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2023年10月23日月曜日

スラムとは何か、建築学大百科、朝倉書店、2008

 朝倉書店   建築学大百科


355 スラムとは何か

 スラムSlumとは、「貧民窟」、「貧民街」、あるいは「細民街」のことである。といっても、この訳語そのものが今日では死語に近いからピンと来ないかもしれない。一般的には「不良住宅地」という。要するに、低所得(貧困)層が居住する、狭小で粗末な住居が建並ぶ物理的にも貧しい街区、住宅地がスラムである。

貧しい人々が住む居住地は古来様々に存在してきたけれど、スラムは、近代都市がその内に抱え込んだ「不良住宅地」を指していう。すなわち、産業革命によって、農村を離脱して都市へ流入してきた大量の賃労働者たちが狭小で劣悪な住宅環境に集中して住んだのがスラムである。

スラムという言葉は、スランバーSlumberに由来し、1820年代からその用例が見られる。スランバーとは耳慣れないが、動詞として、(すやすや)眠る、うとうとする、まどろむ、(火山などが)活動を休止する、あるいは、眠って(時間・生涯などを)過ごす、無為に過ごす(away, out, through)、眠って〈心配事などを〉忘れる(away)、名詞となると、眠り、《特に》うたたね、まどろみ、昏睡、[無気力]状態、沈滞という意味である。

 スラムの出現は、産業革命による都市化の象徴である。産業化に伴う都市化は、大規模な社会変動を引き起こし、都市と農村の分裂を決定的なものとした。その危機の象徴がスラムである。

 いち早く産業革命が進行したイギリスは、マンチェスター、バーミンガム、リヴァプールといった工業都市を産むが、大英帝国の首都ロンドンの人口増加もまた急激であった。1800年に96万人とされるロンドンの人口は、1841年に195万人となり、1887年には420万人に膨れあがる。産業化以前の都市の規模は、基本的には、移動手段を牛馬、駱駝に依拠する規模に限定されていた。火器(大砲)の出現によって築城術は大きく変化するが、新たな築城術に基づくルネサンスの理想都市計画をモデルとして世界中に建設された西欧列強による植民都市にしても、城郭の二重構造を基本とする都市の原型を維持している。産業化による、都市の大規模化、大都市(メトロポリス)の出現は、比較にならない大転換となり、人々の生活様式、居住形態を一変させることになった。

 大量の流入人口を受容れる土地は限られており、限られた土地に大量の人口が居住することによって、狭小劣悪で過密な居住環境が生み出されるのは必然であった。全ての流入人口が賃労働者として吸収されないとすれば、失業者や特殊な職業につくものが限られた地区に集中するのも自然である。スランバーは、仕事のない人々が多数無為に過ごす様を言い表わしたのである。

 日本の場合、1880年代から1890年代にかけて「貧民窟」=スラムが社会問題となる。有名なのが東京の三大「貧民窟」、下谷万年町、四谷鮫ヶ淵、芝新網町であり、大阪の名護町である。『貧天地飢寒窟探検記』(桜田文吾、1885年)、『最暗黒の東京』(松原岩五郎、1888年)、『日本の下層社会』(横山源之助、1899年)など「貧民窟」を対象とするルポルタージュが数多く書かれている。

 スラム問題にどう対処するかは、近代都市計画の起源である。イギリスでは、1848年、公衆衛生法Public Health Act1851年、労働者階級宿舎法Labouring Class Lodging Houses Act(Shaftesbury's Act)1866年衛生法Sanitary Actが相次いで制定され、1894年にはロンドン建築法によって、道路の幅員、壁面線、建物周囲の空地、建物の高さの規制が行われる。日本では、市区改正などいくつかの対策が1919年の市街地建築物法、都市計画法の制定に結びついている。

 スラムは、しばしば、家族解体、非行、精神疾患、浮浪者、犯罪、マフィア、売春、麻薬、・・・など、様々な社会病理[1]の温床とされるが、それは必ずしも普遍的ではない。場合によって生存のためにぎりぎりである居住条件に対処するために、むしろ、強固な相互扶助組織、共同体が形成されるのが一般的である。同じ村落の出身者毎の、また、民族毎の共住がなされ、それぞれに独特の生活慣習、文化が維持される。スラムに共通する、「貧困の文化」(O.ルイス)、「貧困の共有」(C.ギアツ)といった概念も提出されてきた。

20世紀に入って、都市化の波は、全世界に及ぶ。蒸気船による世界航路の成立、蒸気機関車による鉄道の普及は、都市のあり方に決定的な影響を及ぼす。そして、モータリゼーションの普及が都市化を加速することになった。しかし、発展途上地域の都市化は先進諸国と同じではない。先進諸国では工業化と都市化の進展には一定の比例関係があるのに対して、発展途上地域では、「過大都市化over urbanization」、「工業化なき都市化urbanization without industrialization」と呼ばれる、工業化の度合いをはるかに超えた都市化が見られるのである。ある国、ある地域で断突の規模をもつ巨大都市は、プライメート・シティ(首座都市、単一支配型都市)と呼ばれる。

 スラムの様相も、先進諸国のそれとは異なる。第一に、先進諸国のスラムが都市の一定の地域に限定されるのに対して、発展途上国の大都市ではほぼ都市の全域を覆うのである。第二に、スラムが農村的特性を維持し、直接農村とのつながりを持ち続ける点もその特徴である。インドネシアのカンポンkampungがその典型である。

カンポンというのはムラという意味である。都市の住宅地でもムラと呼ばれる、そのあり方は、発展途上国の大都市に共通で、アーバン・ヴィレッジ(都市集落)という用語が一般に用いられる。その特性は以下のようである。

多様性:異質なものの共生原理:複合社会plural societyは、発展途上国の大都市の「都市村落」共通の特性とされるが、カンポンにも様々な階層、様々な民族が混住する。多様性を許容するルール、棲み分けの原理がある。また、カンポンそのものも、その立地、歴史などによって極めて多様である。

完結性:職住近接の原理:カンポンの生活は基本的に一定の範囲で完結しうる。カンポンの中で家内工業によって様々なものが生産され、近隣で消費される。

自律性:高度サーヴィス・システム:カンポンには、ひっきりなしに屋台や物売りが訪れる。少なくとも日常用品についてはほとんど全て居ながらにして手にすることが出来る。高度なサーヴィス・システムがカンポンの生活を支えている。

共有性:分ち合いの原理:高度なサーヴィス・システムを支えるのは余剰人口であり、限られた仕事を細分化することによって分かち合う原理がそこにある。

共同性:相互扶助の原理:カンポン社会の基本単位となるのは隣組(RT:ルクン・タタンガ)-町内会(RW:ルクン・ワルガ)である。また、ゴトン・ロヨンと呼ばれる相互扶助活動がその基本となっている。さらに、アリサンと呼ばれる民間金融の仕組み(頼母子講、無尽)が行われる。

物理的には決して豊かとは言えないけれど、朝から晩まで人々が溢れ、活気に満ちているのがカンポンである。そして、その活気を支えているのがこうした原理である。このカンポンという言葉は、英語のコンパウンド(囲い地)の語源だという(OED)。かつてマラッカやバタヴィアを訪れたヨーロッパ人が、囲われた居住地を意味する言葉として使い出し、インド、そしてアフリカに広まったとされる。

「スラム街」という語を和英辞典で引くと興味深い。バリアーダbarriada(中南米、フィリピン)、バスティbustee, busti, basti(インド)、、ファヴェーラfavela(ブラジル)、ポブラシオンpoblacion(チリ)などと、国、地域によって呼び名が異なるのである。ネガティブな意味合いで使われてきたスラムという言葉ではなく、それぞれの地域に固有の居住地の概念として固有の言葉が用いられるようになりつつある。

問題は、究極的に、土地、住宅への権利関係、居住権の問題に帰着する。スクオッターsquatter(不法占拠者)・スラムという言葉が用いられるが、クリティカルなのは、貧困のみならず、戦争、内戦などによって生み出される難民、スクオッター、ホームレスの問題である。差異を原動力とし、差別、格差を再生産し続ける資本主義的な生産消費のメカニズムがスラムを生み出す原理である。すなわち、物理的なスラム・クリアランスが究極的な意味でのスラムの解消に繋がるわけではないのは明らかである。その存在は、各国、各地域の政治的、経済的、社会的諸問題の集約的表現である。

 



[1] 布野修司、「都市の病理学―「スラム」をめぐって―」、『都市と劇場―都市計画という幻想―』布野修司建築論集Ⅱ、彰国者、1998

2023年9月9日土曜日

タウンアーキテクトの可能性―21世紀の建築家の役割、長澤泰 ・神田順 ・大野秀敏 ・坂本雄三 ・松村秀一 ・藤井恵介編,建築大百科事典, 朝倉書店,2008年

 朝倉書店 1700字×2枚 建築学大百科

布野修司

 

122 タウンアーキテクトの可能性―21世紀の建築家の役割

「建築家」は、全てを統括する神のような存在としてしばしば理念化されてきた。今日に伝わる最古の建築書を残したヴィトルヴィウスの言うように、「建築家」にはあらゆる能力が要求される。この神のごとき万能な造物主としての「建築家」のイメージは極めて根強く、ルネサンスの「建築家」たちの万能人、普遍人(ユニバーサル・マン)の理想に引き継がれる。彼らは、発明家であり、芸術家であり、哲学者であり、科学者であり、工匠である。

近代「建築家」を支えたのも、世界を創造する神としての「建築家」像であった。彼らは、神として理想都市を計画することに夢中になるのである。そうしたオールマイティーな「建築家」像は、実は、今日も実は死に絶えたわけではない。

 そしてもうひとつ、広く流布する「建築家」像がある。フリー・アーキテクトである。フリーランスの「建築家」という意味である。すなわち、「建築家」は、あらゆる利害関係から自由な、芸術家としての創造者としての存在である、というのである。神ではないけれど、自由人としての「建築家」のイメージである。

 もう少し、現実的には、施主と施工者の間にあって第三者的にその利害を調整する役割をもつのが「建築家」であるという規定がある。施主に雇われ、その代理人としてその命や健康、財産を養護する医者や弁護士と並んで、「建築家」の職能もプロフェッションのひとつと欧米では考えられている。

 こうして、「建築家」の理念はすばらしいのであるが、複雑化する現代社会においては、ひとりでなんでもというわけにはいかない。建築をつくるのは集団的な仕事であり、専門分化は時代の流れである。また、フリーランスの「建築家」といっても、実態をともなわないということがある。

この半世紀ほどの日本社会の流れをみると、第一に言えるのは、建てては壊す(スクラップ・アンド・ビルド)時代は終わった、ということである。二一世紀はストックの時代である。地球環境全体の限界が、エネルギー問題、資源問題、食糧問題として意識される中で、建築も無闇に壊すわけにはいかなくなる。既存の建築資源、建築遺産を可能な限り有効活用するのが時代の流れである。新たに建てるよりも、再活用し、維持管理することの重要度が増すのは明らかである。

そうであれば、そうした分野、コンヴァージョン(用途変更)やリノベーション(再生)、リハビリテーション(修景修復)などの分野が創造性に満ちたものとなるのははっきりしている。また、ライフ・サイクル・コストやリサイクル、二酸化炭素排出量といった環境性能を重視した設計が主流となって行くであろう。さらに、維持管理、耐震補強といった既存の建物に関わる事業が伸びていくことになるであろう。

 新しく建てられる建築が量的に少なくなるということは、はっきり言って、「建築家」もこれまで程多くは要らない、ということである。木造を主体としてきた日本と石造の欧米とは事情を異にするとは言え、日本がほぼ先進諸国の道を辿っていくのは間違いないであろう。乱暴な議論であるが、日本の建設投資が米国並みになるとすれば、「建築家」の数は半分になってもおかしくないのである。

問題は、今「建築家」として、あるいは「建築家」を志すものとして、どうするかである。第一は、既に上に述べた。建物の増改築、改修、維持管理を主体としていく方向である。そのための設計、技術開発には広大な未開拓分野がある。第二は、活躍の場を日本以外にもとめることである。国際「建築家」への道である。世界を見渡せば、日本で身につけた建築の技術を生かすことの出来る、また、それが求められる地域がある。中国、インド、あるいは発展途上地域にはまだまだ建設が必要な国は少なくないのである。一七世紀に黄金時代を迎えたオランダは世界中に都市建設を行うために多くの技術者を育成したのであるが、やがて世界経済のヘゲモニーを英国に奪われると、オランダ人技術者は主として北欧の都市計画に参画していった。かつて明治維新の時代には、日本も多くの外国人技師を招いたのである。

第三に、建築の分野を可能な限り拡大することである。建築の企画から設計、施工、維持管理のサイクルにはとてつもない分野、領域が関係している。全ての空間に関わりがあるのが建築であるから当然である。ひとつは建築の領域でソフトと言われる領域、空間の運営やそれを支える仕組みなどをどんどん取り込んでいくことである。また、様々な異業種、異分野の技術を空間の技術としてまとめていくことである。「建築家」が得意なのは、様々な要素をひとつにまとめていくことである。マネージメント能力といっていいが、PM(プロジェクト・マネージメント)、CM(コンストラクション・マネージメント)など、日本で必要とされる領域は未だ少なくない。

この第三の道において、「建築家」がまず眼をむけるべきは「まちづくり」の分野である。「建築家」は、ひとつの建築を「作品」として建てればいい、というわけにはいかない。たとえ一個の建築を設計する場合でも、相隣関係があり、都市計画との密接な関わりがある。「都市計画」あるいは「まちづくり」といわなくても、とにかく、「建築家」はただ建てればいい、という時代ではなくなった。どのような建築をつくればいいのか、当初から地域住民と関わりを持つことを求められ、建てた後もその維持管理に責任を持たねばならない。もともと、都市計画は「建築家」の仕事といっていいが、これまで充分その役割を果たしてきたかというと疑問がある。大いに開拓の余地がある。いずれにせよ、「建築家」はその存在根拠を地域との関係に求められつつある。

『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説』[1](以下『序説』)で提起したのであるが、「タウンアーキテクト」と呼びうるような新たな職能が考えられるのではないか。

「タウンアーキテクト」を直訳すれば「まちの建築家」である。幾分ニュアンスを込めると、「まちづくり」を担う専門家が「タウンアーキテクト」である。とにかく、それぞれのまちの「まちづくり」に様々に関わる「建築家」たちを「タウンアーキテクト」と呼ぶのである。

 「まちづくり」は本来自治体の仕事である。しかし、それぞれの自治体が「まちづくり」の主体として充分その役割を果たしているかどうかは疑問である。いくつか問題があるが、地域住民の意向を的確に捉えた「まちづくり」を展開する仕組みがないのが決定的である。そこで、自治体と地域住民の「まちづくり」を媒介する役割を果たすことを期待されるのが「タウンアーキテクト」である。

 何も全く新たな職能というわけではない。その主要な仕事は、既に様々なコンサルタントやプランナー、「建築家」が行っている仕事である。ただ、「タウンアーキテクト」は、そのまちに密着した存在と考えたい。必ずしもそのまちの住民でなくてもいいけれど、そのまちの「まちづくり」に継続的に関わるのが原則である。そういう意味では、「コミュニティ・アーキテクト」といってもいいかもしれない。「地域社会の建築家」である。

「建築家」は、基本的には施主の代弁者である。しかし、同時に施主と施工者(建設業者)の間にあって、第三者として相互の利害調整を行う役割がある。医者、弁護士などとともにプロフェッションとされるのは、命、財産に関わる職能だからである。その根拠は西欧世界においては神への告白(プロフェス)である。また、市民社会の論理である。同様に「タウンアーキテクト」は、「コミュニティ(地域社会)」の代弁者であるが、地域べったり(その利益のみを代弁する)ではなく、「コミュニティ(地域社会)」と地方自治体の間の調整を行う役割をもつ。

 「タウンアーキテクト」を一般的に規定すれば以下のようになる。

 ①「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」を推進する仕組みや場の提案者であり、実践者である。「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」の仕掛け人(オルガナイザー(組織者))であり、アジテーター(主唱者)であり、コーディネーター(調整者)であり、アドヴォケイター(代弁者))である。

 ②「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」の全般に関わる。従って、「建築家」(建築士)である必要は必ずしもない。本来、自治体の首長こそ「タウンアーキテクト」と呼ばれるべきである。

 ③ここで具体的に考えるのは「空間計画」(都市計画)の分野だ。とりあえず、フィジカルな「まちのかたち」に関わるのが「タウンアーキテクト」である。こうした限定にまず問題がある。「まちづくり」のハードとソフトは切り離せない。空間の運営、維持管理の仕組みこそが問題である。しかし、「まちづくり」の質は最終的には「まちのかたち」に表現される。その表現、まちの景観に責任をもつのが「タウンアーキテクト」である。

④もちろん、誰もが「建築家」であり、「タウンアーキテクト」でありうる。身近な環境の全てに「建築家」は関わっている。どういう住宅を建てるか(選択するか)が「建築家」の仕事であれば、誰でも「建築家」でありうる。また、「建築家」こそ「タウンアーキテクト」としての役割を果たすべきである、ということがある。様々な条件をまとめあげ、それを空間的に表現するトレーニングを受け、その能力に優れているのが「建築家」だからである。

 



[1] 布野修司、『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』、建築資料研究社,二〇〇〇年。

2023年9月8日金曜日

スラムとは何か、長澤泰 ・神田順 ・大野秀敏 ・坂本雄三 ・松村秀一 ・藤井恵介編,建築大百科事典, 朝倉書店,2008年

 朝倉書店 建築学大百科   1700字×2枚

 

355 スラムとは何か

 スラムSlumとは、「貧民窟」、「貧民街」、あるいは「細民街」のことである。といっても、この訳語そのものが今日では死語に近いからピンと来ないかもしれない。一般的には「不良住宅地」という。要するに、低所得(貧困)層が居住する、狭小で粗末な住居が建並ぶ物理的にも貧しい街区、住宅地がスラムである。

貧しい人々が住む居住地は古来様々に存在してきたけれど、スラムは、近代都市がその内に抱え込んだ「不良住宅地」を指していう。すなわち、産業革命によって、農村を離脱して都市へ流入してきた大量の賃労働者たちが狭小で劣悪な住宅環境に集中して住んだのがスラムである。

スラムという言葉は、スランバーSlumberに由来し、1820年代からその用例が見られる。スランバーとは耳慣れないが、動詞として、(すやすや)眠る、うとうとする、まどろむ、(火山などが)活動を休止する、あるいは、眠って(時間・生涯などを)過ごす、無為に過ごす(away, out, through)、眠って〈心配事などを〉忘れる(away)、名詞となると、眠り、《特に》うたたね、まどろみ、昏睡、[無気力]状態、沈滞という意味である。

 スラムの出現は、産業革命による都市化の象徴である。産業化に伴う都市化は、大規模な社会変動を引き起こし、都市と農村の分裂を決定的なものとした。その危機の象徴がスラムである。

 いち早く産業革命が進行したイギリスは、マンチェスター、バーミンガム、リヴァプールといった工業都市を産むが、大英帝国の首都ロンドンの人口増加もまた急激であった。1800年に96万人とされるロンドンの人口は、1841年に195万人となり、1887年には420万人に膨れあがる。産業化以前の都市の規模は、基本的には、移動手段を牛馬、駱駝に依拠する規模に限定されていた。火器(大砲)の出現によって築城術は大きく変化するが、新たな築城術に基づくルネサンスの理想都市計画をモデルとして世界中に建設された西欧列強による植民都市にしても、城郭の二重構造を基本とする都市の原型を維持している。産業化による、都市の大規模化、大都市(メトロポリス)の出現は、比較にならない大転換となり、人々の生活様式、居住形態を一変させることになった。

 大量の流入人口を受容れる土地は限られており、限られた土地に大量の人口が居住することによって、狭小劣悪で過密な居住環境が生み出されるのは必然であった。全ての流入人口が賃労働者として吸収されないとすれば、失業者や特殊な職業につくものが限られた地区に集中するのも自然である。スランバーは、仕事のない人々が多数無為に過ごす様を言い表わしたのである。

 日本の場合、1880年代から1890年代にかけて「貧民窟」=スラムが社会問題となる。有名なのが東京の三大「貧民窟」、下谷万年町、四谷鮫ヶ淵、芝新網町であり、大阪の名護町である。『貧天地飢寒窟探検記』(桜田文吾、1885年)、『最暗黒の東京』(松原岩五郎、1888年)、『日本の下層社会』(横山源之助、1899年)など「貧民窟」を対象とするルポルタージュが数多く書かれている。

 スラム問題にどう対処するかは、近代都市計画の起源である。イギリスでは、1848年、公衆衛生法Public Health Act1851年、労働者階級宿舎法Labouring Class Lodging Houses Act(Shaftesbury's Act)1866年衛生法Sanitary Actが相次いで制定され、1894年にはロンドン建築法によって、道路の幅員、壁面線、建物周囲の空地、建物の高さの規制が行われる。日本では、市区改正などいくつかの対策が1919年の市街地建築物法、都市計画法の制定に結びついている。

 スラムは、しばしば、家族解体、非行、精神疾患、浮浪者、犯罪、マフィア、売春、麻薬、・・・など、様々な社会病理[1]の温床とされるが、それは必ずしも普遍的ではない。場合によって生存のためにぎりぎりである居住条件に対処するために、むしろ、強固な相互扶助組織、共同体が形成されるのが一般的である。同じ村落の出身者毎の、また、民族毎の共住がなされ、それぞれに独特の生活慣習、文化が維持される。スラムに共通する、「貧困の文化」(O.ルイス)、「貧困の共有」(C.ギアツ)といった概念も提出されてきた。

20世紀に入って、都市化の波は、全世界に及ぶ。蒸気船による世界航路の成立、蒸気機関車による鉄道の普及は、都市のあり方に決定的な影響を及ぼす。そして、モータリゼーションの普及が都市化を加速することになった。しかし、発展途上地域の都市化は先進諸国と同じではない。先進諸国では工業化と都市化の進展には一定の比例関係があるのに対して、発展途上地域では、「過大都市化over urbanization」、「工業化なき都市化urbanization without industrialization」と呼ばれる、工業化の度合いをはるかに超えた都市化が見られるのである。ある国、ある地域で断突の規模をもつ巨大都市は、プライメート・シティ(首座都市、単一支配型都市)と呼ばれる。

 スラムの様相も、先進諸国のそれとは異なる。第一に、先進諸国のスラムが都市の一定の地域に限定されるのに対して、発展途上国の大都市ではほぼ都市の全域を覆うのである。第二に、スラムが農村的特性を維持し、直接農村とのつながりを持ち続ける点もその特徴である。インドネシアのカンポンkampungがその典型である。

カンポンというのはムラという意味である。都市の住宅地でもムラと呼ばれる、そのあり方は、発展途上国の大都市に共通で、アーバン・ヴィレッジ(都市集落)という用語が一般に用いられる。その特性は以下のようである。

多様性:異質なものの共生原理:複合社会plural societyは、発展途上国の大都市の「都市村落」共通の特性とされるが、カンポンにも様々な階層、様々な民族が混住する。多様性を許容するルール、棲み分けの原理がある。また、カンポンそのものも、その立地、歴史などによって極めて多様である。

完結性:職住近接の原理:カンポンの生活は基本的に一定の範囲で完結しうる。カンポンの中で家内工業によって様々なものが生産され、近隣で消費される。

自律性:高度サーヴィス・システム:カンポンには、ひっきりなしに屋台や物売りが訪れる。少なくとも日常用品についてはほとんど全て居ながらにして手にすることが出来る。高度なサーヴィス・システムがカンポンの生活を支えている。

共有性:分ち合いの原理:高度なサーヴィス・システムを支えるのは余剰人口であり、限られた仕事を細分化することによって分かち合う原理がそこにある。

共同性:相互扶助の原理:カンポン社会の基本単位となるのは隣組(RT:ルクン・タタンガ)-町内会(RW:ルクン・ワルガ)である。また、ゴトン・ロヨンと呼ばれる相互扶助活動がその基本となっている。さらに、アリサンと呼ばれる民間金融の仕組み(頼母子講、無尽)が行われる。

物理的には決して豊かとは言えないけれど、朝から晩まで人々が溢れ、活気に満ちているのがカンポンである。そして、その活気を支えているのがこうした原理である。このカンポンという言葉は、英語のコンパウンド(囲い地)の語源だという(OED)。かつてマラッカやバタヴィアを訪れたヨーロッパ人が、囲われた居住地を意味する言葉として使い出し、インド、そしてアフリカに広まったとされる。

「スラム街」という語を和英辞典で引くと興味深い。バリアーダbarriada(中南米、フィリピン)、バスティbustee, busti, basti(インド)、、ファヴェーラfavela(ブラジル)、ポブラシオンpoblacion(チリ)などと、国、地域によって呼び名が異なるのである。ネガティブな意味合いで使われてきたスラムという言葉ではなく、それぞれの地域に固有の居住地の概念として固有の言葉が用いられるようになりつつある。

問題は、究極的に、土地、住宅への権利関係、居住権の問題に帰着する。スクオッターsquatter(不法占拠者)・スラムという言葉が用いられるが、クリティカルなのは、貧困のみならず、戦争、内戦などによって生み出される難民、スクオッター、ホームレスの問題である。差異を原動力とし、差別、格差を再生産し続ける資本主義的な生産消費のメカニズムがスラムを生み出す原理である。すなわち、物理的なスラム・クリアランスが究極的な意味でのスラムの解消に繋がるわけではないのは明らかである。その存在は、各国、各地域の政治的、経済的、社会的諸問題の集約的表現である。

 



[1] 布野修司、「都市の病理学―「スラム」をめぐって―」、『都市と劇場―都市計画という幻想―』布野修司建築論集Ⅱ、彰国者、1998

2021年7月6日火曜日

宮殿建築、『インド文化事典』丸善出版、2017

 宮殿建築、『インド文化事典』丸善出版、2017


 宮殿建築 The Rajput Palaces                



古代インドの都城そして宮殿建築については、マウリヤ朝の創始者チャンドラグプタの宰相カウティリヤが書いたとされる『アルタシャーストラ』(実理論)が知られる。ヒンドゥー都城の理念型を示すものとして古来参照されてきたが、それを具体的に体現する王都や宮殿建築については定かではない。現在インド各地に残る代表的な宮殿遺構のほとんどはイスラームの侵入以降のもので、アーグラ、ファテープル・シークリー、ラホール、デリーに残るムガル朝の宮殿がその代表であり、地方勢力として一定の独立性を保ったラージプート諸侯もすぐれた宮殿建築を残している。

 

●ムガル朝の首都と宮殿

初代皇帝バーブルの年代記『バーブルナーマ』を読むとよくわかるが、サマルカンドからカーブルと下ってデリーへ向かう間のムガル朝初期の都は移動するオルド(宮殿)である。すなわち、移動建築ユルトの集合が都であった。その後も、アーグラ、ラホールと都は定まらず、アクバルによって珠玉のファテープル・シークリーが建設されるが長続きしない。帝都が定まるのは「もし地上に天国がありとせばそはここなり」と謳われたシャージャハナバードにおいてである。ムガル朝の宮殿建築の代表がラール・キラLal Qilaである。「バグダードの八角形」と呼ばれる全体は整然としたグリッドを基に計画されており、ヤムナー河からの水が流れる水路、池、庭園も極めて幾何学的である。多様アーチ、ダブルコラム、柱頭・柱身・柱脚の装飾などムガル建築を特徴づける要素をみることができる。

●ラージプートの王都と宮殿

奴隷王朝の成立によってラージプート時代は終わりを告げるが、ラージプートのラージャたちは一定の勢力を保持し続ける。諸侯の宮殿は拠点都市に1つ建設され、男性の領域マルダナmardanaと女性の領域ゼネナzenenaを截然と区別し、全体は小さな部屋と中庭を防御を考えて斜路や階段で複雑な形で構成されるのが一般的である。

現存最古の宮殿建築はチトールのラーナ・クンバ宮殿(1433-68)である。また、グワリオールのキルティ・シン宮殿(1454-79)がある。イスラーム勢力がその王都を破壊し、建築材料を再利用してきたために、その起源を遡るのは困難である。ムガル朝以前のこうした宮殿はラージプート宮殿の特徴を示している。柱頭の持送り、腕木、八角形の柱、四角な柱礎、曲面の屋根、小さな出窓・ジャロカjarokha、斜め庇・チャジャchajja、石のスクリーン窓・ジャリjaliなどはヒンドゥー建築の要素である。

17世紀初頭になると、オーチャのブンデルカンド宮殿、ダティアのゴヴィンド・マンディルなど宮殿の形態は極めて整然としてくる。インドには古来『マナサラ』などヴァストゥー・シャストラと呼ばれる建築書が知られる。建築物の寸法単位、空間の分割パターンを規定し、正方形を順次分割していくパターンについては32種類あげられるが、最も一般的に用いられるパラマシャーイカparamasayika9×981分割)が用いられたとされる。宮殿建築の建設を担ったのは、ヒンドゥー教徒である。

17世紀から18世紀の初頭にかけて建てられた、アンベールをはじめとして、ウダイプル、ジャイサルメル、ビカネール、ジョードプル、ドゥンガルプルなどの宮殿群はラージプート・スタイルの宮殿の成熟を示している。そこには、多様アーチ、バンガルダールbangaldarと呼ばれるベンガル地方の農家の屋根を模した湾曲した屋根、フルーティング(襞飾り)のついた柱などムガル建築の影響が見られる。しかし一方、ラージプート伝統の装飾要素も引き続き用いられ、ペルシャ由来の幾何学的文様との融合をみることができる。また、彩色タイルよりも壁画やモザイクが一般的となり、鏡をモザイク状に張り巡らしたシーシュ・マハルsheesh mahalsと呼ばれる部屋が新たにつくられるようになる。

18世紀になると、ムガル建築の影響は大きくなる。ディグに建設されたバダン・シン宮殿(1722年)そしてスーラジ・マル宮殿(1760年)は、ラージプート宮殿がその独自性を失っていく過程を示している。そして18世紀末から19世紀になるとヨーロッパ建築の影響が見られるようになる。

●ジャイプルの都市設計と宮殿

 ジャイプルはラム・シンの時代(18351880)に色が塗られ、今ではピンク・シティとして有名であるが、その建設は18世紀前半に遡る。ジャイプルおよびその宮殿建設は、ラージプートの歴史の中でも際立つ。アンベールから拠点が移されるが、平地にしかも新たに都城が建設された唯一の例である。そして、その計画的都市建設はヒンドゥーの都城理念を窺う上で極めて興味深い。ファテープル・シークリーそしてシャージャハナバードに勝るとも劣らないといっていい。

 ジャイ・シンⅡ世は、ジャイプルのみならずデリー、ヴァーラーナシーなどにジャンタル・マンタル(天文台)を建設したことが知られるが、中央に王宮と天文観測のためのスペースを設けていること、また、整然とした街区割が一定のコスモロジーに基づいていることは明らかである。軸線が15度ほど時計回りに傾いていること、ナイン・スクエア(3×3分割)の北西の角が架け、南東に一街区飛び出していること、『マナサラ』のプラスターラに基づくという説などをめぐって議論がある。建築家としてヴィディヤダールの名が知られるが、骨格となるバーザール、交差点チョウパル(広場)、街区分割のパターンなど実にユニークである。

 チャンドラ・マハル(1727-30)(図)は、バンガルダールを中央に連続的な突き出しバルコニー窓が印象的な均整のとれたムガル朝を代表する王宮である。また、ユニークなファサードのハワマハル(風の宮殿)(1799年)は、サワイ・プラタープ・シンの建設である。 [布野修司]

参考文献】

[1] Tillotson, G.H.R., The Rajput Palaces, Oxford The Development of an Architectural Style, 1450-1750, 1987

[2] 布野修司、曼荼羅都市・・・ヒンドゥ-都市の空間理念とその変容、京都大学学術出版会、2006


2021年7月5日月曜日

屋根 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住

 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住,弘文堂,1997



 屋根

 

 民族のアイデンティティ

 インドネシアの西スマトラ州一帯にミナンカバウ族が居住する。このミナンカバウ族は、世界最大の母系制社会を形成することで知られる。また、ムランタウ(出稼ぎ慣行)でも知られる。数多くの民族からなるインドネシアでも著名な民族である。数々のすぐれた人材を輩出することでも知られてきた。

 このミナンカバウの住居は極めて特徴的である。棟が端部で上方に反り返っている。棟は基本的に直線となる日本の木造建築を見慣れていると違和感があるが、東南アジアの場合、棟は緩やかにカーブを描く。日本でも出雲地方の民家の棟は反っており、地域によって様々であるが、広くアジアの広がりを見ると、中国、韓国・朝鮮を含めて棟が緩やかにカーブを描くのは一般的である。そして、そうした中で、ミナンカバウの住居の屋根の形態は、インドネシア、そして東南アジアを代表するものである。

 住まいの規模は様々である。母系大家族を居住の単位とし、その家族の規模に応じて住居の規模も異なるのである。ゴンジョングと呼ばれる尖塔は、1対、2対、3対の3タイプある。最大6本のゴンジョングをもつ。屋根は、竹で下地がつくられ、イジュクと呼ばれる黒い椰子の繊維で葺かれる。滑らかな曲線が生み出されるのは竹とイジュクという自然の素材と端部を建築的にうまく収めるためである。

 ミナンカバウの住居の屋根の形態は水牛の角をシンボライズしたという説がある。ミナンカバウ Minangkabau というと、インドネシア(マレー)語で、「勇敢な水牛」(menang kerbau)という意味なのである。水牛というのは東南アジアで極めて重要で神聖視される。それ故、水牛は様々な形でシンボルとして用いられる。ミナンカバウの場合、屋根全体の形で水牛の角を表現する。そこには、民族の名とともにそのアイデンティティが象徴的に表現されているというのである。

 ミナンカバウ族がマレー半島のマラッカ周辺、ヌガリ・スンビランに移って住む住居がある。興味深い事に、西スマトラの住まいの形態と全く異なる。しかし、注意深くみると、屋根の棟の端部が少し斜めに反っている。本家ほど優雅ではないけれど、屋根の反りに民族のアイデンティティを示そうというのではないか。ミナンカバウは屋根のシンボリズムを考える興味深い事例のひとつである。

 

 鞍型屋根

 屋根のシンボリズムという意味で興味深いのがスラウェシのサダン・トラジャの住まいである。東南アジアの鞍型屋根(サドル・ルーフ)という典型がこのトラジャの屋根である。

 東南アジアに典型的な転び破風の屋根と言っても、他の地域の場合は、棟のところで鋭角に垂木や破風は交わる。サダン・トラジャの場合、まさに馬の鞍のように滑らかにカーブを描いている。

 建築構造的には東南アジア全域に見られた転び破風屋根の場合とほとんど同じである。基本的には叉首構造で屋根面を支えるために斜め材(ブレース)が使われたり、補助的に棟持ち柱が使われたりする。サダン・トラジャの場合も同じであるが、屋根の下地を竹で二重、三重に葺く。滑らかな鞍型の曲線が出来るのはそのせいである。

 倉も、棺も、墓も同じ形態である。徹底している。興味深いのは、この鞍型の形態によく似た形の家型埴輪が日本で数多く出土していることである。

 それとともに、サダン・トラジャの住まいで、もうひとつ注目すべきは、転んだ屋根、棟を支える独立柱、棟持柱である。この柱を日本の例えば、伊勢神宮の棟持柱の原型ではないかと指摘する研究者もいるのである。その当否はともかく、棟持柱が極めて象徴的な役割を担っているのは間違いない。サダン・トラジャの場合、その棟持ち柱には水牛の角が飾られ、その本数がその家のステイタスを表すと言う。機能的には、地上で組み立てて持ち上げる(リフトアップ)ため、あるいは、仮設として、また施行する時に使われるが、伊勢神宮の棟持柱もそうであるように建築構造的には必ずしも必要はない。こうした柱は、機能を超えた象徴的な意味を担っているのである。

 このサダン・トラジャの鞍型屋根について興味深い事実がさらにある。この鞍型屋根が反り出したのは、極最近のことであるという事実である。今日でこそ、多くの観光客を惹きつけるようになったのであるが、このトラジャの世界が外界に開かれ出したのは二十世紀に入ってからのことである。外界に開かれるに従って、次第に棟が高く反り出したと言うのである。外の世界に対して、自らの独自性を誇示したい、表現したいというモメントが働くのである。

 

 ジョグロ・・・ジャワ住居の屋根の類型

 ジャワにおいて、住居の形態は屋根の形で分類されている。一般の人たちも屋根の形で住居を区別するのである。カンポン(切妻)、パンガンペ(片流れ)、リマサン(寄棟)、タジュク(方形)等である。寄棟の形式には、別にシノムと呼ばれるものがあるが、それは棟の方向に下屋を伸ばしたものをいう。カンポンというのはイナカ、ムラという意味であるが、カンポンで最も一般に見られるからであろう。この、切妻、寄棟、方(宝)形、片流れという屋根の類型は東南アジアでかなり普遍的である。木造建築の架構の一般的原理が自然に生み出す形である。

 そうした中で特異なのが、ジャワではジョグロである。寄棟の形態であるけれど中央部が高く突出している。この屋根形態はスンバワなど東インドネシアで見られる、もうひとつの東南アジアに特徴的な屋根形態である。

 ジョグロの架構形式は単純である。四本柱で中央の突出部を支える。規模によって異なるけれど、極めてシンメトリカルな、求心的なプラン(間取り)である。

 タジュクは、専ら寺院に用いられる。そうした意味では特殊な聖なる屋根形式といっていい。しかし、一般的に用いられる屋根形式としては、このジョグロという形式は、他の形式に比べれば極めて位が高い。社会的には地位の高い階層に許された形式である。位の高い貴族階層の住まいの場合、このジョグロをふたつ前後に並べて一軒の住まいを構成する。前のジョグロは、オープンな(壁のない)パヴィリオンとして使われ、プンドポと呼ばれて、接客空間もしくは儀礼の空間として使われる。ジャワでよく知られる影絵芝居が行われる。

 内部空間は奥に進むにつれて神聖度が高まると考えられている。また、中央の突出する屋根はメール山(須弥山)を象徴するという。屋根のシンボリズムは、ジャワでも意識されているのである。

 この四本柱のジョグロの架構形式は、興味深いことに、イスラーム化の後、モスクに借用される。屋根形式は方形が多いのであるが、架構形式はジャワの伝統形式を用いるのである。また、オランダ人たちも、コロニアル住宅のために、四本柱の架構形式を使用している。



 


2021年7月4日日曜日

装飾 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住

京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住,弘文堂,1997 

 

 装飾

 

 近代建築の理念は装飾を排除することにおいて成り立つ。機能と装飾は分離され、装飾の価値は貶められてきた。ポストモダンの建築も、機能と装飾を分離した上で装飾の復権を主張するものでしかなかった。しかし、ヴァナキュラーな民家の世界では機能と装飾は密接に結びついたものであった。例えば、ミナンカバウの滑らかな屋根の曲線は竹という素材と端部の収まり、さらに煙出しといった機能との見事な結合である。様々な屋根飾りも屋根押さえや構造の合理的形態から発達してきたものである。

 

 交差角・・・千木

 東南アジアの建築について、繰り返し見られるのは、交差する角の形をした装飾的な妻飾りである。この妻飾りは、ブギスやマレーの例のように、垂木の延長として簡素に形造られることが多いのであるが、時には、入念に彫刻が施される。この妻面端部の装飾の名称は、多くの場合「角」という単語に由来している。

 東北インドのナガ族、タイ北部、スマトラのバタック族、また以前の中央スラウェシなどの場合、その角は水牛のものである。バタック・カロ、バタック・シマルングン、バタック・マンダイリングなどは棟に極めて具象的な水牛そのものの彫刻が置かれる。

 西フローレスのマンガライやロティ島、中央スラウェシのポソなどでは、鳥やナガ(東南アジアのコスモロジーにおける地下界を支配する神話上の海ヘビ 龍)の形に彫られる。また、マレー住居のシラン・グンティンのように開いたハサミの形に擬せられることもある。

 角のモチ-フとしての選択が、東南アジアの多くの社会で水牛が大変重要であることを反映していることは疑いの余地がない。水牛の角は戦いの際の主要な武器であることから、角の装飾は家を守る役目をシンボリックに果たしているのではないかという説がある。一般に富の基準は、水牛の所有数で代表され、水牛はしばしば儀式上で一番の捧げ物とされる。豊かな家ほど入念に角の装飾を施し、その装飾的要素は、地位や身分を、それとなく指し示す役割を果たしている。高貴な家柄の重要な建築物のみが、素晴らしく彫刻された装飾を持っているのが各地域で普通なのである。

 水牛が生け贄としての役割を果たす事によって、天上と下界を橋渡しするのだと言う説もある。死者は、天上界(又は、死後の世界)へ水牛に乗って行くと信じられているのである。

 日本では、宮殿と共に伊勢神宮、出雲大社といった神社のみが交差状の角、要するに千木の装飾を許されている。日本の千木や鰹木のルーツは、タイの山間部に求められるという説がある。果たしてどうか。

 

 船のシンボリズム

 妻の端部は、船の船首、船尾を象徴することもある。東南アジアの各地に点々と分布するロングハウスの棟の端部には大規模で勇壮な棟飾りがかっては施されていた。また、鞍型屋根そのものが船を象徴しているという説がある。

 フロクラーヘは、1936年に書かれた「東南アジアと南太平洋の巨石文化における船」のなかで、先端のとがった曲線屋根(切妻転び破風屋根)が実はインドネシア諸島にこの文化をもち込んだ人びとが乗ってきた舟を象徴しているという。彼はこの屋根の様式を「船型屋根」と呼んだ。その理由として、彼は夥しい事例を引用している。すなわち、住居や村落を船にたとえたり、住居や村落の各部の名称に船の用語を使用する、たとえば、村長や他の高位の人びとを「船長」や「舵手」などの称号で呼ぶこと、あるいは、死者の魂が舟に乗って来世へ旅立つと信じたり、また死体を、船型の棺あるいは「舟」という名の石の甕棺や墓にいれて埋葬するといった、インドネシア社会にみられる多くの事例である。

 その後、「マスト」を意味すると主張されている言葉はもともと単に「柱」の意味にすぎないというように、必ずしも船に関わる言葉とは限らないといった指摘がなされる。また、船のシンボリズムを欠く地域も当然ある。船のモチーフが、東南アジア各地に点々と見られるのは事実である。

 

 カーラ・マカラ装飾

 ヒンドゥー教を基層文化とする東南アジアにあっては、様々な神々の形象化を見ることができる。また、ヒンドゥー教の神格の描写に欠かせないのが、神々に随行する鳥獣の乗り物(ヴァーハナ)である。シヴァ神を運ぶ牛ナンディ、ドゥルガー神を運ぶ獅子や虎、ラクシュミー神の象、ヴァーハナは神々を運ぶ乗り物であると同時にその神々の個性のある面を象徴する。

  ヒンドゥー教の神々は様々に化身し、千変万化するのであって、人間と鳥獣を結合する形で表現されることも多い。象の頭をしたガネシャ、鳥の頭をしたガルーダ、ヒンドゥー美術には、夥しい数の、動物の頭をもった人間像、人間の頭をもった動物像で満ちている。

 アンコール・ワット、アンコール・トム、あるいはボロブドゥールやプランバナンなどの仏教、ヒンドゥー遺跡には、ヒンドゥーの神々の象徴や仏像を見ることができる。ラーマーヤナやマハーバーラタの物語がレリーフの形で描かれるのである。東南アジアのヒンドゥー・仏教建築の編年で注目されるのが、カーラ・マカラ装飾である。カーラ・マカラ装飾は、怪獣が口を大きく開けた形をとり、出入口に用いられる。マカラは怪魚あるいは鰐の形をしており、よく排水口に用いられる。また、ナーガ(蛇、龍)、シンガ(獅子)、ガルーダ、キンナラ(人首鳥身)、アプサラス(踊り子)なども頻繁に現れる。

 寺院と違って住居ではそう顕著ではないけれど、バタック・トバの住居や倉の梁の端部はシンガの形に装飾されている。バリ島の住居の場合、随所にヒンドゥーのモチーフを見ることができる。チャンディ・ブンタール(割れ門)には、カーラ・マカラ装飾が用いられるし、棟木を支える部材にガルーダの彫刻が施されたりする。また、柱を柱頭、柱身、柱脚の三つに分けて装飾するのは一般的である。

  

  水の神 ナーガ

  中でも、ナーガの象徴としての装飾は、東南アジア一体で見ることができる。ナーガとは、サンスクリットで蛇のことだ。中国に渡って龍となる。水の神、水の象徴とされるのがナーガである。

 ナーガは、ヒンドゥー教の様々な神話や物語の中で極めて象徴的に扱われる。とぐろを巻いてヴィシュヌ神を護持する役割もそのひとつである。また、宇宙の創生神話の乳界撹拌にも登場する。ナーガを引いて乳界撹拌を行っている場面をものの見事に造形化したのが、アンコールの遺跡群に見られる橋の欄干である。また、コブラの形の形象は至る所に見ることができる。手摺や門、塀などに、くねくねとうねった形は収まりやすい。バリ島のウンプル・ウンプル、あるいはタイのトゥン・チャイ、しなる竹と布をつかった幡もナーガを象徴しているとされる。

 船の舳先にナーガはよく用いられる。水の神の象徴だから最も相応しい。船のシンボリズムとナーガは不可分である。また、屋根の破風、棟の端部にナーガが用いられることも多い。火避けの意味あいもある。また、端部の処理にナーガの曲線が造形化しやすいのである。

 

 ヤモリ

 バタック・カロの住居にはヤモリが描かれる。水牛が目立つのであるが、よくみるといろんなパターンが描かれている。屋根の破風面の煙出しが竹をカラフルに編んでつくられるが、その下部に板を縄で編むようにヤモリがパターン化されているのである。抽象化され、幾何学的だ。また、壁にも同じ紋様が見られる。もちろん、パターン化されるとは限らない。バタック・トバの倉に極めて具象的にヤモリが描かれているのを見たことがある。ヤモリは、まさに「家守」ということではないか。

 魚が描かれる場合もある。台湾の蘭嶼島のヤミ族の住居がそうだ。ニアスの住居にも魚を始め鰐や猿が彫刻されている。動植物のモチーフは各地に見られる。

 トーテミズムの世界では様々な動植物がトーテムとされる。住居や倉が様々な動植物で飾られるのである。



2021年7月3日土曜日

家畜小屋 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住

 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住,弘文堂,1997



 家畜小屋

 

 





 家畜とは、野生状態から、何らかの形で人間の管理下におかれた動物をいう。従って、家畜小屋のような装置は、家畜の発生と同時にさまざまな形で造られてきたといっていい。もっとも、放牧の形態のように小屋の形態をとるとは限らない。野生状態でいるものをその都度捕獲し馴致する例も少なくない。家畜の種類によって、管理の度合いも異なっている。イヌやネコの家畜化はかなり古いとされるが、生業のための家畜と比べると、交尾生殖の管理の度合いは低い。ニワトリやブタも野生の種と交配し、野生化する場合がある。

 東南アジアあるいはオセアニアの場合、家畜管理の度合いは低いとされる。従って、家畜小屋というのは数多く見られるわけではない。住居周辺で共生する形態、具体的に高床式住居の床下空間を家畜の空間とする例が一般的である。

 東南アジアの家畜・家禽の主要なものは、水牛、牛、馬、山羊、羊、豚、犬、鶏、家鴨である。タイの山間部では象が材木等の運搬の役畜とされている(トル●家畜とは、犬が狼から、牛がオーロックスから、豚が猪から、山羊が野生山羊から、羊が野生山羊から馴化されたように、野生動物から遺伝的に改良した動物を家畜といい、象は通常家畜には含められない)。農用動物としての家畜は乳、肉、卵、毛、皮革、毛皮、羽毛などの畜産物を生産する用畜と労働力として利用する役畜に分けられる。人々の生活にとっていずれも欠かすことのできないものであり、家畜・家禽と共に住むのが今でも東南アジアの農村部の基本的な生活スタイルである。

 地域によって、すなわち、農耕の形態によって、家畜の種類や役割は異なっている。大雑把に言えば、ジャワ・バリまでが米と水牛、牛の世界であり、ロンボク以東が芋と豚の世界である。また、水稲稲作圏と焼畑陸稲耕作圏、雑穀圏では同じ水牛でも役割が異なるのである。さらに、重要視される家畜の種類は宗教的な背景によっても異なる。豚を忌むイスラーム圏では供儀に用いられるのは山羊である。

 

 水牛

 東南アジアにおける家畜・家禽と言えばまず水牛である。稲作のための役畜として欠かせないもので、極めて重要で神聖視される。東南アジアの各地で、水牛の角や頭部の形態がは様々な形でシンボルとして用いられていることがその特別の位置を示していよう。

 アジアスイギュウは紀元前30002500年ころインド北部高原で家畜化されたといわれる。沼沢水牛と河川水牛の二つにグループに分かれ、東南アジアで飼われるのは沼沢水牛である。半水生の動物である。高温多湿の環境を好み、熱帯作業の水田作業に適している。

 水田耕作のためには一般には犂を引かせる。犂には様々な形態があるがインド犂と中国犂の2系列あって、インド犂の系列に連なるマレー犂のタイプは2頭で、中国犂の系列は1頭で引かせる。マレー犂は犂底が短く、犂身と犂底の角度は鋭角である。中国犂は犂底が長く、屈曲して前方に伸びる犂くびきが特徴的である。

 犂を用いず、水牛を水田に追い込んで蹄で田踏みさせる蹄耕を行う地域がマレー半島、スマトラ、ボルネオ、スラウェシ、チモール、ルソン島の低湿地である。この場合は、通常は半野生状態で放牧されており、個々の屋敷地に家畜小屋は必ずしも必要とされない。スラウェシのトラジャのように供儀のためのウエイトが極めて大きい地域もある。水牛の所有が社会的なステイタスの表現になり、地域の政治、経済にとって水牛は大きなウエイトをもつのである。

 

 床下の世界

 家畜は育成期間は放牧されることが多い。牛、馬、羊、山羊などは草食性であり、牧草地へ放牧して飼育するのが自然である。しかし、管理のためには畜舎、家畜小屋がつくられる。

 家畜小屋の形態は様々であるが、東南アジアで最も典型的なのは高床住居の床下の空間を家畜のための空間として利用するものであろう。例えば、バタック・トバの床下の基礎構造は、貫を使って丁度柵のようになっている。そこに入口を設けて豚や鶏を飼う。建築構造的には必ずしも多くの貫は必要ないから、家畜小屋として使うというのは当初からの概念といっていいだろう。水牛も床下に飼われる場合が多かった。トラジャの場合もそうである。床柱と床梁あるいは貫が組み合わされた基礎部分の構造が、床下に強固で便利な囲いを創り出し、動物が夜でも安全に過ごすことができるようにするのは実に合理的である。

 オランダ人は、床下の空間で水牛を飼うのをやめさせる。平和な状態になってそのような安全対策の必要はなくなったということもあるけれど、飼っている牛の上で暮らすことはヨーロッパの農民の知らない習慣であり耐えられなかったのである。

 東南アジアの高床式住居の屋根裏、高床、床下という三層の構造は、しばしば、三界観念と結びついている。すなわち、屋根裏を天上界、高床の生活レヴェルを地上界、床下を地下界とみなすのである。天上界には家宝や穀物が納められる。天上裏は稲の神が住む場所である。

 そして、床下の地下界は家畜の世界である。床上から残飯などが床下に捨てられ、それを家畜が餌にする、そういう形がかっては一般的に見られた家畜小屋の形態である。

 

 豚便所

 済州島の民家は、基本的には分棟型である。屋敷地の中に、母屋、釜屋などいくつかの建物が配置される。中でも面白いのが、家畜小屋である。家畜小屋といっても小屋が建てられることはほとんどない。済州島特有の火山岩を積んで囲いがつくられるだけである。興味深いのは、そこがトイレと兼用になっていることである。トイレ兼家畜小屋である。便座が置かれ、その上だけ小屋掛けされるものもある。

 尾篭ではあるが、人糞を家畜、特に豚が処理するパターンはかなり一般的である。先の高床の場合も、上の便所から床下に落とすのがかっては一般的であった。こうしたリサイクルは実に合理的なシステムだったのである。

 済州島の豚便所は豚と人間との共生の関係を示している。便座の脇には必ず棒が置いてある。女性の場合、舐めてくれるというのであるが、男性の場合、食いつかれないように追い払わねばならないからである。

 床下の家畜小屋の場合も高床の上から用が足され、下で豚が待ち受けていたのである。

 

 家畜との共生

 ムカデや蠍が自由に這いまわり、蟻は人の上を横切って道をつくるし、ゴキブリが飛びまわっても放っておかれる。現代人には耐えられないことである。鶏は家の中に巣をつくるし、豚は村中を自由にあさってまわる。家畜に自由が与えられているのはヨーロッパ人の目から見て我慢ならないことであった。ヨーロッパ人たちが推奨したのは家畜と人間を分離し、床下を解放することであった。しかし、東南アジア世界においては家畜とともに住むのは実に自然のことであった。

 床下の空間は、人間の糞便やあらゆる廃物の溜まり場であり、同時にイヌやブタや子どもたちの空間である。衛生観念が異なる、あるいは無い、と言えばそれまでであるが、全く異なった世界観にヨーロッパ人たちは向き合ったことになる。家畜の世界と人間の世界の分離こそ、実は、家畜小屋の成立に関わっているといえるかもしれない。家畜と共生する東南アジアの生活世界は、しかし一方、家畜小屋の成立によって維持され続けているともいえるかもしれない。

 

2021年7月2日金曜日

架構 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住

  京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住,弘文堂,1997



 架構

 

 


 家屋文鏡

 日本の古代住居の形態を知る上で大きな手がかりにされるのが家屋文鏡である。あるいは銅鐸に鋳出された家屋文様や家型埴輪である。家屋文鏡と呼ばれる直径23.5センチの鏡は、奈良盆地の西部、馬見と呼ばれる古墳群のなかの佐味田宝塚古墳から発見された完形26面の内のひとつである。四世紀から五世紀の初め、古墳時代初頭のものとされる。

 家屋文鏡には4つの異なった建物(家屋)が描かれている。鏡の上部から右回りにみると、入母屋屋根の伏屋形式の建物(A棟)、切妻屋根の高床建物(B棟)、入母屋屋根の高床建物(C棟)、入母屋屋根の平屋建物(D棟)である。その4つの建物類型が何を意味するのか、日本の住居(建築)の原型が描かれているのではないかという興味から、様々な解釈が試みられてきた。

 木村徳国は、記・紀、万葉集および古風土記の残存する五国の分をテキストとし、上代語における建築形式の呼び名を収集し、その記述から建築の形式を復原しようとするなかで、ムロ、クラ・ホクラ、ミヤ・ミアラカ、トノの四つの系列を、家屋文鏡の四つの家屋形象に当てはめて理解しようとする*2。例えば、ムロ類の建築(A棟)が、上代四文献の中で、それ自体でまとまりのある一小建築世界を構成しており、わが国古代農耕民の建築世界として「原ムロ的建築世界」を投影していること、また文献中へのムロの出現にウタゲが大きな契機として働いていることから、ニヒムロノウタゲの起源形態が古代農耕民の収穫祭であったと推定されること、また、クラ(B棟)については、上代四文献において古代へさかのぼるほどそれが観念の上で重要性を増していくこと、特に記・紀の説話では、クラはホクラとして神聖な刀剣を収蔵する宗教的な建築としてあらわれること、またそれから、神社発生・成立の歴史のうちに一つの系統として、はるかに時代をさかのぼるホクラ系神殿が定立されるのではないかということ、トノ類がヤ類と大きく混淆しながら、神道建築の最も重大な本殿・正殿において排除されていることから、新しく導入された外来の形式ではないかと推測されることなどである。また、池浩三は、沖縄、南西諸島に残る神アシャゲを、その祭祀の構造から稲積み系の祭祀施設としてとらえ返しながら、その原型的要素をわが国古代の新嘗・大嘗祭の中心的施設ムロに対比する。さらに家屋文鏡の4つの建築類型を大嘗祭施設の原型とみなす*3。農耕儀礼と原初的建築の発生をめぐってそれぞれに興味深い。

  家屋文鏡のA~D棟は、架構形式についてのみ問題にすれば、東南アジアでも一般的に見ることができる。A棟は原始入母屋造、一般的に竪穴式住居である。B棟は、それこそ東南アジアの典型的住居、転び破風屋根、船型屋根、鞍型屋根である。D棟を平屋とすれば東南アジアにはないが、A、C棟を含めた入母屋屋根は各地に見られるのである。

 

 原始入母屋造 

 東南アジアと日本の住居を考える上で興味深い学説がG.ドメーニグの構造発達論である*1。その説に従えば、実に多様に見える東南アジアの住居の架構形式のパターンを統一的に理解できるのである。否、のみならず、日本の古代建築の架構形式も含めて、その発生について興味深い議論を展開するのがG.ドメーニグである。

 G.ドメーニクは、まず東南アジアと古代日本の建築に共通な特性のひとつが「切妻屋根が、棟は軒より長く、破風が外側に転んでいること」(転び破風屋根)であるという。そして、この転び破風屋根は、切妻屋根から発達したのではなく、円錐形小屋から派生した地面に直接伏せ架けた原始的な入母屋造の屋根で覆われた住居(原始入母屋住居)とともに発生したとする。

 G.ドメーニグはまず原始入母屋住居そのものの構造形式の発達過程を復元考案するのであるが、原始入母屋住居については既にいくつかの復原案がある。一般的には円錐形の小屋組から変化して発生したと考えられてきた。煙出しの必要から切妻の棟が考えられ、何対かの棟叉首の上に棟木を渡す形が生まれたとされるのである。それに対して、G.ドメーニグは、基本となる棟叉首は二対のみで、当初から用いられていたとする。微妙な違いのようであるが、実際の建設過程を考えると極めて明快である。

 G.ドメーニグのいう発達過程の5段階は図に示される通りであるが、円錐形に梁を集めた形から、二つの交差した叉首を基本とする形への変化を考える。そして続いて四本柱の発生を考える。その段階は、以下のようである。

 1.交叉叉首組と垂木のみで構築された円錐型小屋から直接派生した原型。

 2.2本の桁状の木材を導入することにより、煙出し用の細長い切れ目が出現。

 3.煙出しの構造が変化して、桁梁構造が出現。

 4.桁梁が拡張されることにより、内部空間が広く明るくなる。構築過程中補助柱を必要とし、完成後除去される。

 5.補助柱は大規模な架構においては最終的に保持され、いくらか地中に埋め込まれ、上部は桁梁と結び合わされる。この段階において新しいい支持架構が出現し、構造力学的システムは根本的変化に遭遇することになる。交叉叉首組は特に風等に対する斜材として、さらに構築時の足場としての用をなしている。すなわち今、柱・桁梁架構が新しい支持機能として取ってかわるため、もはや交叉叉首組は完成した建物においては、支持構造としての機能はない。

  さらに興味深いことに、G.ドメーニグは、この第五段階から、高倉が誕生するという。原始入母屋造を北方系の円錐形屋根と別の系列の高倉系の切妻屋根との結合体とみる見方がある中で、切妻屋根の高倉もまた原始入母屋造りの内部から発達してきたとする構造発達論にはラディカルな一貫性がある。

 

 井篭組・・・校倉形式

 東南アジアの住居の構造形式は一般的に柱梁構造である。木材を縦横に直角に組み合わせて枠組みをつくるのが一般的である。しかし、木材を横に積み重ねる井篭組あるいは校倉形式の構造形式が東南アジアになくはない。一般的には、森林資源が豊富な寒冷地の構造形式と考えられるが熱帯地域にも存在するのである。著名な例としては、トロブリアンド島のヤムイモの貯蔵倉が校倉形式である。まさに校倉と呼ばれるように、機能的に穀物などを貯蔵する倉として用いられることが多いのも各地で共通である。ただ、その場合も校倉形式は北方の伝統であると理解されている。正倉院など日本の校倉形式も北方系の伝統であると考えられのである。

 ところが、例えば、バタック・シマルングンの住居の基礎は井篭組である。同じ地域に柱梁組と井篭組の二つの形式が並存するのである。驚くことに柱梁組と井篭組を併用した建物がある。基礎の構造に限定されることが多いのであるが、サダン・トラジャでも井篭組の基礎をもつものがある。同じ地域で二つの架構形式が並存する例もブギスもそうだ。井篭組の伝統が東南アジアに及んだことは疑いないところである。

 井篭組の構造形式、すなわち校倉形式が同一の起源をもつかどうかは明らかではない。しかし、井篭組について各地域で形式としての可能性が技術的にも検討されることによって取捨選択が行われ、結果として、G.ドメーニグのいう原始入母屋系として理解できる柱梁構造が支配的となったと考えていいだろう。

 

 

 註1 G.ドメーニグ「構造発達論よりみた転び破風屋根ーーー入母屋造の伏屋と高倉を中心に--」(杉本尚次編 『日本の住まいの源流』 文化出版局 一九八四年)

  註2 木村徳国、『古代建築のイメージ』、NHKブックス、1979年2月、『上代語にもとづく日本建築史の研究』、中央公論美術出版、1988年2月

  註3 池浩三、『祭儀の空間』、相模書房、1979年、『祭儀の空間』、相模書房、1983年


2021年7月1日木曜日

建築材料 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住

 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住,弘文堂,1997



建築材料

 





 東南アジアは森林資源の宝庫である。東南アジアの木造文化を支えるのもこの豊かな森林資源である。そして、この豊かな森林資源と日本は無縁ではない。寛文元年(1661年)に隠元禅師によって創建された京都宇治の黄檗山萬福寺の本堂(大雄宝殿)の柱は全てチークだという。尺五寸(45cm)、長さ12mにも及ぶ角柱40本以上もどうやって運んできたのかは不明であるが、南洋材は中国を通じて古くから知られていたことは確からしい。さらに、今日、日本の木材製品の多くが東南アジアに依存し、熱帯雨林の破壊を引き起こすまでになっていることはよく知られていよう。

 

 チーク

 チークは、インドネシア、マレーシアでジャティ、ミャンマーでキュン、タイでマイ・サック、中国では柚木(ユーム)と呼ばれる。強度が大きく、耐久性に優れていることから、建築用材としては構造材として用いられてきた。また、造船用の材料であった。今日では専ら高級家具・内装・彫刻材として用いられている。

 チークは、インド、ミャンマー、タイ、ラオスなど、東南アジアの大陸部で産する。湿潤熱帯より、モンスーン熱帯、すなわち、乾期を明瞭に持つ、標高の高い地域に分布する。同じく高級家具材としてよく知られる、紫檀、黒檀、カリンなども、チークと同じ地域の樹木である。ただ、アマゾン産のマホガニーは湿潤熱帯で見られる。

 島嶼部にチークがないわけではない。ジャワ、バリ、ロンボクなどで構造材とされるのは、まずナンカ(ジャック・フルーツ)であり、ジャティである。ジャワにも、特に中部ジャワ、東部ジャワには広大なチーク林がある。しかし、ジャワにもともとチークが自生したかどうかは論議があるようだ。シャイレンドラ王国やヒンドゥー・マタラム王国の時代に大陸部からチークがもたらされたという説がある。また、オランダ統治時代にも、天然更新ではなく政策的にチークの植裁が続けられてきた。スラウェシ、あるいはスンバワにもチーク材が豊富である。ジャワから移植されたとも言われるが、いずれにせよ、乾期をもつモンスーン地帯ではチークが建材として用いられてきた。チークが豊富な地域では、家屋のみならず、家畜小屋などの構造材として用いられ、さらに、鍬や斧の柄や柄杓、炭などもチークでつくられていたのである。

 

 ラワン・・・フタバガキ科樹木

 東南アジアの湿潤熱帯を代表するのがフタバガキ科の樹木である。フタバガキ科の樹木は全部で五七〇種もあり、その大半はインドからニューギニアまでの、主として東南アジアの島嶼部に分布している。マレー半島だけで168種、ボルネオだけで260種以上あるという。釈迦がその樹木の下で入滅したというサラソウジュはフタバガキ科であるが、日本でいう沙羅双樹(ツバキ科)とは全く違う。フタバガキ科樹木で日本で一般的なのはラワンである。ベニヤ・合板(プライウッド)の素材としてよく知られていよう。フタバガキ科のうちフィリピンで合板に使われたものがラワンと呼ばれ、戦後日本でその名が一般化したのである。

 フィリピンではラワンを含んだフタバガキ科の森林は伐りつくされ、サラワク、サバ、カリマンタンの熱帯雨林が合板用のフタバガキ科樹木(メランティ)の供給源となる。合板利用は戦後のことであるが、日本におけるコンクート型枠用の合板(コンパネ)などの大量消費によって、熱帯雨林は深刻な打撃をうけることになったのであった。

 

 マツ

 マツ類は一般に北半球の高緯度地域を分布域とするのであるが、東南アジアでも見られる。ケシアマツ(二葉)とメルクシマツ(三葉)の二種のみで、前者はミャンマー、タイ、ベトナムなど大陸部とフィリピンに分布しマレー半島以南には見られない。一方、後者はスマトラの赤道南にまで分布する。いずれも山間部の標高の高いところに分布する。

 ケシアマツは、ルソン島山間部のベンゲット州に多いのでベンゲット・パインと呼ばれるのであるが、ボントック族など諸民族の住居の構造材はケシアマツでつくられる。北スマトラのバタック諸族、西スマトラのミナンカバウの住居はメルクシマツによる。南スラウェシのタナ・トラジャ地域にもメルクシマツの林が見られ、建材として用いられるが、スマトラから導入されたもので本来マツ類は自生しないのだという。基本的に構造形式を同じくするバタックとトラジャの住居の関係を考えるひとつの手がかりがあるかもしれない。メルクシマツの林がマツは柱梁材のみならず板材としてもすぐれている。東南アジアを代表し特徴づける木造建築を支えるのがマツ類であることは興味深いことである。

 

 アラン・アラン

 屋根材として一般的に用いられるのがアラン・アランである。

 東南アジアを中心に広く分布することから、インドネシア語のアラン・アランが一般的に用いられるが、イネ科のチガヤのことで、英名コゴングラス、他にララン、クナイという呼び名がある。

 東南アジア各地に広大なアラン・アランの草地があるが、アラン・アランが卓越すると他の樹木や草木が進入できなくなり、耕地への転換もしにくいという。屋根葺き材として使われるのが救いとなる嫌われものである。心棒に竹を使い二つに折って編んだ部品とし、樽木の上にその部品を積み重ねる形で使う。

 木材の豊富なところでは、木の板が屋根材として用いられる。柿葺き、ウッドシングルである。スマトラ、ボルネオ、フィリピンの低地熱帯雨林で見られるボルネオテツボクの柿葺きはよく知られている。

 

 ヤシ

 屋根材としては、他に様々な樹木の葉が用いられるが、アラン・アランと並んで用いられるのがヤシの繊維である。湿潤熱帯に分布するココヤシ、サトウヤシ、アブラヤシ、サゴヤシ、モンスーン熱帯に分布するタラバシ、バルメラヤシなどヤシの種類は何十種類に及ぶが、屋根葺き材に用いられるのはサトウヤシの繊維である。

 サトウヤシの幹にはシュロに似た黒い繊維がついており、インドネシア、マレーシアではイジュクという。その繊維をやはりピースにして使われるが、年毎に部分的に葺き替えられる。耐用年数は数十年である。バリなどではイジュクは社寺や祠の屋根などに特別に用いられ、アラン・アランと使い分けられている。

 ヤシは、それこそヤシ文化と言っていいほど東南アジアの生活に密着し、食料としてはもとより、ヤシ酒や燃料など多様に使われる。ヤシの木は堅くて加工がしにくく、構造材には適しないが、地域産材利用の観点から構造材としての利用も試みられている。

 

 竹

 屋根材として竹が用いられるケースもある。竹を半割にし、上下を重ねて瓦のように葺くのである。あまり雨仕舞が気にならない、また竹の豊富な熱帯ならではの屋根材料である。サダン・トラジャの鞍型屋根は竹を何重かに葺いたものである。

 竹はもちろん屋根材だけではない。全て竹で造られる住居が各地にあるようにどんな部位でも竹で造られる。建材としてポピュラーなのは壁に使われる竹を編んでつくるバンブーマットであろうか。また、天井材にも床材にも、開口部にも使われる。建設現場の足場は今でも竹が用いられることが多い。筏に組んで水上住居の床になることもある。船だって竹でつくられる。樋も竹だ。

 生活のあらゆる場面に竹は使われる。各種のざる、かご、皿、水筒、箒、煙草のパイプ、笛や笙、竹琴などの楽器、獅子脅しや玩具、竹は東南アジアの日常生活と深く関わっており、A.ウオーレスをして「竹は自然が東洋熱帯の住民に与えた最大の贈り物だ」と言わしめた通りである。東南アジアの文化は竹の文化である。

 

 石、煉瓦、ラテライト

 竹、木材が東南アジアの建材のほとんどを占めるのであるが、石や土などもまた用いられる。ボロブドゥールやプランバナンのようなヒンドゥー・仏教建築は石造もしくは組石造である。少し変わった素材としては大陸部のラテライトがある。熱帯風化を受けて、雨水により化学変化を起こして固まった土で、アンコール・ワットやアンコールワットの遺跡群で巧みに利用されている。日干し煉瓦は、バリのように住居でも木造と併用されている。

  瓦は今日では一般的に使われるが、中国の影響による。また、西洋列強がもたらしたと考えていい。地域毎に素焼きで造られている。インドネシアのジャカルタなど大都市の屋根は赤瓦一色で緑に映えて美しい。焼きの温度が足りないためにところどころ黒ずんでいる。