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2022年12月18日日曜日

デジタルファブリケーションの未来 ―秋吉浩気の華麗なる冒険― 『メタアーキテクト 次世代のための建築』を読む、スペルプラーツ、2022

デジタルファブリケーションの未来──秋吉浩気の華麗なる冒険『メタアーキテクト 次世代のための建築』を読む|布野修司|株式会社スペルプラーツ|note 

書評 秋吉浩気『メタアーキテクト 次世代のための建築』スペルプラーツ、2022

 

デジタルファブリケーションの未来

―秋吉浩気の華麗なる冒険―

『メタアーキテクト 次世代のための建築』を読む

 次世代への贈与

「何のために、誰のために建築をつくるのか。この根源的な問いを模索するために本書を書き始めた」。冒頭(はじめに)の第1行である。

一瞬、原広司の『建築に何が可能か──建築と人間と』(1967)の冒頭を想った。

『建築とは何か』という問いは、『人間とは何か』という問いが不毛であると同様に、行動の指標とはなりえない。もし私たちが人間について問うなら、『人間に何ができるか』を問うべきである。同様に建築についても、『建築に何ができるか』と問うべきであろう。このふたつの問いの内容には一見さしたる差異もないようにみえるのであるが、実はかなりの断絶がある。

(第一章 Ⅰ 初原的な問い)。

 

原広司がこの処女論集を上梓したのは30歳、秋吉浩気34歳、初々しい問いである。

秋吉の場合、すぐさま続けて答えを書いてくれている。「建築をつくることは「次世代への贈与」を行うことであり、林業における植林のように時代の繁栄に向けて建築というかたちで物語を託すことである。」と。「次世代のための建築」というのは本書のサブタイトルである。いまここに生きているわれわれ世代には関係ないの? と思うと、すぐさま、「未来なんかない、あるのは希望だけだ」と言ったのはイヴァン・イリイチだが、裏を返せば希望がないかぎり未来はないというわけだ」と続けている。「希望の火を灯し未来をつくる、その物語を建築によって次世代に届けるのが建築家である」という。問題は、秋吉の物語がどういう物語か? ということである。

 

 産業社会批判

イヴァン・イリイチ(19262002)というウィーン生まれの哲学者、文明批評家の名はどれだけ若い世代に知られているのであろうか。イリイチの脱学校論(『脱学校の社会』(1977)Deschoolinng Society1971])、脱病院論・医原病(『脱病院化社会──医療の限界』[1979)]は、施設計画学を組み立ててきた吉武泰水・鈴木成文研究室を出自とする評者には決定的なインパクトを与えたが、それだけではない。ヴァナキュラー、オールタナティブ・テクノロジー(『エネルギーと公正』[1979])、コンヴィヴィアリティ(『自由の奪回──現代社会における「のびやかさConviviality」を求めて』(1979)『コンヴィヴィアリティのための道具』(1985))、ジェンダー(『ジェンダー──女と男の世界』[1985]、シャドウ・ワーク(『シャドウ・ワーク――生活のあり方を問う』[1982)、サブシステンス、そして『人類の希望――イリイチ日本で語る』(1984など、産業社会批判に関わるキー概念を次々に提出するイリイチの著作は必読書として多くに読まれた。最初の1頁に現れるイリイチの名前によって、本書の問題意識を予感することになる。

イリイチについては、「3章 変わる経済──ポストキャピタリズム論」で、さらにB.フラー『宇宙船地球号 操縦マニュアル』(1968)、ローマクラブ『成長の限界』(1972)、E.シューマッハー『スモール イズ ビューティフル』(1973)などとともに触れられる。

「今必要なのは新しい思想ではなく、むしろ彼らの見出した仮説を検証し実行する担い手と実践なのではなかろうか」というが、秋吉浩気が生まれる(1988)前の著作である。本書には、随所に、先行世代による仕事、著作への言及があり、その思索を未来に引き継ぐ構えがあるが、先行世代はいったい何をしてきたのか、という提起でもある。

 

 メタアーキテクト

アーキテクトとは、コンピューター・アーキテクトという言葉がすでに定着しているように、アルケーArcheのテクネーTechneすなわち根源の技術(技能)に関わる存在(職能)だから、十分偉い! のであるが、タイトルはメタアーキテクトである。メタすなわち「超越した」「高次の」アーキテクトだから相当偉い! これも冒頭にすぐさま説明がある。自らを客観視する高次の次元に到達し(メタ認知)、代謝を繰り返し(メタボライズ)、変貌(メタモルフォーゼ)を遂げる存在である。もう少し、端的には「プロフェッサー×アーキテクト」時代の栄光を捨てた「アントレプレナー×アーキテクト」という。すなわち、メタアーキテクトを自称する現在の秋吉浩気である。

 

メタアーキテクトをめぐっては、「5章 変わる職能──メタアーキテクト論」で議論される。そこでは建築家の職能をめぐって、西欧のマスタービルダーや日本の大工棟梁にも触れ、『秋葉原感覚で住宅を考える』「D-D方式」の石山修武をメタアーキテクトの源流に位置するといい、「地域住宅工房」「ネットワーク型の町場職人システム」の大野勝彦、アーキテクトビルダー論のC.アレグザンダーにも言及するから、必ずしも突拍子もない提起ではない。本書でさらに新たに提出される興味深い概念は、MaaS(モビリティ・アズ・ア・サーヴィス)を捩った「アーキテクツ・アズ・ア・サーヴィスAaaS」である。システムの中に消去されるメタアーキテクトとシステムをデザインするメタアーキテクトは一般には分裂する。本書での秋吉は後者である。

 

 理論と実践

本書は、日本に久々に現れた建築理論書である。原広司を最初に思い浮かべたけれど、彼には、BE(ビルディング・エレメント)論、有孔体理論があった。さらに集落論、様相論の展開がある。秋吉は、本書で、菊竹清訓の『代謝建築論──か・かた・かたち』に何度か触れている。磯崎新にはプロセス・プランニング論があり、手法論、引用論の展開があった。『建築少年たちの夢』(2011)で、磯崎、原以下、安藤忠雄、藤森照信、伊東豊雄、山本理顕、石山修武、渡辺豊和といった評者の先行世代の建築論について考えたが、以降、内藤廣、隈研吾にしても、妹島和世にしても、議論するに足る建築理論の展開がない。本書には、先行理論を大きく取り込む構えがあり、建築理論の地平を再構築する必要を再認識させるものがある。

小さな本だけれど、構成に工夫がある。というか、実に凝った構成である。曰く「この本では左右別々の物語が進行する」。右が「事」「構想」「起業家」、左が「物」「行動」「作家」、両義性をそのまま共存させる狙いがあるというが、要するに、右が理論、左が実践である。理念あるいは理論がそのまま実現するということはむしろ稀であり、逆に、一般には実践が理論を深化させる。最近、ある都市の歴史についての本で(『スラバヤ──コスモスとしてのカンポン』[2021])、出来事と空間を分ける、似たような構成を考えたからよくわかる。建築の図面や写真を文章の挿絵にするのでも、建築の図面や写真をただ解説しているわけではないということである。「造ったり考えたり」は、内田祥哉先生の言葉であるが★1、「左手で論文、右手で設計」は、評者の口癖である。

理論書あるいは学術書というと、起承転結あるいは序破急といった枠組みが問われるが、それは、本書において、少なくとも形式的には見事に貫かれている。目次を見れば、その形式主義は一目瞭然である。おそらく、頁割も絡むこの構成には編集者との共同作業が不可欠だったと思う。

まず、左頁を一気に読んだ(見た)ほうがいいと思う。Ⅰ建築以前 ⅰ場づくり ⅱ事づくり ⅲ人づくり、Ⅱ建築未満 ⅰ離散構法の構造 ⅱ線材構造の構法 ⅲ面材構造の構法、Ⅲ建築以降 ⅰ規模展開 ⅱ水平展開 ⅲ垂直展開というのが目次である。

 

ショップボット

すべては、3CNC(コンピュータ数値制御)加工機ショップボットShopBotから始まる。

DIYによるリノベーションのための家具などを製作する工房とともにショップボットを4tトラックに積んで各地を巡回する移動式工房を立ち上げた。2022年初頭の段階で、全国に113台導入したという。ショップボット1台でさまざまな身近な木工品や家具が製作できる、各地でのワークショップが多くの参加者を惹きつけたことは想像に難くない。ショップボットは、自らの手で身近なものをつくる道具となったのである。かつて、石山修武率いるダムダン空間工作所(1973年設立)が2×4の端材で積木や木馬のような遊具を製作して販売したことを思い出す。ル・コルビュジェ、C.R.マッキントッシュ、M.ブロイヤー、T.リートフェルト、丹下……建築家の名前を関する椅子は少なくないが、建築家は、本来、空間を構成する全てのものをデザインする存在であった。村野藤吾の時代までは、ドアノブ、各種金具、洗面台……すべて建築家がデザインし、逆に、それが商品化されるのがむしろ一般的であった。石山修武とダムダン空間工作所はD-D(ダイレクト・ディーリング)方式と呼んだが、建築を構成する建材、部品、家具など全てを市場価格より低価で供給し、自力建設(セルフビルド)によって自らの空間をつくりあげる、そうした仕組みを夢想したのであった。当時、石山修武をマニラの「フリーダム・トゥー・ビルド」★2、バンコクの「ビルディング・トゥゲザー」★3に案内する機会があったが、頼みもしないのに、石山は部品、部材の価格をリストにしてくれた。その夢想は、発展途上国においては現実化されつつあったのである。

 

建築以降→?

秋吉浩気は、建築未満から建築へ向かう、というけれど、すべてが建築と言えばいいのではないか。建築未満(Ⅱ)というけれど、建築構法の模索といったほうがいい。建築の架構、構法、工法は、建築の骨格を規定する。伝統的な柱梁構造、ログ構造、あるいは2×4工法のような単純な?[a1] 工法であれば、すなわち、建築架構のシステムが決まっているのであれば、柱とか梁など部材をデジタル加工することはすでにシステム化されており、プレカット工場など生産システムはできあがっている。

だから、ショップボットが加工できる木材部品による新たな架構方式が追及された。建築システムとしては、限定された特異な回答の模索である。その模索は実に楽しそうである。造形的な可能性を追求するのは、CAD3Dプリンター、そしてショップボットを手にした建築家にとっては必然である。

そして、利賀村の《まれびとの家》を実現する機会が訪れた。以降が「Ⅲ 建築以降」である。磯崎新の処女建築論集は『空間へ』(1971)であるが、「Ⅲ 建築へ」というべきか?合掌造りの伝統の地域ではちょっと異質な急勾配の架構であるが、ショップボットによってひとつの空間を実現したのが《まれびとの家》である。

そしてさらに、「量」を追求する軸と「質」を追求する軸の2方向の模索を始めたというが、前者の展開として開始したのが「Nesting」というプレファブ住宅事業である。後者のさらなる展開として、「建築家事業」を行うVUILD Architectsを立ち上げた(2017)。この「建築家事業」というのは何か? メタアーキテクトの仕事なのか? 通常のアーキテクトの仕事なのか?

左頁を追いかければ、その軌跡は実に分かりやすい。「Ⅲ 建築以降」というのであれば、次のステップとして「Ⅳ 都市へ、あるいは街区へ」を見たいと思う。

建築をいくつかの要素(部品、家具、部屋……)あるいはいくつかのシステム(躯体、内装、設備……)からなるものと考え、建築から都市まで一貫するシステムとして構成する先行理論としてN.J.ハブラーケンの「建築=都市構成理論」がある。槇文彦の「群像形論」があり、大谷幸夫の「都市構成論」(麹町計画)がある。

 

デジタルファブリケーションが世界を救う?

さて、本論である。本論は6章構成である。目次を追うだけで論の展開の広大さ一目瞭然である。社会、産業、経済、流通、要するに世界全体を問い、その未来を展望しようとするのである。秋吉が自らに課すのは世界システムについてのヴィジョンである。

未来ヴィジョンを明快に語るのは、上述のように、3章の「変わる経済―ポストキャピタリズム論」である。脱成長のために、「脱商品化・脱植民地化・脱画一化・脱集約化・脱グローバル化」をいかに実現するかが問題であり、あとは実行するだけだ。そのためには、デジタルファブリケーションが武器になる。分散加工、小型部品、参画を基本とする自律分散型の産業システムがそれを可能にするという。

変わる社会(1章)というのは、言うまでもなく、この間のICT革命、AIの進化、CAD BIM……などデジタル社会の到来、GAFAなど巨大なプラットフォーマーが世界を支配するそうした時代の到来をいう。しかし、建築業界、建築家はまったく対応できない。だから、社会(建築業界)を変える起業(アントレプレナー×アーキテクト)が必要であり、社会のヴィジョンを提示する建築家メタアーキテクトが必要である。簡単に言えば、本書の主張は、そういうことである。

ただ、デジタルファブリケーションによって、分業化と専門分化を克服できる、「このような余剰を必要としない民主的な中間技術をもってすれば、かつての狩猟採集民族のように(その?)都度必要なものを自分で生産できる能力を取り戻し、土地に縛られず、誰に管理されることなく、自由に生きていくことができる。」と、あっけらかんに書くけれど、[a2] である。水をかけるつもりはない。[a3] 「暗号資産による贈与経済」「近代以前の社会と接続する共有型経済と循環型経済」にしても、「個人で家を買うのではなく、集団で家を共有する必要がある」「所有せずに私有(私用?専用?)できる住まいというものが成立すればいい」にして、評者を含めた先行世代も似たようなことをしゃべってきたのである。

「丹下健三の「東京計画1960」やメタボリストたちのように、誰に依頼されるのでもなくビジョナリーな社会像を提示することともある。しかし、これらの未来像が実現することはまれであり、単なる絵空事で終わることが多い。」という秋吉の一節については、かつて以下のように書いたことがある。

アーバン・デザインという一つの領域を仮構し、建築の構想力による都市のフィジカルな配列を提案することによって、その社会的、経済的、技術的実現可能性を問うというスタイルは、近代建築の英雄時代の巨匠のスタイルである。そこでの建築家のイメージは、思想家にして実践家、総合の人間であり、世界を秩序づける<世界建築家>としてのそれといえようか。

「第一章 建築の解体 三 諸神話の崩壊」『戦後建築論ノート』(1981

 

この<世界建築家>とメタアーキテクトの位相はどう異なるのか。秋吉浩気は「実現したい社会像があるならば、自分で実現したほうが早い。実現したいという情熱と行動力さえあれば、資金も仲間も集まる幸運な時代に生きているからだ。」という。頼もしいと言えば頼もしい。

 

デジタルヴァナキュラー

「建築とはきわめて政治的で経済的な活動であり、けっして科学や工学や美学の領域にとどまるものではない。社会はむしろ技術や芸術の外にある。」と、秋吉は冒頭(はじめに)に書いている。2行目[a4] を除けば異議はない。

高度成長の1960年代の最後を華々しく飾ったExpo70の後、磯崎新は、

社会変革のラディカリズムとデザインとの間に、絶対的裂け目を見た

といい、

デザインと社会変革の全過程の両者を一挙におおいうるラディカリズムは、その幻想性という領域においてのみ成立すると言えなくもない。逆に社会変革のラディカリズムに焦点を合わせるならば、そのデザインの行使過程、ひいては実現の全過程を反体制的に所有することが残されているといってよい。

と書いた(「第9章 「世界建築」の羅針盤―磯崎新 二 建築の解体、そして「建築」宣言」、拙著『建築少年たちの夢』[2011])。

秋吉浩気の根源的問いは共有されてきたと思う。これまでの建築家は「10%の人類のための建築家」であったというというのは、B.ルドフスキーの『建築家なしの建築Architecture without Architects』(あるいは『驚異の工匠たち』?)の冒頭の科白である。B.ルドフスキー、ヴァナキュラー建築、デザイン・サーヴェイについては「4章 変わる流通──デジタルヴァナキュラー論」に言及があるが、秋吉はそこで「まれびとの家」をデジタルヴァナキュラーの建築として位置づけている。ヴァナキュラー建築の世界、「誰もが建築家でありうる」という地平への視線は1970年代初頭には共有されており、自力建設(セルフビルド)は、若い建築家、建築学生の「流行」であった。しかし、時代を制してきたのは産業化の流れである。

 

地球のデザイン

今、その流れは大きく転換しつつある。未来の世界は、インターネット(メタバース)[a5] によって世界中が緊密につながる一方、空間的には分散して居住する、そんな世界である。Covid-19がそれを加速しつつあるように思える。デジタルファブリケーションはそうした世界と親和性がありそうである。秋吉によれば、リーマンショックの2008年が、CNCミリングマシン・ショップボット(2003年創業)すなわち建築における減産系デジタルファブリケーション浸透の転回点で、ニューヨーク近代美術館MOMAで開催された「Home Delivery」展がその象徴になるという。

AIについては、秋吉は触れないが、近いうちにAIシンギュラリティ(コンピュータが人間の脳を超える)に達し、その後一気に加速するというレイ・カーツワイルRay Kurzweilの予想がある。秋吉も引くユヴァル・ノア・ハラリは、意識をもたないアルゴリズムがパターン認識で人間の意識を凌ぐ、すなわち、ホモ・サピエンスの制御が不能になることもありうるという。基本的にはAIもホモ・サピエンスの僕(トゥール)だと評者は素朴に思う。デジタルファブリケーションもひとつのトゥールである。そのひとつのシステム、ましてや木材という素材に限定したシステムが世界全体を覆うことはないであろう。

本書の理論展開に関わる議論をさらに整理してもいいが、紙数も相当費やしたし、一旦開こうと思う。議論は、地球のデザインをめぐり、論点は多数ある。本書をめぐってさらに議論が深化されることを願う。

 

「地球」のデザインと「住居」のデザイン、あるいは「地域」のデザインはどう結びつくのか、それこそ「最も豊富な部分をもつ<全体>」のデザインの問題である。・・・ひとつの構想は、「住居」に「地球」を埋蔵することである。……

と書いたのは、阪神淡路大震災直後のことである(『戦後建築の終焉──世紀末建築論ノート』[1995])。

システムか個の表現か、一般解か特殊解か、設計施工一貫か設計施工分離か(6章 変わる設計──ビルドデザイン論)、……『群居』(ハウジング計画ユニオンHPUの機関紙)(19822000)では、石山修武、大野勝彦、渡辺豊和、そして松村秀一など若い仲間たちと議論を続け、個別のプロジェクトと同時に日本の住宅生産流通消費のシステムのみならず世界の住宅生産流通消費のシステムも問うてきた。本書には、『群居』の歴史的議論に確実に答えるものがある。

秋吉浩気がさまざまな模索を重ねたうえで、VUILDを創業するのは2017年である。建築におけるデジタルファブリケーションを武器にした格闘はしばらく続くであろう。藤村龍至にも同じことを書いたことがあるが、ロング・ロング・ウエイ・トゥー・ゴーである。シンパシーを込めて見守りたいと思う。 

 

1 フリーダム・トゥー・ビルド
──その名は、第三世界の自力建設活動に大きな影響を与えたJohn F.C. Turnerの著書Turner, John F. C.; Fichter, Robert, eds. (1972). Freedom to Build: Dweller Control of the Housing Process. New York: Macmillan.に由来する。他に、Turner, John F. C. (1976). Housing By People: Towards Autonomy in Building Environments. London: Marion Boyars.がある。フィリピンのNGO組織Freedom to Buildは、イエスズ会神父ウィリアム.J.キースによって設立され、マニラ近郊のダスマリニャスのリセツルメント・プロジェクトなどで自力建設支援を展開した。ワークショップを運営し、市場価格より安い建材、部品を提供し、住宅の建設は居住者に委ねるのを基本理念とした。日本からJ.アンソレーナ神父が支援してきた。

 

2 ビルディング・トゥゲザー
──バンコクのアジア工科大学(AIT)で教鞭をとっていたS.エンジェルを中心として設立。S.エンジェルは、UCバークレーでC.アレグザンダーと協働、『パタン・ランゲージ』の共著者である。AITで、いくつかのモデル住宅を建てたのち基本的にはホローブロックを主構造とするビルディング・システムを採用。梁、杭はプレキャスト。現場にブロック工場、建具工場を併設し、居住者は建設活動に参加することで安価で住居を購入できる仕組み。バンコク近郊のランシットでプロジェクトを展開した。


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