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2026年2月16日月曜日

京大を建築学のコアに 巽和夫 名誉教授インタビュー, traverse03, 2002

 

京大を建築学のコアに

巽和夫 名誉教授インタビュー

 

聞き手  布野修司

高田光雄

古阪秀三

                大崎 純

記録:  永冨 賢

 

 

建築は形が現れる:ものを作っていくのが好きで建築学科へ

−:巽先生は京都のお生まれで、京大に入られたわけですけれども、なぜ建築に入られたのですか。

巽:あんまり根拠がないんです。子供の頃から建築にあこがれていたとか、絵が上手だからとか、建築家になりたいからという人がいますが、僕の場合はそうではないんです。ちょっと前の話になるけれども、僕は昭和23年に旧制中学(桃山中学、現桃山高校)の最後の卒業生になります。それで旧制の第三高等学校に入ったんです。ところが1年で学制改革があったものだから、また京都大学に入り直しました。それが昭和24年です。その頃は工学部というところまでは入学時に決まってるんだけど、その後は何も決まっていませんでした。学科を選ぶんですが、最初は化学系にしようか、それとも他のことにしようかと思っていたんです。今はもう無くなったかもしれませんが、吉田キャンパスに新徳館という大きな講堂がありまして、学科に配属するときに各学科の先生がやってきて、うちの学科はどういうことをやっていて将来の見通しはどうか、というようなことを説明する会が当時ありました。そういうのを聞いて進路を決めるんです。その頃おられた森田慶一先生が、昭和24年頃というと戦後の復興が始まったばかりですが、まだ焼け野原もあるという状態で、これから建築は非常に需要が大きいし、どんどん建物を建てていく時代が来ると、こう言われたんです。それに非常に感銘を受けました。僕はものを作っていくということが好きなものですから、それはいいな、と。それから建築というのは具体的にものが形に表れます。電気とか、化学とかとはその辺が違っている。それから、図面を描くこと、教養でも図学などありましたが、図面を描くことが割合好きだったし、友達も建築に進む人がたくさんいたこと、そんなことがあって、何となく建築に行きました(笑)。

−:当時の学生数は工学部で何人くらいだったんですか。

巽:学生数、どのくらいでしょうね。学科にして10いくつかあって、ひとつの学科で30人として350人程度でしょうか。

−:各学科の話を聞いて選択するという形ですが、旧制から新制ということですけれど、それは今でいうと何回生から何回生のときですか。

巽:2回生から3回生です。

−:そうすると、図学はあったけれど、製図は選択してやるということですか。

巽:厳密にいうと1年半くらいかもしれないけれど、いずれにしても入るときは工学部で、建築学科ではなかったと思います。

−:その時代の学生の雰囲気というのはどうでしたか。同級生でいうとどんな先生方がいらっしゃって、スタッフにはどんな方がいらっしゃいましたか。

巽:寺井(俊夫)君とか亡くなられた防災研の南井(良一郎)君とかが同級生です。それから竹中工務店に行って設計部長になった大辻(真喜夫)君なんかも同級生です。それから西川(幸治)君は1年下です。

 

旧制から新制へ

−:新制と旧制はどうだったんですか。

巽:僕は新制の昭和28年卒なんですが、新制と旧制の昭和28年卒が同じ年に卒業するんです。従って、その頃景気が良くなかった上に、その年だけ2倍出たわけで、ものすごい就職難で、そうなると我々新制の方が非常に不利なんです。僕らが新制の第1回だからどういう教育をするかということがいろいろあるんだけど、とにかく急造でやってますから、旧制のカリキュラムの体系をちょっと簡略にしたような恰好のものを新制のカリキュラムにしたんだと思うんです。我々もどことなく1年少ないというコンプレックスもあるし、旧制に対してはどことなく引け目がありました。就職も当然不利ですよ。大学院が新しくできるんだから、大学側もできるだけ大学院に行かせようと、無試験ですから来て下さい、というような感じでした。

−:西暦でいうと卒業は1953年ですよね。カリキュラムはそういうことですけれども、卒業の直前で研究室を選ぶ段階が次に来るんじゃないかと思うんですが、それは3回生から4回生になるときですか。

巽:4回生だと思います。ただ僕は研究室にはいる前に西山先生の調査に加わっていました。熊野灘の調査なんかです。調査に行ったのは4年生の時ですが研究室の活動には以前から参加していました。この調査について『住宅』という雑誌に書いた論考が僕が最初に書いた文章です。

−:それは何回生の時ですか。

 

熊野灘調査

巽:4回生です。

−:熊野灘調査などの西山研のその当時の調査の大方針などはどのようなものだったのか、またどのような雰囲気でしたか。

巽:主旨からいえば、あのときは漁村でしたが、農漁村の遅れた生活環境、住環境をよくするということですけど、僕は学部の学生でただ調査があるのに付いていったわけだけれど、多少社会工作的な意味合いがあったように思うんです。

−:西山先生なり先輩の先生方は、学生をオルグするという面もあったのでしょうか。

巽:西山先生にはある程度そういう意図があったんじゃないかと思います。でも、結局農村だったら地主の家に泊まったり、漁村に行ったら網元の家に泊まったりするんです。網元の家に泊まったんだけど、網元のヒエラルキーの利益に反するようなことをやるわけですよ。その辺に僕は大変抵抗を感じて、そういうことをするのなら網元の家に泊まらずに野宿してでもやるのが本来の姿ではないかと思いました。泊まるということは向こうは歓待してくれますから、いろいろご馳走出して世話してくれて、それに乗っていながらしかも、その漁村社会を批判するようなことは、僕としては非常に抵抗がありました。

−:西山先生は平気だったんですか。

巽:それが割合平気でしたね(笑)。

−:巽先生だけじゃなく何人か学生が行かれたと思うんですが、当時の西山研のスタッフとしてはどういう人がいたのですか。

巽:スタッフには助手に扇田(信)さんがおられて、それから絹谷(祐規)さんが旧制の28年卒で、僕の直上の先輩にあたるわけですが、彼が実質的に調査にしても何にしてもリードしていたと思います。やってるうちにそういう意図でやってるということが分かってきて、それなら僕は外に出てもっとしょぼくれたところに行かないといけないのではないかと言って外へ出たんです。そしてうろうろして帰ってきたら、もう絹谷さんなんかが風呂に上がって飯食って待ってるんです。何だこれは、おかしいんじゃないかと思ってそれで大いに議論したこともあります。彼とはよく議論しましたね、そういう点で。

 

教室の構成と配属

−:そうすると、3回生くらいでもう西山研に行くことは決まっていた?

巽:そうですね。『これからの住まい』とかいろいろな本もあったし、社会的影響力の大きい先生でしたから、僕もよく知ってました。

−:その当時の計画講座は、意匠は森田(慶一)先生で、計画は西山先生ですか?

巽:森田先生が教授で西山先生が助教授という状態がずっと続いていたんですよ。

−:そうすると森田先生は、先ほど志望するときに少し影響を受けられたというか、学科を選ぶときに森田・西山研が影響があったということですね。他にスタッフで印象にある先生とかありますか。

巽:そりゃあ、全部印象にあります(笑)。構造でいえば、坂(静雄)先生、それから棚橋(諒)先生、それから計画の森田先生、後は村田(治郎)先生が建築史でおられた。僕らが教授だった頃に比べればその頃の先生は、学生から見た印象では随分高齢で、重鎮の大家という感じでした。だけど今、僕はその先生の現職時代よりも高齢になっている。何だこんなもんかな、という感じも年齢的にはします(笑)。学術的な業績はそれらの先生の方が遙かに立派ですが。

−:当時は何講座くらいでしたか。

巽:当時は6講座ですね。入ったときは確かに建築でなかったことは確かなんだけど、どこで分かれたのかということははっきりしません。

−:希望すればいける状況だったんですか。

巽:それは第1志望、第2志望という形です。

−:それは試験で決まるんですか、それとも成績ですか。

巽:あれは成績でしょうね。希望者が多いから。

−:そうすると1年生、2年生の成績で序列があって、上位から第1志望をとっていくということですね。

巽:その頃は今みたいに学科数も多くないし、そんなに偏るということはなかったと思います。例えば化学だったら、化学だけで5教室あったんです。工業化学が一番人気があったけれども、工業化学がだめだったら繊維化学とか化学機械とか合成化学とか燃料化学とかいろいろあったから、うまく配分されていたんだと思います。その頃は建築はたぶん真ん中くらいの人気ですね。化学とか機械とかが人気が高かったですね。

−:戦後まもなくは、航空から一気に建築にシフトしたという話がありますが。

巽:航空は一度名前が変わって、確か「応用物理」になったんじゃないですかね。大学院になってから移ってきた人がいましたね。

−:西山研に3回生の時に決められたということですが、定員があるとかじゃないんですか。

巽:今思い出すと、本館の一階の掲示板に研究室がどういう研究テーマで研究しているのかという一覧表が掲示されていたので、それが出ていたということは結局それを見て志望していたということでしょうね。僕は前から調査に参加していたもんだから自然に行ったけれども、そうでない人はそういうので選んだんじゃないでしょうか。

−:一方で旧制も同時並行であるわけですが、そういうシステムは違うんですか。

巽:旧制はどうだったんでしょう。旧制の人に訊かないと。

 

大学院時代

−:巽先生は3回生の時とか西山研の熊野灘調査に参加されていたときに旧制の人も同じ年代にいたわけですよね、絹谷さんとか。その関係はどうだったんですか。

巽:新制と旧制の関係ですか。それは同じ研究室の中ではやっぱり1年先輩と後輩という関係ですよね。

−:卒業年次は一緒だけれども旧制の方が1つ上ということですか。

巽:1年余計にやってますからね。僕らの頃は旧制の3年と新制の2年ちょっととはっきりとしてましたから、その辺では非常に不利でした。だから、僕らの同級生でいいところに就職しているというのは非常に少ないです。例えば竹中工務店、大林組、これ1人ずつでしょう。それから建設省が案外3人くらい入っていて、大手のゼネコンといえども1人ずつやっと採ってくれるくらいで、大成建設はなかったし、清水はいたかなぁ。

−:次の年からはいいんじゃないですか。

巽:大学院に行ってから就職した人は割合よかった。

−:大学院には何人くらい進まれたんですか。

巽:大学院は結局11人ですけれど、よその大学から34人入ってきてます。京都工芸繊維大学からとかね。だから内部からは78人ですよ。やはり僕らの時代というのは、構造系が非常に強かったですね。

−:いや今もそうですよ(一同笑)。学生の人数では圧倒的に計画が多いですが。

巽:僕らの時は、研究・教育組織としても構造系が強かったし、学生もそうでした。それで就職がよくなかったから、計画に行っても就職できんぞ、といった感じの雰囲気が先生の側にもこちらの側にもありました。

−:それは京大に限らないんじゃないですか。社会情勢からいえば、戦後復興ではどうしても本当のエンジニアが必要となるから。全体的な傾向でしょう。

巽:構造、環境とあったけど、実際のところはエンジニアリングなんですよね。エンジニアリングを「構造」という名前で代用しているんですよね。実際に構造設計をするかというとそうでなくて、大体現場に行くのが多いでしょう。その辺は違ってるんだけれども。

−:今みたいに、構造と環境と計画の間のハードルは高くなかったんじゃないですか。人数も遙かに少ないわけでしょうし。

巽:大学院生11人がどこにいたかというと、今はもうないのかな、本館の東隣にあった東別館の2階に大学院生が一緒にいたんです。構造とか計画とかに関係なく。修士課程にはいるのは僕らが初めてでしょう。大学側もどう扱っていいのやらわからないわけです。だからもう、いつもとりあえずこうしておこうという。カリキュラムにしても指導にしたって、それから場所にしたってそうでしょう。今みたいに講座間とか専門間で仕切りがあるという感じではなかったですね。それで構造の人だって設計演習を取ってましたし、コンペにも参加しましたしね。

−:大学に入られて、ドクターに行かれて助手をちょっとやられるんですよね。

巽:ええ助手をちょっとしましたね。

−:それでその間割と研究的なことはいろいろありますからいいんですが、スタッフと学生の関係とかスタッフ同士の関係とか、あるいはその間のプロジェクトなどで印象に残っていることがあれば…。例えば1950年代のことなど。

巽:プロジェクトは西山先生がいろいろ引き受けてこられるのをやったりしました。例えば公団の香里団地というのがありますね。あれはね、昭和30年というのは公団ができたんですが、30年というと僕が大学院の修士を卒業して博士課程に入った頃ですが、公団がスタートするにあたって、はたして公団住宅が売れるだろうかというので、家賃4000円で需要者があるかという調査をしてくれというような、調査プロジェクトもいろいろありました。それから香里団地の計画を、あそこは火薬庫の跡なんですが、あれを計画するので何か提案しろ、ということで、僕は今でも思い出すけれど、斬新な提案をしたんだけれど通りませんでした。火薬庫だから火薬庫と火薬庫の間が空いていて山−谷−山−谷になってるんです。現在、全部ならして使ってるんですが、山−谷を利用しようというのが僕の提案で、そこに1階部分はピロティにしてそこに共用空間をおいて、その上に住戸部分を上げるという提案をしたんですよね。その頃、竹中の大辻さんが非常勤講師で来てまして、これいいなぁと言ってましたから、芦屋浜のASTMにね、あのアイディアがどうも関係してるんじゃないかと(笑)。そういう提案をしたこともあります。

−:そのときは構造や環境の先生は参加されたんですか。

巽:環境はどうだろう、あれは西山先生のところだけかもしれませんね。それからコンペは、国立国会図書館コンペをやりました。今でも覚えてるけどね、こういう太鼓型をした、コアシステムで真ん中に書庫をおき、外周部に閲覧室を配置しようというアイディアで、構造の人達とも一緒にやりました。これは確か、大学院の演習課題でもあったように思うんですよ。あの頃は今みたいに構造とか環境とかいいませんから、興味があれば設計の単位を取っていいわけです。だからそういうコンペが出てくるとみんな 参加してたんです。

−:あれは著作権問題でもめましたよね。あれはとったのは前川事務所でしたよね。それは印象には残ってないですか。

巽:それは記憶にないですね。どんな風にもめたんですか。

−:確かその通りに実施されなかったと思います。それで「新建築」とかジャーナリズムが問題にしたんです。

巽:そんなのでね、僕は個人的には住宅の設計とか、頼まれてやった設計とかいくつかやりました。

−:それは個人、それとも仲間とですか。

巽:それは個人でもやったし、仲間ともやりました。今は設計といってもとてもできませんが、そのころは設計をするのは当たり前でね、それで、研究は少し違う方向に行ったけど、何をやるにしても、設計をしてそこからどういう問題があるかを見つけるんです。僕もある種の建築家だと思っていますけれども、やはりものを作る経験がなければ、本当には研究課題はでてこないし、物事はわからないというふうに思っている。研究をしてそれを実際にやってみる。やってみるといろいろな問題がわかるから、またそれを研究する、と。それは最初は今のような時代じゃないから設計っていう行為そのものが非常に包括的で総合的な行為でしたよね。今はもうかなりいろいろわかってきてますけれど、そのころはそういう包括的な経験をすることによって、所謂狭い意味での「デザイン」ももちろんありますけどね、計画的な問題、経済的な、社会的ないろんな問題がそこにあるということが、それを通じて体得できたんじゃないかと思います。

 

調査と設計

−:それでその辺で、吉武研との関係を聞きたいんですけれど。むしろ吉武研は巽先生がおっしゃるような立場で、研究は設計に還元できなきゃだめだという立場で、西山研はむしろ調査が大事だという構図で議論をされたと聞いていますが、その辺は具体的にどうだったんでしょうか。

巽:西山先生は「調査無くして発言無し」というふうによく言われてました。西山先生は庶民住宅の研究を柱とした研究をしておられましたから、その流れの中である意味では設計をするという行為と、研究をするという行為は大分違うんです。研究するという行為は分析的な行為ですよね。ものすごく膨大な量の調査をしても、わずかなことしか出てこないという性質のものでしょう。設計という行為は、よくわからないけれどとにかくものにするためにはまとめないといけないから、いろんな情報を集めて総合するという作業ですよね。だから研究するということに非常に没頭して行くと、設計するということがしんどくなるし、やりにくくなりますよね。逆に設計を一生懸命やっていくと、多分もう研究なんてやってられないというふうになる。西山先生はどちらかというと、前者の方で研究の方を非常に強くやってこられたし学生の指導もそちらの方にやってこられたわけです。ただ、当時は今のように建築設計事務所とか、ゼネコンといったものがそんなに発達していなかったので、新しい課題について大学の先生に頼むとか相談するということはよくあったわけです。そういうものを先生は断ってはおられなくて、例えば城崎温泉の旅館の浴場の設計なんてありますよね。

−:あれは調査も絡んでるんじゃないですか。

巽:調査なんかやってるとね、相手が設計して欲しいと要請してくることがあるでしょう。それに引きずられますよね。それで研究室の中でも、「なんでそんなもの引き受けるんだ」なんて議論もあるんですよ。それを先生はものすごく理屈を付けるように、「いや、これからは労働組合の大会を開くときには、温泉くらいの規模の旅館がたくさんある所じゃないと開けない。従ってそこの温泉をデザインするんだから、この仕事はいいんだ」と、こういう理屈を言われるんです(笑)。

−:その辺をもうちょっと聞きますと、吉武先生は西山先生の梗概を戦時中ものすごく読まれてるんです。西山先生の論文とかをものすごく意識されて始められている。それで住宅から公共施設へとか彼なりの戦略があるし、鈴木成文さんみたいな、住宅を担当した先生もいたんで、すごく意識してやっていて、設計と研究との関係については、これは西山先生も書かれてますけれども、例えば今の標準住戸の設計みたいなものは、これは中央に近い東大に任せて、だけど京大はそっちがやらない、やれない調査や、むしろ領域を拡げて地域計画に行くんだといった、割と理屈っぽく守備範囲みたいなことを書かれてますが(笑)、具体的に例えば、吉武先生が何回かこっちに来て議論をされたんですか、もしくは向こうに行って。

巽:僕自身はあまり参加していませんが、絹谷さんは研究室のチーフのような形でかなりやっておられたと思います。

−:例えば九州大学におられた青木先生なんかは、ものすごく怖がって、今でも京大に来るのが怖くて足がすくむみたいなこと(一同笑)を言われていて、そういう緊張関係があったようです。

巽:やっぱりやりたい調査、研究がいっぱいあって、まだまだ先にいっぱいやらないといけない、ということで西山先生はやっておられた。弟子にもやらせていましたが、自分としても問題意識をたくさん持っておられた。それをさっき言ったように設計という行為は、一応この辺でわかっている範囲の中で、形にしてみようという作業ですよね。研究的に言うと一度立ち止まる感じがあるじゃないですか。そうしても僕はよかったと思うけれども、先生はそう考えずにですね、これは僕の推測ですよ、もっと次の、もっとわからない、明らかにしないといけないことをやりたいと思われたんじゃないですか。それから、先生の『日本のすまい』などの本を見てると、日本の住宅の現在の姿というものを、できるだけ網羅的に収集して記録したいという、そういう意欲が強かったと思います。だから調査も研究のための調査というよりも、そういう現状を明らかにするための調査、そういうところに忙しくなり始めると、どこかの成果をまとめてこれを設計にして、という考え方で無くなったのかもしれません。それはいい面もあったし、悪い面もあったし、我々学生にとっては、実践的な方向についてもっとトレーニングする機会があった方がよかったと思いますけれど、そういう一つの京大の西山研究室のカラーだったというよりほかないですね。

 

西山研究室 

−:聞きたいことはたくさんあるんですが先に進めます助手になられる頃には後輩が入ってきてますよね。研究室の運営については、混然としていたんですか、役割分担みたいなものが既にできていたんですか。例えば絹谷先生がヘッド格でおられて…。

巽:絹谷さんは大学院生だったんです。それで結局、森田教授−西山助教授という体制が長く続いていまして、助手すら西山先生は自由に取らせてもらえなかった時代なんです。それで絹谷さんは大阪市大に行かれたんです。

−:今の話は三村先生の世代から、もう既にユニットがあってという話は聞いたことはあるんですけれども…。

巽:その頃はまだそんなふうに分かれていませんでした。

−:混然と設計やったり、調査やったり?そうすると設計やりながら調査にかり出されるということもあったんですか。

巽:それでね、例えばこんな笑い話があります。先生は自分で何でもやるんですよ。雇ってる人がいるのだから、その人にやらせればいいのに、わざとじゃないんだけどやらせないで自分でやってしまわれるタイプなんですよ。それであるとき、その女の子が「先生、どんなことをしたらいいのか指示して下さい」と言ったら、「忙しくてあなたのやることまで私は考えていられない」と言われたというのです。事務的なことは人にやらせて、自分は肝心なことだけやればいいでしょう。そうでなくて、とことん自分がやりたい。だからものすごく忙しくて、ものすごく精力的にやられたから、先生がやられた研究の後には何も残っていない、という感じもあるんです(笑)。先生のやったような分野でトレースしようという人はいないですよね。三村さんも最初はレクリエーションの研究をされてましたし、僕は生産問題とか経済問題をしましたし。「西山先生の後はもう草木も生えん」といって、みんな違う問題に取り組んだのです。それ僕はよかったと思ってるんです。組織という面から言うとね、西山先生は建築計画という分野について吉武先生に近いけれども、都市計画という分野については高山(英華)先生に近い。年齢的には高山先生と大体同じなんですよ。だから、高山研とも比べられたことがありました。高山先生と西山先生はまったく対照的だった。高山先生は組織を率いて、弟子を育ててピラミッドを形成して…。まあ都市計画という分野がそういう分野でもあるんだけれど、西山先生は弟子たちが先生を支えて(笑)、先生が勝手なことやってもね、それを支えていってるというふうなことを、東京の方からはそういうことを言う人がいましたけどね。それはタイプが全然違いますよね。

−:研究費はどういうふうになってるんですか。

巽:研究費は、「講座費」というのがあって、今もそうだと思うけれど「講座費」の中で共通にしたものを引いて、各講座に分けてましたけど、助教授でしたからあまり多くないですよね。それで、それをベースにして、まあ委託研究みたいなものもあったし、今はどうなってるか知らないけれど、その頃は委託研究や調査費がなかったらやっていけないような状況でした。そこへ公団ができたりなんかして、多少調査費が出てきたと、という状況ですよ。

−:それは調査の実費として西山先生が仕切られた、ということですか。

巽:そうですね、後半になってくると当然、行政の事務の担当者が居ましたから、事務的にはその人が取り仕切っていました。

 

建設省建築研究所

−:先に行きますが、建研(建築研究所)に行かれますよね。それはどうしてだったんですか。助手は一年くらいされたんですか。

巽:助手は1年やってません。昭和33年の3月に一応大学院の博士課程に在学し所定の単位を修得ということになったんです。今どういう扱いになってるか知らないけれど、学位論文を出して学位を取らないといけないんだけど、僕は博士課程の第1号ですし、3年で学位を取るという雰囲気ではなかった。旧制並と言うことになってましたから、誰もそんなことを考えなかった。だけど制度上はそうなると具合が悪いので、所定の年限在学し、所定の単位を修得ということで一応出たわけです。それで出たけれども就職の当てがなかったんです。それで西山先生森田先生なんかと交渉して下さったんです。それからその頃は、講座も少なかったから、他の先生も僕のことを知ってるし、お互いに博士課程に行く学生くらいのことは知ってるわけです。いろいろやりとりがあったと思うんですね。それで、5月からというので、1ヶ月遅れで助手になったんです。ところが一方、建研の第1研究部の部長が新海悟郎さんといって、この人が西山先生と同級生なんです。その下に2つ室があって、建設経済研究室と都市計画研究室ですが、建設経済研究室に宮崎元夫さんという人がおられて、宮崎さんが京大の出身でこの人が千葉大学の造園学科に移られるということで籍が空いたんです。それで入ることになったんです。

−:そうしますと、建研に入られて戻られるまでの話を伺いたいんですが、そこで古川(修)先生とかお会いになられて、学位論文も結局建研で書かれたんですね。想像するに充実してたんじゃないかと思うんですが。

巽:楽しかったですね。

−:建研にはどのくらいおられたのですか。

巽:7年ですね。1年間イギリスに留学していたのを入れて7年です。

 

建築経済に関する研究

−:城谷先生もおられたんですよね。その辺りのお話も伺いたいのですが。

巽:大学院では何を研究しようかというので西山先生のサジェスチョンもあって建築の経済的な側面、あるいは生産的な側面を研究しようとしていたんです。修士論文は「建築経済に関する予備的研究」というものでした。これは大分苦心しましたが、うまくいったとは思わないんですが、そういう研究をやっていたのでちょうど建研の建設経済研究室にぴたっと合ったわけです。僕としてラッキーだったと思うのは、大抵就職すると、そこの研究テーマに合わせてやらないといけないでしょう。また大学に行ったとしたらせいぜい若くして行くんだから助手くらいですよね。助手で行くと多分いろんな雑用もしないといけない。それからそこの先生の研究室の研究をしないといけない。そういうことから言うと、建研は僕の研究テーマにぴたっとして居たというのが一つ。それともう一つは建研は金はないんだけど割合平等でして、研究員になると各研究員に研究費を平等に割り振るんです。大学だったら教授、助教授、助手と階層別になっていてなかなか若い人は金を使いにくいかもしれないけど。

−:いや平等なところも増えていますよ。東工大は序列が無くなったと言いますし、東洋大なんかは助手まで完全に平等ですよ。

巽:そうですか(笑)。僕は研究所というのはもともと研究所の方針があって、研究テーマを部長が差配してそれを下の室長がブレークダウンしてそれを研究員が実施するんだと思っていたんです。イギリスはそうなんですよ。僕はイギリスに行って、非常に違うなあと感じたんですけど、ところが日本の建研は何やっても自由なんですよ。何やっても、というのは極端だけれども。その代わり自分で責任を持てっていうことですけどね。研究テーマに関してはあれこれ言われなくて自分でやりたいことをやる、あまり金はないけどやれる。今は大分状況は違いますけど、今は研究費が少なくなってプロジェクト研究が増えて、そのプロジェクト研究に乗らないとなかなかちゃんとした研究ができないようになっています。僕がいた頃はまだ牧歌的な時代でね(笑)、古川さんはああいう建設業の研究でスタートされて、城谷さんは最初は少し困っておられましたね。城谷さんはもともと住宅問題といわれる領域のことをやってこられたんです。研究に悩んでおられたように気がしましたけど、しかしその後プレハブ住宅が出てきたのでそういうところに研究をシフトしていかれたんです。そういう研究体制の中に僕が入った。僕は一番若手でしたから、非常に楽しかったですね。今ずっと思い返すのに、やはり建研時代の7年間が、その後、こちらに帰ってから現在に至るまでの行動様式や研究テーマに大きな影響を与えているなと思います。建研での研究というのもそうだけど、東京に行って生活したということ、それから建設省とか公団とかと非常にいろいろなコミュニケーションがありましたから、あの頃関西にずっと居たらどうなっていたのか、時々比較して考えて見るんです。僕は未だに東京といろんなことで縁が切れませんから、そういうことを考えると関西だけにいたのでは今のようにはなっていなかったと思います。今も東京の大学や行政の人達との人間関係があり、自分の研究テーマが建築や住宅の生産問題とか経済問題とか社会問題にあったことが今日の僕の活動につながっています。

 

京都大学へ帰る:38歳で教授に

−:その間こっちでは、第2学科ができて、今僕が居る地域生活空間計画講座というのができて、そこに絹谷先生が呼び戻されたんですよね、確か。それですぐに亡くなられて、西山先生がそちらに移られて、それで巽先生が戻ってこられたんですよね。上田篤先生も同じタイミングですか。

巽:そうです。僕の下におられたんです、上田さんは。上田さんは助教授で入ってこられて、僕も助教授で入ったんだけど、僕が先に教授になって、上田さんは僕の下になるような形で。同じ講座です。

−:そうなんですか。西山先生の方になるんじゃないんですか、上田先生は。

巽:西山先生の方じゃないですね。西山先生の下は三村(浩史)さんです。

−:それで、戻られてから後の話は。

巽:戻ったのは、昭和41年です。それで助教授で戻ったんですが、昭和43年に教授にしてもらいまして、今なら考えられないくらい若い、38歳ですか。36歳で帰ってきて、その前の1年間はイギリスに留学して、それで建研に戻ってきた途端にこちらに来ることになったんで建研が怒りまして(笑)、当然ですよね。それはもう平謝りに謝って。

−:先生は謝る必要はないんで、教室が謝るべきで。

巽:それで帰ってきたんですよ。僕にとって一番の大きな問題は、やはり建築計画講座ですから、建築計画講座にふさわしい研究、教育をやらないといけないということでした。それで、講義の方は何とかなるにしても、研究の方をどう切り替えるのか、そうかといって、大体20年近く経済・生産問題をやってきたんですが、それを全部捨ててしまって所謂在来的な計画の方に行くというふうには、ちょっとやりにくかったんでね、そういうことをしたら自分も一からやり直しになりますから。そうじゃなくて、何かこれまでやってきた研究の経歴が生きるような、そういう計画にしたいと思ったんです。僕の計画論というのは、まあ計画論なんていうほどのもんではないけども、これからの計画はデザインのための計画というよりは、人の生活との関係を、空間を考えるということだけではなくて、それをどう社会に実現していくかということが非常に重要になるんではないかと。そこでの建築家の役割とか、生産者の役割とか、学位論文は生産・供給に関する研究でしたから。その流れで新しい計画論というものを作りたいな、思っていたわけです。そこで、僕の研究室でやったのは、結果的にいうと一つはハウジングの問題、もう一つは建築企画です。ハウジングの問題も先ほど言いましたように西山先生が既にやっておられるんで、ああいうタイプのハウジング論はやってもしょうがない。それで、公共住宅供給の問題から「二段階供給方式」の研究へ展開した。建設省がこの研究に注目してくれて、「躯体−住戸分離方式」ということになりました。この新しい住宅供給方式は、実例としてはたくさん無いけれども、理論としては非常に広まってきました。今日では「スケルトン−インフィル・システム」といわれてます。これなんかは狭い意味での計画の考え方ではでてこなかったものです。それはこれまで建築の生産組織の問題だとか、建築家の役割だとか、公共建築とは何かとかいろんなことをやっていたことが反映されています。集合住宅の問題を扱うことになりましたが、集合住宅も郊外型の集合住宅から都市型の集合住宅になってきまして、そうすると都心居住とは何か、とか、都心居住における集合住宅のあり方は、とか、平面の社会の中で石塔のような高層住宅を建てて、入り口をオートロックで仕切っているような、こんな異様な居住形態はおかしいというような考え方が出てきたんです。

−:建研の時の、こっちの方では西山研に言われて、かつそういう中で設計とか生産とか経済とかについて研究して、建研の中で城谷さんととか関連のことをやってる人たちの中にいる、そこでまた巽先生の考えがどちらかの方に動いているはずなんですよね。それが今度は建築計画ということで変えられている。そこの変化についてほとんど説明がなかったのでその辺りのお話をお話いただけないかと。建築計画、建築経済の中の建築生産の定義とか、あるじゃないですか。

巽:僕は東京での建研時代は、建研の中にはもちろん古川さん、城谷さんはおられたけれども、それだけと言ってはなんだけど、もっとこの考え方を広めていこうと思うと建研の中だけではだめなんで、建築学会を舞台にしたんですよ。僕はこの建研時代というのは、建築学会を大いに舞台にしていろんな人と交流したような気がします。それで、今の建築経済委員会でいうと長老は、徳永さんとか、それから岩下さんとか、若手に土谷さんとか、そういう人達です。徳永さんにしても、岩下さんにしても、土谷さんにしても全て京大出身の人というのは居ないんです。そういう中で、別にどこの出身でも構わなくて、広いそういう世界の中で建築生産というものをね、どう良くしていこうかな、ということの議論をしました。その頃の僕は30代でしたから、ものすごくがんばったと思います。それでその結果、こっちに帰ってきた直後に、「建築生産論の提起」をまとめたのです。学会の研究委員会での議論の一つの成果なんです。あれが僕の拠り所になっています。

−:1968年、昭和43年ですか。

巽:昭和43年です。帰ってきた年です。

 

ハウジング論と建築企画:建築生産

−:建築計画で戻られて、それまでの、特に建研での経験がベースになって建築計画を見直した、見直すというか、巽研の建築計画論の展開があって、それの柱がハウジング論と(建築)企画論ですね。僕は、その頃からもう巽先生の研究室の動きをずっと見てましたけれど、東大で見ると例えば鈴木成文さんなんかは、住戸計画の袋小路に入り込んで、僕は先輩連中見ててわかるんだけど、住宅地計画に展開ができなかったんです。それは「領域論」って言うのでやろうとしたんだけれど、なかなか論理的にならなかった。一方で住戸内だけを考えているから「順応型」みたいなことしか思いつかない。スケルトンシステムをおいて、中を間仕切るくらいの発想しかでないわけです。京大見てみろ、と。もっと広い。だから内田研のデザインシステムと足してやったらどうだ、というくらいのことを生意気にも言ってたんです。計画が、住戸計画、プランニングの話に縮こまってる。計画というのはもっと広い。「広義の計画」と「狭義の計画」があると言い出して、それは建築生産全体の問題があるといった議論をしてたんです。(布野)

巽:建研の生産論の問題は、僕は「建築生産」という概念を創ってそれを押し出していこうとしたというのは僕の建研時代です。

−:その概念が広かったために、何でもそこに入っていけたということですね。

巽:それまでは、計画−設計−施工だったんですよね。それで、施工というのは学会で言っても「施工」という分野がありますね、「材料施工」という分野もあったしね。で、古川さんが一番力入れていたのは、悩んでおられたと思うんだけど、そういう施工に関わるんだけど、ものの施工の話じゃなくて、もっと人と組織でものを作るという、そのことを対象にされたわけですよね。これが建設業という形になったわけですよ。古川さんは建設業をやったけれど、僕はさらにもうちょっと広く、建築主、つまり、需要から始まって、計画、設計、それから生産してさらに管理すると、その辺まで全部含めて一連のものとして考えたらどうかと。まあ管理の所は、なんというか利用・管理の所は別かもしれないけれど、そこまでの間を、全体を「設計」という概念で捉えたらどうかということでした。建設業の所を古川さんはやっておられたけれど、僕はもうちょっと、前の方をやりたいなと考えていました。それで建築家の問題とか公共の役割とは何かとか、そういうことをやって京都に帰ってから『行政建築家の構想』という本を出しました。あれなんかはまさに、一体「営繕」の役割はなんなんだ、と。本当は重要な話なんだよね。ところが今まで営繕というのは役所の建物だけ、民間とは切り離して、それでまた民間の建物を需要とする人とはなんの関わりもなく予算が付いたり建てたりすると、こんなことやってはだめだ、ということでそうでない営繕のあり方を検討しました。それから本来「建築指導行政」といわれる確認行政というのは、もう圧倒的に9割以上は民間の住宅なんですよね。それが住宅行政の枠の中に入ってなくてですね、住宅行政といったら公共住宅を建てるだけの話でしょ。それで圧倒的に大きい、違法性にかなり富んでいるようなものも含めて、これを何とかしなきゃいかん、という発想だったんですね。だから古川さんはちょっと別だったかもしれないけれど、僕の生産概念はもうちょっと広がりを持ったものとして、生産論の定義もそういうつもりで書いたんです。従ってそれが現在の計画の方にいっても、そんなに違和感は感じてない。それからもう一つの動機は、僕は建研時代にイギリスに行ったでしょ。“Building Research Institute”というところに行ったんです。そこに行って、現場にしばしば調査にいったんですよ。そうしたらしばしばストライキが起こるんです。コンクリート工のストライキが起こるでしょ、それが終わると今度は煉瓦工のストライキが起こる。こんな風にストライキを次々にやっていたら、工事は全く進まなくなる。そこで、ストライキをやる職別組合をどううまく使いながら建物を造るかという技術として、建築生産の生産管理の技術というのは発達してるんだなということに気がついたんです。そこを日本はまあまあ何とかうまくやっていくようなルールでストライキを起こさずにやってきたわけですね。これのいい面もあるし悪い面もあるんだけど、こういう生産管理の技術というものを本当に確立するんだったら、そういう難しい状況の中でどう技術化するかというのが大事で、僕はイギリスでその頃そういうタイプの本も読んだし、それから建築経済の問題についても経済学者がいくつか本を出してましたから、ああいう現象というのは日本に無いわけですよね。その後の話とはちょっと別になるけれど、そういう経験があったものだから生産問題をそういう広く捉えた形でいたということです。

 

建築計画研究の終焉?

−:ちょっと話題が変わるんですけど、建築計画の研究はほとんど終わっている、つまり計画手法の研究というのは非常に矮小化した形になってるのが多すぎて、新しい展開がみられないというふうにみえるんですが。それはつまり、巽先生が今おっしゃったような生産とかあるいは設計とか、もう少し広い概念で「計画とは」という、攻めの姿勢が無くて全て後付になっている感じの研究が多い。その辺がもう少し広い視野でできないのか、このあたりに今の建築計画の問題があるんじゃないのか。これらの点について、巽先生の世代の人たちが見て、今の建築計画について意見があるんじゃないかと思うんですが。(古阪)

巽:僕は今の建築計画について不勉強なもんだから。しかし、研究は確かに、僕は吉武先生の研究は一時代を築いたと思うんですよね。それで非常にすばらしい研究成果を上げられたと思うんですが、その後の方が鈴木さんに象徴されるように、やはりさっき言われたのと同じような印象を持ってるんですよね。それでこの学校だ、病院だ、図書館だって言ってる時代はまずかなり前に終わってると思うんです。それから後いろんな研究をして相当皆さん苦しんでいるんでしょうね、そう思います。だから、そこでどういう切り口がいいのか僕にはよくわからないけれど、しかし建築学会は建築計画分野は非常に隆盛でしょう。発表の数は非常に多いでしょう(笑)。

−:発表の数は非常に多いかもしれない。一方で今の縦割りの施設研究がとっくに終わってると言うのもそうなんです。だけど、切り口という意味では例えば高齢者の問題とかハンディキャップドの問題とか、その立場に立って施設の問題、素朴な手法かもしれないけど、きちんと調査をしてそこから問題を出すという役割はずっとあると思います。(布野)

巽:僕が不満に思うのは、施設別はいいし、一つの大きな成果を上げたと思うけれどその施設をよく見てみると学校、図書館、病院と皆公共施設なんですよ。公共施設は皮肉に言うと比較的調査がしやすくて調査の成果が設計に反映されやすい。ところが、公共建築というのは、一体日本の建築の中でどのくらい割合を占めているかというと、量から言うとしれているわけです。圧倒的に多いのは民間の建築でしょう。ところが民間のオフィスビルとかホテルとかそういうタイプの研究はあまり無いんです。それはなぜかというと、研究しにくいから。それから、これはコマーシャルな建物だということでどことなく偏見があって、大学の先生がそんなコマーシャルなことについて首を突っ込むことについて強い抵抗があります。実際ホテルの研究をしてる人はホテルのビジネスをしてる人の関係者だったりして、その辺のホテルの関係はそうだし、オフィスビルはオフィスビルの研究で、所謂大学のプロパーな研究者じゃなくてもうちょっと実務畑のところでやってる研究なんですね。それを大学の研究者は大いにサポートして、それらの持っている、例えば不動産の評価の問題とか、経済的な問題とか、いろんな社会的なプラスマイナスあるけどいろんな問題を含んでいるのに、そういうところは実務の話だといって押しやってしまっているところにやはり、建築学者の怠慢があるような気がします。計画学というのはそこら辺まで切り込んでいけるようなものでなくてはいけません。公共建築のような割合穏やかな調査しやすい、調査結果が反映されやすい、成果が出てきやすい所ばかりやっていたんではだめなのです。

−:明確に戦略化されてまして、吉武スクールでは。意見として吉武先生がおっしゃっていたのは、要するに繰り返し建てられる可能性があって不特定多数が利用するという意味で、病院、図書館や学校、公共建築をやります、ということは宣言しています。2つありまして、1つはそうやって担当を決めて、イギリスならイギリスの情報を集めた方がいいだろう、専門家をつくった方がよかろうということ。もうひとつ、巽先生がおっしゃったように、成果が出ますよという意味では「学校」で学位論文3人いけるでしょうとか、それはもう明快に、吉武先生から直に聞いたわけではないけれど周辺は明快に言ってましたね。(布野)

巽:なるほど(笑)

 

大学紛争

−:本題戻りますけど、紛争時代の話にはどういうものがありますか。

巽:紛争時代というと、どういうことを言えばいいの。

−:どういう議論をされたかとか、当時の学生、あるいは教官がどういう風に対応していたかとか。ぼくは、その直後に入学した世代ですが。(古阪)

巽:僕は教室主任でしたから、教室主任という立場での苦労はあったし、それから教授としては教授会がもう開かれず、開くとやってきて潰されますから。バスに乗って、どこにいくかわからんけど、とにかくバスに乗ってくれと言って、バスに乗るとどこかにつれていってくれて会議を開く。ところが会場も跡をつけられていてそこでもまた潰されたり。そういうことがよくありました。また民青と新左翼との対立はよくありました。西山先生が部屋で随分とっちめられて、やられたということもあったし、僕が教室主任をしているときに僕の部屋をめちゃくちゃ潰されたけれど、これは今から思うとえげつない感じもあったけれども、西山先生がやられたようなやられ方ではなかった。ただ管理職やってましたからそういう意味でそういうことをされた。あまりそういう思想の面でやり合ったということは僕自身は無いですね。

−:それは組織対組織になるんで、建築の学生ではないですが、建築を学ぶとか、あるいは建築を志すという意味では、その範囲では共有できてるわけですよね。そうすると建築の学生対建築の教官という所での軋轢とか、そういうのはあまりないんですか。大学の教授会対新左翼の学生とかあるいは民青の学生とか、そんな構造だけなんですか。(古阪)

巽:そう思いますね。あまり、新しい建築学とはなにか、とかそういうふうにはなっていかなかったですね。

−:僕は紛争直後に入って、その時には新左翼であれ民青であれとにかく集ろうということにして、随分議論したんです。授業もない代わりに毎日議論したんです。その時にはそういう組織対組織の抗争とかあったんですが、建築の中の学生間という意味ではかなり共有できていたというふうに思います。だから一番紛争が激しかったころはどういう状況だったんだろうと今まで疑問だったんです。(古阪)

巽:建築の中でそういう議論があったと思えないですけどね。あまり愉快な話じゃなかったから、もう忘れてるね(一同笑)。何回もやってるから、何をその時議論したか…。

−:東大は荒れてるとき入試無くしてるからちょっと事情が違いますけど、吉武研、計画学的な話でいうと、学問的というと大げさですけど、やはり建築計画学批判でしたよ。吉武先生がいろいろ、例えばワンフロアー・ワンナースユニットからツーフロアー・ワンナースユニットですね、合理化案を東大病院に出したら、看護婦さんが労働強化だ、と言って後を追っかけ回されたりって、それが最初の授業なんですよ、2回生くらいの。吉武先生は偉かったなあ、と思いますけど、それを講義でしゃべって後はずっとディスカッションです。その時にいた助手の松川さんなんか、一緒に座り込んでで捕まったんですよ。彼女は看護婦さんの立場に立って、計画学は使う側の立場でやるじゃないかっていう話で座り込んで、それは教室は不問に付しましたけどね。。そういうかなり計画の基本についてずっと議論したんです。僕はかなりそれが下地になりました。面白かったし、原点になってます。(布野)

巽:僕はあまり西山先生がやられたのは中身を聞いてないんだけど、建築学と計画学の中身の話と言うよりもセクト間の代表として、それが強かったと思います。だから何言ってもだめなんですよ、そういうときに。

 

 楽しく気軽に議論したい

−:最後にお訊きしたいのは、今の、例えば京大の教室に対する期待とか、今の学生とか、そういった話について言うと、どうですか。

巽:この建築学科に、ここに来たのは何年かぶりですよね。あまり足を向けたくない感じですよね(笑)。今回はこういうことがあったから来たけれども。それから洞竜会も年に1回有るけれどあまり行きたくないですね。どう言ったらいいかわからないけれど問題があるな。楽しくないですよ、少なくとも。で、僕の立場から言えば、もうちょっと楽しく気軽に来れて、誰かと話しようかな、と。

−:もっと、来て下さいよ(笑)。

巽:それはともかく、そういう気分がある。ただ京大は、非常に重要な位置関係に学会の中ではあると思いますよね。講座の数も全体として言えば多いからそういう総合力を発揮して欲しいなと。そういう意味でこの企画は非常にいい。僕のいた頃も『建築学研究』を復活したらどうかという意見もありましたけれども実際にはそうならなかった。

−:まだ教室全体のメディアというふうにはなっていないんですけれど・・・。

巽:学術研究の発表という舞台は、建築学会もあるし、他にもたくさんあると思うんですよね。ジャーナリズムも随分ありますし。やっぱりそれとの関係で言うと、このジャーナルは、いわば建築学科の建築学の広場という感じがするんですね。ですからむしろ他の分野の人に自分たちの分野の研究を理解してもらおうという、一つのネットワークづくりのような気がするんです。そういうことにむしろ徹してね、無理矢理学術論文をあなたの分野で何でもいいから書いてくれ、というような頼み方じゃなくて、もうちょっと共通の広場に対して何が寄与できるかということでやってもらったらいいな、と思うのが一つですね。それからもう一つは、本を出すだけでなくて、年に1回講演会とかシンポジウムとか、そういうものをやってもらったらどうですかね。これは京大建築会でもいいし、あるいは洞竜会がやってもいいかもしれないけれども。そして一人だけじゃなくて、3人くらい立って、共通のテーマについて3人くらいの専門の違う人から、まあシンポジウムのようなもんですね、なんかそういうものをして、そして京大の卒業生だけでなく広く発信する。要するに京都の京大の建築学科を一つのコアにする、それこそ西日本のコアにするくらいのものにしていただいたら、これは生きてくると思うんです。それともう一つ、『traverse』はどうしてこんなに字が小さいんですか。字が小さくて、もうちょっとバリアフリーにしてもらわないと、芸術的な表現かもしれないけど。高齢化対策は、建築や住宅の分野では熱心ですけどね、そういいながら例えば今の字の問題もそうだけど、この頃カメラとかコンピュータとか全部小型化するでしょう。小型化すると部品の全てが小型化してね、例えばスイッチなんかも小型化する。カメラを買ったらね、カメラのフィルムを取り替えるためにはね、爪を立てて小さいのをこうカチッと開けないとね、開かないんですよ。これ、高齢者が一番不得意な操作ですよ。集中してどこかに力を入れるなどは非常につらいのです。だから極端なことを言えば、小さくなればなるほどカメラはもうボタンだらけ、スイッチだらけというのが明瞭なね、デザイン上はまずいかもしれないけど、そういうものでないと高齢者向きにならないよね。ところが現実は小さくなってしかも黒のボディにネズミ色の字が書いてあってしかも、英語で書いてある。これはもう最悪です。これはやっぱりデザインのポリシーがなってない。

−:いや、我々もだらしないんだけど、如何ともしがたいこともありまして。名誉教授室も無くなってしまったし。

巽:そうですよ。来てもね、居るところがないし、それから皆さんをディスターブしてもいかんなという気もあるし。

−:我々外に出てることが多いから。

巽:そうでしょう。居ないことも多いでしょう。だから、こういう機会を年に1回か2回作って頂いたら喜んでやってきます。

−:ちょうど時間です。またお呼びしますので。

巽:はいはい、また。

traverse 巽先生インタビュー 2002.3/8(金) @建築新館318号室

2026年2月15日日曜日

RUBBAR —セトギワケンチク論、日本建築学会大会、農村計画委員会PD, 20200910

 


部門  農村計画部門

種別  パネルディスカッション

表題  RUBBAR —セトギワケンチク論

④当日頒布する資料の有無  資料あり

⑤日時  910() 9:3013:00

⑥会場  

司会者・副司会者・記録者(氏名・所属)

 司会  三笠友洋(西日本工業大学)

 副司会 津村泰範(長岡造形大学)

 記録  下田元毅(大阪大学)・宮崎篤徳(関西大学)

 

パネリスト(氏名・所属)

1. 主旨説明 大沼正寛(前掲)

2. 主題解説

 ❶世界と日本のセトギワケンチク  中谷礼仁(早稲田大学)

 ❷さいはての風景と建築の力    渡辺菊眞(高知工科大学)

 ❸東西日本と台湾の震災前後    渡邉義孝(尾道市立大学)

 ❹南三陸町・ルーラルの設計現場  阿部 正

               (ノーマルデザインアソシエイツ)

 ❺山海の居住地理とフロンティア  平田隆行(和歌山大学)

3. 討論   コメンテーター:   布野修司(日本大学)

                  山崎寿一(神戸大学)

       進行:稲地秀介(摂南大学)・魚谷繁礼(建築家)

4. まとめ  大沼正寛(前掲)

 

主旨文

 美しい農山漁村に美しい建築を添えたい、それは建築に携わる全ての人々の願いであろう。だが課題はあまりにも多いし、主体は地域である。私たち建築関係者はしばしば、身勝手が過ぎる。

 農村計画委員会ルーラルデザイン小委員会では、共通命題として「地域に根ざし、地域を育てる建築」を掲げ、双方を満たすものを

  RUBBAR: RUral-Based and rural-Build ARchitecture

と呼び、ルーラルエリア(農山漁村・田園地域)に立地する建築・住宅の現在・未来形を主眼とするデザイン論の構築をめざしている。

 背景の一つには、東日本大震災とその後の復興への疑問もあったが、それから10年を迎える間もなく、今度はcovid-19感染症が世界を襲っている。各地で散見される二極化や分断を超えて「地域に根ざし、地域を育てる建築」は、如何に可能だろうか。

 その糸口として、本パネルディスカッションでは「セトギワケンチク」を採り上げる。ポツンと一軒家も、災害復興も、歴史的建造物の保存も、瀬戸際に立たされつつ、次の目標に向かうフロンティアとなりうる。セトギワ≒フロンティアでは、地/図/時が反転することがある。建築をとりまく主役は、建築家ではないことが多い。地域計画論も、薄っぺらいデザイン言語も通用しない。そのような現場が眼前に広がっているのがルーラルエリアなのかもしれない。

 それでも、建築は実存している。セトギワとフロンティアの狭間を痛快に闊歩する異色の研究者、建築家、修復家らに話題提供いただき、キワモノでなく至極マトモな建築論を交わし、RUBBARの目標像を見出すことを目標としたい。

 

2026年2月14日土曜日

traverse05,前書、 2004

  traverse5  新建築学研究第5号

 

 イラク戦争は泥沼化し、戦争終結宣言後に、さらに多くの人命が失われた。日本人も政府高官2名、ジャーナリスト2名も犠牲となった。混乱のうちに暫定政権が発足し、ようやく国連でもイラク統治についての決議案が全会一致で採択されたけれど、予断は許されない。しかし、この一年は一体なんであったのか。帝国の傲慢のみが際立って空しい。

国内は依然として構造改革が進行中である。建設業の農業への転進、介護分野への進出、リフォーム、コンヴァージョン・ブーム、ほぼ予測されたとおりの流れが次第に大きくなりつつある。まちづくりの隆盛、地域社会の潜在力の再評価も急である。景観緑三法の成立も大きな時代の転換を示している。

 ただ、新しい建築の登場という意味ではいささか寂しい。元気なのは北京オリンピックを控えた中国である。中国に限らず、海外での日本人建築家の活躍が目立つ。しかし、そこに何か、胸躍るような建築が出現しつつあるかどうかはまだわからない。

環境、環境というけれど、そう唱えるだけでは新たな建築は見えてきていないのではないか。 

 大きな変革への流れを見据えながら、本質的な議論をしたい。時代に対して敏感でありながら、深い思索を重ねたい。traverseの願いである。

 

(布野修司/編集委員会)

2026年2月13日金曜日

traverse03 前書、traverse, 2002

 

 バーミアンの大仏の爆破破壊が予兆であった。11th Septemberのテロは既に計画されていたのである。

 ガンダーラと京都大学の関係は深い。京大隊は、何次にもわたって発掘を続けてきたのである。しかし、インド・パキスタンの分離独立以降、イスラームを国教とする国に属することになった地域で仏教遺跡を発掘する危うさは以前から指摘されてきたところでもある。偶像を禁じられているムスリムにとって、仏像などの遺産はほとんど意味をもたないのである。世界史的遺産といってもそれが通じない、切羽詰まった現実がこのテロの背景にはあるのである。

 それにしても世界貿易センターの(WTC)の一瞬の崩壊は世界中の建築界にとってショックであった。巨大なジェット機が超高層ビルに突撃することなど誰もが予想しなかったことである。この事態は、建築設計の思想、理念、方法をめぐって、最も深いところで受け止められるべきであろう。それにしても、テロリストのひとりが建築、都市計画を学び、歴史的な都市遺産についての論文を書いた人物であったことは何かを暗示するのであろうか。

 日本の構造改革の行方は未だ見えない。建築学の行方をめぐっても議論は必ずしも煮詰まらない。しかし、地に足をつけた論考こそがいつでも基本である。そして、真摯な議論の持続がtraverseの指針である。

                  

 布野修司/編集委員会

 

2026年2月12日木曜日

韓国 ソウルSeoul:日本建築学会建築計画委員会春季学術研究集会: 建築計画委員会主催:布野修司・朴重信・趙聖民・田島喜美恵,竹田誠司,足立真由子,岡崎まり,中村善裕,中濱春洋,中貴志,松宮佑里

 韓国 ソウルSeoul:日本建築学会建築計画委員会春季学術研究集会: 建築計画委員会主催:布野修司・朴重信・趙聖民・田島喜美恵,竹田誠司,足立真由子,岡崎まり,中村善裕,中濱春洋,中貴志,松宮佑里









2026年2月11日水曜日

渡辺菊真展、2019年12月3日~5日

 渡辺菊真展、2019年12月3日


渡辺菊眞建築展

建てぬ建築 建てる建築 感涙の風景 

 

概要

建築家であり、高知工科大学で教鞭をとる渡辺菊眞の建築展。氏はアフリカ、ヨルダン、タイなど、世界各地において、建築を通した国際協力を展開しており、その建築は土着の建築文化と、土嚢建築をはじめとする簡易な代替工法を融合して作り上げる独特のものであり、特にその土地の現在的状況を読み取って工法を選択し空間を組上げることに特色がある。また、近年は日時計が組み込まれたPassive Solar Architectureをてがけており、地球と宇宙の間に人が生きることをテーマにした環境建築を構築している。

 それらに共通するのは建築がおかれる土地や環境の的確な読みと、より大きな環境への接続の意志である。建築と土地の在り方、建築と風景との折り重なりが執拗に追求される。本展では、これら世界各地の場所において実際に建てた、あるいは建てる意志をもって設計された「建てる建築」、土地や環境が具体的に提示されながら、あえて建たない建築を構想することで、建築の新たな可能性を紡ぎだそうとする「建てぬ建築」、そして、その双方に刺激を与える活力源としての、高知をはじめとする各地の風景や空間が「感涙の風景」として紹介される。「建とう」が「建つまい」が、土地・環境を読み尽くし、活力源としての風景を求め続ける渡辺菊眞の25年に渡る一大作品集成展である。

 

 



会期・場所

20191203—1205日 10:00-18:00(ただし最終日は16:00まで)

会場:高知市文化プラザかるぽーと7階市民ギャラリー第3展示室

入場料:無料

展示形式、パネル(写真、図面、スケッチなど)と模型

後援予定団体:

高知県立大学法人 高知工科大学,公益社団法人 日本建築家協会四国支部

 


2026年2月10日火曜日

「AIと人文知」対談セミナーシリーズ第2回開催 招待者 布野修司 諏訪正樹(慶應義塾大学 環境情報学部) 三宅陽一郎(立教大学大学院人工知能科学研究科) 藤井晴行(東京工業大学 環境・社会理工学院)2023/6/12(月)20:00~22:00

 AIと人文知」対談セミナーシリーズ第2回開催のお知らせ 


諏訪正樹(慶應義塾大学 環境情報学部)
三宅陽一郎(立教大学大学院人工知能科学研究科
藤井晴行(東京工業大学 環境・社会理工学院) 

人工知能研究は「人の知、社会の知はいかに成立しているか」、「人間とはいかなる存在か」という根源的な問いを礎にして「生きることに向きあう」人間研究になるのがよいという思想を、私たちは有しています。そこで「AIと人文知」対談セミナーシリーズは「生きる」ことにかかわる6つの人文知領域(衣・食・場・医・身体・歴史)から毎回識者を招き議論します。みなさま、ぜひ聴講参加ください(参加無料)。

詳細な企画意図は以下をご覧ください。https://keio.box.com/s/hweldgvdgycq6nnnns5bpms2vsj354m7


2回開催日時:

2023/6/12(月)20:00~22:00 (議論が長引いた場合は延長あり)

(オンライン開催:zoomリンクは後日配布)

招待者+企画者3名の対談・議論の初回です 


2回の招待者:

布野修司氏(日本大学客員教授、滋賀県立大学名誉教授):人文知領域=場(住・トポス) 

専門は、建築計画学、地域生活空間計画学。主要著書に、『曼荼羅都市』『ムガル都市』『大元都市』『近代世界システムと植民都市』『世界都市史事典』『アジア都市建築史』『スラバヤ:コスモスとしてのカンポン』など多数あるほか、主要論文に、“Ancient Chinese Capital Models: Measurement System in Urban Planning Proceedings of the Japan Academy Series B: Physical and Biological Sciences93 (9), 2017)がある。また、『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』(東京大学学位請求論文、1987年)で日本建築学会賞、『近代世界システムと植民都市』(編著、2005年)で日本都市計画学会賞論文賞、『韓国近代都市景観の形成』(共著、2010年)および『グリッド都市:スペイン植民都市の起源、形成、変容、転生』(共著、2013)で日本建築学会著作賞など、受賞歴も多数。

https://funoshuji.blogspot.com/

http://blog.livedoor.jp/funoshuji/

http://blog.livedoor.jp/funoshuji-loach/


2回の聴講参加申し込みフォーム:

以下から申し込んでください(610締切)。前回参加なさった方も新たに以下からお申し込みください。zoomリンク情報は611にアナウンスさせていただきます

https://forms.gle/KZyyXwhFZTH6ZtyCA

 

過去の開催:

1回開催(2023/4/3):企画者3名が企画意図を論じ、聴講参加者と議論

ビデオは以下(企画者プレゼン部分のみ:6/12まで視聴可能、ダウンロード不可)

https://www.dropbox.com/s/2wjn0h77ndoejpl/AI%E3%81%A8%E4%BA%BA%E6%96%87%E7%9F%A5%EF%BC%88%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%9B%9E%EF%BC%89%E8%A6%96%E8%81%B4%E7%94%A8.mp4?dl=0

 

問い合わせ先:

ai_jinbunchi@googlegroups.com

2026年2月9日月曜日

51Cは呪縛かー集合住宅の戦後から現代をさぐる 鈴木成文 上野千鶴子 布野修司  2003年3月20日

51Cは呪縛か 鈴木成文 上野千鶴子 布野修司 2003/03/20





 

布野 —— 「51Cは呪縛か。」という呪文みたいなタイトルですが、サブタイトルの方には、わかりやすく「集合住宅の戦後から現代をさぐる」とあります。基本的には日本の集合住宅がこれからどうなっていくのか、あるいは日本の家族がどうなっていくのか、というのが大きなテーマとなります。議論の鍵として「51C」という記号があるわけですが、「51C」に象徴される標準住居モデルが日本の戦後住居の在り方を規定してきたとすれば、それは問題ではないか。また、なぜそうなったのか、という問いかけがテーマとしてあります。一方、今日いらして下さった上野千鶴子先生は「近代家族の終焉」ということをおっしゃいますが、近代家族の行き着く先はどこなのか、ということもテーマとなります。

今日のオーディエンスの中には建築関係の方が多いと思います。空間の型には関心が高いと思います。近代家族の終焉が提示され、前提とされるとき、どのような住宅のモデルがあり得るのか。お手元のパンフレットには少し過激に、「nLDKをいかにして潰すか」と書いてあります。上野先生は「空間帝国主義」と決めつけられるわけですが、果たして、空間は生活や家族を規定できるのか、という問題は建築家も考えてきたわけです。「空間帝国主義者」という言い方には、鈴木先生が打ち立てられた建築計画学そのものに対する批判が込められていると思いますが、では何が可能なのか、そういったことが隠されたラディカルなテーマとして挙げられると思います。今日も山本理顕さんがいらしていますが、このシンポジウムは2回で行なわれます。今日は、51Cとはなにか、またその時代背景を考えるということですが、おそらくそれ以降、また今後の集合住宅がどうなるかといった話にまで広がっていくだろうと思います。最初に51Cの提案者として鈴木先生の方からレクチュアを頂きまして、続いて上野先生から51C批判を頂こうと思います。それらを聞いた上で議論に移りましょう。今日は大先生がたくさんおいでですので、壇上の議論の後、是非フロアからも発言を頂きたいと思います。

では、先生方を紹介します。鈴木成文先生は1927年生まれ、東京大学を卒業され、神戸芸術工科大学学長を務められ、現在、東京大学、神戸芸術工科大学名誉教授でいらっしゃいます。今年76歳です。51C、公営住宅標準設計51年C型案計画当時は24歳でした。吉武先生のもとで、郭茂林さんと一緒になって設計されたんですね。上野先生に言わせると24歳の大学の頃の提案がどうして半世紀も日本の住宅を縛っているのだということになります。本日は51Cの当事者として半世紀以上たった現在、当時を振り返り、51Cとは何だったのか、そして、現在、51Cを生んだ計画理念、手法をどのように考えればいいのか、お考えをお聞かせ頂きたいと思います。鈴木先生、よろしくお願いします。

 

鈴木 —— 御紹介頂きました鈴木です。今日は高名な上野千鶴子さん、布野修司さんと一緒にお話ができることを楽しみにしております。また、前方に学生さんが床に座っているのがとてもいい雰囲気ですね。設計演習の作品講評会のように気楽にお話できればと思います。最初にお断りをしておきますが、以前、舌癌で舌の一部を切り取りましたので聞き取りにくい箇所があるかも知れません。また、即座に言葉が出て来ないことがまどろっこしいと思われるかもしれませんが、ご了承ください。

 本日のシンポジウムは、51Cは呪縛かというテーマを掲げているわけですが、私は俎上の鯉のような気持ちでおります。ここにお集り下さった方のほとんどは51Cが何かご存知かと思いますが、若い学生さんもおられますので、まず始めにその解説をしたいと思います。

51C」とは1951年度の公営住宅の標準設計の一つの型の名称です。公営住宅とは県営住宅とか、市営住宅といった公的な賃貸住宅です。当時はABCと三つの型がありまして、住戸面積は、共用階段部分を含んで、それぞれ16坪、14坪、12坪です。その最も小さいものが51Cです。これは全国的にたくさん建てられ、その後の公団住宅にも引き継がれ、いわば公共住宅の原形となったわけです。但し、60年代以降は建設されておりません。その設計の原案を東京大学の吉武研究室が作ったのですが、私は当時、大学院生としてその設計に参加しました。吉武先生は当時30代半ばでしたが、昨年86歳で亡くなられました。

 今や50年以上前のものですから、歴史上の意味しかないと思っていたのですが、昨今、しばしば話題にされています。例えばこの2、3年の間にも、角川出版、平凡社、INAX出版の単行本で取り上げられています。『新建築』、『住宅建築』、『Casa Brutus』といった雑誌にも扱われました。また、大阪市立大学や神戸芸術工科大学などの卒業論文や修士論文のテーマともなり、わざわざ私のところまで質問に来られた学生さんもおられます。来週このシンポジウムにいらっしゃる山本理顕さんによる現在進行中のプロジェクト、東雲の集合住宅では明らかに51Cを設計の標的にしておられるようにも感じられ、「51Cを壊す設計をします」と言われたのです。これでは「51Cは呪縛か」と言われても致し方ないかなとも思います。

 51Cの作成の経緯とその考え方をざっと説明しましょう。若い方も多いので、当時の社会背景から説明をする必要がありますね。

 大平洋戦争の末期、アメリカの空襲によって日本の大都市の多くが焼け野原になりました。当時、住宅はほとんどが木造でした。写真は焼けた私の家の側で私自身が撮ったものです。4月13日の大空襲によって焼けてしまったのですが、この写真を撮ったのは11月でした。半年もこんな状態だった。爆撃を避けるために穴を掘った防空壕に焼けトタンをかぶせて、半年間住んでいる人たちも大勢いたわけです。

 若い方々にはとても考えられないかも知れませんが、お米などの食料もなく、衣服も古いものを繕って着ていた。迫ってくるその年の冬をどう乗り切るかが社会的に大問題になっていて、政府は応急越冬住宅というものを約2万戸建てました。屋根にもルーフィングという防水紙を葺いていて、ほとんどバラックのような状態でしたが、これが、国がお金を出して建てる公営住宅の前身になったんです。

 このとき、後に建設省になる戦災復興院という役所ができました。その第二代総裁が、阿部美樹志さんという偉い方で、この方は若い頃にアメリカで勉強して学位をとった鉄筋コンクリート構造の専門家であるのですが、前述のような貧弱で粗雑な住宅では、またすぐに不良住宅になってしまうだろう、戦災の復興には将来の都市の姿も考え、是非、不燃の鉄筋コンクリートの集合住宅、アパートが作られるべきだと考えたわけです。資材も資金も人手もない中、町には家のない人が溢れているわけだから、周囲の人たちは今は木造住宅を少しでも多く建てるべきではないかと、阿部総裁を引き止めたのですが、彼は断固としてその計画を進め、試験的に鉄筋コンクリート4階建てのアパートを三棟建てました。それが戦後初の「東京都営高輪アパート」です。

 これによってその後の不燃構造の公営住宅への道が開かれたわけだからその功績は大きいと思います。しかし、とにかく安く建てるということが大命題であったため、公営住宅は飾りもなにもない安建築であるという観念をも定着させてしまったわけです。

 この写真は40年後、今から10年前にヒヤリングをしたときの様子です。当時若かった方が80歳代です。

 次に、1949年には公営住宅を全国に展開させるために建設省によって標準設計がつくられました。49A49B49C、それぞれ16坪、14坪、12坪です。当時、地方には鉄筋コンクリートの建物などほとんどありませんでしたから、技術指導という意味があり、また国の事業として水準を統一する必要もあったため、標準化は避けられなかったわけです。これは学校建築や病院建築でも同様です。

 新宿区戸山ヶ原の練兵場の跡地に建てられた団地です。ご覧のように貧弱な砂場しかありませんが、当時としては全く新鮮な風景でした。学生だった富安さんなどもそう語っておられます。

 標準設計は建設省によって建築設計監理協会 今でいう日本建築家協会 に依託され、個々の設計は各設計事務所に割り振られて行なわれました。

 51年度の標準設計の作成にあたっては、やや大きな委員会が作られて、今後の日本の公営住宅が如何にあるべきか議論された上で設計が行なわれました。委員会は建築家、学者、行政官ら20数名によって構成されていたのですが、その中に東京大学の吉武泰水助教授がおられたのでうが、その委員の一人として提案した案が、たまたま委員会の合意を得て原案通りに採択されたものが「51C」であるのです。実施設計は久米設計事務所が行ないました。吉武研に設計が依託されたというわけではないのです。

 委員会は当事銀座数寄屋橋の近くにあった建築学会会館の2階の会議室で行なわれたのですが、私は時々吉武先生の後ろについて行ったり、時には代理で出席したこともありました。松田軍平さんが委員長で、委員には市浦健さん、久米権九郎さん、やや若手の方としては伊藤喜三郎さんなどがおられました。学者では勝田高司先生などがおられましたね。

 設計過程を紹介しましょう。その3、4年前から我々は、一般の零細住宅や労働者住宅など木造住宅の調査研究を始めていました。住み方調査とは、戦時中に京都大学の西山夘三さんが始められたもので、その「食寝分離論」は有名です。当事の建築界では、日本建築の特色は部屋の融通性・転用性にあるという考え方が一般的でした。つまり、畳の部屋は就寝にも、食事にも、接客にも、勉強にも使える。それに対し西山さんは「それは違う」と主張されました。庶民の零細な住宅では二畳の間という小さな部屋を設けてでも食事の場を独立に確保していると。豊富な調査事例を元に、食と寝、つまり食事の場と寝る場所の分離は小住宅における基本的な要求であると主張したわけです。

 吉武研究室でも西山論文をよく読み、議論しました。西山さんの主張はもっともでありました。しかし我々は調査を通じて、間取りの影響も強いということも次第に明らかにしていったのです。間取りの影響とは、人の生活実態における法則性の発見のようなものだと思います。当時は9坪や10坪に5人も6人も住んでいたわけですから、食事と就寝が部屋の使い方の大要を決めてしまいます。家族が若いうちは一部屋で寝ていますが、子供が段々成長してきたり、あるいは家族の人数が多くなってくると、いつかの時期に二部屋に分かれるようになります。我々はこれを「寝室の分解」と呼びました。どういう間取りであれば、寝る部屋が二部屋に分かれやすいか。まずはそれを主要な研究テーマとしたのです。

 調査対象の中での典型的な例ですが、同じ9坪でも台所の位置がABでは違います。これによって双方の生活が大きく違うということを我々は発見しました。台所に近い部屋で食事が行なわれるわけですが、小さい部屋、4畳半で食事が行なわれる住宅では6畳に集中就寝してしまい、寝室が分解しにくい。一方、大きい方の部屋、6畳で食事が行なわれる住宅では寝室の分解が早い。こういう間取りの性格を、これ以外のたくさんのプランの住み方調査を通じて立証したのです。

 しかし、2室住宅では、寝室の分解が即、食寝の非分離になります。これを解決することが51年度の我々の設計での一番の目標だったのです。

 設計の際のエスキスが保存してあったのでご紹介しましょう。最初の図は1950年2月2日、委員会が始まる大分前のものですね。住宅調査をしながら今後の日本の住宅はどうあったらいいか自由に考えていました。当時、助手をされていた郭茂林さんという方が描いた図面です。寝るための小さな二部屋は、押し入れで区切られています。

 次の図は8月10日付け、私が描いたものです。実は私の同級生の矢吹茂郎くんという方が都庁に就職して都営住宅の係になっていました。ある時彼から電話がかかってきて、都営住宅の新しい型を設計してみないか、俺が上に提案するからと言われたんです。私は暑いさなかに設計して彼に届けたのですが、そんな新人の提案が取り上げられるわけもなく、彼の机の引き出しに眠ってしまうことになったのです。これは二部屋の間を強引に壁で仕切っています。台所を拡げ、そこで食事ができるようにと考えました。寝室の分解と食寝分離の両立を図ったわけです。

 秋になり、公営住宅設計の委員会が始まりました。この図は吉武さん自身が描かれたものです。日常生活を大事にするために、物置や、荒っぽい仕事ができるし、床に水を流し子供が行水をすることができるようなバルコニーを設けたものです。

 これがほぼ原形のようなものです。翌年の2月末まであと何枚もエスキスはありましたが、そのうちの4、5枚を紹介しましょう。これは最初の案の発展型です。

 ABC、即ち16坪、14坪、12坪のプランです。実は吉武研究室としてはACがあればよいと主張したのです。つまり、3室型か2室型か。B型は中途半端だからなくてもよいという提案をしました。しかし、建設省は、3つの型を作るための予算をとっているので、3つでなくてはならない、と言うんですね。

 日本の昔からの慣習に従って南に畳の部屋を並べる案も考えました。

 階段室が南、つまり南入りの型もスタディをしました。

 これが最終的に吉武研究室として委員会に提案したものです。C型の南入りと北入りと、A型です。いずれも台所は食事ができるように広めに確保してあります。部屋と部屋の間は、襖ではなく壁で仕切っています。しかし、全ての部屋を壁で仕切ってしまうと狭苦しくなってしまうので、台所と南のひと部屋とは襖でつなぎ、広い空間が得られるようにと考えています。

 このC型のプランが委員会でそのまま採用され、51C-N51C-Sとなったわけです。実施設計は久米権九郎さんの久米設計が、原案を尊重しほとんどそのまま設計して下さいました。

 食事のできる台所は後にダイニングキッチンと呼ばれ、5年後に設立された住宅公団にも引き継がれました。また、民間の住宅や農村の住宅にまで普及しました。

 台所で食事をするという生活は、我々が勝手に考え出したことではありません。当時の木造住宅の調査では、台所で食事をしているという世帯が1割ほどありました。10%という数は統計的には無視されてしまいがちな量ですが、我々はそこにこれからの姿を見たと思ったのです。生活を積極的に考えている世帯にそういった住み方が多かったんです。これは調査して歩いた実感です。この住み方が今後の姿を先取りしている例ではないかと考えたわけです。

 一方、寝る方に関しては、木造住宅では、夏には家中の襖を取り払い、一つの空間にして寝ている例もありました。しかし、健全な家庭生活のためには、二部屋に分かれるプランがいい。これは設計の際の理念といってもいいでしょう。

 隔離された部屋は基本寝室として、夫婦が寝るという想定はしました。しかし、二部屋の分かれ方に関しては、必ずしも親と子が分かれる必というわけではありません。木造住宅での住み方では、父親と男の子、母親と女の子といった例もありましたし、朝早く起きる母親だけ、あるいは夜勤のある父親だけが別室といった例もありました。夫婦が分かれて寝る例は日本では昔からかなり一般的で、我々のどの時期の調査にも夫婦別室就寝は2割から3割はあったのです。

 51Cのプランの空間構成では、仕切ることは必要ですが、たかだか35平米の住宅で、生活を全て機能別に分けるといったことは考えられません。生活をいかに重ね合わせるか、重合させるかが重要な問題となります。炊事と食事を重ねました。台所と南の部屋は襖で開放的につなげています。空間の重ね合わせを考えた中、北側の一部屋だけははっきりと仕切ったわけです。分離と重合、これが51Cの設計における一番の眼目でした。

 この設計の基本的な考え方は、設計の直後、515月に、建築学会関東支部研究発表会で発表した論文があります。その論文は『住まいの計画、住まいの文化』という本にそのまま収録してあります。

 最後にその後の展開について説明しましょう。5年後には日本住宅公団が設立され、51Cのプランの考え方がほぼ踏襲されました。ちょうど高度経済成長の始まりの時期に重なり、都市に集中する若い人口の受け手として公団が設立されたわけです。そして、大団地やニュータウンを作りました。様々な世帯に対応するために1DK、2K、2DK、3K、3DKといった型の系列を生み出したのです。私はしかし、この3DKのプランには非常に批判的でした。つまり、35平米の中で合理的な生活を、とぎりぎりに考えたものに、ただ一部屋付け加えただけというのではあまりに安易だ。3室、50平米になったなら、それに対応した生活の組立を考えるべきです。

 その後も、公営住宅、公団住宅などアパートの住み方調査も続けていったわけですが、2DKでは我々が想定した住み方がほぼ実現されているのが見られました。

 この頃から、家庭経済も豊かになり家具が増えてきます。洋風化の波にのり、ソファ、ピアノ、ステレオなどが家庭の中に侵入してきます。それらが置かれた畳の部屋は、次第にリビングルームの様相を呈してきます。公団はDKを拡大し、LDKというプランも作り出します。

 この頃から、公共だけではなく民間も住宅供給に参入してきます。民間は賃貸住宅ではなく、建て売り住宅とか分譲マンションを作るわけですが、民間はとにかく売れればよいとして、需要者に媚び、部屋数が多ければ好まれると思い込まれ、部屋の使い方や生活を考えずに部屋数ばかり多いプランが氾濫してきました。これは戸建て住宅でも同様で、二階に個室がたくさんあります。建築界ではこれを揶揄して「nLDK」と呼んだのです。nLDKを非難したのですが、住宅メーカーの力は強く、なかなかそこから抜けだせないでいるんですね。

 むしろ私たちは部屋割りを固定するのではなく、住み手の独自の生活要求や、生活の変化に順応するプランであるべきだと考えて「順応型住宅」という提案をしました。それが1974年です。住み手自身が生活空間を自分で作れる住宅です。

 住居の計画の考え方は時代、社会の変化に応じて変わっていくものです。51Cは過去のものだと思っていたのですが、近年再び呼び出されているという感じを受けている次第です。

布野 —— 上野先生の51C批判を充分に意識された上で、nLDKというワンパターンが蔓延したのは自分のせいではなく、住宅メーカーのせいなんだとおっしゃるわけですね。もうひとつ、近代家族の容れ物として51Cを作ったわけではなく、当時から実態として夫婦別室就寝もあったわけで、箱は自由に使っていいんだという伏線も張られていたように思います。

次に上野先生にお願いしたいと思います。上野先生は1948年生まれ、社会学者として幅広くご活躍のことは皆さんご承知の通りです。先生のお名前からはフェミニスト、ジェンダーという言葉が連想されますが、住宅メーカーなどの調査研究等もされております。一貫して都市コミュニティの住宅と家族についてご関心をお持ちのように思います。京都大学を卒業され、現在は東京大学大学院人文社会系研究科の教授をされています。

本日のテーマに直接関係する著書としては、『近代家族の形成と終焉』、そして、一昨年、山本理顕さんや隈研吾さんと『家族を入れる箱 家族を越える箱』という本を出されています。この中ではほとんどのページで51C批判が展開されているわけです。

上野 —— 本日は異業種交流に参りました。鈴木さんのお話をお聞きして、51CnLDKとは別物だとわかりました。2DKにただ一つ二つ部屋を加えただけではあまりに安易だというお話ですね。本日は51C批判にまいったわけではありません。撲滅すべき敵が鈴木さんと同じであることがわかりましたので、共闘させていただければと思います。

 鈴木さんも寝方調査や住み方調査をなさったとのことですが、私のもともとの関心も、寝方調査から始まりました。住宅にはゾーニングがあって、寝るところ、食べるところと、設計によって指定された機能があります。ところが実際には、住み手は指定された通りには空間を使っていないということがわかります。記号論の言葉を使いますと、空間の規則を住宅のシンタックスといい、実際の使われ方を住宅のプラグマティクスといいます。調べてみるとそのあいだにずれがある。昔からそうだったと鈴木さんはおっしゃるかもしれませんが、戦後の特徴的な変化をいえば、住宅に占める性の位置が大きく変わってきたということがいえます。これまでの住宅では、舅・姑がいるから夫婦生活も出来ないという悩みがあったりしました。戦後、核家族の容れものとして都市勤労者住宅が大量生産され、嫁姑の間の世帯分離がおきていきます。夫婦の性が家族の絆として浮上してくるのが1960年代のことです。都市型集合住宅は、日本型近代家族の容れものとなりました。

 近代家族では「家族する」ための条件は、夫婦がいることです。では、夫婦しているとはどういうことでしょうか。現実にそうしているかどうかはよくわからないけれど、タテマエのうえではセックスをしていること、少なくともそのふりをしていることです。セックスレスのカップルを「未完成婚」と呼ぶのは、たいへん象徴的です。しかし、社会学者は非常に疑り深い生き物ですから、タテマエを額面通りは信じません。わたしが夫婦の寝方に関心を持ち始めたのは1980年代のことでした。日本における寝方調査の最も古いものは1960年代に、こーディルというアメリカの人類学者によって行なわれています。「人生の3分の1は寝て過ごす。だれと寝るかはどうでもいい問題ではない」と考えた彼は、ゼロ歳児のいる家庭の寝方を調査して、日本では場合によっては夫婦別室を含む母子同室が圧倒的に多いことを発見しました。これは夫婦同室が原則で、たとえゼロ歳児であっても母子別室にするアメリカとは顕著な対照を示しました。これから彼は、日本における母子の未分化と甘えの構造を導き出していくのですが、こういう文化本質主義は眉につばをつけて聞きましょう。というのは部屋数が少なければ、そもそも選択肢がないからです。

 50年代には、規模の大小を問わず似たような集合住宅がどんどん作られていきます。平家でも同様なものが作られていきますが、間取りはあまり変わりません。鈴木さんは都市型住居についてお話されましたが、戦前の農家をごらんいただきましょう。いわゆる田の字型の間取りですが、家族員がどのように寝ているかというと、ちょうだという納戸で家族全員が雑魚寝をしていました。プランで言えば、入り口、土間、座敷、納戸がある。座敷で家長夫婦が寝て、のこりの家族員は納戸で雑魚寝をします。私はセクシュアリティ研究もしていますから、日本の夜這いについても研究しています。農家の世帯はどこも似たようなつくりで、鼻をつままれても分からないような暗闇の中でも、行き着くところまで行き着けます。家長夫婦の枕元を通ってめざす娘のいる納戸まで行くわけですが、雑魚寝していますから、時々、姉と妹を間違えたなどということもあったようです。プライバシーはありませんから、どんな暗闇でもだれがだれとできているかは誰でも知っています。家長夫婦も知っていて、見ぬふりをするわけです。

 農家では囲炉裏を囲んで、家長の座る横座は決まっていますが、それが後のちゃぶ台文化では、家長の座がなくなる食卓の民主化が起きます。やがてテレビが家族の中に入ってくると、テレビを一番よく見ることのできる位置が横座、おやじの座になります。その座はやがて子どもに奪われ、テレビが家族の中心になり、そしてパパがいなくなった(笑)。

 わたしは空間のシンタックスと空間のプラグマティクスのずれを研究するために、1988年に始めて調査を行ないました。松下電工A&I研究所のモニター調査に便乗して、ここで当時まだ珍しかったファックス機をモニターの人たちの家に入れて、寝方を図で描いて説明してもらうようお願いしたものです。その結果、夫婦別室就寝率は、該当者の14%と答がかえってきました。そのなかから、ファックス調査の一次資料の一部をお見せしましょう。多いのは典型的な川の字型の、夫婦と子どもが1室に就寝する雑魚寝です。夫と妻はセックスをするためには、子どもを跨いでいかなくてはいけません。調査データからわかったことは、日本の住宅において洋風化がもっとも遅れている部屋は寝室であるということです。しかも洋風化が進んでもダブルベッドの普及率は非常に低く、狭さの制約があるにもかかわらずツインが圧倒的でした比較的高経済階層の人たちでしたから、寝室の洋風化率は高かったのですが、ほとんど同室異床というツイン型でした。寝室とはなにをするところでしょうか。一方では眠るところであり、一方ではセックスをするところですが、同じ部屋で別々に眠り、お互いに夫婦をしているふりをする、ある種のタテマエが見られるが、同じベッドでは眠らないという日本型解決なのでしょう。

 こういった寝方調査を行なうことは、夫婦しているふりをしているというタテマエを暴くという、タブーに触れることになりますので、公然と人に聞くということができにくい。鈴木さんの調査では夫婦別室はひろく行われていたということですが、鈴木さんが調査なさった40年代までは夫婦の寝方をあからさまにたずねたり答えたりしてもよかったのかもしれません。が、60年代にはいり、近代家族の大衆化を経て、性の絆が家族の中心になって以降は、夫婦別室であることを公言することがはばかられる雰囲気が出てきたように思います。寝方調査が公然と行なわれた最初のデータが、92年のものです。旭化成DEWKS(ダブル・エンプロイド・ウィズ・キッズの略語で、DINKSの向こうをはったものです)研究所による夫婦の寝室ライフの調査です。この調査結果は予測通りで、わたしにはまったく驚きがありませんでしたが、むしろ、こういった調査が公然と行なわれる時勢の変化に驚きました。この調査によると、別室派が15%、年齢層が上がるごとにその比率が高くなっていきます。50代では4分の1が別室派です。さらに98年に、オーネットという高砂産業から、公然と夫婦の就寝調査のデータが出てきました。この調査では、配偶者との就寝形態が別々の部屋であるものが2割台に達しています。こういう調査を公然と行うことのできる時代が到来したわけです。

 近年になって、ついに建築学の専門家が、夫婦の就寝調査を行うようになりました。日本女子大卒の山崎さゆりさんという方が『住戸内における中高年夫婦の就寝形態について』論じておられます。彼女はこのテーマで博士号を取られたそうですが、この研究を始めた当初は周囲から何の役に立つのかと、理解を得られなかったそうです。彼女のデータによると年齢とともに別室が増え、夫婦の親密度とクロスさせると相関傾向があることがわかります。就寝形態が別々だから親密度が低くなるのか、親密度が低いから別々に寝るのか。どちらが原因でどちらが結果かは、わかりません。親密度が低いのに同室にしていれば、夫婦の破綻が早まったかもしれません。『家庭内離婚』の著者、林郁さんによると、セックスなしだから離婚せずにすむ、ということもあります。山崎さんのデータによりますと、就寝形態の希望と実態にジェンダーという変数を入れると男性と女性の差が出てきます。別室を希望しているのに実態は同室で困っているのが女性に多いこともわかりました。

 1970年に山本理顕さんが修士論文の中で次のような概念図を提示します。それについてご説明しましょう。nLDKの個室にそれぞれ家族がいて、そのなかでママだけがはみ出しているます。「ママの居場所はどこ?」という問いに対しては、お家のなか全部よ、という答が返ってきます。事実、ママは家族の個室にノックもせずに入る権利を持っていました。その後、家族が個族化していくと、個室のドアは閉じられてしまいます。今から思い起こせば、1970年は女性にとって画期的な年でした。なぜならウーマンリブが誕生した年だったからです。リブの要求はたった一つ、「私の居場所はどこにあるの」という問いでした。家族の中にはない、というのがその答だったのです。

 近代家族のハコである住宅は、私が「大草原の小さな家」モデルと呼んでいるコードでできています。個室を背後にリビングが玄関につながったnLDKモデルは、パパが家族をしっかり背負って社会に立ち向かう姿を示しています。実際には個室は決してデッドエンドではなく、外部へと脱けています。社会学者は早い時期から、個室が情報端末につながっており、家族のメンバーそれぞれが個別のルートで社会につながっていることを指摘してきました。それをそっくり模式化したものが、山本モデルです。私たち社会学者は絵にも描けないコンセプトを言語化しますが、コンセプト通りに空間を作ってしまうのが建築家ですね。わたしは愛と尊敬をこめて、山本理顕さんに「空間帝国主義者」という名称を奉りました。山本さんの命題は、「住宅とは、空間化された家族の規範である」というものです。つまり、家族の住むところが住宅なのではなく、住宅に住んでいる集団を家族と呼ぶ、と。空間帝国主義者にふさわしい、建築家としてのプライドのこもった命題ですね。

 それを実際の建築にしたのが、岡山の家です。これをユニットとして、積み上げて集合住宅にしてしまったのが保田窪団地ですね。岡山の家の中庭にあたる空間を、保多窪ではコモンスペースとインディヴィジュアルスペースをブリッジによって引き離すという仕掛けでつくりだしています。このユニットをつないで積み上げた合計で144戸の集合住宅、さらにコモンスペースとインディヴィジュアルスペースを二重構造にして中庭を集合的なコモン空間にしたてたものが保田窪団地です。細川知事の時代に熊本県がアートポリス構想をうちだしました。コミッショナーに磯崎新さんを指名して、気鋭の建築家に指名設計をさせるという政策でした。県営団地である保多窪団地は、その一貫としてできた作品です。わたしは入居後8年目に、東京大学社会学研究室の学生53人を連れて、保多窪団地の住民調査に出掛けました。その調査の結果、おもしろいことがいろいろわかりました。住民の入居理由のベスト3は早い、安い、近い。転居したいと思っていた時に募集があった、県営住宅だから家賃が安い、ロケーションがよくて通勤に便利。この3つです。実際に入居してみるまで、特異な設計など気にしていないことがすぐにわかりました。入居者は以下のように二極分解していました。古い県営住宅の建替えだったので、一つは住み替え定住型です。単身高齢者、母子家庭など、標準世帯からはずれた非定型的な世帯です。もう一つは低家賃通過型です。比較的年齢層の若い、低年齢の子どものいる夫婦世帯で、いずれ出ていくための通過点として公営住宅を選んでいる人々です。両者を比較すると、対比がくっきりと浮き上がってきました。定住型の住民の満足度が著しく低く、通過型の住民の満足度が相対的に高い。住み替え型公営住宅の限界が皮肉なかたちであらわれました。つまり選べない人たちは不満が多く、選べる人たちのほうの満足度が高かったのです。もしこれが、任意で選べるような民間の住宅や分譲であれば違う結果が出たかもしれません。しかし他方で、民間のデベロッパーはリスクの多い冒険をいやがります。空前絶後のユニークな山本プランは、公共住宅だからこそ可能になったという歴史のアイロニーがあります。

 2004年に入ってから、任意の住宅のチラシ広告から引っ張ってきたプランをいくつかお見せしましょう。サイズが大きくとも小さくとも、仕様がゴージャスであろうが質素だろうが、基本的なnLDKのプランはほとんど変わりません。nLDKというモデルは、誕生してから半世紀たった今も、いまだ耐用年数が尽きていない、驚くべき長命なモデルです。このモデルが再生産されていて、これに変わるモデルが登場していないという事実こそ、建築家の怠慢のあらわれでないか、とわたしは言いつづけてきました。ですから、先ほど、鈴木さんがnLDKは安易なプランだとおっしゃったことには、まったく同感です。

 ところで、90年代以降、日本の家族は急速に変化を遂げます。いわゆる夫婦と子供からなる世帯は、今や少数派、3分の1に転落して、3分の2はもはや非標準世帯に変わってしまっています。わたしは岡山県立大学大学院デザイン学科の集中講議を担当したことがありますが、その時、受講生に次のような課題を出しました。「家族をこえるハコを構想せよ。」ご存じのように岡山は地価が安く、学生に「わたしの家」を描いてもらうと、家族の数より部屋数のほうが多いような豪邸がいくつも出てきます。広さではなく、空間のコンセプトで、家族を超える空間を構想してもらおうと思ったのです。答には次のようなものが出てきました。住宅はかばんのようなものである。はみ出したり、むりやり詰めこんだりという操作が行なわれている。どうやって詰めこむかといった時、ファミリースペースを半透明、半開放的な空間にするというアイディアがありました。山本モデルに相当影響を受けていますが、このアイディアは、東雲の集合住宅に生かされる結果になりました。

 若い学生に課題を題しても、目の醒めるような提案は出て来ません。やはりnLDKの呪縛は強いと感じました。では住み手の側には、どういった住宅へのニーズがあるでしょうか。わたしたちが関西で実施したクリエイティブミズの「住みたい家は」という調査研究は、住むことをまじめに考えている先進的な人たちから学んだと鈴木さんご自身がおっしゃったように、京阪神のきわめてアクティビティレベルの高いミセスを対象に、住宅ニーズを探ったものでした。たとえば、運転免許を持っているとか、自分の名刺を持っているとか、自分のパソコンを持っていると答える比率の高い女性たちです。その結果、出てきたニーズを実際の空間に落として住宅モデルを作るという企画を、松下の研究所の田原晋さんが思いつきました。伊東豊雄さんや隈研吾さんたち、気鋭の建築家を指名して、実際に設計をしてもらうという夢の競演です。近代住宅のモデルではハコの中に家族が詰めこまれているとするなら、脱近代モデルでは、家族は半分はみ出し、流動的につながっています。山本理顕さんは、コモンスペースがチェーンのようにつながっているモデルをつくりました。妹島和世さんはゲートモデルをつくりました。伊東豊雄さんはその逆、インディビデュアルスペースが直接外部に対して開口部を持つモデルをつくりました。これは伊東モデルの展開例ですが、トポロジカルには全く同じモデルが一階と二階にわたって、立体的に展開していくものです。飯村さんがワンルームモデルをつくりました。コモンスペースを中心に、コーナーにインディビディアルスペースが分散しているワンルームモデルです。隈研吾さんはコモンスペースの選択を提案しました。個室がエレベーターを介して機能の異なるコモンスペースにつながります。選択肢が複数あり、自分の好きなコモンスペースが選べます。それをレベルを変えてタテにつないだのが、この住宅です。隈さんのアイディアは最近のユニットケアにも通じるおもしろいアイディアですが、これを見たとき、わたしはなぜ個室にベッドを入れるのか疑問に思いました。なぜ個室はすなわち寝る場所なのでしょうか。日本にはごろ寝や雑魚寝という文化があります。個室は寝る場所であるよりも、個人のアクティビティが行なわれる場所と考えたほうがいいのではないか。そう考えると、住宅は食う、寝る、セックスするというプライベートな活動に決して還元されないということです。

 わたしたちは、クリエイティブミズ調査から浮かびあがったニーズを、セミパブリックなインターフェイスのできる空間と考え、この空間をラボ(ラボラトリーすなわち工房)と名づけました。ラボ機能のあるスペースを住宅空間のなかに実現してくれたのは、三村さんのモデルです。ライフワークギャラリーというスペースがあり、ここには家族のコモンスペースを通らず、玄関から直接行けるようになっています。クリエイティブミズという先進的な女性たちは、この空間の中で、パソコン通信をしたり、自己研修をしたり、フラワー教室を主宰したり、工芸のための工房にしたいと考えています。

 ここで、住宅とは何だったのかという根本的な問いに戻りましょう。結論から言えば、住むためだけ、寝るために帰るためだけの空間はもういらないということです。活動したり、仕事をするための空間に対して、住むための空間が住宅としてつくられたわけですが、この背景には近代社会における職住分離があります。別の言葉でいうと、生産と消費の分離です。この生産と消費の分離そのものがゆらいできています。個室はもはや寝るための部屋、住宅のデッドエンドではなく、外界とのインターフェイスがあり、次世代型アクティビティのシーズとなるべきクリエイティブな活動を行なう場所になっています。住宅はもはや、消費空間に特化されてはいません。SOHOのようなオフィス・ユースがますます増えてくれば、住宅を商業目的に使用することを制限する現在の規制も、緩和される必要があるでしょう。

 そうなるとプライバシーの核にあったセックスはどこへ、という問いが出てきます。日本にはセックスのアウトソーシングという伝統があります(笑い)。仕事とセックスは家庭の中に持ちこまない、という人さえいるくらいです。セックスの問題は、大半が住宅問題ですが、日本にはラブホテルという世界に冠たる都市インフラが整備されているおかげで、セックスのアウトソーシングが比較的容易にできるのです。

 では、最後に家族にはなにが残るのでしょうか。家族が家族でなければならない理由はどこにあるのでしょう。もはやセックスがその理由にはならないとすれば、残るのは育児、介護、介助、総じてケアと呼ばれるものです。近代家族の核心にあったものは、ケアの私事化でした。うらがえして言えば、育児・介護の脱私事化こそ、近代家族の終焉と言えるでしょう。わたしは1994年に、『近代家族の成立と終焉』という本を書きました。まだじゅうぶん成立してもいないのに、終焉とは気が早いのではないかと言われましたが、わたしの見解では、近代家族はもうとっくに終わっています。耐用年数が尽きているのに、息も絶え絶えにまだ続いていることが問題なのです。むしろ家族がケアの機能をもはや果たせないという現実を認めて、その対策を考えるときが来ているというべきでしょう。介護保険は、介護の社会化すなわちケアのアウトソーシングへ向けての大きな一歩でした。もし家族に残された最後の機能であるケアをアウトソーシングするのなら、ケアを必要とする人々を抱えた住宅というハコは、外に対して開かれる必要があります。たとえばヘルパーさんや訪問看護師などの人たちが、外から入ってくることを前提に、空間が設計される必要があるでしょう。そのためには、個性的な住宅などいらない、とわたしは思っています。キーさえ借りたらどんな車種でも乗りまわせるレンタカーと同様に、水回りやトイレなど、初めてなかに入っても誰でも使い回せる定型的なモデルがあればじゅうぶん、と思います。装置系としての住宅インフラの汎用的なモデルのうえに、家族の生活形態にあわせた複数の空間モデルの提示ができればよい、それが、建築家の方たちにぜひやっていただきたい課題です。

 わたしは昨年『家族、積み過ぎた方舟』という訳書を出しました。マーサ・ファインマンというフェミニスト法学者の理論書を翻訳したものですが、帯には本文中からとった「法的制度としての婚姻を廃止せよ」というフレーズが書かれています。セックスしたからといって、いちいちお上に届けを出すなということですね。セックスするなら趣味でしろ、性的絆があるかどうかで家族を定義するなという提案です。では、家族の絆になにが残るのか。帯の文句では、「性の絆からケアの絆へ、新しい家族の定義が、今生まれる。」ポスト近代家族の流れはこの方向にいくだろうというのが、わたしの予測です。翻訳のタイトルに「積みすぎた方舟」とつけたのはわたしですが、ココロは、近代家族はそれが出航したときから、重荷を積みすぎていて、座礁は運命づけられていた、というものです。その「重荷」とは育児・介護の負担であり、もともと「ケアの私事化」は、近代家族には重すぎる負担でした。

 家族を超えたケアを可能にする空間はどんなものでしょうか。もう一つのわが家、という言葉がありますが、千葉県にある風の村という、ユニットケアではモデル施設と言われているものが、一つの例でしょう。ユニットケアは、個室+リビングの集合から成っていますが、トポロジカルには端末は必ずしも個室である必要はなく、離れたところにある各住戸でもかまいません。コモンスペースも必ずしも、一定の空間が指定されている必要はなく、ここがイヤならあちらがあるさ、と選択してもかまわない。家族が選べる共同性になっていく、というコンセプトを空間化するとこうなるだろうというモデルです。これがすべてだとは思いませんが、こういった試行が増えていけばいいのではないだろうかというのが、建築家へのわたしの期待です。

布野 —— 51Cどころか住宅も終わってしまっていて、議論が始めづらいですね(笑)。51Cにこだわって、その評価に対して議論をしたいのですが、鈴木先生は今の上野さんのパワフルな議論をどう評されますか。

鈴木 —— 難しくてよく分かりませんでした(笑)。「空間帝国主義」と言われましたが、建築をやっている者は、建築を作ることで人々の生活をどの方向に引っ張っていくかを考えているわけです。集合住宅では、特定の家族ではなく不特定な集団を相手にして、社会において、それがどのような方向に進んでいけばよいかに対して援助をする、刺激を与えるといったことを、公共住宅の計画・設計をする方々は考えているわけです。もちろん、民間のハウスメーカーの方もそう考えておられるのかも知れませんが。

 今の上野さんの話は、あんまりすっ飛びすぎていて、住宅でそこまで考えることがあるのかという感じを受けました。

上野 —— 今の鈴木さんのご発言をお聞きして、山本理顕さんだけではなく、建築家はそもそも帝国主義者なのだという印象を受けました。あるべき生活に引っぱっていくための空間づくりを考えておられるんですね。鈴木さんはご著書の中で、住宅には順応型の他に理念型というものがあるとおっしゃっていますが、本日は理念型のお話がありませんでしたね。実際の生活とは若干のずれがあったとしても、理念型の住宅で生活のほうを引っぱっていくという規範意識がおありなのでしょう。それにくらべると、社会学者はミもフタもないリアリストです。規範と実践は、やさしい言葉でいいかえると、タテマエとホンネと言ってもよいでしょうが、タテマエとホンネはずれるのがあたりまえ。そのふたつがずれていたら、タテマエにホンネを合わせるのではなく、ホンネにタテマエを合わるほうがよい、とわたしなどは思いますが、建築家は逆に、タテマエにホンネを合わせるという提案をしてこられたわけですね。

鈴木 —— そうですね。建築は大体そうでしょうね。

布野 —— 空間帝国主義者と言ったとき、おそらくここにいらっしゃる建築関係者の大半が当てはまるでしょう。また、空間のあり方を決定するんですから、これは帝国主義的暴力です。僕は鈴木先生の弟子ですから、もちろん、空間帝国主義者ですが、別の解説をさせて下さい。戦後、51Cを提示する背景には、ある種の啓蒙主義があったと思うんですね。要するに、戦後近代住宅のモデルを提示したいと多くの建築家は思っていたんです。そして、51CnLDKにつながっていく論理展開はあったと思っているんですが。

上野 —— では、質問をさせていただいてよろしいでしょうか。51CnLDKの原形であるというのは上野の誤解であるとおっしゃいましたが、そういった誤解は、わたしひとりの誤解ではなく、建築業界では流通しているようです。なぜ、こういった誤解が広まったのでしょうか。

鈴木 —— 上野さんだけではなく、そういった誤解は割合多いですね。以前、塚本由晴さんが、空間を機能に分けてそれをつなげる考え方の典型がnLDKでその元が51Cだと書かれていて驚きました。おそらく若い方は、ここに壁があるのを見て、機能別に部屋を分けたと思い込まれるのでしょう。和室の住宅として不自然な壁ではあります。でも一方で台所とひと部屋は開放性につないでいる。それを見ないで壁で仕切る、機能分化、だから近代主義という思い込みになるのでしょう。そういったことが雑誌などにもよく出てくるけれど、これを作ったときは、なにを重ね合わせ、なにを分けるかを考えていたのです。機能別に生活を分けてそこをつなげ合わせるといったことは35平米でできるわけがない。そういった若い人たちの誤解が社会学の方にも流れていったのかも知れません。

上野 —— 35平米を区割りするという最小限住宅モデルですね。35平米ならこうなるけれど、60、70平米でもう少し空間に余裕があれば別のモデルを考えただろうとおっしゃったことに感動しました。平米数が増えていっても、結局、最小限住宅の2DKモデルに個室を一つ二つと足していくだけに終わった、それではあまりに安易だとおっしゃいましたね。

布野 —— 今日、僕が司会の役割を仰せつかったのは、鈴木先生一人では上野先生には太刀打ちできないだろうから、加勢しろということなんだとは思います。僕が変なことを言って、不利にしてしまってはまずいのでしょうけれど、少し確認しておいた方がいいと思います。食寝分離と隔離就寝という非常に単純なルールを35平米でやると、51Cがベストに近い解答となります。誰が解いてもそう大きく変わらないと思います。問題は、その次の展開です。当時、どうして規模を確保するかが問題だった。鈴木先生はおっしゃいませんでしたが、戦後の過程で面積を確保していく論理立てとして、食寝分離と隔離就寝に続いて出されたのは、公私室分離ということではなかったでしょうか。それが居間(L)の確保に繋がった。LDKの誕生です。それからはさらに個室(n)の確保へという論理展開ではなかったのでしょうか。3DKとか3LDKができたのは1960年頃だったと思いますが、一定程度の面積が確保されるようになった鈴木先生は順応型とおっしゃられるようになった。1970年代初頭ですが、僕はその頃研究室にいたんです。そういった流れではなかったでしょうか。

鈴木 —— 「リビング」というものは自然に出たわけです。畳の部屋に家具が入り込んできた。ピアノ、ソファ、ステレオが入り込んできて、自然にリビングができてきた。公団や公営住宅がそう作ろうとしたわけではなく、日本の都会に住む若い公団層のような人たちがそういった方向に流れていった。言わば、リビングはそれを追認したのでしょう。

上野 —— 建築史に無知なものだから、今日は発見に次ぐ発見です。公私室分離という言葉を聞いておもしろいと思いました。都市型住宅のnLDKLDKが同時に公室としての機能を果すことが期待されたとのことですが、結果として都市住宅のリビングは、主婦の気のおけない友人以外は、誰も来ない(遠すぎて)、誰も呼べない(乱雑すぎて)、そんな私的な空間の牙城になってしまいましたね。結局、近代家族の住空間の中からは、公にあたるスペースはすっかり姿を消してしまったように思います。

鈴木 —— そうですね、私もそう思います。昔は公私室分離という言葉を使っていましたが、今はもう使わなくなりました。ここで言う公は、家庭の中での公を表わしていたわけです。しかし、公はより社会に対して使うべき言葉ですね。建築界では、公室という言葉が定着してしまっているところがありますが、私は使わないようにしています。リビングと個室と分かれるタイプが日本の都市住宅を支配したような感じですが、それがおかしいと思い、順応型を出したわけです。上野さんから理念型という言葉を使わなかったことに対してご指摘を頂きましたが、私は順応型も一つの理念型だと思っています。私は「順応型」に対しては「迎合型」という言葉を使います。

上野 —— 順応型、理念型の他に迎合型というものがあるんですか。

鈴木 —— 順応型とは住宅の型について言っているわけですが、迎合型は計画の態度のことを言っています。市場調査によって多くの人々にこういった傾向があると知って、だからこれを作ろう、とするのが「迎合型」の態度です。それに対して、ただ人々の要求に従うだけではなく、社会はこういった方向に進むべきだ、と。将来の姿を描きながら作ろうとするのが「理念型」です。そういった大雑把なわけ方ができます。迎合型とは言葉を変えれば「民主主義型」とも言えるし、理念型とは「独裁者型」と言えるかも知れない。ただ自分がこう思うからというだけの独裁者ではいけなくて、どういった流れにのって社会に刺激を与えていくのかを考えるのが住宅の計画だと思うわけです。社会の流れがおかしな方向へ行くのにまともにそれに逆らっても、それ程上手くいくわけがない。それに乗りながら、少しづつそれを変えていこうとしているのが住宅計画の人たちでしょう。

上野 —— 確かめたいのですが。順応型はどこに入るのでしょうか。

鈴木 —— 順応型とは住宅の型を言っているわけで、計画の態度を言っているわけではない。これは計画の態度として、迎合型ないし民主主義型と、理念型ないし独裁者型とがあると言っているんです。順応型は計画の態度ではなく、住宅の型を言っている。

上野 —— 51Cを作られたときには経験的な現実にもとづいて作られたというお話でしたし、そういったリアリティがおありだったんだと思います。わたしは「51C憎し」ではなく、「近代家族憎し」のほうの立場ですね。日本における近代家族は、あっという間にできて、あっという間に滅びへの路をたどっていると思います。家族が変わってしまったんだから、変化した家族の現実に、空間も合わせたらいいじゃないか、というホンネにタテマエを合わせるべきだという考え方です。半世紀もたてば、住宅にはいるべき家族も大きく変わりました。そういう意味では、鈴木さんも現実の変化に合わせて柔軟に空間設計をするべきだというお考えのようなので、わたしと大変近いように感じます(笑)。鈴木さんがnLDK批判をされるときのポイントはどこでしょうか。本日は歴史的なレクチュアになるでしょう。nLDKの生みの親だと思われている鈴木さんが、nLDK批判をなさるのですから。

鈴木 —— nLDKという言葉がいつ発生したのか調べようと思ったのですが、調べようがないんですね。

布野 —— nLDK家族と言い出したのは社会学者ではないでしょうか。

鈴木 —— いや私は、直感的には、建築でこの言葉を使いだしたように思うんです。nは数を表わすわけです。1や2をnとは言わない。4や5が出てきたからnLDKという語が出てきたんでしょう。今日は長谷工の方もおられますが(笑)、マンションでも3LDKよりも4LDK、4LDKよりも5LDKが売れる。そういった状況に対する皮肉を混ぜて出てきた言葉のように思うんです。ある時期は、なんとかこれを潰すことが出来ないかと考えもしたんですが、そうではないんだと思うんですね。「型」を提示するという行為自体が、多様化し変化の大きい家族に対して間違いなのかも知れない。それで順応型の方へ進んでいったのです。集合住宅の初期から、生活調査、住み方調査をしてそこから研究が出発したものだから、住み方調査をやればプランが出てくるという思い込みが公団などにもあったのです。結構なことだとは思うのですが、住宅公団は生活調査をずいぶんとなされた。さらに、ライフスタイル対応住宅という言葉が出てくるわけです。色々なライフスタイルがあるとそれを分けて、それぞれに対応するプランを作る。公団ではそういった考え方も出てきたようですが、私はそれが上手くいくとは思わない。一つの家族が一つの型にはまるなんてことはあり得ないですから。むしろ中に入る家族、いや、住み手が空間を作っていくように仕向けるべきだというのが今のところの私の考えです。

上野 —— 「家族」が住む、と言いかけて、「住む人」とすぐに言い換えられたところから、鈴木先生の柔軟さが分かりますね。今や、住宅に暮らすのは家族だけとは限らないですから。もうモデルを供給する時代ではないとおっしゃるのでしょうか。

鈴木 —— モデルを作ること自体はいいと思うんです。建築家がモデルを提示することは大事だと思うんです。しかし、幾つかのタイプによって住宅を供給することはおかしいと思っています。

上野 —— それでは建築家は、何をしたらよいのでしょう。

鈴木 —— 人々をどこへ引っ張っていくのかが建築家の仕事でしょう。

上野 —— モデルは提示なさるわけですか。

鈴木 —— モデルを提示することはその内の一つの操作だと思いますが、3つ、とか12のモデルによって住宅を供給する、といったことはおかしいでしょう。モデルは一つの目標像のようなものですから、そういったものがあってもいいと思います。

上野 —— 例えば、多様化した家族に合わせて、それぞれユニークで個性的な住まいを作るということになるのか、ならないのか。わたしは注文住宅のような住宅のカスタムメイドには反対です。日本では住宅の資産価値が高過ぎて、家は一生ものでしたが、ファミリーサイクルが長くなり、一生が80年以上になってくると、家族は拡張期よりも縮小期の方が長期化します。家族の規模の最大時に合わせて作った注文住宅なんて、その後持てあますに決まっているので、今後、住宅は住み替えを前提に、中古市場に投入される商品にならざるを得ないでしょう。そこにはある種の基本ユニットを装備した汎用性のあるモデルがあればよい。住み手が変わっても、誰でも使いまわせるという基本的なインフラを備えたうえで、有限個の複数のモデルが提示されたらよかろうと考えるのですが。

鈴木 —— 供給の制度は非常に難しい問題を持っていますね。例えば幾つかモデルがあるとしても、そのモデルにあった家族が入ってくるとは思われない。先程、上野さんが言われたように、近い、安い、早いといったことで選んでしまうわけです。プランタイプにあった住み手が入るとは限らない。だから、むしろ住み手自身が作っていくように仕向けていくべきでしょう。1950年代には35平米、40平米の中に、4人、5人、6人がどのように住むかを考えたわけですが、今や、公営住宅ですらその面積は80平米、100平米にもなり、家族の数は2人、3人ほどになっている。一人当りの面積は数倍になっているわけです。だから、今、住宅のプランニングは楽勝の時代です。ライフスタイル対応なんて考えなくても、自由に住まえる。それよりも、外との関係を考えた方がよいと考えるわけです。この話は来週の理顕さんとの話のテーマになるでしょう。型を提示して供給することはどうでもよいのでしょうね。

上野 —— ここにきていらっしゃる若い人たちは、鈴木さんの今のお話を聞くと、将来はどうなるのだろう、建築家は廃業した方がよいのではないかと考えてしまうのではないでしょうか。

鈴木 —— いや、やることはたくさんありますよ。今、都市、町との関係がおかしくなっている。だからライフスタイルに対応したプランニングよりももっと、もっと大事な町との関係について勢力を注いだ方がよいでしょう。

布野 —— 51Cの問題はもうよいのでしょうか。呪縛は放免ということですか(笑)。

上野 —— 布野先生のリクエストにお応えして、51Cに戻りましょう。今のお話ですと、51Cを作ったときにはその当時の実態にあっていた。その後、住居空間が広がっていくにつれて、安易に室数を増やしていった画一主義的なプロバイダ−がいた。あとから見ると51CがあたかもnLDKの原形のように見えるけれど、そこには断絶がある、ということでしたね。本日、戦後建築史は塗り替えられました(笑)。

布野 —— 凄く明解ですが、そういきますでしょうか。

鈴木 —— 51Cはこの時代だったからということで焼け跡の写真を出したわけです。若い方たちは分からないでしょうけれど、この時代にはお米もなかったんです。電車に乗って農村へ買いに行っても売ってくれない。お金では買えないから、着物などで物々交換で手に入れるわけですが、うっかり持って帰ると警察に取り上げられる。そういった時代に35平米の中で考えたんです。今から考えると、法律にしろ、ものにしろ、住宅にしろ、これから新しいものを作るという気分が横溢していた時代だったと思います。その中で、日本の住宅、人々をどの方向に引っ張っていくのかを考えたわけです。

上野 —— 派生的に謎が生じます。一つはnLDKが批判の対象であるという点は共闘できるとして、誰が悪かったのかということです。こんな安易なモデルを作り続けてきたゼネコンとデベロッパーが悪いのでしょうか。わたしは建築家の怠慢ではないかと言い続けてきたのですが、仮想敵を見誤っていたのでしょうか。それとも、こんなに安直なモデルを供給されるのに従って、黙って買い続けた消費者がバカだったのでしょうか。先ほど、2004年になってからわが家に入ってきた新聞のチラシから任意のものを持ってきてお見せしたのですが、本当にワンパターンですよね。それが半世紀以上も再生産されてきた謎は、どのように解けばよいのでしょうか。

布野 —— それを先程、上野さんに伺おうと思ったんです。鈴木先生が住戸の平面計画に限定されてお話されるというのも分かります。一方で、供給システムの問題もあります。戦後の過程の中で、住宅の生産システムは大きくその姿を変えてきている。51Cは、住宅公団の供給システムの中で一つの機能を担っていくわけですが、60年代初頭から10年ちょっとで日本には住宅産業が成立することになるわけです。ずっとワンパターンであるのは建築家のせいだとおっしゃるけれど、nLDKを商品として買う消費者もいるわけです。日本の戦後家族のあり方が全体としてワンパターンであったというこがあります。nLDKを蔓延させる全体的な仕組みがあったわけですね。例えば近代家族という理想的家族のモデル、イメージも作用したでしょう。

鈴木 —— 「商品化住宅」といって、住宅が商品になったことが大きいと思います。戦前は都市に住む場合、借家に住むのが当たり前だったんですね。東京では70数%、大阪では80数%が借家に住まっていた。借家は別に長屋だけでなく、部長級、課長級の借家もあった。戦後になり、持ち家政策がなされ、家は借りるものではなく、買うものになってしまった。特に民間のメーカーは、売れる住宅はなにかということを考えた。買った人はまた次に買い替えるということを考え、その住宅は特殊なものであっては困る。売るときに売り易い住宅というものに、消費者が自然に流されている、と見ていました。

上野 —— わたしは、商品化住宅でなにが悪いのだろうと思います。商品化住宅にしてもモデルが画一的すぎるのが問題だ、と思います。布野さんの問いに答えるとすれば、結局この状況に誰も文句を言わず、一生を抵当に入れるくらいの高額商品を、延々と買い続けてきた消費者がバカである、したがって画一的な住宅が市場淘汰されなかったとも言えるのかもしれません。しかし、そう考えるなら、小泉政権をいくら批判しても、しょせん国民は自分の身の丈にあった政権しか持てない、愚民が選んだ政権をいくら批判してもしかたがないという議論と同じになってしまいます。岡山で出会った例をひとつ、ご紹介しましょう。岡山は土地が安いので、家が簡単に建てられる。そのなかで、父子家庭の父が、娘との団欒を夢見て立派なLDKを作ったが、実際にはふたりともLDKを使わず、台所で作った食事をそれぞれの自室に運びこんで個食をしているという例がありました。LDKにはシステムキッチンが不可欠ですが、わたしはシステムキッチンを、お仏壇と呼んでいます。実用の役に立たなくとも、過剰装備で家族するシンボルとしてタテマエ上なくてはならないからです。この人たちには、「家族する」ことへの幻想がはたらいています。つまり「家族している」ふりを、他人に対してだけでなく、自分自身に対してもパフォーマンスしたい、ということが見えてくるわけです。リアリストの社会学者としては、そんなに無理に家族するふりはもうしなくてもいいじゃないか、と思うのですが。家族するふり、セックスしているふりはもういい。家族が家族をしている理由はそれぞれにあるのだから、自分たちの現実をありのままに認め、それに合う空間を考えていったらいいのではないかということです。

布野 —— 戦後の日本の高度成長を支えるため、世帯分離を進行させるために2DKのような箱が必要だったという解説は正しいでしょうか。

鈴木 —— ために、ということはないのではないかな。

上野 —— 人口都市化が急速に進んだのが60年代の始めで、それが日本型近代家族の大衆化をひきおこしました。60年代に、累積結婚率が男で97%、女で98%、ほぼ100%に達します。それから低下に転じるので、私はこれを瞬間最大風速と呼んでいます。つまり全員結婚社会、みんなが結婚する時代は、60年代に成立して、もはや終わったということですね。60年代に人口の都市化と世帯分離がともに進んだと思うのですが、当時の都市型集合住宅にはじいさん、ばあさんのための空間はありませんでした。世帯数の増加にともなって、住宅供給戸数も否応なく増えていったわけですが、最近ではどうも供給過剰になってきているようです。そうなればようやく住宅の市場淘汰が行なわれる時代になるでしょうか。

布野 —— 例えばヨーロッパ、アジアと、グローバルに見たとき日本はどうなんでしょうか。たまたまインドネシアでモデル住宅を設計するといった、似たようなことをやってきたので気になるんですがどうでしょう。例えば日本と同じような過程をとっていくのでしょうか、あるいは他と比べたとき、日本の特殊性のようなものが指摘できるのでしょうか。

上野 —— グローバルと言っても、どこと比べるかによると思うのですが、社会主義圏の労働者住宅は、日本の公団住宅と同じようで、世界でもっともアグリーな住宅だと思いました。労働者が寝るためだけに帰る規格化されたハコ、日本のニュータウンとそっくり同じですよね。今、アジアで急速な都市化を遂げている地域は、ほとんどそのモデルを踏襲しています。おそらく都市インフラとして最悪なものを作っているだろうから、どこかで歯止めをかけてもらいたいものです。いずれにしても、そういった成長期はあっという間にピークに達し、あっという間に終わります。特に後発近代化諸国ほど、このスピードが早い。韓国などは、圧縮近代化と言って日本で30年かかっていたものが10年で達成されていますから、ピークに登り詰めて、下り坂になったときに対応できない。そのときに、不良資産を残さない方がいいと思います。

布野 —— 鈴木先生、先程の僕の質問に応えて頂けますか。

鈴木 —— 社会学についてはよく知りませんが、現実を見て素直に合わせていく。しかし、それではいいものになっていかないということもある。近代家族について言えば、60年代始め、公団ができた時期は、まさに日本に職業を持たない専業主婦の大量に発生した時代だと思うんです。確かに昔からありましたが、戦前は女中さんを使うなどしていた。団地やニュータウンで、男が勤めに出て、女性と子供だけが残る。日本でも大変珍しいこと。その人たちの興味がどこへいくかといったら、子供の教育と、家庭の中をどう作るか、リビングをどう作るかになるわけです。それで、nLDK文化のようなものができたのではないか。

 社会学者の方は、こういった徴候がある、ああいった徴候があるとして、その崩れた姿ばかりをお出しになるけれど、全部が全部そうではないでしょう。確かに徴候を見るということは大切なことだろうけれど、そんなに徴候ばかり追い掛けていいのだろうかと思います。

布野 —— 争点が出かかったところですが、山本理顕さんが会場を9時に出られるということで、来週へのメッセージを兼ねて。鈴木先生がかなり柔軟に応答されていたので、来週が心配ではありますが。なにかご発言頂けますか。

山本 —— 鈴木先生は建築家だなぁと思いました。私も建築の設計をしていて供給者側にいますから、どうしても与条件の中で思考する。私たちは35平米ではどうするかという訓練をさんざん積んできているわけです。そういった訓練をさんざん学校でさせられていて、それが大変な弊害になっていると思いました。例えば、こういったビルディングタイプで、こういった平米数で考える、そういった訓練をず−っと積んできているわけです。ただ、上野さんがおっしゃっているのは、そのように考えること自体がもはや破綻していないか、ということだと思うんです。だから、上野さんが新しいモデルをと言ったとき、あるビルディングタイプがあって、その中で住宅なりを考えるということではない。モデルができれば都市全体が変わる。■■■■も変わる。そういったモデルがあり得るのではないか、ということだと思います。それに対して鈴木先生は住宅だと思うんです。新しいモデルはもういらない、その通りだと思います。しかし、僕はモデルがいると思うんです。私たちが持っている、標準家族が3分の1以下だった。2020年には4分の1以上が65歳以上、高齢者になってしまう。そのとき、我々がどのような住み方のモデルを提案できるか。それはかなり重要な問題だと思います。鈴木先生がやられた51Cは非常に強力なモデルだったと思うんです。一つの住宅の中に一つの家族が住むということを教育したと思うんです。美しいことであるということも教育したと思うんです。それが壊れてきていると思うんです。僕も建築家なので、そういったモデルを作った鈴木先生に最大の評価を送りたいと思うし、もし違うモデルを提案できるとしたら嬉しいと思います。

鈴木 —— 確かに51Cで住み方を強制したところはあるわけです。同じことかも知れませんが、しかし、教育という言い方はどうなのだろう。人々の生活をどちらかの方向に誘導していくことが建築家の仕事なのだろうと思い、51Cで壁を作ったり、食事のできる台所を作ったり、そういうことでしょうね。

上野 —— 今、理顕さんの発言に感動してしまいました。建築と社会学の違う点が実に鮮明に分かりましたね。与条件があって、その中で考える訓練をしている。なるほど、建築はクライアントがあって始めて成立つ商売ですね。社会学者は与件を疑うという訓練を徹底的に受けているんですね。社会学者にはクライアントはいません。誰からも頼まれずに勝手にやっているわけです。

布野 —— 内田先生どうぞ。

内田 —— 東洋大学教授の内田です。私は1970年まで、先生の研究室におりました。最初に申し上げたいのは、51C型の呪縛といったとき、51C型がプランとして論じられているのではないか。私は、むしろ方法論の呪縛だと思うんですね。当時の研究室では、西山さん以来、ものの持つ生活規定性をいかに活用するか、住宅の持つ生活規定性によって、食寝分離、性別就寝、さらに公私室分離。公私室分離まで含めれば、nLDKの問題を引き受けるべきだと思っています。もう一つ、順応型の問題です。私たちは闘争の世代だったわけですが、ものの持つ生活規定性は操作主義だと批判しました。上野さんは建築を帝国主義だと批判されたわけですが。布野さんが言われていたように、結果的に、2DKはよくできていましたが、結局、再生産コストをいかに安くすることで日本の高度成長を支えたことは拭い得ないだろう。順応型は操作主義批判には対応されましたが、やはり新しい生活像を出し得なかったのではないか。そういった面では迎合型とは違って、住宅の型だとおっしゃいますが、■■真性■■の問題としては、住宅の問題と相共通するところがあったのではないか。3番目の現代に関わる問題ですが、建築計画学の問題というのは、モデルを作りえたかということだと思うんです。51C型は明快なモデルであって、あれでみんなを引っ張った。それは凄いことだと思う。今、建築計画学の研究がどれだけのモデルを作り得ているのか。選べる■■共同性■■とおっしゃいましたが、■■家族■■の問題が大きいと思います。新しいタイプが作れたら。これに関しては、上野さんの意見と近いです。これは上野さんもおっしゃっていませんが、住生活の外部化です。学生の生活なんて、コンビニなくしてあり得ないわけです。そういった生活の変化があります。最近強く感じるのですが、他人が介入する住生活にならざるを得ない。住総研の研究で、面白いと思ったのですが、介護の問題が家庭内に入ってきたとき、次の間の間がいかに有効に機能しているのかという研究があったのです。新しく、他人が入ってくるという住生活がある。そういった問題を建築計画学がいかに作り得たか。少数だっていい訳です。理顕さんを始め、様々な建築家の方々が作ったのは建築計画学の成果だというのなら、そういった面も確かにあるだろうけれど、もう少し狭い意味での建築計画学はその辺を触り得なかったのではないかということを感じました。

布野 —— お答えは必要無いですね。時間もないですしね。

鈴木 —— 明解ですね。

上野 —— 随分シビアなご批判が出るんですね。いよいよ内ゲバが始まるかと、高みの見物を楽しもうと思ったのに。

林 —— 51Cは当時としては実によくできた設計だと感心しておりました。それがnLDKに発展というか、引き継がれ商業化されたことも、当然のことのように感じております。それが50年続いたこと、その間建築家はなにをしていたのかというご批判があったことに対しては、一見そのように思えるのですが、まぁ、よくもったと。もつのが当然であったのではなかろうかと思うんです。その原因は商業化ということにあるんだろうと思うんです。つまり、売り買いするものになって、住むために作るものではなくなったんですね。そうすると、今売られている自動車のようなもので、自分の用途とは関係なく、動いてくれればいいというものをどこも作るようになる。自動車の世界も、ここ40、50年全く変わっていないわけです。そういう過程に入ってしまうと、抜け出すのには100年くらいかかるのかも知れないと感じました。

鈴木 —— 明快ですね。

観客 —— 都市公団の加藤と申します。nLDKを壊すという試みは、さんざんパラnLDKを作ってきた公団も行なっているんですが、その中で一つのやり方として、キッチン、バス、トイレといった水回り以外の空間は一つ大きく作って、幾つかに仕切れるという方法があります。そういった試みは、公団以外にも幾つか提案されてきています。住宅を商品として捉えたとき、必ず「2LDK、60平米、いくら」ということが並びますけれど、そういった住宅を作ったときは「80平米、3a、いくら」何平米、■■■■提案をして供給するということを公団の幾つかのプロジェクトで行なったことがあります。そのとき、応募してきた方々を見ていたとき、なかなか、大きな空間を仕切って下さいと言ったとき、こう仕切ってこのような住まい方をしようとポジティブに捉えて住宅を志向することが結構少ないんです。51Cの最初の頃のお話で、キッチンで食事している方が1割ということでしたが、1割にも満たないのではないかと思うくらいです。そこが、日本人における51Cの呪縛なのではないかと感じました。

上野 —— 今のご発言は、つまりマーケットが悪いということですか。

布野 —— 時間がないので仕方がないですね。最後に一言づつ頂けますか。ちょっと中途半端ですが、来週に期待ということにしましょう。

上野 —— 私は来週の鈴木対山本の前座を勤めるつもりで参りました。来週も参りますね。場外飛び入りをするかも知れませんので、お楽しみにしていて下さい。

鈴木 —— 上野先生と対談することになったので、少し本を読まなくてはならないと思って、本屋にいったらあんまりたくさんあるので、これはとても読めないと思いました。相当喋る凄い人かと思っていたら、意外に可愛いので安心しましたけれど(笑)。山本さんとは、以前保田窪団地に関して非社会的だと悪口を言って以来、評価を停止していたんですが、最近あの方もいいことを考えているようなので、来週も楽しみになってきました。今日は半分おそるおそる来たら、少し負けましたね(笑)。

布野 —— 正直でいらっしゃいますね。


司会メモ


51Cは呪縛か? 集合住宅の戦後~現代を探る

基本テーマ

これからの日本の(集合)住宅がどうなっていくのか(あるべきか)

日本の家族がどうなっていくのか(あるべきか)

   51Cという(標準)住居モデルが戦後日本の住居のあり方を規定してきた→それは問題ではないか?→それは何故か?

   近代家族の終焉→その行き着く先は

   型の提示を前提として、どのような住宅モデルがありうるのか。

nLDKをいかにして潰すか

基層テーマ 

   空間は生活を規定できるのか? 生活と空間の対応 空間の型 空間帝国主義 計画学批判  家族を容れるハコ 家族を超えるハコ→ハコを超える家族?

住宅は空間化された家族の規範である。

連続シンポジウム二回の位置づけ

20日/51Cとは何か。(時代背景、建築、家族
27
日/51C以降の集合住宅、これからの集合住宅

パネリスト(討論者)

 鈴木成文:51Cの提案者 神戸芸術工科大学学長 日本建築学会大賞

 上野千鶴子:『近代家族の成立と終焉』『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』       『上野千鶴子が文学を社会学する』『ラディカルに語れば・・・』 女性学、ジェンダー論・・・     都市コミュニティと家族と住宅に関する一貫する関心

進行

19:00 挨拶、パネラー紹介(10分)
19:10
 鈴木(20分)
19:30
 上野(20分)
19:50
 布野(10分)
20:00
 ディスカッション(60分)21:00 閉会

 

D51 51C どの土俵で考えるか 国 自治体 地域社会 住宅メーカー 個

 

 鈴木:51Cとは何か? どういう過程で生み出されたのか?

  ・戦後の焼野原の悲惨
  ・応急越冬住宅
  ・高輪アパートによるRC集合住宅の発足
  ・公営住宅の標準化、49A, B, C
  ・51C設計の経緯
  ・51Cの計画の理念、付-住宅調査(これは当時のトレペーのエスキスを10枚ほど示します)
 ・その後、高度成長期の計画主題の変化 (nLDK 批判を含む)

 

  ○布野 発言の確認

上野:51C批判

LDK家族の崩壊・・・近代家族の成立と崩壊・・・家族像 家族形態の変遷?

近代家族はいつ成立したのか? その崩壊とは? 

 家族とは、 家族と世帯 家業・家名・家屋・家産・家計の共同 居住の共同(同火) 血縁の共同 →家族の多様化 近代家族のゆらぎ 女性(層)の変貌、一般化が成立しない

「家」の発明・日本型近代家族 近代家父長制 社会的構築物 :

核家族ではなく直系家族の形をとった 家内工業がベース 母系も末子相続もあった

家と国家 近代国民国家に適合的に形成された 忠孝一本イデオロギー 家族の民主化は達成された? 疑問 シャドウワーク

近代家族(落合恵美子)1家内領域と公領域の分離2成員相互の情緒的関係3子ども中心主義4性別分業5集団性の強化6社交の衰退7非親族排除8核家族 西川祐子9家族を統括するのは夫10この家族は近代国家の基礎単位をなす

戦前・戦後の連続性 父権支配→夫権支配 家父長制の連続性←世帯分離

ロマンス革命 母子の情緒的絆 世帯の自律性

 

布野 発言の確認と最初の議論の設定

  Ⅰ 51Cの評価 歴史的位置づけ 戦後住宅史をめぐって

戦後家族の行方

  

  Ⅱ 住宅と家族の現在:何が問題か

非婚化・晩婚化 少子化  高齢化

SOHO 障害者 介護 年金 寄生

○フロア

 

Ⅲ これからの日本の住宅

  

シングルが基本? ひとりで生きる 家族をする

   非婚化・晩婚化 少子化  高齢化

 

  交流の場 四畳半 コモン・パブリック

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シンポジウムのタイムスケジュール
17:00
 スタッフ会場準備入り

17:50
 パネラー集合・打合せ(60分)
18:30
 開場
19:00
 開演

19:00
 挨拶、パネラー紹介(布野先生)(10分)
19:10
 鈴木先生(20分)
19:30
 上野先生(20分)
19:50
 布野先生(10分)
20:00
 ディスカッション(60分)
21:00
 閉会
移動~
お食事

 

 喜美恵の案では、布野氏の司会の下、初めに鈴木と上野が 1520 分づつ、51C
関連して喋り、布野さんが解説して問題を整理し、あとの1時間+α を討論という
ことでした。

 今回の聴衆は、51Cが何かを知っている人が多いとは思いますが、若い学生も半数
は居るし、誤った理解の人も多いと思うので、私が初めの 20 分で 51Cを解説する必
要があるでしょう。

解説するとなると、
 ・戦後の焼野原の悲惨
 ・応急越冬住宅
 ・高輪アパートによるRC集合住宅の発足
 ・公営住宅の標準化、49A, B, C
 ・51C設計の経緯
 ・51Cの計画の理念、付-住宅調査
   (これは当時のトレペーのエスキスを10枚ほど示します)
 ・その後、高度成長期の計画主題の変化
   (nLDK 批判を含む)
ざっとこんなことになるでしょうが、20 分では超 駆け足です。

上野氏は多分、
 ・家族形態の変容
 ・近代家族の崩壊
 ・51Cで考えたであろういわゆる標準世帯・核家族は今や幻
 ・標準世帯に対応するであろう nLDK の元は 51C
こんなことかなと思いますが、どうでしょうか。

 上野氏と山本理顕との対談の本を見ると、彼女は nLDK が今日の住居の規範になっ
ており、その元が51C だと信じ込んでいるように思われます。私どもは nLDK は住宅
産業、とくに部屋数ばかり多くする不動産業が生んだ歪んだ住居と思っているのです
が。

 なお、nLDK の「 n 」は「家族人数-1」だという奇妙な見解も、上野氏の本に出
ていました。これは私は初耳です。 これもきっと話題に出ると思います。

 喜美恵が昨日、上野氏を東大の研究室に訪ね、打合わせてきました。この結果は、
喜美恵からそちらに報告がある(あった?)かと思いますが、1時間ほど話し込んで
来たそうです。その中で、私を道彦の兄だと伝えたら、すぐ、分かったと言ったそう
です。何が分かったのか分かりませんが
 上野氏は以前道彦に会いに行ったことがあるそうです。金キロウ のことかアルジ
ェリアのことか知りませんが、いずれにせよ道彦が以前に書いたものを講義の中でも
使ったそうで、人権問題に関することでしょう。
 
 なお、上野氏は図の提示などはこれまでは OHP などだそうで、鈴木が Power
Point
を使うだろうと伝えたら、自分も、ということで、その為の図のスキャニング
を喜美恵が引き受けて来たそうです。理顕の個室群住居の図など、20 枚ほどだそう
です。私はまだ見ていません。


 次週の山本理顕とのシンポジウムは五十嵐太郎の司会ですが、テーマとしては51C
そのものよりも、その後の展開の話になりそうです。とくに東雲の計画では 51C
当面の標的として、見学会の時もそういう説明でした。ただし彼の見解も 
  51C = 公営住宅一般 = 鉄の扉 = 閉鎖性
と捉えていたようで、東雲の SOHO の、公共通路に対する開放性を見てくれとのこと
でした。
 住居の開放性は、理顕との間の一つの話題になるだろうと思います。

 以上、とりあえず私が今考えていることをお伝えしました。
必要に応じ、ご連絡下さい。

  

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...