このブログを検索

ラベル 田園都市 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 田園都市 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年5月9日木曜日

ソウェトのブリキの家,建築雑誌,199903

 ソウェトのブリキの家,建築雑誌,199903

 ソウェトのブリキの家   

 南アフリカ ジョハネスバーグ


 布野修司

  もう二〇年近くアジアの大都市を歩いてきたから少々の「スラム」には驚かない。が、ソウェトにはちょっと驚いた。見渡す限り一面がブリキの小屋の海なのである。

 ソウェトは1976年の暴動で知られる南アフリカで最も有名な黒人居住区だ。跡形もなくクリアランスされたケープ・タウンのディストリクト・シックスとともにアパルトヘイト体制の象徴である。ソウェトとはサウス・ウエスト・タウンシップの略だ。ジョハネスバーグの南西に位置するひとつの区である。区といっても総面積は東京の山手線の内側の広さがある。人口は300万人を超える。想像してみて欲しい。その大半が小さなコンテナのようなブリキの家に住んでいるのだ。

 もちろん、いくつかの住居タイプがある。ブリキの箱の次に目立つのはホステルと呼ばれる長屋である。農村からの出稼ぎを吸収する単身用宿舎で女性用、男性用と分かれている。さらに公営住宅がある。平屋の二戸一(セミ・デタッチト)の形態が多い。マンデラ大統領の生家もそうした中にある。今や名所で、前に土産物屋が出来たりしている。

 どこでもこうした「スラム」の家の建設資材は廃棄物、廃材である。中には住宅部品(例えば壁パネル)が「新品」として売られていたりはする。需要を考えればそうした商売は充分成り立つのである。しかし、大半の家族は廃棄物しか調達できないのが現実だ。

 何故、こうした廃棄物の家が僕らをひきつけるのか。単に工業用に大量生産されたものを住宅に使えば安くなる、というだけではない。廃棄物を有効利用するといった観点からのみ注目されるのではないであろう。産業社会において失格し、廃棄された、いわば死亡宣告されたものたちが再生していく、そんな夢の物語をそこに感じるからではないか。

 マンデラ以降猛烈な勢いで南アフリカ都市は変貌しつつある。ソウェトがどう変わるのかは実に興味深いと思う。



 

2023年5月26日金曜日

2022年9月11日日曜日

E.ハワードと植民都市ーA.J.トンプソンとパインランズ(南アフリカ、ケープタウン)、地域開発、1999年4月

 
E.ハワードと植民都市ーA>J.トンプソンとパインランズ(南アフリカ、ケープタウン)、地域開発、1999年4月


E.ハワードと植民都市

---A.J.トンプソンとパインランズ(南アフリカ、ケープ・タウン)

布野修司

 

 「田園都市」という理念は、20世紀の都市計画のあり方に最も影響を与えた理念のひとつである。しかし、一方で、世界中で建設された田園都市は基本的には失敗であったと総括される。例えば、その核となる「自給自足」(Self-contained)、土地公有といっ基本理念は、ほとんどの都市で実現しなかったからである。田園都市はほとんどが「田園郊外」にすぎなかった。

 しかし、そうした中で注目すべき田園都市がケープ・タウンに建設されたパインランズ(Pinelands)である。アパルトヘイト体制のなかでの白人居住区として、ひとつの完結した都市のイメージを維持してきたように見える。設計したのはA.J.トンプソン。彼はパーカー・アンウイン事務所の所員であった。その構想はストレートにE.ハワードにつながっている。そして、以降今日に至るまで、徹底したセグリゲーションが法制化される中で、パインランズは存続してきた。この事実は何を意味するのか。

 

 パインランズの建設

 パインランズ・ガーデン・シティの建設を発想し、推進したのは、事業家で連邦内閣の一員であったリチャード・スタッタフォードである。「スラムがケープの品位を落とす」、「伝染病の危険がある」という、貧困者の居住問題に対するその関心は、解決策としての田園都市の理念に向けられる。1917年に彼はレッチワースを訪れ、ハワードに会う。

 余程強烈な印象を受けたのであろう、時の首相 F.S.マランに接触、田園都市建設を政府に訴えている。議会はガーデン・シティ・トラストの設立に賛成し、400haの土地を寄付することになる。スタッタフォードは、「ヨーロッパ、アメリカ、アジア、アフリカ全てにとってのモデル」を提供する、と意気込んでいたという。しかし、自給自足、公的所有、周辺グリーンベルトなどは必ずしもスタッタフォードの頭になかったようだ。周辺の土地の取得を自治体に委ねる利益追求型土地開発だという評価がなされてもいる。いずれにせよ、貧困者、黒人のための住宅建設は後の課題とされていた*1

 

 A.J.トンプソン

 南アフリカ建築家協会の助言でトラストは地元の建築家によるコンペを行う。その結果、ジョン・ペリーの案が選ばれる。しかし、R.アンウインに欠陥を指摘され、替わってトンプソン・ヘネル・ジャイムズ事務所が推薦される。南ケンジントン大学の美術学校で建築を学んだトンプソンがアンウインの事務所に入ったのは1897年の3月とされる。1905年からレッチワースの設計に参加、1907年にはハムステッドの事務所で働き、1914年の事務所閉鎖まで勤めている。アンウイン事務所の番頭さん、実務家である。彼はいわば「田園都市」を輸出する最適任者として指名されるのである。

 トンプソンがケープ・タウンを訪れたのは、1920年のことであった。トンプソンの任務は住宅建設とインフラ整備である。トンプソンの案は基本的にはペリーの案を基礎にしている。 構造の類似性は明らかである。また、その中心地区はレッチワースに似ている。クルドサックも用いられている。19246月半ばまでに95戸完成、入居さらに翌年2月までに12戸が竣工している。こうして、パインランズは、南アフリカ最初の公式の都市計画事例になった。ハムステッド・ガーデン・サバーブに先行するのである。

 トンプソンは現実主義者であった。黒人に対する住宅供給については費用の点で拒否する。彼は契約終了後、南アフリカでいくつかプロジェクトを手掛けるが、プランを見る限り、今日でいう一般的な宅地開発だ。

 1927年には南アフリカを去り、ナイジェリアに赴く。ラゴスの政府土地測量部で働いた後、1932年帰国、事務所を経営、1940年に62歳で死んだ。

 

 アパルトヘイト・シティ

 田園都市の理念は以上のように南アフリカに直輸入される。オーストラリア、インド、マラヤなども同じような試みがある。アデレードでコーネル・ライト・ガーデンを設計し、マラヤに招かれ、最後はローデシアで自殺したCC。リードのような興味深い都市計画家もいる。しかし、南アフリカの場合、パインランズの建設はその特有の都市政策とリンクしていた。

 1923年の原住民(都市地域)法とパインランズの建設は全く平行しているのである。南アフリカの諸都市は白人の入植者によって建設された。白人たちは、黒人労働者を必要としたが、徹底した排除へ向かう。農村ー都市移動を制御し、白人の都市に黒人が隔離されて住むことになる。原住民(都市地域)法が意識的な都市セグリゲーションの全国規模の始まりであり、そして、1950年の集団地域法が決定的となった。ゾーニングの思想が徹底される中で存続したのが白人の田園都市パインランズなのである。

 

 田園都市をめぐっては、さらに大きなテーマがある。田園都市思想の形成にとって決定的であったのが植民地の経験とそのモデルであったというテーマである*2

 

*1 John Muller: Influence and Experience: Albert Thompson and South Africa's Garden City,Planning History Vol.17 No.3,1995

*2 Robert Home:Of Planting and Planning The Making of British colonial cities, E & FN Spon, 1997