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2023年8月16日水曜日

パダン歴史地区文化遺産復興支援報告書、Shuji Funo,Yasushi TAKEUCHI et al (2009),Report to UNESCO Jakarta, Damage Assessment on Cultural Heritage in West Sumatra,National Research Institute for Cultural Properties, Tokyo,December 2009

Shuji FunoYasushi TAKEUCHI  et  al (2009)Report to UNESCO Jakarta Damage Assessment on Cultural Heritage in West SumatraNational Research Institute for Cultural Properties TokyoDecember 2009

パダン旧市街の歴史的街並み復興計画のための指針および行動計画

Some Recommendations toward the Rehabilitation Programs and Action Plan of Historical Landscape in Kota Lama Padang

都市景観(歴史的文化遺産)の継承と地域コミュニティの再生

Conservation of Urban Landscape (Historical Cultural Heritages) and Revitalization of Community Lives

日本専門家チーム

布野修司(滋賀県立大学)

竹内泰(宮城大学)

 

Ⅳ 復興地区計画のための指針と行動計画

 都市全体のマスタープラン、都市構造に関わる計画については別として、ここでは市街地の復興、地区レベルの復興について、街並み景観を文化遺産として捉える視点から、その指針、理念と具体的行動計画をまとめてみたい。

  震災復興については、住民の生活再建が第一である。そのためには住居に大きな被害を受けた住民については、早急に居住のためのシェルター(空間)が用意される必要がある。今回の調査では、詳細なデータは得られていないが、被災した住居に自力で応急措置を加え、そのまま住み続けるかたちが数多くみられた。完全に倒壊した住居の場合は、居住者は血縁地縁を頼って一時避難するかたちがとられており、パダン市内においては応急仮設住宅はほとんどみられない。被災建物にそのまま住み続ける住民に対しては、まず、安全・安心、快適な生活のための措置を講ずる必要がある。また、一時避難をしている層に対しては住宅再建のための道筋を講ずる必要がある。いずれにしても、従前の生活を従前の居住地で展開できるようにする生活再建プログラムが出発点である。実際、調査期間中においても日々住宅再建が行われ、被災地の景観は日に日に変わりつつある。

 

1 指針

1 コミュニティ主体の復興計画

復興を全て公的な援助に頼ることはできないし、財政の問題もあって現実的ではない。しかし、被災者が自力で復興に取り組むには限界があるし不可能である。また、こうした復興をすべて自助にゆだねることは公的責任の放棄である。ただ、国、自治体が各個人の、また各地区の事情や要求に細かく対応することができないとすれば、復興計画の主体として考えるべきはコミュニティであり、コミュニティによる共助がベースとなる。パダンのアーバン・コミュニティにはそうした相互扶助の精神と仕組みが維持されている。

2 参加による合意形成

 復興計画の立案、実施に当たっては地区住民の参加が不可欠である。計画に当たっては様々な利害調整が必要であり、地区住民の間で合意形成がなされなければ、その実効性が担保されない。コミュニティは、地区住民の参加による合意形成をはかる役割を有している。

3 スモール・スケール・プロジェクト

合意形成のためには、大規模なプロジェクトはなじまない。身近な範囲で復興、居住環境の改善をはかるためには、小規模なプロジェクトを積み重ねるほうがいい。

4 段階的アプローチ

すなわち、ステップ・バイ・ステップのアプローチが必要である。実際、被災地では、様々な形で自力で復興がなされつつある。個々の動きを段階ごとに、一定のルールの下に誘導していくことが望まれる。

5 地区の多様性の維持

地区に地区の歴史があり、また、住民の構成などに個性がある。復興計画は、地区の固有性を尊重し、多様性を許容する方法で実施されるべきである。すなわち、市全体に画一的なやり方は必ずしもなじまない。

6 街並み景観の再生:都市の歴史とその記憶の重要性

地区の固有性を維持していくために、歴史的文化遺産は可能な限り復旧、再生すべきである。阪神淡路大震災の場合、被災した建物の瓦礫を早急に廃棄したために、町の景観が全く変わってしまった地区が少なくない。都市は歴史的な時間をかけて形成されるものであり、また、住民の一生にとっても町の雰囲気や景観は貴重な共有財産である。人々の記憶を大切にする再生をめざしたい。

7 コミュニティ・アーキテクトの活用

復興地区計画のためには、コミュニティ住民の要望を聞いて、様々なアドヴァイスを行うまとめやくが必要である。既に、地元大学の教官と学生たちが現地にオフィスを開いて住宅相談にのるヴォランティア活動を行う例が見られるが、そうした人材を各地区に配置する仕組み、援助の仕方が望まれる。

これからはスクラップ・アンド・ビルドだけではなく、建物の寿命を伸ばすことが必要だとされる時代である。建設資材の再利用を積極的に行い、補修、再建技術の蓄積を行うべきであったという反省もある。

 

2 行動計画

 以上のような指針も、具体性を欠いては意味がない。問題となるのは、予算であり、人材である。以下に、しかし、できることから一歩ずつ進めるというのが以上の指針である。以下に、パタン旧市街の復興計画についていくつかの具体的行動計画を示したい。

ここで復興計画の主体として念頭に置くのは、パダン市など自治体とコミュニティ組織であり、中央政府の各部局がそれをサポートする体制である。それらが立案する以下の行動計画を、UNESCOなど国際機関、文化遺産国際協力コンソーシアム、JICAなど各国政府機関、NGOグループ、国際ヴォランティア・グループ、インドネシアとの大学間交流など様々なレベルの協力体制が支える、というのが前提となる理想的なスキームである。また、行動計画を提案するのは、旧市街でも、具体的に焦点を当てているのは、今回調査を行った歴史的建造物が集中するバタン・アラウの周辺地区である。

 

A 緊急対策

    住宅修復・再建技術基準・マニュアルの作成:住宅補修・修復・再建の方法について、基準を早急に検討し、わかりやすいマニュアル書をいくつかの事例を含めて作成(画一的な手法ではなくオールタナティブを示す)、被災居住者とともに建設関連業者にアピールし周知徹底することが必要である。特にレンガ造建物の補強が必要である。日本はレンガ造建物は採用してこなかったこともあって、その補強方法についての経験はほとんどないが、いくつかの方法について提案することは可能である。住宅補修・修復・再建の手法は、単に、応急的対応だけではなく、建物を維持管理していくためにも恒常的なシステムとしても必要とされる。補修・修復の現場施工グループが組織されることが、将来の街並み景観の維持システムにもつながる。住宅補修・修復・再建は、経済対策ともなりうる。至急、住宅補助の制度を実行に移す必要があるが、可能であれば①の住宅改善指針の徹底とリンクするのがベストである。

    重要歴史的建造物のモデル復元:震災後に復元すべきとされる7つの重要建造物のなかに、街並み景観に関するものとして、ショップハウスRukoが2軒(Bola DuniaEs Kompto)含まれている。この復元を①のモデルケースとすることが推奨される。これまでの建築文化を継承しつつ、構造的検討を加えた新しい型の創出を目指す。

   景観形成地区の制定と建景観築ガイドラインの作成:①②とともに、また先立って、各地区の将来像を描く必要がある。パダン市は1998年に、市条例として街並み景観の保存維持することを定め、具体的な地区(バタン・アラウ、カンポン・ポンドック、パサ・ガダン)を挙げている。しかし、具体的なアクションを起こしてきてはいない。まず、重要景観形成地区を指定し、その地区について、街並み景観に関わる高さ、形態、使用建材などについて緩やかなガイドラインをもうけたい。また最低限の建築規制を法制化(高さ、構造基準)したい。

   地区の景観イメージの作成:中長期計画にとって、必要とされるのは地区の将来イメージであり、その方向性については可能な限り早期に合意形成する必要がある。指針の1 コミュニティ主体の復興計画2 参加による合意形成を展開したい。また7 コミュニティ・アーキテクトの活用を考えたい。

 

B 中長期計画

    被災指定歴史建造物の積極活用:②には含まれないけれど、国のレベルで歴史的文化遺産として指定された建造物の多くが被害を受けている。こうした建造物については、復元そのものを目指すのではなく、コンヴァージョンも含めた様々な保存活用が図られるべきである。例えば、バタン・アラウ沿いには多くの被災建物があるが、ウォーターフロントを生かした再開発の潜在的可能性は大きいと考えられる。

    共同建替、地区再開発の検討:比較的余裕のある住民の中には震災によって、移住を決断し、宅地を手放すケースが既に見られる。土地および住民の流動化によって、地区が大きく変化していく可能性がある。また、一方、集合住宅や連棟のショップハウス(店舗併用住宅Ruko)の場合、合意形成に時間を要して、復興が進まないことも想定できる。区画整理、土地のころがしRollingシステムによる宅地の共同化など新たな手法も含めて、パダン市の新たな景観資源、文化遺産となるような地区計画を考えたい。そのためには、例えば、ショップハウスなどいくつかの建築類型についてプロトタイプを設計し、そのビルディング・システムの開発を行う必要もある。

  世界への発信:生活再建のために、住宅再建から開始される復興計画であるが、鍵となり、目標となるのは、地区の持続的な活性化である。歴史的遺産を多く有するパダン旧市街の復興はそれ自体国際的な関心であり、復興過程そのものも国際的に注目されている。ミナンカバウをはじめ多くの民族が居住し育ててきた都市をどう復興するかどうかは、パダン市のみならず、西ジャワ州政府、インドネシア政府にとっても、国のアイデンティティに関わる極めて重要な課題である。復興計画によって、その方法と過程そのものが他のモデルになるよう期待したい。

 


 

2023年8月6日日曜日

東日本大震災復旧復興支援部会・連続シンポジウム第四回報告「復興の原理としての「建築」ーコミュニティ・アーキテクト制をめぐってー」復旧復興支援建築展「建築に何ができるか,できることとできないこと」建築雑誌,201302

東日本大震災復旧復興支援部会・連続シンポジウム第四回報告「復興の原理としての「建築」ーコミュニティ・アーキテクト制をめぐってー」復旧復興支援建築展「建築に何ができるか,できることとできないこと」建築雑誌,201302



 

2023年8月5日土曜日

東日本大震災復旧復興支援部会・連続シンポジウム第三回報告,復興の原理としてのコミュニティーオランダからの提言,建築雑誌,201210

東日本大震災復旧復興支援部会・連続シンポジウム第三回報告,復興の原理としてのコミュニティーオランダからの提言,建築雑誌,201210

東日本大震災復旧復興支援部会・連続シンポジウム報告

「復興の原理としてのコミュニティ-オランダからの提言」

"The Dutch Approach : integrated framework as a principle for reconstruction

 

東日本大震災復旧復興支援部会は、オランダ大使館と共同主催(共催 アーキエイド ArchiAid)のかたちで、75日、建築会館大ホールにおいて、標記の第3回シンポジウムを開催した。以下に、経緯と議論の概要について報告したい。

本シンポジウムの開催は、オランダ大使館の強い働きかけが原動力となった。発災後いち早く完成した南三陸町志津川の番屋をオランダ大使館員が訪問、宮城大学の竹内泰准教授と会談、意見交換した結果、竹内准教授が日本建築学会を紹介したのが発端である。オランダからの支援のあり方について日本建築学会と相談したいということで、大使館に呼ばれて最初に議論したのは2011年の7月であった(布野部会長・宇野幹事参加)。その時点では具体的な話がまとまることはなかったのであるが、今年度に入って、再度会談の申し入れがあり、遅々として進まない復興計画に対して、オランダ人建築家、都市計画家を招いて被災地でワークショップを開催できないかという具体的提案があった。オランダ大使館は、並行して都市計画家協会、アーキエイドなど多方面に働きかけており、復旧復興支援部会のアドヴァイザリー・ボードのメンバーでもある山本理顕氏にも同様の申し入れがあった。被災地には様々な提案や働きかけがあり、混乱を招くことも大いに考えられ、被災地での開催は難しいのではないかと思われるが、とりあえず、東京でシンポジウムを開催して、その可能性を考えようということで一致するに至った。復旧復興部会にとって、興味深く思われたのが、オランダ大使館が是非とも紹介したいという「オランダ式アプローチ」なるものである。

幾度かのやりとりによってまとまったシンポジウムの主旨文は以下である。

「本シンポジウムは、復興まちづくりの何が問題なのかを具体的に明らかにし、どのような過程に基づく、どのような内容の意志決定がなされねばならないか、また、どのような「建築」がなさねればならないか、を考察することを課題とし、各専門分野の垣根を取り除いてプロジェクトを形成、実施するというオランダ式アプローチを学びながら、この課題を考えることを目的とするものである。またこの目的を達成するために、建築家はもとより、土木の専門家、都市計画の専門家、中央政府および地方の復興に関わる専門家そして民間企業のすべての方々に加わっていただき、被災地の未来を拓くため、英知を集めるきっかけになることを期待する。」

国、自治体の担当者の参加が不可欠というオランダ大使館の要請で、井上俊之国交省住宅局審議官、嶋田賢和釜石市副市長、大水敏弘国交省都市局市街地整備課3氏に参加いただくことになった。アーキエイドから小嶋一浩氏(横浜国立大学)を代表として招き、パネル・ディスカッションのモデレーターを山本理顕氏が、総合司会宇野求(建築家)復旧復興支援部会幹事が務めた。

和田章日本建築学会会長の開会挨拶、そして井上審議官による「復興まちづくり・住まいづくりに向けて」に続いて、第一部として、オランダ側からの基調講演を受けた。トン・フェンホーフェン(建築家、オランダ政府インフラストラクチャー主席アドヴァイザー)氏の「オランダ式アプローチ:安全、経済、景観の統合:あるいは土木と都市計画を如何に結合するかIntegrating safety, economy and landscape: the Dutch approachhow to combine civil engineering and city planning」とホス・ファン・アルペン(デルタ委員会事務局)氏の「水、洪水防御と空間計画:オランダの経験と実例Water, flood protection and spatial planning, experiences and examples from the Netherlands」である。

トン・フェンホーフェン氏の講演タイトルに示されるテーマがまさにシンポジウムの核心である。

オランダ政府には空間計画に関する、建築、文化遺産、基幹設備と都市、景観と水管理をそれぞれ担当する4人のアドヴァイザーからなる諮問会議が設けられていること、総合的空間計画として、生業(経済、雇用)、ネットワーク(インフラストラクチャー、エネルギー供給、道路)、地盤(安全、防災)の3つのレイヤーによって空間計画が行われること、研究、設計、連携、対話の過程が長期的ヴィジョンに展開されることなど、興味深い仕組みが具体的な事例とともに提示された。ホス・ファン・アルペン氏の洪水対策を中心としたプレゼンテーションでは、同じように防護、土地利用、避難という3つのレイヤーによるリスク・マネージメントへのアプローチ、自然と共生する堤防建設などデルタ委員会を中心とする仕組みと具体的な事例が提示された。特に興味深かったのは、アトリエ型のワークショップが基本に置かれ、洪水対策について協働することが強調されたことである。

 第二部においては、嶋田賢和(「岩手県釜石市の復興について」)大水敏弘(「復興まちづくりの課題」)、小嶋一浩の各氏からの現場での体験に基づく報告を受けた後、専ら彼我の違いついて議論が展開された。日本とオランダの差はどこにあるのか、日本にもオランダに負けない技術があるにも関わらず、それが豊かな地域社会をつくりあげるのに使われないのは何故か、日本にも多くの人材がいるけれども何故使われないのか、住民との話し合いがなされないのは何故か、畳み掛けるようにパネル・ディスカッションをモデレートしたのは山本理顕氏である。すぐさま指摘されたのは、政府はあまりに縦割りであり、それぞれにマニュアルがつくられて、そのマニュアルと予算がセットになっていること、地方自治体はマニュアルに従うだけになっていること、予算を実行するために事業者をどう使うかのみが問題とされること、具体的に、復興計画が防潮堤、嵩上げ、区画整理といった事業のみで動いていること等々である。

オランダでは、国-州-町が日常的に一体化して計画立案し、実践していく仕組みがある。もちろん、オランダにも様々な問題があり、現在のような仕組みが作られたのであり、実際には様々な問題があるであろう。限られた時間では、細かい点まで確認はされなかったけれど具体的な仕組みについての質疑が積み重ねられた。密度の高いパネル・ディスカッションだったと思う。

全体として浮かび上がったのは、一言で言えば、日本には住民と話しながら町をつくりあげていく仕組みがないということである。コミュニティ・アーキテクト制をめぐる議論についてはさらに深めたいと思う。

 

復旧復興支援部会部会長 布野修司






 




 

2023年2月18日土曜日

都市の記憶・風景の復旧,雑木林の世界78,住宅と木材,199602

 都市の記憶・風景の復旧,雑木林の世界78,住宅と木材,199602

雑木林の世界78 

都市(まち)の記憶 風景の復旧:阪神淡路大震災に学ぶ(2)

布野修司

 

 阪神淡路大震災から一年が経過した。

 大震災をめぐっては、多くの議論がなされてきた。僕自身、被災度調査以降、A市のHS地区の復興計画に巻き込まれながら、そうした議論に加わってきた。参加したシンポジウムもかなりになる。

 そうした中で印象に残るのが、「都市(まち)の記憶 風景の復旧」と題した建築フォーラム(AF)主催のシンポジウムである(一九九五年九月八日 新梅田スカイビル)。磯崎新、原広司、木村俊彦、渡辺豊和をパネラーに、コーディネーターを務めた。千人近くの聴衆を集めた大シンポジウムであった。全記録は、『建築思潮』第4号(学芸出版社)に掲載されているからそれに譲りたい。

 印象に残っている第一は、磯崎新の「まず、全てをもとに戻せ」という発言である。震災復興で何かができるのであれば、震災が来なくてもできるはずである。震災だからこの際できなかったことをという発想には大きな問題があるという指摘である。

 見るところ、大震災によって、都市計画の大きなフレームは変わったわけではない。特別な予算措置がなされるわけでもない。それにも関わらず復興計画に特別な何かを求めるのはおかしいという指摘である。それより、即復旧せよ、というのである。同感であった。

 第二に印象的だったのは、原広司の「都市の問題は住宅の問題だ」という指摘である。基幹構造に多重システムがない等の都市の構造の弱点は、個々の住宅の構造に自律性がないせいである、という。要するに、都市と住宅の構造的欠陥が大震災で露わになったのである。これまた、同感であった。

 A市のHS地区のこの間の復興計画立案の過程を見ていても、上の二つの指摘は鋭いと思う。阪神大震災によって何が変わったかといっても、そうすぐ変わるわけがない。火事場泥棒宜しくうまくやろうといってもそうはいかない。結局、何も本質的なことは動いていない、というのが実感である。

 A市は激震地から離れているけれど、かなり被害を受けた地区がある。震災復興計画として決定された地区は五地区あり、HS地区は、そのひとつである。「文化住宅」の密集地区で、   世帯ある。

 住民のグループから以来を受け、ヴォランティアとして、地区住民の主体性を尊重しながら、できることを援助しようというスタンスで関わっているであるが、この間の経緯は呆然とすることの連続である。特に、行政の傲慢とも見える対応はあきれるほどだ。そうでなくても世代や収入、地区へのこだわりを異にする人々が一致して事業に当たることは容易ではない。権利関係の調整は難しいし、時間もかかる。行政と住民との間で、また住民相互の間で様々な葛藤が生まれ、軋轢が露呈する。剥き出しのエゴがぶつかりあう。まとめるのは至難のわざである。

 ただ、HS地区はそれ以前である。それなりのプロセスにおいて復興計画を研究室でつくったのであるが、ワークショップが開けない。行政当局は邪魔者扱いで、支援グループを排除するのを都市計画決定の条件にする。とんでもない話である。予め線を引いて、要するに案をつくって、住民に認めるか認めないか、という態度である。そういう傲慢かつ頑なな態度で住民がまとまるわけがない。住民組織も疑心暗鬼で四分五裂である。

 「疲れた、もう止めた」、懸命に阪神・淡路大震災の復興計画に取り組む建築家、都市計画プランナーから苦渋の本音が漏れ出しているのはよくわかる。行政当局のやりかたにも相当問題がある。A市にはT地区のように区画整理事業をスムーズに進めている地区もあるから一概に言えないのであるが、一般に住民参加といっても、そういう仕組みもないし、トレーニングもしていないのである。

 自然の力、地区の自律性の必要、重層的な都市構造の大切さ、公園や小学校や病院など公共施設空間の重要性、ヴォランティアの役割、・・・・大震災の教訓について数多くのことがこの一年語られてきた。しかし、大震災の教訓が復興計画に如何に生かされようとしているのか、大いに疑問が湧いてくる。関東大震災後も、戦災復興の時にも、そして、今度の大震災の後も、日本の都市計画は同じようなことを繰り返すだけではないのか。要するに、何も変わらないのではないか。それ以前に何も動いていないのである。

 阪神・淡路大震災によって一体何が変わったのか。大震災がローカルな地震であったことは間違いない。国民総生産に対する被害総額を考えても、関東大震災の方がはるかにウエイトが高かった。震災後二ヶ月経つと、特にオウム真理教の事件が露になって、被災地以外では大震災は忘れ去られたように見える。大震災の最大の教訓は、もしかすると、震災の体験は必ずしも蓄積されないということではないのか、と思えるほどだ。

  しかしもちろん、その都市や建築のあり方について与えた意味は決して小さくない。というより、日本のまちづくりや建築のあり方に根源的な疑問を投げかけたという意味で衝撃的であった。日本の都市のどこにも遍在する問題を地震の一揺れが一瞬のうちに露呈させたのである。そうした意味では、大震災のつきつける基本的な問題は、被災地であろうと被災地でなかろうと関係ない。震災の教訓をどう生かしていくのかは、日本のまちづくりにとって大きなテーマであり続けている。

 今度の大震災がつきつけたのは都市の死というテーマである。そして、その再生というテーマである。被災直後の街の光景にみたのは滅亡する都市のイメージと逞しく再生しようとする都市のイメージの二つである。都市が死ぬことがあるという発見、というにはあまりにも圧倒的な事実は、より原理的に受けとめられなければならないはずである。

 現代都市の死、廃墟を見てしまったからには、これまでとは異なった都市の姿が見えたのでなければならない。復興計画は、当然、これまでにない都市のあり方へと結びついていかねばならない。そこで、都市の歴史、都市の記憶をどう考えるは大きなテーマである。何を復旧すべきか、何を復興すべきか、何を再生すべきか、必然的には都市の固有性、歴史性をどう考えるかが問われるのである。ただそれは、震災があろうとなかろうと常に問われている問題である。都市の歴史的、文化的コンテクストをどう読むか、どう表現するかは、日常的テーマといっていいのである。

 


2022年9月1日木曜日

日本の都市 その死と再生,This is 読売,199602

 日本の都市 その死と再生,This is 読売,199602


日本の都市の死と再生

布野修司

 

 「しんどい、疲れた、もう止めた」。懸命に阪神・淡路大震災の復興計画に取り組んできた建築家、都市計画プランナーから苦渋の本音が漏れ出している。区画整理事業やマンション再建事業、住宅地区改良事業といった復旧復興計画は遅々として進まない。世代や収入、地区へのこだわりを異にする人々が一致して事業に当たることは容易ではないとつくづく思い知らされる。権利関係の調整は難しいし、時間もかかる。行政と住民との間で、また住民相互の間で様々な葛藤が生まれ、軋轢が露呈する。剥き出しのエゴがぶつかりあう、その間に入ってまとめあげるのは至難のわざだ。

 自然の力、地区の自律性の必要、重層的な都市構造の大切さ、公園や小学校や病院など公共施設空間の重要性、ヴォランティアの役割、・・・・大震災の教訓について数多くのことがこの一年語られてきた。しかし、大震災の教訓が復興計画に如何に生かされようとしているのか、といなるいささか疑問が湧いてくる。関東大震災後も、戦災復興の時にも、そして、今度の大震災の後も、日本の都市計画は同じようなことを繰り返すだけではないのか。要するに、何も変わらないのではないか。

 阪神・淡路大震災によって一体何が変わったのか。あるいは変わろうとしているのか。

 大震災がローカルな地震であったことは間違いない。国民総生産に対する被害総額を考えても、関東大震災の方がはるかにウエイトが高かった。震災後二ヶ月経つと、特にオウム真理教の事件が露になって、被災地以外では大震災は忘れ去られたように見える。大震災の最大の教訓は、もしかすると、震災の体験は必ずしも蓄積されないということではないのか。

 しかしもちろん、その都市や建築のあり方について与えた意味は決して小さくない。というより、日本のまちづくりや建築のあり方に根源的な疑問を投げかけたという意味で衝撃的であった。日本の都市のどこにも遍在する問題を地震の一揺れが一瞬のうちに露呈させたのである。そうした意味では、大震災のつきつける基本的な問題は、被災地であろうと被災地でなかろうと関係ない。震災の教訓をどう生かしていくのかは、日本のまちづくりにとって大きなテーマであり続けている。

 

 廃棄される都市・・・・幾重もの受難

 被災地を歩くと活気がない。片づけられた更地(さらち)が点々と続いて人気(ひとけ)の無いせいだ。仮設住宅地も元気がない。活気のあるのは、テント村であり、避難所であり、・・・人々が懸命に住み続けようとする場所だ。人々の生き生きとした生活があってはじめて都市は生き生きとする、当然のことだ。

 とにかく一刻も早く元に戻りたい、復旧したい、依然と同様暮らしたい、というのが、被災を受けた人々の願いである。

 生活の基盤を奪われた被災者にとって、苦難は二重、三重である。全ての避難所は閉鎖されたのであるが、避難生活が終わったわけではない。当初、三〇万人もの人が住む場所を奪われ、避難所生活を強いられたのである。今なお圧倒的な数の人々が仮設住宅などに住み、避難所的生活を強いられていることにそう変わりはない。実際、数千の人々は、テント生活を強いられている。その場所に生活の根拠があり、そこに住み続けるしかない人々がいるのは当然のことだ。被災し、なお、避難生活を強いられ続ける、二重の受難である。

 応急仮設住宅の多くが建設されたのは、都市郊外であり、臨海部である。都心に公園や広場が少なく、仮設住宅を建てる余地がないのは致命的なことであった。仮設住宅地の利便性が悪く、空家が出る。戸数だけ建てればいいというわけではないのだ。

 仮設住宅での老人の孤独死がいくつも報じられる。コミュニティが存在せず、近所つきあいがないせいである。入居に当たって高齢者を優先したのはいいけれど、その生活を支える配慮が全くなされなかった。被災を受けて、さらにコミュニティを奪われる、三重の受難である。

 さらに復興計画ということで、区画整理が行われ、土地の減歩を強いられる。四重の受難である。

 そして、誰も声高に指摘しないのであるが、被災した建造物を無償ということで廃棄したのは決定的なことであった。都市を再生する手がかりを失うことにつながるからだ。五重の受難である。

 特に、木造住宅の場合、再生可能であるという、その最大の特性を生かす機会を奪われてしまった。廃材を使ってでも住み続ける意欲の中に再生の最初のきっかけもあった筈である。何故、鉄筋コンクリートや鉄骨造の建物の再生利用が試みられないのかも不思議である。技術的には様々な復旧方法が可能である。そして、関東大震災以降、新潟地震の場合など、かなりの復旧事例もある。阪神・淡路大震災の場合、少なくとも、再生技術の様々な方法が蓄積されるべきではなかったか。

 阪神・淡路大震災は、人々の生活構造を根底から揺るがし、都市そのものを廃棄物と化した。しかし、それ以前に、われわれの都市は廃棄物として建てられているのではないか、という気もしてくる。建てては壊し、壊しては建てる、阪神・淡路大震災は、スクラップ・アンド・ビルドの日本の都市の体質を浮かび上がらせただけではないか。

 

 文化住宅の悲劇・・・暴かれたもの

 阪神・淡路大震災の発生、避難所生活、応急仮設住宅居住、そして復旧・復興へという過程を見てつくづく感じるのは、日本社会の階層性である。すぐさまホテル住まいに入った層がいる一方で、避難所が閉鎖されて猶、避難生活を続けざるを得ない人たちがいる。間もなく出入りの業者や関連企業の社員に倒壊建物を片づけさせる邸宅がある一方、未だ手つかずの建物がある。びくともしなかった高級住宅街のすぐ隣で数多くの死者を出した地区がある。これほどまでに日本社会は階層的であったのか。

 今回の阪神・淡路大震災で最もダメージを受けたのは、高齢者であり、障害者であり、住宅困窮者であり、外国人であり、要するに社会的弱者であった。結果として、浮き彫りになったのは、都市計画の論理や都市開発戦略がそうした社会の階層性の上に組み立てられてきたことだ。

 ひたすらフロンティアを求める都市拡大政策の影で、都心が見捨てられてきた。山を削って宅地をつくり、その土で海を埋め立て土地をつくる。一石二鳥の投資効果のみが求められ、居住環境整備や防災対策など都心への投資は常に後回しにされてきた。

 最も大きな打撃を受けたのが「文化」である。関西で「ブンカ」というと「文化住宅」という一つの住居形式を意味する。もともとは大正期から昭和初期にかけて展開された生活改善運動、文化生活運動を背景に現れた都市に住む中流階級のための洋風住宅(和洋折衷住宅)を「文化住宅」といったのだが、今日の「文化住宅」は、従来の設備共用型のアパートあるいは長屋に対して、各戸に玄関、台所、便所がつく形式を不動産業者が「文化住宅」と称して宣伝し出したことに由来する。もちろん、第二次大戦後、戦後復興期を経て高度成長期にかけてのことだ。一般的に言えば「木賃(もくちん)アパート」だ。正確には、木造賃貸アパートの設備専用のタイプが「文化」である。「アパート」というと、設備共用のタイプをいう。住戸面積は同じようなものだけれど、専用か共用かの差異を「文化」的といって区別するのである。アイロニカルなニュアンスも込められた独特の言い回しだ。

 その「文化住宅」が大きな被害にあった。木造だったからということではない。木造住宅であっても、震災に耐えた住宅は数しれない。木造住宅が潰れて亡くなった方もいるけれど家具が倒れて(飛んで)亡くなった方が数多い。大震災の教訓は数多いけれど、しっかり設計した建物は総じて問題はなかった。

 「文化住宅」は、築後年数が長く、白蟻や腐食で老朽化したものが多かったため大きな被害を受けた。戦後の住宅政策や都市政策の貧困の裏で、「文化住宅」は、日本の社会を支えてきた。それが最もダメージを受けたのである。それにしても「文化住宅」とは皮肉な命名である。阪神・淡路大震災によって、「文化住宅」の存在という日本の住宅文化の一断面が浮き彫りになったのである。

 

 復興計画の袋小路・・・変わらぬ構造

 各地区の復興計画において、建築や都市の防災性能の強化がうたわれ、防災訓練がより真剣に行われるのは当然のことである。しかし、危機管理や防災対策のみが強調され、まちの生き生きとした再生というテーマが見失われてしまっている。阪神淡路大震災の復興計画と、関東大震災後の復興計画や戦災復興とはどう違うのか。この戦後五〇年の日本のまちづくりは一体何であったのか、と顧みる視点がほとんどない。

 戦災によって木造都市の弱点は痛感された。それ故、防火区域を規定し、基準を作り、都市の不燃化に努めてきた。しかし、なお都市が脆弱であった。直下型地震は想定されていなかった。それ故、さらにひたすら防災機能を強化すべきだ、という。地盤改良や耐震基準の強化、既存構築物の補強、防災公園の建設、区画整理・・・が強調される。同じことの繰り返しである。例えば、区画整理において、なぜ、巾一七メートルの道路が必要なのか、誰も説明できないままに決定される、そんなおかしな事が起こっている。防災ファシズムというべきか。

 立案された復興計画をみると、大復興計画というべき巨大プロジェクト主義が見えかくれしている。。震災とは関係ない以前からの大規模プロジェクトの構想がさりげなく復興計画に含められようとしたりする。国家予算をいかに被災地に配分するかがそこでの焦点である。都市拡大政策の延長である。フロンティアを求めてそこに集中的に投資を行う開発戦略は決して方向転換していないのである。

 震災特需は、建設業者にとって僥倖である。壊して建てる、一石二鳥である。一方で、倒壊した建造物をつくり続けてきた責任、その体制を自ら問うことはない。喉元過ぎれば熱さを忘れる。地震も過ぎ去れば、単なる天災である。その体験はみるみる風化し、忘れ去られていく。もう数百年は来ないであろう、自分が生きている間はもう来ない、という必ずしも根拠のない楽天主義が蔓延してしまっている。

 住宅復興にしても何も変わらない。とにかく戸数主義がある。数さえ供給すればいい、という何も考えない怠惰な思考パターンがそこにある。そこには、これまでのまちづくりのあり方についての反省は必ずしも無いのである。事業手法にしても、計画手法にしても、既存の制度的な枠組み、官僚制の前例主義に捕らわれて、臨機応変の対応ができないのである。

 復興計画において必要なのは、フレキシビリティーである。ステップ・バイ・ステップの取り組みである。予算も臨機応変に組み替えることが必要となる。しかし、そのとっかかりもない。被災者の生活の全体性が忘れ去られている。

 

 都市の死と再生

 今度の大震災がわれわれにつきつけたのは都市の死というテーマである。そして、その再生というテーマである。被災直後の街の光景にわれわれがみたのは滅亡する都市のイメージと逞しく再生しようとする都市のイメージの二つである。都市が死ぬことがあるという発見、というにはあまりにも圧倒的な事実は、より原理的に受けとめられなければならないはずである。

 現代都市はひたすらフロンティアを求めて肥大化してきた。ひたすら移動時間を短縮させるメディアを発達させ集積度を高めてきた。郊外へのスプロールが限界に達するや、空へ、地下へ、海へ、さらにフロンティアを求め、巨大化してきた。山を削って宅地をつくり、その土で海を埋め立て土地をつくる。自然をそこまで苛めて拡大を求める必要があったのか。都市や街区の適正な規模について、あまりに無頓着ではなかったか。

 燃える自宅の炎をただ呆然と見つめるだけという居住地システムの欠陥は致命的である。いくら情報メディアが張り巡らされていても、地区レヴェルの自律システムが余りに弱い。水、ガス、水道というライフラインにしても、地区毎に自律的システムが必要ではないか。交通システム、情報システムにしても、重層的なネットワークを組む必要があるのではないか。

 現代都市の死、廃墟を見てしまったからには、これまでとは異なった都市の姿が見えたのでなければならない。復興計画は、当然、これまでにない都市のあり方へと結びついていかねばならない。

 そこで、都市の歴史、都市の記憶をどう考えるのかは、復興計画の大きなテーマである。何を復旧すべきか、何を復興すべきか、何を再生すべきか、必然的には都市の固有性、歴史性をどう考えるかが問われるのである。

 建造物の再生、復旧が、まず建築家にとって大きな問題となる。同じものを復元すればいいのか、という問いを前にして、建築家は基本的な解答を求められる。震災があろうとなかろうと常に問われている問題である。都市の歴史的、文化的コンテクストをどう読むか、それをどう表現するかは、日常的テーマといっていいのである。

 戦災復興でヨーロッパの都市がそう試みたように、全く元通りに復旧すればいいというのであれば簡単である。しかし、そうした復旧の理念は、日本においてどう考えても共有されそうにない。都市が復旧に値する価値を持っているかどうか、ということに関して疑問は多いのである。すなわち、日本の都市は社会的なストックとして意識されてきていないのである。戦後五〇年で、日本の都市はすぐさま復興を遂げ、驚くほどの変貌を遂げた。しかし、この半世紀が造り上げた後世に残すべき町や建築は何かというと実に心許ないのである。

 スクラップ・アンド・ビルド型の都市でいいということであれば、震災による都市の破壊もスクラップの一つの形態ということでいい。必ずしも、まちづくりについてのパラダイムの変更は必要ないだろう。実際、復興都市計画の枠組みに大きな変更はないのである。

 しかし、都市が本来人々の生活の歴史を刻み、しかも、共有化されたイメージや記憶をもつものだとすれば、物理的にもその手がかりをもつのでなければならない。都市のシンボル的建造物のみならず、ここそこの場所に記憶の種が埋め込まれている必要がある。極めて具体的に、ストック型の都市が目指されるとしたら、復興の理念に再生の理念、建造物の再生利用の概念が含まれていなければならない。否、建築の理念そのものに再生の理念が含まれていなければならない。

 果たして、日本の都市はストックー再生型の都市に転換していくことができるのであろうか。

 都市の骨格、すなわち、アイデンティティーをどうつくりだすことができるか。単に、建造物を凍結的に復元保存すればいいのか、歴史的、地域的な建築様式のステレオタイプをただ用いればいいのか、地域で産する建築材料をただ使えばいいのか、・・・・議論は大震災以前からのものである。

 阪神・淡路大震災は、こうして、日本の建築界の抱えている基本的問題を抉り出す。しかし、その解答への何らかの方向性を見い出す契機になるのかどうかはわからない。

 半世紀後の被災地の姿にその答えは明確となる筈だ。しかし、それ以前に、半世紀前から同じ問いの答えが求められているのである。












2022年7月26日火曜日

スリランカ「ツナミ」遭遇記,スリランカ・ゴールGalleでインド洋大津波に遭遇:現場報告 オランダ要塞に救われた命,みすず,200503

 スリランカ「ツナミ」遭遇記,スリランカ・ゴールGalleでインド洋大津波に遭遇:現場報告 オランダ要塞に救われた命,みすず,200503

インド洋大津波 2004年12月26日 スリランカ・ゴール1 (youtube.com)

投稿: 編集 (blogger.com)

スリランカ・ゴールGalleでインド洋大津波に遭遇:現場報告

オランダ要塞に救われた命

 

 

布野修司

 

 この数年間、われわれの分野では決して少なくない助成金を頂いて、「植民都市研究」と呼ぶ研究プロジェクトを展開してきた。最初の二カ年は英国植民都市をターゲットとし(「植民都市の形成と土着化に関する比較研究Comparative Study on Formation and Domestication of Colonial Cities」(国際学術調査(19971998年度)・研究代表者(布野修司))、続いての三年は、オランダ植民都市(「(植民都市の起源・変容・転成・保全に関する研究Field Research on Origin, Transformation, Alteration and Conservation of Urban Space of Colonial cities)(基盤研究(A)2)(19992001年度)・研究代表者(布野修司))に焦点を絞った。

 この研究成果は、幸いなことに、『近代世界システムと植民都市』(布野修司編著、京都大学学術出版会)という著書としてまとめられることになり、この二月に出版された。そこで扱っているのが、一七世紀から一八世紀にかけてオランダが世界中で建設した植民都市である。まず、アフリカ、アジア、南北アメリカの各地につくられたオランダの商館、要塞など植民地拠点の全てをリストアップした。そして、その都市形態について類型化を試みた。そして、臨地調査を行った都市を中心にいくつかの都市を採り上げて比較した。主な調査都市は、ケープタウン(南アフリカ)、コーチン(インド)、ゴールGalle(スリランカ)、マラッカ(マレーシア)、バタヴィア(ジャカルタ)・スラバヤ(インドネシア)、台湾(ゼーランディア城、プロビンシア城)、エルミナ(ガーナ)、レシフェ(ブラジル)、 パラマリボ(スリナム)、ウイレムシュタッド(キュラソー)である。

 この七〇〇頁にも及ぶ大部の著書の校正(三校)を慌ただしく終えて、スリランカへ旅立ったのが一二月一八日である。この著書で取りあげるべくして、果たせなかったのが、スリランカの諸都市であり、とりわけ、コロンボであり、ジャフナであった。一九八三年以降の内戦、シンハラとタミルの間の対立は度々自爆テロを引き起こし、とても臨地調査を行う事が出来なかったのである。幸い南部のゴールについては、後述するモラトゥア大学のサミタ・マヌワドゥ先生の協力で調査することができ、著書でもかなりの頁を割いた。オランダからイギリスの手にスリランカが渡ると、ゴールからコロンボに拠点は移る。スリランカのオランダ植民都市をゴールで代表させるのは問題ない。ただ、他の中心拠点であったジャフナは見てみたかった。また、コロンボについてはハルツドルフ地区についての調査を開始し始めたところであった。

共同研究者である山本直彦立命館大学講師とともに一二月一八日に日本を発ち、二三日に應地利明先生(滋賀県立大学教授、京都大学名誉教授)とコロンボで合流、二四日にゴールへ向かった。

スリランカに着くと、ジャフナに飛行機が飛ぶという。当初はゴールからジャフナに飛ぶつもりであったが飛行機はコロンボ-ジャフナ間しか飛んでいない。当初の予定通りであったとすればジャフナで津波に遭遇したことになる。應地先生の今回のターゲットのひとつは、古くから東西交易の要であった、インドとスリランカが繋がるアダムズ・ブリッジの付け根にあるマンタイMantai(マントゥータMantota)と聞いていた。ここで「元」の染め付けが見つかれば画期的な発見になる。また、そこにはオランダがつくったマンナールMannar要塞がある。先攻隊として予備調査をしよう、と思い切ってジャフナにまず飛んだ。

そして、LTTI(タミル・イマーム解放の虎)の管轄地を抜けてマンナールへ行くことができた。チェックポイントがきつく、パスポートを発行されるなど、まるで、国の中に国があるようであった。軍事キャンプというのでわれわれはマンタイの調査は断念したのであるが、幸い、ジャフナ要塞もマンナール要塞も見ることが出来た。ただ、ジャフナ要塞など地雷危険の立て札がそこら中に立っており、市街地にも無数の銃弾の跡がある廃屋が数多く残されているだけで、とても調査どころではなかった。今回の大津波で、このジャフナにも多くの死体が流れ着いたというし、スリランカ東北海岸が-その被害の様子はあまり伝わっていないが-、津波の直撃を受け、相当のダメージを受けたのは伝えられるところである。

いささ駆け足であったが、以上の日程をこなし、コロンボに二三日に辿り着くことが出来た。そして、應地先生と予定通り合流、ゴールに向かったのである。二四日、二五日にゴールに宿泊。二六日はマータラMataraへ向かう予定であった。いずれにもオランダ要塞があり、ジャフナ、マンナールとともに今回の調査のターゲットであった。中でも、ゴールの保存状態はよく、世界文化遺産に登録されている。ゴール・フォートは三度目で、丁度五年前のクリスマス・イブにも調査で訪れ一週間滞在したことがあった。初めて訪れる應地先生、山本講師の案内役をかって出たのが今回の旅であった。

 以下、その瞬間からの一日をレポートしよう。

 

一瞬に召された命数知れずああ大津波神のみが知る

 

 当日(運命の一二月二六日)、モラトゥア大学のサミタ・マヌワドゥ教授は九時(日本とスリランカの時差は三時間)にゴールのゲストハウスに迎えに来てくれた。僕が京都大学に赴任した一四年前に研究室に在籍中で、スリランカの古都についての学位論文を仕上げられたところであった。その後、ゴールの調査ではお世話になった。また、一昨年一〇月から昨年六月まで僕の研究室に在外研究員として所属し、歴史都市京都についての研究をされた、そういう仲である。帰国して教授に昇進、スリランカで設計活動を展開する一方、文化財保護、保存修景の分野での第一人者として活躍している。今回の「オランダ植民都市研究」でも有力な共同研究者の一人である。

サミタさんは、コロンボを七時に出発。一〇時までには来る、ということであったけれど、道が空いていて、早く着いたという。この予想外に早く着いたことがひとつの運命の分かれ目であった。二四日に、我々は、四時間以上かかって、コロンボからゴールへ約百キロを移動したのである。このゴール・ロードは今回大きな被害を受けた。一瞬のうちにズタズタに分断されたのである。スリランカ西海岸には、スリランカの生んだ有名建築家ジェフリー・バウアが設計したホテルなど高級リゾート・ホテルが数多く並んでいる。海辺のこれらのホテルは今回大きな被害を被った。

ゴールの手前三〇キロのところにアンバランゴダAmbalangodaというイギリス時代に遡る歴史的町並みが残されているということで、帰りに見よう、と思っていたのだが、全て失われたという。ゴール直前のヒッカドゥアHikkaduaでは列車が脱線、一瞬のうちに千人が死亡したという。幼児がひとり生還、名前とお父さんの名前のみで住所がわからずTVで紹介、おばさんが名乗り出たことを後で知った。

 

転がった列車の中から幼児が生還名前名乗るも住所を知らず

 

 應地先生は、七時に宿を出て、ゴール・フォートの海岸を散歩。調査の時はいつものことだけれど、早起きして朝の光線の中で写真を撮るのと陶磁器片を拾うのが目的である。この根っからのフィールド・サイエンティストにはいつも多くを教えられ、ご一緒するゴールでの数日が楽しみであった。應地先生によると、津波の直前には、ダイバーはじめ、多くの人が海岸にいたという。僕は、これもいつものように、特に仕事ということではなかったけれど、宿でパソコンにむかっていた。陶磁器片を袋に入れて、浜辺で買ったという、シングル・アウトリガーの模型を片手に、應地先生が宿に戻ったのは八時三五分であった。帆船など船の模型の収集は、カウベルの収集とともに應地先生の職業(学問的)的趣味である。サミタさんが宿に着いたときには、「まあ一〇時ぐらいになるんじゃないの」と言いながら、食堂で共に食事中であった。折角早く着いたのだから、九時半出発ということで、準備をし、荷物を車に積もうとしていた九時一五分、異様な声があがり、表へ出ると、路地をすごい勢いで水が押し寄せてくる。

 

高波が襲ったという人の声あるわけないよこの晴天に

突然に水が溢れる晴天にこれが津波と知る由も無し

 

快晴で青空。一瞬思ったのは、水道管の破裂である。

「満月の日」で近隣の人たちは正装してお祭りの準備中だった。高潮で波がフォートの要壁を飛び超えて入ってきたというけれど、信じられない。こんなことは生まれて初めてだ、とフォート生まれの宿の主人は言う。結果的には当然であった。

 よく考えれば、不思議だったが、水はほどなく引いていった。オランダ要塞の排水システムは極めてよく機能したことになる。潮の干満を利用するすぐれたシステムだ。

要塞の中にいたからよかったけれど、海岸部のバンガローだったらひとたまりもなかった。実は、クリスマスのホリデーということで、ゴール・フォート内のホテルは予約で一杯であった。かつて泊まって、蚊に悩まされた、フォート内随一のコロニアル・スタイルのホテル、コロンボのGOH(グランド・オリエンタル・ホテル)と並び称せられたニュー・オリエンタル・ホテルは超高級ホテルに改修中であった。フォートの外に取ろうか迷ったのであるが、折角だからフォート内に泊まりたいと、サミタさんのコネクションで、ようやく小さなゲストハウスを見つけた、というのが経緯であった。これも後から考えるとぞーっとする運命的選択であった。

事件が発生したのは、九時一五分である。振り返って、スマトラ沖地震の発生時間は六時五八分という。二時間ちょっとでゴールを津波が襲ったことになる。直撃されたスマトラのバンダ・アチェなど、瞬時に、街全体が、海水で襲われたことになる。どうしようもなかった、ことはよくわかる。ゴール・フォートは、結果的に、防波堤となってくれたのである。

 

 城壁に人が連なり海を見る氷のように一言も無し

 

状況を何も把握せず、出発すると、要壁の上に人が沢山いて海を見ている。

車を止めて、要壁に登ってみると、ゴミが浮いているのが少し異常なだけで、海は至って静かである―一波と二波の間であった。あるいは最初に引き波が来たとすれば、二波と三波の間だったかもしれない―。ただ、要壁内に誰のだかわからない濡れた男性の靴が転がっており、波をかぶって転げ落ちた母子が放心状態であった。要塞の高さは海面から五メートルある。襲った波は一〇メートル近かったという。

 

道端に座り込んでいる母子の眼宙を彷徨い震えるのみ

 

これは、津波ではないか、地震だ、という應地先生に対して、サミタさんはスリ・ランカには地震がありません、という―スリランカには、『マハーヴァムサMahavamsa』と呼ばれる6世紀に書かれた古事記、日本書紀のような年代記がある。その中に、紀元前3世紀に、津波らしい記録があるという。女王が波にさらわれたという伝説である。だとすると、二二〇〇年ぶりの津波ということになる―翌日には、そうした解説がTVでなされていた―。ゴール・フォート内を回ってみると、東側の低地には水が貯まっている。後で見回って分かったのだが、北の波止場、オールド・ゲートから海水が直接侵入してきたのである。

これは容易な事態ではない、とようやく認識。車を高台に止めて様子を見ることにしたのであった。

 要塞に登って街を見ると、唖然とする光景が広がっていた。

 

気がつくと昨日撮った橋がない津波に飲まれ跡形も無し

気がつけばクリケット場に舟浮かぶフェンス破ってバスもろともに

口々に逃げろと叫ぶ声空し迫り来る二波後ろに気づかず

シュルシュルと獲物を狙う蛇のよう運河を登る津波の早さよ

 

 昨日撮った木造の橋がない。車が横転している。国際クリケット場にボートが浮いている。川からゴミが流れて来て、それを二波が押し返す。街に向かって、みんなが口々に、逃げろ、逃げろ、と叫ぶけれど、声が届くわけはない。

 フォート内には、軍の施設があるが、為す術がない。警察官が、サミタさんの携帯を借りて連絡するけれど通じない。誰かが、「ひとり流されている」、と叫ぶけれど、僕の眼では確認できなかった-。この段階では、多くの人が津波に浚われたとは夢にも思わない―結果的に、二八日段階の新聞報道で、ゴールでの死亡五〇〇人、行方不明一〇〇〇人。帰国後の情報では、二〇〇〇人以上の死体が上がったという。ゴールで日本人は見かけることはなかったのであるが、一人の日本人の遺体が回収されたのは年明けの三日である―。二波あるいは三波が来て、海水はフォート前のエスプラナードを完全に覆うまでに至らなかった。もう少し待てば、なんとかなる、というのが判断である。マータラへ行こうか、コロンボに戻ろうか、と考えていたくらいで、呑気なものである。

一時間ほどして、スマトラ沖の地震だ、というラジオのニュースが口コミで伝わってきた。

 二時間半経って、とにかく、山道でコロンボに戻ろう、と決断。フォートを出て、再び唖然、である。

 

大車横転後転繰り返す押し流されて皆スクラップ

大津波バスを転がし押し流すビルに突っ込みようやく止まる

 

バスが横転してビルに突っ込んでいる。逆さになった車もある。生来の野次馬根性で、写真を撮りたいと、車を降りて夢中になってシャッターを押していると、サミタさんが「先生、危ない!また、波が来る!」と叫ぶ、街の人もいっせいに逃げ出す、あわてて車に飛び乗ったけれど、冷静なサミタさんが、僕が乗るかどうかの瞬間、扉を開けたまま急発進、危うく振り落とされそうであった。逃げまどう人々の間を、警笛をならしながら、一目散に高台に向かったのであった。

 

海岸線全てズタズタ引き裂かれ大型バスが山道塞ぐ

救急車サイレン鳴らし向かい来る命を思って皆道を空ける

 

 山道も海岸から五キロほど離れている程度で、大混乱。明らかに興奮した面持ちの人で溢れていた。また、大型バスが迂回したため、大渋滞。救急車も何台も向かってくる。結局、八時間かけてコロンボに辿り着いたのであった。

 予約のホテルも被災していた。一階は波を浴びて使い物にならない。津波が襲ったのは一二時半だったという。ゴールと三時間の時差があるが、真実だとすると、インド大陸に当たった波が反射したことになる。帰国後の報道では、レンズ効果ということで波が回り込んだというが、コロンボ近辺については違うのではないか。それにしても、津波の速度が時速四〇〇マイル(あるいは時速八〇〇kmともいう)というのには驚く。まるで、飛行機なみの速度である。水が動いているわけではなく、震動が伝わっている、ということをつくづく実感するのである。

 コロンボに帰って、情報が集まり出した。被害の状況も次第にわかってきた。わかるに従って、ぞーっとする、感じがしてくる。サミタさんの到着が一五分遅れれば、また、我々が予定通り九時にマータラへ向けて出発していたら、津波にあっていた。應地先生が、もう少し朝の散策を延ばしていたら、確実に遭難していた。

 スリランカの西海岸は、被害は比較的少ない、と思われたのだが、帰国前に、コロンボからモラトゥアにかけての海岸線をめぐってびっくりした。海岸部には、多くのスクオッター・セツルメント―シャンティ・セツルメント―、貧しい人々の掘っ立て小屋群-があったが、その多くが潰れていた。おそらく、スリランカ(総人口一九〇〇万人)だけで一五〇万人―一月五日段階で八〇万人という―は被災したと思われる。これは大問題である。

 緊急ハウジングなど復興には相当の時間がかかる、というのが直感である。帰国直前二八日に、モラトゥア大学を訪問、工学部長、建築学部長、学科長に会った。プランテーション労働者のためのハウジング・プロジェクトについて議論することになっていたのであるが、すっとんでしまった。スタッフのほとんども、親戚などが被災しているという。

コロンボの街は、弔意の白旗が通りのそこここに掲げられていた。

 

怪我人でごった返しの飛行場痛々しげにその時を語る

パスポート荷物もろとも流されて出国できない空港ロビー

傷ついて緊急帰国安堵の顔全員揃ってチケット獲れて

 

サミタ先生との縁もある。何か、プロジェクトを支援しないといけないかな、という気になっている。一月に入って緊急ハウジング(三〇〇戸)の依頼が来るかも知れないとメールをもらった。帰国直後のサミタ先生のメールは次のように言う。

 

Still I am wondering, who helped to save our life from disaster.

  More than 2000 bodies have been recovered from the vicinity of Galle.