朝倉書店 建築学大百科
355 スラムとは何か
スラムSlumとは、「貧民窟」、「貧民街」、あるいは「細民街」のことである。といっても、この訳語そのものが今日では死語に近いからピンと来ないかもしれない。一般的には「不良住宅地」という。要するに、低所得(貧困)層が居住する、狭小で粗末な住居が建並ぶ物理的にも貧しい街区、住宅地がスラムである。
貧しい人々が住む居住地は古来様々に存在してきたけれど、スラムは、近代都市がその内に抱え込んだ「不良住宅地」を指していう。すなわち、産業革命によって、農村を離脱して都市へ流入してきた大量の賃労働者たちが狭小で劣悪な住宅環境に集中して住んだのがスラムである。
スラムという言葉は、スランバーSlumberに由来し、1820年代からその用例が見られる。スランバーとは耳慣れないが、動詞として、(すやすや)眠る、うとうとする、まどろむ、(火山などが)活動を休止する、あるいは、眠って(時間・生涯などを)過ごす、無為に過ごす(away, out, through)、眠って〈心配事などを〉忘れる(away)、名詞となると、眠り、《特に》うたたね、まどろみ、昏睡、[無気力]状態、沈滞という意味である。
スラムの出現は、産業革命による都市化の象徴である。産業化に伴う都市化は、大規模な社会変動を引き起こし、都市と農村の分裂を決定的なものとした。その危機の象徴がスラムである。
いち早く産業革命が進行したイギリスは、マンチェスター、バーミンガム、リヴァプールといった工業都市を産むが、大英帝国の首都ロンドンの人口増加もまた急激であった。1800年に96万人とされるロンドンの人口は、1841年に195万人となり、1887年には420万人に膨れあがる。産業化以前の都市の規模は、基本的には、移動手段を牛馬、駱駝に依拠する規模に限定されていた。火器(大砲)の出現によって築城術は大きく変化するが、新たな築城術に基づくルネサンスの理想都市計画をモデルとして世界中に建設された西欧列強による植民都市にしても、城郭の二重構造を基本とする都市の原型を維持している。産業化による、都市の大規模化、大都市(メトロポリス)の出現は、比較にならない大転換となり、人々の生活様式、居住形態を一変させることになった。
大量の流入人口を受容れる土地は限られており、限られた土地に大量の人口が居住することによって、狭小劣悪で過密な居住環境が生み出されるのは必然であった。全ての流入人口が賃労働者として吸収されないとすれば、失業者や特殊な職業につくものが限られた地区に集中するのも自然である。スランバーは、仕事のない人々が多数無為に過ごす様を言い表わしたのである。
日本の場合、1880年代から1890年代にかけて「貧民窟」=スラムが社会問題となる。有名なのが東京の三大「貧民窟」、下谷万年町、四谷鮫ヶ淵、芝新網町であり、大阪の名護町である。『貧天地飢寒窟探検記』(桜田文吾、1885年)、『最暗黒の東京』(松原岩五郎、1888年)、『日本の下層社会』(横山源之助、1899年)など「貧民窟」を対象とするルポルタージュが数多く書かれている。
スラム問題にどう対処するかは、近代都市計画の起源である。イギリスでは、1848年、公衆衛生法Public
Health Act、1851年、労働者階級宿舎法Labouring Class Lodging Houses
Act(Shaftesbury's Act)、1866年衛生法Sanitary Actが相次いで制定され、1894年にはロンドン建築法によって、道路の幅員、壁面線、建物周囲の空地、建物の高さの規制が行われる。日本では、市区改正などいくつかの対策が1919年の市街地建築物法、都市計画法の制定に結びついている。
スラムは、しばしば、家族解体、非行、精神疾患、浮浪者、犯罪、マフィア、売春、麻薬、・・・など、様々な社会病理[1]の温床とされるが、それは必ずしも普遍的ではない。場合によって生存のためにぎりぎりである居住条件に対処するために、むしろ、強固な相互扶助組織、共同体が形成されるのが一般的である。同じ村落の出身者毎の、また、民族毎の共住がなされ、それぞれに独特の生活慣習、文化が維持される。スラムに共通する、「貧困の文化」(O.ルイス)、「貧困の共有」(C.ギアツ)といった概念も提出されてきた。
20世紀に入って、都市化の波は、全世界に及ぶ。蒸気船による世界航路の成立、蒸気機関車による鉄道の普及は、都市のあり方に決定的な影響を及ぼす。そして、モータリゼーションの普及が都市化を加速することになった。しかし、発展途上地域の都市化は先進諸国と同じではない。先進諸国では工業化と都市化の進展には一定の比例関係があるのに対して、発展途上地域では、「過大都市化over urbanization」、「工業化なき都市化urbanization
without industrialization」と呼ばれる、工業化の度合いをはるかに超えた都市化が見られるのである。ある国、ある地域で断突の規模をもつ巨大都市は、プライメート・シティ(首座都市、単一支配型都市)と呼ばれる。
スラムの様相も、先進諸国のそれとは異なる。第一に、先進諸国のスラムが都市の一定の地域に限定されるのに対して、発展途上国の大都市ではほぼ都市の全域を覆うのである。第二に、スラムが農村的特性を維持し、直接農村とのつながりを持ち続ける点もその特徴である。インドネシアのカンポンkampungがその典型である。
カンポンというのはムラという意味である。都市の住宅地でもムラと呼ばれる、そのあり方は、発展途上国の大都市に共通で、アーバン・ヴィレッジ(都市集落)という用語が一般に用いられる。その特性は以下のようである。
多様性:異質なものの共生原理:複合社会plural societyは、発展途上国の大都市の「都市村落」共通の特性とされるが、カンポンにも様々な階層、様々な民族が混住する。多様性を許容するルール、棲み分けの原理がある。また、カンポンそのものも、その立地、歴史などによって極めて多様である。
完結性:職住近接の原理:カンポンの生活は基本的に一定の範囲で完結しうる。カンポンの中で家内工業によって様々なものが生産され、近隣で消費される。
自律性:高度サーヴィス・システム:カンポンには、ひっきりなしに屋台や物売りが訪れる。少なくとも日常用品についてはほとんど全て居ながらにして手にすることが出来る。高度なサーヴィス・システムがカンポンの生活を支えている。
共有性:分ち合いの原理:高度なサーヴィス・システムを支えるのは余剰人口であり、限られた仕事を細分化することによって分かち合う原理がそこにある。
共同性:相互扶助の原理:カンポン社会の基本単位となるのは隣組(RT:ルクン・タタンガ)-町内会(RW:ルクン・ワルガ)である。また、ゴトン・ロヨンと呼ばれる相互扶助活動がその基本となっている。さらに、アリサンと呼ばれる民間金融の仕組み(頼母子講、無尽)が行われる。
物理的には決して豊かとは言えないけれど、朝から晩まで人々が溢れ、活気に満ちているのがカンポンである。そして、その活気を支えているのがこうした原理である。このカンポンという言葉は、英語のコンパウンド(囲い地)の語源だという(OED)。かつてマラッカやバタヴィアを訪れたヨーロッパ人が、囲われた居住地を意味する言葉として使い出し、インド、そしてアフリカに広まったとされる。
「スラム街」という語を和英辞典で引くと興味深い。バリアーダbarriada(中南米、フィリピン)、バスティbustee, busti, basti(インド)、、ファヴェーラfavela(ブラジル)、ポブラシオンpoblacion(チリ)などと、国、地域によって呼び名が異なるのである。ネガティブな意味合いで使われてきたスラムという言葉ではなく、それぞれの地域に固有の居住地の概念として固有の言葉が用いられるようになりつつある。
問題は、究極的に、土地、住宅への権利関係、居住権の問題に帰着する。スクオッターsquatter(不法占拠者)・スラムという言葉が用いられるが、クリティカルなのは、貧困のみならず、戦争、内戦などによって生み出される難民、スクオッター、ホームレスの問題である。差異を原動力とし、差別、格差を再生産し続ける資本主義的な生産消費のメカニズムがスラムを生み出す原理である。すなわち、物理的なスラム・クリアランスが究極的な意味でのスラムの解消に繋がるわけではないのは明らかである。その存在は、各国、各地域の政治的、経済的、社会的諸問題の集約的表現である。
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