温暖化にいかに対応するか──技術・都市・
環境(仮)
「生態系的都市」(仮)4500字程度
地球環境時代の都市デザイン
布野修司
地球環境問題が喧しく論じたてられ、様々な対応策が論じられるにも関わらず、いっこうに事態の進展が見られないのは実に不思議である。そして、そこにこそ現代の根源的危機があるのもはっきりしている。
第一、危機を危機として認識しない底抜けの楽天主義がある。あるいは危機を疑う懐疑主義がある。第二、裏返しで、危機を危機として煽るだけのエコ・ファシズムがある。あるいは、エコという名に値しない「偽装エコ」が横行している。第三、この二つによって「不都合な真実」が隠されてしまっている。第四、隠された「真実」として、危機を危機としてそれをビジネスとする、あるいは危機であろうとなかろうと格差、差異を利潤の原動力とする世界資本主義の自己運動がある。第五、危機を危機として意識するものの、対処の仕方がわからない、対処ができないという問題がある。これが最も身近な問いである。
石油依存の社会、車依存の社会が決定的に問題であることははっきりしている。しかし、車に乗るな!と言われても、そうはいかない。根源的にはライフスタイルの問題であると頭で理解はできても、最早身体がついて行かない、そんな事態に立ち入ってしまっている。すなわち、地球大の問題と個々の身体の問題が直接絡まり合って、解くに解けないのが現代である。
ここでは、地球環境時代の都市について考えたい。「日本の風土に合わせた都市のデザインをどのように考えていくのか」というのが与えられたテーマである。物質循環、エネルギー循環といった観点からの論考は他に譲ることになるが、もとより、理論モデルを立て、シミュレーションをして、数値目標を導き出すなどは不得手である。しかし、事態が、50%削減が不可避という方向であるとすれば、解決は、単なる数値合わせ、CO2排出権取引といった次元にはない、ことははっきりしている。
もう30年もスラバヤ(インドネシア)のカンポン(都市村落)に通っている。カンポンとはムラという意味である。都市の住宅地なのにカンポン(ムラ)という。詳述する余裕がないけれど、そこには自立的なコミュニティがある。貧しいけれど、職住近接の活気に満ちた世界がある[i]。
そうしたカンポンの世界でスラバヤ・エコ・ハウスと呼ばれる実験集合住宅を建てた。椰子の繊維を断熱材に用い、井戸水を太陽電池のポンプで汲み上げて床輻射冷房の装置を組み込んだ。こうしたモデル集合住宅、モデル住宅地が各地で試みられる必要があると心底思う。とりわけ、今後人口が増えるのは熱帯地域である。そこで皆が一斉にクーラーを使い出したらどうなるか。インドネシアの友人たちと議論を重ねて設計した、自然エネルギーを最大限に生かしたモデル集合住宅がスラバヤ・エコ・ハウスである。
「しかし、何故、エコ・ハウスをわれわれだけに押し続けるのですか?日本ではクーラー使わないのですか?」という無数の声がある。
今のところ筆者は、何も言えずに、黙るしかない。
都市といえども、それを構成する都市組織のあり方、具体的には街区のかたちや住宅のかたちが問われる。そのあり方を念頭に、世界の都市史を大きく振り返って、素朴な直感をメモしてみたい。
大転換の1960年代
都市の歴史を大きく振り返る時、それ以前の都市のあり方を根底的に変えた「産業化」のインパクトはとてつもなく大きい。都市と農村の分裂が決定的となり、急激な都市化、都市膨張によって、「都市問題」が広範に引き起こされることになった[ii]。しかしながら、今日の都市をとりまく状況は、さらに桁外れに危機的となりつつある。その決定的な転換の閾は1960年代にある。
日本列島の景観の変化が象徴的にそのことを示している。1960年代初頭、日本にアルミサッシュの住宅はゼロである。全て木製建具であった。1970年その普及率は100パーセントとなる。クーラー(空気調整機)が普及し、日本の住宅の機密性があがったということである。日本の都市の人工環境化は以来とどまることを知らない。日本にプレファブ(工業化住宅)住宅の第1号ミゼットハウスが販売されたのが1959年である。1970年には年間新築戸数の14パーセントをプレファブ住宅が占めた。現在は20パーセントを超える。住宅は建てるものではなく、工場で作られたものを買う時代になった。この10年で、日本中から藁葺き茅葺きの民家がほぼ姿を消した。1960年代は、間違いなく、日本の住宅史上最大の転換期である。東京オリンピックを期に、高速道路網が東京につくられ、百尺規定が撤廃されて、最初の超高層建築霞ヶ関ビルが建ったのは1968年である[iii]。
第二次世界大戦が終わった頃、すなわち20世紀半ば頃までは、都市景観に大きな変化はなかったといっていい。東京で言えば、江戸の雰囲気がそこここに残されていた。
CO2削減の基準年を1990年代のどこに置くのか、といった議論はあまりにも姑息で近視眼的である。都市を含めた社会システムの全体を問題にするのであれば、少なくとも1960年代の初頭、あるいは第二次世界大戦終戦直後に遡って、そこを出発点と考えるべきだと思う。
鉄とガラスとコンクリート
産業社会の進展を加速化し、都市化の水準を格段に変えてしまったのが石油である。すなわち、外燃機関から内燃機関への展開、具体的には、車と飛行機の出現は、移動時間を短縮させ、都市の拡大を飛躍的に促すことにおいて、都市のかたちをそれ以前とは比較にならないほどに変えてしまう。そして、都市の立体化を実現したのが「鉄筋コンクリート造(reinforced
concrete construction、略してRC造という)」の「発明」であった。鉄とコンクリート[iv]の「偶然の結婚」と言われる、この「発明」がなかったら、世界都市史は全く異なったものになった筈である。
鉄筋コンクリートは、引張りに強い鉄と圧縮に強いコンクリートを組み合わせる実に都合のいい合成材料である。「偶然の結婚」とは、たまたま、鉄とコンクリートとの付着力が十分強いこと、コンクリートはアルカリ性であり、鉄はコンクリートで完全に包まれている限りさびる心配がないこと、そして鉄筋とコンクリートの熱膨張率が非常に近いこと、という条件があったということである。
1850年頃に、フランスの J. L. ランボーが鉄筋コンクリートでボートをつくったのが最初で、1867年に、J. モニエが鉄筋コンクリートの部材(鉄筋を入れたコンクリート製植木鉢や鉄道枕木)を特許品として博覧会に出品したのが普及の始まりである。J. モニエは1880年に鉄筋コンクリート造耐震家屋を試作する。その後ドイツのG.A.ワイスらが86年に構造計算方法を発表し、実際に橋や工場などを設計し始め、建築全般に広く利用されるようになった[v]。
すなわち、鉄筋コンクリートの歴史はたかだか一世紀のことである。そして、われわれにはかつて最強の永遠の素材と考えられた鉄筋コンクリートに対する信頼感はない。塩分を含んだ海砂の問題で明らかになったように意外にもろい。再生コンクリートも模索されるが、その未来は見えない。
ここでも、われわれは一世紀前に遡って、都市空間支える物質的基礎(建築材料)を再考すべきである。
都市の死
都市の立体化へ向かっては、もちろん、鉄骨造の発達もあれば、エレベーター技術の開発が不可欠である。いずれにせよ、科学技術の発達によって、都市は垂直的に空間を確保することによって、さらなる集積が可能となった。そして、地域の生態系を超えるキャパシティを持つ都市が世界中に出現することになった。かつて、プライメイト・シティ(首座都市、単一支配型都市)と呼ばれた発展途上地域は、だらだらと繋がり始め拡大巨大都市地域EMR[vi]と化しつつある。
こうしたクライマックスが見えてしまった段階で、想起すべきは都市の生と死の歴史(栄枯盛衰)である。都市が無限に拡大し続けることはあり得ない。エネルギー、資源、食料が有限であることは、既に地球大の規模で確認されつつあることである。
インダス文明は、紀元前2000年頃から衰退し始め、前1800年頃には解体したとされる。衰退の理由として挙げられるのは、まず、インダス川の大氾濫、あるいは河口の隆起による異常氾濫、もしくは河川の流路変更などの自然条件である。また、モエンジョ・ダーロにおける「スラム」化など都市機能が麻痺したことによる都市内的要因である。その衰退は、徐々に進行したとされ、煉瓦を焼くための森林の過剰伐採による気候変化(乾燥化)という説もある。
都市は、そもそも、自然、地域の生態系への挑戦として成立する。その原型としてのオアシス都市を考えてみればいい。オアシスは、単に、水のあるところではない。水を利用して農耕が行われるところがオアシスである。すなわち、オアシスは自然に存在するのではなく、人工的営為によってつくられるのである。オアシスの持続のためには人為が不可欠である。沙漠に埋もれて忘れ去られた数多くの都市があることがそのことを示している。また、オアシスの成立には水の利用について高度な技術、知恵が必要とされる。
都市が今日でも自然、地域の生態系との関係においてのみ存続していることは、台風や地震、ますます増え続ける都市洪水などで思い知らされていることである。
地域の生態系に基づく居住システム
さて、ここからが本題である。建築、あるいは土地は、基本的に動かないし、動かせない。基本的には「地(ぢ)のもの」である。プレファブ(工業化)建築は、ある意味で画期的な発明であった。土地土地で採取できる材料(地域産材)によってつくられてきた建築が工場で作られようになるのである。工業材料(鉄、ガラス、コンクリート)でつくられることによって、また、四角い箱形のジャングルジムのような超高層建築を理想とする近代建築の理念によって、世界中の都市が似てくるのは当然の流れであった。
ただ一点、建築は他の工業製品と異なる。99%工場でつくられても、具体的な敷地に置かれて始めて建築となる。建築が「地のもの」、というのはそういう意味である。
環境をめぐる全てが複雑に絡まり合う現代社会において、唯一、共通の指針となるのは、
「可能な限り身近に循環系を成立させる」
ということであろう。「地産地消」というスローガンが共有されつつあるが、食糧にしても、エネルギーにしても、廃棄物にしても、地域を越えたとてつもないシステムが地域の生態系に基づいてきた居住の仕組みをずたずたに切り裂いてしまっていることが最大の問題なのである。
都市についても、同じように言いうる。「日本の風土に合わせた都市のデザインをどのように考えていくのか」と言われれば、地域地域で採れる、あるいはつくられる素材を基礎にして、都市をデザインすること、その原点に立ち返ることが出発点になる。例えば、木材は真剣に見直されていい。しかし、国内自給率が50%を下回って(1985年)既に久しい。日本に木材が育っていないわけではない。食糧同様、その生産流通消費の構造が狂ってしまっているのである。
エコハウスなどと言わなくても、日本の住まいは、そもそも、日本の気候風土にあったかたちで成立し、その伝統を維持してきた。世界中を見渡しても、住居が地域の生態系に基づいて成り立ってきたことは明らかである[vii]。
何故、日本でエコハウス=地域の生態系に基づく居住システムが実現しないのか、と言えば、冒頭に戻っての堂々巡りである。そうした方向を否定してきたのが産業化の流れである。それ故、またしかし、エコハウス=地域の生態系に基づく居住システムの実現は、過去に戻ることを意味しない。また、誤解を恐れずに言えば、単に法制度的な枠組みの改変の問題でもない。確かに、居住あるいは建築をめぐる日本の制度的枠組みには、日本の都市を鉄と・ガラスとコンクリートで画一的に固めてしまえばいいといった、どうしようもないところがある。そして、エコハウス・オリエンティッドな環境経済学的な仕組みも最大限追求されるべきである。しかし、全く新たな世界史的な実験と考えなければ展望は見いだせないと思う。それよりも何よりも、百の議論より、身近な一歩である。
布野修司先生
平素は社としてお世話になっております。突然のメールで失礼いたしますが、私は、岩波書店の雑誌『科学』を担当しております田中と申します。
『科学』08年5月号において、地球温暖化への日本の対応について特集したいと考えております。構成案としては末尾のように考えておりますが、どうしても技術的な話が多く、違った角度からの論考も織り交ぜたいと考えております。
先生には、そうしたものの1つとして、都市のあり方について、4500字程度の論考をご執筆いただけないかと希望しております。
締切としては、3月14日(金)でご検討いただけると幸いでございます。
内容としては、先生にお任せしてよいと考えております。構成案に示した「生態系的都市」というのは、あてずっぽうで、先生のホームページに記載されていた言葉を勝手につなぎ合わせたものです。
都市については、花木啓祐氏(東大)に、エネルギーや物質循環などの側面でお願いしておりますので、先生には、より建築に則した論考を考えていただければと思っております。
温暖化がすすむとして、日本の風土に合わせた都市のデザインをどのように考えていくのか、といった方向で考えていただくのはどうか、と思っております。
漠然としていて恐れ入ります。お電話で相談した
いと思ったの
ですがタイミングがうまくあわず、メールにてまず
はお願いをさ
しあげる次第です。
ご検討をどうぞよろしくお願い申し上げます。
岩波書店
田中太郎
『科学』08年5月号 (敬称略、流動的な内容ですのでお手元に留めてください)
特集:温暖化にいかに対応するか──技術・都市・ 環境(仮)
[技術]
総論(新エネルギーを含めて) 山地憲治(東大)
省エネ 永田豊(電中研)
炭酸ガス貯留 藤井康正(東大)
[コラム]
・IPCCの議論 杉山大志(電中研)
・地底の二酸化炭素の科学 赤井誠(産総研)
・家庭のエコ 山岡寛人(元高校教師)
・産業 製鉄 鵜沢政晴(鉄鋼連盟)
セメント 北村勇一(セメント協会/太
平洋セメント)
[都市]
総論 花木啓祐(東大)
生態系的都市 布野修司(滋賀県立大)
[環境]
日本の適応策(農業、防潮堤) 原沢英夫(環境研)
森林の吸収 松本光朗(森林総研)
[コラム]
・バイオ燃料 北林寿信(農業情報研)
・農業とメタン 八木一行(農業環境技術研究所)
・海洋吸収:地球科学の視点から 中澤高清(東
北大)
[社会]
排出権 岡敏弘(福井県立大)
CDM 明日香壽川(東北大)
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岩波書店『科学』編集部
田中太郎
101−8002
東京都千代田区一ツ橋2−5−5
電話:03−5210−4435(直通)
4000(代表)
ファックス:03−5210−4073
電子メール:tarotan@iwanami.co.jp
HP:http://www.iwanami.co.jp/kagaku/
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害対策」発売中
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[i] 拙著、『カンポンの世界』、PARCO出版、1991年
[ii] 拙稿、「都市のかたちーその起源、変容、転成、保全ー」、『都市とは何か』『岩波講座 都市の再生を考える』第一巻、岩波書店、2005年3月
[iii] グローバルにも、大きな閾となるのは1960年代といっていい。既に兆候は現れていた。「都市化」は、「産業化」の度合に応じる一定のかたちで引き起こされてきたのではない。「工業化なき都市化」、「過大都市化」と呼ばれる現象が、工業化の進展が遅れた「発展途上地域」において一般的に見られた。結果として、1960年代初頭には、世界中に数多くの人口一千万人を超える巨大都市(メガロポリス)が出現しつつあった。
[iv] コンクリートそのものは、建築材料として古代ローマから用いられてきた。広くはセメント類、石灰、セッコウなどの無機物質やアスファルト、プラスチックなどの有機物質を結合材として、砂、砂利、砕石など骨材を練り混ぜた混合物およびこれが硬化したものをいう。セメントとは、元来は物と物とを結合あるいは接着させる性質のある物質を意味するが、その利用そのものは古く、最も古いセメントはピラミッドの目地に使われた焼石膏CaSO4・H2O と砂とを混ぜたモルタルである。
[v]日本では、1891年の濃尾地震で煉瓦造の耐震性が決定的に疑われ始めていた。1903年の琵琶湖疎水山科運河日岡トンネル東口の支間7.45mの弧形単桁橋が日本最初の鉄筋コンクリート造土木建造物である。そして、真島健三郎が佐世保鎮守府内のポンプ小屋を建てたのが1904年である。東京帝国大学に「鉄筋コンクリート構造」という科目が開講(佐野利器担当)されるのは、サンフランシスコ大地震が起こった1905年である。そして、06年には白石直治が神戸和田岬の東京倉庫を鉄筋コンクリート造で建てた。本格的な鉄筋コンクリート造建築の最初のものは、その白石直治の東京倉庫 G 号棟(1910年完成)と言われている。
[vi] Extended
Metropolitan Region. 拙稿、「メガ・アーバニゼーション」、『アジア新世紀8 構想』、岩波書店、青木保編、2003年
[vii] 布野修司編著、『世界住居誌』、昭和堂、2005年