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2022年9月19日月曜日

西川幸治名誉教授インタビュー、教室を知的探検と交流のベース・キャンプに、traverse 新建築学研究 07, 2006

 2006/04/22 京都大学工学部/西川、布野、伊勢、土屋、高橋、田島

西川幸治名誉教授インタビュー

教室を知的探検と交流のベース・キャンプに

traverse 新建築学研究 07, 2006 

 

■彦根中学から三高へ

布野先生は、建築系教室への帰属意識はあんまりないとおっしゃいますが、そもそも何故、建築学科だったのか、あたりからお話していただけますか。

西川消去法です。新制大学への進学は工学部に入りました。しかし、旧制高校3年のところを1年で追いだされ三高など旧制高校がつちかってきた教養への執着と休学がきっかけになり、専門にこだわらない姿勢がうまれたと思います。

布野なぜ工学部だったのですか。

西川それは消去法でした。たしかに、戦中・戦後の混沌のなかで、空を眺める宇宙物理学、天文学への憧れはありました。三高は文科と理科しかありません。私は理科で、宇宙物理とか地球物理などに関心がありました。しかし「じっさい、モノを作る方がいいですよ」と言う三高校の先生がおられました。

布野数学は得意でしたか。

西川数学はわりと好きでした。それは戦中末期で、45年の815日というのは大転換です。すべてが変わりました。

布野その時はおいくつでしたか。

西川彦根中学の3年生です。色々考えたり、将来を思う時期でした。

布野彦根中学というのはどこら辺にあるのでしょうか。今の彦根東高校ですか。

西川そうです。終戦を期に、価値観が大きく逆転換するのを痛切に感じました。のなかで変わらなかったのが数学とか理科なのだと。

布野天文学ですか。

西川中学1年の時、宇宙物理学の山本一清の『天体と宇宙』(1941)という本を読みました。京大の宇宙物理の先生で、花山天文台長などもしています。のちに出身地である、大津の田上に天文台を作って、そこが当時アマチュア天文学のメッカになっていました。今ものこるこの田上の天文台は地域の文化財として顕彰すべきだと思っています。

布野三高しか志望しなかったのですか。横尾先生は横須賀ですが、三高行こうか、一高行こうか、迷ったと聞きました。

西川戦時中の中学は大変でした。当時、華やかだったのが海兵・陸士でした。彦根中学というのは、あまり軍人が出ない所でした。なぜか終戦間際には海兵にたくさん合格しましたが。

布野彦根は、ずっと井伊家、譜代大名で、幕府の中枢にいたわけですが、明治維新以降、少しパッとしなくなった。

西川彦根は幕府の譜代大名の城下町で、薩長を中心としたいわゆる明治政府からは疎外された城下町でした。それだけに、近世の景観をよくのこしています。

布野裏返しですね。幕藩体制を支えてきたわけですから。

西川そうです。もし、井伊直弼が桜田門外で暗殺されていなかったら、彦根は会津のような運命になっていたでしょうね。城下町も残らないし、城はもちろん破壊されたでしょう。戦後になってどこかに進学という時に、三高か八高か四高のどこかを考えました。

布野八高が名古屋、四高が金沢ですね。一高はないですね。

西川一高は考えなかったけれど、存在は知っていました。子どもの頃、佐藤紅緑の『あゝ玉杯に花うけて』という本を読んでいたので、小学生の頃に一高だけは知っていました。その頃は三高の存在は知らなかったくらいです。戦後、親しい人が三高に入りました。

布野三高に来られて下宿はどこでしたか。

西川最初は五条坂にいました。父が昔下宿していた所です。夏休みあけの昭和239月に北白川に移りました。それから大学院出るまでずっと下宿は北白川です。

布野学生時代からずっとですか。

西川そうです。学生時代からずっとです。

布野三高というのは要するにここ京大ですね。

西川そうです。文・理科あわせて1000人位の生徒がいました。

布野入られて、それで建築に決められたのはどういう経緯ですか。

西川当時、学制改革で、非常に不安定でした。私達が入った時は旧制高校のままで卒業できるかどうかわからない状況でした。

布野新制と旧制との切り替えの時ですね。

西川文科甲類には小松左京がいましたね。

布野多分、建築界なら磯崎新がそうですね。

西川川上秀光さんとは同級です。

布野川上先生は三高ですか。

西川そうです。三高で同じクラスで二人建築に進み、私は京都に、彼は東京に行った。

布野磯崎新も同じ歳だと思います。

西川私もどこかで会っています。伊藤ていじさんに紹介されて磯崎さんと川上さんたちに会いました。

布野八田利也というペンネームで、活躍しましたね。

西川—GMP、原稿、マスプロダクション(笑)そこに伊藤ていじさんに連れられて行って、三人とはなしました。

布野伊藤ていじ先生はちょっと上ではないですか。

西川あの人は旧制の四高出身で、岐阜の人で歳はかなり上です。

布野入られた時から川上先生は知り合いだったんですか。

西川同じクラスでした。とにかく彼は元気でしたよ。活発にヨットで琵琶湖に遊んだりしていました。

布野川上先生も建築、西川先生も建築。その辺の雰囲気を僕は聞いたことがないんですよ、巽和夫先生とか横尾先生とかにも。三高から来た先生はあんまりいないんじゃないでしょうか。名誉教授クラスには。

西川あんまりいませんね。森田慶一先生、西山先生は三高、村田先生、坂先生は一高だときいています。

布野東大です。藤井先生と武田五一は福山出身でしょう。

西川武田五一先生は三高で、新徳館という木造の講堂は武田先生の設計でした。藤井厚二先生は六高だときいています。ところで新制第一期には作家の高橋和巳がいます。彼は松江高校ですが。

布野僕も松江です。

西川彼は松江高校で、中国文学専攻です。奥さんは仏文出身の高橋たか子。作風は大分違いますが。

布野黒川紀章と同級。黒川さんはちょっと先生より下でしょう。

西川森田さんと同じクラスだった。2,3年下ですね。同じ世代では高橋和巳を一番愛読していました。『悲の器』などはいい本です。若くして亡くなってしまいましたが。彼が進々堂なんかで昼飯を食べて帰ってくる時に、顔を合わせることはありました。目礼するくらいの間柄だったけど、しゃべったことはないです。

布野彼は文学部ですね。大学闘争時代に、高橋和巳は、造反教師というか、学生からはスターでした。僕も、全集買って読みました。

西川紛争の頃、立命館にいました。吉川幸次郎さんが引き戻したのです。吉川さんは自分にはないものをもつ弟子を選んだんでしょう。中国文学にはたくさん秀才がいましたから。当時いろんな人がいましたよ。みんながレギュラーなコースで行くのではなくて、私と同じクラスに高瀬昭一さんというのがいて、三高から、東大の理科へ進学しましたが、次に会った時には東大の美学美術史に行ってました。映画に関係し、やがて朝日新聞に入って、朝日ジャーナルの編集長をしていました。神戸から来た江戸さんは物理の湯川研へ進学しましたが、やがて、美術評論家の中原佑介として活躍しています。

 

■結核

西川私は休学しているのです。京大に入って、二年目の時に。ですから二回生を二回しています。

布野それは意識的にですか。

西川結核です。伊藤ていじさんほど悪くはなかった。伊藤さんは肺が空洞になって肺切除の手術を受けたと言っておられました。私はそこまではいかず、浸潤で終わっているわけです。

布野建築に入るというのはいつ決めたのでしょうか。どうやって選んだのでしょうか。

西川いろいろ教室を見て歩いた記憶はあります。建築教室では廊下に福井地震で被災した建物の大きい写真がかけてあったのが印象にのこっています。結局、どこも気乗りがしなくて、消去法で選んだのです。

布野当時、どこに製図室がありましたか。

西川製図室は今の新館と本館の間に小さな平屋があってそこが製図室だった。その製図室が1回生と2回生で、3回生になったら隣の環境の実験室も製図室でした。やがて、2階がつけたされ、本館東の建物は新制の大学院の室になりました。

布野先生は設計製図はどうでしたか。30人中一番描けたのは誰ですか。

西山目良純さんとか柴田勝之(坂倉)、金本貫治(大建)らが、デザイン志望でした。私自身、医者に製図は胸に悪いと言われて、敬遠していました。

布野結局、建築史を選ばれるわけですね。

西川その頃に西山さんの『これからのすまい』を読んで、ああいうアプローチの仕方があるのかと面白いと思っていました。

布野藤原悌三先生は、この四月で滋賀県大を退官されましたけど、やはり西山先生はインパクトがあったと退官記念講演会でお話になっていました。

西川私も面白いなと思いました。終戦直後の『新建築』に西山さんの長大な論文が載っており、すごいなと思いました。あの戦後の混乱の時代に夢のある計画だという気がしました。

布野もともと『新建築』は関西ですしね。

西川あれは村田治郎先生が『新建築』に西山さんを紹介したとおっしゃっていました。

布野例の「新建築問題」が出てくる時に京都の偉い先生たちがいちゃもんつけたということを聞いてるんですが。1950年代に新建築問題で川添登さんとかが辞めた事件があるわけです。それは村野先生の「そごう百貨店」の批評が問題のきっかけになった。「そごう」は、新橋駅前の今はビックカメラになっていますが、その横は「東京フォーラム」で、丹下さんの「東京市庁舎」を建て替えた。「そごう」を批判して書いたら吉田社長が「編集部全員クビ」と言った。その時に村田先生が京都から「村野に文句付けるとはどういうことだ」と言ったことは事実みたいなんです。それで『新建築』ががらっと変わった。『新建築』には絶対作品を発表しないという建築家も出たんですね。

西川初めて聞いた。そんな事に村田先生は関心があったんだろうか。

布野代わって編集長になったのが清家さんとか東工大グループなんです。少し横道にそれましたが、先生が昭和29年に建築を選ばれた。その時の教授陣は。

西川私が入った時には年輩の先生では計画・意匠は森田慶一先生、建築史は村田治郎先生、構造は鉄筋コンクリートの研究をされていた坂静雄先生、鉄骨構造・施工の棚橋諒先生、環境の前田敏男先生の5人だったと思います。

布野その時は西山夘三先生は助教授ですね。

西川西山先生はおかっぱ頭で、花森安治とならんで有名でした。ほかに講師で増田友也先生がおられた。

布野—4回生おわって、大学院に行かれた。

西川休学したので転学部しようかと本気で考えました。

布野なぜ転学部を。

西川僕は社会学か経済か心理に行こうかと。休学中に読んでいたのがそういう系の本だったから。それを断念して、踏み留まったのはやはり、T.V.A.Tennesee Valley Authority)に関するD.E.リリエンソールの『T.V.A-民主主義は進展する-』でした。これを読んで感銘しました。

布野僕達でもピンとこないし、若い学生はもっとわからないと思いますが。

西川アメリカの地域総合開発です。それを新しい民主主義の考え方と手法で、草の根の民主主義に根ざした手法で、テネシー渓谷を総合的に地域を開発するということで注目されました。アメリカにおけるニューディール政策のもとですすめられたのです。

布野それを読んだのはいくつの時ですか。

西川昭和24年の刊行ですから大学に入ってからですね。和田小六という人が訳した本で、10年位前に復刊されました。T.V.Aの開発方式というのは批判されるようになってからです。当時、影響を受けた人はわりと土木とか建築には多いで.すよ。私達の世代はT.V.A.を読んで影響を受けた人は多いと思います。

布野土木とか建設に行くぞという人が多かった。戦後復興が大課題でもあったからですね。

西川あの本というか、T.V.A.の功罪について、きちんと検討すべきだと思います。戦後の20世紀後半の総合開発はほとんどがT.V.A.がモデルとしているようです。アフガンでもヘルマンド・バレー・オーソリティが、それはアメリカのを直輸入して結果的には失敗したと言われていました。東南アジアのメコン川など大河川でもT.V.A方式の地域開発がすすめられました。日本でも奥只見や愛知用水はそうでしょう。それらをT.V.A.のモデルとしてどの部分が成功してどこで失敗したかをきちんと検討しておく必要があると思っています。

布野その話と社会学やりたいという話はどうつながるんですか。それと最終的に歴史にどうして行かれたんですか。

西川結核という病気は、死にいたる病なんですよ。命がゆるやかに消えていくのにずっと向き合う、今のガンのような急なものと違って。立原道造もそうでしょう、掘辰雄のような美しい文学も結核との関わりの中で生まれた文学でしょう。休学していた頃、抗生物質のストレプトマイシンとかパスなどの薬があらわれ、劇的に救われたのだと思います。

布野僕らは結核というのは頭ではわかっているけれど、その死に至る病ということは実感できない

西川いろんなところで救われたわけです。私はマイシンをのんだりして。人工気胸というのをやっていました。胸膜腔内に空気を入れて肺を縮めるわけです。週に1回、学部からドクターコースまで続けていました。気胸をやめるころに、ちょうど医学総会が京都であって、気胸は結核療養に役に立たないという結論がでたということでした(笑)。しかし、担当医は「あなたの場合は割ときいていましたよ」と言ってくれましたけど。たまたま休学している時に映画『カラコルム』を観ました。木原均先生を隊長とした調査の記録です。梅棹忠夫さんらがアフガンで調査しモンゴル族を発見する。

 

■学部から大学院へ:映画『カラコルム』を観る

布野それは大学院の時ですか。

西川まだ学部ですね。復学するかどうするかという時でした。同じ生があり、死なねばならないのなら、こういうことをやりたいなと思いました。

布野先生のモンゴルへのこだわりというのはそこからですか。

西川アフガンでの調査で、ちょうどイタリアの調査団と交流する場面がありました。それと梅棹さんたちがモンゴル族の末裔を発見する場面に感動しました。

西川イラン・アフガニスタン・パキスタン学術調査隊に参加することになった時、京大病院で相談したところ、アフガンに行かれた梅棹さんも気胸をしておられたよということで、参加の意志を固めました。

布野僕は梅棹先生と一度、目が悪くなられてから対談をしたことがあります。当時は梅棹先生はどういうポジションだったんですか。

西川梅棹さんは京都大学を出られて、大阪市立大学の理学部におられたと思います。それでカラコラム・ヒンドゥークシュ学術調査隊が組織され、カラコラムとヒンドゥーュクシュ班とに分かれて、ヒンドュクシュ班に梅棹さんは入った。カラコラムの方は今西錦司さんが中心だったと思います。

布野先生の卒業は59年ですね。僕は先生の名誉教授の推薦の文章も書いたし、京都新聞文化賞の時も書いたんですが。大学院行く時はどういう選考基準だったんですか、試験があったりしましたか。誰でも行けたんですか。

西川私は無試験でした。しかし、年度末にあと何人かは試験で採っていたように思います。

布野推薦の時代。村田先生が来いと言ったわけでないでしょう。

西川計画系が何人という感じでだと思います。私はどこに行っていいかわからないし、あまり図面をひかない方がいいと言うし、だからなんとなく村田さんの所に行った。

布野その時は巽先生はいたんですか。

西川いましたよ。私は1年休学したので、巽さんは1年前に新制大学院の第1期として進学していました。一緒によく集まってだべっていました。今と違って大学院は研究室に分属しないでグループになって一学年全部が入っていました。構造も歴史も全部。

布野何人位ですか。

西川—10人位でしたかね。京大だけでなくて熊本とか神戸大学から来た人もいた。私は大学院に行くのに何で行くのかと聞かれて「体が悪くて」と言うと、村田さんが「君、大学院はサナトリウムじゃないよ」と言われた(笑)。

布野それで大学院の修士論文は。

西川私は、修士論文は近世都市で書きました。ちょうどその頃、彦根市史の編纂に関わっていました。彦根の城下町、もうひとつは城下町から町人の町へ転換した長浜、この二つ町をとりあげて修士論文を書いたのです。

布野それは故郷だからですか。先生の選択、もしくはプロジェクトがあっての選択ですか。

西川彦根は故郷だし、史料も手にとり易かったからでしょう。修士を終えてしばらくは、近世でも彦根藩だけでなくて他の藩、例えば津軽藩などの史料を使って江戸の上屋敷とかを調べたりしました。当時、修士課程には演習がたくさんありました。設計演習の単位を取らないと卒業できないわけです。だけど単位を他学部で取っていいということになっていたので、設計演習に替えて、他学部で単位を取りました。美学美術史とか日本史、考古学で単位をかせぎました。

布野その時の先生はどなたですか。

西川美学・美術史の教授は井島勉という方でした。文学部には集中講議があり、東大から吉川逸治先生がヨーロッパ中世美術で、東京芸大から新規矩夫先生がエジプト美術を講義されました。それらを大変楽しく受けました。

布野栄養、ルーツにはなっている。

西川今でも忘れられないのが、その他、上野照夫先生の絵巻物研究、インド美術史。林屋辰三郎先生の中世史研究。

布野林屋辰三郎先生は、どこにおられたんですか。

西川立命館大の文学部教授で、京大の国史に非常勤講師で週一度来られていました。その頃、羽仁五郎という歴史家は有名でした。

布野『都市の論理』68年。僕ら学生の必読書でした。

西川岩波新書で『都市』という本が出ていた。戦時中刊行された『ミケランジェロ』にも感銘しました。

布野今、『都市の論理』を読み返すと、随分乱暴な議論もしている。

西川彼は秀才ですね。一高—東大の法学部を卒業して文学部へ再入学した。三木清の友人です。

布野東大ですか。京大かと思っていました。

西川反アカデミズムの旗頭です。スマートで、不思議なことに福山先生も若い頃、講演を聴いてたいへん憧れたと言っておられた。

布野福山先生は先生が助手になった時にお見えになってお世話したんですね。

西川教授として赴任される1ヶ月前、昭和344月に助手になったのです。

 

■ガンダーラへ

西川博士課程では日本近世の都市を勉強しました。西山先生がそのころ大学院研究室へ来られて、言いやすかったのでしょうか(笑)「そんなことをして何になるのかね」と毎回言われました。「結局、役に立たないことをやるのか」とか、「近世をやる」と言えば、「なぜ近世をやるのかね」と言われる。説明しても「人がやらないからやるのか」とか言われる。若かったから一生懸命抗弁してました。あの頃は世の中全体が実用的なものの考え方をする時代でした。当時の時代風潮は建築史みたいなことをする居場所がだんだん小さくなっていた。最後に西山さんは「西川君やるのはいいからその代わり、歴史のことは何を聞かれても答えられるようにならないといけないよ」。西山さんにはかなり厳しく助言して頂いたと、今は思います。また、「書庫に入ったらどこにどの本があるかは覚えるように」と言われました。本を探すのにどこにいけばいいか、今でも目に浮かんできます。小さな書庫だったが、天井が高くて、二段に仕切ってありました。新館ができて移って地下にも拡がり大きくなりましたが。

布野助手になられて福山先生がお見えになって、その時にお世話されていた。

西川私が教授室にはいる最後の助手でした。

西川当時、大学院生らの研究室に入って研究するのではなくて、教授室に助手として入っていたわけです。秘書の仕事もしていました。切符の手配とかね。次の助手は永井規男さんで大学院の研究室にはいり、福山先生には女性の秘書がつきました。

布野永井先生は関西大学へ行かれるのですね。その時の教授陣は。

西川村田先生が辞められて、福山先生が来られ、坂先生が辞められて、横尾先生が土木教室からもどってこられた。

布野増田友也先生は。

西山増田先生はやがて講師から助教授になっておられた。

布野西山先生は。

西川西山さんもまだ助教授でした。

布野助手で福山先生のお世話をされながら、ガンダーラがあるわけですね。きっかけはどういうことですか。第一次隊は何年でしたか。

西川—1955年に木原均先生を隊長とするカラコルム・ヒンドュクシュ学術調査隊が組織され、1959年には、京大イラン・アフガニスタン・パキスタン学術調査隊が組織され、考古美術、地理、歴史言語、人類の各班が調査をはじめました。ただ福山先生が来られた時に人文研に案内し、水野清一、長広敏雄、平岡武雄、藤枝晃を訪ねました。これが水野清一先生にお会いした最初です。

布野ガンダーラに行かれていたんですか。

西川そうです。文学部で講議を受けて、小林行雄先生の考古学の演習を受けました。考古学の演習では、私は図学を習っていたから、土器の実測に役立つこともありました。小林行雄さんは建築の出身でした。そんな繋がりがあって、山科の大宅廃寺の発掘調査にはじめて参加しました。奈文研の坪井清足さんを中心に、金関恕、小野山節、佐原真、田中琢、田辺昭三、岡田茂弘、白石太一郎さんらも参加していました。

布野当時は皆、助手クラスですね。大学院クラスでしょう。

西川それが後、考古学の中堅として活躍しています。

布野佐原先生は京大ではないでしょう。大阪外国語大学からですね。

西川大阪外大のドイツ語専攻から京大の大学院の考古学に進学しています。彼のドイツ語のリードはきれいで、機会があればうたってました。佐原さんとは1960年、ガンダーラの調査では宿舎は同室ですごしました。

布野その時の教室の雰囲気も聞きたいですが、先生は結核やって文学部系とつきあっていた。(笑)

西川教室の外の人とつきあう癖がついてしまったんでしょう。文学部系とは近い関係なのです。60年から人文研の水野清一先生の調査隊に参加し、研究会とか調査隊の打ち合わせで、しょっちゅう人文研へでかけましたが、福山先生が寛容にみとめてくださいました。それともう一つ、伊藤ていじさんとつきあって、D.C.の時に今井町の調査をやった。村田さんは民家をやるのにもあんまり賛成していなかった。

布野でも村田先生の学位論文は民家じゃないですか。「俺は民家やるんだ」と冒頭に書いてある。

西川村田先生の民家は、ユーラシア大陸を見据えた民家の流れが対象でしたから、少しくい違いがあったのでしょう。ただ、東大が研究室をあげて民家調査をやるようなことを京大ではしていなかったし、できなかったのです。私は伊藤ていじさんに心服していましたから。才人で凄い人です。

布野今井町の調査は、先生と京大からはどなたか。

西川私だけです。太田博太郎先生がずっとおられて、伊藤ていじさん、稲垣さん、川上秀光さん、渡辺定夫さん、大河直躬さん、それからイスラームの石井昭さん。この間亡くなられた名古屋大学の小寺さん。私にはとても楽しい調査でした。東大の人たちも一緒に調査ができて楽しかった。

布野ああいう調査を今できないんですかね。僕はアジアでやりたいと思っているのですが。

西川—ぜひ、やってください。

 

■ガンダーラから寺内町へ

西川そういう人と接することによって、東大で新しい動きがあることを知ったのは個人的に面白かった。今井町の調査で、その当時に今井町も城下町も同じような古い町と見ていました。ところがガンダーラに調査に行って、あの頃の車はよくパンクするのです。パンクするとそこで修理し、立ちどまって周りの町なんか見ていると、城壁で囲まれた都市の廃虚が残っていたりしている。そしてバーミヤンの石仏の上で、

布野これは有名な話だからちゃんと聞かないと。

西川(笑)1960年秋、アフガンの調査を終え、パキスタンへ移動する時、はじめてバーミヤンにたち寄りました。当時、大仏の頭の上にトンネルの階段で登れました。大仏の頭上、天井には西方の影響のつよい壁画がよくのこっていました。その大仏の頭上から見たら、シャレ・ゴルゴラという丘があって、阿鼻叫喚の巷だという意味なのです。この丘は、ジンギスカンの軍隊がここで戦死したジンギスカンの孫をいたみ、町の老若男女を虐殺したのです。そこで、この遺跡にはその泣き叫ぶ声が今もきこえるというのです。こういう町の住民が、町と運命をともにするということが日本にもあったかなと思った。その時にぱっと今井町が浮かんだ。寺内町がそうした例ではないかと。それが寺内町をあらためて考えるきっかけになりました。

布野それは何年ですか。

西川—1960年。途端に寺内町が私にとって身近に面白くなってきた。

布野寺内町ユートピア論ですね(笑)

西川寺内町を美化しているかもわかりませんね。その頃、日本ではいろんなことがありました。調査にいっている間に大阪万博もありましたからね。

布野その頃寺内町ユートピア、ガンダーラに行ってしまった(笑)

西川教室でも、大阪万博で忙しかったし、上田君はそのなかではりきっていて、忙しそうでした。

布野上田篤先生は俺がやったと言ってますね。磯崎と俺と二人で万博やったと。

西川梅棹さんはこの万博をきっかけに民博(民族学博物館)をつくられたのです。

布野—70年というのは、僕は大学2年生ですから、その頃からだいたいわかってくるんですけど、例えば先生の研究室でローズナウ『理想都市』(鹿島出版会)を訳されますね。そういう雰囲気はよく覚えています。団長として調査を開始されたのは何年ですか。

西川—80年になってからです。60年代は水野清一先生がIAP、イラン、アフガン、パキスタン調査をやられて、70年代は樋口隆康先生がアフガンでスカンダル・テペやバーミヤンの石窟の調査をすすめられ、私もバーミヤン調査に参加しました。それを引き継いで80年代から私たちはガンダーラで、ラニガト仏教寺院跡の調査をすすめました。197912月、 ソ連の侵入でアフガンに入れなくなりました。

 

■保存修景

布野ガンダーラが西川先生のひとつの軸ですけど、もう一方で先生のいろいろな功績を書いていると、保存修景論がある。それは何がきっかけでしたか。

西川何がきっかけだったかな。教室で将来構想を検討しようとしたことがありました。その時に歴史的環境保存計画というのを提案しました。これをみて西山研の助教授の絹谷さんが、「建築教室で環境というのはまずい。教室では環境と言えば、前田先生の設備環境工学に限られているからね」ということでした。

布野前田先生はその時は総長でしたか。

西川工学部長になられる前かな。

布野なぜ禁句だったんですか。

西川当時、環境という言葉を設備環境工学に限定していたのでしょう。地域計画関係でも。環境という言葉をさけていたようです。その時、西山先生が同情してくれて何かいい言葉をかんがえようと言われて、考えたのが、「保存修景計画」です。これは結局陽の目をみなかったですね。その後、保存修景研究施設というのを工学部の付置研究施設として何度も要求したけれど駄目だった。そのために関野克先生に相談したり、文部省もまわりました。

布野助教授の時に上は福山先生がおられて。

西川保存修景計画について思い出せば、1959年福山先生が京大に着任され、大極殿の研究を続けておられたので、長岡宮の調査をされることになり、その発掘調査の現場を担当することになりました。地元の熱心な研究者中山修一さんが長年すすめられた調査を延長することからはじめたのです。当時、平安神宮からの資金援助で調査をすすめていました。やがて、大極殿や小安殿・朝堂院の建物を発見され、文化庁を中心に調査を本格的に組織化することに努めました。その中で、京都府の文化財保護課の堤圭三郎さんから、都市計画的視点をいれた長岡宮の保存構想をまとめてくれませんかというはなしがありました。そこで考えたのが『国際建築』32-6(1965.9)に載せた、福山先生と大学院の野口英雄さんらと連名発表した『長岡宮跡の調査と保存計画』で、遺跡の保存を地域の開発の中にくみいれ、名神高速道路両側に設ける洛南緑地帯と結びつけようとしたもので、これは今井町調査で関野先生が今井町保存について緑地帯をめぐらすことを提言されていたのを思い出したものです。また、文学部史学科の雑誌『史林』が現代史を特集するという企画がありました。考古学の分野で遺跡保存について書くように樋口さんから頼まれました。そこでまとめたのが『保存修景計画—歴史的文化遺産保存の構想—』です。結局、現代史特集は実現せず、展望という欄をつくってもらって『史林』49-6(1966.11)に載せました。その後、『中央公論』85-9(1970.9)に『保存修景計画のすすめー文化遺産の蘇生と活用のためにー』を載せ、保存修景計画の現代的意義を強調しました。その頃、京大には人類学の研究室がなかったので、梅棹さんがプライベートに楽友会館で毎週1度、近衛ロンドという研究会をやっておられた。

布野近衛ロンド。近衛通りのロンドですか。

西川そうです。その近衛ロンドで、遺跡の保存について話したのです。それまでの考古学の発掘は何か発見して、それで終わりにしている。それでは駄目だ。写真でも、現像、定着、焼付というDPEというプロセスがある。遺跡の保存もそうしたプロセスをとりいれないと駄目で、遺跡をどう、保存し活用するかを考えるべきだと話しました。これをきっかけに梅棹さんの人文研でので『重層社会の研究会』に参加しました。私の学位論文はだいたい梅棹さんの研究会で発表しました。そこではいろんな人の意見を聞けたし、寺内町もそうです。

布野それとガンダーラは平行していますか。ガンダーラは外務省関係のお金ですね。

西川ガンダーラの調査は文部省、科学研究費、海外学術調査で、保存の計画と作業は外務省関係のユネスコ信託無償資金によりました。ところでパキスタンの首都、イスラマバードは誕生の日から知っている。だから愛着がある。まったくの荒野の中に一本道が、今のゼロポイントの辺りです。その道だけがあって、あとは泥の海みたいになっていた。こんな所が都市になるのかなと思った。1960年代のはじめです。外務省にいろいろお世話になったり、ガンダーラ博物館地域構想を提案しましたが、まだ実現していません。日本の外務省でも好感をもたれ、一時、かなりいいところまでこぎつけましたが、これも結局だめでした。本当にむつかしい。

布野それは何年頃ですか。僕が京大に来る前。

西川もちろんそうですよ。80年代の中頃でした。

布野僕が先生に会ったのは、80年代末のイスラームの都市の研究会の時で、あれ自体は色々発展していますが、今もイスラームの問題とか今後、我々が何をすればいいのかとか、若い人達へのメッセージも含めて話すとどうなりますか。

西川私がお願いしたいのは、総合性を大事にして欲しいということですね。私はやっぱりいろんな、特に文学部の人とつきあってきたから、文学部や人文研の講議を受けたり、専門外の人と話す機会があったし、総合大学というのを結果的に利用させてもらったなと思います。京大が老舗の総合大学として、その利点を活用してほしいです。異分野の人と交流し、協力し、刺戟しあえば、面白い成果がでると思うけれど、なかなか認知してもらえない。京都大学でも人文研で桑原武夫先生が共同研究のスタイルをうみだされました。もっと多様な共同研究の手法を開拓してほしいです。

布野民博の地域研究は撤退ですね。京大が引き受ける。

西川京大にとってプラスかもしれないけど、あれは松原正毅さんが民博でやっていました。京大の地域研究は大きく成長するでしょう。人文研が中国研究ではひとつのメッカみたいになっているし。

布野—AA研作って、だけどあんまりうまくいっていないみたいですけど。

西川ヨーロッパをはじめアメリカなどいろんな地域研究があるでしょう。やはりアメリカ研究は同志社か(笑)同志社にはアメリカ研究の蓄積があるし。だからいろんな大学がそれぞれ特色を持つべきです。

それから保存修景という言葉も、なかなかわかってもらえず大変でした。集計ではなく修理の修、景色の景ですと説明していました。やがて、この言葉も市民権が得られるようになってきました。京都で19709月、ユネスコ後援の『京都・奈良伝統文化保存シンポジウム』が開かれ、これをきっかけに翌年6月、美観風致議会では『京都市における市街地景観の保全・整備対策に関する答申』をまとめ、ちょうど審議会に委員として参加していましたので、市の大西國太郎さんらに協力し、積極的に作業に加わりました。724月、『京都市市街地景観条例』が定められ、その『特別保全修景地区』に、研究室で調査した東山八坂地区(産寧坂二年坂)、祇園新橋地区が指定されました。両地区とも、のち重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。そのころから、九州の大分でも調査しました。忘れられないのは近江八幡です。ヘドロ化し、蚊や蝿の温床になっていた八幡掘を暗梁にし駐車場にしようという案が出るなかで、歴史をうつし流れてきた八幡掘を再生させようという動きが青年会議所を中心に市民の間から起り、この作業にも積極的に参加し、『よみがえる八幡掘』というパンフレットを作成しました。この八幡掘はみごとに再生し、その後、町なみ保存修景につながり、今、八幡掘を延ばして「八幡の水郷」として重要文化的景観第1号としても顕彰されています。京都府・京都市で、文化財条例をつくることになり、はじめて登録制を導入し、文化財環境保存地区を定め、その頃、滋賀県でも琵琶湖景観条例(ふるさと滋賀の風景を守り育てる条例)が定められ、景観への関心は高まってきました。こうした動きに継続的に参加しました。

布野林屋先生との出会いは。

西川林屋先生は、梅棹さんが民博へ行かれるのと入かわりの頃に来られた。林屋さんは化政文化の研究会を作って、それにも参加させてもらいました。林屋先生は立命館におられた頃から京都市史編集にもあたっておられました。60年代の終りに『京都の歴史』第1巻・別添地図「平安京—京都の成立—」、第2巻・別添地図「京都—京童と軍記の世界—」、で復原地図の作成を林屋先生から頼まれ、日記史料などから、地名をひろいだし、地図におとしていく作業を続けました。とくに、六波羅の平氏政庁を地図におとすことができた時には、予想をこえた成果に興奮しました。市史の皆さんとの交流は、その後も続き、新修 大津市史、長浜市史、近江八幡市史、新修彦根市史へとつながっています。また、保存修景計画や地域文化財の研究会、勉強会や見学旅行にも、参加させてもらい楽しい刺戟をうけました。

 

交流:近寄ること

伊勢うまく質問出来ませんが、西川先生のお話を聞いて、一番基本の所に大学に入ってすぐ結核になり、そこで自分の身体の限界を完全に感じて、そこからスタートしたという強さがある。足が地に着いている。個人として非常に誰とも対等にやっていける人格を持っているというか。

西川そんな大袈裟なことでなくて、みんなでやればできることです。組織として専門外の事をやると異端視する傾向があります。それでは困る。少なくともそういう専門外の動きをする人を許容する大らかさがないと、新しい展開へと機能しないと思います。共同研究だけが研究だとは言わないけれど、許容しないといけない。

伊勢多くの大学が、がそれと反対の方向に進んでいて、大学自体がそういう構造を持っている。

西川そうでしょう。どうしても個別専門化する傾向はつよいです。もうひとつ違った共同研究のスタイルも必要だということです。

伊勢どうやってコントロールすればいいのかというところでしょうか。

西川いろんなスタイルの研究が出てくるでしょう。人文科学研究所とか、経済研究所とか、いろんな付置研究所がそういう役割を担ったらいいと思います。あとは自由に話す機会をもつことでしょう。いろんな人が出入りして話しあう場所を用意してほしいです。構造の人と電車の中で一緒になって、隣の研究室の人は何をやっているのかと聞くと「そんなの知りません」と言ってました。それでは困ると思った。自分のやっている範囲だったらわかるけど隣の人は知らないというのでは。紛争のころ、いろんな研究室に入れ込めない人がたくさんいて、そこで都市のことを考える、インターゼミアーバンというのをつくろうと思った。これは結局あまりうまく機能しなかった。そこでこの研究会に集まった人たちと滋賀県文化財懇話会というのをつくって考古学・地理・歴史・民族の専門の人とかが集まり、琵琶湖を一周したり、保存計画を勉強しました。しがらみからはなれ、いろんな人達とつきあうことです。孤立するのはよくない。

伊勢僕にとっては、このトラバースが唯一の機会になってしまっています。

西川意識的にやらないといけない。特に交流でしょう。やはり。みんなが敬遠しあっていたら駄目です。近寄らないといけない。どっちみち私たちの命は限られているのだから。

布野最後に強烈なメッセージがあったら。

西川活性化することです。大学とか教室は、私は登山のためのベース・キャンプのようなものだと思います。それ自体が自己完結なものでなく、新しい目標に向って、若い人たちの活動を支える後方支援の役割をはたすべきだと思います。過去にこだわらず、過去を活かして前進してほしいです。関連する分野と連繋がして、異質なものも寛容にとりいれて、ゆたかに成長してほしいとねがっています。

2021年3月9日火曜日

 traverese20 2019 新建築学研究20

 「アジア」の欠落:世界建築史をいかに書くか?

Lack of Asian Architecture: How We Write a Global History of Architecture?

 

Shuji Funo

布野修司

 

 先ごろ『世界建築史15講』(彰国社、2019410日)という一冊の本(共著)を上梓した(図①)。タイトルが示すように、15回の講義(Lecture0115)を想定した教科書のスタイルである。それぞれにコラム(Column0115)を付し、計30本(章節)の原稿(4頁~12頁)からなる。編集委員会編というかたちをとったが、実質、布野修司、青井哲人、中谷礼仁の三人(幹事)で、全体構成、執筆者を考えた。建築史の専門家は一般的に筆が遅い。一行を書くのにも裏付けが必要で、時間がかかるのである[1]。案の定、思うように原稿が集まらず、僕は、責任をとるかたちで、30本中9本の原稿を書く羽目となった。だけど、僕にはこの一冊に拘る理由があった。

 京都大学時代(19912005)に遡る。アジアを随分歩いているのだから「世界建築史Ⅱ」を担当するようにと西川幸治先生に命じられたのである。「Ⅰ」が「西欧」、「Ⅱ」が「非西欧」である[2]。当時、『東洋建築図集』(1995年)の東南アジアの章の幾頁かを執筆したばかりであった。この際「アジア」の建築を勉強するか!と、講義を続けながら、『東洋建築図集』に取り上げられた建築を機会ある度に見て回った。現在までに『図集』に掲載された建築の90%以上実見したのではないか?そして、アジア都市建築研究会の仲間たちと『アジア都市建築史』(布野修司編、昭和堂、2003年)をまとめるにも至った。しかし、何故、「アジア」に限定されるのか?、何故「世界建築史」の「Ⅱ」なのか?、しっくりしてこなかったのである。 

 

 蘭領東インドのH.P.ベルラーヘ


 洋の東西を区別しない「世界建築史」の必要性を最初に意識したのは、スラバヤ(拙稿「ある都市の肖像―スラバヤの起源」『traverse19』参照)を訪れて、「オランダ近代建築の父」と言われるH.P.ベルラーヘの作品(生命保険年金協会AMLLビルKantoor van de ‘Algemeene Maatschappij voor Levensverzkering en Lijfrente’1900)(図②abcd)に出会った1982年である。その建設は、代表作「アムステルダム証券取引所」(1910)(図③abc)に10年先立っている。ベルラーヘとアムステルダム・スクールの建築家たちに惹かれて、堀口捨巳の『現代オランダ建築』(1930年)を片手に見て回ったのは1976年であるが、ベルラーヘの作品がインドネシアにあることなど全く知らなかった[3]。考えて見れば、オランダがインドネシアを植民地としたのは17世紀初頭であり、300年以上、自らの「世界」であったのだから、オランダの建築家がインドネシアで仕事をするのは不思議でも何でもない。調べてみると、インドネシアで活躍したすぐれた建築家は少なくない。その代表がデルフト工科大学(T.H.Delft)卒業の同級生H.M.ポントHenri Maclaine Pont1884-1971)とH.Th.カールステン(1884-1945)である。少なくとも、この二人は、同世代のG.T.リートフェルト(1888-1964)やJ.J.P.アウトOud(1890-1963)と同等に評価すべき建築家である。H.M.ポントは、「バンドン工科大学」(1918年、図④abcd)の設計で知られるが、「ポサランの教会」(1936年、図⑤abcd)が特にすばらしい。
                     

 H.P.ベルラーへは,1923年に初めてオランダ領東インドを訪れ,後年『私の印度旅行―文化と芸術に関する考察―』(Berlage, H.P.(1931))を出版する。5ヶ月にわたる旅行の目的は,オランダ本国政府のアドヴァイザーとして,プランバナン遺跡群の修復について報告書を作成することであった[4]H.P.ベルラーへは、そこで、プランバナンのロロ・ジョングランなどヒンドゥー建築の遺構を「死んだ伝統」として評価していない。そこには、当時のヨーロッパ人建築家のアジアの伝統建築に対する一般的見方をうかがうことができる。ベルラーヘが高く評価したのは、H.M.ポントやH.Th.カールステンの作品である。東インドにおける伝統的建築の「生きた」伝統とヨーロッパの新しい建築すなわち近代建築をいかに統合するかが,H.M.ポント,H.Th.カールステン,そしてH.P.ベルラーヘの共有するテーマであった。

       

 
 その後、東南アジアから南アジアへ、さらにアフリカやラテンアメリカにも足を伸ばし、「世界」を股にかけて活躍した建築家たちとその作品群を知ると、「世界建築史」の必要性をますます強く意識するようになったのである。






 



 

 「世界史」の世界史

人類最古の歴史書とされるヘロドトス(紀元前485420)の『歴史』にしても,司馬遷(紀元前145/135?~紀元前87/86の『史記』にしても,ローカルな「世界」の歴史に過ぎない。ユーラシアの東西の歴史を合わせて初めて叙述したのは,フレグ・ウルス(イル・カン朝)の第7代君主ガザン・カンの宰相ラシードゥッディーン(12491318)が編纂した『集史』(1314[5]であり,「世界史」が誕生するのは「大モンゴル・ウルス」においてである。しかしそれにしても,サブサハラのアフリカ,そして南北アメリカは視野外である。

日本で「世界史」が書かれるのは1900年代に入ってからである(坂本健一(190103)『世界史』、高桑駒吉(1910)『最新世界歴史』など)。明治期の「万国史」(西村茂樹(1869)『万国史略』、(1875)『校正万国史略』、文部省(1874)『万国史略』など)は、日本史以外のアジア史と欧米史をまとめ、世界各国史を並列するかたちであった。西欧諸国にしても、国民国家の歴史が中心であることは同じである。そうした意味では、「世界史」の世界史(秋田滋/永原陽子/羽田正/南塚信吾/三宅明正/桃木至朗編(2016)『「世界史」の世界史』ミネルヴァ書房)を問う必要がある[6]。 

   


 建築の世界史へ

 世界建築史もまた、古代,中世,近世,近代、現代のように西欧による「世界建築史」の時代区分によって書かれてきた。そして,非西欧世界については,完全に無視されるか,補足的に触れられてきたに過ぎない。建築は,人類の歴史の時代区分や経済的発展段階に合わせて変化するわけではない。すなわち,王朝や国家の盛衰と一致するわけではない。

 日本で書かれてきた建築史は、「西洋建築史」を前提として、それに対する「日本建築史」(「東洋建築史」)という構図を前提としてきた。「近代建築史」が書かれるが、ここでも西洋の近代建築の歴史の日本への伝播という構図が前提となっている。そして、近代建築の日本以外の地域、アジア、アフリカ、ラテンアメリカへの展開はほとんど触れられることはない。『日本建築史図集』『西洋建築史図集』『近代建築史図集』『東洋建築史図集』というのが別個に編まれてきたことが、これまでの建築史叙述のフレームを示している。

 世界建築史のフレームとしては,細かな地域区分や時代区分は必要ない。世界史の舞台としての空間,すなわち,人類が居住してきた地球全体の空間の形成と変容の画期が建築の世界史の大きな区分となる。建築史の場合、建築技術のあり方(技術史)を歴史叙述の主軸と考えれば、共通の時間軸を設定できるであろう。しかし、建築技術のあり方は、地域の生態系によって大きく拘束されている。すなわち、建築のあり方を規定するのは、科学技術のみならず、地域における人類の活動、その生活のあり方そのものであり,ひいては、それを支える社会,国家の仕組みである。

 世界各地の建築が共通の尺度で比較可能となるのは産業革命以降であり、世界各国、世界各地域が相互依存のネットワークによって結びつくのは,情報通信技術ICT革命が進行し,ソ連邦が解体し,世界資本主義のグローバリゼーションの波が地球の隅々に及び始める1990年代以降である。各国史や地域史を繋ぎ合わせるのではなく,グローバル・ヒストリーを叙述する試みとして、『世界建築史15講』は、日本におけるグローバルな建築史の叙述へ向けての第一歩である。

 

 神話としての歴史―「世界建築史」はいかに可能か?

 建築の世界史あるいは世界の建築史をどう叙述するかについては,そもそも「世界」をどう設定するかが問題となる。人類の居住域(エクメーネ)を「世界」と考えるのであれば,ホモ・サピエンスの地球全体への拡散以降の地球全体を視野においた「世界史」が必要である。しかし,これまでの「世界史」は,必ずしも人類の居住域全体を「世界」として叙述してきたわけではない。書かれてきたのは,「国家」の正当性を根拠づける各国の歴史である。一般に書かれる歴史はそれぞれが依拠している「世界」に拘束されている。すなわち、これまでの「世界」は、数多くの「欠落」を含んだものである。世界建築史のフレームとしては,細かな地域区分や時代区分は必要ない。世界史の舞台としての空間,すなわち,人類が居住してきた地球全体の空間の形成と変容の画期が建築の世界史の大きな区分となるのではないか。

 いずれにせよ、叙述のための取捨選択が無数の「欠落」を含むことは明らかである。西欧における「世界建築史」嚆矢といっていい[7]B.フレッチャーの『比較の方法による建築史』[8]は、現在に至るまでD.クリュックシャンクによって改訂[9]が続けられているけれど、フレームを固定したままで「欠落」を埋めるだけで、「世界建築史」というわけにはいかない。問題は、フレームであり、視点であり、切り口である。近代建築批判が顕在化する中で、「W.モリスからW.グロピウスまで」を軸とするN.ペブスナーの『モダン・デザインの展開』やR.バンハムの『第一機械時代の理論とデザイン』などを「神話としての歴史」としてその見直しを迫る動きがあったようにーN.ペブスナーは自ら『反合理主義者たち 建築とデザインにおけるアール・ヌーヴォー』を書いたー、建築の多様な側面に視点を当てる「世界建築史」が必要である。

 インドネシアを代表する建築史家であるJ.プリヨトモ(スラバヤ工科大学名誉教授)は、9世紀のヨーロッパに「ボロブドゥールに匹敵する建築はない、西欧による「建築史」はアンフェアだ」というのが口癖である。少なくとも、アジアに軸足を置いた「世界建築史」が必要だともいう。「西欧建築史」「日本建築史」「東洋建築史」「近代建築史」の並立は論外である。「世界建築史Ⅱ」の「Ⅱ」も不要である。

 

『世界建築史15講』の構成

『世界建築史15講』は、大きく「第Ⅰ部 世界史の中の建築」「第Ⅱ部 建築の起源・系譜・変容」「第Ⅲ部 建築の世界」の3部からなる。

第Ⅰ部では、建築のの全歴史をグローバルに捉える視点からの論考をまとめた。建築は、基本的には地球の大地に拘束され、地域の生態系に基づいて建設されてきた。建築という概念は「古代地中海世界」において成立するが、それ以前に、建築の起源はあり、「古代建築の世界」がある。そして、ローマ帝国において、その基礎を整えた建築は、ローマ帝国の分裂によって、キリスト教を核とするギリシャ・ローマ帝国の伝統とゲルマンの伝統を接合・統合することによって誕生するヨーロッパに伝えられていく。ヨーロッパ世界で培われた建築の世界は、西欧列強の海岸進出とともにその植民地世界に輸出されていく。そして、建築のあり方を大きく転換させることになるのが産業革命である。産業化の進行とともに成立する「近代建築」は、まさにグローバル建築となる。

第Ⅱ部では、まず、世界中のヴァナキュラー建築を総覧する。人類の歴史は,地球全体をエクメーネ(居住域)化していく歴史である。アフリカの大地溝帯で進化,誕生したホモ・サピエンス・サピエンスは,およそ125000年前にアフリカを出立し(「出アフリカ」),いくつかのルートでユーラシア各地に広がっていった。まず,西アジアへ向かい(128万年前),そしてアジア東部へ(6万年前),またヨーロッパ南東部(4万年前)へ移動していったと考えられる。中央アジアで寒冷地気候に適応したのがモンゴロイドであり,ユーラシア東北部へ移動し,さらにベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へ向かった。そして、西欧列強が非西欧世界を植民地化していく16世紀までは、人類は、それぞれの地域で多様な建築世界を培っていた。建築が大きく展開する震源地となったのは、4大都市文明の発生地である。そして、やがて成立する世界宗教(キリスト教、イスラーム教、仏教・ヒンドゥー教)が、モニュメンタルな建築を建設する大きな原動力となる。宗教建築の系譜というより、ユーラシア大陸に、ヨーロッパ以外に、西アジア、インド、そして中国に建築発生の大きな震源地があることを確認する。

 第Ⅲ部では、建築を構成する要素、建築様式、建築を基本的に成り立たせる技術、建築類型、都市と建築の関係、建築書など、建築の歴史を理解するための論考をまとめた。さらに多くの視点による論考が必要とされるのはいうまでもない。



[1] 本書のもとになったのは、『世界建築史図集』あるいは『グローバル建築史事典』といった世界中の建築を網羅する資料集あるいは事典の構想である。しかし、そうした建築史集成や体系的な建築史叙述は未だ蓄積不足で、時間もかかることから、まず、グローバルに建築の歴史を見通す多様な視点を示すことを優先したのであった

[2] 京都大学には、建築学科一期生村田治郎の学位論文『東洋建築系統史論』に始まる「東洋建築史」という科目があった。しかし、戦後、「東洋建築史」という科目は日本の建築学科から―京都大学を除いて―なくなる。日本の建築界は欧米一辺倒となるのである。戦後、建築ジャーナリズムにおいてアジアの建築に触れたのは、「天壇」「宗廟」について書いた白井晟一ぐらいである。僕は、東京大学で太田博太郎、稲垣栄三先生から建築史を教わったけれど、「東洋建築史」については聴いた記憶がない。京大隊の一員としてガンダーラで発掘作業に携わってきた西川先生には、「東洋建築史」を「世界建築史Ⅱ」として存続させたい、という強い思いがあった。

[3] AMLLビルは、オランダ領東インドで活動していたM.J.フルスィットHulswit18621921)に依頼された設計案について意見を求められ,「ヨーロッパの建築をそのまま適用したもので拒絶せざるを得ない」と批判したことから,結果的にベルラーヘの案が採用されたのが経緯である。ベルラーへは,さらに,本国で多くの支社事務所を設計していたネーダーランデン保険会社De Algemeene Nederlanden van 1845のバタヴィア本部の設計(1913)にも関わっている。いずれも設計のみへの関与で現地での施工監理を行ったわけではないが,現地の事情には通じており,東インドの若い建築家たちへの影響力は大きかったと考えられる。

[4] 37葉のスケッチが掲載されているが,スラバヤについては,カリマス沿い,中国廟,アラブ街の三葉のスケッチが掲載されている(図abcd)。

[5] ジャーミ・アッタヴァーリーフJāmi` al-TavārīkhJāmi` al-Tawārīkh。この『集史』による「世界史の誕生」をベースに,ユーラシア全体を視野に収めながら,遊牧民の視点から世界史の叙述を試みてきたのが杉山正明の『遊牧民から見た世界史』(1997)『逆説のユーラシア史』(2002)など一連の著作である。

[6] 今日のいわゆるグローバル・ヒストリーが成立する起源となるのは西欧による「地球」の発見である。西欧列強は,世界各地に数々の植民都市を建設し,それとともに「西欧世界」の価値観と仕組みを植えつけていった。すなわち、これまでの「世界史」は,基本的に西欧本位の価値観,西欧中心史観によって書かれてきた。西欧世界は、その世界支配を正統としてきたのである。そして、西欧世界では、世界は一定の方向に向かって発展していくという進歩史観いわゆる社会経済(マルクス主義)史観あるいは近代化史観が支配的となってきた。リン・ハント(2016[6]は,第二次世界大戦後に歴史叙述のパラダイムとなってきたマルクス主義,近代化論,「アナール学派」,「アイデンティティの政治」(1960年代,70年代のアメリカ合衆国で盛んに試みられるようになった,排除され周縁化されている集団の歴史に着目する一連の歴史叙述)と、そのパラダイムを批判してきた文化理論(ポスト構造主義,ポスト・コロニアリズム,カルチュラル・スタディーズ等々)の展開をともに総括しながら,1990年代以降のグローバリゼーションの進行を見据えた新たなパラダイムの必要性を展望する。秋田茂・永原陽子・羽田正・南塚信吾・三宅明正・桃木至朗編(2016)もまた、21世紀を見通せる「世界史の見取り図」の必要性を強調するところである

[7] フレッチャーに先だって、Fergusson, James (1855), “The Illustrated Handbook of Architecture : Being a Concise and Popular Account of the Different Styles of Architecture Prevailing in All Ages & Countrie, Vol.and Vol.”, John Murray、、Fergusson, James (1867), “A History of Architecture in All Countries, Vol. and Vol., John Murrayがある。

[8] Fletcher, Banister (1896), “A History of Architecture on the Comparative Method“, Athlone Press, University of London (バニスター・フレッチャー(1919)『フレッチャア建築史』古宇田実・斉藤茂三郎訳, 岩波書店)

[9] Cruickshank, Dan (1996), “Sir Banister Fletcher's a History of Architecture”, Architectural Press (ダン・クリュックシャンク (2012)フレッチャー図説・世界建築の歴史大事典 : 建築・美術・デザインの変遷』飯田喜四郎監訳, 西村書店)

2021年3月8日月曜日

 traverese19 2018 新建築学研究19

Shark and Crockodile

 ある都市の肖像:スラバヤの起源

Shuji Funo

布野修司

 

 今一冊の本を準備している。『スラバヤ物語―ある都市の肖像 時間・空間・居住』と仮に題する。スラバヤは、人口約300万人(都市圏人口は1000万人)、東部ジャワの州都であり、インドネシア第2の都市である。最初に訪れたのは19822月で、僕のスラバヤ通いは、この夏(20188月)[1]も含めると、22回(インドネシア渡航は27回)にも及ぶ。スラバヤをフィールドとして学位論文[2]も書いた。スラバヤのカンポンにすっかり魅せられた人生となった。スラバヤは、間違いなく、僕の第2の故郷である。このスラバヤの「肖像」を、重層的、立体的に描き出してみたいと思ったのが執筆動機である。

 最初にスラバヤを訪れたこの時から35年,10年後に上梓した『カンポンの世界』(1991)からも四半世紀を超えた。この間、アジアを中心に数々の都市を歩き回った。スラバヤの肖像を描くことによって、この間学んだことを縦横に盛り込む本は書けないか、「時間・空間・建築」ならぬ「時間・空間・居住」をサブタイトルとするのは、意気込みを込めてのことである。既に書き出して悪戦苦闘中なのであるが、ここではスラバヤという名前、その肖像(市章)、その起源についてまとめよう。

 

 鮫と鰐

スラバヤSurabaya(あるいはスラボヨSuraboyoという名前は,スロ"suro" ()とボヨboyo"()の合成語という。伝承によれば,スロとボヨは,その土地における最強者の栄誉をかけて戦い, お互いその強さを認め,海はスロの領域,陸はボヨの領域ということで合意した。しかし、ある日スロが餌を追いかけて河口から川を遡ろうとしたところ,内陸に繋がる河川は自分の領域だとボヨは激怒する。スロは,水中は自分の領域だと主張したが,戦いになった。熾烈な戦いの末,スロは敗北して海に退散し,ボヨは河口を制覇した。これが現在のスラバヤ,というのである[3]。このスラバヤという名前の「鮫と鰐」説は、広く流布しており、スラバヤ市の市章は,鰐と鮫をSの字に絡み合わせたものである(図①)。そして、スラバヤ動物園前などには,その巨大な彫刻が置かれている(図②)。実にインパクトがあるシンボル(市章)である。一般的に理解されるのは,鮫と鰐の物語が,スラバヤの立地,そして,その歴史において海と陸,外来者と先住者との間で繰り広げられてきた抗争の歴史を象徴していることである[4]

     


スラバヤ市は,ジャワの最後のヒンドゥー・ジャワ王国マジャパヒト王国の建国を都市の起源とする。ラデン・ウィジャヤがマジャパイト王国を建国するに当たって、海を渡って来襲してきたモンゴル軍を撃退するが、この歴史的な攻防を象徴するのがスロ"suro" ()とボヨboyo"()の物語である。

 僕の師といっていい長年のカウンターパートであるJ,シラス(スラバヤ工科大学名誉教授)が指摘するが興味いのは,スラバヤのカンポンの名前の中に,ウォノWonoすなわち森のつく名前とクドゥンKedungすなわち川あるいはクパンKupanすなわち二枚貝、あるいはシモSimoすなわち虎という名のつく名前が複数あることである(図③)。クパンについては、ラデン・シトゥボンドが森を切り拓いた時に二枚貝の巨大な山(貝塚)を発見したという伝承がある。シモについては、ラデン・シトゥボンドが森を切り拓いた際に虎が出てきて追い払ったという伝承がある。すなわち,スラバヤは,川の流域や沿海部にあった森を起源とするのである。


 

 ダイヤモンド岬

 スラバヤの名が初めてジャワの史料に現れるのは,マジャパヒト王国の宮廷詩人ラワイ・プラパンチャRawai Prapańca1365年に書いたとされるジャワの年代記『ナーガラクルターガマNāgara-Kertāgama[5]である。ただ,スラバヤの名は,4章「1359年の王室の発展」の17-4に一箇所出てくるだけである。

 「・・・ris jangala lot sabhā nrpati ris surabhaya manulus mare buwun(王がジャンガラにいる時は,スラバヤにある王子の宮殿を毎回訪れ,途中でブワンに立ち寄った)」。

 ジャンガラは,ブランタス川下流域からジャワの東南部の地域であり,カフリパンKahuripanを都とするカフリバン王国(10191045)を前身とするジャンガル王国(10451136)が支配した地域である。井戸を意味するブウンBuwunがどこかは不明であるが,マジャパヒト王国のスラバヤには,王子の離宮が置かれていたことがわかる。

 スラバヤの起源が,マジャパヒト王国の1359年以前に遡ることはわかるが,さらにその存在が確認されるのが,現在のスラバヤ市の南に接するシドアルジョ県のクリアン (クラゲン)で発見された1037年のカラマギアン碑文である。その碑文には,ウジュン・ガルーUjung GaluhHujung Galuhという名が記され,ブランタス川の河口,現在のスラバヤのカリ・マス河口部に比定されるのである。古ジャワ語で,「ダイヤモンド(宝石)岬」という意味である。

 カフリパン王国そしてジャンガラ王国の時代,スラバヤはウジュン・ガルーと呼ばれた港市であった。ウジュンは,スラウェシのウジュン・パンダンのように,端部,岬といった一般名詞であるが,現在のスラバヤのカリ・マス河口部にもウジュンという地名が残されている。1982年に最初に調査して以来,毎回訪れるカンポン(カンポン・ウジュン)である。

 ジャンガラ王国の歴史については,ジャワのヒンドゥー王国の歴史を遡る必要がある。ボロブドゥールやロロ・ジョングランを建設した中部ジャワのマタラム(・ヒンドゥー)王国は, 929年に即位した第13代シンドク MPu Sindok (在位929948)の時に東部ジャワに遷都する。シンドク王は,ジョンバン周辺のブランタス川河畔のワトゥガルーWatugaluhを都(ムダン(メダン))とし,国名をメダンに変え,王朝を開いた。この王朝はクディリ王朝と呼ばれるが、やがてシンガサリ、マジャパヒトへ拠点を移していくことになる(図④)。


 シンドク王後70年近く刻文の発布がなく不明な点が少なくないが,その後王位はバリ生まれのアイルランガ(Airlanga=水を飛び越えるの意)(9911049)の時代となる。アイルランガは,王位につくと,各地に軍事行動を展開,ブランタス流域を中心に,都をカフリパンに置いて,北はトゥバン,南はインド洋岸,東はパスルアン,西はマディウンにおよぶ領域を支配し,東ジャワの再統一を果たした(1037年)。そして,バリそして東ジャワから中部ジャワにかけて一大王国を築くことになる。スラバヤ,トゥバンといったジャワ北岸の港市が発展するのはアイルランガ王の時代である。そして,後継者問題に悩んだアイルランガが2人の息子に領土を二分して与え、クディリ王国はジャンガラ王国とパンジャルPanjal王国に2分されるのである((図⑤))。


 12世紀に入って,ジャンガラ王国は,クディリ王国に併合されるが,中国史書にはそれ以後にもジャンガラの名が見られる。南宋の泉州市舶司,趙汝适Zhao Ruquaが書いた地誌『諸蕃誌』Zhu fan zhi1225年頃)には戎牙路(姜加拉jiang jia la)とあり, 元の航海家,汪大渊13111350)の『島夷志略』(1339年頃)には重迦庵Jung-ya-anがスラバヤとされる。鄭和の南海遠征(140533)に参加した馬歓(13801460)が書いた瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』[6]には,蘇魯馬益(あるいは蘇兒把牙)[7]と記される。

 碑文は,アイルランガ王がブランタス川の氾濫を防ぐための大堰建設を讃えるものであったが,ウジュン・ガルーが既に海外交易のための重要な港となっていたことがわかる。アイルランガ王が海外交易に大きな関心をもっていたことは,この碑文以前に発布したチャネ刻文(1021年)などに外国人の名を列挙していることで窺え,ウジュン・ガルーにはジャワ島以外からの商人が居留していたのである。ウジュン・ガルーの他には,スラバヤの北西のトゥバンに港市が存在したことが後の刻文で知られる[8]

 アイルランガ王の時代すなわち11世紀前半にはスラバヤは港市形成の歩みを開始していた。ジャンガル王国がパンジャル王国に統合されて以降,クディリ(ダハ)を都とするクディリ王国が栄えるが,13世紀に入ると凋落し始め,1222年にケン・アンロックがクディリ王国のクルタジャヤ王を倒して,ラージャサ王朝をたてる。この間の王都はいずれもブランタス川の流域に位置し,スラバヤはその河口に位置する。すなわち,スラバヤは東ジャワ内陸のヒンドゥー王国の外港として発展してきた。

 

 誕生日1293.05.31

スラバヤ市は,1293年を創立年とし,しかも月日を特定して,531日をスラバヤ誕生の日とする。1293年はマジャパヒト王国建国の年であり,その日は,初代国王クルタラージャサ・ジャヤワルダナKertarajasa Jayawardhanaとなるラデン・ウィジャヤがクビライの派遣したモンゴル軍をスラバヤで撃退した日という[9]

クビライ Khubilai(Kublai)が,シンガサリ王国を武力制圧するために遠征軍を送ったのは129293年のことである。クビライは,1280年以降,シンガサリ王国に対して元の宗主権の承認と元朝への来貢を求める使者を度々送る。その執拗な要求をクルタナガラ王(125492)は悉く拒絶し,1289年の使者,孟琪Men ShiMeng-qi)に対しては,盗賊扱いし,顔面に焼印(入墨)して耳を削いで送り返したという。これに激怒したクビライは,ジャワ侵攻を決断,軍船を派遣するのである。2万~3万人の兵が集められ,1,000隻の船団が泉州を出発してジャワに向かったのは129212月である。指揮を執ったのは,モンゴル人のシービShi-bi, ウイグル人のイケ・メセIke Mese,中国人のGaoxingである。どのような船団であったか『元史』は伝えないが,川を遡る小舟を建造させたとしているから,現地の地勢を十二分に把握し,周到な戦術を立てた上での編成であったと思われる

シンガサリ王国は,ムラユ王国(11831347)を破り(1290年),当時のジャワ海域で最強国家となる。しかし,1275年頃からのスマトラ遠征で手薄となった首都の防護の隙をついて,クディリ(カディリ)ジャヤカトワンが叛乱を起こす。ジャヤカトワンは,マドゥラ島スメナップを拠点にしていたアルヤ・ウィララジャの援助を求め,シンガサリの首都クタラジャ (トゥマペル,マラン近郊)を南北から挟み打ちする作戦をとるが,この時,北の防御に派遣されたのがクルタナガラ王の娘婿ラデン・ウィジャヤである。ラデン・ウィジャヤは北からの攻撃を食い止めたが,南からのカディリ軍によって王都は攻略され,クルタナガラ王は殺されてしまう。ラデン・ウィジャヤは,マドゥラ島に逃れ,アルヤ・ウィララジャの監視下に置かれることになったが,マジャパヒトと呼ぶことになる村に居留することを許される。モンゴル軍を迎え撃ったのは,マジャパヒトの地に逃れてきていたラデン・ウィジャヤである。

『元史』の記述は少ないが,泉州の港を出航したモンゴル軍は,大越,チャンパの沿岸を航行して,タイ湾奥のパタヤのコーランKo-lan (Billiton)に寄港している。同じ頃(12901292年),マルコ・ポーロ(12541324)が泉州を発って帰国の途につき,チャンパ,そしてスマトラの北部に寄ってインド洋を迂回し,ホルムズへ向かっている。ジャワには寄港していないが,「甚だ裕福な島であり,胡椒,ナツメグ,ジャコウ,ガンショウ,バンウコン,クベバ,クローブなど,世界中の香料がここで生産され,極めて多くの船舶と商人がこの島を目指し,大量の商品を仕入れて巨利を得ている」といった伝聞を『東方見聞録』(『百万の書イルミリオーネ (Il Milione)』あるいは世界の記述 (Devisement du monde))に記している(図⑥)

台風に襲われ,チャンパのウィジャヤ王国に入港を拒否されるなど苦難の行程であったとされる。服従するマレーやスマトラの小国にはダルガチdarughachis(統治官)を残しながら,スラバヤ西方100kmに位置するトゥバンTuban沖に到達する。シービはクビライ軍を分け,一隊をトゥバンから陸路を南下させ,一隊はジャンガラの港からカリ・マスを小舟で遡行させた。両隊はパチュカンで合流,マジャパヒト(滿者伯夷)に到達する(図⑦)。



ラデン・ウィジャヤは,大元ウルスへの朝貢を約すことでモンゴル軍と同盟協定を結び(1293315日),クディリのジャヤカトゥワン軍を制圧,降伏させる。ウィジャヤは戦勝祝いと朝貢の準備としてマジャパヒトへ帰還,一転,モンゴル軍を急襲,敗走させる。スラバヤからモンゴルを撃退したのが,531日という。これがスラバヤの誕生日とされるのである。モンゴル軍は,モンスーンの風向きのために,慌てて帰国することになる。多くのモンゴル兵が取り残され,3000の精鋭を失ったとされる。

鮫と鰐の戦いという伝承は,このモンゴル軍との戦いを暗示しているのである。 



[1] 日本建築学会建築計画委員会夏期研究集会(20180817-25)。スラバヤ他、バリ、ジョクジャカルタ、ジャカルタをめぐる。

[2] 布野修司『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(学位請求論文,東京大学,1987年)がもとになっている。

[4] 鮫と鰐が戦うというモチーフについては,12世紀にクディリKederi(カディリKadiri)王国のジャヤバタという予言者が巨大な白い鮫と巨大な白い鰐が戦うと予言したという伝承もある。他に,ジャワ語のスラ・イン・バヤsura ing bayaに由来するという説がある。「勇敢に危機に臨む」という意味である。スロは,サンスクリット語のスールヤsurya(太陽)に由来するという説もある。この説に依れば、インド神話に由来するということになる。

[5] ナーガラクルターガマとは「聖なる教えの国」という意味である。『ナーガラクルターガマ』がチャクラヌガラの王宮から言語学者,J.ブランデスBrandesによって発見されたのは18941118日のことである。このロンタル椰子の葉に書かれた作品については,T.G.ピジョーの『14世紀のジャワ』5巻(Ⅰ.ジャワ語テキスト,Ⅱ.英訳・註,Ⅲ.翻訳,Ⅳ.注釈・要約,Ⅴ.用語集・索引)(Pigeaud, Theodore G.(1960))によって知ることができる。その後,1979年にバリで,H.I.R.ヒンツラーHinzlerJ.ショテルマンSchotermannによって異本が発見され,『デーシャワルナナDeśśawarnana』(Robson S.1995, Desawarnana (Nagarakrtagama) by Mpu Prapanca, translated by Stuart Robson,KITLV Press Leiden)として公刊された。「デーシャワルナナ」とは「地方の描写」という意味であり,もともと『ナーガラクルターガマ』も本文に明記されている名前は『デーシャワルナナ』である。『デーシャワルナナ』は,シンガサリ王国の創建者ラージャサ王の誕生に始まり,1343年のバリ遠征で終わる。ジャワの歴史については,もうひとつ,17世紀初頭に古ジャワ語でかかれた作者不詳の王の事績を編年体で記した年代記『パララトンPararaton(諸王の富)』(Brandes J.L.A.1920, “Pararaton(Ken Arok)”, Martinus Nijhoff, The Hague)が知られる。で,ラージャサRajasa王の誕生に始まり,クルタブミKertabhumi 王の1486年の記事で終わる。ジャワの歴史については,その他,近世ジャワ語で書かれたジャワの年代記『ババド・タナ・ジャウィBabad Tanah Jawi(ジャワ国縁起)』,『スラト・カンダSelat Kanda』がある。その他,Kidung Panji Wijayakrama, Kidung Rangga Lawaなどの中世ジャワ語の詩篇,そして多くの碑文が編年のために利用される。Stametmuljana(1975)が史資料を列挙している。

[6] 鄭和の 前後7回の航海のうち,馬歓が参加したのは第467次の3回であったが,その主要部分は第4次航海(1413年冬~14157月)の報告と考えられる。占城(チャンパ)から天方(メッカ)に至る20か国の風俗,物産,制度,住民などを詳しく紹介している。いくつかの系統の版本があるが,馮承釣(ふうしょうちょう)校注の『瀛涯勝覧校注』(1955・中華書局)に定評がある([寺田隆信]『小川博訳注『馬歓・瀛涯勝覧』(1969・吉川弘文館)』)

[7] 爪哇國:瓜哇國者,古名闍婆國也。其國有四處,皆無城郭。其他國船來,先至一處名杜板。次至一處名新村,又至一處名蘇魯馬益。再至一處名滿者伯夷,國王居之。其王之所居以磚為牆,高三丈餘,週圍約有二百餘步。其內設重門甚整潔,房屋如樓起造,高每三四丈,卽布以板,鋪細藤簟,或花草席,人於其上盤膝而坐。屋上月硬木板為瓦,破縫而蓋。國人住屋以茅草蓋之。家家俱以磚砌土庫,高三四尺,藏貯家私什物,居止坐臥於其上。・・・・於杜板投東行半日許,至新村,番名曰革兒昔。原係沙灘之地,蓋因中國之人來此剏居,遂名新村,至今村主廣東人也。約有千餘家,各處番人多到此處買賣。其金子諸般寶石一應番貨多有賣者,民甚殷富。自新村投南船行二十餘里,到蘇魯馬益,番名蘇兒把牙。其港口流出淡水,自此大船難進,用小船行二十餘里始至其地。亦有村主,掌管番人千餘家,其間亦有中國人。其港口有一洲,林木森茂,有長尾猢猻萬数,聚於上。有一黑色老雄獮猴為主,卻有一老番婦隨伴在側。其國中婦人無子嗣者,備酒飯果餅之類,往禱于老獼猴,其老猴喜,則先食其物,餘令衆猴爭食,食盡,隨有二猴來前交感為驗。此婦回家,卽便有孕,否則無子也,甚為可怪。

[8] 青山亨(2001a)「東アジア統一王権―アイルランガ王権からクディリ王国へ」(岩波講座『東南アジア史』2「東南アジア古代国家の成立と展開(1015世紀)」,岩波書店。

[9] スラバヤ市が条例(Mo.02DPRD-Kep-75)で531日を誕生の記念日とするのであるが、史実として確認されているわけではない。Slamet Muljana(1976)A Story of Majapahit”、Slamet Muljana(1979)Negarakertagama dan Tafsir Sejarahnya”は、モンゴル軍が撃退されたのは、1293424日だとしている。そして、マジャパヒト王国の設立が宣言されるのは129311月とされる。