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2024年12月15日日曜日

司会:パネル・ディスカッション,布野修司,鬼頭梓,林昌二,松山巌:「前川國男のモダニズム」,東京海上火災ビル,2006年01月19日

 前川國男建築展 記念第一回シンポジウム

「前川國男をどう見るのか」 前川國男のモダニズム

鬼頭梓/林昌二/松山巌/布野修司

 

 

■前川國男とモダニズム

 

【松隈】「生誕一〇〇年・前川國男建築展」は、二〇〇五年の暮れに始まりましたが、展覧会だけで終わらせたくなかったので、会期中にシンポジウムを開催することになりました。今日は、その第一回として、「前川國男とモダニズム」というテーマを掲げました。前川國男は、ル・コルビュジエやアントニン・レーモンドからどのような考え方を学び、日本という風土の中で、何を大切にして近代建築を育て上げようとしたのか。その方法を、仮に「モダニズム」と名づけるとすると、彼にとってモダニズムとは何だったのか。それを現時点で検証しておくことが、これからの建築や都市のあり方を考えるために大切だと思いました。今日は、前川國男について詳しい方々に、幅広くお話しいただきます。それでは、司会の布野さん、よろしくお願いします。

 

【布野】前川國男については、私自身、『建築の前夜―前川國男文集』(而立書房、一九九六年)という本をまとめるときに関わりました。前川さんにも、生前に一度だけ、お会いしたことがあります。最初に口頭試問のようなことを受けまして、ドギマギしたことを憶えています。そのことも含めて、『建築の前夜』の巻頭に、「Mr.建築家」という論考を書き、サブタイトルに、「前川國男というラディカリズム」とつけました。ラディカリズムというと、急進主義でテロリストみたいですが、そこに込めたかったのは、根源的に建築を考え続けた人ということなんです。

 それにしても今回の展覧会は画期的な出来事です。これを機会に、前川國男を巡って幅広く議論がなされ、その精神が再確認されればと思います。前川さんに会った際のエピソードは、後ほど、松山さんからお願いします。それでは、まず、前川國男の下で学ばれた鬼頭さんから、口火を切っていただきたいと思います。

 

■前川國男との出会いと事務所の様子

 

【鬼頭】私は、一九五〇年に大学を卒業して前川事務所に入り、一九六四年までいました。前川さんの四十五才から五十九才までの間です。当時は、今のように建築の情報が溢れている感じではまったくなくて、ほとんど情報がないに等しかった。例えば、『新建築』は、厚さが五ミリくらいしかなく、ザラ紙でした。もっとも、載せる作品もなかった。その時代に私が知った前川さんの建築は、木造の「紀伊國屋書店」と「慶應病院」です。

当時、新宿駅東口の周辺には、闇市もあるような時代で、建物は木造のバラックばかりで、その中にポツンと「紀伊國屋書店」が建っていました。そこだけ、別天地みたいで大変感激したんです。大きな吹抜けがあって、とても明るい空間でした。「慶應病院」は、前が広くて芝生があって、二階建ての真っ白な建物で、すっきりした印象が強かった。とてもいい雰囲気でした。学生の頃、私には設計ができる能力はなさそうだから、何になろうかとだいぶ迷っていたんです。当時の大学は三年制で、三年になった頃、それでも設計がしたくなって、助教授の丹下健三さんの研究室に入りました。そこに、もう亡くなられましたが、浅田孝さんがおられて、「本気で設計を志したいのなら、前川國男のところに行くんだね」と言われて、たまたま二つの建物を知っていたので、それはいいなと思い、気楽に前川さんの所に、同級生の進来廉さんと二人で、入れてくれとお願いに行ったんです。

当時、前川事務所は目黒の自宅にありました。今、現物は、「江戸東京たてもの園」に移築保存されています。驚いたことに、三〇坪ほどの住宅が事務所になっていました。前川さんのプライベートなスペースは、前川さん夫妻の八畳の寝室とトイレ、浴室、台所だけでした。その他は全部事務所として使っていました。四谷に事務所ができるまでのほぼ十年間、そうした状態で、僕が入所したのはその中頃のことです。自宅に行って、すばらしい家だなと思いました。いよいよ入れてくれることになったとき、前川さんが、いきなり、「建築の設計という仕事は建築家一人ではできないんだ。それにはチームの力がいる。自分は今までこの事務所のチームを育てるのに苦労してきた。そして、このチームの力があるから設計ができるのであり、僕が死んでもこのチームが残っていけるようにしたいんだ。僕の事務所に来るならそのことを君も考えてくれ」と言われたのでびっくりしました。また、「君たちには、僕がやってきたような苦労をもう一度してもらいたくない、僕の苦労の上に別の苦労をしてほしい」とも言われて、これは大変なところに入ってしまった、と思いました。

 

■近代建築実現への熱気

 

【鬼頭】私が入所した頃は、前川さんにとって、初めての本格的な近代建築である「日本相互銀行本店」の設計の最中でした。前川さんは、戦前から戦中にかけて、近代建築を作りたくても、戦時制限もあってチャンスがなく、あり合わせの木造でモダニズムを追求していました。自宅も木造でした。ですから、戦後に建築制限が撤廃されて、ようやく鉄筋コンクリートや鉄骨を用いた本格的な近代建築ができるようになったとき、ともかく、事務所を構えてからずっと暖めてきたこと、やりたくてもできなかったことを、この建物で全部やろうと意気込んだのです。近代建築を成り立たせるボキャブラリーはすべて試みてみたい、という熱気が事務所全体にありました。僕もその中に入っていったのです。カーテン・ウォールでアルミ二ウムのサッシュ、純鉄骨で全溶接、しかも、実際にはそこまで実現しませんでしたが、当初の計画では、床も階段も全部プレキャスト・コンクリートでした。前川さんは、「今は大変だけれど、これができたらあとは楽になるぞ」と言っていました。ぜんぜん楽にはなりませんでしたけれどね(笑)。でも、そういって励んでいた時代です。

 

■日本相互銀行本店の失敗

 

【鬼頭】私の入所した一九五〇年は、戦争が終わって五年ですから、まだ至るところ焼け野原で、建築の技術レベルも低かった。それで、前川さんは悪戦苦闘するわけです。この「日本相互銀行本店」で、一つ失敗をします。外壁のプレキャスト・コンクリートから雨が漏ったんです。これは大変だ、ということで、前川さんは雨が降るたびに飛んで行って見ていました。私もつかまって、ある日、まだ暗いうちに起きて現場に行きました。足場からホースで外壁に水をかけると、たちどころに内側に水が入ってくる。今なら、こんな馬鹿なことをする人はいませんが、プレキャスト・コンクリートの目地が、全部モルタルで詰めてあった。当時は、目地というのは、モルタルで詰めるものだったのです。工事を請け負った清水建設も疑いを持たなかった。そこに細かなヘア・クラックができて水が入る。それを突き止めて、結局その目地を全部外して、コーキング・コンパウンドにやりかえました。当時、コーキング・コンパウンドはとても高価で、たしかアメリカ製のバルカテックスという製品を使いました。その費用を、前川さんは全部自分で支払ったのです。建築家の責任で問題が起きたのだから、補償は建築家がしなければいけない、と言って、自費で修復したのです。大きな失敗でした。

 

■技術を建築家が手にすることの意味

 

【鬼頭】その時、前川さんは、もう一つのことを発見します。建物のコーナーにバルコニーが出ていて、そこに両開きのドアがついています。その召し合わせ部分は、合わさっているだけの簡単なものです。でも、そこには空洞があるから、中には雨が入らない。前川さんはそのことに気がついたのです。そこで、外壁のジョイント部分の処理はこれでなければいけない、中に空気層を作れば雨は入らないんだ、ということを発見して、その後はそう改良していきました。

その「日本相互銀行本店」の完成直後、前川さんは、『国際建築』(一九五三年一月号)に掲載された「日本新建築の課題」という文章に、「単なる造形的興味からする絵空事ではなく、技術的な経済的な前提からの形の追求をいま身につけなかったならば、日本の新建築は永久にひとつのファッションに終始せねばならないであろう」と書いています。当時、前川さんは「テク二カル・アプローチ」というテーマを掲げていましたが、これは誤解され、技術至上主義とみなされた。

しかし、テク二カル・アプローチは、技術至上主義的な考えではなかったし、それが建築を作る主要な道筋だと考えていたとは、私には思えないのです。前川さんの真意は、近代建築は技術革新に支えられて生まれてきたのであり、それをメーカーとかサブコンとかに任せるのではなく、建築家が関与しなければいけない、それを抜きにして建築を考えてはいけないのだ、という意味だったと私は受けとっています。つまり、建築家の在り方を言われたのだと思います。

 

■プランの大切さ

 

【鬼頭】私が知っているのは十四年間だけですから、前川さんの全貌を伝えることはできませんが、僕がいた頃は、ともかくプラン(平面図)、セクション(断面図)、とりわけプランにうるさかったですね。前川さんは新しく入った者に、すぐプランをやらせるんです。新米には、ディテール(詳細図)は描けませんから。プランなら、自分の思ったように描かせられるという思惑もあったと思いますが、ともかくプランを描かせられました。そうすると、「君ね、プランというのは、間取りではないんだよ」と言われ、「間取りではないって、どういうことですか?」と聞くと、「プランというのは、空間を作ることなのだ。プランを見ただけで空間が彷彿としないようなプランは、プランではない」と言われたりしました。

また、私たちが、まず柱の列を書いてからプランを描いていると、「君、それは逆さまだ。柱は後から考えるんだ。どういうスペース(空間)がほしいかをまず考えて、それにどういうストラクチャー(構造)がいいかを考えるのが順序だぞ」と言われる。ですから、プランで時間を食ってしまう。たいていエレヴェーション(立面図)を描く頃になると、時間が足りなくなって、先輩の大高正人さんなんかは、「早くエレヴェーションを描こうよ」といつも言っていましたね。でも、エレヴェーションを描いたときには、矩計の図面がないと、また怒られてしまうのです。「このエレヴェーションは、どういう矩計になっているのか」って。少なくとも、矩計のスケッチができていて、このようにします、と言わないと、「そんなエレヴェーションをいくら描いたって、絵空事だからやめたまえ」と言われてしまう。これは、私たちだけではなくて、戦前に丹下健三さんが前川事務所にいた頃も同じだったようです。丹下さんが言っていましたが、「お前はすぐエレヴェーションを描く」と前川さんに怒られていたそうです。

戦前の話ですが、あるとき、前川さんが丹下さんと浜口隆一さんに、「前川さんは、いつもプランだ、セクションだと言うけれど、本気でそう考えているのですか? 建築ってプランとセクションでできるものではない。造形のことはどう考えているのですか?」と、だいぶ突き上げられたことがあると述懐していますが、本当にプランに執着していましたね。

 

【布野】それでは続いて、鬼頭先生の話を受けて頂いて、、林昌二さんに最初の発言をお願いします。

 

■日本相互銀行本店の衝撃

 

【林】私は、前川さんの話で出てくる立場ではないのですが、出されちゃったからしょうがない(笑)。前川さんについては、わからないことがたくさんあるのです。本当は、少しはわかりますが(笑)。

 私が建築の世界に入ったときに、ちょうど「日本相互銀行本店」ができあがります。当時、日本相互銀行本店は、圧倒的な影響力を持っていました。東京にいればなおさらです。日本相互銀行本店の一部始終は、話題になり、関心が注がれたわけです。たしかにえらいことをいろいろやっています。例えば、軽量化も大変なもので、三階までは別として、四階から上のオフィス階の重量は、平方メートルあたりわずか〇・四六トンなのです。そんな建物は、その頃はなかった。一般的には一トンを越えていましたから、その半分以下でできていた。驚異的なことでした。どうしてそうなったのかというと、床スラブが九センチしかない。普通は十二センチありました。しかも、九センチのコンクリートが軽量コンクリートを使っているのです。床スラブは、構造的には二次的なものですから、軽量コンクリートでもいいのかもしれませんが、そこまでする人はいなかった。

 

■前川國男の変節の謎

 

【林】また、カーテン・ウォールは、全体の重量に対して、それほど影響がないと思いますが、それも徹底して軽量化して、アルミ二ウムを使っている。どうしてアルミなのか。前川さんは、鉄のサッシュがお好きな方だと思っているのですが、この場合は、アルミを使って、おかげで雨が漏ってしまった。でも、雨が漏ることは、当時、いろいろなビルでもあったわけです。ニューヨークの「国連ビル」も漏りましたし、その他の高層ビルでも、だいたい漏っていました。今日のようなコーキング材はありませんでした。当時は、セメント・モルタルを左官屋が塗って、目地を作る程度で外装ができていた。そうすると、当然失敗もする。でも、失敗しても、何としてでも、工業化された建物を実現しよう、という意気込みがすごかったですね。それにみんな感心して、若い人たちは何らかのツテを頼って、何度も見に行った。今は、そういう迫力のある建築はないと思います。東京駅に近い便利な場所にあったせいもありますが、ともかくよく足を運びました。あの建物が「教科書」になった感じが強かった。その通りやってよかったかどうかは別問題ですが()、教科書的迫力を持っていた。前川國男というのは、私たちの年代にとって、そのくらい大きな存在でした。

当時は、そういう前川さんの姿勢が頭に刷り込まれていましたから、その線上で仕事を展開していかれると思って見ていたのです。しかし、その後あまりそうならない。「日本相互銀行本店」を発展させたような建築は作られなかった。それどころか、ある時を境に、傾向ががらりと変わった。特に晩年です。一番びっくりしたのは、「弘前市斎場」です。

考えてみれば、最初と最後だから、違うのは当たり前かもしれない(笑)。でも、その違いがあまりにひどい。まあ、コルビュジエだって違いますけれども。じつは、弘前は、最近見に行ったのです。たしかに、よいといえばよいのですが、同じ人がやったというのは、いかがなものかというのが、私の感想でした。弘前には、前川さんの処女作の「木村産業研究所」もありますが、これはとても面白い。初々しいと言いますか、日本相互銀行本店ほど遮二無二やっているのではなくて、普通の姿勢で取り組んでおられ、サッシュもスチールで、プロポーションやディテールに、どこかコルビュジエの雰囲気が感じられる。コルビュジエのところから帰ってきて、すぐにやった仕事だから、当然かもしれませんが、弘前にその二つの建物があることが、とても面白いと思いました。

 

【布野】さすが林さんですね、まずは、最初と最後、ケツを押さえた(笑)。「木村産業研究所」はあまり知られていなかったですね。「弘前市斎場」については、胸が痛くなる人がおられるかもしれません。前川さんが変わったという話は、もう少し前のことだと考えられていますね。MIDO後出??ミド・グループの戦後まもなくの時代の転換もありますが、普通は、打込みタイルが出てくる時代に変わったと言われますね。いきなり「弘前市斎場」となると、変わっているのは当然かもしれません。

 

■愚直な建築への姿勢

 

【林】そうですね、ちょっと行き過ぎかもしれません(笑)。前川さんは、軽量化といいますか、テク二カル・アプローチの時代から、打込みタイルを使う時代に入って、面白い開発をいろいろと試みていきますね。それには感心したんです。コンクリート打放しの外壁ではなく、その外側に焼き物を外装として使うやり方です。最初は難しいけれど、難しいことをあえてなさるのが前川さんで、そういう意味では「愚直」と言いたいですね。失礼かもしれませんが、愚直という態度で設計をなさっている。コーキング材が日本にはないので、輸入して、ご自分で費用を払ったことも、愚直そのものであり、それがプロたる者の覚悟である、という気がします。

 一方、愚直の典型として、防水にも感心しました。私たちが設計を始めてしばらくの頃、丹下健三さんと前川さんの公共建築が、交互に建つような風景が展開されるようになります。その際、前川さんは必ずアスファルト防水なのです。一方、丹下さんはセメント防水で軽々と仕上げてしまう。そうすると、防水の端部がきれいに収まる。サッと終わるんです。アスファルトですと、それを立ち上げて、押さえなければならないので、きれいに納まらない。だけど、前川さんは断固アスファルトでした。丹下さんはセメント防水でやって、たちまち漏ってしまう。僕らは、丹下さんの方がきれいに収まっていて、うらやましいので、何とかセメント防水でやりたいと思ったのですが、日建設計には、まわりにうるさい先輩が大勢いて、「冗談じゃない、屋根防水はアスファルトでなければいけない」と言われて、私も愚直にそれを守った。それで弁償しなくて済んだ()。そんな思い出もあります。

 

【布野】続いて松山さんに、日本近代における前川國男の位置について、お話いただけますか?

 

■前川國男という存在

 

【松山】大変なテーマを与えられたのですが、先ほど、布野さんから、前川さんに会ったときのことを話せと言われたので、その話から始めます。当時、布野さんと僕と宮内康さん、堀川勉さんらで、「同時代建築研究会」という会をやっていました。戦前から戦後にかけての建築思想をもう一度問い直そう、ということで、近代建築を作り続けてきた先達に話を聞くことを続けていました。例えば、山口文象さんや高山英華さんなどに会いに行って、証言を取るようなことをしていた。そうした中、前川さんにも一度だけ会う機会があったのです。そのとき、びっくりしたのですが、前川さんから、「近代建築をどう捉えるのか。そのことをはっきりしない限り、インタヴューには応じられない」と試験みたいなことを言われた。そこで、一番よくしゃべる布野さんに任せた。

布野さんは、近代というのは、セメントとか鉄骨とかガラスとか大量生産のものが出てきて、その中で建築が生まれる時代だ、というようなことをしゃべったのです。つまり、生産構造ができた上で、近代建築が生まれてきた、というようなことを、言ったのか言わされたのか、その辺がわからないのですが。前川さんは、「生産構造や下部構造がしっかりしない限り、近代建築はできないということを認識しないと君たちとは話さないよ」という感じでした。ちょっとびっくりしたのです。あの話を聞いたのが、今から三十年前ですから、「日本相互銀行本店」ができてからずいぶん経ったころです。一般的には、テクニカル・アプローチと言われる工業技術がなければ近代建築はできない、というような、社会の生産構造が上がらない限りダメだ、というニュアンスでした。後で考えると、丹下さんのような仕事を横目で見ながら言われたのかも知れませんが、造形的なものに対しては拒否をする、というニュアンスでしゃべっていたのだと思います。

当時は、大阪万博で丹下健三さんたちが頑張って、磯崎新さんが「建築の解体」と言っていた時期ですから、印象としては、ずいぶん固いなと思いましたね。でも、前川國男という人の個性を、僕は認めていた。前川さんという人がいなければ、日本の近代建築は遅れたのではないか。あるいは、前川さんの力は大きかったのではないかと思っていた。ところが、前川さんがそう言わないことにびっくりしたんです。先ほど、鬼頭さんが、「前川さんのテクノロジカル・アプローチは、建築家がいかに関わるべきか、技術にゼネコンやメーカーではなくて、建築家がもっと関わるべきだということであり、技術をそのまま重視して考えれば建築ができる、ということではなかった」と言われたので、なるほどと思いました。

それから、林さんが「日本相互銀行本店」を教科書的だと言われました。私もできてずいぶん経ってから見に行って、安っぽい建築だなあと思いました。ああいうものにどのくらいエネルギーをかけたのでしょうか。今、見ると、私と同じような感性で見る人が多いと思う。ねずみ色でポソッと建っている。いまだに使われていることにびっくりするくらいです。でも、そういうことを、前川さんは率先してやった。けっして、世の中の生産構造が充実したから歴史が動くのではなくて、前川さんがいたから動いたのではないかと思います。

 

■「公共」という教科書を作った前川國男

 

【松山】私は、前川國男は、日本近代の文化史の中でもかなりの巨人であり、思想や文学を含めて大きな人物だと思います。ただ、建築家というのはほとんど知られていない。知られていないからこそ、前川さんは、建築家の立場を確立するためにがんばった。彼の一番のすごみは、教科書を作ったこと、それも、「公共」という教科書を作ったことです。前川さんは、美術館、音楽堂、図書館、市庁舎といった公共建築をいくつも作っていますが、逆に言えば、彼が作ったがために、ありふれてしまった。でも、広場があって、それを囲んで回廊がある、そういう教科書的な文法は、前川さんがいなければ、日本には作られなかったのではないか、と思う。

私は、今から四十年前に東京藝術大学の建築科に入って、できたばかりの「東京文化会館」の二階の食堂に、チャプスイという安い食べ物を、週に一度くらいは食べに行っていました。上野には、前川さんの「東京都美術館」や「東京文化会館」の他に、師であるコルビュジエが作った「国立西洋美術館」や、戦前のコンペで前川さんと因縁のある「東京国立博物館」があります。その他、いろいろな美術館がありますが、前川さんの建築は違う。塀と門がないんです。コルビュジエの「国立西洋美術館」ですら、長い間、門扉で閉ざされていました。それに比べると、「東京文化会館」には、前庭だけでなく、場所としての広場がある。それもいくつか抜けられるようになっているから、閉じていない。単純なことですが、公共の広場という文法を、公の概念とでも言いますか、近代の中で、これだけ明快に作った人はいなかった。さらに言えば、前川さんの広場を作る方法を、みんなが真似したんです。その教科書作りをしたことが、前川さんのすごみです。それは一見、見慣れているけれども、上野の現状を見ても、実はそれだけの力がなければできなかったことだと思う。

前川さんは、最初から広場を作りたいという気持ちが強かったのではないか。戦前の「在盤谷日本文化会館コンペ応募案」は、書院造りのような大屋根を載せ、日本の伝統的な建築様式を真似したと問題視されましたが、あのプランニングは見事です。中庭と渡り廊下があって、内外の空間が伸びやかにつながっている。おそらく、前川さんは、戦前に考えたこのアイデアを、戦後になって練り上げようと努力したのではないか。林さんが、前川さんが守勢に回っていると指摘されました。それもわかるのですが、今の世の中では、ああいうやり方しか、前川さんとしては守りきれない時代に入ってしまったのではないか。後に、「東京海上ビルディング」という超高層ビルを作ってしまったのは問題ですが、私は、前川國男は、教科書、お手本を作った人として立派だと思います。

 

【布野】松山さんの話で思い出すのは、戦前と戦後の連続・非連続の問題ですね。転向の問題と言ってもいいんですが、丹下さんについても言われていることですね。せっかく水を向けていただいたので、戦前のことにも、触れたいと思います。松山さんから「在盤谷日本文化会館コン応募案」が戦後の公共建築を作る原点になっているとの発言がありましたが、鬼頭さんはどう思われますか。

 

■戦時下に育まれた建築思想

 

【鬼頭】「在盤谷日本文化会館コンペ応募案」についてのご意見には、私も賛成です。戦争中に、前川さんが激烈な文章を書いています。国粋主義的な圧力が強まる中、帝冠様式が出てきて、日本の伝統をいかに考えるか、に否が応でも応えざるを得ないところに、前川さんはいたのだと思います。それに対して近代建築を持ち込むときに、伝統と近代建築は前川さんにとって大問題で、そこできちんと伝統への対応を論破しないと、帝冠様式に負けるわけです。前川さんは、「在盤谷日本文化会館コンペ応募案」の説明書の中で、日本の建築文化をここで表現しなければいけない、日本と西洋の建築空間とはどこが違うのか、日本の建築空間は閉ざされたものではなくて、建物の内と外とが有機的につながって展開されるのが日本的な空間だ、と書いています。それが、前川さんの伝統把握だったのだと思う。戦後も、それにずっとつながっていく。「神奈川県立図書館・音楽堂」のプランもそうです。あのプランを考えているときに、前川さんは、しきりに「一筆書き」のプランを描いていました。空間がどのようにつながって、人間がどう流れていくのか、それを建築的にどう表現するのか、が一筆書きになったのだと思う。晩年の「埼玉県立博物館」の空間構成はもっと複雑になっていきますが、一連のものは、戦前から育てていったものだと思います。

 

【布野】林さん、前川さんの戦前の評価はどうなんですか。

 

【林】戦前のことはわかりません(笑)。でも、最近になると、少し変わってきたのかもしれませんが、戦後、ずっと国粋主義とか帝冠様式に対する反感が強すぎたため、日本の建築的な形態とか伝統に対しては、否定的な時代が続きました。否定し過ぎたと私は思っているのです。いまだに抜けきっていないようにも思います。やはり、戦争に負けるとひどいものですね。六十年経っても、まだ敗戦の傷が癒えない、という気がしてしょうがない。伊勢神宮とか、日本の古典的な建築の良さは、みんな知っているわけですから、それをことさら否定しようとしたのは、まずかったと思います。

話は飛びますが、今、私は、清家清の本を作っていますが、彼は、戦後、グロピウスに招かれてドイツに行って、しばらくして帰ってきて、仕事を始めるわけです。驚いたことに、清家さんから、西洋の印象とか、影響をほとんど聞いたことがないし、作品にも出ていないのです。頭の中が戦前から連続しているんですね。本当はそういうものだと思うのです。

 

【布野】清家さんの場合は、ドイツに行ったけれども、その影響がまったくなかったわけですか?

 

【林】ドイツに行って、グロピウスのところで、仕事を手伝ったり、勉強したりして、それからヨーロッパをスクーターで見て回って帰ってこられたのですが、帰ってきた後で、「いかがでしたか?」と聞いても、「う~ん、いろいろくたびれた」とか(笑)。あの人は本当のことを言わない。でも、その影響が言葉にもなっていないし、仕事にも出ていないのは、大変珍しいことではないか、と最近になって思っています。

 

【布野】前川さんと比較すれば対照的だし、ドイツといえば、山口文象とも違いますね。清家さんの場合、伝統という意味では、日本の伝統へスーッと入っていったという意味ですか?

 

【林】スーッと入っていったようにも見えますが、ずっと前から入っていた()とも言えます。

 

【布野】ヨーロッパ的な影響を受けていないで、スーッと入ってきたとすると、前川さんとは別のタイプということですね。

 

【林】前川さんとか、坂倉さんとか、外国の影響を受けている人が、日本にはとても多いですね。でも、その影響を受けずに死ぬまでやった人は、日本の原住民としては珍しい(笑)。

 

【布野】今までにない座標軸が出てきました(笑)。松山さん、いかがですか?

 

■前川國男の変わらない眼差し

 

【松山】私は、むしろ、変わるのが当たり前だと思うのです。若いときに、「東京帝室博物館コンペ応募案」でフラット・ルーフをやった人が、最後に瓦屋根をかける。不連続なのが普通だと思う。前川さんの場合は、啓蒙しようという意識が強かった人でしょう。戦前の文章を読んで一番感じるのは、そのことです。建築家で文章を書ける人は珍しい。どういう内容かというと、呼びかけている文章です。連帯しましょう、君らも一緒にやろうよ、とほとんどアジテーションに近い。

前川さんが、建築家になりたいとどのように思ったのか、詳しくは知りません。でも、前川さんには、ヨーロッパ型の自立した個人主義、そういう人間像をこれからの日本は作らなければいけないという自覚があった気がします。その一番の証が、建築家という職能へのこだわりだと思う。建築家イコール自立した個人、という意識が、彼の中にはありましたね。だからこそ、建築家はプロフェッションとして、仕事をしながら、きちんと報酬をもらい、レクリエーションも勉強もする人にならなければダメだ、と何度も繰り返して言うわけです。彼には、近代日本人の在り方として、自立した人間を日本は作るべきだ、という使命感がものすごく強かったと思う。その点は、丹下さんと比較するとわりやすい。

丹下さんは、「群集」で考える人だった。「広島ピースセンター」以来、大衆というか、ワーッとお祭りのように集まるか、整然と並んでいるか、一九七〇年大阪万博で、お祭り広場の大屋根の下に、無定形に動くマスのような群集を想定していた人です。でも、前川さんは、思索する「個人」を考えていますね。だから、丹下さんのように、集まってお祭りをするような広場のあり方は、絶対にイメージしません。何か憩って考えている人が、そぞろ歩いているような広場です。普段見ると、少しさびしいのかも知れないけれど、そういう個人を中心において、建築を考えていた。そして、そのことを、床タイルから壁、ストリート・ファーニチャー、照明器具、そういうものすべての文法を作りながら考えようとした。そこが、前川さんのすごみだと思う。それが、今の大衆社会のようなもの、高度資本主義といってもいいのかもしれませんが、そうした流れが出てきたときに、前川さんとしては、時代とずれてしまった、という意識があったのだと思う。だから、逆に、晩年の作品に見られるように、中庭のような「小さな場所」を守ろうとしたのではないか。

 先ほど、林さんが、「テク二カル・アプローチ」に触れて、戦後、前川さんは、技術的なものを指導していかなければならないと思ったのだろう、と言われました。おそらく、それは、「日本相互銀行本店」で実現したのだと思います。当時は、コルビュジエから受け継いだ、透明な空間を作ろうと本気で考えていたのだと思う。ところが、焼き物の打込みタイルの建物、例えば、「東京海上ビルディング」を見ると、はっきりとわかりますが、超高層ビルで、全面ガラス貼りのミース・ファン・デル・ローエみたいなものを、彼は、違うな、と直感的に思ったのではないでしょうか。人間をマスで並べて、ツルンとした表情がないような建物に収容することに、自分としては納得ができない。それは、人間に対する正しい考え方ではない、と思ったに違いない。ですから、前川さんは、人間への眼差しという点では少しも変わっていない。逆に、だからこそ、建築の姿は変わっていったのだ、と思うんです。

 

【布野】八束はじめさんが、『思想としての日本近代建築』(岩波書店,二〇〇五年)という本で、前川さんの戦時中に触れていて、前川はファシストだ、とはっきり書いています。八束さんは、私に論争しましょう、と言ってきてるんですが、何で私なんでしょう。最近の京都大学の修士論文で、前川國男の書いた「覚書」が、京都学派そっくりだという指摘がなされています。ここへきて、再び、戦前への関心が巡ってきていると思います。大切な視点です。

 

■近代建築は「人間のための建築」になり得るのか?

 

【布野】先ほどの松山さんの位置づけで、なるほどと思ったのですが、前川國男が公共建築の教科書を作ったとすると、前川さんにとって、近代というのは、松山さん流に言うと、止揚されてしまったわけですね。要するにできてしまった。それが、ある意味で、現在の日本の空間、風景になってしまったとも言えますね。一方、鬼頭さんの言われた「テク二カル・アプローチ」の延長上では、あるいは、建築家の職能確立という目指してきた線の上では、「未完」ではないのか。建築家というプロフェッションの自立について未成という思いで前川さんは亡くなられたのではないか。鬼頭さんはどう思われますか?

 

【鬼頭】前川さんは、当初は、本気で近代建築は人間の幸福を約束する、と思い込んでいた、そう思いたいと願っていた。その最後の作品が、「神奈川県立図書館・音楽堂」だと思います。あそこまでは迷いがなかった。でも、それからだんだん近代建築に迷い始めた。こんなことも言っていました。コンクリートと金属とガラスは、優れたものだと思っていたけれど、コンクリートは風化する、クラックが入る、どんどん汚くなってくる、アルミ二ウムは火事に合ったら熔けてしまうし、頼りない。近代建築は、人間の存在から離れていってしまうのではないか、近代建築の本質は、金持ちのためではなくて、普通の人々の生活を支えることにあったのではないか」。 

 「人間のための建築」が、前川さんには大きな課題で、それが、近代建築では怪しくなっていって、その中で苦しみ抜いて、どこか不可解な建物も作っていったのだと思います。   私たちが仕事をしていた頃は、「建物には、マントを着せなければいけない」と言っていましたね。「建物は、裸ではダメだ、打放しコンクリートのままではダメなんだ。耐久力もないし、何を着せるのかが問題だ」と、しきりに言っていました。その上に着せる物として、焼き物にたどり着いたのだと思う。そして、晩年になると、「人間は、はかない存在だから、建築に永遠性を求める」と言っている。近代建築は人間の建築だ、という気持ちから始めた前川さんだからこそ、最後まで、模索してもがいていた、という気がします。

 

【布野】林さん、その話を受けてもらえますか?

 

■前川國男の自己否定の意味

 

【林】「神奈川県立図書館・音楽堂」までは、真正面に明るく進んでこられた、という意見には同感です。その後、ちょっと暗くなっていく。わからないのは、その理由なんです。世の中、思うようにいかないものだ、ということかもしれないけれど、その心境の変化に興味があります。晩年になると、前川さんは、パーキンソン氏病という、難しい病にかかって、体を壊されますね。そういう前兆が、いつ頃からあったのかは知りませんが、体の調子が悪くなると、仕事も変わります。そうなったら、どうしても、それまでの自分を否定するようになる。多くの作家がそうかもしれませんが、変わるだけではなく、自己否定が出てくるのが、少し辛い思いがします。

 

【布野】私たちの世代に、衝撃的だったのは、「今、最もラディカルな建築家は、何も作らない建築家だ」という前川さんの言葉です。一九六〇年代末から七〇年にかけての発言です。自己否定と言われたので思い出しました。打込みタイルは、六〇年代における、一つの転機というか迷いというか、課題だった。そして、七〇年代冒頭に、「作らない」という言葉が出される。林さんもよくご存知だと思いますが、どんな心境だったのでしょう。

 

【林】でも、作る人間としては、言うべきではなかったですね。作らなければいい()。にもかかわらず、作るから、それまでと違うものができてくる。マントという話も、私にはわからなかった。裸の打放しコンクリートでは所詮ダメだと考えられて、もう一枚外に衣を着なければいけない、ということになったのかもしれませんが、それが焼き物になるというのが理解できない。今は、みんなガラスを貼って済ましていますが、ガラスでなくても、金属でも、初心に戻れば「日本相互銀行本店」のアルミでもいいわけです。どうして、鈍重な焼き物という、日本的なものを外に貼るような心境に変わったのか、本当は知りたい。でも知りたくない(笑)。

 

【鬼頭】前川さんは、焼き物が好きだったんです。「神奈川県立図書館・音楽堂」の図書館の日差しよけも焼き物ですし、ことあるごとに、庇の先端だとかに、焼き物を試みていました。焼き物を使うと、コンクリートは収縮しても、焼き物は収縮しないから、焼き物が落下する失敗も起きます。でも、焼き物は好きでしたが、タイル貼りは嫌いでしたね。タイルで貼りめぐらせた建物を見ると、気持ちが悪いと言っていました。レーモンド事務所時代に、タイルを団子貼りして、裏に水が入ってそれが悪さをしてしまうから、タイルを貼ってもコンクリートが思うようにならない。ペタッと貼ればいいというのはよくない。タイル貼りは反対だったけれど、焼き物は好きだったと思いますね。

 

■日本の近代建築は未完だったのか?

 

【布野】松山さん、今回の展覧会を見ても、前川さんは、愚直なぐらい一貫していますね。そして、その方法が一般化していったときに、前川さんは、丹下さんと主役の交代みたいなことになっていきますね。そのあたりの位置づけというか、彼にとって近代建築とは未完だったのか、迷ったのか。前川國男の遺したものという点についてはいかがですか?

 

【松山】近代は、あらゆるものがコピーされる世紀です。前川さんは、公共建築というもので「教科書」を作ったがゆえに、そのまがい物、コピーが次々に出てきてしまった。前川さん風のものを作れば、市民に供することができる、というような定説ができあがるわけです。前川さん自身も、そのようにやろうとしていた。でも、それができたときに、例えば、広場があって、渡り廊下があって、図書館があって美術館がある、箱物行政みたいなものに陥ってしまった。それこそ、一九七〇年前後に、明治一〇〇年に合わせて、そのようなものが出てきてしまった。前川さんが作った定型をやれば、一応は、Aランチ、Bランチというようなものになっていく。そういう事態に、前川さんは困ってしまったのではないか。ある意味で、自分が扇動したことなのかもしれないけれど、同じようなものがドンドンできてくる。時には、ポストモダン風になる。前川さんも、アーチをやって表情をつけ始める。それだけ豊かになったのでしょうが、外皮をつければ、耐久性だけではなくて、外側から見ると、生姜焼き定食に海老フライがついている。そういう感じもしないではない()

 

■三菱一号館のこと

 

【松山】話は違うのですが、松隈さんに、このシンポジウムで話すように依頼されたときに、なぜ私がふさわしいのですか、と聞いたんです。私は、前川さんをそれほど知っているわけではないですから。そうしたら、二〇〇五年一月の丸ビルでのシンポジウムの話を持ち出されたのです。そのシンポジウムの話をしてもいいですか?

鈴木博之さんが司会で、パネラーが、私を含めて五、六人、コンドル「三菱一号館」を復元することについてのシンポジウムだったのです。私だけが反対した。なぜかと言いますと、そこに来た歴史家の人、ランド・スケープの人、三菱地所の人、東京都の人、全部が、取り壊された明治時代の煉瓦の様式建築を復元するから良いのではないか、という話しかしないのです。ところが、その話は、その街区の中の半分だけで、後の半分は超高層なのです。実は、東京都が、復元すれば容積を上げる、という法律を作ってしまったのです。さらにひどいことに、東京駅の周辺には、現在、戦前のオフィスビルの典型は、「東京中央郵便局」と「八重洲ビル」しか残っていないのですが、その「八重洲ビル」をわざわざ壊して、コンドルのレプリカを作ろうという計画なのです。レプリカを作ると、五階分くらいの容積が割り増しされるからです。

 

■「東京海上ビルディング」と前川國男の孤独

 

【松山】前川さんが「東京海上ビルディング」を作ったときに、こう言っている。「構造的に問題があると言われるが、それはない。環境を壊すようなことはない。交通量も増えない。交通量が増えないのは当たり前で、それまでの高さ制限が容積率に変わったのだから、広場を六割にして公開空地をとれば、高層でも容積が変わらない。だから、交通量も増えない。環境も公開空地に緑ができるのだから、むしろよくなる」と。そういう論理で説明しているのです。さらに、「アメリカの摩天楼に対するコンプレックスではない。都心で問題になっているハウジングを作ったらどうか」とも言っています。

残念ながら、前川さんが亡くなって二十年経って、話は逆転している。どういうことかというと、その頃は、容積率は一〇〇〇%でしたが、今や一三〇〇%に上がりました。さらに、公開空地を作ると、ボーナスが付いて容積率が上がり、保存したり、レプリカを作ると、さらに高く作ることができる。高く作ると、人も物も増えますから、交通量は違いますよ。いろんな制度が変わって、汐留の汐サイトなど、もともと四〇〇%だったところを、一二〇〇%に上げてしまった。これはひどい話ですよ。つまり、そういう問題が、「東京海上ビルディング」以降に、出てきてしまった。

前川さんは、「東京帝室博物館」のコンペのときに、誰に向かって、自分が今、言葉を使って伝えられるのか悩んだと思う。同じように、そのときも誰も賛成しないのです。そんな馬鹿なことをどうしてやるのか。ひどい話ですよ。三菱地所は、土地を持っているから、一街区ごとに超高層が建ちます。今後、大手町、有楽町あたりに、九十八棟も建つんです。汐サイトなど問題ではない。でも、そういうことを言っても伝わらない。非常に困った時代に入ったなと思いましたね。

それが、前川さんにしてみれば、自分もやってしまったと。後で「巨大なものは胸につかえるね」と書いています。よくわかるんです。オフィスならともかく、超高層マンションがどんどん建っていますが、前川さんはよく知っていますよ、ヨーロッパに超高層マンションなどありません。ホテルくらいです。「東京海上ビルディング」は、前川さんにとって、失敗だったのではないか。もし、前川さんが生きていたら、今回の動きに絶対反対してくれると思います。

 

■土に戻るような壁の建築を求めて

 

【松山】だから、私は、そういう時代に入ったときに、前川さんとしては、焼き物のタイルが本当に良いかどうかはわかりませんが、何も使わない空地を作ろう、という思想に戻ってしまったのではないかと思う。その中で、土に戻るような壁を作っておいて、その中に開いた中庭のような場所を作っておこう、という地点まで戻ってしまった。だから、林さんに言わせると、ずいぶん反動的に戻っている気がするだろうと思うのです。でも、せめて、そういうことしかできないのではないか、と前川さんは考えた。それで、もう作らないほうがいい、というような発言になってしまったのではないか。あれだけ責任をとって先導をしてきた人だからこそ、自分のやってきたことが一人歩きをして、違った方向に行ってしまったことに対して、考えざるを得なかったのだと思います。

 

【布野】今度の展覧会では、「時間の中で成熟する都市環境の試み」という視点から、最後のブースで、前川さんの未完に終わった計画のスケッチが展示されています。そこには、前川さんの問いかけを現代へとつなげたいという主催者の願いも込められていると思います。今の松山さんの話を受けて、林さん、前川國男が遺したものについてはいかがですか?

 

■建築家という職能確立への努力

 

【林】先ほどのお話で、超高層にしたことではなく、敷地の中での建物の作り方について、中庭を作ったり、アプローチをいろいろ工夫したり、その巧みな外部空間のデザインは、前川さんの残した大きな功績の一つだと思います。

さらに、ひと言つけ加えたいのですが、前川さんは、MIDOという組織を作って、建築家はどういうかたちで仕事をしていくべきか、と大変苦労をして、いろいろな試みをされました。しかし、それは未完に終わったのではないか、と思います。というのも、プロフェッショナル・コーポレーション、というような組織形態を残してほしかったからです。もちろん、前川さんに誰かが頼んだわけではないですが、そういう方向に、一歩でも踏み出してほしかった。

例えば、坂倉さんも、同時代にいろいろ工夫をしておられるけれど、あの方は、事務所を株式会社にはしなくて、個人の事務所としてがんばった。それはそれで見事ですが、やはり、両方とも極端で、今、会計監査法人とか、職能に応じた法人形態を作っている世界がいくつもある中で、建築家の世界は、それを作れずに今日まで来ていて、おかげでいろいろまずいことが起きている。「前川さんでなくて、お前やれ」と言われると、反論の余地もないのですが、前川さんの時代に、一歩でも踏み出しておいていただいたら、今日、実現していたのでないかと思います。それはとても残念なことです。

 

【布野】プロフェッショナル・コーポレーションとは、どんなものなのですか?

 

【林】これを話すと長くなりますが、私は、株式会社というのは、設計事務所にはまったく関係のない組織形態だと思うのです。ですから、資本金がいらない。もちろん、利益はある程度出さなければいけないのですが、利益のための組織ではなくて、プロフェッショナルな仕事をやっていくために人間が集まって仕事をする、という法人形態のことですね。

 

【布野】日本建築家協会の会長をやられた鬼頭さん、そのあたりを含めて、お話し下さい。

 

【鬼頭】前川さんは、それを志して、自分の事務所で実現したいと思っていたのですが、林さんが言われるように、その前川さんでも難しい。特に、自分の事務所でやろうとしたので、よけいに難しかったのかもしれません。事務所の中では雇用関係がある一方、一緒に仕事をやっていく仲間という関係もあって、それがうまく重ならない。基本的に矛盾しているところもあるので、事務所の組織形態が新しい形になかなかならない。たぶん、アメリカでやっているパートナー・シップについても、ずいぶん考えていたようです。私が前川事務所に入るときの話は先ほどしましたが、辞めた後、何度も事務所の中に委員会を作って、どのような組織にしたらよいかを議論していました。その度に犠牲者が出て(笑)。でも、前川さんは「うん」とは言わずじまいでしたね。

 

【布野】林さん、「やってほしかった」ではなく、「自分がやる」でいいのではないですか?

 

【林】そうですね(笑)。それで、身近なところでは似たことを試みたのです。日建設計は株式会社になっていますが、株主は社外にはいないんです。社員が株を持っている。株式会社という公共的な法人形態としては、良くないことかもしれませんが、外に変な株主が出て、この頃のように買い取られては大変だから、やらなくてよかった(笑)。持ち株会のようなものを作りまして、社員がみんな株主で運営している形態が今日でもできるのですが、人に言っても関心を示してくれないし、宣伝のしようもないですから、きちんと公に法人形態を作らなければいけない。これからの課題だと思います。

 

■前川國男展をどう見るか

 

【布野】今の日本建築家協会はどうなのでしょうか? この間の耐震偽装問題で、会長の小倉善明さんが、銀座でビラを配っていました。「自分たち建築家と、今回の問題を起こした建築士は違います」という内容のビラです。本当にそれで良いのかどうか、疑問ですね。前川さんなら、けっしてそうは言わなかったはずです。

 それでは、最後に一言ずつ、今回の前川國男展を、若い人にどう見てほしいか、をお話いただけますか。

 

【鬼頭】どう見てほしいって、よく見てほしい(笑)。展覧会には作品が出ていますが、松山さんも言われたように、同じく会場に展示されている前川さんの文章がすごいんですよ。若い方には、ちょっとわかりにくいとは思いますが、ぜひ読んでほしいですね。

 

【布野】私は、「バラックを作る人はバラックを作りながら全環境に目を注げ」という言葉が一番好きです。

 

【鬼頭】『建築の前夜』が、文集としては一番充実しています。会場でよく見てよく読んで、もういっぺん文集も読んでいただくといいな、と思っています。

 

【松山】今、耐震偽装問題が騒がれていますが、そうした事件が起きた中で、展覧会をきちんと見てほしい。世の中はコンピュータを動かすと儲かる仕組みになっていますが、建築という実体を伴ったモノを作ることがどれほど面白いことか、責任はありますが、それをぜひ感じ取ってほしいですね。

「モラル」という言葉の意味を勘違いして、「法律を守ればモラルだ」、などという馬鹿なことを言う人がいますが、とんでもないことです。モラルが一番なくなるのは戦争のときです。当たり前ですが、戦争になれば、法律も教育も人を殺せというのです。そういう時代の中で、彼はデザインの自由がなくなるからと、日本的な屋根だけでなく、いろいろなデザインがあることを主張したのです。そうした深く考え抜かれたものが実感の中で育てられて生きていく。建築とは、本来そういうものです。でも、先のことなど考えず、とりあえず作ってしまえばいい、ということで、今の建築や都市の末期的な状態がある。前川國男は、そういうことと一番遠いところで考え続けた人です。それを読み取ってほしいと思います。

 

【林】前川國男について、もう一つ、記憶に残ったことがありました。前川さんが作った建築は安物というかバラックだと言った人がいました。私もずっとそう思っているのです。「日本相互銀行本店」などは、今にして思えば、安物ですね。しかし、当時はそれどころではなくて、とても贅沢な感じを我々は持った。それだけ、世の中が変わって贅沢になったのです。でも、贅沢になった意味は何なのだろうか、とこの頃ずっと考えさせられています。贅沢になる意味はあるのかないのか。建築というのは安物ではいけないのか。むしろ安ものだっていいではないか。ものがなくて、お金がなくて、非常に貧しい状態で作ったものに、とても貴重なものがあるぞ、ということを、今日は最後に言っておきたいと思います。

 

【布野】今日は、みなさんには迷惑だったかもしれませんが、自分自身が楽しむつもりで司会をしました。充分楽しみました。これで、シンポジウムを終わらせていただきます。

 

【松隈】パネラーの方々が、舞台裏を見せるような形でお話しされたので、かえって前川國男についての視点が広がり、次の機会につなげていける印象をもちました。

私自身は、前川國男は、現在の建築や都市のあり方を考える上での大切な手がかり、「ものさし」を残してくれた人だと思います。それを共有することによっていろんなものが見えてくる。そのために展覧会を組み立てたつもりです。会場では、そうした点も見てほしいと思います。


2024年12月8日日曜日

エースが何人も欲しい 久米設計の元気の秘密,大阪インタビュー、日刊建設工業新聞,19990118

 エースが何人も欲しい  久米設計の元気の秘密,大阪インタビュー、日刊建設工業新聞,19990118


 布野 先日本社でいろいろお聞きして、僕自身も楽しかったのですが、僕に対して、久米設計が非常に元気だ、その元気の秘密を探ってくれというのがぶっちゃけた話でして、それは組織の総合力ということで、大手設計事務所の中でも大変元気がよろしいということなんですよ。

 それで冒頭に、この間東京でもお聞きしたのですが、それぞれお三方に、久米設計とはということを最初に一言ずつお聞きしたい。

 小笠 業界の中ではいつも雄であっていかないといかんという前提で、リーディングカンパニーではないですが、そういう気持ちを持ってやっていかないといかんなと。先ほどのお話の「元気」という言葉にも関連すると思うのですが、リーダーシップ的に持っていくような会社でなければいけない。それが久米設計の第一要素、条件ではないか。それが久米設計だと(笑い)。

 上出 僕が入ったときは30年ぐらい前ですが、そのときは大変若い組織だという印象がありました。

 布野 そのときは権九郎先生は。

  上出 私のときはもういらっしゃらなかったですね。

 小笠 私ぐらいでしょうね、一緒にやりましたのは。

 上出 ちょうどいまの半分ぐらいの人数だったと思うのですが、私は西麻布のときに入ったのですが、本当に若いという印象があって、そういう意味で活気がある。いまはかなり組織化されている面もあって、仕事としてはしやすい組織じゃないかという印象があります。

 竹田 希望的なあれも入るのですが、個人の顔が見える組織体であってほしい。そういう可能性としてはあるのじゃないかと思います。

 布野 本社でお聞きしたときには、イシムラ副社長だと思いますが、久米権九郎先生のことにも伝統ということで触れられたのですが、お若い2人は入られるときに、久米先生について何かイメージをお持ちで入られたのですか。

 上出 久米先生については、大震災の後にヨーロッパに行かれて、久米式耐震壁とかを開発されて、技術的なことに造詣が深い先生でいらっしゃるということと、ドイツのハウジングを学んで来られたので、それでやられたということは入ってすぐ後ぐらいにわかったのです。

 当初入ったときに、私はもともと北海道でございまして、むしろ久米設計の代表作が北海道に集中していたという印象を持ったということで、もうそのときは組織事務所という感覚でございましたので、そういう印象で入ったということですね。久米先生のことはその後に少し教わったということで覚えております。

 竹田 私も正直申しまして入社後間接的に聞きました。ただ知識としては、日本近代建築史の中で特に辰野の関係とかでチラッと読んだことがある程度(笑)。

 布野 この間東京で聞いたときは、ヒラタさんだったかな、どこでもよかったと(笑い)、正直におっしゃってました。

 たとえばキャッチコピーはどうかとか、社是はないかとか、いろいろお聞きしたのですが、「個を生かす組織」ということで、皆さんがおっしゃって、ボワッと何となくわかってきたような気もしたのですけども。

 今日は主に組織のあり方とか、仕事の仕方の中に久米式というものがあるのじゃないかということで、特に支社、あるいは地域と本社というか、全体みたいなところをお聞きしたいのです。ざっと仕事の流れとか支社の位置づけをお聞かせいただけますか。

 小笠 東京と大阪といいますのは、地域的に、私は生まれも育ちも大阪なんですが、どうしても関西の人間は対抗意識的なものがあるのですね。その中で、大阪が設計できるのは大阪で処理をやっていこうという気持ちはいまだに持っている。本当はいけない、組織であれば、むしろ連携をとっていかないといけないことはあるのですが、半面そういう気持ちもまたあるのですね。やはり支社ですので、蓄積が少ない、実績も少ない、そういうときには本社の情報網を利用して資料提供、あるいはまた専門部署が先行してますので、そういうところと相談してやっていく。

 一般的な建物は大体大阪で処理できる。いまは病院もできるようになってきましたので、そのあたりは十分できるということで大阪は動いておるような状態なんです。

 布野 ざっと陣容は何名ぐらいですか。

 小笠 全体では710ぐらいですか。大阪は46人なんです、現場も全部含めまして。

 布野 そのうち設計は。

 上出 意匠・設計としては16人ぐらいです。

 小笠 あと構造、整備、積算、管理部門。本社部門を圧縮したような感じですね。

 布野 そうすると支社といっても他の支社とはちょっと違うわけですね。

  上出  支社の中では、セクション的には充実しています。

 布野 先ほど病院もやれるようになったとおっしゃいましたが、病院についてはスペシャルチームが育ってきたということですか。

 小笠 そういうことですね。ただ十何人かのうちの3人か4人が育ってきたということです。それでも人数は足りませんので、当然大きなプロジェクトが来ると、本社から応援が来たり、こっちでチームを一つつくったりはやるようになっています。

 布野 PA(プロジェクト・アーキテクト)は支社では何名ですか。

 上出 いまは3名です。

 布野 希望も含めて、本社でも「顔の見える組織、事務所でありたい」と。僕なんかも特にコンペなんかやるときに、多分いまコンペは担当者の実績という資料なんかの形になってきていると思いますし、組織事務所でも個人を出してくださいと、僕も審査なんかやったりするときに言うのですけど。

 たとえば大手のゼネコン設計部とか、大手の組織事務所にエースがいてという形はあると思うのです。「顔の見える」といったときの組織イメージというのはどんな感じでしょうか。あとは、言っちゃ悪いですけど、手を抜くと。僕もある地方に関わっていて、コンペなんかでとられるのはいいのですけど、必ずしも優秀なチームとは限らない、そういうことがよくあるのですね。そうじゃないチームが仕事としてやったりする。

 竹田 いま言われたように一握りのエースがいて、あとは日常的なルーティンワークをこなすという形ではあってほしくないというのは当然だと思うのです。特にこの担当者としては、それぞれが皆それぞれの顔を持って、その中で、ある機会があってチャンスがあった人間はより伸びていくだろうし、たまたま恵まれないにしても次の機会を待ち続けるという形ではあってほしいなと思います。そういう意味で希望的なというのはある。

 先ほど、仕事のやり方に久米式があるかというお話で、僕が入った頃はまだ二十数人ぐらいの非常に小さな組織でしたので、アトリエ的な色彩が残ってまして、本当の入り立ては別として、それぞれ1人でやっていたという形がだいぶ長い間あったのです。この六、七年の間に人数的にもだいぶ増えてきたということがあるし、チームとしての仕事のやり方をより強く出していこうという方向にはなってきているのかなと思います。

 布野 顔の見えるというと、先ほどのPAがそれに当たると理解していいのですか。

 小笠 若い人でもコンペとか参加して、アイデアとか、突然パッと出てきますので、それで逆にいえば当選したりする場合もあります。そういう若い人も入ってくるということでしょうね、PAじゃなしに。

 竹田 プロポーザルの場合ですと、総括なり主任という形で、PAクラス以上の人間が名前としては出てくるだろうと思います。実際の仕事になってきますと、実質担当の人間のほうがよりウエートが高いことになってきますので、その辺を僕としてはイメージしたい。その中の一人でありたい。

 上出 アーキテクトの集団としてPAの場合はマネージメント的なこともかなり負わされている。かなり広範でして。PAが一つのチームをつくって、PAがすべての責任をとって、社内的にも社外的にも一つの顔としても、実質的にデザインとかをやるのはもっと若い人がやる場合が多いという状況になっていますね。

 布野 そうすると実力の相場、相乗効果みたいなものが久米の実力になるわけですね。採用が非常に重要ではないかと申し上げたのです。その辺についてスペシャリストとしてどういう人材を確保するか。

 小笠 いま不景気ですからあれですが、当然会社の方針として、年間、意匠何人、構造何人、設備何人という採用の目標を立てるわけです。そこで各学校へ行きまして、先生方にお願いしているのが実情です。

 布野 本社採用ですか。支社で独自に。

 小笠 各支社から推薦して、ある程度支社で本人が書いたものがいろいろありますので、そういうものを見せて、支社は支社で検討して、なかなかユニークなものを持っているなとか、いいなとか、そういうことで推薦する。本社で全国から20人、30人を面接、多いときはまた試験をやってるようです。先生の推薦をまずいただいて、こういう意匠で優秀なものがおるぞ、ということでやっているのが現状です。

 昔は大胆なデザインをする人がおりましたけど、最近は大体同じような、均一ですので。

 布野 どうなんですか。それも本社で話題になったんです。僕は知らなかったけど、渡邊洋治先生がいらっしゃって、昔は大変だったとか(笑)。

 竹田  学生のほうからしても、志向として組織事務所を志向する人間と、アトリエ系と、いまこれだけ情報が流れている中ではわかってくるだろうと思うのです。先ほど話が出ましたが、それぞれの研究室の先生方からの推薦が基本になっていますので、その辺の先生方の適正判断みたいなものも当然入ってくるだろうと思うのです。その上でのこちら側での面接を通じての判断ということになってくると思います。

 布野 あとでまた地域との関わりみたいなことをお聞きしたいのですが、北海道ですと、北海道の大学とか、地元をわりと大事にしていますとおっしゃっていますね。

 小笠 以前は違ったのですが、ここ何年か前からはそういう傾向になってきていますね。対お客さんに対してもそのほうがスムーズに行くみたいです。環境も地元におった人間が一番よく知っておりますから、そういう傾向がだんだん強く、うちの事務所もなってきているのは事実ですね。

 布野 本社で何年かトレーニングというのは全員ですか。全員とは限らない。

  小笠 技術、意匠、全員だね。昔はそうだったけど、いまはちょっと変わってきているね。

 上出 いまは支社採用の人もいますし、支社から何年か本社へ行って、また戻ってくるというのも多いのじゃないですか。

 小笠 以前は本社へ行って、何年かやって、こっちへ戻ってきたのが事実ですね。バブルのときは即ということで変わってきたのかな。また今後変わってくるかもわからん。

 竹田 私の時代は1週間とかそれぐらいの研修があって、すぐ配属でした。

 小笠 使いものになる人間は即……(笑)。

 布野 本社が大きいですので、たくさん仕事が来て、仕事の担当を決めたりするときに、プロジェクトごとの編成を会議なんかでわりとフレキシブルにやられるという話だったのですが、支社ではどうですか。

 小笠 支社はPAと私の間で大体割り振りを決めていきます。人が少ないですから、それで十分いける。

 上出 3人しかいないのですが、PA会議みたいなものでどういうふうに仕事をするかという話を支社長のほうから仕事が来たときに話をして、適性とか、そのときの仕事の状況で割り振ったりするということをやっています。

 布野 仕事のジャンルといいますか、官民ということではだいぶ比率が変わってきているということもあると思います。先ほど病院という話も出たのですが、支社の特徴みたいなところがあるのですか。営業範囲とか。

 小笠 やはり本社機構が東京ですので、大阪という町そのものが難しいところでございます。難しいといいますのは、有名な設計事務所、本社機構を持った事務所が在阪にある。それとゼネコンさんの立派な設計部を持ったのがある。その中で生きていくためには、支社の場合大変なんです。東京本社、大阪支社ということは、今後厳しさがどんどん出てくるという意味で、大阪支社の場合は、官庁よりは民間のほうが多かったですね。バブルが崩壊してこういう状態になってきて、民間が冷え切りましたので、やはり役所をやっていかないといかん。どうしても支社というのは、関西の場合弱みがあるのは事実です。公共の工事に対して弱いという意味で、各社一緒だと私は思います。当然地元志向で大阪市とか、当然そうなってきます。京都でもそうだし、兵庫県でも多分そうだという考えを持っておられますね。

 布野 僕はコンペなんかのときに、顔が見える形であってほしいということと、もう一つは組織事務所の場合に、地域にわりと張り付いて、密着してやるのが不得手ではないかと。たとえば最近はバブルがはじけたということもありましたが、わりと時間をかけて地元の住民と話しながら、ワークショップ方式でとか、わりと手間暇かかるふうに今後なってくるのじゃないかといったときに、それだけ組織事務所が対応できるのかどうかということで、多少ご意見を聞いたりしているのです。その辺はいかがですか。

 特に支社の場合は、本社に比べて地域と密着していかないといけないというところがあるのですね。

 小笠 地域といいましても大阪市内、あるいは近畿全体のテリトリーの中で、山陰のほう、あるいは四国のほうへ行きますと、どうしてもいま先生がおっしゃるような問題が出てきますね。なかなか密着性というのは無理ですね。

 布野 それは経費的にとか、人員的に。

  小笠 人の数も影響しますね。

 上出 私もこっちへ来てまだ2年弱ですけども、たまたま再開発的なことで地元の意向というのは大変強い。再開発ですから当然そうなんですけど。そのときはたまたま設計が本社で、窓口が大阪ということもあったのですが、日常のレスポンスに関しては大阪がしなければいけないという状況なんです。大阪でなきゃレスポンスが悪い、というふうに言われるのが一番我々としてはつらくて、東京で仮にやっているとしても、組織事務所の良さというのは情報とかが非常にスムーズにいろんなチャンネルがあるということで、決して地元に対してのレスポンスということでは悪くない。大阪がきちっとそれをまとめるということでご理解願うという状況にあると思います。それは組織事務所の良さと思います。ですから必ずしも大阪だから、全部大阪だということではなく、情報的なものはきちっとした本社のバックアップを受けられるということの中で信頼を得ていくという形をとっています。ただ言えるのは、私が接した小さなあれでは、大阪は大阪でというニーズは非常に感じました。

 小笠 関西は強いですね。東京は東京だ、大阪は大阪だという意識が、官庁も民間の方もみな持っておりますね。

 布野 一番最初対抗意識があるとおっしゃいましたね、東京都に対して。それといまの東京本社の支社というので、地元になかなか苦戦するとか、その辺のジレンマについては。

 小笠 それはそのとおりでしょう。他社さんも一緒じゃないかなと私は思います。たとえば名古屋とか、他社さんが本社機能を持ってない地域は、まだましじゃないかと思うのです。大手さんの中で、たとえば九州、名古屋、北海道もそうですけど。北海道は北海道日建というのがありますね。そういう組織がないところではまだ動きやすいのじゃないかなと私は思うのです。

 布野 竹田さんは長いのですか、こっちは。

 竹田  最初2年ほど名古屋にいて、あとずっと大阪で14年ほどになります。

 布野 地域としての近畿なり大阪というのは……。

 竹田 特に相手先の組織がそんなに大きくなければないほど、その辺の意識が強い。また一方で、相手の組織が大きくなっていくと、そことの話というのが担当者レベルとの話で、先ほどの住民の意向とか、使用者側の意向は間接的な形でしか聞き取れないということはあります。これは別に関西に限らずということですが。

 田舎にいって小さな自治体の決定者である市長や、その周辺と直接話をしながら進めていくという機会にはおもしろいという場面もあります。苦戦する場面も多々ありますけど(笑)。

  布野 そういうインティメートな関係で仕事がどんどん来るということもあるのですか、担当者の。ある一つコンペで取ったりすると、次もとか。

 小笠 それはたまにありますね。東京と違うところは、個人と個人のつきあいのほうが、営業的には関西は強いですね。関東とか東京の場合はビジネスライクで割り切って、会社対会社というあれで営業的に成り立っています。関西は個人のつきあいで大変ですね。それでつながっている部分が多いです。お役所の場合は話が別ですけど、民間の場合は多いですね。

 布野 文化論になりますね。

 小笠 そうですね。歴史といいますか、昔からのあれがあるみたいな感じがしますね。

 布野 逆に東京本社の支社である強みみたいなものはどうですか。本社だからということではなくて、実力なんでしょうけども、たとえばあるコンペなんかでは、勝つ確率が高いとか、強みみたいなものはどうですか。

 小笠 最近はあまり確率が高くない(笑)。営業が下手で、なかなかうまくいかんですけど。

 布野 やっぱり情報とか組織力ということになるのでしょうか。

 小笠  なると思いますね。情報というのは東京から関西に入ってきますのは事実ですね。

 上出 きわめて末梢的な話で恐縮ですが、関東にいてクライアントと話している話し方と、こちらのクライアントと話していると、初め言っていることがよくわからない部分がありましたね。

 布野 日本語がわからないということではなくて(笑)。

 上出 日本語はよくわかるのですけど、何を意図して何を指示したいのかということがわからないことがあります。

 布野 僕らは京都でいまだにわかりませんから(笑)。

  上出  ずっと関西にいる同じ仕事の仲間に、「あれは何を言ったんだ」と聞いて、「そうか、そういうふうに今度やればいいんだな」と、そういう違いというのは東京と大阪は本当に感じます。逆に大阪にいる人のアンテナというのは、そういう意味では東京にいる人にはないものを持っていて、そういう面でのコミュニケーションはとりやすいと感じました。よく支社長に「微妙なものがあるんだ」と言われても、我々はわくわからない部分があるわけです。

  布野  いろんなジレンマとか、地元のライバル社がある中でいろいろご苦労されていることはよくわかっていますが、一方で久米設計の規模のように、そうそう日本にないぐらいの設計ですと、たとえば景観とか、ある町に果たす役割があるのじゃないかと僕は勝手に思ったりするのですが、その辺のお考えとか、意識というか。仕事を取るので大変だということかもしれませんが、いかがでしょうか。大阪の町に対するアプローチの仕方とか、久米流の考えとか。

 竹田 大阪という大きな町になると、それは局地的なその場所性においてどう作るかという話になってくるのじゃないかと思うのです。むしろ、もう少し小さな町のところで、町にとっては代表的な作品を1年担当させてもらうという機会はあるわけです。そのときには当然町の骨格を作っていくというような意識を持ってやるべきだろうと思います。それは久米だからどうこうという話ではないように思います。

 上出 この間の座談会のときに、これは大阪という地域性ではなくて、たまたま再開発なんかで1ヘクタールとかそういうオーダーでの街的なものを設計させてもらったときに、先生がおっしゃったつながりというか、周辺とのつながりをどうするかという話が出ましたときに、私どもとしては私的な空間と公共的な空間の間をつなぐ中間的な空間をその周りとの関係でどう作るかということが非常に重要だということで、街のつくり方、設計の仕方を一面で考えておりますということを紙野先生に申し上げたのですけど。

 私個人としては大阪というものをまだわかっておりませんので、そういうことしか言えなかったのですけども、そんなつもりで共通的に考えていこうかなと。うちはたまたま本社の恵比寿ガーデンプレイスにしても、そんなような視点でやらせていただいたということがあるものですから、そういうことを申し上げたのです。

 布野 再開発というのは当然日本のこれからあるメインの仕事になっていくのだろうと思うのです。その辺の位置づけはいかがですか。

 上出 大変面倒くさい仕事だと思いますけど、先生おっしゃられるように、新しい真っさらの土地なんてないわけですし、スクラップ・アンド・ビルドがあるかということもあるでしょうけど、再開発でないともう大きな仕事はないのじゃないかと思います。

 それこそ再開発の場合には、新しい都市の開発と違いまして、そこに以前から住んでいる人が、またそこに半分ぐらい住まれるという前提でのまちづくりなものですから、新しいコンセプトというより、その人たちが引きずっているようなこだわりをどう実現しているかというあたりもかなり重要なことなので、クライアントは再開発組合じゃなくて、むしろ地権者の方だという意識をすると大変面倒くさくて、大変な仕事だなと。うちの事務所は再開発が多いのですよね、いま確かに。

 布野 これからは多分そういう手間暇かかるのが主流になっていくし、あとはリニューアルですね、スクラップ・アンド・ビルドよりも。それは組織事務所に限らず、仕事がそういうふうになっていきますから、そっちのほうの人材なり技術なりノウハウをということになると思いますね。

  小笠 うちの事務所もそちらのほうに力を入れていこうと。建てたらいいという時代は終わりました。

  上出 たまたま東戸塚という物件を私も担当させてもらったのですが、東戸塚はほとんど更地で区画整理事業から始めたまちづくりで、それは十数年参画させてもらいました。再開発は5年、10年というオーダーがかかるということで、新しい開発と再開発の難しさは全然違うなという印象を持ちました。

 小笠 再開発というのはものすごく手間がかかり、スパンも長い。設計事務所も生きていくために大変なんですね。どうしても現実的なことを申し上げますが。

 布野 仕事が減ると、設計屋というのはみんな一生懸命やっちゃう。時間を使ってしまうから、管理する側からはとても合わない。

  小笠 そのとおりです(笑)。

  布野 それも自覚してもらわないといけない。要するに適当にやめると。設計者をあげるときに、時間は使わないとか、そういうことをおっしゃってました。

 小笠 そのとおりですね、のめり込んでしまって、プロポーザルもギリギリいっぱいまでやってしまうのと一緒で、のめり込んで時間は幾ら使おうが、どうしようが、関係なく設計者はやっていきますからね(笑)。

 大きい建物は新しいことを試みていこうと思うと、どうしても再開発でないとこれから無理ですね。

 布野 そのときはやっぱり組織力がものをいうと。

 上出 それはそういうふうに思いますね。やっぱり人がかかりますし、それだけのバックアップがないとできないですね。

 小笠 アトリエの人とか小さな事務所でしたら、パンクもいいとこですね。

 布野 ちょっとこまかい話になるかもしれませんが、最近のコンペですね、圧倒的にプロポーザルのほうが多い……。

 上出 はい、プロポーザルのほうがずっと多いと思います。

 布野 指名が……。

 上出 指名が多かったですが、工法型も出てきたのじゃないでしょうか。

 小笠 指名プロポーザルがまだ多いみたいですね。

  布野 そのやり方自体は労力という意味では、大変時間がかかってしょうがないからプロポーザルでという方針で来ているわけですが、最近の現状でコンペについてのお考えというか、お感じになっていることはありますか。多分公募型がどんどん増えると、ディスクローズしていかないといけないという流れにはずっとなっていくのだろうと思いますけど。

 小笠 大阪はこの前もコンペがあったのですけど、断ってしまった。指名コンペがあったんです、八尾の病院だったのですけど。断った経緯があるのです。そのときも病院でコンペというのは我々は問題があるなという想定をしておったのです。プロポーザルですと、決定してから変更してどんどん変えていくことはできますが、コンペの場合はなかなか難しさがある。

 最近コンペは確かに減ってきましたのは事実ですね。そういう意味で、プロポーザルのほうが多いですね。

  上出 プロポーザルは基本的には事務所とか人を選ぶ。コンペは案を選ぶということをよく言われていますが、この頃のプロポーザルはかなりコンペに近いプロポーザルです。

 布野 やる側も同じですね。

 上出 全部プランまでつくらなければいけないという状況になります。

 布野 僕は実を言うと反対なんです、プロポーザルですね。ある地域に建つわけでして、そのつど何がしかの提案がない限りにおいては選べないのです、審査委員なんかやるときに。非常に困るのです。やけに変なマニュアルが出てまして、何か案があったら失格だとか、全然おかしいのです。

 お聞きしたかったのはそういうことなんですよ。コンペと同じぐらいの労力を使わされて、しかも安上がりの(笑)、ですからそれは大問題だと思っているのです。

 小笠 そのとおりですね。設計事務所というのは零細企業ですので、プロポーザルをやらされますと相当な費用がかかってくる。ましていま先生がおっしゃるように確かにエスカレートしていって、コンペに近いプロポーザルだとなると、ある程度プランニングまでやっていかないといかん。それをうまく縮小して、そこまで書くなという条件だから縮小して、あるいはスケッチを書くなということであっても、やはりパースぐらい書いてやっていく。費用がべらぼうにかかってくる。あのあたりも見直しをやっていってほしいなという気持ちを持っていますけどね。確かに失格という時もあることはあるのです。

 竹田 我々の組織の人数とか実績からということで指名される機会は結構多いですね。プロポーザル、コンペをやる機会は、他の設計組織の形態に比べればきっと多いだろうと思うのです。それが日常的な業務として、やりだしてしまえばそれにかかってしまうのですが、すべてがすべてそういうものではないことも事実です。特に要項づくりといいますか、発注する側の用意、準備は不十分なままということも多いと思うのです。

 とにかくプロポーザル方式が推奨されているし、議会や地元に対しても通りがいいからということで、入札もプロポーザルに切り替えるところがある。それに参加する十何社とか、その事務所さんが何百万円という金を使って、1案を除いては全くの労力のむだになっていくわけですね。それは本当に問題だろうと思います。

 ただ、我々のほうとしてはそういう機会があるから、それに対して何回に1回でも通っていければ、逆にそういうところで提案が受け入れられる可能性も高い。単純に受注の機会としてもありがたい話だろうとは当然思わなくてはいけないだろうと思うのです。

 小笠 ただ議会対策ということでプロポーザルをやるのが確かに増えましたね。地方へ行くと、なおさらそういうことが多いですね。耳でどこかからプロポーザルという方式があると聞いてきて、中身は全然わからんと。地方へ行くとそういう町長とかが多いみたいですね。

 上出 オフレコでございますけど、先生がプロポーザルの審査委員をやられたものに、私、たまたま応募させていただいたことがあります。大津の湯野浜の公共公益施設、発表は伊藤という専務が。落選しちゃったのですが、あのプロポーザルは各社全部プランを作っていました。

 布野 僕はあのときは、怒って下ろさせてくれと言ってたんです。暮れのコンペだったですね。多分40日もなかったはずです。正月をはさんで。参加料40万円で、100億ですよ。僕のところに12月の頭ぐらいに審査委員になってくれと来られて、「いいですよ」という話をしたら、何のことはない、行って当日札を入れるだけなんです。要項も何も全然チェックもさせなければ。それで僕はこういうコンペは、主義として参加しない、しかも指名料が安過ぎる。しかも期間が短過ぎると言って、下りますと滋賀県のほうへ出したら、僕の上の先生とか、マアマアと、とにかくこの時は出席だけはしてくれという話になって、ブスッとしてあそこに座っていたんですよ(笑)。だけど何言うかわかりませんよという話で。

 あのときも池田タケフミさんを僕は個人的に知ってまして、そこで何か県を批判するような講演をされたらしい。それで指名から外れるとかいうことがあって、日本設計ならあけすけに聞いても大丈夫だなと思って、日本設計のときに僕がどう思いますかと聞いたんです。指名料40万円出して。県の幹部も審査委員で聞いているときに、あけすけに聞いたわけです。そしたら立派で、担当者が「1桁は最低違います」とズバッと言ったんです。それがものすごく受けたのです、結果的には(笑)。

 いまの内藤社長は、僕の汚い部屋にすっ飛んで来られましたよ。終わってから。何でうちが入ったんだ(笑)。連戦連敗だったのにね。「いや、説明がうまかったからじゃないですか」。だけど僕はひそかに、正直に言って、それで審査委員の特に学識関係の先生方が傾かれた。もちろん案があれだったのですけど。

 上出 先生が質問していただいたときの質問事項を覚えています。

 布野 何と言いましたか。

 上出 何で体育館が地下にあるのですか、というようなことを言われたのは覚えています。

 布野 あれはすごかったですよ。疑りたくないんですけど、県の部長クラスの審査会での発言はコーラスみたいでしたよ、声をそろえてある案を。それも反発したんですよ、みんなが。裏はいっぱいあるんですよ。

 もう一つだけ言いますと、ある個人事務所の先生が審査委員長をやって、まず指名参加者を決めるときに点数でやって。僕は点数主義もきらいなんですけど、一応評価しないといけないから。あれは地元が3ぐらいで、全国7ぐらい。その割り振りはいいでしょう。規模がでかいので、全国から知恵を借りましょうと、7社です。8のところに線が引いてあって、上から7がほぼ決まっているのです。そのときは高名な審査委員長だったのですけど、僕はふてくされまして、「何だ、これは委員会やる必要ないじゃないか、決まってるじゃないか」。 「布野君、そんなこと言うな」とか言ってね。リストが30ぐらいあって、「下のほうでも君がいいと思ったら推薦しろ、それで審査委員に来てもらった」と。僕はふてくされたんです、これで決めればいいじゃないですか、点数で決まってる。

 1番が日本設計だったんです。2番が日建設計。あと大手事務所が入ったり、いろいろ入っていて、他の建築家ですけど何人か有名な先生が入られていて、その先生はその路線に乗って下のほうから推薦したんです。ここまで候補に入れて決を取りましょうといって、やったら、下のほうのやつがみんな入って、日建が落ちたんです。得点で1番です。そしたらその先生が何を言い出すかというと、「これは困る」と言い出した。「別のところで仕返しされる」というんです。これは3年ぐらいそのコンペの後の話です。

 小笠 それはコンペですか。

 布野 コンペです。第一次の指名を決める段階です。裏が大変なんです。

 小笠 それを見極めるのが大変なんです、営業が(笑)。コンペの費用がすごいでしょう。何千万円かかります。先ほどの病院でしたら四、五千万いってしまうと思います。それをいかに見極めるか。

 布野 先ほどのこれから再開発とか、リニューアルとか、メンテナンスとか、日本の建築界全体がそうなっていくと思うのです。いまゼネコンさんは大変で、人ごとではなくて設計事務所だって同じだと思います。どう考えても土建業とか建設業は多すぎますね。学生を教育する側も同じことなんですけど。その辺はいかがですか。

 リストラはしていかなくてはいけないというのは、業界全体はそうですが、少し久米を離れてでも結構ですが、21世紀の設計事務所のあり方ということで。

 小笠 設計事務所のあり方となってくると、社長あたりぐらいが決めてもらわないと(笑)。

 布野 そういう質問をしたつもりだったのです。本社では久米設計の組織のリストラの話と勘違いされまして、「うちはリストラはやりません」(笑)。700なら700の規模の役割があるという話でありました。

 竹田 設計者の役割としては、いまよりもっと広い範囲、今日も言われた住民参加の組織をどうやって作っていくか、建築をもっと川上にさかのぼって、あるいはもっと川下にくだって、もっと広い範囲を担当していく勇気というのがあるだろうか。いま職業として成り立つのは限られた領域ですけども、可能性としてはあるだろうと思います。いっぱいそういうものがあるだろうと思います。それが実際の仕事になっていくかどうか、いま探っている段階だろうと思って、リニューアルとか、あるいはCMとかBMという話も含めまして。

 小笠 分担化して、分かれていく。支社長となってくるとどうしても目先のことになってしまいますからね(笑)。

 布野  仕事は全然落ちてないですか。

 小笠 やっぱり仕事量は減ってます。ダウンして、それを皆で上げていくにはどうするかということを考えていかないと。考えるものは、いま先生がおっしゃるような考えが理想というのはよくわかるのですけど、私、個人的には、現実的には本当にいま目先のことしか考えが出てこないです。理想じゃなしに。それが本当の僕のいまの気持ちですね。

 上出 設計工事自体は規模の大小とか用途に関わらず、やることはやらなきゃいけないという現状になっていますから、世の中がこういう状況ですから、どうしても大変だということですね。

 小笠 社員が逆にまじめになってきたね。まじめという表現はちょっとおかしいかもわからないですけど、バブルのときは、まあまあこのぐらいでもいいわ(笑)とやってましたね。絶対そうだと思うのです。仕事をどんどんどんどんこなしていかないといきませんから。それが仕事が減ってきたとなると、そこに一つの真剣さ、大きい、小さい、自分がやりたい、やりたくないという建物とは関係なく、やはり真剣に取り組んできているというのが事実ですね。それが逆にいえば、将来僕はプラスになっていくのじゃないか。この不景気を逆に利用しまして。そういう気持ちが僕はありますね。

 布野 あんまりのめり込まれると……(笑い)。

 小笠 そうです。

 竹田 モノを作る上で、設計というような立場で果たすべき役割は大きいと思うのです。実際やらなくちゃいけないことは山ほどあるわけですけど、それに見合うだけのフィーが得られてないというのが根本的な問題だと思います。

 小笠 いまは確かにそういうことです。

 上出 規模が小さければ自動的にフィーは少ないのですが、やる作業はそんなに変わらない。それは当然そうなりますね。

 本紙 大阪支社全体としての作品のジャンルの傾向として、振り返ってみますと、組織事務所ですのでほとんどのジャンルを含んでおられますが、いままで得意とした分野、それから座談会にも出てきていましたが、これから大阪支社として伸ばしていきたいジャンル、そのあたりを教えていただけますか。

 作品の数としては、オフィスビルが一番多いのですか。

 上出 いままでオフィスビルが多かったですよね。

 小笠 学校も多いですよ。事務所ビルも多いけど。以前は病院は少なかったですね、大阪支社は。それは事実です。ここ最近ですね、病院は。

 本紙 最初は古市の団地の住宅からスタートされて、それから間口を広げていかれて、事務所ビル、教育施設と。

 小笠 確かにいまおっしゃられましたように古市団地から、その時分は公共のアパート、それと住宅公団、ああいう共同住宅が多かったのは事実ですね。それに付随するというか、その中に学校が入ってくるという意味で学校もあったということですね。それは小学校、中学校ぐらいまでです。高校もその時入ってました。多かったですね。それから以降は大学も出てきてますね、大阪の場合は。75年でも、ゴルフ場、クラブハウスをやったり。

 上出 分野が多岐にわたっているということですね。

 本紙 病院は最近からやられていると。

 竹田 特に医療福祉系で。

 本紙 社会のニーズに対応してということですね。

 小笠 そういうことになってきますね。流れといいますか。いまは確かに病院が増えてきている。やはり世間全体が建て替えの時期になってきていますから、歴史そのものが受注の内容を反映してきていますね。

 本紙 将来的には、これから高齢化時代を含めて、老人福祉のあたりに事務所としても注目していくということになっていくのでしょうね。

 小笠 そういうことですね。

 本紙 先ほど再開発の話が出ましたが、大阪支社の再開発の実績は建築設計からのスタートでしたか。コーディネーター業務はまだ大阪支社は。

 小笠 事業コンサル的なことですね。それはやってないですね。

 小笠 最初は守口の駅前がそうですね。

 本紙 ユウユウの里。あのあたりのコンサル部門は。

 小笠 入ってません。建築設計だけです。

 本紙 将来的にコンサル部門は、久米の大阪支社としては。

 小笠 やるつもりはないです。いまの段階は無理です。

 布野 どこかと組まれるということになりますか。

 小笠 あくまで大阪は箱物の設計ということになってきますね。確かに今後そこまでこまかく入っていかないといけないのは事実ですが、この人数の中では当然無理だろうと思います。入りますと、また中途半端になっちゃうのですね。

 本紙 CM(コンストラクション・マネージメント)ですか、それから提案というのですか。コンペ等を含みますが、地域全体の活性化への提案という切り口でのCM部門も、これからはフィーがついてくるような気もするのですが。

 小笠 本社ではそれはやりつつあるということでしょう。いま急に言いだしましたからね。大阪の場合はそこまでは。将来的にはやるべきだと思います。

 本紙 まず最初に本社としてCM部門を確立して、それから大阪支社にそのノウハウを流していくということになるわけですね。

 小笠 ええ、そういう方法しかいまの段階はしょうがないですね。

 本紙 久米風のデザインといいますか、久米の伝統に基づくデザインは皆さん方意識されておられるでしょう、デザイナーの方は。

 小笠 やってないのと違いますか。逆に外から見られて初めて、言われてみるとそうかなという意識ぐらいと違いますか。

 上出 一昔前は、「久米さんは派手さはないけども、地道にやっている」という評価をいただきました。この頃だいぶ変わってきて、それは一つにはプロジェクト会議といいますか、デザイン会議を全社的な一つのデザインレビューとして、そういうことに久米の作品として出して統一してやっていくという、そういう全社的なあれはあれました。

 本紙 大阪支社の中でもデザインレビューというのですか。

 小笠 ミニ的なレビューをやって、メインの物件は本社のほうで必ずやると。

 本紙 大阪支社で実施された物件についても、大阪支社でデザインレビューをやって、大きな物件でしたら本社に上げて、本社の全体の中で、組織の中で。

 上出 来てもらったり、こっちから行ったりしながら、そういう検証をします。

 本紙 それは組織事務所としての総合力と。

 上出 言われればそうと思いますし、それがずっと続いております。

 本紙 そうしますと、たとえば建築家の顔の見える建築というのですか、そのあたりが出にくいような気もするのですが、そのあたりはいかがですか。

 竹田 まさにおっしゃるとおりで、我々の立場からするとその場が戦いの場でして、いかにこちらの思いを伝えて説得するか。

 小笠 ですから良いところを伸ばして、欠けている部分を補完するという形になれば、それは非常にうまくいきます。その辺は諸刃のあれというところがあるかもしれません。

 デザインというのはあくまでも絵的なデザインだけじゃなくて、エンジニアリングを含めた部分でのデザイン、そういう意味でのデザイン会議だと我々は思っております。

 本紙 支社の場合はたとえば月1回やるとか、定期的に開催するとか、物件ごと開催するとかですか。

 上出 物件ごとに。

 本紙 設計事務所の場合、金額でいくか、件数でいくか、非常に微妙な部分があるのですが、件数でいきますと、大体年間どれくらい大阪支社の陣容でこなしておられるでしょうか。

 小笠 地震以降、耐震調査とか設計が増えてきたのですね。その業務がいまものすごく増えているのは事実です。

 本紙 前年度はどうでしたか。実際の創作活動としましてはどれくらいこなされましたか。

 小笠 うちの場合、定期調査からすべて入ってくるのです。本当の基本設計から一つ一つやっていくというものだけをピックアップしたリストはないね。

 竹田 感じとしては多くても30という感じですね。

 上出 いまはもうちょっと多くなってるのじゃないですか。こまかいのを入れると。逆にバブル時代のほうが件数としては少なかったのじゃないか。いまは多いのじゃないか。

 竹田 一つ一つ耐震診断とか、設計とか、調査業務とかを含めれば、70とかになるのでしょうけれども。

 小笠 3か月で耐震は16件ありましたから。それも調査からみな含んでの話ですからね。

 本紙 大阪支社の特性としては、阪神大震災がありました。耐震診断に伴います補助関係が最近充実してきました。そのあたりで、耐震調査にからむ仕事が大阪の特徴としては増えてきているということが言えるわけですね。

 小笠 そうですね。

 本紙 ただその場合、耐震調査とか諸業務は、部門的にどのセクションが担当されているのですか。構造ですか。

 小笠 内容はいろいろです。1年ほど前にやりました尼崎の中学校か小学校のときは、結局調査して、それから全部補強設計をやれと。それだけでも10億とか十何億かかってくるわけです。建て替えのほうが安くつくぐらいです。それは日本の国の変なところですので、あくまで補強でやっていく。それの場合は意匠から設備からみな入ってきます、構造から。本当の純粋な構造計算だけというのは最近なくなってきましたね。意匠も若干入ってくる、調査の中でね。調査の仕事というのはちょっと本来のあれと違うのですけど。

 本紙 結局こういうものが震災を契機にして増えてきているということですね、リニューアルがらみにしてもそういうことですね。

 小笠 そうです。うちの事務所も積極的にやっていかないといかん中に、一ついまの調査が入ってきているということです。

 本紙 一つの物件を受注したときに、初めはどういうチームワークを組まれるわけでしょうか。

 小笠 意匠と構造と一通り入ってますね。

 上出 これは僕も感じましたのは、大阪の場合は一つのスペースに全部のセクションがおりますので、言ってみればすぐプロジェクトチームみたいな形になれるというところで、一つの物件だったら、PAがいて、その人が全部みるわけですが、それに意匠が1人、2人、3人とかついて、構造担当者、設計担当者、電気担当者がサッとつく。兼務はしますけど、そういう形でチームを組むような形になると思います。

 本紙 小さい物件でも大きな物件でも、基本的にはそういうチームを組んで。

 上出 基本的にはそういうことでやります。

 本紙 技術的に耐震とか免震関係が入ってきますと、本社の技術援助ということになってくるのですか。

 上出 たとえば構造プロパーが窓口になっても、免震とか耐震になったときに、免震なんかは全国区になりますから、情報をもらったり、やるということですね。

 本紙 そのあたりで全体的な総合的なエンジニアリングと。

 上出 バックアップするという形になりますね。

  小笠 免震をやったのは大阪のほうが先だからね。

 本紙 免震の物件は、大阪ではどこですか。

 竹田 ニッタ、免震装置のゴム部門を作っておられるところの自社の研究所にそれをという形で、当社だけでやりました。京阪奈です。

 本紙 建物としてやられたわけですね。いつ竣工ですか。

 竹田 地震のときが工事終盤だという話ですね。データとしてはとれてなかったのじゃないか。

 上出 惜しかったですね。

 本紙  免震関係につきましては久米の中では大阪支社は先駆けた仕事をやっておられる。

 小笠 最初のみな手探りの状態でやったのは事実です。それはどこの会社でも一緒だったですから。

 本紙 そのあたりは組織事務所としてお互いに情報データをフィードバックしつつ、総合的な技術力、ノウハウの蓄積を図っているということでよろしいわけですね。

 上出 そういうことだと思います。

 本紙 これからの久米のデザインのあり方なんですが、いろいろデザインレンジの問題もありますが、個人をいかに出すか。そのあたりで、エースをたとえば全面的に……。

 布野 久米デザインというか、久米流というのを本社で議論したのは、たとえば久米権九郎先生の初期の作品を見ると、いろんなものができる人なんですね。モダニズムのフラットルーフのものをやれれば。その辺は基本的に、様式が中にある人と、いろんな様式を使い分けられる人と大きく二つに分けると、どなたかの説明は、建築家というよりは事業者というのがあるから、お施主さんに合わせてやれる能力があった。それが戦後も引きずられていて、一緒に仕事をして久米様式というものを押しつける体制にはなかった。それが生きてるのだというのが説明です。

 ですから、PAによっては全然違うものが出てもおかしくないし、ヒラクラさんが編まれたのかな、これが一番いろんなバラエティーを示す。営業パンフみたいなものを見ると、無個性なものが並んでいるとか(笑)。ですからレビュー界が戦いだという話は出ていませんでしたから(笑)。

 小笠 久米事務所というのはひとつの伝統があるみたいです。自然にそうなってきているのです。

 布野 昔はスターは作らなかったでしょう。あんまり新規なデザインをするなという方針があったのだそうです。いまの桜井支社長になられてからは、エースではなくて、たくさんそういう能力を持ったものをつくる、そういう方針が出てきている。

 小笠 出てきましたね。だけどうまくそういうふうになってきたのかどうか、難しいところがあるのですけど。

 本紙 それとあわせて、大阪支社の特性として、震災以降、構造部の力が強くなったということはないわけですか。たとえば計画段階でディスカッションの中で構造の人間をまずお客さんのところへ営業が連れていって、性能表示ですね。どれくらいの構造の仕様が必要なんですか、これの単価はこうですよと、そこから入って、その後意匠が付いてくる。そういうふうに大阪支社の特徴として出てきているのですか、最近は。

 小笠 そこまできつくは……。

 上出 ただ昔よりは構造の人が市民権をより得たという感じはします(笑)。

 小笠 意見を相当取り入れているでしょう。昔は柱を1本抜けとか、無茶苦茶なことを。

 上出 それは違うと思います。

 本紙 建築基準法が性能規程に変わったということで、全体的に設計事務所の中でも構造のウエートが上がってきているという感じですね。

 小笠 ぐっとウエートが上がってきました。

  本紙 工事監理の問題なんですが、特に大阪事務所として最近神戸の地震を見ますと、工事監理の大切さが出てきましたね。そのあたりで、特に震災を教訓として大阪支社管内、久米全体ですが、工事監理のあり方が強化されたとか、マニュアルを新たに作ったとか、そういうことはないでしょうか。

 小笠 マニュアルは作っておりません。本社はマニュアルがあるのか、正直言って私はわからないのです。現役引退しましたので、この前にもお話ししたのですが、工事監理をやるのがいかに大事かということを痛感しましたね。地震以降、囲いもないときに乗り込んで、柱がこうなっているとか、提灯状になっているところとか、みな見て回ったのですが、やはりあの時分の内容を見ますと、私らでもそうなんですけど、大体あれになっているのはダイナル芯のところが多いのです。表に出てないのですけど、鉄筋を昔は90度まで曲げた、その遊びでそうなる。それが大方あれだったです。新聞には出てませんけど、大体あれが多かったのは事実です。

 ということはその時分の技術というのが、関西は特に地震が少ないということでしたので、だめだけどしょうがないなという調子でやってたのです。それがああいうことがあったから教訓で、なおさら法律的にも変わってきましたから、その辺監理者として改めていかないといけないし。また工事関係者もそういうあれをきちっとやっていかないといけないなと思うのです。

 それにはやはり、施主側の考えもちょっと変えてもらわないと困るというのがありますね。昔からそうなんですが、工事監理の建物に対する考え方があまりにもお粗末過ぎましたね。意匠ばっかり最優先にやっていましたから、その辺の見直し、今後はそれをむしろ持続性のある建物を作っていくとなると、それは最優先に考えを変えていかないといけないのじゃないか。それを第一優先して、それから意匠ありきじゃないかと私はそう思うのです。

 布野 工事監理も専任ですか。

 小笠 専任です。全く本社の縮小版です。設備からすべてにそれは言えるのです。

  布野 それは他の支社でも縮小版というのはそうですか。

 小笠  どうですか、名古屋は違うね、設計者が見てるでしょう。

 竹田 いや、最近はそうでもない。

 小笠 大阪はだいぶ前からそういうふうに分けてましたから。私は監理の親分でしたので、設計ができないものですから(笑)。

 本紙 やっぱり設計事務所は持続性のある、良質な社会資本ストックとして作るために、設計のデザインと合わせて、工事監理もきっちりと第三者性を確保してやっていくということが一番大切と。

 小笠 第三者的な扱いでやるほうが望ましいなと僕は思います。同じ総合事務所の中でそういう言い方をしてはいけないのですけど。

 本紙 総合事務所の中でも、工事監理というのは、

 小笠 独立性を持たさないといけないと思います。社内でもそうあるべき組織に作り変えていかないと絶対だめです。

 布野 設計監理という意味では、もちろん現場に出られるわけでしょう。

 上出 もちろん出ます。設計監理という意味では大変機会が多いです。

 小笠 大阪の場合わりに若い人でもね。昔はうちの事務所はだいぶ前から、若い人は何年か現場へ出せということでやってたのですけど、最近またなくなってきたのですね。だけど大阪はやっていきたいなという気持ちを私は持っているのです。

 本紙 現場を知らない人間は設計できないと。

 小笠 いや、逆に僕は現場を知らないほうがいいものができるのと違うかなと思っているのです(笑)。

 本紙 大阪の気質というのですか、東京と違って、工事監理のフィーのあたりが大阪人はノーフィーということもあるでしょう。

 小笠 お役所でも全然だめですね。民間はもちろんのこと、お役所でも全然そのあたりは考えていただけないし、つらいです。だからその改革からやっていかないといけない。

 本紙 意識を変えてもらうということが必要なんでしょうね。大阪の場合は民間でも、基本設計はただ、事前調査はノーフィーで、実施設計料だけでということを求めるお施主さんも多かったですね、東京と違いまして。そのあたりをいかに営業的に乗せていくかという経営のご苦労もあったと思うのです。

 小笠 つらいですね。

 本紙 コンペの対応ですが、最近大阪支社は何件ぐらいコンペは入りますか、月平均で。

 竹田 集中してくるのですね。

 小笠 平均して月一つか二つ。今月は四つか五つぐらい入ってます。さっきの話では、ここまでは大阪でできないから、たとえば本社で頼むよとか、その辺ができるのですね。断ると次の仕事が来ないとか、その辺があるもので。

 本紙 一つのコンペ、プロポーザルに対しまして、大体チームはどういう形でつくるわけですか。

 上出 それもモノによりますけど、構造的な提案、設備的な提案があるときには、基本はそこまで大体決めます。同じです。それは普通の設計とプロポーザルのうちのほとんど同じ決め方です。

 小笠 独自のチームというのは、人数が少ないから作れませんけど、そういうのはやってないです。

 上出 来たものに合わせて。

 本紙 フレキシブルに作っていくということですね。

 小笠 よその事務所ではプロポーザル用のチームを作ったりいろいろやっている事務所もあるらしいですが、それは大阪も本社もやってないです。

 布野 そうするとわりとはっきりするのじゃないですか。どのチームが当たる確率が高いと(笑)。

 小笠 ここのチームはよく当選するなとか、こっちはだめだというのはあるのじゃないですか。

 本紙 コンペの当選率は、目標として各事務所さん、おしなべて3割が目標とおっしゃいますよね。久米さんの場合も……。

 小笠 去年が3割だったんです。今年はもっとがんばらないとあかん。いま3割行ってないと思います。一昨年は25%とかいってました。

 本紙 やっぱり年によってばらつきがあるということですね。

 それと社員の教育、特に設計者の意匠、それから職員の研修、それとコンペ、プロポーザルとの関わりというのですか。むしろ積極的にコンペをやって、それを社員教育にするとか、そういう意味でのとらえ方といいますか。社員教育のあり方はどういう形でやっておられますでしょうか。

 小笠 社員教育もそうですけど、プロポーザルの研修というのは東京でやってますね。

 竹田 逆に偏らないほうがいいのじゃないか。プロポーザルばっかりやっているということは場合によってあり得ると思うのです。東京みたいな場合だと。それはできるだけなくしていく。一連のものにするというふうになってほしい。

 上出 それは支社の場合のほうが機会均等で、みんなが関われる。

 本紙 みんなが関わって、プロポーザルに挑戦することによってレベルを上げていくと。

 上出 それによって実質的なレベルでは上がりますけど、ソフトないろんな考え方をそこで訓練するという、まさにOJT的な感じかもしれませんけど、そういう形になっているのじゃないかと思います。

 本紙 いま大阪支社の設計関係で、平均年齢はどのあたりですか。本社に比べて若いとか。

 上出 30ぐらいの中盤が多いでしょうか。

 竹田 三十六、七。

 上出 30代ですよね。いま同じぐらいな構成だと思います。そんなに上ばかりじゃなくて、下ばかりじゃなくて、いると思います。

 布野 まんべんなく採用していかないといけないという会社の方針でもありますしね。

 本紙 佐藤総合さんなんかは、2年間東京へ研修に持っていくとか、グルグル本社と地方事業所と、人の回転をやっておられるように聞いていますが、久米さんの場合は、上出さんが東京から来られましたが、回転という意味で設計士さんはどうですか。

 小笠 東京と大阪だけかな。いま1人名古屋へ行ってるな。大体ローテーションじゃないですけど、東京と大阪は行き来しているのは事実ですね。一時そういうことで次に帰ったらまた来る、というのがだんだんなくなってきているのかな。構造設備はいまローテーション組んでますね。意匠もあなたまでが。

 上出 私の場合も浜田君が行ったりして。ガラッとはないですけど。

 竹田 行って、仕事が終わって、たまたまもう一つというぐらいで、気がついたら来るとか、戻ってくるとか、そういう形が意匠の場合は多かったですね。

 布野 いま4部制をとられているのですね。出入りは何部に行かれるとか決まっているのですか。

 上出 それはないです。四つの部のどこへ行くかは。若い人が向こうへこういうプロジェクトがあって、そこへちょっと行ったりするということもありますし。必ず大阪支社の第4設計へ行くとか、そういうことはないですね。

 本紙 大阪支社の場合は、デザイナーの部分につきましては各ジャンル平等にそれぞれのレベルまでやろうと。劇場関係とか集客施設が得意な人もあるし、分野別に得意な人がおられると思います。そのあたりはどういう形で今後教育していかれるのですか。デザイン的に特化させるというか。

 布野 本社の説明は、基本的には特化する思想はなかったのだけど、病院とか再開発部門とかはどうしても専門性が高いので、だんだん限られてきているという説明でした。

 小笠 ただ、病院のほうもいま仕事量が増えてきていますから、だれでもできるようにやっていかないといかんということで、わりにこうなりつつありますね。特に病院はそうだな。

 上出 病院はこれから受注も多くなるということになると思います。いままでは専門化していましたから。

 小笠 いま発注の数も減ってきましたからね。

 本紙 たとえば大学との交流はどうなんですか。構造部門でも、杭の問題でも、最近は専門性が高くて、大学と結びついて共同研究されている場面もございますね。大学との交流というのは、社員を派遣するとか。

 小笠 それはやってないですね。

 布野 そんなに大学って役に立つのですか(笑)。

 竹田 ただ構造に限っては、特に構造評定だとかが、いまの杭の打ちっ放しだとかいうことで、交流が一番多いだろうと思います。

 小笠 行くということはしないでしょう。

 竹田 そこに在籍するとか、そういう形ではないです。

 上出 センター評定の問題で、大学の先生が評定の委員になられて。そういうことはございますから。

 小笠 関西は京大の先生と決まってるから。

 本紙 最後にISOの支社としての取り組みですが、久米さんの場合は全社的にISOをやっておられますね。どの段階まで。

 小笠 本社と全く同じレベルです。

  竹田 9000の本審査が明日から3日間ぐらい受ける段階です、品質のですね。14000のほうが予備審査が先月末に終わって、来年2月に本審査を受けるという段階で、目標としては年度内に14000環境のほうをということです。

 本紙 現場は指定現場があるのですか。

 小笠 やってます。

 本紙 支社管内は何現場ぐらい指定現場でやっておられるのですか。

 竹田 14000は二つに絞ったのです。9000のほうはほとんど全部。

 本紙 工事の監理でキャルスが入っている現場はございますか。

 小笠 まだ入ってないな。

 本紙 これから役所さんもキャルスのほうは入ってこられますので、それに合わせて整備を進めていくわけですけども、これは久米としての全社的な取り組みということになるわけですね。

 小笠 そうですね。ただ、いまなかなかそこまで行かないのじゃないですか。東京とこっちと、電算はみなつながっているから行けるのですけど、こっちが手いっぱいの場合は、構造なんかでも向こうで頼むようとか、お互いにできますので、最近は便利がよくなりました。

 本紙 人事考課の問題ですが、人事考課は変わりつつあるわけですか。評定の仕方をいかに公平に。

 小笠 去年の10月に新人事制度に変わりまして、いま年功序列から脱皮しようということで始めまして、あと三、四年で給与の上と下の差が同じ年代でもつくのじゃないかなという想定で始めたのです。人事考課のやり方は、しゃべっていいのかどうか知らないですけど(笑)。

 本紙 設計関係でしたら、プロポーザルの当選率でやるのでしたら(笑)。

 小笠 それはないという前提です。将来そういうことになるかもわかりませんけども、人事制度が新しく変わってからはそれは前提に置かないというあれがあるのです。将来は知りませんよ。そのうちまた変わってくるかもわかりません。

  ただ、あいつはよく当選するから、6のところを8ぐらいにしておこうかとか9にしようかというのは将来あるかもわからないですね。今後設計事務所が生き残っていくためには、その辺が全面的に出てくる可能性はなきにしもあらずだと思います。

 本紙 現在のところは日常業務の中で考課を。

 小笠 設計部門は設計部門の項目があるのです。構造は構造のまた項目があるのです。構造の技術的な面、部分的には違うところがあるが、下は全く一緒という考課の方法ですね。そう上下差というのは変わらないのと違いますか。よっぽど大きな問題を起こさない限りは。そんな感じがします。経営者はどう考えているかしりませんけど、将来を考えているでしょう。

 本紙 これから役所の工事関係はプロポーザルとかそのあたりに変わってきますと、特命発注というのはなくなりつつありますね。傾向としまして、ある程度の規模以上のものは。そうなりますと、設計事務所としてコンペ対応、プロポーザル対応、組織をどういうふうにつくっていくか、それによって人事考課をどういうふうに進めていくかと。

 小笠 そうすると一体化になってきますかね。うちの本社へ行って経営者から聞いておいていただくとありがたい(笑)。

 本紙 時間が超過しましたが、お忙しい中本当にありがとうございました。(以上)