一瞬の建築/建築/環境/視線,特集 環境と視覚,『季刊デザイン』no.7,太田出版,200405
一瞬の建築:建築・環境・視線
布野修司
「建築architecture」という言葉の語源は、知られるように、ギリシア語のアルキテクトンである。アルケー(arche 根源)のテクトン(techton 技術)がアーキテクチャーである。カエサルに捧げられたウィトルウィウスの『建築十書』[1]は、確かに、「建築家」はありとあらゆる技術、学問に通じている必要があると言い、それらを列挙している。また、「建築」をつくり挙げるための諸原理と方法をこと細かく示している。「建築」には、俗に、「用」「美」「強」の全てが関わる[2]。
ギリシア語のテクネーtechnē(技術)の訳語がアルス ars(ラテン語)であり、それがそのままアート,アール art(英語、フランス語)、アルテ
arte(イタリア語、スペイン語)となり、クンスト
Kunst(ドイツ語)、そして日本語の「芸術」となる。クンストは技術的能力にかかわる動詞 können(できる)に発しているから、語の起源を保持していると言えるだろう。
ところが、「美術」(ボーザール beaux‐arts(フランス語)、ファイン・アーツ fine arts(英語)、ベレ・アルティ belle arti(イタリア語)、シェーネ・キュンステ schöne Künste(ドイツ語))という概念の成立、すなわち、美学なるものの成立とともに、「技術」と「芸術」が分離すると同時に、「建築」もまた分裂することになる。
柳宋玄は、「美術」「芸術」という概念の成立について次のように書いている。「つまりこの概念は17世紀に発生し18世紀に一般化したものであり、当時の古典美礼賛の風潮(新古典主義)と結びついている。この時代には,感覚的価値としての美の定義が試みられ、自然美と芸術美が峻別されて両者のうち後者が人間精神の所産として優位にあるものとしてたたえられ(G. W. F. ヘーゲル) 、美の表現以外のものを目的としない純粋な芸術いわゆる〈芸術のための芸術 l’art pourl’art〉 (V. クーザンが命名) こそ真の芸術であるとされた。ここでいう芸術という概念も実はこのころ発生したのであり、・・・美の表現をもっぱらの目的とする者、すなわち artist(美術家)とそうでない者、artisan(職人)との両者が区別され、前者を後者の上位に置いてこれをたたえたのである。しかし、美術が美の表現だけを目的とするものであるなら、建築や工芸など実用目的を第1にするものは厳密にいえばこれを除外しなければならないことになる。英語でいう art
and craft(美術と工芸)は、工芸がその実用性ゆえに美術とは別のものであることを示すものである。建築においてはとくに機能性がきわめて重要であり,機能性をすべてとする見方さえ出てきており、これを美術に含めるべきかどうかは問題となろう。」[3]
建築における「視覚の優位」は、言うまでもなくこの分裂に関わっている。
ファサーディズムの極相―――ぺらぺらのポストモダニズム建築
もう遙か昔のことのように思えるけれど、近代建築批判を煽動することになったC.ジェンクスの『ポストモダニズムの建築』[4](1977年)の表紙(日本版)を飾ったのは、日本の建築家竹山実設計の「新宿二番館」であった。建物の表層を縞模様に塗り立てたその雑居ビルは、スーパーグラフィックの先駆けとして注目を集めた。
しかし、その衝撃はそう長くは続かなかった。建築の外壁を飾り立てるだけで建築のポストモダンが切り開かれるというほど甘くはない。「建築家」にとって「建築のポストモダン」、すなわち、近代建築批判の課題は依然として問われ続けているけれど、その解答は未だに見いだせていないのである。わかりやすく言えば、鉄とガラスとコンクリートの四角い箱形の近代建築にはもううんざりだ、とばかりに、画割のように表皮を歴史的様式で覆い、細部に装飾を復活させたのがポストモダニズム建築であった。振り返れば、時代のお先棒を担ぎたがる「建築家」たちが、1960年代にバラ色の未来都市の幻想を振りまいたのと全く同じように、またしてもピエロを演じたに過ぎない。さらに口を滑らせれば、「環境問題」(「サステナブル・デザイン」「エコ・アーキテクチャー」・・・)を唱えながら、ただ「建築」を緑で覆う(屋上緑化、壁面緑化)昨今の趨勢もその延長である。
C.ジェンクスは、ウインナー・ソーセージの形をしたハンバーガーショップや靴の形をした住宅などをポストモダニズム建築の例として面白おかしく取りあげた。ポップ・アートとしての建築、あるいは商業建築の正当な評価という視点がその近代建築批判のわかりやすさの背景にある。C.ジェンクスが強調したのは、端的に言えば、建築のメッセージ性、記号としてのコミュニケーション機能である。理論的にC.ジェンクス曰く、ポストモダニズムの建築とは、大衆のコードと建築エリートのコードの二重のコードをもつ建築である。もちろん、ラスベガスのストリート・ストリップ[5]やフィラデルフィアの建売住宅のデザインをものの見事に分析し、建築の記号性についていち早く着目し、建築理論として深化させたのはR.ヴェンチューリである[6]。そして、手法、引用、コラージュ、折衷といった操作概念によって、近代建築批判を先鋭に戦略化したのが、例えば磯崎新であった。
しかし、世界中を席巻したのは、皮相なファサーディズムである。すなわち、「ポストモダン・ヒストリシズム」と呼ばれる皮膜だけの様式建築であった。
ファサーディズム、すなわち、建築の正面(立面)をことさら意識し、豊かに飾り立てることは珍しいことではない。大通りの軸線上に威風堂々の記念建造物を配することは、むしろ、バロック都市が得意とする手法であった。近代において、例えば、曲面を殊更に用いたアムステルダム・スクールの手法はファサーディズムと呼ばれたが、その表現は煉瓦という素材と密接不可分であった。
しかし、表皮と構造を分離し、ぺらぺらの表皮における記号表現を最大化したのがポストモダンのファサーディズムであった。
キッチュの海
近代建築の規範から解き放たれた「建築家」たちは、すぐさま、「ポストモダニズム建築」「もどき」の「建築物」群に包囲されることになった。「もどき」というのは当たらないだろう。「ポストモダニズム建築」がそもそも「もどき」を方法としていたからである。
古今東西、世界中の建築の様式、装飾、言語、部分(ディテール)を集め、貯蔵する宝庫から自由自在に要素を取り出して建築を組み立てる手法は、引用、折衷、・・・といった操作概念によって理論化されようとしたけれど、結果的に跋扈することになったのは「もどき」である。「もどき」の方が潜在的な力を秘めていたといってもいい。
「もどき」をキッチュkitschという[7]。キッチュというドイツ語は、もともと「かき集める、寄せ集める」という意味で[8]、キッチュから派生したフェアキッチュンverkitchenという語は、「ひそかに不良品や贋物をつかませる」、「だまして違った物を売りつける」という意味である。19世紀後半の南ドイツにおいて、まがいもの、不良品、贋物、模造品、粗悪品、といった意味合いで使われていたキッチュという言葉が、次第に広範に使われ始め、より一般的な概念となっていった。何か貴重なもの、本当のもの、美しいもの、すなわち芸術と呼ばれるもの(の代替物)を身近に所有する欲望、それで日常の空間を飾り立てる欲求がキッチュである。装飾、すなわち、機能性を超えたある種の過剰はまさにキッチュの現れるところである。エキゾティシズム、折衷主義(エレクティシズム)、あるいはリヴァイヴァリズムと呼ばれる運動や精神には、深く、キッチュの精神が関わっている。
すなわち、キッチュは芸術の大衆化、俗化の現象である。日常生活への芸術の取り込みである。それ故、キッチュの発生は、市民社会の成立、そして市民(ブルジョワジー)の美学と密接に結びついている。ドイツにおけるビーダーマイヤー様式がその象徴である。
建築のポストモダンは、キッチュ(ネオ・キッチュ)の海を生み出した。というより、アンチ・キッチュとして成立したのが新即物主義(ノイエ・ザッハリッヒカイト)であり、機能主義(ファンクショナリズム)であったとすれば、キッチュがそれを飲み込んだのである。ただ、その過程にはあるプロセスが必要であった。ビーダーマイヤー様式の発生は、住空間におけるインテリアの発生を意味するが、大衆社会、大量消費社会の出現とともに、室内に閉じていたキッチュの精神は、群衆の成立とともに外部化していく。すなわち、都市における百貨店やスーパーマーケットの成立とキッチュは大いに関係がある。群衆が集う場所、駅や商店街がキッチュの温床となるのである。そこでは大衆の欲望に根ざした流行とコマーシャリズムが支配する。W.ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』[9]を書いたのは1936年である。
商店のファサードを広告とする「看板建築」や屋根の形だけで社寺や城郭、豪邸を表現しようとする「帝冠(併合)様式がプリミティブな例である[10]。そして、建築そのものがキッチュと化す状況が、ポストモダニズム建築の出現において初めて現出したのである。
「もどき」の世界においては、ひたすら、差異を競うことだけが求められる。とにかく屋根だけ勾配屋根とすべきだ、という景観条例も、高邁な建築論で武装した建築作品もそこでは等価である。磯崎新は、振り返って、「あの頃はまだ理論化もできずに「手法論」なんて言っていましたが、これをテクノニヒリズムと呼ぶことにしました」という[11]。今や、時代は、「建築」のイメージは全てコンピューターによって自動生成される、そんな段階へ行き着いてしまっている。
イリュージョニズム
建築がこうして、表皮へと還元され、視覚的な記号や図像による伝達手段と化す遙か以前に、建築における視覚中心主義は成立していたと考えていい。美学なるものの成立がそれに関わるが、さらに視線の問題として遠近法的空間の成立がある。様々な近代的施設=制度(インスティチューション)の成立と近代的視線の成立は密接に関わる。例えば、監獄のモデルとしての一望監視装置、パノプティコンの考案は、「公共」建築が監視装置であることを示している。学校、病院なども同様であるが劇場がわかりやすいだろう。
劇場やホールの設計では可視線という概念が用いられる。可視線とは文字通り客席から舞台が見えるかどうかを示す視線のことである。後ろの席になればなるほど観客が邪魔になって見えないから、客席を順に高くする必要がある。その高さを決めるために、断面図上に引かれるのが可視線である。もちろん、近代以前に可視線などという概念はない。見えない席どころか聾桟敷も当たり前であった。
劇場に、視線が持ち込まれたのは、プロセニアムとカーテンによって客席と舞台が二分化される「イタリア式額縁舞台」の成立においてである。ジャン・デュビニュー[12]によると、この「イタリア式の閉ざされた箱」(考案者の名を冠して「サバッチニの箱」)は、16世紀から17世紀にかけて現れるや、先行する2つの演劇体系の概念、聖職者たちの間に残存していたギリシア=ラテン的概念と中世のミステール(神秘劇)の概念を一挙に覆し、すなわち、スペインの劇形式とエリザベス朝の劇形式を消失させてしまう。
サバッチニたち「建築家」、機械装置の考案者たちが劇場に持ち込んだのは、既に絵画を支配していた遠近法の原理である。すなまち、演劇の場面を舞台面を基底とし一人一人の観客の目を頂点とする視覚的ピラミッドとみなしたのである。こうして、劇場空間での体験は、個々人の視覚のイリュージョンに依存することになる。イリュージョンが個人に委ねられる以上、個人は集団から分離される。そして、集団の中にありながら「覗き見」を楽しむことになるのである。
パラディオの傑作テアトロ・オリンピコ(ヴィチェンツア)は、実に奇妙な劇場である。舞台は、まるで都市がそのまま劇場であった時代を再現している。すなわち、コメディア・デラルテなど大道芸人が活躍し、カーニバルが繰り広げられた都市を立体的に再現している。しかし、俳優が舞台の屋へ遠ざかっていくと、次第に大きくなってしまう。街の建物のセットが遠近法の線に従って低くつくられているからである。
演劇はこうしてイリュージョニズムの支配する「閉ざされた箱」に詰め込まれ、世界中何処でも同一の規範で上演されることになったのである。
「建築写真」のトリック
ポストモダニズムの建築以後、キッチュの海から如何に離脱し、「アートとしての建築」を表現するかが「建築家」の課題となる。そこには、奇妙な「世界」が仮構され、維持され続けている。
「建築家」の「作品」集あるいは「建築専門誌」の「建築写真」には基本的に人が「居」ない。すなわち、人が写っていることがほとんどない。異様な「世界」と言っていい。
その「世界」において、写真家は、極力、人、そして人の気配を消すことを求められる。当然設置さるべき家具やカーテンなども、「建築家」がイメージし、想定したものでないと画面から外される。何度か撮影に立ち会ったことがあるけれど、写真家はファインダーを覗くよりも、家具を動かすのが大仕事である。
「建築家」はまた「建築写真」に電信柱や電線、隣接する建造物など「余計なもの」が写るのを極度に嫌う。写真家は、場合によると、撮った後で、画面から「余計なもの」を消す修整作業を強いられることがある。自らの作品を自立した一個のオブジェと見なすのが「建築家」の常だ。見えているものを見ない、不思議な世界である。
「建築写真」を見ると、「建築家」は、「建築物」あるいは「空間」にしか興味がない、といわれてもしかたがない。また、「作品」としての「建築」にしか興味がない、と言われてもしようがない。著名な建築作品を見て回るツアーなどに参加すると面白い。「建築家」たちが、人が画面に入らないアングルを求めて右往左往する様は滑稽である。「建築家」は、建築写真を撮る場合には、人通りが途切れるのを待つのが習い性になってしまっている。建築の細部についての情報が欠如するのが嫌だからというのが言い訳であるが、問題の根はもう少し深い。
「建築家」が興味あるのは、竣工した一瞬の「建築物」/「空間」のの姿である。ほとんど全ての「建築写真」は「竣工写真」であって、一瞬の記録でしかない。建築写真家は、「建築物」/「空間」を際だたせる一瞬を選ぶ役割を担う共犯者である。そして、写真が切り取るのは、あくまで「建築物」/「空間」の部分である。「建築写真」を見て勝手にイメージを膨らませると、実際体験する「建築物」/「空間」との落差に愕然とすることがままある。極端な場合、「建築家」は、部分の一瞬の光景の出現(写真)のみのために設計することもありうる。騙されるのは修行が足りない、ということになる。
建築が一瞬の「竣工写真」と化したのはそう古いことではない。
「空間」の「部分」の一瞬を「写真」として切り取って「作品」化する「建築家」の手法は、冒頭に端的に指摘したように「美術としての建築」が分離成立して以来のものである。「建築」は「視覚芸術」である、という。実際、一般に建築史は美術史の一科として叙述される。しかし、建築は、古今東西いわゆる「美術」を超えた何ものかである。建築にとって視覚は極めて重要である。例えば、日本には椅子座と床座の生活が混在し続けているのであるが、下手な設計だと、すなわち生活面の設定がおかしくて目線が合わないと混乱する。しかし、例えば、目の不自由な人を想定して見ればわかるように、「建築写真」の「世界」が極めて倒錯している、ことは明らかである。
建築空間は、端的に、物理的な構築物であり、「実用性」を持ち、人によって住まわれ、生きられるものだからである。「建築物」/「空間」は、全身、全感覚によって体験されるものだからである。
[1] 『ウィトルーウィウス建築書』、森田慶一訳注、東海大学出版会、1969年、1979年。
[2] ウィトルウィウスに依れば、「建築」は、オルディナティオordinatio(量的秩序:尺度モドゥルスに基づいて全体を整序すること)、ディスポシティオdispositio(質的秩序:配置関係を統一的に収めること)、エウリュトミアeurythmia(美的構成)、シュムメトリアsymmetria(比例関係)、デコルdécor(定則:慣習、自然、様式)、ディスプリブティオdistributio(配分:材料、工費)の6つの原理、概念からなる。
[3] 「美術」の項、『世界大百科事典』、平凡社。
[4] C.ジェンクス、『ポストモダニズムの建築言語』、竹山実訳、新建築社、1978年
[5] R.ヴェンチューリ、『ラスベガス』、石井和紘訳、SD選書、鹿島出版会、1978年
[6] R.ヴェンチューリ、『建築の複合性と対立性』、石井和紘訳、SD選書、鹿島出版会、1982年
[7] A.A.モル、『キッチュの心理学』、法政大学出版会、1986年
[8] 1860年頃のミュンヘンで広く使われ始めた。さらに狭い意味では、「古い家具を寄せ集めて新しい家具を作る」という意味に使われた。
[9] W.ベンヤミン、『複製技術時代の芸術』、佐々木基一編集、晶文社、1970年
[10] 日本の近代建築の草創期において、それらは「虚偽構造(シャム・コンストラクション)」といって軽蔑された。
[11] 磯崎新・福田和也、「ヴェネツィア・ビエンナーレ「亀裂」と村上春樹」、『空間の行間』、筑摩書房、2004年
[12] ジャン・デュビニュー、「閉ざされた箱」、『スペクタクルと社会』、渡辺淳訳、法政大学出版会、1973年
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