるわけです。

石田:ミームが駆動しているある種の進化と、DNAが駆動してきた進化は、自己複製システムというレベルで考えると同じということですよね。ミームは文化遺伝子と呼ばれて、ようするに文化が次の世代に伝承して、それが変化しつつまた伝承して。

布野:今西進化論で鴨川のメダカが群れでなわばりを作るというのがあって、メタファーとしてなわばり理論と人間の集合住宅理論を関連させて、あまり根拠なく議論していたことがあったのだけれど、その先があるのかどうかっていうことですよ。さっきの鳥の話にしてもミームの共有性とかが僕は気になるんだけれど。

横尾:人間をひどく愛するか否かによって変わってくるのじゃないか

布野:それは伊勢さんが書いているんですね。結局こうやって議論が成り立っているのもね、好きか嫌いかとかね、こいつには伝えたいとかね、そういうことがある。ただ、理論的にはどういう話になるのかっていうのを聞きたい。

 

5.中書島のツバメ

古阪:話が違うかもしれないけどバードイドっていう進化経済学の世界で非常に面白い話題がある。京都の例でいうとツバメが、渡り鳥として飛んでいくときに、この辺ではいろんなところから中書島に集結して、そこからどこかへ飛んでいくんですよ。それを数学的に解こうとかね。これを群れの話として考えると、伊勢さんだったらどのように考えるのかな。

布野:カラスやってほしい。

古阪:カラスはない。

竹山:いや、中書島に集まるっていうのはなんで?

横尾:遊ぶところがあるんじゃないの?(笑)

古阪:もちろんDNAに中書島という情報がはいっているわけでもない。

竹山:魚のメバルが地磁気で動いているって話しありますよね。

古阪:鳥が群れで飛ぶときは先頭が決まっているわけではなくて、うまいこと入れ替わっているわけだけど、距離も瞬間的に感じ取っている。そこまでのモデルはできる。ところが、それがなぜ中書島かっていうのがわからない。

竹山:アトラクタがあるとか。

古阪:伊勢さんの本の中にもいろんな各論があって、大きな筋があって、それにいろんなものを組み合わせて良いとこ取りをしているわけですよね。進化経済学もかなりそれに近い。サンタフェでやっているから、たまたま物理学者がいたり哲学者がいたり、いろいろな学者・研究者がやっているんですね。

布野:進化経済学って結構いいかげんじゃない。

古阪:いい加減といえばそういうところもあるが、面白い。

布野:経済学者がいると怒られるだろうけれど、そういうモデルを使って計算して、どうなるの。

古阪:モデルだけではないし、ある固まったストーリーがあるわけじゃなくて、たまたま創発的におこった考えというものがおもしろい。この本も自由大学の中で伊勢さんが感じたこと、おもしろいと思ったことをうまくまとめた。

布野:それは大事なことじゃない。

古阪:それは非常にうまいわけですよ。そうするとさっきの話に戻ってバードイドの話は伊勢論の中でどういうふうに解けるのか、あるいは解けないのか。初めての問題だから今後考えてもらったらいいんだけど。なんとか解いてやろうと思っているんだけど、解けない。

伊勢:僕は中書島にツバメが集まるのを解こうという話を聞くと、それに興味を持つ人間に興味を持ってしまうんですよ。なぜサンタフェにヒトが集まってしまうのかって。(笑)

横尾:動物のビヘイビアも人間のビヘイビアも、神様が遠いところから見た賢さにおいては変わりがないように思う。ただ人間はなんでやろうとかね理屈を考えたり、選択の幅が非常に広がっていたりする。動物の賢さというのはすごいと思うんだよね。昨日だったかな、たまたまテレビで見たんだけど、脳の中で忘却のための化学物質が作られているらしい。感覚から入力される情報はたくさんありすぎるからそれらを忘れさせるための化学物質がでるらしいの。でも、それが出ない男がいたという。だからなんでもかんでも覚えているんだって。ただね、その人は論理性が全然ないらしい。それで脳の記憶領域の中でも、コンピューターのROMのように忘れない部分と、RAMのように忘れる部分がある。他の動物と異なってRAMが大きいのが人間じゃないかと思うんです。ただ、そういう部分では人間は能力をもつけど、運動能力では他の動物のほうがすごい。

布野:速いし。飛べるし。

横尾:だけど人間というのはいろんなことを考えるから、こういう本ができてくるのかもしれないけどさ。

古阪:ツバメの話に戻るけど、鮭のような帰趨本能とはちょっと違うでしょ。

横尾:人間は中書島へ行くときは、ずいぶん考えて、あそこには何があってとか考えるのだけど(笑)。

古阪:そこに集結する数というのが、すごいらしいんですよ。

石田:中書島になぜツバメが集まるかということは私もよく分かりませんが、そこに何か目的があるはずだというように思うと、やっぱりちょっと目的論的なんですよね。

竹山:いや今、目的を求めているのではなくて、原因を求めている。

石田:何かたまたまそこに集合するのが都合がよくて、それが伝承して、同じ行動を繰り返すのではないかと。

竹山:やっぱり川が集まっているというような何か。

石田:いや理由がないといっているんじゃないんですよ。

竹山:僕は石田さんの問題意識よくわかるし、同意するけれども、目的っていう言葉を使わないほうがいい。ここで目的というとTheology(神学)になっちゃうから目的という言葉で語らない方がいいんじゃないかと思いますけどね。

石田:じゃ、理由。

竹山:理由の方がいいですよね。理由だったらわかりますよ。

布野:ツバメの話を茶化したけれど、興味は大いにあるんです。僕らは、都市のかたちを考えている。例えば家を建てるときに、隣から文句言われたり、喧嘩したり、土地を買ったり、一生懸命あれこれしている。それを地球の上のランドサットくらいの位置から歴史的に見ているとどうなるか。2000年という時間のスパンで見ると、都市ができてくる形が一瞬に見られるでしょ。遺伝的アルゴリズムとか使って解いてみると、似たような感じで都市ができてきちゃうんじゃないか。これは結構ショックなんですよ。現実の世界では喧嘩したり、快感物質だしたりしながら、生きているんだけれど。

古阪:それは個々の間隔が適当な距離で収まるというのではないかな。

竹山:やっぱりコミュニケーションの装置って事でしょうね。

古阪:経緯で見るといろいろ複雑なことがあるのかもしれないけど。

布野:マクロに見たときにはおさまっている。

古阪:2メートル離して置けば問題ないとかね。

石田:美しい秩序ができてきたり、何か特別な振る舞いを見ると、それは偶然に起きているというふうにはなかなか思いませんからね。何か意図があるはずだと、理由があるはずだと見てしまう。でも、実はそうではなくて、なんらかのちょっとしたローカルなルールで動いているだけで、全体として特別なパターンができてくるというのはよく聞く話です。だから、あまり過剰に何か意味があるはずだと追うと間違った方向に行ってしまう気もします。

古阪:いや素朴な疑問で。

石田:それともう一つ気になったこととして、伊勢さんの本がというわけではないのですが、人間のことを扱っていると、よく分からないことも多くて、そこにニューサイエンスというか、ある種怪しいものが入ってくる余地があるわけです。そこでいろいろなストーリーを組み合わせて、作り出して、ある方向に引っ張ろうとしているように思えることもある。だから、人間に関わる研究者は、ある種ストイックな姿勢で、あまり理論のふろしきを広げないようにしている側面があると思います。

古阪:それはそれで必要だけど、僕はこういうことぶちあげて、もっといろいろな人が本当にものになる学説を区別していけば快感進化論という学説がもっと洗練できるんじゃないかと思うけど。ただ、この本の範囲だけだと伊勢論あるいは伊勢さんが勝手にやっているという話になってしまう。この場も全体が見えているわけではなくて、建築関係に偏っている人しかいないけども。

布野:僕が一番興味があるのは、知と心のモデルのところなんです。例えば石田さんが研究しているような心理モデルとの関わりでも、音の心理にしても、何を根拠に研究が成り立つのかということを、かねがね不思議に思っているわけですよ。計画系では、せいぜいSD法とか、そういうツールしかない。伊勢さんの本には、そのあたりの基盤が書かれているような気がしたわけです。

石田:研究というのは最初にこういうものがありきなんですよね。こういうアイデアがあって、後はそれをみんなにどのように説得するか。一つは本を書くというのもあるし、専門的な人だったらもっと実証的に研究するということになると思うけれど。SD法というのは研究のための一つの道具、実験の道具ですから。

布野:SD法といっても、いかがわしい部分もあると思っているんです。それで、そこから先を聞きたいわけです。音なら音で。

伊勢:SD法は統計的分析手法の一つですが、結局、何を観察したいのかによってSD法の結果も違ってくると思うんですね。それほどきちんと実験をしなくてもSD法を使えば数値は出てくる。数値が出てくると一見研究をしているように見えるけど、必ずしもそうではないんです。例えば音の美しさについて心理実験をすれば、なんらかの数値は出てくるけど、その実験尺度は実験者の方で決められるわけですから、客観的な美しさというものはいえないわけです。実証的に確実なものはつまらないですし、怪しいところにおもしろさがあって、そこに暗黙的に研究が成り立つという根拠ができてしまう。だから僕は暗黙知理論を中心においています。例えば、古阪先生が中書島のツバメとおっしゃいましたが、ある分野でそこに魅力があれば、人が集まってきてコミュニケーションが交わされる。その結果として学会が楽しくなる。そして、さらに何かあるんじゃないかと人が集まってきて、多くの人を巻き込んで経済効果が生まれるというようなね。そういう研究のサイクルのメカニズムが僕は大事だと思うんですね。だから、知と心のモデルで暗黙知理論を中心においたのは、それを中心におくことによって、何かここにあるぞと思えるような研究の種がまけると思ったんです。例えば音響メーカーがそれを使ってオフィスの音環境モデルについて何かできないかと声をかけてきたりする。そして社会的なコミュニケーションが生まれる。怪しさというのは、周縁的な魅力でもあるわけです。

古阪:この本の著者としての答えは出ていない。

布野:技能の問題とか、学習の問題とか、無意識・意識の問題とか、かなり興味深い。

伊勢:もう少し直接的に答えると、例えばヒトの文化の多様性の原因として脳内の快感物質という極めて単純な原理をこの本の中で仮定してしまったんですね。つまりとても複雑に見える現象も実はごく簡単な法則に支配されていることが多く、ヒトの文化も同じでその単純な原理が何かを言ってみた。それと同じでツバメが中書島に集まることについても、原因を調べて見ると驚くほど簡単な身体メカニズムがあるような気がします。それを発見することが一つの研究テーマになりえていて、多くのヒトを惹きつけてもいる。

 

6.凍れる音楽

竹山:僕はひとつはコミュニケーションの問題として読んでいますこの本を。もうひとつ伊勢さんのオリジナルがあるとすると、いろんな進化の原因を「快感」であるとして、その根拠を実際の物質に求めている。実体であるという言葉が何度も出てくる。それから、ミームというのは一応文化的なモデル、一種の理論モデルで、これを実体としてみている人もいれば、単なる仮説であるとしてみている人もいる。これも、脳に転写されたシナプスのパターンの変化だと断言してしまった。そういうふうにして理論モデルを生理学的なものに強引に位置づけてしまったところにある。だから一番のコアはそれを人間の身体と脳に実体としてあるんだって言ったところにあると思う。

布野:全部そこへ遡って、心理や心のモデルというよりも、生理学的に実証していく作業になるのかな、ということをさっき聞きたかったのです。だけど違うでしょ。暗黙知って言っているのだから。それと脳のメカニズムはそう簡単には解けないでしょ。

伊勢:実証科学との境目に来ていて非常に苦しんでいるんですね。SD法のような統計的な心理学的手法では解けないんです。ミームは人によって違うから。物理的に同じ刺激を身体に与えても、生じる実体としてのミームは違ってくる。人によって経験が違うから、同じ刺激を与えても厳密には知覚が異なる。例えばあるミームを観察するために群れの中にいるヒトの脳内をMRIで測定してみようというのができないんですね。実証科学と暗黙知とがお互いに相容れない、非常に厳しい限界がある。

布野:理論的にもうちょっと踏み込む必要があるんじゃないの。ミームが違いますよ、って言うけれどやっぱり群れの中で共有されている。少なくとも一定の言語をしゃべる範囲とか。言葉の問題をもってきちゃうと難しいのかもしれないけれど。全部ドーパミンにいっちゃうと極端な話になっちゃう。

竹山:根っこがそこにあるけれど、そこから先の分析は難しいですね。でも僕は研究に引きつけて語る必要は全くないと思うんですね。研究として読んじゃいけないと思うんですね。

布野:ないない。もちろん(笑)。

竹山:中沢新一が東大に行くかっていう時に、蓮見重彦が応援演説をしたと。他の先生がみんなあんなもんは研究じゃないっていったら、『当たり前ですよ。これは小説なんだから』って言って応援をしたんだけれども、それで僕はいいと思ってるんですよ。そういうフィクションの喜びがあれば。そういうようなところからフィードバックして、伊勢さんが音の問題を考える手がかりになればいいし、僕は比較的リラックスして楽しめるところを楽しめばいいんじゃないかというスタンスをもっていますけど。僕の建築観が布野さんとは違うというような話がさっき出ましたが、僕は建築ってコミュニケーションの装置だと思ってるんですよ。人間はいくら大きな家に住みたいと思っても100m×100mの家は造らない。やっぱり人間の身体と音が到達する、あるいは人間同士のコミュニケーションがある程度とれるような空間を造る。それから壁を造るのはコミュニケーションを遮断するためでもあるけれども、いい形でコミュニケーションをとるためでもあるんですね。四六時中、顔をつき合わせて同じ部屋にいればケンカになってしまう人間が、別の部屋にいることによって、かえってコミュニケーションがうまくいく。そういう意味では実体としての建築と、コミュニケーションの装置としての建築は、ロジカルタイプを別にして考えています。例えば19世紀のはじめに建築は「凍れる音楽」だと言われました。凍れる音楽とシュレーゲルやヘーゲルらがいったのはゴシックのカセドラルなんですが、やっぱり音というのがコミュニケーションの装置として機能している。ゴシックのカセドラルが、音響によって神の国を臨在させるようなコミュニケーション装置だとすると、これもまた人類が築き上げた壮大なフィクションです。あるモチベーションで何事かが起こった時に、後で意味を付与して、それに目的という名前をつけたりしますが、実は目的を持って何かをしているのではない。つまり、神の国を臨在させるためにゴシック建築を造りましたというのは、途中から目的化しましたけど、あくまでも建築というのは僕はコミュニケーションの装置として出発する。これが、この本を読みながらずっと感じていたことです。

 

7.建築空間の暗黙知

竹山:暗黙知は能動性というのが基本にあって、脳は網膜に映ったものをそのまま転写するんじゃなくて、実は見たいものを見ている。人間は何か取捨選択をして見ようと思うものを見るし、そこでは能動性によって、あるいは身体の運動によって、世界を知覚している。僕はこういう暗黙知があるから設計ができるなって思った記憶がある。つまり、建築を構想するときに必須の空間加工のイメージというものは身体に即していて、全体的な構想の中である種のイメージを投射する能動性をもつ暗黙知に支えられていないと、逆にいうと出来ない。

石田:実は暗黙知について竹山先生にぜひお聞きしたかったことがあるんです。建築設計について。それは、大学へ入って設計という技能を身につけるための練習をするわけですが、学生にはある段階で何か掴んだという実感があるのか。そういうことがまずあるのかという話がひとつです。それから例えば自転車という技能で言うと、自転車を操る方法を明示的には教えられないけど、一週間も自転車にまたがって押してもらったり転んだりしていれば、大体乗れるようになるという習得の方法はわかっている。だから、みんな一生懸命練習しますよね。それと同じように設計教育でこういうことをあなたは3年間繰り返せば何かつかめるはずだというね、そういう方法論はあるのかということです。その辺はどうなんでしょう、実感としては。

竹山:設計演習やってて、図面をある程度描いている学生は、途中で自転車に乗れるようになったなという感覚はもつと思います。いくらプランをプランとして描いていても自転車に乗れないんですよね。だけど、プランと同時にポンと全ての立体が立ち上がる場面がある。立体がどう貫入して、それをどうセクションに落とし込み、プランに落とし込むかっていうことをやるようになる。立体がたちあらわれるようになった段階が自転車に乗れるということであるならば、それは身体全体の暗黙知として成立する時点があるかも知れません。

古阪:そういうところは文章も同じでしょ。同じというのはレベルは違うけれども、文章だって、皆さんを含めて稚拙な段階から始まってね、ある瞬間からうまくなっている。瞬間でなくても、結果としてね。どこかに分岐点がある。

布野:文章なら僕が答えてもいいから言うとね。基本的にありますよ。例えば、論理的な組み立てとかいうような、基本的な部分はある。僕は国語なんか大嫌いな質だったけれど、20歳くらいからトレーニングさせられたわけですよ。例えば新聞に書くとかね。だからある意味で言うと、トレーニングで文章は書けるようになる部分がかなりあると僕は証言できます。本を書いたりして校正を受けてね、これ伝わりませんって真っ赤っかにされてね。特に朝日とか読売とか新聞社でやられると、もぅ「くそーっ!」っていいながらやっぱりそっちの方がいいなって直されて。そういうトレーニングで一定程度の文章術を身につける。だから建築の話も僕が答えるとしたら似たようなところがあって、例えばスケッチを描いたりする能力っていうのは、ある人が言っていたのだけれど2歳ぐらいまででほぼ決まってしまうっていうような世界がある。ベーシックなところはね。だけど建築をどうするかというのは、一方でトレースを何回も繰り返すというようなレベルもあるけれど、僕の経験で言うとやっぱり物を見る事ね。良いと言われている作品を徹底的に見る。そして、建築の「造る」ことと「見る」ことの往復をやる。これはトレーニングで上がっていく。だから素人だっていっぱいいるわけですよ。建築家顔まけにすごく詳しい奴もいる。全然、空間音痴もいるし。

竹山:造るっていう観点でみる事も必要ですね。伊勢さんはスキーの事語ってたけど、スポーツにしたって「俺、野球ファンなんだよ、サッカーファンなんだよ」ってずっとテレビで見てるだけの人は絶対野球もサッカーもできないんでね。自分がプレイしているかのように身体を同調させながら見てる人は、ある程度のプレーヤーになる。建築もそうだと思う。

布野:そりゃそうだ。基本は、その気にならないとだめ。

石田:設計の話で言うと、技能を修得する過程は、いろいろあるということですか?

竹山:暗黙知というのは身体に埋め込まれた能動性の問題だから、例えばトレーニングも、トレースだけずっとしてたって全然だめで、知識だけいれたって全然だめ。これを身体化すること。ピアノも最初は一生懸命譜面をおって、目で音符を見ながら弾いている、身体と意識が全然バラバラなんです。ところが下手は下手なりに毎日同じ曲ばっかやっていると、そのうち指が動くようになってくる。もっとやっていると今度は音を聞きながら、全然手も見ないで、身体全体で音を表現するようになる。ここが、暗黙知に到達したとこだと。

石田:大学の教育の話に戻すと、いろいろカリキュラム変えたり、プログラム作ったりするけども、要するに身体的に身につけるレベルのものは、マニュアル化してこうすればできますよって説明できるものでもないでしょ。

古阪:設計の問題?

石田:例えばわかりやすい問題として設計としているんですがね。

竹山:それでまたこの本にひきつけていうなら、快感物質が出るような気がする。きた!ピタっといったっていう時がね。

石田:最近はイチローとかスポーツ選手の話もよく見かけるけど、彼だって飛んできたボールに対してバットをこう振ってなんて考えていないですよね。その瞬間はパシッとやっているだけなんだと思う。そのときの体の形、動きがそれこそ身体化している。

布野:個人技は、今の説明で僕はいいと思うのだけれど、一番面白いのは、サッカーみたいなやつだと思う。あれは言葉を介さずに瞬間的に反応しているじゃないですか。しかも集団で。みんなどうしてサッカーをみて快感を得るのか、というか面白がるのかというと、一番良いモデルなんだよね。もちろん言葉も出しているのだろうけれど、瞬間的に反応していくのを組み立てているわけでしょ。

竹山:センタリング来る前にブァーっといくんだよね。そこにボールが来るんだもん。

布野:だから集団の身体性みたいなの。これが僕は面白いと思う。個人でトレーニングをするのは、一方である種、文章を書いたり自分で設計をしたりする個人レベルの身体的な能力の獲得なわけだけど、群れのレベルでの身体運動は、集団暗黙知みたいなものでしょ。もちろん個人のトレーニングも要るけど、瞬間に全部判断しなければならないわけだから。群れの位置とか、相手の能力まで感知してパス出したりしているわけでしょ。失敗するのがほとんどなんだけど、うまくいったときに点が入る。

石田:時々中田のパスが全然誰もいないところにいってるけどね。

布野:それは感じあっていないわけですね。

伊勢:今の石田先生の議論、僕も設計教育を受けていないので、そのへんすごく興味があったところなんですけどね。ただ僕の研究室に来る学生は、やっぱり挫折してくるのが多い。設計の技能の獲得ができないと。建築というのはもちろん設計だけではなくて、構造系、環境系、それぞれの技能があると思うんですが、その中でどの技能を得るのに快感を感じるのかというところを自分で発見するのにかなり時間がかかっている。ロスが大きくて、かわいそうだなという気もするんですね。例えば数式に快感を見出す人もいます。言語能力や空間知覚能力はそれほど高くないかもしれない。でも数式という一つの言語には非常に快感を感じるような人もいるんですね。やっぱりその技能を伸ばして社会に放り投げる必要があると思います。卒業までにそれを発見できればよいのですけど、自分がどこに快感を得て能動的に技能を得るものがあるのかという部分で。

布野:そんな数式に快感を覚えてそれだけだったら別に建築じゃなくてもいいんじゃないの。

大崎:それは入ってみないとわからないですね。18歳のときにそういう判断はできないですね。

古阪:答えがでることに快感があるんでしょ。数式に快感があるんじゃなくって。

伊勢:数式だけに興味を持つんだったら数学科に入ればよいのですよね。でも、そうじゃなくてやっぱり現実と関わりをもちたいんですよ、多くの人はね。数式とか数学というのは一つの言語的な手がかりであって、日本語で建築に関わる人もいれば、数学という言語で建築に関わりたい人もいる。建築という現実と関りたいというのは多くの学生の望みなんですよ。

竹山:例えば大崎さんはどうして構造の道にいって、そこにどういう快感を見出したのか。

大崎:さっきの数式の話でいうと例えばまったく違う方法で式を作って同じ結果になると非常に快感を感じる。計算でもそうですけど、全然違う方法で同じ結果になると非常にうれしい。その魅力を持っている人は構造系にはいると思います。

古阪:方法がいくつかあっても答えが同じになる。僕の場合はそれとは逆なんだよね。いろんな解があるんじゃないかという。つまり、人系をいじると同じ答えはまずありえない。

布野:環境系の先生とかは数式と実験が一致する快感があるとも言いますよね。

古阪:工学の実験系の研究分野では実験した結果と数式とが一致するというのは一番大事なことですよね。

伊勢:実験の結果というのは現実の世界で、それと数学という理念上の世界、自分が獲得した数学という言語の世界を付き合わせたときに、同じだという快感があると思いますよ。自分の言語表現で良かったんだという快感。大崎先生もおそらくそうだと思うんですね。

布野:複雑な式よりも簡単な式の方が良いというのもあるでしょ。同じ現象に対して。そういう美学もあるのでは。

大崎:それはあるでしょうね。

古阪:脳の研究だって、必ずしも数式だけじゃなく、記述モデルを描いて、ここを刺激してこういう結果でれば想定したモデルと一致するとかいうのが快感になると思う。

布野:竹山さんはどう考えているの?

竹山:やっぱり快感物質がでるかどうかってことだと思うんです。上手かろうが下手だろうが。だってルイスカーンとか篠原一男とかへたですよね。それでも喜びをもってやるっていう方が偉大になる。最初に器用にうまく描ける奴なんてのは大建築家にはならないですよ。

布野:磯崎さんも絵そんなにうまくないよ。

竹山:僕も最初にバイトに行ったときにそう感じました。

古阪:大学の教育の中で快感を得るというより、いろいろなところで経験することによって快感を得るわけでしょ。トレーニングというか、その快感の味をどれくらいしめているかによるわけで、その場合にはわりとちょっとした刺激によっても大きな快感を得たり、反対にあまりそういう経験がない人だとかなり感動してもいいはずのものが、快感を得られない。いわゆるさめているという状態ですね。

石田:面白い結果が近くに見えているものは取っ付きやすいだろうけど、例えば3年くらい同じようなことばかり繰り返さないとものにならないような場合、3年間この図面をひたすら描けと言われれば、途中で挫折する学生も出てくるでしょうね。だけど3年やれば大体はどこかで設計の感覚が立ち上がってくるぞということを最初に言うことができれば、それじゃがんばって修行しようかとならないでしょうかね。

布野:身体的な技能はそうだよね。例えば大工とか、左官の技能はね。身体的な技能はやっぱり繰り返しのトレーニングでよいけれど、設計の技能は10年トレースしても駄目なものは駄目というのがある。

古阪:それはある程度は当然できる。大工だってね、トレーニングで本当に有能な大工になれるかっていうと、一通りのことができる普通の大工にはまずなれる。センスっていうのは、図面にしたってセンスはある。大工だってそうだし。そこがちょっと違うと思うんだけどね。

大崎:全員が有名なデザイナーになる必要は全然なくて、落ちこぼれても仕事はある。

古阪:(笑)そんな悲観的に考えることはなくて、もっと前向きに考えればいい。

布野:それは建築のいいところじゃない。すごい幅があって、裾野が広くていろんなことで参加できるじゃないですか。それこそ、ゴールキーパーもいればフォワードもいて、ボランチもいて、っていうようなことでできるのだから。

竹山:まあ、現実に建築を造る段階までは大学では教えないですけど、現実に建築をつくる現場へ行くと、ディティールをどうやっておさめるかっていうのは、ある意味で面白い。ただ全体を構想するというようなこととかアイディアを出すというところに快感を覚えるタイプの建築家は細かいディティールは現場のディティール家さんにまかせればいいじゃんというようなことにもなる。それで現場に行ってみると施工会社の下請けあたりでディティールばっかり書く人がいるわけですよ。でも僕割とそういう人好きで、いといろ話をするんだけど。やっぱりディティールがものすごくうまくおさまったというだけでも、ものすごく快感があるしね、様々なんですよ。

布野:あのね、調子に乗っていうと(笑)、二つなの。建築はコンセプトがあってディテールがあれば良い。これは立派な建築家になれる。あとは集団作業かな。

竹山:ほんとコンセプトとディテールだと思います。ディティールについては、トレーニングすればするほどうまくなります。ある程度のセンスがいらないとはいわないけど。

布野:物を知っていないといけない。

竹山:だから、さっきの設計教育の問題についていうならば、大学の間にお前才能ないとか、むいてないんじゃないかというようなことはいえない。

布野:窓口だけは広くしておかないといけない。

古阪:それは自分で感じる。大崎さんみたいにね。あきらめるとかね。俺はこっちよりこっちだってね。

大崎:あきらめたわけではない。

石田:選び取ったわけだよね。

古阪:それはやっぱり大学教育で一番重要なことじゃないかな。

伊勢:窓口は広くないといけないですよね。いろんなことを試してどの自転車が一番気持ちよいのかというような。

 

8.目的とメカニズム

最後に建築生産のことで古阪先生に聞きたいことがあります。やっぱり古阪先生の研究分野も視点がヒトじゃないかなと直感的に感じるんですね。ヒトの流れっていうのか。ある技能をもったヒトがどういうふうにヒトの群れの中で流れていて、それを合理的に流しながら現実である建物を作っていくという視点ではないだろうかと。

古阪:僕らのしていること、いわゆる建築生産に関していえば、組織を作ること、建築全体をどうやって創りあげるかということ、労働者の問題や全体のマネジメントを含めて、やっぱりコミュニケーションは非常に重要なんです。音によるコミュニケーションが極めて重要なんですね。そのコミュニケーションの上手い下手が、やっぱり技術的にうまく達成できたり、あるいは商売としてうまくいったりする。ところがそのトレーニングがどのようにできるのかということに関しては、他の分野も含めて学問的な基盤がない。例えば集団心理とか、個々の意思決定論とか、経済の様々な問題とか、雑学的に勉強しなければならない。だから、この話は非常によくわかる。それから僕は進化経済学とか、数理の方ではオペレーションズ・リサーチとか、いろんな分野の方とネットワークを持って勉強しているわけだけど、そのくらいやらないといけない。単にハードな技術だけではだめ。そういう意味でいうと建築の教育のあり方としては、学生をどう囲うかということではなくて、学生がどのように自由に外へ勉強しに出て行けるのかという問題として捉える必要がある。

伊勢:僕はその視点が、ある意味で建築の原因になっているのではないかなと思ったんですね。竹山先生がさっきカセドラルの話しをしましたけど、それと似た話があります。吉村作治先生がピラミッドがなぜできたかという理由として、あれは労働対策だったと言っています。

竹山:公共事業。

伊勢:そう。公共事業。ピラミッドを作るための神秘的な目的はわからないのだけど、とにかくヒトを動かすメカニズムがあったからあんなでかいものができちゃったんだというね。

竹山:いや、これ大いに勇気付けられるのは、建築家の存在っていうものを逆説的に根拠付けてくれる。つまり、面白いことをやるっていう無目的な奴がいていいんだっていうね。それが、総体としては人類の進化に貢献するのであるっていうような事が言われている。

伊勢:それは自己弁護でもあるんですけどね。

布野:そういう読み方だけで良いのかな?

竹山:冒険っていうのがあるでしょ、本の後半に「中心-周縁理論」で、森の中の村、森の人っていう、これも分かりやすいメタファーでいいと思ったんですが、このリスクをとるという行為を敢えてするという人間のさが。これも、個の遺伝子としてはマイナスだけど、集団のミームとしては成立する。リスクの中にエロスを持ってしまうわけです。僕は快感物質をエロスって言っているんですが、リスクの中にエロスを見るっていう性向が人間の進化の過程で組み込まれてね、それもミームなのかもしれないですけど、これが人類をこれだけ地球上に広げたわけだし、新しいことにチャレンジして、目的が何かわかんないけど、宇宙にも行くし、まあコロニー造るのが目的だとか言えば終いだけど、月に行ってみたいっていう気持ち、そういうようなことを特にポジティブに論じているあたりが、元気付けられる書物だなって感じがします。

古阪:月に行くのはソ連に負けたくなかったからじゃないの。(笑)

竹山:それも同じような・・・

古阪:理由にならないね。(笑)

石田:人間の具体的な活動の中では、目的を意識している行動とか計画というものが大部分でしょうね。だけど全部に全部、何か明確な目的があってやっているというふうには考えないほうがよいかもしれませんね。そう思っちゃうと、私の目的はなんだろうということでね、どんどん考え込んでしまう。

古阪:だけど工学でも計画系を除いて工学部全体がそうだし、建築でも構造とか、いわゆるシステム工学というのがそうじゃないですか。目的ありきでね。ところが目的関数がかけないものがあるんですね。社会システムのシステム論というのは目的があるかどうかわからない。大きな違いはそこにある。制約条件とかは数式でかけるけれど、目的関数を数式で表現するのを許すのか許さないのか。そこが工学部とそうじゃないところの大きな違いだよね。だから、建築の中で目的をもちろん持たないといけない学問もあるわけだけども、目的が何ぞやとか、目的すら変わっていくというようなこともある。

竹山:最初の小鳥のコミュニケーションでも、目的が仮に想定されるとすると、性的な、より広く良い異性を得るためのさえずりであるということになるかもしれないけど、そのうち、さえずり自体が自己目的化して。

石田:そうですね。そこはサイクルになるんでしょうね。

竹山:歌を作ることにことにせよ、演劇にせよ、文学にせよ、なんにせよ元はといえば異性へのメッセージだったかもしれない。それがだんだん自己目的化していく。ヒトが有性生殖する生命体と考えれば、多くの人間の文化的・芸術的な活動の目標が生殖であるという説明はすごく分かりやすい。ただ、そこの間に距離を膨大にとっていくっていうのが文化ですよね。そうした性向が人間を進化させてきた。直接的に目的に行かず、目的に距離をおくっていうね。

A-10神経のオートレセプターが欠如しているから過剰がでると。結局ピラミッドだとか、バベルの塔だとか、もうわけの分からないものを造り続ける。それに喜びを感じるっていう建築的欲望ってあると思うんですね。人類は、何かに突き動かされて。

石田:ただその欲望に従ってどんどん動いた結果、何度もひどい目にあっている。人間の根底にそういう駆動力があるというのを認識した上で、それとどうつきあうか。この本には戦争の話も最後に書いてありますが、そんなこともあるんじゃないですか。それから工学部で、最近工学倫理などで問題にしていると思いますが、おもしろいとか楽しいからだけでみんながどんどん進んだ先に何があるのかということには注意が必要だと思うんですよね。

2026年2月17日火曜日

traverse02前書, traverse, 2001

 Traverse02 新建築学研究第2号創刊

 

 21世紀である。とりたてて変化はないと思うけれど、どこか気分は改まる。アメリカ合衆国の大統領も替わり、我が国にも構造改革を掲げる新たな首相が登場した。少なくともわが国には、21世紀を迎えて、新たな風が吹くかのような雰囲気はある。

 日本の建築界が、この間、大きな転機を迎えていることは間違いない。日本の産業構造が大きく変わる中で、建設業界は大きく構造改革を求められている。公共事業削減の流れは、建設活動に大きな影響を及ぼしている。そうした中で、建築界の体質そのものの改善が求められているのである。

 以上のような日本の建築をとりまく環境の変化は、しかし、単に外部条件の変化ではない。建築のあり方に根源的に関わる変化と考えるべきである。フローからストックへ、スクラップ・アンド・ビルド(建てては壊す)時代から既存ストックの再生、再利用へ、という方向性には、建築観そのものが関わっているのである。

 いわゆる環境問題が顕在化するなかで、地球環境が全体の枠組みとして登場してきたことも大きい。個々の建築活動も地球全体の問題に直結する、そうした時代には、建築についての新たなパラダイムが求められるであろう。 

 21世紀を迎えて、大きな変革への流れを見据えながら、本質的な議論をしたい。時代に対して敏感でありながら、深い思索を重ねたい。Traverseの願いである。(S.F. 2001.05.01)。

2026年2月16日月曜日

京大を建築学のコアに 巽和夫 名誉教授インタビュー, traverse03, 2002

 

京大を建築学のコアに

巽和夫 名誉教授インタビュー

 

聞き手  布野修司

高田光雄

古阪秀三

                大崎 純

記録:  永冨 賢

 

 

建築は形が現れる:ものを作っていくのが好きで建築学科へ

−:巽先生は京都のお生まれで、京大に入られたわけですけれども、なぜ建築に入られたのですか。

巽:あんまり根拠がないんです。子供の頃から建築にあこがれていたとか、絵が上手だからとか、建築家になりたいからという人がいますが、僕の場合はそうではないんです。ちょっと前の話になるけれども、僕は昭和23年に旧制中学(桃山中学、現桃山高校)の最後の卒業生になります。それで旧制の第三高等学校に入ったんです。ところが1年で学制改革があったものだから、また京都大学に入り直しました。それが昭和24年です。その頃は工学部というところまでは入学時に決まってるんだけど、その後は何も決まっていませんでした。学科を選ぶんですが、最初は化学系にしようか、それとも他のことにしようかと思っていたんです。今はもう無くなったかもしれませんが、吉田キャンパスに新徳館という大きな講堂がありまして、学科に配属するときに各学科の先生がやってきて、うちの学科はどういうことをやっていて将来の見通しはどうか、というようなことを説明する会が当時ありました。そういうのを聞いて進路を決めるんです。その頃おられた森田慶一先生が、昭和24年頃というと戦後の復興が始まったばかりですが、まだ焼け野原もあるという状態で、これから建築は非常に需要が大きいし、どんどん建物を建てていく時代が来ると、こう言われたんです。それに非常に感銘を受けました。僕はものを作っていくということが好きなものですから、それはいいな、と。それから建築というのは具体的にものが形に表れます。電気とか、化学とかとはその辺が違っている。それから、図面を描くこと、教養でも図学などありましたが、図面を描くことが割合好きだったし、友達も建築に進む人がたくさんいたこと、そんなことがあって、何となく建築に行きました(笑)。

−:当時の学生数は工学部で何人くらいだったんですか。

巽:学生数、どのくらいでしょうね。学科にして10いくつかあって、ひとつの学科で30人として350人程度でしょうか。

−:各学科の話を聞いて選択するという形ですが、旧制から新制ということですけれど、それは今でいうと何回生から何回生のときですか。

巽:2回生から3回生です。

−:そうすると、図学はあったけれど、製図は選択してやるということですか。

巽:厳密にいうと1年半くらいかもしれないけれど、いずれにしても入るときは工学部で、建築学科ではなかったと思います。

−:その時代の学生の雰囲気というのはどうでしたか。同級生でいうとどんな先生方がいらっしゃって、スタッフにはどんな方がいらっしゃいましたか。

巽:寺井(俊夫)君とか亡くなられた防災研の南井(良一郎)君とかが同級生です。それから竹中工務店に行って設計部長になった大辻(真喜夫)君なんかも同級生です。それから西川(幸治)君は1年下です。

 

旧制から新制へ

−:新制と旧制はどうだったんですか。

巽:僕は新制の昭和28年卒なんですが、新制と旧制の昭和28年卒が同じ年に卒業するんです。従って、その頃景気が良くなかった上に、その年だけ2倍出たわけで、ものすごい就職難で、そうなると我々新制の方が非常に不利なんです。僕らが新制の第1回だからどういう教育をするかということがいろいろあるんだけど、とにかく急造でやってますから、旧制のカリキュラムの体系をちょっと簡略にしたような恰好のものを新制のカリキュラムにしたんだと思うんです。我々もどことなく1年少ないというコンプレックスもあるし、旧制に対してはどことなく引け目がありました。就職も当然不利ですよ。大学院が新しくできるんだから、大学側もできるだけ大学院に行かせようと、無試験ですから来て下さい、というような感じでした。

−:西暦でいうと卒業は1953年ですよね。カリキュラムはそういうことですけれども、卒業の直前で研究室を選ぶ段階が次に来るんじゃないかと思うんですが、それは3回生から4回生になるときですか。

巽:4回生だと思います。ただ僕は研究室にはいる前に西山先生の調査に加わっていました。熊野灘の調査なんかです。調査に行ったのは4年生の時ですが研究室の活動には以前から参加していました。この調査について『住宅』という雑誌に書いた論考が僕が最初に書いた文章です。

−:それは何回生の時ですか。

 

熊野灘調査

巽:4回生です。

−:熊野灘調査などの西山研のその当時の調査の大方針などはどのようなものだったのか、またどのような雰囲気でしたか。

巽:主旨からいえば、あのときは漁村でしたが、農漁村の遅れた生活環境、住環境をよくするということですけど、僕は学部の学生でただ調査があるのに付いていったわけだけれど、多少社会工作的な意味合いがあったように思うんです。

−:西山先生なり先輩の先生方は、学生をオルグするという面もあったのでしょうか。

巽:西山先生にはある程度そういう意図があったんじゃないかと思います。でも、結局農村だったら地主の家に泊まったり、漁村に行ったら網元の家に泊まったりするんです。網元の家に泊まったんだけど、網元のヒエラルキーの利益に反するようなことをやるわけですよ。その辺に僕は大変抵抗を感じて、そういうことをするのなら網元の家に泊まらずに野宿してでもやるのが本来の姿ではないかと思いました。泊まるということは向こうは歓待してくれますから、いろいろご馳走出して世話してくれて、それに乗っていながらしかも、その漁村社会を批判するようなことは、僕としては非常に抵抗がありました。

−:西山先生は平気だったんですか。

巽:それが割合平気でしたね(笑)。

−:巽先生だけじゃなく何人か学生が行かれたと思うんですが、当時の西山研のスタッフとしてはどういう人がいたのですか。

巽:スタッフには助手に扇田(信)さんがおられて、それから絹谷(祐規)さんが旧制の28年卒で、僕の直上の先輩にあたるわけですが、彼が実質的に調査にしても何にしてもリードしていたと思います。やってるうちにそういう意図でやってるということが分かってきて、それなら僕は外に出てもっとしょぼくれたところに行かないといけないのではないかと言って外へ出たんです。そしてうろうろして帰ってきたら、もう絹谷さんなんかが風呂に上がって飯食って待ってるんです。何だこれは、おかしいんじゃないかと思ってそれで大いに議論したこともあります。彼とはよく議論しましたね、そういう点で。

 

教室の構成と配属

−:そうすると、3回生くらいでもう西山研に行くことは決まっていた?

巽:そうですね。『これからの住まい』とかいろいろな本もあったし、社会的影響力の大きい先生でしたから、僕もよく知ってました。

−:その当時の計画講座は、意匠は森田(慶一)先生で、計画は西山先生ですか?

巽:森田先生が教授で西山先生が助教授という状態がずっと続いていたんですよ。

−:そうすると森田先生は、先ほど志望するときに少し影響を受けられたというか、学科を選ぶときに森田・西山研が影響があったということですね。他にスタッフで印象にある先生とかありますか。

巽:そりゃあ、全部印象にあります(笑)。構造でいえば、坂(静雄)先生、それから棚橋(諒)先生、それから計画の森田先生、後は村田(治郎)先生が建築史でおられた。僕らが教授だった頃に比べればその頃の先生は、学生から見た印象では随分高齢で、重鎮の大家という感じでした。だけど今、僕はその先生の現職時代よりも高齢になっている。何だこんなもんかな、という感じも年齢的にはします(笑)。学術的な業績はそれらの先生の方が遙かに立派ですが。

−:当時は何講座くらいでしたか。

巽:当時は6講座ですね。入ったときは確かに建築でなかったことは確かなんだけど、どこで分かれたのかということははっきりしません。

−:希望すればいける状況だったんですか。

巽:それは第1志望、第2志望という形です。

−:それは試験で決まるんですか、それとも成績ですか。

巽:あれは成績でしょうね。希望者が多いから。

−:そうすると1年生、2年生の成績で序列があって、上位から第1志望をとっていくということですね。

巽:その頃は今みたいに学科数も多くないし、そんなに偏るということはなかったと思います。例えば化学だったら、化学だけで5教室あったんです。工業化学が一番人気があったけれども、工業化学がだめだったら繊維化学とか化学機械とか合成化学とか燃料化学とかいろいろあったから、うまく配分されていたんだと思います。その頃は建築はたぶん真ん中くらいの人気ですね。化学とか機械とかが人気が高かったですね。

−:戦後まもなくは、航空から一気に建築にシフトしたという話がありますが。

巽:航空は一度名前が変わって、確か「応用物理」になったんじゃないですかね。大学院になってから移ってきた人がいましたね。

−:西山研に3回生の時に決められたということですが、定員があるとかじゃないんですか。

巽:今思い出すと、本館の一階の掲示板に研究室がどういう研究テーマで研究しているのかという一覧表が掲示されていたので、それが出ていたということは結局それを見て志望していたということでしょうね。僕は前から調査に参加していたもんだから自然に行ったけれども、そうでない人はそういうので選んだんじゃないでしょうか。

−:一方で旧制も同時並行であるわけですが、そういうシステムは違うんですか。

巽:旧制はどうだったんでしょう。旧制の人に訊かないと。

 

大学院時代

−:巽先生は3回生の時とか西山研の熊野灘調査に参加されていたときに旧制の人も同じ年代にいたわけですよね、絹谷さんとか。その関係はどうだったんですか。

巽:新制と旧制の関係ですか。それは同じ研究室の中ではやっぱり1年先輩と後輩という関係ですよね。

−:卒業年次は一緒だけれども旧制の方が1つ上ということですか。

巽:1年余計にやってますからね。僕らの頃は旧制の3年と新制の2年ちょっととはっきりとしてましたから、その辺では非常に不利でした。だから、僕らの同級生でいいところに就職しているというのは非常に少ないです。例えば竹中工務店、大林組、これ1人ずつでしょう。それから建設省が案外3人くらい入っていて、大手のゼネコンといえども1人ずつやっと採ってくれるくらいで、大成建設はなかったし、清水はいたかなぁ。

−:次の年からはいいんじゃないですか。

巽:大学院に行ってから就職した人は割合よかった。

−:大学院には何人くらい進まれたんですか。

巽:大学院は結局11人ですけれど、よその大学から34人入ってきてます。京都工芸繊維大学からとかね。だから内部からは78人ですよ。やはり僕らの時代というのは、構造系が非常に強かったですね。

−:いや今もそうですよ(一同笑)。学生の人数では圧倒的に計画が多いですが。

巽:僕らの時は、研究・教育組織としても構造系が強かったし、学生もそうでした。それで就職がよくなかったから、計画に行っても就職できんぞ、といった感じの雰囲気が先生の側にもこちらの側にもありました。

−:それは京大に限らないんじゃないですか。社会情勢からいえば、戦後復興ではどうしても本当のエンジニアが必要となるから。全体的な傾向でしょう。

巽:構造、環境とあったけど、実際のところはエンジニアリングなんですよね。エンジニアリングを「構造」という名前で代用しているんですよね。実際に構造設計をするかというとそうでなくて、大体現場に行くのが多いでしょう。その辺は違ってるんだけれども。

−:今みたいに、構造と環境と計画の間のハードルは高くなかったんじゃないですか。人数も遙かに少ないわけでしょうし。

巽:大学院生11人がどこにいたかというと、今はもうないのかな、本館の東隣にあった東別館の2階に大学院生が一緒にいたんです。構造とか計画とかに関係なく。修士課程にはいるのは僕らが初めてでしょう。大学側もどう扱っていいのやらわからないわけです。だからもう、いつもとりあえずこうしておこうという。カリキュラムにしても指導にしたって、それから場所にしたってそうでしょう。今みたいに講座間とか専門間で仕切りがあるという感じではなかったですね。それで構造の人だって設計演習を取ってましたし、コンペにも参加しましたしね。

−:大学に入られて、ドクターに行かれて助手をちょっとやられるんですよね。

巽:ええ助手をちょっとしましたね。

−:それでその間割と研究的なことはいろいろありますからいいんですが、スタッフと学生の関係とかスタッフ同士の関係とか、あるいはその間のプロジェクトなどで印象に残っていることがあれば…。例えば1950年代のことなど。

巽:プロジェクトは西山先生がいろいろ引き受けてこられるのをやったりしました。例えば公団の香里団地というのがありますね。あれはね、昭和30年というのは公団ができたんですが、30年というと僕が大学院の修士を卒業して博士課程に入った頃ですが、公団がスタートするにあたって、はたして公団住宅が売れるだろうかというので、家賃4000円で需要者があるかという調査をしてくれというような、調査プロジェクトもいろいろありました。それから香里団地の計画を、あそこは火薬庫の跡なんですが、あれを計画するので何か提案しろ、ということで、僕は今でも思い出すけれど、斬新な提案をしたんだけれど通りませんでした。火薬庫だから火薬庫と火薬庫の間が空いていて山−谷−山−谷になってるんです。現在、全部ならして使ってるんですが、山−谷を利用しようというのが僕の提案で、そこに1階部分はピロティにしてそこに共用空間をおいて、その上に住戸部分を上げるという提案をしたんですよね。その頃、竹中の大辻さんが非常勤講師で来てまして、これいいなぁと言ってましたから、芦屋浜のASTMにね、あのアイディアがどうも関係してるんじゃないかと(笑)。そういう提案をしたこともあります。

−:そのときは構造や環境の先生は参加されたんですか。

巽:環境はどうだろう、あれは西山先生のところだけかもしれませんね。それからコンペは、国立国会図書館コンペをやりました。今でも覚えてるけどね、こういう太鼓型をした、コアシステムで真ん中に書庫をおき、外周部に閲覧室を配置しようというアイディアで、構造の人達とも一緒にやりました。これは確か、大学院の演習課題でもあったように思うんですよ。あの頃は今みたいに構造とか環境とかいいませんから、興味があれば設計の単位を取っていいわけです。だからそういうコンペが出てくるとみんな 参加してたんです。

−:あれは著作権問題でもめましたよね。あれはとったのは前川事務所でしたよね。それは印象には残ってないですか。

巽:それは記憶にないですね。どんな風にもめたんですか。

−:確かその通りに実施されなかったと思います。それで「新建築」とかジャーナリズムが問題にしたんです。

巽:そんなのでね、僕は個人的には住宅の設計とか、頼まれてやった設計とかいくつかやりました。

−:それは個人、それとも仲間とですか。

巽:それは個人でもやったし、仲間ともやりました。今は設計といってもとてもできませんが、そのころは設計をするのは当たり前でね、それで、研究は少し違う方向に行ったけど、何をやるにしても、設計をしてそこからどういう問題があるかを見つけるんです。僕もある種の建築家だと思っていますけれども、やはりものを作る経験がなければ、本当には研究課題はでてこないし、物事はわからないというふうに思っている。研究をしてそれを実際にやってみる。やってみるといろいろな問題がわかるから、またそれを研究する、と。それは最初は今のような時代じゃないから設計っていう行為そのものが非常に包括的で総合的な行為でしたよね。今はもうかなりいろいろわかってきてますけれど、そのころはそういう包括的な経験をすることによって、所謂狭い意味での「デザイン」ももちろんありますけどね、計画的な問題、経済的な、社会的ないろんな問題がそこにあるということが、それを通じて体得できたんじゃないかと思います。

 

調査と設計

−:それでその辺で、吉武研との関係を聞きたいんですけれど。むしろ吉武研は巽先生がおっしゃるような立場で、研究は設計に還元できなきゃだめだという立場で、西山研はむしろ調査が大事だという構図で議論をされたと聞いていますが、その辺は具体的にどうだったんでしょうか。

巽:西山先生は「調査無くして発言無し」というふうによく言われてました。西山先生は庶民住宅の研究を柱とした研究をしておられましたから、その流れの中である意味では設計をするという行為と、研究をするという行為は大分違うんです。研究するという行為は分析的な行為ですよね。ものすごく膨大な量の調査をしても、わずかなことしか出てこないという性質のものでしょう。設計という行為は、よくわからないけれどとにかくものにするためにはまとめないといけないから、いろんな情報を集めて総合するという作業ですよね。だから研究するということに非常に没頭して行くと、設計するということがしんどくなるし、やりにくくなりますよね。逆に設計を一生懸命やっていくと、多分もう研究なんてやってられないというふうになる。西山先生はどちらかというと、前者の方で研究の方を非常に強くやってこられたし学生の指導もそちらの方にやってこられたわけです。ただ、当時は今のように建築設計事務所とか、ゼネコンといったものがそんなに発達していなかったので、新しい課題について大学の先生に頼むとか相談するということはよくあったわけです。そういうものを先生は断ってはおられなくて、例えば城崎温泉の旅館の浴場の設計なんてありますよね。

−:あれは調査も絡んでるんじゃないですか。

巽:調査なんかやってるとね、相手が設計して欲しいと要請してくることがあるでしょう。それに引きずられますよね。それで研究室の中でも、「なんでそんなもの引き受けるんだ」なんて議論もあるんですよ。それを先生はものすごく理屈を付けるように、「いや、これからは労働組合の大会を開くときには、温泉くらいの規模の旅館がたくさんある所じゃないと開けない。従ってそこの温泉をデザインするんだから、この仕事はいいんだ」と、こういう理屈を言われるんです(笑)。

−:その辺をもうちょっと聞きますと、吉武先生は西山先生の梗概を戦時中ものすごく読まれてるんです。西山先生の論文とかをものすごく意識されて始められている。それで住宅から公共施設へとか彼なりの戦略があるし、鈴木成文さんみたいな、住宅を担当した先生もいたんで、すごく意識してやっていて、設計と研究との関係については、これは西山先生も書かれてますけれども、例えば今の標準住戸の設計みたいなものは、これは中央に近い東大に任せて、だけど京大はそっちがやらない、やれない調査や、むしろ領域を拡げて地域計画に行くんだといった、割と理屈っぽく守備範囲みたいなことを書かれてますが(笑)、具体的に例えば、吉武先生が何回かこっちに来て議論をされたんですか、もしくは向こうに行って。

巽:僕自身はあまり参加していませんが、絹谷さんは研究室のチーフのような形でかなりやっておられたと思います。

−:例えば九州大学におられた青木先生なんかは、ものすごく怖がって、今でも京大に来るのが怖くて足がすくむみたいなこと(一同笑)を言われていて、そういう緊張関係があったようです。

巽:やっぱりやりたい調査、研究がいっぱいあって、まだまだ先にいっぱいやらないといけない、ということで西山先生はやっておられた。弟子にもやらせていましたが、自分としても問題意識をたくさん持っておられた。それをさっき言ったように設計という行為は、一応この辺でわかっている範囲の中で、形にしてみようという作業ですよね。研究的に言うと一度立ち止まる感じがあるじゃないですか。そうしても僕はよかったと思うけれども、先生はそう考えずにですね、これは僕の推測ですよ、もっと次の、もっとわからない、明らかにしないといけないことをやりたいと思われたんじゃないですか。それから、先生の『日本のすまい』などの本を見てると、日本の住宅の現在の姿というものを、できるだけ網羅的に収集して記録したいという、そういう意欲が強かったと思います。だから調査も研究のための調査というよりも、そういう現状を明らかにするための調査、そういうところに忙しくなり始めると、どこかの成果をまとめてこれを設計にして、という考え方で無くなったのかもしれません。それはいい面もあったし、悪い面もあったし、我々学生にとっては、実践的な方向についてもっとトレーニングする機会があった方がよかったと思いますけれど、そういう一つの京大の西山研究室のカラーだったというよりほかないですね。

 

西山研究室 

−:聞きたいことはたくさんあるんですが先に進めます助手になられる頃には後輩が入ってきてますよね。研究室の運営については、混然としていたんですか、役割分担みたいなものが既にできていたんですか。例えば絹谷先生がヘッド格でおられて…。

巽:絹谷さんは大学院生だったんです。それで結局、森田教授−西山助教授という体制が長く続いていまして、助手すら西山先生は自由に取らせてもらえなかった時代なんです。それで絹谷さんは大阪市大に行かれたんです。

−:今の話は三村先生の世代から、もう既にユニットがあってという話は聞いたことはあるんですけれども…。

巽:その頃はまだそんなふうに分かれていませんでした。

−:混然と設計やったり、調査やったり?そうすると設計やりながら調査にかり出されるということもあったんですか。

巽:それでね、例えばこんな笑い話があります。先生は自分で何でもやるんですよ。雇ってる人がいるのだから、その人にやらせればいいのに、わざとじゃないんだけどやらせないで自分でやってしまわれるタイプなんですよ。それであるとき、その女の子が「先生、どんなことをしたらいいのか指示して下さい」と言ったら、「忙しくてあなたのやることまで私は考えていられない」と言われたというのです。事務的なことは人にやらせて、自分は肝心なことだけやればいいでしょう。そうでなくて、とことん自分がやりたい。だからものすごく忙しくて、ものすごく精力的にやられたから、先生がやられた研究の後には何も残っていない、という感じもあるんです(笑)。先生のやったような分野でトレースしようという人はいないですよね。三村さんも最初はレクリエーションの研究をされてましたし、僕は生産問題とか経済問題をしましたし。「西山先生の後はもう草木も生えん」といって、みんな違う問題に取り組んだのです。それ僕はよかったと思ってるんです。組織という面から言うとね、西山先生は建築計画という分野について吉武先生に近いけれども、都市計画という分野については高山(英華)先生に近い。年齢的には高山先生と大体同じなんですよ。だから、高山研とも比べられたことがありました。高山先生と西山先生はまったく対照的だった。高山先生は組織を率いて、弟子を育ててピラミッドを形成して…。まあ都市計画という分野がそういう分野でもあるんだけれど、西山先生は弟子たちが先生を支えて(笑)、先生が勝手なことやってもね、それを支えていってるというふうなことを、東京の方からはそういうことを言う人がいましたけどね。それはタイプが全然違いますよね。

−:研究費はどういうふうになってるんですか。

巽:研究費は、「講座費」というのがあって、今もそうだと思うけれど「講座費」の中で共通にしたものを引いて、各講座に分けてましたけど、助教授でしたからあまり多くないですよね。それで、それをベースにして、まあ委託研究みたいなものもあったし、今はどうなってるか知らないけれど、その頃は委託研究や調査費がなかったらやっていけないような状況でした。そこへ公団ができたりなんかして、多少調査費が出てきたと、という状況ですよ。

−:それは調査の実費として西山先生が仕切られた、ということですか。

巽:そうですね、後半になってくると当然、行政の事務の担当者が居ましたから、事務的にはその人が取り仕切っていました。

 

建設省建築研究所

−:先に行きますが、建研(建築研究所)に行かれますよね。それはどうしてだったんですか。助手は一年くらいされたんですか。

巽:助手は1年やってません。昭和33年の3月に一応大学院の博士課程に在学し所定の単位を修得ということになったんです。今どういう扱いになってるか知らないけれど、学位論文を出して学位を取らないといけないんだけど、僕は博士課程の第1号ですし、3年で学位を取るという雰囲気ではなかった。旧制並と言うことになってましたから、誰もそんなことを考えなかった。だけど制度上はそうなると具合が悪いので、所定の年限在学し、所定の単位を修得ということで一応出たわけです。それで出たけれども就職の当てがなかったんです。それで西山先生森田先生なんかと交渉して下さったんです。それからその頃は、講座も少なかったから、他の先生も僕のことを知ってるし、お互いに博士課程に行く学生くらいのことは知ってるわけです。いろいろやりとりがあったと思うんですね。それで、5月からというので、1ヶ月遅れで助手になったんです。ところが一方、建研の第1研究部の部長が新海悟郎さんといって、この人が西山先生と同級生なんです。その下に2つ室があって、建設経済研究室と都市計画研究室ですが、建設経済研究室に宮崎元夫さんという人がおられて、宮崎さんが京大の出身でこの人が千葉大学の造園学科に移られるということで籍が空いたんです。それで入ることになったんです。

−:そうしますと、建研に入られて戻られるまでの話を伺いたいんですが、そこで古川(修)先生とかお会いになられて、学位論文も結局建研で書かれたんですね。想像するに充実してたんじゃないかと思うんですが。

巽:楽しかったですね。

−:建研にはどのくらいおられたのですか。

巽:7年ですね。1年間イギリスに留学していたのを入れて7年です。

 

建築経済に関する研究

−:城谷先生もおられたんですよね。その辺りのお話も伺いたいのですが。

巽:大学院では何を研究しようかというので西山先生のサジェスチョンもあって建築の経済的な側面、あるいは生産的な側面を研究しようとしていたんです。修士論文は「建築経済に関する予備的研究」というものでした。これは大分苦心しましたが、うまくいったとは思わないんですが、そういう研究をやっていたのでちょうど建研の建設経済研究室にぴたっと合ったわけです。僕としてラッキーだったと思うのは、大抵就職すると、そこの研究テーマに合わせてやらないといけないでしょう。また大学に行ったとしたらせいぜい若くして行くんだから助手くらいですよね。助手で行くと多分いろんな雑用もしないといけない。それからそこの先生の研究室の研究をしないといけない。そういうことから言うと、建研は僕の研究テーマにぴたっとして居たというのが一つ。それともう一つは建研は金はないんだけど割合平等でして、研究員になると各研究員に研究費を平等に割り振るんです。大学だったら教授、助教授、助手と階層別になっていてなかなか若い人は金を使いにくいかもしれないけど。

−:いや平等なところも増えていますよ。東工大は序列が無くなったと言いますし、東洋大なんかは助手まで完全に平等ですよ。

巽:そうですか(笑)。僕は研究所というのはもともと研究所の方針があって、研究テーマを部長が差配してそれを下の室長がブレークダウンしてそれを研究員が実施するんだと思っていたんです。イギリスはそうなんですよ。僕はイギリスに行って、非常に違うなあと感じたんですけど、ところが日本の建研は何やっても自由なんですよ。何やっても、というのは極端だけれども。その代わり自分で責任を持てっていうことですけどね。研究テーマに関してはあれこれ言われなくて自分でやりたいことをやる、あまり金はないけどやれる。今は大分状況は違いますけど、今は研究費が少なくなってプロジェクト研究が増えて、そのプロジェクト研究に乗らないとなかなかちゃんとした研究ができないようになっています。僕がいた頃はまだ牧歌的な時代でね(笑)、古川さんはああいう建設業の研究でスタートされて、城谷さんは最初は少し困っておられましたね。城谷さんはもともと住宅問題といわれる領域のことをやってこられたんです。研究に悩んでおられたように気がしましたけど、しかしその後プレハブ住宅が出てきたのでそういうところに研究をシフトしていかれたんです。そういう研究体制の中に僕が入った。僕は一番若手でしたから、非常に楽しかったですね。今ずっと思い返すのに、やはり建研時代の7年間が、その後、こちらに帰ってから現在に至るまでの行動様式や研究テーマに大きな影響を与えているなと思います。建研での研究というのもそうだけど、東京に行って生活したということ、それから建設省とか公団とかと非常にいろいろなコミュニケーションがありましたから、あの頃関西にずっと居たらどうなっていたのか、時々比較して考えて見るんです。僕は未だに東京といろんなことで縁が切れませんから、そういうことを考えると関西だけにいたのでは今のようにはなっていなかったと思います。今も東京の大学や行政の人達との人間関係があり、自分の研究テーマが建築や住宅の生産問題とか経済問題とか社会問題にあったことが今日の僕の活動につながっています。

 

京都大学へ帰る:38歳で教授に

−:その間こっちでは、第2学科ができて、今僕が居る地域生活空間計画講座というのができて、そこに絹谷先生が呼び戻されたんですよね、確か。それですぐに亡くなられて、西山先生がそちらに移られて、それで巽先生が戻ってこられたんですよね。上田篤先生も同じタイミングですか。

巽:そうです。僕の下におられたんです、上田さんは。上田さんは助教授で入ってこられて、僕も助教授で入ったんだけど、僕が先に教授になって、上田さんは僕の下になるような形で。同じ講座です。

−:そうなんですか。西山先生の方になるんじゃないんですか、上田先生は。

巽:西山先生の方じゃないですね。西山先生の下は三村(浩史)さんです。

−:それで、戻られてから後の話は。

巽:戻ったのは、昭和41年です。それで助教授で戻ったんですが、昭和43年に教授にしてもらいまして、今なら考えられないくらい若い、38歳ですか。36歳で帰ってきて、その前の1年間はイギリスに留学して、それで建研に戻ってきた途端にこちらに来ることになったんで建研が怒りまして(笑)、当然ですよね。それはもう平謝りに謝って。

−:先生は謝る必要はないんで、教室が謝るべきで。

巽:それで帰ってきたんですよ。僕にとって一番の大きな問題は、やはり建築計画講座ですから、建築計画講座にふさわしい研究、教育をやらないといけないということでした。それで、講義の方は何とかなるにしても、研究の方をどう切り替えるのか、そうかといって、大体20年近く経済・生産問題をやってきたんですが、それを全部捨ててしまって所謂在来的な計画の方に行くというふうには、ちょっとやりにくかったんでね、そういうことをしたら自分も一からやり直しになりますから。そうじゃなくて、何かこれまでやってきた研究の経歴が生きるような、そういう計画にしたいと思ったんです。僕の計画論というのは、まあ計画論なんていうほどのもんではないけども、これからの計画はデザインのための計画というよりは、人の生活との関係を、空間を考えるということだけではなくて、それをどう社会に実現していくかということが非常に重要になるんではないかと。そこでの建築家の役割とか、生産者の役割とか、学位論文は生産・供給に関する研究でしたから。その流れで新しい計画論というものを作りたいな、思っていたわけです。そこで、僕の研究室でやったのは、結果的にいうと一つはハウジングの問題、もう一つは建築企画です。ハウジングの問題も先ほど言いましたように西山先生が既にやっておられるんで、ああいうタイプのハウジング論はやってもしょうがない。それで、公共住宅供給の問題から「二段階供給方式」の研究へ展開した。建設省がこの研究に注目してくれて、「躯体−住戸分離方式」ということになりました。この新しい住宅供給方式は、実例としてはたくさん無いけれども、理論としては非常に広まってきました。今日では「スケルトン−インフィル・システム」といわれてます。これなんかは狭い意味での計画の考え方ではでてこなかったものです。それはこれまで建築の生産組織の問題だとか、建築家の役割だとか、公共建築とは何かとかいろんなことをやっていたことが反映されています。集合住宅の問題を扱うことになりましたが、集合住宅も郊外型の集合住宅から都市型の集合住宅になってきまして、そうすると都心居住とは何か、とか、都心居住における集合住宅のあり方は、とか、平面の社会の中で石塔のような高層住宅を建てて、入り口をオートロックで仕切っているような、こんな異様な居住形態はおかしいというような考え方が出てきたんです。

−:建研の時の、こっちの方では西山研に言われて、かつそういう中で設計とか生産とか経済とかについて研究して、建研の中で城谷さんととか関連のことをやってる人たちの中にいる、そこでまた巽先生の考えがどちらかの方に動いているはずなんですよね。それが今度は建築計画ということで変えられている。そこの変化についてほとんど説明がなかったのでその辺りのお話をお話いただけないかと。建築計画、建築経済の中の建築生産の定義とか、あるじゃないですか。

巽:僕は東京での建研時代は、建研の中にはもちろん古川さん、城谷さんはおられたけれども、それだけと言ってはなんだけど、もっとこの考え方を広めていこうと思うと建研の中だけではだめなんで、建築学会を舞台にしたんですよ。僕はこの建研時代というのは、建築学会を大いに舞台にしていろんな人と交流したような気がします。それで、今の建築経済委員会でいうと長老は、徳永さんとか、それから岩下さんとか、若手に土谷さんとか、そういう人達です。徳永さんにしても、岩下さんにしても、土谷さんにしても全て京大出身の人というのは居ないんです。そういう中で、別にどこの出身でも構わなくて、広いそういう世界の中で建築生産というものをね、どう良くしていこうかな、ということの議論をしました。その頃の僕は30代でしたから、ものすごくがんばったと思います。それでその結果、こっちに帰ってきた直後に、「建築生産論の提起」をまとめたのです。学会の研究委員会での議論の一つの成果なんです。あれが僕の拠り所になっています。

−:1968年、昭和43年ですか。

巽:昭和43年です。帰ってきた年です。

 

ハウジング論と建築企画:建築生産

−:建築計画で戻られて、それまでの、特に建研での経験がベースになって建築計画を見直した、見直すというか、巽研の建築計画論の展開があって、それの柱がハウジング論と(建築)企画論ですね。僕は、その頃からもう巽先生の研究室の動きをずっと見てましたけれど、東大で見ると例えば鈴木成文さんなんかは、住戸計画の袋小路に入り込んで、僕は先輩連中見ててわかるんだけど、住宅地計画に展開ができなかったんです。それは「領域論」って言うのでやろうとしたんだけれど、なかなか論理的にならなかった。一方で住戸内だけを考えているから「順応型」みたいなことしか思いつかない。スケルトンシステムをおいて、中を間仕切るくらいの発想しかでないわけです。京大見てみろ、と。もっと広い。だから内田研のデザインシステムと足してやったらどうだ、というくらいのことを生意気にも言ってたんです。計画が、住戸計画、プランニングの話に縮こまってる。計画というのはもっと広い。「広義の計画」と「狭義の計画」があると言い出して、それは建築生産全体の問題があるといった議論をしてたんです。(布野)

巽:建研の生産論の問題は、僕は「建築生産」という概念を創ってそれを押し出していこうとしたというのは僕の建研時代です。

−:その概念が広かったために、何でもそこに入っていけたということですね。

巽:それまでは、計画−設計−施工だったんですよね。それで、施工というのは学会で言っても「施工」という分野がありますね、「材料施工」という分野もあったしね。で、古川さんが一番力入れていたのは、悩んでおられたと思うんだけど、そういう施工に関わるんだけど、ものの施工の話じゃなくて、もっと人と組織でものを作るという、そのことを対象にされたわけですよね。これが建設業という形になったわけですよ。古川さんは建設業をやったけれど、僕はさらにもうちょっと広く、建築主、つまり、需要から始まって、計画、設計、それから生産してさらに管理すると、その辺まで全部含めて一連のものとして考えたらどうかと。まあ管理の所は、なんというか利用・管理の所は別かもしれないけれど、そこまでの間を、全体を「設計」という概念で捉えたらどうかということでした。建設業の所を古川さんはやっておられたけれど、僕はもうちょっと、前の方をやりたいなと考えていました。それで建築家の問題とか公共の役割とは何かとか、そういうことをやって京都に帰ってから『行政建築家の構想』という本を出しました。あれなんかはまさに、一体「営繕」の役割はなんなんだ、と。本当は重要な話なんだよね。ところが今まで営繕というのは役所の建物だけ、民間とは切り離して、それでまた民間の建物を需要とする人とはなんの関わりもなく予算が付いたり建てたりすると、こんなことやってはだめだ、ということでそうでない営繕のあり方を検討しました。それから本来「建築指導行政」といわれる確認行政というのは、もう圧倒的に9割以上は民間の住宅なんですよね。それが住宅行政の枠の中に入ってなくてですね、住宅行政といったら公共住宅を建てるだけの話でしょ。それで圧倒的に大きい、違法性にかなり富んでいるようなものも含めて、これを何とかしなきゃいかん、という発想だったんですね。だから古川さんはちょっと別だったかもしれないけれど、僕の生産概念はもうちょっと広がりを持ったものとして、生産論の定義もそういうつもりで書いたんです。従ってそれが現在の計画の方にいっても、そんなに違和感は感じてない。それからもう一つの動機は、僕は建研時代にイギリスに行ったでしょ。“Building Research Institute”というところに行ったんです。そこに行って、現場にしばしば調査にいったんですよ。そうしたらしばしばストライキが起こるんです。コンクリート工のストライキが起こるでしょ、それが終わると今度は煉瓦工のストライキが起こる。こんな風にストライキを次々にやっていたら、工事は全く進まなくなる。そこで、ストライキをやる職別組合をどううまく使いながら建物を造るかという技術として、建築生産の生産管理の技術というのは発達してるんだなということに気がついたんです。そこを日本はまあまあ何とかうまくやっていくようなルールでストライキを起こさずにやってきたわけですね。これのいい面もあるし悪い面もあるんだけど、こういう生産管理の技術というものを本当に確立するんだったら、そういう難しい状況の中でどう技術化するかというのが大事で、僕はイギリスでその頃そういうタイプの本も読んだし、それから建築経済の問題についても経済学者がいくつか本を出してましたから、ああいう現象というのは日本に無いわけですよね。その後の話とはちょっと別になるけれど、そういう経験があったものだから生産問題をそういう広く捉えた形でいたということです。

 

建築計画研究の終焉?

−:ちょっと話題が変わるんですけど、建築計画の研究はほとんど終わっている、つまり計画手法の研究というのは非常に矮小化した形になってるのが多すぎて、新しい展開がみられないというふうにみえるんですが。それはつまり、巽先生が今おっしゃったような生産とかあるいは設計とか、もう少し広い概念で「計画とは」という、攻めの姿勢が無くて全て後付になっている感じの研究が多い。その辺がもう少し広い視野でできないのか、このあたりに今の建築計画の問題があるんじゃないのか。これらの点について、巽先生の世代の人たちが見て、今の建築計画について意見があるんじゃないかと思うんですが。(古阪)

巽:僕は今の建築計画について不勉強なもんだから。しかし、研究は確かに、僕は吉武先生の研究は一時代を築いたと思うんですよね。それで非常にすばらしい研究成果を上げられたと思うんですが、その後の方が鈴木さんに象徴されるように、やはりさっき言われたのと同じような印象を持ってるんですよね。それでこの学校だ、病院だ、図書館だって言ってる時代はまずかなり前に終わってると思うんです。それから後いろんな研究をして相当皆さん苦しんでいるんでしょうね、そう思います。だから、そこでどういう切り口がいいのか僕にはよくわからないけれど、しかし建築学会は建築計画分野は非常に隆盛でしょう。発表の数は非常に多いでしょう(笑)。

−:発表の数は非常に多いかもしれない。一方で今の縦割りの施設研究がとっくに終わってると言うのもそうなんです。だけど、切り口という意味では例えば高齢者の問題とかハンディキャップドの問題とか、その立場に立って施設の問題、素朴な手法かもしれないけど、きちんと調査をしてそこから問題を出すという役割はずっとあると思います。(布野)

巽:僕が不満に思うのは、施設別はいいし、一つの大きな成果を上げたと思うけれどその施設をよく見てみると学校、図書館、病院と皆公共施設なんですよ。公共施設は皮肉に言うと比較的調査がしやすくて調査の成果が設計に反映されやすい。ところが、公共建築というのは、一体日本の建築の中でどのくらい割合を占めているかというと、量から言うとしれているわけです。圧倒的に多いのは民間の建築でしょう。ところが民間のオフィスビルとかホテルとかそういうタイプの研究はあまり無いんです。それはなぜかというと、研究しにくいから。それから、これはコマーシャルな建物だということでどことなく偏見があって、大学の先生がそんなコマーシャルなことについて首を突っ込むことについて強い抵抗があります。実際ホテルの研究をしてる人はホテルのビジネスをしてる人の関係者だったりして、その辺のホテルの関係はそうだし、オフィスビルはオフィスビルの研究で、所謂大学のプロパーな研究者じゃなくてもうちょっと実務畑のところでやってる研究なんですね。それを大学の研究者は大いにサポートして、それらの持っている、例えば不動産の評価の問題とか、経済的な問題とか、いろんな社会的なプラスマイナスあるけどいろんな問題を含んでいるのに、そういうところは実務の話だといって押しやってしまっているところにやはり、建築学者の怠慢があるような気がします。計画学というのはそこら辺まで切り込んでいけるようなものでなくてはいけません。公共建築のような割合穏やかな調査しやすい、調査結果が反映されやすい、成果が出てきやすい所ばかりやっていたんではだめなのです。

−:明確に戦略化されてまして、吉武スクールでは。意見として吉武先生がおっしゃっていたのは、要するに繰り返し建てられる可能性があって不特定多数が利用するという意味で、病院、図書館や学校、公共建築をやります、ということは宣言しています。2つありまして、1つはそうやって担当を決めて、イギリスならイギリスの情報を集めた方がいいだろう、専門家をつくった方がよかろうということ。もうひとつ、巽先生がおっしゃったように、成果が出ますよという意味では「学校」で学位論文3人いけるでしょうとか、それはもう明快に、吉武先生から直に聞いたわけではないけれど周辺は明快に言ってましたね。(布野)

巽:なるほど(笑)

 

大学紛争

−:本題戻りますけど、紛争時代の話にはどういうものがありますか。

巽:紛争時代というと、どういうことを言えばいいの。

−:どういう議論をされたかとか、当時の学生、あるいは教官がどういう風に対応していたかとか。ぼくは、その直後に入学した世代ですが。(古阪)

巽:僕は教室主任でしたから、教室主任という立場での苦労はあったし、それから教授としては教授会がもう開かれず、開くとやってきて潰されますから。バスに乗って、どこにいくかわからんけど、とにかくバスに乗ってくれと言って、バスに乗るとどこかにつれていってくれて会議を開く。ところが会場も跡をつけられていてそこでもまた潰されたり。そういうことがよくありました。また民青と新左翼との対立はよくありました。西山先生が部屋で随分とっちめられて、やられたということもあったし、僕が教室主任をしているときに僕の部屋をめちゃくちゃ潰されたけれど、これは今から思うとえげつない感じもあったけれども、西山先生がやられたようなやられ方ではなかった。ただ管理職やってましたからそういう意味でそういうことをされた。あまりそういう思想の面でやり合ったということは僕自身は無いですね。

−:それは組織対組織になるんで、建築の学生ではないですが、建築を学ぶとか、あるいは建築を志すという意味では、その範囲では共有できてるわけですよね。そうすると建築の学生対建築の教官という所での軋轢とか、そういうのはあまりないんですか。大学の教授会対新左翼の学生とかあるいは民青の学生とか、そんな構造だけなんですか。(古阪)

巽:そう思いますね。あまり、新しい建築学とはなにか、とかそういうふうにはなっていかなかったですね。

−:僕は紛争直後に入って、その時には新左翼であれ民青であれとにかく集ろうということにして、随分議論したんです。授業もない代わりに毎日議論したんです。その時にはそういう組織対組織の抗争とかあったんですが、建築の中の学生間という意味ではかなり共有できていたというふうに思います。だから一番紛争が激しかったころはどういう状況だったんだろうと今まで疑問だったんです。(古阪)

巽:建築の中でそういう議論があったと思えないですけどね。あまり愉快な話じゃなかったから、もう忘れてるね(一同笑)。何回もやってるから、何をその時議論したか…。

−:東大は荒れてるとき入試無くしてるからちょっと事情が違いますけど、吉武研、計画学的な話でいうと、学問的というと大げさですけど、やはり建築計画学批判でしたよ。吉武先生がいろいろ、例えばワンフロアー・ワンナースユニットからツーフロアー・ワンナースユニットですね、合理化案を東大病院に出したら、看護婦さんが労働強化だ、と言って後を追っかけ回されたりって、それが最初の授業なんですよ、2回生くらいの。吉武先生は偉かったなあ、と思いますけど、それを講義でしゃべって後はずっとディスカッションです。その時にいた助手の松川さんなんか、一緒に座り込んでで捕まったんですよ。彼女は看護婦さんの立場に立って、計画学は使う側の立場でやるじゃないかっていう話で座り込んで、それは教室は不問に付しましたけどね。。そういうかなり計画の基本についてずっと議論したんです。僕はかなりそれが下地になりました。面白かったし、原点になってます。(布野)

巽:僕はあまり西山先生がやられたのは中身を聞いてないんだけど、建築学と計画学の中身の話と言うよりもセクト間の代表として、それが強かったと思います。だから何言ってもだめなんですよ、そういうときに。

 

 楽しく気軽に議論したい

−:最後にお訊きしたいのは、今の、例えば京大の教室に対する期待とか、今の学生とか、そういった話について言うと、どうですか。

巽:この建築学科に、ここに来たのは何年かぶりですよね。あまり足を向けたくない感じですよね(笑)。今回はこういうことがあったから来たけれども。それから洞竜会も年に1回有るけれどあまり行きたくないですね。どう言ったらいいかわからないけれど問題があるな。楽しくないですよ、少なくとも。で、僕の立場から言えば、もうちょっと楽しく気軽に来れて、誰かと話しようかな、と。

−:もっと、来て下さいよ(笑)。

巽:それはともかく、そういう気分がある。ただ京大は、非常に重要な位置関係に学会の中ではあると思いますよね。講座の数も全体として言えば多いからそういう総合力を発揮して欲しいなと。そういう意味でこの企画は非常にいい。僕のいた頃も『建築学研究』を復活したらどうかという意見もありましたけれども実際にはそうならなかった。

−:まだ教室全体のメディアというふうにはなっていないんですけれど・・・。

巽:学術研究の発表という舞台は、建築学会もあるし、他にもたくさんあると思うんですよね。ジャーナリズムも随分ありますし。やっぱりそれとの関係で言うと、このジャーナルは、いわば建築学科の建築学の広場という感じがするんですね。ですからむしろ他の分野の人に自分たちの分野の研究を理解してもらおうという、一つのネットワークづくりのような気がするんです。そういうことにむしろ徹してね、無理矢理学術論文をあなたの分野で何でもいいから書いてくれ、というような頼み方じゃなくて、もうちょっと共通の広場に対して何が寄与できるかということでやってもらったらいいな、と思うのが一つですね。それからもう一つは、本を出すだけでなくて、年に1回講演会とかシンポジウムとか、そういうものをやってもらったらどうですかね。これは京大建築会でもいいし、あるいは洞竜会がやってもいいかもしれないけれども。そして一人だけじゃなくて、3人くらい立って、共通のテーマについて3人くらいの専門の違う人から、まあシンポジウムのようなもんですね、なんかそういうものをして、そして京大の卒業生だけでなく広く発信する。要するに京都の京大の建築学科を一つのコアにする、それこそ西日本のコアにするくらいのものにしていただいたら、これは生きてくると思うんです。それともう一つ、『traverse』はどうしてこんなに字が小さいんですか。字が小さくて、もうちょっとバリアフリーにしてもらわないと、芸術的な表現かもしれないけど。高齢化対策は、建築や住宅の分野では熱心ですけどね、そういいながら例えば今の字の問題もそうだけど、この頃カメラとかコンピュータとか全部小型化するでしょう。小型化すると部品の全てが小型化してね、例えばスイッチなんかも小型化する。カメラを買ったらね、カメラのフィルムを取り替えるためにはね、爪を立てて小さいのをこうカチッと開けないとね、開かないんですよ。これ、高齢者が一番不得意な操作ですよ。集中してどこかに力を入れるなどは非常につらいのです。だから極端なことを言えば、小さくなればなるほどカメラはもうボタンだらけ、スイッチだらけというのが明瞭なね、デザイン上はまずいかもしれないけど、そういうものでないと高齢者向きにならないよね。ところが現実は小さくなってしかも黒のボディにネズミ色の字が書いてあってしかも、英語で書いてある。これはもう最悪です。これはやっぱりデザインのポリシーがなってない。

−:いや、我々もだらしないんだけど、如何ともしがたいこともありまして。名誉教授室も無くなってしまったし。

巽:そうですよ。来てもね、居るところがないし、それから皆さんをディスターブしてもいかんなという気もあるし。

−:我々外に出てることが多いから。

巽:そうでしょう。居ないことも多いでしょう。だから、こういう機会を年に1回か2回作って頂いたら喜んでやってきます。

−:ちょうど時間です。またお呼びしますので。

巽:はいはい、また。

traverse 巽先生インタビュー 2002.3/8(金) @建築新館318号室

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...