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2026年3月15日日曜日

都市組織研究

 都市を遺伝子,細胞,臓器,血管,骨など様々な生体組織からなる有機体に喩えると,コミュニティ組織のような社会集団の編成と対応する、いくつかの要素(建材、部品、部屋・・・)あるいはいくつかのシステム(躯体,内装,設備・・・)からなる建築物とその集合による都市組織からなると考えられる。本研究では、ますます画一化しつつある現代都市の空間編成に対して、アジアの諸都市の都市組織の多様な空間構成を明らかにするものである。

 

The city is formed by urban tissues (urban fabrics), which are sets of buildings(houses, public facilities…) and open spaces(roads, rivers, …) supported by infrastructures as an organic body is consist of genes, cells, internal organs, blood vessels, bones and so on. This research clarifies the various space formation of urban tissues of Asian cities to reconsider the standardized urban formation of modernized cities in the world.

 

2026年3月14日土曜日

奥出雲おろち号、第7回しまね景観賞 優秀賞選評、島根県、1999

 奥出雲おろち号

  布野修司 

 出雲横田駅の近くの踏切で待った。紅葉の季節がほぼ終わりかけ、明日には運転がお終いになるという日で、雪も降り出しそうであった。

 やがてゆっくりと奥出雲おろち号が現れた。白とブルーに塗り分けられた車体は後ろの山の緑と紅葉によく映えて見えた。映えると言っても、自己主張をする映え方ではない。適度のスピードで通り過ぎるから、適度に刺激的である。このデザインが賞の対象だけれど、それよりこの企画自体が景観賞に値する。すなわち、景観を鑑賞する仕掛けがいい。

 このトロッコ列車の存在によって鉄道沿線の景観は常に意識されるだろう。旅客たちは奥出雲の自然を楽しむと同時に奧出雲の歴史と伝統を思う。他に同様のアイディアはあるにせよ、いつまでも続けて欲しいと思う。

 寒いから、トロッコ列車に乗っている人はいないのじゃないか、といささか心配であったけれど、やってきた奥出雲おろち号には紅葉を楽しむ少なからぬ客があった。

2026年3月13日金曜日

国民住宅と西山夘三の食寝分離論

 9.国民住宅と西山夘三の食寝分離論

 

  戦時下の住宅事情

  第2次世界大戦勃発前夜(1940年)、大政翼賛会が設立される。そして、国家総力戦体制へ向けての「新体制運動」が始まる。日中戦争が泥沼化する中で、日本国内は深刻な物不足に陥っていた。贅沢を慎み、生活を最低限まで切りつめることが強いられたが、それを美徳とする風潮が「新体制運動」を支えた。声高に提唱されたのが国民服であり、国民食であり、国民住宅であった。あらゆる物質生活を標準化することによって切りつめ、国民的統合を図ろうというのが「新体制運動」である。

 軍需産業の拡大とともに労働力が動員され、四大工業地域を中心とする都市部に人口が集中する。1939年には主要都市部の空き家率は1%を下回ったというi。住宅不足と労働者の不衛生な生活が深刻な問題となった。狭小な部屋での生活は、労働者の健康に大きな影響を及ぼす

 日々悪化していく住宅状況を背景に「国民住宅」構想は注目を集めた。1940年に国家による住宅供給機関として、同潤会を改組して設立された『住宅営団』も「国民住宅」への人々の期待を助長した。しかし、「国民住宅」建設という国家的プロジェクトに組み込まれた住宅政策は決して期待されたほど現実に即したものではなかった。衣食住ということで、国民服、国民食、国民住宅が発想されたのであるが、衣食と住は異なる。毎日着替える服や毎食異なる献立の替わりに、国民服を身につけ、国民食を口にするのと同様のレベルで国民住宅を考えることはできないのである。

 

 建築家の関心

 早川文夫(厚生省技師)による「国民住居の提唱」iiが建築界における国民住宅に対する態度を方向づけたといえる。

 「現在日本国民の大多数が住むべき家を仮に名付けて国民住居と呼ぶ。それは現存する家の単なる平均ではなく、かかる家にこそ住むべきであると云ふSollenを意味する」。

 つまり建築家として取り組むべきは、生活を最低限にまで切りつめて良しとする住宅ではなく、今後の住宅の目標を示すことである。以降、あるべき住宅像が様々に語られるのであるが、建築家の関心は必ずしも間取りにはない。

 「国民住宅」とはどうあるべきか。建築学会がまず提案しているiii。「戦時下の非常時であるから生活は簡素にすべき」という姿勢である。大邸宅を切りつめて小さくしていけば間取りは自ずと決定されるという。住宅の平面を構成する部屋は全て寝室に転用できるというのが結論であった。

 さらに学会案を下敷きにして、厚生省住宅規格協議会によって「住宅及其ノ敷地設計基準」が決定される。10㎡を単位として、30㎡「い」型から80㎡「へ」型まで6つの型が用意された。間取りというより、部屋を並べただけである。間取りより、量産のための規格化が建築家の頭を占めていたように見える。専ら、規格化はメートル単位か寸尺単位かといったことが議論されるのである。

 国民住宅設計コンペ(1941年)も現実の逼迫した住宅事情と結びつくものではなかった。「わが国将来の国民住宅の確立を期し、特にその意匠、構造、材料の上に画期的なる草案を求む」というのが募集趣旨ivである。敷地(130㎡指定)や建物規模の設定をみると募集側は必ずしも実現を考えていなかったように思える。審査員自身が審査所感として建築家の戸惑いが作品に現れていると言っている。このコンペの当選図案は、一見して奇妙である。そして中途半端である。木造に国際様式をはりつけただけなのである。

 

 「型」計画

 目前に迫る住宅難から出発した「国民住宅」は、戦時下の状況に眼をつむって理想を語るための道具のようであった。この名だけあって実が伴わない議論に、西山夘三は「食寝分離論」によって激しく反発する。戦争の有無に関わらず、一貫して庶民の住まい方に関心があった西山は、その膨大な調査をもとに、狭くても食事と就寝の部屋は別に確保されるべきであると主張する。そして同潤会が供給してきた中廊下型の間取りと比較しながら、少ない床面積でも食事室と寝室は別に確保できると強調する。

 住宅営団は設立すると同時に5年間で30万戸の住宅を供給すると宣言した。当時の全住宅数はおよそ1400万戸だった。住宅営団が国民の住居の全てをカヴァーすることが考えられていたわけではないが、かなりの目標である。量産化のための「国民住宅」の計画という課題に対しては、建築家にとって個々の住宅の設計を行う場合とは異なった方法が必要とされる。西山が提案したのが「型による解決」である。家族の人員構成に対応した寝室の確保が間取りを決定することが前提になった。この「型」計画は、住宅営団による住宅供給の柱になったばかりでなく、戦後日本の住宅を主導する。そして誰もが知るDK(ダイニング・キッチン)の爆発的普及へつながることになる。

 

i 西山夘三「戦争と住宅」1983

ii早川文夫「国民住宅の提唱」『建築雑誌』19409

iii 建築学会住宅問題委員会「庶民住宅の技術的研究」『建築雑誌』19411

iv 第15回建築展懸賞競技「国民住宅」『建築雑誌』19406

日本人とすまい6 間取り

 

 

2026年3月12日木曜日

百年計画/デザイン・コミッティー/京都の「めきき」、京都市

都市装置としての公共建築/設計システム論

百年計画/デザイン・コミッティー/京都の「めきき」

 

 都市は個々の建築行為の集積によって成り立っている。そうした意味で都市はそこに住む人々の集団的作品である。また、都市は一朝一夕に出来上がるわけではない。そうした意味で都市はそこで暮らしてきた人々の歴史的な作品である。

  それ故、自ら私有する空間(土地)だから自由にデザインすればいい、とはならない。好き勝手なデザインがとんでもない迷惑を近隣に及ぼすこともある。また、歴史的な作品である都市景観をたった一個の建築が台無しにすることがある。そこで必要なのがなにがしかのルールである。

 しかし、そのルールは、果たして法律や条令によって成文化しうるものであろうか。指針やマニュアルによって示されるものであろうか。はっきりしているのは、単に「高さ」や「色」や「形」が問題なのではないということである。一定の地区について一律「20メートル以下であればいい」「原色は駄目」「勾配屋根でなければならない」というのはおそろしく単純な発想である。建築のデザインというのはもう少し豊かで繊細である。個々の建築は個々の場所において固有の表現を求められている。

 究極的に問われているのは個々の場所における個々のデザインの当否である。はっきり言って「建築家」としての能力が問題だと思う。もちろん、専門家としての「建築家」が全てすぐれているとは限らない。また、誰だって「建築家」でありうる。そこで、とにかく必要なのは、議論の場ではないか、というのがかねてからの主張である。議論によって生み出されるものは結局凡庸なものにしかならない、とは必ずしも思わない。凡庸であれ、それはその議論の場の実力であり、最終的にひとつのデザインにまとめる「建築家」の能力の問題である。タウンアーキテクト制、デザイン・コミッティー制のように具体的な仕組みは色々考えられる。また、様々な萌芽的試みもある。指針やトゥールは使ってこそ意味があり、使い方こそが問題だということ、公共建築の場合特に、そのデザインの過程と持続的なシステムが問題であることを繰り返し強調したいと思う。

  

2026年3月6日金曜日

ヴァージニア工科大学とのワークショップ 「木の移築」プロジェクト 1997

SSF NEWS 原稿

ヴァージニア工科大学とのワークショップ 「木の移築」プロジェクト

布野修司

 

 6月4日、ヴァージニア工科大学の学生たちと京都大学京都造形大学の学生たちが、「ピラミッド匠の広場」(滋賀県八日市市)でワークショップを開いた。

 レイ・キャス教授率いるヴァージニア工科大学のプログラムは実に興味深い。近い将来日本の民家を解体してアメリカに移築しようというのだ。「木の移築」プロジェクトという。プロジェクトの中心は、京都で建築を学ぶピーター・ラウ講師である。まず、初年度は民家を解体しながら木造の組み立てを学ぶ。そして、次年度はアメリカで組み立てる。敷地もキャンパス内に用意されているという。米国の大工さん(フレーマー)も協力する体制にあるという。SSFとして協力したらと思う。

 今年は、とにかく何か共同製作しようという話になった。指導は彫刻家大倉次郎氏である。木彫で海外にも知られる。作業は簡単といえば簡単であった。墨で線を引くだけである。とにかく筆の赴くままに無心に引け、という。意識してパターンをつくってはいけない、という。交代して順番に引いていく。前の人の線が気になる。ルールは、前の人の線に接してはいけない、ということである。

 まず、紙の上に木や竹、石などを置く。これも構成を意識せずにばらまく。置かれたものをよけて線を引くのもルールである。

 やってみると意外に面白い。筆の太さによって線は規制されている。個々の線に個性はでるけれど、全体として統一感は自然にでてくろ。一心不乱に引いて、共同でひとつの作品ができる。貴重な体験であった。「木の移築」プロジェクトもなんとか成功させたいものである。

 






2026年3月5日木曜日

20000315ー0324:台湾 台北 台中:台湾921集集震災復興調査(東勢)(林宣萱修士論文):布野修司・闕銘宗・林宣萱・青井哲人・Fay・奥富・遠藤(東洋大)

 台湾(921集集)大地震・震災復興計画報告

未だに残る傷跡

ようやく仮設住宅が完成

多様な社区営造(まちづくり)への模索

布野修司

 

 中央研究院でこの九月に開く植民都市に関するシンポジウムの打ち合わせと震災復興の調査を兼ねて台湾を訪れた(三月一六日~二四日)。三月一八日は総統選投票日である。二一日は大地震から丁度半年に当たり、全ての法律の運用を柔軟に適用する緊急命令の期限(二四日)が来る。投票日直前、李遠哲中央研究院院長が民進党陳水扁候補を支持して辞任、中国からミサイルが発射された一九九六年の最初の総統選の際ほどではないにせよ、異様な政治的緊張の中での訪台となった。結果は民進党が辛勝。国民党の分裂選挙による敗北が李登輝の退陣につながったことはご承知の通りである。

 台風の目となったノーベル化学賞受賞者、李遠哲氏は、実は、中華民国社区営造学会会長でもある。この間の社区総体営造(まちづくり)運動をリードしてきた。九二一集集大地震後は、全国民間災後重建連盟の理事長をつとめる。台湾の未来の方向を握る文字通りのキーパースンである。社区営造学会の秘書(事務局)長は、早稲田大学で学んだ台湾大学城郷研究所の陳亮全氏、震災以前より機関誌『新故郷』を刊行し、震災後の復興計画のために二九チームに助成を行っている。以下は、社区営造学会を通じた震災復興活動の最前線についてのレポートである。

 

①社区総体営造の拠点-埔里 

 難航する権利調整-東勢

 総統選投票日前日の四〇万人近く集めた台北サッカー場での民進党の集会はものすごい盛り上がりであった。その大集会が最高潮に達する頃マイクを握ったのが陳其南交通大学教授である。いささか興奮した。前々日の夜再会し、親しく語らったばかりだったからである。陳其南教授は四年前には行政院の文化建設委員会にあり、まさに社区総体営造運動を創始(九四年)した人物である。社区とはコミュニティ(近隣社会)を意味する。移民社会で、基本的に中国人特有の家族主義の強い台湾では、戦後も国民党の強権政治が続いたこともあって、コミュニティの力が弱い。外省人(大陸系)と内省人(台湾人)の対立も根深い。だから、社区営造こそがこれからの重要テーマなのだ、と彼は力説する。

 社区営造学会秘書長の陳亮全、『新故郷』編集委員の曽旭光淡交大学副教授に合ったのは投票日当日であった。震災後の様々な取組みを取材する中で、ひとつの焦点として浮かび上がったのが埔里(南投県)である。一八一人が亡くなった埔里は都市部では東勢(台中県)についで死者の多かった街である。その埔里に新故郷文教基金会が設立され、雑誌『新故郷』が創刊されたのは、震災半年前であった。すなわち、社区営造学会のひとつの拠点は埔里に置かれていたのだ。中心人物は、総編集長廖嘉展氏である。彼は社区総体営造運動に関わるなかで李遠哲氏から雑誌編集の責任者に指名されたのである。

 震災後、「埔里家園重建工作站」がすぐさま組織された。重建とは再建の意である。続いて「婆婆媽媽工作隊」が結成(一〇月一五日)された。婆婆媽媽、おばあさん、おかあさんパワーの結集である。埔里の事務所では十数人の女性がきびきびと飛び回っている。様々な基金を得ながら、住民の要求がまとめられた。まず、緊急の課題になったのが小中学校の復旧である。阪神淡路大震災と違って、学校の被害が致命的であった。各地区の将来像も描かれた段階だ。しかし、物理的再建のみが問題にされているわけではない。「身心安住」「各有其位」(従前の場所に住み続ける)「経済復甦」「人文発展」があって「空間改造」である。そして、「計画的可行性」(実現性)「人力資源的在地化」(地域性)「計画効果的延続性」(持続性)が計画原則とされる。

 全てが順調にいっているわけではない。県政府との関係で対立点も出てきている。全てを失い目標を失って虚脱状態になっている人も多いという。東勢の本街でも権利関係の調整が難航している。こうした社区総体営造の草の根活動は開始されたばかりである。再建も具体的にはこれからだ。三月二四日東勢本街を新総統陳水扁氏が訪れた。本街南平里重建委員会の中心、王昌敏氏が後輩で強力な支援者であるという縁である。李遠哲氏がはっきり支持を表明した民進党の勝利は社区総体営造運動を加速することになろう。

 

②歴史的環境の復興

 仮設住宅の創意工夫

 集集ー日月潭

 震源地集集では三八人が亡くなった。集集鎮全体で全壊一七三六戸、半壊七九二人、合わせて六九パーセントが被害を受けた。中心の街、集集里でも全壊一四三戸、半壊六四戸六一パーセントがダメージを受けた。鉄道は波打つように切断され木造の集集駅は大きく傾いた。工事現場用鉄板で囲われていた。隣の鉄路博物館は傾いたまま放置されている。

 鎮公所(町役場)で鎮長林明水(さんずい)秦に短い時間会った。すこぶる元気でこの震災をむしろ好機と考えて街づくりを展開しようとしていると聞いたからである。倒壊した廟「武昌宮」もそのまま保存して観光資源にするのだという。また、歴史的町並みを復元するのだという。

 一体どういうルールで町並み復興をするのか、と問うと、すぐさま仮設住宅の建ち並ぶ中にある一室へ案内された。建築確認申請の事務所と考えていい。「集集鎮災後住屋重建補助方法」(二月一日公告)によって、施工費(坪当たり三〇〇〇元(約一〇万円)、最高額一五万元)と設計料(平米当たり四〇〇元、最高額五万円)の補助を行うのである。規定は、二メートルのセットバック、勾配瓦屋根(斜屋)の採用などであり、色彩の規定はない。最終的には委員会によって決定される。事務所には、模型の街屋街区が置かれ、三層のモデル住戸プランが示されている。これまで申請があったものは基本的にモデル提案に沿ったものだという。

 震災直後から集集鎮に救援に入ったのは、忠原大学の室内設計系、特教(特別教育)系を中心としたチーム(集集民間重建工作站)である。彼らは現在も月一度訪れ、半壊建物の指導や学童との交流を行っている。彼らはすぐさま文化資産として歴史的建造物の調査を行う(「集集受災歴史建築物調査複勘報告」)。そして、集集歴史建築導覧地図が作られた(二月一九日)。歴史的街区の復元は、その作業に基づいている。

 伝統的文化の継承という意味で興味深いのは原住民集落の復興である。なかでも興味深い試みとして日月潭のタオ族の仮設住宅地建設がある。設計を担当するのは建築家謝英俊氏。現場に事務所を移して陣頭指揮を執る。軽量鉄骨の骨組みに竹で屋根、壁を組むシンプルな構法である。これだと建設に原住民が参加でき、日当も手に入れることが出来る。近接して神戸から送られた仮設住宅が建てられていたが、その思想の違いは明らかである。原住民にとっては単に住空間があればいいというわけではない。具体的には祭祀のための空間が必要である。慈済二村(埔里鎮)という仏教系慈善団体が寄付をした原住民のための仮設住宅地も見たけれど、共通の広場がきちんと設けられていた。仮設住宅地と言えども多様な創意工夫がある。

 

③すっかり禿げた山肌 

 過疎化に悩む農村 

 中寮郷龍安ー魚池郷長寮尾

  台湾では、区域計画法に基づいて、都市区域と非都市区域が分けられている。また農村地区について、郷村区(200人以上)、農村聚落(200人未満)、原住民社区が区別される。今回の大地震の特徴は、多くの農村が被災したことである。全域が都市化していたら、死者二〇〇〇人ではすまず、阪神淡路大震災の死者を遙かに超えたことは間違いない。

 農村部を回るとところどころに傷跡が残っている。道路はがたがたしで、放置されている被災建物も少なくない。仮設居住のためのコンテナがやたらに目立つ。そして、異様なのは山の樹木がずり落ちて黄色い山肌がむき出しになっていることである。大地震は自然の景観もすっかり変えてしまった。

 一七八人がなくなった中寮郷の龍安里、内城里、清水里を東海建築工作隊の徐明松氏の案内で訪れた。彼はイタリアから帰国して台中で事務所を開いたばかりで震災に遭い、以後中寮郷の復興計画に取り組んでいる。週に一、二回は通うという。東海大学では寮郷の他、大里の復興計画に取り組む。また、関華山副教授が原住民集落の復興を担当する。

 龍安でチームはまず全体計画を立てた。村の共同作業場に大きな模型が置かれている。復興住宅のモデルも街家型、農家型がすぐさま用意された。標準設計に従えば設計料を補助するというが、住宅復興はこれからである。半年を経てようやく仮設住宅が竣工した段階だ。また、高齢者のための共同厨房が着工したところであった。

 注目すべきは龍安八景の整備計画である。共同水場の整備をはじめとして、景観的に維持されるべき八景が設定されている。村長とともに村を見下ろす丘に登ったのであるが、彼もまた震災復興を村おこしにつなげる視点をしっかりもっていた。過疎化、高齢化が共通の悩みである。農水路、道路の復旧は第一であるが、農業振興、頭打ちになりつつある檳榔(びんろう)栽培に加えてパイナップル・ワインの開発など熱っぽく語ってくれた。

 農村集落の場合、建築家にとってどう集落景観をつくるのかがテーマだろうと社区総体営造運動の創始者陳其南交通大学教授はいう。七四の農村集落が重点復興村とされているが、そのひとつ陳其南氏が関わる長寮尾(魚池郷)に行ってみた。村の中心に廟があり、その前の集落はほとんど倒壊したままだ。復興支援の県政府のバスが図書館に変わってポツンと取り残されている。まず復興されたのは村の中心となる廟だ。全て顔見知りだったから、誰が居ないかすぐ分かった、全員無事救出できたという。鍵となったのはしっかりしたコミュニティの存在であった。そして、興味深いのは都市と農村との里親-里子制度である。廟の再建に当たって新竹市の全面支援を受けたという。各都市が被災農村を支援するかたちが出来上がっているのである。

 


 

 

2026年3月4日水曜日

カラコロ工房、曽田邸、しまね景観賞、島根県景観課、2000年

 

カラコロ工房

布野修司

 

 旧日本銀行松江支店のリニューアル(更新)計画である。スクラップ・アンド・ビルド(建てては壊す)の時代から既存の建築資産、都市資産を再活用するストックの時代を象徴する先進事例として高く評価したい。もとの設計は長野宇平治、夏目漱石の同級生で全国的に知られた建築家である。しかし、こうした著名な建築家の作品であれ、建築史的価値というだけで保存される例はほとんどなかった。親しまれた街並み景観への要素を維持しながら、新たな機能を付加するのがこれからの手法である。

 本館に接して増設された工房棟の中庭のスケールがいい。板張りの床がカラコロ鳴るのもいい。工房という設定が成功の要因かもしれない。今のところ予想を超えた利用がなされていると聞いた。銀行の本館地下金庫のギャラリーも不思議な空間に再生されている。

 


曽田邸

布野修司

 

 国立公園内に建つ個人住宅である。

 かなりの急斜面であり、冬にはかなりの強風が吹きつける、普通は宅地には相応しくない立地である。しかし、気候のいい、特に夏などは、そのまま海に降りていけそうな、うらやましくなるような敷地だ。

 国立公園内ということもあって、豊かな樹木はそのまま残されている。建設に当たって新たな植栽もなされている。プランニングも地形に沿った形で樹冠のラインを大きく遮らないよう配慮されている。海を介して千酌港の岸壁から眺める景観がその設計意図をよく表しているように思えた。すなわち、この住宅は徒に自己主張することなく、豊かな緑の中に沈み込んでいる。また、緑に赤瓦が映えている。

 こうした地形や緑、景観に対する配慮は、設計の基本であり、国立公園に限らないであろう。個々の住宅の設計においても景観は問われている。そのひとつの好例として評価したい。

2026年3月3日火曜日

自立循環型地域社会(エコハウス、エコヴィレッジ、エコタウン)へー地域の生態系に基づく居住システムとコミュニティ・アーキテクト制(まちづくりネットワーク)の確立:東日本大震災復興計画私案、『朝日新聞』応募、2011年5月

 東日本大震災復興計画私案

自立循環型地域社会(エコハウス、エコヴィレッジ、エコタウン)へー地域の生態系に基づく居住システムとコミュニティ・アーキテクト制(まちづくりネットワーク)の確立

布野修司

 

二〇〇四年一二月二六日、スリランカのゴールにいてインド洋大津波に遭遇、危うく命拾いをしたときのことをありありと、寒気とともに思い出した。その時求められて一文を書いたのであるが、その中に次のようにある[1]

転がった列車の中から幼児が生還 名前名乗るも 住所を知らず

シュルシュルと獲物を狙う蛇のよう 運河を登る 津波の早さよ

大車横転後転繰り返す 押し流されて皆スクラップ

気がつくとバスや車、そして船が転がっている、自分が居た周辺で五〇〇人が亡くなった。悪夢の再現である、否、これはもう全てを超えて言葉もない。一度起これば全てが瓦解する原発の致命的問題が起こってしまった。世界は人類始まって以来の経験を共有しつつある。

 

阪神淡路大震災の後、建築家の責任を強く感じ、『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』(2000年)を書いて、地域診断からまちづくりまで一貫して担う職能の必要性を提起した。その後、インド洋大津波に巻き込まれ、復興支援に通う中で、その感をますます強くした。安心・安全のためのまちづくり(都市地域計画)の主体は地域社会(コミュニティ)である。地域社会に基礎をおいたまちづくりを組織する職能、コミュニティ・アーキテクトが必要である。そう考えて、京都コミュニティ・デザインリーグの活動、近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生学座による人材育成の活動をささやかに展開してきたが、東日本大震災を前にして、声を大にして繰り返して言うべきは、まちづくりの仕組みの大転換こそが必要だ、ということである。

素朴に自立循環型地域社会の再構築をうたう以下の復興計画私案は、地味かもしれない。脱原発依存、低炭素社会へという大きな枠組みを考える時、目指すべき方向は揺らがないと思う。

復興計画が共通に目指すべき前提として問われているのは、日本の社会、経済、政治、文化、産業、国土など全ての編成の問題であり、東京一極集中の構造を多極分散型に転じていくことである。大災害は常にその社会に潜在している矛盾、軋轢、差別を明らかにする。日本社会の全体があまりに被災地域に多くを委ね強いてきたということが今回の大震災で大きくクローズアップされた。部品産業の問題、日本の食を支える水産業の問題、そして原発・エネルギー問題がまさにそうである。

日本の産業構造の歪みを是正するためには被災地域に大きな投資を行う夢あるヴィジョンが欲しい。

また、エネルギー政策として、原子力発電に頼らず自然エネルギーに代替していくことは大きな流れになっていく。多様なエネルギー源が各地域に確保されるシステムが必要であることは誰の眼にも明らかになった。

復興は、単なる復旧であってはならず、日本再生、日本の地域社会再生のためのシステム構築でなければならない。復興計画は、自立循環型地域社会(エコハウス、エコヴィレッジ、エコタウン)の具体的な空間のあり方、その形態とそれを実現する仕組みにわかれるが、ここでは後者に力点を置きたい。というより、前者を自ら提案、選び取るのは地域社会であるという仕組みこそが重要であり、地域住民の日常生活を支える持続的な仕組みの構築こそを復興計画の中に組み込むというのが本提案である。

 

1 地域社会(コミュニティ)主体の復興計画 

まちづくり(都市地域計画)の主体は地域社会(コミュニティ)である。安心・安全のためのまちづくりの基礎は地域社会にある。

 災害時、倒壊した家屋の下敷きになった人たちの救出や消火など緊急事態に対処する上で第一に拠り所になるのは地域(近隣)社会である。今回の空前の大災害ではっきりするのは、消防、警察など災害救助の役割を担う職員を含めて自治体職員も被災者となる。自治体の危機管理システム、防災体制が完備していたとしても、必ず機能するとは限らない。災害発生まもなくの緊急事態に対処しえるのは個々の地区における相互扶助活動である。

 災害後の避難生活を支えるのも基本的には地域(近隣)社会である。小中学校、病院などの地域施設、近隣公園などが避難所生活の拠点となる。

  応急仮設住宅地の生活において重要なのもコミュニティ(地域社会)である。地域社会と切り離された形の応急仮設住宅への入居は、単身老人の孤独死など大きな問題を残した。地域社会を基礎としない公共住宅の供給が空家を大量に生み出している。地域と生活基盤の密接な関係を考慮するのは復興計画の前提である。

 復興計画で究極的に問われるのは地域(地区)における合意形成である。集合住宅の復旧、建替え、区画整理事業、再開発事業など復興のための全ての計画において必要なのは住民(市民)のまとまりである。地域社会の安全・安心のために個々人が果たすべき役割が共有されなければ合意形成は困難である。

 以上のように都市地域計画の基礎は地域社会にある。しかし、地域社会を都市地域計画の主体とする仕組みが日本にはない。日本の都市計画制度には、地域住民の積極的参加を位置づける仕組みがない。すなわち、安心・安全の都市地域計画を基礎づける仕組みがない。

 都市計画審議会等都市計画決定の手続きは形式的で、地域社会(コミュニティ)の参加は必ずしも保証されていない。自治体の都市計画に関わる施策は縦割りの組織による事業、補助金制度が主体となっている(に縛られている)。自治体による都市計画は公共事業の実施を中心としている。インフラストラクチャーの整備、また、施設建設(箱物)行政が主体である。日本の都市計画・建築行政はコントロール行政である。民間の開発行為について、開発規模、用途などを規制する手法が基本である。

 一方、地域住民の都市計画への参加意識は必ずしも高くない。あるいは、地域の利益のみの追求(地域エゴ)、企業利益のみの追求が都市地域計画のテーマとなっている。私的所有権が前提される中で、公共の福祉等、都市景観の公共性、地域社会の共用基盤としての公共空間についての認識は日本においては必ずしも定着していない。

 そうした状況において、地域社会を主体とする都市地域計画の仕組みの確立のために「建築家」「都市計画家」の果たすべき役割は大きい。都市地域計画について、「公共」自治体と地域社会(「民間」)の関係を媒介する組織として「NPO」(非営利組織)が位置づけられる必要がある。NPOは、都市計画のプロセスを一貫してサポートし、調整する役割を果たす組織として位置づけられる。

  もちろん、都市地域計画の実施主体としての自治体の役割は大きい。しかし、自治体が全ての地区についてその計画を一貫して担うのには限界がある。地域社会(地区)の自発的な取り組みを前提として、それをサポートする形が基本である。

 一方、地域社会(地区)が自らの要求を自ら都市地域(地区)計画へまとめあげるのにも限界がある。地域社会内部で利害はしばしば対立するし、要求をまとめ上げる時間、エネルギーは大きな負担となるのが一般的である。また、都市地域計画に関する専門的知識も必要とされる。

 自治体と地域社会を媒介する機関としてNPO、あるいは様々なヴォランティア・アソシエーションの活動が位置づけられる必要がある。その職能は、タウン(地区)・アーキテクト(プランナー)、ハウス・ドクター等として理念化される。様々な形の新しい都市地域計画の仕組みがそれぞれの地域で試行され、確立されるべきである1

災害時に備えて必要とされるのは、地域社会(地区)の自立性である。火災発生時に、消火活動のために必要な水は一定の地区内に確保されている必要がある。災害時に緊急に必要とされる薬品、食料などは一定の地区内に備蓄されるか、速やかに供給されるシステムが用意されている必要がある。ガス、水道、電気、交通などライフライン、インフラストラクチャーなどにはフェイル・セーフのシステムが必要である。一極集中型のシステムではなく、多核分散型のシステムが用意されていなければならない。

 

2 コミュニティ・アーキテクト制の導入 

 

指針

1 コミュニティ主体の復興計画

復興を全て公的な援助に頼ることはできないし、財政の問題もあって現実的ではない。しかし、被災者が自力で復興に取り組むには限界があるし不可能である。また、こうした復興をすべて自助にゆだねることは公的責任の放棄である。ただ、国、自治体が各個人の、また各地区の事情や要求に細かく対応することができないとすれば、復興計画の主体として考えるべきはコミュニティであり、コミュニティによる共助がベースとなる。パダンのアーバン・コミュニティにはそうした相互扶助の精神と仕組みが維持されている。

2 参加による合意形成

 復興計画の立案、実施に当たっては地区住民の参加が不可欠である。計画に当たっては様々な利害調整が必要であり、地区住民の間で合意形成がなされなければ、その実効性が担保されない。コミュニティは、地区住民の参加による合意形成をはかる役割を有している。

3 スモール・スケール・プロジェクト

合意形成のためには、大規模なプロジェクトはなじまない。身近な範囲で復興、居住環境の改善をはかるためには、小規模なプロジェクトを積み重ねるほうがいい。

4 段階的アプローチ

すなわち、ステップ・バイ・ステップのアプローチが必要である。実際、被災地では、様々な形で自力で復興がなされつつある。個々の動きを段階ごとに、一定のルールの下に誘導していくことが望まれる。

5 地区の多様性の維持

地区に地区の歴史があり、また、住民の構成などに個性がある。復興計画は、地区の固有性を尊重し、多様性を許容する方法で実施されるべきである。すなわち、市全体に画一的なやり方は必ずしもなじまない。

6 街並み景観の再生:都市の歴史とその記憶の重要性

地区の固有性を維持していくために、歴史的文化遺産は可能な限り復旧、再生すべきである。阪神淡路大震災の場合、被災した建物の瓦礫を早急に廃棄したために、町の景観が全く変わってしまった地区が少なくない。都市は歴史的な時間をかけて形成されるものであり、また、住民の一生にとっても町の雰囲気や景観は貴重な共有財産である。人々の記憶を大切にする再生をめざしたい。

7 コミュニティ・アーキテクトの活用

復興地区計画のためには、コミュニティ住民の要望を聞いて、様々なアドヴァイスを行うまとめやくが必要である。既に、地元大学の教官と学生たちが現地にオフィスを開いて住宅相談にのるヴォランティア活動を行う例が見られるが、そうした人材を各地区に配置する仕組み、援助の仕方が望まれる。

これからはスクラップ・アンド・ビルドだけではなく、建物の寿命を伸ばすことが必要だとされる時代である。建設資材の再利用を積極的に行い、補修、再建技術の蓄積を行うべきであったという反省もある。

 

2 行動計画

 以上のような指針も、具体性を欠いては意味がない。問題となるのは、予算であり、人材である。以下に、しかし、できることから一歩ずつ進めるというのが以上の指針である。以下に、パタン旧市街の復興計画についていくつかの具体的行動計画を示したい。

ここで復興計画の主体として念頭に置くのは、パダン市など自治体とコミュニティ組織であり、中央政府の各部局がそれをサポートする体制である。それらが立案する以下の行動計画を、UNESCOなど国際機関、文化遺産国際協力コンソーシアム、JICAなど各国政府機関、NGOグループ、国際ヴォランティア・グループ、インドネシアとの大学間交流など様々なレベルの協力体制が支える、というのが前提となる理想的なスキームである。また、行動計画を提案するのは、旧市街でも、具体的に焦点を当てているのは、今回調査を行った歴史的建造物が集中するバタン・アラウの周辺地区である。

 

A 緊急対策

住宅修復・再建技術基準・マニュアルの作成:住宅補修・修復・再建の方法について、基準を早急に検討し、わかりやすいマニュアル書をいくつかの事例を含めて作成(画一的な手法ではなくオールタナティブを示す)、被災居住者とともに建設関連業者にアピールし周知徹底することが必要である。特にレンガ造建物の補強が必要である。日本はレンガ造建物は採用してこなかったこともあって、その補強方法についての経験はほとんどないが、いくつかの方法について提案することは可能である。住宅補修・修復・再建の手法は、単に、応急的対応だけではなく、建物を維持管理していくためにも恒常的なシステムとしても必要とされる。補修・修復の現場施工グループが組織されることが、将来の街並み景観の維持システムにもつながる。住宅補修・修復・再建は、経済対策ともなりうる。至急、住宅補助の制度を実行に移す必要があるが、可能であれば①の住宅改善指針の徹底とリンクするのがベストである。

重要歴史的建造物のモデル復元:震災後に復元すべきとされる7つの重要建造物のなかに、街並み景観に関するものとして、ショップハウスRukoが2軒(Bola DuniaEs Kompto)含まれている。この復元を①のモデルケースとすることが推奨される。これまでの建築文化を継承しつつ、構造的検討を加えた新しい型の創出を目指す。

景観形成地区の制定と建景観築ガイドラインの作成:①②とともに、また先立って、各地区の将来像を描く必要がある。パダン市は1998年に、市条例として街並み景観の保存維持することを定め、具体的な地区(バタン・アラウ、カンポン・ポンドック、パサ・ガダン)を挙げている。しかし、具体的なアクションを起こしてきてはいない。まず、重要景観形成地区を指定し、その地区について、街並み景観に関わる高さ、形態、使用建材などについて緩やかなガイドラインをもうけたい。また最低限の建築規制を法制化(高さ、構造基準)したい。

地区の景観イメージの作成:中長期計画にとって、必要とされるのは地区の将来イメージであり、その方向性については可能な限り早期に合意形成する必要がある。指針の1 コミュニティ主体の復興計画2 参加による合意形成を展開したい。また7 コミュニティ・アーキテクトの活用を考えたい。

 

B 中長期計画

被災指定歴史建造物の積極活用:②には含まれないけれど、国のレベルで歴史的文化遺産として指定された建造物の多くが被害を受けている。こうした建造物については、復元そのものを目指すのではなく、コンヴァージョンも含めた様々な保存活用が図られるべきである。例えば、バタン・アラウ沿いには多くの被災建物があるが、ウォーターフロントを生かした再開発の潜在的可能性は大きいと考えられる。

共同建替、地区再開発の検討:比較的余裕のある住民の中には震災によって、移住を決断し、宅地を手放すケースが既に見られる。土地および住民の流動化によって、地区が大きく変化していく可能性がある。また、一方、集合住宅や連棟のショップハウス(店舗併用住宅Ruko)の場合、合意形成に時間を要して、復興が進まないことも想定できる。区画整理、土地のころがしRollingシステムによる宅地の共同化など新たな手法も含めて、パダン市の新たな景観資源、文化遺産となるような地区計画を考えたい。そのためには、例えば、ショップハウスなどいくつかの建築類型についてプロトタイプを設計し、そのビルディング・システムの開発を行う必要もある。

世界への発信:生活再建のために、住宅再建から開始される復興計画であるが、鍵となり、目標となるのは、地区の持続的な活性化である。歴史的遺産を多く有するパダン旧市街の復興はそれ自体国際的な関心であり、復興過程そのものも国際的に注目されている。ミナンカバウをはじめ多くの民族が居住し育ててきた都市をどう復興するかどうかは、パダン市のみならず、西ジャワ州政府、インドネシア政府にとっても、国のアイデンティティに関わる極めて重要な課題である。復興計画によって、その方法と過程そのものが他のモデルになるよう期待したい。 

 



[1] 「スリランカ・ゴールGalleでインド洋大津波に遭遇:現場報告 オランダ要塞に救われた命」『みすず』20053月号

2026年3月2日月曜日

日本建築学会阪神淡路大震災調査報告編集委員会編:阪神淡路大震災調査報告 建築編ー10 都市計画 農漁村計画,丸善, 1999年12月

日本建築学会阪神淡路大震災調査報告編集委員会編:阪神淡路大震災調査報告 建築編ー10 都市計画 農漁村計画,丸善, 199912 

 阪神淡路大震災調査報告 建築編-10 都市計画 農漁村計画, 阪神淡路大震災調査報告編集委員会編, 日本建築学会,丸善, 199912,共著

布野修司分担執筆部分

 

Ⅰ章 

2-2 復旧・復興計画手法の評価 

 阪神・淡路大震災は、多くの人々の命を奪った。かけがえのない命にとって全ては無である。残された家族の人生も取り返しのつかないものとなった。復旧・復興計画といっても、旧に復すべくない命にとっては空しい。残されたものに課せられているのは、阪神・淡路大震災の教訓を反芻し、続けることであろう。震災2ヶ月後に起こった「地下鉄サリン事件」(1995年3月20日)とそれに続く「オーム真理教」をめぐる衝撃的事件のせいもあって、阪神・淡路大震災に関する一般の関心は急速に薄れていったように見える。被災地は見捨て去られたかのようであった。直接に震災を体験したもの以外にとって、震災の経験は急速に風化していく。震災の経験は必ずしも蓄積されない。もしかすると、最大の教訓は震災の経験が容易に忘れ去られてしまうことである。

 震災後3年を経て、被災地は落ち着きを取り戻したように見える。ライフライン(電力、都市ガス、上水道、下水道、情報・通信)に関わる都市インフラストラクチャーの復旧が最優先で行われるとともに、応急仮設住宅の建設から復興住宅の建設へ、住宅復興も順調に進んできたとされる。また、市街地復興に関しても、重点復興地域を中心に、各種復興事業が着々と進められている。

 しかし、全て順調かというと、必ずしもそうは言えない。重点復興地域のなかにも、合意形成がならず、一向に復興計画事業が進展しない地区もある。また、「白地」地区と呼ばれる、重点復興地域から外され基本的に自力復興が強いられた8割もの広大な地区のなかに空地のみが目立つ閑散とした地区も少なくない。それどころか、復旧・復興計画の問題点も指摘される。例えば、復興住宅が供給過剰になり、民間の住宅賃貸市場をスポイルする一方、被災者の生活にとって相応しい立地に少ない、といったちぐはぐさが目立つのである。

 復旧・復興計画の具体的な展開と問題点は、自治体毎に、また、地区毎に、さらに計画(事業)手法毎に以下の章でまとめられている。本稿ではいくつかの評価軸を提出することによって、共通の問題点を指摘し、復旧・復興計画手法の評価を試みたい。

 

 2-2-1 復旧・復興計画の非体系性

 復旧・復興計画の全体は、いくつかの軸によって立体的に捉える必要がある。まず、応急計画、復旧計画、復興計画という時間軸に沿った各段階における計画の局面がある。また、計画対象区域のスケールによって、国土計画、地域計画、都市計画、地区計画というそれぞれのレヴェルの問題がある。さらに、国、県、市町村といった公的計画主体としての自治体、民間、住民、プランナーあるいはヴォランティアといった様々な計画主体の絡まりがある。すなわち、少なくとも、どの段階の、どのレヴェルの計画手法を、どのような立場から評価するかが問題である。

 また、それ以前に、復旧・復興計画の評価は、フィジカルプランニングとしての復旧・復興計画の手法に限定されるわけではない。震災のダメージは生活の全局面に及んだのであって、単に物的環境を復旧すれば全てが回復されるというわけではないのである。住宅を失うことにおいて、あるいは大きな被害を受けることにおいて、経済的な打撃は計り知れない。住宅・宅地の所有形態や経済基盤によってそのインパクトは様々であるが、多くの人々が同じ場所に住み続けることが困難になる。その結果、地域住民の構成が変わる。地域の経済構造も変わる。ダメージを受けた全ての住宅がすぐさま復旧され(ると公的、社会的に保証され)たとしたら、事態はいささか異なったかもしれない。しかし、それにしても、数多くの犠牲者を出すことにおいて家族関係や地域の社会関係に与えた打撃はとてつもなく大きい。避難生活、応急生活において問われたのはコミュニティの質でもあった。また、大きなストレスを受けた「こころ」の問題が、物理的な復旧・復興によって癒されるものではないことは予め言うまでもないことである。

 復旧・復興計画の評価は、以上のように、まず、その体系性、全体性が問題にされるべきである。すなわち、地域住民の生活の全体性との関わりにおいて復旧・復興計画は評価されるべきである。そうした視点から、予め、阪神・淡路大震災後の復旧・復興計画の問題点を指摘できる。その全体は必ずしも体系的なものとは言えないのである。まず指摘すべきは、復旧・復興計画の全体よりも、個別の事業、個別の地区計画の問題のみが優先されたことである。例えば、仮設住宅の建設場所、復興住宅の供給等、地域全体を視野に入れた計画的対応がなされたとは言い難いのである。また、合意形成を含んだ時間的なパースペクティブのもとに将来計画が立てられなかった。既存の制度手法がいち早く(予め)前提されることによって、全体ヴィジョンを組み立てる土俵も余裕もなかったことが決定的であった。

 

 2-2-2 復旧・復興計画の諸段階とフレキシビリティの欠如

 震災復興は時間との戦いであり、時間的な区切りが大きな枠を与えてきた。

 被災直後は、人々の生命維持が第一であり、衣食住の確保が最優先の課題である。ガス、水道、電気、電話、交通機関といったライフラインの一刻も早い復旧がまず目指された(ガスの復旧が完了したのが4月11日、水道復旧が完了したのが4月17日である)。そして、避難所の設置、避難生活の維持が全面的な目標となる。多くの救援物資が送られ、多くのヴォランティアが救援に参加した。未曾有の都市型地震ということで、また、高速道路が倒壊し、新幹線の橋脚が落下するといった信じられない事態の発生によって多くの混乱が起こった。リスクマネージメントの問題等、その未曾有の経験は今後の課題として生かされるべきものといえるであろう。むしろ、この段階の評価は、震災以前の防災対策、防災計画、さらに震災以前の都市計画の問題として、議論される必要がある。また、この大震災の教訓をどう復旧・復興計画に活かすかが問われていたといっていい。

 最初に大きな閾になったのが3月17日(震災後2ヶ月)である。建築基準法第84条の地区指定により当面の建築活動を抑制する措置が相次いで取られたのである。この地区指定の問題は復旧・復興計画において大きな決定的枠組みを与えることになった。阪神間の自治体(神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市、伊丹市)では、「震災復興緊急整備条例」が3月末までに相次いで制定されている。

 続いて、仮設住宅の建設と避難所の解消が次の区切りとなる。仮設住宅入居申し込みは1月27日に開始されている。また、「がれきの処理」無償の期限が復旧の目標とされた。がれき処理の方針は震災10日後に出される。倒壊家屋の処理受け付けは早くも1月29日に開始されている。このがれき処理は結果的に多くの問題を含んでいた。補修、修繕によって再生可能な建造物も処理されることになったからである。ストックの活用という視点からは拙速に過ぎた。資源の有効再生という観点から、貴重な経験を蓄積する機会を逃したと言えるのである。さらに、まちの歴史的記憶としての景観の連続性について考慮する機会を失したのである。災害救助法に基づく避難所が廃止されたのは8月20日である。兵庫県が「救護対策現地本部」を完全撤収したのが8月10日、震災後ほぼ半年で復旧・復興計画は次の段階を迎えることになる。

 その半年間に様々なレヴェルで復旧・復興計画が建てられる。国のレヴェルでは、「阪神・淡路大震災復興の基本方針および組織に関する法律」(2月24日公布 施行日から5年)に基づいて「阪神・淡路復興対策本部」が設置され、「阪神・淡路地域の復旧・復興に向けての考え方と当面講ずべき施策」(4月28日)「阪神・淡路地域の復興に向けての取り組指針」(7月28日)などが決定される。また、「阪神・淡路復興委員会」(下河辺委員会)が設けられ、2月16日の第1回委員会から10月30日まで14回の委員会が開催され、11の提言および意見がまとめられている。タイムスパンとしては「復興10ヶ年計画の基本的考え方」が提言に取りまとめられている。県レヴェルでは「阪神・淡路震災復興計画策定調査委員会」(三木信一委員長 5月11日発足)によって、都市、産業・雇用、保健・医療・福祉、生活・教育・文化の4部会の審議をもとにした3回の全体会議を経て6月29日に提言がなされている(「阪神・淡路震災復興計画(ひょうごフェニックス計画)」。

 こうした基本理念や指針の提案の一方、具体的な指針となったのが県の「緊急3ヶ年計画」である。「産業復興3ヶ年計画」「緊急インフラ整備3ヶ年計画」「ひょうご住宅復興3ヶ年計画」が3本の柱になっている。住宅復興に関する助成の施策は、ほとんど3年の時限で立案され、ひとつの目標とされることになった。また、応急仮設住宅の在住期限が2年というのも3年がひとつの区切りとなった理由である。

  緊急対応期、短期、中期、長期の時間的パースペクティブがそれぞれ必要とされるのは当然である。個々の復興計画理念、計画指針の評価は上に論じられるところである。

 ひとつの大きな問題は、それぞれの間に整合性があるかどうかである。しかし、それ以前に、住民の日々の生活が優先されなければならない。そのためには、柔軟でダイナミックな現実対応が必要であった。しかし、復旧・復興計画を大きく規定したのは既存の法的枠組みである。従って、復旧・復興計画の体系性を問うことは基本的には日本の都市計画のあり方を問うことにもなる。

 

 2-2-3 復旧・復興計画の事業手法と地域分断

 復旧・復興計画を主導したのは土地区画整理事業である。あるいは市街地再開発事業である。震災4日後、建設省の区画整理課の主導でその方針が決定されたとされる。モデルとされたのは酒田火災(1976年)の復興計画である。あるいは戦災復興であり、関東大震災後の震災復興である。復興計画の策定が遅れれば遅れるほど、復興への障害要因が増えてくる、復興計画には迅速性が要求される、という「思い込み」が、日本の都市計画思想の流れにひとつの大きな軸として存在している。関東大震災の復興も、戦災復興も結局はうまくいかなかった、酒田の場合は、迅速な対応によって成功した、という評価が建設省当局にあったことは明らかである。区画整理事業は、権利関係の調整に長い時間を要する。逆に、震災は土地区画整理事業を一気に進めるチャンスと考えられたといっていいだろう。

 2月1日、神戸市、西宮市で建築基準法第84条による建築制限区域が告示され、2月9日、芦屋市、宝塚市、北淡町が続いた。第84条の第2項は1ヶ月をこえない範囲で建築制限の延長を認める。すなわち2ヶ月がタイムリミットとされ、都市計画法第53条による建築制限に移行するために、3月17日までに都市計画決定を行うスケジュールが組まれた。この土地区画整理事業の突出は復旧・復興計画の性格を決定づける重みをもったといっていい。少なくとも以下の点が指摘される。

 ①復旧・復興計画は、基本的に既存の都市計画関連制度に基づいて行われた。また、その方針は極めて早い段階で決定された。復旧・復興計画の全体ヴィジョンを構想する構えはみられない。関東大震災後、あるいは戦災復興時のように「特別都市計画法」の立法が試みられなかったことは、復旧復興計画を予め限定づけた。

 ②2月26日に「被災市街地復興特別措置法」が施行されるが、既存の制度的枠組みを変えるものではなく、震災特例を認める構えをとったものであった。土地区画整理事業および市街地再開発事業を都市計画決定するために後追い的に構想制定されたものである。

 ③復旧復興計画は、法的根拠をもつ土地区画整理事業および市街地再開発事業を中心として展開された。また、その都市計画決定の手続きが復旧・復興計画のスケジュールを決定づけた。「被災市街地復興特別措置法」によって復興促進地域に指定すれば2年間の建築制限が可能となったが、全ての地区で既往のプロセスが優先された。

 ④土地区画整理事業、市街地再開発事業の決定は、基本的にトップ・ダウンの形で行われ、住民参加のプロセスを前提としなかった。あるいは形式的な手続きを優先する形で決定された。決定の迅速性(拙速性)の反映として、都市計画審議会の決定には「今後、住民と十分意見交換すること」という付帯条件がつけられる。また、骨格の決定のみで、細部の具体的な計画案は追加決定するという異例の「2段階方式」が取られた。

 こうして被災地区は、土地区画整理事業、市街地再開発事業の実施地域とそれ以外の大きく二分化されることになった。いわゆる「重点復興地域」とそれ以外の「震災復興促進区域」の区別(差別)である。注目すべきは、震災以前からの継続事業、予定事業が総じて優先され、重点的に実施されることになったことである。震災復興計画と震災以前の都市計画が一貫して連続的に捉えられているひとつの証左である。決定的なのは、再開発事業の具体的イメージが画一的かつ貧困で、都市拡張主義の延長として描かれていることである。

 事業手法としては、もちろん、土地区画整理事業、市街地再開発事業に限られるわけではない。住宅復興あるいは住環境整備については、「住宅市街地総合整備事業」と「密集住宅市街地整備促進事業」を中心とする法的根拠をもたない任意事業としての住環境整備事業および住宅供給事業、あるいは住宅地区改良法に基づく住宅地区改良事業(法的根拠をもつ)が復旧復興計画として想定されている。

 すなわち、被災地は復旧復興計画の事業(制度)手法によって以下のように3分割されることになった。俗に「黒地地域」「灰色地域」「白地地域」と呼ばれる。

 A地域(黒地地域)

  土地区画整理事業10地区

  市街地再開発事業6地区

 B地域(灰色地域)

  住宅市街地総合整備事業11地区

  密集住宅市街地整備促進事業6地区

  住宅地区改良事業5地区

 C地域(白地地区)

 具体的には建築基準法84条(「建築制限」)による指定地区、被災市街地復興都市計画(「被災市街地復興推進地域」)による指定地区、震災復興緊急整備条例(「震災復興促進区域」「重点復興区域」)による指定地区、あるいは被災地における街並み・まちづくり総合支援事業による指定地区が区別されるが、ABの各地区にはダブりがある。各事業手法が組み合わせて適応される場合が少なくない。

 復旧復興計画の問題は、この線引きによって、A(B)地域の問題のみに焦点が当てられることになる。大半の地域はいわば見捨てられ、その復旧復興は公的支援のない自力復興あるいはなんのインセンティヴも設定されない通常の都市計画の問題とされた。また、それ以前に、復興計画の全体がそれぞれの地域の、しかも住環境整備の問題にされたことが大きい。都市計画全体のパラダイムを考える契機は予め封じられたと言っていい。具体的には、個別事業のみが問題とされ、全体的連関は予め問題にされなかったのである。

 

 2-2-4 コミュニティ計画の可能性

 以上のように、阪神淡路大震災によって、日本の都市計画を支えてきた制度的枠組みが大きく変わったわけではない。大震災があったからといって、そう簡単にものごとの仕組みが変わるわけはない。関東大震災後も、戦災復興の時にも、そして、今度の大震災の後も、日本の都市計画は同じようなことを繰り返すだけではないのか。要するに、何も変わらないのではないか、と思えてくる。

 各地区の復旧復興計画は必ずしもうまくいっているわけではない。合意形成がならず袋小路に入り込んでいるケースも少なくない。震災が来ようと来まいと、基本的な都市計画の問題点が露呈しただけであるという評価もある。確かに、どこにも遍在する日本の都市計画の問題を地震の一揺れが一瞬のうちに露呈させたという指摘はできるだろう。

 一方、阪神淡路大震災のインパクトが現れてくるまでには時間がかかるであろうことも確かである。その経験に最大限学ぶことが極めて重要である。特に地区計画レヴェルにおいてはプラスマイナスを含めた大きな経験の蓄積がなされたとみるべきであろう。

 建築家、都市計画プランナーたちは、それぞれ復旧、震災復興の課題に取り組んできた。コンテナ住宅の提案、紙の教会の建設、ユニークで想像力豊かな試みもなされてきた。この新しいまちづくりへの模索は実に貴重な蓄積となるはずである。

 今回の震災によって、一般的にヴォランティアの役割が大きくクローズアップされた。まちづくりにおけるヴォランティアの意味の確認は重要である。もちろん、ヴォランティアの問題点も既に意識される。行政との間で、また、被災者との間で様々な軋轢も生まれたのである。多くは、システムとしてヴォランティア活動が位置づけられていないことに起因する。

 被災度調査から始まって復興計画に至る過程で、建築家、都市計画プランナーが、ヴォランティアとして果たした役割は少なくない。しかし、その持続的なシステムについては必ずしも十分とは言えない。ある地区のみに関心が集中し、建築、都市計画の専門家の支援が必要とされる大半の地区が見捨てられたままである。また、行政当局も、専門家、ヴォランティアの派遣について、必ずしも積極的ではない。粘り強い取り組みのなかで、日常的なまちづくりにおける専門ヴォランティアの役割を実質化しながら状況を変えていくことになるであろう。

 復旧復興計画は行政と住民の間に様々な葛藤を生んだが、とにかくその過程で新しい街づくりの仕組みの必要性が認識されたことは大きい。また、実際に、コンサルタント派遣や街づくり協議会の仕組みがつくられ試されてきた。この住民参加型のまちづくりの仕組みは大きく育てていく必要があるだろう。個別のプロジェクト・レヴェルでも、マンション再建のユニークな事例やコレクティブ・ハウスの試行など注目すべき取り組みがある。

 復旧復興の多様な経験から、あらたなまちづくりの仕組みをつくりだすことができるかどうかがコミュニティ計画レヴェルの評価に関わる。無数の種が芽生えつつあると考えたい。

 

 

 2-2-5 阪神淡路大震災の教訓

 

 a 人工環境化・・・自然の力・・・地域の生態バランス

 阪神・淡路大震災に関してまず確認すべきは自然の力である。いくつものビルが横転し、高速道路が捻り倒された。地震の力は強大であった。また、避難所生活を通じての不自由さは自然に依拠した生活基盤の大事さを思い知らせてくれた。水道の蛇口をひねればすぐ水が出る。スイッチをひねれば明かりが灯る。エアコンディショニングで室内気候は自由に制御できる。人工的に全ての環境をコントロールできる、というのは不遜な考えである。災害が起こる度に思い知らされるのは、自然の力を読みそこなっていることである。山を削って土地をつくり、湿地に土を盛って宅地にする。そして、海を埋め立てるという形で都市開発を行ってきたのであるが、そうしてできた居住地は本来人が住まなかった場所だ。災害を恐れるから人々はそういう場所には住んでこなかった。その歴史の智恵を忘れて、開発が進められてきたのである。

 まず第一に自然の力に対する認識の問題がある。関西には地震がない、というのは全くの無根拠であった。軟弱地盤や活断層、液状化の問題についていかに無知であったかは大いに反省されなければならない。一方、自然のもつ力のすばらしさも再認識させられた。例えば、家の前の樹木が火を止めた例がある。緑の役割は大きい。自然の河川や井戸の意味も大きくクローズアップされた。

 人工環境化、あるいは人工都市化が戦後一貫した都市計画の趨勢である。自然は都市から追放されてきた。果たして、その行き着く先がどうなるのか、阪神・淡路大震災は示したといえるのではないか。「地球環境」という大きな枠組みが明らかになるなかで、また、日本列島から開発フロンティアが失われるなかで、自然の生態バランスに基礎を置いた都市、建築のあり方が模索されるべきことが大きく示唆される。 

 

 b フロンティア拡大の論理・・・開発の社会経済バランス

 阪神・淡路大震災の発生、避難所生活、応急仮設住宅居住、そして復旧・復興へという過程において明らかになったのは、日本社会の階層性である。すぐさまホテル住まいに移行した層がいる一方で、避難所が閉鎖されて猶、避難生活を続けざるを得ない人たちが存在した。間もなく出入りの業者や関連企業の社員に倒壊建物を片づけさせる邸宅がある一方で、長い間手つかずの建物がある。びくともしなかった高級住宅街のすぐ隣で数多くの死者を出した地区がある。

 最もダメージを受けたのは、高齢者であり、障害者であり、住宅困窮者であり、外国人であり、要するに社会的弱者であった。結果として、浮き彫りになったのは、都市計画の論理や都市開発戦略がそうした社会的弱者を切り捨てる階層性の上に組み立てられてきたことである。

 ひたすらフロンティアを求める都市拡大政策の影で、都心地区が見捨てられてきた。開発の投資効果のみが求められ、居住環境整備や防災対策など都心への投資は常に後回しにされてきた。

 例えば、最も大きな打撃を受けたのが「文化」である。関西で「ブンカ」というと「文化住宅」というひとつの住居形式を意味する。その「文化住宅」が大きな被害にあった。木造だったからということではない。木造住宅であっても、震災に耐えた住宅は数しれない。木造住宅が潰れて亡くなった方もいるけれど家具が倒れて(飛んで)亡くなった方が数多い。大震災の教訓は数多いけれど、しっかり設計した建物は総じて問題はなかった。「文化住宅」は、築後年数が長く、白蟻や腐食で老朽化したものが多かったため大きな被害を受けたのである。戦後の住宅政策や都市政策の貧困の裏で、「文化住宅」は、日本の社会を支えてきた。それが最もダメージを受けたのである。それにしても「文化住宅」とは皮肉な命名である。阪神・淡路大震災によって、「文化住宅」の存在という日本の住宅文化の一断面が浮き彫りになったといえる。

 都市計画の問題として、まず、指摘されるのは、戦後に一貫する開発戦略の問題点である。拡大成長政策、新規開発政策が常に優先されてきた。都心に投資するのは効率が悪い。時間がかかる。また、防災にはコストがかかる。経済論理が全てを支配するなかで、都市生活者の論理、都市の論理が見失われてきた。都市経営のポリシー、都市計画の基本論理が根底的に問われたといっていい。

 

 c 一極集中システム・・・重層的な都市構造・・・地区の自律性

 日本の大都市は、移動時間を短縮させるメディアを発達させひたすら集積度を高めてきた。郊外へのスプロールが限界に達するや、空へ、地下へ、海へ、さらにフロンティアを求め、巨大化してきた。その一方で都市や街区の適正な規模について、われわれはあまりに無頓着であったことが反省される。

 都市構造の問題として露呈したのが、一極集中型のネットワークの問題点である。大震災が首都圏で起きていたら、東京一極集中の日本の国土構造の弱点がより致命的に問われたのは確実である。阪神間の都市構造が大きな問題をもっていることは、インフラストラクチャーの多くが機能停止に陥ったことによって、すぐさま明らかになった。それぞれに代替システム、重層システムがなかったのである。交通機関について、鉄道が幅一キロメートルに四つの路線が平行に走るけれど迂回する線がない。道路にしてもそうである。多重性のあるネットワークは、交通インフラに限らず、上下水道などライフラインのシステム全体に必要である。

 エネルギー供給の単位、システムについても、多核・分散型のネットワーク・システム、地区の自律性が必要である。ガス・ディーゼル・電気の併用、井戸の分散配置など、多様な系がつくられる必要がある。また、情報システムとしても地区の間に多重のネットワークが必要であった。

 

 d 公的空間の貧困 

 また、公共空間の貧困が大きな問題となった。公共建築の建築としての弱さは、致命的である。特に、病院がダメージを受けたのは大きかった。危機管理の問題ともつながるけれど、消防署など防災のネットワークが十分に機能しなかったことも大きい。想像をこえた震災だったということもあるが、システム上の問題も指摘される。避難生活、応急生活を支えたのは、小中学校とコンビニエンスストアであった。地域施設としての公共施設のあり方は、非日常時を想定した性能が要求されるのである。

 また、クローズアップされたのは、オープンスペースの少なさである。公園空地が少なくて、火災が止まらなかったケースがある。また、仮設住宅を建てるスペースがない。地区における公共空間の、他に代え難い意味を教えてくれたのが今回の大震災である。

 

 e 地域コミュニティのネットワーク・・・ヴォランティアの役割

 目の前で自宅が燃えているのを呆然とみているだけでなす術がないというのは、どうみてもおかしい。同時多発型の火災の場合にどういうシステムが必要なのか。防火にしろ、人命救助にしろ、うまく機能したのはコミュニティがしっかりしている地区であった。救急車や消防車が来るのをただ待つだけという地区は結果として被害を拡大することにつながった。

 阪神淡路大震災において最大の教訓は、行政が役に立たないことが明らかになったことだ、という自虐的な声がある。一理はある。自治体職員もまた被災者である。行政のみに依存する体質が有効に機能しないのは明らかである。問題は、自治の仕組みであり、地区の自律性である。行政システムにしろ、産業的な諸システムにしろ、他への依存度が高いほど問題は大きかった。教訓として、その高度化、もしくは多重化が追求されることになろう。ひとつの焦点になるのがヴォランティア活動である。あるいはNPO(非営利組織)の役割である。

 

 f 技術の社会的基盤の認識・・・ストック再生の技術の必要

 何故、多くのビルや橋、高速道路が倒壊したのか。何故、多くの人命が失われることになったのか。問題なのは、社会システムの欠陥のせいにして、自らのよって立つ基盤を問わない態度である。問題は基準法なのか、施工技術なのか、検査システムなのか、重層下請構造なのか、という個別的な問いの立て方ではなくて、建築を支える思想(設計思想)の全体、建築界を支える全構造(社会的基盤)がまずは問われるべきである。建造物の倒壊によって人命が失われるという事態はあってはならないことである。しかし、それが起こった。だからこそ、建築界の構造の致命的な欠陥によるのではないかと第一に疑ってみる必要がある。

 要するに、安全率の見方が甘かった。予想をこえる地震力だった。といった次元の問題ではないのではないか、ということである。経済的合理性とは何か。技術的合理性とは何か。経済性と安全性の考え方、最適設計という平面がどこで成立するのかがもっと深く問われるべきである。

 建築技術の問題として、被災した建造物を無償ということで廃棄したのは決定的なことであった。都市を再生する手がかりを失うことにつながったからである。特に、木造住宅の場合、再生可能であるという、その最大の特性を生かす機会を奪われてしまった。廃材を使ってでも住み続ける意欲のなかに再生の最初のきっかけもあったといっていい。

 何故、鉄筋コンクリートや鉄骨造の建物の再生利用が試みられなかったのも問題である。技術的には様々な復旧方法が可能ではないか。そして、関東大震災以降、新潟地震の場合など、かなりの復旧事例もある。阪神・淡路大震災の場合、少なくとも、再生技術の様々な方法が蓄積されるべきであった。

 

 j 都市の記憶と再生 

 阪神・淡路大震災は、人々の生活構造を根底から揺るがし、都市そのものを廃棄物と化した。建てては壊し、壊しては建てる、阪神・淡路大震災は、スクラップ・アンド・ビルドの日本の都市の体質を浮かび上がらせたともいえる。復旧復興計画は、当然、これまでにない都市(建築)のあり方へと結びついていかねばならない。

 そこで、都市の歴史、都市の記憶をどう考えるのかは、復興計画の大きなテーマである。何を復旧すべきか、何を復興すべきか、何を再生すべきか、必然的には都市の固有性、歴史性をどう考えるかが問われるのである。

 建造物の再生、復旧が、まず大きな問題となる。同じものを復元すればいいのか、という問いを前にして、基本的な解答を求められる。それはもちろん、震災があろうとなかろうと常に問われている問題である。都市の歴史的、文化的コンテクストをどう読むか、それをどう表現するかは、日常的テーマである。

 戦災復興でヨーロッパの都市がそう試みたように、全く元通りに復旧すればいいというのであれば簡単である。しかし、そうした復旧の理念は、日本においてどう考えても共有されそうにない。都市が復旧に値する価値をもっているかどうか、ということに関して疑問は多いのである。すなわち、日本の都市は社会的なストックとして意識されてきていないのである。スクラップ・アンド・ビルド型の都市でいいということであれば、震災による都市の破壊もスクラップのひとつの形態ということでいい。必ずしも、まちづくりについてのパラダイムの変更は必要ないだろう。しかし、バブル崩壊後、スクラップ・ビルドの体制は必然的に変わっていかざるを得ないのではないか。

 都市が本来人々の生活の歴史を刻み、しかも、共有化されたイメージや記憶をもつものだとすれば、物理的にもその手がかりをもつのでなければならない。都市のシンボル的建造物のみならず、ここそこの場所に記憶の種が埋め込まれている必要がある。極めて具体的に、ストック型の都市が目指されるとしたら、復興の理念に再生の理念、建造物の再生利用の概念が含まれていなければならない。また、それ以前に建築の理念そのものに再生の理念が含まれていなければならないだろう。

 日本の都市がストックー再生型の都市に転換していくことができるかどうかが大きな問題である。都市の骨格、すなわち、アイデンティティーをどうつくりだすことができるか。単に、建造物を凍結的に復元保存すればいいのか、歴史的、地域的な建築様式のステレオタイプをただ用いればいいのか、地域で産する建築材料をただ使えばいいのか、・・・・議論は大震災以前からのものである。

 阪神・淡路大震災は、こうして、日本の建築界の抱えている基本的問題を抉り出した。しかし、その解答への何らかの方向性をみい出しえたどうかはわからない。半世紀後の被災地の姿にその答えは明確となるであろう。しかし、それ以前に、半世紀前から同じ問いの答えが求められているとも言える。(布野修司)

 

*1 拙稿、「阪神大震災とまちづくり……地区に自律のシステムを」共同通信配信、一九九五年一月二九日『神戸新聞』、「阪神・淡路大震災と戦後建築の五〇年」、『建築思潮』4号、1996年、「日本の都市の死と再生」、『THIS IS 読売』、1996年2月号など 拙著、『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、1995年、『戦後建築の来た道 行く道』、東京建築設計厚生年金基金、1995年

 


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...