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2023年10月23日月曜日

スラムとは何か、建築学大百科、朝倉書店、2008

 朝倉書店   建築学大百科


355 スラムとは何か

 スラムSlumとは、「貧民窟」、「貧民街」、あるいは「細民街」のことである。といっても、この訳語そのものが今日では死語に近いからピンと来ないかもしれない。一般的には「不良住宅地」という。要するに、低所得(貧困)層が居住する、狭小で粗末な住居が建並ぶ物理的にも貧しい街区、住宅地がスラムである。

貧しい人々が住む居住地は古来様々に存在してきたけれど、スラムは、近代都市がその内に抱え込んだ「不良住宅地」を指していう。すなわち、産業革命によって、農村を離脱して都市へ流入してきた大量の賃労働者たちが狭小で劣悪な住宅環境に集中して住んだのがスラムである。

スラムという言葉は、スランバーSlumberに由来し、1820年代からその用例が見られる。スランバーとは耳慣れないが、動詞として、(すやすや)眠る、うとうとする、まどろむ、(火山などが)活動を休止する、あるいは、眠って(時間・生涯などを)過ごす、無為に過ごす(away, out, through)、眠って〈心配事などを〉忘れる(away)、名詞となると、眠り、《特に》うたたね、まどろみ、昏睡、[無気力]状態、沈滞という意味である。

 スラムの出現は、産業革命による都市化の象徴である。産業化に伴う都市化は、大規模な社会変動を引き起こし、都市と農村の分裂を決定的なものとした。その危機の象徴がスラムである。

 いち早く産業革命が進行したイギリスは、マンチェスター、バーミンガム、リヴァプールといった工業都市を産むが、大英帝国の首都ロンドンの人口増加もまた急激であった。1800年に96万人とされるロンドンの人口は、1841年に195万人となり、1887年には420万人に膨れあがる。産業化以前の都市の規模は、基本的には、移動手段を牛馬、駱駝に依拠する規模に限定されていた。火器(大砲)の出現によって築城術は大きく変化するが、新たな築城術に基づくルネサンスの理想都市計画をモデルとして世界中に建設された西欧列強による植民都市にしても、城郭の二重構造を基本とする都市の原型を維持している。産業化による、都市の大規模化、大都市(メトロポリス)の出現は、比較にならない大転換となり、人々の生活様式、居住形態を一変させることになった。

 大量の流入人口を受容れる土地は限られており、限られた土地に大量の人口が居住することによって、狭小劣悪で過密な居住環境が生み出されるのは必然であった。全ての流入人口が賃労働者として吸収されないとすれば、失業者や特殊な職業につくものが限られた地区に集中するのも自然である。スランバーは、仕事のない人々が多数無為に過ごす様を言い表わしたのである。

 日本の場合、1880年代から1890年代にかけて「貧民窟」=スラムが社会問題となる。有名なのが東京の三大「貧民窟」、下谷万年町、四谷鮫ヶ淵、芝新網町であり、大阪の名護町である。『貧天地飢寒窟探検記』(桜田文吾、1885年)、『最暗黒の東京』(松原岩五郎、1888年)、『日本の下層社会』(横山源之助、1899年)など「貧民窟」を対象とするルポルタージュが数多く書かれている。

 スラム問題にどう対処するかは、近代都市計画の起源である。イギリスでは、1848年、公衆衛生法Public Health Act1851年、労働者階級宿舎法Labouring Class Lodging Houses Act(Shaftesbury's Act)1866年衛生法Sanitary Actが相次いで制定され、1894年にはロンドン建築法によって、道路の幅員、壁面線、建物周囲の空地、建物の高さの規制が行われる。日本では、市区改正などいくつかの対策が1919年の市街地建築物法、都市計画法の制定に結びついている。

 スラムは、しばしば、家族解体、非行、精神疾患、浮浪者、犯罪、マフィア、売春、麻薬、・・・など、様々な社会病理[1]の温床とされるが、それは必ずしも普遍的ではない。場合によって生存のためにぎりぎりである居住条件に対処するために、むしろ、強固な相互扶助組織、共同体が形成されるのが一般的である。同じ村落の出身者毎の、また、民族毎の共住がなされ、それぞれに独特の生活慣習、文化が維持される。スラムに共通する、「貧困の文化」(O.ルイス)、「貧困の共有」(C.ギアツ)といった概念も提出されてきた。

20世紀に入って、都市化の波は、全世界に及ぶ。蒸気船による世界航路の成立、蒸気機関車による鉄道の普及は、都市のあり方に決定的な影響を及ぼす。そして、モータリゼーションの普及が都市化を加速することになった。しかし、発展途上地域の都市化は先進諸国と同じではない。先進諸国では工業化と都市化の進展には一定の比例関係があるのに対して、発展途上地域では、「過大都市化over urbanization」、「工業化なき都市化urbanization without industrialization」と呼ばれる、工業化の度合いをはるかに超えた都市化が見られるのである。ある国、ある地域で断突の規模をもつ巨大都市は、プライメート・シティ(首座都市、単一支配型都市)と呼ばれる。

 スラムの様相も、先進諸国のそれとは異なる。第一に、先進諸国のスラムが都市の一定の地域に限定されるのに対して、発展途上国の大都市ではほぼ都市の全域を覆うのである。第二に、スラムが農村的特性を維持し、直接農村とのつながりを持ち続ける点もその特徴である。インドネシアのカンポンkampungがその典型である。

カンポンというのはムラという意味である。都市の住宅地でもムラと呼ばれる、そのあり方は、発展途上国の大都市に共通で、アーバン・ヴィレッジ(都市集落)という用語が一般に用いられる。その特性は以下のようである。

多様性:異質なものの共生原理:複合社会plural societyは、発展途上国の大都市の「都市村落」共通の特性とされるが、カンポンにも様々な階層、様々な民族が混住する。多様性を許容するルール、棲み分けの原理がある。また、カンポンそのものも、その立地、歴史などによって極めて多様である。

完結性:職住近接の原理:カンポンの生活は基本的に一定の範囲で完結しうる。カンポンの中で家内工業によって様々なものが生産され、近隣で消費される。

自律性:高度サーヴィス・システム:カンポンには、ひっきりなしに屋台や物売りが訪れる。少なくとも日常用品についてはほとんど全て居ながらにして手にすることが出来る。高度なサーヴィス・システムがカンポンの生活を支えている。

共有性:分ち合いの原理:高度なサーヴィス・システムを支えるのは余剰人口であり、限られた仕事を細分化することによって分かち合う原理がそこにある。

共同性:相互扶助の原理:カンポン社会の基本単位となるのは隣組(RT:ルクン・タタンガ)-町内会(RW:ルクン・ワルガ)である。また、ゴトン・ロヨンと呼ばれる相互扶助活動がその基本となっている。さらに、アリサンと呼ばれる民間金融の仕組み(頼母子講、無尽)が行われる。

物理的には決して豊かとは言えないけれど、朝から晩まで人々が溢れ、活気に満ちているのがカンポンである。そして、その活気を支えているのがこうした原理である。このカンポンという言葉は、英語のコンパウンド(囲い地)の語源だという(OED)。かつてマラッカやバタヴィアを訪れたヨーロッパ人が、囲われた居住地を意味する言葉として使い出し、インド、そしてアフリカに広まったとされる。

「スラム街」という語を和英辞典で引くと興味深い。バリアーダbarriada(中南米、フィリピン)、バスティbustee, busti, basti(インド)、、ファヴェーラfavela(ブラジル)、ポブラシオンpoblacion(チリ)などと、国、地域によって呼び名が異なるのである。ネガティブな意味合いで使われてきたスラムという言葉ではなく、それぞれの地域に固有の居住地の概念として固有の言葉が用いられるようになりつつある。

問題は、究極的に、土地、住宅への権利関係、居住権の問題に帰着する。スクオッターsquatter(不法占拠者)・スラムという言葉が用いられるが、クリティカルなのは、貧困のみならず、戦争、内戦などによって生み出される難民、スクオッター、ホームレスの問題である。差異を原動力とし、差別、格差を再生産し続ける資本主義的な生産消費のメカニズムがスラムを生み出す原理である。すなわち、物理的なスラム・クリアランスが究極的な意味でのスラムの解消に繋がるわけではないのは明らかである。その存在は、各国、各地域の政治的、経済的、社会的諸問題の集約的表現である。

 



[1] 布野修司、「都市の病理学―「スラム」をめぐって―」、『都市と劇場―都市計画という幻想―』布野修司建築論集Ⅱ、彰国者、1998

2023年9月9日土曜日

タウンアーキテクトの可能性―21世紀の建築家の役割、長澤泰 ・神田順 ・大野秀敏 ・坂本雄三 ・松村秀一 ・藤井恵介編,建築大百科事典, 朝倉書店,2008年

 朝倉書店 1700字×2枚 建築学大百科

布野修司

 

122 タウンアーキテクトの可能性―21世紀の建築家の役割

「建築家」は、全てを統括する神のような存在としてしばしば理念化されてきた。今日に伝わる最古の建築書を残したヴィトルヴィウスの言うように、「建築家」にはあらゆる能力が要求される。この神のごとき万能な造物主としての「建築家」のイメージは極めて根強く、ルネサンスの「建築家」たちの万能人、普遍人(ユニバーサル・マン)の理想に引き継がれる。彼らは、発明家であり、芸術家であり、哲学者であり、科学者であり、工匠である。

近代「建築家」を支えたのも、世界を創造する神としての「建築家」像であった。彼らは、神として理想都市を計画することに夢中になるのである。そうしたオールマイティーな「建築家」像は、実は、今日も実は死に絶えたわけではない。

 そしてもうひとつ、広く流布する「建築家」像がある。フリー・アーキテクトである。フリーランスの「建築家」という意味である。すなわち、「建築家」は、あらゆる利害関係から自由な、芸術家としての創造者としての存在である、というのである。神ではないけれど、自由人としての「建築家」のイメージである。

 もう少し、現実的には、施主と施工者の間にあって第三者的にその利害を調整する役割をもつのが「建築家」であるという規定がある。施主に雇われ、その代理人としてその命や健康、財産を養護する医者や弁護士と並んで、「建築家」の職能もプロフェッションのひとつと欧米では考えられている。

 こうして、「建築家」の理念はすばらしいのであるが、複雑化する現代社会においては、ひとりでなんでもというわけにはいかない。建築をつくるのは集団的な仕事であり、専門分化は時代の流れである。また、フリーランスの「建築家」といっても、実態をともなわないということがある。

この半世紀ほどの日本社会の流れをみると、第一に言えるのは、建てては壊す(スクラップ・アンド・ビルド)時代は終わった、ということである。二一世紀はストックの時代である。地球環境全体の限界が、エネルギー問題、資源問題、食糧問題として意識される中で、建築も無闇に壊すわけにはいかなくなる。既存の建築資源、建築遺産を可能な限り有効活用するのが時代の流れである。新たに建てるよりも、再活用し、維持管理することの重要度が増すのは明らかである。

そうであれば、そうした分野、コンヴァージョン(用途変更)やリノベーション(再生)、リハビリテーション(修景修復)などの分野が創造性に満ちたものとなるのははっきりしている。また、ライフ・サイクル・コストやリサイクル、二酸化炭素排出量といった環境性能を重視した設計が主流となって行くであろう。さらに、維持管理、耐震補強といった既存の建物に関わる事業が伸びていくことになるであろう。

 新しく建てられる建築が量的に少なくなるということは、はっきり言って、「建築家」もこれまで程多くは要らない、ということである。木造を主体としてきた日本と石造の欧米とは事情を異にするとは言え、日本がほぼ先進諸国の道を辿っていくのは間違いないであろう。乱暴な議論であるが、日本の建設投資が米国並みになるとすれば、「建築家」の数は半分になってもおかしくないのである。

問題は、今「建築家」として、あるいは「建築家」を志すものとして、どうするかである。第一は、既に上に述べた。建物の増改築、改修、維持管理を主体としていく方向である。そのための設計、技術開発には広大な未開拓分野がある。第二は、活躍の場を日本以外にもとめることである。国際「建築家」への道である。世界を見渡せば、日本で身につけた建築の技術を生かすことの出来る、また、それが求められる地域がある。中国、インド、あるいは発展途上地域にはまだまだ建設が必要な国は少なくないのである。一七世紀に黄金時代を迎えたオランダは世界中に都市建設を行うために多くの技術者を育成したのであるが、やがて世界経済のヘゲモニーを英国に奪われると、オランダ人技術者は主として北欧の都市計画に参画していった。かつて明治維新の時代には、日本も多くの外国人技師を招いたのである。

第三に、建築の分野を可能な限り拡大することである。建築の企画から設計、施工、維持管理のサイクルにはとてつもない分野、領域が関係している。全ての空間に関わりがあるのが建築であるから当然である。ひとつは建築の領域でソフトと言われる領域、空間の運営やそれを支える仕組みなどをどんどん取り込んでいくことである。また、様々な異業種、異分野の技術を空間の技術としてまとめていくことである。「建築家」が得意なのは、様々な要素をひとつにまとめていくことである。マネージメント能力といっていいが、PM(プロジェクト・マネージメント)、CM(コンストラクション・マネージメント)など、日本で必要とされる領域は未だ少なくない。

この第三の道において、「建築家」がまず眼をむけるべきは「まちづくり」の分野である。「建築家」は、ひとつの建築を「作品」として建てればいい、というわけにはいかない。たとえ一個の建築を設計する場合でも、相隣関係があり、都市計画との密接な関わりがある。「都市計画」あるいは「まちづくり」といわなくても、とにかく、「建築家」はただ建てればいい、という時代ではなくなった。どのような建築をつくればいいのか、当初から地域住民と関わりを持つことを求められ、建てた後もその維持管理に責任を持たねばならない。もともと、都市計画は「建築家」の仕事といっていいが、これまで充分その役割を果たしてきたかというと疑問がある。大いに開拓の余地がある。いずれにせよ、「建築家」はその存在根拠を地域との関係に求められつつある。

『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説』[1](以下『序説』)で提起したのであるが、「タウンアーキテクト」と呼びうるような新たな職能が考えられるのではないか。

「タウンアーキテクト」を直訳すれば「まちの建築家」である。幾分ニュアンスを込めると、「まちづくり」を担う専門家が「タウンアーキテクト」である。とにかく、それぞれのまちの「まちづくり」に様々に関わる「建築家」たちを「タウンアーキテクト」と呼ぶのである。

 「まちづくり」は本来自治体の仕事である。しかし、それぞれの自治体が「まちづくり」の主体として充分その役割を果たしているかどうかは疑問である。いくつか問題があるが、地域住民の意向を的確に捉えた「まちづくり」を展開する仕組みがないのが決定的である。そこで、自治体と地域住民の「まちづくり」を媒介する役割を果たすことを期待されるのが「タウンアーキテクト」である。

 何も全く新たな職能というわけではない。その主要な仕事は、既に様々なコンサルタントやプランナー、「建築家」が行っている仕事である。ただ、「タウンアーキテクト」は、そのまちに密着した存在と考えたい。必ずしもそのまちの住民でなくてもいいけれど、そのまちの「まちづくり」に継続的に関わるのが原則である。そういう意味では、「コミュニティ・アーキテクト」といってもいいかもしれない。「地域社会の建築家」である。

「建築家」は、基本的には施主の代弁者である。しかし、同時に施主と施工者(建設業者)の間にあって、第三者として相互の利害調整を行う役割がある。医者、弁護士などとともにプロフェッションとされるのは、命、財産に関わる職能だからである。その根拠は西欧世界においては神への告白(プロフェス)である。また、市民社会の論理である。同様に「タウンアーキテクト」は、「コミュニティ(地域社会)」の代弁者であるが、地域べったり(その利益のみを代弁する)ではなく、「コミュニティ(地域社会)」と地方自治体の間の調整を行う役割をもつ。

 「タウンアーキテクト」を一般的に規定すれば以下のようになる。

 ①「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」を推進する仕組みや場の提案者であり、実践者である。「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」の仕掛け人(オルガナイザー(組織者))であり、アジテーター(主唱者)であり、コーディネーター(調整者)であり、アドヴォケイター(代弁者))である。

 ②「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」の全般に関わる。従って、「建築家」(建築士)である必要は必ずしもない。本来、自治体の首長こそ「タウンアーキテクト」と呼ばれるべきである。

 ③ここで具体的に考えるのは「空間計画」(都市計画)の分野だ。とりあえず、フィジカルな「まちのかたち」に関わるのが「タウンアーキテクト」である。こうした限定にまず問題がある。「まちづくり」のハードとソフトは切り離せない。空間の運営、維持管理の仕組みこそが問題である。しかし、「まちづくり」の質は最終的には「まちのかたち」に表現される。その表現、まちの景観に責任をもつのが「タウンアーキテクト」である。

④もちろん、誰もが「建築家」であり、「タウンアーキテクト」でありうる。身近な環境の全てに「建築家」は関わっている。どういう住宅を建てるか(選択するか)が「建築家」の仕事であれば、誰でも「建築家」でありうる。また、「建築家」こそ「タウンアーキテクト」としての役割を果たすべきである、ということがある。様々な条件をまとめあげ、それを空間的に表現するトレーニングを受け、その能力に優れているのが「建築家」だからである。

 



[1] 布野修司、『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』、建築資料研究社,二〇〇〇年。

2023年9月8日金曜日

スラムとは何か、長澤泰 ・神田順 ・大野秀敏 ・坂本雄三 ・松村秀一 ・藤井恵介編,建築大百科事典, 朝倉書店,2008年

 朝倉書店 建築学大百科   1700字×2枚

 

355 スラムとは何か

 スラムSlumとは、「貧民窟」、「貧民街」、あるいは「細民街」のことである。といっても、この訳語そのものが今日では死語に近いからピンと来ないかもしれない。一般的には「不良住宅地」という。要するに、低所得(貧困)層が居住する、狭小で粗末な住居が建並ぶ物理的にも貧しい街区、住宅地がスラムである。

貧しい人々が住む居住地は古来様々に存在してきたけれど、スラムは、近代都市がその内に抱え込んだ「不良住宅地」を指していう。すなわち、産業革命によって、農村を離脱して都市へ流入してきた大量の賃労働者たちが狭小で劣悪な住宅環境に集中して住んだのがスラムである。

スラムという言葉は、スランバーSlumberに由来し、1820年代からその用例が見られる。スランバーとは耳慣れないが、動詞として、(すやすや)眠る、うとうとする、まどろむ、(火山などが)活動を休止する、あるいは、眠って(時間・生涯などを)過ごす、無為に過ごす(away, out, through)、眠って〈心配事などを〉忘れる(away)、名詞となると、眠り、《特に》うたたね、まどろみ、昏睡、[無気力]状態、沈滞という意味である。

 スラムの出現は、産業革命による都市化の象徴である。産業化に伴う都市化は、大規模な社会変動を引き起こし、都市と農村の分裂を決定的なものとした。その危機の象徴がスラムである。

 いち早く産業革命が進行したイギリスは、マンチェスター、バーミンガム、リヴァプールといった工業都市を産むが、大英帝国の首都ロンドンの人口増加もまた急激であった。1800年に96万人とされるロンドンの人口は、1841年に195万人となり、1887年には420万人に膨れあがる。産業化以前の都市の規模は、基本的には、移動手段を牛馬、駱駝に依拠する規模に限定されていた。火器(大砲)の出現によって築城術は大きく変化するが、新たな築城術に基づくルネサンスの理想都市計画をモデルとして世界中に建設された西欧列強による植民都市にしても、城郭の二重構造を基本とする都市の原型を維持している。産業化による、都市の大規模化、大都市(メトロポリス)の出現は、比較にならない大転換となり、人々の生活様式、居住形態を一変させることになった。

 大量の流入人口を受容れる土地は限られており、限られた土地に大量の人口が居住することによって、狭小劣悪で過密な居住環境が生み出されるのは必然であった。全ての流入人口が賃労働者として吸収されないとすれば、失業者や特殊な職業につくものが限られた地区に集中するのも自然である。スランバーは、仕事のない人々が多数無為に過ごす様を言い表わしたのである。

 日本の場合、1880年代から1890年代にかけて「貧民窟」=スラムが社会問題となる。有名なのが東京の三大「貧民窟」、下谷万年町、四谷鮫ヶ淵、芝新網町であり、大阪の名護町である。『貧天地飢寒窟探検記』(桜田文吾、1885年)、『最暗黒の東京』(松原岩五郎、1888年)、『日本の下層社会』(横山源之助、1899年)など「貧民窟」を対象とするルポルタージュが数多く書かれている。

 スラム問題にどう対処するかは、近代都市計画の起源である。イギリスでは、1848年、公衆衛生法Public Health Act1851年、労働者階級宿舎法Labouring Class Lodging Houses Act(Shaftesbury's Act)1866年衛生法Sanitary Actが相次いで制定され、1894年にはロンドン建築法によって、道路の幅員、壁面線、建物周囲の空地、建物の高さの規制が行われる。日本では、市区改正などいくつかの対策が1919年の市街地建築物法、都市計画法の制定に結びついている。

 スラムは、しばしば、家族解体、非行、精神疾患、浮浪者、犯罪、マフィア、売春、麻薬、・・・など、様々な社会病理[1]の温床とされるが、それは必ずしも普遍的ではない。場合によって生存のためにぎりぎりである居住条件に対処するために、むしろ、強固な相互扶助組織、共同体が形成されるのが一般的である。同じ村落の出身者毎の、また、民族毎の共住がなされ、それぞれに独特の生活慣習、文化が維持される。スラムに共通する、「貧困の文化」(O.ルイス)、「貧困の共有」(C.ギアツ)といった概念も提出されてきた。

20世紀に入って、都市化の波は、全世界に及ぶ。蒸気船による世界航路の成立、蒸気機関車による鉄道の普及は、都市のあり方に決定的な影響を及ぼす。そして、モータリゼーションの普及が都市化を加速することになった。しかし、発展途上地域の都市化は先進諸国と同じではない。先進諸国では工業化と都市化の進展には一定の比例関係があるのに対して、発展途上地域では、「過大都市化over urbanization」、「工業化なき都市化urbanization without industrialization」と呼ばれる、工業化の度合いをはるかに超えた都市化が見られるのである。ある国、ある地域で断突の規模をもつ巨大都市は、プライメート・シティ(首座都市、単一支配型都市)と呼ばれる。

 スラムの様相も、先進諸国のそれとは異なる。第一に、先進諸国のスラムが都市の一定の地域に限定されるのに対して、発展途上国の大都市ではほぼ都市の全域を覆うのである。第二に、スラムが農村的特性を維持し、直接農村とのつながりを持ち続ける点もその特徴である。インドネシアのカンポンkampungがその典型である。

カンポンというのはムラという意味である。都市の住宅地でもムラと呼ばれる、そのあり方は、発展途上国の大都市に共通で、アーバン・ヴィレッジ(都市集落)という用語が一般に用いられる。その特性は以下のようである。

多様性:異質なものの共生原理:複合社会plural societyは、発展途上国の大都市の「都市村落」共通の特性とされるが、カンポンにも様々な階層、様々な民族が混住する。多様性を許容するルール、棲み分けの原理がある。また、カンポンそのものも、その立地、歴史などによって極めて多様である。

完結性:職住近接の原理:カンポンの生活は基本的に一定の範囲で完結しうる。カンポンの中で家内工業によって様々なものが生産され、近隣で消費される。

自律性:高度サーヴィス・システム:カンポンには、ひっきりなしに屋台や物売りが訪れる。少なくとも日常用品についてはほとんど全て居ながらにして手にすることが出来る。高度なサーヴィス・システムがカンポンの生活を支えている。

共有性:分ち合いの原理:高度なサーヴィス・システムを支えるのは余剰人口であり、限られた仕事を細分化することによって分かち合う原理がそこにある。

共同性:相互扶助の原理:カンポン社会の基本単位となるのは隣組(RT:ルクン・タタンガ)-町内会(RW:ルクン・ワルガ)である。また、ゴトン・ロヨンと呼ばれる相互扶助活動がその基本となっている。さらに、アリサンと呼ばれる民間金融の仕組み(頼母子講、無尽)が行われる。

物理的には決して豊かとは言えないけれど、朝から晩まで人々が溢れ、活気に満ちているのがカンポンである。そして、その活気を支えているのがこうした原理である。このカンポンという言葉は、英語のコンパウンド(囲い地)の語源だという(OED)。かつてマラッカやバタヴィアを訪れたヨーロッパ人が、囲われた居住地を意味する言葉として使い出し、インド、そしてアフリカに広まったとされる。

「スラム街」という語を和英辞典で引くと興味深い。バリアーダbarriada(中南米、フィリピン)、バスティbustee, busti, basti(インド)、、ファヴェーラfavela(ブラジル)、ポブラシオンpoblacion(チリ)などと、国、地域によって呼び名が異なるのである。ネガティブな意味合いで使われてきたスラムという言葉ではなく、それぞれの地域に固有の居住地の概念として固有の言葉が用いられるようになりつつある。

問題は、究極的に、土地、住宅への権利関係、居住権の問題に帰着する。スクオッターsquatter(不法占拠者)・スラムという言葉が用いられるが、クリティカルなのは、貧困のみならず、戦争、内戦などによって生み出される難民、スクオッター、ホームレスの問題である。差異を原動力とし、差別、格差を再生産し続ける資本主義的な生産消費のメカニズムがスラムを生み出す原理である。すなわち、物理的なスラム・クリアランスが究極的な意味でのスラムの解消に繋がるわけではないのは明らかである。その存在は、各国、各地域の政治的、経済的、社会的諸問題の集約的表現である。

 



[1] 布野修司、「都市の病理学―「スラム」をめぐって―」、『都市と劇場―都市計画という幻想―』布野修司建築論集Ⅱ、彰国者、1998

2023年7月22日土曜日

西山夘三の計画学ー西山理論を解剖する,建築雑誌,200804

 西山夘三の計画学ー西山理論を解剖する,建築雑誌,200804 


建築計画委員会「「シンポジウム+パネル展示 西山夘三の計画学—西山理論を解剖するー」西山夘三の計画学—西山理論を解剖するー」報告

 

 建築計画本委員会主催の「シンポジウム+パネル展示 西山夘三の計画学—西山理論を解剖するー」(日時:2008115日(火)17時開演(16時開場)、場所:建築会館ホール)について、以下にその概要を報告したい。

 

 建築計画本委員会では、年に一度は、建築計画学、建築計画研究の全体に関わるその時々のテーマをもとにしたシンポジウムを行うことにしているが、昨年2月の「公共事業と設計者選定のあり方―「邑楽町役場庁舎等設計者選定住民参加型設計提案競技」を中心として」に続く今年のテーマ設定の鍵になったのは、住田昌二+西山文庫編『西山夘三の都市・住宅理論』(日本経済評論社、2007年)である。西山夘三は、吉武泰水とともに建築計画学の祖とされる。その大きな足跡のもとに建築計画学は成立し、発展してきた。建築計画委員会の「隆盛」もその業績の基礎の上にある。

しかし、一方、建築計画学研究の限界も様々に指摘されてきた。施設毎の縦割り研究、専門分化、研究のための研究、・・・・等々の研究と実践との乖離の問題、また建築計画固有の手法、方法などをめぐる諸問題はこの間一貫して議論されてきている。

『西山夘三の都市・住宅理論』の上梓を機会に、建築計画学の原点に立ち戻って検討するのは必然である。建築計画委員会では、『建築計画学史』(仮)をまとめる構想をあたためている。その大きな柱となると考えた。かねてから不思議に思ってきたが、西山スクールによる西山夘三論が無かったことである。吉武研究室出身であり、西山夘三が開いた「地域生活空間計画講座」に招かれたかたちの報告者(布野修司)は、その戦前期の活動のみに焦点を当てるにすぎないが、「西山論」を書いたことがある(「西山夘三論序説」『布野修司建築論集Ⅲ 国家・様式・テクノロジー』、彰国社、1998年)。建築計画委員長という立場ではあるが、西山夘三の計画理論を広く検討したいという個人的な思いもあった。実際に、西山文庫との協賛、展覧会との併催など全てを切り盛りしたのは田島喜美恵委員であり、ポスターデザインは滋賀県立大学の学生諸君(高橋渓)、受付など事務作業を担ったのは日本大学生産学部の学生諸君である。また、パネル展示については西山文庫の松本滋(兵庫県立大学)先生に大変ご尽力を頂いた。プログラムは以下であった。

主旨説明:布野修司(建築計画本委員会委員長・滋賀県立大学教授)

問題提起:西山夘三の都市住宅理論 住田昌二(大阪市立大学名誉教授・現代ハウジング研究室)/西山夘三の目指したもの 広原盛明(龍谷大学教授、京都府立大学名誉教授)/西山夘三と吉武計画学 内田雄三(東洋大学教授)

ディスカッション:五十嵐太郎(建築雑誌編集長・東北大学准教授)・中谷礼仁(早稲田大学准教授)・司会:布野修司

 

住田昌二の問題提起は、ほぼ『西山夘三の都市・住宅理論』の総論「西山住宅学論考」に沿ったものであった。まず、「1.研究活動の輪郭」を①戦前・戦中期(193344)住宅計画学とマスハウジング・システムの体系化②戦後復興期(194461)住宅問題・住宅政策論から住宅階層論へ③高度成長期(196174)都市論の展開④低成長期(197494)『日本のすまい』(3巻)の完成、まちづくり運動に分けて振り返った上で、西山夘三の研究活動の特徴として、時代の転回、研究上の地位変化、研究テーマのシフトが見事に一致していること、研究を建築論から住宅論、都市論へと発展させた「ジェネラリスト」「啓蒙家」であること、20世紀をほぼ駆け抜けた象徴的な「20世紀人」であること、常に時代の先頭に立ち、≪近代化≫の「大きな物語」を描き続けた「モダニスト」であること、研究スタンスは、体制の外側にあって体制批判したのでなく、批判しつつ体制に参加提案し改革をはかろうとした。Revolutionistでなく“Reformer”であったことを指摘する。そして、西山は、「計画」と「設計」は峻別したが、研究=政策とみていたのでないか、卒論の序文に掲げた「史的唯物論」が生涯通じて研究の倫理的規範であった、という。続いて、「2.西山計画学の成果」として、1)住宅の型計画の展開、2)マスハウジング・システムの構築、3)住様式論の提起、4)住宅階層論による分析、5)構想計画論の提唱を挙げる。西山の研究が目標としたのは、①住まいの封建制を打破し、②低位な庶民住宅の状態の改善向上をはかり、③前近代的な住宅生産方法を改めていく、の3点であった。政治的には民主化、経済的には産業化、社会的には階層平準化の同時進行を近代化と規定するなら、西山の研究は、「近代化論」であった。西山の学問は、徹底して「問題解決学」的性格をもち、計画学としての体系は、空間を機能性・合理性基準によって解析し、社会をシステム論的に構築することで一貫していた、というのが評価である。さらに「3.西山計画学の歴史的考察」として、1)西山計画学の原点――15年戦争との対峙、2)西山計画学の発展の背景――国際的に50年続いた住宅飢餓時代、3)西山計画学のフェード・アウト――1973年の歴史転回をそれぞれ位置づけた上で、「4.「小さな物語」としての西山理論の超克」の方向として、①マスハウジングからマルチハウジングへ②階層から地域へ③計画から文化へ、を強く示唆した。

 実に明快であった。西山理論の歴史性を明確化し、そのフェード・アウト確認したこと、西山夘三を近代的システム論者と規定したことは大きな指摘である。

 広原盛明の問題提起もまた西山夘三を歴史的に位置づけるものであった。ただ、その限界についての評価は異なる。まず、「西山の生涯を通底するキーワード」として①「20世紀の実践的思」「社会主義」(マルクス主義)②「体制型思考」③「反中央権力精神」の源泉となった「大阪の西九条が育てたハビトゥス(社会的出自や生活体験などに裏打ちされた慣習的な感覚や性向の体系:プルデュー)」を挙げる。そして「1.西山のライフコースとライフスタイル」について、①大きくは第2次世界大戦を挟んでの前期(青壮年期)と後期(壮熟年期)に分け、住宅生産の工業化と大量建設を実現しようとした「革新テクノクラート」の時期と住宅問題・都市問題・国土問題等に関する啓蒙活動に邁進した「社会派研究者・大学知識人」としての時期をわける。また、②西山のライフスタイル(活動スタイル)は、戦前期は基本的に「改良主義」、戦後期とりわけ高度成長期以後は「批判対抗」だとする。さらに、③西山の啓蒙活動の重点は、戦後初期の住宅問題解決や住生活近代化を強調する路線から、高度成長期の「開発批判路線」に急速にシフトしていった、とする。続いて「2.西山にとっての計画学研究の意味」として、①「計画的思考」、「近代工業化システム」、②「戦時統制経済」「戦時社会主義」との密接な関係を指摘した上で、戦後については、③「もし日本が戦後に開発主義国家への道ではなく福祉国家への道を歩んでいたならば、西山は「体制協力型」のテクノクラートとして活躍し、また「計画技術的研究」を推進していたかもしれない」という。全体としては、西山と時代、体制が密接不可分であったという確認である。「3.学会・建築界に対して西山の果たした役割」として、研究領域の細分化と専門化をめぐる学会批判や建築界批判の意義、「外部評価機能」「日本学術会議をはじめ異分野の研究者との学際的研究プロジェクトの重視」「社会運動への参加」の意義を強調する。歴史的限界、その歴史的位置づけの中で、「学」「学会」への批判的機能・役割を大きく評価するという構えである。

 内田雄三は、西山夘三の住宅計画学と吉武・鈴木研究室の建築計画学を対比する。まず、「1.西山夘三の研究領域とその立場」、その幅広さ、庶民住宅の対象化と住み手の発展プロセスの重視などを確認した上で、「西山夘三の建築計画学」を「システム科学」「方法論としてはシステム分析である」と言い切る。この点、ほぼ住田先生の西山評価に沿っている。そして、吉武・鈴木研究室の建築計画学を西山の「システム分析の方法論を多くの公共建築の分野に適用」したものと位置づけ、より計画よりに展開したとする。すなわち、「新しい生活に向けて建築から働きかけていく志向」が強かったのが吉武・鈴木計画学だとする。そうした規定の上で、建築計画学の限界として、①近代化・合理化こそ資本の要求(利潤の拡大)であり、建築計画学はこの役割を担ってきたこと、②2DKも労働者のより廉価な再生産費を保証したという側面があること、③個々の建築の近代化・合理化にもかかわらず都市スケールで混乱が発生している点などをあげる。そして新しい建築計画学の方向として、生活者との連携、アドボカシー・プランニングを挙げ、C.アレグザンダーに触れ、空間づくり、モノづくりへの展望を述べた。

 きちんとレジュメを用意した3人の問題提起は議論の土俵を見事に用意したのであるが、如何せん、時間が足りない。早速議論に入った。コメンテーターとして期待したのは若手の論客としての中谷、五十嵐の両建築史家・批評家である。

 どちらが先に発言するか壇上でジャンケンするといったノリであったが、ジャンケンに負けて最初に発言した中谷礼仁のコメントは、場を張りつめたものにするに十分であったように思う。まず、自分の名前は、左翼(マルキスト)であった親が、時代がどう転んでもいいように「レーニン」とも「アヤヒト」読めるようにつけたそうだ、と冗談めかしながら、自分はだから「・・・すべし」「・・・すべき」という扇動家、啓蒙家の立場はとらないという。戦後まもなく「これからの時代は民主主義の時代だ」と板書した東京大学教授の例を引いて、そうしたプロパガンディストにならないことを肝に銘じているという。そして続いて、西山理論、その食寝分離論には「性」と「死」がないという。対比的に提起するのは、今和次郎との比較である。

五十嵐は、直接西山理論に切り込むことをせず、大きくは1936年の東京オリンピックを用意した戦前の過程と大阪万博に行き着く戦後の過程には同じサイクルがあるのではないかという。そして、西山の設計をみてみたいという。また、景観論の立場から見直してみたいという。

 西山理論をもっぱら歴史的、社会的なフレームにおいて位置づけて見せた3人に対して、中谷の提起はより内在的に西山理論を評価する契機を含んでいるように思えた。中谷の西山批判は、豊かな世代の時代の実相を知らない批判だ、その時代を踏まえて歴史的評価を行うべきだと、時代の制約、社会の貧困と西山の限界を説明しようとした広原に対して、一定程度それを認めながら、必ずしも、時代の問題だけではない、と中谷は切り返す。

 西山の軌跡における転換をめぐっては、1970年の大阪万博か、1973年のオイルショックか、あるいはそれ以前か、という議論がまず浮かび上がった。また、戦前と戦後の連続非連続の問題が指摘された。そして、西山夘三個人の資質、ハビトゥス(大阪下町気質)の問題が指摘された。西山は「食」にも興味がなかった、コンパクトな空間とその集合システムに興味があった、明治気質で、細かくて、資料マニアであったといった発言も飛び出した。

 建築計画という土俵を設定していたから当然であるが、西山夘三の全体像については留保せざるを得なかった。また、都市論、都市計画論についても同様である。まず、フロアから、『西山夘三の都市・住宅理論』の共著者である中林浩(地域生活空間計画論と景観計画論)、海道清信(大阪万博と西山夘三)の両先生に発言を求めた。西山スクールにおいても西山評価は様々であり、批判的距離のとり方の全体が西山夘三の大きさを物語っている。

延藤安弘先生は全体を延藤流に総括して「西山夘三の計画学」の精髄を「「構想計画」を新しい状況のもとにブラッシュアップする」「「住み方調査」から「フィールドワークショップ」へ」「「小さな物語」づくりの計画学」という三つの方向に結びつけようという。

限られた時間はあっという間に過ぎた。最後に鈴木成文先生に「面白かった」と総括頂いたけれど、手前みそだけれど、司会しながらも面白かった。問題を掘り下げる時間はなかったけれど、掘り下げるべき問題のいくつかは明らかになったと思う。主催者として、いささか驚いたことは、この地味なシンポジウムに百人を超える聴衆の参加があったことである。かなりの数の若い世代も見えた。このシンポジウムをひとつのきっかけとして「建築計画」をめぐる議論がさらに広がることを期待したい。布野修司(建築計画委員会委員長、滋賀県立大学)








2023年5月22日月曜日

未来の読者は無数,建築雑誌,200801

 未来の読者は無数,建築雑誌,200801


未来の読者は無数

布野修司

 成功も失敗もない、どの号にも全力投球したから、「成功した一冊」と言われるといささか考え込むが、印象深いのは2002年1月号「建設産業に未来はあるか!?」であろうか。いきなりメガトン級の批評が寄せられた。その記事を取り上げるについて、理事会で問題にされかけるなど、不愉快な思いもしたけど、実にうれしかった。反応があるということは読まれているということである。いきさつは「編集長日誌(ブログ)」に全て書いたー以降の編集長が「編集長日誌」を引き継がないのは遺憾であるー。

1月号から「カラー頁」を導入したーこれは編集長の意向というより事務局の強い要請であったー、「顔写真」はやめた、短い文章に「はじめに」「おわりに」はやめた、「ニュース欄」の頁数を大幅に削減した、「総合論文集」なるものに一号分差し出した、「月初めに届く」ように締め切りをどんどん早めた・・・まずやったのは紙面刷新であった。

 もうひとつ印象に残っているのは、1200??●号記念のアジア特集{20032月号●?}であろうか。第4回ISAIA(アジア国際学術交流シンポジウム、重慶)に乗り込んで、座談、対談と自らかなりの記事をつくった。

 根っからの編集好きである。『同時代建築通信』『群居』『京都げのむ』と編集に携わり、今も『traverse 新建築学研究』に関わる。9.11が起こり、小泉内閣が船出した、そんな時代に、3万数千部の雑誌の編集長になれたのは実に光栄であった。とにかく楽しんだ。

 だらだらと編集会議はやらない。会議は二時間と決めて、あとはビールを片手に、建築をめぐって色んなことを話した。議論は弾み、多くを学んだ。編集委員が第一に楽しむこと!が編集方針であった。

 ジャーナリズムは所詮その日暮らしのジャーニー(旅)である。しかし、その日暮らしをしっかりと記録するのが最低限の役割である。読者は未来にも無数にいるのだから。





2023年5月16日火曜日

近代の空間システム・日本の空間システム:都市と建築の21世紀:省察と展望特別研究41, 布野修司,建築類型と街区組織ープロトタイプの意味ー近代的施設=制度(インスティチューション)を超えてーー,日本建築学会,2008年10月 

 近代の空間システム・日本の空間システム:都市と建築の21世紀:省察と展望特別研究41, 布野修司,建築類型と街区組織ープロトタイプの意味ー近代的施設=制度(インスティチューション)を超えてーー,日本建築学会,2008年10月 

「建築類型と街区組織ープロトタイプの意味ー近代的施設=制度(インスティチューション)を超えてー」

                               布野修司(滋賀県立大学)

1.19791月以来、アジアの諸都市を歩き回っている。当初、東南アジア地域(アセアン諸都市)をフィールドとして、「地域の生態系に基づく住居システム」をテーマとした[i]。ハウジング計画の分野における近代日本のパラダイム(マス・ハウジング、51C、プレファブリケーション)に対する批判的検討がその大きな研究動機である。そして、サイツ・アンド・サーヴィス(宅地分譲)事業におけるコアハウス・プロジェクト、そしてセルフヘルプ・ハウジング(フリーダム・トゥー・ビルド、ビルディング・トゥゲザーなど東南アジアのNGOグループ)によるセルフ・エイド系を含んだ参加型のハウジング手法に強い示唆を受けた。

2.「地域の生態系に基づく住居システム」に関する研究は、「近代」以前の、地域に固有な住居集落の空間構成原理を解明する試みであり、その現代的再生への模索である。また、異文化理解の方法を問うことにつながった[ii]。この間、グローバルに、各地域を圧倒してきたのは、近代世界(空間)システムである。

 3.以上の研究遂行の過程で、スラバヤの「カンポンkampung(都市内集落)」に出会った[iii]。カンポンの空間構成原理を明らかにし、カンポン・ハウジング・システムを提案した[iv]

 4.カンポンについての調査研究は、「ルーマー・ススン(カンポン・ススン)」というインドネシア型「都市型住宅」の提案に結びついた。また、「スラバヤ・エコ・ハウス」の提案に結びついた。臨地調査―都市組織・街区組織の解明―型・モデルの提案―評価のサイクルは建築計画学研究の前提である。

 5.カンポンは、コンパウンドcompoundの語源であるという説(OED)が有力である。大英帝国が世界の陸地の1/4を占めていく過程でその言葉が世界中に広がった。一方、今日の世界中の都市の計画原理の基礎になっているのは、英国を中心として組み立てられた近代都市計画の理念であり、手法である[v]

 6.英国近代植民都市は、ニューデリー、キャンベラ、プレトリアの計画―建設(1910年代~30年代)において完成したと考える。しかし、近代植民都市の系譜には、それに遡るいくつかの系列がある。近代世界システムの形成にあたって最初にヘゲモニーを握ったオランダ植民都市に焦点を当てて植民都市計画を総覧することになった[vi]。さらに、スペイン植民都市もターゲットとなりつつある[vii]

 7.カンポンの調査研究は、「イスラームの都市性」[viii]に関する共同研究によって、もうひとつの展開に導かれることになった。イスラーム都市への関心は、西欧列強による植民都市以前に遡るアジアの都市、集落、住居の構成原理に関する関心に重なり合う。アジアの「前近代」における都市空間システムの系譜は、大きく、中国都城の系譜、ヒンドゥー都市の系譜、イスラーム都市の系譜に分けられる。

8.アジアの「前近代」における都市空間システムの系譜に関する研究のきっかけとなったのは、ロンボク島のチャクラヌガラという都市の発見である。以降の展開を集大成したのが『曼荼羅都市』[ix]であり、カトゥマンズ盆地のパタンに焦点を当てた『Stupa & Swastika[x]である。また、イスラーム都市について、まとめつつあるのが『ムガル都市』[xi]である。

 9.以上の広大な研究フィールドをつないで一貫するのが、都市組織urban tissue, urban fabric、街区組織、都市型住居に関する関心である。「アジアの諸都市における都市組織および都市型住宅のあり方に関する研究」[xii]、とりわけ「ショップハウスの世界史」が近年のテーマである。

10.戦後建築計画学の出発においてテーマとされたのは、それぞれの地域における生活空間の全体である。大都市の住宅問題が大きくクローズアップされたのは、それが大きな問題であったからである。公共施設の整備についても同様である。銭湯に関する調査研究も、貸し本屋に関する調査研究も、地域空間のあり方から掘り起こされたテーマであった。

11.しかし、一方、施設=制度=institutionを前提にしてしか自己を実現することのない「計画学」研究のアポリアがある。建築計画学の成立は、近代的な施設の成立、病院、学校、監獄・・・の成立(誕生)と無縁どころか密接不可分である。

12.以上のメモが明快にメッセージとするのは、タウンアーキテクト、コミュニティ・アーキテクトとして、フィールドから、地域から、街の中から、問題を立て、返せということである。コミュニティ・アーキテクト[xiii]については京都CDL(コミュニティ・デザインリーグ)[xiv]、そして「近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生学座」(滋賀県)によって試行しつつある。

13.「建築家」あるいは「都市計画家」、ここでいう「コミュニティ・アーキテクト」の役割とは何か。プロトタイプかプロトコルか、執拗に問う必要がある。



[i] 『地域の生態系の基づく住居システムに関する研究(Ⅰ)()(主査 布野修司,全体統括・執筆,研究メンバー 安藤邦広 勝瀬義仁 浅井賢治 乾尚彦他),住宅総合研究財団, 1981年、1991

[ii] 『住居集落研究の方法と課題Ⅰ 異文化の理解をめぐって』,協議会資料, 建築計画委員会,1988年。『 住居集落研究の方法と課題Ⅱ 異文化研究のプロブレマティーク(主査 布野修司分担 編集 全体総括),協議会記録,建築計画委員会, 1989

[iii] 『カンポンの世界』,パルコ出版,1991

[iv] 学位請求論文『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学)1987  日本建築学会賞受賞(1991)

[v]  『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』,ロバート・ホーム著:布野修司+安藤正雄監訳,アジア都市建築研究会訳,Robert Home: Of Planting and Planning The making of British colonial cities、京都大学学術出版会、2001

[vi] 『近代世界システムと植民都市』、京都大学学術出版会、2005

[vii] J.R.ヒメネス・ベルデホ、布野修司、齋木崇人、スペイン植民都市図に見る都市モデル類型に関する考察、Considerations on Typology of City Model described in Spanish Colonial City Map,日本建築学会計画系論文集,616pp91-97, 20076月他

[viii] 日本における今日におけるイスラーム研究の基礎を築いたといっていい,「比較の手法によるイスラームの都市性の総合的研究」という共同研究(研究代表者板垣雄三 文部省科学研究費 重点領域研究1988-90)は,まさにイスラームの「都市性」に焦点を当てるものであった。

[ix] 『曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』,京都大学学術出版会,2006

[x] Shuji Funo & M.M.Pant, “Stupa & Swastika”, Kyoto University Press+Singapore National University Press, 2007

[xi] 山根周、布野修司、『ムガル都市-インド・イスラーム都市の空間変容』、京都大学学術出版会、近刊予定

[xii] 科学研究費補助研究、2006年~

[xiii] 『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』,建築資料研究社,2000

[xiv]  『京都げのむ』01-06、京都CDL

 


2023年3月24日金曜日

植民地化という視点を日本の近代建築史に持ち込む,書評西澤泰彦著『日本植民地建築論』,『図書新聞』,20080614

 植民地化という視点を日本の近代建築史に持ち込む,書評西澤泰彦著『日本植民地建築論』,『図書新聞』,20080614

西澤泰彦 『日本植民地建築論』 名古屋大学出版会 2008

布野修司

 

もう四半世紀前、毎日のように図書館に籠もって建築関係の古い雑誌を当たっていた大学院生の頃、気になって仕方がない雑誌の合本があった。『台湾建築会誌』『満州建築雑誌』『朝鮮と建築』という三つのバックナンバーである。日本建築の戦前・戦後の連続・非連続に焦点を当てていたのであるが、とても手を出す余裕はなかった。ただ、ここには大変な「世界」があると思った。いつか手をつけなければならないという直感から全て目次だけはコピーをとった。時を経ずアジアを臨地調査のために歩き回ることになり、結局は手つかずになった。中国にしても、韓国にしても、そして台湾にしても、当時はとても臨地調査を展開する関係になかったということもある。

アジアに向かって、すぐさまインドネシアのカンポン(都市集落)に出会った(『カンポンの世界』)。そして、カンポンの世界に導かれて、植民都市研究に赴くことになった(『近代世界システムと植民都市』)。西欧列強による植民都市や植民地建築の研究に手をつけはじめて、大きな課題として蘇るのが日本の植民都市であり、日本の植民地建築である。評者にとって、本書は、以上の経緯と関心に照らして、待望の書である。

何故、日本の植民地建築か。日本人の建設した建築物を復元・記録し、日本による支配との関係(を論じた上)で、歴史上に位置付けること、そして、旧日本植民地における建築物の再利用やそれをもとにした都市再開発を側面から援助することが目的だと、著者はいう。建築物に関する過去の情報について提供することは、侵略・支配とは直接には「無縁な」世代、すなわち「戦後世代」ができる数少ない償いだという。

日本植民地(台湾、満州、朝鮮半島)における過去の日本人による建設活動、その結果建設された建築物に関する情報ついては、本書は、現在までのところ、最も体系的なものと言っていい。本書に先行して、著者自身も参加した『中国近代建築総覧』、そしてそれを含む『全調査東アジア近代の都市と建築』(藤森照信・汪坦編、筑摩書房、一九九六年)があるが、それらはインヴェントリーに過ぎず、しかも、必ずしも網羅的なものではなかったのである。

本書は、「植民地建築とは何か」と題した序章で、問題意識や既往の研究を整理した上で、台湾総督府、朝鮮総督府などの官衙(庁舎)建築(第1章)、朝鮮銀行、台湾銀行などの銀行、満鉄などの国策会社(第2章)、学校、病院、図書館、公会堂、博物館、駅舎といった公共施設、百貨店や商店街、劇場や映画館といった民間施設(第3章)を順次取り上げている。植民地の政治、経済、社会というフレームであるが、必ずしも主要な建築物を列挙するにとどまらず、その建設活動に関わった建築家(建築技師)、建築組織を詳細に明らかにしてくれている。また、建築費についても触れられている。大連、台北、ソウルといった支配の要となった都市の全体像が欲しいというのはおそらく無いものねだりである。『岩波講座 近代日本と植民地』全八巻、そして『岩波講座 「帝国」日本の学知』全八巻などを背景として読まれるべきであろう。ただ、越沢明の『植民地満州の都市計画』(アジア経済研究所、一九七八年)『満州国の首都計画』(日本経済評論社、一九八八年)『哈爾浜の都市計画』(総和社、一九八九年)といった先行研究を批判的に捉え返すためには、都市全体の構成(計画)にも触れる必要がある。また、青井哲人著『彰化 一九〇六年』(アセテート、二〇〇六年)のような様々な都市の都市史(誌)を明らかにする具体に即した作業は残されている。

個別の建設活動をつなぐ視点としてまとめられているのが「建築活動を支えたもの」(第4章)と「世界と日本のはざまの建築」(第5章)で、建築生産技術の様々な局面(蟻害対応、気候対応・・・)、建築材料、建築規則などが比較される。おそらく、本書の真骨頂は、建築技術、建築生産という建築の下部構造に関わる視点と、それを「世界建築」史に位置付けようとする視点である。もっとも、この二つの章がうまく整理されていないのが残念である。建築の様式と意匠についての記述が浮いているのも気になる。

本書が少なくとも日本の近代建築史に対して、「植民地化」という大きな視点を持ち込んだことは疑いがない。日本植民地が日本の近代建築の先駆的な実験場だ、ということはこれまで様々に指摘されてきたけれど、ここまでその実相に迫ったのは本書の大きな功績である。何故、朝鮮総督府は解体され、台湾総督府は大統領府として使われ続けるのか。旧日本植民地の現在にとっての近代とは何であったのか、本書は実に多くのことを考えさせてくれる。ただ、本書が支配とは直接「無縁な」世代の「償い」だという言い方には引っかかる。植民地建築研究そして植民都市研究は、そもそもが支配と被支配の間の文化変容に関わる研究である。植民都市は、支配する側の価値観、イデオロギーを被支配者に強いるメディアであり、植民都市はその表現である。著者が、日本の地方の建築家の建築活動と植民地の建築家の活動との同相性を指摘するように、本書のテーマはより普遍的なテーマに接続しているのである。

日本の「明治建築」も西欧から見れば植民地建築である。西欧―日本―日本植民地の相互関係をめぐって、日本植民地建築は、より複雑な様相を呈する。日本植民地という限定によって、東アジアというフレームにやはり捕らわれていると指摘せざるを得ないけれど、「世界建築」という切り口を示すところに強い共感を覚える。


2022年3月23日水曜日

2008年度日本建築学会技術部門設計競技 「公共建築の再構成と更新のための計画技術」応募要領

 

2008年度日本建築学会技術部門設計競技

公共建築の再構成と更新のための計画技術 

主催 日本建築学会建築計画委員会

 

21世紀をむかえ、3000以上あった日本の地方自治体の数は、1千数百に再編された。自治体の合併にあたって、各自治体は既存公共建築の統廃合を検討推進している。今後、新築される公共建築は半減することが予想され、また財政上の理由からも、既存公共建築機能の有効な再配置、再構成、更新が求められている。その際、魅力ある建築再生のためには、1)計画技術(住宅系、施設系、基礎系)および2)構法計画技術のコンビネーションが必要不可欠である。

国、地方自治体、公共事業体などが保有する既存の公共建築をとありあげて、上記1)、2)のコンビネーションによる、市民と自治体から支持される持続可能で魅力的な改築の計画技術提案を募るものである。

 

応募要領

 

1|公共建築の再構成と更新のための計画技術

 

2|応募資格

本会個人会員(準会員を含む)、または会員のみで構成するグループとする。なお、同一の個人または代表名で複数の応募をすることはできない。

3|条件

1―公共建築の再構成と更新の設計計画方針と実施過程が具体的に表現されていること。

2―応募者が自由に条件を設定してよい。例えば次のような提案が考えられる。

a)市町村合併に伴って、既存の庁舎をどう再構成、再利用するか。

b)少子化に伴って統廃合される教育施設をどう再構成、再利用するか。

c)建築計画・プログラムと実態との不整合により、うまく機能していない施設をどう再利用するか

d)点在する公共施設を防災ネットワークのサテライトとしてどう再構成するか

e)公共建築として建設された駅舎、郵便局、電話局舎などを、新たな機能を導入してどう活用するか。

3―対象とする建築物は実在のものとする。以下についての革新性、独創性、魅力度などを評価軸とする。

a)地方自治体と市民へのリアリティ b) 計画技術c) 構法技術

 

4|審査員(敬称略、五十音順)

委員長  南 一誠(芝浦工業大学)

幹事   布野修司(滋賀県立大学、建築計画委員会委員長)

宇野 求(東京理科大学、建築計画委員会幹事)

委員  岡垣 晃(日建設計総合研究所)

金田充宏(東京芸大)

加茂紀和子(みかんぐみ)

杉本俊多(広島大学)

宿谷昌則(武蔵工大)

竹下輝和(九州大学)

長澤 悟(東洋大学)

深尾精一(首都大学)

六鹿正治(日本設計社長)

専門委員(第一次審査)

大原一興(横浜国大)/小野田泰明(東北大学)/菊地成朋(九州大学)/清水裕之(名古屋大学)/広田直之(日本大学)/藤井晴行(東京工業大学)/野城智也(東京大学)

 

5|提出物(使用する言語は、日本語または英語とする)

1―応募申込書

下記内容をA41枚に明記すること。書式は自由。

①提案名(提案内容を的確に表す簡潔なタイトル)

②代表者および共同制作者全員の氏名・ふりがな・会員番号・所属

③上記中の事務連絡担当者の氏名・ふりがな・会員番号・所属・電話番号・E-mailアドレス

2―計画提案

A11枚に以下の内容をおさめる。用紙は縦使いとし、パネル化しないこと。

①提案名(提案内容を的確に表す簡潔なタイトル)

②対象とする地域と建築物の概要(地域計画図、建築図など)

③公共建築の再構成と更新の意図と概要(計画方針とその評価、環境、省エネルギー、機能性、経済性、施工性への配慮)

④再構成・更新後の主要建築物のデザイン(再構成・更新過程図、設計図など)

⑤上記図面のPDFファイル

◎注意:提出図面には、氏名・所属など応募者が特定できる情報を記載しないこと。

 

6|提出期限2008620日(金)

(当日の受付締切は17時。郵送の場合は当日消印有効。ただし宅配便は不可)

 

7|審査会

審査は二段階で行う。

1―一次審査会(公開)20087月上旬の予定

入選作品を選定する。

2―二次審査会(公開)20089月の日本建築学会大会

候補者による10分程度のプレゼンテーションを実施し、その後各賞を決定する。

◎詳細は後日、本会ホームページに掲載する。

 

8|表彰

最優秀賞―1点:賞状および副賞50万円

優秀賞―2点以内:賞状および副賞15万円

佳作―若干:賞状および副賞5万円

ただし、審査結果において該当作品なしとする場合がある。

 

9|審査結果の公表等

入選作品は20089月の日本建築学会大会で表彰する。入選作品は講評とともに日本建築学会大会および建築会館で展示し、審査経過とともに『建築雑誌』および本会ホームページに掲載する予定である。

 

10|その他

1―応募図面および関係書類は返却しない。

2―応募作品の著作権・特許権は応募者に帰属するが『建築雑誌』・本会ホームページへの掲載や日本建築学会編の出版物に用いる場合は、無償でその使用を認めることとする。

3―課題に関する質問は受け付けない。

11|提出先

(社)日本建築学会事務局「技術部門設計競技」係

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2022年3月14日月曜日

『図書新聞』読書アンケート 2008上半期 下半期

  『図書新聞』読書アンケート 2008上半期 下半期


2008年上半期

布野修司

 

①菅孝行、『戦う演劇人 戦後演劇の思想』、而立書房、200712

②日本寄せ場学会、「特集 貧困と排除」『寄せ場』21、れんが書房新社、20086

③西澤泰彦、『日本植民地建築論』、名古屋大学出版会、20087

個人的な収穫としては、布野修司・山根周共著『ムガル都市 イスラーム都市の空間変容』(京都大学学術出版会、20085月)のイスラーム都市論への再提起。『近代世界都市と植民都市』以降、アジア都市論の系譜を追う『曼陀羅都市』(2006)Stupa & Swastika』(2007年)に続く第三弾。①によって、久々の菅孝行「節」に触れる。千田是也、浅利慶太、鈴木忠という「三人の演出家を通して読む日本現代演劇の歴史と見取り図」であり「同時代精神史の試み」である。「世界を変える夢」を追う管さんの著作はほぼ全冊読んできた。演劇少年だった頃の記憶が蘇る。②は、20年周年を迎えた日本寄せ場学会の最新刊。立ち上げに多少関わったが、そのしぶとさに脱帽。「貧困と排除」は時代の核心である。③は本誌で書評済み好著。

2008 下半期







2022年3月3日木曜日

ヴァナキュラー建築の豊かな世界,『建築技術』,太田邦夫著『世界の住まいに見る 工匠たちの技と知恵』,2008年2月号

 ヴァナキュラー建築の豊かな世界,『建築技術』,太田邦夫著『世界の住まいに見る 工匠たちの技と知恵』,20082月号

太田邦夫著 世界のすまいに見る 工匠たちの技と知恵 学芸出版社 200711

 

ヴァナキュラー建築の豊かな世界 

布野修司

 

 評者が初めてインドネシアを訪れたのは、19791月のことである。赴任したばかりの東洋大学で「東南アジアの居住問題に関する理論的実証的研究」という研究プロジェクトに参加することになり、以降30年近くアジアを歩き回ることになるのであるが、この最初の旅はとりわけ印象深い。スマトラのバタック諸族そして西スマトラのミナンカバウ族の住居集落は今でも鮮烈である。この旅でご一緒したのが著者の太田邦夫先生である。太田先生は、既に東欧の木造建築を数多く見て回っておられたのであるが東南アジアは初めてであったと思う。

 評者は、以降『カンポンの世界』(パルコ)にのめり込むことになるけれど、その後も太田先生には一貫して教えを受けてきた。『群居』では、本書の前身といってもいい「エスノアーキテクチャー論序説」を連載して頂いた。R.ウォータソンの『生きている住まい』(布野修司監訳、アジア都市建築研究会訳、学術出版社、1997年)を翻訳したのも、『世界住居誌』(布野修司編、昭和堂、2005年)をまとめたのも太田先生の教えに導かれてのことである。

 本著は、170頁ほどであり、実にハンディで読みやすい。しかも、300点もの図版が収められており、ヴァナキュラー建築の豊かな世界、その奥深さを誰もが知ることができる。

 全体は12章からなるが、全体は、「住まいを実際建てる順に従い」「まずは建物の基礎から始め、柱や杭と床との取り合い、柱・壁の捉え方、屋根の架け方、そして屋根と町並みの関係で終わるという順」に構成されている。具体的に焦点を当てられているのは、「工匠たちが現場で採択せざるを得ない、主要な部位の建築手法」である。

 まず1章は「床が横に動く住まい」である。イランのカスピ海の沿岸ギーラン州にあるこの高床式住居の写真を何年か前に太田先生に見せられて仰天したことを思い出す。本書に依れば、太田先生は25年も前からその存在を知っていたと言うが、基礎の部材を縦横に並べて地震のエネルギーを吸収するのは免震構造そのものである。工匠たちは、免震という手法をとっくに思いついて実践していたのである。

 2章は「浮上する高床の住まい」と題される。これも床が動く例である。『水の神ナーガ』を書いた建築家スメット・ジュンサイがタイには「陸生建築」と「水生建築」とがあるというが、筏住居あるいは船上住居は一般的である。しかし、家の四隅に柱を立てて洪水あるいは増水に備えるスラット・タニー県の例はユニークである。タイは随分歩いたけれど全く知らなかった。太田先生の連想はこの事例からウクライナの屋根が上下する乾草小屋、そして四本柱の家に及ぶ。

 3章は井楼(井籠)組の話である(「地震帯に何故井楼組が残っているか」)。木を横に使う井楼組は日本では校倉造りといった方がわかりやすいかもしれない。英語で言えばログ(ハウス)である。この井楼組は当然木材が豊富な地域のものである。そのルーツは黒海周辺と考えられている。この構法は日本にも正倉院の校倉のみならず相当程度建てられてきたと思われるが、掘っ立てではないから跡が残らない。村田次郎は『東洋建築系統史論』において、その伝播経路を南北二系統と説明し、熱帯には及ばないだろうとしたが、太田先生と最初に訪れたバタック・シマルングンの住居の基礎は井楼組であった。そして、本書で太田先生は井楼組が地震と関係があるという。

 こうして、各章「眼から鱗」の話が満載である。設計を志し、愛する我々の必読書と言っていい。