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書評:木造建築の基本原理ーエスノ・アーキテクチャーを目指して 太田邦夫 『木のヨーロッパ/建築まち歩きの事典』(彰国社 2015年11月10日)、『建築技術』、2016年5月
書評:木造建築の基本原理ーエスノ・アーキテクチャーを目指して 太田邦夫 『木のヨーロッパ/建築まち歩きの事典』(彰国社 2015年11月10日)、『建築技術』、2016年5月
書評 太田邦夫著 『木のヨーロッパ 建築とまち歩きの事典』 彰国社 2015年11月
『建築技術』 20160303締切 1500字
木造建築の基本原理-エスノ・アーキテクチャーをめざして
布野修司
木造建築研究に関する日本の第一人者―そして、おそらく世界的にもグローバルな視野において木造建築を最も知る建築家のひとり―による「ヨーロッパ木造建築」案内である。旅の準備編、旅編、旅の参考資料編と大きく3編に分かれ、中心となる旅編には「おすすめ12のルート」について魅力あふれる解説がなされている。「木造建築」ファンのみならずヨーロッパ旅行に出かける全ての人にとっての必携書といっていい。
しかし、本書は単なるガイドブックにとどまるものではない。「建築とまち歩きの事典」をうたうように、ヨーロッパの木造建築、村、町に関する豊富な写真、図面、スケッチが収められており、資料集成として比類のない質を有している。小屋組、軸組、平面形式、インテリア、開口部(窓・扉・門)、細部の装飾、大工道具、樹木などについて多様なディテールが著者自らのスケッチで示されており、建築家にとっては魅力あふれるデザイン・ソース満載である(旅の参考資料編)。
「木のヨーロッパ」というタイトルは極めて挑戦的である。われわれが学ぶ西洋建築史は木造建築に触れることはないが、ヨーロッパの木造建築の豊かな伝統を教えてくれる。木造建築の分布が構造別(軸組、井篭(井楼)組、土壁造、木柱テント造、石造、煉瓦造・・・)にまず示され、気候、植生、土地利用、民族、宗教の分布と重ね合わせられる(旅の準備編)。すなわち、木造建築の構造形式、住居形式を自然社会文化の生態学的基盤において理解しようとする視点がある。また、逆に木造建築、住居の諸指標の分布をもとにヨーロッパの基層文化を理解しようとする姿勢がある。
評者が、著者の太田邦夫先生とインドネシアの北スマトラを訪ねたのは1979年1月である。バタク諸族の村々を回りながら、採寸の仕方から写真の撮り方も含めて、木造建築について手ほどきを受けた。当時、既にヨーロッパの木造建築についての研究を開始されており、その成果は、『ヨーロッパの木造建築』(講談社、1985)、『ヨーロッパの民家』(丸善、1988)を経て、学位論文を基にした『東ヨーロッパの木造建築―架構方式の比較研究』(相模書房、1988)にまとめられる。幸せにも、この理論化の作業を身近にいて逐一知ることができた。大きな刺激を受けたのは、後に『エスノ・アーキテクチュア』(SD選書、2010)にまとめられる『群居』連載の論考である(1983~1987)。「建築はなぜ四角になったのか」「右が先か左が先か」といった建築の基本原理に関わる考察が根底にある。『世界の住まいにみる 工匠たちの技と知恵』(学芸出版社、2007)もまた興味深い建築の基本原理を考察するが、著者が「ヴァナキュラー・アーキテクチャー」ではなく、「エスノ・アーキテクチュア」という概念を用いるのは「エスノ・サイエンス」「エスノ・テクノロジー」という概念が念頭にあるからである。すなわち、近代科学技術の依拠する普遍的な原理において建築を理解するのではなく、地域の、民族の、土着の、建築を成り立たせる固有の原理を明らかにしたいということが基本にあるのである。
本書にはヨーロッパの木造建築を成り立たせる基本原理をめぐる様々な問いが秘められている。木造建築から石造建築への移行はどのようになされたのか、軸組構造、壁構造、井楼(籠)組構造は何故地域分布を異にするのか、ハーフティンバー構造はどのように発生したのか、日本の木造建築とヨーロッパの木造建築はどう異なるのか、・・・おそらく、さらなる議論のためにはもう一冊の理論書が必要であり、既に用意されているのではないかと思う。
2022年6月6日月曜日
新井葵+新藤恒樹+中島柚季+吉田奈由+小野美史+北原啓司+砂土原聡+布野修司+濱本卓司:聞き手:佐藤淳,座談:東日本大震災について「理系高校生」が知りたいことを「専門家」に聞いてみる,「特集:災害対策研究の新しい起点」,『建築雑誌』2016年3月
新井葵+新藤恒樹+中島柚季+吉田奈由+小野美史+北原啓司+砂土原聡+布野修司+濱本卓司:聞き手:佐藤淳,座談:東日本大震災について「理系高校生」が知りたいことを「専門家」に聞いてみる,「特集:災害対策研究の新しい起点」,『建築雑誌』2016年3月
『建築雑誌』2016年3月号 都立戸山高校SSH生座談会 2部 校正原稿
話者:新井葵×新藤恒樹×中島柚季×吉田菜由×小野美史(戸山高校1年)、北原啓司(弘前大学大学院地域社会研究科研究科長・教授)、佐土原聡(横浜国立大学大学院都市イノベーション研究院教授)、布野修司(日本大学特任教授)、濱本卓司(東京都市大学教授)
聞き手:佐藤淳(佐藤淳構造設計事務所)
録音時間:2時間37分28秒(実質:2時間28分00秒)
収録日 2015年12月8日(火)
第二部については頁割は特に意識しません.6頁そのままデザイナーさんの思うレイアウトで写真と組み合わせて割り付けてください
2部全体タイトル案:質問リストを携えて,理系高校生が専門家と議論してみました
避難と建築物の性能のあり方について
――今日は、戸山高校の学生さんたち5名の皆さんと座談会をし、その中で議論したことを先生方への「質問リスト」として作製していただきました。この後半の座談会では各分野の先生方に参加していただき、質問についてより深く考えていきたいと思います。まずは簡単に自己紹介からお願いします。(佐藤)
佐土原 横浜国立大学の佐土原と申します。私は建築や都市の環境が専門で、エネルギーについても研究しています。震災の日は、ちょうど建築会館にいて、そのまま一泊しました。
濱本 東京都市大学の濱本と申します。私は構造の分野に所属しています。震災の日は大学の研究室にいました。非常に長く揺れていましたが、私は結構鈍感な方で、ずっと研究室内に留まっていました。その後、大学から学生たちに早く家に帰るよう連絡がありましたが、実際は交通機関がみんなストップして帰れませんでした。結局、大学の体育館が開放され、学生たちはそこで寝泊りしました。大学からおにぎりがふたつずつ支給されたと思います。私は自由が丘まで歩き、親戚の家に泊めてもらいました。東京でも帰宅困難者がたくさん出ました。やはり東日本大震災は、「想定外」「未曾有」などの言葉が使われましたが、津波による被害が大きく、建築分野ではそれほど対策が考えられてこなかったことでした。
布野 東大助手、東洋大学講師、京都大学助教授、2015年3月までは滋賀県立大学で、今は日本大学生産工学部で特任教授をしています布野です。国公私立全て経験したのは珍しいかもしれません。分野は建築計画で、まちづくりを専門としています。僕は第二次提言には関係していないのですが、学会の復旧・復興支援部会の部会長を務めました。震災当日は滋賀にいましたが、たまたま仙台の宮城大学に京大布野研究室出身の竹内泰(現東北工業大学助教授)先生がいて、南三陸町出身の学生の実家の支援のために番屋を建てるというので、支援しました。毎夏、インターユニヴァーシティで木について学ぶ「木床塾」でお世話になっている加子母村(岐阜県中津川市)の支援を受けて、全国大学の学生が参加して、連休には完成させました。復興のための拠点になったと思います。「みんなの家」とか「竹の会所」とか、建築家の多くが拠点づくりに参加しました。
北原 弘前大学の北原と申します。専門は都市計画やまちづくりです。生まれは三重県伊勢市ですが、親の関係で仙台にいたことがあり、大学も東北大学でした。当日は弘前にいて揺れを感じ、インターネットを見ると東北の地震だということがわかりました。親も仙台に住んでいて、息子が東北大の3年生でしたが、電話がつながらず安否が心配でした。息子はTwitterで無事を知りました。今は岩手県北上市に拠点をつくり、いろいろな街の復興の仕事をしています。
小野 私は小学生の頃から建築に興味を持っていて、今も建築家を目指して大学に進学したいと思っているので、このような機会はとても嬉しいです。
吉田 私は数学をやっていて、建築についてはあまりわからないのですが、よろしくお願いします。
新藤 僕もあまり建築に関してあまりよくわからないのですが、身の回りに関係する話題が多いなと思っています。
中島 震災後に疑問に思ったことなどを直接専門家の方に聞けるので嬉しく思います。
新井 これまで建築の分野がこれほど震災に関係しているとは思っていませんでしたが、よろしくお願いします。
――それでは、高校生の質問リストから,先生方の気になるものから順に話ができればいいかなと思います。いかがでしょうか。(佐藤)
佐土原 ここは都心ですが、質問リストの「高層階で被災した時の避難方法」というのはどういう意味の質問ですか。
新藤 当時小学5年生だった頃に、友だちが住んでいた高層マンションが大きく揺れていました。災害時にエレベーターが止まったり、階段に人が集中したりした場合、どう避難するか,また、避難方法があっても本当に安全かどうか証明されているのか疑問に思っています。
濱本 まず構造分野からの意見です。建物を設計する時には、どんな地震が来るのかをあらかじめ考えています。たとえば新宿に建っている建物は、今回の震災を経験する前に設計されていて、その当時の知識によって建てられています。ですが、東日本大震災は想定と違っていて、すごく遠くからやってきて、非常にゆっくりとした揺れでした。地面の振動数と構造物の振動数が一致する「共振」によって、すごく揺れたのです。そのような長周期の揺れだと、高層階では身動きが取れませんから、避難できない状況でした。その時その時の最先端の知識で設計されているはずですが、新しいタイプの地震が起きる度に、その経験をフィードバックしてより安全なものをつくっていこうとしています。かつて建てられたビルも、長周期の地震に耐えられるよう、レトロフィットという改修をしています。
東日本大震災は1000年に一度とか、500年に一度と言われていますが、自然現象としては同じような地震は過去にも繰り返し起きているのです。社会の記憶からは消えてしまっているだけで、やはり、今回の最も大きな教訓は、自分たちはちゃんと自然のことを考えながら新しいものをつくってきたのかもう一度見直すべきだということです。
布野 高層マンションだけでなく,高層の業務商業複合のビルで劇場のような多数の人を集客する施設を高層階につくっているのは,問題です。避難のシミュレーションをしてみると結構大変だと思います。建築計画としてまずおかしいですね。
北原 落ち着いて逃げれば本当は大丈夫でも、全員が整然と階段を降りるはずがないですし,余震も来ますから、やはりパニックになると思います。大人数が高層階にいる建物からの避難ということで,人間の心理的な側面が集団行動にどう結びつくか予測不可能な面もあります。
佐土原 建築会館でも、揺れが収まると一斉に人が降りてきたので,混雑して動きが取れないような状態になりました。実は超高層の中にいる人たちがみんな外に出てきてしまうと、足元のスペースは足りないのです。ですから、一斉に降りなくても大丈夫という情報をちゃんと出し、ビル内に留まってもらうようにするにはどうするかを考えているところです。そのあたりは今回の震災で考え方が変わった点のひとつです。
また、ビル内に留まるとすると水道、電気、ガス、そして情報というライフラインが問題になります。当時は,超高層マンションで、本来はより価格の高い高層階が売れなくなっていました。
小野 私は震災当時、小学校の校庭に避難したのですが、上からガラスが落ちてきたりすることもあるし、避難経路に割れたガラスが落ちていたら避難しない方が安全なのかなと思いました。
佐土原 高層ビルは柔構造といって揺れやすくつくられていますが、窓枠とかは固くできていますね。
北原 僕の学生時代に宮城県沖地震があったのですが、建物の玄関のガラスが落ちました。また、ブロック塀が倒れて、僕のすぐ側にいた小学生が亡くなりました。それ以前は、倒れないということが重視されていましたが、以来、ガラスの固定などを含め、新耐震基準ができました。でもやはり自然はそれを超えてきますから、安心はできません。小学校の避難訓練なんかでは、座布団みたいなものを頭に被って守りますよね。
――非構造部材、つまり柱や梁などのメインの構造ではない、窓ガラスなどが壊れるということをもっと検証しようということですよね。(佐藤)
布野 今回はあまりなかったのですが、阪神淡路大震災の時は、家具が倒れたり、飛んだりして、相当の人が亡くなっています。
――続いて,避難に関連する項目がいくつか質問リストに挙がっていたので,順に高校生の方から質問の内容を教えて下さい。(佐藤)
新井 携帯電話を持っていない小学生の登下校時に地震が起きたら安否確認をどうするのか気になりました。
小野 私も,震災以後、家族で避難場所を話し合うようになりました。
吉田 私も小野さんと同じで、家族で避難場所を決めています。
中島 家の近くにはちゃんとした避難所があるのですが、学校にいるときは、耐震がしっかりしているので学校にいなさいと言われています。
――こんなふうに,高校生の皆さんは家族で避難するときに「災害があったらどこに集まろう」みたいな話をされていて,とりあえずの集合場所として地域の広域避難場所をあまり目標にはしていないということがよくわかりました.もちろん地震をイメージしているか津波をイメージしているかで違うと思うのですが,都市計画的な観点からいかがでしょうか。(佐藤)
北原 いわゆる避難と聞くと公共的な建築物とか大きな空間にみんな逃げるイメージがありますが、東日本大震災では津波によって体育館などに集まった人が全員亡くなっています。一方、大船渡のある地域では、高台にある神社に避難して全員が助かりました。明治の津波の時以来、地震が来たら神社に逃げろと言われていたそうで、長く歴史が残っているところは比較的安全なのです。
布野 関東大震災の時も、避難のためにみんなが集まった場所に、火災が及んで、たくさんの方が亡くなっていますね。
北原 まず逃げる場所として津波がない場合は学校などに避難するのは正しいと思います。安全が確保されてから、水の支給などがある広域避難場所に家族で行くという二段階になりますね。集合場所を家族で決めておくのも良いと思います。神社は最初に避難する場所ですね。
佐土原 広域避難場所とは安全確保のための大きな空き地などで、避難生活をするところはまた別ですね。直後に避難する一時避難場所と、広域避難場所、防災拠点の3種類があります。
吉田 学校など避難所となる建物の安全性は確かなのでしょうか。
――特に学校などの公共的な建物は国の予算が付いていて、耐震診断と対策が進んでいます。耐震補強がされた建物とまだされていない建物を区別する表記・表示があるべきかもしれません。(佐藤)
減災か防災か,その前に生活できる経済基盤か
佐藤 そういえば高校生からも火災の話は出ていましたね。
中島 自宅が住宅密集地にあり、古い建物とか木造の建築が多いので、震災が起こったときの木造住宅密集地の火災対策をお聞きしたいです
佐土原 一例ですが公的な補助をしながら、建て替えの時に不燃化を進めています。面で広がってしまう火災を断ち切っていくものです。
北原 東京の墨田区とか足立区のあるエリアでは、木造の雰囲気を残すために、自主組織をつくり、防火用水を用意して訓練もし、初期の消火を自分たちでやろうとしているところもあります。そうしたコミュニティの力によって乗り切ろうという地域もあります。
佐土原 1923年の関東大震災の時は火災旋風が起きてしまいました。当時の報告書を読むと、本当に竜巻のように火が走っていたようです。ですから、その後の東京の対策は、基本的に火災対策として、安全な場所の確保をやってきました。たとえば、大きな団地を開発するときに、広域避難場所をつくるなどです。
濱本 1995年の阪神淡路大震災でも、やはり木造密集地帯が火事になってしまいました。初期消化のための道が、崩れた建物で塞がれてしまっていたことも大きな問題でした。火災対策だけではなく、倒れないようにちゃんと建築をつくっておくことも大切です。
新藤 いままで逃げ方の話だったのですが、それに関連して「防災と減災の具体的な違い」についてはどうでしょうか。これまでは「防災」が意識されてきたと思うのですが、最近学校で「減災」という考え方が出てきていると聞いたのですね。でも、どのように変わってきているのかということがよくわからなくて。具体的に身の回りでどのように変わってきているのか教えていただければと思います。
濱本 構造分野からお話します。防災は英語で「prevention」で減災は「mitigation」と言われていますが、イメージしやすいのは、風に耐える松と、受け流す柳です。今回の津波については、やはり受け流すような建物の方が良かったのかなという話が出ています。構造的には,自然に対してひたすら真正面から立ち向かい対抗するより、ある程度自然の力を受け入れながら、それを弱めて被害を最小化し安全を確保することを設計に取り込むような考え方であると思います。巨大な防潮堤は防災を前提にしたものですが、陸と海がつながった豊かな生活や日常的な暮らしにとってはマイナスになります。嵩上げも、そのためには山が削られ緑や生態系が失われています。震災直後は特に「とにかく守る」という短絡的なところがありましたが、減災はもう少し引いた視点で全体像を見ながら災害に対応しようというものです。
北原 都市計画では、災害が起きることを想定し、それを技術や訓練も含めてさまざまな方法でできるだけ小さくしようという考え方です。たとえば、今、青森県で歴史的な町並みを残す仕事をしていますが、木造の雁木による積雪時の道、いわゆる「こみせ」は木造だから良いのであって、同じ形をコンクリートでつくっても興冷めしてしまいます。文化財としてではなく、使いながら残すために消火栓などを埋め込んだりしています。災害はゼロにはできないので、そこで生きたいという人たちのための減災を考えています。
佐土原 阪神淡路大震災や東日本大震災でわかったのは、防災技術を求めても、それを乗り越えて物事は起こるということを前提に考えておかないと対応が後手後手に回ってたくさんの人の命が失われてしまう。想像を超えた状況であっても被害を減らす対応を検討しておくという意味で、減災は大きな転換だと思います。
北原 あとは、防災か減災かという話以前に,これからその土地でどうやって食べていくか。堤防や嵩上げだけではまちづくりになりませんし、農業や商業にしても、産業が成り立たなければ復興になりませんので、災害対策とあわせての復興にはまだまだ時間がかかると思います。
布野 東北地方は少子高齢化が進んでいて、日本の将来の縮図と言われていたんですが、今回2万人もの人が亡くなり、一気に2050年の人口規模になりました。被災地の問題は、日本のあらゆる地方は同じ問題を抱えているわけです。少子高齢社会、人口縮小社会で、どうサステイナブルな社会をつくっていくか、わかりやすく言えば、それぞれの地域がどうやって食べていくのかが大問題です。
北原 岩手の大槌町で、ワークショップに地元の高校生に参加してもらっています。おそらくみんな大学や就職で仙台とか東京に行ってしまいますが、自分たちが関わってつくった公園に戻ってきたいという気持ちを持ってもらおうとしています。20年後に効いてくるのかもしれません。
――私は防災の嵩上げや防潮堤に反対なのですが、皆さんは率直にどう思いますか。(佐藤)
中島 街自体がなくなってしまったので、わざわざお金をかけて防波堤をつくるよりは、安全なところでまちづくりをしていく方がいいと思います。
新藤 嵩上げしても津波の被害は絶対あると思います。減災という考え方は、単にものを築くことだけではなく、教育やワークショップによって人から変えていくことの重要性ともつながっていると思いました。
北原 1000年に一度の災害に耐えられるようなものをつくっていますが、われわれの人智を超えた5000年に一度の災害だって起こり得るわけです。最近になってようやくみんながあのスーパー堤防で誰を守るのだろうかと考え始めましたが、震災直後は誰もそんなことを言えませんでした。国の復興予算が付いていて、既に発注まで終えてしまっています。石巻では、今復興庁のお金で再開発がいくつか動いていますが、それらはなかなか完成が見えません。一方で、たった4人で発起した「COMICHI石巻」という小さなプロジェクトは復興交付金をもらわずに完成し、イタリアンレストランやお寿司屋さんが入っています。大きな計画よりも、やりたいという意思を持った人たちが自力でやっていったほうが動くということがわかってきています。
佐土原 減災にとっては日常と災害時の連動が大切ですね。1000年に一度を想定して防潮堤で防災をしても、それが本当に機能するかどうかが問題です。
――少しトピックを変えて、「仮設建築の必要形態」という質問を書いた人は。(佐藤)
小野 建築学科に通う大学生の知人が、ゼミが陸前高田の方で、仮設住宅に住む人たちに話を聞いたそうです。その時に一番多く耳にしたのが、地域の人たちとコミュニケーションできる公的な建物がほしいということでした。誰も利用できるような図書館のような建物が必要なのかなと思いました。
北原 阪神淡路大震災や中越地震の経験もあったので、ボランティアのNPOの人たちもかなり入り、仮設団地の集会室が機能しているところもあります。一方で今問題なのは空き家の戸建住宅に被災者が入った「みなし仮設」です。仮設団地であればイベントもできますが、バラバラの戸建住宅に突然入った人たちはコミュニティがありません。潜在的にどれくらいいるかも把握できていませんし、大きな問題ですね。
あと、仮設団地でも財力のある人は出ていきますから、だんだん歯抜けになっていって、焦燥感や諦めが生まれてきます。そうするとコミュニティが崩壊していきます。
布野 阪神淡路大震災の時にはくじ引きで仮設住宅の入居者を決めたんですね。あまり、入居者のコミュニティを考慮しなかった。店屋や集会施設なども考慮しなかった。その経験を踏まえて、東日本大震災の時には、様々な工夫もなされ、集会所もつくられています。
北原 集会施設はあっても、図書館みたいな空間はないですね。公的な動きとしては、まず住宅が優先になるので難しいかもしれません。また、仮設住宅を規定する災害救助法は、厚生労働省関連なので、「まず収容しよう」という発想からつくられたものなのですが、本来ならば、ひとりひとりが自立した生活を営めるようなまちづくりの考え方が必要です。
マスメディアの切り口について
――今まだ「震災後(最中)のメディア」「省エネによる節電」などがまだ話題に出てきていませんがこれを書いてくれた高校生は?(佐藤)
新藤 テレビなどでは「省エネ」がかなり言われていると思います。たとえば蛍光灯がLEDになったり、技術によって実現できているところもあると思いますが、学校などのエアコンの設定温度など、人びとの意識には根付いていない気がします。何か策はあるのでしょうか。
佐土原 計画停電を経験すると、電気の大切さはよくわかると思います。建築学会の大きな取り組みとしては、照明の電力使用量についての研究があります。近年、企業による宣伝などによって、どんどん照明が明るくなってきていますが、いろいろ調査すると約半分までは落としても問題ないという結果が出ましたので、そうした提言をしています。東日本大震災後、電力の消費量を落とし、さらにLEDになってきたことで、冷房の負荷も下がっています。照明についての認識は大きく変わっていきています。
また、HEMS(Home Energy Management System)やBEMS(Building and Energy Management System)といったマネジメントや、スマートエネルギーシステムが出てきていますが、現状ではまだメーカーによる押し付け的なところがあり、本当に生活に馴染ませるにはどうするかが大きなテーマになっています。たとえば、健康や高齢化の問題と一緒に断熱のことを考えるとか、人が自発的に関われるような節電になればと思っています。
新藤 今、多くの原発が止まっていて、火力に頼り続けている状態ですが、どうやって再稼動させていくのか、もしくはもう使わないという方向なのか、どちらなのでしょうか。
佐土原 あれほど巨大で複雑な設備をこの災害多発国の日本で将来にわたって使っていくのかはやはり考えるべきです。今どうするかという一時的な問題と長期的な問題を分けて考えなければいけません。
新井 「震災後(最中)のメディア」についてなのですが、震災後、どのテレビ局も似たような情報が流れ、同じ会社の同じCMが何度も流れていました。情報発信という意味では無駄が多いようにも思えたので、例えば、地域やチャンネルを限定して、必要な情報を選べるようにしたり、見たくない人が避けられるような改善はできないかと思いました。災害時のメディアのあり方について新しい知見があれば教えていただきたいです。
濱本 東日本大震災後、SNSが注目されました。やはりある種マスメディアの限界が見えたのだと思います。
布野 米軍がものすごく活躍しても、CNNなんかでは流しているけど、日本では流さない。地元の工務店や建設会社が死体処理をしているとか、そうした活躍のことはほとんど放送されませんでしたね。
北原 沢山のテレビ局で同じようなニュースを繰り返されてもあまり意味がなくて、たとえばフジテレビは岩手、日テレは福島などを徹底的にやってもらった方がありがたいです。情報番組であることをもっと意識してもらいたかったという話をお聞きしました。また、FMラジオでは他の番組を止めて徹夜で安否や状況を放送していて、役に立ちました。阪神淡路大震災の時も長田区あたりでは、コミュニティFMができて海外から来ている人たちにも安心感を与えるような放送をやっていました。ラジオは今また見直されてきていますね。
佐野原 阪神淡路大震災と東日本大震災を比べると、YouTubeにアップされた映像など、視覚的な情報がすごく沢山あり、多くの人の災害に対する理解を助けています。たとえば、液状化については一般の人でもかなり理解が深まったと思います。
――東日本大震災の当時に,メディアについて私が感じたのは、例えば体育館の中に間仕切りをつくったり、簡易に組み立てられる仮設建築物を供給したり、建築分野の関係者がさまざまな活動をしたのですが、メディアには、一部の成功した事例が取り上げられるわけです。だけど、うまくいかない例もあったわけです。「こんなみっともないものをもってきてくれるな」と言う人もいたらしいのです。でも、あのときは本当に何がうまくいくか誰もわからないから、失敗して責められてもしょうがない、という覚悟でみんな取り組んだのであり、それも含めて伝えてくれないと真実を伝えたことにはならない。先に自分たちでおきまりのストーリーを描いておき,そこにはめ込んで報道しようとしたメディアにも問題があるように思いました。(佐藤)
座談会を終えて(高校生の感想)
――最後に高校生の皆さんに感想や考えていることなどを一言ずつ述べていただけますか。(佐藤)
新井 建築の専門家の方々が沢山震災に関わっているということを知ることができてよかったです。ありがとうございました。
中島 震災だけを考えるのではなく、普段の生活から防災を考えていくということが心に残りました。とても勉強になりました。
新藤 減災という考え方がとても響きました。人の気持ちや行動なども重要だということがわかって、これからそういった視点を広げていけたらいいなと思いました。
吉田 震災復興は今もうメディアにあまり出てこなくなってきていて、もう終わったかのように感じていましたが、今日お話を聞いて、長期的なスパンで見なくてはいけないものだと知りました。これから私が大人になっていく上で何かしら貢献できたらいいなと思いました。
小野 建築は、いろいろな専門分野が総合されている学問だと深く感じました。いろいろな分野を学ぶことで、震災復興などの社会的な貢献にもつながるのだと思いました。
[2015年12月8日、ハロー貸会議室田町にて]
2022年4月6日水曜日
2022年3月22日火曜日
『図書新聞』読書アンケート 2016上半期 下半期
『図書新聞』読書アンケート 2016上半期 下半期
2016年度上半期
① 磯崎新、偶有性操縦法、青土社
②黒沢隆、個室の計画学、鹿島出版会
③河江肖剰、ピラミッド・タウンを発掘する、新潮社。
①のサブタイトルは「何が新国立競技場問題を迷走させたのか」。ザハ・ハディドを見出した世界的建築家による怒りの追悼書である。女性、イスラーム圏出身ということで「魔女狩り」にあったと言うが、その批判は建築界さらに日本の政財界のディープな深層に及ぶ。「ハイパー談合システム」「「日の丸」排外主義」…その告発は鋭く重い。東京オリンピックに向けていくつかの施設建設が進められつつあるが、建設業界の空洞化は覆うべくもない。②は、2014年に亡くなった建築家の論集。薫陶を受けてきたものたちがそのエッセンスを編みなおした。個室が集まって一軒の家になる、そして・・・都市になる。その組み立てを今問う意味は大きい。③は、ピラミッドをめぐる考古学的知見の最新情報を知ることが出来る。著者によればニューエイジャーの疑似科学ということになろうが、渡辺豊和『縄文スーパーグラフィック文明』(ヒカルランド)は、建築家の溢れ出る創造力の顕在を示す。
布野修司(建築批評)
2022年3月15日火曜日
2021年5月5日水曜日
進撃の建築家 開拓者たち 第3回 開拓者01 渡辺菊眞(後編)地域=地球のデザイン 「宙地の間」
進撃の建築家 開拓者たち 第3回 開拓者01 渡辺菊眞(後編)「地域=地球のデザイン 「宙地の間」」 『建築ジャーナル』2016年11月(『進撃の建築家たち』所収)
進撃の建築家 X人の開拓者たち-今つくる意味を問う:新たな建築家像を求めて 03
開拓者01 渡辺菊真
地球=地域のデザイン
「宙地の間」(渡辺菊真)
布野修司
「宙地の間」は「そらちのま」と読む。英語ではHome between Earth and Skyである。「宙」というのは、日本語では「宙に浮く」「宙に舞う」というように「空」すなわちSky、空間だけれど、中国語では「宙」は時間である。空間は「宇」であり、「宇宙」とはすなわち空間=時間のことである。『淮南子』[1]「斉俗訓」の「往古来今謂之宙、四方上下謂之宇」に由来する。「宙地の間」(図①)には、日時計が組み込まれており、時間の意味も込められている。「間」は、もとより、空間、時間の双方に関わる概念である。S.ギ―ディオンの『時間・空間・建築』を想起させる。
渡辺菊真は、最近の講演などで、「地域地球型建築をめざしてTowards a Glocal Architecture」とうたう。L.コルビュジェの「建築をめざしてVers une architecture」が意識されているのであろう。
「地域地球型建築」とは何か。戦後70年を迎えて本誌に求められ「世界資本主義と地球のデザイン」と題する文章(『建築ジャーナル』2015年12月号)を書いた。そして「「地球」のデザインと「住居」のデザイン、あるいは「地域」のデザインはどう結びつくのか。それこそ「最も豊富なる部分をもつ<全体の>」のデザインの問題である。」と結んだ(『戦後建築の終焉-世紀末建築論ノート』(1995))。「地域地球型建築」という理念とその実践に大いに期待したいと思う。
この場所この地球、あの建築
「この場所この地球(ほし)、あの建築」と題した『高知新聞』の連載は2013年1月から毎週1年連載された(2011年1月10日~12月26日 週刊連載)。毎週送ってもらって感心したのは、「京都CDL」の「ミテキテツクッテ」について触れたように、新たに移り住んだ土地であるにもかかわらず、何気ない風景の意味を深層から読み取って見せる、その眼力である。
「この場所」、そして「この地球」という視線が今建築家に要請されていると思う。 そして、「この建築」にそれを表現したい。
修士論文は、上述のように、「京都における「余白」の発見と、その構成手法に関する考察」と題されていた。そして、個展(1998)は「「風景」建築→建築」と題される(図②)。「余白」ではなく「建築」へ→が向かっている。「風景」がキーワードとされるが、そのプロジェクトは、建都1200年を迎えて喧しい議論が手展開されていた京都の景観問題を背景に[2]、京都ホテルの敷地に京都という都市の機能を全て入れ込もうというある種のカウンター・プロジェクトであった。
想いだすのは、原広司の「住居に都市を埋蔵する」(「最後の砦としての住宅設計))というスローガンである(「第八章 集落から宇宙へ」『建築少年たちの夢』)。例え「猫の額」のような宅地でも、その住宅に都市を、そして宇宙の意味を込めること、渡辺菊真は「あの建築」ではなく、自らの建築として実現しようとしているように見える。
アート・フロント
菊真の手掛けてきた「土嚢建築」は、もう1つの出会いを招く。そして、美術館という制度の中で美術品の展示という形で表現の場を得ることになる。「土嚢建築」は、現代の日本においては建築として自己を実現することはない。建築基準をクリアすることができないからである。仮設建築物としては可能性があるかもしれないが、その実現のためには、とてつもないエネルギーがかかる。きっかけとなったのは、現代美術家高嶺格による「「Good House, Nice Body〜いい家、よい体」展(金沢21世紀美術館)である(2010)。渡辺菊真は、共同で「Good Houseいい家」を高嶺氏と共同で制作した[3](図③)。
住むことwhonen,生きることleben、そして建てることbauen、さらに考えるdenkenことが同じである(M.ハイデガー)位相と格闘してきた渡辺菊真にとって、日本の住宅建設のあり方がむしろ異様に思えたことは当然である。高嶺格は、決してアイロニカルにではなく「Good Houseいい家」を提起しようとしたのであり、「土嚢建築」「鉄骨足場建築」に建築の原初の力を見たのだと思う。
そして、「水と土の芸術祭」の産泥神社のオープン・エア展示がある(図④)。「水」と「土」というのは菊真にぴったりだろう。招待されるべくして招待された。テンポラリーな展示として実現するのであるが、「土嚢建築」だから「黒テント」ほどの機動力はないけれど、都市への強烈な表現手段を意識化することになった。アーティストとしての菊真も魅力十分である。高知県安芸市の大山岬に建つお遍路さんの休憩所「夢のリレー−大山岬にたつ遍路小屋「波動」-」(図⑤)、双隧の間(図⑥)など、インスタレーション作品にその豊かな造形能力の片鱗を示している。
角館の町家
建築家として建築雑誌に発表(住宅特集』2006年6月号)したという意味で処女作となるのは、「角館の町家」(1995)である(図⑦)。渡辺豊和さんの生家のリノべーションである。「みちのくの小京都」角館は、南北二つの町、北の武家屋敷が立ち並ぶ「内町」、南は間口の狭い商家がびっしりと連なる「外町」からなる。渡辺家はこの「外町」にあり、すぐ近くのには、大江宏先生の「角館伝承館」がある。空家となっていた生家にお邪魔して昼寝をさせてもらったことがある。この二つの町の間を走る街路が拡幅されることになり、築100年の町家をそのまま曳家し、新たに水回りを備えた建物を増築する仕事を任されたのである。
日本は最早スクラップ・アンド・ビルドの時代ではない。既に地方は人口減少に向かい、空家問題が深刻である。ずいぶん前から言ってきたけれど、若い建築家が日本で仕事を得ようとすれば、身近なのはリノベーションであり、既存の空間のメンテナンスである。そして、第2には、まちづくりである。地域社会(コミュニティ)のサポート、ケアを仕事にすることである。オーソドックスな建築家として仕事を得ようとするのであれば、需要のあるところ、すなわち海外に行くしかない。渡辺菊真の場合も、リノベーションによって建築家としての歩みを開始したことになる。
ここでも、菊真は、町並みと町家の来歴を読み込むことから始めている。除去した築150年の平屋は3代前、移築した町家は曾祖父、敷地一角には祖父が建てた書庫があり、その3軒をつなげた折れ曲がり渦を巻く動線を活かし立体化した。曾祖父の建てたのは角館最初の2階建町家で、それが典型となったように、移築+増築の方法も「典型」となることを目指した。移築した町家は国の登録文化財に指定されている(2010年)。
土嚢建築
「土嚢建築」はわかりやすい。土嚢という建築材料・部品が大きく全体を規定している。本来、日乾煉瓦によって建設されてきた建築構造システム、空間構成システムを置き換えることによって全体は成り立つ。建設期間を大幅に短縮させる方法はN.ハリーリN(1936~2008)[4]の開発したものだ。渡辺菊真は、上述のように、半ば偶然、カルアース研究所に行って土嚢建築と出会う。
アースバック構法Earthbag Construction、スーパー・アドベSuperadobe構法とも言われるが、土嚢袋を壁状に積み上げ、有刺鉄線や杭などで土嚢袋をズレないように固定していくのがミソである。施工がしやすいこと、安価であり、断熱性や防音性にもすぐれる。問題は、黄麻の土嚢袋が湿気で腐ることである。そこでポリプロピレン袋が使われるが、日光に弱いという問題もある。石化材料を使うのもエコ・アーキテクチャーとして一貫性に欠けるという指摘もあるが、ひとつの構法提案である。何億という住宅難民のために、建築家が果たすべき役割は数多くあるのである。
渡辺菊真の「虹の学校」における独創は、「土嚢建築」「鋼管足場」、竹骨、竹床、アランアラン(草)葺きを巧みに組合せたハイブリッド構法によって、誰も見たことのない空間をつくりあげたことにある。
日時計
さて、「宙地の間」である。「宙地の間」の場合、プリミティブに建築材料が限定されることはないし、「角館の町家」とは異なり、予め前提とすべきフレームもない。しかも自邸であり、要求条件を自ら設定できる。その方法が問われることになる。
渡辺菊真が、空間構成の骨格として選び取ったのは日時計である。具体的には、敷地に合わせた緯度(北緯 34.60°)勾配の南面する大屋根の下に半円筒形の時計版を設置し、屋根のトップライトから注ぐ光線が時刻を示す赤道式日時計が組み込まれ、全体を大きく規定しているのである。何も奇を衒っているわけではない。その骨格に、パッシブデザインの手法が周到に重ねられている[5]。すなわち、井山武司に学んだ「太陽の家(ソラキスSolarchis)」の基礎技術が基本とされている。そして、何よりも、太陽の動き、天候を居ながらにして感じる、自然との交感が意図されている。
実に興味深いのは、渡辺菊真が「標準型の設計」をうたうことである(渡辺菊真「宙地の間—日時計のあるパッシブハウス」『建築討論』006号 https://www.aij.or.jp/jpn/touron/6gou/pdf/pdf_review_work09.pdf)。思い起こすのは、渡辺豊和の「標準住宅001」である。渡辺豊和論として書いたけれど(「第六章 建築の遺伝子」『建築少年たちの夢』)、渡辺豊和さんの一連の住宅作品は、概念建築の作品と思われていたけれど決してそうではない。住宅を芸術作品と考える作家でも、クライアントの要求に丁寧に答える住宅作家でもなく、建売住宅や商品化住宅も含めて、「標準住宅001」という命名が示すように1つの建築類型を提示する基本的構えがあった。「宙地の間」は、その構えを基本的に引き継いでいる。
ユニヴァーサル・ローカリティ
「宙地の間」は、完全に設計方法を内包している。すなわち、地球上どこでもその方法は適用可能である。もちろん、同じ「標準型」がそのままどこでも建てられるということではない。標準設計という概念があるから「標準型Standard Type」という概念は使わないほうがいいと思う。「宙地の間」は「原型Architype」あるいは「基本型Prototype」であり、具体的な場所(敷地)に適用する場合、それなりの設計プロセスが必要である。日時計を機能させるために、建築を正確に南面させて配置する必要があるが、不定形敷地であったり、傾斜地であったり、景観であったり、それぞれに創意工夫が必要である。すなわち、表現は多様でありうるのである。
渡辺菊真は、21 世紀型の空間概念として「ユニヴァーサル・ローカリティUniversal Locality=Universal Sun ×Local Earth 」をミースv.d.ローエの「ユニヴァーサル・スペース」に対置する。「敷地の緯度が建築の標準断面を決定する。次にこの「標準型」を敷地状況へ適応させる。建築資材は地域産材の吉野杉を使用し、その架構に優れた技術を持つ地域の工務店が施工を担う。個別で此処にしかない存在である大地が空間に具体性を生む。」。既に、揺るぎない方法が確信されており、進むべき途は見据えられていると言っていい。
「宙地の間」は決して完成型ではない。日時計が架構方式に組み込まれていないのはいささか不満である。確認申請の手続き上、構造耐力に認められなかったのだという。おそらく、さらなる試行錯誤と洗練化が必要となるだろう。そして、集合住宅モデルなど、多様な建築類型について「宙地の間」の展開を見たいと思う。
もちろん、渡辺菊真への期待はそれにとどまらない。アジア・アフリカをまたにかけた土嚢を積む身体を張った作業からまちづくりまで、職人仕事からアーティストの仕事まで、機会を捉えてまた縁に導かれて、突き進んでほしい。
[1] 前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179~122年)が編纂させた思想書。
[2] 京都の景観問題については、布野修司+アジア都市建築研究会編(1994)「特集:建都1200年の京都」『建築文化』彰国社参照。
[3] 「住居という最も大切で根源的な場所を、しっかりお膳立てされたカタログから選ぶことの奇妙さ、そんな「カタログショッピング」にほぼ一生を費やして大金を払い続けねばならない過酷さ、さらには多種多様のペラペラな壁紙によって保証される「個性」という虚偽(私はこんな壁模様を選んだ、それはお隣の壁とは違う。うちだけの個性!これはドアノブの形状などにもあてはまる)。それは「すみか」と呼ぶにはあまりにかけ離れている。そこで「いい家」では、そんな状況から背を向けて、この手に「すみか」を奪還することを最大テーマとした。」という。
[4]
N.ハリーリはイラン生まれで、トルコ、合衆国で建築を学び、1970年に合衆国の建築家ライセンスを得ている。その土嚢建築が生まれ育った西アジアの伝統的建築に想を得ていることは明らかである。N.ハリーリは、1975年以降、土建築の専門家として、第三世界の住宅開発のための国連のコンサルタントなる。1984年に彼はスーパー・アドベ・システムを開発し、NASAも興味をもったとされるが、国連開発計画UNDP、国連難民高等弁務官事務所UNHCRは、湾岸戦争以降、難民のためのシェルターとして期待している。そして、1991年、カルアースCal-Earth (California Institute of Earth Art
and Architecture)Iを設立する。2004年には、アガ・カーン賞を受賞している。
[5] パッシブハウスの基本であるダイレクトゲインを重視し、南面大開口からの光の受容と遮断を行う庇の出は設置緯度における太陽南中高度により設定されている。外壁および屋根の木部は充填断熱、RC高基礎部は内断熱を施している。そして、部屋に露出するRC高基礎の腰壁は蓄熱体として活用している。切妻屋根頂部に暖気抜きの窓を設け良好な通風が得られるよう留意されている。
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