リヴィウ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
F02 多民族が磨いた東欧の真珠
リヴィウ(リヴォフ)、Lviv、ウクライナ Ukraina
リヴィウはウクライナ西部の州であり、州都の名もリヴィウである。現在、キエフに次ぐウクライナの中央都市である。
地形的には、北にヴォルイニ丘陵、南にはカルパート山脈に挟まれており、変化ある地形に富んでいる。また、丘陵山地が州の中央を横断しており、これが分水嶺を形成している。この丘陵地の北の平原部には、バルト海へ繋がる西ブーフ川とプリーピャチ・ドニプロー川水系で、南側の平原は黒海へ繋がるドニエステル川水系となっている。リヴィウの気候は、温帯大陸性で年間降水量が700mm-1000mmであり、ウクライナ国内では水資源の豊富な地域となっている。そのため、リヴィウの中部より南には森林ステップが広がっている。
歴史的には、リヴィウ州域はモラヴィア王国滅亡後、12世紀までキエフ大公国の一部であった。その後、キエフ大公国が分裂し、リヴィウの西部はペレムイシュリ公国、東部はズヴェニーホロド公国、北部と中部はヴォロディーミル・ヴォインスキー公国の一部となった。その後、ハーリチ公国領、ハーリチ・ヴォイルニ公国領となる。都市としてのリヴィウはこの時代から重要な交易地として、ハーリチ・ヴォルイニ年代記では1256年に初出する。リヴィウという名前は、クニャージホラー(クニャージの山という意味で現代のヴィソーキイ・ザーモクにあたる)に要塞を建設したハーリチ・ヴォイルニ公国王のダニイロ・ロマーノヴィチ・ハーリツキー公が自身の息子であるレフにちなんで命名されたことが由来する。そのレフ・ダニイロヴィチの治世にリヴィウはハーリチ・ヴォルイニ公国の首都となった。14世紀中ごろから、リヴィウはポーランド王国の支配下に置かれる。1356年にマクデブルク都市法が制定され、ドイツ人商人が多く流れ込んだため、リヴィウの現代の街並みにドイツ的性格が形成される。ここから1434年から1772年にわたって、ポーランド王国のルーシ県の県庁所在地となった。15世紀までは主にドイツ人によって市政や司法が行われていたが、16世紀以降は住民の多くはポーランド化していった。1772年の第一次ポーランド分割によりオーストリア帝国に併合され、帝国の北東部にあたるガリツィア・ロドメリア王国の首都となる。ウクライナのほかの地域はロシア帝国の支配下にあり、ウクライナ語に対する弾圧が強かった。しかし、政治、文化的自由の享受されたオーストリア帝国のハプスブルク治下であったリヴィウはウクライナの民族運動が起こった。そのため、リヴィウではウクライナ語の出版物が活発に行われていた。このような背景をもとに、リヴィウはポーランド、ウクライナ文化の中心地として大きな存在となる。ロシア革命の後、西ウクライナ人民共和国が1918年に誕生し、リヴィウを首都に定めたが短命に終わる。その後、リヴィウは再びポーランド領となる。1939年には独ソ不可侵条約によって、ソヴィエト連邦ウクライナ領に編入されたが、第二次世界大戦中にドイツ軍によってリヴィウは制圧される。ナチス・ドイツ支配下ではポーランド総督府レンベルク県の県庁所在地となるが、第二次世界大戦後にウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の領土とされた。その後、1991年のソ連崩壊によって、リヴィウは独立したウクライナの都市となる。
このような戦争の続いたリヴィウだが、その歴史地区は奇跡的に戦火を免れた。様々な国の伝統が融合したこの地区は1998年に「リヴィウ歴史地区」として世界文化遺産に登録された。この歴史地区に存在する中世から近世にかけて作られた石造りの美しい街並みはヨーロッパの真珠と呼ばれる。様々なヨーロッパ諸国の文化伝統を残したこの場所はリヴィウの歴史を反映している。現在においてもリヴィウは交通網が発達し、ウクライナと世界を結ぶ国際的な交易ルートの要としてその役割を果たしている。
参考文献
竹内啓一ほか(2016),『世界地名大辞典6 ヨーロッパ・ロシアⅢ』, 朝倉書店
古田陽久+古田真美(2000),
『世界遺産ガイド-北欧・東欧・CIS編』
風早健史(2013), 『全部わかる世界遺産〈上〉ヨーロッパ/アフリカ』, 成美堂出版
伊東孝之ほか(1998), 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』, 山川出版社
臼杵陽(2009)『イスラエル』 岩波書店
笈川博一(2010)『物語 エルサレムの歴史』 中央公論新社

















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