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2024年5月3日金曜日

京都というプロブレマティーク,建築文化,199402

建都1200年の京都,布野修司+アジア都市建築研究会編,建築文化,彰国社,1994年2月号

 

京都というプロブレマティーク

布野修司

 

 京都:歩く、見る、聞く

 京都に移り住んで2年が経過した。移り住んだといっても、バタバタしているだけでその実感は薄い。2年など、建都1200年を迎えた古都の歴史にとって、瞬きの間にもならないだろう。それに、取りあえず居を構えたところが洛外も洛外、宇治の黄檗だから、京都に住んだとはとても言えない。京都のことはわからない、というのが全くもって正直のところだ。

 しかし、京都に住み続ければ京都のことが果たしてわかるようになるのであろうか。「京都は奥深い。京都を理解しようとするのならば、徹底的に京都を研究する必要がある。中途半端に理解しようとするのであれば、観光客でいる方がまだましだ。」と京都の友人はいう。そうであるとすれば、まあ観光客でいるしかなさそうではないか。ただ、観光客にとっての京都も、京都の半面とはいえなくても1割ぐらいの(観光収入がGNPの1割というから)京都ではありうるのではないか、そんな気分である。

 観光客といっても、清水、金閣、銀閣、二条城、三三間堂といった有名観光社寺をめぐるのとは違う視点の可能性はある。「路上観察学会」の面々が京都を襲って一冊の本をものしている。『京都面白ウオッチング』(  )である。「大人の修学旅行」、「路上観察の旅」ということで、京都の珍建築や珍木・名木、小鳥居、犬矢来、石亭、縁石、角石、狛犬、猛獣のレリーフ、壷庭、鬼門、ステンドグラス、金物、消火栓、銭湯、西洋館、マンホールの蓋、張り紙等々、ありとあらゆるディテールが発見され、観察されている。京都人にとっては全く理解できない「宇宙人」の視点かもしれない。しかし、京都人でも、「ええっ」と思うような発見があるのではないか。路上観察学会は、「純粋観察」を標榜する。「純粋」観察がいかに成立するかは不明であるが、「路上」の観察は、あるいは「路上」からの観察は、大きな京都への接近方法である。路上からの接近といってもいろいろある。ディテールはディテールでも、『仕組まれた意匠ーーー京都空間の研究』(  )の方が「京の意匠」についてのはるかにオーソドックスなアプローチとなっている。要は視点であり、視角なのである。 

 「見知らぬ町を見慣れた町のように見る。見慣れた町を見知らぬ町のように見る。」といったのはW.ベンヤミンであるが、この眼の往復運動は基本的なアプローチとしてどこでも通ずる筈だ。と格好をつけて、とにかく、京都の町を歩きだした。今までに5回ほどになろうか。

 まずは、新町通り、西洞院通りを南北に歩いた。京都の都心、山鉾町の中心である。町家の落ち着いた佇まいよりも、駐車場やマンションでがたがたの町並みに驚いた(  )。続いて、二度目は伏見へ飛び出してみた。伏見の大手筋は買い物などで日常的にも親しくなりつつあるのであるが、秀吉の城下町の骨格を感じることができる。近世の洛中と洛外、南と北の断層が見えた。松ノ木町40番地の印象は強烈であった。高瀬川の姿も木屋町あたりとは同じ川かと思う程違う(  )。三度目は、上七軒、下之森、四・五番町、島原、六条柳町、五条橋下、祇園とかっての花街をめぐった。洛中の周縁をぐるりとめぐったことになる。角屋の見学が主目的であったのだが、洛中のスケールを身体で実感できた(  )。四度目は、太秦から三条通りを河原町まで歩いた。京都横断である。都心の三条通りには近代京都の厚みが残る(  )。五度目は、鴨川を出町柳から七条まで歩いた。鴨川からの眺望は無惨。東山は見えかくれもしないほど。橋の下のスコッターたちの住まいが印象的であった(  )。

 歩きながらの学習である。もちろん、ただ歩いても仕方がない。しかし、歩きながら京都の歴史をひもとけばよく頭に入る。京都はそうした意味では日本史の書物のような都市だ。一般的な歴史の学習ばかりではない。研究室には、特に、歴史的環境、地域文化財に関する膨大な調査研究の蓄積があった。また、「保存修景計画研究会」といったオープンな研究会が続けられている。おかげで、わずかな時間にしては、随分と勉強できたような気がしないでもない。

 京都に移って、すぐさま調べたのは祇園である。バブル経済に翻弄される実態を所有関係の変化から探ろうとしたのである。また、いきなり「町家再生研究会」(望月秀祐会長)に加えて頂いた。相続税についての具体的検討などを通じて町家をめぐる厳しい状況が理解される。研究会は、例えば橋弁慶町の町会所の改築問題など実践的課題を眼の前につきつけられている。さらに、横尾義貫先生の御下命でより一般的に「町家再生のための手法」について考える作業もある。

 以下は、以上のようなささやかな京都体験に基づく京都論のためのノートである。

 

 世界の中心としての京都

 「京のいけず」とか「京のぶぶづけ」とかステレオタイプ化された一連の京都論、京都人論があるのであるが、そうした中に「東京は日本の中心かもしれないけれど、京都は世界の中心であると、京都人は思っている」というのがある。京都府建設業協会の出している雑誌「建設きょうと オープン・フォーラム」で読んだ。京都府建設業協会は、全国に先駆けて「現場作業服のファッション・ショー」(SAYプロジェクト)を開いたり、今また「年収1000万円プロジェクト」などを展開するなど極めて活動的である。京都は他に先駆けて新しいことをやるべきだという意気込みがその先進的プロジェクトの数々に現れているように見える。なるほどと思う。

 京都は日本の都市のなかで唯一特権的な都市である。「京都はただの地方都市になってしまった」という言い方がよくなされるのであるが、それも京都を特権的なものと考える裏返しの表現だろう。

 第一、千年を超える歴史をもった都市は世界にもそうはない。ローマ、北京、イスタンブール、・・・ぐらいであろうか。新たな都市が生まれてやがて衰退する。都市にも栄枯盛衰があり、生死があるのはむしろ自然である。17世紀の初頭、東国の寒村であった江戸、東京を考えてもいい。今、その東京はほぼ平面的広がりの限界に近づき、このまま行けば「死」を迎えるしかないであろう。過飽和状態に至って、新たなフロンティア(ウオーターフロント、ジオフロント・・・)を求める動きが顕在化したのがこの間の様々な東京改造の動きであった。少なくともさらに数百年の首都であり続けるかどうかは大いに疑問である。千年の都であり続けた京都は希有の存在なのである。

 第二、京都には千年の都としての世界的な遺産がある。千年の都といっても、建設された都市がそのまま生き延びるということではない。江戸は火事で頻繁に焼けたし、東京にしても、震災、戦災で、繰り返し白紙に還元されてきた。京都だってそうである。むしろ、ドラスティックな変転を経験してきたのが京都である。大火も何度も起こっている。今、世界遺産条約に登録申請を行なうほどの遺産が残されたのはある意味では偶然かも知れない。京都は有力な原爆投下目標地として、通常爆撃禁止という措置により温存されており、小規模な空襲しか受けなかったのである。また、陸軍長官スティムソンの反対で、たまたま原爆投下の候補地から外れただけだからである(  )。しかし、残された歴史遺産、文化遺産の厚みはその特権性の大きな根拠である。

 第三、京都は日本的なるものの源泉である。そうした意味で「日本」の中心である。日本文化の原型、日本的美意識といったものは全て京都で生み出されてきたものである。京都は宿命的に「日本」を背負った都市である。「日本」というアイデンティティーが問われ続ける限り、「京都」も問われ続ける可能性がある。

 東京遷都により、京都は千年に及ぶ首都としての地位を失った。京都の最終的「危機」はこの時に始まったとみていい。首都機能という意味では、既に江戸にその役割を譲ってきた。そして、天皇の居住地という天皇制のシンボルとしての京都はそのアイデンティティを失ったのである。「天皇は遷都宣言をされていない」、「天皇は京都にお戻り下さい」といった主張は今でも京都で根強い。京都が京都である第一の根拠だからである。

 京都が京都である根拠を失い、衰微していくが故に、京都「府」は京都を活性化するために積極的な近代化策をとる。学区制に基づく小学校の創設、病院や各種文化施設など全国に先駆けてつくられたものは数多い。職制や戸籍の導入なども同様である。近代技術の導入も実に積極的であった。琵琶湖疎水しかり、蹴上の発電所しかり、市電しかりである。明治28年(1895年)の平安遷都1100年記念の年の京都は大いに元気であった。具体的な記念事業は平安京を模した大極殿(平安神宮)の建設、『平安通志』の編纂、第4回内国勧業博覧会である。博覧会には、京都市の人口の3.3倍の113万人が入場したのだという。この年、時代祭がつくられ、疎水の発電所の電気で市電が走った。街厠(公衆便所)がつくられたのもこの年だ(  )。

 それから100年、建都1200年を迎えた京都はどうか。いささか盛り上がりに欠ける。建都1200年記念事業の規模といい、意欲といい、建都1100年の時には及ぶべくもない。何故か。少なくとも、首都機能の喪失は決定的な形で明らかになりつつある。政治的、経済的、社会的中心ははっきりと東京へと移動したのである。それに対して、首都(あるいはその機能)の復権は果たして如何に可能なのか。

 文化や学問に特化する方向がある。「京都学派」や「アカデミー賞」が強調される。文化的中心、首都としての京都の地位の保持である。一方、徹底して「アンチ東京」、革新の政治的立場を貫く主張がある。いずれも中心(反中心を含めた)志向の発想である。首都機能が一方的衰退していく中で、国賓のための「和風」迎賓館が今テーマとなるのはよく理解できる筈だ。また、大学の洛外移転による都心の衰退が大問題とされるのも、単に経済的理由からだけではないのである。

 第二、第三の京都の存在根拠はどうか。世界的遺産としての京都が危機に瀕していることを示すのがこの間の景観問題である。また、「日本」=「京都」というのも果たして絶対的であり続けるかどうか。「京都」を特権的な都市であらしめてきた根拠が失われるとすれば、「京都」は滅びるしかないであろう。坂口安吾の「京都」滅亡論(   )は、京都再生論の対極に位置し続けているように見える。 

 

 日本の都市の鏡としての京都

 京都もまた生活者の都市である。生活している人々によって生きられてこそ生きた都市でありうる。実際どんな都市であれ、それを支えてきたのは生活者の論理である。「京都の博物館化」、「京都のテーマパーク化」   )が一方で極論されるのであるが、京都の場合、むしろ特に、生活者の論理を強調してきたように見える。「町衆」の論理である。京都「市民」への道を「京戸→京童→町衆→町人」とたどった林屋理論がそのベースである(   )。

 東京から京都へ移り住んで色々気づくことがあるのであるが、否応無く感じるのは地域共同体、隣保組織の根強さである。例えば、祇園祭がある。祇園祭に山鉾を出す山鉾町のコミュニティー組織の結束は根強いのである。例えば、地蔵盆がある。これまた大きく変容しつつあるのであるが、今猶、随分盛んなように見える。少なくとも、町を歩くと、ここそこに地蔵堂がある。余所者には実に印象的である(   )。

 いま、山鉾町のコミュニティー組織や屋台保存会は大きな変容を迫られている。都心のブライト化によって、人口がどんどん減りつつあるのである(   )。地価高騰、相続税等の問題で再開発圧力が強まり、町家の町並みも変わる。山鉾町を歩いてみると、ところどころに虫食いのように空き地や駐車場がある。セットバックして建てられるビルと町家の町並みはガタガタである。象徴的なのは町会所である。四条通りなどの大きな通りに面した町会所は、間口の狭いビルに建て替えられつつあるのである。

 東京の下町でもいい、あるいは、地方都市でもいい、都市化の進展とともに地域の共同体は一様に解体のプロセスを辿ってきた。京都もまた同じである。都心の小学校の統廃合問題がその象徴だろう。町衆の伝統をベースに全国に先駆けて住民の発意で小学校をつくったのが京都の各町である。祇園祭を支える山鉾町に代表される京都の地域共同体がどうなっていくかは京都の行方に大きく関わっているといっていいだろう。

 京都のそうした地域共同体のあり方に決定的なインパクトを与えてきたのは経済の論理である。あるいは産業化の論理である。その趨勢の及ぶところ、如何に特権的な都市「京都」といえども免れることはできない。否、特権的であるが故に、開発のターゲットが京都に向けられるそんな構造があるのである。

 例えば、祇園がいい例だ。四条大橋から八坂神社へ向かう四条通りの両側には駐車場が目立つ。また、空き家も少なくない。いわゆる「東京の地上げ屋」の仕業だという。一極集中の核としての首都東京にまず顕在化し、やがて、地方に波及して行ったバブル経済の猛威は、日本の諸都市をすっかり翻弄してしまったのであるが京都も例外ではないのである。というより、最も翻弄されたのが京都であり、祇園のような町であった。京都を代表する「町」のひとつである祇園。京都の「応接間」といわれるように、接待文化の中心である。芸やマナーの伝統を支えてきた。そうした町で、路線価格がわずか三年で十倍以上に跳ね上がった。例えば、四〇坪の借地の評価額が十億円で相続税は約一億円になる。住民は住めなくなる。それだけではない。舞子さんや芸妓さんのなり手がいなくなる。仕出し屋さんの後継者の問題もある。町家を修理したり、改築したりする大工さんだって危うい。「町」を支える構造が大きく揺らいでいるのである。西陣のような伝統産業の町の衰退は産業構造の転換そのものに関わり、そこでも町の構造そのものが問われているのは同じである。

 1991年秋、「祇園地域の歴史的まちづくりを考える」シンポジウムが開かれたのであるが、大袈裟に言うと、その会場には「東京資本」に対する怨嗟の声が満ちていた。しかし、祇園で起こりつつあることを「東京の地上げ屋」のみのせいにすることは誤りである。また、相続税や地価税など税制のみのせいにするのも誤りである。売るものがいるから買われるのであって、問題の根は地域の中に存在している。言うまでもなく、その根底にあるのは日本の各都市に共通の問題だ。地上げ屋の論理、経済の一元的論理が支配するとすれば、京都は確かにただの「地方都市」になりつつあるといっていいのである。

 何故、京都がターゲットとなるのか。いうまでもなく、それだけの環境資源、歴史資源、地域資源を持っているからである。全国の各都市の問題を象徴するからこそ京都の問題が象徴的に取りあげられるのである。モヒカン刈りの一条山、大文字の裏山などスキャンダラスな問題が頻発するのも、裏返して見れば京都のもつポテンシャルを示すものであろう。

 「京都ホテル」、「JR京都駅」の問題にしてもそうである。高さが象徴的に問題とされるであるが、そこで問われているのは単に高さではない。その根底において問われているのは町づくりの論理であって、経済性という一元的な尺度によって、自然や文化や歴史や景観が切り捨てられていくその論理が激しく問われているのである。

 京都について大谷幸夫は次のようにいう(   )。

 「ごく一般論として言えば、日本の中でまあ一応、最も古い都市でしょ、歴史を持った。だから歴史的文脈とか論理とか、歴史的成果を蓄積されて、あるわけでしょ?・・・都市は事実に基づいて考えろっていう主張から言って最も根拠を持ってる、事実が意味と根拠を持ってるわけよね。その京都でまともな都市計画ができなかったら、日本の都市でどこでできるんだって言いたいわけね。」

 確かにその通りである。

 

 京都オールタナティブ

 具体的な都市、京都について今何が問題なのか。

 京都ホテル、JR京都駅、京都市コンサートホール、京都市勧業会館、和風迎賓館、市庁舎建替、・・・いくつか具体的な建築物の建設をめぐる問題がある。また、高速道路、地下鉄、幹線道路などインフラストラクチャー整備の問題は都市計画の基本問題としてある。また、関西文化学術研究都市の建設、梅小路公園の建設、二条城駅周辺整備事業、京都リサーチパークの建設など開発、再開発の地区整備の課題がある。より構造的な問題としては、経済活性化の問題があり、産業構造のリストラクチャリングの問題がある。「新京都市基本計画」には様々な課題が網羅的に、また、地区毎の課題とともに挙げられているところである(   )。

 こうした様々な都市計画的課題は日本のどの都市においてもそれぞれに問われることではある。しかし、京都には京都故に特権的に課題とし得るテーマがあり、議論がある。新京都市基本計画は、「平成の京づくりー文化首都の中核をめざして」とうたうのであるが、「世界性」、「中心性」のテーマをどう展開するかがまずキーとなる。京都への遷都論、和風迎賓館など首都機能の建設、国際日本文化研究センターの建設、「国際歴史都市研究センター」構想、「国際木の文化研究センター」構想などがそれに関わる。日本の文化の固有性に関わるセンター機能の特権をどう展開するかである。このレヴェルの主張は、京都の新しい経済センターを建設するとか、洛南に新たな都心を造るといった主張とははるかに次元を異にする。京都をめぐる議論がすぐさま錯綜し始めるのは理念としての京都と現実の京都が同一レヴェルで語られるのが常だからである。

 とはいえ、現実の京都をどうするのか、というのは大きな問題である。景観問題がこの間大きくクローズアップされたことが示すように、一方で、大変な危機感があるように見える。しかし、一方で、意外にクールな眼もある。「何も困っていない。何があっても、1200年の京都はびくともしない。」という層も少なくないのである。「京都はこれまでも新しいものを取り入れながら、古いものとの調和を計りながら生きてきた。これからもそうであろう。」という底抜けの京都肯定論である。京都の景観が破壊されることに、より危機感があるのは観光客であったり、観光客に依存する層である。あるいは傍観者としての京都以外の居住者なような気がしないでもない。

 京都肯定論の裏には、かなりニヒリスティックな京都論、京都滅亡論もある。もう手遅れだ、なるようになるしかない、という。しかし、通常、京都の経済的地盤沈下を問題として活性化を訴える京都開発論がそれに対して対置される。というより、現実の京都をつき動かしているのは、開発の波であり、再開発への蠢きである。それに対して、古都の自然や町並みの景観を守ろうという京都保存論がある。もちろん、論議の順序は逆である。京都を開発の波が襲うことによって、京都の景観が失われる。そこで京都の景観を守れ!と声が上がり、それに対して、「景観で飯が食えるか」という活性化論が切り返すというのが構図である。

 そこで問題なのは議論が極めて単純化されることである。京都開発論に対して、京都凍結論が出される。木造都市復元再生論が出される。地下都市論が出される。京都博物館化が訴えられる。いずれも極論である。京都の完全な木造都市としての復興、完全地中化の主張など「保存」という名の大変な開発論である。一方、京都を更地にしてしまおうという活性化論などないのである。保存と開発という二分法が決して有効ではないことは明白であるにも関わらず、極論の提示によって議論が閉鎖される。思考の怠慢である。

 南部開発、北部保存という緩やかな了解も同じ様な単純化がある。南北一体化が一方で大声で主張される(   )のは京都がそれ自身、南北問題、洛中ー洛外問題を抱えているからである。北部は保存、南部は開発と決めつけるにはいかないし、また、単純な一体化もそう簡単ではないのである。

 建築物の高さだけが問題とされるのであるが、これまた議論の単純化である。何がどこからどのように見えないといけないのか、そんな議論が少しも深まらない。京都ホテルやJR京都駅以前に既に問題は顕在化していた筈であるにも関わらず、何故、より一般的な問題として突き詰められないのか。例えば、町家再生の問題がある。町家を何故再生しなければならないのか。再生すべき町家とは何か。基本的な議論が一般化されていない。また、それ以前に、町家の町並みがガタガタに崩れていくメカニズム(経済原理、税制、消防法など法・制度)は誰もが指摘するけど一向にメスが入らない。単純化した主張は確かにわかりやすくセンセーショナルではあるけれど、一方で、現実の様々な矛盾を覆い隠してしまうのである。

 そこで何が必要とされるのか。ひとつには強力なリーダーシップである。歴史的にみても、あるいは近い例としてミッテランのグラン・プロジェをみても、思い切った都市計画の実現には巨大な権力が必要とされる(   )。しかし、おそらく、それは京都には、あるいは日本には馴染まないだろう。可能性があるとすれば、京都のこれからの壮大なヴィジョンとして、可能な限り英知を集めたコミッティーによって立案されたプログラムをしかるべきプロセスにおいてオーソライズし、建都1300年に向けて着実に実行していくというシナリオである。 

 しかし、何よりも必要なのは個別の具体的な実践である。日本の都市計画が最悪なのは決定のプロセスが不透明で曖昧なことである(   )。オープンな議論の上でしかるべき機関とプロセスにおいて決定し、実践する、そうした回路が不可欠である。個々のモニュメンタルな建築物の建設についても開かれた場における徹底した議論が必要である。議論が曖昧なまま中途半端な形で残されたまま事態が進行していくのは実に不健康なことである。

 数々の提案は以上にみたように既にある。また、様々なまちづくりのグループも多い。そうだとすれば何が必要か。都市計画のためのユニークな仕組みを創り出しうるかどうかこそが京都に今問われていると言えはしないか。同じ制度同じ手法を前提にする限り、これまでの遺産という特権が残されるだけである。遺産を食いつぶしていくのもいい。ただ、新たな遺産を創り出していく仕組みの再構築がなされないとすれば建都1300年にはもしかすると京都は京都でなくなっているかもしれない。わずか2年の観光客の眼にはそんな根拠の無い不安も沸きつつある。

 

 

註1 赤瀬川原平 藤森照信他 新潮社    

註2 川崎清 小林正美 大森正夫 鹿島出版会    

註3 脇田祥尚 「祇園山鉾町周辺の伝統と変容」(「京都 歩く・見る・聞く①」 『群居』30号     月)

註4 青井哲人 「伏見へ出る?」(「京都 歩く・見る・聞く②」 『群居』31号       月)

註5 堀 喜幸 「遊里めぐり」(「京都 歩く・見る・聞く③」 『群居』32号     月)

註6 荒 仁 「「京の横断面」ー三条通りを歩く」(「京都 歩く・見る・聞く④」 『群居』33号     月)

註7 鎌田啓介 「鴨川を行く」(「京都 歩く・見る・聞く⑤」 『群居』34号       月)

註8 吉田守男 「奈良・京都はどうして空襲をまぬかれたか」『世界』   号、   

註9  井ケ田良治、原田久美子編 『京都府の百年』、山川出版社、   

註10 坂口安吾 「日本文化史観」、坂口安吾著作集、ちくま文庫 

註11 堀 貞一郎 「完全なテーマ・パーク=京都を」、『京都2001年ー私の京都論』所収、かもがわ出版、   

註12 林屋辰三郎 『町衆』、中公新書、   

註13  地蔵盆とコミュニティー組織についてはいくつか研究があるが、地蔵信仰と地蔵の配置をめぐっては、竹内泰君が「聖祠論」として研究中である。

*14 中村淳 「歴史的都市における地域コミュニティーに関する研究」(    年度 京都大学修士論文)

*15 大谷幸夫 「時日に基づかない都市計画」、『建築思潮』02号、学芸出版社、   

*16 京都市企画調整局、    月。本特集の内田俊一京都市助役(前企画調整局長)論文参照。

*17 京都南北一体化研究会、『京都が蘇るー南北一体化への提言』、学芸出版社、   

*18 磯崎新・原広司、「消滅する都市」、『建築思潮』02、    年。および本特集巻頭対談参照。

*19 拙稿 「都市計画という妖怪」、『建築思潮』02、     

2024年4月30日火曜日

植民地支配と建築家、書評 西澤泰彦『海を渡った日本人建築家』、SD,199704

書評 西澤泰彦『海を渡った日本人建築家』
植民地支配と建築家 

布野修司

 

 間違いなく労作である。そして、一見ハンディな本のようでていて、とてつもなく重い本である。

 本書のもとになったのは『二〇世紀前半の中国東北地方における日本人の建築活動に関する研究』という学位請求論文(東京大学 一九九二年)である。そこで時間をかけて丹念に掘り起こされた圧倒的な事実が本書を大きく重みづけている。そして、「二〇世紀前半の中国東北地方における日本人の建築活動」が「日本による中国東北地方への侵略・支配に対して、大なり小なり貢献していたのは確かである」という、全体として扱うテーマの大きさが本書をさらに重いものとしている。

 全体は7章からなる。大連軍政署および関東都督府()、満鉄()、満州国政府()、ゼネコンとフリー・アーキテクト()の前半においては、それぞれ「建築組織」と「建築家」群像が克明に調べられ列挙(リストアップ)された上で、主要な建築(活動)が紹介される。そして後半の3章は、建築様式(Ⅴ アール・ヌーヴォーvs中華バロック)、自然条件と建築材料あるいは都市防火と美観(Ⅵ 異境での建築活動)についての考察を踏まえて、総合的考察(Ⅶ 中国東北地方支配と建築)がなされている。

 最初の建築家、前田松韻が東京帝国大学建築学科を卒業直後にダルニー(大連 ダーリニー)に渡ったのが1904年。そして、池田賢太郎、岡田時太郎が続いた。日露戦争とともに中国東北地方における「建築家」の活動が開始される。以後、15年戦争期にかけて、日本人建築家たちがどのような建築を建てたのか、様々なエピソードとともに記述されている。京都府技師であった松室重光が大連市役所を建てる経緯、大連医院の設計をめぐる米国フラー社の途中解約事件、内地に先駆けた集合住宅、大連近江町住宅を設計した太田毅、安井武雄の満鉄時代、遠藤新と土浦亀城の中国東北地方での活動。かって薄暗い書庫で『満州建築協会雑誌』の頁をめくったことを思い出した。とても書かれたものだけからはわからない興味深い事実が随所に記されていて実に刺激的である。

 日本帝国主義の満州支配の拠点であったといっていい大連の南山地区には今猶1910年代から20年代にかけて日本人によって建てられた住宅が今も猶残っている。大連理工学院の陸偉先生と一緒に調査する機会があった。内地に先駆けてアパートメントハウス関東館(1919年)が建てられている。ゾーニング(用途地域性)も内地京都(1924年)に先駆けている。満州が日本の実験場であったという評価も一方でそれなりに了解できた。大連市はこの南山地区を「保存的開発地区」に指定したのであるが、何を保存し、何を開発すればいいのか、僕自身考え続けている。本書全体がそうした問いに関わっている。

 一個の建物ならもう少し簡単かも知れない。朝鮮総督府(韓国中央博物館)のように如何に傑作であろうともPC(ポリティカリー・コレクトネス)問題として、壊されるべき建築はあるのである。しかし、町そのものは生きられることによって自らのものとなるプロセスがある。南山地区は既に半世紀を超えるそうした歴史がある。本書に微かな不満が残るとすれば、究極的にタイトルが示すように日本の「建築家」からの視点が全体として強調され、建設され残された集団としての住宅地や町の方からの視座が隠されてしまっていることである。

 



 

2003年5月  任期満了?  されど、しばらくは居残り作業! 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 『建築雑誌』編集長日誌              布野修司

 

2003年5月    

 任期満了?

 されど、しばらくは居残り作業!

 

 

2003年5月1日

授業の一環で京都の南区調査。

共同通信に「1500号記念特集」の記事。井手さんから送っていただく。

 

2003年5月2日

最終(第23回)編集委員会。最後ということでかなりの出席率。大崎、石田の両幹事は泊まりがけの構えである。

メインは、12月号の特集「建築を学ぶ若い人たちへ」(仮題)。

・「初学者に読ませたい本」をアンケートでリストアップする。

・アンケート先は、学会役員(支部長含む)、調査研究委員会委員長および運営委員会クラ スの主査、学会賞受賞者とする。

・アンケートの主旨は、建築を学ぶ学生(初学者)に読んでほしい本を、専門書1冊、一 般書1冊を目安に挙げてもらう。自著と教科書は外すことが原則。

・アンケート依頼状を整えメールで依頼する(事務局)。次回委員会まで結果を用意する。

 という作業を急遽行ったのだがアンケートの集まりが悪い。いささか不満。

・実際の誌面では1分野=1ページとし、36分野を掲載する。各分野ごとに推薦理由2/3 ページ、学生からの読後コメント1/3を掲載する。分野の選択は布野委員長が検討する。・単なるブックガイドにならないよう、専門性をきちんと抑えてもらうようにする。

 という方針であるが埒があかない。そこで、委員それぞれに執筆候補を挙げてもらう。かなりの人数が上がる。

 結局最終決定できず、編集委員長と松山さんが預かるかたちで終結。

 まずは打ち上げ会へ(一次会)。

 続いて、二次会。予定通りの大カラオケ・パーティ。何故か伊藤圭子委員の夫君府中市長も飛び入り参加。

 気がついたら夜が更けていた。

 

2003年5月7日
次期編集委員長、神奈川大学の岩田衛先生に決定との報。

 そして、早速、新会長インタビューの日程調整。

 

2003年5月10日~12

 親父の見舞いのために松江行。たまった庭仕事に汗を流す。のどにプラスチックの器具をとりつけ、声が若干出せるようになる。

 

2003年5月13

 島根県しまね景観小委員会。久々出席。11年目になるとかで見直したいとか。財政問題もある由。

 

 

2003年5月14

理事会。その後懇親会。若干の感慨を挨拶。この日掲載された日経新聞の松山さんの記事を紹介する。

 

2003年5月15

「6月号担当の皆様
 標記について、「NPOが生む建築」がボツになったため3ページの空きが出ました。古谷先生と相談した結果、勝山さんの巻頭原稿を1ページ増、座談会を2ページ増とします。座談会には写真を沢山掲載したいと思いますので、下記のご提供をお願いいたします。」

と小野寺さんからメール。こういうこともあるから、しばらくはまだ大変だ。

 

2003年5月16

 10月号座談会。石田幹事による鼎談メモは以下の通り。

建築雑誌20038月号特集「日常環境の心理と行動 -実験室からフィールドへ」

2003年5月16日(金)1820時,建築会館

鼎談テーマメモ

■ 環境心理研究との関わり

        簡単な自己紹介を兼ねて

■ 環境心理研究の現状

        現状認識

        問題点は何か

■ 日常環境における心理と行動

        複雑で多様な環境要素

        生理,適応,個人差,履歴,文化...(個別性/共通性)

        具体的な研究,建築作品,事例

■ 環境と人間をどのように捉えるか?

        標準値にかわる設計の考え方は可能か?

        人間⇔空間⇔建築

        環境⇔人間のモデル

■ 将来展望と課題

        取り組むべき課題は?

        環境心理の研究と教育

        学会での位置付け,役割

        建築設計,設備設計との関係

 鼎談者が親しすぎたのか、若干不発の印象。手を加えていただくことを依頼。

 

2003年5月19

宇治市景観審議会(広原盛明委員長)。バスで市内を一周。傍聴人の発言許可について若干の議論。

 

2003年5月22

宇治市都市計画マスタープラン検討部会(岡田憲夫部会長)。

この間、編集委員会で議題になっていた投稿文について、掲載を決定することにする。田中淡先生の原稿が届いたので6月号である。経緯は以下の通り。なんらかの議論に繋がればと思う。

 

 本年1月、経済学を専攻する北海学園大学の川端俊一郎教授から、建築雑誌編集委員宛に「日本と中国の最古の木造建築に使われたモジュール『材』」と題する短い論文が送られてきた。中国五台山の南禅寺と仏光寺、日本の法隆寺が、北宋の将作監・李誡の編纂した『営造法式』にみえる「材」(方桁の)をモジュールとして設計されており、前者が唐尺(1尺=約29.6㎝)、後者が南朝尺(1尺=約24.5㎝)を基準尺とすることを述べた短文である。川端氏は、この論文を委員会に投稿してきたのではない。その手紙には「ご笑覧ください」とだけ記してあるのだが、むしろ編集委員会を騒然とさせたのは、同封されてきた以下の2編の論文であった。

 ・「法隆寺移築説への拒絶反応 -日本建築学会論文集の査読委員が不採用とした理由  の検討-」『北海学園大学学園論集』第113号、20029月(以下、論文①と略称)

 ・「南朝尺のモジュール『材と分』による法隆寺の営造」『計量史研究』Vol.24-No.2、 日本計量史学会、200212月(以下、論文②と略称)

 じつは、この問題は若山滋前編集委員長の代にまで遡って本誌と関係している。20012月、奈良国立文化財研究所の光谷拓実氏が、法隆寺五重塔心柱の最外層年輪が西暦594年に遡ると発表し、古代史・建築史の専門家に大きな衝撃を与えた。その最外層年輪は樹皮に近いシラタ部分にあたり、常識的にみて、心柱の伐採年代は594年以降数年程度に納まるだろうから、『日本書記』天智天皇九年(670)に記された斑鳩寺全焼の後に法隆寺西院伽藍が再建されたとする定説との時間差があまりにも大きく、法隆寺非再建説に有利なデータが出現したかにみえたからである。しかし、大半の研究者は冷静を装い、「心柱の転用説」や「部材放置説」を示唆するにとどまっていた。さらに多くの部材の年輪データを集成しない限り、実証性の高い解釈を示しえないと判断していたからであろう。

 ところが、建築史学の門外漢である川端氏が、この心柱の年輪年代に着目し、法隆寺は隋朝成立直後に竣工していた「X寺」を移築したものとする独自の推論を展開し始める。氏は同年6月、まず『北海学園大学学園論集』第108号に「法隆寺のものさし-南朝尺の材と分」と題する論文を発表し、その要約論文「法隆寺の木割」を本誌の建築論壇に投稿した。これに対し、当時の編集委員会(若山滋委員長)は「掲載を見送る」という判断を下したため、氏は正式に建築学会に入会し、同年9月、「中国南朝尺のモジュール〈材と分〉による法隆寺の営造」と題する論文を学会論文集に投稿したのだが、査読の結果は「不採用」であった。この結果を受け入れられない川端氏は、ただちに異議申し立てをおこなったが、特別審査小委員会からも異議申し立てを却下された。

 上記論文①は、建築学会論文委員会から「不採用」と判定されたことに対する猛烈な批判であり、論文②は「不採用」と判定された論文が日本計量史学会誌にそのまま採用されたものである。川端氏の主張は論文②に言い尽くされており、その内容は、

 1)心柱の伐採年代からすると、法隆寺は元の法隆寺が焼失するよりも前に、どこか別の  所で造営されており、それが移築されてきた。その「X寺」はおそらく筑紫にあった。

 2)法隆寺の造営尺は北宋の『営造法式』に記す「材分」のモジュールに基づき、しかも  その基準尺は、関野貞が非再建説の拠り所とした高麗尺ではなく、南朝尺である。

という2点に集約できる。今回編集委員会に送付されてきた短文については、2)の「材分」モジュールを法隆寺だけでなく、中国唐代の木造建築にまでひろげて解釈したものである。これら川端氏の持論は、最近、日本経済新聞2003321日の文化欄に「法隆寺のモノサシ」と題して掲載され(図◆)、また同じく320日には北京の清華大学建築学院において講演されており、徐々にその発言範囲を増幅しつつある。

 編集委員会としては、論文委員会で「不採用」と判定された論文について、その判断を蒸し返すつもりはまったくない。基本的に今回送付されてきた「日本と中国の最古の木造建築に使われたモジュール『材』」を掲載するかどうか、を審議の対象とした。率直に言うと、「掲載すべきでない」という意見も相当強かったのだが、あえて掲載に踏み切ったのは、①法隆寺五重塔心柱最外層年輪年代をいかに解釈すべきか、②『営造法式』の「材分」制度が唐代から南北朝にまで遡りうるのか、③南朝尺が本当に復原可能で、かりに可能ならば、その基準尺により法隆寺の木割が説明できるのか、などの重要な問題を孕んでいることを重視したためである。これらの諸問題が現状でどこまで解明されているのかを把握するため、川端氏の論文を掲載するとともに、このテーマと係わりの深い日本建築史・中国建築史の専門家にコメントを依頼することにした。ご多忙のなか、貴重な論評をご寄稿いただいた鈴木嘉吉先生、田中淡先生、山岸常人先生に深く感謝申し上げたい。                   (編集委員会)

 

 今年の京都CDL一日断面調査の予定が送られてくる。

200367日第回京都断面調査要項

「平安袈裟斬西南行(へいあんけさぎりせいなんこう)」

  


■主旨

 「京都断面調査」とは京都を人体に見立て、「CTスキャン」を行うかのように、京都盆地内において任意に設定された帯状断面を機械的に踏査するものである。京都のもつ歴史的文脈や地域性をあえて考慮せず、あくまで図式的に調査領域を設定することで、「京都」に対して我々が抱いている様々な先入観・固定観念を払拭し、そこから見えるもう一つの京都像を浮上させることが目的である。
 今回は「断面調査」の原点に還り、意味や場所性が濃厚に附随する軸線(「~通」や「~川」など)沿いを歩行するのを破棄し、「古代平安都城の対角線」(以下、「袈裟斬線」)という、おおよそ意味を見出せないような帯状断面を設定した。
 京都をまさに「袈裟掛け」に突破することで、「京都」概念をも「袈裟斬り」しようという野心的調査である。
 「袈裟斬った」刹那、見える新たな京都を是非堪能していただきたい。

■調査エリア

 古代平安都城の東北角(現御所)と、西南角(現西京極)を結んで得られる「袈裟斬線」沿い。ちなみに袈裟斬る行政区は、上京区、中京区、下京区、右京区、南区の5つにも渡る。
 
 

■調査日時と調査スケジュール

2003年6月7日(土曜日)

 ※雨天の場合は翌日の8日に、8日も雨天の場合は15日に延期される。

 □調査スケジュール

 10:00 御所内饗宴場広場 集合

 10:30 調査開始

        調査 (昼食は各自でとって下さい

 17:00 桂川沿い堤外児童公園 集合

 17:30 懇親会(桂川河原(桂大橋そば))

 19:30 解散

 

2003年5月23

59回アジア都市建築研究会。講師:重富淳一(大阪大学大学院)。
「ムンバイにおける密集地改善手法としての沿道整備に関する報告 植民地期のPMロードとプリンセスストリートにおける沿道整備事業」 ムンバイにおいて行われた既成市街地の過密化にたいする改善事業、PMロードとプリンセスストリートにおいて行われた改善事業を題材に、都市の形成・過密化から再構造化・改善の過程について報告し、現地の現状について報告する。
 ムンバイは旧大英帝国の植民港湾都市である。旧大英帝国の植民港湾都市においては、その歴史的経緯から人口増加による密集市街地の問題を抱える都市は多い。ムンバイでは、それらの植民都市のなかでも早くから過密化の問題に直面し、改善策が講じられてきた。他の植民港湾都市に先駆けて1896年にムンバイ改善トラストが作られたことや、1910年にボンベイ都市計画法が施行されるなど、当時としては先進的な取り組みがなされてきたのである。この事はムンバイが他の旧植民都市よりも過密化の問題に関して(実験的な)経験を蓄積していることを意味する。 PMロードとプリセスストリート沿道において行われた密集市街地の改善策は、19世紀末から20世紀初頭に執り行われスラムクリアランス的な手法が用いられている。このスラムクリアランス的な手法については、開発時のコスト面及びインパクトについてはゲデスによって批判がなされている。しかし、その改善策に伴う長期的な空間構成の変遷といった観点からの考察はなされていない。それらの事業が行われてから70年から100年経ち、今改めて考察しようとするものである。

2003年5月26

 毎年行っている留学生向けの授業「日本の都市と建築」。どんどん質問が飛んできて、楽しい。

 ライデン大学のアジア研究所に出した掲載原稿が送られてくる。英語のチェックを受けたものだという。

Tokyo: The Declining Capital

From its origins as a small castle town until the end of the Edo era, Tokyo’s urbanization followed an orthogenetic process. In the mid-seventeenth century Tokyo’s population numbered one million, in a league with London and Paris. By the eve of the Meiji Restoration in 1868 Tokyo resembled a huge urban village. Twice destroyed in the twentieth century – by earthquake in 1923 and aerial bombardment in 1945 – Tokyo emerged as a speculator and builders’ paradise, a true global city, in the 1980s. Today Tokyo proper counts over 12 million inhabitants while one-fourth of the Japanese population lives in the greater metropolitan area. The mega-city, warns the author, is awaiting another catastrophe.

 

By Shuji Funo

 

The politically powerful construction industry was one of the motors of rapid post-war economic growth. Relying heavily on the ‘scrap and build’ method, concrete and steel transformed the Japanese landscape. In the late 1960s, construction accounted for over 20 per cent of GDP. High growth gave way to a period of stable but lower growth in the wake of the 1973 energy crisis; heavy industries lost ground to light industries based on advanced science and technology. The focus of urban development shifted from outward expansion to the full development of already urbanized areas. Money generated by the speculative bubble of the 1980s transformed Tokyo into a global city, wired to the dynamic movements of the world capitalist economy.

 

The postmodern city: Tokyo at its zenith

The urban issues Tokyo faced in the mid-1980s were quite different from those it had faced in the past. The city had reached its limits for horizontal expansion. The ‘Tokyo Problem’ and ‘Tokyo Reform’ became pressing issues for debate: scholars and critics discussed the negative effects of Tokyo’s political, economic and cultural dominance, as well as possibilities for relocating the Japanese capital.

In the 1980s Tokyo’s status as one of the world’s financial centres attracted an unprecedented influx of foreign businessmen and workers. The resulting demand for centrally located office space and 24-hour facilities sparked a speculative building rush that dramatically transformed the cityscape. Western architects with postmodern designs were invited to give Tokyo a fashionable facelift, befitting its status as a global city.

Further urban development necessitated the search for new frontiers. The first frontier was unused public land in the city centre. Downtown properties were snapped up by investors, while large real-estate companies launched re-development projects. Many of these destroyed the fabric of existing downtown communities. The second frontier was the sky: Tokyo still had more space in the air than New York. The Manhattan Project, revived after a long hiatus, is currently renewing the central business district around Tokyo Station. The third frontier was under the ground, the so-called geo front. A project to create an underground city of 500,000 inhabitants was seriously proposed. The fourth and final frontier was the Tokyo waterfront, hitherto the home to dockyards and factories. Under the title ‘Urban frontier’, the World City Exposition Tokyo ‘96’ directed expansion towards Tokyo Bay.

New technologies, production systems, and building materials shaped Tokyo’s urban transformation. Since the 1960s air-sealing aluminium sashes have been de rigueur, meaning that all dwelling units are now air-conditioned. So-called intelligent office buildings came into fashion in the 1980s. Domed, climate-controlled stadiums allow football games to be played in the midst of storms. The daily lives of Tokyo’s citizens have become completely divorced from nature; most space in Tokyo is artificially controlled by computer. Electronic conglomerates enjoying symbiotic relations with government are prominent players in this development process. So are the large construction companies, still wielding considerable political power. Tokyo is a temporary metropolis that is constantly changing: in this repeated process of scrap and build, the city is losing its historical memory.

 

‘The 2003 Problem’

Nobody controls a global city like Tokyo; nobody knows who is behind the constant change. Something invisible, which we might call the World Capitalist System, guides the transformation of the Japanese capital.

With the glory days of the bubble economy long gone and Tokyo suffering from economic stagnation and post-bubble debt, a curious phenomenon can be observed. Along the Tokyo waterfront many new office buildings and flats are under construction. The number of high-rise flats newly built in 2002 is said to be unprecedented. Now as before, this construction is driven by the speculative activities of real estate agents and investors. While rumour of ‘The 2003 Problem’ is spreading – companies will move to the waterfront leaving old inner city office buildings unoccupied – predictable oversupply is the result of individual realtors and developers pursuing their own short-term interests, even as they know they will later suffer.

The central government has tried to influence the fluctuating annual number of dwelling units built by reforming tax incentives. The current slogans of the central government are ‘Restructuring’ and ‘Urban rebirth’. What is actually happening, however, is the hollowing out of the inner city. Ishihara Shintaro, governor of Tokyo Metropolitan Municipality, has declared sixteen policy goals, the first of which is to ‘Create an urban city that facilitates a balance of jobs and residences’. It consists of two strategies: ‘Promotion of inner city residence’ and ‘Fundamental reform of the Metropolitan housing system’. The former includes bringing workplaces and residential areas together in the suburban Tama area. The results have thus far been disappointing: the only change for most people has been their place of work. The remaining hope is that old inner city office buildings will be converted into homes.

The central government has established a special board called ‘Urban rebirth’ and has opted to deregulate building codes and urban planning laws to stimulate building activity. Local governments can now rezone areas and make decisions on the restructuring of districts. Most local governments, however, are suffering from financial pressures and lack funds to realize new projects. And while policymakers believe promoting building activity through deregulation is the only way to economic recovery, the idea seems far-fetched.

Tokyo has its natural limits; the city cannot grow indefinitely. Obviously, the city needs powerful leadership and the participation of citizens to implement new ideas. Unfortunately, while formal procedures for citizen involvement have been proposed, they do not function effectively: people seem reluctant to participate when their private circumstances are not affected. Without citizen input, ‘The 2003 Problem’ seems here to stay. Though blackouts and drought already threaten the metropolitan area each summer, the current system of the production and consumption of spaces, however, is controlled by the profit motive, not social or ecological responsibility. Tokyo, on its current course, is awaiting catastrophe.

 

Dr Shuji Funo is professor at Kyoto University and a specialist in the field of Asian design and urban planning. The Architectural Institute of Japan (AIJ) awarded him for his PhD dissertation ‘Transitional Process of Kampungs and Evaluation of Kampung Improvement Program in Indonesia’ (1991). He recently designed Surabaya Eco-House, an experimental housing project, and is now conducting research on Dutch colonial cities.

 

2003年5月30

 京都造形大の授業。吉武先生葬儀。お花を送る。ご冥福を祈る、合掌。

2003年5月31

 任期満了。

 つたない編集長日誌、ご愛読多謝。

 岐阜県加子母村の村役場での木匠塾の打ち合わせに一泊の予定で行く。中津川で藤澤好一先生、安藤先生、藤澤彰先生と待ち合わせ。

2024年4月28日日曜日

2024年4月27日土曜日

1円入札が問う設計報酬の自由,日経アーキテクチャー,19960923

設計料入札など論外

 

1円入札が、アイロニーとして行われたとしたら、あるいは談合へのプロテストとして試みられたとしたら、かろうじて意味があるのかも知れない。しかし、昔からこの手の話は耐えないのだからしゃれにもならない。古い話だけれど、警視庁が9万円で落札されたのは本当なのか。『日経アーキテクチャー』をはじめ、建築ジャーナリズムは、この際、徹底して設計入札の実態を明らかにして欲しい。

 設計入札など論外である。

 設計入札に応じる建築家など論外である。

 設計入札が設計という業務に馴染まないことは明かだ。にもかかわらず、それが無くならない設計業界の体質は絶望的である。徹底的に実態を洗い出して設計入札反対のキャンペーンを展開して欲しい。

 確認すべきは、設計入札の問題と設計報酬(の自由)の問題は次元が違うということだ。設計者は設計の内容によって決められるべきで、設計料の多寡によって予め決められるべきではない、という単純なことだ。極端な話、しかるべき手続きで決定された後、設計者が納得すれば(利益の社会的還元というのであれば)設計料零ということだっていい。

 問題は、しかるべき手続き、の問題だ。基本的には設計競技によるしかない。方法は様々にある。そのプロセスの公開性が担保されさえすれば、どんなやりかたでもいい。

 公共施設の場合、国民の血税を使うわけだから、それなりの時間と智恵を使うべきだ。単年度予算の制度や行政手間といった小官僚の都合によって、設計入札が採用されているのが根本原因である。公共発注の実態を徹底的にルポルタージュして欲しい。『日経アーキテクチャー』には、その使命がある。






 

2024年4月26日金曜日

住まいの大切さを力説,居住福祉 早川和男著,共同通信,19971116

 「住居は人権である」というのがかねてからの著者の主張である。「健康で文化的な生活」を営むためには「安全・快適で安心できる住居」がなければならない。本書の第2章「健康と住居」にも、住居が「貧困」であるが故に引き起こされる傷病について多くの事例があげられている。「狭さはストレスとして現れ、家族の人間関係をおかしくする。不眠、抑うつ症状、精神分裂症状、あるいはケンカ、離婚などの家庭崩壊にいたることもある」などというのは極端にしても、住居の大切さが力説されている。

 著者は、毎年、釜ケ崎に越冬パトロールに出かけるのだという。冒頭にその経験が語られている。「寄せ場」や大都市の地下コンコースを住処とする「ホームレス」を目の当たりにすると、まさに「住居は人権である」という主張は実感できる。しかし、一般にわが国において、住居についての権利意識は薄い。住居の取得は住宅市場のメカニズムに委ねられるだけだ。そこで著者が提出しようとするのが、「居住福祉」という概念、「住居は福祉の基礎」というテーゼである。

 阪神・淡路大震災の経験が決定的であった(第1章「阪神・淡路大震災に学ぶ」)。最も多くのダメージを受けたのは、高齢者、障害者、在日外国人等々、要するに社会的弱者である。老朽化した住居の密集する地区が最も被害を受けた。隠されていた現代日本の「住宅問題」が露わになった。

 そこで「居住福祉」をどう展開するか。「高齢者と居住福祉」(第3章)の問題、わが国の居住政策への批判(第4章「居住福祉原論」)など、海外の事例、制度の紹介を豊富に加えて論じられている。そして具体的な行動指針が提示される(第5章「居住福祉への挑戦」)。鍵となるのは運動である。広範な「居住権運動」「居住福祉」運動が組織されねばならない。そこで大きなネックとなっているのが居住者の受動性なのである。