犂と大工道具と露台ー道具学への準備体操,山口昌伴著『地球・道具・考』栞,住まいの図書館,1997
犂と大工道具と露台・・・道具学への準備体操
布野修司
いたって無趣味である。
無趣味というのは大いにコンプレックスの種である。学生諸君と登り窯をつくって陶芸の真似事を始めたのもそのコンプレックスの裏返しに違いない。料理にはいつか手を染めたいと思うのであるが、一向に身につかない。フィールド・ワークにおいて、何が一番大事かというと、食うことである。しかし、その土地土地の食べ物の名前がなかなか頭に入らない。飲む方は別だけれど、飲めば似たようなものだからたいしたことはない。困ったものだ。
例えば、幼い頃から切手だとかマッチ箱だとかコースターだとか集めてみようとするのだけど、一度として長続きがしたことがない。蝶の採集にインドネシアの島々に出かけるなんて話を聞くと心底うらやましく思う。コレクターにはつくづく向いてない。所有するという欲が希薄なせいであろうか。マニアックな体質はどうも僕にはないらしい。困ったものだと思う。きらきら輝くような才能に恵まれないものでも、こつこつとひとつのことを積み重ねていれば、何事かの仕事ができるかもしれないのである。
そういうわけで絶対続くはずはないと思うのであるが、最近、ちょっとしたきっかけで大工道具を集めだした。といっても、全部あわせても二〇いかない。まさに始めたばかりで、どうなるかわからない。第一、置いておくスペースがない。研究室の本棚に置いているのであるがかさばってしようがない。買っても持って帰るのに骨が折れる。第二に、竹中大工道具館のような立派な展示館もあれば、立派な大工道具研究があるから、集めてどうこうしようということではない。
きっかけは、応地利明先生(京都大学東南アジア研究センター教授)である。僕の尊敬する先生のひとりだ。「先生」というと必ず「先生というのはやめましょうや」と、どんな場所でも、会議の席でも飲み会の席でも、必ずおっしゃる、実に気さくな先生である。本当のことをいうと、先生は照れているのではなくて「先生」を軽蔑しているのである。「先生」というのは、書斎に閉じこもって蔵書の山に埋もれ、文献だけを頼りに専門の狭い枠内でのみ論文を書く人のことをいう。応地先生は全く違う。稀代のフィールド派である。真の意味での先生だから、つい先生と言ってしまう。
フィールドからものを考え、組み立てる、その方法を完全に身体化している、京都大学東南アジア研究センターには、そんな先生が少なくないのであるが、応地先生はそうした一人である。つき合い出して一〇年足らずだけれど、フィールドでは随分教わった。
例えば、車に乗るとする。歩き疲れたわれわれは睡魔に襲われウトウトするのが常である。しかし、応地先生はスケッチ・ノートを離さない。緑の小さな手帳である。赤青黒の三色ボールペンでメモをとり続ける。眼に映ったものを時刻とともに記録し続けるのである。小さな字がびっしり並ぶが、驚くべき事に実に綺麗だ。そのまま誰でも読める資料である。早速真似を始めたのであるが、とても駄目だ。車が揺れるから字が震えて書けない。あとから見ると、自分でも読めないのである。相当の技術が必要で訓練がいる。
応地先生はもともと人文地理の出身で特に農業に強い。原生林がどういうものか、焼畑の痕をどう見分けるか、パンの木がどれで、コーヒーの木がどれで、といちいち教わった。図鑑や教科書だけではなかなか頭に入らないけれど現場で見るのが一番いい。僕らはつい建物に眼が行くのであるが、植栽、樹種が区別できるから、それを記録するだけで地域の生態を理解できる。車で移動している間、僕らが昼寝している間にフィールド・ノートが完成してしまう。
もちろん、応地先生の場合、フィールドに終始しているばかりではない。すぐれた論文が何本もある。つい最近出た『絵地図の世界像』(岩波新書)を読んでみて欲しい。知的な興奮に誘われることは間違いない。中世の日本図に描かれた架空の陸地「羅刹(らせつ)国」と「雁道(かりみち)とは何か。一見荒唐無稽な古地図に描かれた不思議な名前を読み説いていく、その筋道はまるで推理小説を読むようだ。今昔物語の分析など見事なものである。一〇年近くもつき合いながら初めて知る話ばかりだ。フィールドの知は実に奥深い。
話は横道にそれたが、そうした応地先生と一緒にフィールド調査をしていると、手伝わされることがある。犂の測定である。犂を見つけると応地先生は必ず写真をとって長さを測るのである。一体何のために、変な趣味だと最初は訝しく思ったのであるが、話を聞けばなるほどである。大袈裟に言えばアジア各地の稲作文化の系譜を解く鍵が犂にあるのである。
アジアにおける家畜・家禽と言えばまず水牛である。稲作のための役畜として欠かせないもので、極めて重要で神聖視される。東南アジアの各地で、水牛の角や頭部の形態がは様々な形でシンボルとして用いられていることがその特別の位置を示していよう。アジアスイギュウは紀元前3000~2500年ころインド北部高原で家畜化されたといわれる。沼沢水牛と河川水牛の二つにグループに分かれ、東南アジアで飼われるのは沼沢水牛である。半水生の動物である。高温多湿の環境を好み、熱帯作業の水田作業に適している。
水田耕作のためには一般には犂を引かせる。犂には様々な形態があるがインド犂と中国犂の二系列あって、インド犂の系列に連なるマレー犂のタイプは二頭で、中国犂の系列は一頭で引かせる。マレー犂は犂底が短く、犂身と犂底の角度は鋭角である。中国犂は犂底が長く、屈曲して前方に伸びる犂くびきが特徴的である。犂を用いず、水牛を水田に追い込んで蹄で田踏みさせる蹄耕を行う地域がマレー半島、スマトラ、ボルネオ、スラウェシ、チモール、ルソン島の低湿地である。
農耕具が文化(カルチャー)、耕作の根幹に関わっているのは当たり前のことである。
だから、建築の場合、大工道具なのだ、というとそうでもない。いずれアジアの大工道具についてまとめてみたい、という大それた気もないわけではないが、きっかけはカウベルである。ある時、インドネシアのロンボク島だったと思うけれど、応地先生が農夫と交渉してカウベルを入手するところを目撃することがあった。アフリカへ行っても、インドへ行っても、必ずそうするのだという。安く手に入る土産(代わり)だとおっしゃる。よし、まねしようと考えて、大工道具を思いついたのである。土産といっても誰も喜ばないけれど、少なくとも旅(調査)の記念品にはなる。いちいち交渉して手に入れるから思い出も深い。
次の日、全く偶然なのだけれど、あぜ道を鉋一丁持って歩いてくる年老いた農夫に出会った。椰子の幹でつくった手作りの鉋で長さ六〇センチもある。鉄の刃を差しただけの全く単純な鉋と呼べない鉋である。ただ使い込んで椰子の木に艶がでだしている。
譲ってくれというと嫌だという。当然である。仕事に行く途中なのである。相場の見当がつかないので、まあ日本円で五〇〇円ぐらいのつもりで一万ルピアを出した。みるみる顔が紅潮するのがわかった。同時に、本気かというような疑いの眼が向けられるのを感じた。金で大事な仕事の道具を買うのか、という眼では結果的にはなかった。こちらが本気だということがわかると、すぐさま鉋を譲ってくれたのである。農民にとって優に一ヶ月分の収入である。
お金を手にすると、彼は奇声をあげ、畦道を飛ぶように走り去った。あっけにとられたのはこちらの方である。宝くじに当たったか、神様に出会ったかのように思えたに違いない。
以後、市場を乱さないように周到に値切るように心がけている。道具に込められた価値観が様々にわかって興味深い。しかし、カウベルならまだいいけれど、使っている道具を買うのはどうもすっきりしない。仕事の邪魔をしてしまうからである。だから、道具や建材屋に行って買うのであるが、これがあんまり面白くない。北京もバリも似たり寄ったりなのである。道具はやはり使い込んで使い手の命が吹き込まれたものがいい。
墨壷、物差し、風水の羅盤、大工道具にも面白いものが沢山ある。彫刻の施された凝った骨董品もあるけれど、今のところ手元に集まったのは以上のように実際使われていたものを強奪したものだ。ネパール、インド、北京、台湾、韓国、インドネシア・・・数が増えないのは、行くところが限られているからである。
ところで、道具といえば、山口昌伴先生である。応地先生のように僕の尊敬する先生のひとりである。同じようにフィールド派である。とにかく、世界中飛び回るそのフットワークにはいつも驚かされる。週末には、外国のホテルで原稿を書く、というスタイルは真似ができない。実にうらやましいと思う。フィールドを御一緒したことはないけれど、話を聞いたことは何度もある。いつもお酒を飲みながらである。色々なことを教えていただくばかりである。フィールド派にはお酒が好きな人が多い。フィールドで得た情報、見たこと聞いたことを肴に議論をする、実に楽しいことである。
フィールド派といっても、ただ、歩いて、見て、聞けばいい、というものではない。フィールドを通じて鍛えられた眼と、その眼を通じて蓄えられた知が大事である。同じ風景を見ても、ぼんくらな眼には何も映らないのである。山口昌伴先生がすごいのは、なにげないものに宿る命(意味)を一瞬にして読みとる眼をもつことである。また、それだからこそ事物の、とりわけ道具をめぐって、あれほどの量の文章が書けてなおつきることがないのである。
僕の場合、空間や建築の構造的な成り立ちに眼がいって、その実の生活を見ていないことが多い。道具はその点、身体の延長であることにおいて生の意味そのものに直接関わる。山口昌伴先生にいつも敬服するのは、その眼によって、空間を志向しながら空虚しか見ていない自分に気づかされるからである。
ところで、大工道具は以上のように中途半端に始めたばかりであるけれど、東南アジアをもう二〇年近く歩いていて気になるのが露台である。露台といってもいろいろあるけれど、家の内外で使われるベンチや寝台、四本足の台のことだ。あるいは東屋であり、倉である。倉や東屋は、道具とは言えないかもしれないけれど、東南アジアの住文化を考える鍵と思えるのである。要するに、床のレヴェルの使い方の問題に興味があるのである。あるいは、様々な建築形式の意味にまだ興味の中心があるのである。
研究室の若い仲間と翻訳したロクサーナ・ウオータソンの『生きている住まいー東南アジア建築人類学』(布野修司監修 アジア都市建築研究会訳 学芸出版社)が実に刺激的である。東南アジアのみならず、中国南部から台湾、場合によると日本を含めて、西はマダガスカルから東はイースター島まで拡がる広大なオーストロネシア世界に様々な共通性があるということをウオータソンは説いている。そのひとつの鍵が高床式住居である。
R・ウォータソンは、次のように書く。
「東南アジアの地域社会においてそれぞれ発達してきた建築様式を一瞥してみると、即座にある類似性が鮮明に浮かび上がってくる。その類似性は、距離的には離れていても、共通の起源をもつことを強く示唆している。……まずは、この共有された物理的特徴のいくつかを見ることから始めよう。これらの特徴のうち、最も明らかなのは高床式の基礎を用いていることである。これは、ごく一般的に、東南アジアの大陸部と島嶼部、またミクロネシア、メラネシアにも見られる建築形式の特色である。しかし、さらに東へ視点を移していくと、ポリネシアにおいてこの特徴は消えてしまう。そこでは、建物は、石の基壇上に造られる事が多い。」
しかし、高床式とは一体何なのか。露台に眼をやる時、別の見方が生まれてくるのではないか。
東南アジアの伝統的建築が高床式であることはよく知られた事実である。しかし、例外がある。今日のジャワとマドゥラ島がそうである。また、バリ島がそうである。また、西ロンボクがそうである。他の例外はあんまり知られていないかもしれない。西イリアンとティモールの高地、そして小さな島であるブル島が、高床式住居の伝統を欠いている。東南アジア大陸部の大部分の地域もまた高床式である。例えば、タイ北部の山間地方においては、地床式住居はごくまれであり、高地の寒気に対応するためか、もしくは、ヤオの例のように中国の影響を受けている場合のみである。
東南アジアといっても、大陸部と島嶼部では環境条件は違うし、自然条件や生態学的条件をみると地域ごとに実に多様である。高床式住居というのは、そうした多様な各地域でそれぞれ独自に造られるようになったのであろうか。それとも、どこかに起源があり、それが次第に伝播していったものであろうか。高床式住居はどのようにして生み出されたのか、その起源は何か、あるいは、どこか、興味深いテーマである。
面白いことに、中部ジャワ、東部ジャワの九世紀から一四世紀に建てられた寺院の壁に描かれるのは全て高床式住居である。ジャワの歴史において、かつては高床式建物が一般的であった事を示している。地床式建物の採用は、一般的にインドの影響と考えられる。ヒンドゥー教圏であり続けるバリでは、穀倉を除いて地床式なのである。
ところがよく見てみると、バリにしてもロンボクにしても、地床式というけれど基壇がある。ベッドや露台がある。ロンボクのササック族は、内部空間を約一メートルの高さの土壇で高くしている。そして、ブルガと呼ばれる東屋を持っている。マドゥラ島にしてもそうである。ランガールと呼ばれる礼拝棟は高床である。また、レンチャクという露台を使っている。
どうも高床だとか地床だとか二分法で捉えてもはじまらないのではないか、と最近思い出している。人は地面や床からの高さをどう使っているのか。高床であれ、地床であれ、床面と床から一尺から一尺五寸の高さ、さらに机・テーブルの高さ、どんな地域でも少なくとも三つのレヴェルを使い分けているのではないか。それを解く鍵が露台のような家具である。
こう思いついて、住空間の人類学を道具の側から組み立ててみたいと、ようやく山口昌伴先生の道具学へ本格的に参入する準備体操を終えつつあるかななどと思いはじめているのである。
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