サント・ドミンゴ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
L13 「新世界」最初の植民都市
サント・ドミンゴ Santo Domingo、ドミニカ共和国República Dominicana
サント・ドミンゴは、ニコラス・デ・オヴァンドによって建設された(1502年)アメリカ大陸最初の植民都市である。
現在のサント・ドミンゴは,ドミニカ共和国の首都で人口95万5000人(2010),カリブ海域でもキューバのハバナに次ぐ第2の都市である。東をオサマ川,南をカリブ海,北と西はかつての市壁で囲われた旧市街(ソーナ・コロニアルZona Colonial)は,約90haで116の街区からなり約1万5000人が居住する。
サント・ドミンゴの都市形成の過程は以下のようである。
クリストバル・コロンは、グアナハニGuanahani(サン・サルヴァドル)島へ到達し(1492年),最初の植民都市として,イスパニョーラHispaniola(Española)島にナヴィダー要塞を建設する。「新世界」最初の砦であったが、,翌年訪れるとインディオの襲撃によって破壊されており,新たな拠点としたのがイサベラである。次弟のバルトレメオ・コロンによって,1496年から1498年にかけてヌエヴァ・イサベラが建設されるが、これもハリケーンにより破壊され、対岸にサント・ドミンゴが建設されるのである。オヴァンドはスペイン国王からスペイン人たちを集住させる要塞都市建設を命ずる勅許状と指図書を受け、ヌエヴァ・イサベルに分散居住していたインディオたちを集住させ,鉱山
近郊にもインディオたちの集落を建設している。
サント・ドミンゴ(オサマ)要塞の建設は1505年より開始され,1507年にイタリア人建築家フアン・ラベJuan Rabeの設計によって,サント・ドミンゴ(「新大陸」)現存最古の建築であるオメナヘ塔Torre del Homenajeが完成している。都市建設について,具体的な指示が出されるのは1513年で,その指令を受けたのはペドラリアス・ダヴィラである。都市とその地域に命名すること,交通の便を考慮し,川,海などに接すること,そして,教会,広場,街路,私有地に土地を割り当てることなどが指示されている。
ラス・カサスがインディオの拷問・虐殺に対する良心の呵責から「回心」した場所として知られる聖ドミニコ会修道院(1510)や,サン・フランシスコ修道院(1524~1535)などの修道院・教会,サント・ドミンゴの中心に位置し「新大陸」すなわちアメリカ最初のカテドラルであるサンタ・マリア・ラ・メノール Santa María la Menor (1514着工~1540竣工)が建設される。また,アメリカ最初の病院・大学であるサン・ニコラス・デ・バリSan Nicolás de Bari病院 (1533~1552),サント・ドミンゴ大学 (1518~1538)も建設されている。
サント・ドミンゴの最も古い都市図は,1585年のフランシス・ドレイク Francis Drake (1540〜1595)の遠征の時 に描かれたものである。(図1) この地図を見ると,市街地は矩形の街区によって構成されており、全体は市壁で囲われている。東南部に要塞が完成し,市街中央にはカテドラルが見える。西側の市壁には3つの門が設けられ,近郊の集落が描かれている。
サント・ドミンゴは,港湾に接する広場とプラサ・マヨールの2つを核としており、広場,教会など主要施設をグリッド状に配置するが、完全なグリッド・パターンをしてはいない。プラサ・マヨールの規模は124ヴァラ×124ヴァラで、都市図の残されたスペイン植民都市全体のほぼ標準である。
20世紀以前の住居は,ほとんどが2層以下の石造もしくは煉瓦蔵の中庭式住宅(パティオ・ハウス)である。最初期,1502~1509年に建設された住居はラス・ダマス通りに見られるパティオをもつ中庭式住宅である。当初,16世紀の間は二階建てが基本であったとされるが,17世紀以降平屋建てもみられる。邸宅を除けば,一定の形式をもった都市型住宅として,間口と奥行きによって類型化できる。
16世紀末期から18世紀半ばにかけて,サント・ドミンゴもイスパニョーラ島全体も,衰退と貧困の時代を迎える。ハリケーンや地震により建物が被害を受けるが修復する余裕はなかった。18世紀以降19世紀半ばまではほとんど発展はない。植民地時代が終わると市壁が市の発展の障壁になり,南西部にシウダード・ヌエヴァ(新都市)が建設され現在の都市形態に至る。







0 件のコメント:
コメントを投稿