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2025年6月3日火曜日

地球環境時代の都市デザイン、特集 温暖化への対応 日本のテクノサイエンス、科学、200805

温暖化にいかに対応するか──技術・都市・ 環境(仮)

「生態系的都市」(仮)4500程度

 

地球環境時代の都市デザイン

布野修司

 

 地球環境問題が喧しく論じたてられ、様々な対応策が論じられるにも関わらず、いっこうに事態の進展が見られないのは実に不思議である。そして、そこにこそ現代の根源的危機があるのもはっきりしている。

 第一、危機を危機として認識しない底抜けの楽天主義がある。あるいは危機を疑う懐疑主義がある。第二、裏返しで、危機を危機として煽るだけのエコ・ファシズムがある。あるいは、エコという名に値しない「偽装エコ」が横行している。第三、この二つによって「不都合な真実」が隠されてしまっている。第四、隠された「真実」として、危機を危機としてそれをビジネスとする、あるいは危機であろうとなかろうと格差、差異を利潤の原動力とする世界資本主義の自己運動がある。第五、危機を危機として意識するものの、対処の仕方がわからない、対処ができないという問題がある。これが最も身近な問いである。

石油依存の社会、車依存の社会が決定的に問題であることははっきりしている。しかし、車に乗るな!と言われても、そうはいかない。根源的にはライフスタイルの問題であると頭で理解はできても、最早身体がついて行かない、そんな事態に立ち入ってしまっている。すなわち、地球大の問題と個々の身体の問題が直接絡まり合って、解くに解けないのが現代である。

 ここでは、地球環境時代の都市について考えたい。「日本の風土に合わせた都市のデザインをどのように考えていくのか」というのが与えられたテーマである。物質循環、エネルギー循環といった観点からの論考は他に譲ることになるが、もとより、理論モデルを立て、シミュレーションをして、数値目標を導き出すなどは不得手である。しかし、事態が、50%削減が不可避という方向であるとすれば、解決は、単なる数値合わせ、CO2排出権取引といった次元にはない、ことははっきりしている。

もう30年もスラバヤ(インドネシア)のカンポン(都市村落)に通っている。カンポンとはムラという意味である。都市の住宅地なのにカンポン(ムラ)という。詳述する余裕がないけれど、そこには自立的なコミュニティがある。貧しいけれど、職住近接の活気に満ちた世界がある[i]

そうしたカンポンの世界でスラバヤ・エコ・ハウスと呼ばれる実験集合住宅を建てた。椰子の繊維を断熱材に用い、井戸水を太陽電池のポンプで汲み上げて床輻射冷房の装置を組み込んだ。こうしたモデル集合住宅、モデル住宅地が各地で試みられる必要があると心底思う。とりわけ、今後人口が増えるのは熱帯地域である。そこで皆が一斉にクーラーを使い出したらどうなるか。インドネシアの友人たちと議論を重ねて設計した、自然エネルギーを最大限に生かしたモデル集合住宅がスラバヤ・エコ・ハウスである。

「しかし、何故、エコ・ハウスをわれわれだけに押し続けるのですか?日本ではクーラー使わないのですか?」という無数の声がある。

今のところ筆者は、何も言えずに、黙るしかない。

都市といえども、それを構成する都市組織のあり方、具体的には街区のかたちや住宅のかたちが問われる。そのあり方を念頭に、世界の都市史を大きく振り返って、素朴な直感をメモしてみたい。

 

大転換の1960年代

 都市の歴史を大きく振り返る時、それ以前の都市のあり方を根底的に変えた「産業化」のインパクトはとてつもなく大きい。都市と農村の分裂が決定的となり、急激な都市化、都市膨張によって、「都市問題」が広範に引き起こされることになった[ii]。しかしながら、今日の都市をとりまく状況は、さらに桁外れに危機的となりつつある。その決定的な転換の閾は1960年代にある。

日本列島の景観の変化が象徴的にそのことを示している。1960年代初頭、日本にアルミサッシュの住宅はゼロである。全て木製建具であった。1970年その普及率は100パーセントとなる。クーラー(空気調整機)が普及し、日本の住宅の機密性があがったということである。日本の都市の人工環境化は以来とどまることを知らない。日本にプレファブ(工業化住宅)住宅の第1号ミゼットハウスが販売されたのが1959年である。1970年には年間新築戸数の14パーセントをプレファブ住宅が占めた。現在は20パーセントを超える。住宅は建てるものではなく、工場で作られたものを買う時代になった。この10年で、日本中から藁葺き茅葺きの民家がほぼ姿を消した。1960年代は、間違いなく、日本の住宅史上最大の転換期である。東京オリンピックを期に、高速道路網が東京につくられ、百尺規定が撤廃されて、最初の超高層建築霞ヶ関ビルが建ったのは1968年である[iii]

第二次世界大戦が終わった頃、すなわち20世紀半ば頃までは、都市景観に大きな変化はなかったといっていい。東京で言えば、江戸の雰囲気がそこここに残されていた。

CO2削減の基準年を1990年代のどこに置くのか、といった議論はあまりにも姑息で近視眼的である。都市を含めた社会システムの全体を問題にするのであれば、少なくとも1960年代の初頭、あるいは第二次世界大戦終戦直後に遡って、そこを出発点と考えるべきだと思う。

 

鉄とガラスとコンクリート

産業社会の進展を加速化し、都市化の水準を格段に変えてしまったのが石油である。すなわち、外燃機関から内燃機関への展開、具体的には、車と飛行機の出現は、移動時間を短縮させ、都市の拡大を飛躍的に促すことにおいて、都市のかたちをそれ以前とは比較にならないほどに変えてしまう。そして、都市の立体化を実現したのが「鉄筋コンクリート造(reinforced concrete construction、略してRC造という)」の「発明」であった。鉄とコンクリート[iv]の「偶然の結婚」と言われる、この「発明」がなかったら、世界都市史は全く異なったものになった筈である。

鉄筋コンクリートは、引張りに強い鉄と圧縮に強いコンクリートを組み合わせる実に都合のいい合成材料である。「偶然の結婚」とは、たまたま、鉄とコンクリートとの付着力が十分強いこと、コンクリートはアルカリ性であり、鉄はコンクリートで完全に包まれている限りさびる心配がないこと、そして鉄筋とコンクリートの熱膨張率が非常に近いこと、という条件があったということである。

1850年頃に、フランスの J. L. ランボーが鉄筋コンクリートでボートをつくったのが最初で、1867年に、J. モニエが鉄筋コンクリートの部材(鉄筋を入れたコンクリート製植木鉢や鉄道枕木)を特許品として博覧会に出品したのが普及の始まりである。J. モニエは1880年に鉄筋コンクリート造耐震家屋を試作する。その後ドイツのG.A.ワイスらが86年に構造計算方法を発表し、実際に橋や工場などを設計し始め、建築全般に広く利用されるようになった[v]

すなわち、鉄筋コンクリートの歴史はたかだか一世紀のことである。そして、われわれにはかつて最強の永遠の素材と考えられた鉄筋コンクリートに対する信頼感はない。塩分を含んだ海砂の問題で明らかになったように意外にもろい。再生コンクリートも模索されるが、その未来は見えない。

ここでも、われわれは一世紀前に遡って、都市空間支える物質的基礎(建築材料)を再考すべきである。

 

都市の死

都市の立体化へ向かっては、もちろん、鉄骨造の発達もあれば、エレベーター技術の開発が不可欠である。いずれにせよ、科学技術の発達によって、都市は垂直的に空間を確保することによって、さらなる集積が可能となった。そして、地域の生態系を超えるキャパシティを持つ都市が世界中に出現することになった。かつて、プライメイト・シティ(首座都市、単一支配型都市)と呼ばれた発展途上地域は、だらだらと繋がり始め拡大巨大都市地域EMR[vi]と化しつつある。

こうしたクライマックスが見えてしまった段階で、想起すべきは都市の生と死の歴史(栄枯盛衰)である。都市が無限に拡大し続けることはあり得ない。エネルギー、資源、食料が有限であることは、既に地球大の規模で確認されつつあることである。

インダス文明は、紀元前2000年頃から衰退し始め、前1800年頃には解体したとされる。衰退の理由として挙げられるのは、まず、インダス川の大氾濫、あるいは河口の隆起による異常氾濫、もしくは河川の流路変更などの自然条件である。また、モエンジョ・ダーロにおける「スラム」化など都市機能が麻痺したことによる都市内的要因である。その衰退は、徐々に進行したとされ、煉瓦を焼くための森林の過剰伐採による気候変化(乾燥化)という説もある。

都市は、そもそも、自然、地域の生態系への挑戦として成立する。その原型としてのオアシス都市を考えてみればいい。オアシスは、単に、水のあるところではない。水を利用して農耕が行われるところがオアシスである。すなわち、オアシスは自然に存在するのではなく、人工的営為によってつくられるのである。オアシスの持続のためには人為が不可欠である。沙漠に埋もれて忘れ去られた数多くの都市があることがそのことを示している。また、オアシスの成立には水の利用について高度な技術、知恵が必要とされる。

都市が今日でも自然、地域の生態系との関係においてのみ存続していることは、台風や地震、ますます増え続ける都市洪水などで思い知らされていることである。

 

地域の生態系に基づく居住システム

さて、ここからが本題である。建築、あるいは土地は、基本的に動かないし、動かせない。基本的には「地(ぢ)のもの」である。プレファブ(工業化)建築は、ある意味で画期的な発明であった。土地土地で採取できる材料(地域産材)によってつくられてきた建築が工場で作られようになるのである。工業材料(鉄、ガラス、コンクリート)でつくられることによって、また、四角い箱形のジャングルジムのような超高層建築を理想とする近代建築の理念によって、世界中の都市が似てくるのは当然の流れであった。

ただ一点、建築は他の工業製品と異なる。99%工場でつくられても、具体的な敷地に置かれて始めて建築となる。建築が「地のもの」、というのはそういう意味である。

環境をめぐる全てが複雑に絡まり合う現代社会において、唯一、共通の指針となるのは、

「可能な限り身近に循環系を成立させる」

ということであろう。「地産地消」というスローガンが共有されつつあるが、食糧にしても、エネルギーにしても、廃棄物にしても、地域を越えたとてつもないシステムが地域の生態系に基づいてきた居住の仕組みをずたずたに切り裂いてしまっていることが最大の問題なのである。

都市についても、同じように言いうる。「日本の風土に合わせた都市のデザインをどのように考えていくのか」と言われれば、地域地域で採れる、あるいはつくられる素材を基礎にして、都市をデザインすること、その原点に立ち返ることが出発点になる。例えば、木材は真剣に見直されていい。しかし、国内自給率が50%を下回って(1985年)既に久しい。日本に木材が育っていないわけではない。食糧同様、その生産流通消費の構造が狂ってしまっているのである。

エコハウスなどと言わなくても、日本の住まいは、そもそも、日本の気候風土にあったかたちで成立し、その伝統を維持してきた。世界中を見渡しても、住居が地域の生態系に基づいて成り立ってきたことは明らかである[vii]

何故、日本でエコハウス=地域の生態系に基づく居住システムが実現しないのか、と言えば、冒頭に戻っての堂々巡りである。そうした方向を否定してきたのが産業化の流れである。それ故、またしかし、エコハウス=地域の生態系に基づく居住システムの実現は、過去に戻ることを意味しない。また、誤解を恐れずに言えば、単に法制度的な枠組みの改変の問題でもない。確かに、居住あるいは建築をめぐる日本の制度的枠組みには、日本の都市を鉄と・ガラスとコンクリートで画一的に固めてしまえばいいといった、どうしようもないところがある。そして、エコハウス・オリエンティッドな環境経済学的な仕組みも最大限追求されるべきである。しかし、全く新たな世界史的な実験と考えなければ展望は見いだせないと思う。それよりも何よりも、百の議論より、身近な一歩である。


布野修司先生
 平素は社としてお世話になっております。突然のメールで失礼いたしますが、私は、岩波書店の雑誌『科学』を担当しております田中と申します。
 『科学』085月号において、地球温暖化への日本の対応について特集したいと考えております。構成案としては末尾のように考えておりますが、どうしても技術的な話が多く、違った角度からの論考も織り交ぜたいと考えております。
 先生には、そうしたものの1つとして、都市のあり方について、4500字程度の論考をご執筆いただけないかと希望しております。
締切としては、314日(金)でご検討いただけると幸いでございます。
 内容としては、先生にお任せしてよいと考えております。構成案に示した「生態系的都市」というのは、あてずっぽうで、先生のホームページに記載されていた言葉を勝手につなぎ合わせたものです。
 都市については、花木啓祐氏(東大)に、エネルギーや物質循環などの側面でお願いしておりますので、先生には、より建築に則した論考を考えていただければと思っております。
 温暖化がすすむとして、日本の風土に合わせた都市のデザインをどのように考えていくのか、といった方向で考えていただくのはどうか、と思っております。
 漠然としていて恐れ入ります。お電話で相談した
いと思ったの
ですがタイミングがうまくあわず、メールにてまず
はお願いをさ
しあげる次第です。
 ご検討をどうぞよろしくお願い申し上げます。

 岩波書店
 田中太郎

『科学』085月号 (敬称略、流動的な内容ですのでお手元に留めてください)
特集:温暖化にいかに対応するか──技術・都市・ 環境(仮)

[技術]
総論(新エネルギーを含めて) 山地憲治(東大)
省エネ 永田豊(電中研)
炭酸ガス貯留 藤井康正(東大)
 [コラム]
 ・IPCCの議論 杉山大志(電中研)
 ・地底の二酸化炭素の科学 赤井誠(産総研)
 ・家庭のエコ 山岡寛人(元高校教師)
 ・産業 製鉄 鵜沢政晴(鉄鋼連盟)
     セメント 北村勇一(セメント協会/太
平洋セメント)

[都市]
総論 花木啓祐(東大)
生態系的都市 布野修司(滋賀県立大)

[環境]
日本の適応策(農業、防潮堤) 原沢英夫(環境研)
森林の吸収 松本光朗(森林総研)
 [コラム]
 ・バイオ燃料 北林寿信(農業情報研)
 ・農業とメタン 八木一行(農業環境技術研究所)
 ・海洋吸収:地球科学の視点から 中澤高清(東
北大)

[社会]
排出権 岡敏弘(福井県立大)
CDM
 明日香壽川(東北大)


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岩波書店『科学』編集部
田中太郎
1018002
東京都千代田区一ツ橋2
電話:0352104435(直通)
          4000(代表)
ファックス:0352104073
電子メール:tarotan@iwanami.co.jp
HP
http://www.iwanami.co.jp/kagaku/
12
月号特集「富士山噴火の危険性––噴火予知と災
害対策」発売中
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[i] 拙著、『カンポンの世界』、PARCO出版、1991

[ii] 拙稿、「都市のかたちーその起源、変容、転成、保全ー」、『都市とは何か』『岩波講座 都市の再生を考える』第一巻、岩波書店、20053

[iii] グローバルにも、大きな閾となるのは1960年代といっていい。既に兆候は現れていた。「都市化」は、「産業化」の度合に応じる一定のかたちで引き起こされてきたのではない。「工業化なき都市化」、「過大都市化」と呼ばれる現象が、工業化の進展が遅れた「発展途上地域」において一般的に見られた。結果として、1960年代初頭には、世界中に数多くの人口一千万人を超える巨大都市(メガロポリス)が出現しつつあった。

[iv] コンクリートそのものは、建築材料として古代ローマから用いられてきた。広くはセメント類、石灰、セッコウなどの無機物質やアスファルト、プラスチックなどの有機物質を結合材として、砂、砂利、砕石など骨材を練り混ぜた混合物およびこれが硬化したものをいう。セメントとは、元来は物と物とを結合あるいは接着させる性質のある物質を意味するが、その利用そのものは古く、最も古いセメントはピラミッドの目地に使われた焼石膏CaSO4H2O と砂とを混ぜたモルタルである。

[v]日本では、1891年の濃尾地震で煉瓦造の耐震性が決定的に疑われ始めていた。1903年の琵琶湖疎水山科運河日岡トンネル東口の支間7.45mの弧形単桁橋が日本最初の鉄筋コンクリート造土木建造物である。そして、真島健三郎が佐世保鎮守府内のポンプ小屋を建てたのが1904年である。東京帝国大学に「鉄筋コンクリート構造」という科目が開講(佐野利器担当)されるのは、サンフランシスコ大地震が起こった1905年である。そして、06年には白石直治が神戸和田岬の東京倉庫を鉄筋コンクリート造で建てた。本格的な鉄筋コンクリート造建築の最初のものは、その白石直治の東京倉庫 G 号棟(1910年完成)と言われている。

[vi] Extended Metropolitan Region. 拙稿、「メガ・アーバニゼーション」、『アジア新世紀8 構想』、岩波書店、青木保編、2003

[vii] 布野修司編著、『世界住居誌』、昭和堂、2005







 

2025年2月10日月曜日

美和絵里奈、 2008年度建築計画委員会春季学術研究会報告、建築計画委員会、建築雑誌、2008

 2008年度建築計画委員会春季学術研究会報告

建築計画委員会

 

台湾において「台湾版まちづくり」ともいうべき「社区総体営造」が開始されて14年になる。その帰趨を問い、まちづくりが抱える問題を突き合わせる研究集会「社区総体営造(台湾まちづくり)の課題」を668日台北―台中で開催した。また、この開催に先駆けて台湾大学・建築與城郷研究所+芸術史研究所主催による国際シンポジウム「日本與台灣社區營造的對話:地震災後重建、社區營造與地域建築師(Town Architects)」(台湾大学総合図書館B1国際会議庁、65日)が開催された。合わせて以下に報告したい。2つのプログラムを企画・組織頂いたのは、黄蘭翔先生(台湾大学芸術史研究所)と研究室の若い学生、院生のみなさんである。

 

日本與台灣社區營造的對話:地震災後重建、社區營造與地域建築師(Town Architects)

 台湾大学芸術史研究所所長・謝明良先生の開会の辞(通訳:宗田昌人)で始まったシンポジウムは、9:30から18:00までたっぷり行われた。プログラムは以下の通り。9:30-11:30 「淡路震災とその後の街づくり」―台湾921大震災との比較― 講演:小林郁雄。コメント:喩肇青(中原大学)12:20-14:20:「日本の街づくりのこれからの課題」講演:宇野求。コメント:曾旭正(台南芸術大学)/14:30-1630 「日本におけるタウンアーキテクトの可能性」講演:布野修司。コメント:黄聲遠(建築家)16:30-18:00総合討論夏鑄九(城郷與建築研究所)、布野修司

地域をベースにした日本のまちづくりが本格的に始まるのは1995年の阪神淡路大震災以降である。ヴォランティアの出現、NPOの法制化がその方向を示している。一方、台湾で社区総体営造が開始されるのは1994年のことである。そして、921集集大地震(1998年)を経験している。震災復興については、相互に経験を交流してきた。折しも、中国四川大地震が起こった直後である。議論は熱の籠もったものとなった。小林郁雄先生の復興まちづくり、宇野求先生の日本橋でのまちづくりは、台湾の聴衆を大いに刺激した。台湾の自治体や建築家の取り組みにも同じような流れがあり、共感するところが多かった。とりわけ、若手建築家、黄聲遠さんの宜欄での活動はまさにタウンアーキテクトの仕事と呼びうるものであった。現地に住み込み、現場で考え、自らの手作りでまちづくりを続ける黄聲遠とその仲間たちの活動は台湾で大きな関心を集めている。建築、都市計画分野における台湾屈指の理論家、夏鑄九の総括も含めて相互に多くを学ぶことが出来たように思う。黄蘭翔先生、伊東豊雄の台中オペラハウスの設計を協働する、京都大学布野研究室出身の張瑞娟さん、夏鑄九研究室の博士後期課程に在籍する宗田昌人さんのすばらしい通訳に感謝したい。

 

 「社区総体営造(台湾まちづくり)の課題」

第一日(66日)、春季学術研究会のプログラムは以下の通りであった。司会を山根周先生(滋賀県立大学)が勤め、台湾大学城郷與建築研究所の博士課程に留学中の五十嵐祐紀子さんに通訳をお願いした。

社区総体営造の現状と課題」講師:社区営造学会、陳其南(国立台北芸術大学教授・元文化建設委員会主任)、「台湾現代建築の動向---李祖源、姚仁喜、謝英俊三人建築家を例として--- 講師:阮慶岳(実践大学副教授・建築評論家)、「店屋の保存と再生」講師:徐裕健(華梵大学教授・建築家)

 陳其南先生は社区総体営造の仕掛人である。阮慶岳先生は小説家でもあり(邦訳もある)、若手の建築評論家である。徐裕健先生は、老街の再生に取組む。黄蘭翔先生のすばらしい人選であった。短い時間であったが、台湾における新たな動きとその背景を実によく理解することが出来た。

 続いて、懇親会を開いたが、今年も国士舘からの18名を含めて多くの学生の参加があった。全く意図しなかったことであるが、若い学生たちの眼をアジアに開くいい機会になっている。参加者は58名、日本を離れて、議論をするのはいつも新鮮である。(布野修司、建築計画委員会委員長)

 

 台北視察

2日目(6月7日)は台北の現代建築や歴史的建築、下町の視察見学ツアーを行った。大陸工程ビル→台北101→中山公会堂(昼食) →板橋林家邸宅と庭園→台北廸化街→台北保安宮の順にバス2台で巡回した。

 大陸工程ビルの設計は姚仁喜(大元建築及設計事務所主宰)Exoskelton(外骨格)という構造設計手法による外観と、それによって可能となる内部の26m×26mの無柱空間が特徴的である。台北101は台北市信義計画區の南部、台北世界貿易センターに隣接する李祖原設計の101階建ての超高層ビルである。現在、世界一の高さの「使用中」ビルである(現在ドバイに建設中のビルがこの高さを凌いでいる)。世界最大の揺動式チューンド・マス・ダンパーがとてつもなく大きかった。構造体の大部分を内部に納め、ガラス壁に7度の傾斜をもたせることで得られる鳥瞰的な視界は圧巻。 台北市中心の延平南路に位置する中山公会堂は、辰野金吾に師事し台湾建築学会を創設した井出薫によって日本統治時代に建てられた。建築的には折衷主義であり、平面の対称性や正面の破風のような表現に見られる様式建築的なものと、水平線や垂直線の多用などの現代的な影響も見られる。林本源園邸は林本源一家により1893年に造園された歴史的名園で、台湾に現存する最も完全な園林建築である。中国庭園の伝統を受け継いだものであるが、三角形、平行四辺形の建物などやりたい放題の印象である。廸化街1850年代に建設され店屋街である。連棟式店屋(ショップハウス)の建築形式は、閩南式・洋楼式・バロック式・モダニズム式の4種類に分類される。保安宮は淡水河と基隆河の合流点に位置し、龍山寺、清水巌祖師廟と並び台北の三大廟と称せられる。建築形式としては、前殿、正殿、後殿という清朝末期の典型である三殿式である。精微で色彩豊かな装飾や彫刻からは台湾の文化が伝わってきた。

台北はとても湿度が高く、ゴキブリが大きく、南国気候だった。歴史的街並みと建造物、そしてそのすぐ背後にある都市化した市街地との対比が印象的だった。日本統治期の建物や古い街並みが保存されながら、活気に満ち溢れていた。(鮫島拓、滋賀県立大学大学院)

 

南投県視察

3日目(6月8日)は自由参加のバスツアーによる南投県(台湾唯一の内陸県)視察。今回の焦点となった1999年の集集地震の復興まちづくりの事例を見学した。参加者は先生・学生35名。このツアーのコーディネートをして頂いたのは台湾大学の学生である。

 南投県へは、まず20071月に開通した台湾高速鉄道(新幹線)にて台中へ向かう。台北と高雄を最速96分でつなぐというから驚きだ。建築家・伊東豊雄による話題の「台中メトロポリタンオペラハウス」や「高雄スタジアム」が進行プロジェクトとして挙げられるが、南へのアクセスは大分楽になった。

台中県霧峰郷林家屋敷(地震後の再建)(文化財)は、18世紀中ごろ大陸より渡り一代を築いた台湾屈指の旧家である。19世紀後半に建てられた邸宅群は、1945年日本敗戦後、国民党によって破壊され、1990年からようやく母屋を中心とした最も古い建物群を対象にした復元工事が行われ、99年にほぼ完成、その矢先、大地震に見舞われ、建物群は全壊した。「三落大宅院式」という建築形態をとるが、結婚式や劇などに使われ、舞台を囲む三方が観覧席となる。住宅内の欄間や戸には木の彫刻細工が施されていたが、元のまま残っている部分と新たに継ぎ足した部分が木の色合いらみてとれた。伝統的な職人技術の継承が困難になっている中で、当時の繊細な彫刻を残していく意味は大きい。邵族は、10数余の台湾原住民のうちのひとつであり、山間部の台湾最大の淡水湖、日月潭沿いに居住している。邵族はかつて半農半漁で生計を立てていたが、日拠時代や国民党時代を経て居住地移転や漢化政策による生活困窮など、徐々に離散していった。震源地から10kmほどの日月潭は壊滅的な被害を受けた。邵族の住居も80%が全半壊した。建築家・謝英俊は「部族コミュニティ再生」を基本方針に、震災復興住宅を計画した((サオ)(台湾原住民)の復興村)。邵族にとって重要な伝統的に行われている祭事のために、広場を計画している。また、軒を深めに出すことで、半屋外の軒下空間が隣近所との相互交流を生むきっかけとなっている。構造は軽量鉄骨のフレームをベースとし、セルフビルドで行われた。南投県信義郷潭南小学校女性建築家・姜楽静の設計である。伝統的な家屋が設計の発想であり、学校を「家」のように捉えていた。敷地が45m×70mと普通の1/3程度しかないため、建物を敷地に対して真ん中に据え、建物の周りがトラックとなっている。

台湾は、もともと地形や土壌、気候上、お茶の栽培が適していて、小葉のウーロンや大葉のアッサムまで数多くの茶葉が生産できる。日月老茶場では店舗や飲食店を併せ持つ茶葉の工場を見学した。倉庫のような外観とは対照的に現代的な店舗空間、2階に上がると食事ができるスペースになっている。

 19951月阪神淡路大震災直後、神戸市長田区に建てられた坂茂設計による仮設の教会が、2005、台湾南投県埔里鎮桃米村に多くのボランティアの協力の下移設された。はるばる日本からやってきたペイパードーム(南投県埔里鎮新故郷文教基金会)がまちづくりの拠点となって、食之坊工之坊などと共にまちを活気づけていければと思う。

この日は農暦55日で、「端午の節句」子供の日であった。台湾では都会に出た者も田舎へ帰り、家族でお祝いし、粽(チマキ)を食べることが習慣である。今回、視察のラストは粽を中心としたおもてなしをして頂いた。20種類近く存在するというを観光資源としているこの地域ということで、蛙の様々なトーンの鳴声がわたしたちを迎えてくれた。(美和絵里奈、滋賀県立大学大学院)

2024年12月5日木曜日

田島喜美恵、都市・建築の再生と建築計画—韓国ソウルの清渓川復元と近・現代建築— 建築計画委員会春期研究集会報告 、建築雑誌、20080703

 2006/07/03 KIMIE TAJIMA

都市・建築の再生と建築計画韓国ソウルの清渓川復元と近・現代建築

建築計画委員会春期研究集会報告

 

滋賀県立大学 布野修司教授が今年の4月から建築計画委員会委員長に就任し、最初の行事として、62日〜4日、韓国ソウルにて建築計画委員会春季研究集会が催された。

 

■企画準備

布野先生は京都大学から滋賀県立大学に移籍され2年目の現在、布野研究室には日本人学生だけでなく、韓国、スペイン、タイ、などからの留学生が机を並べ、研究内容も国際的なものが多い。

「日本で小さくやるよりは、海外で小さくやる方がいい」との布野先生の考えから、10人位の小さな団体で視察を中心にした研究会をということで具体的に企画立案された。しかし予想に反して、日に日に増える参加者は、最終的には52名にまで膨らんだ。

海外で建築計画委員会をするのは初めてのことで、難しい面も予想されたが、資料の準備では布野研究室に在籍する客員研究員の朴重信氏、博士課程の趙聖民氏を中心に、ワーキンググループを作り、日程や宿の手配、資料作りを研究室でおこなった。

当初、資料はペラ数枚をホッチキスで留める簡易な資料を考えていたが、日に日に頁数は増え59頁の立派な冊子になり、単なる旅行の栞としてではなく、韓国建築資料としてレベルの高い内容になった。

春季研究集会より一日早い61日に、布野先生、朴氏、私は関西国際空港から韓国に向かった。2001年に開港した仁川空港(設計:テリー・ファレル)は、飛行機をイメージした近未来的な雰囲気を持つ。空港からリムジンバスに1時間程揺られソウル市内に入った。タワーホテル(設計:金寿根)に荷物を置き、漢陽大学の朴勇換先生の研究室にお伺いし、御挨拶と翌日のシンポジウムの打合せ等を行った。

 

シンポジウム(62日)

『都市・建築の再生と建築計画韓国ソウルの清渓川(チョンゲチョン)復元と近・現代建築』シンポジウムを漢陽大学にて催した。韓国の学生、日本の学生が会場準備をし、滋賀県立大学 山根周講師が司会を務め、通訳を朴重信氏と趙聖民氏が務めた。最初に布野先生から開会の挨拶と本会の主旨と経緯の説明があり、大韓建築学会副会長 崔璨煥チェチャンファン)先生の御挨拶、続いて、大韓建築学会計画分科の徐鵬敎(ソブンギョ)先生の御挨拶を頂き、続いて3人の先生からご講演頂いた。

 

1)『韓国における建築計画の現状』:漢陽大学 朴勇換教授

本シンポジウムのプロローグとして、最近のソウルの建築事情として、外国の建築家とパートナーシップを組み建てられた建築と超高層住宅をざっと一流れで説明。高層住宅では低層部はマーケットやオフィスとして使われていて、中層、高層部は住宅になっている場合が多く、現在のソウルを象徴する風景になっている。

 

2)『近代化遺産の保存と再生』:清州大学 金泰永教授

ソウルの都市生活には近代建築が溶け込んでいる。韓国の1930年代の有名な小説の主人公の行動を引き合いに出しその雰囲気をあらわす。

具体的な活動として1990年から近代建築の記録化事業を始め、現在239件登録文化財があり、その内容は戦争関連施設、産業施設、公共施設、最近では共同墓地も登録されることになり、特にその中に宿泊施設は30を占める。保存修理の実例として、明洞聖堂、ソウル市立美術館などを説明され、またこういう動きの一方で、近代建築の修理基準を撰定するための活動もしている。また、韓国docomomoの活動を紹介した。

京都大学の客員教授時代、京都の町家に感動し、昔のものという要素としてだけではなく、現代建築においても意味のある要素があると感じ、それが今の活動の根底にある。

 

3)『韓国における都市再生の試み(清渓川復元)』:ソウル市住宅局 許煐局長

清渓川は元々、ソウルを流れる河川だった。水量はそれほどなかったことから、人口が増えるに従って水質は汚染され衛生的に問題視されるようになった。1910年代頃から浚渫工事を始め、川にコンクリートの蓋を被せ始めた。1958年に本格的に蓋をする工事を始め、1976年から高架道路工事を始めた。近年その高架道路も痛みが激しく、安全とは言えない状況になった。清渓川の周りの商店街も老朽化していた。

20021月、選挙に清渓川を復元することを公約に掲げた、民間企業出身の市長が誕生した。その日から事業が始まった。ソウルは都市としての競争力、文化を持つために、開発というイメージよりは、暮らしの質を高める、自然環境にやさしいということをコンセプトに掲げた。

復元工事を着手するにあたり、市民、清渓川は商店街が多く軒を列ねている商業者との間で、4000回以上の話合いが行われ、意見を反映させた多くの対策が作られた。

高架道路を撤去し復元した川の長さは5.85km3つのセクションに分けて工事を行った。また工事の際に発生した廃材約68万トンのうち約96%をリサイクルした。清渓川は、普段は水量が少ないが、雨季になったら洪水がおこる特性があることから、記録されている200年周期の降水率を元に、川の設計を行った。現在、漢江の12万トンの水と、毎日湧き出る22千トンの地下水を利用して、清渓川には一日につき142000トン(平均水深40cm)の水が流れている。

人の憩いの場としての親水機能はもちろん、緑を豊富に取り入れ、魚や鳥や虫などの生きものが生活できる自然の生態環境を作り出している。また清渓川は照明計画を綿密にして、夜の清渓川の風景も考えている。

最も危惧されていた、高架道路を撤去してしまうとソウル市内の道路が大混雑するのではないかという問題は、結果的に公共交通機関を使う人が増え、市内全体の車両交通量が減り混乱は起きなかった。

200511月の世論調査において、夏が涼しくなり、空気がきれいになり、車の騒音がなくなったなど、ほとんどの市民が環境が良くなったと答えている。経済的にも活性し、また不動産価格も復元後には2.5倍近く値上がった。

公共事業の中で行政と市民が話合いで多くの問題を解決しながら事業を行った良い例になった。

<シンポジウム写真2枚>

 

シンポジウム終了後、漢陽大学の構内にあるレストランに場所を移して、懇親会が催された。立派なレストランで、食事も豪華なものだった。千葉大学 宇野求教授、東京大学 松村秀一教授など参加者の先生方のスピーチなどもあり、華やかな懇親会となった。

 

 

視察(63日)

・徳寿宮(ドクスグン)とその周辺の近代建築

徳寿宮の周りには、多くの近代建築がある。朝の気持ちのよい時間に散策しながら徳寿宮を始め、韓国聖公会ソウル大聖堂、貞洞第一教会、ソウル市立美術館をまわる。

徳寿宮の大漢門では、当時の王宮守備隊の交代式の再現がされ、華やかな宮廷文化を垣間見ることができる。韓国聖公会ソウル大聖堂はロマネスク様式で十字型平面を持ち、壮観な姿をほこる。貞洞第一教会は木造のモダニズム建築で、教会の方が丁寧に説明くださり、この教会を美しく保存するために努力を惜しまない姿勢が感じ取れた。ソウル市立美術館は、裁判所をコンバージョンして誕生した現代美術館で、ファサードを残し内部は大胆な改築を施している。

<ドクスグン大漢門交代式写真1枚>

<ソウル市立美術館写真1枚>

清渓川(チョンゲチョン)

清渓川は、東京の日本橋問題の件でよく引き合いに出されることもあり、以前から個人的に非常に興味があった。前日の講演を受けてさらに興味が湧いた。週末ということもあり、家族連れが水遊びする姿、川魚が泳ぐ風景を眺めていると、つい最近まで高架道路だったとは思えない。ランドスケープとしてもとてもよくデザインされている。

<清渓川写真2枚>

昌徳宮(秘苑)

600年前に建立された昌徳宮は、特に造園が興味深い。作り込む庭ではなく、できるだけ原林を活かし、作意を感じさせないように作られている。その風景に溶け込むように建物が点在している。

ソウル北村 

都市型韓屋が多く残るソウル北村は、細い坂道を挟むように韓屋の背の高い塀が連なっている。塀や門扉はそれぞれ表情があり、不思議と圧迫感はそれほど感じない。

韓屋の博物館を観覧した。門扉を潜ってすぐマダン(中庭)があり、オンドル(床下暖房)も見られた。実際の韓屋の住まわれ方など、さらに興味が湧いた。

<ソウル北村写真1枚>

 

視察(64日)

・サンスン財団リウム美術館

住宅地と山に挟まれる敷地に、レム・コールハスの児童文化センター、マリオ・ボッタの古美術館、ジャン・ヌーベルの現代美術館、三つの建築が中庭を囲む形で配置計画されている。この美術館はまず、展示物の内容が良く面白い。展示物の内容を考え、それに沿ったデザインがされている。現代のソウルを象徴する美術館になっている。

<リウム美術館写真1枚>

ソウルの森

トゥッソムに位置するソウル森は元下水処理場である2005年オープンしたソウルの森は、市民と行政が一緒に作ることを主体とし、幾度もワークショップや話合いが行われた。約115万平米の敷地内に5つのテーマを構成している。多くの人で賑わい、レンタサイクルで公園内を走る人の姿も多くみられた。

<ソウルの森写真1枚>

 

 

まとめ

『建築計画学のあり方をめぐっては、今日様々な問題が指摘されますが、建築計画学を志した1970年代初頭、既に、例えば、縦割り研究、研究(のための研究)のマンネリ化という限界は指摘されていました。それは克服されたとは言えないと感じていますが、一方、果たすべき役割はあるのではないかと強く思います。とりわけ、グローバルな視野において、建築計画学をみると、その方向が見いだせるのではないか、という直感があります。特に、アジアについては、日本建築学会としても、JAABE(英文論文集)、ISAIA(国際アジマ建築交流シンポジウム)があります。建築計画委員会としても、積極的に関わりたいという思いが、今回の企画の背景にあります。』(2006年日本建築学会建築計画委員会春季研究集会 資料集/滋賀県立大学布野研究室)

資料冊子の冒頭頁の布野先生の挨拶は、これからの建築計画学の方向性を示唆していて興味深い。この最初の一歩としての今回の研究会はおのずと布野先生の意気込みを感じ、その通りに実りのある会になった。

私は生まれて初めて韓国の地に立った。右も左もわからずに、先生方の後をとにかく追って行く事しか出来なかった。帰国してすぐに韓国に関する本を読んで、特にその住環境に興味を持った。今度、韓国に行く時は、是非、住居を中心に見てみたいと思う。おそらく多くの参加者も何かしらの示唆を得ることができたのではないだろうか。

建築計画学委員会の課題は決して少なくないが、本研究会でひとつひとつ乗り越えていけるだけのエネルギーを感じることができた。今後の建築計画学委員会の発展を予感させられてならない。

<集合写真1枚>

 

 

 

写真計10

総文字数4400

 

2024年10月2日水曜日

環境・建築デザイン専攻のこの一年、環境・建築デザイン専攻、滋賀県立大学環境科学部、2008年3月

 環境・建築デザイン専攻のこの一年

 

 

布野修司

環境・建築デザイン専攻・専攻主任

 

 


2007年は、学生たちの活躍が続いた年でした。石野啓太君(4回生)「マチニワ」が日本建築家協会東海支部設計競技で金賞を受賞、日本建築学会Student Summer Seminar 2007で、奥田早恵さん(4回生)「hanasaku」が優秀賞、牧川雄介君(3回生)「しえる」が遠藤精一・福島加津也賞、橋本知佳さん(3回生)「木漏日」が小西泰孝・福島加津也賞を受賞しました。さらに日本文化デザイン会議(神戸大会)の設計競技「日本、一部、沈没」で、岡崎まり、仲濱春洋、中貴志(以上M1)、中村喜裕(4回生)のチームの「Parasitic Town」が最終8作品に残り、さらに公開審査に臨んだ結果、堂々の優秀賞(準優賞)を獲得しました。

学生たちの自主的活動組織」である「談話室」の活動では、山本理顕(518日)、馬場正尊(712日)、佐藤淳(1211日)、中村好文(1214日)と一線の建築家を招いて活発な議論が展開されました。また、昨年度の活動をまとめた『雑口罵乱』創刊号「環境・地域性」が出版されました。滋賀県立大学の「環境建築デザイン学科」の活動を広く社会に発信していく雑誌として、また、上下をつなぐメディアとして育って欲しいと思います。今年からA-Cupという全国規模の建築系のサッカー大会に本格的参加(6月)、幅広い交流関係を構築しつつあります。

人事としては、山本直彦講師が奈良女子大学准教授として41日付で転任になられました。2年という短い赴任でしたが、諸般の事情から送り出すことになりました。今後の活躍を期待したいと思います。入れ替わる形ですが、陶器教授の昇任に伴う准教授として高田豊文(三重大助教授)が着任されました。虎姫高校の出身で、願ってもない人材として、故郷での大いに期待したいと思います。最適設計の構造力学の理論派でありながら、フラードームを手作りでつくる演習など建築構造教育に積極的な素晴らしい先生です。地域防災についても三重県での実績を踏まえて滋賀県での活躍が楽しみです。

開学以来13年目を迎えた「環境・建築デザイン専攻」は、20084月から「環境建築デザイン学科」として独立することになります。2007年の前半は、文部科学省への届け出、また、国土交通省の建築士資格の継続申請で追われることになりました。

「耐震偽装問題」以降、建築界は大揺れです。大学もそうした趨勢と無縁ではありません。建築士法改正で、受験資格について大きな変化が起こりつつあります。日本建築学会あげておおわらわですが、国土交通省の改編の動きは、事態の改善には逆行と言わざるを得ません。国土交通省の住宅局の建築指導課と直接議論しつつありますが、事態は容易ではない状況にあります。とりわけ、建築士の受験資格、大学院の実務実績の問題は大学にとって深刻です。しかし、滋賀県立大学の環境建築デザイン教育は揺るぎないものとして、確固として進んでいきたいと考えています。

独立法人(公立大学法人)化がスタートして2年目、様々な問題を抱えながらも、新たな模索が続いています。ひとつの柱は地域貢献です。文部科学省の「地域再生人材創出拠点の形成」プログラム(科学技術振興調整費)は軌道に乗りました。奥貫隆教授を中心とするその試みは、次のステップをにらんだ動きが必要となりつつあります。「霞が関」の方針に翻弄される研究教育プログラムですが、「近江楽座」(現代GP)から「近江環人(コミュニティ・アーキテクト)」地域再生学座に至る歩みは、確実に滋賀県立大学の主軸に位置づけられていると思います。奥貫先生が次期環境科学部長に選出されたのは、大きな流れだと思います。

もうひとつ環境科学の研究ベースの柱が期待されます。環境建築デザイン学科としても、環境科学部としての先進的な研究プロジェクトを目指したいと思います。「環境建築」の具体的なモデルを具体化することは大きな課題となっています。松岡拓公雄教授を中心とする学生たちを含んだ設計チームは精力的に工学部新館の実施計画にとり組んでいます。

「大学全入時代を迎え、また、昨今の「建設不信」の風潮の中、環境・建築デザイン専攻の応募者の減少が心配されます。充実した教育研究を展開することが基本ですが、対外的なアピール、高大連携など考慮する必要があります。議論を進めていかなければと考えております。」と昨年書きました。事態は変わりません。環境建築デザインの分野は、しかし、これからますます必要とされる実に魅力的な分野であることに変わりはありません。確実な努力を続けていきたいと考えています。


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...