布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
B06 アドリア海の真珠
ドゥブロヴニク Dubrovnik、ダルマチアDalmacija、クロアチア共和国 Republika Hrvatska
ドゥブロヴニクは,アドリア海東岸,クロアチア共和国の南端―クロアチア本土とはボスニア・ヘルツェゴビナのネウム港に遮られていて飛び地になるがーに位置する。その起源は古くローマ帝国時代あるいはそれ以前に溯るとされるが、古来、鉱物資源を産する後背地と地中海各地をつなぐ交易拠点として栄えた。美しい海に接する旧市街地の景観は,「アドリア海の真珠」と称される。1979年に世界文化遺産に登録され、現在は地中海有数の観光地となっている。
イタリア語ではラグーサと呼ばれるが、ラテン語名ラグシウムに由来する。ラヴェンナに都を置いてイタリア半島を支配した東ゴート王国が崩壊した後、7世紀にバルカン半島に侵入してきたアヴァール族を避けて南方から移住してきたラテン系住民によってその基礎がつくられた。彼らは当初,本土から海峡で隔てられた岩島の一角に定住した。これがラグシウムである。9世紀の中頃までに、ラグシウムは城塞で囲われる。新たに11世紀にかけて城壁が建設されていく(図1)。中心に位置したのは聖マリア教会である。その後,本土からスラヴ系の民が流入し,市域は島全体,さらには本土側に拡大していく。海峡であった現在のプラカ通りが埋め立てられるのは12世紀後半のことである。
a .9 世紀 b. 10~11世紀 c.21世紀 図1 都市の形成 出典: B・クレキッチ(2005) |
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ドゥブロヴニクの旧市街は、6地区から成り立っている。島の西南に当たる高い岩場のカステロ区は、当初から要塞化されていたが、島の南側に聖ペテロ区とプスティエルナ区、プラカ通り南側のやや平らな土地に聖ヴラホと聖マリア区、陸側の斜面に聖ニコラス区が順次設けられていく。14世紀半ばまでには6地区全体は13の角(櫓)塔を備えた市壁で囲われる。16世紀初頭には、オスマン帝国が強大になったため、東の城門外に急遽レヴェリン要塞を建設。11世紀からあった島の西方の聖ロヴェリナッツ要塞と併せて町の外側を固めるとともに、市壁を厚さ4.9~6.1m、高さ20mに増強し、アドリア海随一の城塞都市へと町を整えていった(図2)。
図.3 旧市街の町並み 出典:Enciklopedija Jugoslavije |
参考文献
1)B・クレキッチ(1990)『中世都市ドゥブロヴニク アドリア海の東西交易』田中一生訳、彩流社
2) Boto Letunic (ed.),
“7th RESTORATION OF DUBROVNIK 1979-1989”, Dubrovnik,
1990
3) Suad Ahmetovic(2008), “Curiosities of Dubrovnik from the Past Two Millennia
4) Robin Harris(2003), “DURROVNJK A HIS1VRY SA”
5) Antun
Kararnan(2008)『ドゥブロヴニク 歴史・文化・芸術』山本憲夫訳、観光出版社 (Zagreb)
6) Antun
Travirka(2008)『ドゥブロヴニク 歴史・文化・芸術遺産』桂南紀訳 FORUM ZADAR
7)辻知衆、羽生修二、「城塞都市ドゥブロヴニクの都市形成について ~起源(7世紀)から共和国崩壊(1808年)までの転換期に着目して~」日本建築学会大会学術講演梗概集、2010年9月
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