グダニスク:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
E24歴史に翻弄される自由都市
グダンニク Gdańsk, ポメラニア Pomeranian, ポーランド Poland
グダニスク(ドイツ語名ダンツィヒ)における定住を始めたのはゴート族や古プロイセン人であり、その後、7~9世紀にスラブ人が定住した。979年にはスラブ人のポーランド公ミェシュコ一世は、モトワヴァ川がヴィスワ川に合流するところに小島の砦と集落を置き、土盛りと木杭による二重の防塁を築いた。西に続く集落は後に「古都市」(スタレ・ミャスト)に発達する。
ポーランドにおけるスラブ人の支配は不安定な状況が続く。しかし、リューベックとヴィスビューの間にあり、さらにはノヴゴロドまで至るバルト海交易の中継地としての地理的条件から、各地の商人が移住してきて、グダニスクは交易都市として生長する。核をなす「主都市」(グウォヴニ・ミャスト)地区は、1224年にリューベック都市法を採用し、自治権を得る。
1226年、ポーランド王は古プロイセン人をキリスト教化すべく、ハンガリー地域にいたドイツ騎士団を呼び寄せた。ドイツ騎士団はグダニスクの約50km東にマルボルク城を建設して拠点とし、布教活動を展開する。1308年にはブランデンブルク辺境伯がドイツ地域から侵攻し、ポーランド王が騎士団に助けを請うたのを契機に、騎士団が強引にポメラニア地方を支配することとなる。グダニスク市民は抵抗したが、成功しない。1343年には騎士団のもとにクルム都市法に転換させられるが、市長と参事会を選ぶ権利を獲得する。1361年にはハンザ同盟に加わる(同盟が解消される1661年まで)。騎士団は商業活動を支援し、経済発展はさせたが、都市の自治は制限した。
スラブ人の築いていた木と土の砦は騎士団によって煉瓦造の強固な城に改造され、その西にオシェク地区のやや複雑な市街が形成された。その際に「古都市」地区にあった初期の市街地は壊される。
「主都市」はバルト海からヴィスワ川を遡ってモトワヴァ川へと入る交易船の港町として、川岸を船着き場とするグリッドプランで計画される。それは、1340年頃にマリア教会堂が今日見られるように大規模に改築されてゆき、歪みを生じる。 東西に走る主軸ドゥーガ(長い)通りの中ほどには市庁舎が建つが、ここから東側が幅広くなり、街路型市場広場のドゥーギ・タルク(長い市場)となる。川辺に出る「緑の門」までの細長い広場には、破風付きの都市建築が密に並んで濃密な都市空間が形づくられた。市域は二重の濠で囲まれ、ドゥーガ通り西端には三連の門を持つ都市門が築かれたが、後に凱旋門が追加され、華麗な歴史的文化財となって残る。中央に聳える「囚人塔」の複合建築は赤い煉瓦壁を見せ、中世、近世の地域伝統の建築装飾をまとう。市街地内の各街路がモトワヴァ河岸に出るところは門屋となっており、そのひとつであるシェロカ(広い)通りの門は繁栄当時の木造機構の巨大なクレーンを残している。
その後、「主都市」を北に延伸するようにして、騎士団は独立した新都市を建設する。ここにはドミニコ会の聖ミコワイ教会堂と修道院、聖ヤン教会堂、聖霊慈善院の宗教施設が林立した。騎士団は後にこれを手放し、両地区は一体化し、一筋の市壁と幅広い濠、モトワヴァ川で囲われる。
やがて市壁と濠の外にも市街地が拡大していく。南の濠の外には、モトワヴァ川沿いに広がる造船用地の後背市街地が形成され、独立した「郊外都市」(スタレ・プシェドミェシチェ)となる。他方、北西にも、古い川筋を取り込んで直交街路網の新市街が建設される。それは「古都市」と名付けられているが、スラブ人の初期市街地があったからである。また、モトワヴァ川の対岸には船着き場に穀物倉庫が並び、「穀物倉の島」(スピフレシェ)地区が生まれるが、市街化は進まない。これら三つの地区も16世紀に入る頃にはそれぞれの市壁を備え、独立した自治を持つ都市群をなした(図1)。
15世紀にはポーランド王とドイツ騎士団の争いは一進一退し、その狭間にあってこの地域の諸都市が結束して「プロイセン同盟」を組んでポーランド王を支援する。しかし、グダニスクは騎士団による残虐な反撃も受けている。経済力を増していったグダニスク市民は、王に服従し、また抵抗しつつ、三つどもえの争いを通して自治権を拡大していった。
16世紀にはポーランド王との不和から占領され、また17世紀には第二次北方戦争の際にスェーデン軍によって占領されるなど、軍事的な危機が続く。グダニスクには近世型の城塞都市理論が導入され、東側の湿地帯に円弧を描くように稜堡式城塞が築かれ、西側は丘を取り込みつつ、高度の稜堡技術による複雑な城塞が築かれる(図2)。
18世紀にはポーランド分割、プロイセン王国への編入、19世紀にはナポレオン戦争などと政治環境は激動を続け、20世紀には第一次大戦後、改めて「自由都市」として自立する。1939年、グダニスク港への攻撃で第二次世界大戦が始まる。そして市街地は空襲で壊滅したものの、戦後、歴史的景観が復元された。ドイツ系市民が追われ、抑圧的な社会主義政権が続いた後、1980年のレーニン造船所に始まる「連帯」の運動は社会主義体制の終焉の先駆けとなる。歴史に翻弄されながらも自由都市の精神は今も息づいているようである。
【参考文献】
Otto Kloeppel, "Das Stadtbild von Danzig in den drei Jahrhunderten seiner großen Geschichte", Kafemann, Gdańsk, 1937.
図1 1520年頃のグダニスク復元図(Kloeppel,
1937 所収)
図2 17世紀グダニスクの西からの眺め(Merian,1643年)

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