森田司郎 名誉教授 インタビュー
4月16日(月),10時~12時
吉田キャンパス,旧建築本館,会議室
聞き手:古阪秀三,伊勢史郎,大崎 純,石田泰一郎
記録:萩下敬雄
(古阪)traverseで企画しています名誉教授インタビューは,我々が,先生方に当時のお話お伺いするという目的もありますが,昔のことを若い学生に伝えるという意味もあります。桂に移転してしまったので,とくに昔の話を残していくのは貴重です。もう一つは,名誉教授の先生方から今の建築界,京大建築あるいは社会へ苦言を呈していただきたいと考えております。どうぞよろしくお願いします。
(伊勢)私は1998年にこちらに来たので,今で10年目ですが,先生が退官されたのは何年前ですか?
(森田)私は退官して10年になりますが,10年はすぐですね。伊勢先生とはちょうど入れ替わりです。廊下ですれ違いましたかね。
研究室配属の頃
(大崎) 大学に入られて研究室に配属された頃のお話をお伺いしたいのですが。
(森田)僕は昭和28年入学ですから研究室に配属されたのは昭和31年の春です。しかし,当時の研究室配属というのは今のようなものではなく,きわめてファジーなものでした。どこの所属かも不明確で,強いて言えばここだという感じでしたね。
(古阪)その時の学生は何人ぐらいでしたか?
(森田)そのときの同級生は30人でした。私はたまたま坂 静雄先生のゼミを選びましたが,そのゼミの学生は3人でした。そのうちの1人は全く出て来なかったので,実質2人です。
(古阪)坂先生は,洞竜会(建築系教員の懇親会)で遠目に拝見したのが最初で最後です。
(大崎)コンクリート系を選ばれ理由を教えてください。
(森田)坂先生は偉い先生ということを聞いて希望しましたが,コンクリートにはあまり興味がありませんでした。(笑)しかし,私の頭では力学はちょっとものにならないというということもあったので…。4回生のゼミでは,坂先生がしょうがないからつきあいましょうという感じで,本を読みました。今でも覚えていますが,フライ・オットー(Frei Otto)のヘンゲンデ・ダッハ(Das
hängende Dach)という吊り屋根についてのドイツ語の本でした。コピー機もない頃なので,どうしようかと思っていたのですが,もう一人でてくる同級生の渡辺正彦君はたまたまタイプが上手で,カーボン紙にタイプして,転室でローラーを使ってガリ版で刷りましたね。写真は先生の手許の本をのぞき込みました。
(大崎)たまたま横尾義貫先生の学位論文を西澤英和先生からいただいたのでお持ちしましたが,昭和28年のこの論文もガリ版です。その頃は大変手間がかかったのでしょうね。
(森田)そうですね。私もそういうような昔の本はよくでてきます。持っていても仕方がないなというような感じのものもあります。増田友也先生の学位論文の縮版とかもありますね。あれもガリ版ですな。
(古阪)持っておられて個人的に活用されにくい本は建築の図書室に置いたらいいかもしれませんね。
話を戻しますが,坂先生が活躍されているという理由で研究室を選ばれたということでしたが,その当時でも環境系とか意匠系という大きな区分があったのでしょうか。あるいはそれも関係なく全くファジーだったということですか?
(森田)そうですね。僕らの仲間でも誰が何研究室かということは知らなかったです。今のような縦割りのようなゼミという単位はなかったですね。“京大建築の学生は何でも出来るように教育してある”と森田慶一先生が就職先の重役に言ってくれたことをその学生が聞いて発奮したということもあります。
(大崎)京大建築では実務に直接関連することを教えなくて,企業に入って現場で一から教育を受けるという感じですが,当時からそうでしたか?
(森田)そうでしたね。実務は社会に出てから覚えるからという感じでした。社会に出たら,京都大学を卒業したということで,何でもがんばろうという意識があったと思います。大学院を卒業すると,知らないとは言えないので,社会にでてから一生懸命勉強するでしょう。例えば,坂研究室で全然出席しなかった同級生は,就職してから勉強して頑張って,後に準大手ゼネコンの社長になっています。“エーあの人が社長に”と坂先生の奥さんが心配していました。
(古阪)同級生には、建築生産の非常勤講師をしていただいた徳永義文さんがおられますね。
(森田)僕らの同期は多彩です。黒川紀章も同期ですし,みんなそれぞれ多彩に活躍しています。今でも5年に一度は会いますね。亡くなった名古屋大の坂本
順も同期です。
(大崎)その後,大学院に進学されて,研究者になろうと思われた動機を教えてください。
(森田)僕らが就職するころは昭和32年頃ですが,すごい不況期でした。学部卒業で大手ゼネコンに入ったら,皆で万歳して喜ぶような状況でした。学部から大手ゼネコンに行くのは,数人じゃなかったかと思います。就職が難しかったので,執行猶予型で大学院に進学しました。だから僕らの同期では修士に進んだのが異例に多かったですね。30人中10人以上進学しました。
(大崎)定員は曖昧でしたか?
(森田)曖昧でしたね。学部の成績があるレベル以上ならば無試験という制度がありましたが,試験を受ければ大体合格という感じでした。
(大崎)今でいうところの博士課程のようなものですね。
(森田)そうですね。配属されてからも,今みたいに,ソフト面でもでもハード面でも,先生が一生懸命世話してくれるということはありませんでした。机もボロボロのドロまみれの物が1個与えられるだけという感じでしたその机をきれいにして,机を集めてピンポンをして遊んでいたかな(笑)。川崎清先輩もその一人だった。
修士課程の頃(東別館)
(伊勢)学生のころは東別館におられたとおっしゃいましたが,その時の雰囲気を教えてください。研究室の枠がなかったとお伺いしたのですが,そのとき仲間とどのように過ごされましたか? 例えば東別館にどのような人がいて‥。
(森田)東別館の2階の部屋に構造のグループがおりました。修士の学生だけがいましたので,5,6人でしょうか。別の部屋に計画系,環境系が居たのかな。スチールサッシが閉まらない,開かないという状態でした。今の新館が建っている場所に,一階がRCで二階が木造の製図室というボロ校舎があって,そこにドクターコースとか研究員がごろついていました。そこでもゼミという単位はありませんでしたね。
(伊勢)今の桂キャンパスではゼミが細分割されていて,研究室の間ではコミュニケーションがとりにくい状況です。机もきれいで良い研究環境や実験環境が与えられているのですが,学生同士のコミュニケーションがないことの影響を心配しています。
(森田)勉強する部屋を一緒にするというような物理的な対処法でも解決できると思います。私の学生時代は,他の学生の実験を手伝いに行ったりしました。手伝いに行っているのにぼろくそに怒られて,何で怒られないといけないの,というようなこともありましたね。
(大崎)今では不可能に近いですね。
(古阪)専門分化が進んで,各分野の先生も研究室単位の運営を良しとされているのでしょうね。今の桂キャンパスの部屋配置についても,大部屋にするか,今のような設計にするかまさに自由だったのですが,結局伝統的な配置になりました。だから変わらないのでしょう。最も我々に発言の機会はありませんでしたが。森田先生がおっしゃられるような,ワークペースを一緒にするとうのは,いくつか環境系でやっているのではないですか。
(伊勢)環境系も建築学専攻と都市環境工学専攻に分化していて,交流が難しいですよ。
(森田)大体,日本人はそのへんが下手ですね。私が現役の時でもそういう感覚がありました。オープンマインドに行きたいけどなかなかできないというのはありましたね。
坂 静雄先生
(古阪)話を大昔に戻しますが,先生が修士のときは,上に六車 煕先生や金夛 潔先生がおられたのですね。
(森田)そうですね。しかし,学部のときは坂先生1人に指導していただきました。修士のころの構造系のメンバーは,坂本
順とか竹中の久徳,近大の中田啓一とかです。
(古阪)いま名前が挙がったメンバーは全員坂先生の指導を受けていたのですか?
(森田)いえ,横尾義貫先生や棚橋 諒先生も指導されていたと思いますが,みんな指導してくれない先生ばかりでした。(笑)
(森田)だけど,それぞれ,修士論文というものは書きました。修士2年の夏休みになっても坂先生は何も言わないので,研究テーマを催促しに行きました。坂先生は,実験をやってもらうとお金がかかるし困る‥何をしてもらおうかな‥などとおっしゃっていましたね(笑)。
(大崎)坂先生はお金を持っておられたのではないですか(笑)?
(森田)校費としてはそうですね。結局,研究費のついたプロジェクトの手伝いをして,園データを使って自己流に修士論文を書きました。その結果,私はその研究には非常に貢献することになったと思います。一生懸命やりましたからね。
(古阪)坂先生がRC構造の本を書かれたのはそのころですか? 非常に分かりやすい本で今でも覚えています。
(森田)学部の時は,坂先生の書かれた「鉄筋コンクリート学教程」という本が教科書で,授業では,その本の数10頁の部分に関して何か質問があるかと聞かれ,学生は全員うつむいて黙っていましたね。すると,“来週は50~80頁まで勉強して下さい。今日はこれで終了。”
(大崎)坂先生は非常に厳しい先生で,学部の最初の講義で何か質問はあるかと聞いて,5分間質問がないと講義を終わり,その次の講義も5分間質問がなければ終わりというようなことをされて,これではいけないと学生が3回目の講義で質問をすると丁寧に説明をされたというお話を聞きましたが,そのようなことは実際にありましたか?
(森田)いえいえ,私は丁寧に説明された経験は全くありません。誰かが質問すると,それはミスプリです。あなたたちが質問しないのは,外国の本を読まないからですというようなことを言われていましたね。学生には外国の本を読む動機がありませんでしたけど。
(大崎)その時はドイツ語の本を翻訳するのが研究として残っていたときですね。
(石田)5分間黙っていた学生は,教科書を勉強してすでに理解しいたということですか?
(森田)そうですね。読んでいたら難しいこと書いていないですが,あの講義は5分うつむいて,黙っていればよかったのですよ(笑)。
(石田)今そんなことをしたら授業評価等で大変なことになりますね。最悪の場合は,学生の親に怒られますよ。でも,それで教育が成立していたのなら良いのかもしれませんね。
(森田)そうですね。それから,試験のときは,わりと監督が機能していませんでしたね。前後左右を参照しながら受けました。ただし,同じことを書くとバツにされました。“見ても良いけど,同じことを書くな”というような学生間の自主性もありましたね。
修士課程の修了後
(大崎)修士課程修了の後はどうされましたか?
(森田)昭和34年に修了しました。修了後は構造設計をしようと思い,将来は,自営してやろうと思っていました。そこで,教室主任の前田敏男先生に東畑謙三先生の設計事務所を紹介されて就職しました。その頃は,教室主任は毎年,前田先生でした。一番若い教授だったからですが。
(大崎)それからしばらく勤められたのですか?
(森田)1年2か月働いて,助手として京都大学に戻ってきました。東畑先生の所に行ったのは良かったのですが,京大の大学院を卒業したのなら構造は何でも知っているのだろうということで,何から何までやらされました。寝る時以外は仕事していたという感じだったので,かなり痩せ細って,親が心配していましたね。これはしんどいという時に,六車先生から大学に戻るお話を頂きました。大学も人手不足だったのでしょう。
(大崎)その頃から少しずつ学生が増えていったのですか?
(森田)そうですね。漸増していきました。設計事務所ではしんどくてたまらんので大学に戻って楽をしようと思っていたら,案の上,楽でしたけど‥。逆に何もやるノルマがなくて,何をするか探すのには苦労しましたけどね。
(大崎)助教授になられたのは?
(森田)35年に助手として戻ってきて,36年に講師になりました。人手不足で講義を手伝わないといけなかったからだと思います。実質は構造材料の講義と実験の補助をしていました。記憶が確かではありませんが,中村恒善さんはアメリカから戻ってきて立命館におられ,その当時は力学を教える専任の教官がいなくて,私が力学の講義の一部をしたかもしれません。
講義と研究
(大崎)その後,材料学講座に移られて,建築材料の研究をされたのですね?
(森田)建築材料の講義はずっと非常勤講師のお任せになっていました。研究は私の材料ではなくRCとか構造材料でした。建築材料は,教育対象としても研究対象としても難しいです。材料の講座が建築学科に昭和40年頃できたのですが,担当教官は空席続きでよかったですね。その後,私自身は第2学科に移ったりしたと思いますが,昭和54年,残念ながら,私には建築材料の研究をした実感も実績もありません。昭和39年頃に建築材料学講座が増設されていますが,それ以前も以後も建築材料の講義は非常勤講師にお願いするのが教室の方針でした。材料の講座は担当教官が実質不在のままという良き時代が続いています。昭和53年に私が材料講座担当教授にしていただきました。その間の所属は不確かですが,実質は六車先生のところの助教授の役割で,RCの研究をしていました。講座担任の教授が建築材料の講義をしないわけにはいきませんので,担当しますが,最初の5年ぐらいは,一般材料はゼネコンや事務所の方々に非公式に講義を分担してもらいました。さぞ迷惑だったろうと思いますが,皆さん見本を会社から持参して熱心に協力下さいました。こんな無理も続けられないので,教科書を共著で書いて,それを使って自前で講義をしたのは停年の10数年前からとなります。建築材料全般について教育対象にするのも,研究対象にるすのも非常に難しいことだと思います。
(大崎)材料の研究は,最近では先端的な研究になってきていますね。以前は古典的な分野でしたが。
(森田)一部についてはそうですね。昔は与えられた材料をうまく使う側の立場でしたが。今は作るという立場,うまく組み合わせて新しい性能を創るという立場も少しずつ増えてきています。
(大崎)教育と研究,そして,社会的役割とのギャップについてお話していただけますか?教育についてはどのように考えておられましたか?
(森田)教育では建築材料,ガラスとか,ビギナーに幅広く教えないといけない。しかし,研究はRCをやっていました。それをうまく住み分けしなくてもよい立場の先生を非常に羨ましく思っておりました。しかし,それで給料をもらっているのでしかたがないと割り切って,精一杯講義をやっていました。
京都大学以外の先生は私が建築材料を教えているということに驚いていたみたいですね。東京大学ではその辺の区分,住み分けが厳密だったと思います。例えば,武藤・青山研究室では,RCはやってもコンクリートはやらない。浜田・岸谷研究室では,コンクリートをやるけれど,RCはやらないとかですね。それが関東系列大学の住み分けの手本になっている。隣の家とは垣根越しにはケンカしない。関西系ではこの垣根がない坂先生の考え方が影響していると思います。RCを研究するには,これに関するコンクリートの性質の研究が必要だと云う立場でしょう。それが伝統としてずっと今でも続いているようです。
東大の建築の外部評価委員をやったとき,皮肉交じりに明治時代の縦割りが現在までずっと続いている東京大学と書いたら,東大の教室主任の鈴木先生は批判とは受け取らず,誇らしげに報告書に書いていました。
(大崎)構造ではその垣根がなくなる傾向にありますね。鉄骨の先生が解析をしたり,防災の先生が鉄骨をしたりということがあります。
(森田)講座数も増えたからでしょうが,やはり本家があり,弟子はここにいてというのもあって,研究の対象は変遷しても,考え方の伝統は脈々と受け継がれているのが良いのではないかと思います。
坂記念館
(古阪)坂記念館は今では幽霊屋敷みたいになっていますが,その設立の背景等をお教えて頂けませんか?
(森田)坂記念館ができるまでは,坂先生が図面を引いて建てた工学部全体の実験施設(工学研究所)を使っていました。坂先生が退官されるときの記念として,実験室をつくろう,しかも大型のものを,実験できるものを作ろうということで,六車先生が中心となって寄付を募って造られたがPC構造の坂記念館です。予算は1000万円前後だったかな。文部省の出資ではないです。
(古阪)坂先生が退官される前に記念館はできあがっていたのですか?
(森田)どうでしょうか。昭和35年には完成していましたね。
(伊勢)坂記念館2階を音響実験室として利用しています。
(森田)あそこの2階は,もともと昔は坂先生の部屋だったのですよ。
(伊勢)それで使いにくいのですかね(笑)。
(石田)建物は寄付で建設することができるとしても,今では,スペース(配置)の問題で大学構内に簡単に建物を建てるのが難しいです。
(森田)当時は,そういうことは難題ではなかったのでしょう。昔は場所がかなり空いていましたから。
(伊勢)その時の風景は良かったでしょうね。
(森田)昔はテリトリーが漠然としていましたね。だから,坂記念館はどこに建てても良かった。その時の風景は牧歌的で良かったですよ。テニスコートがあってね。計算機センターもなかったし。
(石田)そのころの写真は今では貴重ですね。
総合試験所
(古阪)日本建築総合試験所の設立趣旨について,若い人に伝えるためにお伺いしたいのですが?
(森田)建設省の建築研究所が東京にありましたが,関西で実験をしたい思った時に,そこまで行くのは遠いので,関西でも大規模実験ができる施設を作ろうということで日本建築総合試験所が設立されました。官庁や建設業,建築材料メーカー,建築事務所など広範囲からの基金で設立した財団法人で,建設省の認可法人としてスタートしました。その後は,通産省の所轄法人としても機能しました。
(古阪)建築センターの関西版とも言われているようですが?
(森田)そういう役割も期待されていたようですが,非常に制限されていました。建築センターが独占的に認定等の事業ができるようにと言うことでしょうか。個人名は言えませんが,建設省の高官だった元理事長がそういう方針を鮮明に貫かれました。
(大崎)日本建築総合試験所の最初の理事長はどなたですか?
(森田)設立の経過をよく表わしていて,日本板硝子の社長さんが非常勤として初代理事長に就任されました。坂先生が所長で,東畑事務所の東畑謙三さん,日建設計の塚本さんなどの財界の人が副理事長に就任されていました。その次に,坂先生が理事長を継がれたのですけど,その当時から,建設省の天下りの受け皿になれという圧力が非常にあったそうです。そのような口を挟ませないために前田先生が坂先生の次を引き受けられたようですね。それは,ポリシーとして良かったのではないでしょうか。私で6代目ですが,この10年間ぐらいに事業内容が多彩になって,現在は構造計算適合性判定機関というのを立ち上げなければならないので,苦労しています。
(大崎)材料の認定よりも最近は構造の評価の比重が大きくなっているということですか?
(森田)設立のときは100パーセント試験機関で,私が入るまではまだそうだったのです。それからいろいろ,古阪先生にも手伝ってもらって,ISO9000認証,JIS製品認証,建設基準法に基づく性能評価,確認検査,などの事業を行っています。全事業収入の30%はこれらの諸事業によっています。適合性判定機関をやるとその比率がさらに上がってきますね。
(大崎)適合性判定機関についてはどのようにお考えですか? ピアチェックとか性能判定法を実際に規定するとか…
(森田)かなり私は批判的ですね。今年の6月20日に施行ですから,今となってはそんなことを言える立場ではないですけど。スムーズに進まないと建築活動自体に支障をきたしますが,上手く機能するかどうか心配です。
この時期にこういうことにしないと社会に対してエクスキューズができないという焦りが国交省にあったのでしょうね。法令違反が生じないように,細かい規制が行われます。法律自体に品格がないです。細かな実験式が法律の中にでてくるのは品格がない。そういう奇麗ごとばかりも言えませんけどね。
(古阪)構造ばかりでなくて,環境工学とか,ベンチレーションとかにもそのような規定が増えたようです。
(大崎)学会のほとんどの先生方が法律には式を書かないで,適切な方法で性能を検定するということだけで良いじゃないかと言っておられます。
(森田)そうですね。しかし,実際,適切ということを誰が判断するのかということについて国が非常に心配なのでしょう。
(大崎)それは,建築技術者が信用されていないということでしょうか。あるいは人材不足ということでしょうか?
(森田)構造設計,建築技術者そのものが社会的に信頼されていないというように国交省が理解しているのでしょうね。そのような理解を否定できない現実があるのも事実です。
(古阪)国交省だけではないと思います。私の理解では構造設計者だけでなく,建築士が信用されていなようです。構造や環境の先生はあまり表に出ていないですからね。建築士に対する信頼感がないのでしょう。
(森田)そうですね。全く信頼感がないのでしょう。建築士のリーダーたち自体も特権を守るためだけに躍起になっている感じがします。職能団体として機能していないですね。自分の既得権益ばかりを狭々と守ろうとしている。
(古阪)しかし,行政が分からなかった事も事実です。構造設計の報酬の基準がなかったことも原因ですし,誰もその決め方を知らない。構造設計の職能に関するその視点もずいぶん変わってきていますが,今回の基準法改正での第三者のダブルチェックは明らかにエクスキューズのためであり,本当に急ぎすぎた法改正だと思います。私は,逆に動かない方が良かったのではないかと思います。法改正ではなく,法律の下の規則の部分でやるべきでした。
環境系について
(伊勢)私の専門は音で,石田先生の専門は光ですが,森田先生が学生の時に環境系という区分は存在していましたか?
(森田)私が学生の時は,少なくとも前田先生が全部やっておられたですね。それから,松浦先生が初めての講義をおずおずとされたことを記憶しています。あっちで光って,こっちに光が反射して,それからあちらに反射してという…相互反射理論というのを説明して頂いたのですが,ご自分でも分かっていらっしゃらなかったのかもしれません。あれが今でいう環境系の初めての講義でしたね。
(伊勢)環境系ができるための社会的なニーズのようなものがあったのですか? なぜ新しい系ができたのですか?
(森田)それまではいわゆるアーキテクトの素養・常識としての建築設備であり,技術だったのでしょうね。この教室でも,例えば藤井厚二先生は,自然換気等について自分で家を建てて実験するぐらいの強い興味を持っておられたと聞いています。照明や音はアーキテクトの理解しておくべき技術の一部という位置づけだったのでしょう。それでは限界があるので専門のフィールドをくらないといけないということで,昭和10年頃に渡辺要先生がそういうフィールドをまとめられたのでしょう。前田先生が満州で冷暖房とか換気とかの基礎工学を独創的にやられて,そこから京都大学に環境系ができたのでしょうね。
前田先生環境系の各分野に非常に影響力がありましたね。開祖者と言われるような研究をされたのではないでしょうか。有名な逸話がありまして,プロフェッサーアーキテクトがカジュアルな服装で建築学会にくるわけです。それが前田先生の神経にふれて,掴み合いの喧嘩になって,それを坪井善勝先生がとめたという話があります。これは,伝説になっていますね。
ちょっと話がそれましたが,つまり,アーキテクトが工学の基盤がないまま経験的に光や音や熱に対する設計をやるのは限界があるということで,環境系ができたのでしょうね。
(大崎)その頃は,環境系に細分類はなかったのですね。
(森田)そうですね。その当時は建築設備と言ったのですけど,環境のそれぞれの先生に得意分野はありましたが,全部カバーしていたのでしょうね。
(伊勢)最初に環境系を発足させた時の思想と実際の今の状態はかなりずれがあると思います。環境が設計のなかで大切だということは分かるのですが,今のゼネコンのように細分化された設備の設計フィールドをみると,環境全体を見通せる状態ではないようになっていると思います。
(森田)環境とおっしゃてるのは,建築物内の環境という狭い意味での環境ですか?
(伊勢)そうです。建物ができた後の環境のことですが,人の生活を統合的に考えた環境ではなく,個々の設備の話になっています。そのずれをどうすれば修正できると思われますか?
(森田)現在,建築基準法改正で,一級建築士のステータスを上げる工夫として,特定構造一級建築士ならびに特定設備一級建築士というのを立ち上げようとしています。しかし,その対象者をどうするかという問題があります。特に、設備に関しては,実際に設計しているのは,建築の卒業生ではなくて,電気や機械の卒業生ですね。しかし,その中で,設備を専門とするスペシャリストの位置づけをする時に,一級建築士を持っている設備設計者が少ないので,位置付けをしにくいと思います。設備設計の方法を再構築するのは難しいです。大学でも分化と統合のバランスを考えられると良いですね。
(大崎)構造ならばある程度全体を理解できます。鉄骨をやっている人もRCのことは大体分かる。でも,環境系で熱・音・光となると恐らくお互いのことは分からないのでしょう。別の問題として,論文を書こうとなると技術的なことになって,人間の話はしないですよね。だから,概念的なことは論文ではなく建築雑誌等に書いてもらわないといけないのではないでしょうか?
(伊勢)そうですね。環境系ができた時の最初の前田先生,松浦先生の時代での,環境設計士とでも言うのかな。熱や光や音の再分化された知識を知っているということではなく,環境設計の統合的な人間を中心にして建物をどう作るかという視点で教育できるとよいですね。
(森田)例えば,環境系のビギナーにとっては,建築の中の環境の様々な要素がどのように人間と関わっているか,建物の性能に設備がどう関係するかというのがトータルとして,なかなか,分かりにくいのでしょうね。構造ならば,柱があって,梁があって,実物の建物と直接的に関係しているので分かりやすい。設備は隠れている部分が多いですね。それをビジュアルに説明するような努力を,特に学生・ビギナーにされるのがよいと思います。興味を持たすには良いかもしれません。
例えば,総合試験所ではいろいろな分野の実験をやりますが,そのなかで見学の学生に何が一番面白いかと聞くと。風洞実験が面白いといいますね。なぜかと聞くと,結局,そこには,梅田地区の模型や都庁の模型があり,建築と直接関わっていると感じることができるからという理由だけです。やっている内容はセンサーつけて風圧を測って,それを表現するだけなのですが,模型が,風洞のなかで回るのを見るだけで親しみを覚えるのですね。環境系でも設備が建物の性能にどう影響しているのかを教えることが必要だと思います。そのような教育方法を研究的に取り上げて,それを開発して頂きたい。そうすれば学生にも興味が伝わるでしょうね。
京大建築への期待
(大崎)話題を教育に移して,大学院教育について,苦言を呈して頂きたいのですが? 最近の傾向は,国の方針として,学生に丁寧に指導するということになっていますね。
(森田)そうですか。先生方が大変だと思います。我々は研究成果を揚げないと大学の教官としては,存在感がないと思っていました。今は教育ということが厳しくなっているのでしょうね。
(古阪)いえ,教育についての思想は10年前とそれほど変わっていないと思います。私自身の主観ですが,教育を雑用的にやっているという感じがしますね。大学当局が言う教育と我々の言う教育とはかなり違っています。やはり,教員の評価は研究にあり,教育にはありません。少し評価方法を変えようという動きはありますが,それでもあまり変わっていないと思います。
(森田)教育を評価する視点が明確になっていなければそういうことになるでしょうね。私が現役のころは,力学とか基本的なことは垣根をつくって狭い範囲でやっているという感じがしました。これからは色々な分野の総合が必要だと言われていますが,総合するためには,それに向かった秩序立った教育が身についていないと実現できないと思います。アメリカの先生と比べると,僕らは少しごまかしていたという気がします。特に,建築は範囲が広いのでどういう範囲までを統合して教育をすればよいのかということは難しいでしょうね。
(大崎)もうそろそろ時間が少なくなってきていますので,今後の京大建築への期待をお聞かせください。
(森田)桂キャンパスができて,少なくとも入れ物としてはどこに出しても恥ずかしくないものができたと思うのですが,研究や教育にどう活用するのかということが問題ですね。皆さんかなり大変でしょうが,あの施設をフルに活用するにはいろいろと難しいことがあるということは想像できます。例えば,今日はここ(吉田でのこの会議)が終わるとあっちに戻らないといけないというようなこともネックですし,焦らずにやってください。
例えば,外国の大学の先生が日本に来たら,日本の大学は訪問してもつまらないというのですね。あまり施設もないし。人と会うだけなら大学の外で良いし。でも,桂キャンパスをフルに機能させたらそれは結構魅力的です。日本に来たら京大に行こうということになれば良いですね。
(大崎)京大の学生に期待されることはありますか?どのような人材がほしいとかいうことはありますか?
(森田)応用が利くというか,クリエイティブにやれるような人間が欲しいですね。この人がこの分野では最先端に成長するというような核になれる人材が求められるのではないかと思います。皆が核になっても困りますかな。
(石田)社会に出てから最先端に到達できるということでね。大学を出た時点では最先端までは行けないにしても,その行き方を知っているということですね。
(森田)そうですね。これは大学の中だけではどうにもならないでしょう。人材はあまり凝り固まらない人がよいです。先生の人間性も影響しますが,結局,まずは人の意見をよく聞くということですね。
横尾先生
(大崎)もしよろしければ,お亡くなりになられた横尾先生の思い出を教えて頂きたいのですが。
(森田)横尾先生は非常に柔軟性のある先生でした。横尾先生には,私の学位論文の公聴会に出席して頂いて,意見を云っていただいて,その後の研究をそちらの方向に変えたということがありました。その時私の研究はモノトニックローディングの世界だけでしたが,復元力特性に関するご意見を頂いて,その方向に発展させたら,有限要素法の解析で実際の現象に即したモデルを皆が欲しがっていたので,とてもタイムリーな研究になりました。横尾先生には,タイムリーに様々な刺激を与えていただいたと感謝しております。
そのほかには,時々横尾先生が突然,研究室に入ってこられて,通常は考えないようなことを不意に聞かれて,答えに窮して,今度お会いする時までに答えられるようにしておかないと思い,答えを用意しておくと,質問されたことを忘れておられるようなことがしばしばありましたね。横尾先生は非常に頭の回転が速く,柔軟なものの考え方をされる先生でした。
(大崎)そろそろお時間のようですので,これで終わりにさせて頂きます。ありがとうございます。
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