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2024年11月26日火曜日

21世紀の建築の展望, poar(Korea),199909

建築人

 

21世紀日本建築の展望

布野修司

 

 21世紀の日本建築がどうなっていくのかを予言するのは難しい。ほとんど何も変わらないかもしれないし、日本という国そのものが危うくなっているかも知れない。おそらくこれからは日本という国民国家(Nation State)の枠組みで考えるのはやめた方がいいだろう。国際化はどんどん進み、国境を超えた建築交流はさらに進むであろう。地球環境問題はますます世界をひとつに統合するであろう。しかし、日本の近代化の過程で、建築表現としての「日本的なるもの」が繰り返し問われてきたきたように、「日本的な表現」は依然としてテーマであり続ける気がしないでもない。ナショナリズムと建築表現の問題はそう簡単ではないが、韓国でも「韓国的表現とは何か」というテーマがしばらくは問われるであろう。しかし、テーマはそう明確ではない。

 グローバルに見ても、ポストモダン建築が勢いを失って以降、世界の建築界は方向を失っているのではないか。テクノロジーの発達が世界をひとつに結びつける一方、冷戦構造の崩壊によって各地で民族紛争が勃発している。世界中で最新技術による建築デザインがファッショナブルに追い求められる一方、民族的な表現が各地でもとめられることになるかもしれない。

 全てよくわからないけれど、日本建築はこうあるべきだと思うことはある。また、近い将来はこうだろうと思うことはある。以下に無責任に記してみよう。

 

 フローからストックへ

 まず言えることは、日本建築をとりまく環境が大きく変わることである。戦後復興→高度成長→オイルショック→バブル経済→経済危機という日本経済のサイクルが再び上昇する保証はない。「右肩上がり」の成長主義の時代は終わったのであり、建設活動は確実に減るだろう。フローからストックへ、というのが趨勢である。

 農業国家から土建(土木建築)国家へ、戦後日本の産業社会は転換を遂げてきた。建設投資は国民総生産の2割を超えるまでに至ったが、建設ストックが安定しているヨーロッパの場合、建設投資は一割ぐらいだから、極端に言うと、建設活動は半減してもおかしくない。日本の産業構造の大転換は必至であり、その構造改革(Restructuring)の中心が建設業界なのである。建設業界は既に生き残りをかけたサヴァイヴァル(survival)戦争の渦中にある。

 第一にこれからは長持ちする建築が求められる。スクラップ・アンド・ビルド(建てては壊し)というのがこれまでの日本であった。木造建築を主にしてきた日本では、一定の期間で建て替えるのが自然だと考えられてきた。伊勢神宮など神社の式年造替(一定の年限で建て替える。伊勢の場合は20年)や鴨長明の『方丈記』が代表するような「仮の住まい」意識が日本の建築観の基底にある。しかし、これからはスクラップ・アンド・ビルドというわけにはいかない。建設にこれまでのように投資できないのである。

 地球環境問題への意識からも建て替えより既存のストックを再生利用する試みが増えていくであろう。耐震診断の技術や設備などメンテナンスの技術がこれまで以上に必要とされるのは必然である。要するにライフ・サイクル・コスト(LCC)が主要なテーマになり、建設の全過程におけるCO2排出量が問題にされるであろう。

 

 自然か人工環境か

 以上のような環境変化は、建築を支えるパラダイムを当然変えるだろう。既に、地球に優しい建築、環境共生建築といった言葉が盛んに使われ始めている。エネルギー消費型の建築から省エネルギー型の建築へ、耐久性のある建築へ、リサイクル可能な建築へ、・・・という流れが支配的になりつつある。確実なのは、自然(緑)を取り入れた建築が増えていくことである。屋上緑化、壁面緑化の掛け声は次第に大きくなっている。

 一方、人工環境化の流れは必ずしも変わらないだろう。室内環境をきちんとしっかりコントロールすることが地球環境への負荷の低減につながるという思想は根強い。「高気密、高断熱」という環境の理想は宇宙ステーションのような閉じた自律的な環境である。失敗に終わったが、地球上でもかって「バイオスフィア」という全くエネルギー自律的な環境実験が行われたことがある。自給自足、エネルギー自給型の建築都市のあり方が一方で高度に追求されるであろう。

 現実的には、屋根付きドーム球場のような人工環境がさらに増えていくことになろう。建築表現としてはハイテックな表現がその主流になる。自然か人工環境か、まずは建築表現の流れは二極化するであろう。

 

 工業化と地域性

 建築表現のあり方を大きく規定するのは建築テクノロジーのあり方である。鉄とガラスとコンクリートという工業生産された素材とラーメン構造(剛構造)を基本とする近代建築は世界中の都市景観をこの一世紀で一変させてしまったのである。建築材料やテクノロジーのあり方が変われば建築表現も変わる可能性がある。

 まずあげるべきは,CAD(Compuer Aided Design)表現主義とでも呼ぶべき流れである。これまでは容易に図面化できなかった形態もCADによっていともたやすく実現できる。また、CADという津具を手にすることによって思いもかけない形態を生み出すことができる。CADによる設計の大きな流れは変わらないであろう。

 しかし、CADはあくまで道具であって、現実の建築生産システムが自由自在に操作可能となるわけではない。モニュメンタルな建築を除けば現在の工業化構法の延長が主流であろう。その場合、スケルトン(躯体)ーインフィル(内装)分離が耐用年限とメンテナンスを考えて主流になる。すなわち、スケルトンの耐用年限を出来るだけ長く考え、内装や設備はより短期間にリサイクルするのである。

 建築の生産システムとしては、一方、地域産材利用など地域における生産システムを再構築する試みも現れるであろう。工業化構法によって日本列島の北から南まで覆うには無理がある。日本建築の伝統である木造建築は本来ローカルな生産システムにおいてつくられてきた。だからこそ、地域毎に固有な民家が見られたのである。近代化の過程はそうした地域的な建築生産システムを解体変容させてきたのであるが、果たしてそれでよかったのかが問われるのである。そうした中でひとつの流れとして地域性を強調する表現も求められていくであろう。

 鍵になるのは景観である。個々の建築表現は町並み景観(タウンスケープ)につながる。しかし、近代建築はその原理、理念において、地域の固有の景観を破壊してきた。世界中どこでも同じものが建てられるというのが近代建築である。それに対して各地で町のアイデンティティが問われ始めてきた。歴史的な町並みの保全や修景の試みが行われるのは地域から固有性が失われつつあるからであろう。各地域の町並み景観の固有なあり方として建築表現のあり方も問われるのである。

 

 変わらぬテーマ

 こうしてみると、建築的テーマは21世紀もそう変わらない、ということになる。インターナショナリズムかナショナリズムか、あるいはグローバリズムかローカリズムか、自然環境か人工環境か、成長拡大主か保全か、フローかストックか、・・・テーマは既に出揃っている。あるいは筆者の頭が古くて固いのかも知れない。しかし、少なくとも以上のようなテーマが、21世紀の日本建築、そして世界中の建築のあり方に大きく関わっていることは確実のように思えるのだけれど、如何だろう。

  

2024年10月26日土曜日

書評 磯崎新『見立ての手法』,共同通信,1990

 磯崎新『見立ての手法ーー日本的空間の読解』

 熊本アートポリス展のコミッショナー、水戸芸術館の総合ディレクター、花と緑の博覧会の会場設計と、このところ、個々の建築の設計のみならず、建築のプロデュースで八面六ぴの大活躍なのが建築家、磯崎新である。その磯崎新も来年には還暦を迎える。今や建築界の重鎮だ。本書は、その最新建築論集である。

 見立てとは、仮にみなす、あるいは、なぞらえる、という意味である。古来、日本庭園の作庭の手法として用いられてきた。竜安寺の石庭で、砂が海を、石が島や山を表す、という。そんなメタフォリカル(隠喩的)な表現がそうだ。本書は、そうした、日本的な表現手法をめぐる論考を集めて編んだものである。ほとんどが八〇年代に書かれたものであり、磯崎自身の建築的関心の推移をうかがう上でも興味深い。

 建築における日本的なるものというテーマは、一九三〇年代、五〇年代と、これまで繰り返し問われてきた。みるところ、国際関係において、日本のアイデンティティーが問われる時代に、日本回帰の現象が起こっている。専ら、西欧の古典的建築に依拠してきた磯崎が、八〇年代に、日本的空間をどう捉えようとしたかは、八〇年代という時代をうかがう手掛かりにもなろう。

 ま、かつら、にわ、ゆか、や、かげろひ、と全体は六部に整理されているのであるが、まず、取り上げられているのが、間(ま)という概念である。ジャパネスク・ブームのきっかけとなった、パリにおける間をテーマにする展覧会を契機とした文章が収められている。作家論や新都庁舎論なども含まれ、雑然とした感じもあるが、桂離宮論など読みごたえがある。

 磯崎が拘るのは、徹底して、西欧人の眼で、あるいは、近代主義者の眼でみると、日本的なるものはどう読めるのか、ということだ。ひと味違う日本建築論になっているとすれば、その拘りの故にであろう。(悠)

 

 

 

 

2024年10月10日木曜日

ゆるやかな統一 調整者としての建築家,書評内井昭蔵『再び健康な建築』,京都新聞,20030915

 ゆるやかな統一 調整者としての建築家,書評内井昭蔵『再び健康な建築』,京都新聞,20030915

書評 内井昭蔵 再び健康な建築

ゆるやかな統一

建築はひたすら健康であれ

調整者としての建築家 

               布野修司

 ポストモダンの建築が華やかなりしバブルの時代、建築界に「健康建築論争」と呼ばれる論争があった。著者はその中心にあって矢面に立たされた。近代建築の単調さ、画一性に対して仰々しく異を唱えた若いポストモダニストたちには、建築はひたすら自然で健康であれ、という素朴な主張は反動的で敵対的なものと思われたのである。

 時は過ぎ、帰趨は明らかになった。「再び健康な建築」と題された本書には「健康な建築」を求め続けた建築家の一貫する真摯な声を聞くことが出来る。

しかし、「健康」とは何か。論は単純ではない。「「健康」であることは「病気」であることと同じである」と書かれている。また、「自然」とは何か。建築するということはそもそも自然に反することではないか。「人工」は病なのか。テーマは多岐に亘るが、装飾、生態、環境といったごく当たり前の普通にわれわれが用いている概念が繰り返し繰り返し問われている。 

建築論の展開とは別に、著者の提起したマスター・アーキテクト制にも当然触れられている。建築家と言えば唯我独尊、頑固な独裁者というイメージが流布する中で、「ゆるやかな統一」を前提とする調整者(コーディネーター)としての建築家像は、ワークショップ方式のまちづくりが進展するなかで根づきつつある。京都コミュニティ・デザイン・リーグの運動もその流れのひとつである。

内井先生とは京都大学で三年ご一緒した。また、京都市の公共建築デザイン指針策定のための委員会で一緒であった。氏と京都との縁は深い。身近に接して第一に思い起こすのは、その思考の柔軟さである。景観についても予め色や形態を決めて規制するのは反対であった。さらに活躍が期待される大建築家であったが、昨年急逝された。本書は遺稿集でもある。その精神を学ぶ手掛かりがまとめられたことを喜びたいと思う。2003.0908



2024年10月3日木曜日

特殊講義・大学生協寄付講座 立命館大学・大学コンソーシアム京都「戦争と平和を問い直す」「建築と戦争 」建築とは戦うことである,キャンパスプラザ京都,2012年6月1日

特殊講義・大学生協寄付講座 立命館大学・大学コンソーシアム京都

キャンパスプラザ京都 20120601

戦争と平和を問い直す 
建築と戦争」  建築とは戦うことである

 布野修司(滋賀県立大学)

建築計画学・地域生活空間計画学・環境設計・建築批評

 

[1] 戦後建築論ノート,相模書房,1981615

[2] スラムとウサギ小屋,青土社,1985128

[3] 住宅戦争,彰国社,19891210

[4] カンポンの世界,パルコ出版,1991725

[5] 戦後建築の終焉,れんが書房新社,1995830

[6] 住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論,朝日新聞社,19971025

[7] 廃墟とバラック・・・建築のアジア,布野修司建築論集Ⅰ,彰国社,1998510 [8] 都市と劇場・・・都市計画という幻想,布野修司建築論集Ⅱ,彰国社,1998610

[9] 国家・様式・テクノロジー・・・建築の昭和,布野修司建築論集Ⅲ,彰国社,1998710

[10] 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000310

[11] 曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容,京都大学学術出版会,2006225

12]建築少年たちの夢 現代建築水滸伝、彰国社、2011610

o  布野修司編+アジア都市建築研究会:アジア都市建築史,昭和堂,20038

o  布野修司+安藤正雄監訳,アジア都市建築研究会訳,[植えつけられた都市 英国植民都市の形成,ロバート・ホーム著:Robert Home: Of Planting and Planning The making of British colonial cities、京都大学学術出版会、20017,監訳書

o  布野修司編:『近代世界システムと植民都市』,京都大学学術出版会,20052

o  布野修司,カンポンの世界,パルコ出版,19917

o  布野修司,曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容,京都大学学術出版会,2006225

o  Shuji Funo & M.M.Pant, Stupa & Swastika, Kyoto University Press+Singapore National University Press, 2007

o  布野修司+山根周,ムガル都市--イスラーム都市の空間変容,京都大学学術出版会,20085

o  布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民、『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』京都大学学術出版会、20105


o   

建築と戦争
国家・様式・テクノロジー
日本建築をめぐるプロブレマティーク

 

1 戦争と建築:帝冠併合様式

 近代建築理念の受容定着

 戦争(戦時ファシズム体制)と植民地

2 丹下健三と広島平和記念館

3 白井晟一と原爆堂計画

 

関連年表

       1928 日本インターナショナル建築会結成

       1928 神奈川県庁舎竣工

       1929     名古屋市庁舎コンペ

       1930     明治製菓本郷店コンペ

       1931     新興建築家連盟結成即解体:東京帝室博物館コンペ

       1932     第一生命保険相互会社本館コンペ:東京工業大学水力実験室 岡村蚊象「新興建築家の実践とは」

       1933     名古屋市庁舎竣工 京都市立美術館竣工:日本青年建築家連盟結成 デザム

       1934     木村産業研究所(前川國男) バウハウス閉鎖 B.タウト来日:軍人会館竣工 築地本願寺 明治生命館:東京市庁舎コンペ:ひのもと会館コンペ

       1935     土浦亀城邸 そごう百貨店(村野藤吾):  パリ万博日本館コンペ

       1936     国会議事堂竣工    2.26事件 落水荘:日本工作文化連盟発足

       1937     東京帝室博物館竣工 静岡県庁舎竣工:パリ万博 日本館(坂倉準三):大連市公会堂コンペ:日支事変

       1938     愛知県庁舎竣工 鉄鋼工作物築造禁止 国家総動員法

       1939     忠霊塔コンペ 若狭亭(堀口捨己) 岸記念体育会館

       1940     建築資材統制:1941     木材統制規制

       1942     大東亜建設記念営造計画コンペ

       1943     在盤石日本文化会館コンペ 惜檪荘(吉田五十八)

       1944     建築雑誌休刊 浜口隆一「日本国民建築様式の問題」

       1945     敗戦

       1946     プレモス74: 1947     NAU結成 『ヒューマニズムの建築』『これからのすまい』

 

虚白庵の暗闇―白井晟一と日本の近代建築

布野修司

プロローグ

白井晟一は、僕の「建築」の原点であり続けている。理由ははっきりしている。僕が「建築」について最初に書いた文章が「サンタ・キアラ館」(1974年、茨城県日立市)」についての批評文なのである。悠木一也というペンネームによる「盗み得ぬ敬虔な祈りに捧げられた(マッ)()―サンタ・キアラ館を見て―」(『建築文化』,彰国社,19751月号)と題した文章がそれである。・・・・

Ⅰ 白井神話の誕生

僕が「建築」を志した頃、白井晟一という「建築家」は、謎めいた、神秘的な、実に不思議な存在であった。逝去後30年近い月日が流れた今も、不思議な「建築家」であったという思いはますますつのる。・・・

公認の儀式

白井晟一が「親和銀行本店」で日本の建築界最高の賞である日本建築学会賞を受賞するのは1968年である。63歳であった。「善照寺本堂」で高村光太郎賞を受賞(1961年)しているとは言え、建築界の評価としてはあまりに遅い。しかも、受賞にあたっては「今日における建築の歴史的命題を背景として白井晟一君をとりあげる時、大いに問題のある作家である。社会的条件の下にこれを論ずる時も、敢て疑問なしとしない。」という留保付きであった。・・・・

1968

僕が大学に入学したのが、白井晟一が「公認」された1968年である。「パリ5月革命」の年だ。日本では東大、日大を発火点にして「全共闘運動」が燃え広がり、学園のみならず、街頭もまた、しばしば騒然とした雰囲気に包まれた。東大は6月に入ると全学ストライキに入り、ほぼ一年にわたって授業はなく、翌年の入試は中止された。大学の歴史始まって以来の出来事であった。・・・

聖地巡礼

僕が「サンタ・キアラ館」について書いたのは、こうした白井ブームの渦中であった。・・・

Ⅱ 建築の前夜

白井晟一の戦前期のヨーロッパでの活動はヴェールに覆われている。カール・ヤスパース、アンドレ・マルローなどとの関係が断片的にのみ語られることで、様々な伝説が増幅されてきた。白井晟一を「見出し」、建築ジャーナリズム界へのデビューを後押ししたとされる川添登が、その履歴をかなり明らかにしているが、それでも謎は残る。白井晟一は、ヨーロッパで一体何をしていたのか、何故、帰国後、建築家として生きることになったのか、その真相は必ずしも明らかではない。・・・・

建築・哲学・革命

白井晟一の建築家としての出発点は、京都高等工芸高校(1924年入学1928年卒業、現京都工芸繊維大学)に遡る。ただ、入学の段階で建築家として生きる決断はなされてはいない。青山学院中等部の頃からドイツ語を学び、哲学を学びたいと思ってきた。一高入学に失敗した挫折感もあって、建築科の講義には身が入らず、京大の教室にもぐりこんで哲学の講義を聞く。・・・

スタイルとしての近代

白井晟一がヨーロッパに向かった同じ1928年に、前川國男もまたパリへ赴く。よくよく因縁の二人である。前川國男は、帰国後の「創宇社」主催の「第二回新建築思潮講演会」での講演「3+3+3=3×3」(1930103日)によって建築家としてデビューすることになる。前川國男は、日本に近代建築の理念が受容されるまさにその過程において建築家としてデビューし、その実現の過程を生きた。・・・

「新興建築家」の「悪夢」

前川國男がこう発言した「第2回新建築思潮講演会」は、山口文象19021978の渡欧送別会を兼ねたものであった。同じ日同じ場所で、山口は「新興建築家の実践とは」と題して講演し、次のように覚悟を語っている。・・・

建築修行

1933年に帰国して、東京・山谷に二ヶ月暮らす、34年、千葉県清澄山山中「大投山房」で共同生活、と「白井年表」は記す。また、「山谷の労働者仲間に加わったり、同じく帰国した市川清敏や後藤龍之介らの政治活動に参加したりするが、まもなく自ら袂を分った」という。レジスタンスをしていたのかと問われて、白井本人は「レジスタンスなどとはいえませんね。あまのじゃくぐらいのことです。思想として戦争に賛成できなかったということでしょう。家の焼けるまで書斎の窓を閉めきって今より充実していたかもしれません」と答えている。・・・・

Ⅲ 建築の精神 

精一杯のソーシャリズム

白井晟一が、戦後はじめて建築ジャーナリズムにその一歩を記したのは「秋の宮村役場」によってである(『新建築』195212月)。「秋の宮村役場」によって、白井晟一に光が注がれる糸口が与えられた。その登場が衝撃的であり得たのは、その作品あるいは造型の特質にかかわる評価以前に、その具体的実践そのものであった。「秋の宮村役場」(1950-51)「雄勝町役場」(1956-57)「松井田町役場」(1955-56)の3つの公共建築、秋田や群馬など地方での仕事、「試作小住宅(渡辺博士邸)」(『新建築』19538月号)に代表されるいくつかの小住宅など1950年代前半の作品は、その後の作品の系譜に照らしても、また、当時の他の建築家の活動の状況からみても、驚くべき量と密度を示しているのである。・・・

原爆堂の謎

白井晟一は、そう多くの文章を残しているわけではないし、発言も多くない。まして、建築のおかれている社会的状況に対して直接的に発言をするのは極めて珍しい。・・・

伝統・民衆・創造:縄文的なるもの

 建築家は何を根拠に表現するのか。1950年代において主題とされたのは、日本建築の伝統の中に「近代建築」をどう定着するか、ということであった。そして、近代建築の理念の中に、日本的な構成や構築方法、空間概念を発見すること、「伊勢神宮」や「桂離宮」に典型化される限りにおける日本の建築的伝統に近代的なるものをみるという丹下健三の伝統論がその軸となり、結論ともなった。しかし、白井の伝統論は全く異なる。ただ単に、日本建築の伝統は「弥生的なるもの」ではなく「縄文的なるもの」である、「伊勢」や「桂」ではなく「民家」である、というのではない。白井にとっての「伝統」「民衆」「創造」は、何よりも、自らの具体的な体験をもとに、また歴史の根源に遡って思索されるものなのである。・・・

Ⅳ 建築の根源

白井晟一を「公認」することによって、特に戦後まもなくから1950年代における白井晟一の仕事を突き動かしていたものを正確に受け止める機会は失われてしまう。「虚白庵」に閉じこもり、自らの自我をみつめる方へ向かった白井晟一自身の問題であったが、白井晟一を「異端の建築家」としてしまった、日本の建築界の根底的な問題でもあった。アリバイづくり、というのはそういう意味である。・・・

木と石

 「西洋の思想や文化に直面せざるをえなかったわれわれが、そのぶ厚い石の壁に体でぶつかり、これを抜きたいという、私には荒唐無稽な考えとは思わなかったのです」と白井晟一はいう。本気でこんな課題設定をした建築家は近代日本にはいない。日本に、「パルテノンでなくてもロマネスクやルネサンス、せめてバロックのような遺産があったら、こんな不逞な希いはもたなかった」「西洋近世建築の程度のよくないものの模倣しかつくれなかった日本に生まれたおかげだ」、などという。・・・・

アジア

 西洋建築にぶつかり、これを抜きたいと思っていた白井晟一が、戦後はじめて洋行するのは、1960年秋である。ドイツは訪れず、イタリア、フランス、スペイン、イギリス、北欧を回った。これは、「白井晟一の精神史において、これは分岐点としての意味をもつ旅であったと見られる。長い年月かれの精神に大きな拘泥として持続していたヨーロッパ、とりわけ文化全体としてのカトリシズムから解放への契機となる。『肝の中から感動させるようなものはヨーロッパにはない。唯此の眼、此の足で、自分をたしかめただけだったかもしれない。之で目的は充分に達した。』帰国した白井は以前にも増して仏教思想、特に道元に情熱的にとりくみ、「書」を行とする生活が明確になる。」・・・

デンケンとエクスペリメント:建てることと考えること

 おそらくは、記録された最後の白井晟一の発言である「虚白庵随聞」において、インタビュアー(平井俊治、岩根疆、塩屋宋六)が、執拗に密教、曼荼羅、宋廟、白磁など、アジア、ユーラシアについての関心を問うた上で、「都市とか地方独特な風土とかではなく、もっとコスミックな広がりをバックにして建築造型をされているというような感じがしているんですが」というのに対して、以下のようにいう。・・・・

エピローグ

白井晟一が亡くなったのは、19831121日である。前川國男は、「日本の闇を見据える同行者はもういない」という弔辞を読んだという。その前川國男が逝ったのは1986626日である。同じ年に「新東京都庁舎」の設計者に丹下健三が決まった。その時のコンペの結果をめぐって僕は「記念碑かそれとも墓碑かあるいは転換の予兆」(『建築文化19865月)という文章を書いた。・・・・

 

 番外:震災復興・地域再生とコミュニティ・アーキテクト

日本建築学会・副会長

復旧復興支援部会 部会長 布野修司(滋賀県立大学)

大災害は、それが襲った社会、地域の拠って立つ基盤、社会経済政治文化の構造を露にする。東日本大震災が露にしたのは、エネルギー、資源、人材など、日本が如何に東北地方に依存してきたかということであり、少子高齢化がいきつく地域社会の近未来の姿である。復旧復興支援は、日本全体の問題である。また、東北各地の復興を考えることは、そのまま日本各地の地域社会の再生を考えることである。

 

東北大学大学院経済学研究科 『東日本大震災復興研究Ⅰ』

河北新報出版センター 20120317





















2024年9月7日土曜日

親自然工法とは,傷つけて癒す,楓,19980101

 親自然工法とは,傷つけて癒す,楓,19980101


傷つけて癒す・・・親自然工法とは

布野修司

 

 昨年のある県の景観賞審査委員会で、ちょっとした議論があった。ある河川の改修工事が賞の候補に残り、大半の委員の意見は「賞に値する」という意見のようであった。しかし、ぎりぎりのところである農業土木の専門委員から反対意見が出されたのである。

 当の河川改修は著名な観光地の中心を流れる川で、三面張りの味気ない護岸であったものを自然石やタイルでデザインし直したものである。以前のどぶ川が見違えるようになった、というのが多くの地元の委員の感慨である。

 反対理由のひとつは、この程度の河川改修は全国何処でもやっており、特に、顕彰するまでのことはない、というものである。確かにそうである。県内でも、似たような事例は増えつつある。

 問題はもうひとつの反対理由である。三面張りを改修修景したのはいいが、自然の回復という意味では三面張りと同じであるという。親自然工法とか近自然工法、あるいはビオトープが試みられつつある中で、ちっとも先進的ではない、と力説される。言われれば、そうである。蛍が棲息するように、といった試みは県内にも既にいくつかある。

 河川改修の本質とは何か、議論していくうちに、造園とは何か、ということも問題になってくる。自然のままにしておけばいいというのであれば、造園はいらないのではないか、といった意見も飛び出た。

 結局、その応募作品は見送りとなった。

 今年、再びその作品が問題になった。議論を続けるために、敢えて候補作品として何人かの委員が押し続けた。結果、近自然工法と思われる河川改修と同時に入賞ということになった。

 大きなきっかけとなったのは、公共事業の削減命令で、真っ先にこうした護岸改修や外構の予算が削られそうです、という行政代表委員の休憩時間の発言であった。せっかく、景観をテーマとすることができるようになったのに、後退されてはたまらないというわけである。

 しかし、議論が解決したということではない。いったい親自然工法とはなにか。土木、建築というのは基本的には自然を傷つけることによって成り立つ人工的営為である。造園はどうか。傷つけて癒す、その思想と方法が問われている。景観の問題は、単なるお化粧直しのデザインの話に止まるわけにはいかないのである。

2024年9月4日水曜日

「言説」のみで「建築」を語る「限界」、八束はじめ『思想としての日本近代建築』、図書新聞、20051011

書評:八束はじめ著『思想としての日本近代建築』

「言説」のみで「建築」を語る「限界」、八束はじめ『思想としての日本近代建築』

布野修司

 

 大著である。きちんとロジックを追うのはいささか骨が折れる。物理的にも重い。「思想としての日本近代建築」という、「思想」「日本」「日本近代」「近代建築」「建築」のいずれの間にも「・」(中黒)を入れて読みうる奇妙なタイトルの本著は、著者によれば、「思想史的な論考」であって、「建築がどのようなものであったかを具体的に論じるというものではない」。テーマとするのは(全体を通じて浮き上がらせたいのは)、「建築」を通して、「日本」という枠組みの中に成立した「近代」の姿である。

 主として素材とされるのは、近代日本において孕まれ、記された「建築家」による言説であり、「近代建築史」に関わる論文・著作である。しかし、著者自ら認めるように、本書には、文学、美術、哲学、・・等々、実に多くの「ジャンル」の言説もまた、「煩瑣なまでに入れ替わり立ち替わり登場する」。読むのに骨が折れるのはそのせいでもある。しかも、構成を整除しすぎることを警戒したというのである。

 しかし、本著はロジックを弄んでいるのでも、韜晦を決め込んでいるのでもない。かつて同じような作業を試みようとしたことのある評者には、少なくとも、「日本の近代建築」に関わるテーマは網羅され、議論されているように思われる。

 全体は、三部に分けられ、それぞれ三~四章からなるが、大きく「国家・歴史・建築」「地方・モダニズム・住宅」「政治・国土・空間」というキーワードが与えられている。「明治」「大正」「昭和」戦前期が対応するが、記述の縦糸は各章を通じて張られている。

まず、著者は、「建築」「建築史」の起源、その成立を執拗に問う。焦点となるのは伊東忠太の著作・言説である。言説を成り立たせるフレーム、土俵、根拠を問う(メタ・ヒストリー)のは本書に一貫する構えである。

そして続いて「様式」が問われている。日本近代建築史の脈絡において問題にされてきた、「擬洋風」、「議員建築問題」(「国家と様式」論争)、「国民様式」論、「帝冠(併合)様式」等々の問題は本書で一貫するテーマとして論じられている。

著者のこれまでの仕事からはやや意外な気もしたが、評者のように、「住宅の問題」あるいは「計画の問題」に拘り続けているものにとって、第二部が全体的に「住宅」を焦点としているのは興味深くもあり、ありがたい。「風景」あるいは「風土」というキーワードとともに、「住宅」は、「日本」という「空間」を問う大きな手掛かりである。

空間的フレームとしては、具体的に、日本植民地の空間が問題にされている。本書の全体フレームとされるのは「国民国家としての日本」であり、「大東亜」の空間が問題となるのは当然といえば当然である。

本書の可能性と限界は、そのテーマ設定そのものにあるといっていい。日本近代建築史の既往の作業を見事に相対化、メタ・クリティークしてくれている。個々の作業の前提として、一方で必要なのはこうしたパースペクティブである。次元は低い言い方であるが、建築について語られ続けていることはまるで金太郎飴なのである。

しかし、本著から、「建築家」なり「作家」が何を学べばいいのか、ということになるといささか心もとない、というか、もともとそんなことは意図されていないのである。本書は、冒頭に宣言されるように、もとより近代建築史の本ではない。また、近代日本における「建築」あるいは「建築のあり方」を問う本でもない。それを求めようとすれば不満が残るのは当然である。「建築」を「言説」のみにおいて語るのは「限界」がある。

最大の不満は、昭和戦前期で記述を終えていることである。「あとがき」において、評者の名前を挙げ、戦後については、「布野修司氏の仕事(『戦後建築論ノート』『戦後建築の終焉』)があれば今のところで充分ではないかと思っている」と書くが、拙著が不十分であることは明らかである。戦後も60年になる。戦後にまで作業を進めるのは、本書を書いたものの若い世代に向けての義務であろう。

そして言説批判の書として決して小さくない不満は、引用、注、参考文献が入り乱れていることである。もう少し言説のリストを整理してもらえなかったか。何も頁数まで記せとは言わないが、後学のためには残念である。

昭和戦前期における、いわゆる「帝冠様式」「ファシズム建築」「前川國男評価」などをめぐって評者の言説も批判的に取り上げられている。特に「十五年戦争期」の問題は今日的でもあり、掘り下げられる必要がさらにあると思う。その文章を書いた頃、「同時代建築研究会」の仲間と共に戦時中の建築家の活動についてかなり精力的に聴いて回っていたことを思い出す。書かれないことをどう書くのか。同じ頃、著者と、書くこと、見ること、作ることの根源をめぐって議論したのがなつかしい。しかし、議論は決して過去のものではない。景観法が施行される中で、「勾配屋根」が取り沙汰されるのは現在のことなのである。(8月30日)


2024年6月1日土曜日

再開発の21世紀像を問う 伊東豊雄・藤本壮介・平田晃久・佐藤淳『20XXの建築原理へ』、書評、共同通信、200911

  東京都心の一等地、伊東豊雄の事務所の隣にあった病院が再開発のために壊された。築40年、老朽化したとはいえ、いまだ十分使用に耐える建物が無残に打ち砕かれ、日ごとにがれきの山と化していく姿を見て、建築家の心は痛んだ。更地となった敷地には、やがて、高層住宅やオフィスビルが林立するであろう。これでいいのか。本書は、世界的に著名な建築家のごく素朴な自問から始まる。

 建築家は、同じ敷地に架空のプロジェクトを立ち上げ、三人の新進気鋭の建築家を招集する。そして、一年にわたる濃密な議論の末に提案がまとめられた。それを評価する討論には、日本を代表する二人の建築家を招いた。この一年の議論の全過程を記録したドキュメントが本書である。

 小著ではあるけれど、建築をめぐる最も知的で良質な議論がここにある。そして建築の原理と手法をめぐる真摯な思索と提案がある。

 半世紀前、本書の若手と同じ年ごろの若い建築家たちが、先を争って次々に都市プロジェクト(「塔状都市」「海上都市」「垂直壁都市」…)を発表したのを思い出す。1960年代の日本は高度成長を続け、提案はさまざまに実現していった。その末が、われわれが現在目にする高層ビルの林立する風景である。架空のプロジェクトが目指すのは全く異なった都市の風景である。

 若い建築家たちの提案は一見、かたちをもてあそんでいるように見える。しかし、追求されるのは全く新たな環境と建築との関係なのである。あらかじめ拒否されているのは、全体を経済原理によって一元的に決定するシステムである。「巨樹」のような建築、「山」のような建築、自然と共生する生命体のような建築が共通に目指されているように思える。

 身近な環境を見つめなおすことで、日本の建築のあり方が大きく転換していく、そんな予感が本書にはある。問題は、しかし、その先にある。若い建築家たちのこの思考実験が数多くに共有され、具体的なプロジェクトに実際に生かされていくことを期待したい。(布野修司・滋賀県立大教授)

 (INAX出版・2205円)


新潟日報 20091108
福井新聞 20091101