このブログを検索

2025年10月10日金曜日

ドゥブロヴニク:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


B06 アドリア海の真珠

ドゥブロヴニク Dubrovnik、ダルマチアDalmacijaクロアチア共和国 Republika Hrvatska

 

ドゥブロヴニクは,アドリア海東岸,クロアチア共和国の南端―クロアチア本土とはボスニア・ヘルツェゴビナのネウム港に遮られていて飛び地になるがーに位置する。その起源は古くローマ帝国時代あるいはそれ以前に溯るとされるが、古来、鉱物資源を産する後背地と地中海各地をつなぐ交易拠点として栄えた。美しい海に接する旧市街地の景観は,「アドリア海の真珠」と称される。1979年に世界文化遺産に登録され、現在は地中海有数の観光地となっている。

イタリア語ではラグーサと呼ばれるが、ラテン語名ラグシウムに由来する。ラヴェンナに都を置いてイタリア半島を支配した東ゴート王国が崩壊した後、7世紀にバルカン半島に侵入してきたアヴァール族を避けて南方から移住してきたラテン系住民によってその基礎がつくられた。彼らは当初,本土から海峡で隔てられた岩島の一角に定住した。これがラグシウムである。9世紀の中頃までに、ラグシウムは城塞で囲われる。新たに11世紀にかけて城壁が建設されていく(図1)。中心に位置したのは聖マリア教会である。その後,本土からスラヴ系の民が流入し,市域は島全体,さらには本土側に拡大していく。海峡であった現在のプラカ通りが埋め立てられるのは12世紀後半のことである。



   

a .9 世紀                     b. 1011世紀                       c.21世紀

1 都市の形成         出典: B・クレキッチ(2005)

ラグーサはビザンティン帝国保護下の都市国家となり、十字軍の時代を経てヴェネチアの支配下に入る。ラグーサはラテン系とスラブ系の対立を内包しながらも共存共栄の自治都市として発展することになる。1667年の大地震で人口の半分を失う大打撃を受けるが、歴史的建造物や市壁は再建されて今日にもその姿を伝える。14世紀中葉に市壁の建設や防御施設の造営、建築物の建設に従事した建築家として、フィレンツェ人のミケロッツォ・ミケロッツィやクロアチア人のユーライ・ダルマティナッツ、地元建築家のパスコイェ・ミリチェヴィッチなどが知られる。ラグーサ共和国は、以降1808年まで存続する。15から16世紀にかけての最盛期には、アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネチアなどの海洋都市国家と覇を競う存在となる

   図2 ドゥブロヴニクの歴史的建造物と市壁 作図:高橋謙太  B・クレキッチ(2005)

ラグーサの名前はこうして19世紀に至るまで用いられるのであるが、スラヴ語系のドゥブロヴニクの名も一方で用いられてきた。最も古い記録は12世紀後半であり、16世紀後半から17世紀にかけて広く用いられるようになったのがドゥブロヴニクである。ケルト語の水ドゥブロンdubronに由来するという説がある。ラグーサの名がドゥブロヴニクに変えられるのは、オーストリア・ハンガリー帝国下の1918年のことである。オスマン帝国によって東ローマ帝国が滅亡するとドゥブロヴニクはオスマン帝国の支配下に置かれる。キリスト教を基盤とする都市国家であったドゥブロヴニクは、イスラーム化されることになる。

ドゥブロヴニクの旧市街は、6地区から成り立っている。島の西南に当たる高い岩場のカステロ区は、当初から要塞化されていたが、島の南側に聖ペテロ区とプスティエルナ区、プラカ通り南側のやや平らな土地に聖ヴラホと聖マリア区、陸側の斜面に聖ニコラス区が順次設けられていく。14世紀半ばまでには6地区全体は13の角(櫓)塔を備えた市壁で囲われる。16世紀初頭には、オスマン帝国が強大になったため、東の城門外に急遽レヴェリン要塞を建設。11世紀からあった島の西方の聖ロヴェリナッツ要塞と併せて町の外側を固めるとともに、市壁を厚さ4.9~6.1m、高さ20mに増強し、アドリア海随一の城塞都市へと町を整えていった(図2)。

.3 旧市街の町並み 出典:Enciklopedija Jugoslavije

ドゥブロヴニクの中心施設は、すべてプラカ通りに面している。街路は、南北からプラカ通りに向かい直角に交わる街路と、プラカ通りに平行に引かれ東西に延びる街路が数本ある。大通りと直角に配された新市街地の街路は南北の行き来を促し、町を活性化させていった。住居は、市街地拡大の際に木造家屋が大量に作られたが、度重なる火災によって、木造家屋は焼失し、石造の建物に建て替えられた。その際に、大理石が貴族の建物や塗装に込んで使われたことが、現在の町並みを作り出している。(高橋謙太・布瀬修司)

 


参考文献

1)B・クレキッチ(1990)『中世都市ドゥブロヴニク アドリア海の東西交易』田中一生訳、彩流社

2) Boto Letunic (ed.), “7th  RESTORATION OF DUBROVNIK 1979-1989”, Dubrovnik, 1990

3) Suad Ahmetovic(2008), “Curiosities of Dubrovnik from the Past Two Millennia

4) Robin Harris(2003), “DURROVNJK A HIS1VRY SA”

5) Antun Kararnan(2008)ドゥブロヴニク 歴史・文化・芸術山本憲夫訳、観光出版社 (Zagreb)

6) Antun Travirka(2008)ドゥブロヴニク 歴史・文化・芸術遺産』桂南紀訳  FORUM ZADAR 

7辻知衆、羽生修二、「城塞都市ドゥブロヴニクの都市形成について ~起源(7世紀)から共和国崩壊(1808年)までの転換期に着目して~日本建築学会大会学術講演梗概集20109 

 


0 件のコメント:

コメントを投稿

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...