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2024年12月19日木曜日

traverse04 前書、traverse, 2003

 

traverse 4 新建築学研究第4号

  

 9.112001)以降何かが変わってしまった。圧倒的な軍事力を背景にアメリカ合衆国は世界を動かし始めたようにみえる。イラク戦争は、たった3週間という短期間で、多くの予想を裏切って、終結したのであった。果たしてパックス・アメリカーナPart2がくるのであろうか。もしかすると、テロという火種を孕むことによって世界史は半世紀後退したとみるべきではないのか。

 しかしそれにしても、メソポタミア文明の遺産がバクダード博物館や各地の遺跡から大量に略奪されたという事実には唖然とするばかりだ。イラク戦争の連日の報道は、ウル、ウルク、ラガシュ、バビロン、そしてバクダード、サーマッラーなどの古代都市の位置関係を叩き込むように教えてくれた。チグリスとユーフラテスに囲われた人類最古の都市文明を育んだ肥沃な土地が戦場であった。この人類史に対する横暴冒涜は絶望的である。

 そしてSARS(新型肺炎)の発症である。医療技術の進歩にも関わらず、次々と新たなウィルスが出現するのは、現代文明のどこか致命的欠陥をついているのではあるまいか。また、SARSの蔓延はグローバリゼーションの複雑な関係を明るみに出し、世界経済をも翻弄しつつある。

 日本では2003年問題が進行しつつある。未曾有の不況であるにも関わらず、この空間の供給過剰は一体何故なのか。東京だけではない。京都の都心も時ならぬマンション建設ラッシュである。建築業界が存亡の危機を迎えているにもかかわらずである。

 この奇妙な現実を分析したい。そして、本質的な議論をしたい。時代に対して敏感でありながら、深い思索を重ねたい。traverseの願いである。                 

 

             

(布野修司 / 編集委員会)

2024年12月18日水曜日

職人大学へ,新建築,199907

 職人大学へ,新建築199907


職人大学へ

布野修司

 

 いまムンバイ(ボンベイ)である。かってのネイティブ・タウンを歩き回っている。立ち寄った本屋ですばらしい写真集を見つけた。”The Indian Courtyard Houses"(T.S. Randhawa, Prakash Books,1999)。今年出たばかりだ。ジャイプールやアーメダバードのハヴェリなど多少調べだしたけれどインド各地にはさらに奥深くすばらしい都市型住宅がある。都市の伝統の厚みの違いであろう、日本の都市が実に薄っぺらに思えてくる。冒頭に「本書は、これらのすばらしい建物を設計し建設した無名の職人たちに捧げる」とある。職人世界の活き活きとした存在とまちの景観は密接不可分なのである。

 1990年11月27日、サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)という小さな集まりが呱々の声を上げた。サイト・スペシャルズとは耳慣れない造語だが、優れた人格を備え、新しい技術を確立、駆使することが出来る、また、伝統技能の継承にふさわしい、選ばれた現場専門技能家をサイト・スペシャリストと呼び、そうした現場の専門技能家、そして現場の技術、工法、機材、労働環境まで含んだ全体をサイト・スペシャルズと定義づけたのである。横文字にせざるをえなっかたのが癪であったが、要は建設現場で働く職人の社会的地位の向上、待遇改善、またその養成訓練を目的とし、建設現場の様々な問題を討議するとともに、具体的な方策を提案実施する機関がSSFである。スローガンは当初からわかりやすく’職人大学の設立’であった。主唱者は日綜産業社長小野辰雄氏。中心になったのは、待遇改善に極めて意欲的な専門工事業、いわゆるサブコンの社長さんたちである。

 顧問格で当初から運動を全面的に支援してきたのは内田祥哉元建築学会会長。内田先生の命で、田中文男大棟梁とともに当初からSSFの運動に参加してきた。最初話を聞いて、大変な仕事だという直感があった。藤沢好一(芝浦工業大学)、安藤正雄(千葉大学)の両先生にすぐさま加わって頂いた。また、土木の分野から三浦裕二(日本大学)、宮村忠(関東学院大学)の両先生にも加わって頂いた。それからかなりの月日が流れ、その運動はいま最初の到達点を迎えつつある。具体的に「国際技能工芸大学(仮称)」が開学(20014月予定)されようとしているのである。バブルが弾け、「職人大学」の行方は必ずしも順風満帆とは言えないが、SSFの運動がとにもかくにも大学設立の流れになった、ある種の感慨がある。

 当初はフォーラム、シンポジアムを軸とする活動であった。海外から職人を招いたり、マイスター制度を学びにドイツに出かけた。議論は密度をまし、職人大学の構想も次第に形をとりだしたが、実現への手掛かりはなかなか得られなかった。そこで兎に角はじめようと、SSFパイロットスクールが開始された。第一回は19935月の佐渡(真野町)でのスクーリングであった。その後、宮崎県の綾町、新潟県柏崎、神奈川県藤野町、群馬県月夜野町、茨城県水戸とパイロットスクールは回を重ねていく。現場の職長さんクラスに集まってもらって、体験交流を行う。参加者の中から将来のプロフェッサー(マイスター)を見出したい。そうしたねらいで、各地域の理解ある人々の熱意によって運営されてきた。

 そして、SSFの運動に転機が訪れた。KSD(全国中小企業団体連合会)との出会いである。SSFは、建設関連の専門技能家を主体とする集まりであるけれど、KSDは全産業分野をカヴァーする。”職人大学”の構想は必然的に拡大することになった。最早、SSFの手に余る。KSDは全国中小企業一〇〇万社を組織する大変なパワーを誇っている。

 KSDの古関忠雄会長の強力なリーダーシップによって事態は急速に進んでいく。「住専問題」で波乱が予想された通常国会の冒頭であった(19961月)。村上正邦議員の総括質問に、当時の橋本首相が「職人大学については興味をもって勉強させて頂きます」と答弁したのである。「職人大学」設立はまもなく自民党の選挙公約になる。

 めまぐるしい動きを経て、国際技能振興財団(KGS)の設立が認可され、設立大会が行われた(199646日)。以後、財団を中心に事態は進む。国際技能工芸大学が仮称となり、その設立準備財団(豊田章一郎会長)が業界、財界の理解と支援によってつくられた。梅原猛総長候補、野村東太(元横浜国大学長)学長候補を得て、建設系の中心には太田邦夫先生(東洋大学)が当たることが決まっている。用地(埼玉県行田市)も決まり、1997年にはキャンパス計画のコンペも行われた。

 国際技能工芸大学(仮称)は、製造技能工芸学科と建設技能工芸学科(ストラクチャーコース、フィニッシュコース、ティンバーワークコース)の二学科からなる4年生大学として構想されつつある。その基本理念は以下のようである。

 ①ものづくりに直結する実技教育の重視、②技能と科学・技術・経済・芸術・環境とを連結する教育・研究の重視、③時代と社会からの要請に適合する教育・研究の重視、④自発性・独創性・協調性をもった人間性豊かな教育の重視、⑤ものづくり現場での統率力や起業力を養うマネジメント教育の重視、⑥技能・科学技術・社会経済のグローバル化に対応できる国際性の重視

  教員の構成、カリキュラムの構成などまだ未確定の部分は多いがSSFの目指した”職人大学”の理念は中核に据えられているといっていい。もちろん、「職人大学」がその理念を具体化していけるかどうかはこれからの問題である。巣立っていく卒業生が社会的に高い評価を受けて活躍するかどうかが鍵である。


2024年12月13日金曜日

博覧会都市計画,現代のことば,京都新聞,199510

 博覧会都市計画,現代のことば,京都新聞,199510


博覧会都市計画                    002

布野修司

 

 「世界都市博覧会」の中止はどうやら既成事実となったようだ。青島都知事の決断は、選挙公約のあり方、行政の継続性など様々な波紋を広げつつあるが、博覧会と都市計画のこれまでのあり方にも決定的なインパクトを与えた。スクラップ・アンド・ビルド(建てて壊す)型の博覧会を都市開発の呼び水にする従来の手法は根底から見直されていいと思う。

 一八五一年のロンドン万国博覧会以降の博覧会の歴史については、吉見俊哉の『博覧会の政治学』(中公新書)が詳しいのだが、博覧会は常になんらかの政治的機能を担ってきた。例えば、ネーション・ステート(国民国家)の形成、近代産業国家の形成と密接に関係がある。オリンピックと同じように、その開催は国力の表現の場であり、国威発揚の機会であった。

 一九七〇年の大阪万国博の開催は、国際社会への日本のプレゼンスという意味ではかなり大きな意味を担った。また、その後の博覧会のノウハウを蓄積したという意味でも重要である。しかし、その後の博覧会はその性格を変えていったように見える。沖縄海洋博(一九七五年)、筑波科学技術博(一九八五年)と限定された地域の開発手段として定着していくのである。数年前、市政施行百周年ということで全国各地で行われた博覧会もそうだ。MM(みなとみらい)21の開発へつないだ横浜博がその典型である。

 イヴェントとしての博覧会の会場建設のために公共投資をしてインフラ(基盤)整備を行い、跡地利用を民間に委ねるのが博覧会方式である。なぜ、会場施設を壊してしまうのか、不思議に思う。万国博覧会協会の規定であると言うけれどからくりがある。恒久的な施設ということになると時間もかかるしお金もかかる。自治体としては民間の資金を活用したい。民間の企業、特に建設業にしてみれば、二度の投資の機会となる。地域活性化のためには実にうまい手法というわけだ。

 しかし、考えてみるとバブリー(泡のような)手法である。社会資本の蓄積という視点からは全くの無駄だ。仮設的な会場施設にかけるお金を継続的にまちづくりに投資した方が長い目でみればいいに決まっている。また、なぜ、インフラ整備が遅れている地区を選んで投資するのか。インフラが既に整備されている地区を充実させる方がまちづくりとしてはもっと有効である。

 素人の計算と笑うなかれ。今回の「世界都市博覧会」の中止についての暗黙の支持を支えるのは以上のような直感である。日本の都市は、あまりにも仮設的である。スクラップ・アンド・ビルドでやってきた。そうした意味では、博覧会都市である。しかし、僕らが実際に住んでる都市そのものを中止するわけには行かない。都市づくりには時間がかる。フロンティアをもとめて刹那的な博覧会を繰り返す時代は終わった。「世界都市博覧会」の中止は新たな都市計画の時代の始まりを象徴することになると思う。


2024年12月10日火曜日

タウン・イン・タウン 、現代のことば、京都新聞、1996

 

タウン・イン・タウン            008

 

布野修司

 

 国際交流基金アジアセンターの要請で、この六月末、インドネシア科学院(LIPI)のワークショップ(国際会議)「都市コミュニティの社会経済的問題:東南アジアの衛星都市(ニュータウン)の計画と開発」に出席してきた。一週間の間、ジャカルタに滞在しながら、オランダ、フランス、オーストラリア、シンガポール、タイ、フィリピン、そしてインドネシアの参加者と東南アジアの都市をめぐって議論した。考えさせられることの実に多いワークショップであった。

 ジャカルタは、今、シンガポール、バンコクに続いて、びっくりするような現代都市に生まれ変わりつつある。目抜き通りには、ポストモダン風の高層ビルが林立する。頂部だけ様々にデザインされ、新しいジャカルタの都市景観を生み出している。日本の設計事務所、建設会社もその新たな都市景観の創出に関わっている。一方、ホテルの窓の外を見れば、僕にとっては見慣れたカンポン(都市集落)の風景が拡がる。都心に聳える超高層の森と地面に張りつくカンポンの家々は実に対比的である。

 そうしたジャカルタのど真ん中、かってのクマヨラン空港の跡地に、興味深い開発計画が進行中であった。「タウン・イン・タウン(都市の中の都市)」計画と呼ばれる。

 現場に参加者全員で見に行った。その計画理念は、都心のリゾートタウンといったらわかりやすいだろうか。バーズ・サンクチュアリも設けられ、自立型ニュータウンが目指されている。大都市のど真ん中に都市がつくられる、そのコンセプト自体は実にユニークである。

 しかし、参加者の関心は超高層集合住宅が林立する中心街区よりも、別の一角に向けられた。広大な敷地に建設が始まったばかりであるが、中に実際に人々が住み始めた地区があるのである。一見何気ない五階建ての集合住宅が並ぶだけなのであるが、活気があって、実に生き生きと空間が使われている。もともとそこに住んでいた人々のための街区である。そこはもともとジャカルタ原住民であるバタウィ人の土地で、現在でも住民の一五パーセントはバタウィ人である。

 一階には店舗が入り、二階以上の住居部分は厨房やトイレ居間が共用の共同住宅になっている。また、家内工業が各種行われ、コミュニティの様々な活動が生き生きと組織されている。カンポンの人々を追い立てるのではなく、そのまま住み続けることができるように最大限の努力が払われているように思えた。

 次の日、郊外型のニュータウンを見に行った。民間開発のニュータウンで、そう目新しいところがあるわけではない。しかし、眼から火の出るような思いをさせられた。日本と韓国の投資によるニュータウンで、名の通った日本の大企業の工場が並んでいたからである。参加者のなかからすかさず野次が飛んだ。「これは日本のサテライト・タウンなのかい」。


2024年12月9日月曜日

シティ・アーキテクト,現代のことば,京都新聞,19951120

 シティ・アーキテクト,現代のことば,京都新聞,19951120


シティ・アーキテクト              003

布野修司

 

 JR京都駅の建設現場にクレーンが林立している。鉄骨のフレームが次第に高く組み上がり、巨大な建築物の姿が具体的にイメージできるようになった。そのコンペ(設計競技)の際には景観問題ということで大きな議論が起こったのであるが、その評価をめぐっては、今後の問題も含めて引き続いてしっかりした議論がなされるべきであろう。

 景観問題はもちろん京都だけの問題ではない。バブル期の開発ブームで各地で景観破壊が問題となった。建都千二百年を迎えた日本の古都であり、世界文化遺産に登録される歴史的環境を保持してきたという意味で、京都の景観問題が象徴的に取り上げられたのであるが、それぞれの地域で、個性ある豊かな街並みをどうつくるかは大きなテーマである。

 ところが、それぞれの町に固有の町並みをつくるその方法となるといささか心許ない。各自治体で、景観条例がつくられ、景観形成のためのマニュアルがつくられるのであるが、どこも似たりよったりという問題がある。地域の景観のアイデンティティを唱いながら、同じ基準、同じマニュアルであるというのは矛盾である。京都市ではこの間の景観問題を踏まえて、市街地景観条例の大改正を行ったのであるが、それでも条例や基準のみでは限界がある。高さの基準を守っていればいい景観が創れるというわけではないからである。

 景観のあり方は、場所によって、地区によって異なる。市の全域を一律に規定するのは肌理細かい街角の表情を創り出すのには馴染まないのである。

 そこで今注目を集めているのが、マスター・アーキテクト制あるいはアーバン・アーキテクト制(建設省)と呼ばれる制度手法である。色彩や形態を一律に規定するのではなく、場所毎に、プロジェクト毎に、一人ないし、複数の信頼のおける建築家に調整を委ねるやり方である。ヨーロッパにおけるシティ・アーキテクトあるいはタウン・アーキテクトの制度がモデルになっている。

 例えば、京都であれば各区単位にマスター・アーキテクトをおいて、マスター・アーキテクトの委員会を統括するシティ・アーキテクトを考えるわけである。本来、建築行政、都市計画行政の一環としての景観審議会等がその役割を果たせばいいのであるが、個々のデザインの問題までとても眼が行き届かないし、行政内部に相応しい人材がいるとは限らない。それをサポートする建築家なり、デザイン・コミッティが必要ではないかという提案である。

 もちろん、問題は数多い。ヨーロッパのシティ・アーキテクトはかなりの権限をもつのであるが、日本ではどうか。その報酬をどうするか、任期をどうするか。当面試行錯誤が必要かもしれない。しかし、最大の問題は、シティ・アーキテクトとしての能力と見識を備えた建築家が日本にどのくらいいるのかということである。

2024年10月1日火曜日

「軽く」なっていく建築に未来はあるか,居酒屋ジャーナル3,建築ジャーナル,200609

 「軽く」なっていく建築に未来はあるか

 

21世紀の建築は、薄く軽くなっていく。かつてポストモダニズムが強調した個性の表出ではなく、実体感のない建築を打ち出す建築家がもてはやされいる。そんな時代に、建築家が本当につくるべきものは何かを、関西在住の建築家と識者4人が、批評精神旺盛に語る。

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――今、建築家の仕事は減少しています。そんな中でも、建築家が手がけていくべき建築はあるのでしょうか。

 

「バラック」に糧がある

 

布野 1970年代のオイルショック後も不景気は大変でで、若い建築家には現在のように住宅設計の仕事ぐらいしかなかった。私が編集長ということになった『群居』では、住宅が中心だった。今でも建築家はもっと本気で住宅に取り組むべきだと思う。

永田 布野さんの場合は、建築家が実際に設計して分かるところを、設計前に、その建築の位置付けなり評価が読めてしまう。だからつくらず、批評活動しているのとちがうかな。

布野 住宅5棟ぐらい手がけたし、やる気はなくはなかったけど、俺よりあいつの方がうまい、というのが分かっちゃうんだよね。

永田 布野さんの若い頃の著作の中で、「家はウサギ小屋でいいじゃないか」と批評していた。ウサギ小屋の中に、未来の建築の可能性を打ち出すものがあるんやと。そして誰よりも先駆けてアジア建築に興味を持ってきちんと論じたことに、私は惹かれるわけ。

布野 何故か、廃墟とバラックに惹かれる。

永田 私も昔からそうです。大阪・

西成のドヤ街を電車で通りかかるとき、すごくいいのよ。バラックのような建物に屋根が1枚しゅっと降り、その下に花がきれいに植えてある。そういう混沌とした世界の中に、私たち建築家がイメージしてものをつくっていく上での糧がある。こういう方向で建築家が考えないから、東京の汐溜から品川に建つような、きれいなだけでつまらないビル群が出来ていく。いくらカーテンウォールのプロポーションを上手く収めても、力のある建築にならない。

 私らは、布野さんが論じる言葉の中のものを、日々、一生懸命図面に描いて形にしようとしている。

――布野さんは、理想とする住まいなり、都市のイメージがあるわけですか。

布野 はっきりあったら、建築家になってますよ。建築をつくるというのは、基本的に暴力ですよ。下手すると、地球を傷つけて、粗大ゴミをつくるのと同じですよ。

 建築の道に進んだ当初から、そのプレッシャーを感じていました。私は東大の吉武泰水先生の研究室に入りましが、入ったときの問題が東大闘争の発火点になった東大医学部の北病棟問題です。吉武先生がツー・フロア一看護単位というシステムを提案したんです。一階にひとつづナースステーションを設けるのが普通だったけど、二回にひとつでいい、という提案。そのとき看護婦さんたちが「労働強化だ」って怒った。合理的な設計として提案したんだけど、・・・吉武先生は、それを真剣に悩んで、自分のプランを全部説明して、一回生の私に「何か提案はあるか」と訊ねられた。先入観のない意見を求めたのでしょう。えらい先生だと思いました。

松隈 布野さんや永田さんの世代は、歴史の証人ですから。1970年安保のときに原広司がどうしたとか、個々の建築家の考えや動きを、若い人に向けてしゃべってほしいですよ。

 

社会性から外れたポストモダン

 

――建築家の力は弱くなってきて、今後どう生きるべきかを問いなおすべき、というのは前回、横内さんが問題提起されました。建築を志したときは、やはり希望を持っていたわけでしょう。

横内 私たちの世代は、松隈さんも同じですが、学園紛争も収まった1970年前半に大学に入学しました。だから先輩より、素直に建築を学ぺた気がします。ポストモダニズムがブームの頃で、刺激的な小住宅、都市住宅がつくり始められた。特にアメリカの建築が華々しくて、学生の私はそれに憧れました。卒業後、アメリカに留学しましたが、その地の先端的なポストモダニズムの建築を見てがっかりしたんです。ロバート・ベンチュリーやチャールズ・ムーアにしても、張りぼてみたいで、これは建築ではないと実感しました。帰国して日本のポストモダニズム建築を見ても、同様に表層的でした。モダニズムが持っていた普遍性や客観性が、ポストモダンの時代になって急に個人的な言語になり、社会から外れていったように思えたのです。そこで信用できる建築家は前川國男しかいないと事務所の門を叩き、5年間勤務しました。

 その後、たまたま妻の実家がある京都の京都芸術短期大学に講師として赴任したとき、あろうことかポストモダニストの権化のような渡辺豊和が上司になった。関西はすごいところだと思いました。安藤忠雄もそうですが、彼らの作家意識は強く、尋常じゃない。そのスピリットは永田さんにもありますよ。

永田 そうかな。

――上司と部下の目指すものが違ったわけですよね。

横内 教育の場でしたから、問題ありませんでした。それより社会の流れが組織的なところに向かう中で、渡辺さんの自分を貫く生き方には学ぶことが多かったですよ。「作家」の覚悟をひしひしと感じました。

永田 関西には作家がわずかしかいないからね。

横内 わずかしかいない人がすごい。

布野 その点、東京は東京芸術大学にしても人材を出していますよ。関西ももっとがんばらないと。横内さんも大学で自分の2世を育ててほしい。松隈さんにも言いたい。前川國男の展覧会が全国巡回し、巨匠の仕事を世の中に再認識させた功績は素晴らしい。しかし、これからは松隈自身のオリジナリティを出した仕事に期待したい。

 

「軽く」に向かう建築に疑問

 

――建築家として、つくりたいもの、つくるべきだと思うものはありますか。

横内 それは分かりませんが、言葉で表現できないからつくっています。私たちの世代は、ポストモダンに対する嫌悪感があります。そこでモダニズムを見直したのはいいが、、ネオモダンのようなものがスタイルだけで出てきている。一方で作家性を否定する。例えば隈研吾の「負ける建築」とか、作家性を否定することで逆に作家性を打ち出すところがある。だから、建築がどんどんと薄く軽く、実体あるものから単なる情報になっていくところに収斂しているような気がします。

布野 アンチポストモダンがネオモダニズムという流れになっている。私に言わせると「バラック」ですよ。山本理顕の仕事は、評価していますが、きれいな「バラック」ですね。伊東豊雄さんは、もう少し、先端を走りたい。

横内 伊東豊雄の建築はそれでも実体感があります。せんだいメディアテークだってやはりごつい。

布野 彼は、身について、ごついのは嫌いですよ。。しかし、建築と成立させるために、ごつさも許容する歳になった。。妹島和世、西沢立衛になると、ピュアにピュアに軽く軽くしようとしてきた。

横内 あの世代はつくる規模が小さいというのもある。

布野 昨年、伊東豊雄とは一緒に飲みました。若き日の彼と、あまり印象は変わらなかった。彼は今65歳で、自在に仕事をしている。安藤忠雄はもとより分かりやすく、「緑が大事」「水が大事」と一般受けが巧みだが、その路線は飽きられるか、スタンダードになるしかない。その点、伊東豊雄はがんばってると思う。コンピューター技術を駆使し、表現の最先端を追求している。制度的に勝負しているのは山本理顕だと思う。私の立場と近いところにいる。そういうことと一切関係なくエコロジー派で仕事をしているのは藤森照信。今、私が日本の建築家で一目置くのは、伊東豊雄、山本理顕、藤森照信の3人ぐらいです(次号に続く)。

 

<顔写真>

布野修司

永田祐三

松隈洋

横内敏人

 

<プロフィール>

ふの・しゅうじ|滋賀県立大学環境学科教授。1949年島根県生まれ。東京大学大学院博士課程中退。京都大学教授を経て、2006年より滋賀県立大学教授。主な著書に『布野修司建築論集』『戦後建築論ノート』など

 

ながた・ゆうぞう|永田北野建築研究所代表。1941年大阪府生まれ。1965年京都工芸繊維大学建築工芸学科卒業。竹中工務店勤務後、1985年永田北野建築研究所設立。1993年村野藤吾賞受賞(ホテル川久)

 

まつくま・ひろし|京都工芸繊維大学助教授。1957年兵庫県生まれ。1980年京都大学工学部建築学科卒業。前川國男建築事務所勤務後、2000年より京都工芸繊維大学助教授。著書に『近代建築を記憶する』など

 

よこうち・としひと|横内敏人建築設計事務所代表。1954年山梨県生まれ。1978年東京芸術大学建築科卒業。前川國男建築事務所勤務後、1991年横内敏人建築設計事務所設立。三方町縄文博物館設計競技1

 

<案内>

「居酒屋ジャーナル」参加者の募集

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居酒屋ジャーナル担当:〒541-0047 大阪市中央区淡路町1-3-7キタデビル

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E-mail  oosaka@kj-web.or.jp

 

 

 

 

 

 

2024年8月26日月曜日

いい建築と悪い建築,日経アーキテクチャー,19960408

  いい建築と悪い建築

布野修司

 

 いらない建築などはない。あるのはいい建築と悪い建築だけである。

 どんな建築であれ、建てられるからにはいる建築である。たとえ悪い建築であっても、最低、それを建てる設計者や施工者や部品メーカーにとってはなにがしかの利益をもたらすのであるから、いる建築である。

 建てない方がいい、あるいは別の建築を建てた方がいい、というのであれば枚挙に暇がない。というより、ほとんど全ての建築がそうだ。稀に、人里離れたところに、要するに開発に取り残されて建ち続けた建物が傑作ということになる。

 いい建築とは何か。いい悪いは見方による、などとは言わない。そういうと、いるいらないも見方によるということになる。

 いい建築とは壊されない建築である。壊されない建築なんかありうるのか。永久に壊れない建築は物理的にはあり得ないけれど、原理的には方法が3つだけある。ひとつは永遠につくり続ける方法である。永遠に未完であればいい。式年造替による形式保存の方法も入れてもいい。もうひとつは最初から壊れたものをつくればいい。廃墟価値の理論だ。そして、最後はつくらないことである。つくらない建築は壊れることはない。すなわちいらない建築である。

 しかしそれでも建築家であればつくるのであるから、いらない建築はないのである。つくるのであれば、ただひたすらいい建築をつくればいい。いらないと言われてもどうにか使える、壊すと言われてもなんとか再生できるそんな建築が求められる時代が来ていると思う。

2024年8月20日火曜日

審査後のモニタリングも必要,『日刊建設通信新聞』,20060720

◆中小事務所や若手の参加機会を確保すべき

◆審査後のモニタリングも必要

 

国のプロジェクトについては、PFI方式を採用して総合評価一般競争入札で事業者を決定する事例が、一般化しつつある。事業を長期間民間に委託できることや、説明責任を果たしやすいことなど、PFIとは発注者にとっても好都合な事業手法であり、こうしたことから地方自治体でも急速に広まっている。

PFIの課題をあげるなら、まずは地域の中小設計事務所にとっては参入しにくいスキームだということ。中小事業者でもPFIに参加できるファイナンスの仕組みを整えることが求められている。

また総合評価一般競争では技術評価で差がつかず、価格の安い者が落札するという結果に落ち着いてしまいがちだ。実験的なプロジェクトは敬遠され、提案も平均化されたものになってしまう。これまでPFI方式の導入対象となった施設も、民間の知恵を生かすといいながら、用途上民間のアイデアを採り入れにくい施設が多い。これでは思い切った評価ができないし、評価に差をつけることができない。

一方でコンペやプロポーザルであれば、良いものをひとつだけ選べばよい。大型施設であるとか、地域で類を見ないようなものについては国際コンペなど、アイデアを地域外から集めたらいい。だが小学校の校舎であるとか、比較的小規模な建築については、地域の中小設計事務所や若い建築家のために、受注できる機会を確保すべきだろう。

富弘美術館(群馬県東村)のように住民参加型の設計者選定が進められた事例もあるが、このような場合、技術提案をきちんと評価できる審査委員の存在が重要となる。その意味で、結局鍵を握るのは審査委員のそのものかもしれない。少なくとも建設が完了するまで審査委員はプロジェクトを見届けるとか、完成後に継続してモニタリングするシステムなども必要になるだろう。

 

 




2024年8月18日日曜日

建築家のいる風景,そこには依然として富士山が似合うのか,螺旋工房クロニクル001,建築文化,彰国社,197801

 「建築家」の居る風景・・・そこには依然として富士山がよく似合うのか

 

 A ja ja jan

 B 何だそりゃ!? 「今晩は。ビートルズです、ぼくたち」とか、「子の刻参上」とか、てっきり格好良く来ると思ったら。いきなりーーーー?。

 A 富士山見たか? 『ja』(一九七七年一〇ー一一月)見たか? これja

 B 度し難いね。まるで渡辺豊和*[i]の『建築美』創刊号(一九七七・夏)、石山修武*[ii]の「怪談 三義人邂逅・一幕一場」にて石井和絋*[iii]こと「多義」登場の場面じゃないか。一体何事ジャ。ジャー・ジャーって。『アン・アン』『ノンノ』は古いですよ。『モア』だとか『クロワッサン』だとか・・・それにしてもニューファミリー向けの雑誌って全然ふるわないって言うじゃないの。ニューファミリーなんて、何処にも存在しなかったてわけだよ。

 A これは一種のスキャンダルだね。POST-METABOLISMのニューウェイブだってさ。明日の日本建築を担う建築家の総勢三六人。しかも、悪意に充ちた序列、番付つきだよ。

 B 「一寸待て、車は急に止まれない」。「狭い日本、そんなに急いで何処へ行く」。富士山とか、ニューウェイブとか。序列・番付とかおよその見当はつくがね。何でそんな目くじらたてんのかね。・・・「ジャーナリズムは、われわれにその日暮らしの旅(ジャーニー)を強いる。夥しい「事件」が毎朝毎晩、律儀に届けられてくるが、それはほとんど、われわれのまわりで何が起こっているのか、という問いを発せさせないためであるかに見える」なんて言ってみたくなるじゃないか。スキャンダルがありうるとしても、その生産また再生産は、ジャーナリズムにとって日常的な自己運動の展開にすぎないはずだ。

 A しらけるな。君はいつもそうして「ゴドーを待ちながら」か。しかし、到来の気配や兆候は、われわれの周辺には漂ってはいないさ。スキャンダルはスキャンダルさ。日常生活に染み込んだ不可能性の意識とないまぜになった「子の刻幻想」。しかし、君らはいつも「子の刻五分過ぎ」・・・いや、三回り半遅れのマラソンマン。

 B 壮大なるピエロだな。君の身振りも判らんでもないがね。まあ、やってくれ。そのスキャンダルというやつ。悪意に充ちた何とかというやつを解説してくれよ。

 A まず、富士山だ。遥か上空に雲があって、そのなかに太ゴチでKENZO TANGE*[iv]、そしてメタボリズム・グループ*[v]が居る。雲上人というわけだ。

 B KAZUO SINOHARA*[vi]なんてのもあるね。雲上人のなかに。

 A どうも、一九三〇年生まれ以降ということで線を引いたらしい。いつか『A+U』で石井和絋+鈴木博之*[vii]の「アンダーフォーティ」(七七年一月号)とかなんとかいうのがあったよな。あれが下敷きになっている。同じコンビだ。この構図を描いたのは。

 B やっぱり「多義」じゃないか。それにしても鈴木博之とは気になるねえ。

 A 一九三〇年で線を引くから、メタボリズムの旗手、黒川紀章*[viii]が入ってくる。海外の知名度から磯崎新*[ix]と左右に並べて、風神、雷神。以下、石山修武、石井和絋、安藤忠雄*[x]0がその後継者。

 B 後継者と書いてあるのかい。

 A 書いてある。続いて、木島安史*[xi]1、相田武文*[xii]2Architext*[xiii]3らの四〇代を分断するわけだ。木島安史なんてのは鈴木博之好みなのかな。以上は四頁プラス論文つきだ。一寸格が落ちて、MONTA MOZUNA*[xiv]4、TOYOO ITO*[xv]5、TOYOKAZU WATANABE、ZO ATELIER*[xvi]6が各三頁。

 B ZOねえ。気になるねえ。

 A 何なら解説しますよ。わりと丁寧に紹介してあるけど、やはりストレインジ・フォルム(奇妙な形)が売られているニュアンスがあるかな。関係ないけど、ピーター・クックが象を絶賛したらしいよ。とにかく以上がベストイレブンで一部。以下二部一六人、各二頁。三部九人、各一頁となっている。一部でも磯崎一〇頁、黒川八頁と微妙に差がつけてあるし、その差異化の意図は透けるように明確だよ。KUROSAWA*[xvii]7が二頁で、SONE*[xviii]8が一頁だ。

 B なるほどね。それが君のいうスキャンダル、悪意に充ちた序列・番付か。随分細かな詮索をしたもんだ。遊びとしては面白いんじゃないの。『建築評論』八号(一九七三年五月)でも幾つか番付つくっているし、鈴木博之は、「<引用と暗喩の建築>の建築家」(『都市住宅』 七七年七月号)で、そうした試みをすすめ、ほのめかしていたじゃないか。そりゃあ、ピンでとめられた側にしてみりゃあーいやピンでとめられなかった奴は余計だろうけれどー頭にくるかもしれないだろうが、こうした番付評価は悪意に充ちてたほうが、いいにきまってる。問題は・・・。

 A こうした構図の提出される場所とコンテクストだろ。この構図は、もとより、そのコンテクストを見据えて、それなりの戦略のなかでしかも世界へ向けて、提出されているはずだ。

 B 富士山は決して赤くはないが、「ぼくと富士山との間にあるいろんなものが、ぼくを中心に大きな円を描きながら回っている」んだね。ところで、最近は風呂屋の壁のペンキ絵にも、富士山は少ないんだよ。君なんか知る由もないだろうがね。

 A そうだ。まず富士山が問題だ。確かに何で、富士山をバックにしなきゃいけないのかね。石井和絋にしても、鈴木博之にしても、俺らよりはるかにインターナショナルな視野で日本の建築文化をみれるはずではないか。そうしたなかで日本の展開を位置づけることは可能なはずだよ。たとえば、イタリアを中心とする最近の動向との絡みでやれなかったのかね。POST-METABOLISMということで、日本の建築家をすべて梱包して輸出する。どうも胡散臭いねえ。何も日本という枠をはめなくても、日本ほど情報が集まるところはないんだから、別の輸出の仕方はいくらでもありそうなもんだ。この輸出入のあり方は、どうしようもなく日本的だよ。だから富士山だ。何もめぼしいところに気をつかって皆拾い上げて、しかも序列をつけて出すことはない。序列にしても、さまざまな視点からのそれが用意されていいんじゃないか。仮に、ニューウェイブなるものが存在するとしてもだ。・・・・と、こうだろ。

 B 「昭和日本」ー「日本天皇制民主帝国クリンアップ机上作戦透視図」(『流動』)なんての知ってる?

 A POST-METABOLISMという問題のたて方は、C.ジェンクスのPOST-MODERN ARCHITECTUREなんてやつより、超えるべきものを具体的に見据えている点で、ひとまずよしとしよう。六〇年代日本建築の支配的イデオロギーとしてのメタボリズムだ。しかし、こうした問題のたて方で、一番ひっかかるのは、まず黒川紀章だろ。メタボリズムのイデオローグではないかもしれないが、少なくとも饒舌なアジテイターではあった彼が、同様POST-METABOLISMの旗手でありうるということは、一体どういうことだ。・・・常識的には、そこに特殊日本的な事情と、メタボリズムなるものと同時にポスト・メタボリズムなるものの薄っぺらさとを読みとるだろうな。受け手としてはね。

 B 母さん、僕のメタボリズム、どうしたでせうね。・・・その時傍で咲いていた車百合の花は、もうとうに枯れちゃったでせうね。・・・今夜あたりは、あの峪間に、静かに雪が降りつもっているでせう。・・・ニュー・ウェイブも遠からず、枯れたり、雪が積もったり、どうしたでせうね、ってことになるんじゃないの。真砂なす数なき砂のその中に染み込んでさ。

 A いや、ニュー・ウェイブなんてのは、明らかにフレーム・アップだよ。POST-METABOLISMは、何も新しい運動でも組織でもイデオロギーでもないさ。命名者たちだってくどいくらいに断っているさ。だから、問題は、フレームの措定と、その方向づけの語り口、その内的必然性じゃないのかね。彼らが、POST-METABOLISMの指標として挙げるのは、テクノロジーの直線的な進歩に対する信仰の拒否、そして、それが決してトータルな拒否にあらず、つかず離れずで用いること・・・よくわからんな・・・そして社会へのアプローチだ・・・ますます、判らんという顔をしているな・・・さらに、形態のもつ意味の重要性についての認識だ・・・これは了解するかな・・・。

 B 僕の韓国の友人ならこういうね。ビビンバ(●ハングル)と一言。日本の建築は、少なくとも雑誌みてる限りにおいてビビンバだっていうのが彼の口癖でね。一匙ごとに味が違うってわけさ。

 A POST-METABOLISM=ビビンバというのは異議ないね。しかし、その序列の尺度はどうなるのか。石井和絋は、エンターテイナーとして認められているらしいから、とりあえずおいて・・・鈴木博之は、その判断に歴史家としてのそれが当然入るはずだろう。彼は少なくとも「同時代における歴史叙述と批評」(『建築雑誌』 七七年九月号 特集「同時代史ー日本近代建築史の問題」)の問題に意識的なはずだ。これを彼の同時代批評の実践とみれば、実に興味深いじゃないか。伊藤ていじが、いつかの『新建築』の「月評」(七七年九月)で彼について実にうまい批評をしてたけど、この人一寸気を使いすぎるね。上にも下にも、右にも左にも。

 B ところで君なら、このビビンバ状況をどう語るのかね・・・

 A 俺なら、まず象だろ、そいで石山、安藤、・・・

 B おいおい、話のレヴェルが違う。組合せを変えて、構図を描きゃいいってもんじゃないだろ。それにみんなベストイレブンじゃないか。

 A あれ!

 B 表層の流れに伴走するのもいいが、道化の役割は荷がかちすぎるんじゃないのかね。君のように、むきになって、別の構図を提出したところで、先行する構図を定着することに力をかすことになるだけさ。活字の物神化というか、写真や言葉のイメージの商品化というか、その物神崇拝によって倒立するなよな。

 A ジャーナリズムは、その日暮らしの旅を強いるか。

 B 私的な会話のエクリチュールがジャーナリズムのそれと位相を異にしえないところに、問題があるね。ミニコミとか、同人誌とかが、自立した回路で成立しにくい状況がね。

 A 自立メディア幻想ね。ミニコミ・マスターベーション論なんて興味あるさ。『建築美』なんてのはそうかもしらんが、『レフォール』(七五年夏)は一寸違うだろ。言語の党派性の問題かな。まてよ、話は終わってないぜ。

 B 『建築雑誌』で、建築ジャーナリズム特集やってるんだよ。近江栄さんらしい企画だよ。向井正也さんなんか「わが国の建築アカデミーの一拠点、日本建築学会の機関誌『建築雑誌』が、主集のテーマとして「建築ジャーナリズム」をとりあげるということは、おそらく、学会の歴史はじまって以来のことではなかろうか」なんて大変なもち上げようだぜ。「アカデミズムの世界には、不似合な突然の異変に、とまどいすらおぼえ」ながらも、「革命的」だなんていってる。

 A まてよ。俺の記憶だと、建築ジャーナリズムが、『建築雑誌』で問題になったことは主集という形ではないにせよ、戦後にもあるぜ。たとえば「建築ジャーナリズムの動きをたどるー関係誌二〇年の歩み」(五六年四月)なんてそうだろ。しかし、それにしても、アカデミズムがジャーナリズムを主題化するという状況はどういうことだろう。奇妙な構図だよ。仮に、両者が理想的に対立するという常識を前提にしてだがね。

 B 建築ジャーナリズムが問われる状況は、ちゃんと歴史的にも押さえておく必要があると思うよ。君なんかとくにね。そこには、幾つかの対立の構図がある。ジャーナリズムとアカデミズム、マスコミとミニコミ、専門誌と大衆紙、建築ジャーナリズムと一般ジャーナリズム、ものとことば、地方と中央、インターナショナルとナショナル・・・・。特に、現役編集者の弁は、他から求められたとはいえ、自らの職能を問うという、彼らにとって日常的な、それでいて最もシビアな問いだから、それなりにしたたかさはあるよ。

 A だから、俺としてはだな・・・このPOST-METABOLISMを素材にだなー建築文化の今日的状況をだな・・・その閉鎖性と貧困とをだな・・・いわゆる建築家のいる風景にだな・・・富士山がだな。

 B まあ、おいおいやるさ。




2024年8月17日土曜日

「方法としての「戦後建築」・・・80年代の建築が語り出される前に・・・」,螺旋工房クロニクル013,『建築文化』,1979 01

 方法としての「戦後建築」 

 

 「近代建築は人間の建築である。その故にこそ近代建築を可能ならしめるものは人間への限りない愛情を本質とする『在野の精神』に対する深い理解と遑しい自信とでなければならない。

 単一人類の実現へと向ふ世界歴史の必然からしてここに言語につくし難い困難な時に恐らく前代未聞の「近代」を辿らねばならない我々の同胞の運命を思ふ時の近代建築の果さねばならない責務の大きさを思はずにはゐられない。ならば機能の満足による調和の実現、云ひかへれば人間性の幸福な発展をあくまで追求する近代建築精神一般はーーー単に建築をその対象とするだけにとどまらずーーー家庭日用生活器具の設計から都市計画、農村計画、国土計画、更に政治経済の凡ゆる人間形成の基本的原理としての意味をもつと考へられるからである。並に我々の近代建築精神の陶治と大方の愛情と理解とを希って我々の貧しい論抄の刊行を決意し、これを「PLAN」と名づける。」*[i]

 

 戦後五〇年を経て、「戦後」は最終的に死語になりつつある。あるいは、完全に歴史になりつつある。しかし、「戦後」の抱えた問題はこれからも繰り返し問われることになろう。戦後建築の初心を表す言葉が「PLAN」である。「近代」あるいは「PLAN」が輝いていたのが戦後間もなくである。七〇年代末に「戦後」評価をめぐる議論があった。昭和五〇年を経て、戦後も三〇年を超えた段階で、「戦後」を歴史的に総括する時期が訪れたということであろう。以下の文章は、「八〇年代の建築が語り出されるまえに」という副題がつけられていた*[ii]。「戦後」という枠組みは、八〇年代末に至ってその解体が確認されるのであるが、その十年も前から既に議論が展開されていたことは記憶されていい。「方法として」「戦後建築」を問題にする意味は意識され続けていたのである。

 

 

 江藤淳と本多秋五の戦後評価をめぐる論争*[iii]が波紋を広げつつある。焦点はもっぱら、ポツダム宣言における無条件降伏の意味、それを一つのクリティカルな争点とする同時代認識をめぐって、戦後(文学)を一挙に無化してしまおうとする、近年とみに「政策」イデオローグ(「治者」のイデオローグ、国家自立のイデオローグ)としての立場を露わにしてきた江藤淳の役割、身振りである。すかさず、真継伸彦、中上健次等のコメントが出され、やがて、秋山駿*[iv]や岡庭昇*[v]、また、南坊義道*[vi]、さらに大江健三郎*[vii]を巻き込みつつある。

 このいわば《ポツダム宣言論争》とでも呼ぶべき応酬は、いたずらに江藤淳の政治的な役割を浮彫りにし、論争それ自体、本多・江藤が「互いにそれぞれの立場で、物語、小説の定型に手玉に取られている」(中上健次)ものにすぎないと言えるかもしれない。しかし、そこに、戦後そのもの、なしくずにされつつある戦後そのものを根底的に問い直す契機が潜在していることは確かである。

 それは、かつて六〇年代初頭の佐々木基一の「『戦後』は幻影だった」に端を発する「戦後文学」論争*[viii]とは位相を異にしつつあるし、六〇年代末以降の戦後批判を経過することにおいて、また、政治的コンテクストと否応なく絡められることにおいて、今日における切実な課題となりつつあるはずである。いわゆる「意匠としての戦後否定」をそれは超えねばならないのである。

 そうした意味で、岡庭昇が、「体制イデオローグである江藤氏がなにやら「ポツダム体制打破」を呼号し、本多氏が擁護にまわっている皮肉さ」を揶揄し、「この論争が共有している(してしまっている)前提を、つまり場の成立そのものを認めない」としながらも、「ただ、思想的に不毛であれ、場そのものが虚構である指摘をとおして、「戦後の敗退」を積極的な契機に切りかえてゆくための、重要な手がかりを提供しているとおもう」と引きとり、大江健三郎が「批評家よ、戦後文学をその最低の鞍部で越えるな、それは誰の得にもならないだろう」という、かつての本多秋五自身の言葉を冒頭に引きながら、「江藤淳の提出した疑義を契機にして、僕はあらためて戦後文学、戦後文学者について読んだり考えたりすることをした」と、より根底的に「日本文学、戦後文学を決して後退のおこらぬ、後退しえぬ一点にまで、はっきり推し進める契機ともなりえるもの」としての竹内の戦後(文学)批判を引き受けようとすることは、真摯で正統な態度というべきであろう。

 江藤淳の論の展開に含まれる多くの矛盾、そのドラスティックな軌跡(転向)、現在担いつつある政治的役割とその内的、外的必然性については、批判者がこぞって指摘するところでもあるし、多言を要しない。矛盾や転向の指摘は、そうした実証的、論理的批判を超えた「尊王攘夷」的「ナショナリズム」や秩序防衛のイデオロギーのアジテーターの役割をますます明らかにするのである。問題はこの江藤淳の戦後批判をどうとらえ直すかである。そこに示される同時代認識をどうとらえなおすかである。

 一方で、大江健三郎と岡庭昇の江藤批判の差異は興味深いと言わねばならない。岡庭が論争の場そのものを認めないのに対して、大江は明らかにその場を前提としながら、六〇年代末の『万延元年のフットボール』をめぐる江藤との決定的対立、絶交(江藤・大江論争)をひきずりながら、反江藤の立場を展開しようとしていることにおいて、結果として、本多(近代文学派)擁護、戦後文学擁護(もちろん、全面肯定ではありえない)を引き受けようとする。そこには、すなわち、世代の差を含めた「近代文学」(派)の評価にかかわる差異があるのである。また大江が、作家として、文学表現の問題としてとらえようとするのに比して、岡庭は、政治的なコンテクストを含めたより広いコンテクストにおいて「戦後の敗退」をとらえようとしているとも言える。したがって、文学論のレヴェルでは、この論争の場そのものとは別の派絡を提示する中上健次を大江に比すべきと言えるかもしれない。しかし、いずれにせよ、それらは基本的には、僕らの同時代認識をめぐって展開されつつあるのである。

 江藤淳の同時代認識は「戦後文学は仇花」あるいは「戦後文学はそもそも存在しなかった」とまで言い切りながら、存在する唯一の尺度として「昭和文学」という範疇を提出するところですでに明瞭に示されてきた。菅孝行*[ix]や岡庭昇*[x]0が、その「昭和文学」というカテゴリーの提出をめぐって執拗な批判の作業を展開してきているのである。すでに、この新たな論争の種はまかれていたといってよい。まさに、そうした脈絡において、江藤淳は新たな攻撃の対象として本多秋五を選んだにすぎないのである。その同時代認識り差異は、菅孝行の次のような方法意識において鮮明に浮かび上がっていると言えるであろう。

 ●彼(江藤淳)は、戦後(あるいは少なく見積もって戦後文学)において「確立された価値の再検討」を通じて、それを否定し、昭和に「確立された価値」の根拠に回帰することになる。すなわち、ここでは連続面が価値に連なり、非連続性が虚妄とされる。

 これに対して、例えば私が、戦後を問題にする立場は、全く異なっている。江藤が「昭和に確立された価値」を自らの尺度としてとり込んでいるのに対し、それを批判の対象と考えるのである。すなわち、「昭和」の連続性を支える、ひとつの「確立された価値の再検討」をめざしている。したがって戦後過程とは、昭和期前半の二〇年間に「確立された価値」を再検討し、その価値の根拠を解体し、新たな未成の価値の根拠を再形成する過程であることによって、昭和=戦前・戦中の過程に対して非連続であるべきものでありながら、それを貫徹しえなかった過程であるとみなすほかはないのである。

 ●昭和に形成された「価値の再検討」の話題は、昭和の廃絶であるというしかないだろう。当然、昭和史をひとつの連続性たらしめているものは、決して普遍的な価値の根拠たりえないし、決して日本の地域的特殊性を、世界性へ到達せしめ得ないという判断を前提としている。

 ●昭和は、まさに廃絶すべき負の対象として連続している、というべきであろう。断じて、昭和は、戦後を否定して回帰すべき、正の価値の根拠として存在しているのではないのだ。(「文学における〈昭和〉の廃絶」)

 

 岡庭昇も、ほぼその問題意識を共有し、戦後に「近代」を願望する誤謬を正確に指摘しながら、次のように言う。

 ●わたしは、十五年戦争下の時代、つまり戦前の昭和は、明らかに転形期とみなされるべきだと考える。むしろ、日本近代における、最も可能性にとんだ状況だったのではないか。“昭和”とは、ひと言でいえば危機と戦争の時代である。明らかに日本的近代という虚構の支配原理が、危機に直面し、危機をのりこえるために戦争という、よりデフォルメされた形姿をもとめざるをえなかった。言い換えるなら、日常が物語たりえなくなりかけたとき、はるかに物語らしい物語である戦争が用意された。

 ●わたしは、国家は昭和をひとつながりのものとして自立しており、十分にそのことに自覚的である。といった。もしわれわれが、十五年戦争下を転形期としてとらえなおし、よくその思想的な可能性を再評価しなおしつつ、戦後をわれわれの手によって撃つことができなてなら、ついに物語の外に出ることはできない。否「敵」に釣り合うことさえ、できないはずである。(「江藤淳――物語のなかの演技者)

 ●昭和文学などという特殊なカテゴリーは、実は存在しない。日本の近代文学は「昭和」も「戦後」も決定的な転換のメルクマールとはさせないほどに一貫した負性としてある。ただ、あえて昭和文学というカテゴリイをたてるとすれば、「日本近代の文学表現を縦につらぬく「規範」の成熟と衰頽のときという観点においてであり、それはそのまま日本近代というフィクシャスな共同性規範が「露出」した時代という意味で、重要な視座となりうるのである。(「昭和文学の視座」)

 

 こうした、菅や岡庭の方法意識を僕もまた共有する。日本の近代建築をとらえる際に欠かすことのできない視点がそこにあるからである。江藤・本多論争に、建築の現在が引き受けねばならぬ問題への解答の契機も含まれているはずなのである。例えば、川添登が戦前・戦後の連続性を正のものとしてとらえ、近代天皇官僚建築家(吉田鉄郎、丹下健三等)に対して、村野藤吾、堀口捨巳、吉田五十八、白井晟一の再評価を主張し、また戦時体制下における国民建築、国民住居の重要性を強調するのをみれば、問題の偏在は明らかではないか。

 また、「昭和建築」という範疇をつとに提出したのは長谷川尭であった。もちろん、それをネガティブな契機として提出することにおいて、その役割は江藤淳のそれではない。しかし、彼は「大正建築」の再評価、その裏返しとしての「昭和建築」=近代合理主義の建築の否定に急で、「戦後建築」そのものを一挙になしくずしにする役割を担いかけはしなかったか。また、例えば「日本の現代建築」*[xi]1が「戦後建築」をとらえ返そうとするとき、こうした同時代意識をめぐる議論が当然クリティカルに投影されるはずではないのか。

 いま確かに、「戦後」という言葉はひどく色褪せてしまっている。その言葉のうちに含まれていたはずの、それ以前の歴史過程に対する断絶、批判、優位の響きはすでに失われているかのようである。とりわけ、六〇年代末以降の過程において「戦後なるものの幻影の中で太平の夢をむさぼってきた諸制度が根底的に問い直される」なかで、僕らは「戦後」なるものが虚構にほかならないことを嫌というほど思い知らされたのである。今にして思えば、「もはや戦後ではない」という宣言が経済白書によってなされた頃ほど「戦後」が信じられていたときはなかったのである。その頃を起点とする高度成長の終焉、あるいは五五年体制の崩壊といったさまざまな戦後の終焉に立ち会いつつある僕らには、戦後の過程は、ありうべき戦後がなしくずしに無化されていく過程にほかならなかったように見える。そして、そうした眼差しには、むしろ戦前・戦後がのっぺりつながって見えてくるのである。

 僕は、六〇年代の建築に対するささやかな総括を試みながら、その過程に、戦前・戦後を通じて一なる昭和の過程や、さらにそれを含み込む日本の近代の過程をみていた。そこでは、自らの現在を直接的に用意した時代の具体的なコンテクストへのこだわりが先行しており、むしろ問題意識としては、抽象的、一般的に近代批判の問題をたてがちな思考を具体性のなかにつなぎとめようとするもので有ったのであるが、六〇年代の建築のあり様に対する批判は、即、戦後建築批判であり、ひいては近代建築総体に対する批判へつながっていくのである。僕らが担わされている問題はすでに戦前に用意されていたという意識がそこにあった。そうした意識は、すでに一般化されたものといってよいであろう。磯崎新の『建築の一九三〇年代』は、明らかに、そうした意識に貫かれたものである。三〇年代と七〇年代を重ね合わせる意識において、また、三〇年代における「日本的なるもの」をめぐる議論を五〇年代の伝統論の展開へストレートに結びつける視点において、戦前・戦後は一つの過程としてとらえられているのである。

 しかし、こうした歴史意識によって必ずしも僕らに展望が開けるわけではない。それは、あくまで後ろ向きのパースペクティブなのである。もどかしいのは、同じ連続性において終戦の閾をとらえるにしても、ポジティブに捉えるか、ネガティブにとらえるかによって大きく歴史的展望を異にするにもかかわらず、それを明確に区別する指標が定かではない点である。僕らがいま痛切に意識していなければならないのは、六〇年代末以降に一挙に顕在化してきた近代合理主義、科学主義、進歩主義、テクノクラシーに対する批判が、観念のレヴェルではさまざまな反近代の意匠をまとった潮流へ容易に回収されていく構造をもっていたということである。

 戦後的なるものは幻想にすぎなかった。そして、いま僕らはその戦後幻想の解体のはるか彼方にある。しかし、問題はさほど単純ではないのである。確かに、戦後幻想は否定されなければならない。それによって、僕らはすぶずぶの日本の近代を対象化することができる。けれども、戦後幻想の否定によって、ありうべき戦後そのものを否定することは不毛なことではないのか。菅孝行の言うように*[xii]2、戦後幻想が批判された止揚されなくならない理由は、それが、あたかも八・一五以前の歴史過程への非可逆的な総括の所産であることを装いながら、実はすり抜けの虚構であり、戦後性の名において死守されるべきものを解体し、戦前戦中の過程へと順接させるイデオロギー装置にほかならないからである。

 戦後性の名において死守さるべきものとは何か。ありうるべき戦後とは何であったのか。終戦後まもなく、廃墟を前にして幻想されていたものは何であったのであろうか。

 さまざまな反近代の意匠は、反合理のロマンの跋扈を許すことにおいて、戦後批判そのものを無化してしまう。そうしたとき、僕らの批判の原点は宙に舞うのである。ありうべき戦後を、あえて一つ指標としてたてねばならないとすれば、そうした趨勢を見据えるからである。そうでなければ、僕らは日本の近代の重さを暗鬱なる胃の腑の底で反芻するにとどまるだけである。

 建築において、ありうべき戦後が一つの指標としてたつかどうかは知らない。戦後建築に、戦後幻想の解体の彼方においてなおかつこだわらねばならないものがあるかどうかはわからない。しかし、一挙に、より大きな歴史の過程を対象化するまえに、戦後性の名において死守すべきものについて思いをはせておくことは無意味ではないはずである。少なくとも戦後派世代にとって、戦後のもつ意味は計り知れなく大きいはずではなかったか。それは、僕らの想像力が到底届かない衝撃力をもち得ていたのではなかったのであろうか。

 いずれにせよ、僕らは一度は戦後幻想のゼロ地点へ立ち戻ってみなければならないはずなのである。それは決して、心情的な、焼跡や廃墟への追憶やロマン的な回帰ではなく、菅孝行のいう「方法としての戦後」意識、思想の指標としてのありうべき戦後としての理念、抽象をもとにした歴史のレクチュールである。

 もちろん、それは歴史をさまざまに時代区分して、作品や諸表現を文類し直したりする作業とは区別されねばならない。明治一〇〇年とか、昭和五〇年とか、戦後三〇年といった時間のくぎり方それ自体が問題ではないのである。少なくとも、僕にとって「昭和」は現在を批判的にとらえ返すための虚構のフレームでしかない。「ありうべき戦後」も、とりあえずの虚構の指標なのである。それきは単に「戦後」に「昭和」をもち込んだり、「昭和」に対して「大正」を、あるいは「近代」に対して「前近代」を代置することではない。

「現在を批判するのに過去をひき入れ、過去を批判するのに大過去をひき入れる方法は、ただただ過去へむかってユートピアを求めて遡及する倒錯した永遠革命のイメージしか構成することができない」のである。

 やがて、八〇年代の建築についての展望が語り始められるかもしれない。否、ポストモダンやポストメタボリズムにかかわる議論において語り始められていると言うべきであろうか。その際、戦後建築が果たして仇花であったのかどうか確認される必要があろう。戦後建築史も、ようやく(否、すでに)書かれる時期に達したはずである。戦後建築の幻想の解体によって、確かに日本の近代建築の史的展開もよりよく見えてきたのである。そうした史的パースペクティブのなかで、戦後建築は本当に無化されるのであろうか。戦後建築は存在しなかったと言いうるのであろうか。

 いずれにせよ、僕らもまた、こう言うべきであろう。「戦後建築」をその最低の鞍部で越えるな、と。

 



*[i]前川國男、『PLAN』一「刊行のことば」、一九四七.一二.一 

*[ii] 布野修司、「方法としての「戦後建築」」(螺旋工房クロニクル013)、『建築文化』、一九七九年一月号

*[iii] 江藤淳「“戦後歴史”の袋小路の打開」『週刊読書人』七八年五年一日、「文芸時評」『毎日新聞』七八年八月二九日、「戦後文学は仇花」『週刊読書人』七八年八年二九日、「本多秋五氏の『戦後固定論を駮す――今こそ“神話の時代”に引導を渡すべきだ」『朝日ジャーナル』七八年一〇月二〇日、本多秋五「『無条件降伏』の意味」『文芸』七八年九月ほか

*[iv] 読売新聞「文芸時評」

*[v] 「江藤淳――物語のなかの演技者」『現代の眼』七八年一二月 特集=危機のイデオローグ

*[vi] 「戦後文学は徒花か」『第三文明』七八年一二月

*[vii] 「文学は戦後的批判を越えているか」『世界』七八年一二月 特集=文化――状況へ

*[viii] 戦後文学論争

*[ix] 『延命と廃絶 昭和の時間と文学の党派性』

*[x] 『文学と批評的精神』

*[xi] 『新建築』七八年一一月臨時増刊

*[xii] 『戦後思想の現在』

2024年8月16日金曜日

地域主義の行方,中間技術と建築,螺旋工房クロニクル008,建築文化,彰国社,197808

 地域主義の行方――中間技術と建築――

 

 1

  日本には、ひとつの妖怪が跋扈しつつある、という。

  「日本をひとつの妖怪が行く。地域主義という妖怪が、ふるい日本のあらゆる権力は、この化け物を退治しようと、神聖な同盟をむすんだ。保守と革新を問わず、既成の政党、既成の組織、そして既成の思想集団……」と、やがて「各地域に棲む一人一人によって書かれるべき」地域主義宣言を、玉野井芳郎は、ちょうど一五〇年ほど前に草された一つの宣言になぞらえてみせる。「保守も革新も、だれもよくわからない、既成の思想では仲々理解しがたい」、そういう点で〈地域主義〉には、そのあまりにも有名な宣言の冒頭の名文章を想起させるような何かがあるのだという[1]1。

  〈地域主義〉と呼ばれる思想と諸潮流があらゆる権力と緊張関係を生み出しているかどうかは知らない。おそらく、今のところはそうではあるまいと思う。その力が強大となり、妖怪の物語に一つの宣言を対立させるほど、時期が熟しているとは思えないのである。確かに、それはやがて各地域に棲む一人一人によって書かれるべき質のもの、しかも地面の上に書かれるべき質のものであろう。そうした意味で、その動向にはわかりにくさがつきまとう。〈地域〉とは何か、という基本的な問いに対する解答のひろがりをみても実にさまざまである。〈地域主義〉自体は揺れているのである。そのわかりにくさを妖怪と呼べば、呼べるかもしれない。

  しかし、それにもかかわらず、今日、〈地域主義〉と呼びうるような潮流が現れてくる時代的背景については十分了解しうる。すなわち、端的にいって、その諸潮流は、六〇年代的なるもの(高度成長、産業社会の論理、近代化、工業化、都市化等々)に対する批判(ないし反動)を共通のモメントとしているといっていいのである。そうした意味で、その行方は七〇年代を位置づけるうえで、また八〇年代を占ううえで、極めて興味深いといわねばならないであろう。〈地域主義〉とは何か。それはいかなる形態をとって定着するのか。あるいは定着しないのか。

  現在、日本で〈地域主義〉としてくくられようとする諸潮流は、グローバルにも確認することができる。アメリカにおけるオールタナティブ運動やフランスのエコロジー運動あるいは第三世界におけるさまざまな試みに通底する背景をそこにみることは可能なはずである。その運動のスローガンや主張に、多くの共通の方向性、モメントを見いだすことは困難ではないのである[2]2。

 地域の自立(自主管理)、生態系への注視、環境・資源の保護、第一次産業の再生、反生産主義あるいは反成長主義、分権主義、中間技術の使用……。E.F.レュマッハーの『スモール・イズ・ビューティフル』[3]3を共通の背景として想起すればよいのかもしれない。もちろん、日本におけるさまざまな運動や〈地域主義〉の潮流と、オールタナティブ運動やエコロジー運動との質的差異や位相のずれは興味深い問題である。おそらく、〈地域主義〉という形での知のレベルの結集が先行するところにも、日本の特殊性をうかがうことができるであろう。それが、日本の近代の問直しにかかわっている以上、日本の近代化のもつ歪みや特殊性を引き受けねばならないことは当然なのである。

  日本の近代化の過程において、地域なり地方が今日のように主題化される時期をいくつか見いだすことができる。こうした歴史の遡行は地域という概念を明確化しえないままには、ラフなものでしかないのであるが、例えば、明治末期の『地方(ぢかた)の研究』の新渡戸稲造をはじめとして、柳田国男、石黒忠篤、小田内通敏らの郷土会創立の頃、さらに、昭和初期の、権藤成卿の「農村自治」論、橘孝三郎の「国民社会的計画経済」論等の農本主義思想が展開される頃がそうである。

 いずれも、農村の疲弊、解体に対する危機意識が広範に顕在化してきた時期といえるであろうか。〈地域主義〉の潮流が、柳田国男のアクチュアリティの再発見の動向と並行し、あるいは、それが農本主義イデオロギーへ行きつく危険を批判されたりするのも、先行するそうした時期の問題の構造との同相性を一面においてもっていることを示しているのである。したがって、七〇年代における〈地域主義〉が、日本の近代の構造のなかで、幾度か繰り返しみられるそうした地方や農村の主題化とどのように位相を異にしうるか――例えば、中央と地方、農村と都市のディコトミーとその対立図式をいかに超えるかも、問われていくことになるはずである。

 

 2

  増田四郎、古島敏雄、河野健二、玉野井芳郎を世話人とする地域主義研究集談会が結成され、最初の大会がもたれたのは、一九七六年一〇月(東京)のことである。その後、京都(七六年一一月)、熊本(七七年三月)、青森(七七年一〇月)と大会が開かれることによって、〈地域主義) という言葉自体は定着しつつある。

  七〇年代に入って、〈地域主義〉という言葉に積極的な意義を与えた一人に杉岡碩夫がいる。彼は、中小企業近代化のもつ矛盾に出くわす過程において、その克服の方向を〈地域主義〉という言葉で表現するのである[4]4。彼によれば〈地域主義〉とは、「中央集権的な行政機能や社会・経済・文化の機能を可能な限り地方分散型に移すことであり、その過程でわたくしたちの生活をより自主性のある自由なものに転換していこうという展望、つまり一種の“文化革命”の主張である」[5]5。

 こうした方向性はある意味で明快であり、おそらく多くの共有するところであろう。七〇年代に入って、地方や地場産業、自然や農業へ、近代化、工業化、都市化によってとり残されたものへ、眼差しが注がれ始めたことは、さまざまの分野に共通にみられるのである。地方史や地域史の試みの提唱や地方学の提唱なども、そうした趨勢を示すものであった。また、各地方自治体による都市計画や地域計画の流れは、六〇年代における段階とは明らかに様相を異にしてきている。「都市―コミュニティ計画の系譜の流れ」[6]6において、奥田道大は、その転換を「総合計画」の段階から「コミュニティ計画」の段階への移行として総括しながら、いくつかの方向性を示している。

 こうした趨勢にあって、〈地域主義〉という形での知のシューレの結成は、ネーション・ワイドのコンセンサスの形成といったレベルでまずそれなりの機能を果たしつつある。そして、細分化された諸科学への批判、専門知への自己批判と結びつくことによって、インター・ディシプリナリーな場の設定という機能を果たしつつある。〈地域〉という概念が、そうした領域の設定と、さまざまな局面からの作業を媒介するのである。おそらく、後者の意義により大きなウェイトを置くことができよう。「こんにちの地域主義の潮流は、もしも、その主張のなかに学者や文化人の自己批判がこめられていないとすれば、単に新たな流行の一つをつけ加えたにとどまる」(河野健二[7]7)はずだからである。すなわち、とりわけ近代経済学批判や科学批判、テクノロジー批判などと結びつけて、〈地域主義〉は位置づけられ、理解されるべきなのである。

 〈地域主義〉にかかわる理論的関心は、多局面にわたっている。『地域主義』の第Ⅰ部「地域主義の課題」では、水、土地、労働力、金融、エネルギー、技術、生産、流通、交通、自治、言語等について問題が整理されているのであるが、地域の自立のためには、地域の生活や生産を支えるあらゆるものが問題となってくるのである。そうしたなかに、槌田敦等の資源物理からのエネルギー論あるいは技術のエントロピー論[8]8、玉野井芳郎の広義の経済学への展望[9]9を含む近代経済学批判の動向、農業の再生をめぐる諸論考など、注目すべき理論的検討をみることができる。エコロジー、中間技術、地場産業、農薬(自然農法、有機農法)、地方自治、自主管理、産直、地域メディアをめぐるテーマが、〈地域主義〉のプロブレマティークを形成しているのである。

  一方、こうした知の結集に対する危惧がないわけではない。むしろ、そうした形のシューレの形成が、本来、問題の根源にあるわからなさを増幅し、訳のわからないわからなさを蔓延させつつあるともいえるのである。〈地域主義〉とは、山本陽三のいうように、「地域主義といった一つの輪があるのではなく、各地にポツポツと、そう名付ければそのようにも思える生活の実践があるといったこと」[10]10であり、五〇年か一〇〇年たって、社会学者や社会史学者が、ある時期のある種の生活の仕方を総括して「地域主義」と名付けるといったもの」、「それを当の実践者が墓の下から、ニヤニヤ笑って見ているといった態のもの」のはずなのである。

 この理論と実践の転倒は、諸外国の運動と決定的に異なる点かもしれないし、それは〈地域主義〉の主唱者たちも十分意識しているところであろう。現在、〈地域主義〉の運動として示されるさまざまな事例や試みは実に多様であり、そのレヴェルも位相も異にする多くのものを含んでいるように思えるのであるが、それは、〈地域主義〉のための諸条件が現実には未熟であることを示しているはずである。〈地域主義〉という妖怪は、その困難性を覆い隠す役割を担う危険ももっているのである。

それに、理論のレベルにおいても、〈地域主義〉には本質的な困難性がつきまとっている、といえる。しかも、それはあらゆる局面で究極的に同一の構造の問題にいきつくといえるだろう。

 清成忠男は、〈地域主義〉において、さまざまな意味において「中間」ないし「媒介」が重視されることを説く[11]11のであるが、それは逆に、そこに共通の問題が存在することを示しているのである。公有でも私有でもなく、共有、巨大技術でも土着技術でもなく、中間技術といった主張がそれである。すなわち、いま問われているのは、「それぞれの〈地域〉が部分であると同時に全体であり、中心でありうるような結合様式」であり、「〈地域〉が諸学のひからびた抽象からよみがえるためには、絶えずこのような逆説に耐えるだけの緊張を保持せねばならない」[12]12のである。

  こうした〈地域〉の概念――部分であると同時に全体でありうるような――は、原広司[13]13がいうような意味で、いまのところ、空間的なイメージを欠いているといわねばならない。〈地域主義〉の行方が気にかかるのは、そうした根源的な意味においてでもある。

 

 3

  建築の分野においても、地域主義あるいはリージョナリズムがこれまで幾度か主題化されてきた。しかし、それは、一般にデザインの問題としてたてられてきたといっていい。戦後まもなくの新風土主義あるいは新日本調、さらに五〇年代初めの伝統論は、世界的視野におけるリージョナリズムの展開と考えられるし、五〇年代末から六〇年代初頭にかけては国内における地方なり地域性がそれなりに話題とされた。また、六〇年代末からのデザイン・サーヴェイの流行は、リージョナリズムの展開とみなすことができる。

  もちろん、民家研究や郷土建築研究、農村建築研究の流れに、建築家の地方や農村への関心を跡づけることは可能であるが(それは、一般的には、計画的ロゴスの史的展開が示すように、農村を近代化し、地方を中央化していくヴェクトルをもったものであったといえるであろう)、今日、言われているような意味で、建築における〈地域主義〉が主題とされてくるのは、七〇年代後半に入ってからといってよい。歴史的環境の保存や住民参加、種々のまちづくり運動の過程において、そうした潮流が現れてきたのである。私たちは、その先駆的な試みを、例えば、象グループの沖縄の仕事に見いだすことができる[14]14。その山原の地域計画と建築活動は、すでにさまざまな場所で紹介され、各方面に強烈なインパクトを与えつつあることはよく知られていよう。

  その計画理念や方法――水系単位の開発、自力建設、「逆格差論」および建築表現へのアプローチに、私たちは多くのことを学ぶことができるはずである。こうしたさまざまの試みを〈地域主義〉としてくくるかどうかは、とりあえず問題ではない。こうした実践に学ぶことのほうが先決であろう。〈地域〉の生活と生産にトータルにかかわるまちづくりの過程で、建築が生み出されてくるその一つの方向性を、それは示しているはずである。私たちのさしあたっての関心は、そうした方向性を確認しながら、建築における中間技術のあり方をさぐることであろうか。もちろん、それが自立的に追求されることはありえない。具体的な活動の過程で、創造されねばならないものであることは言うまでもないことである。

 中間技術(                       )は、適正技術(                 )、代替技術(                 )、生態技術(         )、地域技術(               )、ホーリスティック・テクノロジー、ラディカル・テクノロジー、ソフト・テクノロジーといったさまざまな呼び方をされつつあるものであり、それぞれの呼称がその特性を示しているといえるであろう。E.F.シュマッハーのいう中間技術は、大衆による生産、プルードンの「工・農協同体」を想起させるとされる「農・工構造」の創設への方向性のなかで位置づけられており、巨大技術と伝統技術の中間に位置し、両者を媒介するものとして規定されている。

 玉野井芳郎の整理によれば、小規模性(非資本集約性)、生態系への適合、地域共同体に固有な高度の伝承性と個性の三つがその特性である。

 また、清成忠男の紹介する  ジェクイエ        による中間技術の特徴は、①地域の文化的・経済的条件と両立すること、②労働手段やプロセスは地域住民の管理の下で運用されること、③可能な限り地域の資源を利用すること、④他地域から資源や技術を導入する場合には、地域で何らかのコントロールを行うこと、⑤可能な限り地域のエネルギーを利用すること、⑥生態系にとって健全であること、⑦文化的破壊を避けること、⑧結果が妥当でない場合には、地域が修正可能なようフレキシブルな状況を用意しておくこと、⑨研究や政策は、地域住民の福祉や地域の創造性などの極大化を配慮し運営されるべきことである。

  このような方向性をもった中間技術は、いまのところ、風力発電や太陽熱、地熱の利用、汚水の処理、有機農法といった形で具体的にイメージされているにすぎない。G.ボイルとP.ハーバーは、中間技術の具体的テーマを、食物、エネルギー、シェルター、オートノミー、材料、コミュニケーションの六つにわけて整理している[15]15が、シェルターの項で具体的にイメージされているのは、仮設構造物、ヴァナキュラーな架講、土を用いた建造物、自力建設による住宅である。

  いずれにせよ、建築における中間技術の追求は、興味深い局面をきり開いていくことであろう。五〇年代のMID同人によるテクニカル・アプローチとは、逆の方向性をもつのであろうか。ガジルによれば、中間技術の開発には三つのアプローチがある。一つは伝統技術の改良、一つは、近代技術の適応・調整、最後は、直接それ自体の開発である。その開発がどのような過程を経てなされるのか、その開発の主体はどのように形成されるのか、そして、そうしたプロセスと技術の開発はどのような建築的表現を生むのであろうか。

  〈地域〉の生活と生産にトータルにかかわるまちづくりの過程で、そうした建築における中間技術がどのように生み出され、根づいていくかは〈地域主義〉の行方に、少なからずかかわっているはずである。

 



[1]1 玉野井芳郎、清成忠男、中村尚司、『地域主義』、「序 地域主義のために」、学陽書房、一九七八年

[2]2 宮川中民、「エコロジー運動の展望と課題」、『展望』、七八年七月号。「世界エコロジー運動の新しい潮流」、『朝日ジャーナル』、七八年六月三〇日号

[3]3 『人間復興の経済』、斉藤志郎訳、佑学社、一九七六年

[4]  杉岡碩夫、『中小企業と地域主義』、日本評論社、一九七四年

[5]  杉岡碩夫、『地域主義のすすめ 住民がつくる地域経済』、東経選書、一九七六年

[6]6 ジュリスト総合特集     『全国まちづくり集覧』、有斐閣、一九七七年

[7]7 前掲『地域主義』

[8]8 槌田敦、『石油と原子力に未来はあるか』、亜紀書房、一九七八年

[9]9 『地域分権の思想』、東経選書、一九七七年。『エコロジーとエコノミー』、みすず書房、一九七八年

[10]10 「「ゲリラ」と地域主義」、『地域開発』、一九七七年六月号、『地域主義を考える』、地域開発センター、一九七七年

[11]11 「地域主義における「中間」の意義」、『地域と経済』、一九七七年

[12]12 前掲註  はしがき

[13]13 「地域とインターフェイス」、『世界』、一九七八年五月号

[14]14 「特集 象グループ・沖縄の仕事」、『建築文化』、一九七七年一一月号

[15]15 ラディカル・テクノロジー