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2024年10月29日火曜日

書評 井上章一「戦時下日本の建築家-アート・キッチュ・ジャパネスク」

書評 井上章一「戦時下日本の建築家-アート・キッチュ・ジャパネスク」

 

布野修司

 

 本書のもとになったのは、「ファシズムの空間と象徴」と題された論文(『人文学報』、第五一号(一九八二年)、第五五号(一九八三年)である。その二本の論文をもとに『アート・キッチュ・ジャパネスクー大東亜のポストモダン』(青土社、一九八七年)がまとめられ、さらにタイトルと装いを変えて出版された(一九九五年)のが本書である。

 実は、この一連の出版に評者は深く?関わっている、らしい。最初の二本の論文を送ってもらい、「国家とポスト・モダニズム建築」(『建築文化』、一九八四年五月号)で井上論文に言及したのがきっかけである。この言及はいたく井上氏を刺激したらしい。その経緯と反批判は長々と「あとがき」に記されている。その「あとがき」に依れば、この間、布野論文を除けば本書に対するほとんど表立った批評がないのだという。

 筆者の文章は、磯崎新の「つくばセンタービル」、大江宏の「国立能楽堂」などが相次いで完成し、建築のポストモダニズムが跳梁跋扈する中で、「国家と様式」をめぐるテーマが浮上しつつあることを指摘するために井上論文に触れたにすぎない。文章全体が一般の眼に触れることはなかったから、反批判のみが流布する奇妙な感じであった。幸い『国家・様式・テクノロジー』(布野修司建築論集Ⅲ、一九九八年)に再録することができたから、本書をめぐる数少ない批判の構図は明らかになることになった。

 争点は「帝冠様式」の評価をめぐっている。「帝冠様式」あるいは「帝冠併合様式」とは、下田菊太郎という興味深い建築家によって「帝国議事堂」(現国会議事堂)のデザインをめぐって提唱されるのであるが、簡単に言えば、鉄筋コンクリートの躯体に日本古来の神社仏閣の屋根を載せた折衷様式をいう。具体的には、九段会館(旧軍人会館)、東京帝室博物館など、戦時体制下にいくつかの実例が残されている。

 「「帝冠様式」は日本のファシズム建築様式だというのがこれまでの通説であるが、「帝冠様式」は日本のファシズム建築様式ではない(さらに、日本にファシズム建築はない)」というのが本書の主張である。もちろん、本書は「帝冠様式」のみを扱うわけではない。「忠霊塔」コンペ(設計競技)、「大東亜建築様式」の問題など全体は四章から構成され、一五年戦争期における「建築家」の「言説」を丹念に追う中で、建築界が抱えた問題に光を当てようとしている。しかし、全体としてテーマとされるのは以上のような「通説」の転倒である。

 それに対して、布野が指摘したのは、何故、そうした通説が転倒されなければならないのか、という本書が担う政治的立場である。本書には随所に「どんな(建築)イデオロギーも、意匠のための修辞にすぎない」「モダニズムが「日本ファシズム」と徹底的に戦ったことなど、一度もない」「”大東亜建設記念営造計画”が社会的にになった役割は、戦争協力という点から考えれば、無視しえるものだ」といった挑発的な断言を含んでおり、大きな違和感をもったのである。「ファシズム期における建築様式についての戦後の評価を転倒させようとする意識が先行するあまり、ファシズム思想との無縁性のみを強調するバランスを欠いたものといっていい。また、そのことにおいて、露骨なイデオロギーのみを浮かび上がらせるにとどまっている。」と書いた。いたくお気に召さなかったらしい。

 ファシズム期の日本の建築家をめぐっては、「建築様式史上の造形の自立的変遷」にのみ焦点を当てる本書を得ても、なお検討すべき問題がある。新興建築家連盟の結成即即解散(一九三〇年)から建築新体制の確立(一九四五年)への過程は、建築家の活動を大きく規定するものであった。その体制全体の孕む問題は、拙著『戦後建築の終焉』(れんが書房新社、一九九五年)でも触れるように、建築技術、建築組織、建築学の編成、植民地の都市計画など、単に「帝冠様式」だけの問題ではないのである。

 それ以前に、「帝冠様式」の問題が残されている。戦時体制下において開催された設計競技の多くは「日本趣味」「東洋趣味」を規定するものであった。この強制力は、果たしてとるにたらないものなのか。具体的に、今日、公共建築の設計競技や景観条例において勾配屋根が求められたりする。これは景観ファシズムというべきではないのか。「帝冠様式」の位相とどう異なるのか。

 「帝冠様式」をキッチュとして捉えるのは慧眼である。「帝冠様式を日本のファシズム建築様式ととらえる通俗的な見方を否定して、上から与えられた、あるいは強制された様式としてではなく、大衆レベルによって支えられ、下から生み出された様式としてとらえる視点」は興味深い。なぜなら「国民へ向かって下降するベクトルが逆転して国家へ向けられるそうした眼差しの転換をこそファシズムの構造が本質的に孕んでいたとすれば、そうした視点から、大衆的な建築様式と国家的な建築様式との関連をとらえ直す契機とはなるはず」だからである。

  屋根のシンボリズムについてはその力(強制力)をもう少し注意深く評価すべきであろう。民族や国民国家のアイデンティティあるいは地域なるもののアイデンティティが問われる度に、「帝冠様式」なるものは世界中で生み出されるのである。また、建築における「日本的なるもの」、についてももう少し掘り下げられるべきであろう。本書の「あとがき」には、井上氏も、植民地における帝冠様式など残された課題を列挙するところである。

 一五年戦争期における日本回帰の諸現象と建築における日本趣味とは果たして関係なかったのか。「モダニズムが日本ファシズムと結託した」という命題はもう少し具体的に検証されるべきではないか。問題にすべきは、「日本的なるもの」のなかに合理性をみるというかたちで、近代建築の理念との共鳴を見る転倒ではないか。日本建築の本質と近代建築の本質を同じと見なすところに屈折はない。その屈折のなさが、科学技術新体制下における建設活動を支えたのではないか。本書に対する未だに解けない違和感は、数々の断言によって、例えば以上のような多くの問いを封じるからである。

 

2022年7月19日火曜日

建築学の系譜:大江宏編:新建築学体系1 建築概論,彰国社, 1982年(国家・様式・テクノロジー・・・建築の昭和,布野修司建築論集Ⅲ,彰国社,1998年7月10日(日本図書館協会選定図書)所収)

 布野修司:「建築学」の系譜―近代日本における建築学の史的展開(『新建築学体系1 建築概論』,彰国社,19820620

 

 「建築学」の系譜一一近代日本におけるその史的展開

 

 はじめに

 建築学とは何か。その問いに答えることは必ずしも容易ではない。その問いには、建築とは何か、学問とは何か、という極めて大きな問いが含まれているからである。建築とは何か、という間いに対する答えは、言うまでもなく一様ではない。人によって、あるいは時代によって、そのとらえ方は異なっている。学間とは何かについても、さまざまな立場があると言えるであろう。だとすれば、建築学についても、同じようにさまざまな規定の仕方があり得るはずである。また、それ以前に、果たして建築は学問たり得るのか、建築と建築学の関係はどのようなものか、といった基本的な問いも必要であろう。

造家

 ここでは、もちろん、そうした間いのみをつきつめて考えることはできない。しかし、そうした問いは、常に問われ続けてきたものであり、また今もなお問われ続けていると言うこともできるであろう。近代日本の歴史の過程において、建築学なるものが成立し、建築の在り方に大きな影響を及ばしてきたことは事実である。ある意味では、それは、西欧の諸国にはみられない、極めて日本的な特殊なことであったと言えるであろう。また、建築学そのものが建築に対するある見方を前提にして成立してきたものであることにも留意することが必要であろう。

 ここでは、したがって、建築学をア・プリオリなものとして前提するのではなく、建築を支える知の体系の一つの在り方として、その歴史的な展開を跡づけてみようと思う。建築は多様な側面をもっている。建築学の領域において建築の全体性がどのようにとらえられていたかが、そこでの一つの視点である。すなわち建築のもつ全体性と建築学のもつ体系性との関連が一つの視点である。学問が一般的にいわれるように、限定された領域を対象とし、固有の方法を持つことによって、その体系化を図ることを目指すとすれば、その体系の枠組みから漏れ落ちてしまうものについての考慮が常に要請されてきたと言っていいからである。また、部分における知識の体系を単に寄せ集めることによって、果たして建築の全体性を覆えるかどうかという疑間も常に提出されてきたからである。一般的に言えぱ、分析と総合の問題、その関連をどう考えるかは、学間にとって極めて本質的な問題と言っていいのである。建築学は、建築を支える技術の在り方と密接な関連をもってきた。近代日本における建築技術の発達が、建築学の展開を大きく規定してきたと言ってもよい。しかし建築学は、建築を単にその技術的側面のみにおいて理解することができないように、その技術のみにかかわっているわけではない。建築を支える思想、その歴史、デザインや表現の在り方に深くかかわってきたし、またかかわるべきものであろう。建築は芸術か技術か、という問題は、明治以来一貫して議論されてきたのであるが、建築学を考える上でもその問題は欠かすことはできないであろう。建築学は、実学であるといわれる。確かに、建築は私たちの日常生活のあらゆる局面にかかわり、極めて実際的、現実的側面を持っている。また、事実、近代日本の歴史において、建築は社会や経済の動きと密接にかかわりを持ってきた。建築学も大きくは、そうした社会や経済の動きによって規定されてきたと言ってよい。したがって、建築学の歴史的な展開をみる上でも、そうしたより広い視野からの位置づけも必要であろう。

学術、技術、芸術

 また、どんな学問でもそうであるが、学の実践性がどう考えられてきたか、基本的には、建築学が個別の設計やデザインに対して、どのような役割を果たすべく考えられてきたのかという視点も、建築の全体性と建築学の体系性の問題と絡んで必要とされるであろう。

 建築学の歴史的展開をみる上では、そうしたさまざまな視点が必要であり、極めて大きな広がりを持っている。それ故、それを記述することは容易ではない。ただ言えることは、建築学の展開の歴史的経緯を詳細に記述することたけでは不十分であることであろう。建築学の展開は、近代日本における建築の展開をある角度をもって投影してきたのであり、その角度は少なくとも問題とされなけれぱならないはずである。ここでは、むしろ、その角度を意識しながら、建築学という一つのフィルターを通して、建築学という一つの建築に関する知の枠組みに投影されたものとして、近代日本における建築の展開をうかがう構えをとりたいと思う。もちろん、ここでは、その展開を詳しく跡づけることはできない。個別ジャンルの詳細な展開をまとめた『近代日本建築学発達史』[i]1をすでにわれわれは手にしており、また『新建築学体系』のシリーズにおいても、それぞれの分野において学史が記述されるはずである。ここでは、むしろ、それを前提としなければならない。そしてできるかぎり、各個別分野に共通する問題に焦点を当てようと思う。

 近代日本の建築学の展開をみると、少なくとも三つの学術観を区別してみることができる。もちろん、それに尽きるというわけではない。さまざまな学術観が掘り起こされるぺきであろう。しかし、その三つの学術観によって近代日本における建築学の展開のおよそのアウトラインは手に入れることができるはずである。一つは西欧における建築観そして建築家像をイデアルティプスとする、一九世紀的な知の総合観に基づいた、草創期における学術観である。『建築哲学』を著し、建築を美術の一科としてとらえようとした伊東忠太(建築史学)の学術観がその代表である。そしてもう一つは、そうした西欧における建築観、建築家像を否定し、より工学的な枠組みにおいて、日本に独自な建築観、建築家像を目指しながら、国家という全体的枠組みにおいて建築をとらえる、ある意味では明治以降一貫する学術観である。その耐震構造論によって、建築学の展開を主導し、日本の建築をめぐる知の体系を大きく支配することになった佐野利器(建築構造学)の学術観がその代表である。さらにもう一つは、大正末から昭和の初頭にかけての社会主義、唯物史観を背景とする、建築を社会的生産関係においてとらえ、その歴史的発展の法則を問題とし、また、国家的な建造物やモニュメントではなく、庶民住宅をはしめとする大衆のための建築を志向する学術観である。建築計画学の基礎をつくった西山卯三(建築計画学)の学術観がその代表である。こうした学術観の差異は、互いに絡まりながら、建築学の展開を支えてきた。そして、現在も、そうした差異は建築学をめぐる議論に内在していると言えるであろう。

 一方、建築学の成立を中心において支えることになったのは、近代合理主義であり、実証主義であった。そして、建築生産技術の近代化という方向性であった。対象を限定し、さらに限定された側面において、建築を支えるさまざまな現象を科学的に把握し、実証することは、近代科学として建築学を確立するためには不可欠であった。また、建築の近代化、合理化が一元的な目標とされる過程においては、それもまた必然であったと言えるであろう。それも一つの主要な視点である。

 ここで扱うのは、むろん限定されたものであり、不十分なものでしかない。しかし、建築学がますます専門分化されていくなかで、新たな建築学の在り方が求められているとすれぱ、建築学の在り方をより広い視野においてとらえること、またその歴史的な展開を限界を含めて見つめ直すことは、極めて重要なことと言えよう。

 

 1 建築の学と術

  建築学の揺濫

 建築学という名称が正式に使われ出すのは、よく知られているように一八九四(明治二七)年に伊東忠太によって「『アーキテクチュール』の本義を論して其の訳字を選定し我が造家学会の改名を望む」[ii]2が書かれ、一八九七(明治三〇)年に造家学会が建築学会と改称され、また帝国大学工科大学の造家学科が建築学科に、また造家学が建築学に改称されて以来である。もちろん、それ以前に、建築および建築学という言葉は使われていたのであるが、それ以前において一般的に使われていたのは、造家であり、造家学であった。建築学という名称が一般化されたことによって、その時点で建築学が成立したということはもちろんできない。今日に至る建築学の基盤が出来上がるのは、ずっと後のことである一一さまざまな異論があろうが、後述するように、私は、その成立画期を一九三〇年代においてみようと思う。

 しかし、造家学から建築学への名称の変更白体は、それなりに大きな意昧を持っていると言ってよい。その背景に、建築学の出自の様相をうかがうことができるからである。建築学の起点を求めるとすれぱ、もちろん、それ以前にさまざまな萌芽を認め得るのであるが、やはり工部省工学寮(一八七三(明治六)年)、工部大学佼(一八七七(明治一〇)年開設)における造家学科の設置に求めるのが一般的であろう。イギリスにおいて .バージェス              一八二八~一八八一)のもとで建築を学んだ、若冠二五歳のジョサイア・コンドル             一八五二~一九二〇)が工部大学校の造家学科の教師として来日するのが一八七七(明治一〇)年のことである。わが国に、建築(            )および建築家(         )の概念がもたらされるのは彼を通してのことである。 .コンドルの教えのもと、一八七三(明治六)年にすでに工部省工学寮に入寮していた、そして、その後の日本の建築あるいは建築学の展開に大きな寄与をなすことになる辰野金吾ら、工部大学校の造家学科の第一回卒業生(曾根達蔵、佐立七次郎、片山東熊、そして辰野金吾)が卒業するのは、一八七九(明治一二)年のことである。その後一八八四(明治一七)年まで、卒業と同時にロンドンに渡り、バージェスのもとで一年修業した後、ロンドン大学、ローヤル・アカデミー・オプ・アーツ、そして、ロンドン・キュピット建築会社などで建築を学んで帰国した(一八八三年五月二六日)辰野金吾にその教授の地位を譲るまで、 .コンドルは工部大学校において教鞭をとるのであるが、近代日本の建築の展開にとって、その果たした役割は測り知れないものがあったと言えるであろう。

 コンドルの造家学に関する議義内容は、関野克が明らかにする[iii]3ように、一八七九~八〇(明治一二~一三)年の英文カレンダーの工部大学校学課並諸規則を通してうかがうことができる。それは、基本的には、造家図学(                            )を中心とする、西欧(イギリス)における建築家養成のための教育であったといってよい。

 造家学科にかかわる講義は、大きく「構築(         )」と「造家(            )」の二つに分かれていたのであるが、「構築」は、実践的な解法を主とし、むしろ、材料、構法別の設計演習にウェイトが置かれている。造家は、歴史(                               )と家屋構造(                     )からなっており、家屋構造には単に、今日の                       にかかわるもののみならず、室内環境にかかわるものや施工にかかわるもの、また建築±の権利や義務にかかわるものも含めて、             にかかわるすぺてのものが含まれている。いってみれぱ、コンドルの造家学の内容は、すべて、実際の設計の仕事にかかわるものであったと言えるであろう。そうした意味では、コンドルの造家学は、今日の専門分化を前提とする建築学の位相からすれぱ、すべてが未分化であり、大きく異なったものであったと言えるかもしれない。建築を学間としてとらえる見方が必ずしも彼にはないことは言うまでもない。

 彼は、彼がイギリスにおいて受けた建築教育をそのまま日本に持ち込んだのであり、技術的にも、社会的な背景としても、その基盤をもたない日本において、まず、自らの身につけてきた極めて実践的な知識を教授することに精力を傾けたのである。コンドルの関心は、日本の建築が将来どのような方向を目指すべきかに置かれていた。歴史と美術の講義において、彼は、「当時のヨーロヅパ、特にイギリスの世界進出を背景とした見聞と、ヨーロッパの古典主義時代の考古学的探検や、ローマン主義時代の中世の研究の結果を反映しているイギリス派の建築様式論」(関野克)に基づいて、世界各国[iv]4の建築様式を総覧しているのであるが、その目的は、日本の建築とその将来を位置づけることにあった。日本の建築とその歴史については、もちろん、当時、体系だった位置づけはもとより、そのための資料が得られていたわけではない。

 したがって、日本の建築の一般特性や各地における形態の変化については、見学やスケッチによって補われている。また、卒業論文のテーマ(一八七九年)として「日本の気候および、日本人の一般的な習慣を考慮し、また、木造の都市と火災の間題を考慮して、日本の住宅建築の将来に関する捉案」あるいは、「日本の木材を、建築のどの部分に用いればよいか」といったテーマが挙げられていることにも、その関心をうかがうことができるであろう。工部大学校は、一八八五(明治一八)年四月、「工部大学佼学課並諸規則」の改訂を行う。また、翌年には、帝国大学令の公布によって、工部大学校は東京大学工芸学部と併せて、帝国大学工科大学となり、造家学科も工科大学の一学科となる。それとともに、学科課程および造家学の内容は著しく変更され、その体系はコンドルの時代とは比較にならないほど整備される。その整備に当たって中心的な役割を果たしたのが辰野金吾である。ある意味では、この時期に、日本における建築学の大綱が定まり、建築教育の基礎が確立したと言ってよい。したがって、建築学の起点を求めるとすれぱ、より厳密には、この時期に求めるべきであろう。わが国の近代建築は、コンドルによってもたらされた建築の概念、彼に体現されていた建築家の概念が工学的な枠を与えられることによって、出発したところに大きな特徴があった。コンドルは、辰野という、近代日本における建築および建築学にとって、極めて大きな役割を果たすことになる一人の巨人を育てた後、自らは建築家として建築設計事務所を開設するに至る。関野克のいうように、「帝国大学工科大学の一学科として造家学科が再編成されたことは、造家学の発展に絶大の礎となったが、半面実地教育から離脱することとなった」[v]5のである。

 

   伊東忠太の学術観

 伊東忠太が帝国大学工科大学の造家学科へ入学するのは、一八八九(明治二二)年のことである。新たに整備された造家学の学科課程に学び、同しく設けられた大学院に進み、その終了と同時に学位を獲得した最初の人が伊東忠太であった。伊東が実際にどのような課目を履習したのかは、丸山茂[vi]6、原簿をあたることによって明らかにしているのであるが、辰野金吾に、特別家屋配置法(                 )、意匠及製図(        )、中村達太郎に家屋構造(                     )配景法(           )、弩仁架法(        )、仕様及計算(                       )ほか、小島憲之に建築沿革(                       )、そして、当時講師をしていた  .コンドルには、装飾法(          )を学んでいる。伊東忠太は、日本の建築学の揺藍の最中において、それがまさに出発を遂げようとするときに、建築を学んだのであった。伊東は、一八九三(明治二六)年に『建築雑誌』(一一月、  .八三)に、また一八九八(明治三一)年に『工科大学紀要』に発表した「法隆寺建築論」によって、建築史研究の道を歩み始める。辰野金吾がロンドンで .バージェスに「日本は古い文化を有する国である。定めて古へより独特の建築が発達したであろう。抑々(そもそも)日本固有の建築は如何なる性質のものか」と問われ、返答に窮し、それをきっかけとして造家学科に日本建築の講義[vii]7が開始された[viii]8という、有名なェピソードがあるのであるが、伊東は関野貞とともに日本建築史研究の発端を担い、大きな影響を後世に及ばすことになる。

 しかし、伊東忠太を単に建築史学者としてみるわけにはいかない。彼は、建築家として、神社・仏寺を中心とする、明治神宮(一九二〇(大正九)年)、築地本願寺(一九三四(昭和九)年)など主要なものだけでも百件を超える作品を残している。また、建築史の分野に限らず、その発言は、多岐にわたり、その著述も膨大な量にのぽる。その眼は、広大な東洋の時空に向けられ、一九〇二(明治三五)年からの三年三か月に及ぶ、中国、ピルマ、インドヘの大旅行を含めて、数度の調査旅行を行っている。その雲合石窟と万仏の発見はことに有名である。

 そうした伊東忠太についての興味は尽きないのであるが、彼が建築あるいは、建築学をどのようにとらえていたかを初期の論考を中心としてみてみよう。建築学の出自の様相をみる上で、それが最も

適切であると言えるはずである。彼は後に『建築の学と芸』[ix]9という評論集を出すに至るのであるが、彼は、一貫して建築の「学」と「芸」

あるいは「術」をめぐって発言を続けてきているのである。伊東忠太の卒業論文が「建築哲学」(一八九二(明治二五)年六月)と題されたものであったことはよく知られている。それは、建築とは何かという問いそのものを問おうとするものであった。近代日本における建築あるいは建築学の出発に際して、当然なされてしかるべきものとはいえ、こうした思索をもったことをわれわれは喜ぶべきであろう。

 伊東は、その建築についての考察をほとんど無から独力でなされなければならなかった。「建築哲学」の自序に記すように、彼は、その考察を辰野金吾の「凡ソ建築ノ学術ヲ修ムルニ其目的トスベキモノ凡テ七アリ、而シテ其尤モ高尚ニシテ且ツ趣味アルモノハ独リ美術建築ヲ推ス。然レドモ本邦今コノ科目ヲ専修スル建築士アルコトヲ聞カズ、コレ吾人ノ深ク遺憾トスル所ナリ」という助言に基づいて行うことを決意するのであるが、「参照スベキ先輩ノ説ヲ得ルニモ苦シム、余ヤ今全ク独立シテ雲霧暗澹ノ裡ニアリ、内ニ強堡ナク外二援勢ナシ、僅二余ガ手腕ヲ行ヒ、美術建築ノ範囲ヲ定メ、之ガ論究ノ順序ヲ定メ、類ニ従ヒ別ヲ立テレバ・・・・・・」という状況であったのである。伊東忠太の初期の論文に丹念に目を通し、その建築観の変転を跡づけた丸山茂[x]10は、次のように書いている。  「彼は授業の内容に逐一反感を持ったようである。帝国大学生としての衿持 に反して授業は全く学術の体を成していない、ただ実務に必要な諸技術の体系 が相互の関係も明らかにされぬまま投げ出されているだけではないか、教授陣 にしてからが建築とは何か理解しているだろうか、辰野教授にしても『今日の 建築術の欠点は芸術方面が後れている居ることである』と言いながら濃尾地震 [xi]11があったら前言をくるりとかえてしまったではないか、というような不満だ ったかもしれない。伊東は工科大学の中で何か場ちがいな自分に思いを致した のだろう。とにかく卒業論文で二六年間の決算を出してみよう、それがうまく ゆけば自分は建築をやってゆけそうだ、彼はそう考えたにちがいない。」

 「建築哲学」は、大きくは、第一編 建築術と美術、第二編 派流原論、第三編 建築派流各論の三編からなっている。その膨大な記述は多岐にわたり、全体は、建築を学術として究めようとする、そして、具体的には、建築を美術としてとらえ、高等芸術として高めようとするパトスによって貫かれていると言えるだろう。

 彼は自序に次のように書いている。

  「然レドモコノ惨状ハ決シテ永遠二保続スルモノニ非サルナリ、今ヤ我國ノ 開明日二月二駸々タリ、余ハ其遠カラスシテ分業ノ世界二達スルアルヲトスル モノナリ、故二以為ラク、吾人カ今日己二早ク建築術ノ未然ヲ察シ、他日大ニ 学海二稗益スヘキモノヲ取テ之ヲ研究スルハ決メ余ノ大早計二非サルヲ信スル モノナリ、若シ夫レー挺釘ノ代償ヲ暗ンシー片瓦ノ値ヲ誦スルカ如キハ即チ別 二其人アリ、何ソ吾人ノ汲々役々トシテ知ル所ナランヤ、吾人ノ知ラサルヘカ ラサル所ハ決シテ這般ノ細事二非ス那辺ノ些事二非ス、学術海裡深キ所珠玉ノ 燿クアリ、学術山間深キ所芳草ノ薫ルアリ、吾人ハ寧口彼ヲ捨テ之ヲ取ラント 欲スルナリ」

 伊東は、「建築術ノ未然」の「惨状」の中で(「我国目下ノ開化ノ程度ハ未タ建築術ノ盛萃ヲ許ササルヲ以テス」状況の中で)、「一人ニシテ数多ノ事業二従事」せねぱならないことを憂えながら、あえて、一挺釘、一片瓦について論究することを細事という。「ウィヲレール・ヂュック」[xii]12にしても「フェルガヅソン」[xiii]13にしても「未ター塊土、一堆石二就テ論究セシコト」はないではないか。「然レドモ其建築社会二輿ヘタル功績は決シテ彼ノ區々トシテ細些二渉ルモノノ比二非ス」ではないか。彼の目途は壮大であった。「余ノ希望スル所ハ実二建築ノ学術ヲシテ完全無欽ナラシメント欲スルニ在リ」と記しているのである。

 彼は続いて、次のように書く。

  「凡ソ宇宙間ノ現象ハ其着眼ノ点ノ異ナルニ従テ、亦種々ナル形状ヲ呈スモ ノナリ、宇宙間ノ現象ハ冨岳ノ如ク之ヲ何處ヨリ見ルモ常二同様ノ形ヲ顕ハス モノニ非サルナリ、他ナシ、其形伏頗ル複雑混淆トシテ亦冨岳ノ単簡ナル円錐 形ナルカ如クニ非サレハナリ、是故二一事一物二就テ完全ナル研究ヲ下サント 欲セハ宜シク先ツ之ヲ各種ノ方向ヨリ観察セサルヘカラス、今ヤ建築ノ術ハ己 二学術上殆ト完全ナル観察ヲ尽シタリ、日ク重学ハ以テ檣壁ノ堅牢、規矩ノ安 然ヲ保スヘシ、日ク理学ハ以テ温房通風ヲ完全ナラシメ、音響ノ好度、避雷針 等ノ設計ヲ助クヘシ、日ク化学ハ以テ泥工其他各種ノエ事ノ精巧ヲ致スヘシ、 之ヲ経済上、衛生上、等ノ諸点ヨリ見ルモ亦己二頗ル其研究ヲ尽セルモノアリ、 獨リ美術上ノ点二至リテハ未タ曾テ之ヲ詳論セルモノアルヲ聞カサルナリ、仮 令諸般ノ視点二就テ各其薀奥ヲ極ムルヲ得ルモ、之ヲ美術ノー点二欠ケハ己二 完全ヲ期スヘカラサルナリ、況ンヤ建築ノ術タル己ニコレー科ノ美術ナリ、美 術上ノ研究登夫レ忽ニスヘケンヤ」

 彼は続いて「建築ノ術タル直接二一科の美術タルニ非ス、ソノ本旨ハ則チ人生住居ノ必要ヲ供給スルニ在ルノミ」という論に対する反論を試みているのであるが、われわれは、建築術を一科の美術としてたてようとする伊東忠太の主張の背景に、明治期における素朴な用美の二元論を認めるべきかもしれない。また、彼が自らの論考を、「時勢ノ強迫」や、既往の工学的な枠組みの中で位置づけようとして、学術の分業を主張し、「ゼンペル」[xiv]14や「チェンバー」[xv]15を援用しながら、建築の美術的側面を強調する背景には、すでに、それが部分でしかないことが意識されていたことを認めるべきかもしれない。彼は、「今ヤ学術ノ分業漸ク行ハレ特二構造法二関スルー科学アリ、衛生建築二関スルー科学アリ、美観二関スルー科学亦無カルヘカラサルナリ」と主張するのである。

 しかし、彼にとって、「美術建築」についての論考が最も「高尚」であり、最も上位に置かれていたことは言うまでもない。彼が、第二編 派流原論、第四章 派流ノ「ファクトール」において、「派流ノ第一次「ファクトール」ハ其審美的美ヲ愛スルノ情之レナリ。能ク審美的美ヲ感受スヘキ嗜好之レナリ」と書いていることからみても明らかであろう。材料、気候、地形、地象といった天為的、また人為的要素は、第二次「ファクトール」とされているのである。[xvi]16

 彼にとって、美術建築の本旨は、次のようなものであった。

  「美術建築の本旨ハ即チ建築ノ「プロポーション」及「ハルモニー」ヲ求ム ルニ在リ、美ノ真相ヲ看破シ之ヲ線条ト色彩トニ現ハスニ在り、所謂自然界ノ 「アンコンシアス、スピリット」ヲ看破シ、無機性ノ材料ヲ以テ能ク彼ノ有機 性ノ精気ヲ発揮スルニ在リ、是故二装飾術ハ未タ美術建築術ト均シカラサルナ リ」

 しかし、伊東の美術建築論は、単に、プロポーションやハーモニー、線条や色彩に関してのみ展開されているわけではない。既往の造家学の枠組みがそれを全く欠いていることに対して、それは強調されているのであるが、彼の美術建築論の構想は、そうした限定された平面においてのみであったのではない。一方であくまでも建築の全体を覆う論の展開として考えられていたといってよい。

 彼の構想する美術建築論の体系は以下のようなものであった。

  第一部 美術建築総論

  第二部 建築派流論

      第一篇 派流原論

      第二篇 派流各論建築形式論

    第三部 建築形式論

      第一篇 配合及詣調

      第二篇 線条論  附 模様論

      第三篇 彩色論

  第四部 建築装飾論

      第一篇 建築装飾史     

      第二篇  建築装飾術

  第五部 附論

      第一篇 社曾ノ進歩ト建築術

      第二篇 建築術将来ノ方針

 伊東は、第一部と第二部をもって「建築哲学」とし、卒業論文としたのであるが、その全体を通じて少なくとも、第一部、第二部を統一した地平において、建築術、そして建築学をとらえようとしていたと言っていいからである。

 第一部は、伊東自身の位置づけによれぱ、「建築術ノ果シテ美術タル所以ヲ説明シ之ヲ哲理二徴シ之ヲ実例二照シ、其微細二造リテ残ス所無カラント欲ス」ものであった。同しく、第二部は「先ツ派流ノ学理ヲ説キ、其如何ニシテ成立シ其如何二シテ変遷サルヤヲ論述シ、進テ古今東西ノ諸派流ヲ審美的二分析解剖シ、未来ノ派流ヲシテ遂二建築派流ノ最後二到達セント欲ス」ものであった。すなわち、建築を美術として体系化しようとする論考と建築を時間的、空間的広がりのなかで体系的にとらえようとする視点とを統一するところに、建築の学術の体系が構想されていたのである。

 興味深いことに、建築術と美術との関係について述ベ、また「学」と「術」の関係についての考察を前提として美学の体系としての建築学について述ベ、「建築術トハ、建築二托シテ審美的美ヲ発揮スルノ術ナリ」と結論づける建築美術論と、建築の派流を歴史的にとらえる方法、原理をめぐって、建築術の成分中に、歴史的意義を見いだし、さらに「所謂派流ナルモノハ或民族二於テ或ル時代ノ思想ヲ代表スルモノ」と拡大し、また、建築を「一ノ社会現象」として、「社界学」としてとらえる視点をみせる派流原論とは少しく平面を異にしているのである。

 「建築哲学」は、そうした意味では、書かれなかった部分を抜きにしても、完成された体系を提示するものではなかった。彼の考察は、徴妙に揺れているのである。しかし、そうした限界にもかかわらず、一方で、それが極めて実践的な課題とのかかわりをモメントとしていたことは指摘しておかねばならない。その考察は、決して、観念的なレベルにとどまるものではなかった。その一つの大きな目的は、「本邦未来の建築派流」をいかに見いだすかに置かれていたと言っていいからである。彼の論考は、西欧の建築観と造家学の枠組みとをいかに折衷し、その整合性をどういう形で具体的に求めるかに置かれていたと言っていいからである。

 そうした意味では、わが国の建築学に関する最初の学位論文である「法隆寺建築論」は、その具体的な展開であったと言えるであろう。ことに建築派流論はストレートにつながっているのであるが、その背景には「建築哲学」における建築学の構想があったと言ってよい。それが建築史研究の端緒を切り開くものであったことは言うまでもないが、そして、それが今日の実証主義を規範とする建築史学の位置づけからすれば、多くの問題をもつものであったことは言うまでもないが、その意義は、単に建築史プロパーにおける位置づけに限定されるものではない。むしろ、逆に、建築史が、建築あるいは建築学をいかにとらえるかという問いにかかわり、建築が未来へ向けてどのような方向をとるべきかという問いにかかわることにおいて出発を遂げたことに留意すべきなのである。

 伊東忠太は、「建築哲学」と「法隆寺建築論」(一八九八、学位論文)の間に、「横河君の『東西美術敦れか勝る』論を評し併せて卑見を述ぶ」[xvii]17、「本邦建築術未来の運命」[xviii]18、「建築術と美術との関係」[xix]19、「『アーキテクチュール』の本義を論じて其訳字を選定し我が造家学会の改名を望む」などいくつかの論文を書いているのであるが、「学」と「術」の関係は、およそ次のようにとらえられていた。

  「以上論シ去り論シ来ル所ヲ総括シテ之ヲ反言スレハ、凡ソ術ハ必スヤ学ニ 依ラサルヘカラサルナリ、学二依ラサルノ術ハ跼蹐トシテ局部二止マルノミ、 未タ能ク六合二雄飛スルコトヲ得サルナリ、若シ夫レ学二依ルノ術ナラン乎、 其発達無限ニシテ無涯ナリ、其精華ヲ探り其極致二到り以テ造化ノ秘訣ヲ発り 亦期スヘキナリ」[xx]20

 「<アーキテクチュール>の本義を論じて其の訳字を選定し我が造家学会の改名を望む」は、明快にその主張を示すものである。彼はそこで「アーキテクチュール」が        に属すべきものであって、         l    ニ属すべきものではないこと、すなわち、建築術を工芸の一科ではなく、一科の美術としてとらえるべきこと、さらに、学と術の関係について、それが不即不離であること、「学と術とを并せ修むるに非ざれは即ち未だ「アーキテクチュール」の真相を窺ふに足らざること」を繰り返しているのであるが、注目すべきは、「アーキテクチュール」の本義に照らして、建築術という訳語こそが最も近いことを強調している点である。「アーキテクチュール」の訳語を「造家」にするか「建築」にするかということよりも、学理のみを講究するものではないことが強調されている点である。彼は、「学会の名称を下すに躊躇せざるべからざるなり」と、そこではっきり書いている。建築学会と呼ぶことは妥当ではなく、建築協会と呼ぶことを主張しているのである[xxi]21。そこには、建築学が未成であるという判断をうかがうことは恐らく可能である。しかし、建築学会がその出自において西欧のアーキテクトの理念ケこ基づいた建築家協会として構想されていたことは留意されてよい。学と術の分離は、やがてはっきりしたものとなっていく。そこに、日本の近代建築の展開と、建築学の位置づけの特殊性をみることができるのである。

 

 

 2. 国家と建築学一一‡専門分化と領域拡大の歴史

 

    佐野利器の学術観

 

 伊東忠太の学術観の背後には、西欧における建築観がイデアル・ティプスとしてあった。一九世紀的な、知の総合観に基づいて、建築の全体性がとらえられていたと言っていい。そうした建築観、建築の学と術の全体性に対する認識に対して、大きな方向性を与えたのは、殖産輿業、富国強兵を旗印とする明治の匡家的枠組みである。伊東忠太にとっても「国家と建築術との関係を論ず」[xxii]22が示すように、建築術の将来をうかがう上で、また、その全体性を考える上で、国家という枠組みが最大の枠組みとして意識されていたと言うことができるであろう。すでに触れたように、近代日本の建築は、同家的な要請に基づいて、工学的な枠粗みを前提として出発を遂げたところに特徴があった。西欧の近代的な建築技術を導入すること、ことに、地震という固有の問題を抱える日本において、建築の構造技術をどう展開するかが焦眉課題であった。それ故、構造学の展開に大きなェネルギーが割かれてきた。

 わが国の建築学の展開は、ある意味では、構造学の展開によって大きく方向づけられ、その基礎が与えられたと言うことができるであろう。その基礎をつくりあげ、構造学の展開、さらに建築学の展開に、大きな役割を果たしたのが佐野利器であった。もちろん、構造学の展開についてはすでに多くの努力があった鉄骨構造および鉄筋コンクリート構造の導入とその理論の定着に当たって、大きな役割を果たし、佐野利器と並び称せられた日比忠彦の存在もある[xxiii]23。また、それ以前に、土木、造船の分野を中心に、鉄道、港湾、製鉄所といった諸施設の建設に鉄骨・鉄筋コンクリート造が具体的に導入され、諸外国の技術や理論の紹介は精力的に行われつつあったことも挙げねぱならない。ことに、構造力学的な解法をめぐって、また、濃尾地震(一八九一(明治二四)年一〇月)を契機とする家屋の耐震化をめぐって、木構造の近代化一一洋風トラスの導入と耐震化一一が、日本に固有の問題として議論されつつあったことは、構造学の出発の母胎になったということができるであろう。

 そうした、西欧の構造技術の導入、日本家屋の耐震化をめぐるさまざまな展開を整理し、体系化しようとしたのが佐野利器の「家屋耐震構造論」[xxiv]24である。わが国において、鉄骨構造、鉄筋コンクリート構造が本格的に定着し始めるのは、関東大震災(一九二三(大正一二)年)を契機とする、大正末から、昭和の初めにかけて以降である。しかし、佐野の「家屋耐震構造論」は、内藤多仲[xxv]25や内田祥三をはじめとする構造学者によるその後の耐震構造理論の展開を方向づけるものであったし、木構造については、その主張が「市街地建築物法」(一九一九年四月公布)に全面的に採り入れられ、わが国の木構造の在り方を大きく規定するものとなったのである。

 また、佐野利器は、建築学会において、大きな発言力を持ち、大正期には、積極的に、生活改善運動にかかわるなど、建築家にとって明治末から大正初めにかけて新たな課題として現れてきた、都市や住宅の問題に対しても、果敢に取り組んでいる。

 そうした佐野利器の建築の学術観は、伊東忠太のそれとは異なるものであり、ある意味では全く対立的であったと言ってよい。建築学の出発に当たっては、むしろ、佐野利器に代表される建築観、学術観が支配的であり、その後の建築学の展開にとっては、はるかに影響力をもつものであったと言うことができよう。

 佐野利器は、一九〇四(明治三七)年には、台湾嘉義の大地震の調査、一九〇六(明治三九)年にはサンフランシスコ大地震の調査を行い、そして一九一一(明治四四)年にはドイツヘ留学するのであるが、そのドイツから、よく知られた「建築家の覚悟」[xxvi]26という一文を日本へ送っている。そこには、端的に、その建築観の基礎となる日本独特の建築家像成立のモメントをみることができる。彼はその末尾において、次のように書いている。

  「日本の建築家は主として須いる科学を基本とせる技術家であるべき事は明 瞭である。西洋のアーキテクトは何で有らうとも日本は日本の現状に照して余 は此の結論に到達するのである。科学は日に月に進歩する、「如何にして最も 強固に最も便益ある建築物を最も廉価に作り得べきか」の問題解決が日本の建 築家の主要なる職務でなけれぱならぬ、如何にして国家を装飾すべきかは現在 の問題ではないのである。(中略)

  要するに建築家たるものの寸時も忘るべからざる研究事項は国家当然の要求 たる建築科学の発達であって、建築家が社会的地位を得べき唯一の進路も亦是 である事を思ふ事切である」

 そこには、使命観に溢れ、自信に満ちた断定が繰り返されているのであるが、一つの前提は、物の定義は永久不変ではなく、西洋のアーキテクトと日本の建築家とは全く同一業でなければならぬ理由がないこと、「日本の建築家は何であるべきか、懐中字書に依て直にアーキテクト(即ち芸術家)と早合点すべきでない」ことである。そして、「建築事情中の大勢力をなす公共的建築、実利的建築を起す場合の要求は殆ど全部科学である」こと、「早い話が、国家が最も多くの経費を投して造営しつつあるものは倉庫工場等の如き純科学体である」こと、といった状況であり、「気力の養成と同時に殖産、興業、商業、節約、有りと有らゆる手段を尽して富力の増進に努力すべき」、「正に臥薪嘗膽の時機」であることである。

 国家当然の要求に基づいた、佐野の建築観および建築家観は、プラグマティカルな実利主義、科学主義によって貫かれていると言えるであろう。彼に体現されていたのは、明治国家のテクノクラートとしての建築家像であったと言えるであろうか。

 時に、議院建築問題をめぐって、すなわち、そのスタイルをめぐって和様折衷主義(三橋四郎)を採るか、「欧化主義」(長野宇平治)を採るか、「進化主義」(伊東忠太)に依るか、また「日本趣味による新様式」(関野貞)とするか、建築界をあげての大論争が展開されつつあった。佐野利器も、それに対して意見を述べてはいる。しかし、「如何にして国家を装飾すべきかは現在の問題ではないのである」と言い切る佐野の主張は、そうした議論の土俵を無化し、全く異なった平面において建築の方向を指し示すものであったと言えよう。

 「形の良し悪しや、色彩のことなどは婦女子のすることで、男子の口にすべきことではない」と思えていた佐野利器にとって、その主張が、美術の一科として建築学をとらえようとする伊東忠太に代表される、西欧のアーキテクトを理念化する部分に向けられていたことは明らかであるが、それをはっきりと顕在化させたのが、大正初めにおける、虚偽論争、建築非芸術論争といった議論である。

 虚偽論争は、明治末から大正初めにかけて、一見、煉瓦造や石造の外観をもち、折衷主義建築、様式建築の列柱やバットレスあるいは、アールヌーボーやセセッション風の装飾を施す、木造の建築物が現れ始めたことに対する批判を一つのモメントとし、山崎静太郎、松井貴太郎、後藤慶二らが、そうした「装飾された構造」、構造と意匠、装飾、様式等が全く分離してとらえられた建築を、虚偽構造、虚偽意匠と呼んで攻撃したものである。具体的には、山崎静太郎と中村達太郎との間に、数回のやりとりが『建築雑誌』上でなされている。

 建築非芸術論は、虚偽論争を受けながら、平行して、野田俊彦によって展開された[xxvii]27。野田の建築非芸術論は、指摘されるように、単に、建築を技術としてとらえる主張ではなく、「虚偽の美」=「快感の刺激物としてより外に意味のない美」を目標とする「芸術品」としての建築を批判しながら、「実用的目的」および構造技術の追求によって「真の美」が創り出されるべきことを主張するものである。野田の建築非芸術論に対しては、というより、構造即建築といった建築観、「建築は実用に徹すれぱよい、構造に徹すればよいという功利論」一一野田の論は、そうした功利主義的、「構造」主義的な立場を代表するものとして受け取られた一一に対しては、伊東忠太や岡田信一郎らによって、「建築の根本は『プラン』であり、『デザイン』である」[xxviii]28。「社会の実需用の解決は決して単一絶対的ではない。多元高次方程式であって、その無数の解から最も美しいものを求めることが肝要である」[xxix]29といった、それなりに建築の全体性をとらえた批判が提出されたのであった。

 その議論は、極めて素朴で単純なものでしかなかったと言ってよい。しかし、そこには建築をめぐる極めて基本的な問いが含まれているが故に、構造学の展開によって建築学の展開が大きく方向づけられる一方で、そうした議論がなされたのはある意味で当然であった。大正期における<構造派>と<内省派>[xxx]30=<自己主義派>の対立をめぐっては、長谷川堯の一連の、大正建築の再評価、日本の表現派の発堀の作業[xxxi]31が光を当てているのであるが、大正期に至って初めて建築(なる観念)が、日本の具体的なコンテクストに即して問われ始めたと言ってもいいのである。<構造派>と<内省派>の対立、ことに<内省派>の内面的な葛藤に、建築家における近代の自覚をうかがうことができる、というのが、既往の日本の近代建築史の指摘するところである。

 <構造派>を支えた建築観と<内省派>さらには<分離派>を支えた建築観との分裂は、しかし、その後はむしろ拡大の道をたどったと言ってよい。建築とは何か、といった正面きった議論は、少なくとも建築学の内部では中心的なテーマとはならなくなる。建築学は、もっぱら、建築を支える部分系において、しかも、科学としての理論体系を組み立てやすい部分系において展開していくことになる。それが部分でしかないことは、もちろん一貫して意識されてきたのであるが、建築を支えるそうした部分的な知識の体系を総合し、建築の全体性をとらえる理論の展開はむしろ、建築家の具体的な創作活動を基礎とする建築論の展開にゆだねられることになったと言えるであろう。虚偽構造論争や建築非芸術論に示された、明治期における用美の二元論を統一しようとする試みは、その最初の試みである。しかし、建築論の展開そのものは、日本においてはその後、それが学としての体系をとりにくいが故に、すなわち、建築そのものにかかわる知の体系が学として成立しにくい基本的な特性をもっているが故に、大きな流れとはならなかったと言ってよい。建築論の展開が希薄であるのは、建築学の隆盛の裏返しとして、日本の近代建築の特殊性として指摘できるであろう。さらに言えぱ、建築論そのものが、学となりにくいものを補完するという位置づけのもとに、建築学の部分として扱われてきたと言うとができるかもしれない。

 芸術と技術あるいは科学構造と意匠あるいは形、用と美をめぐるそうした議論の背景には、建築をどうとらえるかをめぐって、二つの方向への分裂が意識され始めており、それを統一し、調和させ、建築の全体性をとらえる理論が求められていたことをうかがうことができるのであろう。

 

 専門分化と領域拡大の歴史

 

 近代日本における「建築学」の展開は、専門分化と領域拡大の歴史であった。こでは、まず、その専門分化と領域拡大の歴史を簡単に跡づけてみよう。一つの手掛りは、『大建築学』[xxxii]32、『アルス建築大講座』(一九二七~三八年)、『高等建築学』(一九三二~三五年)、『建築設計資料集成』旧版一九四一~五二年)、『建築学便覧』(旧版一九五六)、『建築学大系』(旧版一九五四~一九六四)といったこれまで、幾度か集大成が行われた建築にかかわる知識の体系を比較してみることである。また、もう一つの手掛りは、建築教育における建築学の講義科目の変遷をみてみることである。もちろん、詳細には、建築学にかかわる論文のテーマの広がりと分化の過程をみなけれぱならないのであるが、また、建築学会の構成とか、建築学を支えた建築観の変遷とか、さまざまな指標を考えることができるのであるが、上記二つを手掛りとすれば、およそのアウトラインを手に入れることができるであろう。

 わかりやすい見取図を得るために、一つの例として、東京帝国大学建築学科の講座の構成、講義科目の変遷をみてみよう。もちろん、講座の構成や講義科目の構成がそのままその時々の建築学の構成を示すとは限らないし、新しい分野の出現とそれらとの間にはずれがある。また建築学の全体を覆う分野がすべて講義科目として用意されているとは限らないし、東京帝国大学のそれを一般化することはできない。むしろ、各大学において個性的なカリキュラムをみることができる。しかし、専門分化と領域拡大の過程は一般的にみることができるし、建築学の展開に大きな影響力をもつ多くの学者を輩出した東京帝国大学についてみることはそれなりに意味があろう。

  .コンドルが、画学、図学(造家図学)にウェイトを置いた設計教育を行いながら、大きくは造家と構築(家屋構造)の二つに分けて講義を行っていたこと、そして、工部大学校から帝国大学工科大学への移行(一八八七(明治二〇)年)に伴い、辰野金吾を中心として、建築学の内容がより細分化され著しく整備されたことについてはすでに触れた。専門科目の変遷をみると、一八八五(明治一八)年の工部大学佼の学科課程の改正と一八八六(明治一九)年にさらにそれを整備した帝国大学工科大学の学科課程の構成の段階で、ある意味では今日に至る科目がほとんど用意されているのをみることができる。。すなわち、建築沿革、装飾(法)、製図意匠、特別家屋配置法、衛生建築・衛生工学、家屋構造、弩窪架法、建築物理(構造強弱論)、建築材料・製造、建築条例、仕様・計算がそうである。しかし、今日では全く行われてはいないものもその中にはある。これらは、はっきりとした建築学の構想に基づいて分けられたというより、建築を実際に設計するために必要な科目が用意されていると言った方が正確である。そうした意味では建築学は、未分化であったと言ってよいであろう。

 未分化な状況から、まずはっきりとしたディシプリンとして現れてきたのは建築史学と建築構造学の分野である。すなわち、日本の建築学は、辰野金吾を中心として、伊東忠太、関野貞による建築史研究と佐野利器による建築構造学を両輪として出発を遂げたと言ってよい。

 内田祥三は、建築学の出自の様相を次のように書いている。

  「我国現代の建築学の起源が英人ジョサイア・コンドル教師に在った関係で 建築の学問技術が総てイギリス流であったのは当然であったが、同教師並びに辰野、中村の両教授は漸次に之を日本の風土気候に順応する意匠構造に進化せしむるに努め、次第に其の面目を改むるに至った。特に辰野教授は建築の教育、設計並びに実施に就いて卓越せる技能を有し明治から大正の初めにかけての我国建築界の第一人者として汎く斯界を指導した功績は絶大なるものがある。明治二四年から同二八年に亘って石井敬吉、伊東忠太、塚本靖、関野貞等が本学科を卒へて、我国古来の建築様式を学問的に考究するに至って初めて日本建築史の体系が整ふに至り、後、伊東、塚本、関野の諸教授は其の研究を東洋建築に進めて蘊奥を究め内外の学界に重きを為した。明治三六年、佐野利器が本学科を終へて大学院に入り、次いで講師、助教授、教授として建築構造学の研究を進むるに至って、此の方面に志す有能なる本学卒業生が続出し我国独特の建築構造学の著しき発達を観るに至った。」[xxxiii]33

 建築史の分野においては、西洋建築の様式・構造に関する科目を主体としながら(「造家式の沿革」(一八七五(明治一八)年)ー「建築沿革」(一八七六(明治九)年)ー「建築歴史」(一九〇一(明治三四)年)ー「建築史」(一九〇八(明治四一)年)ー)、まず日本建築が分化し(「日本建築学」(一八八九(明治二二)年)ー一日本建築(一九〇一(明治三四)年)ー一日本建築史(一九〇二(明治三五)年))、さらに、東洋建築(東洋建築史(一九〇五(明治三八)年)、東洋建築(一九一六(大正八)年))が分化する。すでに工部大学校時代、「造家式の沿革」に「日本式」という一項があり、また「造家装飾」において、「本邦ノ装飾術ノ結構巧妙ナル名寺大社ノ今尚存スルモノニ就テ講究」するということがうたわれていたのであるが、「西洋建築術」の講義一一当初、クラシックからゴシックまでを小島憲之、ルネサンス以降を辰野金吾が担当、 .コンドルは印度建築を扱った-一に対して、日本建築の歴史研究に先鞭がつけられるのは、木子清敬が講師に招かれ、石井敬吉が神社仏閣の研究に当たって以釆である。日本建築学はやがて日本建築歴史と日本建築構造に分かれ、後者は「規矩法」、「規矩術」という形で大正期半ばまで存続するが、「社寺建築」(一九一一(明治四四)年)の新設によってその内容に吸収されている。それを受けて、日本建築史研究の基礎を築いたのが伊東忠太と関野貞であるが、東洋建築史もまた、辰野の指示のもと、明治末より、その二人によって開始されている。そうした意味では、西洋建築、日本建築、東洋建築という科目の分化は、対象領域の拡大に伴うものであったと言ってよい。いったん、建築歴史(西洋建築史)、日本建築史、東洋建築史と科目が分化した後、再び建築史に統合されたりしているのも、今日のように、特定の時代や対象を限定した専門分化とは様子を異にしていることを示していよう。建築史、東洋建築史、社寺建築という形で整理されるのは大正末以降である。方法の深化は、日本建築史の研究において行われながら、西洋建築と日本建築をつなぐ歴史的なパースペクティプが東洋の空間に求められていったと言えるであろう。建築史の対象領域の拡大は、大正期に入ると、工芸史(一九一七(大正六)年、関野貞担当)や庭園史(一九二〇(大正九)年、大江新太郎担当)といった周縁領域に及んでいる。

 建築構造学の分野は、 .コンドルの構築(家屋構造)を受けて、建造物の炉体に.かかわる技術の全般にわたる分野として出発するのであるが、一八八六年の段階で、講義課目は家屋構造、建築物理、宵E架法、建築材料製造に分かれる。建築材料製造は、やがて建築材料(一八九三(明治二六)年)とその名を変え、次第に材料の製造から、むしろ使用上の性状、規格、試験法など、建築への応用を主としながら存続する。建築材料学の分野は、極めて早く分化し、独立していったということができるであろう。

 家屋構造は、当初、中村達太郎によって担当され、建築物の壁、床、屋根、基礎、建具、造作、仕上等の各般にかかわる、今日でいう一般構造各部構造にかかわるものを主体として講義されていたと考えられるのであるが、鉄骨構造(一九〇四(明治三七)年、横河民輔)、および鉄筋コンクリート構造(一九〇五(明治三八)年、佐野利器)が開講され、建築構造と改称(一九〇八(明治四一)年)されるころには、構造力学、耐震構造を軸とする分野が確立していったといえるであろう。当初、窮窿架法など石截術(ステレオトミー)を主とするアーチやドームの構造に関する科目は、時代の推移とともに鉄骨構造や鉄筋コンクリート構造にその座を譲り、やがて消滅している。

 一九一八(大正七)年には、講座の新設をみ、翌年には、構造計算法が建築構造に吸収されているのであるが、その時点においては、建築構造学の基盤は制度的にも整備され、その建築学における優位性はすでに確立していたとみることができるであろう。佐野利器はいち早く、耐火試験にも取り組み、建築材料学や都市防火の分野にも指導力を発揮し続けたのであった。建築史学と建築構造学の展開に対して、その他の分野の展開は当初必ずしも明快ではない。建築計画および意匠の分野は、大きなウェイトが置かれていたと言っていいのであるが、その分野が学として展開されるのはずっと後のことである。当初、建築計画おょび意匠に関する講義は、特別家屋配置法、衛生建築、装飾法といった科目において行われているのであるが、主体は、意匠製図、日本建築製図といった設計製図、演習に関する科目である。そのうち、比較的早く分化していったと考えられるのは、採光、照明、建築音響、暖房、換気おょび室内気侯に関する、衛生建築、後の計画原論に関する分野である。もちろん、それが、その基礎を築くのは昭和初期のことであり、必ずしも、明確な分野として成立してはいないのである、少ないながら、明治初期から、その分野の先駆をなす論文をみることができる。一方、後の建築計画学へつながっていったと考えられる科目が、特別家屋配置法である。特別家屋配置法は、各種建造物の設計計画に関するさまざまな知識を寄せ集める形で講義されていたと考えられるのであるが、特別建築意匠、建築意匠とその名称を変え、建築計画という名が使われ出すのは、ようやく、一九一九(大正八)年に至ってからである。建築計画という名称は、下田菊太郎の「建築計画論」[xxxiv]34が示すように、明治中期から使われていた。「人類為居起源」から説き起こす下田の計画論は、実用的(一.室房ノ配置法、二.材料ノ採用法)、形容的(一.普通ノ装置法、二.特別ノ装置法)、美術的(一.彫刻法、二.彩色法)という三つの側面において建築をとらえるものであるのであるが、建築計画の分野は、ある意味では、建築をトータルにとらえ、総合することにかかわっており、それ故、その学としての展開が遅れたことには、それなりの理由があったと言えるであろう。大きくは、建築史、建築構造、建築材料、建築計画および意匠といった建築学の諸領域の分化が次第にはっきりとし、科目が整理されていく一方、新たな分野も建築学の対象領域となってくる。都市計画の分野がそうである。もちろん、銀座煉瓦街の建設や市区改正事業など、都市的スケールをもった諸計画に関する関心は存在していたのであるが、建築学の一つの分野として、都市計画の分野が認識されだすのは、明治末から大正初めにかけて、住宅間題や都市問題が意識され始め、市街地建築物法および都市計画法が制定されるころからといっていい。科目の変遷でみれば、建築条令一一建築法規一一建築行政の流れが、都市計画という名称に変わったのが一九二三(大正一二)年であることからもそれをうかがうことができるであろう。

 極めて未分化であった建築学の諸領域は、建築史、建築構造、建築材料、建築計画といった分野に分化していったのであるが、それぞれがはっきりとした形で認識され、建築学の体系がはっきりしてくるのは昭和の初頭のことである。東京帝国大学の講座の構成の推移をみれぱ、それをうかがうことができるであろう。大正期までは、講座の構成と建築学の分化の過程とは必ずしも対応していないのであるが、昭和の初めに至って、その再編成が行われているのである。「第二の辰野金吾」として、講座の再編成に当たったのが内田祥三である。伊東忠太、関野貞の定年退官(一九二五(大正一四)年)の後、佐野利器が定年をまたずに退官する(一九二九(昭和四)年)という、幾分ドラマチヅクな、ある意味では偶然の事件によって、内田にその役割が与えられるのであるが、いずれにせよ、そのころまでには、建築学の展開は一つの段階を終え、次の段階を迎えようとしていたということはできるであろう。

 内田祥三が、建築史、構造、計画といった従来の講座に加えて開設しようとしたのは、建築衛生(計画原論)、建築材料、都市計画の三つである。もちろん、講座の構成と建築学の構想とは建築材料と都市計画を合わせて都市防火を内容とする講座がつくられているように(都市計画が初めて講座を獲得するのは第二工学部においてである)一対一に対応してはいない。しかし、その講座の再編成によって、今日に至る建築学の基盤はつくられたとみていいのである。こうした、建築学の分化の過程は、同しように他大学における建築教育の科目の変遷においても跡づけることができる。一九二七(昭和二)年、建築学会では、「実業学校程度の標準教科書編纂委貝会」を設けて、建築科、科目名の統合整理案を提出している[xxxv]35。それによっても、昭和の初めには、未分化であった建築学の諸領域がはっきりと輪郭をとって一般化されつつあったことをうかがうことができるであろう。建築学の諸領域が細分化されていく一方、細分化された部分系における知識を集約化し、その体係を整理する試みが現れる。昭和戦前期において、明治以降の建築学の展開を集大成したのが『高等建築学』全二五巻(一九三二~三五(昭和七~一〇)年)である。大半を各種建造物ごとに分けられた建築計画の巻が占め、実務とのつながりを強く意識した記述がなされているのであるが、『大建築学』に比べれぱ、はるかにその体系が整理されているということができるであろう。また『高等建築学』をみると、建築学が対象とする建造物や領域、ごく限られた建造物を対象としていた明治初期とは比較にならないほど拡大していることをみることができるであろう。

 こうした専門分化と領域拡大は、その後も一貫して跡づけることができる。社会の変化や技術の展開に即応しながら、また新たな課題の出現に伴って、建築学は分化、拡大していったと言っていいのである。

 

 

 3 近代合理主義と建築学一一アカデミズムの成立

 

   .西山夘三の学術観

昭和の戦前期から一貫して建築運動にかかわり、建築計画学の基礎を築くとともに、建築学の在り方にも常に発言を続けてきた西山夘三は、「日本折衷主義と我国の建築運動」[xxxvi]36において、明治以来の日本の建築界の発展過程を振り返りながら、新興建築家連盟の崩壊(一九三〇(昭和五)年)以降の状況を次のように書いている。

  「かくて、古き芸術は否定された。だがそれに変わるべきなんらの新しき前捉もなく一一同時にわが国の新しい建築理論とその実践における輝かしい正常の発展の線もまた、ここに中断されたのであった。学者は研究室にかえり、建築家は事務所ヘ、役人は青き羅紗机ヘ、一一かくてわが新輿建築家たちはいとも静粛に白己の職場にかえっていったのである。このとき以後、わが国の「建築運動」の質的変化がはしまる。そしてわが国の「建築学」の発展もまた全くあらたな段階に入るのである。これより以後、建築学における物理化学的または分析的・末梢的研究は運動の中堅エキスパートたちを加えて俄然活況を呈する。かくて構造学の進歩におくれないような「意匠」のさまざまな「科学的」研究もまた火蓋をきられた。機能ヘ、いな技術ヘ、いな物理学ヘ、かれらのいとも精密な頭脳が指向されたのである。そしてこれが現在のわが国建築学界未曾有の繁栄をもたらしたことは誰しもが知るところである。」

 ここには、創宇社の左旋回から新輿建築家連盟の結成に至る建築運動の挫折、後退が建築学の隆盛をもたらしたという見方が示されている。また、構造学に対して、「意匠」に関するさまざまな「科学的」研究が開始されたの、昭和初期以降であることにも触れられている。西山夘三のそうした指摘の背後にあったのは、それまでとは全く異なった建築学の構想である。大正末から昭和の初めにかけて、建築家を支える社会意識、歴史意識は大きく変化してきた。過去の建築圏からの分離を主張し、建築家における近代的個我の確立、あるいは創造の役割をうたった分離派建築会への批判が顕在化し、創宇社が分離派の影響から離れて、労働者住宅や診療所を主題化し始めたことに、象徴的にそれをみることができるのであるが、それは、国家的枠組みを前提とした明治期の建築観を支えたものとも、大正デモクラシー期における、国家を一挙に飛び越え、人類あるいは宇宙と自我の交感をもとにした建築観を支えたものとも異なっている。すなわち、建築と社会や大衆との結びつきが、はっきりと意識され始めるのである。そうした新たな社会意識、歴史意識は、建築家にとって新たな課題として出現してきた、住宅問題や都市問題にもいかに対応するかという問題をモメントとしながら、大正末から昭和の初めにかけての社会主義運動、そして唯物史観の決定的影響を受けてもたらされたものである。西山舛三は、「建築家のための建築小史」[xxxvii]37の序論に次のように書いている。

 「建築科学の正しき把握のためには、建築一般の生起と発展を正しく把握し、建築一般に関するあらゆる問題を発展の過程として把握せねぱならない。さて、すべての事実を歴史的事実として「歴史的に」把握しようとするわれわれにとって、われわれのうち向かおうとする建築史もまた歴史を科学としてはしめて成立せしめた唯物史観の立場からつかまれねぱならない。建築史における歴史段階は一般史におけるそれによって決定される。それは支配的生産諸関係と、そのイデオロギー的上部構造のある段階における、その時代の建築における(技術的・財産的)生産諸関係と、その生産方法とによって特徴づけられる。かかる観点にたつゆえに、「建築自体」の生産方法の史的考察における重要性は、その時代における支配的生産方法、生産関係(したがって下部構造全体)の考察にくらべると、一応第二義的意義しか持ちえない。何となれぱ後者は建築の社会的役割を決定する本質的要素であるが、前者は、その役割および下部構造自身からみちびかれるのであるから、しかしながらこのことは、従来無視されてきたこの方面の研究を軽視することをゆるすものではない。たとえば『     』七号「建築と建築生産」は、この建築生産方法が、建築生産におけるイデオロギー的上部構造一一プ小ジョズ社舎においては、それは律築論および建築技術として表われる一一の発展を制約する要素であることをあきらかにしている。」

 これは直接的†こは、建築史の方法をめぐって書かれたものである。しかし、建築を社会的な生産諸関係の中でとらえ、その歴史的な発展の過程を唯物弁証法において分析しようとする新たな建築観は、西山夘三の建築計画の方法をも支えたものである。またそれ自体、建築学の新たなパラダイムを提示しようとするものであったといってよいはずである。

 当時、山口文象、石原憲治、原沢東吾らによって、唯物史観に基づいたラディカルな建築論が展開されるのであるが、それらは一方で社会変革への展望とストレートに結びついており一一昭和初期の建築運動の目指していたものは、さまざまな組織の網領やスローガンからうかがうことができるのであるが、最も先鋭な部分においては、階級闘争の一環として建築運動がとらえられていた一一、それ故、理論と実践は不可分なものとしてとらえられていたといっていい。唯物史観に基づいた建築論の展開や建築史をとらえ直す作業は、それらが依拠した理論の水準の歴史的限界の故に、また、あまりにも生硬に、教条主義的に展開されたが故に、必ずしも実り豊かなものであったとはいえない。しかし、建築の社会的な役割についての認識を提示したこと、建築家の向き合うべき大衆(プロレタリァート)をはっきりと対象化したこと、また、建築を生産諸関係においてとらえる視点を示したこと、そして、実践的な知としての建築科学の在り方を提起したことにおいて、大きな意味をもっていたということはできるであろう。新輿建築家連盟解体以降の過程は、そうした新たな建築学の構想が次第に後退していく過程であった。実践とのかかわりを欠き、科学ヘ.合理主義へ向かうことの限界は、昭和初期の建築運動の過程で厳しく指摘されており[xxxviii]38、アカデミズムにおける建築学の隆盛は、運動の後退を意味するものと思われた。西山夘三の「新しい建築理論とその実践における輝かしい正常の発展の線」が中断されたという判断は、そうした状況認識に基づくものである。もちろん、別の見方もある[xxxix]39。しかし、昭和初期の建築学の隆盛の背後に、そうした指摘があることは留意されてよい

であろう。わが国の建築学の成立、アカデミズムの一つの性格をそこにうかがうことができるからである。

 

  .近代合理主義と建築学

 建築学という建築を支える知の在り方が、昭和の初頭において初めて、はっきりとした形をとってきた背景には、さまざまなものを考えることができるのであるが、建築および建築家を支える基盤や理念がその時期を閾として大きく変化してきたことをみておく必要があるであろう。

 一つの大きなモメントとなったのは、近代建築の理念がもたらされたことである。もちろん、その受容の過程は単純ではないし、むしろ、日本の建築を支える基盤の変化に即応する形でのみ、近代建築の理念は受け入れられたと言わねばならないのである、建築学の成立(昭和初頭における整備、体系化)と近代建築の理念は密接不可分の関係があると言わねばならないであろう。また、具体的に、それを支えたのが、建築の合理化、建築生産における分業化の趨勢である。ことに、建築学の専門分化と建築生産の合理化、分業化とはストレートな対応関係があると言っていいはずである。そうした昭和の初期までに現われてきた新たな状況を、建築学の在り方に関連する範囲で整理すれば、以下のようになろう。

 一.建築の合理化 関東大震災を契機として、鉄筋コンクリート造が定着していくころから、建築および設計の合理化の傾向がはっきりと現れてきた。建築の使いやすさ、経済性、規格化一一高層化による±地の有効利用、階高の減少による利用面積の増大、構造計算の単純化、標準化、キャンチレバー構造による外壁面の開放とそれに基づく開口部および各部の定型化、建築材料の規格化と大量生産等々-一が目標とされ、具体的にそうした建物が建てられ始めるのである。

 二.建築技術の近代化 それを可能にし支えたのは、構造技術を中心とする建築技術のさらなる展開である。ことに、施工技術における機械化、建築設備の機械化などは、いずれも輸入されたものであったが、建築の在り方を大きく転換させたものである。

 三.産業合理化運動 建築の合理化を大きく方向づけていったのは、昭和初頭における産業合理化運動である。建設産業の場合、テイラー・システムの導入などによって、組織体制そのものの合埋化、近代化を図った、一般の産業(製造業)とは少しく様相を異にしていたと言わねぱならないのであるが、建築あるいは建築家の在り方は産業合理化運動を一つの転機として、変化していったということはできるであろう。

 四.建築家像の転換 それを端的に示すのが、建築家像の転換である。明治末から大正初めにかけては、建築士=美術士+工学士[xl]40といった極めて素朴なとらえ方が一般的であったのに対して、昭和の初めには、積算構造、設備、施工といった専門分化を前提として、それを統括するものとしての建築家のイメージが定着するのである[xli]41。また逓信省営繕に代表される、官庁営繕による組織的な設計がクローズアップされるのが昭和の初めのころからである。

 五.近代建築理念の移入 以上のように互いに絡まり合った背景のもとに、わが国に近代建築の埋念がもたらされる。その導入の過程は単純ではない。ヨーロッパにおけるさまざまな動きは、当初、新輿建築と総称されて、前後の脈絡やそれぞれの主張の差異についての認識を欠いて極めて短期間にもたらされる。また、単に、スタイルや形態の新奇さのみにおいてもたらされたきらいがある。しかし、近代的な工業生産品としての鉄、ガラス、コンクリートを素材とし、インターナショナルスタイルと機能主義的方法を規範とする建築についての新たな理念は、すでに、それへの批判も同時にもたらされていたとはいえ、それ以後の建築の方向とを大きく規定するものとなったのである。うした背景のもとに、新たなディシプリンとして現れてきたのが、建築計画学の分野である。建築における近代合理主義の展開と、ことに建築計画学の展開は密接なかかわりをもっていると言えるだろう。いわゆる建築計画学が成立し、具体的な展開がなされたのは、むしろ戦後であると言ってよい。しかし昭和の初頭において、建築計画の分野は、学としての体裁を整えつつあった。著しい展開をみせたのが、建築計画原論と呼ぱれた分野である。現在では、設備工学と合わせて、環境工学の一分野とされているのであるが、その名の示す通り、建築計画の基礎となる、建築の光環境(採光、照明)、音環境、室内気候(暖房、空調)、生理・衛生(給排水)に関する知識をそれぞれ体系化するものである。また、当初、計画原論には、今日の建築計画学の母胎でもある、規模計画および平面計画、また人体寸法や動作空間に関する人間工学的分野も含まれており、文字通り、建築の設計計画のための原論を構成する分野である。

 『建築雑誌』に発表された論文、論説類の推移をみると、計画原論に関するものは、一九二九~三〇(昭和四~五)年を境として飛躍的に増大していることが分かる。このろまず台頭したのは建築音響の部門である。建築音響の理論、実験を大隈講堂(一九二七(昭和二)年)の設計に具体的に適用してみせた佐藤武夫は、その先駆者である。さらに、日照・昼光、続いて、換気・伝熱・湿気の研究が次第に充実し、昭和初期から第二次大戦前までは、計画原論の輿隆期とされている。もちろん、それ以前に、外国文献の紹介を中心として、断片的には、研究がなされてきた。しかし、観覧室における利用者の視線の分析から、その平面や断面の形状を理論的に解析してみせた小原節三の「活動写真観覧室の乎面について」(一九二四(大正一三)年)や日影曲線図を作製してみせた中島外吉の「日光及日時計の作り方について」(一九二二(大正一一)年)など、その先駆とみなされる業績が現れるものは大正中期から末期にかけてであり、計画原論が建築学の一つの分野として位置づけられるに至ったのは、やはり昭和の初期以降と言っていいのである。そうした中で注目すぺきは、渡辺要、長倉謙介による『計画原論』(高等建築学第一三巻建築計画 )であり、藤井厚二の一連の住宅設計、実験研究[xlii]42である。前者室内気侯、換気、伝熱、日照、日射、音響といった環境工学的諸側面とともに、人間の動作、心理と室、家具の形態、人や物品の出入りと開口部や建具の形態、そして間取りの在り方、廊下、広間、階段の各部の在り方に及び、それまでの研究を集大成し、また、戦後の建築計画学の原典となったものである。小学佼の児童数の分布を統計的手法によって解析し、教室数との相関を求めるなど建築計画に心理学的な手続き、方法を導入していること、また、用途に応して部屋の大きさ、形態を決定し、部屋相互の関係に基づいて、その配置を決定する乎面計画の方法を示していることなど、そこには、建築の設計を論理化し、科学化していこうとする建築に対する新たな見方とアプローチが示されている。そうしたアプローチは、大きくは建築の合理化を前捉とし、合理主義あるいは機能主義に基づいたものと言ってよい。しかし、そこでは、建築をさまざまな側面から科学的にとらえようとする一方で、それなりに建築の全体性が前提とされており、建築の設計との密接な関係が全体を通して意識されていることは留意されるべきであろう。後者の藤井厚二のアプロ一チは、設計と計画原論研究を同時に実践することにおいて、極めて優れたものであった。そのデザイナーとしての作品の評価は、さまざまであろう。椅子座と床座の折衷・統合を目指したその住宅は、近代建築の理念が定着する過程†こおいては、むしろ、アウトサイダー的なものとして位置づけられてきたのかもしれない。しかし、あくまで合理的な方法を貫きながら、日本の風土、気侯に即した住居の在り方を実験によって模索したその方法は、高く評価されてしかるべきであり、そしてまたそれは建築計画原論の先駆をなしたと言えるものである。

 以上のような建築計画学の基礎領域としての建築計画原論の展開に対して、すでに触れたように、建築の社会的な在り方に視点をとらえた新たな建築学の構想のもとに、建築計画学の方法論を展開したのが西山夘三である。「建築計画における動線」[xliii]43が示すように、その初期においては、 .A.クラインの平面計画論の導入[xliv]44をもう一つのモメントとしていると言えるかもしれないのであるが、その方法論の展開の基礎となっているのは、西山自身のいうように、弁証法的唯物論であり、ことに、芸術の一定の型と社会の型との間の法則的関係を明らかにするフリーチェ流の芸術社会学の構想は、住戸計画における型計画の理論に影響を与えていると考えられる。西山の主張は、「住宅計画の科学的考察」(卒業論文)に付されていたという序文にすでに示されていたのであるが、それによれぱ、「建築計画にしぱしぱつきまとっている気分的、個人的あるいは芸術家的とまでいわれる主観的方法」ではなく、しかも「衒学的・形而上学的科学主義」に陥ることなく、すなわち、科学と芸術の排他性を前提に、「科学」による機械論的解決を云々するのではなく、また「書斎的、実験室的研究のみによって科学的考察がなされ得るのではないこと」を前提としたところにあったのである。

 西山の庶民住宅を中心とする建築計画研究は、実に多岐にわたる。内田雄造の整理によれぱ[xlv]45、方法論に関するものを除いて、住宅に関する過去の制度・慣習・伝統を明らかにする、また、住宅政策や住宅経済、住宅問題などを扱う、庶民住宅の基礎的諸条件の探究、その中核をなすといっていい膨大な住み方調査に基づく居住方式の研究、計画基準、規格設計の作成のための基礎的諸条件を明らかにする研究、および具体的な計画基準の設定、規格平面の提案の四つの部門に分けて考えることができるのであるが、いずれも、戦後の建築計画学の展開を方向づけるものであった。また、戦後まもなくその戦前戦中の蓄積を踏まえて提出された「食寝分離」、「隔離就寝」の原則を中心とする住生活の指針[xlvi]46が、社会的にも大きな影響を与えるものであったことはよく知られていよう。

 

 西山の、ことに住宅供給論は、戦時体制下の状況を前提として組み立てられており(上からの住宅供給、量産→型計画→標準化)、計画という概念が一般化するのが、グロ一バルにみても、一九三〇年代であることから、その限界も含めて、より広い視点から位置づけられるべきであろう。しかし、西山の方法論の基底に、生活(生活の変革)が常にとらえられていたこと、また、住み方調査から提案まで、また、その迫跡調査を含めて一貫するプロセスとして計画が考えられていたこと、そして、その指針が実践的な意義をもちえたことは、建築計画学の出白を考える上では、常に想起さるべきであろう。伊東忠太と関野貞を先達として開始されたわが国における建築史研究は、法隆寺論争を、その方法論を鍛える大きな一つの忘としながら、また、東洋建築の領域に歩を進めながら、着実に展開されてきたのであるが、昭和を迎えるころに至ると新たな段階を迎えることになる。一つの転機となったのは、研究者の世代交代であり、その増加である。伊東、関野、そして天沼俊一、大熊喜邦ら、建築史研究の第一世代の後、少しく断絶があったのであるが、大正末に至り、将来を嘱望されながら夭折した長谷川輝雄以下、藤島亥治郎、村田治郎、田辺泰、足立康らの第二世代、そして数年置いて、第三世代が輩出し、昭和の初期には、優れた業績を次々と挙げていくのである。その成果は、伊藤延男が整理している[xlvii]47のであるが、日本建築の通史が昭和になって初めて著されたこと、また、社寺建築のみならず、住宅や城郭、霊廟など、あらゆる分野に対象が拡大していったこと、そして何よりも、極めて水準の高い、歴史学の領域にも通用する成果が数多く挙げられたこと等々において、戦後の建築史研究の基礎を築いたのが、昭和の初期であったと言えるのである。

 その中核となったのが「建築史研究会」(一九三六(昭和一一)年発足)である。「建築史研究会」は、当初、足立康、大岡実、太田博太郎、関野克、竹島卓一、谷重雄、福山敏男の七名を同人として出発するのであるが、一九三九年には、機関誌『建築史』を創刊し、その研究の水準の高さと密度において、建築史研究をリードする位置を獲得し、戦後も、広く建築史家の参加する組織として存続する。

 「建築史研究会」の目指そうとしたことは、「建築史研究の態度について」[xlviii]48などからうかがうことができるのであるが、建築史研究の主力が大陸建築に注がれ、日本建築史の研究が第二義的なものとみなされている状況において、「第二段の発展」を試みること、従来の、現存する遺構のみからの立論が偏頗なものになりがちであるが故、文献方面の基礎的研究を展開すること、また、建築史関係の論文が低調にして杜撰であり、非科学的なものが多いなかで、「純粋なる」科学的研究を行うことである。すなわち「建築史研究会」を共通に支えたのは、精緻で、厳密な文献考証に裏づけられた科学的考察であり、実証主義であった。

 稲垣栄三は、伊東忠太と関野貞の方法を比較しながら、前者が、歴史発展の法則に強い関心を抱き、歴史をもって現実の変革のための手段と考え、現実に対する問題意識、広大な構想力、そして体系的学問への志向を示す一方、厳密な考証的努力を欠いていたのに対し、後者は、歴史にそれ独自の価値と意義を認め、個体の多様性、具体性に即して、確実な事実を記述することに終始し、普遍的なもの、法則的なものに興味を示さなかったとしている[xlix]49のであるが、そうした意味では、「建築史研究会」は、関野貞の実証史学の方法を引き継ぐものであったと言えるかもしれない。

 実証史学の方法は、歴史学一般においても、昭和初期以降、支配的となり、確立されたと言っていいのであるが、それには、それなりの背景があった。実証主義一般について指摘されるように、それは転向の一形態であれ、ファシズム体制化において、皇国史観、国体のイデオロギーに包摂されず、「純粋なる」学の領域を守り通すほとんど唯一のよりどころであったのである。しかし、一方で、大河直躬が指摘するように[l]50建築史研究が、文献史料の偏重によって些末な事実に傾き、また、文献操作のしやすい対象に研究が集中し、体系的考察や社会的考察に欠けたことは、その限界として指摘しなけれぱならない。建築史研究は、そのことにおいて、かつて、少なくとも伊東忠太によって構想されていた、日本の建築の在り方に、その将来の在り方をも含めて、歴史的パースペクティプを与える役割を失い、建築学の一領域へと相対的地位を転落させたと言ってよいからである。

 建築構造学の分野は、佐野利器の耐震構造理論を軸としながら展開してきたのであるが、関東大震災(一九二三(大正一二)年)を契機として、さらに飛躍的な展開を遂げる。建築構造学の展開は、一貫して、地震との格闘であったと言っていいのであるが、関東大震災は、とりわけ、耐震構造をめぐる問題に、決定的なインパクトを与え、以後、鉄筋コンクリート造や鉄骨構造が本格的に定着していくことになるのである。昭和の初頭には、建築構造学の展開にとって、大きな意味をもった、有名な論争が閾わされる。柔・剛構造論争と呼ばれる論争がそれである。佐野利器・内藤多仲らの剛構造論に対して、真島健三郎が『地震と建築』(一九三〇(昭和五)年)において、わが匡の在来の木造建築が地震を受けながら、倒壊せずに残ってきたことを主たる論拠に、柔構造がより耐震的であるとし、折しも、伊豆地震(一九三〇(昭和五)年)において、筋かいや方づえのない、また土台と基礎が緊結されていない住宅の方が被害が少なかったことから華々しい論争に展開したのである。当時は、大地震の振動についての記録が乏しく、地震の主要動の局期が不明確であり、それ故議論の立脚点は極めて曖昧で、論争自体は感情的な水掛け論に終始したと言わねぱならない。しかし、その論争が建築構造学の展開に大きな刺激となるものであった。

 そうした意味では、建築構造学の基礎もまた、一九三〇年代に確立したとみることができるのである。戦後、超高層の建設に際して、柔構造論は見直されるのであるが、論争の結果は、剛構造論の勝利であった。というより、現実に採用されたのは、剛構造論であり、剛構造の観念が定着することになった。そして、それは、日本の建築の在り方を大きく規定することになるのである。

 

 4. 戦後建築学の展開

 

  a.建築科学の反省

 第二次世界大戦の敗戦を挟んで前後数年、一九四〇年代は、ほとんどの建設活動が停滞した空白期である。建築学の展開もまた一時の中断を強いられたと言えるであろう。しかし、困難な状況においても、実践的な研究は続けられ、涙ぐましい努力が払われてきたと言ってよい。ほとんどの建築用資材が強力な統制下に置かれた状況において、木材注入耐火液の実用による「耐火木材」、石綿の代わりにグラスウールあるいは植物性繊維を混入したスレート、珊瑚礁利用をヒントとした軽量骨林、海砂の利用など、さまざまな材料の開発が試みられている。また、合成梁、ジペルの改良による「大形大梁間木構法」やパネル式組立構法による住宅の大量生産方式、さらには、竹筋コンクリート構造や竹ラスモルタル塗りが試みられている。例えぱ、竹筋コンクリートにおいての研究は、現在第三世界の国々において真剣に取り組まれつつあるのであるが、戦時研究一色に塗りつぶされるなかでのこうした努力は、それなりに評価すべきであろう。

 事実、戦後の展開を用意する経験が蓄積された側面も指摘せねばならない。住宅営団における調査研究は、ほとんど実現する機会をもたなかったとはいえ、戦後の住宅供給の在り方への貴重な体験となったし、防空を最大の課題としながらも、国±計画、都市計画の分野においても貴重な体験が積まれたと言っていい。また、同潤会による「東北地方農山漁村住宅改善調査」(一九三五(昭和一〇)年~一九四一(昭和一六)年)や建築学会集落計画委貝会による「東北地方に於ける農村集落計画案」(一九四〇(昭和一五)年)など、具体的な課題に即した、優れた調査研究もなされている。

 しかし、一方である意味では、建築学の在り方が社会の関連で最も厳しく問われたのが、戦中から戦後まもなくにかけてのこの時期であったことは言うまでもない。戦後の出発は、まず、これまでの建築学の展開を問い直すところにあったと言えるであろう。国家主義から戦後民主主義への転換は、建築家や研究者の建築観に大きなインパクトを与える。そして、戦後まもなくの動乱を背景として展開された建築運動の過程で、建築学の在り方も厳しく問い直される。例えぱ、戦後建築の出自において、建築界の抱えるさまざまな問題を集約化し、良くも悪くもその展開を方向づけたと言っていい新日本建築家集団(   )は、その綱領に「伝統の正しい批判及び摂取を基礎とする科学的建築理論の確立」をうたっているのであるが、その理論的支柱の一人であった西山夘三は、「建築科学の反省」[li]51において、建築学のそれまでの在り方を次のような点において批判している。すなわち、従来の建築学が人民の建築・を取り上げてこなかったこと、また、それが現実の課題から遊離した抽象的遊戯的性格をもっていたこと、さらに、建築学が生産から遊雄してきたこと、そしてさらに方法論を欠いてきたことの、互いに絡まり合う四つの点である。そして新しい建築科学の樹立に当たって留意されるべき点として、建築科学は人民の生活を守らねぱならない、建築科学は建築労働の生産性を向上することを任務としなけれぱならない、建築科学は新しい生活の造形を指導するものでなけれぱならない、という三点を挙げている。

 西山夘三自身もいうように、そこでの主張は、当時の状況をストレートにうかがうことのできるものであり、攻撃的で、単純化しているきらいがある。しかし、建築学が、計画、歴史、構造、材料、設備といった部分に分割され、それぞれの部分はさらに専門的分枝に間口を広げるのみである状況、そして、建築の全体を統一的に把握する方法論をもたないこと、そして実践性を欠いてきたという指摘は、当時広くなされており、今日の問題にもつながる鋭い指摘であったと言えるであろう。建築学の展開は、専門分化と領域拡大の歴史であった。言ってみれぱ学として成立しやすい部分から、順次発展を遂げてきた。そして、昭和の戦前期において、その基礎はほぽ確立されていたと言っていい。そしてまた、専門分化による問題も、それ故、すでに認識され始めていた。戦後における新たな出発を迎えて、それが大きな問題として議論されたのは、ある意味では当然であったのである。「建築技術のあり方」[lii]52をめぐる議論は、各分野のエキスパートを集めたものとして、すなわち、広範に建築技術や建築学の在り方の抱える問題を明らかにしているものとして興味深い。それをベースとして、建築学の細分化と総合の問題を幾つか具体的にみてみよう。

 そこでは、まず、建築基礎技術(ビルディングェンジニァ)としての、構造技術、衛生技術、施工技術といった個別領域に即して、細分化と総合化の問題が提出されている。例えば、構造学が、社会的必要性や建築生産方式の発展とともに変化し、各構造方式ごとの専門分化が進んできたこと、そして細分化による深化が今後も目指されねばならないことが確認される一方、細目の計算に走るより、構造物全体としての構造計画が重要視されねぱならず、総合化の努力がなされねぱならないことが主張されている。また、衛生技術の在り方も、分科の発達が前提されねぱならないにせよ、総合のための学問としての建築環境学の構想が語られている。

 しかし、こうした個別領域における分化と総合の問題は、より上位のレヴェルで、建築の全体性をどうとらえるかをめぐって、建築の設計(デザィン)との関連をどうとらえるかをめぐって問われていた。そこで一つの焦点となっているのは、建築学の細分化を総合する役割をもったプランニングという新たな領域である。そして、基礎技術、計画技術(プランニング)、デザインの相互関係をどうとらえるかがそこでの最大のテーマであったと言ってよい。計画あるいは計画化という概念は、戦後まもなく、非常に大きなウェイトを持って使われ出す。プランナーという職能が、個別の技術領域を統合する上で、また社会的なさまざまな問題を建築へ具体化する上で、要求されてきたことが一つの背景である。そして、一般†こは、プランニングという領域の出現は、建築技術領域の拡大として受け止められるのであるが、プランニングとか、プランナーの役割をどう位置づけるのか、また新たに生しるプランニングとデザインの分化の問題をどう考えるのかが問われるのである。また、ある意味では一貫して問われてきたと言っていい、構造とデザインの関係も問われるのである。

 こうした建築学、建築技術の専門分化と総合化の問題をめぐる議論の背景には、

芸術と科学、機能と美、工業化の問題といった建築の本質をめぐる、また、戦後まもなくの、ことに、浜口隆一の『ヒューマニズムの建築』をめぐる議論がある。しかし、そこで指摘されている問題の大半は、現在もなお問われていると言えるであろう。協同の可能性をどこにみるか、総合者をどうみるのかが究極的には、そこでは問われている。ある者は、プランナーに、総合者の役割を求める。また、あるものは、専門分化を迫求するのが建築学であり、その総合を図るのが建築家であるという。またさらにあるものは、構造家であれ計画家であれ、デザイナーであれ、総合技術に通しているものこそ建築家であり、総合者であるという。戦後、建築学は、急速な近代化、技術革新を背景に、さらに飛躍的な展開をなし遂げたと言っていい。しかし、その棋底において、専門分化と総合の問題は必ずしも解かれてきてはいないのである。

 

   .戦後建築学の展開

 戦後建築学の展開を簡単に振り返ってみよう。戦後復輿期において、建築界にとっての最大の課題は、戦災復興都市計画であり、住宅難に対する対策であった。戦後まもなくから、建築家の多くは、都市計画や住宅の問題に取り組んできた。建築学会でも、戦後すぐさま復興建設委貝会を設けて研究を進め、「戦後郡市計画及住宅対策に関する建議」を戦災復興院し対して行っている。しかし、戦後の動乱期を過ぎ、市街地建築物法を抜本的に改定する建築基準法や建築±法、建設業法が制定され、また、朝鮮特需によるビルプームによって、建設活動が活発化するころからは、各分野において、研究が再開されていったと言えよう。戦後の建築学の展開を大きく特徴づけ、また規定したのは、高度成長を支えた急激な技術革新であり、産業化の論理であった。また、建築生産の合理化の方向性であった。

 建築構造学や施工技術の展開にとって、決定的な意味をもったのは、建造物の大規模化、高層化を伴う技術革新である。大規模なシェル構造が用いられ、各種シェル形式に対する曲げ理論を含む研究がなされたことはその一つのメルクマールである。また、一九六四年に建造物の高さ制限が撤廃され、超高層が実現するに至ったことは、耐震構造論の展開にとっても、また振動論の展開にとっても、さらに施工技術の展開にとっても、それぞれの成果であると同時に、さらなる飛躍の大きなモメントとなったものである。

 建築生産の工業化に伴う研究も、戦後を特徴づけている。もちろん、その萌芽は、戦前にさかのぽることができるのであるが、それが本格的に目指され、具体化していったのは戦後であった。住宅に即してみると戦後まもなくの   グループのプレモス(      )を先駆としながら一九五〇年代半ぱごろから、軽量鉄骨系または木質系のメーカーによる独立住宅の試作が現れ始めている。また住宅公団によって、大形パネル式構法、さらに中型パネル式構法が開発されている。そして、一九六〇年代に入って、住宅生産の工業化は本格化し、具体的に根づいていくのであるが、プレハプ工法の開発研究は、それに伴い展開していったのであった。

 工業化、標準化の問題に関連して、モデュールに関する研究が盛んになされたのが、一九五〇年代の後半である。

 また、空調設備等の設備の高度化によって、設備工学の分野が飛躍的な展開を遂げたことも、戦後の建築の在り方を大きく変えたと言わねぱならない。さらに、建築材料学の分野の展開もめざましい。プラスチックスをはしめとして、各種樹脂とその加工品が次々と建築材料として導入され、それとともに、研究の対象は拡大していった。そして、新建材の普及もまた、建築の在り方を大きく変えたと言えるであろう。

 こうした建築技術の各方面での展開は、ほとんど海外の技術の移入によったものといっていい。少なくとも、海外技術を主、し、自らのものとすること、日本のコンテクストに即したものに昇華することにェネルギーの大半は割かれたと言っていい。近代化が一元的な目標とされる中で機械化、合理化、工業化がそれによって進められ、やがて、高度成長期における未曾有の建設の時代を支えることになるのである。

 戦後の建築学は、そうした過程でより技術、工学への傾斜を強め、多様な分野における技術革新に対応する形で、ますます細分化され、専門分化を拡大していかざるを得なかった。技術と表現の問題が最も密接な関連のもとにとらえられようとしていたのは、一九五〇年代後半の伝統論争の過程であった。しかし、やがて、構造表現主義の出現が示すように、技術をストレートに表現する建築が一九六〇年代に一は支配的となっていく。すなわち、細分化された個別の技術の総合が建築であるといった建築観がもたらされたのがその一つの帰結であったと言えるだろう。

 また、戦後における建築技術を支えたのは、具体的には、テクイクラシーとしての建設業であった。建築学は、戦前までの蓄積をもとに.それをリードし得たと言っていい。しかし、超高層に象徴される、高度で、巨大な技術の展開は、テクノクラシーとしての建設業の存在を抜きにし得ないが故に、やがて、その関係が逆転していったことも指摘しなければならないであろう。戦後、建築技術とデザインの領域を架構するものとして、すなわち、構造形式のみや形態操作のみによって建築をとらえることを両面批判しながら、また、建築を輻広い視野から、ことに社会的側面からとらえる新たな領域として、生活そのものから建築を組み立てていこうとした建築計画学の分野は、およそ以下のような展開をしていったと言えるであろう。

 建築計画学の基礎が、西山夘三の戦前・戦中の庶民住宅の研究によって作られ、戦後の展開を用意したことはすでに触れた通りである。それを受けて、西山研究室とともに、建築計画学の展開を主導していったのが吉武研究室である。西山夘三の住み方調査に基づく住戸計画論は、吉武研究室によって、ことに農村建築研究会による農村調査の過程で精緻化され、やがて住宅公団の五一C型プランの提案という形で引き継がれるのであるが、むしろその方法を使われ方研究として公共施設一般へと拡大していったのが吉武研究室であった。また、戦前における計画原論を引き継ぎながら、規模計画論によって、建築計画学を共通に支える理論構築を行ったのが吉武泰水である。

 すなわち、戦後まもなく、建築計画学は、比較的論理化しやすい、また体系化しやすい、規模計画論にょって基礎を確立する一方、住宅から学佼、病院、図書館といった施設ごとの研究ヘ、その領域を拡大していったのである。その出発時において、施設研究についての蓄積はほとんどなく、海外文献に頼りながら、むしろ施設とに専門家を養成し、使われ方研究を持統することによって、その経験の蓄積をもとにした計画論の展開が目指されたのである。施設計画研究を共通に支えたのは、平面計画論である。平面への着目(平面計画的思考)は、当時、建築史の領域などにも広範に認めることができるのであるが、建築計画学の領域では、住み手や使い手の要求が投影される平面に着目し、その構成を問題とすることを一つの大きなてことしたと言えるであろう。建築計画研究は、次第に対象領域を拡大しながら、また、専門分化を強めながら、個別対象についての知識を蓄積し、体系化(整理)していったと言っていいのであるが、やがて、地域計画といったより大きな空間的広がりを対象とするに至る。

 しかし、一方、限定された対象について、しかも生活と圭尚との限定された関係のみに焦点を当てることが、対象自体の位置づけや生活や空間の全体性を見失うことにつながるといった批判や、膨大な調査を行い対象についての細かな知識を蓄積していくことが、どのような形で設計に結びつくのかといった疑問、さらには、標準化や平面計画へ還元することの問題が指摘され、建築計画学の限界が意識され出している。機能主義批判の顕在化する一ギ〇年前後には、建築計画学は一つの転機を迎えたと言ってもよい。

 一九六〇年代に入ると、建築計画学の領域はさらに多様な展開をみせる。施設ごとの縦割り研究に対して、横割り研究として設計方法に関する研究が現れたこと、機能面のみではなく、心珪古から生活空間をとらえる研究が現れたこと、さらに生産面からのアプローチや解析手法に関する研究が現れたことはその大きな変化であろう。ある意味では、建築計画学の分野においても細分化が一貫して進行する一方で、対象の多様化とともに拡故していったのである。概括して言えば、戦後における建築計画学は、素朴ヒューマニズムと機能主義、合理主義、そして啓蒙主義をベースとしながら、計画の技術的側面に自己限定するとによって展開してきたと言えるであろうか。

 歴史意識そのものの転換をもたらした敗戦が、建築史学の分野にとって大きなインパクトとなったことは言うまでもないであろう。戦前のアカデミックな実証史学が社寺中心の様式史を確立したのに対して、民家あるいは住宅史の研究、さらには、建築生産・建築技術の歴史に関する研究が戦後まもなく現れたことは、大きな変化である。また、意匠史にかかわる造形計、午間護の展開をみることができる。そして、何よりも戦後まもなくを特徴づけるのは、生活と平面との対応に焦点を当てる機熊論的研究である。ことに、住宅史に関して、そうした視点から日本の住宅史を体系づける試みも現れ、数多くの成果が出されている。もちろん、その限界は意識され、より総合的把握を目指す試みがなされていくのであるが、明らかに、それらは戦前とは異なった展開を示すものであったと言えるであろう。

 建築史学もまた、その対象を拡大し、意匠、機能、生産、技術といった各側面から建築の歴史をとらえる方向へ向かっていった。そして、社寺を中心とする日本建築史の研究も深化されていった。そうした過程で、和風や数寄屋をめぐる伝統論争において、建築史の分野が大きな発言力をもち得たことは注目すべきことと言えよう。また、一九五〇(昭和二五)年の末には、日本の近代建築を総覧する試みが現れ、明治建築や日本の建築の近代化過程に関する研究が開始されるのであるが、そうした研究も、一方で明治建築の保存という実践的課題に結びつくとともに日本の近代建築の在り方に、今後の展望も含めて歴史的パースペクティプを与えるという意味において、大きな意義をもっていると言えるであろう。また、一九六〇年以降は、都市史に関する研究や、海外への調査が木格的に開始されるようになり、より大きな広がりをみせるようになる。

 しかし、一方、専門分化と対象領域の拡大の背後において、総合的方法の欠如や隣接諸科学との関連の欠如が指摘されつつあることも事実である。内藤晶は、一九六三(昭和三八)年以降を「沈潜の季節」として規定している[liii]53のであるが、一方で街並み保存や昭和戦前期の建造物の保存といった実践的な課題をてことしながら、また一方で、より広い空間的広がりにおいて、グロ一バルな視野のもとに日本の建築をとらえながら、さらなる展開が求められているのである。

 

 c. 新たな課題

 戦後における建築学の展開は、以上、簡単に振り返ったように、建築の近代化、合理化の路線に沿いながら、技術そのものの展開に大きく支配されながらなされていった。そもそも、工学的な枠組みを前提として出発したところにその特徴があるとは言え、戦後における技術革新には著しいものがあり、その水準は世界的なレベルに達したと言えるであろう。また、技術革新が多岐の分野にわたり、また、社会的にさまざまな、また複雑な機能をもった建物が要求されるにつれて、建築学はその対象領域を拡大させてきた。そして、それとともに、専門分化は、当初そのアポリアが意識されていたにもかかわらず、その度合いを強めてきたと言えるであろう。戦前においてすでにその基礎が確立されていたとはいえ、『高等建築学』の段階では、それまでの断片的な知識を集成するレペルであったものが、一九五〇(昭和二五)年代の終わりに、『建築学大系』が出されるころには、その学としての体系が意識され、その骨格が示される段階に達したと言ってよい。しかし、現実における技術の展開は、また社会の変化は著しく、個別分野における実践的知識の収得がさらに先行していったのであった。

 こうした、戦後建築学の展開は、高度成長期の終焉を迎えるころから一つの転換を遂げつつある。近代化、合理化に対する反省が一つの大きなモメントである。近代化、合理化の生み出したもののマイナス面が具体的に現れてくることによって、それへの対応を迫られ出したのがその一つのきっかけである。例えぱ、環境公害である。騒音の問題にしろ、水の問題にしろ、日照の問題にしろ、熱の問題にしろ、建築内的に限定された枠の中で考えられてきて、その周辺環境へ及ぽす影響や、都市全体を総合的にみる視点を時として欠いてきたことが意識され出すのである。大規模な開発がその地域の自然や生態系にどのようなインパクトを与えるのかといった視点は、開発や計画の論理の中に、ほとんどその位置を占めてこなかったといってよい。

 エネルギー問題や資源問題に伴い、ェネルギー浪費型の建築から省ェネルギー型の建築が目指されるようになったのは大きな転換である。高度な設備や新材料の開発に急で、その開発を支える前提そのものが見失われてきたのである。スクラップ・アンド・ピルドを繰り返すことを前捉に、近視眼的な経済的合理性のみにおいて、消費の対象として建築をとらえてきたことに対して、長期的なスパンにおいて建築を見直すことがなされ始めたことは、建築の本来的な在り方からすれぱ当然であり、それだけ、戦後の建築学を支えた価値意識がいかに歪められていたかを認識させるものである。工業化の方向性についても一つの反省が加えられつつある。工業化が必ずしも、量産化に結びつかないこと、また、要求の多様化になじまないことが意識されつつあるのである。工業化が企業内部の論理として迫求されるとすれぱ、その限界は明らかであり、社会生活を支える真の合理的な体系の中で位置づけられることが今問われつつあると言えるであろうか。在来構法に対する見直しが積極的に見直されつつあるのも、工業化に対する一つの反省である。工業化と在釆構法の関係をどこにこ見いだすかは大きなテーマと言えよう。

 こうした転換をもたらしつつあるのは、技術そのものを支える思想の転換である。地域主義や中間技術をめぐる議論が示すように、地域の生態系に即した、小規模な技術の在り方が建築においても模索されつつあると言えるだろう。建築の技術に関する限り、すでにわれわれは、さまざまな近代技術を使いこなせる段階に達していると言っていい。建築学には、いったんは原点に返って、その在り方を見つめ直す役割があると言えるであろう。実学としての建築学の展開は、社会の在り方や制度と深く結びついている。しかし、社会の在り方や制度が一方的に建築学を規定するわけではない。常に、そのヴィヴィッドな関係を意識しておく必要があろう。例えぱ、建築計画学研究は、オープンスクールやノングレーディングといった新たな教育や学校の理念の提出によって、また、さまざまな施設機能をもつコミュニティセンターが出現することによって、それまでの研究の根本を問われることになったはずである。変化するものと変化しないもの、基本的な理念や方法と現状分析ないし現実対応との関係が、今また建築学に問われていると言えよう。

 また、近代日本の建築学の展開は、常に、西欧近代の技術や理念を一元的な尺度としてきたと言っていいのであるが、今、問われているのはよりグローバルな視野である。建築史の分野は、新たなパースペクティプとコンテクストを見いだすことを求められている。そうしたパースペクティプのもとに、日本†こ固有な建築や技術の在り方を生み出す、一つの基盤をつくり出すことは、建築学の大きな役割と言えるであろう。

 

 おわりに

 近代日本における建築学の歴史的展開を振り返る上では、むしろ、決して学たり得なかったもの、近代合理主義や実証主義をベースとする学術観からすれば、学としての位置づけを与えられなかったものに着目することが必要かもしれない。ここでは、それを果たすことはできなかったのであるが、専門分化によって建築の全体性が見失われる中で、独自の学風をつくりあげたものは極めて貴重である。例えば、建築をめぐる知の体系化という意味では、森田慶一の建築論の展開は、そうした試みが少ないだけに光彩を放っている。また「体系なき体系」とも言われる今和次郎の考現学や生活学の構想は、近代日本における建築学のパラダイムとは全く別のパラダイムを提示するものであった。建築学は、決して、完成されたものではない。また完成されることはないのかもしれない。一方で、経験的な事実の蓄積を体系化していく試みは、建築学には常に問われている。専門分化や対象領域の拡大によって、また急激な社会や技術の変化によって、理論や方法、体系化への試みはついないがしろにされてきたきらいがある。しかし、一方で蒋築学の体系が、建築の全体を覆えるかどうかについては必ずしも保証の限りではない。常にその限界は意識されなけれぱならない。そして、そのずれは、具体的な実践の過程において、建築という総合行為において解いていかなければならないであろう。

 



[i]1 日本建築学会編、丸善、一九七二年

[ii]2 『建築雑誌』、     所収

[iii]  関野克:官制大学発足前後(日本建築学会編:近代日本建築学発達史   篇 建築教育、 章、丸善、一九七二年)

[iv]4 エジプト建築、アッシリア建築、ペルシャ建築、支那建築、日本建築、ギリシア建築、エトルスク建築、ローマ建築、ロマネスクおよびビザンチン建築、回教建築、ノルマン建築、後期ロマネスク建築、ゴシック尖塔様式、後期ゴシック様式、ヨーロッパの現代建築が項目として挙げられている。

[v]  関野克:前掲論文 参照

[vi]  丸山茂、『初期伊東忠太における建築窺の変転一「美上「学」と「匡枠上その内的閂連について、東京大学修士論文、    。伊東忠太の建築nの変転については丸山茂のこの論文に詳しいが、ここでは、その学術観の初期の理念のみを問題としている。

[vii]7 木子清敬が招かれて開講。一八八九年。

[viii]  伊東忠太、法隆寺研究の動機、『建築史』第二巻、第二号、一九四〇年

[ix]9三笠書房,一九四二 

[x]10 丸山茂:前掲論文6参照

[xi]11 一八九一(明治二四)年一〇月。後述するように構造学発展に大きなモメントとなっている。

 

 

[xii]12         ‐l ‐   、 . .(一八一四~一八七九):l          rc       r “                                                          など

[xiii]13                                                  

[xiv]14       . . ぺ一∞三~一八七九)

[xv]15             一七二三~一七九六                             ほかに          .の                                                             の  n                                                  などが参照されていた。   

[xvi]16 丸山茂が指描するように「本邦建築術未来の運命」(工学会誌  .一三二、一八九三)においては第一次の要件、第二次の要件という言い方がされるのであるが、第一次の要件として雨露寒暑を防ぐ方策が挙げられ、審美的美はそのウェイトをおとしている。いずれにせよ、伊東忠太の学術‘は揺れ動いていたといっていいであろう。

[xvii]17 建築雑誌   .七一、一八九二一一一

[xviii]18 工学会誌   .一三二、一八九二‐一二

[xix]19 建築雑誌   .七五、一八九三一三

 

[xx]20 学と術の関係を論ず(建築哲学、第一編 建築術と美術.第一章)

[xxi]21 造家学会―建築学会の歴史はここではそれに即して記述する余裕はないのであるが、その性格の変転をうかがうことは建築学の史的展開の一つの側面をうかがうことになるであろう。

[xxii]22 建築雑誌一八九五-一二

[xxiii]23 日比忠彦:鉄骨構造建築学(建築雑誌一九〇六-三~一九一〇‐七)

[xxiv]24  学位論文、一九一六

[xxv]25  内藤多仲:架構建築耐震構造論(建築雑誌一九二二-一〇~一九二三-三)

[xxvi]26  建築雑誌一九一一‐七

[xxvii]27  建築雑誌一九一五‐一〇

[xxviii]28  伊東忠太:昨是今非(建築雑誌一九一六一九‐一一)

 

[xxix]29  岡田信一郎:非美術的建築論を難ず(建築、一九一五)

[xxx]30  建築非芸術派.建築芸術派、構造派と内省派といった対立は、かなり広範に意識されていたと言っていい。自我の内面をみつめ、その拡充によって国家的枠組みを一挙に超え、人類や宇宙との交感を主題化する一つの立場は大正デモクラシー期の建築観を特徴づける。

[xxxi]31 長谷川尭:神殿か獄舎か、相模書房、一九七二 ほか。

[xxxii]32  三橋四郎原著 一九〇四、大熊喜邦ほか改訂増補一九二三~二五

[xxxiii]33  内田祥三:建築学(東京帝国大学学術大観、第八章、一九四二年)

[xxxiv]34  建築雑誌、一八八七年四月

 

[xxxv]35  新科目名として構造力学、建築材料、建築構造、建築計画、建築様式、建築設備、施工法規が挙げられている。

[xxxvi]36  建築と社会、一九三七年六月

[xxxvii]37  建築と社会、一九三三年八月~三四年一月、『建築史ノート』一九四八年

[xxxviii]38  山口文象の「合理主義反省の要望」、国際建築、一九二八年一〇月、「新興建築家の実践とは」、同一九三〇年一二月、など

[xxxix]39  稲垣栄三は、建築運動一の成果は別の場所(アカデミズム内部)において継続されていったという見方を示している。

[xl]40  中村達太郎、建築家の定義如何、建築雑誌、一九一五年九月

[xli]41  長野宇乎治、建築士の職分に関する将来の傾向如何、日本建築士、一九三〇年九月

[xlii]42  藤井厚二、我国住宅建築の改善に関する研究(学位論文、一九二六)、および日本の住宅(岩波書店、一九二八)

[xliii]43 建築学研究  .八〇、一九三六所収

[xliv]44  川喜田煉七郎=ア・クライン氏の住宅平面の考察(国際建築一九三〇年一二月)、ほか、

[xlv]45   内田雄造、庶民住宅の研究(日本建築学会編、近代日本建築学発違史第七編 建築計画 六.三、丸善.一九七二)

[xlvi]46  西山夘三、これからのすまい、相模書房、一九四七

[xlvii]47  伊藤延男、建築史研究の隆盛(日本建築学会編、近代日本建築学発達史、第一〇編 建築史学史、第七章、丸善.一九七二)

[xlviii]48  足立康、大岡実の論文(建築史第二巻、第四号)

[xlix]49  稲垣栄三、建築史研究の発端(日本建築学会編、近代日本建築学発連史、第一〇編 建築史学史、第一草、丸善、一九七二)

[l]50 大河直躬、建築史研究会の成立(同上第六章)

[li]51  建築雑誌、一九五〇年三月

[lii]52   建築雑誌、一九四八年一一月

[liii]53  内藤晶、戦後の建築史学の発達(日本建築学会月=近代日本建築発達史、第一〇月、建築史学史、第一〇草、丸善、一九七二)