このブログを検索

2026年2月3日火曜日

談話室という場所と『雑口罵乱』というメディアの意味 2018年3月, 『雑口罵乱』⑨(談話室,滋賀県立大学), 2018

 談話室という場所と『雑口罵乱』というメディアの意味 20183, 『雑口罵乱』⑨(談話室,滋賀県立大学), 2018 

談話室という場所と『雑口罵乱』というメディアの意味

-滋賀県立大学の10年-

布野修司

 

「滋賀県立大学の10年」について書いてくれ!というのが編集部の依頼である。

滋賀県立大学には、20054月から20153月まで、丁度10年お世話になった。個人としての10年は、最終講義(2015314日)に合わせて、川井操先生を中心に研究室の卒業生たちが編んでくれた『布野修司の世界―滋賀県立大学の10年―』に委ねたい。また、教師としての10年は、『環境科学部報』(2015年)に「最後のホットスポット―滋賀県立大学の10年」と題して書かせて頂いた。眼にできない諸君もいることだろうから、また、『雑口罵乱』への記録の意味もあると考え、重複を恐れず、滋賀県立大学の10年を振り返ってみたい。

 

フィールドに学べ―歩く、見る、聞く

とにかく歩いた。コルカタ、チェンナイ、マドゥライ、ナガパットナム、コロンボ、ゴール、スラバヤ、デリー、ラホール、ハバナ、サント・ドミンゴ・・・論文を書いた都市だけでも相当の数にのぼる。近年は、北京、西安、洛陽、開封、南京、杭州など中国の古都、そしてシナ海域の港市都市、福州、泉州、漳州、広州を歩いた。

「見知らぬ街を見慣れた街のように、見慣れた街を見知らぬ街のように」(W.ベンヤミン)街歩きのスローガンである。

 歩く、見る、聞く、そして考え、議論する。

 どういう家を、どういう空間を、どういう街を、つくればいいのか。

 実測する。記録する。それだけで意味がある。

 フィールドは楽しい。常に新たな発見がある。

 五感が研ぎ澄まされる、身体が鍛えられる。

 それにしても、怒鳴った、らしい。

学生諸君の回顧によると、怒鳴られた話のオンパレードだ。これほど印象深く記憶に刻み込まれているとは、苦笑するしかない。「ばぁーか!」というのが口癖で、関西ではかなり強烈に響くらしい。本人はアジッてるつもりなのだけれど、今日ではパワハラと言われてもしかたがないかも。眼の前で涙を零されたことも一度や二度ではない。これでも随分丸くなったと思うけれど、褒める方が難しい。教師としては未熟ということである。理不尽なことには怒る、我儘には怒る、やるべきことをやらないのは怒る、隠し事には怒る・・・ストレスを貯めないために、とにかく怒鳴った。

 

 書くことと、考えること

10年間、とにかく書いた。朝早く起きて書いた。書きながら考えた。書くことが、考えることが、楽しかった。『近代世界システムと植民都市』(布野修司(2005):日本都市計画学会賞受賞)以降、アジア都市三部作『曼荼羅都市・・・ヒンドゥ-都市の空間理念とその変容』『ムガル都市--イスラ-ム都市の空間変容』『大元都市-中国都城の理念と空間構造-』(京都大学学術出版会,20152月)の他にも『Stupa & Swastika』(Shuji Funo & M.M.Pant Kyoto University Press+Singapore National University Press 2007)『韓国近代都市景観の形成-日本人移住漁村と鉄道町-』(布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民(2010):日本建築学会著作賞受賞)『グリッド都市-スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生』(布野修司・ヒメネス・ベルデホ,ホアン・ラモン(2013):日本建築学会著作賞受賞)をまとめることができたし、半生記といっていい『建築少年たちの夢』『景観の作法-殺風景の日本-』も出版することができた。密かに、我ながら、すごい、と思う。とりわけ、調査をしながらの執筆は最高であった。現場で原稿を書くのである。この醍醐味は、何物にも代えがたい。

 

「論文」と「設計」

ただ、歩いて、聞いて、見ればいいというものではない。現場で発見したものをどう言葉にして、伝えるのかが問われる。そのためには、まとめる作業が不可欠だし、その作業を繰り返すことによって、眼も耳も鍛えられる。論文を書くのはそのためである。論文を書くことと設計をまとめることの間にはそんなに違いはない、というより同じだと言い続けてきた。ただ、論文のための論文は書くな、自己目的化するな、ということも言ってきた。「左手で論文を書きなさい」ということの真意である。

指導した学位請求論文は、以下の5本である。

 趙聖民『日本植民地期における韓国・鉄道町の形成とその変容に関する研究』2008

高橋俊也『京都における墓地空間の変容と都市周縁空間の環境整備手法に関する研究』2008

岡村智明(山根周研究室)『インドにおける歴史的港市の形成と変容に関する研究-カッチ地方のマンドヴィ、バドレシュワル、ムンドラを事例として-』2008

川井操『西安旧城・回族居住地区の空間構成とその変容に関する研究』2010

Chantanee Chiranthanut『メコン中流域におけるタイ・ラオ族の住居集落形態とその変容に関する研究』2010

趙冲『福建港市における住居類型の形成、変容に関する研究』2013

 

 基盤としての地域

着任したのは滋賀県立大学が独立法人化1年前であり、前年20041226日、スリランカのゴールでインド洋大津波に遭遇、危うく命拾いしたこと、425日の福知山線の脱線事故が未だ記憶に生々しい。翌年、「もったいない」をスローガンに嘉田知事が誕生、28年の県政が布野修司の滋賀県立大学の10年間とほぼ重なっている。

着任すると、まずお手伝いしたのが、近江環人地域再生学座の立ち上げである(平成18年度文部科学省が新たに創設した「地域再生人材創出拠点の形成プログラム」へ応募))。奥貫隆先生を中心に進められてきた、いわゆる現代GP「スチューデントファーム「近江楽座」-まち・むら・くらしふれあい工舎-」の後継プログラムが必要とされ、手伝うようにということであった。

文部科学省のねらいは明らかに地域産業を担う人材育成にあり、どういう人材育成にターゲットを絞るかという議論から始めたのであるがまとまらない。結局、ご承知のように「地域診断からまちづくりへの展開をオルガナイズできるコミュニティ・アーキテクト(近江環人)」の育成ということになったのだけれど、2000年から京都で続けてきた「京都コミュニティ・デザインリーグCDL」の活動(『京都げのむ』1号~6号)が多少のヒントになったのではないか、と思う。この京都CDLの活動には、中川君、川井君など滋賀県立大学の学生諸君も参加してきた。そういう縁もあった。

この「地域再生人材創出拠点の形成プログラム」の流れはCOC(センター・オブ・コミュニティ)プログラムにつながっていく。苦い思い出は、後継の『地域学副専攻化による学士力向上プログラム』が事業仕分けにあって打ち切りになったことである。

滋賀県立大学の特別研究は、「琵琶湖自然共生流域圏の構築 ―宇曽川流域圏モデル」(20072008年)と「東アジアにおける歴史的城郭都市の起源・形成・変容・再生に関する総合的比較研究-近江近世城下町の東アジアにおける歴史的意義と位置づけの解明-」(2007年)に参加した。小さな大学ではあるけれど、あるいは小さな大学であるからこそ、分野を超えた研究交流は貴重な経験であった。ただ、全てが大満足であったということではない。「アジア・エコハウス・モデルの研究開発(設計計画)(JST「地域に根ざした脱温暖化・環境共生社会」)」といったプロジェクトには何度か応募したけれど力不足であった。

滋賀県および各自治体の仕事についても微力ながらお手伝いをさせて頂いてきた。特に、最近では、守山市の守山中学校、浮気保育園、市立図書館そして県の新生美術館の設計者選定について公開ヒヤリング方式を導入、一定の評価を頂いたと考えている。

 

大学の変貌

後半の5年間は、環境科学部長(20102011年)、副学長・理事(研究・評価担当)(20122014年)として管理職を務めた。振り返って、大学の変貌は著しい。26歳で東京大学の助手に採用されて以降、東京大学、東洋大学、京都大学、そして滋賀県立大学と39年間の大学生活を振り返って、大学が大学らしくなくなっていく過程を、身をもって体験してきたような気がしないでもない。大学に入学した年、二ケ月もたたないうちに学生はストライキ、大学はロックアウトされた。以降、一年以上授業はなかった。大学とは自ら学ぶところである、という思いは学生の頃から一貫する。

大学の知の退廃を告発したのが1960年代末の全共闘運動であったと思うが、その告発に共感したものが、その後どれだけのことがなしえたのか忸怩たる思いが残る。愚痴を零してもはじまらないけれど、大学に籍を置いてきたものの責任は大きいと思う。教え子たちが既に方々の大学で教授になり、後進を育てつつある。特任教授としてもう少し大学に関わることになるが、新たな職場を拠点に、しばらくは、学生たちの後方支援ができればと思う。

 

談話室と『雑口罵乱』

談話室には、第19回(2005年)の鈴木喜一(故人)さんから第57回の市川紘司さんまでほぼ出席した。出席できなかったのは、第29回の芦澤竜一さんと第39回の堀部安嗣さんの時だけである。それだけ大事にしたし、楽しんできた。

創刊号に「DANWASHITSUへの期待」と題して書いたことはいまも変わらない。その意義を直感し、『雑口罵乱』を出すことを条件に、講師を呼ぶ旅費補助の措置をとったのである。

『雑口罵乱』には創刊号から求められるままに何事か綴ってきた。

01DANWASHITSUへの期待」

02「未来を創る、夢をつくる」

03「初心に還る」

04「「建築少年」たちについてのモメモランダム」

05「すべては建築である 建築を学ぶ全てのひとたちへBig Game Architecting

06「最後の『建築雑誌』を目指してー建築メディアの死と再生」

07「建築家の生き延びる道!?」

08「あらゆる賞はコネクションである」

毎回与えられたテーマ(というよりキーワード)について、議論することの大事さを綴ってきたつもりである。

談話室は、単なる「ゼミ屋」でも「呼び屋」でもない。今、建築をめぐって、都市をめぐって何が問題でどうすればいいのかを考え、議論する場である。誰を呼ぶのかを含めて企画をして、あらゆる手配をし、議論した中身を記録し、それを出版し、売る・・・この全てのプロセスに参加することが基本である。講義に出席して単位をもらうことでは全く得られない貴重な体験の場がそこにある。

談話室と『雑口罵乱』のユニークな活動については日本全国の建築系大学に良く知られており、その評価も高い。そのますます活発な活動を期待したい。

スケジュールが合えば、時々は参加したいと思う。

 

2026年2月2日月曜日

建築家の生き延びる道!?, 『雑口罵乱』⑦(談話室,滋賀県立大学), 2012

建築家の生き延びる道!?, 『雑口罵乱』⑦(談話室,滋賀県立大学), 2012 

初心に還る

布野修司

 

 

 昨年(2008年)の1月号から『建築ジャーナル』誌に「メディアの中の建築家たち」と題して日本の現代建築家を取り上げて連載している。1月~3月号は前書きの総論のような形で、4月号から3ヶ月、安藤忠雄、続く7月~9月号を藤森照信、以降、伊東豊雄、山本理顕、石山修武、渡辺豊和、象設計集団と続けて、原広司論(20101月~3月号)を入稿したところである。

2008年の4月号は「ボクサーから東大教授へ 安藤忠雄の軌跡」というタイトルであったが、連休の前だったか後だったか、いきなり安藤さんが電話してきた。どうも気に入らなかったらしい。

聞くと、3箇所誤りがあるという。さしさわりがあるので書かないが、ひとつはボクサー時代の戦績が違うという。「ボクサー時のリングネームは「グレート安藤」、フェザー級、戦歴はプロ戦績通算831分―231337分け、という説もある。」と書いたのであるが、そんな試合数できるわけがないじゃないか!という。しかし、Wikipediaに書いてあるじゃないか、と言い返すと、あれが間違っているのだ!とのこと。単行本にするとき訂正します、で一件落着、と思いきや、「それはそうと、今度お前の大学に話しに行ってやるよ。この間、東大の入学式で1万人の前でしゃべったけど、評判よかったよ。建築といわず、新入生にしゃべるよ」とおっしゃる。

「ええ!」と絶句。

あとは省略するけれど、学長を引っ張り出すやらなんやら800人ぐらいは集まった。その様子を石野君が書いている。DVDにとってあるけれど、そのまま使うことはまかりならん、とのこと。安藤節は生の毒舌がいい。

西沢立衛さんとは初めてであったが、スライド・レクチャーを聞いて、そのセンスに感心。いきなり、「西沢さんは理論家肌じゃないのがいいね」と言って怒らせてしまった。「僕ほど理論家はいない」のだとか。なんでも修士論文は「設計資料集成」についてなんだそうで、建築計画学の野村東太先生とか小滝一正先生に習ったとか。吉武研究室出身の僕とは義兄弟ということになる。

いつか西沢論をという気になったけれど、先の連載は、僕の年齢以上と決めていて、隈研吾、妹島和世以下の世代は、第二ラウンドに書けたらいいと思う。

芦澤さんの会は、海外で出席できなかったけれど、一昨年卒業設計の講評会に来てもらって知っている。とにかく元気がいい。昨年来てもらった、ヨコミゾマコト、藤本荘介、佐藤淳も含めて、連載でとりあげる候補である。

飯田さんとは、学会賞作品賞の審査委員会で一緒だったけれど、ほぼ同い年で、初めて全体の仕事を見せてもらった。手堅い。横浜国大はこれであと北村恒さん呼ばなくちゃ。

重村さんとは学生時代からの付き合い。その全仕事をあらためてみせてもらった。生命循環都市の方向性は真に共鳴できる。

談話室は、学生たちのためだけではない。教師にとっても、自分の仕事、自分の歴史を振り返る機会でもある。いつも刺激をもらえる。建築を志した頃の初心を思い出さしてくれる。

今年、ついにというか、なんというか、還暦を迎えた。来年からは赤ん坊に還ったつもりで頑張ろうかな。


2026年2月1日日曜日

最後の『建築雑誌』を目指してー建築メディアの死と再生, 『雑口罵乱』⑥(談話室,滋賀県立大学), 2010

 最後の『建築雑誌』を目指してー建築メディアの死と再生, 『雑口罵乱』⑥(談話室,滋賀県立大学), 2010

最後の『建築雑誌』を目指してー建築メディアの死と再生

 

                      布野修司

 

 「建築メディアのあり方について」というのが編集部の依頼である。『fin』から『traverse』まで、ガリ版雑誌から三万数千部の読者がいる日本建築学会の『建築雑誌』まで、振り返ってみると、随分と「雑誌」の発行に関わってきた。何を考えて「雑誌」メディアに拘って来たのか、自らの軌跡を振り返ってみたい。『雑口罵乱』という建築メディアについて考える材料は提供できると思う。そもそも「批評としての建築」あるいは「エディターとしての建築家」をめざしてきたような気がしないでもない。

 

 『fin』―終わりの始まり―

出雲(島根県)から上京し,大学に入学したのは一九六八年四月のことである。『建築少年たちの夢』(彰国社、2011)に書いたけれど、その年,パリで五月革命が起こり,六月,日大に続いて東大も全学ストライキに突入,一〇・二一国際反戦デーの示威行動に「新宿騒乱罪」が適用,・・・そして,翌年一月の安田講堂陥落へ,激動の一年であった。その後も全共闘運動が日本中に広がりをみせる騒然とした中で学生時代を過ごした。

しかし、学生生活が困難を極めたということは全くない。入学して二か月もしないうちに全学ストライキになったー学生がストライキすることがあるのだー。時間を持て余して、毎日映画をみて過ごした。年間200本以上、それが大学院時代にかけて数年続いたと思う。いつのまにか一端(いっぱし)の「映画少年」になっていた。

渋谷、新宿、池袋、時として銀座にも、名画座、文芸座といった小さな映画館があって、150円とか200円だった。テレビが寮(目黒区駒場の民間の寮で、向かいの部屋には、今や著名な論客と知られる佐伯啓思がいた)になかったということもあるけれど、映画に力があった時代だ。DVDを借りてきて好きな映画をみる、ダウンロードした映画を電車の中で見るなどという時代など夢にも思いもしない。土曜日になるとオールナイトでヤクザ映画を一気に5本見る。高倉健さん、菅原文太がヒーローの時代で、山場が来ると歓声が上がって拍手が映画館を包んだ。夜が明けて公園で寝ていると決まって職務質問を受ける、そんな日々だった。

魅かれたのは、J.L.ゴダール(『勝手にしやがれ』『女は女である』『気狂いピエロ』『アルファヴィル』・・・)に大島渚(『無理心中日本の夏』『絞死刑』『 帰って来たヨッパライ』『新宿泥棒日記』『少年』『東京戦争戦後秘話』『儀式』・・・)だ。もちろん、ヌーヴェルヴァーグと呼ばれた欧米の監督たちや日本のアヴァンギャルドと呼ばれた監督たちの作品も軒並み見た。映画館を梯子したのである。

自然に映画を見てあれこれ議論するようになり、『映画批評』という雑誌を手にするようになった。こむつかしい議論になんとなく魅かれ、ついに趣味が昂じて『fin』というガリ版刷りの雑誌(というにはあまりにも貧相なリーフレット)を下宿(杉並区下高井戸の賄付の間借である。そういう時代もあったのだ)の友人と一緒に出した。現物は、ビラやノートやろくでもないものどもと一緒に段ボール箱に詰めて何処かに置いてあると思うけど、誰に配ったのか覚えていない。

僕の「雑誌」への拘りは『fin』に始まる。

 

TAU』・・・雛芥子の頃

建築学科に進学することになったーその理由についてはどっかに書いた気もするけれど、ここでは省略しようー。しかし、教室で建築を勉強した記憶はない。図面を引いたり、測量したり、現場で学んだことのほうが多いと思う。「竹の会所」や「木興プロジェクト」の諸君が被災地支援に出かけて行って、教室で学ぶ何倍ものことを学ぶのと一緒である。

当時,僕ら(杉本俊多,千葉政継,戸部栄一,村松克己,久米大二郎,三宅理一,川端直志,布野修司・・・)は「雛芥子」という集団名を名乗って活動していたのであるが,三里塚の鉄塔のガセットプレートの原寸図を描いたり,民家を移築したり,塹壕の測量をしたり,援農(農作業の手伝い)をしたりする一方で,「ドイツ表現主義映画」[1]の映画会を連続開催したり,「黒テント」[2]の芝居のプロデュースをしたり・・・僕の学生時代も結構忙しかった。

ドイツ表現主義の映画会をしたり、芝居のプロデュースをしたりしたのは明らかに「映画少年」の関心そのままである。映画を見まくったのが僕の何かを変えたように思う。いつのまにか「演劇少年」にもなっていた。布野修司建築論集Ⅱは『都市と劇場』(彰国社、1998年)と題する。その中に収めた「祭師たちの都市戦略」「燃え上がる都市―未来派の叛乱」という原稿は『同時代演劇』という雑誌に書いたものである。その後も劇場をめぐっては随分書いてきたー建築史は美術史の枠の中で書かれるのであるが、演劇史の範疇としても書かれるべきであるというのが僕の持論となったー。この『同時代演劇』の版型は、『群居』もそうで、『雑口罵乱』とも同じであるが、僕の雑誌メディアの原型でもある。

この頃の「雛芥子」の活動を記したのが,故坂手建剛編集長が創刊した『TAU[3](商店建築社)である(「<柩欠季>のための覚書」一九七三年一月)。続けて,「虚構・劇・都市」「ベルリン・広場・モンタージュ」といった原稿[4]を書いたのが僕の建築ジャーナリズム・デビュー?である。そこで,僕らは「遺留品研究所」(真壁智治,大竹誠,・・)「コンペイトウ」(井出建,松山巌,元倉真琴・・・)など兄貴分と出会った。

メディアとは、人と人を媒介する場である。

 

『建築文化』「近代の呪縛に放て」シリーズ

学生時代に,「近代の呪縛に放て」という『建築文化』の連載シリーズ(一九七五~七七年)のコア・スタッフに招かれたのが運命であった。伊東豊雄をトップに,長尾重武[5],富永譲[6],北原理雄[7],八束はじめ[8],布野修司というのがメンバーで,僕は最年少であった。「近代の呪縛に放て」というのは田尻裕彦[9]編集長の命名であったが,近代建築批判の課題は広く共有されていたのだと思う。この企画で,渡辺豊和,毛綱モン太(毅曠),大野勝彦,石山修武,安藤忠雄といった建築家たちに次々出会った。この場で考えたことは,建築を考える原点であり続けている。「近代の呪縛」をどう解き放つか,近代建築をどう批判的に乗り越えるかがシリーズのテーマであったが,まずは直近の過去,一九六〇年代の建築のあり方をどう乗り越えるか,これが問題だ,と僕は思った。そして建築の一九六〇年代を問うことが僕の出発点となった。連載の最後に「六〇年代の喪歌」(『建築文化』,一九七七年一〇月)という文章を書き,そして,この文章を冒頭に置いて,『戦後建築論ノート』(相模書房)[10]を書いた。『建築文化』誌は既にないが、このころの『建築文化』は、真摯な議論の場を用意するという意味で、実に生き生きとしたメディアであったと思う。

『雑口罵乱』も、次々と若手建築家を招待して議論を展開してきている。その議論の中に、未来の建築を考える無数のヒントがあることは間違いない。断言していい。

 

『同時代建築通信』・・・小さなメディアの必要

「近代の呪縛に放て」シリーズに参加するのと並行して、宮内康さん、堀川勉先生とともに「同時代建築研究会」(昭和建築研究会)を組織することになる。

宮内康(本名は、康夫)は言うなればペンネームである。何故か、本人自ら「康(こう)」の名を好み、みんなも「康さん、康さん」と呼んだ。神戸で生まれ、長野県の飯田で育った。高校の一年先輩に、建築家、原広司がいる。康さんについては、『怨恨のユートピア―宮内康の居る場所』(「怨恨のユートピア」刊行委員会、れんが書房新社、2000年)に譲りたい。

同時代建築研究会が出したのが『同時代建築通信』である。第一号は1983323日付である。ワープロ雑誌であるが、ロゴは、松山巖さんによる。第一号の冒頭に宮内康は「自前のメディアについて」と題して以下のように書く。

「私たち研究会の活動の主旨は、テーマを狭く建築の領域に限らず、出来るだけ多くの領域に、さしあたって「建築」を足がかりとして広げ、そうすることによって、私達の想像力をより豊かなものにし、思考をより予見的なものにしようとすることにある。テーマを、想像力を思い切って広げよう。・・・・」

建築メディアについて、は考えているのであるが、「建築」が問題なのではない、という認識がここにある。さしあたって「建築」を足がかりにして、・・・「何をするのか」というのは忘れないでほしいと思う。何をやっていくにせよ、何で「建築」なの!?ということは常に問われることになる。『雑口罵乱』がすごいのは、雑口罵乱になんでも議論しようということだと思う。

もうひとつ、議論したことを記録する、というのが原点である、ということがある。同時代建築研究会は、『同時代通信』をもとに二冊の本『悲喜劇・1930年代の建築と文化』(同時代研究会編,現代企画室, 1981年)と『現代建築-ポスト・モダニズムを超えて』(宮内康・布野修司編,新曜社,1993年)を出した。活字にするという行為の中で議論が深まるのである。

「同時代建築研究会」の活動と並行して、東洋大学に「鯨の会」が結成された。研究室の卒業生を含めた議論の場である「鯨の会」は、「談話室」と同じといっていいが、もう少し開かれていたかもしれない。その活動を記録するメディアとして創刊されたのが『鯨通信』である。

その創刊号に次のように書いている。

「・・・研究室も10年になると、初期の頃の諸君は働き盛りである。腕に自信もできて、資格もとり、独立しようというつわものも出てくる。実際、研究室のOBの中にそうした人達が次第に増えてきた。また、独立しなくても転職するケースはかなり多い。僕が「鯨の会」のような会が・・・どんな会に育っていくのか今のところ事務局にきいても分からないのだが・・・必要だと思ったのはOBの独立や転職の相談、あるいは学生のリクルートの相談に一人一人対応するのではかなわないからである。それに、僕自身や大学に集まる情報ではたかが知れている。もっと、OBどうしで相互交流すればいいんじゃないか、・・・」

やはり場の必要性があってのメディアなのである。

小さなメディアは必要である。しかし、ツィッターの世界に記録性と議論を深める契機があるかどうか、いささか疑問に思っている。ずいぶん、テープ起こしをしたけれど、ものすごく勉強になる。『雑口罵乱』の編集そのもの、議論を紙に定着する過程に、そしてそれを読者に届ける過程に大きな意義がある。

 

『群居』―ハウジング計画ユニオンHPU

 『戦後建築論ノート』を書いた後、ハウジング計画ユニオンHPUというグループに参加することになった。そして『群居』という雑誌を創刊する。メンバーは、大野勝彦を中心に石山修武、渡辺豊和、布野修司が設立し、野辺公一、高島直之、松村秀一らが加わった。『群居』は、198212月に『創刊準備号』、翌年4月に創刊号「特集・商品としての住居」を出して、以降18年間、同人たちの時代の経験と思索を書き留めた。200010月に50号「特集・21世紀の遺言」、そして12月号に『終刊特別号』を出して終止符を打った。

僕は編集長であったけれど、全てをリードしたのは「セキスイハイムM1」で知られる大野勝彦である。確認しておくべきは、『群居』はメディアであって、あくまで「実践」が先であった。HPU(ハウジング計画ユニオン)の結成が先であって、『群居』の創刊が後なのである。

『群居』の初心は公式には創刊宣言[11]に示されている。そして、共有されていたのは小野次郎の「住み手の要求の自己解体をこそー住宅の街路化への提案ー」[1]である。また、石山修武+大野勝彦+布野修司+渡辺豊和の座談会「箱・家・群居―戦後家体験と建築家―」(創刊準備号)「消費社会の神話と住イメージの商品化」(創刊号)「セルフビルドの可能性と限界」(第二号、1983年)「職人幻想と建築家」(第三号、1983年)に生の形で示されている。

建築家の仕事、表現の場が住宅の設計という小さい回路に縮小していくなかで、住宅の生産・流通・消費の全過程を対象化し、具体的に活動を展開すべきだ、というのが共有された方針であった。戦後まもなく、住宅の問題は全ての建築家にとって大きなテーマであった。その初心に帰って、戦後の日本の建築家の歩みを総括したいという思いがあった。

『群居』が取り上げ、議論し、記録したテーマは多岐にわたる。住宅=まちづくりを主テーマに、住宅メーカー、職人、ビルダー、ディベロッパー、プランナー、建築家のそれぞれのアプローチを繰り返し取り上げるなかで、新たな職能のイメージとして浮かび上がったのが、C.アレグザンダーの「アーキテクト・ビルダー」である。

『雑口罵乱』に集う諸君が何を目指すのか、それが問題である。

20年にも及ぶ『群居』の刊行において、実に幅広いテーマを扱った[12]。しかし、建築の表現の問題については充分扱うことができなかったと思う。そういう思いを強く持ち続けていた渡辺豊和さんに引き摺られるように「建築フォーラム(AF)」を結成して、『建築思潮』[13]を創刊する。これは、僕が関西に移住した時期に重なり、手伝った。編集の神様、平良敬一[14]先生の「建築思潮研究所」に出かけて、「建築思潮」という名称の使用を許可してもらったのを思い出す。『建築思潮』には、今日活躍する多くの学生たちの参加を得た。バックナンバーを探してみてみて欲しい。

Traverse

 『群居』の終刊を決めて、もの足りなく思ったのだと思う。京都大学の先生たちと『traverse―新建築学研究』を創刊した。アニュアルでこれは現在も続いている。13号の原稿を送ったばかりである。創刊の言葉は以下のようである。

 「京都大学「建築系教室」を中心とするグループを母胎として、その多彩な活動を支え、表現するメディアとして『Traverse---新建築学研究』を創刊します。『新建築学研究』を唱うのは、言うまでもなく、かつての『建築学研究』の伝統を引き継ぎたいという思いを込めてのことです。『建築学研究』は、1927(昭和2)年5月に創刊され、形態を変えながらも1944(昭和19)年の129号まで出されます。そして、戦後1946(昭和21)年に復刊されて、1950(昭和25)年156号まで発行されます。数々の優れた論考が掲載され、京都大学建築学教室の草創期より、その核として、極めて大きな役割を担ってきました。この新しいメディアも、21世紀へ向けて、京都大学「建築系教室」の活動の核となることが期待されます。

 今日、研究成果の発表の場は、『建築学研究』のころとは比較にならない程多く、新たなメディアの創刊は屋上屋を重ねるように思えるかも知れません。しかし、発表の場が分散化することによって、京都大学「建築系教室」の全体像が見失われてきているという危惧も増しつつあります。創刊の動機のひとつには、お互いの仕事を相互にコミュニケートし、相互に批判し会う場を京都大学「建築系教室」としてもちたいという願いがあります。

 もうひとつの動機として、この間の国際化のめまぐるしい進展があります。外国からの留学生も増え、諸外国の大学、研究所から学術交流を求められる機会も増えつつあります。京都大学「建築系教室」の活動成果を全体として表現することが必要とされます。自由に相互批判できる場をもち、世界へ発信するメディアをもつことによって、広く開かれた場での評価を高めることへつながると思います。

 今日のメディアを支える技術の発展にはめざましいものがあります。メディアの形態も様々な形を模索したいと考えます。学生たち、若い世代にとっても魅力的な場でありたいと考えます。いずれにせよ、どこからアクセスしても京都大学の「建築系教室」の仕事がくっきり浮かび上がる必要があります。

 「建築学の研究範囲は、総ての学術の進歩に伴ひ、極めて広汎なものとなって来た。その研究題目も微にいり細に渉って、益々広く深くなってきた。」と既に『建築学研究』の創刊の言葉(武田五一)にもあります。領域の拡大と専門分化はさらに進展しているのが今日の状況です。問題は、建築をめぐる大きな議論をする場が失われつつあることです。この新しいメディアは、予め限定された専門分野に囚われず、自由で横断的な議論の場を目指したいと思います。「Traverse」という命名にその素朴な初心が示されています。          2000年4月1日」

 まさに、「traverseという命名にその素朴な初心が示されています」である。『同時代建築通信』についても触れたが、自由で横断的であることが大事だと思う。

 そして、持続性も極めて重要である。これは極めて難しい。『群居』が終刊を余儀なくされたのも、経済的問題を含めた様々な要因が絡んでいる。『traverse』は、12号以降、完全に若い学生諸君の編集体制に移行しつつある。持続性を考えてのことである。

『京都げのむ』―京都コミュニティ・デザイン・リーグ

 

 

 

建築雑誌の終焉?

 宮内嘉久さんが亡くなったのは昨年1213日のことである。その追悼の会が先だって行われた(626日)。「水脈(みお)の会」[2](入之内瑛、橋本功、藤原千春、永田祐三、小柳津醇、有働伸也、・・・)の呼びかけで、大谷幸夫、内田祥哉などの大先生をはじめとする建築家、平良敬一、田尻裕彦などの編集者、写真家などが集った。

宮内嘉久さんと言えば、一時期顧問を務められていた本誌とも縁が深い。新日本建築家連盟(NAU)の編集部から『新建築』へ、『新建築』問題で退職自立(宮内嘉久編集事務所)、『建築年鑑』、建築ジャーナリズム研究所閉鎖、個人誌『廃墟から』、『風声』『燎火』・・・戦後建築ジャーナリズムをリードしてきた第一人者である。『廃墟から』『少数派建築論』『建築ジャーナリズム無頼』など著書も多い。

宮内嘉久さんとの苦い思い出については、本連載13、山本理顕の節(「制度」と戦う建築家)で触れた。『風声』『燎』を引き継ぐ新たな建築メディア(『地平線』(仮称))を出版する編集委員会で僕とは意見が合わず、決裂した経緯がある。その後、組織されたのが「水脈の会」である。宮内嘉久さんとは、「宮内嘉久著『前川國男 賊軍の将』合評会」(2006729日)[3]が最後になった。

宮内嘉久さんの建築ジャーナリストとしての軌跡は、「自立メディア」を標榜しながら、同人誌へ、個人誌へ閉じていく過程であった。「開かれたメディア」を目指すべきだ、と「自立メディア幻想の彼方へ」[4]という文章を書いたのは、宮内嘉久さんと決裂した直後である。宮内嘉久さんは基本的に編集者というより、建築の根源的あり方に拘る批評家の資質を持ち続けた人である。

『群居』を創刊することになった背景にこの決裂があったことも既に書いたが、その『群居』も50号出し続けて、力尽きた(20001231日)[5]。僕が『同時代建築通信』(同時代建築研究会)『群居』『建築思潮』(1992-97)『Traverse』(2000年創刊―、201011号-)などメディアに拘わり続けてきたのは、おそらく「建築」を断念したこと、批評家あるいは研究者として生きようとしたー生きることを選び取らされたーことと関係があると思う。『建築雑誌』の編集に携われたこと[6]はラッキーであった。

しかし、それにしても「建築雑誌」の時代は確実に終焉へ向けて衰退して、逝きつつあるようにみえる。『都市住宅』の廃刊は198612月である。『SD200012月、『建築文化』200412月、『室内』20063月と廃刊が続いた。19945月に創刊された『10+1(INAX)20083月に廃刊となった[7]。本誌のような雑誌は実に貴重な稀有の存在である。

戦後、『国際建築』『新建築』を出発点として『建築知識』『SD』『都市住宅』『住宅建築』『店舗と建築』『造景』などを次々に創刊してきた名編集者平良さんの『住宅建築』もついに隔月刊に追い込まれた。「建築ジャーナルが次々に廃刊、建築出版物は「コーヒーテーブル・ブック」あるいは「ヴィジュアルなカタログ」に姿を変えた」(磯崎新)のは日本も海外も同じである。

宮内嘉久さんの追悼の会で最初に挨拶に立ったのは平良敬一さんであった。何人かの大先達のスピーチがあって、こともあろうに最後に予告なく僕にマイクを向けられてうろたえた。その時のことを内藤廣がブログに書いている。

「先週の土曜日、千駄ヶ谷で行われた「宮内嘉久を偲ぶ会」に行って来ました。60年代後半、建築界は全共闘運動に刺激され、又、大阪万博についての是非をめぐって色々な意見が対立し合い、ある意味、活気のある時代でした。・・・今回参加してみて皆さんお元気です。80代~60代までが多かったのですが。最後に若手代表として布野修司さんが指名され、あいさつの中で、このままで終わらないで、紙媒体のメディアで発言していきたいと宣言して、終了しました。」

僕が若手代表というのだからそれ自体何事かを物語っているが、後日、平良さんと「最後の建築雑誌」の創刊をめぐって会った。声をかけたのは、松山巌、宇野求、中谷礼仁、青井哲人である。今のところどうなるか僕自身もわからない。

 

                          (次号へ続く)

 



[1]

[2] 一九六八年に,六月劇場津野海太郎他),自由劇場佐藤信他),発見の会瓜生良介他)が共同で「演劇センター六八」を創設したのが前身。一九七〇年から黒テントによる移動演劇をはじめ,名称を「演劇センター六八/七〇」と改称。唐十郎率いる「状況劇場」の「赤テント」に対して,「黒テント」と呼ばれるようになった。一九七一年「六八/七一黒色テント」と改称。寺山修司の「天井桟敷」などとともに,六〇年代後半~七〇年代前半の「アングラ」(アンダーグラウンド)演劇ブームを代表する存在となった。現在は「劇団黒テント」が正式名称。「雛芥子」は,安田講堂前での黒テント講演「二月とキネマ」(主演:緑魔子,一九七二年五月)をプロデュースした。

[3] Trans Architecture & Urban.商店建築社が発行した建築月刊雑誌だが,四号で廃刊。近代建築の反省に伴って勃発した試行を過剰に展開した。創刊号に掲載の丹下批判「丹下健三と庁舎建築:レトリックの分析」は,七〇年代における丹下評価の先駆けとなった。(中村文美)

[4] 『都市と劇場・・・都市計画という幻想』(布野修司建築論集Ⅱ,彰国社,一九九八年六月)所収。

[5] 一九四四年東京都生まれ。東京大学工学部建築学科卒業,東京大学大学院博士課程単位取得満期退学,工学博士(東京大学)。七二~八三年東京大学助手。七七~七八年イタリア政府給費留学生としてローマ大学に留学。'八三~八八年東北工業大学助教授。武蔵野美術大学教授,学長。作品に「国分寺の家」(一九七六年)「天日向家船」(一九九六年)など。著書に『ミケランジェロのローマ』(一九八八年)『ローマ・バロックの劇場都市』(一九九三年)『建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ』(一九九四年)『ローマイメージの中の永遠の都』(一九九七年)など。詩集に『きみといた朝』(二〇〇〇年)『四季・四時』(二〇〇二年)『愛にかんする季節のソネット』(二〇〇二年)。

[6] 一九四三台北市生まれ。東京大学工学部建築学科卒業。一九六七年~一九七二菊竹清訓建築設計事務所。一九七二年富永讓+フォルムシステム設計研究所設立。法政大学。「ひらたタウンセンター」で日本建築学会賞(二〇〇三年)。著作に『現代建築 空間と方法』(一九八六年)『近代建築の空間再読』(一九八六年)『ル・コルビュジエ 建築の詩』(二〇〇三年)『現代建築解体新書』(二〇〇七年)など。

[7] 一九四七年横浜生まれ。一九七〇年東京大学工学部都市工学科卒業。一九七七年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了名古屋大学工学部助手,三重大学工学部助教授を経て一九九〇年千葉大学工学部教授。『都市設計』(「新建築学大系」一七,共著,彰国社,一九八三年)『公共空間の活用と賑わいまちづくり』(共著,学芸出版社,二〇〇七年)など。訳書に『アーバン・ゲーム』(M.ケンツレン),『都市の景観』(G.カレン)など。

[8] 一九四八年山形県生まれ。一九七九年東京大学都市工学科博士課程中退,磯崎新アトリエ(担当作品ロスアンゼルス現代美術館,筑波センタービル等)を経て一九八五年UPM(Urban Project Machine)設立。一九八八年熊本アートポリスのディクレクターに就任。芝浦工業大学教授。作品に「白石マルチメディアセンターアテネ」(一九九七年)「美里町文化交流センター「ひびき」」(二〇〇二年)など。著作に『逃走するバベル 建築・革命・消費』(一九八二年)『批評としての建築 現代建築の読みかた』(一九八五年)『近代建築のアポリア 転向建築論序説』(一九八六年)『ロシア・アヴァンギャルド建築』(一九九三年)『思想としての日本近代建築』(二〇〇五年)など。

[9] 一九三一年生まれ。早稲田大学文学部卒業。建築ジャーナリスト。一九六〇年彰国社入社。『建築文化』編集担当,『施工』創刊編集長を経て,七〇年『建築文化』編集長(企画室長の任期を挟んで八二年まで)。著書に『この先の建築』『建築の向こう側』(二〇〇三年)など。

[10] 『戦後建築の終焉世紀末建築論ノート』(れんが書房新社一九九五年)は『戦後建築論ノート』の増補改訂版である。

[11] 『群居』創刊の目的:雑誌『群居』創刊の目的は、以下のように簡潔に示される。

 「家、すまい、住、住むことと建てること、住宅=町づくりをめぐる多様なテーマを中心に、身体、建築、都市、国家をめぐる広範な問題を様々な角度から明らかにする新たなメディア『群居』を創刊します。既存のメディアではどうしても掬いとれない問題に出きる限り光を当てること、可能な限りインター・ジャンルの問題提起をめざすこと、様々なハウジング・ネットワークのメディアたるべきこと、グローバルな、特にアジア地域との経験交流を積極的に取り上げること等々、目標は大きいのですが、今後の展開を期待して頂ければと思います。」(『群居』創刊準備号)。

[12] 0号(創刊準備号) 座談会:箱・家・群居-戦後家体験と建築1982128日:1号 商品としての住居1983425日:2号 セルフビルドの世界1983727日:3号 『職人考』-住宅生産社会の変貌19831029日:4号 住宅と「建築家」1984218日:5号 アジアのスラム1984520日:6号 日本の住宅建設1984825日:7号 住イメージの生産と消費19841225日:8号 ポストモダンの都市計画1985411日:9号 戦後家族と住居1985729日:10号 群居の原像19851125日:11号 住政策批判1986331日:12号 不法占拠1986718日:13号 ウサギ小屋外伝19861130日:14号 東京異常現象1987424日:15号 大野勝彦とハウジング戦略198792116号 本と住まいPART11987122717号 ショートケーキハウスの女たち198852918号 列島縦断・住まいの技術198882519号 ハウジング計画の表1988122220号 住居の空間人類学198942621号 町場-小規模生産の可能性198982522号 都市型住宅再考1989121523号 それぞれの住宅戦争199052024号 日本アジア村-外国人労働者の住まい199083025号 増殖する住宅部品1990122526号 「密室」-子供の空間199142927号 居住地再開発のオルタナティブ199182528号 建設労働1991122529号 X年目の住まい199242330号 住まいをめぐる本の冒険199291231号 日本の棟梁 1992122532号 崩壊後のユートピア199342733号 ローコスト住宅19938534号 在日的雑居論1993111535号 中高層ハウジング199432736号 世界のハウジング199482437号 木造住宅論攷19941231日:38号 J・シラスとその仲間たち1995616日:39号 震災考19951124日:40号 ハウジング戦略の透視図-51年目のハウジング計画199658日:41号 イギリス-成熟社会のハウジングの行方19961115日:42号 地域ハウジング・ネットワーク1997421日:43号 庭園曼荼羅都市-神戸2100計画1997825日:44号 タウン・アーキテクトの可能性1981122日:45号 建築家のライフスタイルと表現1998521日:46号 DIY-住まいづくりのオールタナティブ1999724日:49号 群居的世紀末2000327日:50 21世紀への遺言20001028日:51号(終刊特別号) 群居の原点20001231

[13] 『建築思潮』(学芸出版社)。「未踏の世紀末」01199212月創刊)、「死滅する都市」02199312月)、「アジア夢幻」0319953月)、「破壊の現象学」0419962月)、「漂流する風景[現代建築批判]」05(19973)



[1] 『建築文化』、19818月号

[2] 水脈の会『時代を切り拓く―20世紀の証言 』れんが書房新社、2002年がある。

[3] 「『前川國男 賊軍の将』をどう読むか」,松隈洋・鈴木了二・辻垣正彦・山口廣・布野修司,『住宅建築』,20072

[4] 螺旋工房クロニクル,建築文化,彰国社,19789月号

[5] 0号(創刊準備号) 座談会:箱・家・群居-戦後家体験と建築1982128日:1号 商品としての住居1983425日:2号 セルフビルドの世界1983727日:3号 『職人考』-住宅生産社会の変貌19831029日:4号 住宅と「建築家」1984218日:5号 アジアのスラム1984520日:6号 日本の住宅建設1984825日:7号 住イメージの生産と消費19841225日:8号 ポストモダンの都市計画1985411日:9号 戦後家族と住居1985729日:10号 群居の原像19851125日:11号 住政策批判1986331日:12号 不法占拠1986718日:13号 ウサギ小屋外伝19861130日:14号 東京異常現象1987424日:15号 大野勝彦とハウジング戦略1987921

16号 本と住まいPART1                  19871227

17号 ショートケーキハウスの女たち              1988529

18号 列島縦断・住まいの技術                 1988825

19号 ハウジング計画の表現者                 19881222

20号 住居の空間人類学                    1989426

21号 町場-小規模生産の可能性                1989825

22号 都市型住宅再考                     19891215

23号 それぞれの住宅戦争                   1990520

24号 日本アジア村-外国人労働者の住まい           1990830

25号 増殖する住宅部品                    19901225

26号 「密室」-子供の空間                  1991429

27号 居住地再開発のオルタナティブ              1991825

28号 建設労働                        19911225

29号 X年目の住まい                     1992423

30号 住まいをめぐる本の冒険                 1992912

31号 日本の棟梁                       19921225

32号 崩壊後のユートピア                   1993427

33号 ローコスト住宅                      199385

34号 在日的雑居論                      19931115

35号 中高層ハウジング                    1994327

36号 世界のハウジング                    1994824

37号 木造住宅論攷19941231日:38号 J・シラスとその仲間たち1995616日:39号 震災考19951124日:40号 ハウジング戦略の透視図-51年目のハウジング計画199658日:41号 イギリス-成熟社会のハウジングの行方19961115日:42号 地域ハウジング・ネットワーク1997421日:43号 庭園曼荼羅都市-神戸2100計画1997825日:44号 タウン・アーキテクトの可能性1981122日:45号 建築家のライフスタイルと表現1998521日:46号 DIY-住まいづくりのオールタナティブ1999724日:49号 群居的世紀末2000327日:50 21世紀への遺言20001028日:51号(終刊特別号) 群居の原点20001231

[6] 編集委員会幹事として19871月号~198912月号。編集委員として19931月号~199512月号。編集長として20021月号~200312月号。

[7] 『国際建築』(美術出版社)1928年創刊。1967年廃刊。: 『室内』(工作社)1961年『木工界』を改名し発刊。20063月廃刊。:『建築文化』(彰国社)1946年創刊 2004年で休刊。以降特集号として隔年で刊行。(ex建築文化シナジー):SD』(鹿島出版)1965年創刊。200012月をもって休刊となり、以降若手の設計者の作品発表の場となっているコンペ「SDレビュー展」は継続し,年1回特集号を発行する。:『都市住宅』(鹿島出版)19675月創刊。198612月をもって廃刊:『群居』1982年―2000年:『10+1(INAX)19945月創刊。20083月廃刊。『X-Knowledge HOME』(エクスナレッジ)200112月創刊。200312月廃刊。以降特別号として隔年発刊。

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...