トンブクトゥ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
G15 サヘルの黄金の都-地中海世界とブラック・アフリカを結ぶ交界都市
トンブクトゥTombouctou, トンブクトゥ州, マリMali
現在のトンブクトゥは、サヘルSahel(サハラ砂漠南縁部に広がる半乾燥地域)の一地方都市に過ぎないが、古くから金の産地として知られ、「黄金の都」「神秘の都市」としてヨーロッパ世界を惹きつけてきた。モスクや聖廟を含むトンブクトゥの歴史地区は、1988年に世界文化遺産に登録されている。
歴史的には、南からの金、北からの岩塩を主力商品とする地中海世界とブラック・アフリカを結ぶサハラ縦断交易の要衝に位置して,14世紀~16世紀にはマリ帝国そしてソンガイ帝国の中心都市として栄えたことが知られる。
ヨーロッパ人による最古の記録は1447年のジェノア商人マルフォンテによるものとされるが、その「黄金の都」そして「黒人帝国の首都」のイメージは、長い間ヨーロッパ人の間に「トンブクトゥ幻想」を育んでいく。トンブクトゥを目指すヨーロッパ人の記録はその後も残されている。
18世紀後半に至ると、西スーダンの植民地拡大の意図のもとに、フランスが大西洋岸からトンブクトゥへのアプローチを試み始める。そして、パリ地理学会の賞金を目当てに最初にトンブクトゥ往復を果たした(1828年)のは探検家ルネ・カイエ(1799~1838)であり、荒れ果てた泥の町に落胆と幻滅を記すことになった。すなわち、幻想の都市は既に失われてしまっていたのである。
トンブクトゥは、ニジェール川が大きく湾曲するその北側に位置する。すなわち、サハラ縦断の陸運ルートとニジェール川による水運ルートが連結する地域であるが、直接、ニジェール川に接するのではなく、その氾濫流域を考慮して3つの外港から離れた砂丘列の中に立地する。
最盛期すなわち16世紀~17世紀のトンブクトゥについての応地利明(2016)の復元によれば、多核的な都市であり、宗教・文化・学術の拠点としてのジンガレイベル・モスク、サンコーレ・モスク、スィーディー・ヤフーヤー・モスクなどのモスク、交易拠点としての大市場yobu ber、小市場yobu kainaの2つの市場、運輸・輸送の拠点としての運河、キャラバン交易路、政治拠点としての離宮が核を構成していた(図2)。
現在の都市構成をみると、旧市街(メディーナ)をグリッド・パターンの街区が取り囲んでいる(図3)。旧市街は、ソンライ語ではコイラ・ジェノkoira jenoと呼ばれ、グリッド街区は、コイラ・タウディkoira tawoudiと呼ばれる。
フランスによる西スーダンの植民地化は、1659年のセネガル川河口のサンルイ島での要塞建設に始まるが、トンブクトゥがフランス領に編入されたのは1894年であり、当時の市街図(図4)と比較すれば、グリッド街区がフランスによる植民地化とともに形成されていったことがわかるが、セネガルのダカール、マリのバマコ、カイKayes、セグーSégou、ガオGao、コートジボアールのアビジャンAbidjan、ニジェールのニアメイNiameyなど西アフリカの他のフランス植民都市においても同様にグリッド・パターンが導入される。
フランスは、まず、旧市街の南西部に、広場を囲んで総督官邸、市庁舎、警察、兵営、財政局などを建てて、官庁地区とした。また、治安維持のための保安施設として軍事・警察施設、教化施設としてカトリック教会が建設された。生活基盤施設としての市場、モスク、墓地などは植民地化以前のものが維持され、居住区については、大区ファランディfarandi(カルティエ)と小区ジェレjdéré(セクトゥール)によって編成された。
マリ共和国が独立するのは1960年であるが、トゥアレグ族居住地がアルジェリア、ニジェール、マリに分割されたことから、抵抗運動が展開されるなど政情は不安定であり、1968年のクーデターで軍事独裁体制が成立、1991年まで継続する。トゥアルグ抵抗運動は、2012年の独立を求める蜂起が示すように、今日にまで続いている。
【参考文献】
応地利明『トンブクトゥ 交易都市の歴史と現在』臨川書店、2016年.
Caillié, René, Voyage à Tombouctou (tome 2), La Découverte, 1996(1830).
図1 トンブクトゥのスケッチ カイエ(1828)。
図2 最盛期トンブクトゥの施設配置 応地利明(2016)。
図3 トンブクトゥの市街地 1970年代末 応地利明(2016)。
図4 19世紀末のトンブクトゥの市街地 デュボア(1897)。
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