持続可能社会地域創世のための建築基本法制定 読書会
オーストリア・スイス・日本それぞれの「持続可能な地域づくり」を語る
2021年11月18日
1.建築基本法制定準備会 神田会長挨拶
(神田)建築基本法制定準備会では、2003年から日本の建築法制度の根本的改革をするため運動をしている。昨年、建築基本法制定に向けての冊子を発行し、その読書会を毎月行っている。筒井さんの話によると、ヨーロッパと日本を対比した場合、自治体が街と建築をどう考えているかと建築家がどう考えているかが、ヨーロッパは自治体と建築家で70、80%一致している。日本の場合はあまり一致していない。自治体は業者任せの雰囲気がある。街を気持ちの良い建築で作っていきたいと感じている人々にとってはストレスの溜まる状況になっている。読書会では、まちづくり、建築に何を求めるのかという点を語り合い、学び合っていきたい。木村さんにも頻繁に読書会に参加いただき、スイスの話を中心に伺っている。今日は布野さんがまとめながらすすめるということで楽しみにしている。
2.筒井・ナイルツ・美矢子氏 (MIYAKO NAIRZ ARCHITECTS代表)
(筒井)画面:ウィーンの街と建築そしてそこに暮らすこと。
ウィーンに31年住み、建築設計の実務を建築事務所を持ち行っている。ウィーンという街と建築について、ウィーンの市民として、そして建築家として紹介する。テーマである持続する街、地域について考えていく。
画面:ウィーンの都市としての成り立ち。
この街自体は2000年近い歴史がある。ローマ帝国のドナウ川沿いの一番北の要塞としてつくられたウィンドボナが発祥。その後、ハプスブルク王家が650年ほどオーストリアを支配。1918年、第一次世界大戦が終戦して王政から共和国になり、ウィーンはオーストリア共和国の首都になった。人口は190万人ほどなので、ロンドンやパリなどの大都市に比べると中核都市。ハプスブルク帝国の時代は領土がヨーロッパ中に広がっていてその領土の首都としては長い歴史文化が存在するが、街としては小さい規模の首都。
東京都と同じ23区からなっていて、1区は昔のウィーンの形をそのまま残している。城壁都市だったが、150年ほど前の19世紀後半に大規模な都市改造行われた。城壁を壊し環状道路が作られた。リングシュトラーセという、全長5.3km、幅50mあるブルーバードが作られた。この都市計画を現在の私たちが使っている。観光客が見られるものはその時代に建てられたもの。
ヨーロッパ最初、世界最初の建築コンペ。環状道路沿いに建つ建物全ては、コンペが行われた。これらの建物群は当時ヨーロッパで流行していた古典懐古主義、折衷様式で建てられた。ゴシックやルネッサンス様式の要素を入れて建築された建物。例えば、国立オペラ座、美術史美術館、自然史博物館(ネオ・ルネッサンス形式)、国会議事堂(ギリシャ・リヴァイヴァル様式)、ブルグ劇場(ネオ・ルネッサンス形式)など。
150年前の都市改造が行われた時はハプスブルク王家が統治していた。18世紀ぐらいからブルジョワが台頭してきて、環状道路沿いに邸宅を建てていった。グルーナサイトの時代の建物と言われている。1階に店舗や事務所。上に建物の管理人、その上にビルの持ち主であるブルジョワの住宅の入った構造。そのためブルジョワが住んでいる階を1階と呼ぶ。
ウィーンの市庁舎、ネオ・ゴシック形式と中庭はルネサンス様式の折衷様式。市庁舎は暖房冷房、空調設備の先駆けのようなものを当時から採用している。地下で温かい空気を作り、ダクトを通って大きなホールの上から出てくる。夏は地層から冷たい空気を送っている。並行して、150年前に下水などのインフラも整備した。
教会や大学の建築について。美術館、建築学科が入る大学。オットー・ワーグナーの郵便貯金会館。
今回のテーマである持続する街、持続する地域とは、持続する公共空間があるということ。
ウィーン1区のミヒャエラ広場に立つと、2000年の歴史が見渡せる。下の写真の右側、王宮の裏門。王宮には13世紀からハプスブルク家が住んでいて、その頃から19世紀の後半にかけて時代に合わせて増築されてきた。上の写真の真ん中、アドルフ・ロースのロースハウス。ロースはモダンな時代への橋渡しのような役割をしてきた建築家。上の写真の下半分、ローマの遺跡。90年代に広場を整備した際、採掘中にローマの遺跡が出てきた。オーストリアの建築家ハンス・ホラインによってローマの遺跡を活かした広場が作られた。持続する公共空間の1番良い理念の一つだと思っている。
今から10か月前のロックダウン中の写真、人々がノイエ・ブルグ王宮の前の芝生に座っている。人々がどういう状況であっても街の中に居場所を見つけられ、憩いの空間にしている、ヨーロッパ特有の景色だと感じる。
画面:歴史と暮らす街 歴史と暮らす工夫をしている街
建築家が歴史のある街の中でどのように仕事をしているか。シュテファン広場の写真。シュテファン大聖堂、ゴシック建築で13、14世紀に建てられた。90年代にハンス・ホラインが設計、建築したハース・ハウスのある広場。
一番ウィーンで歴史のある大切な広場。ハンス・ホラインが設計した時には大きな反対があった。ハース・ハウスはポストモダン的デザインでガラス面が多く、ファザードに採用されている。ハンス・ホラインは、ハース・ハウスのコンセプトはシュテファン広場の人や空間、歴史をガラス面に映し出すこと。だからこの建築は新しいものだが、この広場に合うものだ、と伝えた。それでも反対派は信じられないということだったので、ハンス・ホラインはファザードのスクリーンを立て、実際にどう映るのか、プロジェクションを街の人に見せた。街の資産に対する努力の良い例。
1900年前後にオットー・ワーグナーが作った高架線。60年代にウィーンに地下鉄が開通し、コンペの結果ホルツバウアーが地下鉄を作った。その当時ウィーン市はオットー・ワーグナーの作った高架線や駅舎は壊そうと思っていた。しかしホルツバウアーはそれらは街の資産だと考え、それらを残したまま地下鉄を作る時にどれだけ費用が加算されるかのシミュレーションの予算も含め、市に提出した。市と協議し、残せる部分は残すという形になった。
最近では駅にバリアフリーのエレベーターを取り付ける拡張工事をしている。古い建物を壊さないよう作るため、相当な労力、費用、時間がかかる。1年ほど使用できない駅がでてくるが、市民は文句を言わない。その街に暮らす人々の多くが歴史を受け継ぐ誇りを持ち、不便を受け入れる用意ができていると感じる。
画面:街の景観を審査する部門と建築家との議論
実務からの例。
ユーゲントシュティール(ウィーン1区)の建物の1階に日本食レストランを作る。ウィーン1区は世界遺産になっているため、全て保存する必要がある。今回の建築も歴史保存の制約が掛かっている。単に商業建築を作っているだけだが、歴史保存局の審査の対象になる。歴史保存局からの制約にはきついものは無かったが、ウィーンには他にも街の景観を審査する部門があり、ここの審査は建築基準法の審査の様に法律を守ればよいという審査ではなく、議論の形で行われる。
今回のユーゲントシュティールの建築の中に日本建築が許可された理由。19世紀の後半ヨーロッパで万博が盛んになり、日本庭園や浮世絵が出展され、日本ブームが起こった。ユーゲントシュティールも日本の文化、伝統の影響を受け発達したと言われている。この議論を使い、日本建築のファザードはユーゲントシュティールの建物とバランスがとれていて、マッチしている、とプレゼンした。このプロセスは日本にはあまり無い部分と思い、紹介した。
看板やロゴの審査について別例。ジュエリーのお店で、ロゴが夜にも見えるよう間接照明にしたところ、審査に引っかかり議論をした。間接照明が許可された理由。今回の店舗はヨーロッパ中に展開しているお店なので、ロンドン、パリ、プラハ、ブタペストなどの歴史地区に建てられた例を持っていき、これらの歴史地区ではこういう理由で許可された、という例を見せた。結果、審査部門からの信頼を勝ち取り、議論がスムーズに進んだ。唯一ベニスのサンマルコ広場のアーケイドの中の店舗は間接照明が作れなかった。
歴史都市での建築は審査する側と建築家の信頼関係が良い街づくりには大切。ミュージアムクォーター広場。18世紀に建てられたヒストリカルな建物と2001年に完成した美術館がある広場。この建築も10年以上議論が続き、建築が進まなかった。計画が行われてから実際に建つまで20、30年掛かることはあるが、一度建つと市民に愛されるようになる。時間を掛けて行政と市民により建てられた公共空間。
政党が変わっても戦争があっても、その街での暮らし、それを行政がどのように枠組みを作り、持続しているかの例。
ウィーンが共和国になり、ブルジョワの時代から庶民の時代になったときに始まった住宅政策。カール・マルクス・ホーフ(1920年に建てられたウェルビーイングな市営住宅)は今も使われていて、住んでいる人もいる。
フンデルトヴァッサーハウス。樹木と育つ公共住宅。自治体の住宅局が実験的住宅として作っている。これらを紹介した理由は、自治体として柔軟性をもって制度や枠組みを持続させていくことが、街や地域にとって重要なことと思ったから。これらが建ったときも反対が多かったが、それでもウィーン市住宅局は実験的住宅を作ったという背景がある。
カーベルヴェルク(組合型住宅)。昔のものを残しつつ、新しいものを建てた例。
画面:これからのウィーンの住宅政策。
ウィーン・モデル(半公共住宅、ウィーン式ソーシャルハウジング・メソッド)を打ち出している。4つの柱のうちの1つ。社会的な持続性。様々な所得層、年齢層、人種、宗教、文化を持つ人が共存し合える住環境づくりを、ウィーン市では民間との共同のプロジェクトにしても条件として課している。結果、ウィーンはまだスラム化が起こっていない。ヨーロッパでもそれが続いているのはウィーンのみ。全世界から注目を浴びている。
画面:多様性と寛容さ。
地域の持続性。自治体の枠組みや住宅政策は、政党が変わっても戦争があっても、100年間続いている。ウィーンが世界で最も住みたい街と言われる理由。ウィーンは多様性を寛容に受け入れる。誰もが街の空間に居場所を見つけられる。
画面:市民の自立と参加。
そこに住む住民が街に興味を持ち、自立して意見を持っている。シビックプライド。自然、健康、安全は建築基準法や労働法で守られている。しかし法律ではないところで自治体、建築家、市民が努力している。コミュニティ、居場所。皆が居場所を見つけられるコミュニティ。持続する地域を作っていく人、自分が住む地域への愛着と誇り、厳しい目と責任を持つ人が増えていくと良い。
幸福度、人生を楽しむゆとり。オーストリアの「ブドウ畑の村のプロジェクト」が5年越しに完成するとき。
3.木村浩之氏 一級建築事務所 まちむらスタジオディレクター
(木村)スイスに20年ほど住み、現在は東京在住。スイスのイメージについて。
スイスの建築家の写真集に出会い1997年にスイスに渡る。スイス人は方言を固持し続ける、地元に戻ってくるということに気付いた。自分自身は北海道から東京に出てきた際、地元を捨てる勢いで東京に馴染むことを目標としていた。しかしスイス人は大学で大都市に出てきても、卒業後は地元に戻る人が多い。スイスにはウィーンやパリのような帝国制度という過去がないため、中央集権ではないからと感じていた。最終的に至ったのは人々の強烈な地元愛という理由。
画面:バーゼルのまち・ひと・つながり。〈ひと〉と〈まち〉がつながる。〈まちの個性〉を一緒に発酵・熟成させるようなまちづくりのしかた。
画面:バーゼル市について
画面:バーゼルのまちづくりアクターネットワーク
画面:まちづくりアクター1 スタディプラン
都市の未来ビジョン作り。複数の建築家チームがオープンディスカッションを通して複数のシナリオを描く。各チームは異なったシナリオを試す。コンペではない。市民参加の機会(アンケート、調査、ワークショップ、その他イベント)。市民を巻き込み、デベロッパーに先行したアクションを行政がとる。時には時間を掛け、代表者が出された複数の案をまとめ上げたものを、都市政策・都市計画に生かす。
Klybeck Plus、ドイツ国境沿いの約43haの再開発。スイス、ドイツ、オランダ等の設計事務所5社。ドイツ国境沿いの広い地域で、いくつかの工場がなくなり空き地ができるという話をバーゼル市が聞きつけ、デベロッパーに買われる前にバーゼル市で全体計画を作成。この計画は2015年から始まり、現在も続いている。
市民をまきこむ、デベロッパーに先行したアクションをとる、時には時間をかける、都市政策都市計画に活かす、単体建築コンペ等の指針につながる。
画面:まちづくりアクター2 シティアーキテクト
都市の未来ビジョン作りの統括役。バーゼル市では過去20年間程度の任期を全うしている。任期が終了した後は、下の人が上がるのではなく、独立選考委員会により外の人から選考される。公務員だが独立した価値観。市長が変わっても継続してまちづくりを行うため。政治からある程度距離をおき、政治に都市づくりを大きく委ねないシステム。
画面:まちづくりアクター3 コンペ(設計競技)
選ぶだけでなく、いくつかの案を比較議論することを重要視している。上位5等から10等の案にも手厚い賞金。1等案だけでなく、2等案以下にも良い代替案や異なる考え方が出たおかげで良い議論になったということで、200万~300万円ほどの賞金が出される。大きい事務所にとっては模型代金ほどにしかならないが、若手の事務所が年に2、3回佳作に入れば事務所を回していくことができる。若手の建築家を育てる仕組みになっている。
議論を冊子として編集・出版し、選ばれた根拠を未来に残す。日本のプロポーザルでは勝利案は出すが、どういった根拠でその案が選ばれたのかも発表されていない。ヨーロッパと日本の考え方が違うと感じる。
バーゼル市では年7件程度のコンペが実行。人口100万人に換算すると年34件程度。札幌市であれば年65件相当。しかし札幌市で実際行われているのは年3件から5件。東京23区であれば年330件のコンペが行われていることになる。
モニュメントだけでなく、人々が日常的に使う建物もコンペが行われている。学校、集合住宅、病院から文化施設まで、公共だけでなく民間のコンペが2割を占める。あまりにひどいものを透明でないプロセスで建てると、市民投票でボツにされる。
コンペで勝った事務所が創立から何年たっているのかを調べると、約6割が創立から20年未満。若ければ若いほど勝てるのがバーゼルのコンペ。過去3年間のうちに小学校を5件建設していなければプロポーザルに参加できない、という日本のプロポーザルとは違う。
画面:まちづくりアクター4 美観委員会(行政)
建築物の確認申請、建設許可に際し、美観委員会と歴史的建造物保護課のチェックが入る。法律では意匠面は計れないのでウィーン同様、個別に判断する機関がバーゼルにもある。バーゼル市美観委員会には合法的な建築だとしても意匠面で不合格の場合、建築許可を停止することができる強い権限が与えられている。
画面:まちづくりアクター5 都市景観市民団体
建築物の確認申請、建設許可に際し、民間美観委員会等の特定市民団体に市民個人よりも強い権限が与えられている。市民団体が国会の前でデモをするというものではなく、市民団体提訴権という特殊な権利が認められている。一般市民と行政の間くらいの権利。この団体になるためには同様の活動を過去10年間継続して行っていることが求められる。バーゼルの民間団体は1905年に結成され115年ほどの歴史のあるもの。行政の認可後、市民団体の確認が入るという仕組みになっている。最高裁まで持ち込むことができる。
画面:まちづくりアクター6 計画輪郭表示
新しく建築する建物の輪郭を示さないと建築許可が下りないという仕組み。バーゼル市にはなく、チューリッヒや他のスイスの話。一般市民はどこに誰がどんなものを建てるかは知る由がないが、計画輪郭表示がそれを可能にしている。確認申請を出すと図面を出し、2、3週間輪郭表示をしておかないといけない。市民が異議申し立てをする場合それなりの理由が必要だが、計画輪郭表示があることで異議申し立てをする機会が市民に与えられる。
画面:まちづくりアクター7 市民投票
スイスは直接民主主義制を採用しており、議会が決断したものに関して署名を集めれば、国民投票を行い再議決することができ、そこでの決定は議会の決定を上回ることができる。1848年スイス全体の憲法設立当初から直接民主主義制を採用しており、これまで600以上、年間12本ほどの案件で国民投票を行っている。物言いは議会の承認に対してで、確認申請に対してできるわけではない。
国民投票ができるものの例。議会での予算承認が必要な公共建築、地区計画(B-Plan)を伴う民間大規模計画、都市計画(ゾーニング等)変更。
国民投票で否決された建物の例。Herzog
& de Meuronの映画館、Zaha Hadid設計のコンサートホールの建て替え案、木村がHerzog & de Meuronと作成した都市計画。
国民投票で可決された建物の例。Herzog
& de Meuronの展示会場。
国民投票に掛けられると1、2年遅れが出るため、事業者はできるだけ国民投票に掛けられたくない。そのためには透明なプロセスで議論を深め、反対の人とも事前に協力や理解を求めコンセンサスを得て、少しずつ作っていく。
画面:バーゼルのまちづくりアクターネットワーク
バーゼルのまちづくり三権分立
都市ビジョン シティアーキテクト、スタディプラン、市民参加
建設行政 コンペ、地区計画B-Plan、市民発議(建築行政をするクラスター)
チェック 行政組織、市民・市民団体、国民投票
3つのクラスター全てに市民が入り込めるチャンスが開かれている。日本の三権分立のように市民が傍観者となっていない。
4.パネルディスカッション コーディネーター 布野
(布野)筒井さんは30年ウィーンに住み、木村さんは20年バーセルに住んでいる。木村さんはずっとバーゼルか。
→(木村)初めはフランス語圏に2年ほど住み、18年バーゼルに住んでいる。
(布野)ディーナー&ディーナーのスタッフとして所属しているのか。
→(木村)はい。
→(布野)ほとんど片腕、ボスクラス。
→(木村)事務所に入ったときスタッフが40名ほどで、出るころには70名ほどになっていた。
(布野)仕事はバーゼル以外、ヨーロッパのものも含めてしていたのか。
→(木村)はい。イタリアやフランスの仕事をしていた。
(布野)ヨーロッパの事情をよく知る二人と30分ほどだが、ディスカッションしていきたい。
(布野)環状道路内の世界遺産に登録されている建物や広場を登録から外すという話を聞いた。筒井さんは持続する公共空間において広場の重要さを述べていたが、実際はもう少し問題があるのではないか。
→(筒井)例のインターコンチネンタルホテルの建っている場所の開発に関しては、計画がずっとストップしている。ウィーンが世界遺産のため、ユネスコから文句が入ったから。高い建物が建ってしまうとベルヴェデーレ宮殿から世界遺産であるシュテファン大聖堂が見えない、との指摘があった。ウィーン市の行政や市民など立場によって反応は違うと思うが、肌感的に住人の立場で言うと、都市として生き延びていくことが大切なので、歴史遺産でなくてもよいのではと感じる。世界遺産に登録されれば観光客が増えることもあるが、それがなくてもウィーンは十分生きていけるであろうという自負を感じる反応が多い。
(布野)市民と行政が議論する土壌がウィーンにあると思う。議論の場所の問題は木村さんの話が分かりやすかったので、木村さんからバーゼルでの様子を聞き、その後ウィーンの場合を聞く形にしたい。
バーゼルは20万人都市ということだが、ウィーンは何人か。
→(筒井)190万人。札幌と同じくらい。
画面:スタディプラン シティアーキテクト
(布野)スタディプランはどういう段階なのか。
→(木村)様々なケースがあるが、ヨーロッパは移民も増えていて、人口も増えている。人口が増える前提で、バーゼルの街を魅力的なものにしていくという政治的な目的がある。
(布野)それは誰が発案し、始まっていくのか。
→(木村)シティアーキテクトがエリア開発する、と発案。
→(布野)ウィーンでも同じプロセスか。
→(筒井)ほぼ同じプロセス。
(布野)ウィーンにもシティアーキテクトの制度があるのか。
→(筒井)シティアーキテクトという制度自体は無いが、審議会として形を変えプロジェクトごとに外から意見を言えるというものはある。
(布野)それはプロジェクトごとなのか、常時コミュティとしてあるのか。
→(筒井)常時のコミュティもある。都市、州ごとに存在する。
(布野)ウィーンに限定すると、あるプロジェクトを立ち上げるときには、そこがスタディプランを作るよう指示されるのか。
→(筒井)ウィーンの場合、行政の力が大きい。ウィーン市の中に都市整備局はあるが、全てを管轄するダイレクションオフィスがあるのでここが最初に決める。
→(布野)それは日本でいう各市の企画部の役割のようなものか。
→(筒井)はい。横つながりでダイレクションする場所があり、そこが大きな権限を持っている。シティアーキテクトや審議会をつくる時もダイレクションオフィスがそういうものを作ると決める。システムはバーゼルと似ているが、ここが大きな違い。
(布野)バーゼルの場合、市長が変わっても企画は続行されるということ。決定権はシティアーキテクトと首長にあるのか。
→(木村)首長は文字情報までのビジョンだけ作る。空間にする部分はシティアーキテクトが作る。
→(布野)シティアーキテクトは全体の計画の責任者は首長か。
→(木村)はい。首長が変わり企画も変わるということがないように、シティアーキテクトというロングスパンで動く人がいるので成り立っている。
(布野)シティアーキテクトが首長になることはあるのか。
→(木村)ない。
(布野)スイス全体はバーゼルと同じシステムで動いているのか。
→(木村)スイスではシティアーキテクトの意味合いでシュタットアーキテクトや、カントンバウマイスターというバウマイスター協会があり、スイス中の何十人が集まっている。
(布野)ウィーンの場合も同じなのか。
→(筒井)同じ。ウィーンもそうだが、地方都市は特にそう。自分たちも聞かれ、スタディプランを出すことがある。その時には最初から市民が入り、3つほどの事務所で案を出し合う形は同じ。
(布野)日本だと指名業者が前もって選出しておきそこから選ぶという方法だが、バーゼルとウィーンではスタディプランを作る人はどのように決まっているのか。
→(木村)コンペとは違い、スタディは事務所に直接匿名で依頼がくる。匿名で依頼できる行政のバジェット上限があり、その枠内で受けるという常識がある。その枠を超えると競争入札になる。
→(布野)日本でいう随意契約と思ってよいか。
→(木村)はい。選出された人は市民を巻き込み、街を盛り上げる役でもあるので、誰に頼むのかは、シティアーキテクトの裁量にかかっている。
→(筒井)ウィーンではプロジェクトの規模やシチュエーションにより異なるが、オープンな言い方をすれば、スタディのプロセスでは行政やシティアーキテクトの独断と偏見の入る余地がある。特に地方で大事なのは、その地方を知っているかどうか、地方出身かどうか。そのため地方のことを考えてスタディしてくれる建築事務所を選ぶ。そこにゼネコンが入ってくることはほとんどない。
(布野)日本の場合はスタディの部分がコンサル。中央省庁と各自治体を繋ぐ間にコンサルタントがいる。中央政府の官僚が財務省から予算を獲得し、各都道府県の自治体に渡す間にコンサルタントが入っている。ヨーロッパはそうした形ではないのか。
→(木村)基本的にトップダウン、行政主導、地方自治体レベルで行う。
(布野)中央集権という問題が日本にはある。例えば、日本でPFIを始めようとした際、何をしたらよいかわからないということがあった。大手が組織事務所に入り、コンペには参加できないが、そこで得たノウハウを別のプロジェクトに参加し、活用する。自治体を超えて仕事をすることがあるのか。ヨーロッパでは自治体を超えて仕事する場合、JVを組むのか。
→(木村)小さいエリアの場合、地元の建築家だけに依頼してスタディをする。大きいエリア、インパクトのあるエリアの場合、地元の人と全く違う外国人も呼んでくる。
→(布野)シティアーキテクトや自治体側が呼んでくるのか。
→(木村)はい。
画面:コンペ(設計競技)
(布野)コンペを行い上位5から10案に手厚い賞金を出すとのことだが、どの位なのか。
→(木村)プロジェクトにより異なるが、賞金総額1,000万、2,000万などがプログラムに記載されている。佳作にいくつの案が入ったかにより、分配が変わるが、私がリサーチした平均値は300万円。
→(布野)その場合の総工費はいくらだったのか。
→(木村)総工費、数億円で賞金1,000万円ほど。
(布野)ウィーンではどうか。
→(筒井)ウィーンもコンペはよく行われるが、手厚い賞金は出ない。以前、総工費3、4億ほどの地方のコンペで勝ったが、賞金は150万~200万円ほど。
(布野)日本では、自主設計担当者は賞金を出さない。ヨーロッパのコンペでは最優秀案には賞金を出すことがルールか。
→(木村)(筒井)はい。
→(筒井)なぜかと言うと、コンペで1等を取ったとしても必ずしも建つわけではないから。木村さんが言ったように市民投票で建たなくなる可能性もある。
→(木村)手厚い賞金と書いたが、1人2人の若手事務所で300万円手にした場合は良いが、大きな事務所からすれば、その額でも赤字。
→(布野)以前、山本理建はコンペに参加するだけで400万円と聞いたことがある。スイスは建築に対する価値を高く見ていると思う。
(布野)バーゼルの場合、公共建築は全てコンペか。
→(木村)はい。
→(布野)ウィーンもそうか。
→(筒井)公共建築はコンペにしないといけない。
→(布野)プロポーザルや設計入札はありえないものか。
→(木村)はい。
→(筒井)それがあるコンペもある。事務所がデベロッパーと組み参加しなければいけないコンペもある。住宅政策に関わってくる。
(布野)デザインビルド方式のようなことで、事業費の中で案を出すコンペもあるのか。
→(筒井)ある。ウィーンは市営住宅、公共住宅の他に、住んでいる人がある程度のお金を積み立てて置きそれで運営し公共の補助が出される、という形式があり、このパターンが多い。しかしこの形式の建築を建てるためのコンペに参加するための条件が厳しい。ウィーン市が打ち出す4つの柱を満たしたデベロッパーでないと、半公営住宅、補助型組合住宅のコンペに参加できない。建築家だけ案を出しコンペに勝ったとしても、家賃を抑えることなども関わってくるため、半公共建築の場合、初めから条件を満たしたデベロッパーと組む体制をとっていることがウィーン市は多い。
(布野)バーゼルでは若手事務所がコンペを多く勝ち取っている、ということだが、若手が育つ環境が維持されているということか。
→(木村)はい。博物館クラスのコンペでは選ばれることは少数で、大半は集合住宅でのコンペ。
画面:美観委員会(行政)
(布野)建築許可に際し、美観委員会や歴史的建造物保護課の方が強いということか。
→(筒井)はい。いわゆる建築基準本の申請所の事務所からハンコをもらう必要はあるが、そこに美観委員会の承認のハンコが無ければ、建築の許可がおりない。
画面:市民投票
(布野)バーゼルは市民投票をするということだが、私は住民投票に関しては反対してきた。一般の人ではなく、専門家として判断したいと思っているから。市民投票はウィーンでも行うのか。
→(筒井)行わない。市民投票をすると何も建たなくなるから。全く行わないわけではない。原子力発電所を作ったが国民投票で原子力を使わないことになり、建物はあるが原子力は使わないという例。万博など規模の大きな物事に関しては市民投票を行うこともある。ある建築を建てるか建てないかの投票はほとんど行われない。
(布野)スイスは全ての建物に関して投票を行うのか。
→(木村)スイスの場合、建築だけでなくあらゆる面において直接民主主義が認められていて、その中の一つに建築の分野がある。建築だけが特別扱いではなく、自分たちの未来は自分たちで決めたいという考え。素人が投票するため時々ポピュリズム的な決断が下されることもあるが、それでも数回投票にかけ、ベストな案を探っていくという形をとっている。
(布野)日本で市民投票を行うと全体的に凡庸な建築が選ばれていくのではないかと危惧している。
→(木村)イギリスのブレグジットのように、時々しか行わない投票は振れが恐い。スイスの場合は年間20本近く国レベル、州レベル、市町村レベルで投票を行っているため、市民も投票することに慣れている。
(布野)スイスは人口何人か。
→(木村)全人口800万人。バーゼルで20万人。
神田先生の話
(神田)行政の役割がすごく大きいが、左右するのは市民。日本では、公共建築について市民がどういう建築がいいのか議論する場がない。建築のあり方が市民の間で議論されるような状況を、専門家が率先して作っていくことが必要だと感じた。
→(布野)コンペではなく、審査の二段階目をオープンにして行うと、シンポジウムより面白い。二ヶ月くらい時間があれば提案してもらえる。それは市民にそのプロジェクトの意味を伝える場になる。
(神田)今はコンペがなくなってほとんどプロポーザルになっている。
→(布野)いや、なぜか今増えている。
→(神田)オープンに見えるかたちでやらなければならないと思う。
→(布野)コロナで止まっていたプロジェクトが動き出しているのが一因。
そういうときに基本法の見本版として、市民の議論をするのはいいと思う。説明すると自治体の担当者も理解してくれる。今までのプロポーザルでは密室で決める方式だが、同業者がいると嘘がつけない。
滋賀の新生美術館の例。隈研吾、理建、青木淳等で行った際、一箇所に集まったほうがいいとした。隈研吾は分散型を推した。理建は分散だとメンテナンスコストがかかるとした。木村さんの話ではスイスでは日常的にそうしたことを行っているようだ。
神田さんはコンペの審査をしているのか。
→(神田)あまりしていない。多くの自治体が、もっとオープンに審査のプロセスを見せる中から建築を作る、というふうになっていない。
質疑応答
(岩井)美観委員会の承認が建築許可の前提とのことだが、美観が条件とされる歴史的経緯、なぜ美観が条件とされるようになったか背景についてご教授いただきたい。
→(木村)バーゼルの美観委員会ができたのが1905年。当時鉄道が通って街なかにトラムが通るようになり、建築物のパサールラインを後退せよという土地計画が作られた。そこに建っている建物を全部作り変えなきゃいけない。鉄道によって街が大きく変わろうとしていたタイミングで市民団体が立ち上がった。その団体が行政に吸収され、吸収と同時に民間も民間でやらなければいけないとなり、バーゼルは行政、民間の2つの美観委員会を持っている。
→(岩井)日本でいう景観法に当たると思うが、日本の景観法は最近できたもの。景観を重要な視点にして許可の条件にしているというのは、日本と全く違う。筒井さんが言っていたシビックプライドもひとつの要素か。なぜ日本に美観、景観という感覚が育たなかったのか。
→(布野)風致地区の指定は相当古くからあるはず。明治以降。
→(岩井)確かに世田谷区にもあるが、ごく限定された地域。
→(布野)近年だと古都保存法。京都市は独自の条例レベルで作ってきた。日本でどういう制度を活かしていけるのか。
→(岩井)景観に対する行政側の認識、市民一般の景観を守ることに対しての考え方、シビックプライドが育っていないと思う。歴史的背景が大きいか。一般論としての建築に対する景観の重要性が日本はまだ遅れていると感じる。どうにかならないか。
→(布野)東京で景観法適応をどのようにできるか。
→(岩井)区では条例を作っている。ただ行政の重点が非常に高い。市民の声がなかなか届きにくい。
→(木村)私権の制限に当たる。自分の土地は好きにしていいという考え。ヨーロッパでもマスクをするしないのような私権の制限には違和感を感じる。日本はマスクは気にしないが街並みを揃えることには違和感を感じる。そんなアンバランス感。
→(岩井)私権制限と総有。公共空間と私的空間、どちらに重点を置くか。
→(布野)景観法は法的根拠がある、私権を制限できる。だから広がらない。自治体が採用しない。条例と併用するのがいいと思う。実現するには若い人たちがどこかの自治体でやってみせるのが大事。木村さんが本場から帰ってきているのだから、どこかで事例をやってほしい。
→(木村)ドイツの基本法14条。所有権を定義しており、所有権は義務を伴うという項目。ヨーロッパの中では強い私権制限。
→(筒井)同感。所有物であってもそれが公共の利益になるものであれば制限される。それが根本にある。景観法などなんとか法、なんとか条例が多く出てきているが、それが違い。ウィーンの建物は、一定の場所だけでなくすべての建築物について、ファサードについて申請を出さないといけない。そのときに議論が必要。ウィーン市の職員側の教育や知識、経験が重要。大学で建築史を教えられるような人が職員となっているので、議論がスムーズ。マニュアル等が必要ない。その根本のところが違う。役所の窓口、担当者に経験や知識のある人を増やしていくことが重要だと思う。
→(神田)建築基準法はそういった議論をしなくても話が進むようにと戦後に作ったもの。そろそろ立ち止まって考え直す必要がある。
(今津)建築工事会社が設計コンペに参加することはあるか。
→(木村)日本のゼネコンと違ってヨーロッパの工事会社は設計部を持っていない。設計と施工の分離が大前提。施工会社がコンペに参加するなら、デザインビルド方式になる。デザインビルド方式はスイスでも近年導入されている。印象としてはフランス、ドイツが多い。スイスはまだ少ないが、ヨーロッパでも広がりつつある。
(ムラジ)市民投票の強さが、結果として建築家に対し事前にディスカッションする機会を作っているのが興味深い。具体的なディスカッションの機会にはどのようなものがあるのか。
→(木村)一番多いのは、コンペの機会を通して。日本でも行う説明会のようなものも開かれる。私が関わった都市計画系のものではまちづくりセンターみたいなところで展示、ディスカッションをやるというものもあった。市民投票にかけられる際に賛成派と反対派に分かれて、あちこちでシンポジウムを行ったり新聞に記事が載ったりと、いろんなイベントが起こる。国民投票にかけるというのは、いろんな意見を出しまくるというかたちで行われていたというのが非常に興味深かった。
→(ムラジ)イギリスでも議論の場をどんどん建築家が作っている。それによって市民も建築に対しての興味を持っていく。日本の人はそこまでレベルが行っていない。ヨーロッパと日本が違うと言ったらそこまで。日本をどうしたらいいのかまで持っていかないといけない。
先程の筒井さんが言ったように、マニュアルがないほうがいい。行政にも裁量が与えられることになる。イギリスの許可申請は興味深い。裁量を持っている行政側が、歴史の博士号などを持っている。それぐらいやりがいのある仕事にするので仕事として面白くなってくる。建築家も裁量のある、自分が街を作るのだとなってくると、自然と協議調整という場が生まれる。ヨーロッパの良さをどう入れ込んでいくかのアイデアを考えるのが重要だと思う。
→(木村)プロジェクトが市民投票にかけられる場合。私のボスとジャック・ヘルツォークが仲良くしていたこともあり、彼がバーゼルの新聞に寄稿してサポートしてくれた。建築家がしっかり政治に関わっていくという体制がある。日本の建築界の人が新聞に寄稿するというのはあまりイメージが浮かばないと思うが、ローカルに特化したメディアがあるからこそうまく成り立っているのかもしれない。
→(布野)時間が無くて触れなかったが、輪郭表示について。宇治市で都市計画セミナーの会長を10年近くやっていたが、ある建築をする際、アドバルーンを上げてこのぐらいのものが建つと伝わるようにした。一般の人はどういうものが建つかわからない。これは義務付けられているのか。
→(木村)正確に言うと、バーゼル市の建築法には入っていなくて、チューリッヒや他の街にあるルール。非常に面白いと思うので入れた。
→(布野)宇治市の案件の際、ダウンゾーニングもした。ところが出来た建物は横にものすごく長くて、壁みたいになるのも問題だ、高さだけじゃなく、となった。分節すべきだという話も出た。平等院があったため、市民も反応した。模型やパースではわからない。現場で表示されると、自覚しやすい。
出雲の事例では、治水問題で嵩上げしないといけないとなった。このぐらいまで嵩上げするというのがわかるように作った。スイスの事例はわかりやすいと思う。
→(木村)コミュニケーションツールだと思う。
→(筒井)先ほどのプレゼンでもお伝えしたが、ハンス・ホラインがシュテファン広場にハースハウスを建てたときにも、スクリーンを立てて街の人に見せた。ヨーロッパの伝統かもしれない。規則が無くても建築家はそれをする責任があるということ。
→(布野)ハースハウスの当時の賛否と今の賛否はどうか。
→(筒井)基本的にポストモダンの時期の建物に関してはちょっと、と言う人は建築家も含めて多い。普通の人の目線で考えてみると、反対意見はほとんどなくなっている。あまり好きではないなという人はある程度いる。何を建ててもいいということはなく、建てる際の努力は必要だが、30年くらい経てば感覚的に一般の人には受け入れられる。時間の周期、歴史の周期。オペラ座も建ったときは批判されて、フランツ・ヨーゼフ皇帝は「沈みかけた箱」と表現した。
→(布野)あれはゼンパー?
→(筒井)ゼンパーは美術館。オペラ座はファン・デア・ニルともう一人。建てた時にはめちゃくちゃに言われていた。ルネサンス方式に見えて違うとか、道路の高さが高くなってしまったので、一階部分がぺちゃんとなったように見えてしまった。それで皇帝が「沈みかけた箱」と言った。建築家一人は自殺、もう一人は文献によると、憤死した。二人ともそれが原因で死んでしまったという経緯がある。150年前はそうだったが、今は世界中から人が来て、ウィーンは古い建築があってエレガントできれいだなと見ている。やはり、歴史は繰り返す。建築も100年頑張って建っていると市民権を獲得していく。ヨーロッパではそんな時間的スパンを感じる。
(加藤)シティアーキテクトにはどういう経歴の人がなるのか。
→(木村)建築都市計画を学んだ人。スイスでは学べる大学組織が少なくて、建築家出身の人がやっている場合が多い。2016年、バーゼルで前任者が退任して新しい人が就いたが、40代の人。そこから20年くらいやってもらう。その方はもともとバーゼル出身ではないスイス人。
→(布野)アーバンアーキテクト制を行った。国交省で規則を作ったがなかなか制度的に出来ないという見方だった。その際は、ある人がシティアーキテクトになった場合、バーゼル市の仕事はできないが隣の街はやっていいですよ、のようなルールになった。そのあたりはどうなっているのか。建築家としての道は諦めるのか。
→(木村)バーゼルでは基本的に専門で、100パーセント、シティアーキテクト。公務員になる。チューリッヒには、設計もシティアーキテクトもしている人がいるが、彼の場合は基本的にチューリッヒでは仕事はしない。
→(布野)磯崎さんが熊本でアートポリスをやった際、彼はそこでは仕事をしないというのを貫いた。しかし岡田さんが岡山でやったときは一つ仕事をやった。やはり全然違う。
これは日本でもマスターアーキテクト制が広がれば似たようなことになるといいなとは思うが、なかなか広がらない。理解のある首長のところでしかできない。
→(木村)ビエンナーレで、審査員の奥さんが選ばれたということがあった。ちょっと認識がゆるいのかなと感じた。
(成岡)建築許可はまちづくりの理解にどのように絡んでいるのか。
→(木村)議会では単体の建築許可に関わることはない。大きい建物を建てるときには土地計画変更が必要になり、それが議会の承認が必要。そのときには人の注目を浴びているので、反対の政党が文句をいい、賛成の政党が支持の意見を述べるというふうに、市議会の中で話題になる。あまり問題のないものはしれっと通ってしまうこともある。まちづくりに関しては、事前に予算承認がある場合には、議会が関わってくる。完成したものをもう一度議会を通すときに反対賛成意見を議会が述べる。途中のプロセスで何か言ってくることはない。
→(成岡)その地域に建築するのに、議会が全く関わらない。住民が反対していても、議会は全く関わらないで、建築士がハンコを押せば建つという仕組みになっている。武蔵野市や国立市の事例では、市長が反対、裁判までしてデベロッパーが負けて賠償金を求められることもあった。議会を全く無視したかたちで建築ができるという仕組みそのものが、かなり問題になっている。そのためバーゼルではどうなのかと思い質問した。
→(木村)マスターアーキテクト、マスタープランが無いなかで自由奔放にやらせて、問題が生じて気づいたところだけ潰していくという対処療法で日本はやっている。対してスイスは、事前にプランニングしてトップダウンで降りてきたところにデベロッパーが入れるようなかたち。デベロッパー側からすると、行政にはめられちゃっていると日本のデベロッパーは思うかもしれない。全然成り立ちが違う。
→(成岡)議会はある程度、建築やまちづくりに絡んでいかないと、ちょっとおかしいなと思う。
→(布野)それが神田先生が問題視されている、基準法さえクリアしていれば裁判で負けてしまう。神田先生、そのあたりはどのように突破するのか。
→(神田)建築基本法は理念も謳う。建築が社会的資産であるということを言葉として明示する。建築基準法を満足しているだけでそれが社会的に認められるかどうかというところを、司法が判断できるようにしてほしいと思っている。例えば浜松で、地震ハザードを考えるとこの建物はとても危険だから建築を差止めてほしいと訴えた。しかし基準法を満たしているので、合法とされた。建築基本法があれば、安全ということに対して司法が総合的に判断できるのではないか。建築基本法を運用する住宅局がある程度ゴーサインを出してもらわないと、基本法をもとに自治体がルールを決めて運用するということが成り立たなくなる。
→(布野)結局デベロッパーが2階くらいカットして和解する。住民も仕方がないからと。日本的な方法なのか。
→(成岡)国立も樹木より低くという。個人的な賠償の話になってしまった。
→(木村)日本の場合、腹を立てた近隣住民の集合体が対処するしかない。スイスの場合は市民団体権がある。彼らが盾になって動いてくれる。やはり個人では対応できないという前提で、拡大した権利を認めている。そういう人たちがいるからこそ和解に至らずに最高裁までいける。
→(成岡)根本から違う。
→(木村)アメリカ人のように何でも裁判所に持ち込むのが好きということではない。どちらかというと日本人に似ていて、できれば裁判を避けたいという考え方をする。それでも和解に至らない場合はそういう道も辞さない、ということができるのが、市民団体、訴訟権があるからこそかと思う。
(岩井)不便を受け入れる、歴史を受け継ぐ誇りを持つ市民。そのようなシビックプライドを市民が持つようになった背景はなにか。小学校などで市民としての権利と義務などについての教育が行われているのか。
→(筒井)すべてのことを突き詰めていくと教育になる。そういう教育が行われているというのもそうだが、文化に子供の頃から触れ合える環境を市町村が作っている。例えば、美術史美術館やオペラ座には子供のためのプログラムがある。美術館や博物館で子供の誕生日会を開くこともできる。そういう意味で子供の頃から文化に触れ合う機会を大切なこととしている。
もう一点。住む、暮らすということに関して、なるべく多くの層の人が恩恵を受けていると思うようなシステムを作るのがうまい。例えばウィーンの乗り放題券。1年で365ユーロ。1日1ユーロでウィーン中全部乗ることができる。また、ゲノッセンシャフト、家賃補助がある組合住宅のシステム。中流の上のほうくらいの人まで補助を受けることができる。対象が大きい。公共住宅、市営住宅は生活がすごく困窮しているためのものに限らない。大学まで授業料が無料など、多くの人が何かしらの形で恩恵を受けていると感じることができる社会のシステムになっている。だからこそ、街の空間に限らず文化や歴史に関しても、興味や土地への誇りが生まれてくる。暮らしている者として、子供がいる者として思う。
→(岩井)まちづくりにおける行政の役割は非常に大きい。と同時に、市民の意見の重要性、市民の間で議論されるような状況を作っていくことが重要。そういう意味では、やはり筒井さんがやられているシビックプライドというものが醸成されていくのか。教育の重要性を行政がサポートしている。そういう方向を日本でも作り出していかないと認識できた。
(布野)コミュニティと仰ったのは、ゲマインデでいいのか。
→(筒井)ゲマインデは市町村の機関、行政。
→(布野)ドイツ語の共同体論ではゲマインデと使っていた。
→(筒井)ゲマインシャフトが共同体。
→(布野)ゲマインシャフトは一般には使わない? 英語のコミュニティはドイツ語では何というのか。
→(筒井)ゲマインシャフト。
→(布野)ウィーンでは、区より下のコミュニティの下位単位は何になるのか。
→(筒井)市町村単位でここに入らなきゃいけないと強制するものはない。
→(布野)英語でいうワード、日本でいう何丁目のような。
→(木村)ベツェルク?
→(筒井)ベツェルクは区。その中に町会はないが、場所によって商店街はゲマインシャフトを作っている。ゲノッセンシャフト、組合方式、住む人がお金を払って運営するという方式もある。
→(布野)下位単位はないということか。シチズンから意見を吸い上げるというイメージでいいのか。アジアだと昔ながらの村、部落、そういった単位が集まっているイメージ。千代田区の中になんとか町、なんとか町のように、日本と同じようなイメージか。
→(筒井)こちらで一番強くて分かりやすいコミュニティは、宗教が絡んでくる。それぞれに教会があってベチルクがある。ただ教会から脱退している人もいる。ヨーロッパの自由に対する発想から考えると、どこかに所属しなきゃいけないということにしてしまうと反発がおこる。それは自由ということになっている。町会に参加しなきゃいけないとかPTAに参加しなきゃいけないとか、そういう強制や義務はなるべく排除する社会的な仕組みになっている。でないと、プロテストが起こってしまう。どういうコミュニティの考え方で考えても、どこにも所属していない人がある程度の数いる。
(加藤)コンペ中心で運営されているようだが、日本のようにプロポーザルとコンペの違いはあるのか。
→(木村)スイスにはコンペしかない。コンペの中にもアノニマス、アノニマスじゃない、インビテーション、インビテーションじゃない、オープンだ等、細かな違いは存在するが、コンペに統括されるもの。スタディプランもコンペに近いもので位置づけられる。
→(布野)審査員の構成はどうなっているか。
→(木村)スイス建築家協会が出しているガイドラインで決まっているのは、建築家が過半数でなければいけない、合計で奇数であるべき。基本的には街の人と外の人が混じったかたち。だいたい、5人建築家、4人ステークホルダーの9人体制、が一般的。
→(布野)JIAもその原則を言っているはずだが、そうなっていない。それを選ぶのは、シティアーキテクトが選ぶのか。
→(木村)そう。
→(布野)ウィーンではどうか。
→(筒井)行政が選ぶ。シティアーキテクトのように一人で権限があるという人はいないが、バイラットというアドバイスする建築家がいる。その人の意見を聞いたうえで、行政が何人か決めて、大学の都市計画関係者など。ある程度以上のコンペになると、建築士会に提出をして建築士会が決めた建築家を中に入れなければいけない、という規則がある。建築家なしでやろうとしてもできない。
→(布野)審査員が一番問題だ。そうやって選ばれたものが住民投票で否決された場合、審査員の立場や評価はどうなるのか。
→(木村)形式的には、建築家審査員がこれが建築的に優れたものだというものを首長に提案する。その提案を受けて首長が選ぶということになっている。決断は首長権限。市民投票で否決されても、審査員が咎めを受けることはない。
→(布野)そういうこともありうると、それが前提となって選んでいる。すっきりしている。
→(木村)日本のプロポーザルの場合、告示されたときには審査員が決まっていないことが多いが、スイスではルール違反。最終的にシティアーキテクトと審査員がどういう方式でコンペをすすめるかというコンセンサスを撮って、コンペプログラムに審査員全員がサインさせられる。責任を担って参加する。ちょっと来て一言コメント言って帰る、という立場ではない。
→(布野)そういう風土だから、プロジェクトの内容を全部わかったうえで審査に参加するということ。
→(木村)何かしら責任取らされるということはないとしても、最終的に名前と内容が残る。
→(成岡)ブリーフィングはあるが、発注条件は最初に誰が決めるのか。
→(木村)行政がたたき台を作って審査員と議論を重ねる。審査員が運営方法に関してコメントする、その合意のもとですすめるというやり方。
→(成岡)発注条件をさらに審査員が詰めて、よりよい方向の設計条件を決めたうえで空間化していく。
→(木村)設計条件というより、コンペを二段階にするなど、そこに審査員が関わる。
(了)