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2025年2月5日水曜日

デザインを売る新商売 ,建築思潮Ⅰ『未踏の世紀末』,学芸出版社,199212

 デザインを売る新商売          

                布野修司

 

 このところずっとデザイン・ブームである。ポストモダニズムのデザインが喧伝されて久しいのであるが、それを支えてきたのは、まずは、ファッション界やアパレル産業など流行に敏感な先端部門であった。そして、様々な商業部門が続いた。すなわち、商業建築のデザインがポストモダニズムのデザインを採用することにおいて、建築デザインは脚光を浴びてきたのであった。

 ところが最近すこし様子が代わってきたようにみえる。大手企業、商社がデザインの専門部署を設立したり、異業種同士が手を結んでデザインを研究するネットワークをつくったり、デザインがこれまで以上に商品として着目されつつあるのである。雑誌『室内』(2月号)が「「デザイン」を売る新商売」と題してデザインビジネスの新たな動向を紹介している。

 建築関連の様々な企業がデザイン・スクールを設立したり、デザイン情報誌を出したり、デザイン・ミュージアムを開設したりするのは自然であろうが、商社が何故デザインなのか。総合商社はなんでも扱うのであるから不思議はないともいえる。しかし、その商社がデザインに眼をつけ始めたということは、モノばかりでなく、デザインが一般的な商品となることを確実に示していよう。確かに、今や、はるか以前からモノよりイメージの時代なのである。

 では何故、異業種や大企業がデザインをテーマにするのか。デザインのもつ統合力が求められているからである。異業種や大企業の各部門を統合するイメージが求められ、コーポレート・アイデンティティー(CI)としてデザイン戦略が必要とされているのである。

 デザインがビジネスになることは、建築家にとっていいことかもしれない。事実、幾人かの建築家は方々で売れっ子である。しかし、全体としてみるとどうか。建築の分野がありとあらゆる分野から蚕食されつつあることを意味してはいないか。

  

 

2025年2月4日火曜日

世紀末建築論の予兆 ,建築思潮Ⅰ『未踏の世紀末』,学芸出版社,199212

 世紀末へ


世紀末建築論の予兆           

                布野修司

 

 世紀末である。この世紀末へ向かう十年の間に建築に何が起こるのであろうか。フランス革命の頃、ルドゥやブレーなどの建築家が現れ、球体や円錐形など斬新な建築ヴィジョンを提示したのが一八世紀末である。産業革命からロシア革命にかけて近代建築の胎動において、鉄という素材を駆使したアールヌーヴォーの華が開いたのが一九世紀末である。そうした世紀末を思い浮かべてみると、何となく激動の予感がしてこないか。

 革命、あるいは急激な社会変動が、建築的想像力を刺激し、解放することは以上を思い浮かべるだけでも明らかである。今、湾岸戦争が世界を揺さぶりつつある。東欧の民主化が加速度的に進み、ソビエトの体制が搖れている。世界の枠組みが大転換するなかで、建築もまた大きく変化していくのであろうか。

 そうした世紀末を見通すかのような本がでた。磯崎新と多木浩二による対談集『世紀末の思想と建築』(岩波書店)である。帯に「建築と批評をめぐる現在にケリをつける徹底対談」とある。ケリがつけられているかどうかは疑問であるが、忙しすぎて全く議論がなくなったかのような日本の建築界に一石を投じていることは間違いない。

 「六八年にすべての源があった」で始まる対談は、この二五年を五年づつ五期に分けて振り返っている。六八年は、「五月革命」の年である。世界中で学園闘争の嵐が吹き荒れた年である。この文化革命が結果として産んだのは何だったのか。果してポストモダニズムに行きつくより他に道はなかったのか。政治、資本主義、テクノロジー、形而上学等々、建築をめぐってテーマは拡散するのであるが、全体の通奏低音になっているのは六八年におけるラディカリズムの行方である。

 全ての枠組みが失われつつあるかにみえる現在、建築の根拠は何なのか、創造の源泉は何なのか。それを見抜いた建築家のみが世紀末を生き抜き、二一世紀への展望を持つことができる。対談を読みながら、そんなことを思う。



2025年2月3日月曜日

丸の内の悲喜劇:超高層建築の本性,驟雨異論❷,雨のみちデザインウェブマガジン「驟雨異論(しゅうういろん)」

 丸の内の悲喜劇:超高層建築の本性,驟雨異論雨のみちデザインウェブマガジン「驟雨異論(しゅうういろん)」

雨のみちデザイン|驟雨異論|布野修司 vol.2 (amenomichi.com)

丸の内の悲喜劇:超高層建築の本性

布野修司

 

 「東京海上ビル」解体



 前川國男設計の「東京海上日動ビルディング(旧東京海上ビルディング本館)」(1974年竣工、25階建)(図❶abc)が解体されるというニュースが流れたのは5月初旬のことであった(『毎日新聞』202158日)。ひと月ほどして、近代建築の保存に奔走する松隈洋さん(京都工業繊維大学教授、元前川建築設計事務所所員)から「東京海ングを愛 その存続願う会」(発起人代表 奥村珪一)の趣意書とともに「設計を担当した前川建築設計事務所の元所員を中心に、広くメッセージを寄せていただく活動を始めることになりました」というメールをもらった。会の事務局長は日本建築協会会長も務めた大宇根弘司さんである。

趣意書[1]には、前川建築設計事務所と新ビルの設計者である三菱地所設計及び東京海上日動火災保険との話し合いの経緯も含めて、その存続がほぼ不可能である流れ、にもかかわらず存続を願う熱い思いとその理由が縷々述べられている。

東京海」の建設をめぐっては「美観論争」と呼ばれる激しい議論があった。この「美観論争」が建築界にしこりのように残ってきたのは,超高層建築を推進する側に,建築界の「良心」とされてきた前川國男がいたことである[2]。その前川國男がその信念をかけて悪戦苦闘の末に実現させた建築が解体され、さらに高い超高層ビルに建替えられるのは悲喜劇である。




松隈さんのメールからしばらくして、「世界貿易センタービル」(163m、40階、1970、日建設計、武藤構造力学研究所)が解体されるというニュースが流れた(『朝日新聞』630日)。翌年「京王プラザビル」(179m、47階、1971、日本設計)にその座を奪われるが、竣工当時、日本最初の超高層建築である「霞が関ビルディング(1968年竣工、36階建、147m、武藤清・池田武邦・山下寿郎)を超えて日本一となった第二の超高層ビルである。地上46階建高さ235mのビルに建て替えられるという(2027年竣工予定)。

『朝日新聞』記事は、サラリーマンが1020坪の小さな庭付きの家に暮らすそんな街がガラッと変わった、ある意味では「怖いビル」だったが、「やっぱりなくなるのは寂しい」という地元商店主の声を伝えるが、ビルの運営会社は、羽田

空港と直結する新・浜松町駅と連結して最新鋭のビルに建替えてビルの競争力を維持したいのだという。超高層ビルが解体される時代の到来である。

 

 Tokyo Torch

全て予定通りというべきか、丸の内を我が庭としてきた地主である三菱地所がTokyo Torch2027年竣工予定)とネーミングする日本で最も高い超高層ビルの建設を社長自ら発表したのもつい最近である(プレス発表は20209[3])。62階建、高さ390m、「あべのハルカス」(300m、60階、2014、竹中工務店、ペリ・クラーク・ペリ・アーキテクツ)を抜くのだという[4]。コロナ禍の最中、「東京のトーチ(松明)」として、さらに高密度の街づくりを目指す、という無神経、その本性に唖然とするばかりである。

丸の内に蝟集するのは日本を代表する大企業の本社であり、既に30万人が毎日通うホットスポットである。30万人というのは、東京で言えば中野区、豊島区の全人口に匹敵する。その大半は今テレワークを率先している企業ばかりであろう。そこに3万人の街を新たにつくり出そうというのである。聖火リレーのトーチで思いついたのかもしれないけれど、さらに半世紀後には、東京オリンピック2020の「無残」とともに記憶されることになるのではないか。

設計は三菱地所設計、常盤橋プロジェクト室長・松田吉春、頂部デザインアドバイザー・藤本壮介、低層部デザインアドバイザー・永山祐子、広場デザインアドバイザー・福岡孝則が担当、永山提案によると地上60mの高さに数キロにわたる散歩道ができる。銭湯発祥の地ともいわれる常盤橋ゆかりの温浴施設も設けられるという(図❷abc)

 

 美観論争

Tokyo Torchの「常盤橋タワー」が先行オープン(721日)するというので、久しぶりに丸の内を歩いた。この半世紀の丸の内の興亡が走馬灯のように頭に浮かんだ。

美観論争については『景観の作法 殺風景の日本』(京都大学学術出版会、2015)で詳述している。ことの発端は1963年に遡る。この年,建築基準法(1950年制定)の前身となる市街地建築物法(1919年制定)によって決められてきた建物の高さを百尺(31メートル)以内とする規定が撤廃されるのである。31メートルというとせいぜい10階建ての高さで今では珍しくもなんでもないが,半世紀前は、31メートルを超えた建物を「超高層」建築と言った。

東京オリンピックの興奮さめやらぬ19651月に設計依頼を受けた前川國男の案は,地上32階,高さ130mの「超高層」建築であった。高さ制限から容積制限へ移行したことを踏まえ,超高層化によって,敷地の3分の2を公共広場として開放するというねらいをもっていた。先の趣意書は、前川國男のこの思いを再掲している。この手法は,後の「総合設計制度」[5]に基づく「公開空地」の先駆けとなるが,この総合設計制度は,日本の都市景観を大きく変えてしまう動因ともなる。



前川案に対して,「皇居を見下ろすビルは美観上認めない」という判断をしたのが、美濃部亮吉(19041984)都知事[6]である。そして、時の佐藤栄作首相が「皇居を直接見下ろすようなビルは「不敬」に当る。国民感情からしても好ましくない」と発言、政治問題化したのである。その後の経緯は省くが、「皇居を見下ろす」という政治的問題を除いてみると,丸の内美観論争の顛末には,その後全国各地で勃発した景観論争の構図をほぼそっくりそのままみることができる。すなわち,高層建築の計画提案,高層化反対のキャンペーン,条例の制定,適法の確認,高さ低減(階数削減)による決着というパターンである。

この時、高さがより厳しく制限されたとすれば、丸の内の景観は現在とは異なった筈である。

 

マンハッタン計画

丸の内が大きく変わる基点となったのは、「丸の内・マンハッタン計画」と呼ばれる「丸の内再開発計画」(1988年)である。丸の内の容積率を2,000%に拡大、高さ200m4050階建の超高層ビルを数十棟建てるという、いかにもバブリーな提案は、新都庁舎移転(1990年竣工)に象徴される新宿副都心への東京の重心の移動、さらに世界都市博覧会(1996年開催中止)に象徴されるウォーターフロント開発に対抗するものと思われた。バブル崩壊とともに挫折したかに思われたこの「丸の内・マンハッタン計画」は、脈々と生き続ける。「マンハッタン計画」というのは,日本産業の中枢として,ニューヨークのマンハッタンのような国際金融センターとしたいという命名であったが,原子爆弾開発のパンドラの箱を開けた「マンハッタン計画」を想い起こさせて暗示的であった。以降,丸の内に容積率の歯止めが効かなくなるのである。

「丸の内ビルディング(旧丸ビル)」(地上9階建、地下1階、1923年、桜井小太郎設計)が現在の「丸の内ビルディング」に建替えられたのは2002年である。そして、行幸通りを挟んで向かい側にあった「新丸ビル」(1952年竣工)が建替えられて現在の「新丸の内ビルディング」が竣工したのが2007年である。ドライビング・フォースとなったのは小泉内閣の都市再生政策である。「特定街区制度」さらにいわゆる「大丸有」(大手町・丸の内・有楽町地区)への「特例容積率適用区域制度」など優遇措置が取られた。東京駅の復元保存が実現したのは(2012年)、東京駅舎からの容積率移転によって緩和されたからである。東京中央郵便局[7](吉田哲郎[8]設計)の建替(KITTE丸の内、JPタワー、2012)に際して、一部ファサード保存が行われたのも同じ流れである。


 

消えた「日本興業銀行」

八重洲中央口から真直ぐ皇居へのヴィスタが拓けるのは、東京駅復元保存の最大の功績である。その奥右に、「東京海上日動ビル」は、竣工した当時と同じように、その重厚な姿をのぞかせている。足元心なしか寂しい。公開空地というけれど、そもそも人の流れがほとんどないのである移転が発表されたのは325日、移転先となるのが721日にオープンした「常盤橋タワー」(図❸abc)である。2021 12 月から順次移転を開始し、2022 6 月までに移転先への移転を完了する予定という。すべて、大地主、三菱地所のやりくりである。「コロナ禍オフィス需要が減るにもかかわらず90%入居が決まっている」などとTVニュースが伝えたが、「東京海上日動ビル」が移転するのだから当たり前である。



確か、村野藤吾が設計した日本興業銀行が仲通りに並んでいたはずだと、常盤橋に向かって歩きながら、重厚なキャンチレバーを探したけれど、ここだと思う場所にあったのは、1階にカフェやレストランが並ぶ、「丸の内発のルーフトップレストランやカラオケやダーツが楽しめる」「丸の内テラス」(図❹ab)である。オープンしたのは昨2020115日という。唖然である。「東京海上日動ビルディング」の建替え理由に、「建築で最も大切な広場への評価も時代と共に変化しており、計画時に考えられた、太陽と緑に恵まれ、市民が自由に出入りできる、都市空間のあり方としての広場というより、もっと気さくで親しみ易い、つまりお茶が飲めておしゃべりができるカフェ的憩いの場の方が当世風で市民に受け入れ易い」ことが挙げられるのであるが、その回答が「丸の内テラス」というわけである。

「日本興業銀行本店(みずほ銀行本店ビル)」(地上15階、高さ69m1974年竣工)は、同級生の千葉政継が村野森建築事務所に勤めていた縁で、竣工時に内部を見せてもらったことがあるが、白井晟一の親和銀行シリーズに肩を並べる傑作であった(図❺abcd)。201610月から1年かけて解体されたというが、建築界は新国立競技場問題(201612月着工)でほとんど誰も問題にしなかったのではないか。文化勲章受章者の建築も形無しである。

 

三菱ヶ原

「東京海上日動ビルディング」の前身は,1918年建設の「東京海上ビルディング」である(曽根[9]・中條[10]設計事務所,構造設計,内田祥三[11]18851972)。丸の内,すなわち江戸城の御曲(みくる)輪内(わうち)と呼ばれた一帯には,明治以後,司法省,大審院,東京裁判所,警視庁などの官庁の他,陸軍省や騎兵隊,工兵隊の兵営,操練場,東京府立勧工場(辰ノ口勧工場)が置かれたが,その内の陸軍用地は,1890年に至って,三菱に払い下げられた。日本橋が「三井村」と呼ばれたのに対して「三菱ヶ原」と呼ばれた。

 三菱は1894年からイギリスの経済の中心地ロンドンのロンバート街[12]をモデルとしたオフィス街の建設に着手,1914年にかけて,J.コンドルの設計で1号から21号に及ぶ赤煉瓦造の三菱館を建てた。1914年には東京駅が建てられ,東京海上ビルの後,23年には丸ビルが落成する。丸の内一帯は「一丁(ロン)(ドン)」と呼ばれ,日本橋に対抗する日本のビジネス街として急速に発展していくことになった(図❻)。


日本の近代都市計画の起源とされる東京市区改正条例[13]1888)はこの一丁倫敦と呼ばれた街並みが東京の中央市区に広がっていくことを想像していた。前川國男が求められたのは,この百尺にきれいにそろったビルの景観とは異なった新たな景観の秩序である。当時モデルと考えられたのは,アメリカの大都市とりわけニューヨークで一般的に見られた、低層部は敷地を目一杯使って中央部のみ超高層とするいわゆる墓石型の超高層であった。

超高層化によって公共広場(公開空地)を地上に設けるという前川國男の提案する超高層のモデルは、歴史を振り返れば、むしろ受け入れられてきたといえるのではないか。

一丁倫敦の記憶もかすかに残す丸の内であり続ける選択もあったのかもしれない。しかし,容積を増やせば増やすほど利潤を得ることのできる一等地を所有する大地主である三菱地所にその選択はなかった。公開空地を設ければ,容積率は1300パーセントになる。さらに,歴史的建造物を復元保存すれば1700パーセントになる。こうして一角に歴史的建造物を残して超高層として建て変えられた建物がある。Tokyo Torchも、首都高速道路地下化、八重洲地区地下ネットワーク化などの措置を駆け引き材料として、容積率の最高限度が従来の1760%から1860%に変更された。丸の内を支配し続けるは容積率すなわち空間の高密度利用のみである。

どうせそうであれば凡庸な超高層ビルなどみたくない。上海は超高層ビルが既にヴァナキュラー化している。せめて自在に踊ってほしい。ダンシング・ハイライズである。意外に面白そうなのがモスクワ・シティだ。本家マンハッタンには、にょきにょきともやしのような超高層ビルが建ち並びだしている(図❼)。「東京国際フォーラム」を設計したラファエル・ヴィニョリの「パーク・アヴェニュー432」(426m2015)は超スレンダーだ。レム・コールハース(OMA)も参入するらしい(「41-47 West 57th Street335m)。

 


写真キャプション(特記ないものは筆者撮影)

図❶a 丸ビルと新丸ビルの間に埋もれる東京海上日動ビルディング b 公開空地 c エントランス・コリドール

図❷Tokyo Torch a 全景 b頭頂部 c低層部

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC

図❸Tokyo Torch a常盤橋タワー b東京トーチパーク cトーチタワー建設現場

図❹丸の内テラス a カフェテラス b先端部

図❺日本興業銀行 a 先端部のキャンチレヴァー b内部階段 c先端部見上げ

d 解体中 https://bluestyle.livedoor.biz/archives/52386105.html

 図❻一丁倫敦 三菱煉瓦街 大正末 

 図❼ミッドタウン・マンハッタン 一番高いのがOMA 「41-47-west-57th-streets

https://newyorkyimby.com/2021/06/new-rendering-by-oma-highlights-41-47-west-57th-streets-height-in-midtown-manhattan.html

 

布野修司 建築評論家・工学博士、

略歴

1949年島根県生まれ。東京大学助手,東洋大学助教授,京都大学助教授,滋賀県立大学教授、副学長・理事,2015年より日本大学特任教授。日本建築学会賞論文賞(1991)、著作賞(20132015)、日本都市計画学会論文賞(2006)。『戦後建築論ノート』(1981)『布野修司建築論集ⅠⅡⅢ』(1998)『裸の建築家 タウンアーキテクト論序説』(2000),『曼荼羅都市』(2006)『建築少年たちの夢』(2011)『進撃の建築家たち』(2019)『スラバヤ』(2021)他。

 

 



[1] 東京海上日動火災保険株式会社は東京海上日動火災保険本社ビル(東京海上ビルディング)を解体し、新たなビルを建設 (2023 年度着工、28 年度完成予定)するために、22 6 月までに 本社を移転することを発表しました。このビルが超高層ビルとして竣工したのは1974年で竣工後46年しかたっていません。

現在の東京海上ビルディングは、 建築基準法による 31mの絶対高さ制限が容積規制へと移行し、超高層建築が可能になった時に、これからの都市空間のあり方を模索し、建築を高層化することによって太陽の光が差し込む広場を足元に確保することで、豊かで人間にやさしい都市空間を作ろうとして建てられた建築です。

これについて、 このビルの設計者の前国男は次のように述べています。

「海上火災はあの敷地に1,000%の建築容積を建築するには、高層にして建ぺい率を約3分の1に押さえた方が『公益』に貢献するゆえんであるとの判断にもとづいて、あえて工費上、また、いわゆる事業採算上の利点制して高層計画に踏み切っものである」1966.12. 「再び都市美について」

日本の超高層は、現代都市によって破壊された自然を回復し、緑と太陽の空間を人間の手に取り戻す手段 · ・・『自然』につつまれ自、然に参加する『人 間』を確立する方に建築物を空高く積み上げて、緑と太陽の自由な都市空間をつくり出す以外にどんな手段がありうるか」1967 .12 「超高層ビルの意味」

は、都市に太陽が降り注ぐ、自由でオープンな広場を確保することがこ、れからの都市空間にとって非常に重要なことと考え、その手段として超高層ビルを考えていました。その意味を理解し、企業の社会的責任を果たし、「公益」に貢献する決断を前川と共 有した、当時の東京海上火災保険会社の経営者達の英断によって、現在のビルは建てられ、都市における超高層ビルのあるべき姿として存在しています。

私達は、この解体‐新ビル建設の情報を発表前に入手し、何とかこの建築が存続するよう、新ビルの設計者である三菱地所設計及び東京海上日動火災保険の管理部門の方々と話し合いましたが、物別れに終わりました。この対応は紳士的に行われ、私達も海上側が公表するまで口外しないようにとの要望を受け入れ、我々にできる、なにか良い方法はないかを検討してきました。しかし、こうした状況の中で、存続運動が非常に難しいことが徐々に分かってきました。存続運動が難しい理由は、

建物が公共施設でなく、民間所有物であること。

建物の利用者が東京海上とその関係者だけであり般市民の利用がないので、利用者からの存続への希望が出にくいこと。

建築物の著作権は、日本では非常に評価が低く、公共建築の設計では契約書でその放棄を書かされることすらあること。

この建築で最も大切な広場への評価も時代と共に変化しており、計画時に考えられた、太陽と緑に恵まれ、市民が自由に出入りできる、都市空間のあり方としての広場というより、もっと気さくで親しみ易い、つまりお茶が飲めておしゃべりができ るカフェ的憩いの場の方が当世風で市民に受け入れ易いこと、等です。

こうした問題点を理解した上でも、なお、東京海上ビルは存続させる価値があり、この建築を失 うことは、日本の建築文化や都市景観上の 大損失であると考え、存続のための活動を行うことにしました。

私達にとって、東京海上ビルディングは、

日本の超高層ビルの噂矢であり建築作品として非常に優れており、日本が持ち得た最高レベルの超高層建築であり、その作品を取り壊すことは、まさに文化に対する 冒涜であること。

日本の都市景観のあるべき姿を提示してお り、太陽が降 りそそぐ自由な広場と体となって、豊かで人間にやさしい都市空間を具現しており、今後の都市景観への大  切な指標として重要であること。現在、丸の内地区の再開発で建設される、敷地をできるだけいつばい利用した上で、さらに 200M もの高さの超高層ビル群 都市空間としてこれで良いのだろうか。こうした状況に警鐘を鳴らす存在であること。

日本の都市計画史上の輝かしい記念碑であり、都市計画の方法とし容積制を導入したおり、その理念を正しく理解し、政治的圧力にも屈せず、広場と体となって具現化した建築であり、今後、都市計画が現実的利益誘導や政治的圧力に屈して方向を間違えないためにも、あるべき姿を提示している道標(みちしるべ)となっていること。

だと考えています。こうした考えのもとに、存続のための運動をするためには、我々の考えが多くの方々の共感を得られるものかどうか知る必要があると考え、できるだけ多くの皆様のご意見をお聞きし、そのご意見を糧としてこれからの活動を進めていきたいと思います。

[2] 筆者は「Mr.建築家」と評したことがある。「Mr.建築家-前川國男というラディカリズム」(『建築の前夜ー前川國男文集』(前川國男文集編集委員会編,而立書房,1996,布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジー-建築の昭和-』所収)。

[3] 元々地上61階、地下5階、高さ390m、延べ面積49万㎡の超高層ビルの計画であったが、第18回東京都都市再生分科会で、日本橋エリアの首都高速道路地下化、八重洲地区再開発による地下ネットワーク化などの措置が認められ、容積率の最高限度が従来の1760%から1860%に変更され、地上63階、地下4階、高さ390m、延べ面積544000㎡へと規模が拡大された。

 

[4] 「世界貿易センタービル」「京王プラザビル」以後、「新宿住友ビル」(210m、52階、1974、日建設計)「新宿三井ビル」(225m、55階、1974、三井不動産、日本設計)など日本一の高さを誇る超高層建築が次々に登場したが、「サンシャイン60」(240m、60階、1978、三菱地所設計、武藤耕三力学研究所)を最後にいったん途絶えた。復活するのは、平成初頭の「東京都庁第一本庁舎」(243m、48階、1991、丹下健三都市建築設計研究所)「横浜ランドマークタワー」(296m、70階、1993、光美諸設計、ザ・スタビンス・アソシエイツ)である。そして、それを超えたのが「あべのハルカス」である。

[5] 公共の利用に開放した空地(公開空地)を設ければ,容積率(延床面積/敷地面積)や高さの規定などを緩和するという制度。1970年に創設され,建築基準法第59条の2に規定されている。具体的にどういう条件でどこまで緩和を認めるかは,それぞれの許可権限を持つ特定行政庁で基準を定めている。

[6] 天皇機関説で著名な美濃部達吉の長男。東京。東京帝国大学経済学部卒業。大内兵衛に師事したマルクス主義経済学者として知られる。一九六七年より三期一二年,東京都知事を務めた。公害防止条例制定,老人医療の無料化,公営ギャンブル廃止,都電廃止,歩行者天国の実施など。『独裁制下のドイツ』『苦悩するデモクラシー』など。

[7] 「平凡なるもの」という素晴らしいテレビ番組(富山テレビ)がつくられ,保存運動が展開されたが,日本の近代建築の傑作とされる丸の内南口に残る吉田鉄郎設計の中央郵便局は,中途半端にファサードの壁面を残して超高層ビルに建て替えられた。

[8] 吉田鉄郎(18941956)。富山県福野町の出身。東京帝国大学建築学科卒業。逓信省営繕課に勤務,官庁建築家として活躍。逓信省には一年先輩の日本分離派建築会の山田守もいた。ブルーノ・タウトは吉田の設計した東京中央郵便局を,モダニズムの傑作と讃えた。大阪中央郵便局も吉田の手になる。戦後は日本大学で教鞭をとった。Das Japanische Wohnhaus』(1935年)『Japanesche Architektur』(1952年)『Der japanische Garten』(1957年)などドイツ語の著作でヨーロッパに知られる。

[9] 曽禰達蔵(一八五三~一九三七)。工部大学校造家学科卒業,辰野金吾ら第一期生四人の一人。三菱オフィス街の基礎をつくった。

[10] 中條精一郎(一八六八~一九三六)。東京帝国大学造家学科卒業。日本郵船ビル,明治屋ビル,講談社ビルなど曽禰達蔵とともに都市事務所ビルの設計によって,都市景観の創出に大きな役割を果たした。慶応技術大学図書館(一九一二)は重要文化財。長女は宮本百合子である。

[11] 建築構造学。東京帝国大学建築学科卒業。安田講堂など京大キャンパス内の建築を多く手掛ける。一九四三年に第十四代東京帝国大学総長に就任(一九四五年十二月),学徒出陣を命じている。

[12] Lombard Street。ロンドンの金融街いわゆるシティThe Cityにある英国銀行から東へ三百メートルほどの通り。十三世紀末にエドワードⅠ世がユダヤ系金融業者を追放した後から北イタリア,ロンバルディア商人が移住し,貿易とからめ両替・為替業を営んだことに由来する。

[13] 市区改正とは今日でいう都市計画(あるいは都市改造事業)のことである。都市計画Town Planningという言葉もそう古いわけではない。ロバート・ホーム(『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』布野修司+安藤正雄監訳アジア都市建築研究会,京都大学学術出版会,2001年)によれば,英国で最初に用いられたのは一九〇六年であり,少し先駆けてオーストラリアで活躍した建築家J.サルマンの「都市の配置Laying out of the City」(1890)が都市計画の最初の論文だという。日本では大正期に入ると都市計画という用語が一般的に用いられはじめ,一九一九(大正八)年に都市計画法が成立する。












2024年12月19日木曜日

traverse04 前書、traverse, 2003

 

traverse 4 新建築学研究第4号

  

 9.112001)以降何かが変わってしまった。圧倒的な軍事力を背景にアメリカ合衆国は世界を動かし始めたようにみえる。イラク戦争は、たった3週間という短期間で、多くの予想を裏切って、終結したのであった。果たしてパックス・アメリカーナPart2がくるのであろうか。もしかすると、テロという火種を孕むことによって世界史は半世紀後退したとみるべきではないのか。

 しかしそれにしても、メソポタミア文明の遺産がバクダード博物館や各地の遺跡から大量に略奪されたという事実には唖然とするばかりだ。イラク戦争の連日の報道は、ウル、ウルク、ラガシュ、バビロン、そしてバクダード、サーマッラーなどの古代都市の位置関係を叩き込むように教えてくれた。チグリスとユーフラテスに囲われた人類最古の都市文明を育んだ肥沃な土地が戦場であった。この人類史に対する横暴冒涜は絶望的である。

 そしてSARS(新型肺炎)の発症である。医療技術の進歩にも関わらず、次々と新たなウィルスが出現するのは、現代文明のどこか致命的欠陥をついているのではあるまいか。また、SARSの蔓延はグローバリゼーションの複雑な関係を明るみに出し、世界経済をも翻弄しつつある。

 日本では2003年問題が進行しつつある。未曾有の不況であるにも関わらず、この空間の供給過剰は一体何故なのか。東京だけではない。京都の都心も時ならぬマンション建設ラッシュである。建築業界が存亡の危機を迎えているにもかかわらずである。

 この奇妙な現実を分析したい。そして、本質的な議論をしたい。時代に対して敏感でありながら、深い思索を重ねたい。traverseの願いである。                 

 

             

(布野修司 / 編集委員会)

2024年12月18日水曜日

職人大学へ,新建築,199907

 職人大学へ,新建築199907


職人大学へ

布野修司

 

 いまムンバイ(ボンベイ)である。かってのネイティブ・タウンを歩き回っている。立ち寄った本屋ですばらしい写真集を見つけた。”The Indian Courtyard Houses"(T.S. Randhawa, Prakash Books,1999)。今年出たばかりだ。ジャイプールやアーメダバードのハヴェリなど多少調べだしたけれどインド各地にはさらに奥深くすばらしい都市型住宅がある。都市の伝統の厚みの違いであろう、日本の都市が実に薄っぺらに思えてくる。冒頭に「本書は、これらのすばらしい建物を設計し建設した無名の職人たちに捧げる」とある。職人世界の活き活きとした存在とまちの景観は密接不可分なのである。

 1990年11月27日、サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)という小さな集まりが呱々の声を上げた。サイト・スペシャルズとは耳慣れない造語だが、優れた人格を備え、新しい技術を確立、駆使することが出来る、また、伝統技能の継承にふさわしい、選ばれた現場専門技能家をサイト・スペシャリストと呼び、そうした現場の専門技能家、そして現場の技術、工法、機材、労働環境まで含んだ全体をサイト・スペシャルズと定義づけたのである。横文字にせざるをえなっかたのが癪であったが、要は建設現場で働く職人の社会的地位の向上、待遇改善、またその養成訓練を目的とし、建設現場の様々な問題を討議するとともに、具体的な方策を提案実施する機関がSSFである。スローガンは当初からわかりやすく’職人大学の設立’であった。主唱者は日綜産業社長小野辰雄氏。中心になったのは、待遇改善に極めて意欲的な専門工事業、いわゆるサブコンの社長さんたちである。

 顧問格で当初から運動を全面的に支援してきたのは内田祥哉元建築学会会長。内田先生の命で、田中文男大棟梁とともに当初からSSFの運動に参加してきた。最初話を聞いて、大変な仕事だという直感があった。藤沢好一(芝浦工業大学)、安藤正雄(千葉大学)の両先生にすぐさま加わって頂いた。また、土木の分野から三浦裕二(日本大学)、宮村忠(関東学院大学)の両先生にも加わって頂いた。それからかなりの月日が流れ、その運動はいま最初の到達点を迎えつつある。具体的に「国際技能工芸大学(仮称)」が開学(20014月予定)されようとしているのである。バブルが弾け、「職人大学」の行方は必ずしも順風満帆とは言えないが、SSFの運動がとにもかくにも大学設立の流れになった、ある種の感慨がある。

 当初はフォーラム、シンポジアムを軸とする活動であった。海外から職人を招いたり、マイスター制度を学びにドイツに出かけた。議論は密度をまし、職人大学の構想も次第に形をとりだしたが、実現への手掛かりはなかなか得られなかった。そこで兎に角はじめようと、SSFパイロットスクールが開始された。第一回は19935月の佐渡(真野町)でのスクーリングであった。その後、宮崎県の綾町、新潟県柏崎、神奈川県藤野町、群馬県月夜野町、茨城県水戸とパイロットスクールは回を重ねていく。現場の職長さんクラスに集まってもらって、体験交流を行う。参加者の中から将来のプロフェッサー(マイスター)を見出したい。そうしたねらいで、各地域の理解ある人々の熱意によって運営されてきた。

 そして、SSFの運動に転機が訪れた。KSD(全国中小企業団体連合会)との出会いである。SSFは、建設関連の専門技能家を主体とする集まりであるけれど、KSDは全産業分野をカヴァーする。”職人大学”の構想は必然的に拡大することになった。最早、SSFの手に余る。KSDは全国中小企業一〇〇万社を組織する大変なパワーを誇っている。

 KSDの古関忠雄会長の強力なリーダーシップによって事態は急速に進んでいく。「住専問題」で波乱が予想された通常国会の冒頭であった(19961月)。村上正邦議員の総括質問に、当時の橋本首相が「職人大学については興味をもって勉強させて頂きます」と答弁したのである。「職人大学」設立はまもなく自民党の選挙公約になる。

 めまぐるしい動きを経て、国際技能振興財団(KGS)の設立が認可され、設立大会が行われた(199646日)。以後、財団を中心に事態は進む。国際技能工芸大学が仮称となり、その設立準備財団(豊田章一郎会長)が業界、財界の理解と支援によってつくられた。梅原猛総長候補、野村東太(元横浜国大学長)学長候補を得て、建設系の中心には太田邦夫先生(東洋大学)が当たることが決まっている。用地(埼玉県行田市)も決まり、1997年にはキャンパス計画のコンペも行われた。

 国際技能工芸大学(仮称)は、製造技能工芸学科と建設技能工芸学科(ストラクチャーコース、フィニッシュコース、ティンバーワークコース)の二学科からなる4年生大学として構想されつつある。その基本理念は以下のようである。

 ①ものづくりに直結する実技教育の重視、②技能と科学・技術・経済・芸術・環境とを連結する教育・研究の重視、③時代と社会からの要請に適合する教育・研究の重視、④自発性・独創性・協調性をもった人間性豊かな教育の重視、⑤ものづくり現場での統率力や起業力を養うマネジメント教育の重視、⑥技能・科学技術・社会経済のグローバル化に対応できる国際性の重視

  教員の構成、カリキュラムの構成などまだ未確定の部分は多いがSSFの目指した”職人大学”の理念は中核に据えられているといっていい。もちろん、「職人大学」がその理念を具体化していけるかどうかはこれからの問題である。巣立っていく卒業生が社会的に高い評価を受けて活躍するかどうかが鍵である。


2024年12月13日金曜日

博覧会都市計画,現代のことば,京都新聞,199510

 博覧会都市計画,現代のことば,京都新聞,199510


博覧会都市計画                    002

布野修司

 

 「世界都市博覧会」の中止はどうやら既成事実となったようだ。青島都知事の決断は、選挙公約のあり方、行政の継続性など様々な波紋を広げつつあるが、博覧会と都市計画のこれまでのあり方にも決定的なインパクトを与えた。スクラップ・アンド・ビルド(建てて壊す)型の博覧会を都市開発の呼び水にする従来の手法は根底から見直されていいと思う。

 一八五一年のロンドン万国博覧会以降の博覧会の歴史については、吉見俊哉の『博覧会の政治学』(中公新書)が詳しいのだが、博覧会は常になんらかの政治的機能を担ってきた。例えば、ネーション・ステート(国民国家)の形成、近代産業国家の形成と密接に関係がある。オリンピックと同じように、その開催は国力の表現の場であり、国威発揚の機会であった。

 一九七〇年の大阪万国博の開催は、国際社会への日本のプレゼンスという意味ではかなり大きな意味を担った。また、その後の博覧会のノウハウを蓄積したという意味でも重要である。しかし、その後の博覧会はその性格を変えていったように見える。沖縄海洋博(一九七五年)、筑波科学技術博(一九八五年)と限定された地域の開発手段として定着していくのである。数年前、市政施行百周年ということで全国各地で行われた博覧会もそうだ。MM(みなとみらい)21の開発へつないだ横浜博がその典型である。

 イヴェントとしての博覧会の会場建設のために公共投資をしてインフラ(基盤)整備を行い、跡地利用を民間に委ねるのが博覧会方式である。なぜ、会場施設を壊してしまうのか、不思議に思う。万国博覧会協会の規定であると言うけれどからくりがある。恒久的な施設ということになると時間もかかるしお金もかかる。自治体としては民間の資金を活用したい。民間の企業、特に建設業にしてみれば、二度の投資の機会となる。地域活性化のためには実にうまい手法というわけだ。

 しかし、考えてみるとバブリー(泡のような)手法である。社会資本の蓄積という視点からは全くの無駄だ。仮設的な会場施設にかけるお金を継続的にまちづくりに投資した方が長い目でみればいいに決まっている。また、なぜ、インフラ整備が遅れている地区を選んで投資するのか。インフラが既に整備されている地区を充実させる方がまちづくりとしてはもっと有効である。

 素人の計算と笑うなかれ。今回の「世界都市博覧会」の中止についての暗黙の支持を支えるのは以上のような直感である。日本の都市は、あまりにも仮設的である。スクラップ・アンド・ビルドでやってきた。そうした意味では、博覧会都市である。しかし、僕らが実際に住んでる都市そのものを中止するわけには行かない。都市づくりには時間がかる。フロンティアをもとめて刹那的な博覧会を繰り返す時代は終わった。「世界都市博覧会」の中止は新たな都市計画の時代の始まりを象徴することになると思う。


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...