このブログを検索

ラベル traverse の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル traverse の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年1月17日土曜日

座談会 構造設計者の夢と現実 斎藤公男・布野修司・竹山 聖・大崎 純・諸岡繁洋・高木次郎, traverse10, 新建築学研究,2009

 座談会 構造設計者の夢と現実 斎藤公男・布野修司・竹山 聖・大崎 純・諸岡繁洋高木次郎  traverse10, 新建築学研究,2009

構造設計者の夢と現実

 

参加者 斎藤公男(日本大学名誉教授)

布野修司(滋賀県立大学)

竹山 聖(京都大学)

大崎 純(京都大学)

諸岡繁洋(東海大学)

高木次郎(首都大学東京)

 

大崎

本日はお忙しいところお集まりいただき,有難うございます。座談会のテーマは「構造設計者の夢と現実」ですが,このテーマにとらわれずに,構造設計とデザイン全般について,忌憚のないご意見をお願いします。まずは斎藤先生の建築学会長としてのご経験を中心に,話を進めていきたいと思います。

 

姉歯問題

 

斎藤

会長としての2年間を無事終えることができました。布野さんをはじめ,多くの方にご協力いただき,この場をお借りしてお礼申し上げます。会長を終わって,言葉を発するのは今日が始めてです。会長になった時に最も重たかったのは姉歯問題ですね。副会長の時に,この事件が起きました。学会としても何かしないといけないということになり,20069月に,「健全な設計・生産システム構築のための提言」をまとめました。大崎さんも参加されていましたね。本来は構造設計について重点的に考えなければならなかったのですが,学会にもいろいろな方がおられて,当時の村上会長をはじめとして国に近い方もおられたので,設計と生産全体の枠組みを概括するだけで,姉歯問題の核心部分である構造計算や構造設計はほんのちょっとしか入っていません。

 

大崎

姉歯という人が悪いことをしたということの焦点がぼやけて議論が拡大して,施工や保険まで入ってきました。

 

斎藤

そうですね。そこで,学会長になった時に,学会は職能団体と違った発言ができるので,少なくとも構造設計の問題を総括し顕在化させないといけないと考えました。ということで,すでにあった「社会ニーズ対応推進委員会」を活用して,「建築学からみたあるべき構造設計特別調査委員会」を発足させた。いろいろストレスの溜まっていそうな和田章さんを中心として,高木さんも入っていただいて,いろいろな方面の若手から意見を出してもらっています。

 

高木

この委員会は,構造設計を中心に20人くらいの委員で構成されていて,斎藤先生,和田先生,金箱温春さんになどに圧倒されながら議論を進めています。今年度中に新たな提言をまとめようということで,前の提言をふまえて,構造設計をとりまく状況がどのように変わったのか,これからどのようにあるべきかを考えています。資格の問題や,コンピュターに依存しすぎることの問題点とか,確認申請はどうあるべきかといったことを含めて,構造設計の本来のありかたを全般的に考えています。

 

大崎

前の提言では学会としての自助努力の項目をいろいろ挙げましたが,いろいろなしがらみで実現が困難でした。そのような虚しさはないですか?

 

高木

制度のあるべき姿を発信するにあたって,ある程度の公共性とか中立性がある意見を述べられるのは学会であり,JSCAが何か言っても「身内でなんか言ってるよ」というようにとらえられるので,何か言う時の重みは学会が格段に上であるという認識があります。提言は一般的な形でまとめなければいけませんが,抽象的になってはだめで,それを解説するというかたちで具体性を持ったものにするというようなことを考えています。

 

斎藤

今回は「構造設計」に虫眼鏡をあてて,拡大して,そこに課題を特化してます。だからメンバーも実際に構造設計をやってる若手が中心で,自分たちが実際に法律をつくる立場であれば,あるいは意見を求められれば,どういう姿であれば責任を果たして誇りをもてるかを明文化しようということからスタートしてます。前回の虚しさは私も感じましたが,今回は虚しさを感じないように頑張ろうということです。私が会長のときに姉歯事件が起きたら,多分,全然別のアクションを起こしていたのではないかと思ったりもします。若い頃,私も安保闘争とか学園紛争を経験しましたので,その時期に精いっぱいのことをしないといけないという気持ちは大きいです。布野さんもそうだと思いますけど。

 

布野

10年違いですが。

 

斎藤

いずれにしろあの時の重要かつ緊急性のあるミッションがあったはずなので,もう少しジャーナリズムを引き込んで,社会に理解されるようなデモンストレーションをしたかった。だから,副会長のときにあれだけしかできなかったという無念さはありました。「前回の提言」では,自助努力と共に緩やかに法規制を進めるべきだという内容でしたが,緩やかであるべき法規制のほうがどんどん先に行っちゃって,学会や職能団体の自助努力が追い付かないということになってしまいました。今からでも遅くない。はたして自助努力は何だろうということを若い人を中心に議論して,次の青写真を示すというのが今回の活動の一つの目標です。

 

布野

阪神淡路大震災のあとで,横尾委員会というのを尾島俊雄先生が立ち上げて,2年ぐらい議論して提言を出しました。尾島先生から横尾義貫先生に依頼があって,SECOMの会長や内田祥哉先生に意見を聞くなど相当議論しました。そのときのひとつの結論は保険です。建物に関して保険が成立するためには建物のレーティングが必要で,学会のイニシアチブ下に格付け機関を作ったらいいというのが私の意見でした。

 

大崎

耐震等級と保険をリンクさせるという話ですね。

 

布野

そうです。耳学問ですが,カリフォルニアはどうだとか,ずいぶん勉強しました。もう一つ,保険の前提は自己責任あるいはクライアント責任です。でもそんなことは今でも大きい声で言えない。もちろん設計者責任もあるけど,全部ゼネコンにおんぶにだっこできた。その直後に第3者検査機関の制度ができて,姉歯問題で全て振り出しに戻ってしまった。

 

斎藤

何年ぐらい前のことですか。

 

布野

震災の2年後ぐらいなので,97年か98年です。建築雑誌にインタビュー記事は載っています。

 

諸岡

そのころのアメリカの保険では断層からの距離とかもはいっていたと思うので現実的だったのではないですか。でも日本ではぜんぜん普及してない。

 

布野

そうですね。国交省はまったく理解していない。基準法にしても,建築士法にしても,きつく縛ることしか頭にない。

 

社会へのメッセージ

 

斎藤

「提言」のもう一つの問題点は,市民に届かなかったということすね。

 

大崎

提言を誰に向かって何のために出すのかという意味づけが難しいです。

 

斎藤

阪神大震災の時に,構造設計で安全性を保証するのがいかに難しいかということをしっかり伝えないといけなかったし,姉歯事件の時に,構造計算がいかに危ういかをもっと考えるべきでした。いずれにしろ,耐震設計の難しさを市民にもっと分かりやすく伝えるのが重要です。それと同時に社会資産としての建築の役割と魅力を伝えたい。ということで,2年前の会長就任の折,何か見える形でやれないかということを考えて,2年前の6月に「『建築』への責任と誇り」というマニフェストを出しました。バビロニアのハムラビ法典の時代から,建物が壊れると設計者は厳しく処罰されたように,国から言われなくても本物の構造設計者は命がけで仕事してるわけだけど,「責任」に加えて,「誇り」を共有できないとまずいと思いました。マニフェストのサブタイトルは「建築学とデザイン「力」の融合」です。学会には幸い,広範で深い建築学があって,各々の分野で進化していくんだけと,それを社会に出していくのが大事です。おそらく今年末には定款改正の議論が出てくると思うけど,50年ぐらい前に「社会」とか「公共」という言葉が定款から抜けちゃったんですね。なぜかというと,JSCAなど建築家協会や事務所協会とかの職能団体が成育して来て,そちらに社会的活動を任せて,学会は「学術・技術・芸術」を中心に学術団体として特化しようということになった。

 

大崎

学会は学術団体ですから,研究者や学生などの学術関係の会員に貢献すればよくて,どこまで市民に貢献すればよいかという判断は難しいです。

 

斎藤

芦原義信さんが会長だった20数年前に「開かれた学会」というのを標榜して以来,定款にはないけど,提言やいろいろなイベントを通じて学会の社会性は重視されてきました。横断的とか総合的とかの特徴のある学会の中で,何か共有できる社会的な建築テーマがあっていいのではないかと思いました。例えば,「既存建築を活かす対震改修デザイン」という委員会を松村秀一さんにやってもらっていますが,耐震補強を促進するという意味でも,ソフトとハードの両面から,建築的な魅力を作っていくということを議論してもらっています。

 

建築デザイン発表会

 

斎藤

特別調査委員会以外でも,形として見える学会活動をやりたかった。ひとつは「建築デザイン発表会」で,去年の広島大会からです。

 

布野

もともとは誰の発想ですか?

 

斎藤

芸術的な分野での自由な発表の場が村上会長の時に必要だという意見はありました。私は「デザイン」を広義にとらえて,技術的なアイデアとか,論理性を持った,プロジェクトについて建築家や,計画系の院生などが発表できる場所を学会として創設したかった。副会長のときには実現できなくて,去年やっと実現できました。

 

布野

「斎藤先生が建築計画委員会はいらないと言っている」という噂が流れていました。建築家とエンジニアがいればいいんだといわれれば,確かにそうかな,という感じだったんですが,まさか私が建築計画委員長になるとは思ってなかった。建築デザイン発表会の実現にはそれなりに貢献させていただきました。

 

斎藤

中に向かってはデザイン発表会ができたので,外に向かって何か必要だということで,考えたのがアーキニアリング・デザイン展(AND展)です。

 

竹山

10月に関西でも巡回展があるので協力させていただきます。

 

斎藤

こういうイベントをやりたいと思ったきっかけは,1996年にパリのポンピドーで開催された「エンジニアリングの芸術展」です。過去200年のエンジニアリングの歴史展を,あのエッフェル塔が非難されたパリでやったわけです。学会はお金も人もなく,「殿ご乱心あそばしたか」といわれそうでしたが,皆さんの賛同がやっと得られ動き出しました。学会のいいところは教育界があって学生や先生方がいるということだから,建築を志してそれぞれの職能に入っていく前の段階の学生たちが参加できる形にできないかと思いました。

 

布野

陶器さんに模型作りを手伝わされました。

 

斎藤

結果的に130の模型が集まったんだけど,ただ作るんではなく,世界古今東西の建築や都市や住宅が持っている魅力やしかけや秘密をどういう角度で展開したらいいかというスタディや中間発表会を,半年ぐらいかけてやりました。考えながら作っていく制作プロセスそのものがイベントになったわけです。

 

資格問題と職能団体

 

斎藤

今回の建築士法改正で,構造設計一級建築士と,設備設計一級建築士ができたけど,「肝心のアーキテクトはどこなの?」というのが資格での大きな問題で,ちゃんと議論しないといけないですね。建築関係の職能団体が三すくみの様な状況にも見えます。学会が中心になって日本における将来の建築家像を議論しないといけないように思います。

 

布野

竹山さんは建築家協会には入ってるの?

 

竹山

最近入りましたね。出江寛さんが近畿の支部長をやめられるときに,あとを頼む人が欲しいといって誘われました。それまでは,学会以外のところとはなるべく距離を置くというスタンスでした。新建築家協会も,丹下健三さん会長での立ち上げにあたって,伊東豊雄さんも入ったし,長谷川逸子さんからはわざわざ電話で誘ってもらいましたが,原広司先生に「いい建築家は新建築家協会には入らない」といわれてやめたんです。

 

斎藤

「いい建築家」がキーワードですね。

 

竹山

当時,社会にもの申せるだけの建築家の政治的な団体がなく,クラブ的な建築家協会しかないという問題があったのでしょうね。「建築家」という言葉自体,行政の認識にはなくて,関空の建築家を選べと外圧がかかってはじめて役所で用いられはじめたくらいですから。ここ3,4年,大阪府建築士事務所協会の機関誌に連載しているので,事務所協会のことはわかってきました。それから,今年,大阪建築コンクールというかなり長い歴史のあるコンクールの審査委員長をしました。渡辺節賞という栄えある名の新人賞もあり,これは建築士会ですので,建築士会の会にも呼ばれ雰囲気もわかってきました。最近いろんなことを知るようになって,難しいことが山ほどあるなと思いました。だから,斎藤先生のようにピュアなかたちで,知らないふりをして構造の専門家としてアーキテクトや社会に物申すというのがいいのかなという感じです。今までの三すくみとか五すくみとかを知りすぎてどうにもならんよと言ってるうちに,官僚がすごい法律作って建築技術教育普及センターで講習を受けさせられたり高い更新料を払わされたり,確認審査料もべらぼうに高くなってしまう。コンクリートと木造を混ぜたりすると,混構造ということになって簡単には建たない。これもうまく設計すれば合理的なわけで,いわば構造設計者の工夫の余地が全くないような方向に法律が進んでいる。姉歯をきっかけとして官僚が焼け太ってとっているという状態です。学会がピュアな立場で意見を言わないと。

 

斎藤

デザインが後退してますね。

 

竹山

ひどいですね。最初から「ルート1で行きましょうね」,「そんなことしたら構造設計料も高くなるし時間もかかるのでやめたほうがいいです」という状態です。クリエイティビティの余地がない。

 

斎藤

戦略としてはどうしますか?

 

竹山

これをチャンスに官僚と組んで自分たちの利権を広げようという動きもあるようです。そこに突破口を開いてリーダーシップをとるのは学会しかない。それから,教育の面で一番若年層まで広がってるのは学会ですから,鉄は柔らかいうちに打てということで学生の意欲を掻き立てるという意味で,斎藤先生はいいビジョンをお持ちだと思います。

 

布野

仙田満会長のとき,「建築家協会と間違えてるんじゃない?」という印象がありました。もともと建築学会も建築家協会,つまり建築家の集まりということで出発してるんですけどね。。。学会長と協会長の両方をやられたのは芦原先生と仙田先生だけなんじゃないですか。関西はそれほど人材がいないので,学会も建築士会も建築家協会もみんないっしょにやっていると聞きました。地方に行くともっとそうでしょう。建築家協会に入ってると,エリートという感じでしょうか。去年1年間,山本理顕さんと国交省の委員会で,イギリスのCABE(Committee for Architecture and Built Environment)のようなデザインレビュー組織をつくってタウンアーキテクト制を推進しようという話をしました。今年から1億5千万円を街づくりに配るという制度ができたんですが,配分する委員会の委員は建築家協会,建築士会,事務所協会という業界団体になってしまった。地域で決めるというのとは違います。

 

竹山

最近出席した建築士会の会合で,藤本昌也会長が士会でみんなもらおうと檄をとばしてましたよ。(笑)

 

布野

私が97年にアーバンアーキテクト制といったときも藤本先生が出てきてました。

 

大崎

中立を保てるのは学会しかないということですね。

 

斎藤

建築基本法なんかも,うまくやればいいんだけど,結局定量的なことが入って韓国とかと違う,役人向きになってしまうかもしれない。学会でも神田順さんなんかがずいぶん前からやってて,いい骨格ができ始めたのに,いいところだけ国に吸い取られて,形を変えてくるとか。こういうことに対して,学会はもっと発言しないといけない。いい議論をして建築を文化にしていくのも学会の役目だと思います。そのために,市民に声が届くための方策を考えないといけない。

 

布野

副会長になった辻本誠さんと,各特別委員会などの発表を,NHK解説委員の前でやるべきじゃないかという話をしてます。業界誌ではなくて,一般誌を呼んで記者会見をしたらいい。

 

大崎

学会では定期的にプレスリリースをしてますか?

 

布野

してるけど一般誌はこない。

 

斎藤

今年度の最初の記者会見の時に,一般誌の新聞記者がいて,専門誌ではなくて我々が取り上げられるような魅力的なことをもっとやってくれないとこまる,と言われたそうです。

 

布野

東国原知事じゃないけど,もっとメッセージ性のあることをやらないと。

 

斎藤

布野さんがそれをやってくれるはずだったんけど。。。今日はそれを一番大きい声で言いたい。(笑)

 

大崎

御用学会とまでいわなくても,学会で主導的な立場におられる先生も国の委員会や審議会に呼ばれたら参加するでしょう。

 

布野

建築基本法も国では重視してないけど,理念法だけだと心配です。

 

大崎

だから,中立性を保って良いとこどりをされないためには国とは一線と画さないと。

 

布野

それは,建築センターに使われるのが良いとか,悪いとか積年の問題でしょう。

 

斎藤

でも,組織としては,事務局に天下りがいないというのは建築学会だけです。団体や組織を背負っているという鎧をすてて,個人の純粋性が必要です。そのような意味で,私はちょっと硬いけど「建築学」という言葉を使ってます。建築学というと,構造,環境,計画ということもあるけど,もっと広い意味で,本来あるべき建築が見えるかたちで意見がでていったらいいなと。

 

構造設計

 

斎藤

構造設計は「技術」だから,「科学」とは違うわけで,科学的に計算すれば結果が出ると考えると,ものを設計する技術にはつながらないですね。だから,「建築学」の視点からいろいろ考えないといけない。「科学」と「工学」があれば「技術」ができるというようなことはなくて,科学も工学もない時代から技術は連綿とつづいてます。世界遺産もそうだし,日本の匠の世界もそうです。だから,科学と工学を技術にするためには人間が必ず介在しないといけない。それを飛ばして,数値化すればよいというのでは,これからできる建築基本法も危ういものがあるので,それにうかうか乗らないように議論していかないといけません。

 

竹山

構造設計でも,安藤忠雄のようなスターが出てくるといいです。ピーター・ライスとか,たとえばセシル・バーモントが来ると,すごい数の学生が聞きに行きますね。日本では,斎藤先生をはじめ何人かおられますが,セルフプロモーションが十分じゃない。

 

諸岡

アーキテクトの横に構造設計者の名前が併記されるようにならないと,建築の学生でさえ,構造設計者の名前を知らないですよね。

 

竹山

たとえばカーサ・ブルータスに取り上げられるような構造設計者がいないといけないのかも。(笑)安藤忠雄みたいに。

 

諸岡

昔は11PMが目標でした。

 

大崎

構造設計一級建築士ができて,名前が出るようになりますね。

 

斎藤

規模によってですが。それから現場の看板には出るかもしれないね。

 

高木

それは申請上の手続きであって,パブリックに公表されるわけではない。

 

大崎

アーキテクトが構造設計者の名前を出したがらないということではないですか。

 

竹山

そんなことはないでしょう。でも,アラップのイギリスとは違って,制度上は,構造設計者は設計事務所からの外注で仕事をしているから,外から認知されにくいということはあるかもしれません。イギリスなんかは直接契約ですから。

 

斎藤

でも,ピーターライスとかノーマンフォスターの名前が出るという話は,制度上の問題とは違って,そのプロジェクトで,かなり重要な役割を果たすからです。そうすると,自然と名前が出てくるんですね。シドニー・オペラハウスでも,ウッソンの名前は分からなくても,アラップといえば分るじゃないですか。だから,プロジェクトの内容とか進め方とか素質の問題だと思う。仕事をとるときはアーキテクトが出向いていくというのは仕組みの問題ですね。でも場合によっては,川口衞先生が橋の仕事をされたようなケースもある。ピーターライスの名前が出たというのは,組んでたアーキテクトが,そういう構造設計者を必要とするというプロジェクトが多かったということですね。

 

竹山

ピーター・ライスが全盛のときは,コンペの時にどのアーキテクトが先に電話をするかという感じで,ピーター・ライスの取り合いだったと聞いています。今の日本の若い人でも,どの構造設計者と組めば,たとえば佐々木睦朗と組めば面白い仕事ができるかということを考えているみたいです。そういった情報交換もアーキテクトの間でやりますよ。

 

斎藤

日本でも優秀な構造設計者は,若手であってもアーキテクトが評価してますね。ちょっと変わったことや新しい試みをしようとした時に,どの構造家に依頼するかを考えるのは最近の風潮ですね。

 

布野

陶器浩一さんも売れっ子で,5件ぐらい同時に9月着工です。

 

竹山

妹島和世さんも,構造設計者が変わると面白い仕事ができているような感じです。今の若いアーキテクトの気分を,一般の人も共有できれば,構造もまた文化ということになるんでしょうね。

 

斎藤

単に構造計算する人と,クリエイティブなことをする人を見分けるというのは,業界の中ではできてる。組織事務所やゼネコンでも,面白いことのできる人は,評価されてるみたいですね。エンジニアの名前は出にくいけど,そのような人が関わることのできるプロジェクトがもっと増えて表に現れれば,若い人も含めて,コンピュータだけでなくて人間が介在することによって建築は面白くなるんだということがわかってもらえる。教育の問題でもあるんだよね。講義でどのように紹介してるかとか。

 

諸岡

著名なアーキテクトの本ではなく,著名な構造家の作品を集めた本というのは可能でしょうか。

 

竹山

もちろん可能でしょう。しかもそれが売れるような世の中にしないといけない。

 

諸岡

どっちが先かということですが。出さないと売れないし。。。

 

高木

木村俊彦先生の本はありますね。

 

布野

一般に本は売れないしね。

 

建築と文化

 

布野

学会に話を戻せば,学会活動を点数稼ぎと考えている先生が多いように思います。研究協議会のパネリストになるとかが目的で,斎藤先生のいわれるような建築を愛するという発想は全くない。

 

斎藤

それは業績評価と関係しますね。アーキテクトの業績を大学でどのように評価するか。それを学会がもっと発信して,建築の先生が論文以外の設計とかソフトの面で評価されるべきだという意見を出すべきだと思う。建築デザイン発表会はそのために提案しました。アーキテクトの発表を活性化しないと建築学科がダメになります。

 

布野

構造の先生がそう言われるのも面白いですね。

 

斎藤

やろうと思えば学会にはいろんな可能性があるなということを2年間で感じました。あるプロジェクトやアイデアに社会性があれば,企業も大学も協力してくれます。

 

竹山

アーキニアリング・デザイン展はいろんな職能団体が相乗りですか?

 

斎藤

協賛です。お金は出さないのが一般ですが,JSCAだけは応援してくれました。

 

竹山

昔アーキテクチャーオブザイヤーというのがあって,僕も委員に入ってたけど,初めて5団体が協賛したそうですね。お金がなくなって終了しましたが。木村俊彦先生が全体のコーディネータをされたのが最後でした。

 

斎藤

池袋でやったときですね。

 

竹山

その時に,阪神大震災があって構造や地震について何か発言するようなテーマにすべきだし,そのようなコーディネータを選ぶべきだと言って,木村先生になったんです。それまでは丹下さんや篠原さんといったアーキテクトがその年の10作品ぐらいを選んで展示するということでした。でも木村さんになって違うテーマになった。結局,バブルもはじけて寄附が集まらなくなって,終わりになりました。

 

斎藤

模型も壮大なものでしたね。

 

竹山

あのときには一般の人もすごく入ったんですよ。アーキニアリングにしても,一般の人に来てもらおうとすると,テーマにしろメッセージにしろ何かいいえさを投げないといけないですね。結局,ちまたで売れてるのは「間違いのない家を建てるために」とかの本ですから。

 

布野

でも,安藤忠雄なんかが言ってるのは普通のことですよ。

 

竹山

安藤さんなんかは,確信犯的にポピュリズムのど真ん中の分かりやすいメッセージを出して,自分で興業を打ってるわけです。一般の人がそれに飛びつく。構造設計者についても,姉歯事件で,いろいろな種類の人がいることがわかったわけだし,構造設計を楽しい教養として一般の人が理解するような文化が生まれるかどうかですよ。イタリアなんか田舎の町に行っても,建築とか都市の話をやってる。日本ではどのマンションが安いかとか,どこのゼネコンのマンションだったら後で高く売れるかというような話ばかりです。

 

斎藤

文化になってないよね。

 

斎藤

オープンアーキテクチャを五十嵐太郎さんがやってますが,地方にいくと,地域の人を巻き組むようなことがやりやすいのではないですか?

 

竹山

京都でJIAが中心になって,「京都の町に根付いた建築」というテーマで,40人ぐらいの建築家の展覧会を,旧日銀の京都博物館でやって,結構一般の人が来ていましたね。京都のような町でちょっと興味のある人が来やすいところで展覧会を無料でやると,週末にいっぱい人が来ます。

 

布野

それは不思議ですね。京都でシンポジウムをやると,全然来ない。シンポジウムは大阪のほうが集まる。

 

大崎

なぜですか?

 

布野

京都は,某先生がやってるのは行かないとか,難しいんです。

 

諸岡

構造の話が分かるような子供向けの絵本のようなものがあればいいですね。建築については高松先生の絵本などがありますが,構造については川口衞先生の「建築の絵本」しか思いつかないです。

 

竹山

最近2カ月に1回ぐらい住まいのクリニックという催しを,エンジン01文化戦略会議で今川憲英さんと一緒に全国行脚してます。構造については難しいですね。数式が出てくると,とたんにみんな寝てしまいます。一般の人は,定量的でなく,定性的な話を聞きたいわけです。だいたい,鉄筋コンクリートと鉄骨の違いが分からない人も多いんですから。

 

布野

学生と同じですね。

 

竹山

非常に下世話な話になりましたが,でも,一般の人が建築を文化としてとらえるようになってくれるように盛り上げるしくみは,学会が中心になって取り組むべき課題だと思います。

 

大崎

子供から教育していかないといけないですね。高校生ぐらいからでも,建築を志望する人が増えるかもしれない。デザイナーより構造設計者のほうが人不足ですね。

 

高木

構造設計より設備設計のほうが足りないと聞いています。とくに電気系。

 

構造設計教育

 

竹山

京大の構造設計教育ってどうですか。

 

布野

教育してないでしょう。

 

竹山

設計演習には参加してもらってますが。そもそも学生たちに構造の基本的なセンスとか素養がないんだけど,構造の先生も,コンクリートだったらスパンの1/10, 鉄骨だったら1/15とかしか言わない。もっと実務に近くて面白いことをやってくれる先生がいるといいですね。

 

大崎

でも,この前,「ここに柱がいるよ」と言ってあげて,学生が素直に柱をつけたら,講評会で,デザインの先生に「なぜこんなところに柱があるんだ」とお叱りをうけていたのを見て,指導する意欲がなくなりました。(笑)

 

布野

西澤英和さんは,設計演習で図面見て,どうとでもなるといつも言ってたよ。「ここに柱がいるんじゃないの」と僕が心配したぐらいです。

 

竹山

京都大学がアピールするためには,スター構造設計者が必要です。教育にはいろいろなやり方があって,直接教えるのも大事だけど,背中をみて学ぶというのもあります。柱云々というようなことと違うところを伸ばしたほうが良い学生もいれば,しっかり設計することを教えたほうが良い学生もいる。せっかく構造の強い京都大学で,構造のスーパースターがいてほしいな。

 

大崎

京都大学は研究者も育てないといけないし,難しいですね。構造デザイナーを養成するという教育はしていない。

 

諸岡

でもベースはしっかり教えているので,構造設計事務所に就職しても,そこの先生とは違う独自のことを提案できる。

 

高木

設計演習を教えてて,これで建つかと聞かれたら,たいてい何とかなるんじゃないですかという答えになるんですが,そのことで余分にお金と労力がかかるので,どうしてもそれをやりたいということを説明してくださいよと学生に教えてます。経済的観点を持ち込まないと,実務的な設計演習にはならないでしょう。

 

布野

こんなに柱が太くなるよということでしょう。

 

高木

もちろんそうです。プロポーションの話もあります。

 

斎藤

でも,大事なことは,やりたいことがあった時に,答えは無数にあるわけでしょう。素材とかコンストラクションとか。それで目指すものをどのように実現するかということまで見せてあげないと,本物の構造デザインの教育にはならない。

 

高木

それは教える学年にも関係して,建築のことがわかってくれば,そのような話をするのもいいんです。

 

竹山

2回生にも,広い意味のデザイナーとアーティストの違いを説明しています。アーティストは自分で自分のためにものをつくり,デザイナーは,社会のため,ひとのお金でひとのために作るので,責任がある。勝手なことをやるな。「こんなことやりたい」ではなく,「こうやるべきではないかと思います」と言うように。君のこの変てこりんな形は社会に認知されるか,誰かがお金を出して作ってくれるか,お金を出してもらうためには,説得力が必要であり,なお価値を共有してもらわなければならない。それがデザインだ,と。このようなことは,2回生でも分かります。

 

布野

最初の設計を見るのは好きです。それで能力が分かったりします。一般に授業を聞いていくとだんだん下手になる。最初に輝いてたことを貫く子が結局活躍してます。

 

斎藤

知識だけが増えるとだめになる。建築家のプロの世界でも同じかもしれない。

 

布野

儲かっていっぱい設計しだすとだんだんつまんなくなる。

 

斎藤

あやしくなって踏み越えてはいけないところに行っちゃったり。

 

布野

高崎正治は,造形センスは2歳ぐらいまでに決まるという。4歳ぐらいになると,粘土細工をしてて「家に見える?」みたいにお母さんの顔を見るようになって,全然面白くなくなる。

 

竹山

高崎さんは僕とは違う種類の人だと思ってて,馬鹿みたいに高いのをつくります。坪400万と聞いたので,「そんなの建てる人がいるの?」と言ったら。「安いよ。彫刻なんて坪いくらだと思う?」と言われました。藤森照信さんは,坪80万は普通の建築,90万はまずまずの建築,100万超えたら建築家の建築といって,坪100万以上取る。

 

布野

何時ごろの坪単価の話なの?

 

竹山

少し前かな。僕は坪60万と思ってたからそういう説得の仕方もあるのかと思いました。でも,納得する人だったら,坪100万でも200万でもいいわけでしょう。だから,説得力のある学生は別のレベルで生きるかもしれない。

 

高木

僕の場合は設計理論のレベルが低いので,こんなんじゃだめだといいながら,学生がいろいろ言ってくると,それじゃ構造的に何とかしようかと考えたりして。

 

竹山

シドニーのオペラハウスもずいぶんお金と年月をかけたけど,完成したらみんなお金のことは忘れてしまうから。

 

斎藤

結果的には集客力もすごいので元は取れてるし,社会資産になった。一般的なことをいうと,アーキテクトにもピンキリというか,スター建築家から,基本的なことができる人までいるわけです。構造というのはもっとそれが激しくて,基本は健全な設計ができるということですね。まずは安全を守るということを教育するのが大事です。その中で,何らかの素質や才能がある人が,何年かに一人現れるというのが構造の世界だと思う。みんなが創造的になるのは無理な話だけど,建築や空間の質とかに関わるような仕事があるんだよということは教えないと。コンピュータの魅力は大きいけれど,その魔力に負けないように,個人の力によって何ができるかという展望が開けるような教育が必要です。

 

大崎

座談会テーマの「構造設計者の夢と現実」に関して十分に議論できたか自信がありませんが,時間もオーバーしてますので,構造教育が重要だということで,traverseにふさわしい結論で締めさせていただきます。有難うございました。

 

平成217月,建築会館会議室

 

 

 


2025年9月3日水曜日

棲み分けの多様な原理Diverse Principles of Segregation , traverse23,新建築学研究23, 2022

 棲み分けの多様な原Diverse Principles of Segregation , traverse23,新建築学研究23 202

https://www.traverse-architecture.com/essay-%E5%B8%83%E9%87%8E%E4%BF%AE%E5%8F%B822

棲み分けの多様な原 Diverse Principles of Segregation

 

Shuji Funo

布野修司

そもそも、建築すること、設計することは、空間を境界づけることである1。建築の起源は、⾃然⼈⼝環境化すること、⾬⾵を防ぎ、寒暖を制御し、快適な居住空間を維持するために、⾃然との間に境界をつくることにある。そして、空間と空間を仕切ること、すなわち、空間をどう分離しどう結合するかは、設計⾏為の本質である。

名づけること、すなわち、⾔語の成⽴そのものが、「もの」「こと」を区別することである。そして、境界(boundary, border, bound)をつくるということは、聖と俗、公と私、内と外、男と⼥、⽀配と被        を空間的に区別することである。建築するということは、時として、空間を隔離segregateする暴⼒的⾏為となる。都市計画⼿法としてのゾーニングはまさにその象徴である。

究極のセグリゲーションアパルトヘイト・シテ

今⽇のアジア、アフリカ、そしてアメリカ⼤陸の数多くの国家を境界づけている国境線は⻄欧列強による植⺠地分割の歴史的遺産である。国⼟のかたちは川や海、⼭や砂漠など⾃然によって境界づけられるのが⼀般的であるが、直線で区切られた国境線はいかにも不⾃然である。植⺠地においては、⽀配-被⽀配、外来-⼟着、富裕層貧困層の分離は極めてクリティカルである。

1997年に植⺠都市研究2を始めて四半世紀になる。世界中の植⺠都市を歩いてきたが3、最も驚いたのは南アフリカ共和国の諸都市である。「アパルトヘイト・シティApartheit City(⼈種隔離都市)」と呼ばれるが、⽩⼈、インド⼈あるいはカラード、アフリカ⼈という⼈種によって、貧富の差によって都市が完全に分割されているのである。究極のセグリゲーションと⾔ってよい。



 アメリカで⽣み出されたゾーニングZoningという⼿法は、⽇本では「⽤途地域制」として、都市を地区に分割し、各地区の建物の⽤途、⾼さ、建蔽率、容積率などを規制するものと考えられているが、そもそもは⼈種隔離を前提とするものであった。最初の⼈種隔離ゾーニング条例が成⽴したのはボルティモアで1910年のことである。しかしそれにしても、「アパルトヘイト・シティ」のすさまじさは想像を絶する。その起源は、1834年の奴隷解放によってケープタウンに⾃由奴隷のための特別な居住区(ロケーション)がつくられたことに遡る。その後の原住⺠(都市地域)法Natives Urban   AreasAct1923)から集団地域法Group  Area Act1950へ⾄る経緯はここでは省くが、 Lemon1990の模式図のように(図)、⽩⼈の中⼼業務地区CBDを中⼼に、インド⼈あるいはカラード、アフリカ⼈という⼈種、収⼊階層などによって居住地は分離されるが、その幅は、場合によると数キロにもなるのである4

1 「カンポンとコンパウンド」(前号『traverse22)の末尾に、「<包むもの/取り囲むもの>という⾔葉は、ある領域の境界、そしてその外部と内部をめぐる普遍的問いを突きつける。……共同体における相互扶助と内部規制という⼆重の機能が孕む基本的問題は問われ続けているのではないか。」と書いた。traverse』という命名が既にその基本的命題を意識しているのであるが、「今、境界をつくるということ」というテーマ設定は、越境traverseすべき「境界」が⾒えなくなっているということなのか

2 布野修司植⺠都市の形成と⼟着化に関する研究科学研究費補助⾦国際学術調査199798布野修司・応地利明・安藤正雄植⺠都市空間の起源・変容・転成・保全に関する研究,科学研究費国際学術研究19992001年。

3 植民都市研究をめぐっては『traverse』に何度か書いている。創刊号の「植民都市の建設者・・・計画理念の移者たちThe Builders of Colonial Cities・・・Planters of Western Urban Planning 植民都市研究のためのメモ traverse01, 新建築学研究012000)その最初の報告である。「植民都市の特性と類Characteristics anTypology of Colonial Citiesランダ植民都市研Study on Dutch Colonial Cities traverse04, 新建築学究, 2003)「ハトとコラルグリッドの⼟地分割システム Hatos & Corales AntiーGrid Land Division System」(traverse09, 新建築学研究,2008)、「グリッド都市The Grid City」( traverse13, 新建築学研究,2012)。


 

 パインランズ・ガーデンシティ唯⼀実現した⽥園都市︕︖

 植⺠都市研究の最初のターゲットとしたのは英国の植⺠都市である。⼤英帝国はその絶頂期(1930年代)に地球上の陸地の4分の1を⽀配した。まず焦点を当てたのは、その絶頂期に建設された⼤英帝国の3⾸都ニューデリー、プレトリア、キャンベラである。また、20世紀の都市計画理念として最も影響⼒をもったE.ハワードの「⽥園都市」5100周年ということも念頭にあり、各地の⽥園都市も視野に⼊れていた6。最初にロンドン経由で南アフリカに向かったのは、プレトリアと共にケープタウン郊外のパインランズPinelands・ガーデンシティの帰趨を確認したかったからである。

 E.ハワードの⽥園都市の理念は、極めて単純なダイアグラム(図ab)によって知られる。⼤都市への⼈⼝集中を衛星都市によって受け⽌め、分散するプログラムと⼀般に理解されるが、その核となるのは、「⾃給⾃⾜ Self-contained」であり、⼟地の公有化であり、職住近接であり、都市と農村の調和・結合である7。この⽥園都市の理念は圧倒的な影響⼒をもち、世界中に「⽥園都市」が建設されることになる。しかし、実際に建設された「⽥園都市」は、その基本理念を実現することのない「⽥園郊外Garden Suburb」にすぎず、失敗に終わったとされる。しかしそうしたなかで、唯⼀成功したのがパインランズではないかという。



その建設を推進したのは、事業家で南アフリカ連邦内閣の⼀員であったリチャード・スタッタフォードである8。設計したのはパーカー・アンウインParkerUnwin事務所の所員であったA.J.トンプソンAlbert  Thompsonである。建設トラストは地元の建築家によるコンペを⾏い、ジョン・ペリーの案が選ばれたが、R.アンウインに⽋点を指摘され、替わってA.J.トンプソンが推薦される。A.J.トンプソンがケープ・タウンを訪れたのは、1920年である9。その中⼼地区はレッチワースに似ており、クルドサックも⽤いられている(図)。19246⽉半ばまでに95⼾完成、⼊居さらに翌年2⽉までに12⼾が竣⼯している。パインランズは、アフリカ最初の⽥園都市である。

パインランズ・ガーデンシティは、筆者が訪れた1997年には、まるで陸の孤島のように⽩⼈のみが居住する⽥園都市として、初期の完結した都市のイメージを維持してきたように⾒えた。アパルトヘイト体制が強化されるなかで、パインランズは存続してきたのである。反アパルトヘイト運動で27年投獄されたN.R.マンデラが⼤統領になったのは3年前の1994年であった。

4 佐藤圭一, 布野修司: ボー・カープープタウン, 南アフリカ街区構成と住居類型・・・ケープタウンにおる非白人居住区の空間構成に関する研Building Types and Block Patterns of Bokaap (CapeTownSouth Africa) STUDY ON THE SPATIAL PATTERNS OF NONWHITE QUARTERS IN CAPE TOWN, 日本建築学会計画系論文集555号, pp239

24620025月。佐藤圭一, 布野修司, 安藤正雄, ディストリクト・シックスープタウン, 南アフリカ形成とその解体・再開発に関する考察Considerations on FormationDestruction and Redevelopment of District Six(Cape TownSouth Africa), 日本建築学会計画系論文集, 第578号, pp778420044月。

5 『明-真の改にいたる平和の道To-morrow: A Peaceful Path to Real Reform』(1898)。『明園都市Garden Cities of To-morrow』(1902)。

6 布野修司園都市計画思想の世界史的展開に関する研究-発展途上地域(東南アジア)におけるその受容と変容科学研究費盤(B),19992001年。

7 また、見逃されるけれど、E.ハワードが描いた数葉のダイアグラムには、「Diagram Only」と書かれており、具体なレイアウトを示唆するものではなかった。実際に、最初の田園都市レッチワースを設計 1904B.パーカーとR.アンウィンは幾何学的配置を呪詛していたことが知られる



セグリゲーションの諸相:⼈種・防衛・衛⽣・間接統

 植⺠都市研究を企ててロンドンを訪れた最初の⽇に、ホテルの近所にあった本屋で⼀冊の本が眼にとまった。出版されたばかりのRobert   Home1997   “Of   Planting   and   Planning           The   Making  of British  colonial cities”である。⼀瞬、ヤラレタと思った。英国植⺠都市の歴史の全貌が既に⼀冊にとめられているのである。早速、買い求めて翻訳したのが、ロバート・ホーム(2001)『植えつけられた都市 英国植⺠都市の形成』である。研究室での翻訳作業に4年ほどかかるが、その間、ターゲッを英国植⺠都市からオランダ植⺠都市に切り替えた。英国に先⽴って、近代世界システムの最初のヘゲモニーを握ったのはオランダであり、⽇本は出島を通じて繋がってきた。オランダ植⺠都市について、さらに4年をかけてまとめたのが布野修司編(2005)『近代世界システムと植⺠都市』である。

 R.ホームとは、その後、京都に招いたり、ロンドンの⾃宅を訪れたりすることになるが、彼は、植えつけられた都市  英国植⺠都市の形成』の第5章「ヨーロッパ⼈の(感じる)不便⼈種隔離,その起源と衰退」でセグリゲーションの問題を扱っている。セグリゲーションは、通常⼈種隔離Racial Segregationを意味する。しかし、南アフリカでの⼈種の規定をめぐる議論をみても⻩⾊⼈種である。

⽇本⼈はカラードではなく名誉⽩⼈とされた実に曖昧である。極端に⾛ると、ユダヤ⼈のジェノサイドに⾄ったナチス・ドイツの経験を⼈類はもっている。

 セグリゲーションにもいくつかのレヴェルがある、R.ホームは、アパルトヘイト・シティを究極のセグリゲーションとしながら、防衛のためのセグリゲーション、公衆衛⽣のためのセグリゲーショ ン、間接統治のためのセグリゲーション挙げている。インドにおけるカントンメント(兵営地)は、既往の都市と⼀定の距離を置いて設けられた。インド⼈の反乱、暴動を警戒してのことである。延焼を恐れての防⽕地帯を設ける意図もあり、伝染病に対する恐怖もあった。細菌理論が出現する以前には、病気は動物や野菜の腐敗などによる空気の汚れによって引き起こされると考えられており、病気を媒介する⾍、ハエ、シラミ、特に蚊の⾶翔距離以上の距離を隔てることが必要だと考えられていたのである。

 近代都市計画の成⽴の起源には伝染病の発⽣と衛⽣思想があるが、ロナCovid-19禍で問われるソーシャル・ディスタンスの問題も基本的に同じである。健康、衛⽣、伝染病は、セグリゲーションの問題に深く関わっている。そして、貧富の隔離、「ゲイティド・コミュニティ」/「不良住宅地」のセグリゲーションも、今⽇もいたるところに⾒ることができる。

8 1917年に彼はレッチワースを訪れ、ハワードに会い、その理念に感化される。そして、時の⾸相   F.S.マランに⽥園都市建設を訴え、議会はガーデン・シティ・トラストの設⽴に賛成し、400haの⼟地を寄付することになるのである。スタッタフォードは、「ヨーロッパ、アメリカ、アジア、アフリカ全てにとってのモデル」を提供する、と意気込んだという。ただ、⾃給⾃⾜、⼟地の公有、周辺グリーンベルトなどは必ずしもスタッタフォードの頭にはなく、周辺の⼟地の取得を⾃治体に委ねる利益追求型⼟地開発だという評価もなされている。

9 南ケンジントン⼤学の美術学校で建築を学んだA.J.トンプソンがパーカー&アンウイン事務所に⼊ったのは1897年の3⽉である。1905年からレッチワースの設計に参加、1907年にはハムステッドの事務所で働き、1914年の事務所閉鎖まで勤めている。パーカー&アンウイン事務所の番頭、実務家である。彼はパインランズ建設の契約終了後、南アフリカでいくつかプロジェクトを⼿掛けるが、プランを⾒る限り、今⽇でいう⼀般的な宅地開発である。1927年には南アフリカを去り、ナイジェリアに赴く。ラゴスの政府⼟地測量部で働いた後、1932年帰国、事務所を経営、1940年に62歳で死んだ。John Muller1995, Influence and Experience: Albert Thompson and South Africa's

Garden City’ ,Planning History Vol.17 No.3.


 シンガポールの実験ショップハウス・ラフレシ

S.ラッフルズによって建設されたシンガポールは、セグリゲーションの原初的形態を⽰している。ヨーロッパ⼈地区を中⼼に、チャイニーズ、チュリア(インド・タミル系ムスリム)、マレー、ブギス、アラブなどのカンポンをそれぞれ別の地区に配置するが、各地区を壁で囲むなどの隔離するわけではない。各地区共通に、住居の基本型としてヴェランダ・ウェイ(ファイブ・フット・ウェイ)を前⾯に設けたショップハウスの形式を導⼊する。英国植⺠都市の中では別にユニークである。

トーマス・スタンフォード・ラッセル10がシンガポール島に上陸し、周辺のオラン・ラウトOrang Laut(海洋⺠)を束ねていた⾸⻑に毎年⼀定の額を⽀払う条件で、商館建設の許可を取り付けたのは1819年初頭である。そして、シンガポールと命名、⾃由貿易港とすることを宣⾔する(1820)。各地から広範囲に交易商⼈を集めるために、交易の⾃由と安全を保証することが必要であることをラッフルズは深く認識していたのである。ラッフルズの港市建設の基本理念について、R.ホ-ム(2001)は、その植⺠地管理を間接統治の先取りであり、⼈種隔離計画の先駆とも位置づけるが、「ラッフルズは⾶び抜けた夢想家で有能な帝国主義者」で、「⽀配される⼈々の⽂化、⾔語、習慣を深く研究した英国植⺠地総督の数少ない⼀⼈」であったとも⾔う。S.ラッフルズのいう⾃由貿易港は、しかし、様々な⺠族集団が棲み分けながら共住した(グリゲーション)、それ以前の港市の基本特性でもある。

10 1811年にイギリス東インド会社の遠征軍に参加してジャ

界最大の花ラフレシアを書いたことで知られラッフルズ 1 1817 を書いた後再びスマトラのベンクーレン ブンク

4

 

まず、形成されたのはチャイナタウンであり、先住のマレー⼈漁⺠やオラン・ラウトたちは南北の海岸沿いに居住した。また、1830年代半ばにはブギス⼈カンポンが北端部に形成された。そして、中央部のヨーロッパ地区の数多くの施設、住宅の建設に関わったのがアイルランド⼈建築家G.G.コールマンである11

19世紀末の⺠族集団の棲み分け状況をみると、初期のセグリゲーションが分布を⼤きく規定していることを確認することができる(図12。各⺠族集団についても、⾔語(⽅⾔)、出⾝地などによる下位集団ごとの棲み分けも⾒られる13(図)(Yeoh, B.S. (1991))。

ショップハウス・ラフレシアすなわちシンガポールのショップハウス(図)をめぐっては興味深いテーマがある。そもそもショップハウスという英語は、中国南部の「店屋」の英訳語としてシンガポールで⽣まれるのである。そして、アーケード(「ヴェランダ・ウエイ」あるいは「ファイブ・フット・ウエイ(カキ・リマkaki    lima)」と呼ばれる)付きの連棟式ショップハウスは、海峡植⺠をはじめとして東南アジア各地に建設されていく。さらに、中国南部に「騎楼」あるいは「唐楼」と呼ばれる形式として逆輸⼊される。ショップハウス・ラフレシアについては別稿としよう14



 アジア海域世界の越境者た

シンガポールに移住してきたチャイニーズは、上述のように、中国南部からの移住者たちである。彼らは東南アジア各地にいわゆるチャイナタウンを形成してきた。マニラ、セブのパリアンParian、ハノイ、ホイアン、マラッカ、ジョージタウン(ペナン)、バンテンなどジャワの諸都市東南アアに限らない、博多の唐坊(唐房)、⻑崎の唐⼈屋敷、那覇の久⽶村もある。博多と寧波、福州と那覇、⻑崎とマカオ(澳⾨)の間には⻑らく交易路が維持されてきた。

⼀⽅、中国沿海部の港市には、蕃坊と呼ばれる外国⼈居留地が設けられてきた。泉州の蕃坊に居住したのはペルシア系の渡来者である15。「施那愇」という蕃商がいたことが知られるが、この「施那愇」は,シーラーフであり,9世紀から10世紀にはインド洋交易のファールス地⽅の⼀⼤中⼼港市であった。また、13 世紀中葉になって、蒲寿庚という市舶司があらわれるが、その祖先は元々広州に居住し、蕃⻑の職を務めて⼤きな資産をなし、広州第⼀の富豪となったという16。要するに、アジア海域世界の東⻄の国際交流は盛んであったということである。

 

 

 

11  ラッフルズがシンガポールを訪れたのは1819年の1月から2月にかけての 日間 5月から6月にかけての4週間 そし

182210月から18236月までの8ヶ月の3回だけである。1824年には帰国1826年にロンドンで死去している。実際にンガポール建設を遂行したのは、副総督LieutenantとなったP.ジャクソンJackson 1822 5G.D.コールマン 1826

41J.T.トムソンThomson 1841 53ある。しかし、シンガポールの都市建設についての基本理念を提起し、れを方向づけたのはラッフルズとみていい

12 チャイニーズは、A,C地区の85 以上を占めている。また、E,G地区でも過半を占めている。インド人は主としてF,H区に居住したが、チェティ、チュリアたちタミル商人、グジャラート商人たちの小さな地区は各地に存在した。ユーレイシアンは、シンガポール川の北E,F,G,Hに主に居住している。また、港湾地区Jにはクーリー 苦力 と呼ばれた中国人労働者、マレー人・インドネシア人が居住した。ヨーロッパ人の居住区は、中心地区から北東の郊外地区に広がっていった。

13 最大のアジア人集団を形成するチャイニーズを見ると、大半はチャイナタウン チャイニーズ・カンポン A,B,Cとカンポン・グラムE.Gに居住するが、閩南の泉州・彰州Hokkiens、潮州, 広東、客家、海南、福建、海峡出身などによって居住地は少しずつ異なっている

14 1887年の市政府Municipalitiesの設立以降については、シガポール国立公文書館National Archives of Singaporeショップハウスの建設の届出のための図面がアーカイブされている 1890年から1930年まで263事例

⽇本もまた室町時代から江⼾時代にかけて、⽇明貿易・勘合貿易、御朱印船貿易を展開するが、それに伴い南洋に移住した⽇本⼈は  7,000⼈から1万⼈に及ぶ(岩⽣成⼀(1966))。そして,⽇本⼈みが集団で居住しまちを形成したいわゆる⽇本町として、呂宋のマニラ近郊のディラオDilaoとサン・ミゲルSan Miguel、交趾のフェフォFaifoとツーランTourane、東埔寨のピニャルーPinhaluとプノンン、そして暹羅のアユタヤが知られる。⽇本⼈が外⼈と雑居する都市は数多く、マラッカ,パタニから、はるかミャンマー、インドに及んでいたことが分かっている。

シンガポールに移住してきたインド⼈は、⼤きくタミル商⼈とグジャラート商⼈に分かれるが、前者には、コロマンデル地域を拠点としたチェッティ(チェッティヤール)(ヒンドゥー商⼈)、チュリア(タミル系ムスリム、アラブ商⼈の⼦孫、インド・アラブ混⾎の商⼈)、外来ムスリム商⼈、後者には、⼟着のバニアBania(ヴァニヤVaniya)商⼈(ヒンドゥー教・ジャイナ教商⼈)、ムスリム商⼈(シーア派のボーラ商⼈、ホージャ商⼈)、パールスィ(ゾロアスター教)商⼈に加えて、アラビア、イラン、トルコなどからの外来ムスリム商⼈、アルメニア商⼈がいる。

 グジャラート地域は、マラバールなどインド⻄岸、ホルムズ、アデン・紅海、アフリカ東海岸の諸港と直接繋がり、さらにマラッカを通じてジャワ、中国へ⾄る交易ルートの要に位置することから、特にカンベイ湾周辺には、古来、港市が数多く形成されてきた。

 そうしたなかで、カンベイは、16世紀にはインド洋海域でマラッカ、カリカット、ホルムズ、アデンに⽐肩する主要な港市となり、18世紀前半にその地位をスーラトに譲るまで、ムガル帝国で最も栄えた港市であった。今⽇のカンベイも、宗教コミュニティごとの棲み分けが⾏われており、異なる宗教コミュニティが混住している地区は少ない。⼤きくはヒンドゥー居住区、ジャイナ居住区、スンナ派ムスリム居住区、シーア派ムスリム(ボーラ)居住区に分かれる。街区は,ワドwado、ファディア fadia、カドゥキkhadki、ポルpole、ガリgali、シェリsheri、モハッラmohallaといった名称で呼ばれ   る。街区規模は様々であるが、⼀つの街区単位が他の街区単位を包括するようなヒエラルキーは⾒られず、同列である。ヒンドゥー、ジャイナ教徒の居住区では、カドゥキ、ポルなどの街区名称が⼀般的であり、スンナ派ムスリムの居住区はモハッラ、ボーラ地区ではシェリ、ガリといった街区名称が⽤いられている(図)。街区が様々な名称で呼ばれることは、多様な背景をもつ⼈々によって構成されてきたその歴史を⽰している(図)。




グジャラート地域、そしてコロマンデル地域に古来数多くの港市が⽴地したのは、アラビア海そしてベンガル湾を横断する航路が南⻄・北東モンスーンによって規定されてきたからである。『エリュトラー航海記』(紀元1世紀)以降の航海記(マルコ・ポーロ『東⽅⾒聞録』(12901293)イブン・バットゥータ『⼤旅⾏記』(132559)⾺歓(13801460)の『瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』費信『星槎勝覧』(1436)トメ・ピレス『東⽅諸国記』(c.1515))が⽰すように、アジア海域世界の東⻄は交流を続けてきた。そして、港市は多様な⺠族集団が共住する空間として、様々なもの、⼈、情報が交換される場所として機能してきたのである。

15 嶋信次 1952泉州の波斯人と蒲寿庚」『史学』Vol.25, No.3, 田史学会

16 宋元の交代期には, 蒲寿庚は元に就いて元の華南平定に大きな貢献をなし, 元朝廷も蒲寿庚を厚遇し1278 建行省の中書左丞 正二品 に登用している。蒲寿庚は元のために南海諸国との交易にも携わる。クビライ・カーン

1278  年に蒲寿庚に海外諸国に使者を送って中国との交易を再開するよう命じている。蒲寿庚は占城 チャ

馬八児 マラバール との通商を開き日本之役 元寇 にも関与したとされる

6

 


エンポリア多⺠族共住の空

 セグリゲーションの原理は、極端に⾛れば「アパルトヘイト・シティ」に⾏き着く。しかし⼀⽅、多様な⺠族集団が棲み分けながら共住するのは、歴史的にはむしろ⼀般的で珍しいことではなかった。港市Port City、交易港Port of Tradeは、古来、海を隔てた様々な地域から渡来して来る航海者、交易者が居住する場所であった。

古代ギリシャでは,ポリス(都市国家)において対外交易のために⽤いられた場所をエンポリアム(ラテン語 Emporium,英語 Emporia)といった17。エンポリアは、本来、外来の交易者が都市内に⼊らずに交易ができるように都市の他の部分から離され、独⾃の港、埠頭、貯蔵庫、⽔夫の宿舎、⾷糧市場などを備えているものをいった。国内市場がアゴラであり、対外市場がエンポリアである18。アテネのエンポリアはピレウスに置かれていた。ピレウスは、今⽇地中海最多のコンテナ取引量を誇る港市である19


17   旅や移動を意味するポレイアporeiaから派生したギリシャ語のエンポリオンemporionに由来する

 港市の本質は、⼀般には、陸域と海域の境界に⽴地すること、その境域性にある(家島彦⼀1996))。基本的に、海は、無主の場であり、無所有の場であり、⾃由の場であった20。別の⾔い⽅をすれば、陸の⽀配・統治の及ばない無秩序、無法の世界であった。すなわち、陸域と海域の境界は、⽀配(主)と被⽀配(従)の、所有と無所有の、秩序と無秩序の、法と無法の境界である。港市は、陸域と海域を繋ぐと共に、港市と他の港市を繋ぐことによって、陸域と他の陸域を繋ぐのであるが、そのために、港市は、外部から来る多様な⼈々に対して、⾝の安全、滞在の⾃由、⾃治的裁判権、ものの保管。貯蔵と交換の⾃由などを保証する「中⽴的装置」を備えている必要がある。この中⽴性が、さまざまな⼈間を集合させ、もの・情報を交換することを可能にさせ、港市における、交易・契約の⾃由、多様性の許容、多⺠族共住といったルール、原理、システムを⽣むことになる。

 ⻄欧列強は、こうした港市を、⼀元的な⽀配被⽀配関係に転換していったのである。


18 アゴラには, カペーロスがいて商売を行ったが, エンポリアムには, 対外交易者エンポロスが居住した。アゴラはとして消費用の食糧販売の小売市場で, カペーロスは, 第1に調理食品の小売人であった。一方, エンポロスは外国交者であった。プラトンは, カペーロスは「アゴラに居て, 売買してわれわれに奉仕するもの」, エンポロスを「町か町へと放浪するもの」という 『国家』 。エンポロスは, その語源通り, もともと旅人を意味した

19 ピレウスはアテネの⼀部であったが、居住者のほとんどは外国⼈と居留外国⼈であった。アリストテレス384 BC322 BC)は,のピレウス(ペイライエウス)の計画に携わったのは,ミレトス⽣まれで,「碁盤状の道路を設計し」「国を区画することを発明し」さらに「最善の国政について論じることを企てた最初の⼈」であるヒッポダモスHippodamus (498 BC 408 BC)だという(『政治学』第 2卷「最善の国政についての⼈びとの⾒解と評判の⾼い国政の吟味」第8章「ミレトスのヒッポダモスの国制論に対する批判」1267b22

29

20 現在の海洋法でも, 領海 12海里 , 接続水域 12海里 , 排他的経済水域 200海里 は定められるが, それ以外公海であり, 自由に航行, 生物資源の保護の規定はあるが自由に漁獲ができる。領海も他国船籍の無害通航権は認めれている

 引⽤⽂

 Robert Home1997, “Of Planting and Planning  The Making of British colonial cities”, E & FN Spon. バート・ホーム(2007)『植えつけられた都市 英国植⺠都市の形成』布野修司+安藤正雄監訳︓アジア都市建築研究会訳,京都⼤学学術出版会

岩⽣成⼀(1966『南洋⽇本⼈町の研究』岩波書店

Lemon, Aed.(1990), “Homes Apart: South Africa’s Divided Cities”, Paul Chapman.

家島彦⼀(2006)『海域から⾒た歴史インド洋と地中海を結ぶ交流史』名古屋⼤学出版会

 

 

 

 

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...