ヤマトホテル,at,デルファイ研究所,199302
ヤマトホテル スラバヤ 布野修司
スラバヤの目抜き通り、ジャラン・トゥンジュンガンにマジャパイトという小さなホテルがある。デュドック風というか、庇の水平性を強調してファサードを構成する小品だ。中に入ると、一階ロビーは吹き抜けており、シャンデリアが下がっている。上部にステンドグラスがめぐっていて、往時を忍ばせる。
インドネシアに近代建築をもたらしたのはオランダであり、アムステルダム・スクール、ロッテルダム・スクール、あるいはデュドックの影響などを様々にみることができるのであるが、この小品もそのひとつである。
スラバヤの近代建築というと、H.P.ベルラーヘが設計したアルヘメーネ(生命保険会社)の社屋がある。竣工は 年である。また、市庁舎を始めとするC.シトロエンのいくつかの作品が数少ない光彩を放っている。さらに、蘭領東インドで数多くの作品を手掛けたE.H.G.H.キュイペルスのいくつかの作品が残っている。しかし、残念ながらこのホテル・マジャパイトの建築家の名はわからない。
このなにげないホテルは、しかし、スラバヤの人にとって、また、インドネシアの全ての人にとって、大きな意味をもつホテルである。そしてさらに日本にとっても縁が深い。実は、このホテルは、かってヤマトホテルと呼ばれていたのだ。
日本の占領期に憲兵隊本部が置かれていたのがこのホテルである。そして、インドネシアの独立戦争の火蓋がきって落とされたのがこのヤマトホテルの前の戦闘なのである。
記念すべき日は、一九四五年一一月一〇日。これは、スラバヤの人々が永遠に記憶する日付だ。スラバヤ工科大学の正式名称は、「11月10日スラバヤ工科大学」というのである。
植民地支配復活の意図をもってスラバヤに上陸した連合軍(英印軍)とスラバヤ民衆が衝突、以降、全市が制圧されるまで一五日間の壮絶な戦闘が繰り広げられたのであった。
いま、ホテル・マジャパイトを訪れると、その闘いを記録する数葉の写真がロビーに飾られている。また、イドルス(一九二一-七九)が、独立戦争最大の闘いとなったこのスラバヤの戦闘を舞台にした小説『スラバヤ』( )を書いている。
「数人の混血児が敢えて赤白青の三色旗をヤマトホテルに掲げようとしたとき、インドネシア人はひどく驚いた。驚いた人々はだんだん数が増え、増えるにつれてホテルに近づいていった。突然ひとりの青年がまえにとび出した。彼はポールによじ登ると、旗から青地部分を引き裂いた。」
オランダの三色旗から、青地部分を引き裂くと、赤白の現在のインドネシア国旗になる。『スラバヤ』冒頭の実際にあった有名なエピソードである。
グナワン・モハマッド、イグナス・クレデン編 『インドネシア短編小説集』(佐々木重次監訳 勁草書房 一九八三年)所収
押川典昭訳『スラバヤ』
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