アヴィラ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
【アヴィラ】時を超えた城壁の都市
スペイン,カスティーリャ・イ・レオン州
マドリードの西北西約90kmに位置するアヴィラは、「城壁と聖人の町」として知られる(図1)。その起源は,スペインの先住民であるイベロ人とケルト人が混血したケルティベロの時代に遡り、紀元前500年頃の石像が発見されており、ヴェトン族が定住していたと考えられている。ギリシャ神話の英雄ヘラクレスによって建設されたという伝承をもつ。その名は、「イベロ人の土地」に由来するというが、ローマ帝国時代に「白い小部屋(Alba cella)」と呼ばれていたワインセラーの名が転訛したという説もある。
プトレマイオスがその地理書に記すアブラAbula(Abla)がその起源と考えられ、ヒスパニアで最初にキリスト教化された都市である。ローマの植民都市となってアビラAbila(Abela)と呼ばれるが、典型的なローマ・クアドラータ(正方形のローマ)である。すなわち、カルドとデクマヌスという南北、東西の大通りが中央で交差し、中心にフォーラムが置かれる形態をしていたことは、現在も残されているローマ時代の城壁、東門、南門の遺構からうかがうことができる(図2)。
西ローマ帝国が崩壊すると、西ゴートの支配下に入るが、714年にイスラームに占拠されると、北方のキリスト教国によって繰り返し攻撃され、無人の地と化した。住民が再居住するのは、1088年にレコンキスタが完了して以降である。この時、城壁を再建した建築家としてカサンドロ・ロマーノとフローリン・・デ・ピトゥエンガの名が知られる。旧市街の範囲は東西約900m、南北約450m、高さ平均12m、厚さ約3mの城壁で囲まれており、城壁はローマ帝国時代に建造された石塀の跡に沿って建てられている。
以降、アヴィラはカソリック王の下で、羊毛業を中心に栄えた。スペインの黄金時代、カルロスⅤ世とフェリペⅡ世のもとで全盛期を迎えている。
17世紀になると低迷し、人口は4,000人にまで縮小する。19世紀に入って、鉄道が敷設され、マドリードとフランス国境の町がつながれるとやや持ち直し、歴史的建造物を残しながら今日に至る。アヴィラは,ヨーロッパでも最もよく中世の城壁を保存する都市の1 つである。「アヴィラ旧市街と市壁外の教会群」は1985年に世界文化遺産に登録されている。
旧市街の東端東門に位置するカテドラルは、1107年に創建され、その後増改築が行われてきたものである。創建当初のマスタービルダーとしてフランス人G.フルチェルの名前が知られる。東側のアプスは市壁の一部をなしている。翼廊は1350年の建設である。初期ルネッサンスの部分は、赤白の石灰岩でつくられ、ゴシック期の部分は白岩でつくられている。
旧市街の東北市壁外に位置するサン・ヴィセンテ・バジリカは12世紀から14世紀にかけて建設されたものである。4世紀に聖ヴィセンテとその姉妹が殉教したとされる場所に建てられており、イスラームの進出後は荒廃していたが、町を奪回したアルフォンソⅥ世によって再建されたものである。同じくG.フルチェルのデザインとされるが、基本的にはラテン十字のバジリカ様式を踏襲するものである。
サン・ホセ修道院は、1562年に建設された最初の修道院であるが、中心となるのは1607年に建築家フランシスコ・デ・モラ(1553-1610)によって設計された教会である。
サン・ペドロ教会は、市壁外に1100年に建てられたもので、サン・ヴィセンテに類似するラテン十字の教会である。他にサン・トマス、サン・セグンドなどロマネスク様式の教会が登録リストに挙げられている。
旧ローマ時代のフォーラムがあったプラザデルメルカドチコが市の中心である。市庁舎とサン・フアン教会がその中心に面している。近くに現在は美術館として用いられるドン・ディエゴ・デル・アギラの宮殿(ポレンティノス宮殿)がある(図4)。13世紀以降、時代ごとに手を加えられてきた。4 つの住居で構成され, それぞれ16 世紀から18世紀にかけて建設された邸宅、中庭式住宅である。すなわち、都市住居の基本は、スペインの他の都市同様、パティオ住宅である。
(山口ジロ・布野修司)
参考文献
志風恭子「アビラ旧市街と市壁外の教会」『スペイン文化事典』収録(丸善, 2011年1月)
増田義郎「地理」『スペイン』収録(増田義郎監修, , 新潮社,
1992年2月)
渡部哲郎「アビラ」『スペイン・ポルトガルを知る事典』収録(平凡社, 2001年10月, 新訂増補)





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