このブログを検索

2025年1月26日日曜日

台湾(921集集)大地震・震災復興計画報告、 上 未だに残る傷跡 ようやく仮設住宅が完成 多様な社区営造(まちづくり)への模索、下 歴史的環境の復興、日刊建設工業新聞、20000413、0414

台湾(921集集)大地震・震災復興計画報告

未だに残る傷跡

ようやく仮設住宅が完成

多様な社区営造(まちづくり)への模索

布野修司

 

 中央研究院でこの九月に開く植民都市に関するシンポジウムの打ち合わせと震災復興の調査を兼ねて台湾を訪れた(三月一六日~二四日)。三月一八日は総統選投票日である。二一日は大地震から丁度半年に当たり、全ての法律の運用を柔軟に適用する緊急命令の期限(二四日)が来る。投票日直前、李遠哲中央研究院院長が民進党陳水扁候補を支持して辞任、中国からミサイルが発射された一九九六年の最初の総統選の際ほどではないにせよ、異様な政治的緊張の中での訪台となった。結果は民進党が辛勝。国民党の分裂選挙による敗北が李登輝の退陣につながったことはご承知の通りである。

 台風の目となったノーベル化学賞受賞者、李遠哲氏は、実は、中華民国社区営造学会会長でもある。この間の社区総体営造(まちづくり)運動をリードしてきた。九二一集集大地震後は、全国民間災後重建連盟の理事長をつとめる。台湾の未来の方向を握る文字通りのキーパースンである。社区営造学会の秘書(事務局)長は、早稲田大学で学んだ台湾大学城郷研究所の陳亮全氏、震災以前より機関誌『新故郷』を刊行し、震災後の復興計画のために二九チームに助成を行っている。以下は、社区営造学会を通じた震災復興活動の最前線についてのレポートである。

 

①社区総体営造の拠点-埔里 

 難航する権利調整-東勢

 総統選投票日前日の四〇万人近く集めた台北サッカー場での民進党の集会はものすごい盛り上がりであった。その大集会が最高潮に達する頃マイクを握ったのが陳其南交通大学教授である。いささか興奮した。前々日の夜再会し、親しく語らったばかりだったからである。陳其南教授は四年前には行政院の文化建設委員会にあり、まさに社区総体営造運動を創始(九四年)した人物である。社区とはコミュニティ(近隣社会)を意味する。移民社会で、基本的に中国人特有の家族主義の強い台湾では、戦後も国民党の強権政治が続いたこともあって、コミュニティの力が弱い。外省人(大陸系)と内省人(台湾人)の対立も根深い。だから、社区営造こそがこれからの重要テーマなのだ、と彼は力説する。

 社区営造学会秘書長の陳亮全、『新故郷』編集委員の曽旭光淡交大学副教授に合ったのは投票日当日であった。震災後の様々な取組みを取材する中で、ひとつの焦点として浮かび上がったのが埔里(南投県)である。一八一人が亡くなった埔里は都市部では東勢(台中県)についで死者の多かった街である。その埔里に新故郷文教基金会が設立され、雑誌『新故郷』が創刊されたのは、震災半年前であった。すなわち、社区営造学会のひとつの拠点は埔里に置かれていたのだ。中心人物は、総編集長廖嘉展氏である。彼は社区総体営造運動に関わるなかで李遠哲氏から雑誌編集の責任者に指名されたのである。

 震災後、「埔里家園重建工作站」がすぐさま組織された。重建とは再建の意である。続いて「婆婆媽媽工作隊」が結成(一〇月一五日)された。婆婆媽媽、おばあさん、おかあさんパワーの結集である。埔里の事務所では十数人の女性がきびきびと飛び回っている。様々な基金を得ながら、住民の要求がまとめられた。まず、緊急の課題になったのが小中学校の復旧である。阪神淡路大震災と違って、学校の被害が致命的であった。各地区の将来像も描かれた段階だ。しかし、物理的再建のみが問題にされているわけではない。「身心安住」「各有其位」(従前の場所に住み続ける)「経済復甦」「人文発展」があって「空間改造」である。そして、「計画的可行性」(実現性)「人力資源的在地化」(地域性)「計画効果的延続性」(持続性)が計画原則とされる。

 全てが順調にいっているわけではない。県政府との関係で対立点も出てきている。全てを失い目標を失って虚脱状態になっている人も多いという。東勢の本街でも権利関係の調整が難航している。こうした社区総体営造の草の根活動は開始されたばかりである。再建も具体的にはこれからだ。三月二四日東勢本街を新総統陳水扁氏が訪れた。本街南平里重建委員会の中心、王昌敏氏が後輩で強力な支援者であるという縁である。李遠哲氏がはっきり支持を表明した民進党の勝利は社区総体営造運動を加速することになろう。

 

②歴史的環境の復興

 仮設住宅の創意工夫

 集集ー日月潭

 震源地集集では三八人が亡くなった。集集鎮全体で全壊一七三六戸、半壊七九二人、合わせて六九パーセントが被害を受けた。中心の街、集集里でも全壊一四三戸、半壊六四戸六一パーセントがダメージを受けた。鉄道は波打つように切断され木造の集集駅は大きく傾いた。工事現場用鉄板で囲われていた。隣の鉄路博物館は傾いたまま放置されている。

 鎮公所(町役場)で鎮長林明水(さんずい)秦に短い時間会った。すこぶる元気でこの震災をむしろ好機と考えて街づくりを展開しようとしていると聞いたからである。倒壊した廟「武昌宮」もそのまま保存して観光資源にするのだという。また、歴史的町並みを復元するのだという。

 一体どういうルールで町並み復興をするのか、と問うと、すぐさま仮設住宅の建ち並ぶ中にある一室へ案内された。建築確認申請の事務所と考えていい。「集集鎮災後住屋重建補助方法」(二月一日公告)によって、施工費(坪当たり三〇〇〇元(約一〇万円)、最高額一五万元)と設計料(平米当たり四〇〇元、最高額五万円)の補助を行うのである。規定は、二メートルのセットバック、勾配瓦屋根(斜屋)の採用などであり、色彩の規定はない。最終的には委員会によって決定される。事務所には、模型の街屋街区が置かれ、三層のモデル住戸プランが示されている。これまで申請があったものは基本的にモデル提案に沿ったものだという。

 震災直後から集集鎮に救援に入ったのは、忠原大学の室内設計系、特教(特別教育)系を中心としたチーム(集集民間重建工作站)である。彼らは現在も月一度訪れ、半壊建物の指導や学童との交流を行っている。彼らはすぐさま文化資産として歴史的建造物の調査を行う(「集集受災歴史建築物調査複勘報告」)。そして、集集歴史建築導覧地図が作られた(二月一九日)。歴史的街区の復元は、その作業に基づいている。

 伝統的文化の継承という意味で興味深いのは原住民集落の復興である。なかでも興味深い試みとして日月潭のタオ族の仮設住宅地建設がある。設計を担当するのは建築家謝英俊氏。現場に事務所を移して陣頭指揮を執る。軽量鉄骨の骨組みに竹で屋根、壁を組むシンプルな構法である。これだと建設に原住民が参加でき、日当も手に入れることが出来る。近接して神戸から送られた仮設住宅が建てられていたが、その思想の違いは明らかである。原住民にとっては単に住空間があればいいというわけではない。具体的には祭祀のための空間が必要である。慈済二村(埔里鎮)という仏教系慈善団体が寄付をした原住民のための仮設住宅地も見たけれど、共通の広場がきちんと設けられていた。仮設住宅地と言えども多様な創意工夫がある。

 

③すっかり禿げた山肌 

 過疎化に悩む農村 

 中寮郷龍安ー魚池郷長寮尾

  台湾では、区域計画法に基づいて、都市区域と非都市区域が分けられている。また農村地区について、郷村区(200人以上)、農村聚落(200人未満)、原住民社区が区別される。今回の大地震の特徴は、多くの農村が被災したことである。全域が都市化していたら、死者二〇〇〇人ではすまず、阪神淡路大震災の死者を遙かに超えたことは間違いない。

 農村部を回るとところどころに傷跡が残っている。道路はがたがたしで、放置されている被災建物も少なくない。仮設居住のためのコンテナがやたらに目立つ。そして、異様なのは山の樹木がずり落ちて黄色い山肌がむき出しになっていることである。大地震は自然の景観もすっかり変えてしまった。

 一七八人がなくなった中寮郷の龍安里、内城里、清水里を東海建築工作隊の徐明松氏の案内で訪れた。彼はイタリアから帰国して台中で事務所を開いたばかりで震災に遭い、以後中寮郷の復興計画に取り組んでいる。週に一、二回は通うという。東海大学では寮郷の他、大里の復興計画に取り組む。また、関華山副教授が原住民集落の復興を担当する。

 龍安でチームはまず全体計画を立てた。村の共同作業場に大きな模型が置かれている。復興住宅のモデルも街家型、農家型がすぐさま用意された。標準設計に従えば設計料を補助するというが、住宅復興はこれからである。半年を経てようやく仮設住宅が竣工した段階だ。また、高齢者のための共同厨房が着工したところであった。

 注目すべきは龍安八景の整備計画である。共同水場の整備をはじめとして、景観的に維持されるべき八景が設定されている。村長とともに村を見下ろす丘に登ったのであるが、彼もまた震災復興を村おこしにつなげる視点をしっかりもっていた。過疎化、高齢化が共通の悩みである。農水路、道路の復旧は第一であるが、農業振興、頭打ちになりつつある檳榔(びんろう)栽培に加えてパイナップル・ワインの開発など熱っぽく語ってくれた。

 農村集落の場合、建築家にとってどう集落景観をつくるのかがテーマだろうと社区総体営造運動の創始者陳其南交通大学教授はいう。七四の農村集落が重点復興村とされているが、そのひとつ陳其南氏が関わる長寮尾(魚池郷)に行ってみた。村の中心に廟があり、その前の集落はほとんど倒壊したままだ。復興支援の県政府のバスが図書館に変わってポツンと取り残されている。まず復興されたのは村の中心となる廟だ。全て顔見知りだったから、誰が居ないかすぐ分かった、全員無事救出できたという。鍵となったのはしっかりしたコミュニティの存在であった。そして、興味深いのは都市と農村との里親-里子制度である。廟の再建に当たって新竹市の全面支援を受けたという。各都市が被災農村を支援するかたちが出来上がっているのである。


  


0 件のコメント:

コメントを投稿

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...