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2024年12月20日金曜日

森田司郎 名誉教授 インタビュー、traverse8, 2007

 森田司郎 名誉教授 インタビュー

 

416日(月),10時~12

吉田キャンパス,旧建築本館,会議室

 

聞き手:古阪秀三,伊勢史郎,大崎 純,石田泰一郎

記録:萩下敬雄 

 

(古阪)traverseで企画しています名誉教授インタビューは,我々が,先生方に当時のお話お伺いするという目的もありますが,昔のことを若い学生に伝えるという意味もあります。桂に移転してしまったので,とくに昔の話を残していくのは貴重です。もう一つは,名誉教授の先生方から今の建築界,京大建築あるいは社会へ苦言を呈していただきたいと考えております。どうぞよろしくお願いします。

 

(伊勢)私は1998年にこちらに来たので,今で10年目ですが,先生が退官されたのは何年前ですか?

 

(森田)私は退官して10年になりますが,10年はすぐですね。伊勢先生とはちょうど入れ替わりです。廊下ですれ違いましたかね。

 

研究室配属の頃

 

(大崎) 大学に入られて研究室に配属された頃のお話をお伺いしたいのですが。

 

(森田)僕は昭和28年入学ですから研究室に配属されたのは昭和31年の春です。しかし,当時の研究室配属というのは今のようなものではなく,きわめてファジーなものでした。どこの所属かも不明確で,強いて言えばここだという感じでしたね。

 

(古阪)その時の学生は何人ぐらいでしたか?

 

(森田)そのときの同級生は30人でした。私はたまたま坂 静雄先生のゼミを選びましたが,そのゼミの学生は3人でした。そのうちの1人は全く出て来なかったので,実質2人です。

 

(古阪)坂先生は,洞竜会(建築系教員の懇親会)で遠目に拝見したのが最初で最後です。

 

(大崎)コンクリート系を選ばれ理由を教えてください。

 

(森田)坂先生は偉い先生ということを聞いて希望しましたが,コンクリートにはあまり興味がありませんでした。(笑)しかし,私の頭では力学はちょっとものにならないというということもあったので…。4回生のゼミでは,坂先生がしょうがないからつきあいましょうという感じで,本を読みました。今でも覚えていますが,フライ・オットー(Frei Otto)のヘンゲンデ・ダッハ(Das hängende Dach)という吊り屋根についてのドイツ語の本でした。コピー機もない頃なので,どうしようかと思っていたのですが,もう一人でてくる同級生の渡辺正彦君はたまたまタイプが上手で,カーボン紙にタイプして,転室でローラーを使ってガリ版で刷りましたね。写真は先生の手許の本をのぞき込みました。

 

(大崎)たまたま横尾義貫先生の学位論文を西澤英和先生からいただいたのでお持ちしましたが,昭和28年のこの論文もガリ版です。その頃は大変手間がかかったのでしょうね。

 

(森田)そうですね。私もそういうような昔の本はよくでてきます。持っていても仕方がないなというような感じのものもあります。増田友也先生の学位論文の縮版とかもありますね。あれもガリ版ですな。

 

(古阪)持っておられて個人的に活用されにくい本は建築の図書室に置いたらいいかもしれませんね。

話を戻しますが,坂先生が活躍されているという理由で研究室を選ばれたということでしたが,その当時でも環境系とか意匠系という大きな区分があったのでしょうか。あるいはそれも関係なく全くファジーだったということですか?

 

(森田)そうですね。僕らの仲間でも誰が何研究室かということは知らなかったです。今のような縦割りのようなゼミという単位はなかったですね。“京大建築の学生は何でも出来るように教育してある”と森田慶一先生が就職先の重役に言ってくれたことをその学生が聞いて発奮したということもあります。

 

(大崎)京大建築では実務に直接関連することを教えなくて,企業に入って現場で一から教育を受けるという感じですが,当時からそうでしたか?

 

(森田)そうでしたね。実務は社会に出てから覚えるからという感じでした。社会に出たら,京都大学を卒業したということで,何でもがんばろうという意識があったと思います。大学院を卒業すると,知らないとは言えないので,社会にでてから一生懸命勉強するでしょう。例えば,坂研究室で全然出席しなかった同級生は,就職してから勉強して頑張って,後に準大手ゼネコンの社長になっています。“エーあの人が社長に”と坂先生の奥さんが心配していました。

 

(古阪)同級生には、建築生産の非常勤講師をしていただいた徳永義文さんがおられますね。

 

(森田)僕らの同期は多彩です。黒川紀章も同期ですし,みんなそれぞれ多彩に活躍しています。今でも5年に一度は会いますね。亡くなった名古屋大の坂本 順も同期です。

(大崎)その後,大学院に進学されて,研究者になろうと思われた動機を教えてください。

 

(森田)僕らが就職するころは昭和32年頃ですが,すごい不況期でした。学部卒業で大手ゼネコンに入ったら,皆で万歳して喜ぶような状況でした。学部から大手ゼネコンに行くのは,数人じゃなかったかと思います。就職が難しかったので,執行猶予型で大学院に進学しました。だから僕らの同期では修士に進んだのが異例に多かったですね。30人中10人以上進学しました。

 

(大崎)定員は曖昧でしたか?

 

(森田)曖昧でしたね。学部の成績があるレベル以上ならば無試験という制度がありましたが,試験を受ければ大体合格という感じでした。

 

(大崎)今でいうところの博士課程のようなものですね。

 

(森田)そうですね。配属されてからも,今みたいに,ソフト面でもでもハード面でも,先生が一生懸命世話してくれるということはありませんでした。机もボロボロのドロまみれの物が1個与えられるだけという感じでしたその机をきれいにして,机を集めてピンポンをして遊んでいたかな(笑)。川崎清先輩もその一人だった。

 

修士課程の頃(東別館)

 

(伊勢)学生のころは東別館におられたとおっしゃいましたが,その時の雰囲気を教えてください。研究室の枠がなかったとお伺いしたのですが,そのとき仲間とどのように過ごされましたか? 例えば東別館にどのような人がいて‥。

 

(森田)東別館の2階の部屋に構造のグループがおりました。修士の学生だけがいましたので,5,6人でしょうか。別の部屋に計画系,環境系が居たのかな。スチールサッシが閉まらない,開かないという状態でした。今の新館が建っている場所に,一階がRCで二階が木造の製図室というボロ校舎があって,そこにドクターコースとか研究員がごろついていました。そこでもゼミという単位はありませんでしたね。

 

(伊勢)今の桂キャンパスではゼミが細分割されていて,研究室の間ではコミュニケーションがとりにくい状況です。机もきれいで良い研究環境や実験環境が与えられているのですが,学生同士のコミュニケーションがないことの影響を心配しています。

 

(森田)勉強する部屋を一緒にするというような物理的な対処法でも解決できると思います。私の学生時代は,他の学生の実験を手伝いに行ったりしました。手伝いに行っているのにぼろくそに怒られて,何で怒られないといけないの,というようなこともありましたね。

 

(大崎)今では不可能に近いですね。

 

(古阪)専門分化が進んで,各分野の先生も研究室単位の運営を良しとされているのでしょうね。今の桂キャンパスの部屋配置についても,大部屋にするか,今のような設計にするかまさに自由だったのですが,結局伝統的な配置になりました。だから変わらないのでしょう。最も我々に発言の機会はありませんでしたが。森田先生がおっしゃられるような,ワークペースを一緒にするとうのは,いくつか環境系でやっているのではないですか。

 

(伊勢)環境系も建築学専攻と都市環境工学専攻に分化していて,交流が難しいですよ。

 

(森田)大体,日本人はそのへんが下手ですね。私が現役の時でもそういう感覚がありました。オープンマインドに行きたいけどなかなかできないというのはありましたね。

 

静雄先生

 

(古阪)話を大昔に戻しますが,先生が修士のときは,上に六車 煕先生や金夛 潔先生がおられたのですね。

 

(森田)そうですね。しかし,学部のときは坂先生1人に指導していただきました。修士のころの構造系のメンバーは,坂本 順とか竹中の久徳,近大の中田啓一とかです。

 

(古阪)いま名前が挙がったメンバーは全員坂先生の指導を受けていたのですか?

 

(森田)いえ,横尾義貫先生や棚橋 諒先生も指導されていたと思いますが,みんな指導してくれない先生ばかりでした。(笑)

 

(森田)だけど,それぞれ,修士論文というものは書きました。修士2年の夏休みになっても坂先生は何も言わないので,研究テーマを催促しに行きました。坂先生は,実験をやってもらうとお金がかかるし困る‥何をしてもらおうかな‥などとおっしゃっていましたね(笑)。

 

(大崎)坂先生はお金を持っておられたのではないですか(笑)?

 

(森田)校費としてはそうですね。結局,研究費のついたプロジェクトの手伝いをして,園データを使って自己流に修士論文を書きました。その結果,私はその研究には非常に貢献することになったと思います。一生懸命やりましたからね。

 

(古阪)坂先生がRC構造の本を書かれたのはそのころですか? 非常に分かりやすい本で今でも覚えています。

 

(森田)学部の時は,坂先生の書かれた「鉄筋コンクリート学教程」という本が教科書で,授業では,その本の数10頁の部分に関して何か質問があるかと聞かれ,学生は全員うつむいて黙っていましたね。すると,“来週は5080頁まで勉強して下さい。今日はこれで終了。”

 

(大崎)坂先生は非常に厳しい先生で,学部の最初の講義で何か質問はあるかと聞いて,5分間質問がないと講義を終わり,その次の講義も5分間質問がなければ終わりというようなことをされて,これではいけないと学生が3回目の講義で質問をすると丁寧に説明をされたというお話を聞きましたが,そのようなことは実際にありましたか?

 

(森田)いえいえ,私は丁寧に説明された経験は全くありません。誰かが質問すると,それはミスプリです。あなたたちが質問しないのは,外国の本を読まないからですというようなことを言われていましたね。学生には外国の本を読む動機がありませんでしたけど。

 

(大崎)その時はドイツ語の本を翻訳するのが研究として残っていたときですね。

 

(石田)5分間黙っていた学生は,教科書を勉強してすでに理解しいたということですか?

 

(森田)そうですね。読んでいたら難しいこと書いていないですが,あの講義は5分うつむいて,黙っていればよかったのですよ(笑)。

 

(石田)今そんなことをしたら授業評価等で大変なことになりますね。最悪の場合は,学生の親に怒られますよ。でも,それで教育が成立していたのなら良いのかもしれませんね。

 

(森田)そうですね。それから,試験のときは,わりと監督が機能していませんでしたね。前後左右を参照しながら受けました。ただし,同じことを書くとバツにされました。“見ても良いけど,同じことを書くな”というような学生間の自主性もありましたね。

 

修士課程の修了後

 

(大崎)修士課程修了の後はどうされましたか?

 

(森田)昭和34年に修了しました。修了後は構造設計をしようと思い,将来は,自営してやろうと思っていました。そこで,教室主任の前田敏男先生に東畑謙三先生の設計事務所を紹介されて就職しました。その頃は,教室主任は毎年,前田先生でした。一番若い教授だったからですが。

 

(大崎)それからしばらく勤められたのですか?

 

(森田)1年2か月働いて,助手として京都大学に戻ってきました。東畑先生の所に行ったのは良かったのですが,京大の大学院を卒業したのなら構造は何でも知っているのだろうということで,何から何までやらされました。寝る時以外は仕事していたという感じだったので,かなり痩せ細って,親が心配していましたね。これはしんどいという時に,六車先生から大学に戻るお話を頂きました。大学も人手不足だったのでしょう。

 

(大崎)その頃から少しずつ学生が増えていったのですか?

 

(森田)そうですね。漸増していきました。設計事務所ではしんどくてたまらんので大学に戻って楽をしようと思っていたら,案の上,楽でしたけど‥。逆に何もやるノルマがなくて,何をするか探すのには苦労しましたけどね。

 

(大崎)助教授になられたのは?

 

(森田)35年に助手として戻ってきて,36年に講師になりました。人手不足で講義を手伝わないといけなかったからだと思います。実質は構造材料の講義と実験の補助をしていました。記憶が確かではありませんが,中村恒善さんはアメリカから戻ってきて立命館におられ,その当時は力学を教える専任の教官がいなくて,私が力学の講義の一部をしたかもしれません。

 

講義と研究

 

(大崎)その後,材料学講座に移られて,建築材料の研究をされたのですね?

 

(森田)建築材料の講義はずっと非常勤講師のお任せになっていました。研究は私の材料ではなくRCとか構造材料でした。建築材料は,教育対象としても研究対象としても難しいです。材料の講座が建築学科に昭和40年頃できたのですが,担当教官は空席続きでよかったですね。その後,私自身は第2学科に移ったりしたと思いますが,昭和54年,残念ながら,私には建築材料の研究をした実感も実績もありません。昭和39年頃に建築材料学講座が増設されていますが,それ以前も以後も建築材料の講義は非常勤講師にお願いするのが教室の方針でした。材料の講座は担当教官が実質不在のままという良き時代が続いています。昭和53年に私が材料講座担当教授にしていただきました。その間の所属は不確かですが,実質は六車先生のところの助教授の役割で,RCの研究をしていました。講座担任の教授が建築材料の講義をしないわけにはいきませんので,担当しますが,最初の5年ぐらいは,一般材料はゼネコンや事務所の方々に非公式に講義を分担してもらいました。さぞ迷惑だったろうと思いますが,皆さん見本を会社から持参して熱心に協力下さいました。こんな無理も続けられないので,教科書を共著で書いて,それを使って自前で講義をしたのは停年の10数年前からとなります。建築材料全般について教育対象にするのも,研究対象にるすのも非常に難しいことだと思います。

 

(大崎)材料の研究は,最近では先端的な研究になってきていますね。以前は古典的な分野でしたが。

 

(森田)一部についてはそうですね。昔は与えられた材料をうまく使う側の立場でしたが。今は作るという立場,うまく組み合わせて新しい性能を創るという立場も少しずつ増えてきています。

 

(大崎)教育と研究,そして,社会的役割とのギャップについてお話していただけますか?教育についてはどのように考えておられましたか?

 

(森田)教育では建築材料,ガラスとか,ビギナーに幅広く教えないといけない。しかし,研究はRCをやっていました。それをうまく住み分けしなくてもよい立場の先生を非常に羨ましく思っておりました。しかし,それで給料をもらっているのでしかたがないと割り切って,精一杯講義をやっていました。

京都大学以外の先生は私が建築材料を教えているということに驚いていたみたいですね。東京大学ではその辺の区分,住み分けが厳密だったと思います。例えば,武藤・青山研究室では,RCはやってもコンクリートはやらない。浜田・岸谷研究室では,コンクリートをやるけれど,RCはやらないとかですね。それが関東系列大学の住み分けの手本になっている。隣の家とは垣根越しにはケンカしない。関西系ではこの垣根がない坂先生の考え方が影響していると思います。RCを研究するには,これに関するコンクリートの性質の研究が必要だと云う立場でしょう。それが伝統としてずっと今でも続いているようです。

東大の建築の外部評価委員をやったとき,皮肉交じりに明治時代の縦割りが現在までずっと続いている東京大学と書いたら,東大の教室主任の鈴木先生は批判とは受け取らず,誇らしげに報告書に書いていました。

 

(大崎)構造ではその垣根がなくなる傾向にありますね。鉄骨の先生が解析をしたり,防災の先生が鉄骨をしたりということがあります。

 

(森田)講座数も増えたからでしょうが,やはり本家があり,弟子はここにいてというのもあって,研究の対象は変遷しても,考え方の伝統は脈々と受け継がれているのが良いのではないかと思います。

 

坂記念館

 

(古阪)坂記念館は今では幽霊屋敷みたいになっていますが,その設立の背景等をお教えて頂けませんか?

 

(森田)坂記念館ができるまでは,坂先生が図面を引いて建てた工学部全体の実験施設(工学研究所)を使っていました。坂先生が退官されるときの記念として,実験室をつくろう,しかも大型のものを,実験できるものを作ろうということで,六車先生が中心となって寄付を募って造られたがPC構造の坂記念館です。予算は1000万円前後だったかな。文部省の出資ではないです。

 

(古阪)坂先生が退官される前に記念館はできあがっていたのですか?

 

(森田)どうでしょうか。昭和35年には完成していましたね。

 

(伊勢)坂記念館2階を音響実験室として利用しています。

 

(森田)あそこの2階は,もともと昔は坂先生の部屋だったのですよ。

 

(伊勢)それで使いにくいのですかね(笑)。

 

(石田)建物は寄付で建設することができるとしても,今では,スペース(配置)の問題で大学構内に簡単に建物を建てるのが難しいです。

 

(森田)当時は,そういうことは難題ではなかったのでしょう。昔は場所がかなり空いていましたから。

 

(伊勢)その時の風景は良かったでしょうね。

 

(森田)昔はテリトリーが漠然としていましたね。だから,坂記念館はどこに建てても良かった。その時の風景は牧歌的で良かったですよ。テニスコートがあってね。計算機センターもなかったし。

 

(石田)そのころの写真は今では貴重ですね。

 

総合試験所

 

(古阪)日本建築総合試験所の設立趣旨について,若い人に伝えるためにお伺いしたいのですが?

 

(森田)建設省の建築研究所が東京にありましたが,関西で実験をしたい思った時に,そこまで行くのは遠いので,関西でも大規模実験ができる施設を作ろうということで日本建築総合試験所が設立されました。官庁や建設業,建築材料メーカー,建築事務所など広範囲からの基金で設立した財団法人で,建設省の認可法人としてスタートしました。その後は,通産省の所轄法人としても機能しました。

 

(古阪)建築センターの関西版とも言われているようですが?

 

(森田)そういう役割も期待されていたようですが,非常に制限されていました。建築センターが独占的に認定等の事業ができるようにと言うことでしょうか。個人名は言えませんが,建設省の高官だった元理事長がそういう方針を鮮明に貫かれました。

 

(大崎)日本建築総合試験所の最初の理事長はどなたですか?

 

(森田)設立の経過をよく表わしていて,日本板硝子の社長さんが非常勤として初代理事長に就任されました。坂先生が所長で,東畑事務所の東畑謙三さん,日建設計の塚本さんなどの財界の人が副理事長に就任されていました。その次に,坂先生が理事長を継がれたのですけど,その当時から,建設省の天下りの受け皿になれという圧力が非常にあったそうです。そのような口を挟ませないために前田先生が坂先生の次を引き受けられたようですね。それは,ポリシーとして良かったのではないでしょうか。私で6代目ですが,この10年間ぐらいに事業内容が多彩になって,現在は構造計算適合性判定機関というのを立ち上げなければならないので,苦労しています。

 

(大崎)材料の認定よりも最近は構造の評価の比重が大きくなっているということですか?

 

(森田)設立のときは100パーセント試験機関で,私が入るまではまだそうだったのです。それからいろいろ,古阪先生にも手伝ってもらって,ISO9000認証,JIS製品認証,建設基準法に基づく性能評価,確認検査,などの事業を行っています。全事業収入の30%はこれらの諸事業によっています。適合性判定機関をやるとその比率がさらに上がってきますね。

 

(大崎)適合性判定機関についてはどのようにお考えですか? ピアチェックとか性能判定法を実際に規定するとか…

 

(森田)かなり私は批判的ですね。今年の620日に施行ですから,今となってはそんなことを言える立場ではないですけど。スムーズに進まないと建築活動自体に支障をきたしますが,上手く機能するかどうか心配です。

この時期にこういうことにしないと社会に対してエクスキューズができないという焦りが国交省にあったのでしょうね。法令違反が生じないように,細かい規制が行われます。法律自体に品格がないです。細かな実験式が法律の中にでてくるのは品格がない。そういう奇麗ごとばかりも言えませんけどね。

 

(古阪)構造ばかりでなくて,環境工学とか,ベンチレーションとかにもそのような規定が増えたようです。

 

(大崎)学会のほとんどの先生方が法律には式を書かないで,適切な方法で性能を検定するということだけで良いじゃないかと言っておられます。

 

(森田)そうですね。しかし,実際,適切ということを誰が判断するのかということについて国が非常に心配なのでしょう。

 

(大崎)それは,建築技術者が信用されていないということでしょうか。あるいは人材不足ということでしょうか?

 

(森田)構造設計,建築技術者そのものが社会的に信頼されていないというように国交省が理解しているのでしょうね。そのような理解を否定できない現実があるのも事実です。

 

(古阪)国交省だけではないと思います。私の理解では構造設計者だけでなく,建築士が信用されていなようです。構造や環境の先生はあまり表に出ていないですからね。建築士に対する信頼感がないのでしょう。

 

(森田)そうですね。全く信頼感がないのでしょう。建築士のリーダーたち自体も特権を守るためだけに躍起になっている感じがします。職能団体として機能していないですね。自分の既得権益ばかりを狭々と守ろうとしている。

 

(古阪)しかし,行政が分からなかった事も事実です。構造設計の報酬の基準がなかったことも原因ですし,誰もその決め方を知らない。構造設計の職能に関するその視点もずいぶん変わってきていますが,今回の基準法改正での第三者のダブルチェックは明らかにエクスキューズのためであり,本当に急ぎすぎた法改正だと思います。私は,逆に動かない方が良かったのではないかと思います。法改正ではなく,法律の下の規則の部分でやるべきでした。

 

環境系について

 

(伊勢)私の専門は音で,石田先生の専門は光ですが,森田先生が学生の時に環境系という区分は存在していましたか?

 

(森田)私が学生の時は,少なくとも前田先生が全部やっておられたですね。それから,松浦先生が初めての講義をおずおずとされたことを記憶しています。あっちで光って,こっちに光が反射して,それからあちらに反射してという…相互反射理論というのを説明して頂いたのですが,ご自分でも分かっていらっしゃらなかったのかもしれません。あれが今でいう環境系の初めての講義でしたね。

 

(伊勢)環境系ができるための社会的なニーズのようなものがあったのですか? なぜ新しい系ができたのですか?

 

(森田)それまではいわゆるアーキテクトの素養・常識としての建築設備であり,技術だったのでしょうね。この教室でも,例えば藤井厚二先生は,自然換気等について自分で家を建てて実験するぐらいの強い興味を持っておられたと聞いています。照明や音はアーキテクトの理解しておくべき技術の一部という位置づけだったのでしょう。それでは限界があるので専門のフィールドをくらないといけないということで,昭和10年頃に渡辺要先生がそういうフィールドをまとめられたのでしょう。前田先生が満州で冷暖房とか換気とかの基礎工学を独創的にやられて,そこから京都大学に環境系ができたのでしょうね。

前田先生環境系の各分野に非常に影響力がありましたね。開祖者と言われるような研究をされたのではないでしょうか。有名な逸話がありまして,プロフェッサーアーキテクトがカジュアルな服装で建築学会にくるわけです。それが前田先生の神経にふれて,掴み合いの喧嘩になって,それを坪井善勝先生がとめたという話があります。これは,伝説になっていますね。

ちょっと話がそれましたが,つまり,アーキテクトが工学の基盤がないまま経験的に光や音や熱に対する設計をやるのは限界があるということで,環境系ができたのでしょうね。

 

(大崎)その頃は,環境系に細分類はなかったのですね。

 

(森田)そうですね。その当時は建築設備と言ったのですけど,環境のそれぞれの先生に得意分野はありましたが,全部カバーしていたのでしょうね。

 

(伊勢)最初に環境系を発足させた時の思想と実際の今の状態はかなりずれがあると思います。環境が設計のなかで大切だということは分かるのですが,今のゼネコンのように細分化された設備の設計フィールドをみると,環境全体を見通せる状態ではないようになっていると思います。

 

(森田)環境とおっしゃてるのは,建築物内の環境という狭い意味での環境ですか?

 

(伊勢)そうです。建物ができた後の環境のことですが,人の生活を統合的に考えた環境ではなく,個々の設備の話になっています。そのずれをどうすれば修正できると思われますか?

 

(森田)現在,建築基準法改正で,一級建築士のステータスを上げる工夫として,特定構造一級建築士ならびに特定設備一級建築士というのを立ち上げようとしています。しかし,その対象者をどうするかという問題があります。特に、設備に関しては,実際に設計しているのは,建築の卒業生ではなくて,電気や機械の卒業生ですね。しかし,その中で,設備を専門とするスペシャリストの位置づけをする時に,一級建築士を持っている設備設計者が少ないので,位置付けをしにくいと思います。設備設計の方法を再構築するのは難しいです。大学でも分化と統合のバランスを考えられると良いですね。

 

(大崎)構造ならばある程度全体を理解できます。鉄骨をやっている人もRCのことは大体分かる。でも,環境系で熱・音・光となると恐らくお互いのことは分からないのでしょう。別の問題として,論文を書こうとなると技術的なことになって,人間の話はしないですよね。だから,概念的なことは論文ではなく建築雑誌等に書いてもらわないといけないのではないでしょうか?

 

(伊勢)そうですね。環境系ができた時の最初の前田先生,松浦先生の時代での,環境設計士とでも言うのかな。熱や光や音の再分化された知識を知っているということではなく,環境設計の統合的な人間を中心にして建物をどう作るかという視点で教育できるとよいですね。

 

(森田)例えば,環境系のビギナーにとっては,建築の中の環境の様々な要素がどのように人間と関わっているか,建物の性能に設備がどう関係するかというのがトータルとして,なかなか,分かりにくいのでしょうね。構造ならば,柱があって,梁があって,実物の建物と直接的に関係しているので分かりやすい。設備は隠れている部分が多いですね。それをビジュアルに説明するような努力を,特に学生・ビギナーにされるのがよいと思います。興味を持たすには良いかもしれません。

例えば,総合試験所ではいろいろな分野の実験をやりますが,そのなかで見学の学生に何が一番面白いかと聞くと。風洞実験が面白いといいますね。なぜかと聞くと,結局,そこには,梅田地区の模型や都庁の模型があり,建築と直接関わっていると感じることができるからという理由だけです。やっている内容はセンサーつけて風圧を測って,それを表現するだけなのですが,模型が,風洞のなかで回るのを見るだけで親しみを覚えるのですね。環境系でも設備が建物の性能にどう影響しているのかを教えることが必要だと思います。そのような教育方法を研究的に取り上げて,それを開発して頂きたい。そうすれば学生にも興味が伝わるでしょうね。

 

京大建築への期待

 

(大崎)話題を教育に移して,大学院教育について,苦言を呈して頂きたいのですが? 最近の傾向は,国の方針として,学生に丁寧に指導するということになっていますね。

 

(森田)そうですか。先生方が大変だと思います。我々は研究成果を揚げないと大学の教官としては,存在感がないと思っていました。今は教育ということが厳しくなっているのでしょうね。

 

(古阪)いえ,教育についての思想は10年前とそれほど変わっていないと思います。私自身の主観ですが,教育を雑用的にやっているという感じがしますね。大学当局が言う教育と我々の言う教育とはかなり違っています。やはり,教員の評価は研究にあり,教育にはありません。少し評価方法を変えようという動きはありますが,それでもあまり変わっていないと思います。

 

(森田)教育を評価する視点が明確になっていなければそういうことになるでしょうね。私が現役のころは,力学とか基本的なことは垣根をつくって狭い範囲でやっているという感じがしました。これからは色々な分野の総合が必要だと言われていますが,総合するためには,それに向かった秩序立った教育が身についていないと実現できないと思います。アメリカの先生と比べると,僕らは少しごまかしていたという気がします。特に,建築は範囲が広いのでどういう範囲までを統合して教育をすればよいのかということは難しいでしょうね。

 

(大崎)もうそろそろ時間が少なくなってきていますので,今後の京大建築への期待をお聞かせください。

 

(森田)桂キャンパスができて,少なくとも入れ物としてはどこに出しても恥ずかしくないものができたと思うのですが,研究や教育にどう活用するのかということが問題ですね。皆さんかなり大変でしょうが,あの施設をフルに活用するにはいろいろと難しいことがあるということは想像できます。例えば,今日はここ(吉田でのこの会議)が終わるとあっちに戻らないといけないというようなこともネックですし,焦らずにやってください。

例えば,外国の大学の先生が日本に来たら,日本の大学は訪問してもつまらないというのですね。あまり施設もないし。人と会うだけなら大学の外で良いし。でも,桂キャンパスをフルに機能させたらそれは結構魅力的です。日本に来たら京大に行こうということになれば良いですね。

 

(大崎)京大の学生に期待されることはありますか?どのような人材がほしいとかいうことはありますか?

 

(森田)応用が利くというか,クリエイティブにやれるような人間が欲しいですね。この人がこの分野では最先端に成長するというような核になれる人材が求められるのではないかと思います。皆が核になっても困りますかな。

 

(石田)社会に出てから最先端に到達できるということでね。大学を出た時点では最先端までは行けないにしても,その行き方を知っているということですね。

 

(森田)そうですね。これは大学の中だけではどうにもならないでしょう。人材はあまり凝り固まらない人がよいです。先生の人間性も影響しますが,結局,まずは人の意見をよく聞くということですね。

 

横尾先生

 

(大崎)もしよろしければ,お亡くなりになられた横尾先生の思い出を教えて頂きたいのですが。

 

(森田)横尾先生は非常に柔軟性のある先生でした。横尾先生には,私の学位論文の公聴会に出席して頂いて,意見を云っていただいて,その後の研究をそちらの方向に変えたということがありました。その時私の研究はモノトニックローディングの世界だけでしたが,復元力特性に関するご意見を頂いて,その方向に発展させたら,有限要素法の解析で実際の現象に即したモデルを皆が欲しがっていたので,とてもタイムリーな研究になりました。横尾先生には,タイムリーに様々な刺激を与えていただいたと感謝しております。

そのほかには,時々横尾先生が突然,研究室に入ってこられて,通常は考えないようなことを不意に聞かれて,答えに窮して,今度お会いする時までに答えられるようにしておかないと思い,答えを用意しておくと,質問されたことを忘れておられるようなことがしばしばありましたね。横尾先生は非常に頭の回転が速く,柔軟なものの考え方をされる先生でした。

 

(大崎)そろそろお時間のようですので,これで終わりにさせて頂きます。ありがとうございます。

2024年11月19日火曜日

真のトラバースを 横尾義貫先生インタビュー、聞き手 布野修司 大崎 純、traverse01、京都大学建築教室、2000

 真のトラバースを

横尾義貫先生インタビュー

 

                                    聞き手 布野修司

                                        大崎 純

 

                                              

--: こんど京都大学の建築系教室を中心として``TRAVERSE: 新建築学研究''を発行しようということになりました。かっての『建築学研究』の志を引き継ごうと思っております。横尾先生には今後継続的にいろいろななことをお聞きしようと思っておりますが、まずはどういうことを考えていったらいいのか、`TRAVERSE: 新建築学研究''`に期待すること、あるいは最近お考えになっていることをお聞かせ願えればと思います。

 『建築学研究』'の創刊の頃の京都大学建築学教室周辺はどうだんたんでしょう。先生が京大に入学されたのはいつのことになりますか。

 

横尾: 昭和10年です。

 

--:『建築学研究』'は昭和2年創刊ですので,先生が京大に入学された昭和10年にはすでに発行されていたわけですが,先生の学生の頃はどんな雰囲気だったんですか。

 

横尾: 学生時代は『建築学研究』'があるっていうのを知ってるぐらいでしたね。戦争気構えの時代でした。

 

 

□ 逗子から京都へ:絵は割とうまかった

 

--:そもそもどうして西(京大)に来ようと思われたんですか?

 

横尾: 東大の試験勉強したくなかったからかな()

 

--: え、そんな雰囲気があったんですか?

 

横尾: ほかの人はムキになって試験勉強やっていたけど,俺は勉強するのがいやでね。簡単にいえばそういうことです。ほかに理由といえば,.京都に知り合いがいたわけでもない。なぜでしょうね?高校は静岡。それから生まれは九州佐賀。小学校1年まで佐賀で,小学校2年から神奈川の逗子。そうとうな歳まで家の中では九州弁でしゃべってましたからね。京都ってなんで思ったんだろうなぁ?

 

--: 逗子から静岡高校というのも珍しくないですか?

 

横尾: 珍しいかもしれません。逗子開成っていう中学に行っていたんですよ。逗子開成っていうのは不思議な学校で,東京の開成中学と経営者が同じで,昔,第二開成って言っていました。逗子開成はね,東京に居にくくなった子供とか,少し体の弱いお金持ちのお坊っちゃんとか,それから土地の人間と入り混じってて,のんびりした学校でね。それから,校長先生が海軍だったということから,海軍スタイルの教育でね。うちもたまたま親父が海軍だったもんだから,その友達が経営している開成へ行くということになった。

 逗子開成の中では秀才だけど,自分のレベルがさっぱり分からない。ところが逗子開成っていうのはおもしろいもので,東大の学生でありながら逗子開成の先生をしていた人がいた。それともうひとつ,海軍は将官になると恩給で喰えるんだが,佐官(大佐以下)だと恩給ではちょっと喰えないんでしょうね。それで教師の免状をもった海軍大佐の先生がいた。おもしろい構成でね。

 僕は誰からもかわいがってもらったんだけど,英語も数学も1年分ぐらい遅れててね,よその学校に比べてのんびりやっているもんだから。そんな理由で,神田で土曜と日曜に行われている日土講習会というのに行ったら,はじめは成績が悪かったんだけれども,だんだん成績があがってきて,「俺も結構やれるな」という自信がついた。兄貴の先生に勧められて一高を中学4年で受けたけど,見事落ちた。それで5年のときは静高受けて,滑り止めで早稲田を受けようと思った。しかし,早稲田の試験の日に静高の発表があったから,結局早稲田は受けずに静岡に行った。それが昭和7年。

 

--建築をやるというのは、どうして決められたのですか?

 

横尾: 兄貴が逗子開成で剣道のキャプテンやってて,絵がうまかった。それで一高受けるっていって,剣道やりながら猛勉強してたらとうとう倒れてしまった。それで療養生活を数年続けるわけだけど,治りかけてきた頃に絵をやるといって,絵に関係する本や美術全集をしこたま買込んでいた。その美術全集ってのをふと見ると建築に関するものがあって,それを見てのがひとつの影響だったと思うね。

 

--:不躾に聞きますけど、絵はどのくらいの腕だったんですか?

 

横尾: 絵はわりにうまかった()。大学のときは美術部(絵画部)だったが,その頃の絵は1つしか残っていない。大学卒業後海軍へ就職して佐世保まで絵の道具を持っていったけど,佐世保は軍港で要塞地帯なのでスケッチできないということもあって,あまり描かなくなった。

 

--: 油絵ですか?

 

横尾: そうです。それで絵が空回っちゃって,後の掃除が面倒くさくて性小に合わないということもあって,やめちゃった。あと絵は学生のときに描いた絵がいくつかあったけど,全部どっかいっちゃった。京大へ戻った頃は絵を描く雰囲気の時代じゃなかった。戦争がすんだときに,ワン-デイ・エクササイズっていうのがあってね,それは建築の課題を出して,棚橋さんも西山さんも僕もみんな,派出所とか交番とかいう題で描きました。それからたまにはスケッチ旅行っていうのもやっていましたね。

 

--: それは教室全体で,ですか?

 

横尾: いや,それはスケッチが好きな人たちで。工芸繊維のイシヤガヤスオ君もいたね。オオギダ君なんかもいたんじゃないかな。そんな時代がちょっと戦争の後あって。それから僕は全然絵を描いていないんだよ。唯一の絵っていうとここに自画像画が残っている(退官記念文集「建築構造随想」にある自画像。)

 

 

□学生時代:課題をこなすのが楽しくてしょうがないという時期があった

 

--:どんな学生時代だったんですか。

 

どういう学生生活かっていうと,古建築を見るための吉野旅行や日光旅行に藤原義一先生と棚橋先生と行きましたが,これは非常に楽しかったですね。日光は天沼先生も一緒で,東照宮とかを見学しました。

 

--: 今年(1999年)からそのような見学旅行が復活したんですよ。

 

横尾: いいね。よかったね。

 

--: 何日ぐらいの旅行だったんですか?

 

横尾: 一週間。これまた実に楽しい思い出でしたね。それをやったのは僕らのクラスでおしまいじゃないかな。経費は自己負担だったでしょう。収入の少ない家庭の人は奨学金をもらっていましたから。

 

--: 当時はひとクラス15人くらいですから,すぐ親しくなりますね。

 

横尾: それはもう,学年の上も下も親しくなって。それで,卒業設計っていうと,製図室ひとクラス15人で1フロアだからぜいたくな話ですよ。そこにみんなでお金出し合って蓄音機とレコードを買って,そのころの流行歌とシャンソンを聞いて,覚えたりしましたね。

 

--: 先生は語学は何語を選択されたのですか?

 

横尾: 僕はドイツ語。だけどシャンソンはフランス語なので,勉強して,徹夜でシャンソンかけて,マンドリンがおいてあったからそれを弾いたりしてました。そこへ時々現れたのが西山陸軍少尉か中尉でしたね。徹夜で先輩の卒業設計を手伝っているときに来て,「よし!」という具合に強烈な絵を描いたりしていましたね。

 

--: 西山先生は横尾先生の五つぐらい上ですか?

 

横尾: だいぶ上ですよ。卒業した年でいえば西山さんは昭和7年卒かな。だから、その卒計で接点があったんだよ。でも西山さんといえば有名だった。それからその当時鈴木義孝さんがいたかな。西山さんは設計を夜な夜なやってきて見てくれたということで非常に懐かしいね。

 

--: 増田友也先生とは同期なんですよね。増田先生は設計という点ではどうだったんですか。

 

横尾: ぼくは一年休んだあと,卒業の前の年の夏ごろ溜まっていた専門をやっていたときにちょっと設計が分かった気がしたんだけど,課題をこなすのが楽しくてしょうがないという時期があった。それで,増田も何かで一年休んでいたな。 

 

--: 恋愛()

 

横尾: ()色多いからね,忙しくてね。彼と同じ下宿にいたんだよ。

 

--: どの辺りですか?

 

横尾: 田中の北白川なんとか荘っていうところだよ。それで彼(増田)は「えっ?」という所はあったけど,

 

--: 抜群というわけではなかったのですか?

 

横尾: いや,建築的感覚はあったんだろう。絵は上手くなかったけど(笑)。そして色彩も苦手だった。でも増田は建築家になろうと思っていたようだね。焼き物なんかもよく知っていた。あと僕のクラスで設計が好きだった奴は…僕がやってたかもしれない(笑)。だけど設計というのは,貧乏性ではダメなんだよ。やっぱり人のお金を使うのを何とも思わないような人でないと。僕は何か悪いような気がして,だから向かないんだよ。

 

--: それでは先生の学年で一番設計をやっていた人というと?

 

横尾: 白石(博三)さんが好きだったね。僕の二年上,実際は一年上だけど。それから西山君は建築家を志望していたんだろう。それから浦部(鎮太郎)さんもそうだろうな。それから少し前になるけど森,彼はフランスに留学していてね,あの人はフランス語ができるから森田先生と仲良くてね,森田(慶一)先生がフランスに留学した時二人で何回も車に乗ったりして,車が好きな人だったから。

 

□昭和10年の建築教室

--: 先生が入られた時の教室の構成は?

 

横尾: 構造は坂先生と棚橋先生,デザインは僕が入ってきた時はご健在でしたが,武田先生が退官されて,そして森田慶一,伊東恒治,藤井厚二,横山だったでしょうか。建築史は,天沼先生は亡くなられて,村田治郎教授。助教授はおられなくて,工芸繊維大の教授になられた藤原義一先生が講師,それから中村昌生先生。あと非常勤では,安井胃(武雄)先生とか,滝沢真弓さんとか。

 

--: 学生時代一番印象深かった先生と講義はなんですか。

 

横尾:  それぞれおもしろかったと思うけどもね。デザインの講義なんかおもしろくないけどね。まあ森田先生の建築論なんて一番ねむくていけなかったな()。建築論があったかなかったか忘れたけど。

 

--: 理屈っぽい?

 

横尾: まあ建築論なんて当たり前のことをいうようなことだからね,そもそも。まああとから聞くとおもしろいんでしょうね。ウィトルヴィウスの話なんかもう忘れたよ。

 

--: ウィトルヴィウスの本を書かれた時代ですよね。

 

横尾: そう,それは知っていますけどね。だけどラテン語みたいなのがポコポコでてきて,なんか分かったような分からなかったような。あと天沼先生が日本建築史で,村田先生からは西洋建築史を習ったね。

 

--: 東洋が専門の村田先生が西洋を教えられえたんですか。

 

横尾: ちょうど外国から帰ってこられた頃で,西洋建築史といっても様式論で,ギリシャの黄金分割というかプロポーションというか,ああいうのをやっていましたね。おもしろいなと思ってね。

 

--: 村田先生の学位論文はすごいですね。東洋建築系統史論といって,その1,その2,その3と『建築雑誌』で連載されて,それが学位論文になっているんです。満州におられたので北アジアにものすごい強いんですけど,蒙古のパオの原型がどうだとか,ドーム構造がどこでできて,アーチがどこでできてとか,考察されてるんです。.

 

横尾: おもしろい!

 

--:おもしろいと思います。アーチとか、ドームだけでなく、高床とか校倉の起源の議論もある。

 

横尾: それはおもしろいだろうなぁ。その話は聞かなかったけど,ギリシアの曲線の話をされた。関係あるかもしれないけれど,今日ぼくは木割の話をしてきたんだよ。規矩術をやる友人と話したんだけど,村田先生から規矩術やることを勧められたんだよ。なるほど,ギリシアの建築の幾何学といったものがつながっているのではないかと思ったんだよ。

 

--: 規矩術ももちろん関係しますが、学位論文では、原型がどうか,どのようにして成立するかという点に力点があります。例えばスーパというものがあって,何であれが五重の塔になるんだろうということです。伽藍配置には我々が四天王寺式や法隆寺式と呼んでいる様々なタイプがあるのですが,ではインドではそれが一体どこにあるのか,ということは誰も説明していないんですよ。先生はそれを解き明かそうとされている。そういう講義じゃなかったんですか。

 

横尾: いや。いきなりそういう話はできないから。建築史なら,斗きょうの話から,名称やどう組んでいるのかを覚えるくらいだんあ。

 

--: 三手先なんて学生に聞いても全然分からないかもしれない。構造の先生でも分からないかもしれない。この間、日本建築史のツアーにいった時,山岸先生が一生懸命説明してくれました。現場で聞くとよくわかる。でも、六四掛けなんて,それを力学的に解け,と言われるとどうでしょう。割り方だから,生産的な話もあって,それと力学的な話は繋がっている。構造も歴史も共通の議論をしたいですね。

 

 

□大きな議論を:建築の世界が見えるように・・・トラバースは「横働き」のこと

 

--:『建築学研究』の創刊の言葉は武田五一先生が書かれています。記事が少ないときには,東畑先生が翻訳を埋めていたということを聞きました。今度の``新建築学研究''に期待することというか,エールでもいただければと思うんですけど。

 

横尾: ``建築学研究''の話は,``建築学教室六十年史''にも向井正也さんが書いています。(「京大建築会会報」Vol.44の記事を転載したもの。) とにかく,最近の学会の議論は細かすぎると思うよ。いや細かい議論はいいけどさ,細かい議論は細かい人がやればいいことで。だけど世界が見えない。建築の世界が見えない。見えるようにしなきゃいけない。

 

--: 個人的に,細かいこともいいけども,京大には、もっとある種の筋のある大きな議論を発表するメディアがあったらいいんじゃないかなと思うんです。

 

横尾: どういうものトラバースの中でずっとやっていくかというと,要するに随筆めいててもいいし論文めいててもいいけれども,本当にトラバースでなきゃいけないというひとつの仕割りにしたがうことだと思うね。 要するにトラバースでないものを出す分野はたくさんある。いくらでもある。それに結構非常にいい感覚を持って書くのもいいですよ。???先生の東洋建築史原本みたいなものとか。それからもうひとつは何かすこし既存の学を網羅してやるんだったら,しっかりした文献を読んで欲しい。中身や表現は簡単でいいけれど,しっかりした文献を脚注として挙げて欲しいと思う。例えば何かテーマを決めて議論をしたり,対談をしたりというようなものがあっていいんじゃないか。これからテーマを作っていってもいいと思う。必ずしも建築の中でトラバースを組めないときには,土木と組んでもいい。

 トラバースということを,ぼくは横働きと言っているんだけれども---

 

--: トラバースっていう名称は竹山聖先生が言い出したんだけれども,確かにそういう意識があるとおもいます。

 

横尾: 片側からではなく,少したちいたって,お互いにむこうが思っていることを考える,要するに弁証法的なものが欲しいですね。少し時間はかかるでしょう。それでトラバースとは何だっていうことだけど,横並びっていうのはよくないんだよ。エンサイクロペディアのようなものは多いんだよ。全体を見通している人が何人ぐらいいるか。だからトラバースでやるという問題はコロコロ転がっている。それをチャレンジして素朴でもまじめにやって提示していくと,新しいものがでてくるんじゃないの。だけど造形の分野なんかで何があるか分からないけれど。構造造形論とか()。川口衛さんの話も面白いんだよ。

お互いにうまく対話のできるものを作らないと。デザイナーとの対話ほど難しいものはないぞ。

 

□プログラムの必要

--: 京大は構造デザインというのは伝統的に弱いんじゃないでしょうか?

 

横尾: ああ,弱い弱い。僕の責任でもあるんだけどさ。地の利を得ないね。大阪や東京だとどれだけ便利か。土木のようにお上から仕事がくるのとは違うし。学園紛争のころやらなきゃいかんなぁ,と思いながら,他のことやってしまったんだけど。大体理論家ばかりが多い。私の弟子にも。もう少し雑学をやる人がいなくては。一応雑学をやっていた松岡君が名古屋に行ってね。あと膜構造とかスペースフレームというのはやるべきだと思っていたんだけど,なかなかね。膜は結局膜の張り方という技術の面に問題がある。太陽テントとかあるからそれにくっついてやればできたと思うけど。

 

--: トラバースの編集をやる立場として、どの辺を攻めればいいんでしょう。

 

横尾: そういう問題は建設業のあたりと上手く組んでいかないとね。これは学校ではできないでしょう。大阪大学の連中は今うまく育てているんだよ。ぼくつき合いが多いから。それからフリーな発想をする奴が多い。上手につき合うとか,そういうことが要るでしょう。

 

--: 環境工学とか計画とかでですね,デザイン領域で京都大学がこうやるべきだといったようなことはどうでしょう?。例えば京都だからもうちょっと木構造などのスタッフを充実させるべきだとか。

 

横尾: オリエンテーションしなきゃダメだよ,ボスが。例えば石崎君だって地震やってたし,小堀君ははじめから地震だった。それから若林君は鉄筋コンクリートやってた。それで若林君と,坪井(善勝)先生と,棚橋先生との話し合いで,若林君がこっちに来ることになった。僕は兄貴分として付き合うことになったんだけれど,六車君と分野が重なるわね。棚橋先生は鉄骨やってたから,それで若林君は鉄骨やるということになって,そのイントロダクションは僕がつくった。大阪工大に行って,末長君という坪井さんの弟子と,若林さん向きの長柱試験機を作った。それで今も動いてますよ。それぐらいのお手伝いはした。それからあと,若林さんは鉄骨構造の仕事をやって,僕はある意味でよかったん

じゃないかと思いますよ。SRCはもちろんあの人だしね。若林さんの弟子も結構育っているしね。あの人はリーハイ大学へ行ってたんだね。あそこは1年ごとにテーマを変えるんだね。今年実験やれば次の年は理論。だから若林君は実験が得意だね。石崎さんは東大の航空出ているんだけど,地震やる人がいっぱいいてもしょうがないから,航空だから風はどうかと僕が言ったら,棚橋先生が賛成してくれた。いってみれば,棚橋先生が将軍で僕が参謀という感じかな。

 

--: そういうオリエンテーションが最近足りなくなっているということですか。

 

横尾: 完全自由競争の公募式の学校にするんだったら,いいかもしれないけど,必ずしもそうはなっていないようだし,ほとんどそれに近いことをやっている学校もあるしね。それでないとしたらやっぱり学校経営の問題だけどね。

 

--: 独立法人化ということになると、それなりのプログラムが入りますね..

 

横尾: いずれにせよ、プロフェッションとしてのシビルエンジニアリングとかアーキテクトとかストラクチャーエンジニアリングはずっと続くと思うんだよね。何が変わろうが。しっかりとした骨があればいい。

 

--: どういう人材をどう育てるのかという骨の議論がない、ということですか。

 

横尾: 社会と学校の対応を考えていかないとうまく行かないんじゃないかと僕は思うんだよ。土木の連中をかき回さないと。中川さんとか土岐さんとか。あの辺は以外とかき回しても土木社会がきっちりしてるからね,地球だ宇宙だ言ったって,なにかこう,つながってるものがある。建築はデザインというものをもうちょっと強烈に主張すべきであると思う。

 

--: デザインって言っても,もっと大きなコンセプトのことですね。

 

横尾: デザインっていう行為がどういうものか。建築が一番自由度が高いわけ。飛行機設計したって何設計したって,橋梁なんかは結構自由度あるけど。そういうデザインとは何かというデザイン論というのを議論していくと,自ずから建築家の位置づけなんかが座りよく認識できるわけだ。変なことことばかりやって,変なことほざいてるというのもあるかもしれないけど,何か持っているんだよ。だからプロフェッショナルアーキテクトと,ストラクトエンジニアとシビルエンジニアという,3つのエンジニア。シャバでものをこしらえる,社会にものをこしらえるときどういう位置づけになるか。それと先生との関係をやっぱりきちっとね。それは社会に出てるヤツを呼び返して議論したらおもしろいよ。名古屋大学の卒業生はおもしろいもので,卒業生が講義をやっているんだよね。冠講座とまではいかないけど,いろんな先生呼んで,学生たちに聞かしているんだよ。愛校心の表れだね。佐々木君が今度戻ったね。僕の弟子では豊橋の加藤史郎君かな。

 

□デザインが弱い?:

--:  京大出身の構造デザイナーがいない。

 

横尾: 京大出身でなくたっていいんだよね。非常勤とか何かの形でもいいし。京大出身で関西的の構造デザイナーっていったら,竹中の岡本達夫なんておもしろいんじゃない 久徳君はもう過去の人()。岡本君はスケールは大きくないけど結構発想する頭を持ってる。それから,構造デザインっていうのは表に出ないからなぁ。やっぱり(京大の)構造設計者は,川口さんとか木村さんとかみたいには,華々しくないよね。構造設計というのは実際にはどうだろう,関西では知らなくてね,色々なスタジアムとか設計してて,誰が構造をやっているのだろうと僕はいつも気にしているのだけど。大阪あたり結構大きなスタジアム作ってますよね。

 

--: みんな川口さんがやられているんですよ。

 

横尾: 屋根のクローズしたものなら川口君だろうけど,例えばキャンティレバータイプとか,サッカースタジアムとか

 

--: ビッグアーチとか。

 

横尾: そう,ああいうのだとどうなのか。

 

--: 岡崎先生も川口さんと組んでやってられます。

 

横尾: 川口君は福井の出身ですね。川口流もあるけど,もうちょっと大阪的なものがあってよさそうな気がするね。わりに無理のないものね。川口さんの設計でもこわいのがあるわけだよ。竹中が上手く大阪ドームと名古屋ドームを,名古屋の方が好きなんだけどね,あれも実にシンプルで構造の原型ですよ。東京ドームも竹中ですね。それからより変わったものはね,西武。あれは面白い。

 

--: あれはデザイナーが池原さんで,施工は鹿島ですね。

 

横尾: あれはすごく面白い。あれは自然換気と,それと真中を吊上げるという発想が面白い。それから鹿島で聞いたのはMウェーブかな,長野の。実はこの間東京の鹿島に行ったので,西武のドームを見ようと思ったんだけども・・・

 

--: 計画系で,京大の弱い,もうちょっとすすめていけばよい所などをお聞かせいただければと。

 

横尾: デザインっていうのは分からないな。

 

--: 大体デザイナーというかアーキテクトが育たない。

 

横尾: 理屈家が育つ(笑)。 だからどのように育てるかだよ。東大はほっておいても育つんですよ。仕事が回ってくるし。バックがいろんないい所があるし,自然に先生は研究面において手伝いができる。

 

--: 東大も安藤忠雄さんを呼ばないといけなくなったようですけど。

 

横尾: 大谷さん,丹下さんの時代と違うか。

 

--: 構造,計画全体でのネットワークは繋がらないんですか?デザイナーが出てくれば構造設計家が出てくるのでしょうか。

 

横尾: 要はみんなが建築についてどう考えているのかということだろうね。友達がいるでしょう,同級生が。

 

--: 今は細分化されてしまって,全体をみる人がいない。

 

横尾:  要するにトラバース的に,相性の悪い奴を無理にくくっつけて,結婚式をあげさせて(笑),見合い結婚じゃなくて喧嘩結婚みたいなのを。自分の仕事をしなが何か成果をあげさせればどうか。僕は昔から力学論と空間論とをやっていたんだけど,美術全集をみていて解説を読んで,力学論がでてきたのは実はそれが影響あるんだよ。

何かこう秩序感がある,その先生方に評判がいいものには。それは力学ではなくて,重力の力の流れというのが評判がいい。それからふっと思い立って,増田と僕とが議論しているうちに書き出したのが力学論だよ。

               1999621日(京都:学芸出版社 アティック)

2022年9月19日月曜日

西川幸治名誉教授インタビュー、教室を知的探検と交流のベース・キャンプに、traverse 新建築学研究 07, 2006

 2006/04/22 京都大学工学部/西川、布野、伊勢、土屋、高橋、田島

西川幸治名誉教授インタビュー

教室を知的探検と交流のベース・キャンプに

traverse 新建築学研究 07, 2006 

 

■彦根中学から三高へ

布野先生は、建築系教室への帰属意識はあんまりないとおっしゃいますが、そもそも何故、建築学科だったのか、あたりからお話していただけますか。

西川消去法です。新制大学への進学は工学部に入りました。しかし、旧制高校3年のところを1年で追いだされ三高など旧制高校がつちかってきた教養への執着と休学がきっかけになり、専門にこだわらない姿勢がうまれたと思います。

布野なぜ工学部だったのですか。

西川それは消去法でした。たしかに、戦中・戦後の混沌のなかで、空を眺める宇宙物理学、天文学への憧れはありました。三高は文科と理科しかありません。私は理科で、宇宙物理とか地球物理などに関心がありました。しかし「じっさい、モノを作る方がいいですよ」と言う三高校の先生がおられました。

布野数学は得意でしたか。

西川数学はわりと好きでした。それは戦中末期で、45年の815日というのは大転換です。すべてが変わりました。

布野その時はおいくつでしたか。

西川彦根中学の3年生です。色々考えたり、将来を思う時期でした。

布野彦根中学というのはどこら辺にあるのでしょうか。今の彦根東高校ですか。

西川そうです。終戦を期に、価値観が大きく逆転換するのを痛切に感じました。のなかで変わらなかったのが数学とか理科なのだと。

布野天文学ですか。

西川中学1年の時、宇宙物理学の山本一清の『天体と宇宙』(1941)という本を読みました。京大の宇宙物理の先生で、花山天文台長などもしています。のちに出身地である、大津の田上に天文台を作って、そこが当時アマチュア天文学のメッカになっていました。今ものこるこの田上の天文台は地域の文化財として顕彰すべきだと思っています。

布野三高しか志望しなかったのですか。横尾先生は横須賀ですが、三高行こうか、一高行こうか、迷ったと聞きました。

西川戦時中の中学は大変でした。当時、華やかだったのが海兵・陸士でした。彦根中学というのは、あまり軍人が出ない所でした。なぜか終戦間際には海兵にたくさん合格しましたが。

布野彦根は、ずっと井伊家、譜代大名で、幕府の中枢にいたわけですが、明治維新以降、少しパッとしなくなった。

西川彦根は幕府の譜代大名の城下町で、薩長を中心としたいわゆる明治政府からは疎外された城下町でした。それだけに、近世の景観をよくのこしています。

布野裏返しですね。幕藩体制を支えてきたわけですから。

西川そうです。もし、井伊直弼が桜田門外で暗殺されていなかったら、彦根は会津のような運命になっていたでしょうね。城下町も残らないし、城はもちろん破壊されたでしょう。戦後になってどこかに進学という時に、三高か八高か四高のどこかを考えました。

布野八高が名古屋、四高が金沢ですね。一高はないですね。

西川一高は考えなかったけれど、存在は知っていました。子どもの頃、佐藤紅緑の『あゝ玉杯に花うけて』という本を読んでいたので、小学生の頃に一高だけは知っていました。その頃は三高の存在は知らなかったくらいです。戦後、親しい人が三高に入りました。

布野三高に来られて下宿はどこでしたか。

西川最初は五条坂にいました。父が昔下宿していた所です。夏休みあけの昭和239月に北白川に移りました。それから大学院出るまでずっと下宿は北白川です。

布野学生時代からずっとですか。

西川そうです。学生時代からずっとです。

布野三高というのは要するにここ京大ですね。

西川そうです。文・理科あわせて1000人位の生徒がいました。

布野入られて、それで建築に決められたのはどういう経緯ですか。

西川当時、学制改革で、非常に不安定でした。私達が入った時は旧制高校のままで卒業できるかどうかわからない状況でした。

布野新制と旧制との切り替えの時ですね。

西川文科甲類には小松左京がいましたね。

布野多分、建築界なら磯崎新がそうですね。

西川川上秀光さんとは同級です。

布野川上先生は三高ですか。

西川そうです。三高で同じクラスで二人建築に進み、私は京都に、彼は東京に行った。

布野磯崎新も同じ歳だと思います。

西川私もどこかで会っています。伊藤ていじさんに紹介されて磯崎さんと川上さんたちに会いました。

布野八田利也というペンネームで、活躍しましたね。

西川—GMP、原稿、マスプロダクション(笑)そこに伊藤ていじさんに連れられて行って、三人とはなしました。

布野伊藤ていじ先生はちょっと上ではないですか。

西川あの人は旧制の四高出身で、岐阜の人で歳はかなり上です。

布野入られた時から川上先生は知り合いだったんですか。

西川同じクラスでした。とにかく彼は元気でしたよ。活発にヨットで琵琶湖に遊んだりしていました。

布野川上先生も建築、西川先生も建築。その辺の雰囲気を僕は聞いたことがないんですよ、巽和夫先生とか横尾先生とかにも。三高から来た先生はあんまりいないんじゃないでしょうか。名誉教授クラスには。

西川あんまりいませんね。森田慶一先生、西山先生は三高、村田先生、坂先生は一高だときいています。

布野東大です。藤井先生と武田五一は福山出身でしょう。

西川武田五一先生は三高で、新徳館という木造の講堂は武田先生の設計でした。藤井厚二先生は六高だときいています。ところで新制第一期には作家の高橋和巳がいます。彼は松江高校ですが。

布野僕も松江です。

西川彼は松江高校で、中国文学専攻です。奥さんは仏文出身の高橋たか子。作風は大分違いますが。

布野黒川紀章と同級。黒川さんはちょっと先生より下でしょう。

西川森田さんと同じクラスだった。2,3年下ですね。同じ世代では高橋和巳を一番愛読していました。『悲の器』などはいい本です。若くして亡くなってしまいましたが。彼が進々堂なんかで昼飯を食べて帰ってくる時に、顔を合わせることはありました。目礼するくらいの間柄だったけど、しゃべったことはないです。

布野彼は文学部ですね。大学闘争時代に、高橋和巳は、造反教師というか、学生からはスターでした。僕も、全集買って読みました。

西川紛争の頃、立命館にいました。吉川幸次郎さんが引き戻したのです。吉川さんは自分にはないものをもつ弟子を選んだんでしょう。中国文学にはたくさん秀才がいましたから。当時いろんな人がいましたよ。みんながレギュラーなコースで行くのではなくて、私と同じクラスに高瀬昭一さんというのがいて、三高から、東大の理科へ進学しましたが、次に会った時には東大の美学美術史に行ってました。映画に関係し、やがて朝日新聞に入って、朝日ジャーナルの編集長をしていました。神戸から来た江戸さんは物理の湯川研へ進学しましたが、やがて、美術評論家の中原佑介として活躍しています。

 

■結核

西川私は休学しているのです。京大に入って、二年目の時に。ですから二回生を二回しています。

布野それは意識的にですか。

西川結核です。伊藤ていじさんほど悪くはなかった。伊藤さんは肺が空洞になって肺切除の手術を受けたと言っておられました。私はそこまではいかず、浸潤で終わっているわけです。

布野建築に入るというのはいつ決めたのでしょうか。どうやって選んだのでしょうか。

西川いろいろ教室を見て歩いた記憶はあります。建築教室では廊下に福井地震で被災した建物の大きい写真がかけてあったのが印象にのこっています。結局、どこも気乗りがしなくて、消去法で選んだのです。

布野当時、どこに製図室がありましたか。

西川製図室は今の新館と本館の間に小さな平屋があってそこが製図室だった。その製図室が1回生と2回生で、3回生になったら隣の環境の実験室も製図室でした。やがて、2階がつけたされ、本館東の建物は新制の大学院の室になりました。

布野先生は設計製図はどうでしたか。30人中一番描けたのは誰ですか。

西山目良純さんとか柴田勝之(坂倉)、金本貫治(大建)らが、デザイン志望でした。私自身、医者に製図は胸に悪いと言われて、敬遠していました。

布野結局、建築史を選ばれるわけですね。

西川その頃に西山さんの『これからのすまい』を読んで、ああいうアプローチの仕方があるのかと面白いと思っていました。

布野藤原悌三先生は、この四月で滋賀県大を退官されましたけど、やはり西山先生はインパクトがあったと退官記念講演会でお話になっていました。

西川私も面白いなと思いました。終戦直後の『新建築』に西山さんの長大な論文が載っており、すごいなと思いました。あの戦後の混乱の時代に夢のある計画だという気がしました。

布野もともと『新建築』は関西ですしね。

西川あれは村田治郎先生が『新建築』に西山さんを紹介したとおっしゃっていました。

布野例の「新建築問題」が出てくる時に京都の偉い先生たちがいちゃもんつけたということを聞いてるんですが。1950年代に新建築問題で川添登さんとかが辞めた事件があるわけです。それは村野先生の「そごう百貨店」の批評が問題のきっかけになった。「そごう」は、新橋駅前の今はビックカメラになっていますが、その横は「東京フォーラム」で、丹下さんの「東京市庁舎」を建て替えた。「そごう」を批判して書いたら吉田社長が「編集部全員クビ」と言った。その時に村田先生が京都から「村野に文句付けるとはどういうことだ」と言ったことは事実みたいなんです。それで『新建築』ががらっと変わった。『新建築』には絶対作品を発表しないという建築家も出たんですね。

西川初めて聞いた。そんな事に村田先生は関心があったんだろうか。

布野代わって編集長になったのが清家さんとか東工大グループなんです。少し横道にそれましたが、先生が昭和29年に建築を選ばれた。その時の教授陣は。

西川私が入った時には年輩の先生では計画・意匠は森田慶一先生、建築史は村田治郎先生、構造は鉄筋コンクリートの研究をされていた坂静雄先生、鉄骨構造・施工の棚橋諒先生、環境の前田敏男先生の5人だったと思います。

布野その時は西山夘三先生は助教授ですね。

西川西山先生はおかっぱ頭で、花森安治とならんで有名でした。ほかに講師で増田友也先生がおられた。

布野—4回生おわって、大学院に行かれた。

西川休学したので転学部しようかと本気で考えました。

布野なぜ転学部を。

西川僕は社会学か経済か心理に行こうかと。休学中に読んでいたのがそういう系の本だったから。それを断念して、踏み留まったのはやはり、T.V.A.Tennesee Valley Authority)に関するD.E.リリエンソールの『T.V.A-民主主義は進展する-』でした。これを読んで感銘しました。

布野僕達でもピンとこないし、若い学生はもっとわからないと思いますが。

西川アメリカの地域総合開発です。それを新しい民主主義の考え方と手法で、草の根の民主主義に根ざした手法で、テネシー渓谷を総合的に地域を開発するということで注目されました。アメリカにおけるニューディール政策のもとですすめられたのです。

布野それを読んだのはいくつの時ですか。

西川昭和24年の刊行ですから大学に入ってからですね。和田小六という人が訳した本で、10年位前に復刊されました。T.V.Aの開発方式というのは批判されるようになってからです。当時、影響を受けた人はわりと土木とか建築には多いで.すよ。私達の世代はT.V.A.を読んで影響を受けた人は多いと思います。

布野土木とか建設に行くぞという人が多かった。戦後復興が大課題でもあったからですね。

西川あの本というか、T.V.A.の功罪について、きちんと検討すべきだと思います。戦後の20世紀後半の総合開発はほとんどがT.V.A.がモデルとしているようです。アフガンでもヘルマンド・バレー・オーソリティが、それはアメリカのを直輸入して結果的には失敗したと言われていました。東南アジアのメコン川など大河川でもT.V.A方式の地域開発がすすめられました。日本でも奥只見や愛知用水はそうでしょう。それらをT.V.A.のモデルとしてどの部分が成功してどこで失敗したかをきちんと検討しておく必要があると思っています。

布野その話と社会学やりたいという話はどうつながるんですか。それと最終的に歴史にどうして行かれたんですか。

西川結核という病気は、死にいたる病なんですよ。命がゆるやかに消えていくのにずっと向き合う、今のガンのような急なものと違って。立原道造もそうでしょう、掘辰雄のような美しい文学も結核との関わりの中で生まれた文学でしょう。休学していた頃、抗生物質のストレプトマイシンとかパスなどの薬があらわれ、劇的に救われたのだと思います。

布野僕らは結核というのは頭ではわかっているけれど、その死に至る病ということは実感できない

西川いろんなところで救われたわけです。私はマイシンをのんだりして。人工気胸というのをやっていました。胸膜腔内に空気を入れて肺を縮めるわけです。週に1回、学部からドクターコースまで続けていました。気胸をやめるころに、ちょうど医学総会が京都であって、気胸は結核療養に役に立たないという結論がでたということでした(笑)。しかし、担当医は「あなたの場合は割ときいていましたよ」と言ってくれましたけど。たまたま休学している時に映画『カラコルム』を観ました。木原均先生を隊長とした調査の記録です。梅棹忠夫さんらがアフガンで調査しモンゴル族を発見する。

 

■学部から大学院へ:映画『カラコルム』を観る

布野それは大学院の時ですか。

西川まだ学部ですね。復学するかどうするかという時でした。同じ生があり、死なねばならないのなら、こういうことをやりたいなと思いました。

布野先生のモンゴルへのこだわりというのはそこからですか。

西川アフガンでの調査で、ちょうどイタリアの調査団と交流する場面がありました。それと梅棹さんたちがモンゴル族の末裔を発見する場面に感動しました。

西川イラン・アフガニスタン・パキスタン学術調査隊に参加することになった時、京大病院で相談したところ、アフガンに行かれた梅棹さんも気胸をしておられたよということで、参加の意志を固めました。

布野僕は梅棹先生と一度、目が悪くなられてから対談をしたことがあります。当時は梅棹先生はどういうポジションだったんですか。

西川梅棹さんは京都大学を出られて、大阪市立大学の理学部におられたと思います。それでカラコラム・ヒンドゥークシュ学術調査隊が組織され、カラコラムとヒンドゥーュクシュ班とに分かれて、ヒンドュクシュ班に梅棹さんは入った。カラコラムの方は今西錦司さんが中心だったと思います。

布野先生の卒業は59年ですね。僕は先生の名誉教授の推薦の文章も書いたし、京都新聞文化賞の時も書いたんですが。大学院行く時はどういう選考基準だったんですか、試験があったりしましたか。誰でも行けたんですか。

西川私は無試験でした。しかし、年度末にあと何人かは試験で採っていたように思います。

布野推薦の時代。村田先生が来いと言ったわけでないでしょう。

西川計画系が何人という感じでだと思います。私はどこに行っていいかわからないし、あまり図面をひかない方がいいと言うし、だからなんとなく村田さんの所に行った。

布野その時は巽先生はいたんですか。

西川いましたよ。私は1年休学したので、巽さんは1年前に新制大学院の第1期として進学していました。一緒によく集まってだべっていました。今と違って大学院は研究室に分属しないでグループになって一学年全部が入っていました。構造も歴史も全部。

布野何人位ですか。

西川—10人位でしたかね。京大だけでなくて熊本とか神戸大学から来た人もいた。私は大学院に行くのに何で行くのかと聞かれて「体が悪くて」と言うと、村田さんが「君、大学院はサナトリウムじゃないよ」と言われた(笑)。

布野それで大学院の修士論文は。

西川私は、修士論文は近世都市で書きました。ちょうどその頃、彦根市史の編纂に関わっていました。彦根の城下町、もうひとつは城下町から町人の町へ転換した長浜、この二つ町をとりあげて修士論文を書いたのです。

布野それは故郷だからですか。先生の選択、もしくはプロジェクトがあっての選択ですか。

西川彦根は故郷だし、史料も手にとり易かったからでしょう。修士を終えてしばらくは、近世でも彦根藩だけでなくて他の藩、例えば津軽藩などの史料を使って江戸の上屋敷とかを調べたりしました。当時、修士課程には演習がたくさんありました。設計演習の単位を取らないと卒業できないわけです。だけど単位を他学部で取っていいということになっていたので、設計演習に替えて、他学部で単位を取りました。美学美術史とか日本史、考古学で単位をかせぎました。

布野その時の先生はどなたですか。

西川美学・美術史の教授は井島勉という方でした。文学部には集中講議があり、東大から吉川逸治先生がヨーロッパ中世美術で、東京芸大から新規矩夫先生がエジプト美術を講義されました。それらを大変楽しく受けました。

布野栄養、ルーツにはなっている。

西川今でも忘れられないのが、その他、上野照夫先生の絵巻物研究、インド美術史。林屋辰三郎先生の中世史研究。

布野林屋辰三郎先生は、どこにおられたんですか。

西川立命館大の文学部教授で、京大の国史に非常勤講師で週一度来られていました。その頃、羽仁五郎という歴史家は有名でした。

布野『都市の論理』68年。僕ら学生の必読書でした。

西川岩波新書で『都市』という本が出ていた。戦時中刊行された『ミケランジェロ』にも感銘しました。

布野今、『都市の論理』を読み返すと、随分乱暴な議論もしている。

西川彼は秀才ですね。一高—東大の法学部を卒業して文学部へ再入学した。三木清の友人です。

布野東大ですか。京大かと思っていました。

西川反アカデミズムの旗頭です。スマートで、不思議なことに福山先生も若い頃、講演を聴いてたいへん憧れたと言っておられた。

布野福山先生は先生が助手になった時にお見えになってお世話したんですね。

西川教授として赴任される1ヶ月前、昭和344月に助手になったのです。

 

■ガンダーラへ

西川博士課程では日本近世の都市を勉強しました。西山先生がそのころ大学院研究室へ来られて、言いやすかったのでしょうか(笑)「そんなことをして何になるのかね」と毎回言われました。「結局、役に立たないことをやるのか」とか、「近世をやる」と言えば、「なぜ近世をやるのかね」と言われる。説明しても「人がやらないからやるのか」とか言われる。若かったから一生懸命抗弁してました。あの頃は世の中全体が実用的なものの考え方をする時代でした。当時の時代風潮は建築史みたいなことをする居場所がだんだん小さくなっていた。最後に西山さんは「西川君やるのはいいからその代わり、歴史のことは何を聞かれても答えられるようにならないといけないよ」。西山さんにはかなり厳しく助言して頂いたと、今は思います。また、「書庫に入ったらどこにどの本があるかは覚えるように」と言われました。本を探すのにどこにいけばいいか、今でも目に浮かんできます。小さな書庫だったが、天井が高くて、二段に仕切ってありました。新館ができて移って地下にも拡がり大きくなりましたが。

布野助手になられて福山先生がお見えになって、その時にお世話されていた。

西川私が教授室にはいる最後の助手でした。

西川当時、大学院生らの研究室に入って研究するのではなくて、教授室に助手として入っていたわけです。秘書の仕事もしていました。切符の手配とかね。次の助手は永井規男さんで大学院の研究室にはいり、福山先生には女性の秘書がつきました。

布野永井先生は関西大学へ行かれるのですね。その時の教授陣は。

西川村田先生が辞められて、福山先生が来られ、坂先生が辞められて、横尾先生が土木教室からもどってこられた。

布野増田友也先生は。

西山増田先生はやがて講師から助教授になっておられた。

布野西山先生は。

西川西山さんもまだ助教授でした。

布野助手で福山先生のお世話をされながら、ガンダーラがあるわけですね。きっかけはどういうことですか。第一次隊は何年でしたか。

西川—1955年に木原均先生を隊長とするカラコルム・ヒンドュクシュ学術調査隊が組織され、1959年には、京大イラン・アフガニスタン・パキスタン学術調査隊が組織され、考古美術、地理、歴史言語、人類の各班が調査をはじめました。ただ福山先生が来られた時に人文研に案内し、水野清一、長広敏雄、平岡武雄、藤枝晃を訪ねました。これが水野清一先生にお会いした最初です。

布野ガンダーラに行かれていたんですか。

西川そうです。文学部で講議を受けて、小林行雄先生の考古学の演習を受けました。考古学の演習では、私は図学を習っていたから、土器の実測に役立つこともありました。小林行雄さんは建築の出身でした。そんな繋がりがあって、山科の大宅廃寺の発掘調査にはじめて参加しました。奈文研の坪井清足さんを中心に、金関恕、小野山節、佐原真、田中琢、田辺昭三、岡田茂弘、白石太一郎さんらも参加していました。

布野当時は皆、助手クラスですね。大学院クラスでしょう。

西川それが後、考古学の中堅として活躍しています。

布野佐原先生は京大ではないでしょう。大阪外国語大学からですね。

西川大阪外大のドイツ語専攻から京大の大学院の考古学に進学しています。彼のドイツ語のリードはきれいで、機会があればうたってました。佐原さんとは1960年、ガンダーラの調査では宿舎は同室ですごしました。

布野その時の教室の雰囲気も聞きたいですが、先生は結核やって文学部系とつきあっていた。(笑)

西川教室の外の人とつきあう癖がついてしまったんでしょう。文学部系とは近い関係なのです。60年から人文研の水野清一先生の調査隊に参加し、研究会とか調査隊の打ち合わせで、しょっちゅう人文研へでかけましたが、福山先生が寛容にみとめてくださいました。それともう一つ、伊藤ていじさんとつきあって、D.C.の時に今井町の調査をやった。村田さんは民家をやるのにもあんまり賛成していなかった。

布野でも村田先生の学位論文は民家じゃないですか。「俺は民家やるんだ」と冒頭に書いてある。

西川村田先生の民家は、ユーラシア大陸を見据えた民家の流れが対象でしたから、少しくい違いがあったのでしょう。ただ、東大が研究室をあげて民家調査をやるようなことを京大ではしていなかったし、できなかったのです。私は伊藤ていじさんに心服していましたから。才人で凄い人です。

布野今井町の調査は、先生と京大からはどなたか。

西川私だけです。太田博太郎先生がずっとおられて、伊藤ていじさん、稲垣さん、川上秀光さん、渡辺定夫さん、大河直躬さん、それからイスラームの石井昭さん。この間亡くなられた名古屋大学の小寺さん。私にはとても楽しい調査でした。東大の人たちも一緒に調査ができて楽しかった。

布野ああいう調査を今できないんですかね。僕はアジアでやりたいと思っているのですが。

西川—ぜひ、やってください。

 

■ガンダーラから寺内町へ

西川そういう人と接することによって、東大で新しい動きがあることを知ったのは個人的に面白かった。今井町の調査で、その当時に今井町も城下町も同じような古い町と見ていました。ところがガンダーラに調査に行って、あの頃の車はよくパンクするのです。パンクするとそこで修理し、立ちどまって周りの町なんか見ていると、城壁で囲まれた都市の廃虚が残っていたりしている。そしてバーミヤンの石仏の上で、

布野これは有名な話だからちゃんと聞かないと。

西川(笑)1960年秋、アフガンの調査を終え、パキスタンへ移動する時、はじめてバーミヤンにたち寄りました。当時、大仏の頭の上にトンネルの階段で登れました。大仏の頭上、天井には西方の影響のつよい壁画がよくのこっていました。その大仏の頭上から見たら、シャレ・ゴルゴラという丘があって、阿鼻叫喚の巷だという意味なのです。この丘は、ジンギスカンの軍隊がここで戦死したジンギスカンの孫をいたみ、町の老若男女を虐殺したのです。そこで、この遺跡にはその泣き叫ぶ声が今もきこえるというのです。こういう町の住民が、町と運命をともにするということが日本にもあったかなと思った。その時にぱっと今井町が浮かんだ。寺内町がそうした例ではないかと。それが寺内町をあらためて考えるきっかけになりました。

布野それは何年ですか。

西川—1960年。途端に寺内町が私にとって身近に面白くなってきた。

布野寺内町ユートピア論ですね(笑)

西川寺内町を美化しているかもわかりませんね。その頃、日本ではいろんなことがありました。調査にいっている間に大阪万博もありましたからね。

布野その頃寺内町ユートピア、ガンダーラに行ってしまった(笑)

西川教室でも、大阪万博で忙しかったし、上田君はそのなかではりきっていて、忙しそうでした。

布野上田篤先生は俺がやったと言ってますね。磯崎と俺と二人で万博やったと。

西川梅棹さんはこの万博をきっかけに民博(民族学博物館)をつくられたのです。

布野—70年というのは、僕は大学2年生ですから、その頃からだいたいわかってくるんですけど、例えば先生の研究室でローズナウ『理想都市』(鹿島出版会)を訳されますね。そういう雰囲気はよく覚えています。団長として調査を開始されたのは何年ですか。

西川—80年になってからです。60年代は水野清一先生がIAP、イラン、アフガン、パキスタン調査をやられて、70年代は樋口隆康先生がアフガンでスカンダル・テペやバーミヤンの石窟の調査をすすめられ、私もバーミヤン調査に参加しました。それを引き継いで80年代から私たちはガンダーラで、ラニガト仏教寺院跡の調査をすすめました。197912月、 ソ連の侵入でアフガンに入れなくなりました。

 

■保存修景

布野ガンダーラが西川先生のひとつの軸ですけど、もう一方で先生のいろいろな功績を書いていると、保存修景論がある。それは何がきっかけでしたか。

西川何がきっかけだったかな。教室で将来構想を検討しようとしたことがありました。その時に歴史的環境保存計画というのを提案しました。これをみて西山研の助教授の絹谷さんが、「建築教室で環境というのはまずい。教室では環境と言えば、前田先生の設備環境工学に限られているからね」ということでした。

布野前田先生はその時は総長でしたか。

西川工学部長になられる前かな。

布野なぜ禁句だったんですか。

西川当時、環境という言葉を設備環境工学に限定していたのでしょう。地域計画関係でも。環境という言葉をさけていたようです。その時、西山先生が同情してくれて何かいい言葉をかんがえようと言われて、考えたのが、「保存修景計画」です。これは結局陽の目をみなかったですね。その後、保存修景研究施設というのを工学部の付置研究施設として何度も要求したけれど駄目だった。そのために関野克先生に相談したり、文部省もまわりました。

布野助教授の時に上は福山先生がおられて。

西川保存修景計画について思い出せば、1959年福山先生が京大に着任され、大極殿の研究を続けておられたので、長岡宮の調査をされることになり、その発掘調査の現場を担当することになりました。地元の熱心な研究者中山修一さんが長年すすめられた調査を延長することからはじめたのです。当時、平安神宮からの資金援助で調査をすすめていました。やがて、大極殿や小安殿・朝堂院の建物を発見され、文化庁を中心に調査を本格的に組織化することに努めました。その中で、京都府の文化財保護課の堤圭三郎さんから、都市計画的視点をいれた長岡宮の保存構想をまとめてくれませんかというはなしがありました。そこで考えたのが『国際建築』32-6(1965.9)に載せた、福山先生と大学院の野口英雄さんらと連名発表した『長岡宮跡の調査と保存計画』で、遺跡の保存を地域の開発の中にくみいれ、名神高速道路両側に設ける洛南緑地帯と結びつけようとしたもので、これは今井町調査で関野先生が今井町保存について緑地帯をめぐらすことを提言されていたのを思い出したものです。また、文学部史学科の雑誌『史林』が現代史を特集するという企画がありました。考古学の分野で遺跡保存について書くように樋口さんから頼まれました。そこでまとめたのが『保存修景計画—歴史的文化遺産保存の構想—』です。結局、現代史特集は実現せず、展望という欄をつくってもらって『史林』49-6(1966.11)に載せました。その後、『中央公論』85-9(1970.9)に『保存修景計画のすすめー文化遺産の蘇生と活用のためにー』を載せ、保存修景計画の現代的意義を強調しました。その頃、京大には人類学の研究室がなかったので、梅棹さんがプライベートに楽友会館で毎週1度、近衛ロンドという研究会をやっておられた。

布野近衛ロンド。近衛通りのロンドですか。

西川そうです。その近衛ロンドで、遺跡の保存について話したのです。それまでの考古学の発掘は何か発見して、それで終わりにしている。それでは駄目だ。写真でも、現像、定着、焼付というDPEというプロセスがある。遺跡の保存もそうしたプロセスをとりいれないと駄目で、遺跡をどう、保存し活用するかを考えるべきだと話しました。これをきっかけに梅棹さんの人文研でので『重層社会の研究会』に参加しました。私の学位論文はだいたい梅棹さんの研究会で発表しました。そこではいろんな人の意見を聞けたし、寺内町もそうです。

布野それとガンダーラは平行していますか。ガンダーラは外務省関係のお金ですね。

西川ガンダーラの調査は文部省、科学研究費、海外学術調査で、保存の計画と作業は外務省関係のユネスコ信託無償資金によりました。ところでパキスタンの首都、イスラマバードは誕生の日から知っている。だから愛着がある。まったくの荒野の中に一本道が、今のゼロポイントの辺りです。その道だけがあって、あとは泥の海みたいになっていた。こんな所が都市になるのかなと思った。1960年代のはじめです。外務省にいろいろお世話になったり、ガンダーラ博物館地域構想を提案しましたが、まだ実現していません。日本の外務省でも好感をもたれ、一時、かなりいいところまでこぎつけましたが、これも結局だめでした。本当にむつかしい。

布野それは何年頃ですか。僕が京大に来る前。

西川もちろんそうですよ。80年代の中頃でした。

布野僕が先生に会ったのは、80年代末のイスラームの都市の研究会の時で、あれ自体は色々発展していますが、今もイスラームの問題とか今後、我々が何をすればいいのかとか、若い人達へのメッセージも含めて話すとどうなりますか。

西川私がお願いしたいのは、総合性を大事にして欲しいということですね。私はやっぱりいろんな、特に文学部の人とつきあってきたから、文学部や人文研の講議を受けたり、専門外の人と話す機会があったし、総合大学というのを結果的に利用させてもらったなと思います。京大が老舗の総合大学として、その利点を活用してほしいです。異分野の人と交流し、協力し、刺戟しあえば、面白い成果がでると思うけれど、なかなか認知してもらえない。京都大学でも人文研で桑原武夫先生が共同研究のスタイルをうみだされました。もっと多様な共同研究の手法を開拓してほしいです。

布野民博の地域研究は撤退ですね。京大が引き受ける。

西川京大にとってプラスかもしれないけど、あれは松原正毅さんが民博でやっていました。京大の地域研究は大きく成長するでしょう。人文研が中国研究ではひとつのメッカみたいになっているし。

布野—AA研作って、だけどあんまりうまくいっていないみたいですけど。

西川ヨーロッパをはじめアメリカなどいろんな地域研究があるでしょう。やはりアメリカ研究は同志社か(笑)同志社にはアメリカ研究の蓄積があるし。だからいろんな大学がそれぞれ特色を持つべきです。

それから保存修景という言葉も、なかなかわかってもらえず大変でした。集計ではなく修理の修、景色の景ですと説明していました。やがて、この言葉も市民権が得られるようになってきました。京都で19709月、ユネスコ後援の『京都・奈良伝統文化保存シンポジウム』が開かれ、これをきっかけに翌年6月、美観風致議会では『京都市における市街地景観の保全・整備対策に関する答申』をまとめ、ちょうど審議会に委員として参加していましたので、市の大西國太郎さんらに協力し、積極的に作業に加わりました。724月、『京都市市街地景観条例』が定められ、その『特別保全修景地区』に、研究室で調査した東山八坂地区(産寧坂二年坂)、祇園新橋地区が指定されました。両地区とも、のち重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。そのころから、九州の大分でも調査しました。忘れられないのは近江八幡です。ヘドロ化し、蚊や蝿の温床になっていた八幡掘を暗梁にし駐車場にしようという案が出るなかで、歴史をうつし流れてきた八幡掘を再生させようという動きが青年会議所を中心に市民の間から起り、この作業にも積極的に参加し、『よみがえる八幡掘』というパンフレットを作成しました。この八幡掘はみごとに再生し、その後、町なみ保存修景につながり、今、八幡掘を延ばして「八幡の水郷」として重要文化的景観第1号としても顕彰されています。京都府・京都市で、文化財条例をつくることになり、はじめて登録制を導入し、文化財環境保存地区を定め、その頃、滋賀県でも琵琶湖景観条例(ふるさと滋賀の風景を守り育てる条例)が定められ、景観への関心は高まってきました。こうした動きに継続的に参加しました。

布野林屋先生との出会いは。

西川林屋先生は、梅棹さんが民博へ行かれるのと入かわりの頃に来られた。林屋さんは化政文化の研究会を作って、それにも参加させてもらいました。林屋先生は立命館におられた頃から京都市史編集にもあたっておられました。60年代の終りに『京都の歴史』第1巻・別添地図「平安京—京都の成立—」、第2巻・別添地図「京都—京童と軍記の世界—」、で復原地図の作成を林屋先生から頼まれ、日記史料などから、地名をひろいだし、地図におとしていく作業を続けました。とくに、六波羅の平氏政庁を地図におとすことができた時には、予想をこえた成果に興奮しました。市史の皆さんとの交流は、その後も続き、新修 大津市史、長浜市史、近江八幡市史、新修彦根市史へとつながっています。また、保存修景計画や地域文化財の研究会、勉強会や見学旅行にも、参加させてもらい楽しい刺戟をうけました。

 

交流:近寄ること

伊勢うまく質問出来ませんが、西川先生のお話を聞いて、一番基本の所に大学に入ってすぐ結核になり、そこで自分の身体の限界を完全に感じて、そこからスタートしたという強さがある。足が地に着いている。個人として非常に誰とも対等にやっていける人格を持っているというか。

西川そんな大袈裟なことでなくて、みんなでやればできることです。組織として専門外の事をやると異端視する傾向があります。それでは困る。少なくともそういう専門外の動きをする人を許容する大らかさがないと、新しい展開へと機能しないと思います。共同研究だけが研究だとは言わないけれど、許容しないといけない。

伊勢多くの大学が、がそれと反対の方向に進んでいて、大学自体がそういう構造を持っている。

西川そうでしょう。どうしても個別専門化する傾向はつよいです。もうひとつ違った共同研究のスタイルも必要だということです。

伊勢どうやってコントロールすればいいのかというところでしょうか。

西川いろんなスタイルの研究が出てくるでしょう。人文科学研究所とか、経済研究所とか、いろんな付置研究所がそういう役割を担ったらいいと思います。あとは自由に話す機会をもつことでしょう。いろんな人が出入りして話しあう場所を用意してほしいです。構造の人と電車の中で一緒になって、隣の研究室の人は何をやっているのかと聞くと「そんなの知りません」と言ってました。それでは困ると思った。自分のやっている範囲だったらわかるけど隣の人は知らないというのでは。紛争のころ、いろんな研究室に入れ込めない人がたくさんいて、そこで都市のことを考える、インターゼミアーバンというのをつくろうと思った。これは結局あまりうまく機能しなかった。そこでこの研究会に集まった人たちと滋賀県文化財懇話会というのをつくって考古学・地理・歴史・民族の専門の人とかが集まり、琵琶湖を一周したり、保存計画を勉強しました。しがらみからはなれ、いろんな人達とつきあうことです。孤立するのはよくない。

伊勢僕にとっては、このトラバースが唯一の機会になってしまっています。

西川意識的にやらないといけない。特に交流でしょう。やはり。みんなが敬遠しあっていたら駄目です。近寄らないといけない。どっちみち私たちの命は限られているのだから。

布野最後に強烈なメッセージがあったら。

西川活性化することです。大学とか教室は、私は登山のためのベース・キャンプのようなものだと思います。それ自体が自己完結なものでなく、新しい目標に向って、若い人たちの活動を支える後方支援の役割をはたすべきだと思います。過去にこだわらず、過去を活かして前進してほしいです。関連する分野と連繋がして、異質なものも寛容にとりいれて、ゆたかに成長してほしいとねがっています。