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2026年8月2日日曜日

これからの建築ジェネレーション,座談会竹山聖・布野修司・高松伸・平田晃久・松岡聡・百田有希・大西麻貴,traverse 9,2008

これからの建築ジェネレーション,座談会竹山聖・布野修司・高松伸・平田晃久・松岡聡・百田有希・大西麻貴,traverse 92008


京都大学出身 若手建築家 座談会 「これからの建築ジェネレーション」

高松伸+布野修司+竹山聖

平田晃久(94年京大卒、97年京大修士、SDレビュー04,06

松岡聡(97年京大卒、00年東大修士、SDレビュー03,08

大西麻貴(06年京大卒、08年東大修士、SDレビュー07

百田有希(06年京大卒、08年京大修士、SDレビュー07

                                                      

記録:多田涼

                                         2008年7月5日、東京・渋谷にて

「建築家になる」と決意したとき

竹山;今日集まっていただいたのは何らかの形で京大をtraverse=横断し、そして今や若手建築家の登竜門となったSDレビューに入選あるいは審査された方々です。若手の皆さんにとって「建築家になる」ということ、そして「建築の原点」はどういうものだったのでしょうか。

平田;建築になんで行ったのかとよく聞かれるんですけど、いつも答えられなくて困るんです。()

小さいころから形を考えるのが好きだったんです。一方で、生物とか、分子生物学みたいなものに興味があって。ノーベル賞をとるとか(笑)。そういう発見・発明のようなものに憧れを持っていて、そっちの分野にいくかどうか、京大に入るときにすごく迷ったんですよね。迷ったんですが、最終的に物をデザインしていくというという興味の方が勝って、建築に進んだ。

入ってすぐは、「建築に進んだ限りは建築家になりたいな」「ひとりでやっていきたいな」と最初から思っていましたね。ただ本当に独り立ちできるかどうか分からなかったので、「もう建築家にならないんだったら、建築はきっぱり止めて、文系就職して、楽しい人生を送るのはどうか」とか(笑)色々考えていました。

丁度三年生から四年生になるときに、完全に決心しました。丁度三年生のときに竹山先生・布野先生がいらっしゃって。

布野;私はあなたが二回生の九月に京大に赴任したんですよ。よく覚えています。『鴨川フォリー』という課題を出した。京大生もなかなかやるなあ、と思いました。渡辺菊眞とか、竹口健太郎+山本麻子とか、森田一弥とか、すでに建築家として活躍してるのが多いですが、あなたの学年は、優秀な学生が多かったなあ。結構強烈だった。アトリエ志向が多かったのは竹山さんのせいだと思うけど。

平田;濃い連中がいっぱいいて、自分がやっていけるのかどうか悩んだんです。そういうやつらの存在は結構大きかったんですよね。

ですが、四年生にあがる研究室配属のときに無事設計の研究室に入れて、もうこれはいくしかないだろうと。そのあとはまったく迷いなくやってきたんですけども。

布野;修論の公聴会のときだったかなあ、あなたはものすごい頭いいって感じがしたなあ。僕が学生誉めることはめったにないけどね。あなたの発表を聞いて、おっこれはなかなかやるなあ、考えているなあって感じだったのを覚えてる。

平田;記憶術の話をしました。エクスポジションの建築っていうテーマで。

布野;大学に残ってほしいみたいなことを、ほかの先生も言ってたよ。

竹山;僕が覚えているのは、平田が三回生だったときの課題で。最初のエスキスチェックで、敷地にふにゃってした曲線のスケッチが書いてあって、「何コレ」って言ったら「何やったらいいか分からへんのですけど」って。(笑)それで僕が着任したばっかりで気合が入ってるから「何やったらいいか分からなかったら建築なんかやめちまえ!」って言った。(笑)そしたら、次にものすごくいいのを持ってきた。「あ、すごいな」って思った印象があるんですね。

大西;私その話10回位伺いました。(笑)

竹山;「平田」っていったらそれを思い出す。

平田;怒られっぱなしだったんですね、あのころは。(笑)

松岡;僕は理系で絵も好きだったので、親が納得してくれるところで、建築を選びました。建築を永く設計していきたいな、自分の思い通りにデザインしたいなと思ったのは、竹山先生が見ていらっしゃった最初の課題でしたね。「ミースの作品を調べて、それを元に自分なりのコンポジションを作ろう」という課題でした。そこですごく意外な褒められ方をした覚えがあるんですね。まあ実際に評価されていたどうかはちょっと自信がないんですが。「そこを褒めるの」と意外さがあって。記憶しているのは、建物の方でなく、木の位置ひとつひとつが、視線との関係でいいとか、プールの水の量と部屋の気積が同じになるといいとか、なかなか一年生の僕には分からない、建築なりの見方というか、建築の「ことば」があるということがわかりました。意表をついた面白さや、これまで考えつかなかった発想が、工学的な集まりである建物をつくる根拠になりえるということに、僕なりに目覚めまして。

そこで設計をしていこうと、できれば自分でやっていきたいと思いました。そのためにどうすればいいかということを考えたんです。僕は堕落的なので、できれば引っ張ってもらえるような、頑張っている人がいる環境に身をおくことがよいかと…

竹山;「堕落的」って「怠け者」っていう意味?

松岡;()そうですね。比較的そういうタイプなので。

      やる気はちょっとだけ()持続するので、そういう時に、これからしたいことを段取って、あとは自動的に周りにのまれて必死になれる場所にいようと考えました。

自分で選んだ環境に行って、また別の望んだ環境に移って、を転々と繰り返すうちに、自分なりの小さな遍歴が建築から抜けだせないような状態をつくってしまった感じです。

布野;あなたも成績がよかったという印象がある。偏差値的成績なんか建築とは関係ないし、滅多に気にしないんだけど、なんかそういう記憶がある。どんな設計したかはあんまり覚えてないかな。

竹山;院試の成績は平田も高かったね。

平田;一年目おちてますからね()。リベンジで行ったんで。

布野;それで三年かかってるの。勉強しなかったの。

平田;しなかったから、もー勉強して…

松岡;難しいですよね院試()

布野;日本の建築学科で一番難しい()

百田;僕が建築学科に入ったのは、もともと工作好きで、好きなことを一生続けられるぐらいの認識で建築学科に入ったんです。

はじめの本格的な課題がミースのバルセロナパビリオンだったんですけど、そのときに衝撃を受けて、まず高松先生から「建築は美しくあらなけばならない」と教わりました。模型を作っていくんですけども、みんな「ダメだ」「ダメだ」って返されて。()図面も手で触ると「手で触るな、汚れる、売れなくなるだろ」って教わって。()それまで図面や模型は、ものを作るための設計図としてしか考えていなかったんですけど、それ自体が作品でもあって、建築家はそれを通して夢を語り人の心を掴むんだということを教わりました。その課題が終わって「建築家になりたいな」と思ったんです。でも、まだ自分がなれるのかどうかという悩みはずっとあって。

それが大学院の一回生のときに、伊東豊雄さんのワークショップに参加して、フォリーを実際に建てるというチャンスを頂いて、その体験を通して「自分はもう建築家になるぞ」と決意できたのだと思います。

大西;私が、一生建築をやっていくんだと強く思ったのはやはり卒業設計です。初めて一人ではなくて、沢山のお手伝いの方と一緒に、大勢で一つの作品を作るというときに、皆で一つの大きな夢を見ているような感覚があってとても感動しました。その感動というのは、「一生建築をやって行きたい」という気持ちにつながったような気がしています。

  それに、大学に入ってたくさんの建築家の方々と出会うことによって、その言葉や、立ち居振る舞いに魅了された、というのもきっかけのひとつだと思います。

どの方もそれぞれ違うのですけれど、建築家の語る「夢」っていうものに周りの皆が巻き込まれていく強さを、ものすごく「かっこいいなあ!」と感じました。

 

言葉が建築をつくる

大西:私が高松先生に頂いた言葉で強く印象に残っているものがあります。私は大学に入学した時は、どちらかというと、過去の建築に目が向いていました。例えばヨーロッパのカテドラルのように、何百年という時間をかけて、沢山の人が沢山の思いとお金をつぎ込んで一つの建築をつくり上げるということって、もはや出来ないのかもしれないと思っていました。それで、「そうした今、あれだけの感動を人に与えられる建築を生み出すことは、可能なのでしょうか」という質問を先生に投げかけたら、先生が「可能だ」って即座にお答えになって、「たとえ今であっても、一つの図面にかける建築家の想いというのは無限に可能なんだ」おっしゃって。すごく感動して、今でも覚えています。

高松;滅多なこと言えんな。

(一同笑)

竹山;自分が忘れてる言葉を相手は覚えてますから。

大西;あと、私は四年生のときに竹山研に入ってからがらりと考え方が変わって、建築がすごく楽しくなったんです。それも竹山先生と打ち上げに行ったときに「僕は建築は感性でしか理解できないってもう諦めてるんだ」ということをおしゃって、その時には全然理解できなかったんですが。その後に竹山研究室のスタジオ課題で「ポエジー」がテーマになって、その過程で何故だかどんどん思考が自由になっていくのを感じました。まず、自分が美しいと感じる空間を持つということの大切さを教わった気がします。

竹山;それでもう建築家になろうと決意したわけね。

高松;やっぱりめったな事はいえないな。()

布野;言葉で建築家をつくるというのはすごいことだねえ。でも、結局、建築に対して言葉には力がある、ないといけないということだよね。

 

初期のSDレビュー

竹山;どうしてSDレビューを目指したか、まず、SDレビューがはじまった時の事を一番よくご存知の布野さんに。

布野;企画自体に関わった訳ではないですよ。あんまり覚えてないなあ。元倉真琴さんが声かけてくれたのかなあ。毛色の変わったやつも入れておこうということだったんじゃないの。槇先生とかSD編集部が、単なるアイディアコンペではなくて、製図台にちゃんと乗ったものを評価しようと、そういう場が必要だという発想をしたんじゃないかと思います。結果的にSDレビューは、コンセプトやアイディアをそのままリアライズする努力をプッシュする、そういう風に機能したんじゃないかと思いますね。まだ本格デビューしていない若手をちゃんと持ち上げるということに、かなり力になってきた。

既存のメディアだと、たとえば『新建築』なら『新建築』のレベルというか基準というか、載るのにはコードがあった。高松さんだって当時結構バリアがあった。『建築文化』でもそう。建築雑誌が建築学会賞の候補作を選んでいるといったそんなえらそうなところがあった。今でもあるのかもしれないけど。だから具体的に製図台に載っていれば出せるというのは新鮮だったんじゃない。

何で高松さんと竹山さんはSDレビューに出そうと思ったの?それが聞きたい。

高松:いちばん魅力的だったのは実現する建築のコンペティションということだった。それまではそんな機会は全く無かった。建築家はやはり実際に建ててこそ建築家だと思っていたから。

竹山:僕は文章を書いて最初に知られていましたから、一応ちゃんと建築をつくるんだと言うことを知ってもらえる。それから審査員の顔ぶれを見て、これは信頼できると思ったことですね。

高松:我々の上の世代には安藤さん世代、その上は原さん、磯崎さん世代というふうに頭上に厚い雲が垂れ込めている感じがあった。その雲に風穴を空けるという意味では、非常に面白いチャンスだと思った。2,3回続けるうちに入選者の色合いでSDレビューの質が見え始めたところがある。

竹山:どちらかというと、若手の登竜門の方に振れてきましたね。

 

若手ジェネレーションのSDレビュー

竹山:では若手の方々に、SDレビューにどうして出そうと思ったかと、今どんな状態かということをちょっと教えてほしい。それと、通って思ったことですね。

平田:2004年にはじめてSDレビューに通りました。大学を出て伊東事務所に入って、三年ぐらいで辞めようと思っていたんですけど、全部で8年間もいました。最終的には2005年に独立しましたから。

プロジェクトのタームが長くなって、どうしても辞める時期が来ない。2000年を越えた当たりから、自分でこういうことがやりたいということが、だんだんとはっきりし始め、沸々と溜まってきた感があって。プロジェクトを担当する中でも結構自分の考えをぶつけたりすることができる場所ではあったんですけど、そうは言ってもやっぱりちがうなあと。そういう気持ちをなんとか持っていく場所が欲しいなあと思いがあったのもひとつです。またひとつは、学生時代から知り合いだった藤本荘介とかが入選していたので。

布野:学生時代から知り合いだったの?このあいだ滋賀県立大学の「談話室」というサロンに来てくれて、仕事を見せてもらったけど、面白いことを考えてると思ったよ。

平田:友達のツテで会ったりとかして、僕が大学院の時に知り合ったんです。同期ですしね。だから伊東事務所に入った頃は、結構飲んでましたね。それで割と注目されだして、自分たちが考えていることを独り占めしているなって感じもあったし、悔しい思いをしていたので、これはもう出すしかないだろうという気持ちが盛り上がってきて、2004年にはじめて出しました。

それは両親の家で、ほとんど無理矢理、押し売り系の設計でやる感じで、自分の良いと思った設計を押し売りしたんですけど、結局実現には至ってはいない。

竹山:でもそれは一応、本当に実現するという前提はあったんでしょ?

平田:はい、そうです。そうじゃないと何となくおもしろくないなと思ったので。割とローコストでなんとかできるように、コンクリートだけでシンプルにつくるということを考えたんです。

当時から今も考え続けていることがテーマになっています。連続しているけど見通せない空間、というのによって遮断と連続の間をつくる、という。要するに、白と黒の間にあるグレーの領域を空間のひずみによってつくるということです。このときはそれを褶曲したようなワンルームみたいなもので作っていこうとしました。そういう普段考えていることをやりました。

見通せなさということに関しては、当時伊東事務所の中で主張はしたんですけども、なかなかその部分に関しては共感を得られませんでした。やっぱり自分で本当に作るしかなかなか理解されないなあと思って、そういう鬱積みたいなものを吐き出す感じで、まだ事務所にいたのに出してしまいました。

その前に一回、安中環境フォーラムというコンペに、似たようなアイディアを公共建築にしたやつを2003年に出してたんです。安中の時は自分の担当したプロジェクトがまだ終わらないのに出して、えらい怒られたんですが。(笑)

竹山:伊東さんに?

平田:はい。()まあSDレビューのときはもう2回目だったので伊東さんも慣れていて、そんなに怒られなかったというか、案を見せろと言われて、面白いじゃないかみたいな感じで、案外と平和に話しをできたんですけど、まあ、そんなのが、最初でした。

竹山:通ったらやっぱ自信になった?

平田:そうですね。やっぱり強烈にうれしかったですね。

コンペに通ったときも嬉しかったけれど、SDレビューというのはみんなが見ているという感じを持っていて。僕が学生の頃にもSDレビューは毎年楽しみなもので、普段雑誌に載っているプロジェクトよりもわくわくさせるモノがあるというか、こんな考え方もあるんだみたいなのが出てて。

布野:ちょっとSDレビューの質がSDの歴史の中で違ってきてるんじゃない?『SD』はなくなったのに、SDレビューだけは続けてる。SDレビューは建築表現の場、メディアの機能を担っているんじゃないかな。

平田:とはいえ、僕が出したときにはもうすでにその実現する確率というのは非常に低くて、明らかにこれはつくることを考えてないだろうみたいなのも結構あって、あんまりそっちに振れちゃうとおもしろくないよなっていうことを思っていました。

とは言いつつ自分のは、半分押し売りのようなモノを出してはいたんですけども、ただ、やっぱり建たないといけないという感じというか、これは建つだろうという感覚で作るというのは自分に課してた。そうじゃないとおもしろくないと。

竹山:で、もう一回通ってるよね。

平田:はい。2006年に。

竹山:そのときの審査員は?

布野:伊東・元倉・隈・平倉、と資料にはあるよ。

平田:そのときはもう伊東事務所出てたので、伊東さん審査員だけど出しちゃおう思ってだしました。あとで聞いたら、結構ぎりぎりだったぞおまえ、とかって言われて。(一同笑)

平田:「ええっ?」てなって。2回目は結構自信持って出していたので。

高松:これは建った?

平田:これも建ってないです。この構造は、合板で曲げて、お互いに保たせながら作るような屋根の建築というふうに設計しました。軽井沢の別荘です。

 

屋根のシンボリズム

高松:勾配屋根はおもしろいかもしれん。

平田:軽井沢は勾配屋根を作らなきゃ景観条例上いけないという話があったので、屋根っていうのは結構おもしろいテーマだなと思って、ポンと乗っけたような屋根ではなくて、屋根だけで出来ているような建築をつくったらどうだろうというというところからはじめました。

竹山:なるほど、面白いですね。というのも、ここに『1930年代の建築と文化』という本があります。僕が学生の時に出た本ですけど、ここで、1920年代というのは近代建築のアバンギャルドがどんどん新しい試みをして、30年代というのはファシズムとナチズムが出て、それの揺り戻しでインターナショナリズムからナショナリズムへというような流れがあって、そのときの日本やドイツの建築状況が書かれている。要するに、「屋根をかけるということはインターナショナリズムに対する裏切りである」「屋根をかけるということを言っただけでファシズムである」と。

僕らの世代ではすでにファシズム建築云々という感覚からは距離があった。僕もそういうことを知らずに、屋根をドーンとかけてたり、ドドドドと柱を並べて、屋根をかけてかっこいいじゃないかって思ったわけ。ところがこういう本を読むと、ああなるほどちょっと上の世代は、いったいどんなふうに僕らのことを見ていたんだろう、と思うわけです。一般的にいうと、屋根をかけるということが地域性とか伝統とかいうようなものに結びつくわけだから。だからこそ僕よりさらに20年くらい下の人たちが「屋根っておもしろいテーマだな」と言って、自由に作っているのがものすごくおもしろいなと思うんです。

布野:『1930年代の建築と文化』は僕がまとめたんだけど、磯崎さんの『つくばセンタービル』や大江宏の『国立能楽堂』ができて、「国家と様式」の問題を再び問うという雰囲気が当時あった。具体的には「帝冠(併合)様式」の問題だよね。躯体はRCで屋根は神社仏閣でいい、という。屋根によって、国家とか地域とか民族を表現するという、これは世界中にある。ポストモダンというよりキッチュだよね。屋根自身のシンボリズムはすごい力を持っている。だからナショナリズムとか地域性とかに結びつく。これは過去の話ではなくて、つねに問われるテーマだと思う。現在も景観法、景観問題をめぐって同じ位相の問題がある。勾配屋根をかけなさい、というコードがなにも考えずに決められてしまう。近代建築は屋根を否定した(フラットルーフ)というのも単純だけど、それがトラウマになっている世代っていうのは絶対ある。

要するに屋根の問題と、瓦の問題です。土と血の建築というのは死んでもやりたくないなという。谷口吉生さんなんて絶対そうだし、磯崎さんも身体的にはそうでしょう。それは制度と表現の問題といってもいい。

竹山:屋根を付けるにしても、例えばアルド・ロッシとか高松さんとかは切り妻でちょっと原型的なものを志向するとかして、過去のいわゆる意味論的な読みから来るであろう批判をかわしていたんですよね。そういう時代があったあと、今や全く「屋根って面白いテーマだ」と言えるのがとても面白く、楽しい。

高松:とても自由だね。

竹山:ホントとても自由ですよね。

布野:でも、それは別に全然問題ないんじゃないの?要するに、木造で勾配屋根といえば当たり前の話で、ヴァナキュラーな民家はずっとそういう解決をしてきた。問題は、それを規定とする、制度とするかどうかという一点です。景観法を根拠に、勾配屋根にしなさいという規定をつくるとしたら景観ファシズムだ。そういうステレオタイプしかないっていうのはとんでもない。

平田:屋根でもう一個今やっているのがあります。今度横浜トリエンナーレでパビリオンとして実現するんですけど。屋根って上から見ると結構山脈に似ているんだけれども、何でかというと、山脈は「水が流れることによってできる形」で、屋根は、「水を流すために作る形」なので、同じ原理を反対側からやっているんだという仮説を立てて、屋根というものがかなり自然に近いものだと見なしてみたんです。そうすると、先ほどのシンボリズムだとか意味論的な話からは、ちょっとずれた位相から見れるんじゃないかと思ったんです。

水の流れるシステムとしての自然という観点を持ち込むことによって新しい居住環境をつくろうというプロジェクトなんです。

竹山:これ(資料を見ながら)、ざらざらっとした感じがするけど、外の材料は何なの?

平田:まだ模型の段階だったので、フェルトみたいなので作って、そこから逆に素材を想像していくようなこともあります。一応アスファルトシングルを想定していましたが、FRPとか、もっと違う素材でヌメっとやっちゃうっていうのもあるだろうなと思っていました。

竹山:布野さんや高松さん達の世代まではこういうきちんと歴史的なことをおさえて、それに対して批評なり、解答なりで建築をつくっていたんだと思います。僕らになるとそれが全然なかったんだけど、後になってみて、なるほどそうかと思うこともある。で、君らぐらいになると全く知らないよね。関係ない。だからそれがすごい自由だとなと思う。もうひとつは最近の藤森建築の影響、毛深い建築、に対して、これもまた全然抵抗がない。というのがおもしろいなあ。

 

京大の設計教育改革

平田:僕は入学したときはポストモダン真っ最中で、1990年なんですけど、結構激動だったんですよね。

布野:教える側はね、完全に自信を失うというか、方針を失うっていうかね。何を教えていいかわからなくなった。ポストモダンは何やってもいい、と雰囲気で。僕が京大に行ったときには、でも、ずいぶん古典的だったなあ。ケント紙にインキングを義務づけてた。愕然としたかなあ。僕は、これでも、東洋大で、設計教えてたから、かなり落差を感じましたね。プレゼンテーションのテクニックも必要だ、とちょっとあせった。高松さんが非常勤で二年くらい一緒にやったよね、だいたい、講評もちゃんとやってなかったよね。

高松:やってなかった。

布野:竹山さんが半年遅れで来たんだけど、講評をやって、ビアパーティもやるとかいうことをはじめた。これは芦原義信さんが東大でやっていたアメリカ流のジュリーをまねしたんだけどね。私なんかそういうもんだと思って育ったから、東洋大学でもそうだった。

竹山:そう、最初。ともかく平田たちが僕らが行って最初から教育した最初の学年なんだ。

平田:そうですね。だから最初からそういものだと思ってたんですけど、そうじゃなかったんですね。

竹山:その前の年までは違ってた。

布野:私は別に建築家じゃないけど、東洋大で山本理顕さんとか毛綱毅曠さんとか、とかいろんな建築家と組んで設計教育やっていた経験があった。京大に呼ばれて行って、設計教育しに来たんじゃないと思いながら、「これは俺が教えた方がいい」って、正直思った()

 

リサーチとダイヤグラムと建築と

竹山:松岡君がSDレビューに出そうと思った経緯を聞かせてくれる?

松岡:SDレビューは、東大の大学院に入って、急にその存在が身近になりました。藤井・曲渕研の先輩方に元気な人たちがいっぱいいて、SDレビューの締め切りが近くなるとそわそわし出すという感じで、私も手伝ったりしました。また本郷に行くと藤本壮介さんが製図室で模型をコツコツと作ってるんですね、SDレビューのために。SDレビューっていう存在が東大の中ではっきり確立してたのを覚えてます。

ただそのころは自らの案を出す機会のないまま、コロンビア大学大学院へ留学をして、そこでコンピューター中心のペーパーレスの建築教育を受けました。その流れとして、UN Studioに就職したんですが、多少の落胆もありました。というのは、リサーチをしてそれをダイアグラム化すること、そしてダイアグラムを建築化すること、この2つのプロセスがいかにエレガントかということがコロンビアの大目標だったんですが、実際に行ってみるとUN Studioはそうでなく、もう少しパフォーマティブなダイアグラムをつくっていました。

竹山:パフォーマティブなダイアグラムってどういうこと?

松岡:つまり、メビウスの輪みたいな、象徴性の高いダイアグラムです。

ある刺激的なリサーチが、明快なルールで、3Dのダイアグラムになり、その微妙なサーフェイスなりボリュームをそのまま建築にしちゃいましたっていうのは、プロセスの連続性は高いんですけれども、それが本当に建築になっちゃっていいのかという疑問がまずあります。

そこにはダイアグラムから建築へ変換するための論理的なルールが必要だと思うんですが、3DCGのプログラムを研究し、難解なスクリプトを駆使し、ようやくダイアグラムを変換して、どうにか人の住める建築ができればラッキーだというのが、大学でできる建築の精一杯のレベルでした。この場合、ダイアグラムは中間的な存在なのでそれ自体のクオリティはあまり重要ではありませんでした。それに対してUN Studioでは面白いダイアグラムを作っているんですが、それを建築につなげるという奇跡的な難業は放棄していて、ダイアグラムとしてまず完成度の高いものをつくり、建築はそれとは別の、多くのことばを重ねて根拠づけをしていました。

そもそも、ダイアグラムにどこまで設計プロセス上の特別な役割を負わせるかということが、この二者の違いなんですが、でもやっぱり両者ともダイアグラムは外せないという感じです。

一方、MVRDVの建築の根拠付けは、3つのステップの精度ではなく、イメージを伝えるための精度が重要で、リサーチだろうが、ダイアグラムだろうが、パースだろうが、「伝える」ためにより精度の高いものが一つあればそれでよいという感じでした。ただ、もちろん伝えるための精度には、より強いアイディアを出せるかということが必要とされました。

MVRDVを経験し、僕がそれまでやってきたことと違うやり方に接したことで、リサーチ/ダイアグラム/建築の呪縛から解かれた感覚でした。

なぜSDレビューに出そうとしたのかということについては、そういった心のゆとりもあったのですが、今後どうしようかということで悩んでいたということもあります。SDレビューは日本のスタンダードなんだというふうに意識していて、そこに出すことが、UNMVの後の動き方に決着をつけてくれるんじゃないかという予感がありました。実はMVの後、別の海外の事務所へ行くことが決まっていて、このまま海外で経験を積むべきなのかを迷いつつ、少し日本の状況から離れてしまったことに不安を感じて、オランダからSDレビューに応募しました。

MVの後、最終的には日本に戻ることに決めて、SANAAに入りました。そこでも、更にまだ異質な場所があったんです。つまり、もしSDレビューが日本のスタンダードだとすれば、日本にもやっぱり異常な場所がいろいろあって、海外とか国内とか関係ないんだなぁって。

竹山:SANAAでは、どんなふうに違ったの?

松岡:今僕にはあたりまえのことなんですが、形に関しては貪欲にやりきるということです。形自体や、形のつくりかたに対して、好みや関心から抜け出して、純粋に形だけをリサーチするっていうリサーチの仕方があるということです。条件をリサーチするとか周囲をリサーチするっていうのでなく、形を出し尽くして、さらに評価し尽くすっていうマニアックな世界があって、それはMVRDVで自由に形態を出すってやり方とはまた別です。西沢さん、妹島さんのタフなルールのもとで、際限なく、出しつくさなくちゃいけないという状況が完成されている「場所」が楽しかったなと思います。

布野:滋賀県大行って4年目ですけど、さっきも言ったけど、藤本壮介さんとか、ヨコミゾマコトさんとか学生が呼ぶんですけど、みんな来てくれる。つい最近西沢立衛さんがきて、そのとき「西沢さんは理論肌じゃないから」っていったら怒ってね、「僕ほど理論派なのはいません!」ってムキになってたな。(笑)

 

抽象とヴァナキュラーを結ぶ技術

竹山:百田君と大西さんはどうでしたか?

大西:すごくうれしかったです。初めて実際に建つ建築を設計出来る機会でしたので、ぜひ出したいと思いました。お施主さんはもともと父の知り合いで、私も幼い頃から存じ上げていた方なんですが、とても不安だったんじゃないかと思うんです。何しろ私たちは本当に経験不足で、何もかもが初めてですから。それが、SDレビューに通った時は、お施主さんもとても驚いて、一緒に喜んで下さって。もう後にはひけないねって感じになってきたと思います。

百田:(作品を見せながら)敷地は軽井沢で、森に生えている木や、そこに住んでいる動物のように、森に対して自然と佇む建築をつくりたいと思いました。森の中にフクロウがうずくまってるようなイメージで。

竹山:フクロウ?

大西:竹山先生にお見せしたときはもっとフクロウっぽくなかったですか。先生、すごく驚かれて ()

竹山:こんなだったね。大西さんもついにモダニズムから藤森系になったかと()

百田:それをもうちょっと建築的に抽象化した形にしていこうとスタディして、ピラミッドの各面が内にたわんだ形の屋根になりました。外から見ると毛皮のような、ヴァナキュラーな外観なんですけど、屋根の中は動物の胎内のような白い抽象的な空間になっています。床には富士山のような盛り上がりがあって、頂上部には開口があいています。それが上の空間と下の空間をつなぐ井戸のような役割をしていて、屋根から入ってきた自然光をやわらかく下の空間に落としています。

構造は、4枚の単板の鉄板で成立していて、コンセプトは、自重でたわむ鉄板が一枚だとその形を保持できないんですけど、4枚が互いに支え合うと自立して安定した形になります。これが構造の解析ですね。

施工では、造船の技術を持つ鉄骨屋さんが協力して下さることになっています。躯体は鉄板でできていて同時に止水も出来るので、外装には仕上げとして木を貼って、それはお寺の茅葺き屋根にコケがはえていくように、自然と朽ちていってもいいなと考えています。

 

先に形があるんじゃなくて、形が出てくる、生成する

竹山:高松さんは一連の若手の作品を見てどうですか?

高松:我々がやってきた事とはまったく無関係な世界だな。

布野:だいぶ違うね。

竹山:ぜんっぜん違う。

高松:国籍も人種もプラネットも違うって感じだな。

ただ、あるボーダーには入っていそうな感じはする。それをどんなふうに表現していいのかわからないけど。

竹山:全然違うと思うのは、これまでのモダニズムの大きな流れのどこを切るのか、っていうことなんです。最終的にメインストリームとなった合理主義的な建築じゃなく、そのとき置き去りにされた表現主義あたりを切っている。

   ポストモダンっていうのはある表層的な意味の操作だったと思うんですが、モダニズムって何だかんだいいながら機械の美学、部分と全体を組み合わせるものでしたが、今の世代はコンピュータの進化のせいもあるかもしれないですけど、もう全部一体ですよね。特に松岡君がさっき言ったダイアグラムから建築にどう導くかも含めて、みんな微妙に違うんだけど、共通してるのは部分と全体の関係なんていうことではなく、ともかくある連続性があって、その中でどんな風に連続に揺らぎを与えるかだけ、基本的には一体。

   多分高松さんとか僕はまだ、コンポジションの世代な感じがします。部分を構成して全体にどういたるか、そして全体が部分にどう影響を与えるかっていうのが重要で。原先生の有名な論文に『部分と全体の関係』ってのがあってそういうのの呪縛にとらわれてるのかもしれない。

   平田君の場合は空間現象的だなと思います。そこに人間が立ったときに立ち位置によってどういうふうに見え隠れするのか、ってことに関心がある。

   松岡君の場合はすごく方法的。どちらかというと形を出すことにためらいがある。だからダイアグラムとかリサーチとか、そういったことからどのように、論理的に建築を導けるかってことに関心がある気がします。ただ作品を見てると同じように連続的な感覚が最初からある。

   百田君とか大西さんのやつは、物性的だよね。物にすごく寄って、物からそのまま素朴に形にいく。あるいは形をポンってだして。フクロウみたいなとか形に対してすごく素朴に信頼している感じがする。

そういう違いはあるけれども、たぶん部分と全体とかエレメントの構成とかそういうような感覚が全然ないな、と。そこが新しい。

高松:僕は、ある種の貧しさのようなものを感じる。それも強い貧しさというか、深い貧しさというか。おそらく意味を呼び寄せようとしているのではなく、無から意味を開発しようとしているからだろう。そのために全てを捨てるプロセスを辿るが故に、かがやかしき貧しさに到達しているな。僕が「貧しさ」という言葉しか使えないのは、竹山さんが言うように、我々が囚われてきた思考回路に起因しているけれども。本当はもっと適切な言葉があるのかも知れない。

平田:生まれてしまった意味を操作しようっていうのがポストモダンだとすると、僕らの世代は、その意味が生まれるところに戻ってその形を考えるというか、そういうところに興味があるのかなと思いました。

例えば、もともとどういうところから屋根のあの形がでてきて独特の意味性を獲得したのかは、もちろんあるフィクションとしてしかとらえようがないけれど、フィクションがある原点を指し示す可能性はあるわけです。そうすると屋根的なものが生まれてきた原点のところから形が生成するかのような状況を想定できる。

先に形があるんじゃなくて、形が出てくる、生成する、そういうところに我々の興味があるのかなと。

高松:とりあえず屋根があり、そこから屋根性というものを捨て去る。それはひとつの意味の生成へのプロセスであり、屋根は単にそのきっかけに過ぎない。我々は逆にひたすら意味を埋設しようとしていたように思う。

竹山:僕は屋根とか床とか壁とかっていうような言い方をしないで建築を構成したいと思ってきたんですよ。水平なものをたまたま床や屋根、垂直なものを壁と呼ぶわけだけれど、その壁が斜めだったり、斜めのものがどこまで行ったら壁なのか屋根なのか、むしろそういったものをひっくるめて全部スクリーンと見なして建築をつくりたいということをやってきた。

   それでも今みんなの作品を見て思ったのは、僕はそうはいってもやはり屋根とか壁とか柱とかいう体系はあって、これに反抗するという構えが残る。だから、平田の言っている屋根と僕らの言っている屋根は違うんだ。とにかく傾いている斜面のことを屋根と呼んでみてるだけなんだよね。山脈とも言ってみたり。それは水が流れる場所なんだ、で、じゃあこれ素材はなんなの?って聞くとなんでもいいわけだ。そこがね、違うなって。そうか、そこまでいっちゃうともっと抜けがすごいなって思う。

高松:意味の開発って言葉を使ったけれど、むしろ意味の生成過程と言うほうがいいかもしれない。それは我々年寄りには非常に面白い。我々は既に意味にまみれてしまっているから()

 

社会性なリアリティと身体感覚

布野:というか、要するに、形の意味の生成とかいう次元ではなくて、社会的なひとつの解答ということが問題だと思う。ヨコミゾマコトが鉄板を構造体として使う。狭小間口の敷地に新たな可能性が生まれてる。音だとかなんだとかいろいろ問題があるかもしれないけれど、社会的にちょっとヒットしてる感じがあるわけです。藤本壮介も木造を新たに使うシステムつくって新しい空間つくる試みに見える。われわれの時代とそういう方向はあんま変わんないんではないかと思う。

   要するに、次の段階が問題だということ。それが社会的にある種のインパクトを与えたときに、若い世代も変わっていくだろうなって感じはあります。言ってる意味わかる?()

   ある種のプロトタイプ、例えばステレオタイプになってしまっている都市型住宅みたいなのに対して、別の解答になるものは何か、それを提示する役割が建築家にはあると思う。最初は特異な作品でも、それが応用されていく。

   例えば西沢立衛の試みでいうと、敷地にパラパラってキューブみたいなのを置いて住宅を作るようなやり方ってのは可能性がある。そういうことが問われてくる段階があるんじゃないかと思う。

高松:それはおそらく先程から話している言語化と関連している。言語化と認識したとたんに社会性が問題となるから、そこからが勝負だと思う

竹山:塚本由靖さんから「伊東さんたちの時代と我々の時代では身体性が違う」って言われて、わかる気がした。

今の西沢立衛のポコポコした集合住宅、あれなんかも身体性が違うって考えないと成立しない。例えばプライバシーなんかについての身体性が変わっていないと成立しないですね。もう丸見えですし。あれも鉄板を使っていて、坪170万もするらしい。そういうものをつくらせてくれる施主がいて、喜んで住んでくれる人たちがいて。それが僕にとっての社会的関心です。

布野:地価との見合いとか、スペースとの見合いのなかで、どういう解答があるか、建築家の創意工夫というか、キラメキを見たい。

竹山:昔は美容院って見えては困るプログラムだったんだけど、今は見えても構わないっていう身体性が育っている。パブリックとプライベートのあわいを曖昧にする身体というのかな。

     使っている意味合いは違うけど、近代建築が求めた透明性っていうのを、いろんな意味で読み変えながら、透明性とか、開いていくとか、そういったことが一種の倫理として出てきた

この前、大西さんと話していて感じたんだけど、「開いていく」ってことが基本的に善なんですね。これは閉じてしまうから開いていくことが善だっていうある倫理がこの十数年つくられてきた。これは伊東さんの影響があるのかもしれない。

たぶん僕が学生の時で高松さんが活躍し始めていた頃は、開くということに対して、すごく慎重な姿勢があったと思います。社会はもっと様々な危険とか対比に満ちていたし、開かないことが自由をつくることだっていう感じだった。そこから自閉症っていう言葉も出た。閉じることが自由を得ることだった。それが開くっていうことに無条件に信頼を寄せる世代が出て、「ああ日本の社会っていうのはとても信頼のおけるものになってきたんだな」と思っていたら、ここしばらく、今の2、3回生を指導していると、全く逆で、全然窓がなかったり、すべて地下だったり、洞窟だったりして、「なんで?光は?」って聞くと「いりません」っていう答えが返ってくる。「いや、光がなかったら見えないじゃない」って言うと「暗闇がつくりたいんです」って。洞窟とか暗闇とか完全に閉じた空間がザーっと出てきて。これはまた違った感覚が生み出されつつある。開く、開くとか言ってたと思ったら最新世代はこれはやや洞窟なんだね。ここでまたちょっと線が引かれている。

自由に構成しながら、ダイヤグラムの向こうに建築の自由を生み出す、新しい形を生み出すっていう平田・松岡世代に対して、9年ぐらい下の大西・百田世代は、ひょっとすると次につながる感覚を共有していて、開く、開くと先輩たちがみんな言って、それが善だと言っていて、本人もそう思っていると言うけれども、実は開いていない建築を心のどこかで求めているかもしれない。その下の世代はもっとあからさま。

布野:身体感覚の世代による違いとかそれはそれでいい、もちろん形の生成の場面で彼らの身体感覚によるところは相当大きいと思う。僕が言いたいのは、要するにちょっと外せばいい、ということ。例えば、鉄板なんか絶対使えっこないと思ってたのに、使ってみるとある種、別の解答が出てくる、とか。塀取っ払ってみたら、周りから見えてもいいとか条件をひとつ外したら別の解答が出る、って意味であれば、別に身体感覚や世代の違いとかって説明をしなくても、今の社会的なリアリティのなかで本気で考えたときにそういう解答が出てくる。凡庸な建築家はサボってる、といってもいい。意欲的な建築家だけが新たな可能性を追求する。その試みと解答が自分の中で閉じているかどうか、それが問われますよ、ということです。それが一般化可能で正解であれば、仕事もバンバン来る。

平田:桝屋本店の仕事のとき、社長さんが言っていたのは「お店に入ってバッと全部を見渡せるような店ではものは売れない。少し入ってあるアイコンが見えて、また少し入ってまた別のものが見えてっていうような世界ではじめて人はものを買うんだ」という確信に満ちた発言で、人間を結構動物のように見ているなと思ったんです。その話と、自分がグレーと言っている、見通せない連続体の話って実はすごく結びつくんじゃないかと思います。要するに、大げさに言うとエピステーメの問題じゃないかと思ったんです。どういう空間を前提としてものを考えているかっていう、認識論的布置の問題に重なってくるような気がしたんですね。なので、それを変えていって、ものを買うとかってことにも結びついてくる、と。

理屈としてはそういう理屈で攻めたら、わりと感覚的にわかってくれて、それはすごく勇気づけてくれました。結構ものが売れるようになったと施主さんも言ってくれていて。現代的な空間に対する見方というか、ものの考え方に通じる建築的思考であれば、わりとストレートに通じてしまう。そういう社会に対する突きつけ方ってあるんじゃないかと僕は思っています。

布野:それはそこですよ。

高松:まあ、そこだけのような気もするけど。

平田:もうひとつ、言語に関してですけど、やっぱり妹島さんの影響が大きいのかもしれないです。二川さんが昔、たぶん高松さんが対談されたときに、妹島さんのことを巫女っていってて、それが面白いなと。あれを見たときに言葉を発する原点に向かって言語性を持っているなという感じがしたんです。言葉が生まれてしまってからそれをどう捉えるかっていう理論もあるけど、そういう言語を発する原点の方での思考での理論もある気がして。SANAAの仕事は言葉には濾過されていないけれども、作品そのものの方は非常に緻密で理論的だと感じるときがあって。

布野:西沢さんに「理論は自分だということ」って言ったら、「いや、それは妹島がえらい」とかなんとかだったけど。

平田:でも西沢さんが理論的で、妹島さんが理論的じゃないとは思わなくて、妹島さんもすごく理論的なんじゃないかな、という気はして。そういう見方ができると、言語と建築の関係ってすごく新しい関係ができる気はしています。

   個人的には藤森建築には結構違和感があって。というのも別に藤森さんがどうとかっていうのではなくて、あれを両手離しでいいって言える感覚が僕にはちょっとなくて。ただ、藤森さんがやっていることに人が惹きつけているというのは事実だし、惹きつけられる部分はあるんだけど。どうやって、そういった意味での魅力をもうちょっと別の筋で会得できるかはちゃんとやらないといけないんだろうなと。そういう魅力というか通じ具合というのはさっき言ってた社会性なのかなと。   

 

均質空間批判

竹山:平田君がやった商業施設もそうだし、さっき語ったことって一種の均質空間批判になっているんだよね。でもそういう言葉は使わない。僕らのジェネレーションは原広司の理論的枠組みに大きく囚われている。モダニズムというのは均質空間であってそこからどう抜けるのか。でも君たちは日常的な風景として、ごく自然に不均質な空間ができるような身体性をもっているんだなっていう感じなんだ

平田:大西さんたちはそれぐらい自由だと思いますよね。でも僕は結構、そういう枠組みから自由ではない、むしろそういう不自由さのほうが面白いとすら思っていてその枠組みで今でも考えようとし続けている部分がある。

原さんは最近、均質空間批判という言い方をされなくなったけれども、離散的という話はまさにそういうことを言おうとしているんだと思うんですね。結局はそこのところを超えないといけないなという意識は植え付けられていて、いまだにどうやったら突破できるか、っていうことを考えようとしていますね。できないかもしれないけど、そういう枠組みで考えないとあんまりおもしろくないなと。まず均質な空間があって、そのなかにものが置かれるという発想じゃなくて、どうやって自分から生まれていくような方法で外部と内部ができていくか、っていう素朴なことなんです。そのつくり方を、今この時代に説得力のある状態にまで高められれば、意外に道は開けるかもしれない、みたいな根拠のない希望みたいなのをもってやっている感じです。

竹山:伊東さんの呪縛とか影響とかってどう?

平田:もちろん影響はあると思うんですけど、あまり呪縛と感じたことはなくて。僕はイメージとしては断絶をつくる必要はないっていう意識はあります。系統樹的に育っていけば、枝葉が全然別の方向に行って、別の方向に行って…

布野:伊東さんってどんなだった?なんか理論があるの?

平田:理論がありそうな、なさそうな…。ただはっきりはしてますね、判断基準が。そこはある種の暗黙の理論みたいなのがある。もちろんきちんと文章を書かれる人なのですが、みずみずしい身体感覚のようなものを理論化しきろうとしてはいないと思います。

布野:時代との距離感がとにかく敏感な人だと思いますよね。ずっと一線で考えるっていうのは、しかし、大変だ。

高松:原さんが様相という言葉を発見する直前のことだけれど、原さんの設計した伊豆の別荘『夢舞台』で、伊東さん、山本理顕さん、石山修武さん達を含めた5人で徹底して言葉を探索したことがある。原さんの言葉に対する執拗なまでの撞着は、すさまじいものがあった。要するに、たったひとつの言葉がパラダイムシフトを招く。とにかく、その時驚いたのは、伊東さんがそのような作業に徹底して距離を置こうとしていたことだった。つまり言葉との距離を保とうとする。

布野:伊東豊雄論のためにいいヒントをもらった気がする。

竹山:「清浄なる世界風景の誘導」ってやつですね。原先生が伊東さんに送った。高松さんは確か「精神史としての建築」でしたね。

高松:まあそんな言葉をいただきましたね。

竹山:セシル・バルモンドと伊東さんの講演会で伊東さんは、

「内外のあいまいさ、境界を溶かしていくには3つの方法があると思う。1つ目はフラクタル。2つ目は穴を開ける。3つ目が切断。」というようなことを言っていたけれど。

平田:3番目が僕が最後まで納得がいかなかったところなんです。まず四角い領域を決めてしまうという時点で発想が均質空間的というか。空間がまずあって、無限に連続形式があって、それを切る、それはまさに内と外を強く発生させてしまうと思いました。要するに2つのポテンシャルになってしまう、と。そこは僕は明確に超えたいなと思っていて、それで「成長するような」種のような原理を想定することを試みている。

『せんだい』の時なんかもそうなんですけど、キューブがあっても「それはあくまで領域を規定するにすぎない」と。一見説得力があったんですけど、やっぱり均質空間的な前提のなかでの自由のような感じがしたんです。『せんだい』の持っているフレキシビリティってわりとオフィスビルのもっているフレキシビリティに近いというか、均質空間的だと思ったんです。やっぱりそういう枠組みで考えているうちはすごく近代的になってしまうんじゃないかと、僕は思って、それは伊東さんのところにいるときにかなり言ったんですけど、なかなか通用しなくて。

高松:社会言語のなかで創作をしている限り、近代的なるものは決して変えることはできない。そういう意味では伊東さんは思想家であると思う。

平田:一度、OMAと共同で超高層を何本か立てるっていうコンペをやったんですけど。伊東さんはとにかく四角い超高層を立てて、そのなかにチューブを通す。レムはブランクーシの彫刻みたいなタワーで外形をつくってしまう。伊東さんの場合、内部に流動的なチューブが走りながら外形はあくまで切断されたキューブなんです。

竹山:TODSも平田が担当したんだよね?あれも外形はシンプルだよね。

平田:そうですね。TODSも僕は最初もっと立体的な案を考えていたんですよ。そしたらこの敷地でそういうのはスケール的にどうなの、ということになって。結局どんどん表層で考えるしかない状況になってきたんです。ただ表層であっても10m程度のスパンだったんで、開口のあり方が空間を定義づけるという考え方でいいと思ったわけです。それが樹状のシルエットが影絵のように重なるアイデアのきっかけになった。そういう意味では伊東さんのコントロールがかなりきいていたといえますね。伊東さんから立体的な案が出てくることってあまりないんです。むしろこのときのように、面白い案にするにはかなりの困難が想像されるような状況でもフラットな考え方のほうにディレクションが向くことがあります。僕はそういうのにわりと抵抗していましたね。ただ、伊東さんが立体に弱いかっていうと、逆にかなり強い感じがします。立体的な案を説明すると多少複雑でも一瞬で理解されるので。

竹山:チューブと表層ペラペラってのは両方あったんだよね、昔から。チューブの中野本町とヒラヒラのモルフェーム。それをうまく進化、発展させて今日に至ってるなと思った、この間の講演会を聞いて僕は、すばらしいなと思って。

高松:そして戦略が非常に明快で、かつ操作的。自己生成的なるものは皆無。そのあたりが伊東豊雄の魅力であり、同時に次の世代から見ると物足りないのかもしれない。

 

メディアの解体

竹山:伊東さんがそういう風な形で引っ張りもし、反面教師としても立ちはだかることによって弟子が育つんだね。伊東事務所から結構建築家が出てるもんね。

布野:ある時代は菊竹事務所からいっぱい出るとか、篠原スクールから出るとか。今は特に伊東さんのところから優秀な建築家が出てる。

竹山:そうですね、丹下さん・菊竹さん・篠原さん・原さん、それで伊東さん。

布野:メディアの話をすれば、SDレビューなんかはまだ若手の登竜門になっている。でも、それ以前に、建築ジャーナリズムがもう解体しちゃったっていうのが決定的な問題ですね。かろうじて『GA』と『新建築』は相変わらずあるけども。

あるジェネレーションには、何人かスターというかリーディングアーキテクトが絶対にいるわけです。日本を代表するような人が。そういう人が考えていることを発表するメディアがないのは非常に不幸ですね。SDレビューとか「卒業設計日本一決定戦」とかは、そういう場が焦点になっている。学会は別のレベルで、「日本一決定戦はおかしい。特異な、先端的な場だ」と言って、今年から「建築デザイン発表会」ってのをはじめる。

その前は『作品選集』を一生懸命つくっていた。大学の設計教育もますます窮屈になっていて、業績をカウントしないといけないという。ますます建築の分野がポジションを得にくくなる。特に工学部なんかは大変だ。何かメディアがないと、議論をしても、載っけてもらえないし、繋がっていかないよね。なかなか大変だ。

竹山:『CASA BRUTUS』とか、ああいう風な一般誌が、平田君とかを載せていますよね。建築プロパーで建築に愛を感じている人間にとってはちょっと変な取り上げ方かなと思わないでもないけど。()「建築」っていうのを一般の文化につなげていってくれることは歓迎すべきことだと思っているのね。で、そういうメディアに乗っかったスター達になるはずだよね、彼らのジェネレーションからは。僕はむしろいわゆる建築メディアの解体というのは歓迎すべきことじゃないかとちょっと思ってますけどね。

布野:そういう見方もあるけども、一方で竹山さんがそうであるように20代で活字を書くっていうのが必要なんだ。あとに引けなくなるまで考えて書くという。そういう場があってしかるべきです。今は日本建築学会の「建築雑誌」みたいなものが受け皿になってる。それはあまりいいことではない。

高松:それぐらいしかない。

布野:ない、今ないんですよ。もっと色んな場が用意されないといけない。その上で『CASA BRUTUS』もあればと思う。

平田:『10+1』は、こないだなくなっちゃったんですよね。

布野:『10+1』もね。

平田:昔からそうなのかもしれないんですけど、雑誌は、学生をすごく意識していますよね。学生が買うってことなんですかね。

竹山:うん。学生が買うんですよ。

平田:だから最近ではこういう卒業設計のなんかもかなりメディアが取り上げて、結局学生が買うということが大きいんだなと。もう少し突き放すような内容のものがあってもいいような気がしなくもない。まあ売れないとどうしようもないわけですが。

布野:だからね、建築の研究者っていうのはピンチなわけですよ。というのはね、建築界全体がピンチだから。そう今の建築士法改正とか、相当問題がある。それからもう明らかに縮小せざるを得ない。

竹山:あとは海外を同じマーケットにして、建築家を輸出していくとかね。

平田:台湾の本屋とか行くと、結構真面目な理論書が、思ったよりいっぱい並んでて、建築コーナーの色合いがちょっと違うんですよね。だから比較的日本だけで起こっている話なのかもしれないですね。要するに日本人は今、活字を読まないですよね。まあ僕らの頃はまだ読んだと思うんですけど、今のうちのスタッフなんかも全然本を読んでないんです。結局、活字で書いたものを出しても売れないから出さないというサイクルになっているんで、読むようになればまた売れるんだろうなと思うんですけど。

布野:つい6月の頭に台湾に行ったんだけど、若手の評論家で面白いのがいた。台湾の建築家はだいたい私は知ってるけど、その連中はごそっと中国に行ってるね。そういう海外の情報も、やっぱりちゃんとフォローすべきで。今は『GA』的枠組みでぐらいしかない。

高松:ぐらいしかないね。

平田:英語で出せば意外に売れるんじゃないかとも思います。

高松:少々古いやり方だけど、単発の本を活字に出し続ける方がいんじゃない?洪水のように流すよりも。

竹山:それしか残らないんですよ、やっぱり。結局、単行本できちっとしたやつは、たとえば篠原一男の『11の住宅と建築論』とか、何度も繙くけど、雑誌とかだと「あれ何月号に載ってた?」とか()、それはもう消耗品ですよ。

高松:我々のころは、この建築家は一体何考えてんだろうって時には、必ずその建築家の書いたものを読んだね。そういう意味では今の建築家はどうするんだろうと思うね。

布野:要するに活字になってないと扱えないんですよ。若い頃から理論とか、書き物で記しておいてくれないと扱えないんですよ。作品だけあるのなら作品に聞けばいいけどね。だからそれがなけりゃ何をしてるんだろうってことになる。

高松:30年以上やってると作品もちらほら無くなってく。残るのはやっぱり本だね。

竹山:昔からおっしゃってましたよね。「写真しか残らない」って。

高松:建築は運べないからね。僕は壊しにくい建築を作ってきたつもりだけれど、それでもいつのまにやら壊されてしまう。(笑)

 

学生へのメッセージ

竹山:では京大はどのような場であったか、そして後輩たちへのメッセージを。

平田:僕はこの中でも珍しくピュア京都なんですけども、7年間京都にいました。

それで、やっぱり東京じゃないので落ち着いて状況を見れた気がするんですよね。東京で起こってることに対して距離感があった。今の京都が東京に対してどういう距離感を持っているかは分からないですけど、相対的に東京の状況を見れたのはすごくよかった。

一方で建築家がいなかったかと言えば、そうではなく、高松さんが非常勤で竹山先生がいたり、布野先生が東京ではこういうことが起こっているとか話してくれたので、身近に感じつつもどこか距離感があって良かった。そういう場所だったと思います。

学生へのメッセージですよね・・・なんか「建築家」って子供のときに想像していた大人みたいで()。学生の時と全然違う雰囲気がしたけれども、あんまり違うことを考えていないんだなーって。今考えてることを、そのままずっと考え続けた人が、多分建築を出来るんじゃないかなという気がしています。同じことを、ショートサーキットじゃだめだけれど、考え続けるってことが大事なんじゃないか、ということを伝えたいですね。

松岡:僕が学生をしていたころは、京都は建築の大きなメディアだったと思うんです。京都には歴史的な土壌があり、京都の建築家が独自の作品をつくる建築のメッカだと。京都で建築がやれるのはすごく幸せなことだなって思っていました。庭園をいっぱい見たりしていました。そういった点で十分な刺激をうけて建築に打ちこめる環境でした。

大学院で京都を離れた分、京大に関してはいいイメージがありましたね。それは布野先生との関わりだったり、竹山先生の最初のインパクトがあったり(笑)。

竹山:後輩に対するメッセージは?

松岡:僕は、建築家がどうやって設計するかという、「設計の仕方」がすごく気になっていて、それを見て比べることが非常に重要だと思っています。その場所に入って、ダイナミックな設計の動きみたいなものを、どこまで体感できるか、またその設計の仕方が別の方法と比較してどうなのかということを、昔から気にしていました。設計の動きを体感できる「場所」になるべく自分を置きつづけて、いくつか比較できたら、面白いんじゃないかと思います。それによって、自分のつくりたいものへの到達を早めたりできるんじゃないかと思います。そういった色んな場所を経験するのもいいかなって思いますね。

百田:僕も平田さんと同じで、6年間京都にいました。京都は本当に落ち着いた場所で、『GA』とか、『CASA BRUTUS』とかそういう雑誌の中の世界からはすごく遠いんですけど、建築にとって本質的なものに包まれていたような気がします。古いお寺とか。これから僕がやりたいことと、必ずしもそれらが一致してるわけではないんですけど、いいものに包まれていて、落ち着いて考えられるっていうのはすごく自分にとってよかったなと思っています。

大学院に入ってからは、大西が東京にいたので、1/3くらい東京に出てきていました。そうすると全然世界が違って、週末にはそこかしこで講演会や展覧会が行われているんですね。でもまず、京都で落ち着いて、鴨川で昼寝したり、哲学の道をふらふら散歩したりしながら、自分の好きな空間体験を発見できるっていうのは大切なことだったと思います。京都を歩いていると、東京とは全く違う厚い歴史の積み重ねを感じることが出来ますし、学生に対して寛大で、何でも好きにやっていいよ、という自由な雰囲気があるように感じます。そこから時間の流れの速い東京に出てきて、新しい世界が開けていくっていうのはすごく自分にとってよかったなと思うので、京都の学生の方には、京都にある豊かな空間をゆっくりと味わってほしいなと思います

竹山:京大の教育についてはどうですか?

百田:講評会のときに、先生同士がけんかするぐらい議論するような場面があったらよかったなと思います。はじめは、講評に選ばれる作品がいいものだって思っちゃうんですよね。でもそのなかにも実は多様な価値観があるんだ、ってことがわかると、建築を学び始めた人の視野が限定されないんじゃないかな、と。

竹山:大西さんにとっては、京都はどのような場であったのでしょうか。

大西;京都にいたときは、毎日毎日、現代の建築って言うのは、愛されているのかしら、ということをすごく考えさせられたような気がしていました。

   私は建築を始める前、「現代建築に本当に心を揺さぶられたことがない」っていう漠然とした批判意識を持っていたんです。京都へ来て、大好きなお寺へ行ってみるとそこでは今でも美しい建築の中で、風や光と共に美しい生活を送っている人がいる。そういう空間で暮らすことが日常的である方たちから、現代建築を全部ひっくるめて批判を受けるんですよ。毎週毎週、「何でそんな建築をやってはるん?」と。そういう方たちに、私が対抗できる言葉がないっていうことをもどかしく感じていました。でも、今しか出来ない、新しい空間がきっとあるはずだ、という気持ちで建築を続けています。そういう疑問って東京に来てからは感じることが少なくなってきている気がして、これはいけないなと思っています。そこは、京都にいてよかったなと思いました。

竹山:後輩たちにメッセージを。

大西:私は、どんな建築や場所を体験するときでも、自分なりの発見的な体験の仕方をしたいと思っています。動物のような勘によって新たに気づくこともあるかもしれないし、新しい言葉や、意味を与えることで全く違ったものに見えることもあるかもしれない。何かを発見できるとそれは自分のものになるような気がしています。そういうことを後輩にもお勧めしたいかなと思います。

 

建築は社会を変えられるのか

竹山:多田さんから先輩たちに質問はある?

多田:建築をつくることで、社会だとか、世の中を変えられるのかっていうことを私はずっと疑問に思っているんですが、それに対してどう思われますか?

   大西さんも現代の建築がみんなに愛されているのかしらということをおっしゃってたんですけど、例えば一般の人もブルータスとかを見てそれを「お洒落だな、でもよく分からないな」っていう理解で終わっていて。建築はこれからの社会に対して「いい空間だな」以上の何かが与えられるのか、それとも建築はその瞬間がよければそれでいいっていう存在なのか?と。

「これからの社会の人に対しての建築」っていうものをどう思われるのか、お聞きしたいです。

竹山:社会に対して建築は何ができるかっていうことですね。

大西:まず、自分にとって社会とは何か、ということをはっきりさせる必要があると思います。私にとって今実感できる社会というのは、一つは自分の周り半径30メートル以内の社会、つまり自分で見て、感じて、知ることの出来る社会。そしてもう一つは、地球という規模で建築を考えたときに、「建築をつくることは地球のでこぼこの中にもう一つ石を置くことなのだ」というような、非常に大きな視点での社会です。たった一つの小さな建築が、人間にとって根源的で普遍的な解であるということは可能なのではないかと思っていて、そういう建築が作りたいと思っていますし、そうした建築は社会を変えると信じています。

つまり、個人の生み出す何か一つの美しい建築が、ある過程を経ることによって地球の一部として刻まれることすらある、ということに興味があるのかもしれません。

百田:僕は「新しいこと」っていうのがすごく重要な気がしていて、建築家が、すごく普遍的な豊かさを持っているけれども、何か見たことのない新しいものを提示できれば、社会と接続する可能性は持っていると思います。例えばビルバオのグッゲンハイム美術館のように。これから大きな夢を見る若い自分としては、そこを目指してがんばっていきたいと思ってます。

松岡:僕は建築が社会的な何かを変える手段になると期待したことはほとんどありません。そういった構えが、建築をつまらなくするのではないかと感じるからです。例えばメッセージ性の高い音楽があって、それがたくさん売れて、みんなの意識が変わったりすることはあると思うんですが、実はそのメッセージの内容以上に、音楽そのものが、評価されているんじゃないかと思います。

建築が社会を変えるためのメッセージみたいなものや、変えるであろう社会の自分の位置を定めたとしても、それ以上に建築の気持ちよさや明るさのほうがより影響力があるのではないかと思います。僕は建築がすぐやれる、社会を変える力があるとすれば、そういった、楽しく感じるとか、気分を変えるとかっていうことだと思います。

平田:建築とか建築家の社会的影響力に関しては、非常に興味があって、政治家になるとかそういうことではないんだけれども、社会的影響力がないっていうのはやはりだめだと思います。要するに社会的影響力って何かというと、そのものがあることによって、ものすごく人生が変わったとか喜びのある体験をしたとか、あるいは楽しかったとか、今までにないような経験をしたとか、そういう素朴なことだと思うんですよ。毎日の生活像が少し変わったとかそういうことですね。それに対してちゃんと根本的な提案ができたならばしかるべき影響力を獲得すると思う。 東京で出来ている、ものすごく巨大なプロジェクトたちはひとつも発見的なものを提示していないから、建築が影響力を持っていないし、つまらない法改正があって、設計者の立場がどんどんなくなっていて、そこはなんとしても変えたいなって思っています。自分ひとりでできることじゃないけど。

本来的には建築はそういう影響力を持ちえるものだと思っていますし、そういう意味で社会を変えることができる可能性もあると思います。別に毎日暮らしている空間を建築だけが扱っているわけではないし、スコーンとストレートに伝わるときはスコーンと伝わっちゃうんじゃないかな。そこで突き抜けたいなっていうのが理想です。

竹山:最後に高松さんと布野さんから、彼らに対するメッセージをいただければと。

布野:今の話、多田さんすごいことを聞くなーって、みんなもよく答えるなって、感心して聞いてたんです。

僕ぐらいの年になるとね、降りかかってくることに対して、若いとき考えたことをいかに曲げずに、対応するかっていうので精一杯ですね。なかなか社会っていうのを変えるとかは・・・。今、すごい新鮮に昔を思い出したりしたんだけど()

高松:そういうこと昔言ってたよな。

布野:感心して聞いてました。みんな立派なことを言ったと思いますね。

高松:建築の仕事というのは、人間の存在形式の始原に触れることのできる数少ない仕事のひとつだと思う。そのことをずっと忘れないでおこうとしてきたし、これからも決して忘れないでおこうと思う。とはいえ残り時間はそれほどありそうもないので()、是非とも君たちにそのことを考えてほしいと思う。先輩のひとりとして。

 


2026年2月17日火曜日

traverse02前書, traverse, 2001

 Traverse02 新建築学研究第2号創刊

 

 21世紀である。とりたてて変化はないと思うけれど、どこか気分は改まる。アメリカ合衆国の大統領も替わり、我が国にも構造改革を掲げる新たな首相が登場した。少なくともわが国には、21世紀を迎えて、新たな風が吹くかのような雰囲気はある。

 日本の建築界が、この間、大きな転機を迎えていることは間違いない。日本の産業構造が大きく変わる中で、建設業界は大きく構造改革を求められている。公共事業削減の流れは、建設活動に大きな影響を及ぼしている。そうした中で、建築界の体質そのものの改善が求められているのである。

 以上のような日本の建築をとりまく環境の変化は、しかし、単に外部条件の変化ではない。建築のあり方に根源的に関わる変化と考えるべきである。フローからストックへ、スクラップ・アンド・ビルド(建てては壊す)時代から既存ストックの再生、再利用へ、という方向性には、建築観そのものが関わっているのである。

 いわゆる環境問題が顕在化するなかで、地球環境が全体の枠組みとして登場してきたことも大きい。個々の建築活動も地球全体の問題に直結する、そうした時代には、建築についての新たなパラダイムが求められるであろう。 

 21世紀を迎えて、大きな変革への流れを見据えながら、本質的な議論をしたい。時代に対して敏感でありながら、深い思索を重ねたい。Traverseの願いである。(S.F. 2001.05.01)。

2026年2月16日月曜日

京大を建築学のコアに 巽和夫 名誉教授インタビュー, traverse03, 2002

 

京大を建築学のコアに

巽和夫 名誉教授インタビュー

 

聞き手  布野修司

高田光雄

古阪秀三

                大崎 純

記録:  永冨 賢

 

 

建築は形が現れる:ものを作っていくのが好きで建築学科へ

−:巽先生は京都のお生まれで、京大に入られたわけですけれども、なぜ建築に入られたのですか。

巽:あんまり根拠がないんです。子供の頃から建築にあこがれていたとか、絵が上手だからとか、建築家になりたいからという人がいますが、僕の場合はそうではないんです。ちょっと前の話になるけれども、僕は昭和23年に旧制中学(桃山中学、現桃山高校)の最後の卒業生になります。それで旧制の第三高等学校に入ったんです。ところが1年で学制改革があったものだから、また京都大学に入り直しました。それが昭和24年です。その頃は工学部というところまでは入学時に決まってるんだけど、その後は何も決まっていませんでした。学科を選ぶんですが、最初は化学系にしようか、それとも他のことにしようかと思っていたんです。今はもう無くなったかもしれませんが、吉田キャンパスに新徳館という大きな講堂がありまして、学科に配属するときに各学科の先生がやってきて、うちの学科はどういうことをやっていて将来の見通しはどうか、というようなことを説明する会が当時ありました。そういうのを聞いて進路を決めるんです。その頃おられた森田慶一先生が、昭和24年頃というと戦後の復興が始まったばかりですが、まだ焼け野原もあるという状態で、これから建築は非常に需要が大きいし、どんどん建物を建てていく時代が来ると、こう言われたんです。それに非常に感銘を受けました。僕はものを作っていくということが好きなものですから、それはいいな、と。それから建築というのは具体的にものが形に表れます。電気とか、化学とかとはその辺が違っている。それから、図面を描くこと、教養でも図学などありましたが、図面を描くことが割合好きだったし、友達も建築に進む人がたくさんいたこと、そんなことがあって、何となく建築に行きました(笑)。

−:当時の学生数は工学部で何人くらいだったんですか。

巽:学生数、どのくらいでしょうね。学科にして10いくつかあって、ひとつの学科で30人として350人程度でしょうか。

−:各学科の話を聞いて選択するという形ですが、旧制から新制ということですけれど、それは今でいうと何回生から何回生のときですか。

巽:2回生から3回生です。

−:そうすると、図学はあったけれど、製図は選択してやるということですか。

巽:厳密にいうと1年半くらいかもしれないけれど、いずれにしても入るときは工学部で、建築学科ではなかったと思います。

−:その時代の学生の雰囲気というのはどうでしたか。同級生でいうとどんな先生方がいらっしゃって、スタッフにはどんな方がいらっしゃいましたか。

巽:寺井(俊夫)君とか亡くなられた防災研の南井(良一郎)君とかが同級生です。それから竹中工務店に行って設計部長になった大辻(真喜夫)君なんかも同級生です。それから西川(幸治)君は1年下です。

 

旧制から新制へ

−:新制と旧制はどうだったんですか。

巽:僕は新制の昭和28年卒なんですが、新制と旧制の昭和28年卒が同じ年に卒業するんです。従って、その頃景気が良くなかった上に、その年だけ2倍出たわけで、ものすごい就職難で、そうなると我々新制の方が非常に不利なんです。僕らが新制の第1回だからどういう教育をするかということがいろいろあるんだけど、とにかく急造でやってますから、旧制のカリキュラムの体系をちょっと簡略にしたような恰好のものを新制のカリキュラムにしたんだと思うんです。我々もどことなく1年少ないというコンプレックスもあるし、旧制に対してはどことなく引け目がありました。就職も当然不利ですよ。大学院が新しくできるんだから、大学側もできるだけ大学院に行かせようと、無試験ですから来て下さい、というような感じでした。

−:西暦でいうと卒業は1953年ですよね。カリキュラムはそういうことですけれども、卒業の直前で研究室を選ぶ段階が次に来るんじゃないかと思うんですが、それは3回生から4回生になるときですか。

巽:4回生だと思います。ただ僕は研究室にはいる前に西山先生の調査に加わっていました。熊野灘の調査なんかです。調査に行ったのは4年生の時ですが研究室の活動には以前から参加していました。この調査について『住宅』という雑誌に書いた論考が僕が最初に書いた文章です。

−:それは何回生の時ですか。

 

熊野灘調査

巽:4回生です。

−:熊野灘調査などの西山研のその当時の調査の大方針などはどのようなものだったのか、またどのような雰囲気でしたか。

巽:主旨からいえば、あのときは漁村でしたが、農漁村の遅れた生活環境、住環境をよくするということですけど、僕は学部の学生でただ調査があるのに付いていったわけだけれど、多少社会工作的な意味合いがあったように思うんです。

−:西山先生なり先輩の先生方は、学生をオルグするという面もあったのでしょうか。

巽:西山先生にはある程度そういう意図があったんじゃないかと思います。でも、結局農村だったら地主の家に泊まったり、漁村に行ったら網元の家に泊まったりするんです。網元の家に泊まったんだけど、網元のヒエラルキーの利益に反するようなことをやるわけですよ。その辺に僕は大変抵抗を感じて、そういうことをするのなら網元の家に泊まらずに野宿してでもやるのが本来の姿ではないかと思いました。泊まるということは向こうは歓待してくれますから、いろいろご馳走出して世話してくれて、それに乗っていながらしかも、その漁村社会を批判するようなことは、僕としては非常に抵抗がありました。

−:西山先生は平気だったんですか。

巽:それが割合平気でしたね(笑)。

−:巽先生だけじゃなく何人か学生が行かれたと思うんですが、当時の西山研のスタッフとしてはどういう人がいたのですか。

巽:スタッフには助手に扇田(信)さんがおられて、それから絹谷(祐規)さんが旧制の28年卒で、僕の直上の先輩にあたるわけですが、彼が実質的に調査にしても何にしてもリードしていたと思います。やってるうちにそういう意図でやってるということが分かってきて、それなら僕は外に出てもっとしょぼくれたところに行かないといけないのではないかと言って外へ出たんです。そしてうろうろして帰ってきたら、もう絹谷さんなんかが風呂に上がって飯食って待ってるんです。何だこれは、おかしいんじゃないかと思ってそれで大いに議論したこともあります。彼とはよく議論しましたね、そういう点で。

 

教室の構成と配属

−:そうすると、3回生くらいでもう西山研に行くことは決まっていた?

巽:そうですね。『これからの住まい』とかいろいろな本もあったし、社会的影響力の大きい先生でしたから、僕もよく知ってました。

−:その当時の計画講座は、意匠は森田(慶一)先生で、計画は西山先生ですか?

巽:森田先生が教授で西山先生が助教授という状態がずっと続いていたんですよ。

−:そうすると森田先生は、先ほど志望するときに少し影響を受けられたというか、学科を選ぶときに森田・西山研が影響があったということですね。他にスタッフで印象にある先生とかありますか。

巽:そりゃあ、全部印象にあります(笑)。構造でいえば、坂(静雄)先生、それから棚橋(諒)先生、それから計画の森田先生、後は村田(治郎)先生が建築史でおられた。僕らが教授だった頃に比べればその頃の先生は、学生から見た印象では随分高齢で、重鎮の大家という感じでした。だけど今、僕はその先生の現職時代よりも高齢になっている。何だこんなもんかな、という感じも年齢的にはします(笑)。学術的な業績はそれらの先生の方が遙かに立派ですが。

−:当時は何講座くらいでしたか。

巽:当時は6講座ですね。入ったときは確かに建築でなかったことは確かなんだけど、どこで分かれたのかということははっきりしません。

−:希望すればいける状況だったんですか。

巽:それは第1志望、第2志望という形です。

−:それは試験で決まるんですか、それとも成績ですか。

巽:あれは成績でしょうね。希望者が多いから。

−:そうすると1年生、2年生の成績で序列があって、上位から第1志望をとっていくということですね。

巽:その頃は今みたいに学科数も多くないし、そんなに偏るということはなかったと思います。例えば化学だったら、化学だけで5教室あったんです。工業化学が一番人気があったけれども、工業化学がだめだったら繊維化学とか化学機械とか合成化学とか燃料化学とかいろいろあったから、うまく配分されていたんだと思います。その頃は建築はたぶん真ん中くらいの人気ですね。化学とか機械とかが人気が高かったですね。

−:戦後まもなくは、航空から一気に建築にシフトしたという話がありますが。

巽:航空は一度名前が変わって、確か「応用物理」になったんじゃないですかね。大学院になってから移ってきた人がいましたね。

−:西山研に3回生の時に決められたということですが、定員があるとかじゃないんですか。

巽:今思い出すと、本館の一階の掲示板に研究室がどういう研究テーマで研究しているのかという一覧表が掲示されていたので、それが出ていたということは結局それを見て志望していたということでしょうね。僕は前から調査に参加していたもんだから自然に行ったけれども、そうでない人はそういうので選んだんじゃないでしょうか。

−:一方で旧制も同時並行であるわけですが、そういうシステムは違うんですか。

巽:旧制はどうだったんでしょう。旧制の人に訊かないと。

 

大学院時代

−:巽先生は3回生の時とか西山研の熊野灘調査に参加されていたときに旧制の人も同じ年代にいたわけですよね、絹谷さんとか。その関係はどうだったんですか。

巽:新制と旧制の関係ですか。それは同じ研究室の中ではやっぱり1年先輩と後輩という関係ですよね。

−:卒業年次は一緒だけれども旧制の方が1つ上ということですか。

巽:1年余計にやってますからね。僕らの頃は旧制の3年と新制の2年ちょっととはっきりとしてましたから、その辺では非常に不利でした。だから、僕らの同級生でいいところに就職しているというのは非常に少ないです。例えば竹中工務店、大林組、これ1人ずつでしょう。それから建設省が案外3人くらい入っていて、大手のゼネコンといえども1人ずつやっと採ってくれるくらいで、大成建設はなかったし、清水はいたかなぁ。

−:次の年からはいいんじゃないですか。

巽:大学院に行ってから就職した人は割合よかった。

−:大学院には何人くらい進まれたんですか。

巽:大学院は結局11人ですけれど、よその大学から34人入ってきてます。京都工芸繊維大学からとかね。だから内部からは78人ですよ。やはり僕らの時代というのは、構造系が非常に強かったですね。

−:いや今もそうですよ(一同笑)。学生の人数では圧倒的に計画が多いですが。

巽:僕らの時は、研究・教育組織としても構造系が強かったし、学生もそうでした。それで就職がよくなかったから、計画に行っても就職できんぞ、といった感じの雰囲気が先生の側にもこちらの側にもありました。

−:それは京大に限らないんじゃないですか。社会情勢からいえば、戦後復興ではどうしても本当のエンジニアが必要となるから。全体的な傾向でしょう。

巽:構造、環境とあったけど、実際のところはエンジニアリングなんですよね。エンジニアリングを「構造」という名前で代用しているんですよね。実際に構造設計をするかというとそうでなくて、大体現場に行くのが多いでしょう。その辺は違ってるんだけれども。

−:今みたいに、構造と環境と計画の間のハードルは高くなかったんじゃないですか。人数も遙かに少ないわけでしょうし。

巽:大学院生11人がどこにいたかというと、今はもうないのかな、本館の東隣にあった東別館の2階に大学院生が一緒にいたんです。構造とか計画とかに関係なく。修士課程にはいるのは僕らが初めてでしょう。大学側もどう扱っていいのやらわからないわけです。だからもう、いつもとりあえずこうしておこうという。カリキュラムにしても指導にしたって、それから場所にしたってそうでしょう。今みたいに講座間とか専門間で仕切りがあるという感じではなかったですね。それで構造の人だって設計演習を取ってましたし、コンペにも参加しましたしね。

−:大学に入られて、ドクターに行かれて助手をちょっとやられるんですよね。

巽:ええ助手をちょっとしましたね。

−:それでその間割と研究的なことはいろいろありますからいいんですが、スタッフと学生の関係とかスタッフ同士の関係とか、あるいはその間のプロジェクトなどで印象に残っていることがあれば…。例えば1950年代のことなど。

巽:プロジェクトは西山先生がいろいろ引き受けてこられるのをやったりしました。例えば公団の香里団地というのがありますね。あれはね、昭和30年というのは公団ができたんですが、30年というと僕が大学院の修士を卒業して博士課程に入った頃ですが、公団がスタートするにあたって、はたして公団住宅が売れるだろうかというので、家賃4000円で需要者があるかという調査をしてくれというような、調査プロジェクトもいろいろありました。それから香里団地の計画を、あそこは火薬庫の跡なんですが、あれを計画するので何か提案しろ、ということで、僕は今でも思い出すけれど、斬新な提案をしたんだけれど通りませんでした。火薬庫だから火薬庫と火薬庫の間が空いていて山−谷−山−谷になってるんです。現在、全部ならして使ってるんですが、山−谷を利用しようというのが僕の提案で、そこに1階部分はピロティにしてそこに共用空間をおいて、その上に住戸部分を上げるという提案をしたんですよね。その頃、竹中の大辻さんが非常勤講師で来てまして、これいいなぁと言ってましたから、芦屋浜のASTMにね、あのアイディアがどうも関係してるんじゃないかと(笑)。そういう提案をしたこともあります。

−:そのときは構造や環境の先生は参加されたんですか。

巽:環境はどうだろう、あれは西山先生のところだけかもしれませんね。それからコンペは、国立国会図書館コンペをやりました。今でも覚えてるけどね、こういう太鼓型をした、コアシステムで真ん中に書庫をおき、外周部に閲覧室を配置しようというアイディアで、構造の人達とも一緒にやりました。これは確か、大学院の演習課題でもあったように思うんですよ。あの頃は今みたいに構造とか環境とかいいませんから、興味があれば設計の単位を取っていいわけです。だからそういうコンペが出てくるとみんな 参加してたんです。

−:あれは著作権問題でもめましたよね。あれはとったのは前川事務所でしたよね。それは印象には残ってないですか。

巽:それは記憶にないですね。どんな風にもめたんですか。

−:確かその通りに実施されなかったと思います。それで「新建築」とかジャーナリズムが問題にしたんです。

巽:そんなのでね、僕は個人的には住宅の設計とか、頼まれてやった設計とかいくつかやりました。

−:それは個人、それとも仲間とですか。

巽:それは個人でもやったし、仲間ともやりました。今は設計といってもとてもできませんが、そのころは設計をするのは当たり前でね、それで、研究は少し違う方向に行ったけど、何をやるにしても、設計をしてそこからどういう問題があるかを見つけるんです。僕もある種の建築家だと思っていますけれども、やはりものを作る経験がなければ、本当には研究課題はでてこないし、物事はわからないというふうに思っている。研究をしてそれを実際にやってみる。やってみるといろいろな問題がわかるから、またそれを研究する、と。それは最初は今のような時代じゃないから設計っていう行為そのものが非常に包括的で総合的な行為でしたよね。今はもうかなりいろいろわかってきてますけれど、そのころはそういう包括的な経験をすることによって、所謂狭い意味での「デザイン」ももちろんありますけどね、計画的な問題、経済的な、社会的ないろんな問題がそこにあるということが、それを通じて体得できたんじゃないかと思います。

 

調査と設計

−:それでその辺で、吉武研との関係を聞きたいんですけれど。むしろ吉武研は巽先生がおっしゃるような立場で、研究は設計に還元できなきゃだめだという立場で、西山研はむしろ調査が大事だという構図で議論をされたと聞いていますが、その辺は具体的にどうだったんでしょうか。

巽:西山先生は「調査無くして発言無し」というふうによく言われてました。西山先生は庶民住宅の研究を柱とした研究をしておられましたから、その流れの中である意味では設計をするという行為と、研究をするという行為は大分違うんです。研究するという行為は分析的な行為ですよね。ものすごく膨大な量の調査をしても、わずかなことしか出てこないという性質のものでしょう。設計という行為は、よくわからないけれどとにかくものにするためにはまとめないといけないから、いろんな情報を集めて総合するという作業ですよね。だから研究するということに非常に没頭して行くと、設計するということがしんどくなるし、やりにくくなりますよね。逆に設計を一生懸命やっていくと、多分もう研究なんてやってられないというふうになる。西山先生はどちらかというと、前者の方で研究の方を非常に強くやってこられたし学生の指導もそちらの方にやってこられたわけです。ただ、当時は今のように建築設計事務所とか、ゼネコンといったものがそんなに発達していなかったので、新しい課題について大学の先生に頼むとか相談するということはよくあったわけです。そういうものを先生は断ってはおられなくて、例えば城崎温泉の旅館の浴場の設計なんてありますよね。

−:あれは調査も絡んでるんじゃないですか。

巽:調査なんかやってるとね、相手が設計して欲しいと要請してくることがあるでしょう。それに引きずられますよね。それで研究室の中でも、「なんでそんなもの引き受けるんだ」なんて議論もあるんですよ。それを先生はものすごく理屈を付けるように、「いや、これからは労働組合の大会を開くときには、温泉くらいの規模の旅館がたくさんある所じゃないと開けない。従ってそこの温泉をデザインするんだから、この仕事はいいんだ」と、こういう理屈を言われるんです(笑)。

−:その辺をもうちょっと聞きますと、吉武先生は西山先生の梗概を戦時中ものすごく読まれてるんです。西山先生の論文とかをものすごく意識されて始められている。それで住宅から公共施設へとか彼なりの戦略があるし、鈴木成文さんみたいな、住宅を担当した先生もいたんで、すごく意識してやっていて、設計と研究との関係については、これは西山先生も書かれてますけれども、例えば今の標準住戸の設計みたいなものは、これは中央に近い東大に任せて、だけど京大はそっちがやらない、やれない調査や、むしろ領域を拡げて地域計画に行くんだといった、割と理屈っぽく守備範囲みたいなことを書かれてますが(笑)、具体的に例えば、吉武先生が何回かこっちに来て議論をされたんですか、もしくは向こうに行って。

巽:僕自身はあまり参加していませんが、絹谷さんは研究室のチーフのような形でかなりやっておられたと思います。

−:例えば九州大学におられた青木先生なんかは、ものすごく怖がって、今でも京大に来るのが怖くて足がすくむみたいなこと(一同笑)を言われていて、そういう緊張関係があったようです。

巽:やっぱりやりたい調査、研究がいっぱいあって、まだまだ先にいっぱいやらないといけない、ということで西山先生はやっておられた。弟子にもやらせていましたが、自分としても問題意識をたくさん持っておられた。それをさっき言ったように設計という行為は、一応この辺でわかっている範囲の中で、形にしてみようという作業ですよね。研究的に言うと一度立ち止まる感じがあるじゃないですか。そうしても僕はよかったと思うけれども、先生はそう考えずにですね、これは僕の推測ですよ、もっと次の、もっとわからない、明らかにしないといけないことをやりたいと思われたんじゃないですか。それから、先生の『日本のすまい』などの本を見てると、日本の住宅の現在の姿というものを、できるだけ網羅的に収集して記録したいという、そういう意欲が強かったと思います。だから調査も研究のための調査というよりも、そういう現状を明らかにするための調査、そういうところに忙しくなり始めると、どこかの成果をまとめてこれを設計にして、という考え方で無くなったのかもしれません。それはいい面もあったし、悪い面もあったし、我々学生にとっては、実践的な方向についてもっとトレーニングする機会があった方がよかったと思いますけれど、そういう一つの京大の西山研究室のカラーだったというよりほかないですね。

 

西山研究室 

−:聞きたいことはたくさんあるんですが先に進めます助手になられる頃には後輩が入ってきてますよね。研究室の運営については、混然としていたんですか、役割分担みたいなものが既にできていたんですか。例えば絹谷先生がヘッド格でおられて…。

巽:絹谷さんは大学院生だったんです。それで結局、森田教授−西山助教授という体制が長く続いていまして、助手すら西山先生は自由に取らせてもらえなかった時代なんです。それで絹谷さんは大阪市大に行かれたんです。

−:今の話は三村先生の世代から、もう既にユニットがあってという話は聞いたことはあるんですけれども…。

巽:その頃はまだそんなふうに分かれていませんでした。

−:混然と設計やったり、調査やったり?そうすると設計やりながら調査にかり出されるということもあったんですか。

巽:それでね、例えばこんな笑い話があります。先生は自分で何でもやるんですよ。雇ってる人がいるのだから、その人にやらせればいいのに、わざとじゃないんだけどやらせないで自分でやってしまわれるタイプなんですよ。それであるとき、その女の子が「先生、どんなことをしたらいいのか指示して下さい」と言ったら、「忙しくてあなたのやることまで私は考えていられない」と言われたというのです。事務的なことは人にやらせて、自分は肝心なことだけやればいいでしょう。そうでなくて、とことん自分がやりたい。だからものすごく忙しくて、ものすごく精力的にやられたから、先生がやられた研究の後には何も残っていない、という感じもあるんです(笑)。先生のやったような分野でトレースしようという人はいないですよね。三村さんも最初はレクリエーションの研究をされてましたし、僕は生産問題とか経済問題をしましたし。「西山先生の後はもう草木も生えん」といって、みんな違う問題に取り組んだのです。それ僕はよかったと思ってるんです。組織という面から言うとね、西山先生は建築計画という分野について吉武先生に近いけれども、都市計画という分野については高山(英華)先生に近い。年齢的には高山先生と大体同じなんですよ。だから、高山研とも比べられたことがありました。高山先生と西山先生はまったく対照的だった。高山先生は組織を率いて、弟子を育ててピラミッドを形成して…。まあ都市計画という分野がそういう分野でもあるんだけれど、西山先生は弟子たちが先生を支えて(笑)、先生が勝手なことやってもね、それを支えていってるというふうなことを、東京の方からはそういうことを言う人がいましたけどね。それはタイプが全然違いますよね。

−:研究費はどういうふうになってるんですか。

巽:研究費は、「講座費」というのがあって、今もそうだと思うけれど「講座費」の中で共通にしたものを引いて、各講座に分けてましたけど、助教授でしたからあまり多くないですよね。それで、それをベースにして、まあ委託研究みたいなものもあったし、今はどうなってるか知らないけれど、その頃は委託研究や調査費がなかったらやっていけないような状況でした。そこへ公団ができたりなんかして、多少調査費が出てきたと、という状況ですよ。

−:それは調査の実費として西山先生が仕切られた、ということですか。

巽:そうですね、後半になってくると当然、行政の事務の担当者が居ましたから、事務的にはその人が取り仕切っていました。

 

建設省建築研究所

−:先に行きますが、建研(建築研究所)に行かれますよね。それはどうしてだったんですか。助手は一年くらいされたんですか。

巽:助手は1年やってません。昭和33年の3月に一応大学院の博士課程に在学し所定の単位を修得ということになったんです。今どういう扱いになってるか知らないけれど、学位論文を出して学位を取らないといけないんだけど、僕は博士課程の第1号ですし、3年で学位を取るという雰囲気ではなかった。旧制並と言うことになってましたから、誰もそんなことを考えなかった。だけど制度上はそうなると具合が悪いので、所定の年限在学し、所定の単位を修得ということで一応出たわけです。それで出たけれども就職の当てがなかったんです。それで西山先生森田先生なんかと交渉して下さったんです。それからその頃は、講座も少なかったから、他の先生も僕のことを知ってるし、お互いに博士課程に行く学生くらいのことは知ってるわけです。いろいろやりとりがあったと思うんですね。それで、5月からというので、1ヶ月遅れで助手になったんです。ところが一方、建研の第1研究部の部長が新海悟郎さんといって、この人が西山先生と同級生なんです。その下に2つ室があって、建設経済研究室と都市計画研究室ですが、建設経済研究室に宮崎元夫さんという人がおられて、宮崎さんが京大の出身でこの人が千葉大学の造園学科に移られるということで籍が空いたんです。それで入ることになったんです。

−:そうしますと、建研に入られて戻られるまでの話を伺いたいんですが、そこで古川(修)先生とかお会いになられて、学位論文も結局建研で書かれたんですね。想像するに充実してたんじゃないかと思うんですが。

巽:楽しかったですね。

−:建研にはどのくらいおられたのですか。

巽:7年ですね。1年間イギリスに留学していたのを入れて7年です。

 

建築経済に関する研究

−:城谷先生もおられたんですよね。その辺りのお話も伺いたいのですが。

巽:大学院では何を研究しようかというので西山先生のサジェスチョンもあって建築の経済的な側面、あるいは生産的な側面を研究しようとしていたんです。修士論文は「建築経済に関する予備的研究」というものでした。これは大分苦心しましたが、うまくいったとは思わないんですが、そういう研究をやっていたのでちょうど建研の建設経済研究室にぴたっと合ったわけです。僕としてラッキーだったと思うのは、大抵就職すると、そこの研究テーマに合わせてやらないといけないでしょう。また大学に行ったとしたらせいぜい若くして行くんだから助手くらいですよね。助手で行くと多分いろんな雑用もしないといけない。それからそこの先生の研究室の研究をしないといけない。そういうことから言うと、建研は僕の研究テーマにぴたっとして居たというのが一つ。それともう一つは建研は金はないんだけど割合平等でして、研究員になると各研究員に研究費を平等に割り振るんです。大学だったら教授、助教授、助手と階層別になっていてなかなか若い人は金を使いにくいかもしれないけど。

−:いや平等なところも増えていますよ。東工大は序列が無くなったと言いますし、東洋大なんかは助手まで完全に平等ですよ。

巽:そうですか(笑)。僕は研究所というのはもともと研究所の方針があって、研究テーマを部長が差配してそれを下の室長がブレークダウンしてそれを研究員が実施するんだと思っていたんです。イギリスはそうなんですよ。僕はイギリスに行って、非常に違うなあと感じたんですけど、ところが日本の建研は何やっても自由なんですよ。何やっても、というのは極端だけれども。その代わり自分で責任を持てっていうことですけどね。研究テーマに関してはあれこれ言われなくて自分でやりたいことをやる、あまり金はないけどやれる。今は大分状況は違いますけど、今は研究費が少なくなってプロジェクト研究が増えて、そのプロジェクト研究に乗らないとなかなかちゃんとした研究ができないようになっています。僕がいた頃はまだ牧歌的な時代でね(笑)、古川さんはああいう建設業の研究でスタートされて、城谷さんは最初は少し困っておられましたね。城谷さんはもともと住宅問題といわれる領域のことをやってこられたんです。研究に悩んでおられたように気がしましたけど、しかしその後プレハブ住宅が出てきたのでそういうところに研究をシフトしていかれたんです。そういう研究体制の中に僕が入った。僕は一番若手でしたから、非常に楽しかったですね。今ずっと思い返すのに、やはり建研時代の7年間が、その後、こちらに帰ってから現在に至るまでの行動様式や研究テーマに大きな影響を与えているなと思います。建研での研究というのもそうだけど、東京に行って生活したということ、それから建設省とか公団とかと非常にいろいろなコミュニケーションがありましたから、あの頃関西にずっと居たらどうなっていたのか、時々比較して考えて見るんです。僕は未だに東京といろんなことで縁が切れませんから、そういうことを考えると関西だけにいたのでは今のようにはなっていなかったと思います。今も東京の大学や行政の人達との人間関係があり、自分の研究テーマが建築や住宅の生産問題とか経済問題とか社会問題にあったことが今日の僕の活動につながっています。

 

京都大学へ帰る:38歳で教授に

−:その間こっちでは、第2学科ができて、今僕が居る地域生活空間計画講座というのができて、そこに絹谷先生が呼び戻されたんですよね、確か。それですぐに亡くなられて、西山先生がそちらに移られて、それで巽先生が戻ってこられたんですよね。上田篤先生も同じタイミングですか。

巽:そうです。僕の下におられたんです、上田さんは。上田さんは助教授で入ってこられて、僕も助教授で入ったんだけど、僕が先に教授になって、上田さんは僕の下になるような形で。同じ講座です。

−:そうなんですか。西山先生の方になるんじゃないんですか、上田先生は。

巽:西山先生の方じゃないですね。西山先生の下は三村(浩史)さんです。

−:それで、戻られてから後の話は。

巽:戻ったのは、昭和41年です。それで助教授で戻ったんですが、昭和43年に教授にしてもらいまして、今なら考えられないくらい若い、38歳ですか。36歳で帰ってきて、その前の1年間はイギリスに留学して、それで建研に戻ってきた途端にこちらに来ることになったんで建研が怒りまして(笑)、当然ですよね。それはもう平謝りに謝って。

−:先生は謝る必要はないんで、教室が謝るべきで。

巽:それで帰ってきたんですよ。僕にとって一番の大きな問題は、やはり建築計画講座ですから、建築計画講座にふさわしい研究、教育をやらないといけないということでした。それで、講義の方は何とかなるにしても、研究の方をどう切り替えるのか、そうかといって、大体20年近く経済・生産問題をやってきたんですが、それを全部捨ててしまって所謂在来的な計画の方に行くというふうには、ちょっとやりにくかったんでね、そういうことをしたら自分も一からやり直しになりますから。そうじゃなくて、何かこれまでやってきた研究の経歴が生きるような、そういう計画にしたいと思ったんです。僕の計画論というのは、まあ計画論なんていうほどのもんではないけども、これからの計画はデザインのための計画というよりは、人の生活との関係を、空間を考えるということだけではなくて、それをどう社会に実現していくかということが非常に重要になるんではないかと。そこでの建築家の役割とか、生産者の役割とか、学位論文は生産・供給に関する研究でしたから。その流れで新しい計画論というものを作りたいな、思っていたわけです。そこで、僕の研究室でやったのは、結果的にいうと一つはハウジングの問題、もう一つは建築企画です。ハウジングの問題も先ほど言いましたように西山先生が既にやっておられるんで、ああいうタイプのハウジング論はやってもしょうがない。それで、公共住宅供給の問題から「二段階供給方式」の研究へ展開した。建設省がこの研究に注目してくれて、「躯体−住戸分離方式」ということになりました。この新しい住宅供給方式は、実例としてはたくさん無いけれども、理論としては非常に広まってきました。今日では「スケルトン−インフィル・システム」といわれてます。これなんかは狭い意味での計画の考え方ではでてこなかったものです。それはこれまで建築の生産組織の問題だとか、建築家の役割だとか、公共建築とは何かとかいろんなことをやっていたことが反映されています。集合住宅の問題を扱うことになりましたが、集合住宅も郊外型の集合住宅から都市型の集合住宅になってきまして、そうすると都心居住とは何か、とか、都心居住における集合住宅のあり方は、とか、平面の社会の中で石塔のような高層住宅を建てて、入り口をオートロックで仕切っているような、こんな異様な居住形態はおかしいというような考え方が出てきたんです。

−:建研の時の、こっちの方では西山研に言われて、かつそういう中で設計とか生産とか経済とかについて研究して、建研の中で城谷さんととか関連のことをやってる人たちの中にいる、そこでまた巽先生の考えがどちらかの方に動いているはずなんですよね。それが今度は建築計画ということで変えられている。そこの変化についてほとんど説明がなかったのでその辺りのお話をお話いただけないかと。建築計画、建築経済の中の建築生産の定義とか、あるじゃないですか。

巽:僕は東京での建研時代は、建研の中にはもちろん古川さん、城谷さんはおられたけれども、それだけと言ってはなんだけど、もっとこの考え方を広めていこうと思うと建研の中だけではだめなんで、建築学会を舞台にしたんですよ。僕はこの建研時代というのは、建築学会を大いに舞台にしていろんな人と交流したような気がします。それで、今の建築経済委員会でいうと長老は、徳永さんとか、それから岩下さんとか、若手に土谷さんとか、そういう人達です。徳永さんにしても、岩下さんにしても、土谷さんにしても全て京大出身の人というのは居ないんです。そういう中で、別にどこの出身でも構わなくて、広いそういう世界の中で建築生産というものをね、どう良くしていこうかな、ということの議論をしました。その頃の僕は30代でしたから、ものすごくがんばったと思います。それでその結果、こっちに帰ってきた直後に、「建築生産論の提起」をまとめたのです。学会の研究委員会での議論の一つの成果なんです。あれが僕の拠り所になっています。

−:1968年、昭和43年ですか。

巽:昭和43年です。帰ってきた年です。

 

ハウジング論と建築企画:建築生産

−:建築計画で戻られて、それまでの、特に建研での経験がベースになって建築計画を見直した、見直すというか、巽研の建築計画論の展開があって、それの柱がハウジング論と(建築)企画論ですね。僕は、その頃からもう巽先生の研究室の動きをずっと見てましたけれど、東大で見ると例えば鈴木成文さんなんかは、住戸計画の袋小路に入り込んで、僕は先輩連中見ててわかるんだけど、住宅地計画に展開ができなかったんです。それは「領域論」って言うのでやろうとしたんだけれど、なかなか論理的にならなかった。一方で住戸内だけを考えているから「順応型」みたいなことしか思いつかない。スケルトンシステムをおいて、中を間仕切るくらいの発想しかでないわけです。京大見てみろ、と。もっと広い。だから内田研のデザインシステムと足してやったらどうだ、というくらいのことを生意気にも言ってたんです。計画が、住戸計画、プランニングの話に縮こまってる。計画というのはもっと広い。「広義の計画」と「狭義の計画」があると言い出して、それは建築生産全体の問題があるといった議論をしてたんです。(布野)

巽:建研の生産論の問題は、僕は「建築生産」という概念を創ってそれを押し出していこうとしたというのは僕の建研時代です。

−:その概念が広かったために、何でもそこに入っていけたということですね。

巽:それまでは、計画−設計−施工だったんですよね。それで、施工というのは学会で言っても「施工」という分野がありますね、「材料施工」という分野もあったしね。で、古川さんが一番力入れていたのは、悩んでおられたと思うんだけど、そういう施工に関わるんだけど、ものの施工の話じゃなくて、もっと人と組織でものを作るという、そのことを対象にされたわけですよね。これが建設業という形になったわけですよ。古川さんは建設業をやったけれど、僕はさらにもうちょっと広く、建築主、つまり、需要から始まって、計画、設計、それから生産してさらに管理すると、その辺まで全部含めて一連のものとして考えたらどうかと。まあ管理の所は、なんというか利用・管理の所は別かもしれないけれど、そこまでの間を、全体を「設計」という概念で捉えたらどうかということでした。建設業の所を古川さんはやっておられたけれど、僕はもうちょっと、前の方をやりたいなと考えていました。それで建築家の問題とか公共の役割とは何かとか、そういうことをやって京都に帰ってから『行政建築家の構想』という本を出しました。あれなんかはまさに、一体「営繕」の役割はなんなんだ、と。本当は重要な話なんだよね。ところが今まで営繕というのは役所の建物だけ、民間とは切り離して、それでまた民間の建物を需要とする人とはなんの関わりもなく予算が付いたり建てたりすると、こんなことやってはだめだ、ということでそうでない営繕のあり方を検討しました。それから本来「建築指導行政」といわれる確認行政というのは、もう圧倒的に9割以上は民間の住宅なんですよね。それが住宅行政の枠の中に入ってなくてですね、住宅行政といったら公共住宅を建てるだけの話でしょ。それで圧倒的に大きい、違法性にかなり富んでいるようなものも含めて、これを何とかしなきゃいかん、という発想だったんですね。だから古川さんはちょっと別だったかもしれないけれど、僕の生産概念はもうちょっと広がりを持ったものとして、生産論の定義もそういうつもりで書いたんです。従ってそれが現在の計画の方にいっても、そんなに違和感は感じてない。それからもう一つの動機は、僕は建研時代にイギリスに行ったでしょ。“Building Research Institute”というところに行ったんです。そこに行って、現場にしばしば調査にいったんですよ。そうしたらしばしばストライキが起こるんです。コンクリート工のストライキが起こるでしょ、それが終わると今度は煉瓦工のストライキが起こる。こんな風にストライキを次々にやっていたら、工事は全く進まなくなる。そこで、ストライキをやる職別組合をどううまく使いながら建物を造るかという技術として、建築生産の生産管理の技術というのは発達してるんだなということに気がついたんです。そこを日本はまあまあ何とかうまくやっていくようなルールでストライキを起こさずにやってきたわけですね。これのいい面もあるし悪い面もあるんだけど、こういう生産管理の技術というものを本当に確立するんだったら、そういう難しい状況の中でどう技術化するかというのが大事で、僕はイギリスでその頃そういうタイプの本も読んだし、それから建築経済の問題についても経済学者がいくつか本を出してましたから、ああいう現象というのは日本に無いわけですよね。その後の話とはちょっと別になるけれど、そういう経験があったものだから生産問題をそういう広く捉えた形でいたということです。

 

建築計画研究の終焉?

−:ちょっと話題が変わるんですけど、建築計画の研究はほとんど終わっている、つまり計画手法の研究というのは非常に矮小化した形になってるのが多すぎて、新しい展開がみられないというふうにみえるんですが。それはつまり、巽先生が今おっしゃったような生産とかあるいは設計とか、もう少し広い概念で「計画とは」という、攻めの姿勢が無くて全て後付になっている感じの研究が多い。その辺がもう少し広い視野でできないのか、このあたりに今の建築計画の問題があるんじゃないのか。これらの点について、巽先生の世代の人たちが見て、今の建築計画について意見があるんじゃないかと思うんですが。(古阪)

巽:僕は今の建築計画について不勉強なもんだから。しかし、研究は確かに、僕は吉武先生の研究は一時代を築いたと思うんですよね。それで非常にすばらしい研究成果を上げられたと思うんですが、その後の方が鈴木さんに象徴されるように、やはりさっき言われたのと同じような印象を持ってるんですよね。それでこの学校だ、病院だ、図書館だって言ってる時代はまずかなり前に終わってると思うんです。それから後いろんな研究をして相当皆さん苦しんでいるんでしょうね、そう思います。だから、そこでどういう切り口がいいのか僕にはよくわからないけれど、しかし建築学会は建築計画分野は非常に隆盛でしょう。発表の数は非常に多いでしょう(笑)。

−:発表の数は非常に多いかもしれない。一方で今の縦割りの施設研究がとっくに終わってると言うのもそうなんです。だけど、切り口という意味では例えば高齢者の問題とかハンディキャップドの問題とか、その立場に立って施設の問題、素朴な手法かもしれないけど、きちんと調査をしてそこから問題を出すという役割はずっとあると思います。(布野)

巽:僕が不満に思うのは、施設別はいいし、一つの大きな成果を上げたと思うけれどその施設をよく見てみると学校、図書館、病院と皆公共施設なんですよ。公共施設は皮肉に言うと比較的調査がしやすくて調査の成果が設計に反映されやすい。ところが、公共建築というのは、一体日本の建築の中でどのくらい割合を占めているかというと、量から言うとしれているわけです。圧倒的に多いのは民間の建築でしょう。ところが民間のオフィスビルとかホテルとかそういうタイプの研究はあまり無いんです。それはなぜかというと、研究しにくいから。それから、これはコマーシャルな建物だということでどことなく偏見があって、大学の先生がそんなコマーシャルなことについて首を突っ込むことについて強い抵抗があります。実際ホテルの研究をしてる人はホテルのビジネスをしてる人の関係者だったりして、その辺のホテルの関係はそうだし、オフィスビルはオフィスビルの研究で、所謂大学のプロパーな研究者じゃなくてもうちょっと実務畑のところでやってる研究なんですね。それを大学の研究者は大いにサポートして、それらの持っている、例えば不動産の評価の問題とか、経済的な問題とか、いろんな社会的なプラスマイナスあるけどいろんな問題を含んでいるのに、そういうところは実務の話だといって押しやってしまっているところにやはり、建築学者の怠慢があるような気がします。計画学というのはそこら辺まで切り込んでいけるようなものでなくてはいけません。公共建築のような割合穏やかな調査しやすい、調査結果が反映されやすい、成果が出てきやすい所ばかりやっていたんではだめなのです。

−:明確に戦略化されてまして、吉武スクールでは。意見として吉武先生がおっしゃっていたのは、要するに繰り返し建てられる可能性があって不特定多数が利用するという意味で、病院、図書館や学校、公共建築をやります、ということは宣言しています。2つありまして、1つはそうやって担当を決めて、イギリスならイギリスの情報を集めた方がいいだろう、専門家をつくった方がよかろうということ。もうひとつ、巽先生がおっしゃったように、成果が出ますよという意味では「学校」で学位論文3人いけるでしょうとか、それはもう明快に、吉武先生から直に聞いたわけではないけれど周辺は明快に言ってましたね。(布野)

巽:なるほど(笑)

 

大学紛争

−:本題戻りますけど、紛争時代の話にはどういうものがありますか。

巽:紛争時代というと、どういうことを言えばいいの。

−:どういう議論をされたかとか、当時の学生、あるいは教官がどういう風に対応していたかとか。ぼくは、その直後に入学した世代ですが。(古阪)

巽:僕は教室主任でしたから、教室主任という立場での苦労はあったし、それから教授としては教授会がもう開かれず、開くとやってきて潰されますから。バスに乗って、どこにいくかわからんけど、とにかくバスに乗ってくれと言って、バスに乗るとどこかにつれていってくれて会議を開く。ところが会場も跡をつけられていてそこでもまた潰されたり。そういうことがよくありました。また民青と新左翼との対立はよくありました。西山先生が部屋で随分とっちめられて、やられたということもあったし、僕が教室主任をしているときに僕の部屋をめちゃくちゃ潰されたけれど、これは今から思うとえげつない感じもあったけれども、西山先生がやられたようなやられ方ではなかった。ただ管理職やってましたからそういう意味でそういうことをされた。あまりそういう思想の面でやり合ったということは僕自身は無いですね。

−:それは組織対組織になるんで、建築の学生ではないですが、建築を学ぶとか、あるいは建築を志すという意味では、その範囲では共有できてるわけですよね。そうすると建築の学生対建築の教官という所での軋轢とか、そういうのはあまりないんですか。大学の教授会対新左翼の学生とかあるいは民青の学生とか、そんな構造だけなんですか。(古阪)

巽:そう思いますね。あまり、新しい建築学とはなにか、とかそういうふうにはなっていかなかったですね。

−:僕は紛争直後に入って、その時には新左翼であれ民青であれとにかく集ろうということにして、随分議論したんです。授業もない代わりに毎日議論したんです。その時にはそういう組織対組織の抗争とかあったんですが、建築の中の学生間という意味ではかなり共有できていたというふうに思います。だから一番紛争が激しかったころはどういう状況だったんだろうと今まで疑問だったんです。(古阪)

巽:建築の中でそういう議論があったと思えないですけどね。あまり愉快な話じゃなかったから、もう忘れてるね(一同笑)。何回もやってるから、何をその時議論したか…。

−:東大は荒れてるとき入試無くしてるからちょっと事情が違いますけど、吉武研、計画学的な話でいうと、学問的というと大げさですけど、やはり建築計画学批判でしたよ。吉武先生がいろいろ、例えばワンフロアー・ワンナースユニットからツーフロアー・ワンナースユニットですね、合理化案を東大病院に出したら、看護婦さんが労働強化だ、と言って後を追っかけ回されたりって、それが最初の授業なんですよ、2回生くらいの。吉武先生は偉かったなあ、と思いますけど、それを講義でしゃべって後はずっとディスカッションです。その時にいた助手の松川さんなんか、一緒に座り込んでで捕まったんですよ。彼女は看護婦さんの立場に立って、計画学は使う側の立場でやるじゃないかっていう話で座り込んで、それは教室は不問に付しましたけどね。。そういうかなり計画の基本についてずっと議論したんです。僕はかなりそれが下地になりました。面白かったし、原点になってます。(布野)

巽:僕はあまり西山先生がやられたのは中身を聞いてないんだけど、建築学と計画学の中身の話と言うよりもセクト間の代表として、それが強かったと思います。だから何言ってもだめなんですよ、そういうときに。

 

 楽しく気軽に議論したい

−:最後にお訊きしたいのは、今の、例えば京大の教室に対する期待とか、今の学生とか、そういった話について言うと、どうですか。

巽:この建築学科に、ここに来たのは何年かぶりですよね。あまり足を向けたくない感じですよね(笑)。今回はこういうことがあったから来たけれども。それから洞竜会も年に1回有るけれどあまり行きたくないですね。どう言ったらいいかわからないけれど問題があるな。楽しくないですよ、少なくとも。で、僕の立場から言えば、もうちょっと楽しく気軽に来れて、誰かと話しようかな、と。

−:もっと、来て下さいよ(笑)。

巽:それはともかく、そういう気分がある。ただ京大は、非常に重要な位置関係に学会の中ではあると思いますよね。講座の数も全体として言えば多いからそういう総合力を発揮して欲しいなと。そういう意味でこの企画は非常にいい。僕のいた頃も『建築学研究』を復活したらどうかという意見もありましたけれども実際にはそうならなかった。

−:まだ教室全体のメディアというふうにはなっていないんですけれど・・・。

巽:学術研究の発表という舞台は、建築学会もあるし、他にもたくさんあると思うんですよね。ジャーナリズムも随分ありますし。やっぱりそれとの関係で言うと、このジャーナルは、いわば建築学科の建築学の広場という感じがするんですね。ですからむしろ他の分野の人に自分たちの分野の研究を理解してもらおうという、一つのネットワークづくりのような気がするんです。そういうことにむしろ徹してね、無理矢理学術論文をあなたの分野で何でもいいから書いてくれ、というような頼み方じゃなくて、もうちょっと共通の広場に対して何が寄与できるかということでやってもらったらいいな、と思うのが一つですね。それからもう一つは、本を出すだけでなくて、年に1回講演会とかシンポジウムとか、そういうものをやってもらったらどうですかね。これは京大建築会でもいいし、あるいは洞竜会がやってもいいかもしれないけれども。そして一人だけじゃなくて、3人くらい立って、共通のテーマについて3人くらいの専門の違う人から、まあシンポジウムのようなもんですね、なんかそういうものをして、そして京大の卒業生だけでなく広く発信する。要するに京都の京大の建築学科を一つのコアにする、それこそ西日本のコアにするくらいのものにしていただいたら、これは生きてくると思うんです。それともう一つ、『traverse』はどうしてこんなに字が小さいんですか。字が小さくて、もうちょっとバリアフリーにしてもらわないと、芸術的な表現かもしれないけど。高齢化対策は、建築や住宅の分野では熱心ですけどね、そういいながら例えば今の字の問題もそうだけど、この頃カメラとかコンピュータとか全部小型化するでしょう。小型化すると部品の全てが小型化してね、例えばスイッチなんかも小型化する。カメラを買ったらね、カメラのフィルムを取り替えるためにはね、爪を立てて小さいのをこうカチッと開けないとね、開かないんですよ。これ、高齢者が一番不得意な操作ですよ。集中してどこかに力を入れるなどは非常につらいのです。だから極端なことを言えば、小さくなればなるほどカメラはもうボタンだらけ、スイッチだらけというのが明瞭なね、デザイン上はまずいかもしれないけど、そういうものでないと高齢者向きにならないよね。ところが現実は小さくなってしかも黒のボディにネズミ色の字が書いてあってしかも、英語で書いてある。これはもう最悪です。これはやっぱりデザインのポリシーがなってない。

−:いや、我々もだらしないんだけど、如何ともしがたいこともありまして。名誉教授室も無くなってしまったし。

巽:そうですよ。来てもね、居るところがないし、それから皆さんをディスターブしてもいかんなという気もあるし。

−:我々外に出てることが多いから。

巽:そうでしょう。居ないことも多いでしょう。だから、こういう機会を年に1回か2回作って頂いたら喜んでやってきます。

−:ちょうど時間です。またお呼びしますので。

巽:はいはい、また。

traverse 巽先生インタビュー 2002.3/8(金) @建築新館318号室

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...