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2022年6月23日木曜日

『群居』からビルドデザインを考える、布野修司・秋吉浩気、聞き手 門脇耕三、建築雑誌、2018年06月号

 『群居』からビルドデザインを考える、布野修司・秋吉浩気、聞き手 門脇耕三、建築雑誌、201806月号

 

『群居』からビルドデザインを考える

 

 

対談

布野修司

秋吉浩気

 

司会

門脇耕三

 

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設計と施工の分業体制は自明なものではなく、特に住宅分野では繰り返し異議が申し立てられてきた。現代ではデジタル技術の発達を背景に両者の柔らかな結合が模索されており、1980年代には工業化された建築生産システムの成熟を背景に、設計と施工の区分を超えた職能のあり方が議論されていた。後者の主舞台ひとつが同人雑誌『群居』であるが、当時と現在の問題意識の交点を探るため、『群居』編集長を務めた布野修司氏を招いて討議を行った。

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『群居』の時代の建築生産

 

門脇:『群居』とはどんな雑誌だったのでしょうか。

 

布野:戦後まもなく建築家の眼前には圧倒的な住宅不足がありました。建築家は、最小限住宅やプレハブ住宅の構法など様々な提案を行います。一方、住宅公団による団地の大量供給が始まります。また、プレハブメーカーが登場します。60年代には建築家は都市に向かいます。住宅に対する戦後の取り組みが途絶えてしまったという認識があって、改めて日本の住宅をどうするのかという問題意識で集まったのが『群居』のメンバーたちでした。創刊号が「商品としての住居」。2号が「セルフビルドの世界」。3号が「職人考——住宅生産社会の変貌」。4号が「住宅と建築家」。4号で1サイクルになるような編集を考えていました。【写真:『群居』の書影】

一方に篠原一男さんの「住宅は芸術である」や池辺陽さんの「No.住宅」のように一戸一戸設計していけばいいという建築家もいたわけですが、『群居』(ハウジング計画ユニオンHPU)で常に議論していたことは、日本の住宅生産システムをどう考えるかでした。そこには、大きく分けると、大野勝彦(内田祥哉スクール)のように全体をオープン・システムとして捉える考え方と、石山修武のように工業化された部品をゲリラ的に利用しようという考え方の対立がありました。大野さんもまもなく「地域住宅工房」のネットワークを考えるようになるんですけどね。

 

門脇:最初の4号には、設計と施工が明確に分離された近代的な枠組みに対する疑義が通底していますね。

 

布野:「アーキテクトビルダー」という新しい職能像についてかなり議論したんですが、その発端にあったのは、住宅規模の建築では、設計施工分離の設計料のみでは仕事にならない、要するに儲からないという現実です。歴史を振り返れば、マスタービルダーは設計だけではなく施工も統括していたわけです。

 

門脇:住まいの設計は机上だけではできないという思いもあったのではないでしょうか。

 

布野:ぼくらが木匠塾をはじめたのは、住宅スケールであれば身体で実感した方が早いという思いがありました。造って揺すってみれば構造が分かる。学生を連れて山の中に入って、木造でバス停や茶室、農機具小屋や神社の拝殿や橋など様々なものを設計し、実際につくってみるということを毎年やりました。

 

デジタルファブリケーションの時代の建築生産

 

門脇:秋吉さんはデジタルファブリケーションを使いながら設計と施工をつなげて、さらにユーザー自身が建築家たりうるような世界をつくろうとしています。

 

秋吉:今ではショップボットという木材加工機が400万円程度で購入できます。素材生産者にこうしたハイテク機材を導入し、彼らをビルダーに変えていく事をやっています。目的としては、工場生産の家を運ぶプレファブリケーションを超えて、家のデータだけを送って現地生産するオンサイトファブリケーションを実現することです。ここでいう現地とは、資材調達から加工・アセンブルが完結する半径5km圏内のネットワークのことです。

【写真:ネットワーク図】

現在までに22地域に機械を導入してきましたが、これらを更にネットワーキングすることを考えています。これは、インターネットのような自律分散協調型のオープンな建築生産の体系を構築する試みでもあります。とはいえ、受信できる基盤がないと回線は通らないので、全国にルーターを拡散するために20182月に1億円の資金調達を実施しました。実際の導入地域では、本当につくりたい住環境や公共空間の質について、規格品ベースではなくゼロベースで、共に考え実施することを行っています。

 

布野:僕の場合、構法システムを考えて、セルフビルドを組み込むか、あるいは形態のバリエーションを組み込んだ構法システムを考えるか、あるいは部品を生産しその組み合わせに向かうのかといった事を考えていましたが、デジタル技術で標準化をしない場合どういう展開があるか、全体の設計システムはどうなるのか聞きたい。

 

秋吉:ひとつずつオリジナルな設計施工データをつくるのは時間もコストもかかるので、規矩術のようなシステムを構築できないかと考えています。この木材とこの納まりならこの寸法といったような大工の経験を数値化し、簡単な入力から加工コードまでをリアルタイムに出力できるツールを開発しています。こういった仕組みを地方に分配し、ローカルな建築家がそれを翻訳していくという「ツール+翻訳者」というモデルを考えています。

 

布野:それはすごく大事なことで、地方のアトリエこそがそういう武器を使うべきだと思う。UAoの伊藤麻理さんは大きなコンペを獲っていますが、CADでディテールまで自分で設計するといいます。それがBIMになればいいんでしょう。若い建築家は、新しい道具を駆使した方が良い。その伝道師が必要なんだと思います。

 

ヴァナキュラーかシステムか

 

門脇:生産がローカルに閉じているとそれが制約になり、その地域独特のヴァナキュラーな建築が生まれやすい。一方で近世に普及した規矩術はシステマティックな体系で、むしろ大工技術の均質化・画一化をもたらしました。両者はかなり違った方向性をもっていますが、秋吉さんはヴァナキュラーとシステムのどちらを目指しているのでしょうか。

 

秋吉:ヴァナキュラーなシステムが無数に生成されるプラットフォームを目指しています。CLTのような中央集約的な規格材から非規格な部材を生成する手法や、根曲がり材のような非規格材から建築を生成する手法を構築しています。

 

布野: 僕は、スケルトンとインフィル、さらにクラディング(外装)を分けるオーソドックスなフレームで考えてきました。インフィルは使い手側の勝手に任せる。ただし、躯体システムは建築家が提案する必要がある。問題はそのシステムです。躯体システムをサステナブルに考えること。更新する場合も、それがサステナブルである必要がある。

 

秋吉:今大阪で進めているプロジェクトがまさにスケルトンインフィル的です。大阪には裸貸という文化があり、建具や畳ごと引っ越していた。クライアントからは、5年単位で裸貸しできる躯体を考えて欲しいと頼まれました。すべて90mmCLTパネルで構成されており、1mピッチの板柱の間に910mmの規格品を埋め込めるだろうと考えています。たとえば、家族四人で住み始めたときには2階をリビングに1階を居室として利用し、子ども成長して家を出たら下を店舗として貸し、上に寝室を移動するようなことを提案しています。さらに二戸一のスケルトンが群を成しマイクログリッド化することで、電気効率を向上させています。【図:アクソメ】

 

布野:まさにそういうことです。住まい方の型が重要です。その型にたいして用意された材料が循環系になっているかどうか。この規模のモデルからしか流通していかないはずなので、それはぜひ実現させてください。システムを、物語をつくって使いながら見せていくことは大事です。

 

現代の「群居」はいかに可能か

 

門脇:市井の人びとの思いから出発して、それが街並(すなわち「群居」)になるような住環境はこれから本当に構想可能でしょうか。

 

布野:おそらく構法やデジタルファブリケーションのような技術と同時に、住み方自体を考え直すことが必要でしょう。少子高齢化の時代に老人が一人で4人家族の家に住んでいたら熱効率的にも問題だから、シェアハウスやコレクティブハウスがモデルなるべきなのですが、日本の住宅産業はこれまでずっと戸建モデルとマンションモデルで来てしまいました。だからぜひ新しいモデルを開発してほしいですね。

 

門脇:街並の根拠となるようなベースビルディングをしっかりデザインしていかないといけないということですね。

 

秋吉:住まい方に関する感性を取り戻していく事を目的として、生活家具をゼロベースで発想し作るワークショップを実施しています。自分の事を突き詰めていくと、自分の家族や地域といった全体の事を考えていかざるを得なくなります。裏を返すと、街並みに対する能動性を生むためには、生活に関する主体性を取り戻さねばならない。この草の根的な活動の先に、ベースビルディングそのものを町場が定義していく未来がある。私人による小さなビルドの積み重ねから、群居はデザインされていく。そう信じています。






2021年6月7日月曜日

 進撃の建築家 開拓者たち 第28回 最終回 「戦後建築」の初心とその遺伝子201812(『進撃の建築家たち』所収)



28回 結章                                    建J  201812

 

 「戦後建築」の初心とその遺伝子-

布野修司

 

 


「進撃の建築家」という連載タイトルは編集部から与えられたものである。瞬時に思い浮かんだのが『進撃の巨人』(諫山創)と東大全共闘の機関誌『進撃』であり、それを枕に「いま、若い建築家たちは何に対して「進撃」しようとしているのか?何に向かって闘おうとするのか、「進んで」「撃つ」「闘う」べき「巨人」とは何か?「進撃の建築家」の作品と活動を取り上げながら、自らの半世紀の歴史を重ねてみたいと思う」と連載主旨を記した(序章「闘う建築家」20169月号)。


 

 『進撃の巨人』

 『進撃の巨人』については、「巨人とそれに抗う人間たちの戦いを描く」という謳い文句と累計数千万部というネット情報を知るだけで、その内容についてはずっと気になってきた。そもそも、誰が何に「進撃」するのか、何と「闘う」のか、「進撃の巨人」とは巨人が「進撃」するということであろう、しかし、巨人と闘う人間の物語といい、英語タイトルは「アタック・オン・タイタン(巨人への攻撃)」である。

 『進撃の巨人』について折に触れて口にしていたのであろう、つい最近、全巻持っているというA-Forumの麓絵理子さんから、読みますか?と最初の10巻手渡された。一気に読んで、続きが早く読みたいと思っていたら、なんと、わが息子もe-bookで全冊購入済という。かくして、全26巻(200910月~(120129月~2620188月)(図①)を読んで全容を把握するに至った。「巨人」の描写に違和感があり(気味が悪い)、動画風の音表現とコマ割に戸惑い、登場人物の錯綜する関係に混乱したけれど、物語の重層的な構造には引き込まれた。確かに多くの読者を惹きつける魅力がある。




 物語は、巨人vs人間という単純な設定ではなかった。主人公(エレン・イェーガー)そのものが巨人化する能力をもち、人間対巨人の戦いという構図は、巨人化する人間同士の戦い(巨人戦争)、さらに巨人を操る国家間の戦争という2重、3重の構図となる。すなわち、自立的に営まれてきた三重に囲われた城壁内(パラディ島)と巨人の支配する外部(大陸部)という単純な構図ではなく、外部にもエルディア国とマーレ国の対立があり、収容所がある。エルディア国が立て籠もったパラディ島には王政が敷かれているが、始祖の血を受け継ぐ王家が「不戦の契り」をたてたという。日本の象徴天皇制や平和憲法を想起させ、エルディア国とマーレ国の対立は米ソ(冷戦構造)、米中の対立構造を思わせる。9人の巨人は、核兵器(遺伝子技術、ITC技術)を独占する大国を象徴するかのようである。様々な寓意を読み取ることができる。いまやNHKでアニメの放映が始まっている。宇宙へと、あるいは超未来へと物語を展開すれば、さらに連載は続くであろう。と思いながら、待てよとこの連載を始めた20169月の段階へ『進撃の巨人』の連載を戻ってみたところ(20巻)、その時点では、未だエルディア国の起源やマーレ国の存在は明らかにされていないのであった!

 「進撃の巨人」の主人公たちは104期生である。既に「巨人」化能力をもつものがいるが、誰もが「巨人」となりうる。「進撃の建築家」についても同じであろう。物語の展開は予測不能である。

 

 「第二の戦後建築」:『戦後建築論ノート』 

 「進撃の建築家」としてとりあげてきた建築家たちは30数名となる。なお、その作品を実際に見てその仕事について考えてみたい建築家は少なくない。連載中に、直接間接の情報によって取り上げるべくリスト化した建築家はさらに30数名に上る。当初の依頼は、1616作品、16ヶ月16号の連載であった。

 「311以後の建築家とは。自分語りと重ねつつ、これまでにない建築家像を実践する新世代に焦点を当てる」というリード文が付されてきたのであるが、編集部には、もう少し思惑があった。指令書には「新しい動き方をしている30代、40代の建築家を取り上げる。一見、突然変異的、異端の16人だが、成長時代から成熟時代と大きく劇的 に変化した日本社会では、20世紀的昭和型建築家職能はもはや通用しない。歴史の必然で生まれたミュータントと位置づける。特に311の原発事故後は、拡大型成長的価値観の崩壊と反省という点で日本社会の歴史的分岐点となるであろう。そういう意味で第二の戦後建築が始まったとも言えそうだ。そこで、『戦後建築論ノート』の布野修司がこの16人、16作から何を読み取るか、見ものである。建築への絶望から建築を始めたという布野修司、計画学への問いかけ、建築史の検証、アジアへのまなざし、スラム・寄せ場・セルフビルドへの共感、タウンアーキテクト待望など、布野修司の自分語りも重ね合わせて16人の建築家 像、建築家職能論を展開する。  とあった。

 1616作品というのは予め無理でありーそれこそ「20世紀的昭和型建築家職能」に拘っていることになろうー、新しい動きをする若い建築家たちを「歴史の必然で生まれたミュータントと位置づける」つもりはない。しかし、『戦後建築論ノート』の著者が若い建築家の新しい仕事をどう位置づけうるかは著者自身も興味があった。「計画学への問いかけ、建築史の検証、アジアへのまなざし、スラム・寄せ場・セルフビルドへの共感、タウンアーキテクト待望」などについては語れるだろう。『戦後建築論ノート』(図②)にしても、それを増補した『戦後建築の終焉』(図③)にしても、戦後建築の行方を展望しているのである[1]

 

 近代建築批判以後:『建築少年たちの夢』 

 身近に出会ってきた若い建築家たちの仕事に触れようというのが出発点である。それぞれの建築家たちが、同世代の誰の仕事を注目しているか、誰をライバルと考えているかを聞いて紹介してもらう、「進撃の建築家」の輪をつないでいくというのが方針であった。最初に渡辺菊真を選んだのは、アジア・アフリカでの活動、セルフビルドへの共感、太陽建築の展開、京都コミュニティデザインリーグ(CDL)など、連載の軸を体現している建築家だと思ったからである。渡辺菊真(開拓者01)が推薦してくれたのは、Studio Architect増田信吾・大坪克亘、UID Architectsの前田圭介・高橋一平といった面々であった。また、キュレーター・アーキテクトを目指す香月真大(開拓者15)君は実に情報通で、度々リストを示してくれた。女流建築家として活躍している人は誰ですか?と問うと、すぐさま岡野道子、中川エリカ、金野千恵、アリソン理恵、今村水紀+篠原勲、大西麻貴、瀬川翠、冨永美保、永山佑子、古市吉乃、常山未央、岩瀬諒子、植村遙といった面々の連絡先を送ってくれた。しかし、いずれも仕事に触れる機会はつくりだせなかった。東京にいるので、地方に足を運ぶ機会がほとんどつくれなかったのは心残りである。

 もうひとつ下敷きにしてきたのは、『建築少年たちの夢 現代建築水滸伝』(2011年)である。「現代建築家批評 メディアの中の建築家たち」と題して20081月から201012月までの3年間、36回にわたって本誌に連載したものをまとめたのだが、実は、最後の3回は「建築の新しい世紀―建築家の生き延びる道」と題して、若い世代について触れている。本にする段階で分量の問題もあって、結局、20世紀前半生まれの世代に限定し、近代建築批判の建築家たち、安藤忠雄、藤森照信、伊東豊雄、山本理顕、石山修武、渡辺豊和、象設計集団、原広司、磯崎新という9の建築家(集団)のみについて絞った。藤本壮介、ヨコミゾマコト、馬場正尊、佐藤淳、西沢立衛、芦澤竜一、森田一弥、坂口恭平、岡部友彦、藤村龍至、山崎亮といった名を既に挙げている。布野スクールについても、森田一弥の他、渡辺菊真、山本麻子、丹羽哲也、丹羽大介、吉村理、黒川賢一、松岡聡、柳沢究、魚谷繁礼、正岡みわ子、水谷俊博、北岡伸一などがいる、と書いている。すなわち、本連載は、「現代建築家批評」の続編でもあった。

 渡辺菊真が渡辺豊和の遺伝子を引き継ぐように、岡啓輔が石山修武の高山建築学校を引き継ぐように、安藤忠雄、藤森照信、伊東豊雄、山本理顕ら9人の「建築少年たちの夢」の遺伝子を確認しようとしたのが本連載である

         

 311 以後

 東日本大震災が日本を襲ったのは『建築少年たちの夢』の2校を終えた直後であった(図⑤)。「あとがき」には次のように書いた(2011411日付)。

2011311日、1446分、東日本大震災が日本を襲った。M9.0、史上最大規模の地震である。本書の二校を終えた直後であった。・・・その後一月を経て、福島の第一原発が未だ収まらない。日本は、あるいは世界は人類始まって以来の経験を共有しつつある。2011311は少なくとも日本の歴史にとって永久に記憶される年月日となるであろう。・・・・この国難ともいうべき日本の危機を前にして、敗戦後まもなくの廃墟の光景がまず浮かんだ。振り出しに戻った、という感情にも襲われた。そして、戦災復興からの同じような復興過程を再び繰り返してはならないと震えるように思った。戦後築きあげてきた日本列島のかたちがそのまま復元されることがあってはならないのではないか。エネルギー、資源、産業、ありとあらゆる局面で日本を見直し、再生させていく、世界に誇れる建築と都市が新たに創造されなければならない。そのために必要なのが「建築少年たちの夢」である。建築を学ぶものはすべてが日本再生のまちづくりに取り組もう。そして、現場で深く考えよう。そこに建築の未来を見出そう。次の世代として、世界をまたにかける建築家が生まれるとしたらその中からである。それは夢などでは決してない。」(図⑤)                 






 日本の戦後建築の歴史を、日本を代表する建築家の足跡を軸に、自らの個人史にも引きつけながら辿ろうとしたのが『建築少年たちの夢』である。後は、続く世代に期待したい、新たな建築の未来を「建築少年たちの夢」にかけたい、というのが『建築少年たちの夢』に込めた思いであった。

 

 アンシャン・レジーム

 311直後、多くの建築家たちはすぐさま動いた。アーキエイドArchi-aidグループの建築家の活動や伊東豊雄などの「みんなの家」がその象徴であるが、身近にも竹内泰グループの番屋建設(図⑥)、滋賀県立大学の木匠塾グループの番屋(図⑦)、陶器浩一グループの「竹の会所」(図⑧)「浜の会所」(図⑨)など、建築の新たな展開を夢見させる動きが展開されてきた。

 しかし、311から7年、事態は、期待していたようには動いてはいないように思える。とりわけ「フクシマ」は止まったままだ。先日、仙台で開かれた日本建築学会大会で「祈りを包む建築のかたちー福島・世界を念いながらー」(司会:大沼正寛、副司会:竹内泰 記録:新井信幸:解題:鈴木浩、基調講演:安田菜津紀:渡辺和生、青井哲人、MC: 坂口大洋)と題する、ある意味画期的な協議会が開催されたのであるが(図⑩)、報告と議論を聞いていて、福島の復興はまだ始まったばかりだ、そんな思いに囚われた。「解題」と題する鈴木浩先生の講演は、地域評価の基本を根底から見直す必要を訴えるものであったし、青井哲人+青井研究室が監修するNPO法人福島住まい・まちづくりネットワークの「福島アトラス」(010203)(図⑪)の刊行は、福島の過去・現在・未来を少なくとも江戸時代に遡って見つめ直そうとするものである。「原発問題」がはるかに長期的な歴史のプログラムを要求していることははっきりしている。





 大災害が露わにするのは、社会に潜在する諸対立、諸差別の構造である。被災地においてそれを一気に克服することはそもそも容易ではない。復興バブルの影響がたちまち日本全体に及んだことが示すように、問題は、被災地にのみあるのではない。あらゆる地域の建築家の日常の仕事のなかにある。それにしても、次々に大災害が日本列島を襲う。気候変動、地球環境問題も含めて、津波被害、原発、すべて人為すなわち人の営みがもたらしたことでもある。「エネルギー、資源、産業、ありとあらゆる局面で日本を見直し、再生させていく、世界に誇れる建築と都市が新たに創造されなければならない」「 戦災復興からの同じような復興過程を再び繰り返してはならない」「戦後築きあげてきた日本列島のかたちがそのまま復元されることがあってはならない」のである。

 しかし、露わになってきたのは、建築産業界のアンシャン・レジーム(旧態依然たる構造)である。重層下請構造の問題は、建設業界だけの問題ではないが、正規―非正規、外国人労働者といったより複雑で鵺(ぬえ)的な支配構造が成立している。戦前戦中の連続・不連続の問題は、「戦後建築」の出自に関わるが、「戦前の国体」が「戦後の国体」に引き継がれてきたように(白井聡『永続敗戦論』(2013)『国体論』(2018))、建設産業のアンシャン・レジームは、戦後も存続してきた(潜在し復活再生してきた)。「建築家」の存在は、ほとんど建設産業の巨大な構造に埋没しつつあるかのようである。「進撃の建築家」たちが挑んでいるのは、この巨大な構造である。

 

 デザイン・ビルド

 四半世紀ぶりに東京に帰ってきて、斉藤公男先生が代表となって2014年に立ち上げられたA-Forumアーキニアリング・デザイン フォーラム(ArchiNeering Design Forum 略称 A-Forum)に、AB(アーキテクト/ビルダー「建築の設計と生産」)研究会をつくっていただいた。斉藤先生、安藤正雄先生、そして広田直行先生らとともに、建築の生産と設計をめぐる様々な問題について議論してきた。まず問題となったのは「新国立競技場」の設計者選定、設計施工をめぐる問題である。続いて「デザイン・ビルド」そして「公共建築の設計者選定(コンペ)」の問題を問い続けてきている。

 日本における建築家の職能確立の過程は、ある意味では挫折の連続の歴史である。戦前の帝国議会に重ねて上程されて成立しなかった建築士法をめぐって争われたのはいわゆる「専兼問題」である。すなわち、建築設計業を専業とするか、施工も合わせて兼業を認めるか、と言う問題であった。背景にあったのは、「建築家」vs「請負」の対立である。第二次世界大戦の敗戦によって、再び、建築家の職能法の成立がGHQ体制下で議論されるが、結局、資格法として建築士法が成立することになる(1950年)。建築界の「アンシャン・レジーム」は維持されることになる。

 そして、設計施工の分離か一貫かという問題は、1960年代を境に大きく転換していく。アトリエを基盤とする個人の建築家では対応できない大規模なプロジェクトが出現してくるのである。建築の危機、建築家の危機が叫ばれたのは1960年代末から1970年代にかけてのことである。そして、1970年代末には、日本で建築家の職能確立を目指す団体である日本建築家協会JIAが公正取引委員会から独占禁止法違反の審決を受けるに至り、改組、会員数の拡大を迫られることになる。

 こうした経緯の詳細は『戦後建築論ノート』『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説』(2000年)(図⑫)に譲るが、AB研究会における議論を通じて明らかになるのは、1990年代以降、デザイン・ビルドあるいはPFI事業が一般化しつつあり、ますます、「建築家」の存在基盤は縮小してきたように思える。JIA所属の建築家は約4000人、最盛期の半分であり、平均年齢は60歳を超えるという。

 

 そうした中で、本シリーズでとりあげてきた「進撃の建築家」たちは、それぞれに「闘い」、道を開きつつある。それぞれに評価してきたけれど、一言で言えば、彼らは全て「戦後建築」の初心、そして、近代建築批判の声をあげた「建築少年たちの夢」を確実に引き継いでいるように思える。JIAにしても相坂くんたち若い世代が新たな動きを始めている。彼らがミュータントと見えるとすれば、戦後日本の社会が変質(戦後レジームの総決算)してきたからである。戦後建築の初心を引き受けようとしてきたものには、「巨人の壁」に挑む「進撃の建築家」たちの活躍の場を用意する仕事が残されている。

 『戦後建築論ノート』の末尾には次のように書いた。

 「建築が様ざまな制度を通じてしか自己を実現することがないとすれば、制度と空間、制度とものの間のヴィヴィッドな関係をつねに見続けていく必要があるはずである」

 

  



[1] 日本の建築界の戦中戦後を問うたのが『戦後建築論ノート』(1981615日)である。第二次世界大戦に突入していった15年戦争期と建築の1960年代を重ね合わせて、近代建築の行方、産業社会の乗り越えの方向を展望したのであった。そして、1995117日の阪神淡路大震災は、日本の戦後建築の依って立ってきた根底を揺るがすものであり、その乗り越えの必要をますます意識させるものであった。阪神淡路大震災の大きなショックをバネに『戦後建築論ノート』を増補したのが『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』(1995831日)である。

2021年6月6日日曜日

フォルマリズムの探求-異化・同化・転化 「庭路地の家」 進撃の建築家 開拓者たち 第27回 竹口健太郎(開拓者34)山本麻子(開拓者35) アルファヴィル

 進撃の建築家 開拓者たち 第27回 竹口健太郎(開拓者34)山本麻子(開拓者35) アルファヴィル フォルマリズムの探求ー異化・同化・転化「庭路地の家」201811(『進撃の建築家たち』所収)



開拓者たち第27回 開拓者34 竹口健太郎 開拓者35 山本麻子            建J  201811

アルファヴィル

 フォルマリズムの探求-異化・同化・転化

「庭路地の家」

布野修司

 

 アルファヴィルの2人、竹口健太郎[1]、山本麻子[2]もまた僕が京都大学建築学科で最初に出会った学生たちである。このシリーズでは、渡辺菊真(開拓者01)、森田一弥(開拓者14)、平田晃久(開拓者17)、丹羽哲矢(開拓者26)、水谷俊博(開拓者29)をとりあげてきた。いずれも1970年代初頭生まれで、僕の学生時代に生まれ、育った世代である。もうすぐ50歳に手が届く。早いものである。同世代の建築家として、藤本壮介(1971年生)、小堀哲夫(1971年生)、吉村靖孝1972年生)などが思い浮かぶ。


 竹口くんは加藤邦男研究室で、設計演習のエスキス・チェックの際、今もそうだけど、矢鱈に理屈っぽかった記憶がある。麻子さんは布野研究室配属であるが、修士論文のために大連南山地区の満鉄社宅を孫躍新(天津在住)、王勝さん(北京在住)と一緒に調査したことがなつかしい[3]。北京滞在中に、先頃その実行犯が相次いで死刑執行された「地下鉄サリン事件」(1995321日)が起こった。当時の中国は、北京や天津の車道を多数の自転車が埋め尽くしており、かつての満鉄幹部の住宅には数世帯が雑居する、そんな時代だった。南山地区は、再開発が課題になっており、当時大連市長をしていた、2012年に失脚した元重慶市長、薄熙来と偶然会って握手したことを思い出す。2014年に20年ぶりに訪れて、「南山風情旅游街」への変身にただただ驚いた。


 麻子さんは修士を一年休学、文部省給費留学生としてパリ建築学校ラ・ヴィレット校へ留学、同時期に竹口くんはAAスクールへ。当時から2人は仲がいい、という噂があった。19969月に帰国して大連調査をもとに修士論文[4]を書いたけれど、時間が足りず不本意だったと思う。博士課程に入って学位論文に書くことを進めたような気もするが、本人は設計まっしぐらである。山本理顕さんが埼玉県立大学のコンペで勝って人が欲しいというので推薦、スタッフとなったが、1年足らずで京都に戻り、19984月アルファヴィル設立に至る。京都を拠点に設計活動を開始して、今年、20周年となる。

 

  アルファヴィル

 アルファヴィルと言えば、J.L.ゴダールの映画、1965年のベルリン映画祭金熊賞を受賞した『アルファヴィル、レミー・コーションの不思議な冒険』である。日本公開は1970年で、公開時に新宿アートシアター[5]で観た。1960年代末から70年代にかけて、ヌーヴェルヴァーグの映画、特にJ.L.ゴダールの映画を見るのは学生たちの必修科目?だった。『気違いピエロ』『中国女』も続いてみた。しかし、どんな映画だったかというと心許ない。魅力的主演女優アンナ・カレーニナは覚えているけど、難解だったことだけが記憶に残る。ゴダール・リヴァイバル?があったのだろう[6]、わが娘の部屋にアンナ・カレーニナのポスターが貼ってあったことを思い出す。

 J.L.ゴダールの映画では「感情や思想の自由など個人主義的な思想が排除された都市」がアルファヴィルである[7]。アンチ「アルファヴィル」の思いが込められているのか?事務所名の由来について改めて尋ねてみると、フランス語の造語で、英語では〈アルファ・シティー〉、日本語では〈ある(A)都市〉という意味で、やはり、ゴダールの映画にヒントを得た、という[8]。「〈ALPHAVILLE〉はSFで、近未来のどこかの都市を舞台にしていますがセットは使わず、パリのようでパリでないような、なにか違和感のある場所選びが絶妙です。見慣れた都市を改めて見直す視線、異化する視線を常にもって建築設計に取り組んでいこうという所信表明です」という。

 事務所設立20周年を迎えるに先だって、2人は、英文の作品集“Alphaville Architects, EQUAL BOOKS(2015)を上梓している。既に数々の作品[9]があり、受賞歴[10]がある。

 

 京都から世界へ

 作品集の冒頭の「アルファヴィル」論(解説)(英文)で倉方俊輔が触れているので思い出したのであるが、設立以前、修士在学中に手掛けた作品に山本(有造)[11]家の別荘がある。図面を見せられた記憶がある。倉方によれば、既に、斜め線による空間分割、内と外とのシームレスな連結というアルファヴィル建築の特性をみることができる。2人ともどこかで建築修業をすることなく独立したから、学生時代のまま設計活動を続けてきた印象がある。しかし、いきなり独立といっても仕事がなければ始まらない。最初の仕事N-Convent Extensionについては、健太郎くんの父竹口和男さんのサポートがあったのだと思う。京都大学建築学科出身の構造設計家であり、京都の建築家ネットワークで活躍されていて、僕も何度かあったことがある。それでも、事務所を立ち上げたばかりの頃、僕の当時の自宅近く、高野で設計したカフェを見せてもらったことがあるが、苦労している様子であった。作品集に掲載されている作品の中では、白川通りの、いかにもローコストの美学を追究したかのようなCafe House(図②)が初期の佳品である。


  1990年代半ば、ソ連邦解体後のヨーロッパが若き建築学徒にとって実に刺激的な場所であったことをこのシリーズ(大島芳彦(開拓者27)、伊藤麻里(開拓者28)など)で再確認したのであるが、短いとはいえ、2人は胎動する何かを受け止めたのだと思う。そして同時に、生まれ育った世界の古都・京都を拠点とすることも決意した。以降、京都から世界へ向けた発信が常に意識されている。Web Siteによるグローバルな情報発信は、建築ジャーナリズムの世界を大きく変えてきたが、いまや世界中からアルファヴィルを訪れる学生、インターン生、建築家がいる。

 「アルファヴィル」のウエブ・サイトは次のようにうたう。

 「京都を中心に、常に空間の新しい可能性を考えながら活動しています。・・・・・スケールの違いによらず3次元的に自由な発想、そして光に留意したシンプルでありながら陰影と奥行きのある空間を心がけ、国内外へ提案してきました。」

 作品集の冒頭には、「建築=窓=構造」「幾何学的手法」「3D建築を目指して」とある。

 

 斜線・斜面・斜壁

 作品集に採りあげられた作品群をみると、全体を貫いているのは明らかにフォルマリスティックな手法である。かたちの自律性が追求されているように思える。そして、やたらに斜め線が目立つ。House Folded(図③)、House Twisted(図④)など、まるでXYZの直交座標軸を憎むかのようである(3次元的に自由な発想!)。New Kyoto Town House(図⑤)やSlice of the Sky(図⑥)にしても、ファサードは近隣に合わせながら、内部には斜め線が挿入される。確かに、倉方のいうように、デコンストラクションの時代に建築の遺伝子が組み込まれて、その面白さに没入してきたように思える。


    

                     

 1960年代末から1970年代にかけて、近代建築批判を標榜する多彩な表現が生み出された。その批判の方向は大きくはコンテクストかコンセプトかということになるが、歴史的様式(プレモダン)へ、装飾へ、地域へ、ヴァナキュラー建築へ、バラックへ、概念建築へ・・・と様々であった。しかし、それらはモストモダン・ヒストリシズム(あるいはリージョナリズム)、○△□の建築などと仕分けされはじめ、「ポストモダンの建築」と総称されることになる。

 近代建築批判という課題は、デザインの問題にとどまるものではない。建築の産業主義的生産消費のシステムが問題である。形態操作の水準にとどまるとすれば、限界は予めはっきりしている。 通常、形態のみの操作には建築家自らが飽きる。そして、ディテールの洗練、材料や構法の探求へと建築を深化させていく。新奇な形態を追い求め続ける伊東豊雄について「かたちの永久革命」(『現代建築水滸伝 建築少年たちの夢』(2011))と評したことがあるが、当の本人が「新たなかたちを生み出し続けるのは疲れるよ」と呟くのを直接聞いたことがある。「みんなの家」に一旦行き着いたのもわからないわけではない。「常に空間の新しい可能性を考えながら」という意気やよし!である。しかし、その行き着く先は見えているのであろうか?

 

 異化するコンテクスト

  10年ほど住んだ彦根に「アルファヴィル」の作品が3つある。Skyhole(2014)という戸建住宅(図⑦abc)、Hikone Studio Apartment(2015)という集合住宅(abc)、そして教会である。戸建住宅はオープニングの時に見せてもらった。作品集の最後に掲載されている「アルファヴィル」らしい作品である。ただ、住宅スケールの建築にしては「幾何学的手法」を優先しすぎている印象をもった。彦根では、キャッスルロード(戸所岩雄)あるいは四番町スクエア(内井昭蔵)のような歴史的町並みを復元するかのようなファサード・コントロールの手法が展開されてきた。彦根の2つの作品は、その立地において、そうした規制を逃れているかにみえるが、京都では至る所でその規制と闘うことが課題となる。




 ファサードはコンテクストに合わせながら、内部空間は3D-CADで自在につくり出すというのはひとつの手法である。New Kyoto Town Houseはそうした例である。しかし、ファサードに縛られすぎるとファサードと建築(空間)構造が分離されることになる。商業建築には一般的に見られるファサーディズム、虚偽構造(シャム・コンストラクション)、看板建築の系譜である。峻拒すべきは、勾配屋根を一律規制するといったファッショ的な景観規制である。「アルファヴィル」のフォルマリズムの探求は、もとより、皮相なファサーディズムとは無縁である。しかし、形態の自律性のみを追求するわけでもない。一般に、フォルムが生成されるコンテクストをどう捉えるか、異化するコンテクストとは何かが問題となる。



 京都で新しい作品ができたというので、一日足を運んだ(78日)。見せてもらったのは「絆屋ビルヂング」(図⑨)「庭路地の家」(図⑩)「粋伝庵ゲストハウス」(図⑪)の3作品である。いずれも、作品集にまとめられたこれまでの作品の印象と異なり、外に向かってその存在を強調する構えがない。木造であり、木造で斜線、斜壁の妙味を追求しようとする「絆屋ビルヂング」の他は「アルファヴィル」にしては温和しい。一皮むけたような気がしないでもない。








 図と地

  「絆屋ビルヂング」の場合、ビルジングといいながら、街区のいわゆる「あんこ」に立地しており、景観に関わる規制はそう厳しいわけではない。容積率は、クライアントの要求に対して余裕がある。ジュエリーアーティストの地石浩明さんの話を聞いて、故人を偲ぶ形見としてつくられるモーニング・ジュエリーという世界があることを初めて知った。全国から依頼者が尋ねてくる、そして故人の一生に向き合う、そういう仕事の工房、ギャラリー、そして住居が一体となった空間が日本の古都京都のど真ん中にあることはなんとなく相応しいように思えた。ここかしこに宿泊施設が増えつつある京都であるが、街区のあんこ部分にこうした工房が組み込まれた建築類型が新たに成立する可能性はあるのではないか。 

 アルファヴィルのこれまでの作品は、専ら、既存のコンテクストを異化することに重点を置いて、コンテクストにおけるひとつの型(プロトタイプ)をつくる姿勢は希薄であった。魚谷繁礼・みわ子(開拓者0607)あるいは森田一弥(開拓者14)の仕事とはいささか目指す方向を異にしてきたように思える。






 しかし、「庭路地の家」「粋伝庵ゲストハウス」2つはこれまでと少し異なる。京町家の建築類型(プロトタイプ)として地の一部となっていく可能性がある。図と地を区別して方法展開するのもひとつの選択である。

 「庭路地の家」は、大家さんと学生中心のコレクティブハウス、「粋伝庵ゲストハウス」は民泊施設である。狭い敷地、狭小な空間に新たな関係を育む集合空間を作り出そうと格闘していることがよくわかる。「庭路地の家」は、山本理顕さんに褒められたという。一貫して「一住宅一家族」批判を展開してきた山本理顕からみれば、「庭路地の家」はひとつのオールタナティブの提案である。1階の細長い住宅は、東孝光の「塔の家」に拮抗しうる最小限住居であり、二階に個室群を搭載することにおいて集合化の契機を内蔵している。「粋伝庵ゲストハウス」は、ベッド空間を立体的に組み合わせるおしゃれな「ドヤ」である。

 

 こうしてアルファヴィルのこれまでの作品について考えながら、作品集の冒頭の「建築=窓=構造」というのが気になってきた。それを解説するらしい断面図が示されるが、「ビルディング・エレメント論」をもとにした「有孔体理論」(原広司)のような理論ではなさそうである。形態言語はそれ自体強いメッセージ力をもっている。インターナショナルな関心を引きつけるのはその力である。しかし、断片的な言葉、概念によって形態を説明するだけではものたりない。リーディング・アーキテクトとしてステップ・アップしていくことを目指すとすれば、形態生成の理論をより丁寧に展開する必要があるのではないか。そして、そろそろ本格的な「図」としての建築をみたいと思う。 



[1] 1983.4-1989.3 洛星中高等学校。1990.4-1994.3 京都大学工学部建築学科。1994.4-1998.3 京都大学大学院工学研究科建築学専攻。1995.9-1996.7 AAスクール留学; Diploma Unit(=FOA) (イギリス、ロンドン、ロータリー財団奨学生)1998.4 アルファヴィル設立。神戸大学、立命館大学非常勤講師 一級建築士 日本建築設計学会理事

[2] 1987.4-1990.3 京都教育大学附属高等学校。1990.4-1994.3 京都大学工学部建築学科。1994.4-1997.3 京都大学大学院工学研究科建築学教室。1995.9-1996.7 パリ建築学校ラ・ヴィレット校留学 (文部省給費留学生)1997.4-1997.12 山本理顕設計工場勤務。1998.4 アルファヴィル設立。現在:京都大学、大阪工業大学非常勤講師 一級建築士

[3] 199503190401:中国 北京 天津 大連:中国建築学会訪問:大連調査:布野修司・孫躍進・山本麻子 ・王勝

[4] 山本麻子、『中国・大連の南山地区に残る日本近代住宅に関する研究』修士論文(京都大学)、19973月(図①)。

[5] 当時、名画座(渋谷)、文芸座(池袋)など各地にあった小規模な映画館のひとつで毎週のように通った。日本のヌーヴェルヴァーグと呼ばれた大島渚、篠田正浩、吉田喜重らの映画もここで見た。

[6] 『現代思想』(青土社)の臨時増刊号に「総特集 ゴダールの神話」(199510月)があり、2002年に4刷されている。ドイツのバンドに「アルファヴィル」(1982年結成)というのがあるらしいとか、村上春樹が『アフターダーク』(2004)という小説の中で映画『アルファヴィル』に触れている。

[7] コードナンバー003を持つシークレット・エージェント、レミー・コーションがアルファヴィルを建設したフォン・ブラウン教授を逮捕抹殺し、アルファヴィルを管理する人工知能アルファ60を破壊する物語である。

[8]京大時代からパリ留学時を通じて古いのから新しいのまでゴダールの映画はかなり見ていまして〈ALPHAVILLE〉では映像の背景について(成功しているかは別にして)試行しているのではと考えて選んだ名前です。」(山本麻子)

[9] W-Window House2005,Hall House 2(2007),Hall House 1(2008), House Twisted(2008),New Kyoto Town House, Roof on the Hill(2010)  ,House Folded(2011), Dig in the Sky, Slice of the City(2012), 高野山ゲストハウス(2013),

Spiral Window House(2014), Skyhole(2015), New Kyoto Town House2(2013) , カトリック鈴鹿教会(2015), 絆屋ビルヂング, 庭路地の家(2017),粋伝庵ゲストハウス(2018), 西大路タウンハウス(2018).

[10] DFAA デザインフォーアジアアワード2013 金賞x2 (香港)SDレビュー2013入選JCDアワード2013 銀賞NICHIHA SIDING AWARD 2013 GOLD prize 第一回京都建築賞 優秀賞(京都府建築士会)日本建築家協会関西建築家新人賞Architectural Review House Award 入賞(イギリス)第57回 大阪建築コンクール 渡辺節賞(大阪府建築士会)など。

[11] 1940年京都市生まれ。京都大学名誉教授、元中部大学特任教授。数量経済史、日本経済誌、日本帝国史、日本植民地史、貨幣・金融史。博士(経済学)。1967年京都大学大学院経済学研究科修士課程修了。三和銀行を経て、京都大学人文科学研究所助手、神戸商科大学助教授、京都大学人文科学研究所助教授、同教授、中部大学人文学部教授を経て、同大学特任教授。(20113月退職。主要著作に『日本植民地経済史研究』(名古屋大学出版会、1992年)『両から円へ 幕末・明治前期貨幣問題研究』(ミネルヴァ書房、1994年)『「満州国」経済史研究』(名古屋大学出版会、2003年)『「大東亜共栄圏」経済史研究』(名古屋大学出版会、2011年)など。