このブログを検索

ラベル 座談会 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 座談会 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年1月18日土曜日

筒井・ナイルツ・美矢子・木村浩之氏・布野修司、オーストリア・スイス・日本それぞれの「持続可能な地域づくり」を語る、持続可能社会地域創世のための建築基本法制定 読書会 、 2021年11月18日

持続可能社会地域創世のための建築基本法制定 読書会

オーストリア・スイス・日本それぞれの「持続可能な地域づくり」を語る

20211118

 

 

1.建築基本法制定準備会 神田会長挨拶

 

(神田)建築基本法制定準備会では、2003年から日本の建築法制度の根本的改革をするため運動をしている。昨年、建築基本法制定に向けての冊子を発行し、その読書会を毎月行っている。筒井さんの話によると、ヨーロッパと日本を対比した場合、自治体が街と建築をどう考えているかと建築家がどう考えているかが、ヨーロッパは自治体と建築家で7080%一致している。日本の場合はあまり一致していない。自治体は業者任せの雰囲気がある。街を気持ちの良い建築で作っていきたいと感じている人々にとってはストレスの溜まる状況になっている。読書会では、まちづくり、建築に何を求めるのかという点を語り合い、学び合っていきたい。木村さんにも頻繁に読書会に参加いただき、スイスの話を中心に伺っている。今日は布野さんがまとめながらすすめるということで楽しみにしている。 

 

2.筒井・ナイルツ・美矢子氏 (MIYAKO NAIRZ ARCHITECTS代表)

(筒井)画面:ウィーンの街と建築そしてそこに暮らすこと。

 ウィーンに31年住み、建築設計の実務を建築事務所を持ち行っている。ウィーンという街と建築について、ウィーンの市民として、そして建築家として紹介する。テーマである持続する街、地域について考えていく。

 

画面:ウィーンの都市としての成り立ち。

 この街自体は2000年近い歴史がある。ローマ帝国のドナウ川沿いの一番北の要塞としてつくられたウィンドボナが発祥。その後、ハプスブルク王家が650年ほどオーストリアを支配。1918年、第一次世界大戦が終戦して王政から共和国になり、ウィーンはオーストリア共和国の首都になった。人口は190万人ほどなので、ロンドンやパリなどの大都市に比べると中核都市。ハプスブルク帝国の時代は領土がヨーロッパ中に広がっていてその領土の首都としては長い歴史文化が存在するが、街としては小さい規模の首都。

 東京都と同じ23区からなっていて、1区は昔のウィーンの形をそのまま残している。城壁都市だったが、150年ほど前の19世紀後半に大規模な都市改造行われた。城壁を壊し環状道路が作られた。リングシュトラーセという、全長5.3km、幅50mあるブルーバードが作られた。この都市計画を現在の私たちが使っている。観光客が見られるものはその時代に建てられたもの。

 ヨーロッパ最初、世界最初の建築コンペ。環状道路沿いに建つ建物全ては、コンペが行われた。これらの建物群は当時ヨーロッパで流行していた古典懐古主義、折衷様式で建てられた。ゴシックやルネッサンス様式の要素を入れて建築された建物。例えば、国立オペラ座、美術史美術館、自然史博物館(ネオ・ルネッサンス形式)、国会議事堂(ギリシャ・リヴァイヴァル様式)、ブルグ劇場(ネオ・ルネッサンス形式)など。

 150年前の都市改造が行われた時はハプスブルク王家が統治していた。18世紀ぐらいからブルジョワが台頭してきて、環状道路沿いに邸宅を建てていった。グルーナサイトの時代の建物と言われている。1階に店舗や事務所。上に建物の管理人、その上にビルの持ち主であるブルジョワの住宅の入った構造。そのためブルジョワが住んでいる階を1階と呼ぶ。

 ウィーンの市庁舎、ネオ・ゴシック形式と中庭はルネサンス様式の折衷様式。市庁舎は暖房冷房、空調設備の先駆けのようなものを当時から採用している。地下で温かい空気を作り、ダクトを通って大きなホールの上から出てくる。夏は地層から冷たい空気を送っている。並行して、150年前に下水などのインフラも整備した。

 教会や大学の建築について。美術館、建築学科が入る大学。オットー・ワーグナーの郵便貯金会館。

 

 今回のテーマである持続する街、持続する地域とは、持続する公共空間があるということ。

 ウィーン1区のミヒャエラ広場に立つと、2000年の歴史が見渡せる。下の写真の右側、王宮の裏門。王宮には13世紀からハプスブルク家が住んでいて、その頃から19世紀の後半にかけて時代に合わせて増築されてきた。上の写真の真ん中、アドルフ・ロースのロースハウス。ロースはモダンな時代への橋渡しのような役割をしてきた建築家。上の写真の下半分、ローマの遺跡。90年代に広場を整備した際、採掘中にローマの遺跡が出てきた。オーストリアの建築家ハンス・ホラインによってローマの遺跡を活かした広場が作られた。持続する公共空間の1番良い理念の一つだと思っている。

 今から10か月前のロックダウン中の写真、人々がノイエ・ブルグ王宮の前の芝生に座っている。人々がどういう状況であっても街の中に居場所を見つけられ、憩いの空間にしている、ヨーロッパ特有の景色だと感じる。

 

画面:歴史と暮らす街 歴史と暮らす工夫をしている街

 建築家が歴史のある街の中でどのように仕事をしているか。シュテファン広場の写真。シュテファン大聖堂、ゴシック建築で1314世紀に建てられた。90年代にハンス・ホラインが設計、建築したハース・ハウスのある広場。

 一番ウィーンで歴史のある大切な広場。ハンス・ホラインが設計した時には大きな反対があった。ハース・ハウスはポストモダン的デザインでガラス面が多く、ファザードに採用されている。ハンス・ホラインは、ハース・ハウスのコンセプトはシュテファン広場の人や空間、歴史をガラス面に映し出すこと。だからこの建築は新しいものだが、この広場に合うものだ、と伝えた。それでも反対派は信じられないということだったので、ハンス・ホラインはファザードのスクリーンを立て、実際にどう映るのか、プロジェクションを街の人に見せた。街の資産に対する努力の良い例。

 1900年前後にオットー・ワーグナーが作った高架線。60年代にウィーンに地下鉄が開通し、コンペの結果ホルツバウアーが地下鉄を作った。その当時ウィーン市はオットー・ワーグナーの作った高架線や駅舎は壊そうと思っていた。しかしホルツバウアーはそれらは街の資産だと考え、それらを残したまま地下鉄を作る時にどれだけ費用が加算されるかのシミュレーションの予算も含め、市に提出した。市と協議し、残せる部分は残すという形になった。

 最近では駅にバリアフリーのエレベーターを取り付ける拡張工事をしている。古い建物を壊さないよう作るため、相当な労力、費用、時間がかかる。1年ほど使用できない駅がでてくるが、市民は文句を言わない。その街に暮らす人々の多くが歴史を受け継ぐ誇りを持ち、不便を受け入れる用意ができていると感じる。

 

画面:街の景観を審査する部門と建築家との議論

 実務からの例。

 ユーゲントシュティール(ウィーン1区)の建物の1階に日本食レストランを作る。ウィーン1区は世界遺産になっているため、全て保存する必要がある。今回の建築も歴史保存の制約が掛かっている。単に商業建築を作っているだけだが、歴史保存局の審査の対象になる。歴史保存局からの制約にはきついものは無かったが、ウィーンには他にも街の景観を審査する部門があり、ここの審査は建築基準法の審査の様に法律を守ればよいという審査ではなく、議論の形で行われる。

 今回のユーゲントシュティールの建築の中に日本建築が許可された理由。19世紀の後半ヨーロッパで万博が盛んになり、日本庭園や浮世絵が出展され、日本ブームが起こった。ユーゲントシュティールも日本の文化、伝統の影響を受け発達したと言われている。この議論を使い、日本建築のファザードはユーゲントシュティールの建物とバランスがとれていて、マッチしている、とプレゼンした。このプロセスは日本にはあまり無い部分と思い、紹介した。

 看板やロゴの審査について別例。ジュエリーのお店で、ロゴが夜にも見えるよう間接照明にしたところ、審査に引っかかり議論をした。間接照明が許可された理由。今回の店舗はヨーロッパ中に展開しているお店なので、ロンドン、パリ、プラハ、ブタペストなどの歴史地区に建てられた例を持っていき、これらの歴史地区ではこういう理由で許可された、という例を見せた。結果、審査部門からの信頼を勝ち取り、議論がスムーズに進んだ。唯一ベニスのサンマルコ広場のアーケイドの中の店舗は間接照明が作れなかった。

 歴史都市での建築は審査する側と建築家の信頼関係が良い街づくりには大切。ミュージアムクォーター広場。18世紀に建てられたヒストリカルな建物と2001年に完成した美術館がある広場。この建築も10年以上議論が続き、建築が進まなかった。計画が行われてから実際に建つまで2030年掛かることはあるが、一度建つと市民に愛されるようになる。時間を掛けて行政と市民により建てられた公共空間。

 

 政党が変わっても戦争があっても、その街での暮らし、それを行政がどのように枠組みを作り、持続しているかの例。

 ウィーンが共和国になり、ブルジョワの時代から庶民の時代になったときに始まった住宅政策。カール・マルクス・ホーフ(1920年に建てられたウェルビーイングな市営住宅)は今も使われていて、住んでいる人もいる。

 フンデルトヴァッサーハウス。樹木と育つ公共住宅。自治体の住宅局が実験的住宅として作っている。これらを紹介した理由は、自治体として柔軟性をもって制度や枠組みを持続させていくことが、街や地域にとって重要なことと思ったから。これらが建ったときも反対が多かったが、それでもウィーン市住宅局は実験的住宅を作ったという背景がある。

 カーベルヴェルク(組合型住宅)。昔のものを残しつつ、新しいものを建てた例。

 

画面:これからのウィーンの住宅政策。

 ウィーン・モデル(半公共住宅、ウィーン式ソーシャルハウジング・メソッド)を打ち出している。4つの柱のうちの1つ。社会的な持続性。様々な所得層、年齢層、人種、宗教、文化を持つ人が共存し合える住環境づくりを、ウィーン市では民間との共同のプロジェクトにしても条件として課している。結果、ウィーンはまだスラム化が起こっていない。ヨーロッパでもそれが続いているのはウィーンのみ。全世界から注目を浴びている。

 

画面:多様性と寛容さ。

 地域の持続性。自治体の枠組みや住宅政策は、政党が変わっても戦争があっても、100年間続いている。ウィーンが世界で最も住みたい街と言われる理由。ウィーンは多様性を寛容に受け入れる。誰もが街の空間に居場所を見つけられる。

画面:市民の自立と参加。

 そこに住む住民が街に興味を持ち、自立して意見を持っている。シビックプライド。自然、健康、安全は建築基準法や労働法で守られている。しかし法律ではないところで自治体、建築家、市民が努力している。コミュニティ、居場所。皆が居場所を見つけられるコミュニティ。持続する地域を作っていく人、自分が住む地域への愛着と誇り、厳しい目と責任を持つ人が増えていくと良い。

 幸福度、人生を楽しむゆとり。オーストリアの「ブドウ畑の村のプロジェクト」が5年越しに完成するとき。

  

3.木村浩之氏 一級建築事務所 まちむらスタジオディレクター

(木村)スイスに20年ほど住み、現在は東京在住。スイスのイメージについて。

 スイスの建築家の写真集に出会い1997年にスイスに渡る。スイス人は方言を固持し続ける、地元に戻ってくるということに気付いた。自分自身は北海道から東京に出てきた際、地元を捨てる勢いで東京に馴染むことを目標としていた。しかしスイス人は大学で大都市に出てきても、卒業後は地元に戻る人が多い。スイスにはウィーンやパリのような帝国制度という過去がないため、中央集権ではないからと感じていた。最終的に至ったのは人々の強烈な地元愛という理由。

 

画面:バーゼルのまち・ひと・つながり。〈ひと〉と〈まち〉がつながる。〈まちの個性〉を一緒に発酵・熟成させるようなまちづくりのしかた。

 

画面:バーゼル市について

 

画面:バーゼルのまちづくりアクターネットワーク

 

画面:まちづくりアクター1 スタディプラン

 都市の未来ビジョン作り。複数の建築家チームがオープンディスカッションを通して複数のシナリオを描く。各チームは異なったシナリオを試す。コンペではない。市民参加の機会(アンケート、調査、ワークショップ、その他イベント)。市民を巻き込み、デベロッパーに先行したアクションを行政がとる。時には時間を掛け、代表者が出された複数の案をまとめ上げたものを、都市政策・都市計画に生かす。

 Klybeck Plus、ドイツ国境沿いの約43haの再開発。スイス、ドイツ、オランダ等の設計事務所5社。ドイツ国境沿いの広い地域で、いくつかの工場がなくなり空き地ができるという話をバーゼル市が聞きつけ、デベロッパーに買われる前にバーゼル市で全体計画を作成。この計画は2015年から始まり、現在も続いている。

 市民をまきこむ、デベロッパーに先行したアクションをとる、時には時間をかける、都市政策都市計画に活かす、単体建築コンペ等の指針につながる。

 

画面:まちづくりアクター2 シティアーキテクト

 都市の未来ビジョン作りの統括役。バーゼル市では過去20年間程度の任期を全うしている。任期が終了した後は、下の人が上がるのではなく、独立選考委員会により外の人から選考される。公務員だが独立した価値観。市長が変わっても継続してまちづくりを行うため。政治からある程度距離をおき、政治に都市づくりを大きく委ねないシステム。

 

画面:まちづくりアクター3 コンペ(設計競技)

 選ぶだけでなく、いくつかの案を比較議論することを重要視している。上位5等から10等の案にも手厚い賞金。1等案だけでなく、2等案以下にも良い代替案や異なる考え方が出たおかげで良い議論になったということで、200万~300万円ほどの賞金が出される。大きい事務所にとっては模型代金ほどにしかならないが、若手の事務所が年に23回佳作に入れば事務所を回していくことができる。若手の建築家を育てる仕組みになっている。

 議論を冊子として編集・出版し、選ばれた根拠を未来に残す。日本のプロポーザルでは勝利案は出すが、どういった根拠でその案が選ばれたのかも発表されていない。ヨーロッパと日本の考え方が違うと感じる。

 バーゼル市では年7件程度のコンペが実行。人口100万人に換算すると年34件程度。札幌市であれば年65件相当。しかし札幌市で実際行われているのは年3件から5件。東京23区であれば年330件のコンペが行われていることになる。

 モニュメントだけでなく、人々が日常的に使う建物もコンペが行われている。学校、集合住宅、病院から文化施設まで、公共だけでなく民間のコンペが2割を占める。あまりにひどいものを透明でないプロセスで建てると、市民投票でボツにされる。

 コンペで勝った事務所が創立から何年たっているのかを調べると、約6割が創立から20年未満。若ければ若いほど勝てるのがバーゼルのコンペ。過去3年間のうちに小学校を5件建設していなければプロポーザルに参加できない、という日本のプロポーザルとは違う。

 

画面:まちづくりアクター4 美観委員会(行政)

 建築物の確認申請、建設許可に際し、美観委員会と歴史的建造物保護課のチェックが入る。法律では意匠面は計れないのでウィーン同様、個別に判断する機関がバーゼルにもある。バーゼル市美観委員会には合法的な建築だとしても意匠面で不合格の場合、建築許可を停止することができる強い権限が与えられている。

 

画面:まちづくりアクター5 都市景観市民団体

 建築物の確認申請、建設許可に際し、民間美観委員会等の特定市民団体に市民個人よりも強い権限が与えられている。市民団体が国会の前でデモをするというものではなく、市民団体提訴権という特殊な権利が認められている。一般市民と行政の間くらいの権利。この団体になるためには同様の活動を過去10年間継続して行っていることが求められる。バーゼルの民間団体は1905年に結成され115年ほどの歴史のあるもの。行政の認可後、市民団体の確認が入るという仕組みになっている。最高裁まで持ち込むことができる。

 

画面:まちづくりアクター6 計画輪郭表示

 新しく建築する建物の輪郭を示さないと建築許可が下りないという仕組み。バーゼル市にはなく、チューリッヒや他のスイスの話。一般市民はどこに誰がどんなものを建てるかは知る由がないが、計画輪郭表示がそれを可能にしている。確認申請を出すと図面を出し、23週間輪郭表示をしておかないといけない。市民が異議申し立てをする場合それなりの理由が必要だが、計画輪郭表示があることで異議申し立てをする機会が市民に与えられる。

 

画面:まちづくりアクター7 市民投票

 スイスは直接民主主義制を採用しており、議会が決断したものに関して署名を集めれば、国民投票を行い再議決することができ、そこでの決定は議会の決定を上回ることができる。1848年スイス全体の憲法設立当初から直接民主主義制を採用しており、これまで600以上、年間12本ほどの案件で国民投票を行っている。物言いは議会の承認に対してで、確認申請に対してできるわけではない。

 国民投票ができるものの例。議会での予算承認が必要な公共建築、地区計画(B-Plan)を伴う民間大規模計画、都市計画(ゾーニング等)変更。

 国民投票で否決された建物の例。Herzog & de Meuronの映画館、Zaha Hadid設計のコンサートホールの建て替え案、木村がHerzog & de Meuronと作成した都市計画。

 国民投票で可決された建物の例。Herzog & de Meuronの展示会場。

 国民投票に掛けられると12年遅れが出るため、事業者はできるだけ国民投票に掛けられたくない。そのためには透明なプロセスで議論を深め、反対の人とも事前に協力や理解を求めコンセンサスを得て、少しずつ作っていく。

 

画面:バーゼルのまちづくりアクターネットワーク

 バーゼルのまちづくり三権分立

都市ビジョン シティアーキテクト、スタディプラン、市民参加

建設行政 コンペ、地区計画B-Plan、市民発議(建築行政をするクラスター)

チェック 行政組織、市民・市民団体、国民投票

 3つのクラスター全てに市民が入り込めるチャンスが開かれている。日本の三権分立のように市民が傍観者となっていない。

 

 

 

4.パネルディスカッション コーディネーター 布野

(布野)筒井さんは30年ウィーンに住み、木村さんは20年バーセルに住んでいる。木村さんはずっとバーゼルか。

→(木村)初めはフランス語圏に2年ほど住み、18年バーゼルに住んでいる。

(布野)ディーナー&ディーナーのスタッフとして所属しているのか。

→(木村)はい。

→(布野)ほとんど片腕、ボスクラス。

→(木村)事務所に入ったときスタッフが40名ほどで、出るころには70名ほどになっていた。

(布野)仕事はバーゼル以外、ヨーロッパのものも含めてしていたのか。

→(木村)はい。イタリアやフランスの仕事をしていた。

(布野)ヨーロッパの事情をよく知る二人と30分ほどだが、ディスカッションしていきたい。

 

(布野)環状道路内の世界遺産に登録されている建物や広場を登録から外すという話を聞いた。筒井さんは持続する公共空間において広場の重要さを述べていたが、実際はもう少し問題があるのではないか。

→(筒井)例のインターコンチネンタルホテルの建っている場所の開発に関しては、計画がずっとストップしている。ウィーンが世界遺産のため、ユネスコから文句が入ったから。高い建物が建ってしまうとベルヴェデーレ宮殿から世界遺産であるシュテファン大聖堂が見えない、との指摘があった。ウィーン市の行政や市民など立場によって反応は違うと思うが、肌感的に住人の立場で言うと、都市として生き延びていくことが大切なので、歴史遺産でなくてもよいのではと感じる。世界遺産に登録されれば観光客が増えることもあるが、それがなくてもウィーンは十分生きていけるであろうという自負を感じる反応が多い。

(布野)市民と行政が議論する土壌がウィーンにあると思う。議論の場所の問題は木村さんの話が分かりやすかったので、木村さんからバーゼルでの様子を聞き、その後ウィーンの場合を聞く形にしたい。

 バーゼルは20万人都市ということだが、ウィーンは何人か。

→(筒井)190万人。札幌と同じくらい。

 

画面:スタディプラン シティアーキテクト

(布野)スタディプランはどういう段階なのか。

→(木村)様々なケースがあるが、ヨーロッパは移民も増えていて、人口も増えている。人口が増える前提で、バーゼルの街を魅力的なものにしていくという政治的な目的がある。

(布野)それは誰が発案し、始まっていくのか。

→(木村)シティアーキテクトがエリア開発する、と発案。

→(布野)ウィーンでも同じプロセスか。

→(筒井)ほぼ同じプロセス。

(布野)ウィーンにもシティアーキテクトの制度があるのか。

→(筒井)シティアーキテクトという制度自体は無いが、審議会として形を変えプロジェクトごとに外から意見を言えるというものはある。

(布野)それはプロジェクトごとなのか、常時コミュティとしてあるのか。

→(筒井)常時のコミュティもある。都市、州ごとに存在する。

(布野)ウィーンに限定すると、あるプロジェクトを立ち上げるときには、そこがスタディプランを作るよう指示されるのか。

→(筒井)ウィーンの場合、行政の力が大きい。ウィーン市の中に都市整備局はあるが、全てを管轄するダイレクションオフィスがあるのでここが最初に決める。

→(布野)それは日本でいう各市の企画部の役割のようなものか。

→(筒井)はい。横つながりでダイレクションする場所があり、そこが大きな権限を持っている。シティアーキテクトや審議会をつくる時もダイレクションオフィスがそういうものを作ると決める。システムはバーゼルと似ているが、ここが大きな違い。

(布野)バーゼルの場合、市長が変わっても企画は続行されるということ。決定権はシティアーキテクトと首長にあるのか。

→(木村)首長は文字情報までのビジョンだけ作る。空間にする部分はシティアーキテクトが作る。

→(布野)シティアーキテクトは全体の計画の責任者は首長か。

→(木村)はい。首長が変わり企画も変わるということがないように、シティアーキテクトというロングスパンで動く人がいるので成り立っている。

(布野)シティアーキテクトが首長になることはあるのか。

→(木村)ない。

(布野)スイス全体はバーゼルと同じシステムで動いているのか。

→(木村)スイスではシティアーキテクトの意味合いでシュタットアーキテクトや、カントンバウマイスターというバウマイスター協会があり、スイス中の何十人が集まっている。

(布野)ウィーンの場合も同じなのか。

→(筒井)同じ。ウィーンもそうだが、地方都市は特にそう。自分たちも聞かれ、スタディプランを出すことがある。その時には最初から市民が入り、3つほどの事務所で案を出し合う形は同じ。

(布野)日本だと指名業者が前もって選出しておきそこから選ぶという方法だが、バーゼルとウィーンではスタディプランを作る人はどのように決まっているのか。

→(木村)コンペとは違い、スタディは事務所に直接匿名で依頼がくる。匿名で依頼できる行政のバジェット上限があり、その枠内で受けるという常識がある。その枠を超えると競争入札になる。

→(布野)日本でいう随意契約と思ってよいか。

→(木村)はい。選出された人は市民を巻き込み、街を盛り上げる役でもあるので、誰に頼むのかは、シティアーキテクトの裁量にかかっている。

→(筒井)ウィーンではプロジェクトの規模やシチュエーションにより異なるが、オープンな言い方をすれば、スタディのプロセスでは行政やシティアーキテクトの独断と偏見の入る余地がある。特に地方で大事なのは、その地方を知っているかどうか、地方出身かどうか。そのため地方のことを考えてスタディしてくれる建築事務所を選ぶ。そこにゼネコンが入ってくることはほとんどない。

(布野)日本の場合はスタディの部分がコンサル。中央省庁と各自治体を繋ぐ間にコンサルタントがいる。中央政府の官僚が財務省から予算を獲得し、各都道府県の自治体に渡す間にコンサルタントが入っている。ヨーロッパはそうした形ではないのか。

→(木村)基本的にトップダウン、行政主導、地方自治体レベルで行う。

(布野)中央集権という問題が日本にはある。例えば、日本でPFIを始めようとした際、何をしたらよいかわからないということがあった。大手が組織事務所に入り、コンペには参加できないが、そこで得たノウハウを別のプロジェクトに参加し、活用する。自治体を超えて仕事をすることがあるのか。ヨーロッパでは自治体を超えて仕事する場合、JVを組むのか。

→(木村)小さいエリアの場合、地元の建築家だけに依頼してスタディをする。大きいエリア、インパクトのあるエリアの場合、地元の人と全く違う外国人も呼んでくる。

→(布野)シティアーキテクトや自治体側が呼んでくるのか。

→(木村)はい。

 

画面:コンペ(設計競技)

(布野)コンペを行い上位5から10案に手厚い賞金を出すとのことだが、どの位なのか。

→(木村)プロジェクトにより異なるが、賞金総額1,000万、2,000万などがプログラムに記載されている。佳作にいくつの案が入ったかにより、分配が変わるが、私がリサーチした平均値は300万円。

→(布野)その場合の総工費はいくらだったのか。

→(木村)総工費、数億円で賞金1,000万円ほど。

(布野)ウィーンではどうか。

→(筒井)ウィーンもコンペはよく行われるが、手厚い賞金は出ない。以前、総工費34億ほどの地方のコンペで勝ったが、賞金は150万~200万円ほど。

(布野)日本では、自主設計担当者は賞金を出さない。ヨーロッパのコンペでは最優秀案には賞金を出すことがルールか。

→(木村)(筒井)はい。

→(筒井)なぜかと言うと、コンペで1等を取ったとしても必ずしも建つわけではないから。木村さんが言ったように市民投票で建たなくなる可能性もある。

→(木村)手厚い賞金と書いたが、12人の若手事務所で300万円手にした場合は良いが、大きな事務所からすれば、その額でも赤字。

→(布野)以前、山本理建はコンペに参加するだけで400万円と聞いたことがある。スイスは建築に対する価値を高く見ていると思う。

 

(布野)バーゼルの場合、公共建築は全てコンペか。

→(木村)はい。

→(布野)ウィーンもそうか。

→(筒井)公共建築はコンペにしないといけない。

→(布野)プロポーザルや設計入札はありえないものか。

→(木村)はい。

→(筒井)それがあるコンペもある。事務所がデベロッパーと組み参加しなければいけないコンペもある。住宅政策に関わってくる。

(布野)デザインビルド方式のようなことで、事業費の中で案を出すコンペもあるのか。

→(筒井)ある。ウィーンは市営住宅、公共住宅の他に、住んでいる人がある程度のお金を積み立てて置きそれで運営し公共の補助が出される、という形式があり、このパターンが多い。しかしこの形式の建築を建てるためのコンペに参加するための条件が厳しい。ウィーン市が打ち出す4つの柱を満たしたデベロッパーでないと、半公営住宅、補助型組合住宅のコンペに参加できない。建築家だけ案を出しコンペに勝ったとしても、家賃を抑えることなども関わってくるため、半公共建築の場合、初めから条件を満たしたデベロッパーと組む体制をとっていることがウィーン市は多い。

(布野)バーゼルでは若手事務所がコンペを多く勝ち取っている、ということだが、若手が育つ環境が維持されているということか。

→(木村)はい。博物館クラスのコンペでは選ばれることは少数で、大半は集合住宅でのコンペ。

 

画面:美観委員会(行政)

(布野)建築許可に際し、美観委員会や歴史的建造物保護課の方が強いということか。

→(筒井)はい。いわゆる建築基準本の申請所の事務所からハンコをもらう必要はあるが、そこに美観委員会の承認のハンコが無ければ、建築の許可がおりない。

 

画面:市民投票

(布野)バーゼルは市民投票をするということだが、私は住民投票に関しては反対してきた。一般の人ではなく、専門家として判断したいと思っているから。市民投票はウィーンでも行うのか。

→(筒井)行わない。市民投票をすると何も建たなくなるから。全く行わないわけではない。原子力発電所を作ったが国民投票で原子力を使わないことになり、建物はあるが原子力は使わないという例。万博など規模の大きな物事に関しては市民投票を行うこともある。ある建築を建てるか建てないかの投票はほとんど行われない。

(布野)スイスは全ての建物に関して投票を行うのか。

→(木村)スイスの場合、建築だけでなくあらゆる面において直接民主主義が認められていて、その中の一つに建築の分野がある。建築だけが特別扱いではなく、自分たちの未来は自分たちで決めたいという考え。素人が投票するため時々ポピュリズム的な決断が下されることもあるが、それでも数回投票にかけ、ベストな案を探っていくという形をとっている。

(布野)日本で市民投票を行うと全体的に凡庸な建築が選ばれていくのではないかと危惧している。

→(木村)イギリスのブレグジットのように、時々しか行わない投票は振れが恐い。スイスの場合は年間20本近く国レベル、州レベル、市町村レベルで投票を行っているため、市民も投票することに慣れている。

(布野)スイスは人口何人か。

→(木村)全人口800万人。バーゼルで20万人。

 

 

 

神田先生の話 

(神田)行政の役割がすごく大きいが、左右するのは市民。日本では、公共建築について市民がどういう建築がいいのか議論する場がない。建築のあり方が市民の間で議論されるような状況を、専門家が率先して作っていくことが必要だと感じた。

→(布野)コンペではなく、審査の二段階目をオープンにして行うと、シンポジウムより面白い。二ヶ月くらい時間があれば提案してもらえる。それは市民にそのプロジェクトの意味を伝える場になる。

(神田)今はコンペがなくなってほとんどプロポーザルになっている。

→(布野)いや、なぜか今増えている。

→(神田)オープンに見えるかたちでやらなければならないと思う。

→(布野)コロナで止まっていたプロジェクトが動き出しているのが一因。

 そういうときに基本法の見本版として、市民の議論をするのはいいと思う。説明すると自治体の担当者も理解してくれる。今までのプロポーザルでは密室で決める方式だが、同業者がいると嘘がつけない。

 滋賀の新生美術館の例。隈研吾、理建、青木淳等で行った際、一箇所に集まったほうがいいとした。隈研吾は分散型を推した。理建は分散だとメンテナンスコストがかかるとした。木村さんの話ではスイスでは日常的にそうしたことを行っているようだ。

 神田さんはコンペの審査をしているのか。

→(神田)あまりしていない。多くの自治体が、もっとオープンに審査のプロセスを見せる中から建築を作る、というふうになっていない。

 

 

 

質疑応答

 

(岩井)美観委員会の承認が建築許可の前提とのことだが、美観が条件とされる歴史的経緯、なぜ美観が条件とされるようになったか背景についてご教授いただきたい。

→(木村)バーゼルの美観委員会ができたのが1905年。当時鉄道が通って街なかにトラムが通るようになり、建築物のパサールラインを後退せよという土地計画が作られた。そこに建っている建物を全部作り変えなきゃいけない。鉄道によって街が大きく変わろうとしていたタイミングで市民団体が立ち上がった。その団体が行政に吸収され、吸収と同時に民間も民間でやらなければいけないとなり、バーゼルは行政、民間の2つの美観委員会を持っている。

→(岩井)日本でいう景観法に当たると思うが、日本の景観法は最近できたもの。景観を重要な視点にして許可の条件にしているというのは、日本と全く違う。筒井さんが言っていたシビックプライドもひとつの要素か。なぜ日本に美観、景観という感覚が育たなかったのか。

→(布野)風致地区の指定は相当古くからあるはず。明治以降。

→(岩井)確かに世田谷区にもあるが、ごく限定された地域。

→(布野)近年だと古都保存法。京都市は独自の条例レベルで作ってきた。日本でどういう制度を活かしていけるのか。

→(岩井)景観に対する行政側の認識、市民一般の景観を守ることに対しての考え方、シビックプライドが育っていないと思う。歴史的背景が大きいか。一般論としての建築に対する景観の重要性が日本はまだ遅れていると感じる。どうにかならないか。

→(布野)東京で景観法適応をどのようにできるか。

→(岩井)区では条例を作っている。ただ行政の重点が非常に高い。市民の声がなかなか届きにくい。

→(木村)私権の制限に当たる。自分の土地は好きにしていいという考え。ヨーロッパでもマスクをするしないのような私権の制限には違和感を感じる。日本はマスクは気にしないが街並みを揃えることには違和感を感じる。そんなアンバランス感。

→(岩井)私権制限と総有。公共空間と私的空間、どちらに重点を置くか。

→(布野)景観法は法的根拠がある、私権を制限できる。だから広がらない。自治体が採用しない。条例と併用するのがいいと思う。実現するには若い人たちがどこかの自治体でやってみせるのが大事。木村さんが本場から帰ってきているのだから、どこかで事例をやってほしい。

→(木村)ドイツの基本法14条。所有権を定義しており、所有権は義務を伴うという項目。ヨーロッパの中では強い私権制限。

→(筒井)同感。所有物であってもそれが公共の利益になるものであれば制限される。それが根本にある。景観法などなんとか法、なんとか条例が多く出てきているが、それが違い。ウィーンの建物は、一定の場所だけでなくすべての建築物について、ファサードについて申請を出さないといけない。そのときに議論が必要。ウィーン市の職員側の教育や知識、経験が重要。大学で建築史を教えられるような人が職員となっているので、議論がスムーズ。マニュアル等が必要ない。その根本のところが違う。役所の窓口、担当者に経験や知識のある人を増やしていくことが重要だと思う。

→(神田)建築基準法はそういった議論をしなくても話が進むようにと戦後に作ったもの。そろそろ立ち止まって考え直す必要がある。

 

(今津)建築工事会社が設計コンペに参加することはあるか。

→(木村)日本のゼネコンと違ってヨーロッパの工事会社は設計部を持っていない。設計と施工の分離が大前提。施工会社がコンペに参加するなら、デザインビルド方式になる。デザインビルド方式はスイスでも近年導入されている。印象としてはフランス、ドイツが多い。スイスはまだ少ないが、ヨーロッパでも広がりつつある。

 

(ムラジ)市民投票の強さが、結果として建築家に対し事前にディスカッションする機会を作っているのが興味深い。具体的なディスカッションの機会にはどのようなものがあるのか。

→(木村)一番多いのは、コンペの機会を通して。日本でも行う説明会のようなものも開かれる。私が関わった都市計画系のものではまちづくりセンターみたいなところで展示、ディスカッションをやるというものもあった。市民投票にかけられる際に賛成派と反対派に分かれて、あちこちでシンポジウムを行ったり新聞に記事が載ったりと、いろんなイベントが起こる。国民投票にかけるというのは、いろんな意見を出しまくるというかたちで行われていたというのが非常に興味深かった。

→(ムラジ)イギリスでも議論の場をどんどん建築家が作っている。それによって市民も建築に対しての興味を持っていく。日本の人はそこまでレベルが行っていない。ヨーロッパと日本が違うと言ったらそこまで。日本をどうしたらいいのかまで持っていかないといけない。

 先程の筒井さんが言ったように、マニュアルがないほうがいい。行政にも裁量が与えられることになる。イギリスの許可申請は興味深い。裁量を持っている行政側が、歴史の博士号などを持っている。それぐらいやりがいのある仕事にするので仕事として面白くなってくる。建築家も裁量のある、自分が街を作るのだとなってくると、自然と協議調整という場が生まれる。ヨーロッパの良さをどう入れ込んでいくかのアイデアを考えるのが重要だと思う。

→(木村)プロジェクトが市民投票にかけられる場合。私のボスとジャック・ヘルツォークが仲良くしていたこともあり、彼がバーゼルの新聞に寄稿してサポートしてくれた。建築家がしっかり政治に関わっていくという体制がある。日本の建築界の人が新聞に寄稿するというのはあまりイメージが浮かばないと思うが、ローカルに特化したメディアがあるからこそうまく成り立っているのかもしれない。

→(布野)時間が無くて触れなかったが、輪郭表示について。宇治市で都市計画セミナーの会長を10年近くやっていたが、ある建築をする際、アドバルーンを上げてこのぐらいのものが建つと伝わるようにした。一般の人はどういうものが建つかわからない。これは義務付けられているのか。

→(木村)正確に言うと、バーゼル市の建築法には入っていなくて、チューリッヒや他の街にあるルール。非常に面白いと思うので入れた。

→(布野)宇治市の案件の際、ダウンゾーニングもした。ところが出来た建物は横にものすごく長くて、壁みたいになるのも問題だ、高さだけじゃなく、となった。分節すべきだという話も出た。平等院があったため、市民も反応した。模型やパースではわからない。現場で表示されると、自覚しやすい。

 出雲の事例では、治水問題で嵩上げしないといけないとなった。このぐらいまで嵩上げするというのがわかるように作った。スイスの事例はわかりやすいと思う。

→(木村)コミュニケーションツールだと思う。

→(筒井)先ほどのプレゼンでもお伝えしたが、ハンス・ホラインがシュテファン広場にハースハウスを建てたときにも、スクリーンを立てて街の人に見せた。ヨーロッパの伝統かもしれない。規則が無くても建築家はそれをする責任があるということ。

→(布野)ハースハウスの当時の賛否と今の賛否はどうか。

→(筒井)基本的にポストモダンの時期の建物に関してはちょっと、と言う人は建築家も含めて多い。普通の人の目線で考えてみると、反対意見はほとんどなくなっている。あまり好きではないなという人はある程度いる。何を建ててもいいということはなく、建てる際の努力は必要だが、30年くらい経てば感覚的に一般の人には受け入れられる。時間の周期、歴史の周期。オペラ座も建ったときは批判されて、フランツ・ヨーゼフ皇帝は「沈みかけた箱」と表現した。

→(布野)あれはゼンパー?

→(筒井)ゼンパーは美術館。オペラ座はファン・デア・ニルともう一人。建てた時にはめちゃくちゃに言われていた。ルネサンス方式に見えて違うとか、道路の高さが高くなってしまったので、一階部分がぺちゃんとなったように見えてしまった。それで皇帝が「沈みかけた箱」と言った。建築家一人は自殺、もう一人は文献によると、憤死した。二人ともそれが原因で死んでしまったという経緯がある。150年前はそうだったが、今は世界中から人が来て、ウィーンは古い建築があってエレガントできれいだなと見ている。やはり、歴史は繰り返す。建築も100年頑張って建っていると市民権を獲得していく。ヨーロッパではそんな時間的スパンを感じる。

 

(加藤)シティアーキテクトにはどういう経歴の人がなるのか。

→(木村)建築都市計画を学んだ人。スイスでは学べる大学組織が少なくて、建築家出身の人がやっている場合が多い。2016年、バーゼルで前任者が退任して新しい人が就いたが、40代の人。そこから20年くらいやってもらう。その方はもともとバーゼル出身ではないスイス人。

→(布野)アーバンアーキテクト制を行った。国交省で規則を作ったがなかなか制度的に出来ないという見方だった。その際は、ある人がシティアーキテクトになった場合、バーゼル市の仕事はできないが隣の街はやっていいですよ、のようなルールになった。そのあたりはどうなっているのか。建築家としての道は諦めるのか。

→(木村)バーゼルでは基本的に専門で、100パーセント、シティアーキテクト。公務員になる。チューリッヒには、設計もシティアーキテクトもしている人がいるが、彼の場合は基本的にチューリッヒでは仕事はしない。

→(布野)磯崎さんが熊本でアートポリスをやった際、彼はそこでは仕事をしないというのを貫いた。しかし岡田さんが岡山でやったときは一つ仕事をやった。やはり全然違う。

 これは日本でもマスターアーキテクト制が広がれば似たようなことになるといいなとは思うが、なかなか広がらない。理解のある首長のところでしかできない。

→(木村)ビエンナーレで、審査員の奥さんが選ばれたということがあった。ちょっと認識がゆるいのかなと感じた。

 

(成岡)建築許可はまちづくりの理解にどのように絡んでいるのか。

→(木村)議会では単体の建築許可に関わることはない。大きい建物を建てるときには土地計画変更が必要になり、それが議会の承認が必要。そのときには人の注目を浴びているので、反対の政党が文句をいい、賛成の政党が支持の意見を述べるというふうに、市議会の中で話題になる。あまり問題のないものはしれっと通ってしまうこともある。まちづくりに関しては、事前に予算承認がある場合には、議会が関わってくる。完成したものをもう一度議会を通すときに反対賛成意見を議会が述べる。途中のプロセスで何か言ってくることはない。

→(成岡)その地域に建築するのに、議会が全く関わらない。住民が反対していても、議会は全く関わらないで、建築士がハンコを押せば建つという仕組みになっている。武蔵野市や国立市の事例では、市長が反対、裁判までしてデベロッパーが負けて賠償金を求められることもあった。議会を全く無視したかたちで建築ができるという仕組みそのものが、かなり問題になっている。そのためバーゼルではどうなのかと思い質問した。

→(木村)マスターアーキテクト、マスタープランが無いなかで自由奔放にやらせて、問題が生じて気づいたところだけ潰していくという対処療法で日本はやっている。対してスイスは、事前にプランニングしてトップダウンで降りてきたところにデベロッパーが入れるようなかたち。デベロッパー側からすると、行政にはめられちゃっていると日本のデベロッパーは思うかもしれない。全然成り立ちが違う。

→(成岡)議会はある程度、建築やまちづくりに絡んでいかないと、ちょっとおかしいなと思う。

→(布野)それが神田先生が問題視されている、基準法さえクリアしていれば裁判で負けてしまう。神田先生、そのあたりはどのように突破するのか。

→(神田)建築基本法は理念も謳う。建築が社会的資産であるということを言葉として明示する。建築基準法を満足しているだけでそれが社会的に認められるかどうかというところを、司法が判断できるようにしてほしいと思っている。例えば浜松で、地震ハザードを考えるとこの建物はとても危険だから建築を差止めてほしいと訴えた。しかし基準法を満たしているので、合法とされた。建築基本法があれば、安全ということに対して司法が総合的に判断できるのではないか。建築基本法を運用する住宅局がある程度ゴーサインを出してもらわないと、基本法をもとに自治体がルールを決めて運用するということが成り立たなくなる。

→(布野)結局デベロッパーが2階くらいカットして和解する。住民も仕方がないからと。日本的な方法なのか。

→(成岡)国立も樹木より低くという。個人的な賠償の話になってしまった。

→(木村)日本の場合、腹を立てた近隣住民の集合体が対処するしかない。スイスの場合は市民団体権がある。彼らが盾になって動いてくれる。やはり個人では対応できないという前提で、拡大した権利を認めている。そういう人たちがいるからこそ和解に至らずに最高裁までいける。

→(成岡)根本から違う。

→(木村)アメリカ人のように何でも裁判所に持ち込むのが好きということではない。どちらかというと日本人に似ていて、できれば裁判を避けたいという考え方をする。それでも和解に至らない場合はそういう道も辞さない、ということができるのが、市民団体、訴訟権があるからこそかと思う。

 

(岩井)不便を受け入れる、歴史を受け継ぐ誇りを持つ市民。そのようなシビックプライドを市民が持つようになった背景はなにか。小学校などで市民としての権利と義務などについての教育が行われているのか。

→(筒井)すべてのことを突き詰めていくと教育になる。そういう教育が行われているというのもそうだが、文化に子供の頃から触れ合える環境を市町村が作っている。例えば、美術史美術館やオペラ座には子供のためのプログラムがある。美術館や博物館で子供の誕生日会を開くこともできる。そういう意味で子供の頃から文化に触れ合う機会を大切なこととしている。

 もう一点。住む、暮らすということに関して、なるべく多くの層の人が恩恵を受けていると思うようなシステムを作るのがうまい。例えばウィーンの乗り放題券。1年で365ユーロ。11ユーロでウィーン中全部乗ることができる。また、ゲノッセンシャフト、家賃補助がある組合住宅のシステム。中流の上のほうくらいの人まで補助を受けることができる。対象が大きい。公共住宅、市営住宅は生活がすごく困窮しているためのものに限らない。大学まで授業料が無料など、多くの人が何かしらの形で恩恵を受けていると感じることができる社会のシステムになっている。だからこそ、街の空間に限らず文化や歴史に関しても、興味や土地への誇りが生まれてくる。暮らしている者として、子供がいる者として思う。

→(岩井)まちづくりにおける行政の役割は非常に大きい。と同時に、市民の意見の重要性、市民の間で議論されるような状況を作っていくことが重要。そういう意味では、やはり筒井さんがやられているシビックプライドというものが醸成されていくのか。教育の重要性を行政がサポートしている。そういう方向を日本でも作り出していかないと認識できた。

 

(布野)コミュニティと仰ったのは、ゲマインデでいいのか。

→(筒井)ゲマインデは市町村の機関、行政。

→(布野)ドイツ語の共同体論ではゲマインデと使っていた。

→(筒井)ゲマインシャフトが共同体。

→(布野)ゲマインシャフトは一般には使わない? 英語のコミュニティはドイツ語では何というのか。

→(筒井)ゲマインシャフト。

→(布野)ウィーンでは、区より下のコミュニティの下位単位は何になるのか。

→(筒井)市町村単位でここに入らなきゃいけないと強制するものはない。

→(布野)英語でいうワード、日本でいう何丁目のような。

→(木村)ベツェルク?

→(筒井)ベツェルクは区。その中に町会はないが、場所によって商店街はゲマインシャフトを作っている。ゲノッセンシャフト、組合方式、住む人がお金を払って運営するという方式もある。

→(布野)下位単位はないということか。シチズンから意見を吸い上げるというイメージでいいのか。アジアだと昔ながらの村、部落、そういった単位が集まっているイメージ。千代田区の中になんとか町、なんとか町のように、日本と同じようなイメージか。

→(筒井)こちらで一番強くて分かりやすいコミュニティは、宗教が絡んでくる。それぞれに教会があってベチルクがある。ただ教会から脱退している人もいる。ヨーロッパの自由に対する発想から考えると、どこかに所属しなきゃいけないということにしてしまうと反発がおこる。それは自由ということになっている。町会に参加しなきゃいけないとかPTAに参加しなきゃいけないとか、そういう強制や義務はなるべく排除する社会的な仕組みになっている。でないと、プロテストが起こってしまう。どういうコミュニティの考え方で考えても、どこにも所属していない人がある程度の数いる。

 

(加藤)コンペ中心で運営されているようだが、日本のようにプロポーザルとコンペの違いはあるのか。

→(木村)スイスにはコンペしかない。コンペの中にもアノニマス、アノニマスじゃない、インビテーション、インビテーションじゃない、オープンだ等、細かな違いは存在するが、コンペに統括されるもの。スタディプランもコンペに近いもので位置づけられる。

→(布野)審査員の構成はどうなっているか。

→(木村)スイス建築家協会が出しているガイドラインで決まっているのは、建築家が過半数でなければいけない、合計で奇数であるべき。基本的には街の人と外の人が混じったかたち。だいたい、5人建築家、4人ステークホルダーの9人体制、が一般的。

→(布野)JIAもその原則を言っているはずだが、そうなっていない。それを選ぶのは、シティアーキテクトが選ぶのか。

→(木村)そう。

→(布野)ウィーンではどうか。

→(筒井)行政が選ぶ。シティアーキテクトのように一人で権限があるという人はいないが、バイラットというアドバイスする建築家がいる。その人の意見を聞いたうえで、行政が何人か決めて、大学の都市計画関係者など。ある程度以上のコンペになると、建築士会に提出をして建築士会が決めた建築家を中に入れなければいけない、という規則がある。建築家なしでやろうとしてもできない。

→(布野)審査員が一番問題だ。そうやって選ばれたものが住民投票で否決された場合、審査員の立場や評価はどうなるのか。

→(木村)形式的には、建築家審査員がこれが建築的に優れたものだというものを首長に提案する。その提案を受けて首長が選ぶということになっている。決断は首長権限。市民投票で否決されても、審査員が咎めを受けることはない。

→(布野)そういうこともありうると、それが前提となって選んでいる。すっきりしている。

→(木村)日本のプロポーザルの場合、告示されたときには審査員が決まっていないことが多いが、スイスではルール違反。最終的にシティアーキテクトと審査員がどういう方式でコンペをすすめるかというコンセンサスを撮って、コンペプログラムに審査員全員がサインさせられる。責任を担って参加する。ちょっと来て一言コメント言って帰る、という立場ではない。

→(布野)そういう風土だから、プロジェクトの内容を全部わかったうえで審査に参加するということ。

→(木村)何かしら責任取らされるということはないとしても、最終的に名前と内容が残る。

→(成岡)ブリーフィングはあるが、発注条件は最初に誰が決めるのか。

→(木村)行政がたたき台を作って審査員と議論を重ねる。審査員が運営方法に関してコメントする、その合意のもとですすめるというやり方。

→(成岡)発注条件をさらに審査員が詰めて、よりよい方向の設計条件を決めたうえで空間化していく。

→(木村)設計条件というより、コンペを二段階にするなど、そこに審査員が関わる。

 

(了) 

2025年1月6日月曜日

2024年12月15日日曜日

司会:パネル・ディスカッション,布野修司,鬼頭梓,林昌二,松山巌:「前川國男のモダニズム」,東京海上火災ビル,2006年01月19日

 前川國男建築展 記念第一回シンポジウム

「前川國男をどう見るのか」 前川國男のモダニズム

鬼頭梓/林昌二/松山巌/布野修司

 

 

■前川國男とモダニズム

 

【松隈】「生誕一〇〇年・前川國男建築展」は、二〇〇五年の暮れに始まりましたが、展覧会だけで終わらせたくなかったので、会期中にシンポジウムを開催することになりました。今日は、その第一回として、「前川國男とモダニズム」というテーマを掲げました。前川國男は、ル・コルビュジエやアントニン・レーモンドからどのような考え方を学び、日本という風土の中で、何を大切にして近代建築を育て上げようとしたのか。その方法を、仮に「モダニズム」と名づけるとすると、彼にとってモダニズムとは何だったのか。それを現時点で検証しておくことが、これからの建築や都市のあり方を考えるために大切だと思いました。今日は、前川國男について詳しい方々に、幅広くお話しいただきます。それでは、司会の布野さん、よろしくお願いします。

 

【布野】前川國男については、私自身、『建築の前夜―前川國男文集』(而立書房、一九九六年)という本をまとめるときに関わりました。前川さんにも、生前に一度だけ、お会いしたことがあります。最初に口頭試問のようなことを受けまして、ドギマギしたことを憶えています。そのことも含めて、『建築の前夜』の巻頭に、「Mr.建築家」という論考を書き、サブタイトルに、「前川國男というラディカリズム」とつけました。ラディカリズムというと、急進主義でテロリストみたいですが、そこに込めたかったのは、根源的に建築を考え続けた人ということなんです。

 それにしても今回の展覧会は画期的な出来事です。これを機会に、前川國男を巡って幅広く議論がなされ、その精神が再確認されればと思います。前川さんに会った際のエピソードは、後ほど、松山さんからお願いします。それでは、まず、前川國男の下で学ばれた鬼頭さんから、口火を切っていただきたいと思います。

 

■前川國男との出会いと事務所の様子

 

【鬼頭】私は、一九五〇年に大学を卒業して前川事務所に入り、一九六四年までいました。前川さんの四十五才から五十九才までの間です。当時は、今のように建築の情報が溢れている感じではまったくなくて、ほとんど情報がないに等しかった。例えば、『新建築』は、厚さが五ミリくらいしかなく、ザラ紙でした。もっとも、載せる作品もなかった。その時代に私が知った前川さんの建築は、木造の「紀伊國屋書店」と「慶應病院」です。

当時、新宿駅東口の周辺には、闇市もあるような時代で、建物は木造のバラックばかりで、その中にポツンと「紀伊國屋書店」が建っていました。そこだけ、別天地みたいで大変感激したんです。大きな吹抜けがあって、とても明るい空間でした。「慶應病院」は、前が広くて芝生があって、二階建ての真っ白な建物で、すっきりした印象が強かった。とてもいい雰囲気でした。学生の頃、私には設計ができる能力はなさそうだから、何になろうかとだいぶ迷っていたんです。当時の大学は三年制で、三年になった頃、それでも設計がしたくなって、助教授の丹下健三さんの研究室に入りました。そこに、もう亡くなられましたが、浅田孝さんがおられて、「本気で設計を志したいのなら、前川國男のところに行くんだね」と言われて、たまたま二つの建物を知っていたので、それはいいなと思い、気楽に前川さんの所に、同級生の進来廉さんと二人で、入れてくれとお願いに行ったんです。

当時、前川事務所は目黒の自宅にありました。今、現物は、「江戸東京たてもの園」に移築保存されています。驚いたことに、三〇坪ほどの住宅が事務所になっていました。前川さんのプライベートなスペースは、前川さん夫妻の八畳の寝室とトイレ、浴室、台所だけでした。その他は全部事務所として使っていました。四谷に事務所ができるまでのほぼ十年間、そうした状態で、僕が入所したのはその中頃のことです。自宅に行って、すばらしい家だなと思いました。いよいよ入れてくれることになったとき、前川さんが、いきなり、「建築の設計という仕事は建築家一人ではできないんだ。それにはチームの力がいる。自分は今までこの事務所のチームを育てるのに苦労してきた。そして、このチームの力があるから設計ができるのであり、僕が死んでもこのチームが残っていけるようにしたいんだ。僕の事務所に来るならそのことを君も考えてくれ」と言われたのでびっくりしました。また、「君たちには、僕がやってきたような苦労をもう一度してもらいたくない、僕の苦労の上に別の苦労をしてほしい」とも言われて、これは大変なところに入ってしまった、と思いました。

 

■近代建築実現への熱気

 

【鬼頭】私が入所した頃は、前川さんにとって、初めての本格的な近代建築である「日本相互銀行本店」の設計の最中でした。前川さんは、戦前から戦中にかけて、近代建築を作りたくても、戦時制限もあってチャンスがなく、あり合わせの木造でモダニズムを追求していました。自宅も木造でした。ですから、戦後に建築制限が撤廃されて、ようやく鉄筋コンクリートや鉄骨を用いた本格的な近代建築ができるようになったとき、ともかく、事務所を構えてからずっと暖めてきたこと、やりたくてもできなかったことを、この建物で全部やろうと意気込んだのです。近代建築を成り立たせるボキャブラリーはすべて試みてみたい、という熱気が事務所全体にありました。僕もその中に入っていったのです。カーテン・ウォールでアルミ二ウムのサッシュ、純鉄骨で全溶接、しかも、実際にはそこまで実現しませんでしたが、当初の計画では、床も階段も全部プレキャスト・コンクリートでした。前川さんは、「今は大変だけれど、これができたらあとは楽になるぞ」と言っていました。ぜんぜん楽にはなりませんでしたけれどね(笑)。でも、そういって励んでいた時代です。

 

■日本相互銀行本店の失敗

 

【鬼頭】私の入所した一九五〇年は、戦争が終わって五年ですから、まだ至るところ焼け野原で、建築の技術レベルも低かった。それで、前川さんは悪戦苦闘するわけです。この「日本相互銀行本店」で、一つ失敗をします。外壁のプレキャスト・コンクリートから雨が漏ったんです。これは大変だ、ということで、前川さんは雨が降るたびに飛んで行って見ていました。私もつかまって、ある日、まだ暗いうちに起きて現場に行きました。足場からホースで外壁に水をかけると、たちどころに内側に水が入ってくる。今なら、こんな馬鹿なことをする人はいませんが、プレキャスト・コンクリートの目地が、全部モルタルで詰めてあった。当時は、目地というのは、モルタルで詰めるものだったのです。工事を請け負った清水建設も疑いを持たなかった。そこに細かなヘア・クラックができて水が入る。それを突き止めて、結局その目地を全部外して、コーキング・コンパウンドにやりかえました。当時、コーキング・コンパウンドはとても高価で、たしかアメリカ製のバルカテックスという製品を使いました。その費用を、前川さんは全部自分で支払ったのです。建築家の責任で問題が起きたのだから、補償は建築家がしなければいけない、と言って、自費で修復したのです。大きな失敗でした。

 

■技術を建築家が手にすることの意味

 

【鬼頭】その時、前川さんは、もう一つのことを発見します。建物のコーナーにバルコニーが出ていて、そこに両開きのドアがついています。その召し合わせ部分は、合わさっているだけの簡単なものです。でも、そこには空洞があるから、中には雨が入らない。前川さんはそのことに気がついたのです。そこで、外壁のジョイント部分の処理はこれでなければいけない、中に空気層を作れば雨は入らないんだ、ということを発見して、その後はそう改良していきました。

その「日本相互銀行本店」の完成直後、前川さんは、『国際建築』(一九五三年一月号)に掲載された「日本新建築の課題」という文章に、「単なる造形的興味からする絵空事ではなく、技術的な経済的な前提からの形の追求をいま身につけなかったならば、日本の新建築は永久にひとつのファッションに終始せねばならないであろう」と書いています。当時、前川さんは「テク二カル・アプローチ」というテーマを掲げていましたが、これは誤解され、技術至上主義とみなされた。

しかし、テク二カル・アプローチは、技術至上主義的な考えではなかったし、それが建築を作る主要な道筋だと考えていたとは、私には思えないのです。前川さんの真意は、近代建築は技術革新に支えられて生まれてきたのであり、それをメーカーとかサブコンとかに任せるのではなく、建築家が関与しなければいけない、それを抜きにして建築を考えてはいけないのだ、という意味だったと私は受けとっています。つまり、建築家の在り方を言われたのだと思います。

 

■プランの大切さ

 

【鬼頭】私が知っているのは十四年間だけですから、前川さんの全貌を伝えることはできませんが、僕がいた頃は、ともかくプラン(平面図)、セクション(断面図)、とりわけプランにうるさかったですね。前川さんは新しく入った者に、すぐプランをやらせるんです。新米には、ディテール(詳細図)は描けませんから。プランなら、自分の思ったように描かせられるという思惑もあったと思いますが、ともかくプランを描かせられました。そうすると、「君ね、プランというのは、間取りではないんだよ」と言われ、「間取りではないって、どういうことですか?」と聞くと、「プランというのは、空間を作ることなのだ。プランを見ただけで空間が彷彿としないようなプランは、プランではない」と言われたりしました。

また、私たちが、まず柱の列を書いてからプランを描いていると、「君、それは逆さまだ。柱は後から考えるんだ。どういうスペース(空間)がほしいかをまず考えて、それにどういうストラクチャー(構造)がいいかを考えるのが順序だぞ」と言われる。ですから、プランで時間を食ってしまう。たいていエレヴェーション(立面図)を描く頃になると、時間が足りなくなって、先輩の大高正人さんなんかは、「早くエレヴェーションを描こうよ」といつも言っていましたね。でも、エレヴェーションを描いたときには、矩計の図面がないと、また怒られてしまうのです。「このエレヴェーションは、どういう矩計になっているのか」って。少なくとも、矩計のスケッチができていて、このようにします、と言わないと、「そんなエレヴェーションをいくら描いたって、絵空事だからやめたまえ」と言われてしまう。これは、私たちだけではなくて、戦前に丹下健三さんが前川事務所にいた頃も同じだったようです。丹下さんが言っていましたが、「お前はすぐエレヴェーションを描く」と前川さんに怒られていたそうです。

戦前の話ですが、あるとき、前川さんが丹下さんと浜口隆一さんに、「前川さんは、いつもプランだ、セクションだと言うけれど、本気でそう考えているのですか? 建築ってプランとセクションでできるものではない。造形のことはどう考えているのですか?」と、だいぶ突き上げられたことがあると述懐していますが、本当にプランに執着していましたね。

 

【布野】それでは続いて、鬼頭先生の話を受けて頂いて、、林昌二さんに最初の発言をお願いします。

 

■日本相互銀行本店の衝撃

 

【林】私は、前川さんの話で出てくる立場ではないのですが、出されちゃったからしょうがない(笑)。前川さんについては、わからないことがたくさんあるのです。本当は、少しはわかりますが(笑)。

 私が建築の世界に入ったときに、ちょうど「日本相互銀行本店」ができあがります。当時、日本相互銀行本店は、圧倒的な影響力を持っていました。東京にいればなおさらです。日本相互銀行本店の一部始終は、話題になり、関心が注がれたわけです。たしかにえらいことをいろいろやっています。例えば、軽量化も大変なもので、三階までは別として、四階から上のオフィス階の重量は、平方メートルあたりわずか〇・四六トンなのです。そんな建物は、その頃はなかった。一般的には一トンを越えていましたから、その半分以下でできていた。驚異的なことでした。どうしてそうなったのかというと、床スラブが九センチしかない。普通は十二センチありました。しかも、九センチのコンクリートが軽量コンクリートを使っているのです。床スラブは、構造的には二次的なものですから、軽量コンクリートでもいいのかもしれませんが、そこまでする人はいなかった。

 

■前川國男の変節の謎

 

【林】また、カーテン・ウォールは、全体の重量に対して、それほど影響がないと思いますが、それも徹底して軽量化して、アルミ二ウムを使っている。どうしてアルミなのか。前川さんは、鉄のサッシュがお好きな方だと思っているのですが、この場合は、アルミを使って、おかげで雨が漏ってしまった。でも、雨が漏ることは、当時、いろいろなビルでもあったわけです。ニューヨークの「国連ビル」も漏りましたし、その他の高層ビルでも、だいたい漏っていました。今日のようなコーキング材はありませんでした。当時は、セメント・モルタルを左官屋が塗って、目地を作る程度で外装ができていた。そうすると、当然失敗もする。でも、失敗しても、何としてでも、工業化された建物を実現しよう、という意気込みがすごかったですね。それにみんな感心して、若い人たちは何らかのツテを頼って、何度も見に行った。今は、そういう迫力のある建築はないと思います。東京駅に近い便利な場所にあったせいもありますが、ともかくよく足を運びました。あの建物が「教科書」になった感じが強かった。その通りやってよかったかどうかは別問題ですが()、教科書的迫力を持っていた。前川國男というのは、私たちの年代にとって、そのくらい大きな存在でした。

当時は、そういう前川さんの姿勢が頭に刷り込まれていましたから、その線上で仕事を展開していかれると思って見ていたのです。しかし、その後あまりそうならない。「日本相互銀行本店」を発展させたような建築は作られなかった。それどころか、ある時を境に、傾向ががらりと変わった。特に晩年です。一番びっくりしたのは、「弘前市斎場」です。

考えてみれば、最初と最後だから、違うのは当たり前かもしれない(笑)。でも、その違いがあまりにひどい。まあ、コルビュジエだって違いますけれども。じつは、弘前は、最近見に行ったのです。たしかに、よいといえばよいのですが、同じ人がやったというのは、いかがなものかというのが、私の感想でした。弘前には、前川さんの処女作の「木村産業研究所」もありますが、これはとても面白い。初々しいと言いますか、日本相互銀行本店ほど遮二無二やっているのではなくて、普通の姿勢で取り組んでおられ、サッシュもスチールで、プロポーションやディテールに、どこかコルビュジエの雰囲気が感じられる。コルビュジエのところから帰ってきて、すぐにやった仕事だから、当然かもしれませんが、弘前にその二つの建物があることが、とても面白いと思いました。

 

【布野】さすが林さんですね、まずは、最初と最後、ケツを押さえた(笑)。「木村産業研究所」はあまり知られていなかったですね。「弘前市斎場」については、胸が痛くなる人がおられるかもしれません。前川さんが変わったという話は、もう少し前のことだと考えられていますね。MIDO後出??ミド・グループの戦後まもなくの時代の転換もありますが、普通は、打込みタイルが出てくる時代に変わったと言われますね。いきなり「弘前市斎場」となると、変わっているのは当然かもしれません。

 

■愚直な建築への姿勢

 

【林】そうですね、ちょっと行き過ぎかもしれません(笑)。前川さんは、軽量化といいますか、テク二カル・アプローチの時代から、打込みタイルを使う時代に入って、面白い開発をいろいろと試みていきますね。それには感心したんです。コンクリート打放しの外壁ではなく、その外側に焼き物を外装として使うやり方です。最初は難しいけれど、難しいことをあえてなさるのが前川さんで、そういう意味では「愚直」と言いたいですね。失礼かもしれませんが、愚直という態度で設計をなさっている。コーキング材が日本にはないので、輸入して、ご自分で費用を払ったことも、愚直そのものであり、それがプロたる者の覚悟である、という気がします。

 一方、愚直の典型として、防水にも感心しました。私たちが設計を始めてしばらくの頃、丹下健三さんと前川さんの公共建築が、交互に建つような風景が展開されるようになります。その際、前川さんは必ずアスファルト防水なのです。一方、丹下さんはセメント防水で軽々と仕上げてしまう。そうすると、防水の端部がきれいに収まる。サッと終わるんです。アスファルトですと、それを立ち上げて、押さえなければならないので、きれいに納まらない。だけど、前川さんは断固アスファルトでした。丹下さんはセメント防水でやって、たちまち漏ってしまう。僕らは、丹下さんの方がきれいに収まっていて、うらやましいので、何とかセメント防水でやりたいと思ったのですが、日建設計には、まわりにうるさい先輩が大勢いて、「冗談じゃない、屋根防水はアスファルトでなければいけない」と言われて、私も愚直にそれを守った。それで弁償しなくて済んだ()。そんな思い出もあります。

 

【布野】続いて松山さんに、日本近代における前川國男の位置について、お話いただけますか?

 

■前川國男という存在

 

【松山】大変なテーマを与えられたのですが、先ほど、布野さんから、前川さんに会ったときのことを話せと言われたので、その話から始めます。当時、布野さんと僕と宮内康さん、堀川勉さんらで、「同時代建築研究会」という会をやっていました。戦前から戦後にかけての建築思想をもう一度問い直そう、ということで、近代建築を作り続けてきた先達に話を聞くことを続けていました。例えば、山口文象さんや高山英華さんなどに会いに行って、証言を取るようなことをしていた。そうした中、前川さんにも一度だけ会う機会があったのです。そのとき、びっくりしたのですが、前川さんから、「近代建築をどう捉えるのか。そのことをはっきりしない限り、インタヴューには応じられない」と試験みたいなことを言われた。そこで、一番よくしゃべる布野さんに任せた。

布野さんは、近代というのは、セメントとか鉄骨とかガラスとか大量生産のものが出てきて、その中で建築が生まれる時代だ、というようなことをしゃべったのです。つまり、生産構造ができた上で、近代建築が生まれてきた、というようなことを、言ったのか言わされたのか、その辺がわからないのですが。前川さんは、「生産構造や下部構造がしっかりしない限り、近代建築はできないということを認識しないと君たちとは話さないよ」という感じでした。ちょっとびっくりしたのです。あの話を聞いたのが、今から三十年前ですから、「日本相互銀行本店」ができてからずいぶん経ったころです。一般的には、テクニカル・アプローチと言われる工業技術がなければ近代建築はできない、というような、社会の生産構造が上がらない限りダメだ、というニュアンスでした。後で考えると、丹下さんのような仕事を横目で見ながら言われたのかも知れませんが、造形的なものに対しては拒否をする、というニュアンスでしゃべっていたのだと思います。

当時は、大阪万博で丹下健三さんたちが頑張って、磯崎新さんが「建築の解体」と言っていた時期ですから、印象としては、ずいぶん固いなと思いましたね。でも、前川國男という人の個性を、僕は認めていた。前川さんという人がいなければ、日本の近代建築は遅れたのではないか。あるいは、前川さんの力は大きかったのではないかと思っていた。ところが、前川さんがそう言わないことにびっくりしたんです。先ほど、鬼頭さんが、「前川さんのテクノロジカル・アプローチは、建築家がいかに関わるべきか、技術にゼネコンやメーカーではなくて、建築家がもっと関わるべきだということであり、技術をそのまま重視して考えれば建築ができる、ということではなかった」と言われたので、なるほどと思いました。

それから、林さんが「日本相互銀行本店」を教科書的だと言われました。私もできてずいぶん経ってから見に行って、安っぽい建築だなあと思いました。ああいうものにどのくらいエネルギーをかけたのでしょうか。今、見ると、私と同じような感性で見る人が多いと思う。ねずみ色でポソッと建っている。いまだに使われていることにびっくりするくらいです。でも、そういうことを、前川さんは率先してやった。けっして、世の中の生産構造が充実したから歴史が動くのではなくて、前川さんがいたから動いたのではないかと思います。

 

■「公共」という教科書を作った前川國男

 

【松山】私は、前川國男は、日本近代の文化史の中でもかなりの巨人であり、思想や文学を含めて大きな人物だと思います。ただ、建築家というのはほとんど知られていない。知られていないからこそ、前川さんは、建築家の立場を確立するためにがんばった。彼の一番のすごみは、教科書を作ったこと、それも、「公共」という教科書を作ったことです。前川さんは、美術館、音楽堂、図書館、市庁舎といった公共建築をいくつも作っていますが、逆に言えば、彼が作ったがために、ありふれてしまった。でも、広場があって、それを囲んで回廊がある、そういう教科書的な文法は、前川さんがいなければ、日本には作られなかったのではないか、と思う。

私は、今から四十年前に東京藝術大学の建築科に入って、できたばかりの「東京文化会館」の二階の食堂に、チャプスイという安い食べ物を、週に一度くらいは食べに行っていました。上野には、前川さんの「東京都美術館」や「東京文化会館」の他に、師であるコルビュジエが作った「国立西洋美術館」や、戦前のコンペで前川さんと因縁のある「東京国立博物館」があります。その他、いろいろな美術館がありますが、前川さんの建築は違う。塀と門がないんです。コルビュジエの「国立西洋美術館」ですら、長い間、門扉で閉ざされていました。それに比べると、「東京文化会館」には、前庭だけでなく、場所としての広場がある。それもいくつか抜けられるようになっているから、閉じていない。単純なことですが、公共の広場という文法を、公の概念とでも言いますか、近代の中で、これだけ明快に作った人はいなかった。さらに言えば、前川さんの広場を作る方法を、みんなが真似したんです。その教科書作りをしたことが、前川さんのすごみです。それは一見、見慣れているけれども、上野の現状を見ても、実はそれだけの力がなければできなかったことだと思う。

前川さんは、最初から広場を作りたいという気持ちが強かったのではないか。戦前の「在盤谷日本文化会館コンペ応募案」は、書院造りのような大屋根を載せ、日本の伝統的な建築様式を真似したと問題視されましたが、あのプランニングは見事です。中庭と渡り廊下があって、内外の空間が伸びやかにつながっている。おそらく、前川さんは、戦前に考えたこのアイデアを、戦後になって練り上げようと努力したのではないか。林さんが、前川さんが守勢に回っていると指摘されました。それもわかるのですが、今の世の中では、ああいうやり方しか、前川さんとしては守りきれない時代に入ってしまったのではないか。後に、「東京海上ビルディング」という超高層ビルを作ってしまったのは問題ですが、私は、前川國男は、教科書、お手本を作った人として立派だと思います。

 

【布野】松山さんの話で思い出すのは、戦前と戦後の連続・非連続の問題ですね。転向の問題と言ってもいいんですが、丹下さんについても言われていることですね。せっかく水を向けていただいたので、戦前のことにも、触れたいと思います。松山さんから「在盤谷日本文化会館コン応募案」が戦後の公共建築を作る原点になっているとの発言がありましたが、鬼頭さんはどう思われますか。

 

■戦時下に育まれた建築思想

 

【鬼頭】「在盤谷日本文化会館コンペ応募案」についてのご意見には、私も賛成です。戦争中に、前川さんが激烈な文章を書いています。国粋主義的な圧力が強まる中、帝冠様式が出てきて、日本の伝統をいかに考えるか、に否が応でも応えざるを得ないところに、前川さんはいたのだと思います。それに対して近代建築を持ち込むときに、伝統と近代建築は前川さんにとって大問題で、そこできちんと伝統への対応を論破しないと、帝冠様式に負けるわけです。前川さんは、「在盤谷日本文化会館コンペ応募案」の説明書の中で、日本の建築文化をここで表現しなければいけない、日本と西洋の建築空間とはどこが違うのか、日本の建築空間は閉ざされたものではなくて、建物の内と外とが有機的につながって展開されるのが日本的な空間だ、と書いています。それが、前川さんの伝統把握だったのだと思う。戦後も、それにずっとつながっていく。「神奈川県立図書館・音楽堂」のプランもそうです。あのプランを考えているときに、前川さんは、しきりに「一筆書き」のプランを描いていました。空間がどのようにつながって、人間がどう流れていくのか、それを建築的にどう表現するのか、が一筆書きになったのだと思う。晩年の「埼玉県立博物館」の空間構成はもっと複雑になっていきますが、一連のものは、戦前から育てていったものだと思います。

 

【布野】林さん、前川さんの戦前の評価はどうなんですか。

 

【林】戦前のことはわかりません(笑)。でも、最近になると、少し変わってきたのかもしれませんが、戦後、ずっと国粋主義とか帝冠様式に対する反感が強すぎたため、日本の建築的な形態とか伝統に対しては、否定的な時代が続きました。否定し過ぎたと私は思っているのです。いまだに抜けきっていないようにも思います。やはり、戦争に負けるとひどいものですね。六十年経っても、まだ敗戦の傷が癒えない、という気がしてしょうがない。伊勢神宮とか、日本の古典的な建築の良さは、みんな知っているわけですから、それをことさら否定しようとしたのは、まずかったと思います。

話は飛びますが、今、私は、清家清の本を作っていますが、彼は、戦後、グロピウスに招かれてドイツに行って、しばらくして帰ってきて、仕事を始めるわけです。驚いたことに、清家さんから、西洋の印象とか、影響をほとんど聞いたことがないし、作品にも出ていないのです。頭の中が戦前から連続しているんですね。本当はそういうものだと思うのです。

 

【布野】清家さんの場合は、ドイツに行ったけれども、その影響がまったくなかったわけですか?

 

【林】ドイツに行って、グロピウスのところで、仕事を手伝ったり、勉強したりして、それからヨーロッパをスクーターで見て回って帰ってこられたのですが、帰ってきた後で、「いかがでしたか?」と聞いても、「う~ん、いろいろくたびれた」とか(笑)。あの人は本当のことを言わない。でも、その影響が言葉にもなっていないし、仕事にも出ていないのは、大変珍しいことではないか、と最近になって思っています。

 

【布野】前川さんと比較すれば対照的だし、ドイツといえば、山口文象とも違いますね。清家さんの場合、伝統という意味では、日本の伝統へスーッと入っていったという意味ですか?

 

【林】スーッと入っていったようにも見えますが、ずっと前から入っていた()とも言えます。

 

【布野】ヨーロッパ的な影響を受けていないで、スーッと入ってきたとすると、前川さんとは別のタイプということですね。

 

【林】前川さんとか、坂倉さんとか、外国の影響を受けている人が、日本にはとても多いですね。でも、その影響を受けずに死ぬまでやった人は、日本の原住民としては珍しい(笑)。

 

【布野】今までにない座標軸が出てきました(笑)。松山さん、いかがですか?

 

■前川國男の変わらない眼差し

 

【松山】私は、むしろ、変わるのが当たり前だと思うのです。若いときに、「東京帝室博物館コンペ応募案」でフラット・ルーフをやった人が、最後に瓦屋根をかける。不連続なのが普通だと思う。前川さんの場合は、啓蒙しようという意識が強かった人でしょう。戦前の文章を読んで一番感じるのは、そのことです。建築家で文章を書ける人は珍しい。どういう内容かというと、呼びかけている文章です。連帯しましょう、君らも一緒にやろうよ、とほとんどアジテーションに近い。

前川さんが、建築家になりたいとどのように思ったのか、詳しくは知りません。でも、前川さんには、ヨーロッパ型の自立した個人主義、そういう人間像をこれからの日本は作らなければいけないという自覚があった気がします。その一番の証が、建築家という職能へのこだわりだと思う。建築家イコール自立した個人、という意識が、彼の中にはありましたね。だからこそ、建築家はプロフェッションとして、仕事をしながら、きちんと報酬をもらい、レクリエーションも勉強もする人にならなければダメだ、と何度も繰り返して言うわけです。彼には、近代日本人の在り方として、自立した人間を日本は作るべきだ、という使命感がものすごく強かったと思う。その点は、丹下さんと比較するとわりやすい。

丹下さんは、「群集」で考える人だった。「広島ピースセンター」以来、大衆というか、ワーッとお祭りのように集まるか、整然と並んでいるか、一九七〇年大阪万博で、お祭り広場の大屋根の下に、無定形に動くマスのような群集を想定していた人です。でも、前川さんは、思索する「個人」を考えていますね。だから、丹下さんのように、集まってお祭りをするような広場のあり方は、絶対にイメージしません。何か憩って考えている人が、そぞろ歩いているような広場です。普段見ると、少しさびしいのかも知れないけれど、そういう個人を中心において、建築を考えていた。そして、そのことを、床タイルから壁、ストリート・ファーニチャー、照明器具、そういうものすべての文法を作りながら考えようとした。そこが、前川さんのすごみだと思う。それが、今の大衆社会のようなもの、高度資本主義といってもいいのかもしれませんが、そうした流れが出てきたときに、前川さんとしては、時代とずれてしまった、という意識があったのだと思う。だから、逆に、晩年の作品に見られるように、中庭のような「小さな場所」を守ろうとしたのではないか。

 先ほど、林さんが、「テク二カル・アプローチ」に触れて、戦後、前川さんは、技術的なものを指導していかなければならないと思ったのだろう、と言われました。おそらく、それは、「日本相互銀行本店」で実現したのだと思います。当時は、コルビュジエから受け継いだ、透明な空間を作ろうと本気で考えていたのだと思う。ところが、焼き物の打込みタイルの建物、例えば、「東京海上ビルディング」を見ると、はっきりとわかりますが、超高層ビルで、全面ガラス貼りのミース・ファン・デル・ローエみたいなものを、彼は、違うな、と直感的に思ったのではないでしょうか。人間をマスで並べて、ツルンとした表情がないような建物に収容することに、自分としては納得ができない。それは、人間に対する正しい考え方ではない、と思ったに違いない。ですから、前川さんは、人間への眼差しという点では少しも変わっていない。逆に、だからこそ、建築の姿は変わっていったのだ、と思うんです。

 

【布野】八束はじめさんが、『思想としての日本近代建築』(岩波書店,二〇〇五年)という本で、前川さんの戦時中に触れていて、前川はファシストだ、とはっきり書いています。八束さんは、私に論争しましょう、と言ってきてるんですが、何で私なんでしょう。最近の京都大学の修士論文で、前川國男の書いた「覚書」が、京都学派そっくりだという指摘がなされています。ここへきて、再び、戦前への関心が巡ってきていると思います。大切な視点です。

 

■近代建築は「人間のための建築」になり得るのか?

 

【布野】先ほどの松山さんの位置づけで、なるほどと思ったのですが、前川國男が公共建築の教科書を作ったとすると、前川さんにとって、近代というのは、松山さん流に言うと、止揚されてしまったわけですね。要するにできてしまった。それが、ある意味で、現在の日本の空間、風景になってしまったとも言えますね。一方、鬼頭さんの言われた「テク二カル・アプローチ」の延長上では、あるいは、建築家の職能確立という目指してきた線の上では、「未完」ではないのか。建築家というプロフェッションの自立について未成という思いで前川さんは亡くなられたのではないか。鬼頭さんはどう思われますか?

 

【鬼頭】前川さんは、当初は、本気で近代建築は人間の幸福を約束する、と思い込んでいた、そう思いたいと願っていた。その最後の作品が、「神奈川県立図書館・音楽堂」だと思います。あそこまでは迷いがなかった。でも、それからだんだん近代建築に迷い始めた。こんなことも言っていました。コンクリートと金属とガラスは、優れたものだと思っていたけれど、コンクリートは風化する、クラックが入る、どんどん汚くなってくる、アルミ二ウムは火事に合ったら熔けてしまうし、頼りない。近代建築は、人間の存在から離れていってしまうのではないか、近代建築の本質は、金持ちのためではなくて、普通の人々の生活を支えることにあったのではないか」。 

 「人間のための建築」が、前川さんには大きな課題で、それが、近代建築では怪しくなっていって、その中で苦しみ抜いて、どこか不可解な建物も作っていったのだと思います。   私たちが仕事をしていた頃は、「建物には、マントを着せなければいけない」と言っていましたね。「建物は、裸ではダメだ、打放しコンクリートのままではダメなんだ。耐久力もないし、何を着せるのかが問題だ」と、しきりに言っていました。その上に着せる物として、焼き物にたどり着いたのだと思う。そして、晩年になると、「人間は、はかない存在だから、建築に永遠性を求める」と言っている。近代建築は人間の建築だ、という気持ちから始めた前川さんだからこそ、最後まで、模索してもがいていた、という気がします。

 

【布野】林さん、その話を受けてもらえますか?

 

■前川國男の自己否定の意味

 

【林】「神奈川県立図書館・音楽堂」までは、真正面に明るく進んでこられた、という意見には同感です。その後、ちょっと暗くなっていく。わからないのは、その理由なんです。世の中、思うようにいかないものだ、ということかもしれないけれど、その心境の変化に興味があります。晩年になると、前川さんは、パーキンソン氏病という、難しい病にかかって、体を壊されますね。そういう前兆が、いつ頃からあったのかは知りませんが、体の調子が悪くなると、仕事も変わります。そうなったら、どうしても、それまでの自分を否定するようになる。多くの作家がそうかもしれませんが、変わるだけではなく、自己否定が出てくるのが、少し辛い思いがします。

 

【布野】私たちの世代に、衝撃的だったのは、「今、最もラディカルな建築家は、何も作らない建築家だ」という前川さんの言葉です。一九六〇年代末から七〇年にかけての発言です。自己否定と言われたので思い出しました。打込みタイルは、六〇年代における、一つの転機というか迷いというか、課題だった。そして、七〇年代冒頭に、「作らない」という言葉が出される。林さんもよくご存知だと思いますが、どんな心境だったのでしょう。

 

【林】でも、作る人間としては、言うべきではなかったですね。作らなければいい()。にもかかわらず、作るから、それまでと違うものができてくる。マントという話も、私にはわからなかった。裸の打放しコンクリートでは所詮ダメだと考えられて、もう一枚外に衣を着なければいけない、ということになったのかもしれませんが、それが焼き物になるというのが理解できない。今は、みんなガラスを貼って済ましていますが、ガラスでなくても、金属でも、初心に戻れば「日本相互銀行本店」のアルミでもいいわけです。どうして、鈍重な焼き物という、日本的なものを外に貼るような心境に変わったのか、本当は知りたい。でも知りたくない(笑)。

 

【鬼頭】前川さんは、焼き物が好きだったんです。「神奈川県立図書館・音楽堂」の図書館の日差しよけも焼き物ですし、ことあるごとに、庇の先端だとかに、焼き物を試みていました。焼き物を使うと、コンクリートは収縮しても、焼き物は収縮しないから、焼き物が落下する失敗も起きます。でも、焼き物は好きでしたが、タイル貼りは嫌いでしたね。タイルで貼りめぐらせた建物を見ると、気持ちが悪いと言っていました。レーモンド事務所時代に、タイルを団子貼りして、裏に水が入ってそれが悪さをしてしまうから、タイルを貼ってもコンクリートが思うようにならない。ペタッと貼ればいいというのはよくない。タイル貼りは反対だったけれど、焼き物は好きだったと思いますね。

 

■日本の近代建築は未完だったのか?

 

【布野】松山さん、今回の展覧会を見ても、前川さんは、愚直なぐらい一貫していますね。そして、その方法が一般化していったときに、前川さんは、丹下さんと主役の交代みたいなことになっていきますね。そのあたりの位置づけというか、彼にとって近代建築とは未完だったのか、迷ったのか。前川國男の遺したものという点についてはいかがですか?

 

【松山】近代は、あらゆるものがコピーされる世紀です。前川さんは、公共建築というもので「教科書」を作ったがゆえに、そのまがい物、コピーが次々に出てきてしまった。前川さん風のものを作れば、市民に供することができる、というような定説ができあがるわけです。前川さん自身も、そのようにやろうとしていた。でも、それができたときに、例えば、広場があって、渡り廊下があって、図書館があって美術館がある、箱物行政みたいなものに陥ってしまった。それこそ、一九七〇年前後に、明治一〇〇年に合わせて、そのようなものが出てきてしまった。前川さんが作った定型をやれば、一応は、Aランチ、Bランチというようなものになっていく。そういう事態に、前川さんは困ってしまったのではないか。ある意味で、自分が扇動したことなのかもしれないけれど、同じようなものがドンドンできてくる。時には、ポストモダン風になる。前川さんも、アーチをやって表情をつけ始める。それだけ豊かになったのでしょうが、外皮をつければ、耐久性だけではなくて、外側から見ると、生姜焼き定食に海老フライがついている。そういう感じもしないではない()

 

■三菱一号館のこと

 

【松山】話は違うのですが、松隈さんに、このシンポジウムで話すように依頼されたときに、なぜ私がふさわしいのですか、と聞いたんです。私は、前川さんをそれほど知っているわけではないですから。そうしたら、二〇〇五年一月の丸ビルでのシンポジウムの話を持ち出されたのです。そのシンポジウムの話をしてもいいですか?

鈴木博之さんが司会で、パネラーが、私を含めて五、六人、コンドル「三菱一号館」を復元することについてのシンポジウムだったのです。私だけが反対した。なぜかと言いますと、そこに来た歴史家の人、ランド・スケープの人、三菱地所の人、東京都の人、全部が、取り壊された明治時代の煉瓦の様式建築を復元するから良いのではないか、という話しかしないのです。ところが、その話は、その街区の中の半分だけで、後の半分は超高層なのです。実は、東京都が、復元すれば容積を上げる、という法律を作ってしまったのです。さらにひどいことに、東京駅の周辺には、現在、戦前のオフィスビルの典型は、「東京中央郵便局」と「八重洲ビル」しか残っていないのですが、その「八重洲ビル」をわざわざ壊して、コンドルのレプリカを作ろうという計画なのです。レプリカを作ると、五階分くらいの容積が割り増しされるからです。

 

■「東京海上ビルディング」と前川國男の孤独

 

【松山】前川さんが「東京海上ビルディング」を作ったときに、こう言っている。「構造的に問題があると言われるが、それはない。環境を壊すようなことはない。交通量も増えない。交通量が増えないのは当たり前で、それまでの高さ制限が容積率に変わったのだから、広場を六割にして公開空地をとれば、高層でも容積が変わらない。だから、交通量も増えない。環境も公開空地に緑ができるのだから、むしろよくなる」と。そういう論理で説明しているのです。さらに、「アメリカの摩天楼に対するコンプレックスではない。都心で問題になっているハウジングを作ったらどうか」とも言っています。

残念ながら、前川さんが亡くなって二十年経って、話は逆転している。どういうことかというと、その頃は、容積率は一〇〇〇%でしたが、今や一三〇〇%に上がりました。さらに、公開空地を作ると、ボーナスが付いて容積率が上がり、保存したり、レプリカを作ると、さらに高く作ることができる。高く作ると、人も物も増えますから、交通量は違いますよ。いろんな制度が変わって、汐留の汐サイトなど、もともと四〇〇%だったところを、一二〇〇%に上げてしまった。これはひどい話ですよ。つまり、そういう問題が、「東京海上ビルディング」以降に、出てきてしまった。

前川さんは、「東京帝室博物館」のコンペのときに、誰に向かって、自分が今、言葉を使って伝えられるのか悩んだと思う。同じように、そのときも誰も賛成しないのです。そんな馬鹿なことをどうしてやるのか。ひどい話ですよ。三菱地所は、土地を持っているから、一街区ごとに超高層が建ちます。今後、大手町、有楽町あたりに、九十八棟も建つんです。汐サイトなど問題ではない。でも、そういうことを言っても伝わらない。非常に困った時代に入ったなと思いましたね。

それが、前川さんにしてみれば、自分もやってしまったと。後で「巨大なものは胸につかえるね」と書いています。よくわかるんです。オフィスならともかく、超高層マンションがどんどん建っていますが、前川さんはよく知っていますよ、ヨーロッパに超高層マンションなどありません。ホテルくらいです。「東京海上ビルディング」は、前川さんにとって、失敗だったのではないか。もし、前川さんが生きていたら、今回の動きに絶対反対してくれると思います。

 

■土に戻るような壁の建築を求めて

 

【松山】だから、私は、そういう時代に入ったときに、前川さんとしては、焼き物のタイルが本当に良いかどうかはわかりませんが、何も使わない空地を作ろう、という思想に戻ってしまったのではないかと思う。その中で、土に戻るような壁を作っておいて、その中に開いた中庭のような場所を作っておこう、という地点まで戻ってしまった。だから、林さんに言わせると、ずいぶん反動的に戻っている気がするだろうと思うのです。でも、せめて、そういうことしかできないのではないか、と前川さんは考えた。それで、もう作らないほうがいい、というような発言になってしまったのではないか。あれだけ責任をとって先導をしてきた人だからこそ、自分のやってきたことが一人歩きをして、違った方向に行ってしまったことに対して、考えざるを得なかったのだと思います。

 

【布野】今度の展覧会では、「時間の中で成熟する都市環境の試み」という視点から、最後のブースで、前川さんの未完に終わった計画のスケッチが展示されています。そこには、前川さんの問いかけを現代へとつなげたいという主催者の願いも込められていると思います。今の松山さんの話を受けて、林さん、前川國男が遺したものについてはいかがですか?

 

■建築家という職能確立への努力

 

【林】先ほどのお話で、超高層にしたことではなく、敷地の中での建物の作り方について、中庭を作ったり、アプローチをいろいろ工夫したり、その巧みな外部空間のデザインは、前川さんの残した大きな功績の一つだと思います。

さらに、ひと言つけ加えたいのですが、前川さんは、MIDOという組織を作って、建築家はどういうかたちで仕事をしていくべきか、と大変苦労をして、いろいろな試みをされました。しかし、それは未完に終わったのではないか、と思います。というのも、プロフェッショナル・コーポレーション、というような組織形態を残してほしかったからです。もちろん、前川さんに誰かが頼んだわけではないですが、そういう方向に、一歩でも踏み出してほしかった。

例えば、坂倉さんも、同時代にいろいろ工夫をしておられるけれど、あの方は、事務所を株式会社にはしなくて、個人の事務所としてがんばった。それはそれで見事ですが、やはり、両方とも極端で、今、会計監査法人とか、職能に応じた法人形態を作っている世界がいくつもある中で、建築家の世界は、それを作れずに今日まで来ていて、おかげでいろいろまずいことが起きている。「前川さんでなくて、お前やれ」と言われると、反論の余地もないのですが、前川さんの時代に、一歩でも踏み出しておいていただいたら、今日、実現していたのでないかと思います。それはとても残念なことです。

 

【布野】プロフェッショナル・コーポレーションとは、どんなものなのですか?

 

【林】これを話すと長くなりますが、私は、株式会社というのは、設計事務所にはまったく関係のない組織形態だと思うのです。ですから、資本金がいらない。もちろん、利益はある程度出さなければいけないのですが、利益のための組織ではなくて、プロフェッショナルな仕事をやっていくために人間が集まって仕事をする、という法人形態のことですね。

 

【布野】日本建築家協会の会長をやられた鬼頭さん、そのあたりを含めて、お話し下さい。

 

【鬼頭】前川さんは、それを志して、自分の事務所で実現したいと思っていたのですが、林さんが言われるように、その前川さんでも難しい。特に、自分の事務所でやろうとしたので、よけいに難しかったのかもしれません。事務所の中では雇用関係がある一方、一緒に仕事をやっていく仲間という関係もあって、それがうまく重ならない。基本的に矛盾しているところもあるので、事務所の組織形態が新しい形になかなかならない。たぶん、アメリカでやっているパートナー・シップについても、ずいぶん考えていたようです。私が前川事務所に入るときの話は先ほどしましたが、辞めた後、何度も事務所の中に委員会を作って、どのような組織にしたらよいかを議論していました。その度に犠牲者が出て(笑)。でも、前川さんは「うん」とは言わずじまいでしたね。

 

【布野】林さん、「やってほしかった」ではなく、「自分がやる」でいいのではないですか?

 

【林】そうですね(笑)。それで、身近なところでは似たことを試みたのです。日建設計は株式会社になっていますが、株主は社外にはいないんです。社員が株を持っている。株式会社という公共的な法人形態としては、良くないことかもしれませんが、外に変な株主が出て、この頃のように買い取られては大変だから、やらなくてよかった(笑)。持ち株会のようなものを作りまして、社員がみんな株主で運営している形態が今日でもできるのですが、人に言っても関心を示してくれないし、宣伝のしようもないですから、きちんと公に法人形態を作らなければいけない。これからの課題だと思います。

 

■前川國男展をどう見るか

 

【布野】今の日本建築家協会はどうなのでしょうか? この間の耐震偽装問題で、会長の小倉善明さんが、銀座でビラを配っていました。「自分たち建築家と、今回の問題を起こした建築士は違います」という内容のビラです。本当にそれで良いのかどうか、疑問ですね。前川さんなら、けっしてそうは言わなかったはずです。

 それでは、最後に一言ずつ、今回の前川國男展を、若い人にどう見てほしいか、をお話いただけますか。

 

【鬼頭】どう見てほしいって、よく見てほしい(笑)。展覧会には作品が出ていますが、松山さんも言われたように、同じく会場に展示されている前川さんの文章がすごいんですよ。若い方には、ちょっとわかりにくいとは思いますが、ぜひ読んでほしいですね。

 

【布野】私は、「バラックを作る人はバラックを作りながら全環境に目を注げ」という言葉が一番好きです。

 

【鬼頭】『建築の前夜』が、文集としては一番充実しています。会場でよく見てよく読んで、もういっぺん文集も読んでいただくといいな、と思っています。

 

【松山】今、耐震偽装問題が騒がれていますが、そうした事件が起きた中で、展覧会をきちんと見てほしい。世の中はコンピュータを動かすと儲かる仕組みになっていますが、建築という実体を伴ったモノを作ることがどれほど面白いことか、責任はありますが、それをぜひ感じ取ってほしいですね。

「モラル」という言葉の意味を勘違いして、「法律を守ればモラルだ」、などという馬鹿なことを言う人がいますが、とんでもないことです。モラルが一番なくなるのは戦争のときです。当たり前ですが、戦争になれば、法律も教育も人を殺せというのです。そういう時代の中で、彼はデザインの自由がなくなるからと、日本的な屋根だけでなく、いろいろなデザインがあることを主張したのです。そうした深く考え抜かれたものが実感の中で育てられて生きていく。建築とは、本来そういうものです。でも、先のことなど考えず、とりあえず作ってしまえばいい、ということで、今の建築や都市の末期的な状態がある。前川國男は、そういうことと一番遠いところで考え続けた人です。それを読み取ってほしいと思います。

 

【林】前川國男について、もう一つ、記憶に残ったことがありました。前川さんが作った建築は安物というかバラックだと言った人がいました。私もずっとそう思っているのです。「日本相互銀行本店」などは、今にして思えば、安物ですね。しかし、当時はそれどころではなくて、とても贅沢な感じを我々は持った。それだけ、世の中が変わって贅沢になったのです。でも、贅沢になった意味は何なのだろうか、とこの頃ずっと考えさせられています。贅沢になる意味はあるのかないのか。建築というのは安物ではいけないのか。むしろ安ものだっていいではないか。ものがなくて、お金がなくて、非常に貧しい状態で作ったものに、とても貴重なものがあるぞ、ということを、今日は最後に言っておきたいと思います。

 

【布野】今日は、みなさんには迷惑だったかもしれませんが、自分自身が楽しむつもりで司会をしました。充分楽しみました。これで、シンポジウムを終わらせていただきます。

 

【松隈】パネラーの方々が、舞台裏を見せるような形でお話しされたので、かえって前川國男についての視点が広がり、次の機会につなげていける印象をもちました。

私自身は、前川國男は、現在の建築や都市のあり方を考える上での大切な手がかり、「ものさし」を残してくれた人だと思います。それを共有することによっていろんなものが見えてくる。そのために展覧会を組み立てたつもりです。会場では、そうした点も見てほしいと思います。


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...