カディス:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
B47 アトランティスへの港町―高層高密の都市組織
カディス Cadiz,アンダルシア州Andalcia,スペインSpain
カディスは、古来、ジブラルタル海峡の西、グアダルキビル川河口の南、大西洋に面する港町として知られ、コロンブスがここから「新大陸」発見の航海に出航した(第2回、第4回)ように、また、インディアス艦隊の拠点港となったように、スペインのイベロ・アメリカへの窓口となった港市である。
考古学的調査によれば、その起源は紀元前7世紀に遡り、フェニキア人にカディルGadir(古代ギリシャ語ではGadeira)と呼ばれた拠点港であったことが知られる。その後、ローマも拠点としたが、西ゴート時代に都市が建設されて、以前の遺構の全体は明らかでない。そして、イスラーム時代を迎え、レコンキスタ後にスペイン領となった。
大航海時代には、イベロ・アメリカとの交易によって大いに繁栄するが、一方、大西洋に直接面することから英国の攻撃目標とされ、16世紀には度々襲われている。1587年にはフランシス・ドレークによって占拠され、建造物とともに多くの船が破壊され、翌年英仏海峡で行われたアルマダの海戦で、無敵艦隊と呼ばれたスペイン艦隊は歴史的敗北を喫する。さらに1625年に、バッキンガム公ジョージ・ウィリアムが侵略するなど、17世紀に入っても英国の襲撃は続いた。1654年に始まった英西戦争では、ロバート・ブレイクによってカディスは封鎖されている。しかし、1680年以降、アメリカ大陸との交易がセヴィーリャとカディスの両港で行われるようになると、カディスはさらに栄えた。
現存する歴史的建造物は17世紀から19世紀にかけて建設されたものである。カディスの都市形成過程については、シマンカス古文書館AGS 、カタルーニャ地図研究所ICCなどに数多くの地図や図面が残されていて明らかにすることができる(図①)。
1625年のバッキンガム公の襲撃の後には新しい要塞と城壁が建設され、17世紀半ばには、都市の骨格がほぼ出来上がっている。人口は2万2000 人にまで増加する。1680年以降は、果樹園や空地となっていた西部に街区が拡張され、貴族たちの邸宅が建設される。18世紀初頭には人口4万人に達している(図②)。
18世紀末になると城砦内は建て詰まる(図②1812) 。空地は軍用地である。1792年には、建築物のファサードや高さを規定する建築基準法が制定されている。容積を増やし人口増に対応するためで、これによって市壁内のリノヴェーションが行われるのである。人口は7万4500人となる。そして、19世紀には10万人を突破することになるのである。
もともと島であり、半島の面積が限られているせいであるが、イベリア半島では極めてユニークな極めて高密度な港市都市がこうして出来上がるのである。19世紀初頭にほぼ拡張の余地がなくなっていたカディスは、わずかに残っていた空地も埋められ、その後は古い建物をリノヴェーションすることが主となる。最古の地区は、中世に遡り、狭い曲がりくねった街路によって構成されている(図③)。建物は2階ないし3階で、当初の高さが維持されている。4階建ての建物は17世紀の建築ブームの際に建てられたものである。17世紀には、新たにサン・フランシスコ修道院などが建てられるが、街路も中世には4m以下であったが、より直線的に拡幅される。
17世紀半ばにはデスカルソス修道院が半島の南部に建設される。すなわち、宗教施設の建設が市街地の形成を主導する。近接して市場も建設される。建物は4~5階建てが一般的となる。デスカルソス修道院は1830年まで存続した。
ラ・ヴィーニャLa Viña, メンティデーロMentidero, サン・カルロスSan Carlos、エル・バロンEl Balón といった住区の形成は18世紀末に遡る。
19世紀初頭のナポレオン戦争の際にもカディスは攻略されることなく自立性を保ち、その都市形成の歴史をそのまま今日に伝える。市域を境界付けられ、古くから高層住居が密集する街区形態を発展させてきたカディスは、南スペインの他の都市としては極めてユニークな都市である。
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