都市装置としての公共建築/設計システム論
百年計画/デザイン・コミッティー/京都の「めきき」
都市は個々の建築行為の集積によって成り立っている。そうした意味で都市はそこに住む人々の集団的作品である。また、都市は一朝一夕に出来上がるわけではない。そうした意味で都市はそこで暮らしてきた人々の歴史的な作品である。
それ故、自ら私有する空間(土地)だから自由にデザインすればいい、とはならない。好き勝手なデザインがとんでもない迷惑を近隣に及ぼすこともある。また、歴史的な作品である都市景観をたった一個の建築が台無しにすることがある。そこで必要なのがなにがしかのルールである。
しかし、そのルールは、果たして法律や条令によって成文化しうるものであろうか。指針やマニュアルによって示されるものであろうか。はっきりしているのは、単に「高さ」や「色」や「形」が問題なのではないということである。一定の地区について一律「20メートル以下であればいい」「原色は駄目」「勾配屋根でなければならない」というのはおそろしく単純な発想である。建築のデザインというのはもう少し豊かで繊細である。個々の建築は個々の場所において固有の表現を求められている。
究極的に問われているのは個々の場所における個々のデザインの当否である。はっきり言って「建築家」としての能力が問題だと思う。もちろん、専門家としての「建築家」が全てすぐれているとは限らない。また、誰だって「建築家」でありうる。そこで、とにかく必要なのは、議論の場ではないか、というのがかねてからの主張である。議論によって生み出されるものは結局凡庸なものにしかならない、とは必ずしも思わない。凡庸であれ、それはその議論の場の実力であり、最終的にひとつのデザインにまとめる「建築家」の能力の問題である。タウンアーキテクト制、デザイン・コミッティー制のように具体的な仕組みは色々考えられる。また、様々な萌芽的試みもある。指針やトゥールは使ってこそ意味があり、使い方こそが問題だということ、公共建築の場合特に、そのデザインの過程と持続的なシステムが問題であることを繰り返し強調したいと思う。
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