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2025年10月27日月曜日

ハバナ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

ハバナ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日



 ハバナ―スペイン植民都市の原像

ハバナは初期スペイン植民都市の代表であり、サント・ドミンゴ(ドミニカ共和国)とともに、インディアス法(『フェリペⅡ世の勅令』1573)に理念化されることになる都市計画以前に都市建設が行われた都市である。サント・ドミンゴにアウディエンシア(聴訴院)が設置された1511年以降、ディエゴ・コロン総督の命でディエゴ・ヴェラスケス・デ・クエリャルによってキューバへの入植が本格的開始される。ヴェラスケスに先立って、セバスチャン・デ・オカンポがキューバ沿岸部を全て探索し(1508)、良港となる湾としてカレナスとジャグアシエンフエゴスを発見している。このカレナスが今日のハバナとなっている。ヴェラスケスがキューバの6番目の拠点としてカレナスを築くのは1515年のことである(定礎815)。カレナスはメキシコ湾への入口に位置し、湾流に乗りやすいことからスペイン植民地の主要な港湾都市に成長していくことになる。

都市全体が描かれているものとして、形成過程の変化をわかりやすく示していると思われるものを図1に示す。最も古い地図は1567年に描かれたものである(1-1)。街区割りが示される最も古い地図は、1603年に描かれた図で、市の拡張と市壁計画を示している(1-2)。今日のハバナの骨格が示される図は1691年のものが最も古い(1-3)。歴史地の地図の中で最も新しいのは、1866年のもので、スペイン植民地期の都市拡張のほぼ全体を示している(1-4)


1515年に拠点建設の定礎がおこなわれた最初の場所は現在のギネスに近い島の南岸であった。最終的にパンフィロ・デ・ナルヴァエスにより,1519年現在の位置に移された。広場を中心に,南北街路・東西道路が計画される。初期には,破壊再建が繰り返されるが,街路は東西南北のグリッド状に形成されていく。サンティアゴ・デ・キューバに代わってキューバの首都となった(1553)ことで,ハバナは大きく発展していくことになる。北部は地盤が悪かったため,建設は当初南部に行われたが,16世紀後半に小さい橋が建設され,ハバナは北方へ拡大していく。1584年,南北街路・東西街路に囲まれるとコロニープラサ・ヌエヴァ(現プラサ・ヴィエハ)が建設された。この第2のプラサは,都市発展の次の核としてつくられたと考えられる。

1558年には,ハバナは,広場周辺の住居を撤去し,「新世界」で最初の本格的石造要塞建築であるレアル・フエルサ城塞を建設する。以降,広場はアルマス広場と呼ばれる。ハバナ17世紀に入って大きく拡張する。教会や病院などの公共施設も広場とともに建設されていった。アルマス広場,プラサ・ヴィエハに加え,1628年に船着き場として整備されたサン・フランシスコ広場,さらに1640年西側市壁付近にサント・クリスト教会と広場が建設された。多くの宗教施設や公共施設が,隣接するプラスエラと呼ばれる小広場とともにつくられた。インディアス法「フェリペⅡ世の勅令」1573)第118条に「市街地のところどころに小広場を設け,その広場に付随して教会を設置する」と規定するが,ハバナでも実施される。

ハバナ湾の入り口の警備を強化するため要塞が次々に建設されていく(図2)。まず、西岸にプンタ要塞(15891600、図中2),東岸にモロ要塞 (15891630、図中3)が建設された。さらにラ・チョレラ (1645、図中4)とサン・ラザロ (1665、図中5)も続いて建設された。そして,1674年に市壁建設が計画され,1740年に完成する。完成した市壁は,計画よりも広く,市壁の全長は約1700m,高さ10m9の砦,180の砲台を備え,城門は,建設当時は2つであった(1998)。18世紀半ばのハバナの人口は7万人以上であったと推測されている。カリブ海域の交易拠点として栄え,リマ,メキシコについでイベロアメリカ3の都市であった。シルベストレ・アバルカとペドロ・デ・メディナにより建設されたカバ-ニャ要塞 (17631774、図中8)は,「新世界」で最も大きいスペインの要塞である。西部には,造船所を防御するために,アタレス城塞(1767、図中7)、続いてプリンシペ要塞 (17671779,図中8)が建設された。東部には,サン・ディエゴ要塞(1770、図中6)が建設され,ハバナの防衛は次々に強化されていった。人口の増加とともに,市壁の外にも建物が建設され始める。1777年にカテドラルが完成し,前面にカテドラル広場が建設されている。1863年から1875年にかけて,市壁が壊され,市街地はさらに西へ拡大し,1859 年から1883 年にかけてラ・コレーラ城周辺が市街地化される。この時の計画図によると,新しく計画する道路は全て15m,新築の建物は間口12m以上,敷地面積の半分は庭もしくは中庭としており,これが都市計画規定となった(1865).ハバナ,スペイン植民地時代の最後(1889)頃の骨格を今日までとどめている。

街路体系における寸法の単位として、ヴァラ (0.848m)が用いられていたと考える。キューバ通りからビリェガス通り間は,ほぼ一定で,およそ90ヴァラである。初期に計画された街区より小さく計画されているが,街路幅を10ヴァラとみれば,80ヴァラが街区の単位になっていたのではないかと推測できる。

住居の基本要素として,通りに面するエントランスの空間(CM),一般の部屋(Cm),中庭(P),台所(K)があり、大きいスパンと小さなスパンが一般に区別される。奥行に応じて裏庭(TP)が設けられる。裏庭には,井戸,浴室,トイレが配置され、また中庭と裏庭の間の部屋が台所と食堂(C)が設けられる。中庭に接して半屋外のガレリア(G)が設けられる場合がある。二階建ての住居には,その上部にバルコニ-が設けられる。各室から中庭へのアプローチはガレリアを介する。街路に面する出入口としてザファン (Z)という部屋が配置される場合がある。ザファンは内部空間と外部空間を結ぶための主動線となる。2階建ての場合,クルヒア・マヨールに階段が設けられる場合と,ガレリアに階段が設けられる場合がある。また,集合住宅の場合には,ヴェスティブロ (V)と呼ばれる階段室が設けられる場合がある。以上のような基本要素に着目すると,図3のように住居類型を区別することができる。

A:原型=CMCm+K

B:基本型=A+ガレリア

C:標準型XB+ザフアン、(2階建て)

D:標準型YCCMCmが付加されて中庭型となるもの。ギャラリーは中庭の一面のみに設けられる。

E:標準型Z=中庭の周囲にギャラリーが設けられる。

F:集合住宅=専用の階段室ヴェスティブを持つものF1

Fについては、集合住宅として共用のザファンを持つものF2、や直階段で2階以上とつながるものF3に分類する事ができる。







2025年10月26日日曜日

シエンフエゴス:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

シエンフエゴス:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


L15 スペイン・グリッド植民都市の理念型

シエンフエゴスCienfuegos,シエンフエゴス州,キューバ Cuba


シエンフエゴスは,スペインの上陸当初から北海岸のハバナ湾と並ぶ良港として知られるハグア湾に面して立地する。18世紀初頭に港湾都市として北海岸に建設されたカルデナスが「北の真珠」呼ばれるのに対して,「ペルラ・デル・スルLa Perla del sur:南の真珠」と呼ばれ、カリブ海に面する。

シエンフエゴスへの入植は16世紀初頭から行われ、1512年には,ラス・カサスがハト・アリマオ近くに入植地を建設している。1738年に総督グエメス・イ・オルカシタスが湾の入口に小さな要塞を建設し,1742年に拡張している。1762年から1802年の間に,王立グアンタナモ委員会による開発計画がモポックスMopox侯爵によって行われ,ハグア湾の開発も候補に選ばれている。1798年に,その委員会のメンバーであったアナスタシオ・エチェヴァリアAnastasio Echevarriaが,シエンフエゴスの最初の計画図を描いている(図①)。 この最初の計画案で,注目すべきは,プラサ・マヨール2街区分とっていることである。これは今日まで引き継がれており,シエンフエゴスの特徴になっている。

 シエンフエゴスに関する18世紀末以降の都市計画図(図②)によると,およその都市発展過程を明らかにすることができる。1839年には市域の拡大が始まっている。さらに大きく市域が拡大し始めるのは19世紀末以降であり,順次4期(1879188219051914.)の計画案が立てられる。いずれも,100ヴァラ×100ヴァラの街区を基本としており,1820年当初の基本計画におけるシステムが一貫して用い続けられている。市域の拡張は,グリッドを延長する形で行われ,1839年に斜めに直行する道路が造られ,1879年にほぼ45度回転した街区が東北部に作られた(図③)。

1824年の最初のセンサスによると人口1283であった。1831年には公営の屠殺場と刑務所が建てられている。以後,街灯(1832),教会(1838),墓地(1839),劇場(1843),市立学校(1846)が順次建設された。鉄道がパルミラPalmira,まで敷かれたのは1851年のことであり,1860年にサンタ・クララまで延びている。人口センサス・データとして,13381861),3381899),31001907),372411919),52501931),529101943),579911953)という記録が残されている。1981年の人口は102791人である。

都市核の現況は(図④)、2街区分のプラサ・マヨールの東に教会,南に市議会と博物館,北に劇場と学校,西に文化センターと市場,というように公共施設が位置する。

キューバの植民都市の場合,長さを幅の1.5倍とするインディアス法の規定(112条)にもかかわらず,プラサ・マヨールは正方形とすることが多い。シエンフエゴスの場合も,上述のように,100ヴァラ×100ヴァラという単純均一なグリッドを用いているが,プラサ・マヨールを二街区分としている点,また公共施設をプラサ・マヨールの周辺に配置している点,インディアス法が前提とされていたことははっきりしている。建物の高さは平屋もしくは2階建てが基本で,モニュメンタルな建物でも現在も四層以下に押さえられている。かつての景観をよく残しているといっていい。

 シエンフエゴスは,キューバのスペイン植民都市のうち19世紀初頭に建設された都市の典型と言っていいが,以下のような特性をもつ。

 ①シエンフエゴスは,古くから南岸の良港として知られてきたが,本格的に都市建設が行われたのは,1819年のフランス人デ・クルーエの入植以降である。基本的に,100ヴァラ×100ヴァラを街区の単位として,街路幅も15ヴァラの単純なグリッド・システムが採用された。また,最初の都市モデルとしては5×525の街区が想定されていた。

 ②街区モデルとして,1000ヴァラ平方を単位とする10分割システムが採用されている。フランスのヴォーバンが採用した分割パターンで18世紀末以降他の地域でも見られる。

 ③市域の拡張は,グリッドを延長する形で行われ,1839年に斜めに直行する道路が造られ,1879年にほぼ45度回転した街区が東北部に作られた。

 ④発展をコントロールする都市計画法は,1856年に作られ,改定を繰り返すかたちで今日まで維持されている。

 ⑤街区分割,宅地分割は一貫して進行してきている。しかし,街区全体の影響を及ぼす合筆などは起こらず,大きな景観上の変化は少ない。

 ⑥宅地の細分化は角地において著しい。それに対して,他の宅地に挟まれる一面のみ接道する宅地は変化に対する抵抗力は強い。②の街区分割パターンは,④とも関連するが,比較的安定性が高いと考えられる。

 ⑦宅地の再分割のかたちとして新しく現れてきたのが共同住宅シウダデラスの形である。伝統的な中庭式住宅とともに密度が高まるとともに生み出されてきたのがシウダデラスである。

シエンフエゴスは、都市核としてグリッドが次々に延長されてきた。その歴史的中心地区は,19世紀初頭におけるスペイン植民都市計画の典型例として世界文化遺産に登録(2005)されている。

 

【参考文献】

シエンフエゴスを直接対象とする植民都市関連論文はない。本稿で用いる文献資料は,全て臨地調査において入手したものである。地図の大半と都市計画法(1856年)条文はシエンフエゴスの歴史博物館(MHCMuseo de Historia de Cienfuegos:館長:Iran  Millan氏)において入手したものである。

布野修司・ヒメネス・ベルデホ,ホアン・ラモン2013)『グリッド都市-スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生,京都大学学術出版会






 

 


2025年10月25日土曜日

サント・ドミンゴ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

サント・ドミンゴ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日 


L13 「新世界」最初の植民都市

サント・ドミンゴ Santo Domingo、ドミニカ共和国República Dominicana 

 サント・ドミンゴは、ニコラス・デ・オヴァンドによって建設された(1502年)アメリカ大陸最初の植民都市である。

現在のサント・ドミンゴは,ドミニカ共和国の首都で人口955000人(2010),カリブ海域でもキューバのハバナに次ぐ第2の都市である。東をオサマ川,南をカリブ海,北と西はかつての市壁で囲われた旧市街(ソーナ・コロニアルZona Colonial)は,約90ha116の街区からなり約15000人が居住する。

サント・ドミンゴの都市形成の過程は以下のようである。

クリストバル・コロンは、グアナハニGuanahani(サン・サルヴァドル)島へ到達し(1492年),最初の植民都市として,イスパニョーラHispaniolaEspañola島にナヴィダー要塞を建設する。「新世界」最初の砦であったが、,翌年訪れるとインディオの襲撃によって破壊されており,新たな拠点としたのがイサベラである。次弟のバルトレメオ・コロンによって,1496年から1498年にかけてヌエヴァ・イサベラが建設されるが、これもハリケーンにより破壊され、対岸にサント・ドミンゴが建設されるのである。オヴァンドはスペイン国王からスペイン人たちを集住させる要塞都市建設を命ずる勅許状と指図書を受け、ヌエヴァ・イサベルに分散居住していたインディオたちを集住させ,鉱山Sony_8GT:レポート済み世界都市史:Ⅲ-1-8 サント・ドミンゴの歴史的都市図:drake 1586001.jpg近郊にもインディオたちの集落を建設している。

サント・ドミンゴ(オサマ)要塞の建設は1505年より開始され,1507年にイタリア人建築家フアン・ラベJuan Rabeの設計によって,サント・ドミンゴ(「新大陸」)現存最古の建築であるオメナヘ塔Torre del Homenajeが完成している。都市建設について,具体的な指示が出されるのは1513年で,その指令を受けたのはペドラリアス・ダヴィラである。都市とその地域に命名すること,交通の便を考慮し,川,海などに接すること,そして,教会,広場,街路,私有地に土地を割り当てることなどが指示されている。

ラス・カサスがインディオの拷問・虐殺に対する良心の呵責から「回心」した場所として知られる聖ドミニコ会修道院(1510)や,サン・フランシスコ修道院(15241535)などの修道院・教会,サント・ドミンゴの中心に位置し「新大陸」すなわちアメリカ最初のカテドラルであるサンタ・マリア・ラ・メノール Santa María la Menor (1514着工~1540竣工)が建設される。また,アメリカ最初の病院・大学であるサン・ニコラス・デ・バリSan Nicolás de Bari病院 (15331552),サント・ドミンゴ大学 (15181538)も建設されている。

サント・ドミンゴの最も古い都市図は,1585年のフランシス・ドレイク Francis Drake (15401595)の遠征の時 に描かれたものである。(図1) この地図を見ると,市街地は矩形の街区によって構成されており、全体は市壁で囲われている。東南部に要塞が完成し,市街中央にはカテドラルが見える。西側の市壁には3つの門が設けられ,近郊の集落が描かれている。

サント・ドミンゴは,港湾に接する広場とプラサ・マヨールの2つを核としており、広場,教会など主要施設をグリッド状に配置するが、完全なグリッド・パターンをしてはいない。プラサ・マヨールの規模は124ヴァラ×124ヴァラで、都市図の残されたスペイン植民都市全体のほぼ標準である。

20世紀以前の住居は,ほとんどが2層以下の石造もしくは煉瓦蔵の中庭式住宅(パティオ・ハウス)である。最初期,15021509年に建設された住居はラス・ダマス通りに見られるパティオをもつ中庭式住宅である。当初,16世紀の間は二階建てが基本であったとされるが,17世紀以降平屋建てもみられる。邸宅を除けば,一定の形式をもった都市型住宅として,間口と奥行きによって類型化できる。

16世紀末期から18世紀半ばにかけて,サント・ドミンゴもイスパニョーラ島全体も,衰退と貧困の時代を迎える。ハリケーンや地震により建物が被害を受けるが修復する余裕はなかった。18世紀以降19世紀半ばまではほとんど発展はない。植民地時代が終わると市壁が市の発展の障壁になり,南西部にシウダード・ヌエヴァ(新都市)が建設され現在の都市形態に至る。Macintosh HD:Users:furutahirokazu:Desktop:casas.jpg








2025年10月23日木曜日

サン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 サン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


B48 サン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナ-イベロ・アメリカへの発進基地

スペイン,カナリア諸島,テネリフェ島

   San Cristobal de La LagunaTenerife Islas CanariasSpain

 カナリア諸島は、北アフリカのモロッコ沖100km500kmの大西洋上に浮かぶ島々である。7つの島からなり、諸島全体でスペインの自治州を形成する。カナリアの名は、その原産地として鳥の名になっているが、ラテン語の「犬」に由来するという。7つの島のひとつテネリフェ島にアロンソ・フェルナンデス・デ・ルーゴ(?1525)によって1496年から97年にかけて建設されたのがサン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナである。アロンソ・フェルナンデス・デ・ルーゴは、スペインのコンキスタドーレであり、ラ・パルマ (14921493)に続いてテネリフェ島 (14941496)を征服し、サン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナの他サンタ・クルス・デ・テネリフェ、サンタ・クルス・デ・ラ・パルマを建設している。

 その建設は、クリストバル・コロンが第2次航海を終えて帰国し、第3次航海へ出立しようとする頃であり、アメリカ最初のスペイン植民都市、イスパニョール島のサント・ドミンゴの建設はまだ緒に就いたばかりの頃である。

 カナリア諸島には、古来、ベルベル系のグアンチェ族が居住してきた。その後、アラブ人、ノルマン人、ポルトガル人が往来し、領有してきた。1402年にカスティーリャ王国が入植を開始し、ポルトガルとの抗争となる。王位継承問題も絡み、1476年のアルカソヴァス条約によって、アゾーレス諸島などの航海権はポルトガルが獲得、カナリア諸島の支配権のみスペインが得ることになる。コロンの「新大陸」発見とともに、イベロ・アメリカへの発信基地として建設されたのが、サン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナである。

 テネリフェ島には火山島であり、スペインで最高峰となるテイデ山(3,718 m) が南西部にそび える。島の北東の海岸から14km内陸に入った標高550mの平地に建設された街には城壁がない。初期のスペイン植民都市は、サント・ドミンゴにしろ、ハバナにしろ、城壁をもつが、先住のグアンチェ族と大きな抗争は想定されていなかったことを示している。また、後にスペイン植民都市の代名詞となる直交座標によるグリッド・パターンの街路体系を厳密に採用しているわけでもない。チェーザレ・ヴォルジアが1499年に占領し、レオナルド・ダ・ヴィンチに詳細な地図を描かせた北イタリア・ボローニャ県のイモラ(1502)(図①)を基にしたというが、年代は合わないし、そもそも城壁はない

 1588年のトリアーニの地図(図②)と現在の地図(図③)は突き合わせることが可能であり、当初の計画を窺うことができる。アデランタド広場を中心に、市庁舎、レルカリオ宮殿、コンセプシオン教会サンタ・カタリナ・デ・シエナ修道院、市場などによって構成される。 現在のサン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナは、18世紀までに築かれた山の手地区とラグーンに接する下町地区からなる。1701年には、カナリア諸島初の大学(ラ・ラグーナ大学)も開学した。1819年にはヌエストラ・セニョーラ・デ・ロス・レメディオス大聖堂が建設され、司教座が置かれている。

 木製のバルコニーが特徴的な中庭式住居の街並みが残されており、1999年には、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。

【参考文献)】

 布野修司・ヒメネス・ベルデホ,ホアン・ラモン(2013)『グリッド都市-スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生』京都大学学術出版会










布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...