Mr.建築家・・・前川國男というラディカリズム
布野修司
プロローグ
生前の前川國男にたった一度だけ合ったことがある。同時代建築研究会[i]1(一九七六年~一九九一年)の結成当初、仲間たちと日本の近代建築の歴史を生きてきた大御所に話を聞く機会を集中して持った。山口文象、竹村新太郎、浜口隆一、高山栄華、前川國男、土浦亀城・・・と、戦前戦中期の建築界の動向をめぐって次々に話を聞いて回ったのである。戦後50年を迎えた今振り返ると実に貴重な体験であったと思う。ただ、前川國男の場合、内容については印象が薄い。ほろ苦い、気恥ずかしさのみが思い出される。
東京麻布の国際文化会館の一室であった。研究会の主旨とインタビューのテーマについて口を開いた途端、いきなり、質問が飛んできたのである。
「君たちの言う、近代建築とは何か、まず説明して下さい。」
一瞬、口頭試問を受けているような錯覚に陥った。最初に口を開いた手前、僕が答える羽目になった。しどろもろである。
「近代建築とは、一般的には、鉄とガラスとコンクリートを素材とする四角い箱形の、ジャングルジムのようなラーメン構造による建築形式、いわゆるインターナショナル・スタイル(国際様式)の建築をいいます。でも、僕らは近代建築を単にスタイルの問題と考えているわけではありません。近代建築は、産業社会のあり方と密接に関わりがあり、建築の工業生産化を基本原理にしています。土地土地で固有のつくられ方をしてきた建築のあり方と近代建築は異なり、どこでも同じようにつくられることを理念とするわけで、建築の標準化、部品化を前提とします。近代建築は、工業生産化によって、安く大量の建築を人類のために供給することを理念としてきました。近代建築とは、要するに・・・・と僕は考えています。」
実際は、よく覚えていないのであるが、以上のようなことをたどたどしく答えたように思う。
「まあ、大体、いいでしょう。」
合格点はそこそこもらえたらしい。門前払いは喰わなかったのである。冒頭の先制攻撃に怯んでしまったのであろう、前川國男との二時間足らずの初対面の記憶は薄い。
ただ、「近代建築とは何か」と問いかける声だけは今も強烈に耳に残っている。
日本の近代建築家=前川國男
前川國男の建築家としての軌跡は、そのまま日本の近代建築の歴史である。少なくとも、その歴史と重なっている。日本の近代建築の歴史を一人の建築家を軸にして書くなどということは普通できるわけではない。他に挙げるとすれば、丹下健三、あるいは西山夘三が考えられるぐらいであろうか。磯崎新が、最初の四半世紀( )を堀口捨己に、次の四半世紀( )を丹下健三に、そして、その後を宮内康に、それぞれ代表させるユニークな歴史観を示している[ii]2けれど、普通は時代時代で代表的な建築家と作品を挙げるやり方がオーソドックスだろう。
しかし、前川國男の場合、特権的である。前川國男とMID( )同人、丹下健三も含めた前川シューレを考えるとその流れは日本の近代建築の滔々たる主流である。前川國男はそれほど偉大な建築家であった。「前川國男は、おそらく誰しもが認めるように、日本近代建築の精神的支柱であった」と原広司はいう[iii]3。その評価は定まっているといっていい。
日本の近代建築の成立時期をどう見るかは議論のあるところであるが、およそ、日本の近代建築運動の先駆けとされる日本分離派建築会の結成(一九二〇年)から「白い家」と呼ばれたフラットルーフ(陸屋根)の住宅作品が現れ出す一九三〇年代後半にかけて成立したと見ていい。普通、日本の近代建築史というと明治維新から書き起こされるのであるが、明治・大正期は、近代建築受容の基盤整備の時代であった。前川國男は、日本に近代建築の理念が受容されるまさにその瞬間に建築家としてデビューし、その実現の過程を生きたのである。
一九三〇年にコルビュジエのもとから帰国して以降、前川國男は全てのコンペ(競技設計)に応募する。そして、落選し続ける。「日本趣味」、「東洋趣味」を旨とすることを規定する応募要項を無視して、近代建築の理念を掲げて、わかりやすくは、近代建築の象徴的なスタイルとしてのフラットルーフ(陸屋根)の国際様式で応募し続けたからである。この前川國男の軌跡は、日本の近代建築史上最も華麗な闘いの歴史とされる。そして、その軌跡をもって、日本の近代建築の受容が確認できると歴史に書かれている。
前川國男は、堀口捨己ら分離派の世代より一〇才年下であり、そうした意味では日本の近代建築の第二世代である。しかし、日本の近代建築が全面開花するのは戦後のことである。そして、戦後建築を主導したのが前川國男と丹下健三、そのシューレである。振り返ってみて、日本の近代建築の黄金時代というと、一九五〇年代、そして一九六〇年代である。建築ジャーナリズムの歴史を追ってみれば明かである。また、日本建築学会賞などの受賞歴がその輝かしい存在を示している。戦後建築の流れのその中心には、常に前川國男がいたのであった。
前川國男の「暗い谷間」
前川國男が最後までフラットルーフの国際様式によってコンペに挑み続けたというのは事実ではない。また、日本ファシズム体制に抗し続けた非転向の建築家であったというのは神話にすぎない。前川國男が侵略行為に決して荷担しなかった、というのも神話にすぎない。まして、戦争記念建築の競技設計へ参加しなかった、というのは史実に反する。その歴史は必ずしも栄光にのみ満ちた歴史ではないのである。もっともらしく語られる物語はこうだ。
敢然と近代主義のデザインを掲げてコンペに挑んだ前川國男は、ついには節を曲げ、自らの設計案に勾配屋根を掲げるに至った。パリ万国博覧会日本館(一九三七年)の前川案には確かに勾配屋根が載っている。また、在盤谷日本文化会館のコンペでは、あれほど拒否し続けた日本的表現そのものではないか。コンペに破れ、志も曲げた。前川國男は二重の敗北を喫したのだ。
この時期を前川國男の「暗い谷間」といい、その掘り下げを主張し続けるのが宮内嘉久である[iv]4。また、当時既に、浜口隆一が「日本国民建築様式の問題」(『新建築』 一九四四年)を書いて、日本の近代建築のはらんだ問題を指摘していたこともよく知られている。「日本的建築様式の問題」、「戦争記念建築の問題」によって、日本における近代建築の潮流が危殆に瀕し、多くの建築家が近代建築思想を放棄し、脱落したという見方は一般にも共有されているところである。
日本ファシズム期における建築家の問題は、井上章一の『戦時下日本の建築家』[v]5が焦点を当てている。コンクリートの躯体の上に日本の伝統的な建築の屋根を乗せる帝冠様式の問題を軸に、忠霊塔(一九三九年)と大東亜記念営造計画(一九四二年)、さらに「在盤谷日本文化会館」(一九四三年)というコンペをめぐる建築家の言説と提案を徹底的に問題とするのである。
井上章一が全体として主張しようとするのは、前川國男に代表される日本の近代建築家の全体が究極的には転向、挫折していること、従って、戦中期の二つのコンペに相次いで一等入選することによってデビューすることになった丹下健三のみが非難されることは不当であること、さらに、帝冠様式は日本のファシズム建築様式ではないこと、帝冠様式は強制力をもっていたわけではなく、少なくともファシズムの大衆宣伝のトゥールとして使われたわけではないこと、さらに、戦時体制下における帝冠様式をモダニズム以後をめぐるものと位置づけポストモダン建築の源流とすることなどである。
ドイツ、イタリアに比べれば、日本のファシズム体制が建築の表現に関する限り脆弱であったことはその通りであると言っていい。ただ、日本的表現の問題、日本建築様式の問題が建築家の意識の問題としてはファシズム体制に対する態度決定を迫る大きな問題であったことは無視されてはならないと思う。また、それにも関わらず、日本の建築家が全体として日本ファシズム体制に巻き込まれていたというのもその通りである。ただ、なぜ、そのことをことさら強調するのか、という意図について異和感が残る。さらに、ファシズム体制を建築様式の問題としてのみ問うのにも不満が残る。特に、ポストモダンの源流が戦時体制下の帝冠様式にあるということになると、日本の建築モダニズムは移植される以前に超えられていたことになる。日本の近代(産業)社会のあり方との関係で近代建築のあり方を問う前川の視点からすると余りに乱暴である。前川國男における日本回帰の問題は、もう少し掘り下げられる必要がある。
前川の戦前期の全論考は、ほとんど「伝統と創造」、そして「様式」をめぐって展開されているのだ。平良敬一は、単なるモダニストではない前川國男における日本的感性を論ずる[vi]6。また、大谷幸夫は、前川國男における伝統と近代の葛藤、あるいは調和を問う[vii]7。
問題は、より一般的に、建築における「日本的なるもの」である。日本趣味、東洋趣味、日本建築様式である。日本の近代建築の搖籃期におけるモダニズムとリアリズム、インターナショナリズムとナショナリズムの相克が、建築における「日本的なるもの」をめぐる一貫するテーマとしてある。前川國男が引き受けようとしたのは、まさにその問題であったのではないか。そうした意味では、前川國男の、ひいては日本の近代建築の原点は、この「暗い谷間」にこそあると思う。僕らは、今猶、建築の一九三〇年代の問題を引きづっているのだ。
単にスタイルの問題として日本のモダニズム建築のの皮相さをあげつらうことは、日本の近代建築がはらんだ根っこの問題を無化することになる。前川國男のモダニズムは、ひいては日本のモダニズム建築は果たしてそんな薄っぺらなものであったのか。前川國男が拘ったのは単なる勾配屋根ではない。単なるスタイルの問題ではない。「私の・・・主張せんとする所は決して所謂「屋根の有無」と云った枝葉な問題ではない」[viii]8のである。
「ホンモノ建築」・・・前川國男のリアリズム
前川國男の戦時体制下における、ひいては一生を賭けての闘いは、一体何に対する闘いであったのか。
「負ければ賊軍」[ix]9以下一連の文章を読んでみればいい。怒りが行間に満ちている。この怒りは、単に若さに特有なものなのであろうか。そうではあるまい。言葉にはただならぬ力強さ、迫力がある。前川國男の闘いを、少なくとも、コンペをめぐる建築界の主導権争いや利権争い、閥や世代やコネの世界の下世話な物語に封じ込めてはならないであろう。
前川國男には近代建築の理念についての確信があった。堀口捨己が、一九三〇年代には、茶室や草庵など日本的なるものへの傾斜を深めていったことを思うと前川國男の確信は際だっているといっていい。この確信はどこからくるのか。
コルビュジエのアトリエでの経験が決定的であったことは間違いない。前川國男がパリに到着し、初出勤した日にコルビュジエは、竣工したばかりのガルシェのシュタイン邸(一九二七年)を見せたという。また、滞在した二年の間にサヴォワ邸(一九三〇~三一年)の設計が行われる。サヴォワ邸に象徴される近代建築の鮮烈な理念とイメージは、建築の向かうべき方向を確信させたに違いないのである。
しかし、一方、その日本における実現のプロセスについてのとてつもない困難さが同時に意識されていた。如何に近代建築の理念を定着し、現実化するかこそが最初から問題であった。
「負ければ賊軍」において、怒りが向けられているのは単に「東洋趣味」、「日本趣味」を旨とするコンペの規定だけではない。「負ければ賊軍」においてアジテーションの矛先は、むしろ、コンペに参加しない戦わない同世代の仲間に向けられている。ありとあらゆる機会を捉えて戦うべきだ、執務に縛られた建築家にとって「設計競技は今日の処唯一の壇場であり時には邪道建築に対する唯一の戦場である筈」という認識があった。コンペは手段であって目的ではないのである。
彼の根底には、「如何に高慢な建築理論も理論は結局理論に過ぎぬではないか」[x]10という思いがあった。「足を地につけた」「執拗な粘り」が出発点から問題であった。
「欧米の新建築家の驥尾に附して機能主義建築合理主義建築とやらを声高に叫んだ建築はあった。之を目して小児病的狂熱と罵った建築家もあった。然し此等の建築と四つに取り組んで死ぬ程の苦しみをした建築家のあった事を未だ知らない。」[xi]11
前川國男は、死ぬ程の苦しみを引き受けようとしたのであった。前川國男の目指したのは、「平凡極まりない」「ホンモノ建築」であった。しかし、その実現は当初より容易なことではなかった。「わが国における建築技術が、いまだ近代的技術の域に達しておらぬ」し、「建築構造學、さらに建築構造学を基礎づける建築本質認識の学としての本来的な建築学の未完成が横たわる」し、・・・、要するに、日本は「建築の前夜」[xii]12なのである。
「ホンモノ建築(の完成するのは:筆者補注)は結局社会全体にホンモノを愛する心の醸成された時である。すなわち社会全体がホンモノとなって足を地につけた有機体として活動する時である。思えば遥かな途である。」[xiii]13
確かに、「ホンモノ建築」実現の途は、前川國男が自ら予見していたように、その一生かけても余りある遥かな途であった。
「世界史的国民建築」・・・伝統と創造
「ホンモノ建築」という概念こそ、近代建築家のものである。近代社会と建築のあり方について、また、建築の構造材料、技術と建築様式のあり方について、「正しい」、「ホンモノ」の関係、普遍的原理があるというのが前川の確信であった。
ところが、前川國男は、やがて「日本精神の伝統は結局「ホンモノ」を愛する心であったではないか。」[xiv]14という。ここに、日本建築の伝統とモダニズムの受容をめぐるひとつの解答がある。すなわち、日本建築の伝統の中に近代建築の理念、原理、すなわち「ホンモノ」の原理を見る、そうした主張がここにある。
「渡来して百年にも満たざる此新構造を用いて如何にして二千年の歴史を持つ日本木造建築の洗練さをその形式の上から写し得るであろうか」と、前川は「我々は日本古来の芸術を尊敬すればこそ敢えて似非非日本建築に必死の反対をなし」た。建築というのは、時代時代の構造材料に「一大関係を有って生まれ出でたもの」である[xv]15。前川國男にとって、重要なのは、「一にも二にも原理の問題」[xvi]16であった。浜口隆一によれば、問題はスタイルではなく、フォルムということになる。
日本趣味、東洋趣味を条件として規定した戦前期のいくつかのコンペが象徴するように、しばしば建築表現の問題は様式(スタイル)の問題として争われる。国際様式か、帝冠様式か、というのはわかりやすい図式である。しかし、日本における近代建築の受容がスタイルの問題としてのみ議論されるところに大きな限界があった。わかりやすく言えば、木造住宅で陸屋根(フラーットルーフ)の四角な形をつくるといったことが行われてきたのである。こうした日本における近代建築受容の問題点は、戦後間もなく書かれた浜口隆一の『ヒューマニズムの建築』(雄鶏社 一九四七年)においても的確に触れられているところだ[xvii]17。
日本においては近代建築が日本の地盤から自然に生まれたものでなく、ヨーロッパから移植されたものであり、ヨーロッパの近代建築家にとっては結果の位置にある問題に過ぎないものが、日本の近代建築家にとっては、制作にあたっての前提の位置にある問題であったこと、その結果、技術水準とスタイルにおける国際性のみを満足させるような課題のみを意識的に選んで制作することになった。
スタイルを問題にする限り、戦中期の戦争記念建築のコンペにおける日本の伝統建築の屋根形式の採用は近代建築家にとっての屈辱であり、敗北である。浜口は、そのことにおいて日本の近代建築の潮流は、ほとんど「瀕死」の状態にたちいたったという。しかし、完全に死滅したというわけにはいかない。モニュメンタリズムには荷担したけれど様式建築(帝冠様式)には反対し続けた建築家として、丹下、前川を擁護しようとする。彼らはスタイルではなく、フォルムそのものを問題としたのであり、最後の一線は死守されたというのである。
前川國男にとって、近代技術による新しい建築様式の建設が一大テーマであった[xviii]18。従って、木造建築についてはそう価値を置かない。「「木材」の如き自然材に依存する限り、本来的な意味に於ける近代的工業生産は當然成立し難い」[xix]19というのである。しかし、構造材料と様式の関係についての前川國男の原理的理解によれば、木造の自邸や木造であることを条件にした「在盤谷日本文化会館」の伝統的「民家」や「神明造り」の表現の採用は、必ずしも、節を曲げたことにはならないだろう。しかし、前川が次のように言う時、それは転向のひとつの形であったとみていい。すなわち、そこでは、近代建築の普遍原理が「日本原理」に無媒介的に結びつけられるのである。
「我等の祖先が木と草とで或いは紙を加え漆喰を用いて雨を凌ぎ風を防いだあの素朴な「日本原理」に従って我等の技術を神妙に地道に衒気もなく駆使して行かねばならぬ。」
より一般的には、桂離宮に近代建築の理念を見いだすといった形の転移がある。インターナショナルなものの日本への定着というヴェクトルから、日本的なもののなかに合理性を、ナショナルなもののなかにインターナショナルなものをみるヴェクトルへの転移がある。
前川國男の建築観を伺う上で、戦前期における最も重要な論文は、「覚え書ーーー建築の伝統と創造について」[xx]20であろう。そこで、意匠、表現あるいは様式という建築の形の問題を基本的に文化の表現の問題として捉える前川は「創造は深く伝統を生きる事であり、伝統を生かす事は亦創造に生きる事の真相がこれであろう」といっている。そして、問題は、如何なる伝統に歴史的地盤を選ぶかである。そこでキーワードとされるのが「世界史的国民建築」であった。「世界史的国民建築」とは何か。国民建築様式の問題は、今猶解かれていない。建築の創造と伝統をめぐる前川の問いは今日猶開かれたままである。
ラディカル・ラショナリズム
敗戦によって、日本に近代建築が根づいていく条件が生まれる。そして、戦後復興、そして講和による日本の国際社会への復帰から高度成長期への離陸が始まる過程において、日本の近代建築は具体的な歩みを開始した。前川國男が、戦後建築の出発の当初から、その中心に位置して、近代建築の理念の日本への定着というプログラムを主導していったことは、その軌跡をみれば一目瞭然である。
組立住宅「プレモス」は戦後建築の第一歩である。その試みは戦後建築の指針をいち早く具体的な形で示すものであった。焼け野原の新宿に建った「紀伊国屋書店」(一九四七年)は戦後建築の歴史の第一頁に挙げられる。その巨大な足跡は、誰もが認めるところである。「日本相互銀行」(一九五二年)、「神奈川県立音楽堂・図書館」(一九五四年)、「国際文化会館」(一九五五年)、「福島県教育会館」(一九五六年)、「晴海高層アパート」(一九五八年)、「世田谷区民会館」(一九五九年)、「京都会館」(一九六〇年)と続く作品群は、戦後建築の始まりにおいて光彩を放っている。建築の一九五〇年代を日本の近代建築の黄金時代と呼びうるとしたら、その栄光の大半は前川國男のものである。
前川國男の一九五〇年代を特徴づけるのがテクニカル・アプローチである。下関市庁舎の競技設計の際に書かれた「感想」[xxi]21には、近代建築の三つの発展段階について触れられている。日本の近代建築は、未だ西欧のレヴェルには及ばない。折衷主義への闘いの第一段階を経て、第二段階の技術的取り組みの段階にあるにすぎないというのが、戦前からの前川の認識であった。「技術的諸問題への真正面的なぶつつかり、そうしたぶつつかりの只中でデザインする」、それがテクニカル・アプローチである。
そして、さらに建築の生産全体の構造を常に問題とする視点がある。戦後の工業化住宅の先駆「プレモス」の試みがそれを象徴している。前川は、全世界、全環境を根源的に問題とする姿勢を持ち続ける。
「一本の鋲を持ちうるにも一握のセメントを持ちうるにも国家を社会をそして農村を思わねばならぬ。」[xxii]22
「バラックを作る人はバラックを作り乍ら、工場を作る人は工場を作り乍らただ誠実に全環境に目を注げと云いたいのである。」[xxiii]23
前川國男は、こうしてとてつもない課題を近代建築家の覚悟として引き受け実践しようとしていたのである。
日本の建築をとりまく風土には常に根源的な懐疑が向けられてきた。「国立国会図書館」のコンペをめぐる建築の著作権の問題、設計料ダンピングの問題、「東京海上火災ビル」をめぐる美観論争等々、建築界に内在する諸問題について毅然とした態度をとり続けたのが前川國男である。前川國男が建築家の鏡として多くの建築家の精神的支柱であり続けたのはそれ故にである。
建築家の職能の確立は、なかでも終始一貫するテーマであった。その困難な課題について、繰り返し発言がなされる。「白書」[xxiv]24、「もう黙っていられない」[xxv]25、「中絶の建築」[xxvi]26などを読むと、現実への批判精神は衰えることはなかったことがわかる。その建築家論は、「今もっともすぐれた建築家とは、何も作らない建築家である」[xxvii]27という位相まで突き詰められたものだ。前川國男は、全ての根を問い続けるラディカリズムを一生失わなかったのである。
未成の近代
前川國男が無くなったのは一九八六年六月二六日のことだ。享年八一歳。その一生は、丁度一九四五年の敗戦を真ん中にして、前後四〇年となる。
戦後五〇年を経て、時代は大きく推移した。鉄とガラスとコンクリートの四角な箱形の、国際様式の近代建築が日本列島のそこら中を覆ってしまった。近代建築の理念を実現するという、前川國男のシナリオは予定の通りり実現したのであろうか。
半世紀の時間の流れは大きい。日本の社会の変転は目まぐるしいものがあった。産業社会の成熟があり、国際社会においては有数の経済大国になった。そうしたなかで、少なくとも建築技術の発展にはめざましいものがあった。建築生産の近代化、合理化、工業化の流れは直線的に押し進められてきたように見える。だとすれば、戦後建築の物語は既にそのシナリオ通りの結末を迎えつつあると言えるだろうか。
しかし、前川國男にとって、おそらく建築の近代は未成のままであった。その近代建築の理念を支えた素朴な理想主義は常に日本的風土において妥協を強いられ続けてきたと言っていいからである。戦後まもなく、建築と社会をめぐるありうべき姿についての確信は、戦後社会の変転の過程で、次第に希薄化していったように見える。文章には、深い絶望が滲むようになる。
工業化、合理化、都市化を押し進めてきた産業社会の論理が建築のあり方を大きく支配することによって、素朴なヒューマニズムを基礎にする理想主義は色褪せたものに映り始める。現実に力をもつのは、経済原理であって、産業化の論理である。建築家の自由な主体性の必要性をいかに力説し、その理念をいかに高く掲げようと現実はその理想を裏切り続ける。また、日本の建築界を支配する独特の構造も一向に変わらないという問題も大きい。設計料ダンピング、疑似コンペ、ゼネコン汚職、重層下請構造、・・・依然と少しも変わらない体質が建築界にはあるではないか。前川國男の初心、戦後建築の初心に照らす時、その物語は今猶未完であるのみならず、もしかするとふりだしにおいて足踏みを続けているのかもしれないのである。
いずれにせよ、戦後建築の歴史は、半世紀という単純な時間的長さからいっても、既にその帰趨を見極める時に達している。前川國男の死は、既に、確実に一つの時代の終焉を告げていた、とみるべきだろう。それとともに痛切に意識されるのは、戦後建築の物語の風化であり、形骸化である。前川國男は、それほど偉大な存在であった。
前川國男の死の三ヶ月程前、東京都新都庁舎の設計者に丹下健三が決まった。一九八〇年代初頭、「ポストモダンに出口はない」と建築のポストモダニズム批判を口にしていた、前川とともに日本の戦後建築をリードしてきたスターが、明らかにゴシック様式を思わせる歴史様式を採用して見せたことはスキャンダラスなことであった。それは、日本の近代建築の記念碑なのか、あるいは墓碑なのか。
そのデザインは、近代建築の究極的な表現と言っていい超高層の無機的で単調なデザインを乗り越え、建築におけるシンボリズムの復権を意図するもののように見える。思い起こすべきは、「大東亜建設記念営造計画」である。丹下健三が一つの円環を閉じるように歴史様式へ再び回帰して見せたことは、時代の転換を否が応でも意識させることである。
戦後建築の物語の終焉をやはり確認すべきなのであろう。
エピローグ
一九九四年から一九九五年にかけて、「神奈川県立音楽堂・図書館」の保存・建て替え問題が建築界の大きな問題になった[xxviii]28。曲折があった末、図書館は取り壊し、音楽堂は徹底改修というのが今の所の神奈川県の判断である。ただ、今後どう議論が深まり、どのように運動が展開するかは予断を許さない。
神奈川県立図書館・音楽堂問題は一九五四年の竣工だから、四〇年の時の経過がある。前川の作品に限らず、戦後まもなくから一九五〇年代にかけて建てられた建築が相次いで耐用年限を迎えつつあり、戦後建築の時代の終焉を否応なく感じさせる。そして、それとともに戦後モダニズム建築の歴史的評価が大きなテーマとなるのは自然なことである。神奈川県立図書館・音楽堂の保存・建て替え問題のはらむ問題は、その空間の物理的な生死を超えたところにある。その作者である、前川国男の建築観、建築思想もまた生きた思想として同時に問われる必要がある。そしてさらに、戦後建築の50年が問われる必要がある。戦後建築は最低の鞍部で超えられてはならない。
前川國男の一生を賭けた物語をどう引き受けるのかは、既に若い世代の問題である。前川國男のいう近代建築とは何か。前川國男の作品と論考は繰り返し読まれるべきだ。しかし、そのことと、前川國男を近代日本の生んだ、最も良心的な建築家として崇め奉り、神話化することとは無縁のことだ。言葉だけの理想はいらない。「足を地につけた」「執拗な粘り」こそ、前川國男の出発点であった。そして、全ての根を問うラディカリズムがその真骨頂である。
最後に、前川國男の初心を引き継ぐ指針をひとつだけ繰り返そう。
「バラックを作る人はバラックを作り乍ら、工場を作る人は工場を作り乍らただ誠実に全環境に目を注げ」
[i]1 宮内康、堀川勉、布野修司の三人を核として一九七六年一二月結成。当初、昭和建築研究会と称した。一九九一年一〇月宮内康死去で閉会。成果として、『悲喜劇 一九三〇年代の建築と文化』(現代企画室 一九八一年)、『現代建築』(新曜社 一九九二年)がある。
[ii]2 磯崎新 「戦後建築の陽画と陰画」、『戦後建築の来た道 行く道』、東京建築設計厚生年金基金、一九九五年
[iii]3 原広司 「戦後日本の近代化と前川國男」、『前川國男作品集ーーー建築の方法 Ⅱ』、美術出版社、一九九〇年
[iv]4 宮内嘉久、『前川國男作品集ーーー建築の方法 Ⅱ』、美術出版社、一九九〇年
[v]5 井上章一、『戦時下日本の建築家 アート・キッチュ・ジャパネスク』、朝日新聞社、一九九五年
[vi]6 平良敬一、「前川國男における日本的感性」、『前川國男作品集ーーー建築の方法 Ⅱ』、美術出版社、一九九〇年
[vii]7 大谷幸夫、「拙を守り真実を求めて」、『前川國男作品集ーーー建築の方法 Ⅱ』、美術出版社、一九九〇年
[viii]8 前川國男、「1937年巴里萬國博日本館計画所感」、『国際建築』、 年 月号
[ix]9 前川國男、「負ければ賊軍」、『国際建築』、 年 月号
[x]10 前掲 註
[xi]11 前川國男、「主張」、『建築知識』、 年 月
[xii]12 前川國男、「建築の前夜」、『新建築』、一九四二年四月号
[xiii]13 前掲 註
[xiv]14 前掲 註
[xv]15 前掲 註
[xvi]16 前川國男、「今日の日本建築」、『建築知識』、一九三六年一一月号。
[xvii]17 拙著、『戦後建築論ノート』「第三章 近代化という記号 一 ヒューマニズムの建築」、相模書房、一九八一年
[xviii]18 前川國男、「新建築様式の積極的建設」、『国際建築』一九三三年二月号
[xix]19 前掲 註
[xx]20 前川國男、「覚え書」、『建築雑誌』、一九四二年一二月号
[xxi]21 『建築雑誌』、一九五一年五月号
[xxii]22 前掲 註
[xxiii]23 前掲 註
[xxiv]24 『新建築』、一九五五年七月号
[xxv]25 『建築雑誌』、一九六八年一〇月号
[xxvi]26 『毎日新聞』、一九七二年一月一〇日
[xxvii]27 『建築家』、一九七一年春号
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