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2026年4月13日月曜日

『SSF News』(サイト・スペシャルズ・フォーラムSite Specials’ Forum)000-012 1991-1996


SSF News』(サイト・スペシャルズ・フォーラムSite Specials’ Forum

SSF News 000 19910101

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2024年5月3日金曜日

京都というプロブレマティーク,建築文化,199402

建都1200年の京都,布野修司+アジア都市建築研究会編,建築文化,彰国社,1994年2月号

 

京都というプロブレマティーク

布野修司

 

 京都:歩く、見る、聞く

 京都に移り住んで2年が経過した。移り住んだといっても、バタバタしているだけでその実感は薄い。2年など、建都1200年を迎えた古都の歴史にとって、瞬きの間にもならないだろう。それに、取りあえず居を構えたところが洛外も洛外、宇治の黄檗だから、京都に住んだとはとても言えない。京都のことはわからない、というのが全くもって正直のところだ。

 しかし、京都に住み続ければ京都のことが果たしてわかるようになるのであろうか。「京都は奥深い。京都を理解しようとするのならば、徹底的に京都を研究する必要がある。中途半端に理解しようとするのであれば、観光客でいる方がまだましだ。」と京都の友人はいう。そうであるとすれば、まあ観光客でいるしかなさそうではないか。ただ、観光客にとっての京都も、京都の半面とはいえなくても1割ぐらいの(観光収入がGNPの1割というから)京都ではありうるのではないか、そんな気分である。

 観光客といっても、清水、金閣、銀閣、二条城、三三間堂といった有名観光社寺をめぐるのとは違う視点の可能性はある。「路上観察学会」の面々が京都を襲って一冊の本をものしている。『京都面白ウオッチング』(  )である。「大人の修学旅行」、「路上観察の旅」ということで、京都の珍建築や珍木・名木、小鳥居、犬矢来、石亭、縁石、角石、狛犬、猛獣のレリーフ、壷庭、鬼門、ステンドグラス、金物、消火栓、銭湯、西洋館、マンホールの蓋、張り紙等々、ありとあらゆるディテールが発見され、観察されている。京都人にとっては全く理解できない「宇宙人」の視点かもしれない。しかし、京都人でも、「ええっ」と思うような発見があるのではないか。路上観察学会は、「純粋観察」を標榜する。「純粋」観察がいかに成立するかは不明であるが、「路上」の観察は、あるいは「路上」からの観察は、大きな京都への接近方法である。路上からの接近といってもいろいろある。ディテールはディテールでも、『仕組まれた意匠ーーー京都空間の研究』(  )の方が「京の意匠」についてのはるかにオーソドックスなアプローチとなっている。要は視点であり、視角なのである。 

 「見知らぬ町を見慣れた町のように見る。見慣れた町を見知らぬ町のように見る。」といったのはW.ベンヤミンであるが、この眼の往復運動は基本的なアプローチとしてどこでも通ずる筈だ。と格好をつけて、とにかく、京都の町を歩きだした。今までに5回ほどになろうか。

 まずは、新町通り、西洞院通りを南北に歩いた。京都の都心、山鉾町の中心である。町家の落ち着いた佇まいよりも、駐車場やマンションでがたがたの町並みに驚いた(  )。続いて、二度目は伏見へ飛び出してみた。伏見の大手筋は買い物などで日常的にも親しくなりつつあるのであるが、秀吉の城下町の骨格を感じることができる。近世の洛中と洛外、南と北の断層が見えた。松ノ木町40番地の印象は強烈であった。高瀬川の姿も木屋町あたりとは同じ川かと思う程違う(  )。三度目は、上七軒、下之森、四・五番町、島原、六条柳町、五条橋下、祇園とかっての花街をめぐった。洛中の周縁をぐるりとめぐったことになる。角屋の見学が主目的であったのだが、洛中のスケールを身体で実感できた(  )。四度目は、太秦から三条通りを河原町まで歩いた。京都横断である。都心の三条通りには近代京都の厚みが残る(  )。五度目は、鴨川を出町柳から七条まで歩いた。鴨川からの眺望は無惨。東山は見えかくれもしないほど。橋の下のスコッターたちの住まいが印象的であった(  )。

 歩きながらの学習である。もちろん、ただ歩いても仕方がない。しかし、歩きながら京都の歴史をひもとけばよく頭に入る。京都はそうした意味では日本史の書物のような都市だ。一般的な歴史の学習ばかりではない。研究室には、特に、歴史的環境、地域文化財に関する膨大な調査研究の蓄積があった。また、「保存修景計画研究会」といったオープンな研究会が続けられている。おかげで、わずかな時間にしては、随分と勉強できたような気がしないでもない。

 京都に移って、すぐさま調べたのは祇園である。バブル経済に翻弄される実態を所有関係の変化から探ろうとしたのである。また、いきなり「町家再生研究会」(望月秀祐会長)に加えて頂いた。相続税についての具体的検討などを通じて町家をめぐる厳しい状況が理解される。研究会は、例えば橋弁慶町の町会所の改築問題など実践的課題を眼の前につきつけられている。さらに、横尾義貫先生の御下命でより一般的に「町家再生のための手法」について考える作業もある。

 以下は、以上のようなささやかな京都体験に基づく京都論のためのノートである。

 

 世界の中心としての京都

 「京のいけず」とか「京のぶぶづけ」とかステレオタイプ化された一連の京都論、京都人論があるのであるが、そうした中に「東京は日本の中心かもしれないけれど、京都は世界の中心であると、京都人は思っている」というのがある。京都府建設業協会の出している雑誌「建設きょうと オープン・フォーラム」で読んだ。京都府建設業協会は、全国に先駆けて「現場作業服のファッション・ショー」(SAYプロジェクト)を開いたり、今また「年収1000万円プロジェクト」などを展開するなど極めて活動的である。京都は他に先駆けて新しいことをやるべきだという意気込みがその先進的プロジェクトの数々に現れているように見える。なるほどと思う。

 京都は日本の都市のなかで唯一特権的な都市である。「京都はただの地方都市になってしまった」という言い方がよくなされるのであるが、それも京都を特権的なものと考える裏返しの表現だろう。

 第一、千年を超える歴史をもった都市は世界にもそうはない。ローマ、北京、イスタンブール、・・・ぐらいであろうか。新たな都市が生まれてやがて衰退する。都市にも栄枯盛衰があり、生死があるのはむしろ自然である。17世紀の初頭、東国の寒村であった江戸、東京を考えてもいい。今、その東京はほぼ平面的広がりの限界に近づき、このまま行けば「死」を迎えるしかないであろう。過飽和状態に至って、新たなフロンティア(ウオーターフロント、ジオフロント・・・)を求める動きが顕在化したのがこの間の様々な東京改造の動きであった。少なくともさらに数百年の首都であり続けるかどうかは大いに疑問である。千年の都であり続けた京都は希有の存在なのである。

 第二、京都には千年の都としての世界的な遺産がある。千年の都といっても、建設された都市がそのまま生き延びるということではない。江戸は火事で頻繁に焼けたし、東京にしても、震災、戦災で、繰り返し白紙に還元されてきた。京都だってそうである。むしろ、ドラスティックな変転を経験してきたのが京都である。大火も何度も起こっている。今、世界遺産条約に登録申請を行なうほどの遺産が残されたのはある意味では偶然かも知れない。京都は有力な原爆投下目標地として、通常爆撃禁止という措置により温存されており、小規模な空襲しか受けなかったのである。また、陸軍長官スティムソンの反対で、たまたま原爆投下の候補地から外れただけだからである(  )。しかし、残された歴史遺産、文化遺産の厚みはその特権性の大きな根拠である。

 第三、京都は日本的なるものの源泉である。そうした意味で「日本」の中心である。日本文化の原型、日本的美意識といったものは全て京都で生み出されてきたものである。京都は宿命的に「日本」を背負った都市である。「日本」というアイデンティティーが問われ続ける限り、「京都」も問われ続ける可能性がある。

 東京遷都により、京都は千年に及ぶ首都としての地位を失った。京都の最終的「危機」はこの時に始まったとみていい。首都機能という意味では、既に江戸にその役割を譲ってきた。そして、天皇の居住地という天皇制のシンボルとしての京都はそのアイデンティティを失ったのである。「天皇は遷都宣言をされていない」、「天皇は京都にお戻り下さい」といった主張は今でも京都で根強い。京都が京都である第一の根拠だからである。

 京都が京都である根拠を失い、衰微していくが故に、京都「府」は京都を活性化するために積極的な近代化策をとる。学区制に基づく小学校の創設、病院や各種文化施設など全国に先駆けてつくられたものは数多い。職制や戸籍の導入なども同様である。近代技術の導入も実に積極的であった。琵琶湖疎水しかり、蹴上の発電所しかり、市電しかりである。明治28年(1895年)の平安遷都1100年記念の年の京都は大いに元気であった。具体的な記念事業は平安京を模した大極殿(平安神宮)の建設、『平安通志』の編纂、第4回内国勧業博覧会である。博覧会には、京都市の人口の3.3倍の113万人が入場したのだという。この年、時代祭がつくられ、疎水の発電所の電気で市電が走った。街厠(公衆便所)がつくられたのもこの年だ(  )。

 それから100年、建都1200年を迎えた京都はどうか。いささか盛り上がりに欠ける。建都1200年記念事業の規模といい、意欲といい、建都1100年の時には及ぶべくもない。何故か。少なくとも、首都機能の喪失は決定的な形で明らかになりつつある。政治的、経済的、社会的中心ははっきりと東京へと移動したのである。それに対して、首都(あるいはその機能)の復権は果たして如何に可能なのか。

 文化や学問に特化する方向がある。「京都学派」や「アカデミー賞」が強調される。文化的中心、首都としての京都の地位の保持である。一方、徹底して「アンチ東京」、革新の政治的立場を貫く主張がある。いずれも中心(反中心を含めた)志向の発想である。首都機能が一方的衰退していく中で、国賓のための「和風」迎賓館が今テーマとなるのはよく理解できる筈だ。また、大学の洛外移転による都心の衰退が大問題とされるのも、単に経済的理由からだけではないのである。

 第二、第三の京都の存在根拠はどうか。世界的遺産としての京都が危機に瀕していることを示すのがこの間の景観問題である。また、「日本」=「京都」というのも果たして絶対的であり続けるかどうか。「京都」を特権的な都市であらしめてきた根拠が失われるとすれば、「京都」は滅びるしかないであろう。坂口安吾の「京都」滅亡論(   )は、京都再生論の対極に位置し続けているように見える。 

 

 日本の都市の鏡としての京都

 京都もまた生活者の都市である。生活している人々によって生きられてこそ生きた都市でありうる。実際どんな都市であれ、それを支えてきたのは生活者の論理である。「京都の博物館化」、「京都のテーマパーク化」   )が一方で極論されるのであるが、京都の場合、むしろ特に、生活者の論理を強調してきたように見える。「町衆」の論理である。京都「市民」への道を「京戸→京童→町衆→町人」とたどった林屋理論がそのベースである(   )。

 東京から京都へ移り住んで色々気づくことがあるのであるが、否応無く感じるのは地域共同体、隣保組織の根強さである。例えば、祇園祭がある。祇園祭に山鉾を出す山鉾町のコミュニティー組織の結束は根強いのである。例えば、地蔵盆がある。これまた大きく変容しつつあるのであるが、今猶、随分盛んなように見える。少なくとも、町を歩くと、ここそこに地蔵堂がある。余所者には実に印象的である(   )。

 いま、山鉾町のコミュニティー組織や屋台保存会は大きな変容を迫られている。都心のブライト化によって、人口がどんどん減りつつあるのである(   )。地価高騰、相続税等の問題で再開発圧力が強まり、町家の町並みも変わる。山鉾町を歩いてみると、ところどころに虫食いのように空き地や駐車場がある。セットバックして建てられるビルと町家の町並みはガタガタである。象徴的なのは町会所である。四条通りなどの大きな通りに面した町会所は、間口の狭いビルに建て替えられつつあるのである。

 東京の下町でもいい、あるいは、地方都市でもいい、都市化の進展とともに地域の共同体は一様に解体のプロセスを辿ってきた。京都もまた同じである。都心の小学校の統廃合問題がその象徴だろう。町衆の伝統をベースに全国に先駆けて住民の発意で小学校をつくったのが京都の各町である。祇園祭を支える山鉾町に代表される京都の地域共同体がどうなっていくかは京都の行方に大きく関わっているといっていいだろう。

 京都のそうした地域共同体のあり方に決定的なインパクトを与えてきたのは経済の論理である。あるいは産業化の論理である。その趨勢の及ぶところ、如何に特権的な都市「京都」といえども免れることはできない。否、特権的であるが故に、開発のターゲットが京都に向けられるそんな構造があるのである。

 例えば、祇園がいい例だ。四条大橋から八坂神社へ向かう四条通りの両側には駐車場が目立つ。また、空き家も少なくない。いわゆる「東京の地上げ屋」の仕業だという。一極集中の核としての首都東京にまず顕在化し、やがて、地方に波及して行ったバブル経済の猛威は、日本の諸都市をすっかり翻弄してしまったのであるが京都も例外ではないのである。というより、最も翻弄されたのが京都であり、祇園のような町であった。京都を代表する「町」のひとつである祇園。京都の「応接間」といわれるように、接待文化の中心である。芸やマナーの伝統を支えてきた。そうした町で、路線価格がわずか三年で十倍以上に跳ね上がった。例えば、四〇坪の借地の評価額が十億円で相続税は約一億円になる。住民は住めなくなる。それだけではない。舞子さんや芸妓さんのなり手がいなくなる。仕出し屋さんの後継者の問題もある。町家を修理したり、改築したりする大工さんだって危うい。「町」を支える構造が大きく揺らいでいるのである。西陣のような伝統産業の町の衰退は産業構造の転換そのものに関わり、そこでも町の構造そのものが問われているのは同じである。

 1991年秋、「祇園地域の歴史的まちづくりを考える」シンポジウムが開かれたのであるが、大袈裟に言うと、その会場には「東京資本」に対する怨嗟の声が満ちていた。しかし、祇園で起こりつつあることを「東京の地上げ屋」のみのせいにすることは誤りである。また、相続税や地価税など税制のみのせいにするのも誤りである。売るものがいるから買われるのであって、問題の根は地域の中に存在している。言うまでもなく、その根底にあるのは日本の各都市に共通の問題だ。地上げ屋の論理、経済の一元的論理が支配するとすれば、京都は確かにただの「地方都市」になりつつあるといっていいのである。

 何故、京都がターゲットとなるのか。いうまでもなく、それだけの環境資源、歴史資源、地域資源を持っているからである。全国の各都市の問題を象徴するからこそ京都の問題が象徴的に取りあげられるのである。モヒカン刈りの一条山、大文字の裏山などスキャンダラスな問題が頻発するのも、裏返して見れば京都のもつポテンシャルを示すものであろう。

 「京都ホテル」、「JR京都駅」の問題にしてもそうである。高さが象徴的に問題とされるであるが、そこで問われているのは単に高さではない。その根底において問われているのは町づくりの論理であって、経済性という一元的な尺度によって、自然や文化や歴史や景観が切り捨てられていくその論理が激しく問われているのである。

 京都について大谷幸夫は次のようにいう(   )。

 「ごく一般論として言えば、日本の中でまあ一応、最も古い都市でしょ、歴史を持った。だから歴史的文脈とか論理とか、歴史的成果を蓄積されて、あるわけでしょ?・・・都市は事実に基づいて考えろっていう主張から言って最も根拠を持ってる、事実が意味と根拠を持ってるわけよね。その京都でまともな都市計画ができなかったら、日本の都市でどこでできるんだって言いたいわけね。」

 確かにその通りである。

 

 京都オールタナティブ

 具体的な都市、京都について今何が問題なのか。

 京都ホテル、JR京都駅、京都市コンサートホール、京都市勧業会館、和風迎賓館、市庁舎建替、・・・いくつか具体的な建築物の建設をめぐる問題がある。また、高速道路、地下鉄、幹線道路などインフラストラクチャー整備の問題は都市計画の基本問題としてある。また、関西文化学術研究都市の建設、梅小路公園の建設、二条城駅周辺整備事業、京都リサーチパークの建設など開発、再開発の地区整備の課題がある。より構造的な問題としては、経済活性化の問題があり、産業構造のリストラクチャリングの問題がある。「新京都市基本計画」には様々な課題が網羅的に、また、地区毎の課題とともに挙げられているところである(   )。

 こうした様々な都市計画的課題は日本のどの都市においてもそれぞれに問われることではある。しかし、京都には京都故に特権的に課題とし得るテーマがあり、議論がある。新京都市基本計画は、「平成の京づくりー文化首都の中核をめざして」とうたうのであるが、「世界性」、「中心性」のテーマをどう展開するかがまずキーとなる。京都への遷都論、和風迎賓館など首都機能の建設、国際日本文化研究センターの建設、「国際歴史都市研究センター」構想、「国際木の文化研究センター」構想などがそれに関わる。日本の文化の固有性に関わるセンター機能の特権をどう展開するかである。このレヴェルの主張は、京都の新しい経済センターを建設するとか、洛南に新たな都心を造るといった主張とははるかに次元を異にする。京都をめぐる議論がすぐさま錯綜し始めるのは理念としての京都と現実の京都が同一レヴェルで語られるのが常だからである。

 とはいえ、現実の京都をどうするのか、というのは大きな問題である。景観問題がこの間大きくクローズアップされたことが示すように、一方で、大変な危機感があるように見える。しかし、一方で、意外にクールな眼もある。「何も困っていない。何があっても、1200年の京都はびくともしない。」という層も少なくないのである。「京都はこれまでも新しいものを取り入れながら、古いものとの調和を計りながら生きてきた。これからもそうであろう。」という底抜けの京都肯定論である。京都の景観が破壊されることに、より危機感があるのは観光客であったり、観光客に依存する層である。あるいは傍観者としての京都以外の居住者なような気がしないでもない。

 京都肯定論の裏には、かなりニヒリスティックな京都論、京都滅亡論もある。もう手遅れだ、なるようになるしかない、という。しかし、通常、京都の経済的地盤沈下を問題として活性化を訴える京都開発論がそれに対して対置される。というより、現実の京都をつき動かしているのは、開発の波であり、再開発への蠢きである。それに対して、古都の自然や町並みの景観を守ろうという京都保存論がある。もちろん、論議の順序は逆である。京都を開発の波が襲うことによって、京都の景観が失われる。そこで京都の景観を守れ!と声が上がり、それに対して、「景観で飯が食えるか」という活性化論が切り返すというのが構図である。

 そこで問題なのは議論が極めて単純化されることである。京都開発論に対して、京都凍結論が出される。木造都市復元再生論が出される。地下都市論が出される。京都博物館化が訴えられる。いずれも極論である。京都の完全な木造都市としての復興、完全地中化の主張など「保存」という名の大変な開発論である。一方、京都を更地にしてしまおうという活性化論などないのである。保存と開発という二分法が決して有効ではないことは明白であるにも関わらず、極論の提示によって議論が閉鎖される。思考の怠慢である。

 南部開発、北部保存という緩やかな了解も同じ様な単純化がある。南北一体化が一方で大声で主張される(   )のは京都がそれ自身、南北問題、洛中ー洛外問題を抱えているからである。北部は保存、南部は開発と決めつけるにはいかないし、また、単純な一体化もそう簡単ではないのである。

 建築物の高さだけが問題とされるのであるが、これまた議論の単純化である。何がどこからどのように見えないといけないのか、そんな議論が少しも深まらない。京都ホテルやJR京都駅以前に既に問題は顕在化していた筈であるにも関わらず、何故、より一般的な問題として突き詰められないのか。例えば、町家再生の問題がある。町家を何故再生しなければならないのか。再生すべき町家とは何か。基本的な議論が一般化されていない。また、それ以前に、町家の町並みがガタガタに崩れていくメカニズム(経済原理、税制、消防法など法・制度)は誰もが指摘するけど一向にメスが入らない。単純化した主張は確かにわかりやすくセンセーショナルではあるけれど、一方で、現実の様々な矛盾を覆い隠してしまうのである。

 そこで何が必要とされるのか。ひとつには強力なリーダーシップである。歴史的にみても、あるいは近い例としてミッテランのグラン・プロジェをみても、思い切った都市計画の実現には巨大な権力が必要とされる(   )。しかし、おそらく、それは京都には、あるいは日本には馴染まないだろう。可能性があるとすれば、京都のこれからの壮大なヴィジョンとして、可能な限り英知を集めたコミッティーによって立案されたプログラムをしかるべきプロセスにおいてオーソライズし、建都1300年に向けて着実に実行していくというシナリオである。 

 しかし、何よりも必要なのは個別の具体的な実践である。日本の都市計画が最悪なのは決定のプロセスが不透明で曖昧なことである(   )。オープンな議論の上でしかるべき機関とプロセスにおいて決定し、実践する、そうした回路が不可欠である。個々のモニュメンタルな建築物の建設についても開かれた場における徹底した議論が必要である。議論が曖昧なまま中途半端な形で残されたまま事態が進行していくのは実に不健康なことである。

 数々の提案は以上にみたように既にある。また、様々なまちづくりのグループも多い。そうだとすれば何が必要か。都市計画のためのユニークな仕組みを創り出しうるかどうかこそが京都に今問われていると言えはしないか。同じ制度同じ手法を前提にする限り、これまでの遺産という特権が残されるだけである。遺産を食いつぶしていくのもいい。ただ、新たな遺産を創り出していく仕組みの再構築がなされないとすれば建都1300年にはもしかすると京都は京都でなくなっているかもしれない。わずか2年の観光客の眼にはそんな根拠の無い不安も沸きつつある。

 

 

註1 赤瀬川原平 藤森照信他 新潮社    

註2 川崎清 小林正美 大森正夫 鹿島出版会    

註3 脇田祥尚 「祇園山鉾町周辺の伝統と変容」(「京都 歩く・見る・聞く①」 『群居』30号     月)

註4 青井哲人 「伏見へ出る?」(「京都 歩く・見る・聞く②」 『群居』31号       月)

註5 堀 喜幸 「遊里めぐり」(「京都 歩く・見る・聞く③」 『群居』32号     月)

註6 荒 仁 「「京の横断面」ー三条通りを歩く」(「京都 歩く・見る・聞く④」 『群居』33号     月)

註7 鎌田啓介 「鴨川を行く」(「京都 歩く・見る・聞く⑤」 『群居』34号       月)

註8 吉田守男 「奈良・京都はどうして空襲をまぬかれたか」『世界』   号、   

註9  井ケ田良治、原田久美子編 『京都府の百年』、山川出版社、   

註10 坂口安吾 「日本文化史観」、坂口安吾著作集、ちくま文庫 

註11 堀 貞一郎 「完全なテーマ・パーク=京都を」、『京都2001年ー私の京都論』所収、かもがわ出版、   

註12 林屋辰三郎 『町衆』、中公新書、   

註13  地蔵盆とコミュニティー組織についてはいくつか研究があるが、地蔵信仰と地蔵の配置をめぐっては、竹内泰君が「聖祠論」として研究中である。

*14 中村淳 「歴史的都市における地域コミュニティーに関する研究」(    年度 京都大学修士論文)

*15 大谷幸夫 「時日に基づかない都市計画」、『建築思潮』02号、学芸出版社、   

*16 京都市企画調整局、    月。本特集の内田俊一京都市助役(前企画調整局長)論文参照。

*17 京都南北一体化研究会、『京都が蘇るー南北一体化への提言』、学芸出版社、   

*18 磯崎新・原広司、「消滅する都市」、『建築思潮』02、    年。および本特集巻頭対談参照。

*19 拙稿 「都市計画という妖怪」、『建築思潮』02、     

2023年8月25日金曜日

ナイアガラ・ホテル,at,デルファイ研究所,199402

  ナイアガラ・ホテル,at,デルファイ研究所,199402


ナイアガラ・ホテル   ラワン         東ジャワ インドネシア         布野修司

 

 東ジャワ、スラバヤの南九十キロのところにマランという町がある。十八世紀にコーヒー生産のセンターとして大きくなった都市だ。中心部のアルン・アルン(広場)の回りには、庁舎、学校、教会などオランダ時代の建造物が残されている。気候は年中日本の春のようで過ごしやすい。第二次世界大戦中にはスラバヤに上陸した日本軍がここに軍営を置き駐屯している。沿岸部の大都市住民にとっては高原の避暑地である。あるいはスラバヤに野菜などを供給する後背都市である。

 マラン近郊はかってはヒンドゥー王国の中心地域であった。東ジャワ期のヒンドゥー遺跡が数多く残っている。チャンディ・バドゥット(九世紀)、チャンディ・グヌン・ガンシール(十世紀)、チャンディ・キダル(十三世紀)、チャンディ・ジャゴ(十三世紀)、チャンディ・ジャウィ(十四世紀)、チャンディ・シンゴサリ(十四世紀)などがそうである。

 そのマランの北、一八キロのところにラワン      という町がある。今はスラバヤーマランハイウエイがすぐ側を走っている。ボゴールの植物園のブランチであるプルウォダディ・ガーデンを除いて見るものは少ないのだが、ここにナイアガラ・ホテルというちょっとした掘り出し物の建築がある。ストモ通りにある五階建てのアール・ヌーヴォーのホテルである。

 アール・ヌーヴォーの建築はインドネシアでは珍しいが、こんな田舎にと不思議な気がする。聞けば、一九一八年にブラジルの建築家によって建てられたという。このナイアガラ・ホテルの建設にはどんな物語が秘められているのであろうか。ますます不思議さはつのる。

 以前は大邸宅、マンションであったらしい。エコノミークラスの部屋にはバスがついていない。もともとあった数多くの部屋を利用してホテルに改造したのである。居間がロビーに転用されている。ステンド・グラス、木彫、階段の手摺、相当なレヴェルである。どうやって職人を集めたのか。周辺にはすぐれたクラフトマンが存在していたのであろうか。木彫りの彫刻などは土着の職人のものに違いない。

 一九一八年に五階建ての建造物である。その頃、スラバヤ、ジャカルタだって五階建ての建物はほとんどなかったのである。実に不思議だ。

 屋上に登るとアルジュナ山が東に見える。西には、三六七六mのスメル山がある。ジャワ島は本州の半分ぐらいであろうか、そこに三千メートル級の山が沢山ある。スメル山はもちろん、メール(マハメール)山からきている。須弥山だ。ヒンドゥー教の聖山である。一九一一年、一九四六年と爆発、活火山である。そしてまた、ブロモ山がある。東ジャワで最も美しいとされ有名なカルデラ火山である。屋上からの眺めは抜群だ。名前の知れないブラジルからの建築は絶対意識したに違いない。

2023年3月23日木曜日

2023年2月8日水曜日

木匠塾 第四回インタ-ユニヴァ-シティ・サマ-スク-ル,雑木林の世界62,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センターセンタ-,199410

 木匠塾 第四回インタ-ユニヴァ-シティ・サマ-スク-ル,雑木林の世界62,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センターセンタ-,199410

雑木林の世界62

木匠塾

第四回インターユニヴァーシティー・サマースクール

 

                布野修司

 

 木匠塾(岐阜県高根村)の第四回インターユニヴァーシティー・サマースクールが始まった(8月2日)。2日に先発隊が宿舎整備を行い、3日に開校式。レクチャー等は例年通りであるが、今年は実習のプログラムが盛り沢山である。4日、以下のリストの各プロジェクトが一斉に動きだしたところだ。ワープロを持ち込んだので日誌の形で実況中継しよう。

 8月4日:①太陽熱利用の温水化装置(芝浦工大)は、上家の屋根を利用。ポンプで水を屋根に揚げて、しし脅しの原理で水を流す実験を行う。②涌き水利用のクーリング装置(芝浦工大)は、恒久施設として施工開始。③工房建設計画(大阪芸術大学 茨城ハウジングアカデミー)は、物置小屋の改修計画。④施設周辺測量(京都大学)は、浜崎一志先生(京都大学)指導の最新コンピューター測量である。基準点を固定するためにモルタルを使う。モルタル用に川砂を採集するところから開始である。⑤施設周辺整備:物見の塔建設、上家、下家連絡通路建設(東洋大学)。⑥浄化槽付きシャワー室建設(千葉大学)は、仮設の足場用のシステムを使用、防水シートと組み合わせてシャワー・ルームをつくる。浄化槽は活性炭が高いので木炭を利用して濾過、とりあえず浸透式で考える。⑦原始入母屋実験住宅建設(京都造形芸術大学)は、試行錯誤を開始。皮を剥く作業が初めてなので苦労する。⑧登り釜建設(京都大学)は、焼き物をやろうと計画。耐火レンガ等調達に出かける。⑨高山祭屋台模型製作(京都造形芸術大学 茨城ハウジングアカデミー)は、毎年試行錯誤。今年は十分の一の臥龍台の図面が手に入った。⑩日本一かがり火まつり屋台改修計画(京都大学 茨城ハウジングアカデミー)は、昨年の部材の確認。黴落としから。⑪修了証焼き印製作(奈良女子大学)は、丸太をバウム・クーヘンのように輪切りする。鋸を使う練習である。

 8月5日:①は据え付け開始。②は完成。③は、床に敷く枕木が届いて、どんどん進行。ほぼ完成。設計、準備とも順調。草木染めを開始。夜には完成パーティー。④は、岩風呂計画等今後の施設計画のためのデータつくりに励む。凧を揚げて上空から撮る凧写真は失敗。⑤は、傾いた舞台を元に戻し、番線を締め直す。⑥は3Sシステムの加工は完了。⑦は準備不足で試行錯誤が続く。丸太の皮剥き、緊結用の番線の作り方、シノの使い方から学習。⑧は、て穴を堀出した。⑨は8日以降開始予定。⑩は、今年は親子格子を付け加える。製作開始。⑪は、焼き印を押し出す。ほぼ出来た。

 8月6日:日本一かがり火まつり。昨晩から、その準備で大童。今年のメニューは、焼き鳥、蛸焼き、おでん、ビールに地酒である。焼き鳥は一千本、昨晩、午前一時までかかって串刺しを用意した。かがり火祭りはすごい。地上高く燃え上がる三基の他に、点々と燃える小さなかがり火が効果的に配置されている。最後に打ち上げられる花火も間近に見上げる形で、火の粉が降り懸かってくる迫力だ。今年、飛び入り参加のデンマークからの研究生ハンセン君は、大感激である。みんなで松明をもって行列に参加した。販売の屋台は、もう、戦場である。呼び込みの甲斐もあって、ビールを除けば完売。今年の総売上はどうか。

 8月7日:祭りの興奮醒めやらぬうち、交流スポーツ大会。オケジッタ・グラウンドでの野球大会は、東洋大秋山研究室主体のチームが優勝。広いところで凧写真を再度揚げるも風がなくてまたしても失敗。カメラが少し重い。一方、⑦は、遅れを取り戻すべく、作業続行。夕方までにほぼ完成。夜はバーベキュー・パーティー。桜野功一郎さんの高山祭りについてのレクチャー。後は大宴会。

 8月8日:一日作業。①は、しし脅しの仕掛け完成。完成まで後一歩。③の工房は蜂の巣工房と命名。冬の雪に備えて封鎖。④の測量は施設周辺の測量をほぼ修了。上家と下家の連結部分に集中。コンピュータの威力はすごい。瞬時に三次元の座標を出してくれる。⑥の浄化槽付きシャワー室は木炭が届かないため未完成。千葉大学チームは後を他に託して引き上げる。⑧の登り釜建設が本格的の始まる。穴堀にほぼ一日かける。⑨の高山祭屋台の模型製作も開始。入手した図面を読む。模型材料が足りないか。夜は恒例のロシアン・ルーレットゼミ。誰に当たるか分からない緊張感でゲーム感覚もあるゼミ方式である。

 8月9日:高山へ出かける日。まず、高山祭りの模型(五分の一)を造っているお宅へ行って見せてもらう。その後、飛騨産業で家具の製作工程を見学。高山市内を見て、午後はオークビレッジと森林魁塾の見学。毎年のコースでお世話になっている。京都大学チームは、居残りで、登り窯の製作続行。僕は、京都造形芸術大学の坂本君と屋台模型製作の下準備。午前中に構造部材を揃える。後は、登り窯製作に参加。組積造は、また、柱梁とは全く異なる。耐火煉瓦をレヴェルを合わせながら積んで行くのはなかなか難しい。耐火モルタルを使うのも初めてである。夜は、高根村の荒井さんの「高根村の総合計画」についてのレクチャー。人口八四五人の全国で二七番目の小さな村だとか、色々な悩みを聞く。かがり火祭りにいくらかかっているかなど、色々な質問が飛んだ。

 8月10日:⑧の登り窯チームは、朝五時から作業開始。必死に今年の予定完了を目指す。⑨の高山祭屋台模型製作は、昨晩、チーム編成。一気に完成を目指す。一方で解体作業が進む。①の太陽熱利用の温水化装置は、一応実験成功、シャワーを浴びて、装置分解保存。⑥の浄化槽付きシャワー室建設は、木炭届かず、残念。分解部品保存。⑦の原始入母屋実験住宅は、骨組みだけ残して解体、部品保存。⑧の登り釜は、煙突二五段積みまでついに完成。煙が登る実験ののち越冬のための養生を検討。⑨の高山祭屋台模型製作は、いくつかのパーツは完成するも、組み立てるに至らず、断念。京都造形芸術大学が持ち帰って完成することにする。仕事を終えたチームは、高山へ出かけたり、沢で釣りで楽しんだ。夜はフェアウエル・パーティー。奇想天涯のゲームに楽しく最後の夜を過ごす。灯を消して空を見上げると、満天に無数の星が皆を包むように降り注ぐ感じである。

 8月11日:宿舎後片づけ。修了証書授与。解散式。

 以上、今年も特に大きな事故はなく、ますます充実する木匠塾サマースクールは無事修了したのであった。

    


2023年2月7日火曜日

マスタ-・ア-キテクト制,雑木林の世界61,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199409

 マスタ-・ア-キテクト制,雑木林の世界61,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199409

雑木林の世界61

 マスター・アーキテクト制

 

                布野修司

 

 マスター・アーキテクト制というのを御存知であろうか。耳慣れない造語だから、おそらく一般には知られていないであろう。また、その概念も今のところ明快ではない。

 ところで、その耳慣れないマスター・アーキテクト制についての懇談会が開かれて議論する機会があった。財団法人、建築教育普及センターの主催で講師が磯崎新氏である。建設省住宅局の羽生建築指導課長、青木専門官など少人数の会であり、何故か、僕と芦原太郎氏が加わった(7月13日 於:アークヒルズ)。何故かといっても、多少の理由はある。建築教育普及センターでは、この間、景観をめぐる懇談会をもってきたのであるが、その議論のなかで度々、マスター・アーキテクト制もしくは現行の建築指導システムに変わる新たな仕組みについて議論してきていたからである。

 ところで、マスター・アーキテクト制とは何か。ある建築あるいは都市計画のプロジェクトを、全体デザインを統括するひとりの建築家(マスター・アーキテクト)を指名し、複数の建築家の参加のもとに遂行する。マスター・アーキテクトは、予め、共通のガイドラインを設定し、デザインを方向づけるとともに、各建築家のデザインを指導し、調整する。一般的には以上のように言えばいいであろうか。

 複数の建築家が参加するのであるから、ある程度大規模なプロジェクトであることが前提である。具体的には、住宅都市整備公団の多摩ニュータウン、ベルコリーヌ南大沢で内井昭蔵氏をマスター・アーキテクトとして行われた例がある。また、同じく、内井昭蔵氏をマスター・アーキテクトとする滋賀県立大学のキャンパス計画の例がある。その場合、予め、全体の配置計画と用いる素材や色調などが与えられるといったやり方である。

 こうしたマスター・アーキテクト制は、もう少し一般的に広げて考えてみると、個々の建築と町並みの形成、個々のデザインとアーバン・デザインの関係に適応可能ではないか。先の懇談会は、マスター・アーキテクト制を建築行政の手法として、あるいは都市計画の手法として採用できないか、ということをテーマにしていたのである。

 磯崎新氏は、熊本アートポリスのコミッショナー・システムの提案者である。続いて、富山県でも「町の顔づくり」プロジェクトを仕掛けてきた。また、博多のネクサス・ワールドでは、マスター・アーキテクトに近い役割を果たした。ところで、上で説明したマスター・アーキテクト制と磯崎流のコミッショナーシステムはかなり異なる。懇談会では、マスター・アーキテクトの役割について議論となった。マスター・アーキテクトは何をするのか。

 熊本アートポリスの場合、コミッショナーは、建築家を指名、もしくは選定するのみで、全体をコントロールするマスター・プランを持たない。それに対して、いわゆるマスター・アーキテクト制は、形態や材料、色彩などを規定するガイドラインもしくはマニュアルをもつ。あるいは、マスター・アーキテクトが直接調整の役割をもつ。

 どちらがいいのか。単純には結論がでるわけではない。磯崎の場合、コミッショナーおよび建築家の能力に全幅の信頼がなければ成立しない。下手をすれば、ボス建築家が仕事を配る仕組みとなんらかわりはなくなるのである。その点には大いに危惧がある。一方、マニュアルでデザインのガイドラインを設定する問題点も気になる。懇談会では、デザインの自由、不自由、地(グラウンド)のデザインと図(フィギュア)のデザイン等々をめぐって、議論は大いに広がりを見せた。

 もうひとつの理念として話題になったのが、シティ・アーキテクトあるいはタウン・アーキテクトである。ヨーロッパの場合、各都市にシティ・アーキテクトが居て、強力な権限のもとに建築のデザインをコントロールしている。特に、ドイツにはシュタット・アルキテクトの伝統があるという。磯崎氏の、自らがベルリン、フランクフルト、デュッセルドルフなどで経験した事例は極めて参考になる。ベルリンには、一九世紀のベルリンを理想とするシュタット・アーキテクトがいて、建築家は苦労しているといった事実の一方、B-プラン(地区詳細計画)など極めて厳密に思えるけれど、シュタット・アルキテクトによってはかなりの自由があるのだという。

 シティ・アーキテクトの制度は考えられないか。日本の場合、建築確認に携わる建築主事さんは現在一七〇〇名におよぶという。自治体の数は三千数百であるけれど、どの程度シティ・アーキテクトが存在すればいいのか。大きな自治体では地区毎にマスター・アーキテクトがいるのではないか。任期はどの程度でいいのか。議論はどんどん膨らんでいくのである。

 ひとりの建築家ではなく、デザイン・コミッティのような委員会制の方がいいのではないか。人数が多いと思い切った町の整備ができない恐れがありはしないか。信頼すべき建築にまかした方が面白い町ができるんではないか。しかし、とんでもない町ができた場合だれが責任を取るのか。・・・

 都市計画というのは、実に多様な主体の建築行為によって実践される。その調和を計りながら、個性のある町をつくっていくことは容易なことではない。日本の町の場合、縦割り行政のせいもあって、施策の一貫性がない。

 例えば、ある駅の周辺をとってみる。駅舎は、鉄道会社によってデザインされる。経済性のみで設計されるとすると、どの駅も同じようなデザインになる。駅ビルにデパートが進出すると地元のあるいは駅前の商店街との調整がデザイン的にも要請されるが、調整機構がない。広場や公園、歩道のデザインと駅舎のデザインは無関係に行われる。

 議論は議論として、アーバン・デザインの新たな仕組みを模索しながら、具体的な試みが積み重ねられねばならない。建設省としても、建築教育普及センターを拠点に新しい取り組みを企画中という。

 具体的な地域についてのケーススタディをしたい、そう考えているところで、ささやかなチャンスが得られそうだ。何人かの建築家と一緒に、出雲市の駅前まちづくりを全体的に考え、取り組んでみようというプログラムである。うまく行けば、システムとして、マスター・アーキテクト制を考える大きな手がかりとなる筈である。


2023年2月6日月曜日

東南アジアのエコハウス,雑木林の世界60,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センターセンタ-,199408

 東南アジアのエコハウス,雑木林の世界60,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センターセンタ-,199408

雑木林の世界60 

東南アジア(湿潤熱帯)のエコハウス(環境共生住宅)

 

                布野修司

 

 今年の連休(五月二日~一〇日)は、かねてから通っているインドネシア・ロンボク島のチャクラヌガラの町を歩いた。応地利明先生(京都大学東南アジア研究センター教授)と二人で、聞き取り調査を行ったのである。聞き取り調査といっても簡単なもので、各戸のカーストを聞くのである。バリ人のヒンドゥー社会にはカーストが存在するのである。簡単といっても、町の全域になるから、歩いたのは一日八キロから一〇キロになろうか。カーストの分布図を作ることによって都市計画の初期の範囲がおよそ確定できるのではないかというのがねらいである。

 チャクラヌガラというのは、本欄でかって触れた(「ロンボク島調査」雑木林の世界  )ことがあるけれど、バリ・カランガセム王国の植民都市で18世紀に建設された。その極めて整然とした格子状パターンの都市がどうしてできたのか、探ってきたのである。また、イスラーム教徒とバリ人(ヒンドゥー教徒)の棲み分けに興味があった。ロンボクは三度目であったが、ひと区切りついた。今年中には報告書を書くことになる。

 東南アジア研究も長くなったのであるが、今年は「重点領域研究」として「地域発展の固有論理」を考える研究会(原洋之助(東京大学東洋文化研究所)座長)がある。この一五年で、東南アジアの各国は目ざましい発展を遂げた。また、遂げつつある。東南アジア全域に、普遍原理としての市場原理が浸透しつつあるようにみえる。そうした中で、地域発展の固有の論理というのがありうるのであろうか。地域性というのは存続しうるであろうか。地域の生態系はどうなっていくのか、等々がテーマである。

 また、新しいテーマとして、エコハウスについて考察・考案しようというプログラムがある。旭硝子財団から研究助成を頂くことになったのである。その目的、構想は以下の如くである。

 まず、東南アジアにおける伝統的な住宅生産技術の変容の実態とその問題点を明らかにしたい。この間の伝統的民家、集落の変化は極めて激しい。伝統的な住宅生産技術は大きく変容してきた。まずはその実態を把握する必要がある。特に焦点を当てるのは、次に挙げる四つである。

 ①工業材料および工業部品の導入とそのインパクト

 ②空気調和技術の導入とそのインパクト

 ③施工技術の変容とインパクト

 ④住宅生産組織の変容

 伝統的な住居集落については、これまでテーマにしてきたのであるが、「地域の生態系に基づく新たな住居システム」を具体的に考察するためにさらにつっこんで調査したいということである。

 また、様々な試みの中から具体的な要素技術を収集し、評価する。当面焦点は絞らず、あらゆる分野にまたがってみてみたい。計画技術、材料技術、施工、設備・環境工学のそれぞれに関して、可能な限り情報収集したい。この十数年で東南アジアも大きく変わりつつあり、AIT(アジア工科大学)、マレーシア工科大学、タイ工業技術研究所、スラバヤ工科大学、また、インフォーマル・グループのビルディング・トゲザー(バンコク)、フリーダム・トゥー・ビルド(マニラ)等々、それぞれに取り組みが重ねられているはずである。

 地域産材利用のその後はどうか、リサイクル技術はどのように展開されているか、パッシヴ・クーリングなどはどうか、雨水利用やバイオガスについてはどうか、まず、現状を把握したい。

 ジョクジャカルタにディアン・デサというグループというか財団がある。彼らは伝統的なコミュニティーや技術、生活の知恵をベースとすることによって、ハウジング活動のみならずトータルに農村コミュニティーに関わっていこうとしている。具体的に、例えば、バンブー・セメントによる雨水収集、バイオ・ガス利用の新しい料理用ストーブに関してのアセスメントなどを試みている。一〇年前に出会ったのであるが、その後の展開はどうか。是非、再び訪問して、その経験に学びたいものである。

 先進諸国の取り組みや日本の過去現在の取り組みについても事例を収集する必要がある。竹筋コンクリートについては、日本に何本もの論文がそんざいしているのである。そうした様々な事例を検討しながら、最終的には、湿潤熱帯におけるエコ・ハウス・モデルを提案できればと思う。また、実際に実験的につくってみたい。

 今のところ、以上のような構想とプログラムだけである。建設省建築研究所の小玉祐一郎先生と工学院大学の遠藤和義先生と研究会を始めたところだ。小玉先生は、環境共生住宅については第一人者といっていいと思う。湿潤熱帯のエコハウスについては、取り組みが遅れているということである。遠藤先生は、これを契機に東南アジアの住宅生産組織についての研究を開始したいという。十年ほど前に全国十地域で住宅生産組織研究を一緒に開始した経緯があり、若い研究者を加えて組織的に十年計画でやっていきたいという。楽しみである。

 フィリピンについては、ルザレスさん(京都大学森田研究室)がピナツボ火山の被災者の応急ハウジングの調査を行う。地域産材利用、廃棄物の再利用に興味がある。また、牧紀夫君(京都大学小林研究室)も、災害復興応急住宅についての研究を開始しており、それを手伝う。バリ、フローレスに続いて、リアウ地震(南スマトラ)、ジャワ津波の調査を行う。

 また、研究室の田中麻里さんは、タイの建設現場の飯場の居住環境についての研究(AIT修士論文)に続いてタイの農村部の調査を計画中である。また、脇田祥尚君たちはスンダのバドゥイを調査する予定である。また、吉井君は、建材流通の問題を修士論文にする予定である。

 それぞれの研究テーマを展開しながらも、ある程度組織的に情報が収集できるのではないかと期待しているところである。

 エコハウスのモデルになるのは、おそらく、伝統的な住居集落のあり方とそれを支えてきた仕組みである。ヴァナキュラーなハウジング・システムである。それに何をどう学ぶかが一貫して問われているのだと思う。

 


2023年2月3日金曜日

町全体が「森と木と水の博物館」,雑木林の世界59,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センターセンタ-,199407

 町全体が「森と木と水の博物館」,雑木林の世界59,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センターセンタ-,199407

雑木林の世界59

町全体が「森と木と水の博物館」

鳥取県智頭町のHOPE計画始まる

 

                布野修司

 本誌四月号(雑木林の世界  )でも触れたのだけれど、建設省の「HOPE計画」(地域住宅計画 HO           P      E         )は昨年十周年を迎えた。建設省の施策として1983年に開始され、この10年で、200に迫る自治体がこの施策を導入してきた。地域にこだわる建築家やプランナーであれば、おそらく、どこかの計画に関わった経験がある筈である。そのHOPE計画の十年を記念し、各地の試みを振り返る『十町十色 じゅっちょうといろ HOPE計画の十年』が出版された(HOPE計画推進協議会 財団法人 ベターリビング 丸善 1994年3月)。

 『十町十色』をみると、HOPE計画の内容と各市町村の具体的な取り組みは実に多彩だ。「たば風の吹く里づくり」(北海道江差町)、「遠野住宅物語」(岩手県遠野市)、「だてなまち・だてないえー生きた博物館のまちづくりー」(宮城県登米町)、「蔵の里づくり」(福島県喜多方市)、「良寛の道づくり」(新潟県三条市)、「木の文化都市づくり」(静岡県天竜市)、「春かおるまち」(愛知県西春町、「鬼づくしのまちづくり」(京都府大江町)、「ソーヤレ津山・愛しまち」(岡山県津山市)、「なごみともやいの住まいづくり」(熊本県水俣市)等々、思い思いのスローガンが並ぶ。「たば風」とは、冬の厳しい北風のことである。「もやい」とは、地域の伝統的な相互扶助の活動のことである。地域に固有な何かを探り出し出発点とするのがHOPE計画の基本である。

 その『十町十色』に、「地域の味方」と題して一文を寄稿したのであるが、その最後で次のように書いた。

 「HOPE計画を実際にやってみないかという話しがありました。鳥取県は八頭郡の智頭町です。智頭は杉のまちとして知られます。以前、「智頭杉・日本の家」コンテストの審査で関わったことがあるのですが、その後の智頭活性化グループ(CCPT)のめざましい活動にも注目してきました。少し手がけてみようかなという気になりつつあります。十年後を期待して下さい。」。

 「十年後を期待して下さい」といってはみたものの未だに自信はあるわけではない。しかし、この半年の議論でおよそ方向性が見えてきた。以下に、そのイメージについて記してみよう。HOPE計画策定委員会のまとめではなく、全く個人的な見解である。

 「町全体が「森と木と水の博物館」」で「町民全員が学芸員」というのが基本的なコンセプトなのであるが、


2023年2月2日木曜日

ジャイプルのハヴェリ,雑木林の世界58,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センターセンタ-,199406

 ジャイプルのハヴェリ,雑木林の世界58,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センターセンタ-,199406

雑木林の世界58

ジャイプールのハヴェリ

 

                布野修司

 

 飛騨高山木匠塾の第4回インターユニヴァーシティ・サマースクールの今年の日程が、八月三日から一一日と決まった。八月六日が日本一かがり火祭りで、今年も屋台を出店することになる。施設計画も進められつつあり、財源についても検討しつつあるところだ。プログラムについては、ほぼ昨年と同じとなることを想定しているが、詳細は未定である。  ●期間 一九九四年八月三日(水曜)~八月一一日(木曜)

  ●場所 岐阜県高根村久々野営林署野麦峠製品事業所

 ●主催 飛騨高山木匠塾(塾長 太田邦夫)

 ●後援 名古屋営林局・久々野営林署/日本住宅木材技術センター/高山市/高根村/AF(建築フォーラム)/サイトスペシャルズフォーラム/日本建築学会/日本建築セミナー/木造建築研究フォーラム(以上 予定)

 ○実習

 1。屋台模型制作実習 1/5および原寸部分/2。家具デザインコンペ /3。家具制作/4。足場組立実習/5。施設全体計画立案/6。野外風呂建設 /7。バイオガス・浄化槽研究/8。竈建設/9。測量実習 /10。型枠実習

  ●参加資格 木造建築に関心をもつ人であれば資格は問わない

 ●参加予定 芝浦工業大学・東洋大学・千葉大学・京都大学・工学院大学・大阪芸術大学・京都造形大学・茨城ハウジングアカデミー

 ●参加費 学生 3000円/日(食事代、宿泊費含む)/一般 5000円/日(食事代、宿泊費含む)/但し、シーツ、毛布、枕カヴァーは各自持参のこと。

●連絡先 芝浦工業大学 藤澤研究室(                )/京都大学  西川・布野研究室(            )/千葉大学 安藤研究室(            )/東洋大学 太田・秋山・浦江研究室(            ) 

 

 さて、この春休みにはタイとインドに出かけてきた(三月二〇日~四月五日)。タイは、AIT(アジア工科大学)でレクチャーを行なう以外は特に目的はなかったのであるが、久しぶりにバンコク、チェンマイ、アユタヤを見ることができた。特に懐かしかったのは、ビルディング・トゥゲザーのプロジェクト・サイトを再訪できたことである。このプロジェクトは、インターロッキング・ブロックとPCの梁を組み合わせるビルディング・システムにより、居住者自ら建設に参加する形をとったユニークな試みであったが、その変貌は驚くほどであった。タイの経済水準は随分と高くなった、という印象である。

 ブロック造のニュー・ヴァージョンは、カナダからのルファブル先生を中心とするAIT(ハビテック・パーク)と協力して続けられているのであるが、供給形態としては建て売りの形である。ビルディング・トゥゲザーも変質を迫られたようである。

 本命は、インドのジャイプールであった。インドは初めてである。デリー、チャンディガール(コルビュジェも迫力あるけれど、ロックガーデンもいい)、アーグラ(タージマハール!!)、ファテプルシークリー(アクバルの建築狂)、マトゥラ(クリシュナの聖地)とムガールの都市建築を見て、ジャイプールへというコースである。ジャイプールには、研究室の荒仁(アラジン)君が二月の初めから滞在しており、同じく研究室の青井哲人君と調査の仕上げに駆けつけたというかたちであった。

 ジャイプールと言えば、例のジャンタル・マンタル(天文台)がある。デリーのものより規模が大きい。建築家毛綱毅曠、写真家藤塚光政が組んで出した『不知詠人読み人知らずのデザイン』(TOTO出版 一九九三年)にも取り上げられている。見るのが楽しみであった。しかし、町の方がさらにすごい。興味は、都市計画と都市住居の方にすぐさま移ったのであった。

 ジャイプールの町を計画したのも、ジャンタル・マンタルをつくったジャイ・シンⅡ世である。一八世紀の前半のことである。実際に都市計画に当たったのは、ビジャダル・ナガルであり、ジャイプールはビジャダル・ナガルの町とも呼ばれる。

 その形態は極めて特徴的である。基本は三ブロック×三ブロックのナイン・スクエアなのであるが、北西部が山によって切りとられ、その分、南東部が一ブロックはみ出している。全体は、ヴァストゥ・プルシャ曼陀羅、あるいは、インド古代から伝わる建築書マナサラのプラスタラ・タイプに基づくという説がある。奇妙なことに正南北に対して都市軸がずれている。諸説あるけれど、ジャイプールがあるコスモロジーに基づいて理念的計画された計画都市であることは明かである。

 一辺が八〇〇メートルの一ブロック(チョウクリ)はかなりのスケールである。城壁で囲まれたピンク・シティ(旧市街:建物は赤い砂岩でつくられ、町全体が赤いことからこう呼ばれる)は想像以上に大きい。しかし、住民にとって、このスケールは極めて適切であるということが、歩き始めてすぐにわかった。ブロックの通りには、ありとあらゆる店が並ぶ。幹線道路が交わる交差点は、チョウパルと呼ばれ、マーケットになっている。また、ブロックの内部では様々なものがつくられている。最大でも四〇〇メートル歩けばたいていのものは手に入る。職住近接である。住工混合である。様々な機能が重層しあっている。

 一階にはショップ、その後ろには事務所スペースが置かれる。三階、四階である。その背後に居住スペース。立体的な断面構成も重層的である。しかし、きちんとした型がある。中心になるのは、ハヴェリと呼ばれる中庭形式の住居である。中庭を囲んで、オフィスや店舗がつくられる場合も多い。

 ハヴェリとは邸宅の意であるが、チョウクと呼ばれる中庭を囲んで三層、四層の構成をとる。グジャラートでは、木造であるが、ジャイプールでは組石造である。何人住んでいるか、と問えば百二十人とか、百三十人とか、答が返ってくる。我々には想像ができないかもしれないのであるが、いわゆるジョイント・ファミリー(合同家族)である。屋上は日が落ちれば実に涼しい空間になる。ハヴェリは、高密度居住が可能になる都市型住居である。調査の分析が楽しみである。

 

 


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...