西山夘三が目指したもの
~20世紀における計画学研究と社会の相克のなかで~
2008年1月15日
日本建築学会計画委員会シンポジウム
広原盛明(龍谷大学)
1. 西山の生涯を通底するキーワード
➊ イギリスのマルクス主義歴史学者エリック・ホブズボームは、1914年の第1次世界大戦勃発およびそれに引き続くソ連の誕生から1991年のソ連崩壊に至るまでの期間を『極端の時代、短い20世紀』と名付けた。西山夘三の生涯(1911~94年)は、奇しくもこの「短い20世紀」とほぼ重なり合っている。西山の生涯を通底するキーワードのひとつは、20世紀の実践的思想であり、かつ社会運動の座標となった「社会主義」(マルクス主義)である。
➋ 20世紀はまた「総力戦の時代」ともいわれる。総力戦体制とは第1次大戦に始まり、20世紀末の東西冷戦終焉で終るグローバルな政治体制をさす(小林英夫)。第1次大戦時にヨーロッパに登場し、両大戦間期に日独伊ではファッシズム型、英米ではニューディール型の総力戦体制を生み出し、戦後は東西両陣営の各国を巻き込む形で米ソ対立のグローバルな冷戦型体制を作り上げた。日本における総力戦体制は、第1次大戦後に構想され始め、日中戦争のなかで日本経済の軍事統制化(総力戦化)を生み出した。この時期に作られた経済の総力戦化は戦後の高度成長に大きな影響を与え、ソ連崩壊による東西冷戦の終焉の時期まで継続したとされる。西山の生涯は「総力戦体制」の時代と重なり合うことによって、第2のキーワードである「体制型思考」ともいうべき国家体制のあり方を重視する思考・行動様式を刻印された。
➌ 国際的な歴史認識と体制型思考を行動基準としながらも、「大阪西九条」をキーワードとする西山のハビトゥス(社会的出自や生活体験などに裏打ちされた慣習的な感覚や性向の体系:プルデュー)は鮮烈である。それは「東京」に対する「関西」、「山の手」に対する「下町」、「お上」に対する「下々」、「臣民」に対する「庶民」等々の対立図式を通して、西山の終生変わらぬ反中央権力精神の源泉となった。西山が日本住宅の分析手法においてクラインの動線分析理論を乗り越え、「住み方調査」というオリジナルな方法論を生み出していく思想的土壌となったのは、まさしく大阪の西九条が育てたこのハビトゥスであった。
2. 西山のライフコースとライフスタイル
➊ 西山のライフコースを概観するとき、大きくは第2次世界大戦を挟んでの前期(青壮年期)と後期(壮熟年期)に分けられる。戦前・戦中の「前期」は、ファッシズム体制下にありながら学生時代に国際的な近代建築運動の洗礼を受け、国家機関である住宅営団の研究・技術官僚として、住宅生産の工業化と大量建設を実現しようとした「革新テクノクラート」の時期である。戦後の「後期」は、戦後改革の主舞台である民主化運動とジャーナリズム活動に軸足を移して、住宅問題・都市問題・国土問題等に関する啓蒙活動に邁進した「社会派研究者・大学知識人」としての時期である。
➋ 一般的に言って、知識人や研究者が時代や体制と向き合うとき、そのライフスタイルは「体制協力」「逃避傍観」「改良主義」「批判対抗」といった複数のタイプに分岐するように思われる(もっとも、同じ人間でも転向したり変節したりするので分類は容易でないが)。この分類からすれば、西山のライフスタイル(活動スタイル)は、戦前期は基本的に「改良主義」、戦後期とりわけ高度成長期以後は「批判対抗」だといえるだろう。戦前のファッシズム体制が批判分子の社会的存在を許さなかった状況の下では(ごく少数の例外は別として)、体制協力や傍観者的立場に立つことを拒んだ多くの良心的知識人は、程度の差はあれ、必然的に(小さな)改良主義の道を選んだ。また選ばざるを得なかった。これに対して戦後は、ファッシズム国家体制が消滅したことによって選択の幅は著しく拡大した。
➌ 戦後日本の国家体制の際立った特徴は、経済成長を目指して長期的視点から系統的な介入を行う「開発主義国家体制」が確立され、90年代のバブル経済の崩壊まで継続したことである。工学系学会や研究者の間では、経済成長に連なる技術開発研究を推進することが当然視され、時代や体制に向き合うことが次第に少なくなった。とりわけ「開発」に直結する建築学・都市計画学の計画系分野においては、地域開発・都市開発・住宅地開発研究が一大ブームとなり、「体制協力」を超える「体制推進」タイプの研究者・建築家がマスメディアに華やかに登場するようになった。「開発」や「計画」をめぐる論争はもはや学会の域を超え、マスメディアやジャーナリズムの世界での「トピックス」あるいは「イベント」として展開されるようになった。このような時代状況のなかでの西山の啓蒙活動の重点は、戦後初期の住宅問題解決や住生活近代化を強調する路線から、高度成長期の「開発批判路線」に急速にシフトしていった。
3. 西山にとっての計画学研究の意味
➊ 「計画的思考」はもともと人間に固有の思考様式であって(マルクス)、計画的思考の体系である「計画学」の成立と発展は、人類の理性の発展と軌を一にしてきたといってよい。20世紀は建築学のみならず各分野に「計画的概念」や「計画システム」が生まれた時代であって、その背景には産業革命の深化にともなう飛躍的な技術開発の発展があった。テイラーの『科学的経営の原理』の出版(1911年)およびフォードによるT型車組み立てラインの導入(1913年)は、それを象徴する出来事であった。テイラーの科学的経営の原理に基づくフォードシステムの成立は、生産過程における連続的な技術革新(イノベーション:シュンペーター)を可能とし、計画的大量生産を機軸とする近代工業化システムを誕生させた。西山が生を受けた20世紀初頭の時代は、このような計画的大量生産技術の誕生期であり、CIAMなど国際近代建築運動もまた近代工業化イデオロギーを受け継ぐものであった。
➋ 「計画システム」は近代工場のなかだけではなく、総力戦体制を通して「戦時統制経済」(戦時計画経済)として社会と国民生活の隅々まで浸透していった。ヨーロッパでは、戦時計画経済によって労働者階級の労働条件・生活条件を向上させる社会改革と帝国主義政策を併せ主張する「社会帝国主義」(ゾンバルト)が主流となり、社会民主党や労働運動の側から「戦時社会主義」として積極的に容認された。日本では遅れて第2次大戦時に「戦時社会政策」(大河内一男)として展開され、近衛内閣の「新体制運動」の理論的支柱となった。西山の住宅営団時代はまさにその渦中にあったといってよい。
➌ 総力戦体制下での経済への国家の大規模な介入経験、総力戦の結果としての大規模な市街地破壊と住宅焼失からの戦災復興、そして国民の人心掌握の必要性は、世界各国の戦後体制を強く規定し、戦後再建計画において社会保障と社会改革の拡充が重視された。住宅政策はそのシンボルとなり、第1次大戦を通じて社会国家・福祉国家への道程が開かれ、第2次大戦後に福祉国家体制が成立した。「歴史にイフはない」といわれるが、もし日本が戦後に開発主義国家への道ではなく福祉国家への道を歩んでいたならば、西山は「体制協力型」のテクノクラートとして活躍し、また「計画技術的研究」を推進していたかもしれない。しかし基幹産業の傾斜生産体制を機軸とする日本の戦後復興計画とそれに引き続く産業優先の高度経済成長政策は、『これからのすまい』に込められた西山の期待とは逆コースを辿った。
4. 学会・建築界に対して西山の果たした役割
➊ 建築学会は工学技術系学会でありながら、歴史やデザイン、住宅問題や都市問題など社会問題までを研究対象に包含する異色の学会である。にもかかわらず、研究の流れは時代潮流によって大きく規定され、時代動向を正確に反映する。また学会内部では研究領域の細分化と専門化が進み、それとともに「体制型思考」が馴染まない空気も広がってくる。それが学会内部の論争によって認識され、研究の偏りや歪みを自発的に是正できている間はよいが、やがては制御装置が利かなくなり、方向感覚も怪しくなってくるときがやってくる。西山の学会や建築界に向けられた批判の多くは、そのような状態に対する危険信号ではなかったか。
➋ 研究は学会の独占物ではない。学会の外でも、プロの研究者でなくとも(広義の)研究活動はできる。学会が「裸の王様」にならないためには、社会との関連で研究をチエックする「外部評価機能」を必要とする。また「学会研究を研究する」ことも自らの足元を確認する上での重要な研究テーマであろう。しかしその場合、自らの専門研究を相対的に評価できるだけの広い視野と深い蓄積がなければならず、それは一朝一夕に獲得できるものではない。西山が日本学術会議をはじめ異分野の研究者との学際的研究プロジェクトをとりわけ重視したのはこのためである。また社会運動への参加によって研究と社会の接点を確保しようとしたのもそのためである。研究者が個人的努力によってこのような関係をトータルに把握することは難しいが、それを集団の力で獲得することが不可能でないことを実証しようとしたのが西山ではなかったか。
➌ 戦後の西山の研究活動への評価は、学会内外の両面からのものでなければならないだろう。しかしそれを妨げるのが建築学会の巨大化であり、建築界のギルド的体質である。巨大学会や業界組織の内部にいれば安泰であり、評価視点も内部化する。研究と社会の関係が定常的に保たれておる場合はそれでもよいが、社会が変動期に突入したときにそんな研究は壁に突き当たる。戦後期の西山のライフスタイルが「学会の外」における「批判対抗」型の活動に重点が置かれたのは、本人がそれを自覚していたかどうかは別にして、圧倒的多数の研究者が「内部化」するなかでのバランス行動であったかもしれない。20世紀末において、開発主義国家体制が新自由主義国家体制に劇的に移行した日本の現実は、いま西山に対する歴史的評価の時代かもしれないのである。