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2022年12月31日土曜日

2002年1月 一月号が届いた! なんとなくうれしい?  浅川滋雄先生 奔走す 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 『建築雑誌』編集長日誌                          布野修司

 

20021

 一月号が届いた! なんとなくうれしい?

 浅川滋雄先生 奔走す

 

 

200212

編集長日誌200112月分を送ったのは大晦日だった。気分の問題であるが年内に送って新年を迎えたかったのである。

昨日元旦は、東京から大野勝彦・高山和子夫妻と三太君が我が家へ。大野三太君は隈研吾事務所に勤める若き建築家だ。小さい頃から知っているからなつかしいやら年を感じるやら、久々の賑やかな元旦となった。

元旦、今日と意外にメールは少ない。ウイルスが飛び交うと噂されたけどそんなこともない。海外から二通、台湾中央研究院の黄蘭翔と天津・北京の孫躍新。正月からメールを読んでいるようじゃあ駄目だ、と思うけれど便利になったものだ。

編集委員会からの第一メッセージは新居照和さんからであった。暮れの編集委員会で、8月号で「インド亜大陸」を扱うのはどうか、という意見に対して早速動き出してくれたのである。

 

「インド亜大陸建築小特集の件ですが、サグラさん、ドーシさんに電話し、協力をお願いしました。ヴァサンティに下記の英文を作成してもらい、ドーシさんに一昨日メールでお送りしました。私達のコンタクトの中では一番力のある方なので、まずドーシさんから具体的に助言やコンタクト先を頂こうと思っています。
バブル開発と右傾化が強まってくる近年のインド、特に最近のインドの動きは残念なものですが、(荒い言い方ですが、)アメリカ帝国主義的グローバリズムに追随する西洋的視野とその属国日本が露骨にあらわれることに対し、また増大する貧困格差と地球環境時代において、文化の多様性と多様な生への賛歌が表現されたインド遺産の可能性をテーマにすることは、意味があると思います。仏教、ジャイナ、ヒンドゥー、イスラームなどの時代・文化に代表された建築空間のコスモロジー、自然への眼差し、解釈とその宇宙観、とても興味があります。建築の醍醐味でもある、時空を超えて人類の遺産として対話できる建築空間のエッセイを期待したいものです。現代建築は、やはりコルビュジエとカーン、西洋の知性をインドに移植したと言う一方的な観点ではない、そしてインドでの経験がかれらの作品群に大きな影響を与えたことを伺えるものを期待したいと思います。(ドーシさんからは最新のチャンディガールに関する講演録を頂いています。)高齢になりましたが、ドーシさんやコーレアさんがなお、インドの代表的建築家だと思いますが、現代建築を取り上げるなら、日本の文脈からすると、日本のつまらないハウジングより遥かに面白いインドの多様なハウジングをテーマに取り上げたらどうかと思います。(もっとも、ハウジング、集合住宅は別の特集でもあってもいいですね。)以上、私の考える方向ですが、先生が言われた国際的に通用する特集を、とても賛成です。各々のカテゴリーに代表するような建築のエッセイを今日の一級の歴史家、批評家、建築家に分りやすい文で書いて頂くと言うことで、まずドーシさんから紹介して頂き、建築の選択は先生方の意向を尊重しようと思います。助言等、よろしくお願いします。」

 

ヴァサンティというのは新居さんの奥さんでインド出身。新居さんがアーメダバードの建築大学で学んでいる時にドーシの事務所で知り合い結婚された。ドーシはコルビュジェの元で学んでチャンディガールの計画にも携わったインドを代表する近代建築家。アーメダバードと言えば、コルビュジェ、カーンの作品で知られるインドの近代建築のメッカであり、建築大学の設立もドーシさんの尽力による。コレアというのはチャールズ・コレアである。すぐ連絡とれるのがすごい。これから紆余曲折があって特集が固まるのであるが楽しみである。

 

200218

朝日新聞朝刊2面「ひと」の欄にどこかで見たハンサムな顔。編集委員のひとり名古屋大学の福和伸夫先生である。「携帯振動装置「ぶるる」で防災を訴える」というのがコピー。「ぶるる」とは重さ10キロの組み立て式振動装置のことで、先生はいつも講演に持ち運ぶのだという。今年度は専攻主任とかでなかなか出席して頂けないのが残念であったが、今年はいくつかやっていただけることになっている。まずはおそらく防災特集をお考え頂くことになる。

 本日から授業開始。英語の授業Cities in 21st Century。どうもこれが終わらないと、何かが喉につかえたようで新年を迎えた気にならない。今年は、まあ、まあ気持ちよくしゃべれた?

メールでは5月号について小事件突発。思うように執筆の了解が得られないのだ。強気の浅川先生が頭を抱えているのが面白い!? 

6月号の方は、藤田香織委員を中心に黒野、山根、大崎委員の間で順調に議論が続いている。次回には決定できそうだ。

夕方、ひょっこり、山本理顕さんが研究室に。山本理顕さんとは大学院の学生時代からの、従ってデビュー以前からの、長~いつき合いだ。東洋大学では一緒に設計製図をみた。太田邦夫委員会では同じ編集委員であった。最終の新幹線で横浜に帰れればいい、という。当然のように、ちょっとだけ新年会、ということになった。そう話している間にも、伊東豊雄さんから理顕さんの携帯に通話が二度三度入る。明日の都市基盤整備公団との仕事の打ち合わせという。と不況なのに、さすがに売れっ子は忙しくててんてこ舞いの様子だ。「東雲(しののめ)」で2000戸のかなり思い切ったプロジェクトが着工間近なのだ。ほぼ解体が決定しつつある都市基盤整備公団、明日の日本の住宅をめぐっては議論すべきことは多い。竹山研究室、高松研究室の学生たちもぞろぞろと参加。10人ぐらいのちょっとしたパーティーになった。

 

200219

 田中琢先生インタビュー。浅川先生、勝山委員と近鉄西大寺駅で待ち合わせて、奈文研の西山さんの運転で先生のお宅に伺う。西山さんは録音と撮影の役をかって出て下さった。

田中先生とは初対面であるが、こちとらよ~く知っている。こうみえても考古学マニアなのだ。出雲主義者である。先生の本には大体眼を通しているし、浅川先生からも尊敬する大先生であることを度々聞かされていたから初対面のような気がしない。たまたま自宅の本棚にあった岩波新書を一冊ポケットに入れて、京都から奈良までの間にざっと眼を通した。奈良文化財研究所の所長の時にまとめられた、浅川先生も一節書いている『古都発掘』(1995)だ。佐原真さんとの編著『考古学の散歩道』『発掘を科学する』ももちろん読んでいる。藤原京と平城京の発掘状況をざっと思い起こした。それにしても考古学は日進月歩である。富本銭は、この本の段階ではまだ厭勝(えんしょう)銭(魔除け招福用)という位置づけだったが、先頃の大量発掘で通貨として使われていたことは間違いなさそうだ。

田中琢先生は定年退官されると、全ての文献を寄贈されて引退を宣言、悠々自適の生活に入られた。年寄りがしゃしゃり出て後進の道をふさいではあかん、という。浅川先生によると、同じ趣旨を掲げて60歳で自殺した考古学者ゴードン・チャイルドに倣う、のだという。その先生を引っ張り出そうというのだから、浅川先生も相当なものだが、インタビューを受けて頂いた先生には感謝の言葉もない。よほどの師弟関係が推察されたが、事実、肝胆相照らす師弟のように思えた。

インタビューのテーマはズバリこうだ。

●縄文都市、弥生都市というのはありうるのか。都市とは何か。日本の都市の始まりをどう考えるのか。

 ●当然話題は考古学と建築史の関係に及ぶであろう。そして遺跡整備のあり方にも及ぶであろう。

浅川先生は昨年11月末に出たばかりの小泉龍人著『都市誕生の考古学』(同成社)を持参、やる気満々である。小泉先生にも特集には参加願う予定だ。その著書の冒頭にもチャイルドの『都市革命』(The Urban Revolution)が引かれている。チャイルドは、1規模、2居住者層、3租税、4記念建造物、5支配階級、6文字、7科学技術、8芸術、9長距離交易、10」専門工人を都市の定義として挙げている。余剰説、神殿説、防御説、そして権力説、都市の起源をめぐって諸説はあるが、西アジアの都市モデルは果たしてアジア全域において通用するのか、大きなテーマである。

昨晩作ったという浅川先生の質問メモは多岐にわたるというより、この大家かから大きな志と初心のようなものをストレートに引き出したい、という意欲に溢れたものであった。

 あっという間に時間は過ぎた。僕も勝山さんも楽しく口を挟んだ。ご迷惑を考えてお暇しようとすると、雑談していけ!、でしばしまた話が弾んだ。

 先生の家を辞した後、浅川先生、折角東京から足を運んでくださったからと勝山さんを東院庭園と朱雀門へ案内。もちろん、便乗。名解説を楽しむ。掃除をしていたおじちゃん、おばちゃんから浅川先生は親しげに声をかけられる。その後、ちょっと時間は早いけど、と三人で編集会議兼新年会。

 

2002115

 京都の「環境市民」の公開講座に呼ばれて「本当に豊かな住まいとは-共に生きる・自由に生きる-」と題して話す。「環境市民」は、滋賀、東海にも拠点をもつNPOである。「持続可能なコミュニティへの提案・・・各地の取組から考える」の第4回、会場は旧有隣小学校で京のアジェンダ21フォーラム会議室。京都は小学校の統廃合の後、再利用計画を待っている小学校がいくつかあるがそのひとつで、今はいくつかの団体が使用している。環境市民エコシティー研究会に風岡宗人さんという若き実践家がいて頼もしい。京都CDLとも連携しましょう、ということになった。

 

2002117

 第7回編集委員会。5月号特集に絡んで大室幹雄『劇場都市』を新幹線の中で読み直し始めた。この際、全部読もうと『滑稽』『正名と狂言』『パノラマの帝国』『干潟幻想』『園林都市』など発注。昨秋は宮崎市定全集24巻を斜めに読んだ。今年は中国の歴史にはまり込みそうである。

編集委員会は軌道に乗りだした。しかし、時間は足りない。というより時間の配分が難しい。重要な点のみ確認して、後は懇親会とメール会議というスタイルだけれど、今回も常設欄と建築年報(9月号)の議論が突っ込んでできなかった。司会する僕のせいだ。

今回の議論のメインは6月号「木質構造デザインの可能性」(仮)である。6月号の議論の前に5月号が「都市と都市以前----アジア古代の集住構造」(仮)となったことを報告、了承を求めた。建築遺産の復元をめぐっては掘り下げるべき問題が少なくない。しかし、今回はいささか準備不足、力不足ということである。その分特集テーマはすっきりしたと思う。

6月号は、小特集24頁の月であり、メール会議でほぼ煮詰まっていたのでそう問題はなかったが、かなり時間をつかった。実は、企画の議論において新しく知ることも多い。それが会議や懇親会の意義であり、メールのみでは埋めようのない場の経験である。木造建築の動きにはそれなりに通じているつもりであったが、免震木造など知らなかった。

続いて7月号「室内空気汚染問題の今」(仮)を議論、まとめに向かって先は見えた。8月号「インド亜大陸建築」(仮)は新居さんの想いが果てしなくとても頁数に収まりそうにない。

1月号が間に合うかどうか、実は、気になっていた。しかし、小野寺さん、片寄さんに「どうですか」と連絡するのもプレッシャーをかけるようで躊躇われていたのである。驚いたことに、まだ印刷屋には・・・と言われて真っ青になる。しかし、二人はどこか超然としている。まあ、なるようになる、と思うしかない。

懇親会は浅川先生と伊藤圭子さんが超元気。

 

2002120

 日曜日。京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の活動の一環として『京都げのむ』の企画で京都の歴史的、現代的問題物件を視て歩くという。京都タワー、京都駅ビル、和風迎賓館、京都ホテル、御池葬祭場、中京マンションなど、議論されつつある、また、議論の末出来た建築が実際どうなのか、この眼で確かめようという企画だ。思惑があって便乗参加した。

京都タワーに登って京都のまちを俯瞰するのは何度目かだけれど、ますます町家の家並みは少なくなりつつあった。そして暗然とするのは展示の陳腐化であり、タワービルの荒廃(と見えた)であった。

京都駅ビルの調査はスキップして、単独で歩き出した。京都の市街を描いた最古の地図と言われる『都記』に従って、そこに描かれた京都の範囲(境界)を歩いて確認しようというのが思惑である。最近、本居宣長の「在京日記」などを集めた『史料・京都見聞記』全5巻を読んでいて無性に追体験したい気分なのである。

七条通りから歩き始めて渉成園(枳殻邸)の前を通る。間之町通りが『都記』の東の境界である。『都記』には渉成園(1653年)は描かれていないのである。また、二条城に本丸がないから、そしてまだ六条に「けいせい(傾城)町」が書かれているから、『都記』は17世紀中葉以前の制作とされる。

北野天満宮の前身とも言われる文子天満宮前を通った後、東洞院通りを北上すると仏光寺に至る。仏光寺を確認して、『都記』の東境界を歩いた。何のこともない。秀吉が諸寺を集めて防御の楯とした寺町通りを北上することになる。ご存じだろうか。寺町通りの四条以南は今、東京で言えば秋葉原、最先端の電気屋街、コンピューター用品というと出掛けるところである。IT関連の店の間に寺があるのがなんとも面白い。残っている寺を確認しながら、ひたすら歩く。

さすがに京都である。坂本龍馬遭難の場所、新島襄の旧宅、紫式部が源氏物語を書いた寺、・・・猥雑な現代都市の表層を一皮めくれば至る所に歴史の痕跡がある。途中に京都市立歴史博物館があって、なんとまあ京都の地図展を開催中。じっくり見て回る。

問題物件見学をいつのまにか忘れてしまって、気がつけば下鴨神社であった。中村昌生先生による方丈庵の復元など見る。その後、勢いにまかせて家まで歩いてしまった。京都は歩ける町である、というのが実感。

 

2002122

昨日、色刷り校正が届く。思ったより上品な仕上がりだと思う。経緯は以前書いた通りである。果たして諸先輩の反応は如何。

サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)の2002年第一回フォーラム「ファサード・エンジニアリングを支えるガラス工事のスペシャリスト」(於:日刊建設通信新聞社)のために上京。講師は、内木弘一(株式会社内木硝子商会・社長)、 大崎一郎(同社 工事部)、横田暉生(横田外装研究室・主宰)、古阪秀(京都大学 CM協会会長)の4人、司会は理事長安藤正雄(千葉大学)という布陣。超高層がその重要な部分をガラス工事業のスペシャリストの創意工夫に負っていることを知る。驚いたのは、ガラスが割れるということが想定されていないことである。

 

2002127

 日曜日であるにも関わらず、というより日曜日にしか予定が合わず、国立民族学博物館にて佐藤浩司先生オルガナイズによる「マイホームのパースペクティブ:空間のあらたな共有性へ向けて」研究会。

佐藤君とも長~い東南アジア研究のつき合い。10年前には一緒にロンボク島(インドネシア)を調査したことがある。東南アジアの民家研究にどっぷりつかっていると思いきや、最近は韓国の現代住居の問題に集中、韓日共同開催「2002年ソウルスタイル」(321日~7月16日、国立民族学博物館)を組織した。なんと、ソウルの李さん一家の所有するもの全てを買い上げて展示する仰天プロジェクトである。

そして、その問題意識の延長がこの研究会である。日本の住まいは、そして日本の家族はどうなっていくのか、がテーマだ。研究会メンバーは、鷲田清一(哲学)西川祐子、落合恵美子(家族論)、宮台真司(社会学)、香山リカ(精神医学)等々そうそうたるメンバーだ。建築畑からは佐藤、布野の他、山本理顕、隈研吾、井上章一が参加する。また、若い栗原、清水の両君がいる。この日は、隈君とゲストとして三浦展さんがしゃべった。三浦さんとも旧知の仲だ。シンポジウムで同席したことがある。新著『マイホームレス・チャイルド』をひっさげて紹介する若者風俗の最先端が新鮮だった。いわゆるコギャルが誕生したのが1993年、ジベタリアンの出現は1995年だという。

こうしたインタージャンルの研究は頭のリフレッシュには実にいい。刺激的である。そして、建築の世界が閉じている、分かられていない、ということを痛感させられる。日本の家族はどうなるのか、日本の住宅はどうなるのか、は、建築家にとっては大きな問題である。住宅研究の根拠を問うためにも『建築雑誌』の特集テーマとしてもいい、と考え始めている。

 

2002128

 『建築雑誌』1月号が届いた。なんとなく、うれしい。

 

2002年1月30

 浅川さんから27日の座談会の報告。うまくいったらしい。問題は頁数におさまるかどうかである。まあ、編集委員がまず楽しい、興奮する、のが第一である。

  

  「昨日の討論会は、わたしはとても楽しかった。小野寺さんは時間が長くて、はらはらされたことでしょうね・・・ナトーフ文化(旧石器終末)からマケドニアまでいきましたからね・・・・・ 2月7日もおもしろくなるだろう、とわくわくしています。中国に関しては、岡村くんと小生がいるので、なんら問題なし。応地先生には南アジアに集中していただき、その上で中国と比較するようにしたいと思います。」

 

 浅川先生は、この間、鳥取での茅葺き民家の保存でも悪戦苦闘、八面六臂の大活躍である。

  口が滑らかになった勢いで誌面構成についても注文。

誌面については編集委員の中にも意見はいろいろあるあるだろう。何しろ全員初めてみたのである。

 早速、全員にメールを打った。

 

編集委員各位

  1. 1月号はお手元に届いたと思います。如何でしょうか。感想をお寄せ下さい。

    特にアートディレクション、装幀については既に次号以降が進行中です。

   鈴木一誌さんも忌憚のない意見を聞きたいと言うことです。

   多数決で決める性質のものではありませんのでどしどしご意見を編集部宛お送り下さい。

  次回にもご意見をお伺いしますが、早いほうがいいと思います。 

2. 編集委員会は軌道に乗ったと思いますが、まだ議論の時間は若干不足気味です。

   刊行を早めるためにはさらにペースを挙げる必要があります。

   新しい形式が必要とされている、 建築年報9月号について意見下さい。 また、

   2001年度の建築界について取り上げるべき出来事、作品、活動、・・・・・を挙げて下さい。

   各分野についてキーワードをリストアップ下さい。 

3. 特集テーマについて

   2.の作業の上、各委員、再度、提案下さい。 

   以上、年度末へ向けて忙しいとは思いますが、よろしくお願いいたします。

情報化がすすむ現代の住空間,梅棹忠夫・館長対談144,月刊みんぱく,千里文化財団,199001

 情報化がすすむ現代の住空間,梅棹忠夫・館長対談144,月刊みんぱく,千里文化財団,199001










2022年12月29日木曜日

2022年12月28日水曜日

エスキス・ヒヤリングコンペ公開審査方式,雑木林の世界36,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199208

 エスキス・ヒヤリングコンペ公開審査方式,雑木林の世界36,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199208

雑木林の世界36

エスキス・ヒヤリングコンペ・公開審査方式

加茂町文化ホール(仮称)

 

                         布野修司

 

 七月に入って、飛騨高山木匠塾の第二回インター・ユニヴァーシティ・サマースクールが近づいてくる。準備は例によって、藤澤好一先生にお任せなのであるが、今年も賑やかになりそうである。京都大学からは十人が参加、これだけでも昨年の規模を超えるが、一人、二人と問い合わせがあるから、反響もまずまずである。足場組立実習、屋台模型(1/5)製作が楽しみである。

 しかし、それにしても六月は忙しかった。手帳を見直すといささかうんざりする。

 六月一日 中高層ハウジングコンペ、ヒヤリング(長谷工コーポレーション) 東京

 六月三日 日本建築学会近畿支部発表会 大阪

 六月四日 アジア都市建築研究会題 京都

 六月五日~六日 松江市景観シンポジウム「まちの景観を考える」基調講演 松江

 六月一二日 中高層ハウジングコンペ、ヒヤリング(旭化成工業他) 東京

 六月一三日~一四日 NHK教育テレビ特集「C.アレグザンダーの挑戦」収録 東京

 六月一五日~一六日 加茂町文化ホール(仮称)設計者選定委員会。 加茂町(島根県)

 六月一八日 二一世紀日本の国土を考える研究会(建設省官房政策室) 東京

 六月二〇日 東南アジア学研究フォーラム 京都

 六月二三日 特別講義「東南アジアの木造デザイン」(神戸芸術工科大学) 神戸

 六月二五日 アジア都市建築研究会「インドネシアの伝統的民家」(佐藤浩司) 京都

 六月二六日 シンポジウム「バブルが創る都市文化」(中筋修 隈研吾他)コーディネーター 大阪

 六月三〇日 松江市景観対策懇談会 松江

 一体何をやってるんだと叱られそうである。もう少し腰を落ちつけてと思うのであるが、何か得体の知れない流れに流されているというのが実感である。まあ、走りながら考えるしかない。秋にはまた東南アジアのフィールドへ出かけてこの間を振り返る時間をとろうと思う。

 

 さて、加茂町の文化ホールである。

 出雲建築フォーラム(IAF)については、これまで何度か触れた(雑木林の世界09「出雲建築フォーラム」一九九〇年五月、雑木林の世界28「第一回出雲建築展・シンポジウム」一九九一年一二月)。京都には、京都建築フォーラム(KAF)が既にあるし、今年は沖縄建築フォーラム(OAF)とか、東北建築フォーラム(TAF)とかが発足するという。各地域で面白い試みが展開されていく期待があるのであるが、出雲は想像以上の展開である。

 岩國哲人(出雲市長)効果であろうか、出雲では、次々に若い首長が誕生しつつある。加茂町の速水雄一町長もその一人だ。四〇台半ばである。「遊学の里・加茂」をキャッチフレーズに果敢にまちづくりに取り組み始めたところである。

 その一環として、文化ホールの建設を核として新しい何か試みができないか、という相談を受けたのは五月頃のことであった。きっかけは出雲建築フォーラムである。首長が文化施設を施策の目玉にする、というのはどこでもあるパターンである。だから、それだけでなく、その運営も含めて、また、建設のプロセスも含めて、ひとつのイヴェントとしてまちづくりにつなげられないか、というような意欲的な話だった。

 同じく相談を受けた錦織亮雄(JIA中国支部副支部長)、和田喜宥(米子高専)の両先生と相談してやることになったのが、エスキス・ヒヤリングコンペの公開審査方式である。

 いま、建築界では、コンペ(設計競技)のあり方をめぐって、様々なガイドラインが設けられようとしている。日本建築学会や新日本建築家協会(JIA)、建設省で独自の指針がつくられつつあるのである。そうした中で、例えば、林昌二(日建設計)による「採点方式」の提案もある。環境への配慮、使いやすさ、安全への配慮、魅力の度合い、維持費と寿命といったクライテリアで各審査員が採点し、総合点で決めようというのである。若い審査員が他の委員の顔色をうかがわずに採点できるメリットがあるという。

 私見によれば、何をクライテリアにするか、果たして点数化できるか、単に足し算でいいのか、等々、採点方式にはかなりの疑問がある。建築はなによりも総合性が一番だと思うからである。問題は公開性である。公開性の原則さえ維持されれば、異議申し立ても可能になる。審査員も厳しくチェックされる筈である。今回の加茂町文化ホールでは、とにかく審査のプロセスを公開してしまおう、せっかくすぐれた建築家にアイデアを出してもらうのだから、町の人にもどんな文化ホールが欲しいのか一緒に考えてもらおう、というのが素朴な主旨である。うまくいくかどうか、これからの問題である。審査員も大変な能力が要求されるが、とにかくやってみようということになった。当事者ながら、興味深々である。

 エスキス・ヒヤリングというのは、建築家にできるだけ負担をかけないように、最小限のプレゼンテーションのみでいい、という方式であるが、実際は、模型やビデオを用いたプレゼンテーション競争になりがちである。建築家の熱意はそうしたプレゼンテーションに自ずと現れるものであるが、プロの審査員としては当然、実現する建築そのものをきちっと評価できる目が必要である。一方、裏の事情としては、小さな自治体としては指名料をそんなに用意できないという事情がある。今回は、A1版の図面2枚程度で八〇万円という設定になったのであるが、どうであろう。

 加茂町といっても知る人は少ないのだが、宍道湖に面した宍道町に接し、奥出雲の入り口に位置する。その名が暗示するように、京都の上加茂神社の荘園があったところであり、宇治、嵯峨といった京都を見立てた地名がある。それに町内の神原神社から、全国二番目に景初三年銘三角縁神獣鏡が出た土地柄である。すぐ裏は、銅剣が一挙にこれまでに出土した数を超える三百数十本出土して考古学会を驚かせた例の荒神谷である。

 とにかく、出雲と京都に縁のある、出雲建築フォーラムのメンバーおよび第一回出雲建築展への出展者から選んだらどうかというのが僕の意見であった。結果として、指名建築家と決定したのは、亀谷清、高松伸、古屋誠章、山崎泰孝、山本理顕、渡辺豊和の六人である。みな快く引き受けて頂いた。公開ヒヤリングは、十月初旬である。




 


2022年12月27日火曜日

望ましい建築まちなみ景観のあり方研究会,雑木林の世界35,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199207

 望ましい建築まちなみ景観のあり方研究会,雑木林の世界35,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199207

雑木林の世界35

望ましい建築・まちなみ景観のあり方研究会

 

                         布野修司

 

 昨年暮れから今年の五月にかけて「望ましい建築・まちなみ景観のあり方研究会」という数回の集まりの座長をつとめた。建設省の小さな研究会でほとんどノルマのない自由な放談会の趣があったが、「景観問題」について随分と教えられることの多い研究会であった。

 京都は今再び「景観問題」で揺れている。およそ事情が呑み込めてきたのであるが、解れば解るほど難しい。そうしているうちに、松江市(島根県)から「景観対策懇談会」に加わるようにとの話があった。「まちの景観を考える」シンポジウム(6月6日)にも出てきて意見を言って欲しいとのこと。なんとなく、というより、否応なく、「景観」について考えざるを得ない、そんな羽目に陥りつつあるのが近況である。

 何故、景観問題か

 この十年、景観問題が方々で議論されてきている。各地でシンポジウムが開かれ、様々な自治体では、条例や要綱がつくられつつある。全国で半数以上の自治体に都市景観課、都市デザイン室、景観対策室などが設けられたと聞く。景観賞、都市デザイン賞など、顕彰制度も既に少なくない。建設省でも、都市景観形成モデル都市制度(一九八七年)、うるおい・緑・景観モデルまちづくり制度(一九九〇年)などの施策を打ち出してきている。何故、景観なのであろうか。

 まず、素朴には、古き良き美しい景観が失われつつあり、破壊されつつあるという危機感がある。もちろん、自然景観や歴史的町並み景観をめぐる議論はそれ以前からある。しかし、一九八〇年代のバブルによる開発、再開発の動向は、危機感を一層募らせてきた。また、日本の都市景観は美しくない どうも雑然としている 西欧都市に比べて日本の都市は見劣りがする、という意見もある。

 しかし、おそらく一番大きいのは、経済大国になったというけれど生活環境は果たして豊かになったのか、という疑問であろう。スクラップ・アンド・ビルドを繰り返すのみで、ちっともストックにならない。歴史的に町並みが形成されていくプロセスがない。望ましい建築・まちなみ景観を形成維持して行くためにはどうすればいいのか、少なくとも建築の世界においては大きなテーマになってきたのである。

 景観とは何か

  ところで景観とは何か。このところ「景観」とか「風景」をテーマにした本が目につく。そのこと自体、「景観」が一般にも大きな関心事となっていること示すのであるが、内田芳明氏の『風景とは何かーーー構想力としての都市』(朝日新聞社 一九九二年 他に 『風景の現象学』 中公新書 一九八五年 『風景と都市の美学』 朝日選書 一九八七年など)によれば、「景観」とは「風景」を「観」ることである。「景観」が自己中心の主観的な身勝手な見方、対象の部分を断片化する見方であるとすると「風景」は土地土地で共有された見方である。ヨーロッパでは、風景(landscape landchaft)とは「土地」、「地域」のことだという。中村良夫氏の『風景学入門』(中公新書 一九八二年)によれば、「風景とは、地に足をつけて立つ人間の視点から眺めた土地の姿である」。

 「風景」とは、風情=情景であり、心情(なさけ こころ)が入っている。風土、風、風化、景色、光景、・・など類語をさぐりながら「風景」の意味を明らかにするのが内田氏であるが、景観問題とは、そうした地域=風景が破壊されつつあることにおいて意識され始めた問題であるということができるであろう。

 景観問題を引き起こすもの

 景観問題を引き起こすものは何かというと、例えば、全国一律の法制度がある。大都市も小都市も、同じ規制という日本のコントロール行政は大いにその責任があるだろう。建築家だってかなりの責任がある。やたら新奇さを追うだけで、風景の破壊に荷担してきた建築家は多いのである。

 そもそも近代建築の論理、理念と風景の論理は相容れない。鉄とガラスとコンクリートの四角な箱型の建築は、もともとどこでも同じように成立する建築を目指したものである。国際様式、インターナショナルスタイルがスローガンであった。合理性、経済性の追求は、結果として、色々なものを切り捨ててきたことになる。その論理に従えば、本来地域に密着していた風景が壊れるのは当然のことなのである。

 近代建築は面白くないといって喧伝されてきたポストモダニズムの建築もかえって都市景観の混乱を招いたようにみえる。徒に装飾や様式を復活すればいいというものではない。地域性の回復ということで全国同じように入母屋御殿が建つというのも奇妙なことである。

 景観形成の指針とは

 景観、ここでいう風景を如何に形成していくかについては少なくとも以下のような点が基本原則となろう。

 ●地域性の原則 地域毎に独自の固有な景観であること

 ●地区毎の固有性 地区毎に保存、保全、修景、開発のバランスをとること

 ●景観のダイナミズム 景観を凍結するのではなく、変化していくものとして捉えること

 ●大景観 中景観 小景観という区分 景観にも視点によって様々なレヴェルがある

 ●地球環境(自然)と景観  自然との共生

 具体的にどうするか、ということで、まず、前提となるのは、どのような景観が望ましいかについて常に議論が行われ、地域毎に、あるいは地区毎に共通のイメージが形成されることである。地域の原イメージを象徴するものとはなにか、その地域にしかないものとは何か、その地域には要らないものは何か、等々議論すべきことは多い。

 次に原則となるのは、身近かな問題から、できることからやるということである。議論ばかりでは進展しないし、景観というのは日々変化し、形成されるものである。清掃したり、花壇をつくったり、広告、看板を工夫したり、といったディテールの積み重ねが重要である。

 建築行政としては、いいデザインを誘導することが第一であるが、地区モニター制度、景観相談、景観地区詳細提案など制度として検討すべきアイディアが色々ありそうである。






 

 


2022年12月26日月曜日

書評『異文化の葛藤と同化』異文化理解の作法、建築文化、199608

 異文化理解の作法、建築文化、199608

書評『異文化の葛藤と同化』異文化理解の作法、建築文化、199608




2022年12月25日日曜日

土木と建築,雑木林の世界34,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199206

 土木と建築,雑木林の世界34,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199206

雑木林の世界34

土木と建築

「土建屋国家」日本の変貌

 

                         布野修司

 

 茨城県木造住宅センターハウジングアカデミーの開校式が華々しく行われた。第一期入校生八名。定員通りである。紆余曲折はあったものの、とにかく開校にこぎつけたのはめでたい。長い間、そのお手伝いをしてきたものとしてはひとしお感慨深いところだ。その発展を心から期待したい。

 SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)は、2年目を迎えて模索が続く。SSA(サイト・スペシャルズ・アカデミー)設立を大きな車輪の軸にして、その基盤づくりが当面の目標となるが、その推進役として新たに日本大学理工学部の三浦先生(交通土木)を理事として迎えた。最初の一年は建築の分野を中心に講師を招いてフォーラムを続けて来たのであるが、今年は、土木の分野も含めた展開がはかられることになる。

 今年に入って、フォーラムが既に二度開かれたのであるが、一回目(三月二四日)は、鈴木忠義(東京農大)先生、二度目(四月二二日)は花安繁郎(労働省産業安全研究所)先生が講師であった。

 「今、なぜ「技」なのか」と題した鈴木忠義先生の講演は、長年の経験を踏まえて「芸」と「技」の重要性を力説され、「職人大好き人間」の面目躍如たるものがあった。面白かったのは「飯場リゾート論」である。飯場をリゾート施設としてつくり、工事が終わった時に地元に運営を委ねたらどうかというのである。一石二鳥にも三鳥にもなる。なるほどと思う。

 「建設工事労働災害の発生特性について」と題した花安繁郎先生の講演は、いささか深刻なものであった。建設工事において事故は一定の確率で起こっているというのである。様々なデータをもとにした実証的な研究がもとになっていて迫力があった。建設業界に置いて安全の問題が極めて重要である実態を今更のように思い知らされたのである。

 

 土木と建築というと近いようでいて遠い。僕なども土木の世界というと全く縁がなかった。土木と建築ではまず第一にスケールが違う。ということは扱う金額が違う。それだけでも話が合わないという先入観がある。しかし、今度、SSFを通じて土木の世界の一端に触れてみて思うのは、土木というのが気の遠くなるような手作業を基本としていることである。少なくとも、同じ土俵で考え、取り組むべきことが多いということはSSFに参加して痛感するところである。

 土木と建築とは本来相互乗り入れできる分野は少なくない。しかし、両分野には、様々な理由から、歴史的、社会的に壁が設けられてきたようにみえる。縄張り争いもある。都市や国土の基盤整備を担当する土木の分野と、そうした基盤を前提にして空間をデザインする建築の分野には発想や方法の上で違いがあることも事実である。

 そこで問題となるのは都市計画や地域計画を考える場合である。全体として考えられ、検討さるべき都市が全く連携を欠いた形で計画されることが多いのである。日本の都市の景観が雑然としてまとまりがない原因の一端は土木と建築の両分野が連携を欠いてきたことにもあるのである。

 そうした歴史への反省からであろう。都市景観の問題をめぐって新たな動きが展開されつつある。そのひとつが橋梁のデザインがコンペ(設計競技)によって決定される例が増えてきたことである。はっきりいって、デザインについては、建築の分野に一日の長がある。建築家が橋梁や高速道路のデザインに大いに腕を奮ってもおかしくないし、大いに可能性のあることである。また、デザインのみならず、両分野が連携をとることによって都市に対する新たなアプローチが様々に見つかる筈である。

 

 四月に入って、京都大学で授業を始めたのだが、最初の講義が「建築工学概論」という土木の四年生向けの授業だったせいであろうか、なんとなく、建築と土木の関係について考えさせられる。今、全国の大学の工学部ではその再編成の問題が議論されつつあり、土木、建築の建設系を統合しようという動きも現実にある。

 土木の学生に話すのに土木のことを全く知らないというのでは心許ないからと、高橋裕先生の『現代日本土木史』(彰国社 一九九〇年)をざっと読んでみた。「現代日本」というのだけれど、明治以前の記述も三分の一を占めており、しっかりした歴史的パースペクティブに基づいたいい教科書である。近年、各大学で「土木史」の講義が行われ始めたという。土木の世界が変わりつつあるひとつの証左かもしれない。

 『現代土木史』を通読してみてつくづく思うのは土木工学がその出自において工学の中心であったという今更のような事実である。シビル・エンジニアリングが何故「土木」と訳されたのかは不明であるが、シビル・エンジニアリングと言えば「土木」のことであったのである。イギリスなどにおいても、シビル・エンジニアの職能団体や学会の設立は建築の場合よりはるかに早い。

 お雇外国人のリードで始まる近代日本の土木の展開は、建築の場合とよく似ているが、明治国家にとっての重要度という点では土木の方がはるかに高かった。殖産工業のための産業基盤整備に大きなウエイトが置かれるのは必然である。鉄道、道路、ダム、トンネル、治水、上下水、・・・土木技術が日本の「近代化」を支えてきたことは紛れもない事実である。『現代土木史』がその軌跡を跡づけるところである。

 ところが、そうした土木の分野も大きな転換点を迎えつつあるようである。「職人不足」に関わる問題もその転換のひとつの要因である。また、土木技術が自然環境を傷つけ乱してきたという反省もその一因となっている。土木技術に内在する問題が真剣に問われ始めているのである。高橋裕先生は「土木工学は本来土木事業を施工することによって新たな環境を創造するための工学であった。開発行為が拡大し巨大化するにつれ、その行為自体が原環境に与える影響が大きくなると、開発と自然環境との共存を深く考慮することが、土木工学の基本原理として顕在化してきたのである。環境創造の基礎としての土木技術は新たな段階に入ったといえる」と書く。

 土木学会は、「地球工学」、「自然工学」、「社会基盤工学」などその改称を考えたのであるが、結局、土木の名を残す事になったという。土木景観への関心から土や木など自然材料が見直されているからでもあろう。

 地球環境全体が問われるなかで「土建屋国家」日本は変貌しつつあるし、また、変貌して行かざるを得ない。そのためには、建築、土木の両分野は、垣根をとっぱらう前提としても、まず基本原理を共有する必要があるだろう。景観、自然、サイト・スペシャルズ、・・・キーワードは用意されつつある。

 


2022年12月24日土曜日

建築のあり方考える原点、長谷川堯,神殿か獄舎か 共同通信,200803

長谷川堯,神殿か獄舎か 共同通信,200803


建築のあり方考える原点

「神殿か獄舎か」復刻で

                                 布野修司

 一九六〇年代の高度経済成長のクライマツクスである「大阪万国博」の余韻が残るさなかに出版され、いわゆる「全共闘世代」の学生や若い建築家たちに貪るように読まれた長谷川堯の「神殿か獄舎か」がこのほど復刻された昨年古希を迎えた著者が三十五歳のときの処女論文集である本書に、著者の丁度一回り下の世代である筆者は、その後の仕事の方向を大きく規定されるほどの衝撃を受けた。

 「神殿か獄舎か」の分かりやすさは、そのタイトルの二分法に示されている。近代建築を主導してきたモニュメンタル(記念碑的)な建築にのみ関心を抱き、神の如く民衆を見下ろすスタイルを「神殿志向」と規定して全面批判し、建築家は本来「獄舎づくり」だ、と説く。

「神殿志向」の代表が、前川國男、丹下健三とその弟子たちであり、ほぼ同時期に『建築の解体』を書いて、建築のポストモダンの方向をリードすることになる磯崎新もそこではばっさりと斬られている。それに対して、大正期の建築家たち、中でも「豊多摩監獄」の設計者である後藤慶二が、獄舎づくりの象徴として称揚されている。様々な制度、規制の中でしか建築は実現することはない。そうした意味では建築家は所詮獄舎づくりだ。しかし、そうした制約の中で人々が安心して心地よく過ごせる空間をどう作り出すかが建築家の使命なのだ、と長谷川は言い切った。

続いて出版された『雌の視角』(七三年)『都市廻廊』(七五年)も同様で、「雄」か「雌」か、中世か近代か、という明快な二分法が基軸になっている。「(雌に対する)雄」とは、日本の近代建築を大きく規定してきた「構造派」(建築構造学派)のことである。

 何故、いま、この名著の復刻なのか。

 おそらく、高度成長時代の終焉する状況と地球環境問題で地球そのものの限界が意識される現在の状況が似ているからである。時代が一巡したのである。

著者の示した近代建築批判の方向は、安易な「ポストモダニズム建築」、すなわち、建物のファサード(正面部分)に様式建築のスタイルや装飾を復活させるだけの歴史主義的建築の跋扈(ばっこ)によって見失われてしまった。また、この間の耐震偽装問題の発覚に示されるように、建築家は「安全な」獄舎づくりに勤めることを怠ってきたことになる。

二度のオイルショックを経験した後の八〇年代には、バブル経済が日本列島を翻弄することになるとは夢にも思われなかった。バブルが弾け「空白の一〇年」が続いた。そして二一世紀を迎え、建築界は行方を全く見失ったように見える。

いまこそ「神殿思考」の近代建築の問題を再考すべきではないか。かつて本書を貪るように読んだ世代も、オイルショックの時代を知らない世代も、これからの建築のあり方を考える原点として繰り返し読むべきなのが本書である。実にタイムリーな復刻だと思う。







2022年12月21日水曜日