布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
K26バハイ・ナ・バトの都市-東西の融合
ヴィガンVigan,イロコスIlocos, 北ルソンNorthern Luzon,フィリピンPhilippines
バハイ・ナ・バトbahay na bato(タガログ語で「石batoの家bahay」)とは,フィリピンの伝統的建築形式である,先住民,スペイン人,中国人の技術が混合した,木骨で,石・煉瓦造の一階と木造の二階からなる都市住宅のことである。カピスCapiz貝がはめ込まれた格子状の窓が特徴的で,フィリピン・スペイン植民都市のなかでは唯一ヴィガンがその美しい姿を今日に伝えている(図1 世界文化遺産登録(1999年))。
ヴィガンは,セブ (1565),パナイ (1569),マニラ (1571)に次いでスペインによって建設されたフィリピン第4の都市である。スペインの当初のターゲットは,中国,台湾,カンボジアなどとの交易に重要な拠点であり,広東,漳州,福州などから来航船が数多く訪れ,倭寇も根拠地としていた南シナ海に面するルソン島最大の河川カガヤン川の河口部のヌエヴァ・セゴビアであったが,その足掛かりとしたのがヴィガンであった。ヴィガン建設に当たったのはレガスピの孫,フアン・デ・サルセドであり,実際に建設を担当したのは小教区担当のスペイン人宣教師である。
17世紀前半には,カトリックに改宗した中国人の移動が許され,スペインが建設した植民拠点に中国人が移住し始める。18世紀になると,東アジア海域世界の交易中継拠点としての台湾の成長もあって,ルソン島北部の司教座はヌエヴァ・セゴビアからヴィガンに移される。1778年には行政上でも町(ヴィジャvilla)から都市(シウダードciudad)に昇格し,シウダード・デ・フェルナンディナに改称される。司教座となりシウダードに昇格したことによってヴィガンは急速に成長を遂げる。ヴィガンを中心としたイロコス地方の人口は増え続け,1810年のイロコスの人口は36万人を超えている。
一時期,退去が命じられた中国人であるが,1850年に中国人の地方在住が再び認められ,中国系メスティーソがヴィガンを拠点に,彼らはタバコの生産・集散・輸送を掌握する。しかしながら,後背地の人口減少に伴い,徐々にヴィガンの繁栄にかげりが見えはじめる。そして、1890年代末には,フィリピン革命軍,その後1899年にはアメリカ軍によって占領される。
世界文化遺産登録のための公式申請書は「インディアス法に準拠したスペイン的都市計画を明示するフィリピン唯一の現存例」を強調しているが,この「インディアス法に準拠」という点については疑問なしとしない。ヴィガンの建設は1572年に開始されており,直接「フェリペⅡ世の勅令」(1573)を参照して建設されたとは考えられない。それに、インディアス法を逸脱しているように思われる点が少なくとも2つある。ひとつは,広場が近接して2つあること,そして,街区が,他のスペイン植民都市ではあまり例がない,3×3=9のナイン・スクエアの分割パターンが見られることである。それに加えて,ヴィガンの建設に、中国人あるいはチャイニーズ・メスティーソが積極的参加していること,その象徴として,バハイ・ナ・バトという都市型住居が生み出されたことは,ヴィガンの大きな特徴である。
ヴィガンは現在,イロコス・ス-ル州の州都である。現在のヴィガンの中心部は,北をゴヴァンテス川,東をメスティーソ川によって区切られている(図2)。当初,南東部に港と要塞が設けられその後,北側に中心部が移動したと考えられている。北側中央に,サルセド広場があり,その東に聖パウロ大聖堂,西に州庁舎,北に司祭館と修道院,南に市役所などが配されている。大聖堂の南にはブルゴス広場がある。伝統的なバハイ・ナ・バトは,街の東側に位置し,スペイン植民地時代の中国系メスティーソの居住区内であるクリソロゴ通り沿いに多く残されている。バハイ・ナ・バトの1階には物置や車庫,湿気の少ない2階に接客用階段ホールcaida・サラsala(居間,広間)・食堂 comedor・台所cocina・寝室cuarto・祈祷室oratorio・アソテアazotea(奥行きのあるバルコニ-)などが設けられ,1階と2階は屋内大階段で結ばれる。2階を居住空間とするのは高床式住居に似ているが,梯子や簡単な階段ではなく,見せ場としての大階段はスペインの影響だと考えられている。
ヴィガンの街路体系・街区構成については,旧市街の街区規模が80m~85mの正方形をしていることが注目される。スペイン植民都市で用いられた単位ヴァラを元にすると,街区は心々で100ヴァラ四方,街路幅は10ヴァラとしていたと考えられる。各街区がどのように宅地分割されていたかについて,現況の宅地割りをもとに考察すると街区の各辺は3分割される例が多く3×3のナイン・スクエアの分割が基本であったことが考えられる。寸法体系としても,100ヴァラから街路幅の計10ヴァラを引いた90ヴァラを三分割した30ヴァラ×30ヴァラの宅地に分割する計画理念は考えやすい。しかし,中南米の植民都市の場合,2×2の4分割が基本となっており,40ヴァラ×40ヴァラもしくは20ヴァラ×20ヴァラ(1ロアン)が単位でなった可能性もある。
参考文献
布野修司・ヒメネス・ベルデホ,ホアン・ラモン(2013)『グリッド都市-スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生』京都大学学術出版会(「第Ⅵ章 フィリピン―マニラ・アウディエンシア 4 バハイ・ナ・バトの都市―ヴィガン」)。
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