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2025年10月1日水曜日

デリー:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

  布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


I14 二つの帝都を孕むメガ・シティ

デリーDelhi,首都,連邦直轄地 National Capital Territory of Delhi,インドIndia

 

 

 

 


デリーは,ヤムナー川とアラヴァリ山地北端の丘陵に囲まれた,いわゆるデリー三角地に位置し,古来多くの王都が置かれてきた。①インドラプラスタ,②ディッリー,③ラール・コートとキラー・ラーイー・ピタウラー,④シーリー,⑤トゥグルカーバード,⑥ジャハーンパーナー,⑦フィーローザーバードという歴代王都の遺跡群は,「ローマの七つの丘」になぞらえて「デリー七都」とも呼ばれる(図1)。

そして,ムガル帝国(デリー)と大英インド帝国(ニューデリー)の2つの帝都となるが,その2つの帝都の都市の骨格は,アジア有数のメガ・シティとなった今日のデリーにもうかがうことが出来る。

ムガル帝国の初代バーブルはデリーで建国を宣言するが,初期の帝都の中心は移動するオルド(宮廷)であり,アーグラ,ファテプール・シークリー,ラホールなどが拠点とされてきた。デリーを帝都としたのは第Ⅴ代シャージャハーンである。

シャージャハーンの都市(シャージャーハーナーバード)と呼ばれた帝都の宮城は,赤砂岩の城壁からラール・キラと呼ばれる。全体の計画は,長方形を面取りした八角形をベースとし,正南北の方位に合わせた1辺82mすなわち100ガズgazの正方形グリッドによって構成されている(図2)。

宮城はアクバラーバード門とサリームガル門とを結ぶ南北の通りによって二つの区画に分けられている。ヤムナー川に面した東側の区画は,皇帝の政務および私的生活の場である宮域で,外部との通路は限られている。宮城の西側の区画には,一般の居住区が設けられ,かなりの人口を擁し,ラホール門からジラウ・カーナの西端までは,屋根付きのバーザールが設けられていた。地上の楽園に見立てられた王宮にはナフル・イ・ベヘシュト(楽園の水路)が張り巡らされ,城内を流れた水は,最後には宮城を囲む堀へと流れていく設計である。

シャージャハーンが新都に入城した1648年以降,さらにチャンドニー・チョウクとファイズ・バーザールの2つの大通り,ジャーマ・マスジッド(金曜モスク)をはじめとする主要なモスク,ジャーマ・マスジッド周辺のバーザール,市壁,庭園,水路システムなどの建設が続けられ都市の骨格が形成されていった。市壁が完成するのは1658年である。

 18世紀には,チャンドニー・チョウク北側の上流階級の邸宅や庭園,宮殿が並ぶ地区,大多数の都市住民が居住していた南側の地区,キリスト教宣教師やヨーロッパ人商人たちが居住していたヤムナー川とファイズ・バーザールの間のダリアガンジュ地区の大きく3つの区域が形成されていた。

 ムガル朝の皇帝は19代続いたが,第Ⅵ代皇帝アウラングゼーブの死(1707年)以降,混乱が続き,西欧列強が侵攻してくる。 第2次マラータ戦争(180205)中にデリーは英国軍に占領され,ムガル宮廷の高官たちの宮殿が占めていた城内北東端の地区が英国勢力のレジデンシー(「総督代理公邸」)や兵舎,弾薬庫へと改変され,ダリアガンジュ地区にはインド人傭兵たちの軍営が置かれた。英国軍は丘陵地にカントンメント(兵営地)を設営し,北部に英国人の居住区であるシヴィル・ラインズが建設された。デリーの初のセンサス(1833年)によると人口は119800人,1843年には131000人,1853年には151000人の都市であった(図3)。

 インド大反乱後,1858年にインドは英国の直接統治下におかれる。1866年には,市街地を貫いて鉄道や駅,接続道路が建設されるなど,シャージャーハーナーバードは大きく改変される。デリーにとって決定的な転換になったのは,1911年のジョージⅤ世によるデリーへの遷都決定である。建築家エドウィン・ラッチェンス(18691944)を中心に新都ニューデリーの計画案がまとめられ,建設が開始され,1931年に落成する。このニューデリー計画は,プレトリア,キャンベラとともに大英帝国の植民地首都の完成形態といってよく,第二次世界大戦後独立していくアジア・アフリカ・ラテン・アメリカ諸国の首都計画のモデルとなる(図4)。

 そして、オールド・デリーも1947年の分離独立によって大きく変わる。多くのムスリムの流出とパンジャーブからの大量の移民の流入,さらにデリーの急激な人口増加により,多くの地区で,ほとんど全面的な住民の入れ替えが起こった。現在も、ムガル帝国に遡るハヴェリの形態もわずかに残るが、狭小住居が密集する(図5)。 194151年の10年間にオールド・デリーの人口は2倍以上になっている。

 分離独立後のデリーは急激な都市化によってアジア有数のプライメイト・シティとなり、深刻な都市問題、居住問題を数多く抱えてしまう。新旧二つのデリーを包括的に整備する近代的都市計画の体系と手法が導入されたが,多くの問題は未解決のまま今日に至っている。

 

【参考文献】

布野修司+山根周,ムガル都市-イスラ-ム都市の空間変容,京都大学学術出版会,2008530

布野修司+安藤正雄監訳:植えつけられた都市 英国植民都市の形成,ロバ-ト・ホ-ム著:アジア都市建築研究会訳,Robert Home Of Planting and Planning The making of British colonial cities,京都大学学術出版会,20017








 


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布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...