モスクワ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
F03 帝国と社会主義が残る都市
モスクワ Moscow,モスクワ州 Moscow,ロシア連邦 Russian Federation
モスクワはロシア連邦の首都で、国土の広いロシアの中では西側に位置する。
面積は2511平方km、人口はヨーロッパ最大の115万人であり、欧州一の人口を持つ大都市かつ多民族都市として発展している。
さらに、ロシア国内最大の行政・政治・産業・科学・文化の中心地としても知られている。民族構成としてはロシア人が多数を占め、ウクライナ人、スラブ人、ユダヤ人、アルメニア人などが居住している。
モスクワの都市の骨格は、モスクワリングと呼ばれており「クレムリン」を中心とする同心円上に広がる環状道路が担っている。環状道路は過去に城塞都市であったため要塞、外壁、主要街道に沿って建設された郊外の出城などが、遊歩道または街道へと変化しているもので今日のモスクワの都市骨格を担っている。主要な街道の例を挙げると、ブーリヴァール環状道路、サドヴォエ環状道路が挙げられる(図1)。そのため、モスクワの都市発展はクレムリンを中心とする地区から放射円状に外へと発展している。ロシア革命以後の都市開発により、モスクワは図1に見られるような都市骨格へと変化している。
都市形成史を紐解くと、モスクワという名称の都市が史上初めて使用されたのはロシア最古の年代記とされる「イパーチイ年代紀」の一説であるとされている。その一説には1147年に行われたキエフ大公国の王位をめぐる内紛の会談がモスクワ中心部の砦で行われたと記されている。最近の考古学的調査では1147年以前には防備集落があったといわれている。
モスクワの都市としての記録は12世紀半ばにキエフ大公国ユーリー・ドゴルスキー公によって木製の城壁と濠を建設したところから始まる。だがモンゴル帝国の侵略によって初期の都市の面影はのこっていない。
現代のモスクワの都市骨格が形成されたのは、モスクワ大公国設立の13世紀後半頃と考えられている。1263年にモスクワ大公国の首都に制定された際、モスクワは皇帝の居住地である「クレムリン」を中心とする要塞都市として建設された。以降モスクワは2度都市形成の転機を迎えている。
一度目は15世紀以降、統一ロシア国の首都に制定された頃とされ、都市として安定的に繁栄し、16世紀にはロンドン、パリにと肩を並べるほどの大都市として発展をした(図2)。二度目はロシア革命が行われた際、サンクトペテルブルグ(当時:ペテルブルグ)から遷都した頃(1917年から1918年であり、革命と内乱終結後に行われ、1935年には総合計画(図3)、1960年には新総合計画、1971年にはモスクワ発展総合計画(図4)が策定されている。これらの計画は、市
現代のモスクワは旧ソ連での社会主義原則に基づく都市形成が基準となっている。道路計画としては、クレムリンを始点とする主要幹線道路が放射状に延び、クレムリンを中心とする環状道路に接続する計画となっている。このような環状道路網を「モスクワリング」と呼称されている。
モスクワの中心地「クレムリン(кремль)」は、「古代ロシア都市内部の城塞、城」という意味で、ロシア帝国時代は王宮、ソ連時代は共産党中枢機関、ロシア連邦では大統領府が置かれている街の名前のことである。地区には百貨店、博物館、劇場、教会など住民が使用する商業・公共施設が配置されている。
モスクワは集合住宅が多く、多くの住民はモスクワ環状自動車道(MCRH)の内側に居住している。そのためモスクワ市内の人口密度はかなり高い。
参考文献
土岐寛「モスクワ市政と都市計画」『都市問題』 第77巻11号1986年
木村浩「モスクワ」文藝春秋 1992年
「モスクワ発展総合計画」『近代建築』1986年 1月




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