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2024年12月5日木曜日

田島喜美恵、都市・建築の再生と建築計画—韓国ソウルの清渓川復元と近・現代建築— 建築計画委員会春期研究集会報告 、建築雑誌、20080703

 2006/07/03 KIMIE TAJIMA

都市・建築の再生と建築計画韓国ソウルの清渓川復元と近・現代建築

建築計画委員会春期研究集会報告

 

滋賀県立大学 布野修司教授が今年の4月から建築計画委員会委員長に就任し、最初の行事として、62日〜4日、韓国ソウルにて建築計画委員会春季研究集会が催された。

 

■企画準備

布野先生は京都大学から滋賀県立大学に移籍され2年目の現在、布野研究室には日本人学生だけでなく、韓国、スペイン、タイ、などからの留学生が机を並べ、研究内容も国際的なものが多い。

「日本で小さくやるよりは、海外で小さくやる方がいい」との布野先生の考えから、10人位の小さな団体で視察を中心にした研究会をということで具体的に企画立案された。しかし予想に反して、日に日に増える参加者は、最終的には52名にまで膨らんだ。

海外で建築計画委員会をするのは初めてのことで、難しい面も予想されたが、資料の準備では布野研究室に在籍する客員研究員の朴重信氏、博士課程の趙聖民氏を中心に、ワーキンググループを作り、日程や宿の手配、資料作りを研究室でおこなった。

当初、資料はペラ数枚をホッチキスで留める簡易な資料を考えていたが、日に日に頁数は増え59頁の立派な冊子になり、単なる旅行の栞としてではなく、韓国建築資料としてレベルの高い内容になった。

春季研究集会より一日早い61日に、布野先生、朴氏、私は関西国際空港から韓国に向かった。2001年に開港した仁川空港(設計:テリー・ファレル)は、飛行機をイメージした近未来的な雰囲気を持つ。空港からリムジンバスに1時間程揺られソウル市内に入った。タワーホテル(設計:金寿根)に荷物を置き、漢陽大学の朴勇換先生の研究室にお伺いし、御挨拶と翌日のシンポジウムの打合せ等を行った。

 

シンポジウム(62日)

『都市・建築の再生と建築計画韓国ソウルの清渓川(チョンゲチョン)復元と近・現代建築』シンポジウムを漢陽大学にて催した。韓国の学生、日本の学生が会場準備をし、滋賀県立大学 山根周講師が司会を務め、通訳を朴重信氏と趙聖民氏が務めた。最初に布野先生から開会の挨拶と本会の主旨と経緯の説明があり、大韓建築学会副会長 崔璨煥チェチャンファン)先生の御挨拶、続いて、大韓建築学会計画分科の徐鵬敎(ソブンギョ)先生の御挨拶を頂き、続いて3人の先生からご講演頂いた。

 

1)『韓国における建築計画の現状』:漢陽大学 朴勇換教授

本シンポジウムのプロローグとして、最近のソウルの建築事情として、外国の建築家とパートナーシップを組み建てられた建築と超高層住宅をざっと一流れで説明。高層住宅では低層部はマーケットやオフィスとして使われていて、中層、高層部は住宅になっている場合が多く、現在のソウルを象徴する風景になっている。

 

2)『近代化遺産の保存と再生』:清州大学 金泰永教授

ソウルの都市生活には近代建築が溶け込んでいる。韓国の1930年代の有名な小説の主人公の行動を引き合いに出しその雰囲気をあらわす。

具体的な活動として1990年から近代建築の記録化事業を始め、現在239件登録文化財があり、その内容は戦争関連施設、産業施設、公共施設、最近では共同墓地も登録されることになり、特にその中に宿泊施設は30を占める。保存修理の実例として、明洞聖堂、ソウル市立美術館などを説明され、またこういう動きの一方で、近代建築の修理基準を撰定するための活動もしている。また、韓国docomomoの活動を紹介した。

京都大学の客員教授時代、京都の町家に感動し、昔のものという要素としてだけではなく、現代建築においても意味のある要素があると感じ、それが今の活動の根底にある。

 

3)『韓国における都市再生の試み(清渓川復元)』:ソウル市住宅局 許煐局長

清渓川は元々、ソウルを流れる河川だった。水量はそれほどなかったことから、人口が増えるに従って水質は汚染され衛生的に問題視されるようになった。1910年代頃から浚渫工事を始め、川にコンクリートの蓋を被せ始めた。1958年に本格的に蓋をする工事を始め、1976年から高架道路工事を始めた。近年その高架道路も痛みが激しく、安全とは言えない状況になった。清渓川の周りの商店街も老朽化していた。

20021月、選挙に清渓川を復元することを公約に掲げた、民間企業出身の市長が誕生した。その日から事業が始まった。ソウルは都市としての競争力、文化を持つために、開発というイメージよりは、暮らしの質を高める、自然環境にやさしいということをコンセプトに掲げた。

復元工事を着手するにあたり、市民、清渓川は商店街が多く軒を列ねている商業者との間で、4000回以上の話合いが行われ、意見を反映させた多くの対策が作られた。

高架道路を撤去し復元した川の長さは5.85km3つのセクションに分けて工事を行った。また工事の際に発生した廃材約68万トンのうち約96%をリサイクルした。清渓川は、普段は水量が少ないが、雨季になったら洪水がおこる特性があることから、記録されている200年周期の降水率を元に、川の設計を行った。現在、漢江の12万トンの水と、毎日湧き出る22千トンの地下水を利用して、清渓川には一日につき142000トン(平均水深40cm)の水が流れている。

人の憩いの場としての親水機能はもちろん、緑を豊富に取り入れ、魚や鳥や虫などの生きものが生活できる自然の生態環境を作り出している。また清渓川は照明計画を綿密にして、夜の清渓川の風景も考えている。

最も危惧されていた、高架道路を撤去してしまうとソウル市内の道路が大混雑するのではないかという問題は、結果的に公共交通機関を使う人が増え、市内全体の車両交通量が減り混乱は起きなかった。

200511月の世論調査において、夏が涼しくなり、空気がきれいになり、車の騒音がなくなったなど、ほとんどの市民が環境が良くなったと答えている。経済的にも活性し、また不動産価格も復元後には2.5倍近く値上がった。

公共事業の中で行政と市民が話合いで多くの問題を解決しながら事業を行った良い例になった。

<シンポジウム写真2枚>

 

シンポジウム終了後、漢陽大学の構内にあるレストランに場所を移して、懇親会が催された。立派なレストランで、食事も豪華なものだった。千葉大学 宇野求教授、東京大学 松村秀一教授など参加者の先生方のスピーチなどもあり、華やかな懇親会となった。

 

 

視察(63日)

・徳寿宮(ドクスグン)とその周辺の近代建築

徳寿宮の周りには、多くの近代建築がある。朝の気持ちのよい時間に散策しながら徳寿宮を始め、韓国聖公会ソウル大聖堂、貞洞第一教会、ソウル市立美術館をまわる。

徳寿宮の大漢門では、当時の王宮守備隊の交代式の再現がされ、華やかな宮廷文化を垣間見ることができる。韓国聖公会ソウル大聖堂はロマネスク様式で十字型平面を持ち、壮観な姿をほこる。貞洞第一教会は木造のモダニズム建築で、教会の方が丁寧に説明くださり、この教会を美しく保存するために努力を惜しまない姿勢が感じ取れた。ソウル市立美術館は、裁判所をコンバージョンして誕生した現代美術館で、ファサードを残し内部は大胆な改築を施している。

<ドクスグン大漢門交代式写真1枚>

<ソウル市立美術館写真1枚>

清渓川(チョンゲチョン)

清渓川は、東京の日本橋問題の件でよく引き合いに出されることもあり、以前から個人的に非常に興味があった。前日の講演を受けてさらに興味が湧いた。週末ということもあり、家族連れが水遊びする姿、川魚が泳ぐ風景を眺めていると、つい最近まで高架道路だったとは思えない。ランドスケープとしてもとてもよくデザインされている。

<清渓川写真2枚>

昌徳宮(秘苑)

600年前に建立された昌徳宮は、特に造園が興味深い。作り込む庭ではなく、できるだけ原林を活かし、作意を感じさせないように作られている。その風景に溶け込むように建物が点在している。

ソウル北村 

都市型韓屋が多く残るソウル北村は、細い坂道を挟むように韓屋の背の高い塀が連なっている。塀や門扉はそれぞれ表情があり、不思議と圧迫感はそれほど感じない。

韓屋の博物館を観覧した。門扉を潜ってすぐマダン(中庭)があり、オンドル(床下暖房)も見られた。実際の韓屋の住まわれ方など、さらに興味が湧いた。

<ソウル北村写真1枚>

 

視察(64日)

・サンスン財団リウム美術館

住宅地と山に挟まれる敷地に、レム・コールハスの児童文化センター、マリオ・ボッタの古美術館、ジャン・ヌーベルの現代美術館、三つの建築が中庭を囲む形で配置計画されている。この美術館はまず、展示物の内容が良く面白い。展示物の内容を考え、それに沿ったデザインがされている。現代のソウルを象徴する美術館になっている。

<リウム美術館写真1枚>

ソウルの森

トゥッソムに位置するソウル森は元下水処理場である2005年オープンしたソウルの森は、市民と行政が一緒に作ることを主体とし、幾度もワークショップや話合いが行われた。約115万平米の敷地内に5つのテーマを構成している。多くの人で賑わい、レンタサイクルで公園内を走る人の姿も多くみられた。

<ソウルの森写真1枚>

 

 

まとめ

『建築計画学のあり方をめぐっては、今日様々な問題が指摘されますが、建築計画学を志した1970年代初頭、既に、例えば、縦割り研究、研究(のための研究)のマンネリ化という限界は指摘されていました。それは克服されたとは言えないと感じていますが、一方、果たすべき役割はあるのではないかと強く思います。とりわけ、グローバルな視野において、建築計画学をみると、その方向が見いだせるのではないか、という直感があります。特に、アジアについては、日本建築学会としても、JAABE(英文論文集)、ISAIA(国際アジマ建築交流シンポジウム)があります。建築計画委員会としても、積極的に関わりたいという思いが、今回の企画の背景にあります。』(2006年日本建築学会建築計画委員会春季研究集会 資料集/滋賀県立大学布野研究室)

資料冊子の冒頭頁の布野先生の挨拶は、これからの建築計画学の方向性を示唆していて興味深い。この最初の一歩としての今回の研究会はおのずと布野先生の意気込みを感じ、その通りに実りのある会になった。

私は生まれて初めて韓国の地に立った。右も左もわからずに、先生方の後をとにかく追って行く事しか出来なかった。帰国してすぐに韓国に関する本を読んで、特にその住環境に興味を持った。今度、韓国に行く時は、是非、住居を中心に見てみたいと思う。おそらく多くの参加者も何かしらの示唆を得ることができたのではないだろうか。

建築計画学委員会の課題は決して少なくないが、本研究会でひとつひとつ乗り越えていけるだけのエネルギーを感じることができた。今後の建築計画学委員会の発展を予感させられてならない。

<集合写真1枚>

 

 

 

写真計10

総文字数4400

 

2024年10月2日水曜日

環境・建築デザイン専攻のこの一年、環境・建築デザイン専攻、滋賀県立大学環境科学部、2008年3月

 環境・建築デザイン専攻のこの一年

 

 

布野修司

環境・建築デザイン専攻・専攻主任

 

 


2007年は、学生たちの活躍が続いた年でした。石野啓太君(4回生)「マチニワ」が日本建築家協会東海支部設計競技で金賞を受賞、日本建築学会Student Summer Seminar 2007で、奥田早恵さん(4回生)「hanasaku」が優秀賞、牧川雄介君(3回生)「しえる」が遠藤精一・福島加津也賞、橋本知佳さん(3回生)「木漏日」が小西泰孝・福島加津也賞を受賞しました。さらに日本文化デザイン会議(神戸大会)の設計競技「日本、一部、沈没」で、岡崎まり、仲濱春洋、中貴志(以上M1)、中村喜裕(4回生)のチームの「Parasitic Town」が最終8作品に残り、さらに公開審査に臨んだ結果、堂々の優秀賞(準優賞)を獲得しました。

学生たちの自主的活動組織」である「談話室」の活動では、山本理顕(518日)、馬場正尊(712日)、佐藤淳(1211日)、中村好文(1214日)と一線の建築家を招いて活発な議論が展開されました。また、昨年度の活動をまとめた『雑口罵乱』創刊号「環境・地域性」が出版されました。滋賀県立大学の「環境建築デザイン学科」の活動を広く社会に発信していく雑誌として、また、上下をつなぐメディアとして育って欲しいと思います。今年からA-Cupという全国規模の建築系のサッカー大会に本格的参加(6月)、幅広い交流関係を構築しつつあります。

人事としては、山本直彦講師が奈良女子大学准教授として41日付で転任になられました。2年という短い赴任でしたが、諸般の事情から送り出すことになりました。今後の活躍を期待したいと思います。入れ替わる形ですが、陶器教授の昇任に伴う准教授として高田豊文(三重大助教授)が着任されました。虎姫高校の出身で、願ってもない人材として、故郷での大いに期待したいと思います。最適設計の構造力学の理論派でありながら、フラードームを手作りでつくる演習など建築構造教育に積極的な素晴らしい先生です。地域防災についても三重県での実績を踏まえて滋賀県での活躍が楽しみです。

開学以来13年目を迎えた「環境・建築デザイン専攻」は、20084月から「環境建築デザイン学科」として独立することになります。2007年の前半は、文部科学省への届け出、また、国土交通省の建築士資格の継続申請で追われることになりました。

「耐震偽装問題」以降、建築界は大揺れです。大学もそうした趨勢と無縁ではありません。建築士法改正で、受験資格について大きな変化が起こりつつあります。日本建築学会あげておおわらわですが、国土交通省の改編の動きは、事態の改善には逆行と言わざるを得ません。国土交通省の住宅局の建築指導課と直接議論しつつありますが、事態は容易ではない状況にあります。とりわけ、建築士の受験資格、大学院の実務実績の問題は大学にとって深刻です。しかし、滋賀県立大学の環境建築デザイン教育は揺るぎないものとして、確固として進んでいきたいと考えています。

独立法人(公立大学法人)化がスタートして2年目、様々な問題を抱えながらも、新たな模索が続いています。ひとつの柱は地域貢献です。文部科学省の「地域再生人材創出拠点の形成」プログラム(科学技術振興調整費)は軌道に乗りました。奥貫隆教授を中心とするその試みは、次のステップをにらんだ動きが必要となりつつあります。「霞が関」の方針に翻弄される研究教育プログラムですが、「近江楽座」(現代GP)から「近江環人(コミュニティ・アーキテクト)」地域再生学座に至る歩みは、確実に滋賀県立大学の主軸に位置づけられていると思います。奥貫先生が次期環境科学部長に選出されたのは、大きな流れだと思います。

もうひとつ環境科学の研究ベースの柱が期待されます。環境建築デザイン学科としても、環境科学部としての先進的な研究プロジェクトを目指したいと思います。「環境建築」の具体的なモデルを具体化することは大きな課題となっています。松岡拓公雄教授を中心とする学生たちを含んだ設計チームは精力的に工学部新館の実施計画にとり組んでいます。

「大学全入時代を迎え、また、昨今の「建設不信」の風潮の中、環境・建築デザイン専攻の応募者の減少が心配されます。充実した教育研究を展開することが基本ですが、対外的なアピール、高大連携など考慮する必要があります。議論を進めていかなければと考えております。」と昨年書きました。事態は変わりません。環境建築デザインの分野は、しかし、これからますます必要とされる実に魅力的な分野であることに変わりはありません。確実な努力を続けていきたいと考えています。


2024年7月30日火曜日

住宅建築400号記念「そして,『住宅建築』が残った・・・ヴァナキュラー建築の地水脈」,『住宅建築』,200808

  住宅建築400号記念「そして,『住宅建築』が残った・・・ヴァナキュラー建築の地水脈」,『住宅建築』,200808

住宅建築400号記念

そして、『住宅建築』が残った・・・ヴァナキュラー建築の地水脈

布野修司

 

前川国男(19869月)、大江宏(19896月)、天野太郎(19911月)、宮内康(199212月)、吉村順三(19977月)、三浦周治(19988月)、宮脇檀(19991月)、林雅子(20013月)、大島哲蔵(200210月)、藤井正一郎(20048月)、小井田康和(200610月)、石井修(200711月)、村田靖夫(20071月)を追悼し、自ら宮嶋圀夫(878月)、増沢洵(199012月)、浜口隆一(19953月)、みねぎしやすお(19985月)、神代雄一郎(20015月)、そして立松久昌(200311月)と6人の追悼文を平良さんは400号のうちに書いている。「戦後建築」を懸命に生きてきた人たちが次々に亡くなる中で、平良さんの健在が頼もしい。101号から200号まで編集長を務めた立松久昌さんがいないから、余計そう思う。建築ジャーナリズムが「消滅」してしまった現在、『住宅建築』は数少ない救いである。平良さんが編集長に復帰(20065月~)して、『住宅建築』は、やっぱり平良さんの雑誌なんだ、とつくづく思う。少なくとももう100号は平良さんに続けて欲しい。

『住宅建築』には、19844月号に「住まいにとって豊かさとは何か」を書かせて頂いたのが最初である。「戦後建築の初心」に戻って、「建築家は住宅に取り組むべきだ」と、大野勝彦、石山修武、渡辺豊和と四人で『群居』創刊号を出したのが丁度一年前であった。手作りのワープロ雑誌であり、比べるのも烏滸がましいが、『群居』は、2000年、50号まで出し続けて力尽きた(平良さんにアドヴァイスも受けたが、2000部で始めた雑誌はその予言通りじり貧になった)。

その後、「原点としての住宅-「大きな物語」の脱構築のために」(198811月)「「方丈庵」夢-原点としてのローコスト住宅」(199012月)など『群居』で考えたことを書かせて頂き、『住宅戦争 住まいの豊かさとは何か』(彰国社)をまとめることができた。創刊200号記念特大号には、京都に移ったばかりであったが、「座談会:200号まで来た」(布野修司・益子義弘+平良敬一・立桧久昌・植久哲男:199111月)には呼んで頂いた。

「建築思潮」という名前を貸して頂いた『建築思潮』創刊号(1992年)―これも5号(1998年)で終息してしまった―で「戦後ジャーナリズム秘史」と題してロング・インタビューを行ったことがあるが、その最後に平良さんは次のように言っている。

「僕は、建築家を主体とした歴史というより、ヴァナキュラーなものに興味がある。ポストモダンという中でも、ヴァナキュラーなものが取り上げられるでしょう。僕は、あれだけは大変興味ある。・・・・既成の、正統な建築史のフレームは、今崩壊しつつある。崩壊しつつある時にポストモダンがでてきたと僕は思う。それは一種の危機の表現だ。建築家だって増えてるでしょう。大衆化してる。前川、丹下どころじゃなくて何万人もいる。何万人か、何十万人か、建築や施工に携わる人たちがいるなかで、そういう人たちがどういう世界をつくるかというのに僕は興味がある。・・・」僕は、最近、ヴァナキュラーなものの本ばっかりやってる。おもしろいんだよ。戦後50年代のセンスはなかなか変わらないよ。二十代の経験は大事だよね。」

『住宅建築』は、はっきりと、現代のヴァナキュラーな世界とその(再)構築を目指している。キーワードは、地域であり、職人であり、技能であり、集落であり、・・・・・・・。平良さんは「批判的地域主義」ともいう。平良さんはこの間太田邦夫先生や鈴木喜一さんと一緒に随分世界を歩いている。『住宅建築』の大きな魅力のひとつは、「集落への旅」である。「日本の集落」(19761983年)、「中国民居(ミンチイ)・客家(ハッカ)のすまい」など「中国民居」のシリーズ(1987年~)から近年の「アジアの集落-その暮らしと空間」(2007年2月~)まで大きな軸になっている。また、「身近な歴史の再発見」「時代を超えて生きる」といった歴史を、近代を見直すシリーズが心強い。さらに、大工棟梁、職人、技能への視線が縦糸として通っている。そして、毎号紙面に登場する設計者とその作品群がひとつのワールドをつくりあげてきた。

「運動体としての『住宅建築』」(20056月号)と平良さんはいう。そして、神楽坂建築塾など若い人たちと協働することに熱心である。『国際建築』『新建築』『建築知識』『建築』『SD』『都市住宅』『店舗と建築』『造形』と戦後建築の歴史を刻む名編集長として知られる平良さんの最後で最長の雑誌が『住宅建築』である。その行き着いた地平は極めて重要である。この運動体のネットワークをどこまで拡げることができるかは、『住宅建築』とともに、建築界の大きな課題であり続けている、と思う。




2023年10月23日月曜日

スラムとは何か、建築学大百科、朝倉書店、2008

 朝倉書店   建築学大百科


355 スラムとは何か

 スラムSlumとは、「貧民窟」、「貧民街」、あるいは「細民街」のことである。といっても、この訳語そのものが今日では死語に近いからピンと来ないかもしれない。一般的には「不良住宅地」という。要するに、低所得(貧困)層が居住する、狭小で粗末な住居が建並ぶ物理的にも貧しい街区、住宅地がスラムである。

貧しい人々が住む居住地は古来様々に存在してきたけれど、スラムは、近代都市がその内に抱え込んだ「不良住宅地」を指していう。すなわち、産業革命によって、農村を離脱して都市へ流入してきた大量の賃労働者たちが狭小で劣悪な住宅環境に集中して住んだのがスラムである。

スラムという言葉は、スランバーSlumberに由来し、1820年代からその用例が見られる。スランバーとは耳慣れないが、動詞として、(すやすや)眠る、うとうとする、まどろむ、(火山などが)活動を休止する、あるいは、眠って(時間・生涯などを)過ごす、無為に過ごす(away, out, through)、眠って〈心配事などを〉忘れる(away)、名詞となると、眠り、《特に》うたたね、まどろみ、昏睡、[無気力]状態、沈滞という意味である。

 スラムの出現は、産業革命による都市化の象徴である。産業化に伴う都市化は、大規模な社会変動を引き起こし、都市と農村の分裂を決定的なものとした。その危機の象徴がスラムである。

 いち早く産業革命が進行したイギリスは、マンチェスター、バーミンガム、リヴァプールといった工業都市を産むが、大英帝国の首都ロンドンの人口増加もまた急激であった。1800年に96万人とされるロンドンの人口は、1841年に195万人となり、1887年には420万人に膨れあがる。産業化以前の都市の規模は、基本的には、移動手段を牛馬、駱駝に依拠する規模に限定されていた。火器(大砲)の出現によって築城術は大きく変化するが、新たな築城術に基づくルネサンスの理想都市計画をモデルとして世界中に建設された西欧列強による植民都市にしても、城郭の二重構造を基本とする都市の原型を維持している。産業化による、都市の大規模化、大都市(メトロポリス)の出現は、比較にならない大転換となり、人々の生活様式、居住形態を一変させることになった。

 大量の流入人口を受容れる土地は限られており、限られた土地に大量の人口が居住することによって、狭小劣悪で過密な居住環境が生み出されるのは必然であった。全ての流入人口が賃労働者として吸収されないとすれば、失業者や特殊な職業につくものが限られた地区に集中するのも自然である。スランバーは、仕事のない人々が多数無為に過ごす様を言い表わしたのである。

 日本の場合、1880年代から1890年代にかけて「貧民窟」=スラムが社会問題となる。有名なのが東京の三大「貧民窟」、下谷万年町、四谷鮫ヶ淵、芝新網町であり、大阪の名護町である。『貧天地飢寒窟探検記』(桜田文吾、1885年)、『最暗黒の東京』(松原岩五郎、1888年)、『日本の下層社会』(横山源之助、1899年)など「貧民窟」を対象とするルポルタージュが数多く書かれている。

 スラム問題にどう対処するかは、近代都市計画の起源である。イギリスでは、1848年、公衆衛生法Public Health Act1851年、労働者階級宿舎法Labouring Class Lodging Houses Act(Shaftesbury's Act)1866年衛生法Sanitary Actが相次いで制定され、1894年にはロンドン建築法によって、道路の幅員、壁面線、建物周囲の空地、建物の高さの規制が行われる。日本では、市区改正などいくつかの対策が1919年の市街地建築物法、都市計画法の制定に結びついている。

 スラムは、しばしば、家族解体、非行、精神疾患、浮浪者、犯罪、マフィア、売春、麻薬、・・・など、様々な社会病理[1]の温床とされるが、それは必ずしも普遍的ではない。場合によって生存のためにぎりぎりである居住条件に対処するために、むしろ、強固な相互扶助組織、共同体が形成されるのが一般的である。同じ村落の出身者毎の、また、民族毎の共住がなされ、それぞれに独特の生活慣習、文化が維持される。スラムに共通する、「貧困の文化」(O.ルイス)、「貧困の共有」(C.ギアツ)といった概念も提出されてきた。

20世紀に入って、都市化の波は、全世界に及ぶ。蒸気船による世界航路の成立、蒸気機関車による鉄道の普及は、都市のあり方に決定的な影響を及ぼす。そして、モータリゼーションの普及が都市化を加速することになった。しかし、発展途上地域の都市化は先進諸国と同じではない。先進諸国では工業化と都市化の進展には一定の比例関係があるのに対して、発展途上地域では、「過大都市化over urbanization」、「工業化なき都市化urbanization without industrialization」と呼ばれる、工業化の度合いをはるかに超えた都市化が見られるのである。ある国、ある地域で断突の規模をもつ巨大都市は、プライメート・シティ(首座都市、単一支配型都市)と呼ばれる。

 スラムの様相も、先進諸国のそれとは異なる。第一に、先進諸国のスラムが都市の一定の地域に限定されるのに対して、発展途上国の大都市ではほぼ都市の全域を覆うのである。第二に、スラムが農村的特性を維持し、直接農村とのつながりを持ち続ける点もその特徴である。インドネシアのカンポンkampungがその典型である。

カンポンというのはムラという意味である。都市の住宅地でもムラと呼ばれる、そのあり方は、発展途上国の大都市に共通で、アーバン・ヴィレッジ(都市集落)という用語が一般に用いられる。その特性は以下のようである。

多様性:異質なものの共生原理:複合社会plural societyは、発展途上国の大都市の「都市村落」共通の特性とされるが、カンポンにも様々な階層、様々な民族が混住する。多様性を許容するルール、棲み分けの原理がある。また、カンポンそのものも、その立地、歴史などによって極めて多様である。

完結性:職住近接の原理:カンポンの生活は基本的に一定の範囲で完結しうる。カンポンの中で家内工業によって様々なものが生産され、近隣で消費される。

自律性:高度サーヴィス・システム:カンポンには、ひっきりなしに屋台や物売りが訪れる。少なくとも日常用品についてはほとんど全て居ながらにして手にすることが出来る。高度なサーヴィス・システムがカンポンの生活を支えている。

共有性:分ち合いの原理:高度なサーヴィス・システムを支えるのは余剰人口であり、限られた仕事を細分化することによって分かち合う原理がそこにある。

共同性:相互扶助の原理:カンポン社会の基本単位となるのは隣組(RT:ルクン・タタンガ)-町内会(RW:ルクン・ワルガ)である。また、ゴトン・ロヨンと呼ばれる相互扶助活動がその基本となっている。さらに、アリサンと呼ばれる民間金融の仕組み(頼母子講、無尽)が行われる。

物理的には決して豊かとは言えないけれど、朝から晩まで人々が溢れ、活気に満ちているのがカンポンである。そして、その活気を支えているのがこうした原理である。このカンポンという言葉は、英語のコンパウンド(囲い地)の語源だという(OED)。かつてマラッカやバタヴィアを訪れたヨーロッパ人が、囲われた居住地を意味する言葉として使い出し、インド、そしてアフリカに広まったとされる。

「スラム街」という語を和英辞典で引くと興味深い。バリアーダbarriada(中南米、フィリピン)、バスティbustee, busti, basti(インド)、、ファヴェーラfavela(ブラジル)、ポブラシオンpoblacion(チリ)などと、国、地域によって呼び名が異なるのである。ネガティブな意味合いで使われてきたスラムという言葉ではなく、それぞれの地域に固有の居住地の概念として固有の言葉が用いられるようになりつつある。

問題は、究極的に、土地、住宅への権利関係、居住権の問題に帰着する。スクオッターsquatter(不法占拠者)・スラムという言葉が用いられるが、クリティカルなのは、貧困のみならず、戦争、内戦などによって生み出される難民、スクオッター、ホームレスの問題である。差異を原動力とし、差別、格差を再生産し続ける資本主義的な生産消費のメカニズムがスラムを生み出す原理である。すなわち、物理的なスラム・クリアランスが究極的な意味でのスラムの解消に繋がるわけではないのは明らかである。その存在は、各国、各地域の政治的、経済的、社会的諸問題の集約的表現である。

 



[1] 布野修司、「都市の病理学―「スラム」をめぐって―」、『都市と劇場―都市計画という幻想―』布野修司建築論集Ⅱ、彰国者、1998

2023年9月9日土曜日

タウンアーキテクトの可能性―21世紀の建築家の役割、長澤泰 ・神田順 ・大野秀敏 ・坂本雄三 ・松村秀一 ・藤井恵介編,建築大百科事典, 朝倉書店,2008年

 朝倉書店 1700字×2枚 建築学大百科

布野修司

 

122 タウンアーキテクトの可能性―21世紀の建築家の役割

「建築家」は、全てを統括する神のような存在としてしばしば理念化されてきた。今日に伝わる最古の建築書を残したヴィトルヴィウスの言うように、「建築家」にはあらゆる能力が要求される。この神のごとき万能な造物主としての「建築家」のイメージは極めて根強く、ルネサンスの「建築家」たちの万能人、普遍人(ユニバーサル・マン)の理想に引き継がれる。彼らは、発明家であり、芸術家であり、哲学者であり、科学者であり、工匠である。

近代「建築家」を支えたのも、世界を創造する神としての「建築家」像であった。彼らは、神として理想都市を計画することに夢中になるのである。そうしたオールマイティーな「建築家」像は、実は、今日も実は死に絶えたわけではない。

 そしてもうひとつ、広く流布する「建築家」像がある。フリー・アーキテクトである。フリーランスの「建築家」という意味である。すなわち、「建築家」は、あらゆる利害関係から自由な、芸術家としての創造者としての存在である、というのである。神ではないけれど、自由人としての「建築家」のイメージである。

 もう少し、現実的には、施主と施工者の間にあって第三者的にその利害を調整する役割をもつのが「建築家」であるという規定がある。施主に雇われ、その代理人としてその命や健康、財産を養護する医者や弁護士と並んで、「建築家」の職能もプロフェッションのひとつと欧米では考えられている。

 こうして、「建築家」の理念はすばらしいのであるが、複雑化する現代社会においては、ひとりでなんでもというわけにはいかない。建築をつくるのは集団的な仕事であり、専門分化は時代の流れである。また、フリーランスの「建築家」といっても、実態をともなわないということがある。

この半世紀ほどの日本社会の流れをみると、第一に言えるのは、建てては壊す(スクラップ・アンド・ビルド)時代は終わった、ということである。二一世紀はストックの時代である。地球環境全体の限界が、エネルギー問題、資源問題、食糧問題として意識される中で、建築も無闇に壊すわけにはいかなくなる。既存の建築資源、建築遺産を可能な限り有効活用するのが時代の流れである。新たに建てるよりも、再活用し、維持管理することの重要度が増すのは明らかである。

そうであれば、そうした分野、コンヴァージョン(用途変更)やリノベーション(再生)、リハビリテーション(修景修復)などの分野が創造性に満ちたものとなるのははっきりしている。また、ライフ・サイクル・コストやリサイクル、二酸化炭素排出量といった環境性能を重視した設計が主流となって行くであろう。さらに、維持管理、耐震補強といった既存の建物に関わる事業が伸びていくことになるであろう。

 新しく建てられる建築が量的に少なくなるということは、はっきり言って、「建築家」もこれまで程多くは要らない、ということである。木造を主体としてきた日本と石造の欧米とは事情を異にするとは言え、日本がほぼ先進諸国の道を辿っていくのは間違いないであろう。乱暴な議論であるが、日本の建設投資が米国並みになるとすれば、「建築家」の数は半分になってもおかしくないのである。

問題は、今「建築家」として、あるいは「建築家」を志すものとして、どうするかである。第一は、既に上に述べた。建物の増改築、改修、維持管理を主体としていく方向である。そのための設計、技術開発には広大な未開拓分野がある。第二は、活躍の場を日本以外にもとめることである。国際「建築家」への道である。世界を見渡せば、日本で身につけた建築の技術を生かすことの出来る、また、それが求められる地域がある。中国、インド、あるいは発展途上地域にはまだまだ建設が必要な国は少なくないのである。一七世紀に黄金時代を迎えたオランダは世界中に都市建設を行うために多くの技術者を育成したのであるが、やがて世界経済のヘゲモニーを英国に奪われると、オランダ人技術者は主として北欧の都市計画に参画していった。かつて明治維新の時代には、日本も多くの外国人技師を招いたのである。

第三に、建築の分野を可能な限り拡大することである。建築の企画から設計、施工、維持管理のサイクルにはとてつもない分野、領域が関係している。全ての空間に関わりがあるのが建築であるから当然である。ひとつは建築の領域でソフトと言われる領域、空間の運営やそれを支える仕組みなどをどんどん取り込んでいくことである。また、様々な異業種、異分野の技術を空間の技術としてまとめていくことである。「建築家」が得意なのは、様々な要素をひとつにまとめていくことである。マネージメント能力といっていいが、PM(プロジェクト・マネージメント)、CM(コンストラクション・マネージメント)など、日本で必要とされる領域は未だ少なくない。

この第三の道において、「建築家」がまず眼をむけるべきは「まちづくり」の分野である。「建築家」は、ひとつの建築を「作品」として建てればいい、というわけにはいかない。たとえ一個の建築を設計する場合でも、相隣関係があり、都市計画との密接な関わりがある。「都市計画」あるいは「まちづくり」といわなくても、とにかく、「建築家」はただ建てればいい、という時代ではなくなった。どのような建築をつくればいいのか、当初から地域住民と関わりを持つことを求められ、建てた後もその維持管理に責任を持たねばならない。もともと、都市計画は「建築家」の仕事といっていいが、これまで充分その役割を果たしてきたかというと疑問がある。大いに開拓の余地がある。いずれにせよ、「建築家」はその存在根拠を地域との関係に求められつつある。

『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説』[1](以下『序説』)で提起したのであるが、「タウンアーキテクト」と呼びうるような新たな職能が考えられるのではないか。

「タウンアーキテクト」を直訳すれば「まちの建築家」である。幾分ニュアンスを込めると、「まちづくり」を担う専門家が「タウンアーキテクト」である。とにかく、それぞれのまちの「まちづくり」に様々に関わる「建築家」たちを「タウンアーキテクト」と呼ぶのである。

 「まちづくり」は本来自治体の仕事である。しかし、それぞれの自治体が「まちづくり」の主体として充分その役割を果たしているかどうかは疑問である。いくつか問題があるが、地域住民の意向を的確に捉えた「まちづくり」を展開する仕組みがないのが決定的である。そこで、自治体と地域住民の「まちづくり」を媒介する役割を果たすことを期待されるのが「タウンアーキテクト」である。

 何も全く新たな職能というわけではない。その主要な仕事は、既に様々なコンサルタントやプランナー、「建築家」が行っている仕事である。ただ、「タウンアーキテクト」は、そのまちに密着した存在と考えたい。必ずしもそのまちの住民でなくてもいいけれど、そのまちの「まちづくり」に継続的に関わるのが原則である。そういう意味では、「コミュニティ・アーキテクト」といってもいいかもしれない。「地域社会の建築家」である。

「建築家」は、基本的には施主の代弁者である。しかし、同時に施主と施工者(建設業者)の間にあって、第三者として相互の利害調整を行う役割がある。医者、弁護士などとともにプロフェッションとされるのは、命、財産に関わる職能だからである。その根拠は西欧世界においては神への告白(プロフェス)である。また、市民社会の論理である。同様に「タウンアーキテクト」は、「コミュニティ(地域社会)」の代弁者であるが、地域べったり(その利益のみを代弁する)ではなく、「コミュニティ(地域社会)」と地方自治体の間の調整を行う役割をもつ。

 「タウンアーキテクト」を一般的に規定すれば以下のようになる。

 ①「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」を推進する仕組みや場の提案者であり、実践者である。「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」の仕掛け人(オルガナイザー(組織者))であり、アジテーター(主唱者)であり、コーディネーター(調整者)であり、アドヴォケイター(代弁者))である。

 ②「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」の全般に関わる。従って、「建築家」(建築士)である必要は必ずしもない。本来、自治体の首長こそ「タウンアーキテクト」と呼ばれるべきである。

 ③ここで具体的に考えるのは「空間計画」(都市計画)の分野だ。とりあえず、フィジカルな「まちのかたち」に関わるのが「タウンアーキテクト」である。こうした限定にまず問題がある。「まちづくり」のハードとソフトは切り離せない。空間の運営、維持管理の仕組みこそが問題である。しかし、「まちづくり」の質は最終的には「まちのかたち」に表現される。その表現、まちの景観に責任をもつのが「タウンアーキテクト」である。

④もちろん、誰もが「建築家」であり、「タウンアーキテクト」でありうる。身近な環境の全てに「建築家」は関わっている。どういう住宅を建てるか(選択するか)が「建築家」の仕事であれば、誰でも「建築家」でありうる。また、「建築家」こそ「タウンアーキテクト」としての役割を果たすべきである、ということがある。様々な条件をまとめあげ、それを空間的に表現するトレーニングを受け、その能力に優れているのが「建築家」だからである。

 



[1] 布野修司、『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』、建築資料研究社,二〇〇〇年。

2023年9月8日金曜日

スラムとは何か、長澤泰 ・神田順 ・大野秀敏 ・坂本雄三 ・松村秀一 ・藤井恵介編,建築大百科事典, 朝倉書店,2008年

 朝倉書店 建築学大百科   1700字×2枚

 

355 スラムとは何か

 スラムSlumとは、「貧民窟」、「貧民街」、あるいは「細民街」のことである。といっても、この訳語そのものが今日では死語に近いからピンと来ないかもしれない。一般的には「不良住宅地」という。要するに、低所得(貧困)層が居住する、狭小で粗末な住居が建並ぶ物理的にも貧しい街区、住宅地がスラムである。

貧しい人々が住む居住地は古来様々に存在してきたけれど、スラムは、近代都市がその内に抱え込んだ「不良住宅地」を指していう。すなわち、産業革命によって、農村を離脱して都市へ流入してきた大量の賃労働者たちが狭小で劣悪な住宅環境に集中して住んだのがスラムである。

スラムという言葉は、スランバーSlumberに由来し、1820年代からその用例が見られる。スランバーとは耳慣れないが、動詞として、(すやすや)眠る、うとうとする、まどろむ、(火山などが)活動を休止する、あるいは、眠って(時間・生涯などを)過ごす、無為に過ごす(away, out, through)、眠って〈心配事などを〉忘れる(away)、名詞となると、眠り、《特に》うたたね、まどろみ、昏睡、[無気力]状態、沈滞という意味である。

 スラムの出現は、産業革命による都市化の象徴である。産業化に伴う都市化は、大規模な社会変動を引き起こし、都市と農村の分裂を決定的なものとした。その危機の象徴がスラムである。

 いち早く産業革命が進行したイギリスは、マンチェスター、バーミンガム、リヴァプールといった工業都市を産むが、大英帝国の首都ロンドンの人口増加もまた急激であった。1800年に96万人とされるロンドンの人口は、1841年に195万人となり、1887年には420万人に膨れあがる。産業化以前の都市の規模は、基本的には、移動手段を牛馬、駱駝に依拠する規模に限定されていた。火器(大砲)の出現によって築城術は大きく変化するが、新たな築城術に基づくルネサンスの理想都市計画をモデルとして世界中に建設された西欧列強による植民都市にしても、城郭の二重構造を基本とする都市の原型を維持している。産業化による、都市の大規模化、大都市(メトロポリス)の出現は、比較にならない大転換となり、人々の生活様式、居住形態を一変させることになった。

 大量の流入人口を受容れる土地は限られており、限られた土地に大量の人口が居住することによって、狭小劣悪で過密な居住環境が生み出されるのは必然であった。全ての流入人口が賃労働者として吸収されないとすれば、失業者や特殊な職業につくものが限られた地区に集中するのも自然である。スランバーは、仕事のない人々が多数無為に過ごす様を言い表わしたのである。

 日本の場合、1880年代から1890年代にかけて「貧民窟」=スラムが社会問題となる。有名なのが東京の三大「貧民窟」、下谷万年町、四谷鮫ヶ淵、芝新網町であり、大阪の名護町である。『貧天地飢寒窟探検記』(桜田文吾、1885年)、『最暗黒の東京』(松原岩五郎、1888年)、『日本の下層社会』(横山源之助、1899年)など「貧民窟」を対象とするルポルタージュが数多く書かれている。

 スラム問題にどう対処するかは、近代都市計画の起源である。イギリスでは、1848年、公衆衛生法Public Health Act1851年、労働者階級宿舎法Labouring Class Lodging Houses Act(Shaftesbury's Act)1866年衛生法Sanitary Actが相次いで制定され、1894年にはロンドン建築法によって、道路の幅員、壁面線、建物周囲の空地、建物の高さの規制が行われる。日本では、市区改正などいくつかの対策が1919年の市街地建築物法、都市計画法の制定に結びついている。

 スラムは、しばしば、家族解体、非行、精神疾患、浮浪者、犯罪、マフィア、売春、麻薬、・・・など、様々な社会病理[1]の温床とされるが、それは必ずしも普遍的ではない。場合によって生存のためにぎりぎりである居住条件に対処するために、むしろ、強固な相互扶助組織、共同体が形成されるのが一般的である。同じ村落の出身者毎の、また、民族毎の共住がなされ、それぞれに独特の生活慣習、文化が維持される。スラムに共通する、「貧困の文化」(O.ルイス)、「貧困の共有」(C.ギアツ)といった概念も提出されてきた。

20世紀に入って、都市化の波は、全世界に及ぶ。蒸気船による世界航路の成立、蒸気機関車による鉄道の普及は、都市のあり方に決定的な影響を及ぼす。そして、モータリゼーションの普及が都市化を加速することになった。しかし、発展途上地域の都市化は先進諸国と同じではない。先進諸国では工業化と都市化の進展には一定の比例関係があるのに対して、発展途上地域では、「過大都市化over urbanization」、「工業化なき都市化urbanization without industrialization」と呼ばれる、工業化の度合いをはるかに超えた都市化が見られるのである。ある国、ある地域で断突の規模をもつ巨大都市は、プライメート・シティ(首座都市、単一支配型都市)と呼ばれる。

 スラムの様相も、先進諸国のそれとは異なる。第一に、先進諸国のスラムが都市の一定の地域に限定されるのに対して、発展途上国の大都市ではほぼ都市の全域を覆うのである。第二に、スラムが農村的特性を維持し、直接農村とのつながりを持ち続ける点もその特徴である。インドネシアのカンポンkampungがその典型である。

カンポンというのはムラという意味である。都市の住宅地でもムラと呼ばれる、そのあり方は、発展途上国の大都市に共通で、アーバン・ヴィレッジ(都市集落)という用語が一般に用いられる。その特性は以下のようである。

多様性:異質なものの共生原理:複合社会plural societyは、発展途上国の大都市の「都市村落」共通の特性とされるが、カンポンにも様々な階層、様々な民族が混住する。多様性を許容するルール、棲み分けの原理がある。また、カンポンそのものも、その立地、歴史などによって極めて多様である。

完結性:職住近接の原理:カンポンの生活は基本的に一定の範囲で完結しうる。カンポンの中で家内工業によって様々なものが生産され、近隣で消費される。

自律性:高度サーヴィス・システム:カンポンには、ひっきりなしに屋台や物売りが訪れる。少なくとも日常用品についてはほとんど全て居ながらにして手にすることが出来る。高度なサーヴィス・システムがカンポンの生活を支えている。

共有性:分ち合いの原理:高度なサーヴィス・システムを支えるのは余剰人口であり、限られた仕事を細分化することによって分かち合う原理がそこにある。

共同性:相互扶助の原理:カンポン社会の基本単位となるのは隣組(RT:ルクン・タタンガ)-町内会(RW:ルクン・ワルガ)である。また、ゴトン・ロヨンと呼ばれる相互扶助活動がその基本となっている。さらに、アリサンと呼ばれる民間金融の仕組み(頼母子講、無尽)が行われる。

物理的には決して豊かとは言えないけれど、朝から晩まで人々が溢れ、活気に満ちているのがカンポンである。そして、その活気を支えているのがこうした原理である。このカンポンという言葉は、英語のコンパウンド(囲い地)の語源だという(OED)。かつてマラッカやバタヴィアを訪れたヨーロッパ人が、囲われた居住地を意味する言葉として使い出し、インド、そしてアフリカに広まったとされる。

「スラム街」という語を和英辞典で引くと興味深い。バリアーダbarriada(中南米、フィリピン)、バスティbustee, busti, basti(インド)、、ファヴェーラfavela(ブラジル)、ポブラシオンpoblacion(チリ)などと、国、地域によって呼び名が異なるのである。ネガティブな意味合いで使われてきたスラムという言葉ではなく、それぞれの地域に固有の居住地の概念として固有の言葉が用いられるようになりつつある。

問題は、究極的に、土地、住宅への権利関係、居住権の問題に帰着する。スクオッターsquatter(不法占拠者)・スラムという言葉が用いられるが、クリティカルなのは、貧困のみならず、戦争、内戦などによって生み出される難民、スクオッター、ホームレスの問題である。差異を原動力とし、差別、格差を再生産し続ける資本主義的な生産消費のメカニズムがスラムを生み出す原理である。すなわち、物理的なスラム・クリアランスが究極的な意味でのスラムの解消に繋がるわけではないのは明らかである。その存在は、各国、各地域の政治的、経済的、社会的諸問題の集約的表現である。

 



[1] 布野修司、「都市の病理学―「スラム」をめぐって―」、『都市と劇場―都市計画という幻想―』布野修司建築論集Ⅱ、彰国者、1998