日中建築住宅産業協議会『日中建協news』掲載
インタビュー連載「日中建設交流史を考える」
第9回:布野修司 先生
2023年9月19日実施
中国とのかかわり-大学入学まで-
[市川]
まずは布野先生と中国との関係について、大学入学頃までのお話を聞いていきたいと思います。布野先生は1949年生まれですね。
[布野]
中華人民共和国の成立年に生まれたことは意識してきました。要するに自分の人生が中華人民共和国の歴史に重なってるわけです。それと、両親が戦時中に中国に行っていたということがあります。親父は出雲市の出身ですが、松江工業高校を出て、現在の日建設計の前身にあたる住友本店臨時建築部に入って、新居浜市の住友鉱業株式会社別子鉱業所に務めていたんですが、1940年2月に広島西練兵場に召集され、宇品港からハルピンへ行きます。この辺の詳細は知らなかったんですが、最近お袋が死んで、空き家になった実家で妹が当時の資料をいろいろ探し出してくれて、ハルピンにいったということがわかりました。関東軍の郵便隊に入隊したと聞いてはいたんですが、具体的なことを聞く機会を失したとこが悔やまれます。まあ、あんまり話したがりませんでしたけどね。1943年3月にプサン経由で日本に帰還してからは、千葉県津田沼の東京第87部隊や、天竜川の鉄道橋復旧工事などに従事していたんです。戦後は、松江に戻って、松江市役所に勤めます。最後は、都市計画部長になるんですが、松江で仕事をした菊竹さんとか、芦原さんとか、建築家の話は聞いて育ちました。家には、当時の『新建築』は全冊ありました。
お袋は、島根県でも石見の江津の出身なんですが、朝鮮半島(韓国)の清州に1年くらいいて、清州から北京の東交民巷(外国公使館エリア)に移って師範学校の教師をしていたようです。二人とも全く別々に中国に行ったんですが、終戦後、日本で出会い結婚したんですね。お袋にも中国滞在時のことは断片的なことしか聞けませんでした。僕は1995年にはじめて中国に行くんですが、東交民巷を歩き回ってその様子をお袋に電話したことを覚えています。95年は阪神淡路大震災の年で、中国滞在中にオウム真理教による地下鉄サリン事件もあるなど、最初の中国は僕のなかで1995年と結びついています。
大学入学後-全共闘と文化大革命-
[市川]
少年時代、青年時代には中国の存在はほとんど感じず、大学に入ってから意識することが多くなったのでしょうか。
[布野]
子どもの頃、中国を意識した記憶はありません。中国について考え出したのは、大学に入ってからですね。1968年に大学に入ったんですが、前年あたりから全共闘運動が全国的に広がっていくんです。その流れと1966年の文化大革命は並行しています。といっても、その実態を知るのは後になりますが、中国で大変なことが起こっていると感じていました。全共闘は文化大革命に対しておおむねシンパシーをもっていたと思います。紅衛兵のスローガンであった「造反有理」は、全共闘のスローガンでもありました。『毛沢東語録』は結構読まれていて、僕も買った記憶があります。
建築学科に進学して以降ですが、日本の共産党の歴史について、先輩からレクチャーを受けたこともあります。日本共産党と中国共産党は、当然、歴史的なつながりがあるわけです。1950年の共産党分裂の際には、「所感派」の徳田球一や野坂参三らは中国に亡命するんですよ。後の話になりますが、「所感派」だったのか、「国際派」だったのか、山村工作隊に参加したのか、しなかったのか、日本共産党との関係をめぐる議論を先輩たちから様々に聞きました。しかし、1960年代末には、共産党は既にそう魅力的ではなかった。共産党の学生組織「民青」は、東大闘争も収集のために武装した上で奮闘するんです。全共闘は基本的にノンポリだったと思っていますが、新左翼と呼ばれる諸派は、アメリカ帝国主義、日米安保体制打倒を叫んで激しい運動を展開していった。マルクス、レーニン、トロツキーそして毛沢東は、その理論と具体的方針をめぐって、われわれは読んだんです。
吉武泰水研究室の建築計画の理論をつくりあげたとされる青木正夫先生は、東北大そして九州大で建築計画研究をリードされるんですが、『実践論・矛盾論』(1937)を念頭においていたといいます。「設計計画」と「使われ方」の矛盾をどう克服するかという問題を立てるんですね。だから、『実践論・矛盾論』は僕も読みましたよ。岩波文庫で、薄くてすぐ読めた。わかりやすいといえばわかりやすいんです。
1976年に近代建築行脚のためにドイツを中心にヨーロッパを回るんですが、ストラスブールを通りかかったとき、大聖堂の前に毛沢東の写真が置いてあって、学生たちがお参りしていました。だから、毛沢東が死んだ年は覚えています。翌年、「四人組」(江青・張春橋・女兆姚文元・王洪文)が失脚して、文化大革命は終焉するんですね。
[市川]
それはすごい。毛沢東が死ぬと天安門広場で盛大な追悼セレモニー(図表1)が開かれましたが、ヨーロッパにも余波があったんですね。
[布野]
余波というか、国際的共産主義運動、コミンテルン(第三インターナショナル)は、各国の共産主義運動を指導してきたわけで、その瓦解(1943年)以降、中華人民共和国の成立はひとつの希望だったわけです。中国の文化大革命とフランスの五月革命は共鳴関係にあったんですね。ただ、紅衛兵や四人組など文化大革命の実情についてはあとから知る。「批林批孔」という林彪、孔子批判、儒教批判は激しかったですね。歴史の否定、歴史家を追放するといった、とんでもないイデオロギー統括は大学教育にも大きな影を落としてきました。梁思成研究室など歴史派の建築家たちも下放されるんです。
日本の建築界と中国社会主義のつながり
[市川]
布野先生が受けた建築教育において、中国はどういう存在としてありましたか。社会主義=計画主義でもあるので、建築計画や都市計画の分野ではレファランスなどあったのでしょうか。
[布野]
京都大学の西山夘三先生は共産党員でした。西山先生は、戦前に『国際建築』誌などで、ロシア語の文献の翻訳などをされています。河丸荘助、香川三郎というペンネームですね。京都大学に入学された1930年に「新興建築家連盟」が結成されるんですが、創宇社(1923年結成)が左傾化して以降の社会主義運動の渦中で自己形成されたと思います。「建築家のための建築小史」(1933)は「唯物史観」をベースにしています。在学中のDEZAMの活動も建築運動の歴史に記されています。西山先生の原点は戦前の社会主義運動、ソビエト研究です。戦後も、NAU(新日本建築家集団)結成に関わり、土地の公有化をはじめ社会主義的な主張をされていくわけです。
戦後まもなくの吉武泰水研究室には、霞が関ビルディングの設計を担当した郭茂林さんが助手としていて、台湾とのつながりはありました。はるか後のことになりますが、僕が鈴木研の助手をしていた時にも、黄世孟という台湾からの留学生がいました。彼は、後に台湾の都市計画学会長になります。京都大学の布野研究室には、台湾、中国両方の留学生がいましたが、結構、論争していましたよ。台湾出身の女性と結婚した布野研出身者が4人もいるから台湾との結びつきが強いように思われますが、僕自身は、台湾にもずいぶん通いましたし、中国もそれ以上歩いてきました。
[市川]
当時において建築学の先生は、中国に訪問などしていたのでしょうか。
[布野]
1972年の日中国交回復を受けて、同年末ごろから建築学会の先生たちが続々と中国を訪問していました。内田祥哉先生や稲垣栄三先生、鈴木成文先生などが相次いで訪問し、1978年ごろには、尾島俊雄先生は長期滞在されますね。
[市川]
1970年代後半には、そうした方々の訪問録をベースにした建築メディアの中国特集が散見されますね。『都市住宅』1975年11月号の特集「中国──消費都市から生産都市へ」、あるいは『建築雑誌』1976年1月号の特集「中国建築の現状」などです(図表2)。
[布野]
僕自身は1976年にはじめてヨーロッパに行ったくらいですから、これらの最初期の日本建築学会の中国訪問とは無縁でした。ただ、時代は下りますが、1993年に日本建築学会朝鮮都市建築視察団の一員として、北朝鮮に行ったことがあります。これは1998年に第2回が開催されるISAIA(アジアの建築交流国際シンポジウム)(図表3)の準備として行われた表敬訪問ツアーで、九州大学の青木正夫先生や京都大学の西川幸治先生と同行しました。そのときに西山夘三先生とも親交が深かった大阪市立大学の上林博雄先生が、電柱が地中化され、緑が生い茂る大同江南岸のピョンヤンの街並みを見て、「これが社会主義だ!」と感動されていたことを覚えています。僕自身の感想としては、常に案内者がついてまわって、自由に見学させてくれなかったことが印象に残っています。RC造の超高層、柳京ホテルが工事停止になっていて、それを観たいとリクエストしたんですが、バスは常に迂回して見せないんです。金日成総合大学でも議論しましたよ。教授が主任建築家で、学部の学生は現場で実際に建設するというのはすごい体制だなあと思いました。
留学生との交流と中国調査の開始
[市川]
具体的に布野先生が中国に行かれた頃の話についてお伺いしたいと思います。1976年にヨーロッパに行かれ、1979年頃に東南アジアのフィールドワークをスタートするなど、70年代後半から布野先生の海外調査が本格化していますが、中国の初調査は1995年と、かなりタイムラグがあるように思います。
[布野]
僕は、インドネシアの研究が眼に留まって、「イスラームの都市性」(代表:板垣雄三)という重点領域研究(C班:景観 応地利明班長)に入れられたのが縁で、西川幸治に声をかけられ、1991年に京都大学に赴任するんですが、そこにドクター・コース(D1)に、学生が4人いました。いずれも留学生で、中国から2人、台湾から1人(黄蘭翔、台湾大学教授)、韓国から1人(韓三建、蔚山大学教授)でした。いきなり4人の博士論文に関わることになり、3年後にはみんなが書きあげることになるんですが、とても刺激的な経験でした。中国からの留学生は天津出身の孫躍新と西安出身の段煉孺(西安工程大学教授)です。
孫躍新は、お兄さんが渤海新区の区長をするなど、有力な政治家でした。本人は天津外国語大学の日本語学科の出身で、建築は日本で勉強したんです。孫さんは、今でも京都に別宅を持っていて、毎年来日して滞在します。お嬢さんは慶応大学の法学部を出て、日本の商社で国際的な仕事をしています。日本にいる時には、小島康誉らの日中合同調査隊に加わって新疆ウイグル地区のニヤ遺跡の発掘調査に加わったり、日中文化交流に積極的でした。コロナで中断したんですが、最近では、神戸の日中の美術家交流に尽力しています。
1995年の中国行は、現在「アルファビル」という設計事務所を共同主宰している山本麻子(大阪工業大学准教授)さんの修士論文の調査のためで、孫さんに同行してもらったんです。
[市川]
中国人留学生がパイプ役となって中国調査が開始するのですね。その際は北京、天津、大連を訪問されているようですが、調査の概要と三都市の印象を教えてください。特に当時の北京は徐々に開発が始まっていく時期だったと思います。
[布野]
大連に残っていた旧南満洲鉄道株式会社の社宅を保存したいという依頼があり、そのための調査が主目的でした。満鉄社宅には甲乙丙丁という住居タイプがあったんですが、甲のいわゆる幹部宅に数世帯くらい住んでいる、そんな時代でした。余談ですが、当時の大連市長だった、習近平のライヴァルであった薄熙来とパーティで会って、握手してもらったことがあります。彼は、結局、失脚しますけどね。
北京では主に観光しましたが、東交民巷には真っ先に行ったかな。天安門広場や故宮博物館、十大建築も見たと思います。孫さんの出身地天津では、天津大学の寮に泊まりました。
孫さんの学位論文『中国都市における近代空間の形成過程及びその特性に関する研究―天津の旧城空間、租界空間、新開空間の形成及び相互関連を中心に―』(1993)の対象地だったので、疎開地などじっくり見て回りました。お父さんの住んでいる共同住宅にも行ったんですが、階段で煮炊きするような、そんな団地でした。天津では、タクシーは黄色のシャレードだったことを覚えています。北京も天津も、ものすごい数の自転車が走っていました。
中国人留学生を通じたネットワークの広がり
[布野]
次の中国訪問は、1999年に外務省から講演を依頼されたときのことです。「日本の現代建築」という題で、北京、西安、広州をまわりました。
[市川]
外務省から講演を依頼されたのは興味深いですね。
[布野]
当時は日本が先進国のモデルだったので、情報収集の意味合いが大きかったのだと思います。1997年に出した『日本当代百名建築師作品選』という本(図表4)が目に留まったことが、直接のきっかけです。この本は中国でのみ出版したもので、政治的にセンシティブな作品は差し替えるなど、出版に当たって難しいこともありました。広州の華南理工学院での講演は数百人が聴講する大変な熱気でした。
[市川]
この本自体はどのような経緯で出版されたのですか。翻訳者には韓一兵とあります。
[布野]
韓一兵(陝西省人民代表大会常務委員会 秘書長、党組書記)の仕掛けだったと思います。彼は布野研究室出身で、母親は中国十大建築師の一人の張錦秋(中国工程院院士)です。父親は韓驥さん、現在は退職されていますが、西安市役所の都市計画局長をやっていて、二人とも建築史家として著名な梁思成の研究室出身です。京都大学で初めて出会った段煉孺は、西安市役所で韓一兵の父親の部下だったんです。もうひとり、京都大学の川崎清研究室の留学生白林もそうです。母親の張錦秋は、陝西省博物館の設計などで知られますが、「阿倍仲麻呂記念碑」や日系のホテルなど日本関連の仕事をたくさんしていました。孫躍新、段煉孺、韓一平を通じたこのルートが中国との繋がりの軸となって、現在も交流が続いています。
もう一つのキーとなるルートは、昭和女子大学の平井聖先生の下で学位をとった胡恵琴さんです。彼女は僕の著作を3冊(布野修司編『亜州城市建築史』胡恵琴・沈謡訳,中国建築工業出版社,2009年、布野修司編『世界住居』胡恵琴訳,中国建築工業出版社,2010年、布野修司『景観的作法』胡恵琴訳, 中国林業出版社,2019年)ほど中国で翻訳してくれています。中国では翻訳も重要な実績の一つだそうで、今は北京工業大学の名誉教授になっています。
中国研究の集大成としての『大元都市』
[市川]
2000年代後半から、布野先生自身も中国との交流がかなり増えていますね。
[布野]
その頃のキーマンが、滋賀県立大学の布野研究室で学位(『福建・港市の都市組織および住居類型の形成,変容に関する研究』)をとった趙沖さんです。今は福州大学の教授をしています。もともと陸上400mの選手でした。相当有望だったらしく、オリンピックのための強化選手に選ばれなかったということで、日本に留学するんです。アテネ・オリンピック(2004年)の110mハードルで金メダルをとった劉翔と友達で、今でも連絡とりあっています。徳島大学に留学したんですが、徳島大学で非常勤をしていた新居照和さんの紹介で滋賀県立大にくるんです。彼は青島出身なんですが、学位論文は「港市」をテーマにしたもので、泉州、福州、漳州の三都市を対象に論文を書きました。現在は彼がパイプ役となって、中国の民俗建築やヴァナキュラー建築に関する学会などともつながっています。趙さんは中国からモンゴルまで、この頃の僕の海外調査のほとんどに同行しています。
[市川]
布野先生は建築計画学の出身ではあるものの、このころの調査範囲を見ると、都市史・都城史研究のほうにシフトしているようにみえます。
[布野]
自分では一貫しているつもりです。僕の出身である東京大学建築計画研究室のいわゆる吉武泰水-鈴木成文の系譜では、「住戸計画」というように、学校や病院、地域施設など、施設=制度で区切った研究を行っていました。一方の京都大学の西山夘三研究室では、「地域計画」というように、領域レヴェルでの研究を行っていて、その後のまちづくりにつながるものでした。僕の京都大学の講座名は「地域生活空間計画」で、西山先生が創設され、西川先生が引き継がれた講座なんです。
僕は吉武研究室に入った時から、nLDKという標準化された住居類型が北海道から沖縄まで画一的に建設される時代は終わったと思っていました。あまり知られていませんが、鈴木研究室には、宮内康さん、松川淳子さんが開始した領域論の展開がありました。集まって住むかたち、団地計画、街区計画を如何に論理化するかという問題意識ですね。それをアジアのフィールドに拡大しながら引き継いできたということです。住居集合、街区レヴェルの構成をターゲットとするということで、「都市組織」研究と呼ぶようになります。ただ、都市組織研究の弱いところは、都市全体のインフラなど、土木スケールの計画を組み込んでいないことです。方法的にせいぜい街区レヴェルの話にとどまる、インド都城、中国都城研究は、その弱点をカヴァーする展開です。
胡恵琴さんは、中国建築学会の高齢者施設関係のトップになっていて、日本以上に問題が顕在化している中国の高齢化問題に取り組んでいます。日本大学に移って、段煉孺さんのお弟子さんの李慧娟(西安交通大学助手)の学位論文の指導したんですが、高齢者施設がテーマです。
[市川]
布野先生の研究の出発点となった住戸計画的な手法は、李さんの高齢者施設研究へと受け継がれているのですね。このころの精力的な研究活動が『大元都市:中国都城の理念と空間構造』(2015) (図表5)へとつながるのでしょうか。
[布野]
『大元都市』は、初めから8つの都市に狙いを定めたものでした。先ほどの趙沖さんの学位論文は、沿海地域の三都市を対象としたものでしたが、『大元都市』は中原の八大都市を対象としました。最初に、インド都城の系譜として『曼荼羅都市』(2006年)をまとめ、続いてインド・イスラーム都市論として『ムガル都市』(山根周との共著、2008年)を書きます。その頃には、ユーラシアの都城の系譜について見取図ができあがっていたんです。ユーラシアの都城思想は,1つの都市(王都)がコスモロジカルな空間的秩序を表現する地域(A地域:南アジア・東アジア・東南アジア)とそうでない地域(B地域:西アジア・北方アジア)に大きく2分されます。A地域については,さらに都城思想を生み出した核心域とその周辺域に分かれます。その核心域とは,すなわち,古代インド(A1)と古代中国(A2)ですね。そして,イスラーム都市の系譜はそうではない。
残るのは中国都城の系譜だ、ということで狙いを定めて書いたのが『大元都市』(2015年)なんです。『曼荼羅都市』『ムガル都市』『大元都市』をアジア三部作と呼んでいます。
[市川]
学生や留学生たちの研究成果の集大成として、『大元都市』があるのですね。日本の学生としては、川井操先生(滋賀県立大学)が布野先生の中国研究を引き継がれています。今でも北京の「雑院」を自ら改修するなど、実践的な研究をされていますね。
[布野]
大雑院については北京の伝統的住居形態である中庭式の「四合院」が、都市部への人口流入によって極度に高密化したものです。大雑院研究は、川井先生の教え子である安井大揮さんが現場で頑張っています。川井先生自身は、大都市間に取り残された未開発の村落である「城中村」の研究を継続しようとしているようですが、習近平体制の中で、中国でのフィールドワークは外国人にはなかなか難しい状況ですね。北京については、日大に移った成浩源(文化財保存計画協会)くんが学位論文『北京旧城の歴史的街区の変容と居住環境整備に関する研究』(2022年)を書いています。
[市川]
2010年代からは、中国のいくつかの大学で教鞭をとられています。布野先生の都市・建築論の中国における受容や、大学でのレクチャーを通じた反応などはいかがですか。また中国では現代建築も盛んですが、印象に残っている作品や注目している建築家はいますか。
[布野]
地域に継続的にかかわる建築家のあり方を説く「タウン・アーキテクト」論や「コミュニティ・アーキテクト」論について話したとき、かなり手ごたえがありました(図表6)。じつは『大元都市』も翻訳は完了しており、出版の話も進んでいます。大学関係者にはすでに読まれていて、これといった反論も中国側からは出ていないので、定説になりつつあるのではないかと思います。僕のアカデミックな功績としては、核心を突いたものになったと思います。大元都市のレクチャーを西安大学でしたときは、わざわざ杭州の東南大学の学生が聴講しに来ていました。
中国の現代建築の動向についてはあまり詳しくないのですが、北京オリンピックメインスタジアムの「鳥の巣」は、ISAIAの参加者と一緒に見ました。王澍はプリツカー賞をとる以前から注目していて、ISAIAでも会ったことがあります。プリツカー賞の寧波博物館は大味ですが、初期のタウン・アーキテクトとしての比較的小規模な作品群が興味深いです。
社会主義リアリズムの受容と中国
[市川]
1950年代に話を戻すと、当時の重要な議論として「伝統論争」があったと思います。その前段階として、ヨージェフ・レーヴァイ「建築の伝統と近代主義」の翻訳がなされており(葉山一夫訳、『美術批評』1953年1月号)、モダニズムを乗り越える新しい建築理論として社会主義リアリズムが注目されていました。戦後建築論の先鞭をつけた布野先生から見た、日本建築界における社会主義リアリズムの受容についてお伺いしたいです。
[布野]
社会主義リアリズムに関しては、『新建築』では平良敬一さんやや宮内嘉久さんが問題として取り上げていたと思います。レーヴァイを翻訳した葉山一夫は平良さんのペンネームですよね。ただ、日本では、ロシア構成主義のインパクトに比べれば、スターリン様式への関心は薄かった。社会主義リアリズムに関する全体的な議論は行われなかったと思います。日本の伝統建築論争の方がレヴェルが高かったと思います。いずれにせよ、中国の社会主義リアリズム建築については問題にならなかった。僕自身は、文化大革命に先立つ「大躍進政策」や「人民公社」といった施策については知ってはいましたが、『戦後建築論ノート』(1981年)を書く段階で、ソビエト、中国をとりあげる資料やデータは目に留まらなかったですね。
[市川]
スターリン様式や中国の十大建築に対して関心を持ちづらかったのは、同時代の日本の建築とは全く違うものとして見えていたからなのでしょうか。以前のインタビューで、西山夘三さんの薫陶を受けた広原盛明先生にもお話を伺ったのですが(本連載第4回「特別編 : 西山夘三による中国との建築交流活動」)、当時は国内のことに集中していて、中国のことはやはり視界に入っていなかったとおっしゃっていました。1950年代では、建築ジャーナリズムにおいても社会主義に関連した議論が盛んだったように思うのですが、布野先生も広原先生もそこまで中国に対して注目していなかったことが興味深いです。
[布野]
中国建築学会の『建築學報』くらいはちらちら観ていたと思いますが、とにかく、建築や都市計画の問題としては、モデルとはならないという判断があったと思います。日本の将来が問題であり、日本の革命戦略をめぐって、共産主義の動向、冷戦構造が大きな問題であったことはいうまでもないことですが。
ネガティブ・タブーとしてのアジア
[市川]
1990年代半ばに布野先生は『建築思潮』上の磯崎新さんと原広司さんとのシンポジウムで「アジアはネガティブ・タブーだった」と、とても印象深い指摘をされています(図表7)。僕が学生の頃の2010年代は、中国・アジアに対する興味関心が沸き立っているような状況で、むしろ交流が盛んな時期でした。当時の中国・アジアを語りづらかったという状況の背景には何があったのでしょうか。
[布野]
フィールドへ行くと特に感じるのですが、例えばフィリピンだと旧日本軍に対する集団的記憶が根強くあり、調査をしていると白い目で見られました。調査は基本的には民情調査であり、ある種の「スパイ活動」でもあるので、現地で抵抗をうけることはしばしばあります。学生たちの身勝手な行動が警察沙汰になったことも一度や二度ではありません。海外でのフィールドワークは、問題を共有した共同研究をベースとすべきだとかねがね言うのは相互理解が不可欠だからです。
最初に東南アジア調査を始めるんですが、東洋大学の研究助成の後、研究を続けられたのはトヨタ財団の研究助成があったからです。トヨタは東南アジアに販路を拡大していたので、経営戦略的にも、「隣人を知ろう」という研究プログラムを展開したんですね。1970年代初頭に田中角栄首相がインドネシア訪問した際には暴動が起きる、そんな緊張関係もあったんです。何故、東南アジアをフィールドにしたかというと、韓国は1970年代には戒厳令が敷かれるなど、日韓関係は全くよくありませんでした。ソウルの地下鉄で写真を撮ったら、フィルムを抜けと言われた経験があります。日中国交回復したとは言え、フィールドワークを展開するはるか以前に、戦後処理、賠償問題が喫緊の課題だったわけです。戦後高度成長期を経て、アジアとの経済的な結びつきが強まり、アジア研究に対して研究費がつくようになったのですが、日本の研究発表会などで「おまえはアジアについて、二度搾取するのか」と言われることがありました。70年代の経済的進出が、戦前の侵略・植民地支配の記憶と重なるのは当然だと思っていました。だからこそ、相互理解が必要で、そのためにフィールドワークが不可欠だ、というのが最初からのスタンスなんです。
[市川]
「二度」というのは、一度目は1945年の敗戦以前ということですね。
[布野]
そう。「大東亜共栄圏」「近代の超克」を口実に侵略したわけですから。インドネシアは比較的拒否反応は少なく、その後の継続的な調査につながります。山の中の集落へ行くとラジオ体操をしてみせてくれたり、「憲兵さん」とか「班長さん」などの日本語が飛び出したりして、驚きました。ベチャ(輪タク)の運ちゃんが、日本人とわかると、日本の軍歌を謳ったりするんです。インドネシアは、オランダからの独立に際して、宣言文の作成が前田将軍宅で行われるなど日本が関わったことや、スカルノ大統領との関係など、総じて日本に対して好意的だと思いました。フィリピンと違って、日本軍は大きな破壊を行っていないんです。一口にアジアといっても、国によって大きく異なります。
[市川]
発言のあったシンポジウムで印象的だったのは、磯崎さんがアジアには極力出ないようにしていたと述べていたことです。その後の活動を見ても、磯崎さんは実際、東南アジアでは作品を残していませんね。一方で、中国ではいくつかプロジェクトをしています。磯崎さんとの付き合いの中で、アジアや中国に対する思いなど、何か感じられたことはありますか。
[布野]
僕の著作を磯崎さんに贈った時に、「布野はヨーロッパを体験していないから、全然発想が違う」と言われたことがあります。ヨーロッパの都市・建築体験が肌身に染みた磯崎さんならではの感想でした。ただアジア建築に関しては弱かったみたいで、ペルセポリスの写真をタージマハールと間違えた発言を実際聞いたことがあります。やはりアジアには関心が薄かったのでしょうね。それと、磯崎さんの世代として、アジアを侵略した日本についての負い目はあったと思います。
[市川]
インドネシアをはじめとした、アジアの広範な地域を調査している布野先生にとって、中国はどのような存在でしたか。
[布野]
日本にとって中国はアジアの中で特別な存在です。四大文明にまでさかのぼってみてもいいのですが、やはりアジア文明の発信源としてあるのはインドと中国ですね。基本的なフレームの理解としては、発信源としての中国と、その周辺地域として、日本を含むアジア諸国があるという認識です。漢字にしても、律令制にしても、度量衡にしても、藤原京以降の都城制度にしても中国からの輸入ですね。もちろん、中国文明を日本流に変容させるわけですが、その起源は中国、インド、ユーラシアに遡るわけですね。そういった意味で、いわゆる王権の所在地の都市の「都城」論は、僕の中で重要な研究テーマだったんです。
アジア研究を通じた現地支援
[市川]
日本は戦前にアジア諸国を植民地支配していたというネガティブな歴史を持つ一方で、戦後はODAや戦後賠償などを通じてアジア諸国に対して経済的な支援を行っています。インドネシアでも日本のODAによって、「ホテル・インドネシア」といったホテルやオフィスビルが建設されていますね。建築計画や建築史的な視点から、日本のODAや戦後賠償について研究する機会はありましたか。
[布野]
ホテル・インドネシアではシンポジウムをやったことがあり、泊ったこともあります。ただODAや戦後賠償を主題とした研究はしていません。ODAをめぐっては、当然、現場で様々な担当者と出会うわけですが、あんまりいい思い出がありません。その背後の構造に様々な問題があると思ってきました。
インドネシアの、いわゆる「カンポン・インプルーブメント・プログラムKIP」といわれる居住環境改善、ルスン(積層住宅)と呼ばれる新たな共同住宅モデルの建設、スラバヤ・エコハウスの建設などを一貫して、J.シラスに率いられたスラバヤ工科大学ITSチームと一緒に関わってきました。建築史については、スラバヤ工科大学にヨセフ・プリヨトモという大家がいます。一歳年上ですが、若い頃、彼らのインドネシアの建築史学会の立ち上げに関わったことがあります。当時のインドネシアには、オランダ植民地時代のダッチ・コロニアル建築がたくさん残っていたのですが、現地の大学を含め全く関心を持たれていませんでした。建築史学会による研究が進められ、現在では状況は変わってきました。
こうした経緯は、2021年3月に京都大学学術出版会から上梓した『スラバヤ
東南アジア都市の起源・形成・変容・転成:コスモスとしてのカンポン』(図表8)にまとめています。大学出版会だと、目次の階層性や起承転結など、学術書としての体裁を求められがちですが、この本はそれを嫌って、よく通ったと思いますが、様々な視点を重層させる構成を採っています。東南アジアの都市は、時代ごとにきれいに項目立てすることが難しい。ヴァナキュラーな世界、インド化の時代、イスラームとヨーロッパの到来を重層化する章立てになっています。
この本をまとめるに当たって、2018年夏に、スラバヤで日本建築学会の建築計画委員会のシンポジウムを行いしました。コロナ直前の2020年1月末にはスラウェシの地震・津波災害の復興計画策定のための調査にスラウェシに行っています。
[市川]
戦後賠償やODAの現場に参加した経験はありますか。日本建築学会で開催したシンポジウムで、早稲田大学の尾島先生は、商社の論理で援助国の要求に沿わないかたちで支援が行われることがすごく嫌だったと述懐されています(「戦後空間シンポジウム05:賠償・援助・振興──戦後空間のアジア」2020年)。
[布野]
インドネシアでは、研究費を使って現地に小さな住居を建築することがありました。当時は50万円ほどあれば小屋くらいは建てられたんです。大連では、民間の建設会社に依頼されて満鉄宿舎の再開発を進めていました。科研費や民間財団の資金を活用した調査プロジェクトが多いですね。ただ、スラバヤ・エコハウスはいわゆる建設ODAに依っています。ODAではありませんが、最近はJICAに協力して、エジプトのカイロに日本式学校を建てる仕事をしました。報酬は全くもらっていません、ヴォランティアです。当初はこうした吉武研究室流のプロトタイプを示すような仕事は乗り気でなかったのですが、現地に任せてしまうと、校長室がとても大きかったり、職員室がなかったり、いろいろ問題がある。ある程度こちらで主導したほうがいいと思ったわけです。エジプトの教育省営繕局の設計担当者がすべて女性だったことも印象的ですが、そのうち優秀な設計者を日本に呼んで日本の学校建築を見てもらい、学校建築の専門家である長澤悟先生と一緒に案を練りました。100校建設するということでしたが、最初の3校は現場も見ています。
ISAIAの設立と日中韓の学術交流
[市川]
最後に、日本建築学会がおこなっている「ISAIA(アジアの建築交流国際シンポジウム)」の設立経緯についてもお伺いしたいです。布野先生は深くコミットされていますよね。
[布野]
ISAIAはもともと、1986年の日本建築学会100周年事業のひとつとして、日本建築学会の活動の場をアジアに開こうという趣旨から構想されたものです。その準備委員会は、九州大学の青木正夫先生、京都大学の西川幸治先生、東京大学の鈴木成文先生、早稲田大学の尾島俊雄先生など、各大学の当時の若手教授を中心に構成されました。はじめはインドまでを含むアジア全域の学術交流を企図していたようで、多くの先生がアジア各国に派遣されました。僕は鈴木先生の助手として、ISAIA設立の様子を間近で見ていて、最初のシンポジウムにも出席しています。
10年ほど後、その後の動きがなかったので、僕が尾島先生を突きあげるかたちで活動が再開されました。そのときに尾島先生がまずは漢字文化圏で固めようということで、日本建築学会、大韓建築学会、中国建築学会の三学会による第二回シンポジウムが1998年に神戸で開かれました。中川武先生が委員長で、重村力先生が実行委員長でした。僕は2004年の第5回松江でのシンポジウムを実行委員長として担当しました。その後、中国に行くたびに中国建築学会を訪問して、なるべく参加国を広げようとする働きかけをしたんですが、中国と台湾をめぐる問題などがあり、実現にいたってきませんでした。
[市川]
政治的な問題が絡むと、学術交流も難しいところがありますね。ともあれ結果として、現在に至るまで堅調に開催されています。
[布野]
僕が中心としてかかわっていた時代は、胡恵琴さんが『建築学報』の編集委員でもあったし、中国建築学会には事務局長にいたるまで知り合いも多く、大きなもめごとはありませんでした。ただし三学会合同の論文誌であるJAABE(Journal of Asian Architecture and Building Engineering)の関係では、先生たちが審査委員をしたがらないとか、SCIに登録されないなどさまざまな問題はありました。
[市川]
ISAIAを通じて見えてくる、昨今の中国の研究者や学術研究についてはどのような印象ですか。
[布野]
どんどんレヴェルが上がっていると認識しています。大会発表でも、英語スキルの低い日本人のほうが見劣りするような発表が増えてきました。三学会が切磋琢磨して、ISAIA自体のレヴェルが上がってきており、今後はアジアに関心のある研究者が欧米からも参加するようになればと思います。
[市川]
来年はISAIAが京都で行われますし、今後もより活発な学術交流が続くといいですね(図表9)。本日はありがとうございました。
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