このブログを検索

2026年2月18日水曜日

快感進化論書評座談会,traverse05, 新建築学研究,2004

 快感進化論書評座談会

 

参加者:石田泰一郎、竹山聖、布野修司、古阪秀三、山岸常人、横尾義貫、伊勢史郎、大崎純

日時:平成16323       場所:建築本館会議室      編集:伊勢史郎

 

トラバース3号に寄稿された『ミームは快楽主義』が元に膨らんだ文章が200312月に『快感進化論』というタイトルで単行本として出版された。その出版を記念しトラバースの編集委員7名に横尾名誉教授が加わり、書評座談会をすることになった。座談会では『快感進化論』というミームがほぼ成熟した状態で複製されたことを確認し、また発見の快感と伝達の快感が生成されていたことも確認した。ここにその記録を示す。

 


1.過剰に遊ぶヒト

竹山:伊勢さんの本の中で、音声がどうしてコミュニケーションのツールとして特権的に選ばれたか、の仮説として水生類人猿説を引用していますね。僕も出たとき読んで、とてもおもしろいと思った。『女の由来』とかも。チンパンジーもゴリラもちゃんとしたコミュニケーションとして音声を使用できない。そこまで声帯が発達していなくて、人間だけがコミュニケーションできる。全生物の中で音声をコミュニケーションに使用する動物は鯨類と鳥類の一部、そして霊長類の一種であるヒトしかいない。僕も一昨年に出版した『独身者の住まい』の中で引用したのですが、鳥、特にジュウシマツを研究している岡ノ谷一夫さんがこうおっしゃっている。性的なメッセージとして小鳥は雄だけが歌うんですけど、そのうち雌は雄の歌が、過剰で無駄になればなるほど反応する。それで雄を選ぶ。そうすると今度は歌が自己目的化してより複雑なより高度なテクニックを持った歌に進化していく。それをハンディキャップの原理と言うのですが、その個体が余力を持っている証しだと。伊勢さんの仮説では、脳科学で明らかにされたA-10神経がドーパミンを分泌して、それは鞘がないからどこでも過剰にホルモンが出ていって、人間の独自の進化を遂げさせたというのがすごくおもしろくて、ネアンデルタール人と現生人類を分けるのがそこの脳の構造にあるというのがこの本のすごく説得力のある部分なんだけれども、やっぱり建築の話にひきつけて考えると、なんでこんなに建築って複雑に、高度に、無駄に、むやみやたらにいろいろなことを繰り返し、試みられてきたかを考えると、鳥が歌を進化させてきたのと同じような原理が働くのではないか。それがおそらく「美」という言葉と重なってくるんですよね。バタイユは『呪われた部分』って表現してますが。音をもとに人間はコミュニケーションを発達させたということを壮大な枠組みの中に捉えようとしたのがこの本だ、ということを強く感じました。

伊勢:クジャクの羽とかもそうですよね。

竹山:そうそう。だから進化というのはある程度科学的にいろんなことを説明してくれるんだけど、この本のおもしろさというのは大胆さ、ある意味で科学的でないところのおもしろさにある。「快感」という言葉を手がかりに、原因と結果がどっちにもつながるウロボロスみたいな構造をとりつつ、様々な事例を膨らましたというところに醍醐味がある。繰り返し言いますが、音への思い入れから、音によるコミュニケーション、それに快感を覚える人間、それによって支えられた文化というような順番で壮大な建築物を作ろうとしているんだ、と読みました。

布野:僕は、伊勢さんの本に大いに刺激を受けたんです。DNAから地球全体まで視野に収める壮大さがある。僕の読むところ、ベースはコミュニケーション論ではないかと思う。ただ、音響学的な話は少しはっきりしない。トラバース3号の時にはピンと来なかったんだけれど、この本で少し分かった。その先が聞きたい。竹山さんの話に続けると、性愛のコミュニケーションも興味深いけれど、伊勢さんが興味があるのは集団とか群れにおけるコミュニケーションでしょ。音響学の原点をそこに求めるのは面白い。集団のコミュニケーションがどういうメカニズムで成り立つかに興味がある。毛繕いの問題ね。

竹山:ただ集団に話をシフトしても、伝えること自体の快感という視点で捉えられている。さらには、小鳥のさえずりにしても、特に何かを伝える必要があるからではないのに、話すかのように独り言を含めて多彩な言語表現をする。これ人間にもあって、伝えることが快感であるということからさらに踏み込んで、伝えられなくてもいい。これを未成熟ミームと言うんでしょうか。伝えられようが、伝えられまいが、ともかく過剰に何かを表現する、それ自体が快感であるっていうようなところを示唆してある。

布野:という竹山先生的読み方はあるんだけれど、横尾先生がミーム論にものすごい興味があるというのがまた興味深いんですけど。

横尾:僕はね伊勢君と同じようなことを考えているんだよ、ずっとね。古いんだよ、僕はずいぶん。動機はいろんなことがある。学園紛争ぐらいのときからはじまって、人間っていろいろあるもんだなって、観察しだした。だけど、僕の場合は結局遊びの問題として捉えた。学園紛争のとき、こいつは遊びが足りないなと思うのが、急にこう、夜叉のごとく変貌する人があったりするもんだから、女性でも男性でもね。それが動機だって言うとぶん殴られそうだけどもね。それから遊びは非常に重要だということで思索が始まったんです。ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』という本を読んで、次はたまたま『帝王的動物』という若い動物学者の本も読んだ。これは、ようするに行動にもグラマーがあると考えているんですね。行動のグラマーを毛繕いとかいろいろと分類して、主として霊長類も包含するような哺乳類的段階で展開していたと思うんです。これが非常におもしろかった。あと、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』とかも非常に参考になった。僕の種はそのぐらい。あとは雑学で脳の話とかも参考にしますが、問題は遊びが人間のビヘイビアの根本で、ミームというのにどこか似ているような気がしますね。遊びの中にもちろん快感がありますからね。でも僕の場合は遊びの原初的タイプというのを考える。ホイジンガにしてもカイヨワにしても、トランプとかスポーツのようなものを対象にしているのだけど、僕はそうじゃなくて、もっと原初的な、一番原始的な子供の遊びのような状態のところに人間の行動原理があるだろうと、こういうふうに思っているんですよ。なまの行動原理があると、そんな気持ちから議論しているんです。だから僕はどちらかというとずっと生物学的アプローチで、伊勢君は心理学的な哲学的なアプローチ。僕のはなかなか心理学までいかないのだけどなまの行動原理として群れを考える。生物は個というよりもむしろ群れとして存在するのであって、人間も群れで生きる生物の中の一つなのだけど、人間は個としても存在する。人間の個としての存在が哲学をもったりするんですよ。でも、人間以外の生物は絶対に個では存在しない。

布野:横尾先生は、「遊び」と仰るけれど、遊びがどうして群に繋がるか、というのを伊勢さんは書いていると思う。ミーム論としてもね。

竹山:ミームっていうのは個じゃなくて群れの問題です。個に刻印される群れの問題。重要な指摘は能動的に環境を知覚しているっていう事じゃないでしょうか。例えば昔は目というのは網膜に映像が映ってそれを脳が解釈するというモデルと考えられていましたけど、そうではなくて身体の動きを含めた能動性が環境を知覚するというような事が、最近の脳科学からわかる。つまり、最近の脳科学の進歩に支えられて、この本の一番説得力のあるところは存在している、というのが僕の読みです。

布野:石田先生に言わせると、それは常識だって言うかもしれない。

横尾:その脳科学との結びつきでもさ、このごろクオリアとか、アフォーダンスとか、モダリティとか、心理学の直前のような脳の見方がありますよね。今の自然科学的なアプローチで行くと結局、ドーパミンとかノルアドレナリンとか、神経伝達物質が生じますね。そういうところの研究が今進んでいるでしょ。快感というのはそこと関係あるわけですね。そこをあなたはきれいにまとめているわけですが。

伊勢:横尾先生の遊びにヒトの本質があるという説は、僕はこの本を書く以前から知っているのですが、やはりなんらかの形で影響されていると思うんですね。おそらくネオテニーの記述の部分で影響されている。例えば動物の多くは子供が遊ぶのですが、大人になると遊ばない。

横尾:そう。大人は子供の相手するくらいね。

伊勢:それで子供のもっている形質が大人になっても持続してしまうような進化の方向性をネオテニーと呼ぶんですね。

布野:幼形成熟ね。

伊勢:例えばチンパンジーの赤ちゃんは人間に良く似ている。大人になると似ていない。特に前頭部のでっぱりが似ていて、前頭葉が発達しているように見える。チンパンジーの赤ちゃんの前頭部はでっぱっているのに、大人になると引っ込んでしまう。チンパンジーの赤ちゃんは遊ぶのが好きなのだけど、大人になると遊ばなくなる。人間は前頭部のでっぱりは大人になっても引っ込まないし、遊びもやめないことから、チンパンジーにネオテニーが働いたのがヒトだという論理ができるんです。

横尾:僕が遊びをとりあげたのもまさに、ネオテニーというか、人間は大人も遊ぶのが特色だということ。だけど、遊びっていうのは非常に生物の生きざまの根本にみんなつながっているような気がするんだけどね。それで遊びが大人までつながっていくか、あるいは生物によっては、子供ができたらそこで死んじゃうということも結構あるでしょ。だけど、人間は子供ができたあとも非常に長いわけで、それが前頭葉の発達と何か関係あるかもしれないけどね。前頭葉だけが発達することはないだろうし、脳の他の部分も発達しながら前頭葉も発達したと思うんだけどね。でも、そこにヒトの遺伝子の99%はチンパンジーと同じで、あとの1%の違いでこんなに差ができているのは何故かというのがあるわけでしょ。遺伝子からいうと差がないのに、なぜこう差ができるのかということは前頭葉が特別の仕組みをもっているというのはありえますよね。

伊勢:だから僕が言っていることは横尾先生が仰っていることとそんなに変わりがないと思います。

横尾:うん。変わりがないと思う。

 

2.建築と進化

竹山:長谷川真理子さんが認知的贅沢と言っていて、これも同じことなんですよね。無駄なことをずっとやり続けられる。遊びをし続けられる。長谷川さんは認知的贅沢を成立させる条件として二つ挙げているのですが、一つは火(fire)でもう一つは言葉なんです。僕はやっぱり建築の座談会だからというわけじゃないですけど、火と言葉のほかに建築を付け加えたい。結局、群れっていうのは人類進化を支えた理由だけれども、群れの拡大は、火と言葉と建築に負っていると思うんです。それらを手にいれたことによって人間がネオテニーを獲得した。

布野:それ僕も考えたけれど、建築は入らないんじゃないかな。

山岸:入らないんじゃない。建築は。

竹山:入る。それは最後にきたんです。ただね、表現形なんですよね。伊勢さんの言うミーム表現形という物理的な実体としてね。でね、建築もね、無意味、無駄、ともかくなんの目的もない高度な複雑性ということに進化していった。

布野:そういう意味か。建築はそんなに複雑かなあ。

竹山:言葉を進化させることによって集団が大きくなって外敵から身を守りやすくなる。火をもつことによって豹とかそういう外敵から身を守る。やはり建築というものを堅固に構築することによって、外敵あるいは他者の人間との淘汰っていうシステムをより高度に作っていったということはいえると思います。

布野:次元が違うんじゃない。

竹山:僕はそれを同じ次元に持っていきたいと思う。

布野:少なくとも18世紀末くらいまで裸で暮らしていた人たちがいるわけだからね。今だって、例えばブッシュマンとかコイサン族とかいる。マガリャンイス(マゼラン)が世界一周したときに見つけた南米南端のフエゴ島というところがあるけれど、平均気温が6度とか5度とかものすごい寒いの中で真っ裸で暮らしていた。火は使っている。伊勢さんに言わせると寒冷地適応っていうんじゃないの。人間はそういう能力を持っていて、そういうところでも暮らしてきていて。必ずしも建築は必要ない。

山岸:時間軸で考えると、やっぱり火を使いはじめるのと、建築をそういう風に表現するのとはぜんぜん重ならないし。

竹山:うん。そうですね。ただ、だから今言っているのは文化っていう位相におくと・・・

布野:建築文化はなくても人類はいますよ。

竹山:じゃなくて、もちろんコイサン族に文化がないなんて言ってないんですけれども、今、伊勢さんがここで問うている、より遊びを高度化させていくっていう文化の中で、非常に大きな役割を果たしたのではないかと思います。

山岸:そういうものだったら例えば着物とか、衣装とかがあるわけだから、建築だけ特化させることはできないんじゃないですか。

竹山:そうですね。でも着物とかは厳しい気候から守るということはありますけど、人間の集団、群れというところに着眼すると、群れのコントロール装置としてはなかなか見逃せない・・・

山岸:集団で身に着けるものってそういう役割果たさないですか、無駄なものとして。

竹山:いや、文化のコードとしては、メッセージとしてどんなものを着ているかというのは言えますけど、物理的に豹が襲ってきたりした時に着物着てたってどうしようもないわけでしょ?今はそういう素朴なレベルの話です。

山岸:建物がそれだけの機能をもっているかどうかわからない。

竹山:いや、もってるじゃないですか。壁が一枚あるだけで逃げられる。

横尾:僕はね人間関係とか政治的な問題に興味が向くほうだから群れというのは重要なの。それで文化というのは群れの中にしか存在しない。僕の定義の文化だとね。例えば言語だったらチョムスキーの言語理論、普遍文法というのがありますね。これは普遍文法という原理みたいなものがあるだけであって、その原理をもつ個が集団の中に入って、はじめて日本語になりドイツ語になり英語になったりするわけですよ。普遍文法というのはひとつの方程式のようなもので、あなたも音響学の理論式のラプラス方程式みたいなものを書いていましたね。宇宙には多分たくさんのシンプルな原理、熱力学みたいな何かシンプルな原理があって、それは自然科学者が追求していると思うけど、原理があってもそれだけではなりたたない。いろいろな群れがぶつかりあって行動していく中で、群れの中でその原理で個がつき動かされながら現れてくる姿が文化だと思うんです。それが英語とかドイツ語とかフランス語を持っているというのが文化であって、チョムスキーの普遍理論というのは基本的な何かだと。

 

3.音という実体

布野:僕も言語学とか記号論はかじったことがある。言語の発生については少し考えたことがあるけれど、伊勢さんはもうちょっとさかのぼるわけですよ。快感物質まで。それを音に即してもうちょっと説明するとどうなるか。群をなして狩りをするわけでしょう。合図してみんなで集団で狩りをするために、音とか目配せが必要でしょう。それは言葉にならなくてもいいわけでしょう。

横尾:音は全部一緒だよ。人間にとって音だけってことはない。音だけじゃなくて、触感だけでもないし、五感も含めてトータルで作用しあって、そこの中で注目するものが音であったり。音に関心が深まっているから、音が中心になってコミュニケーションをはかる種類のものもいれば、あまり音を立てないものもいると。

布野:音が聞こえない人だっているんだから。

伊勢:今の竹山先生の話から横尾先生の話までで思うことは、やっぱり僕は竹山先生がおっしゃるとおり建築とヒトの進化は関係があると思っているんです。でも裸で住んでいるところもあるじゃないかという反論があるわけですよね。だけど裸で住んでいたとしても群れは存在するわけですよ。その人たちは集まって音を出して祭りをして集団意識を高めて、狩に行こうとか戦おうとかそういう祭りをする。祭りをして、生きる動機、モチベーションを高める。僕の視点では建築というのはそういう音をより閉じ込めて集団意識を高めるための境界だっていうふうに考えているんです。

竹山:洞窟の響きっていう言葉がありますよね。

伊勢:そうですね。そういう音だけで群れとして機能できる地域では、境界は必要ないと思いますが、もっと厳しい自然の中で群れとして自分たちが生存するモチベーションを高めるために、ある境界が、枠が必要だったと思うんです。それは単に境界の枠を作ることによって敵の攻撃から守るというということだけではなくて、それよりもある閉じた中で音をだして、それは言語ではなくても、単に音でね。

竹山:それがミーム表現形ですよね。

伊勢:はい。音を出して、自分たちがつながっているんだということを感じて、自分たちは同じ群れなんだと感じることができるような境界が、生存するために必要だったんじゃないか。ヒトが群れとしてモチベーションを高めるための物理的な境界が生存するために必要だったのではないか。

布野:伊勢さんはそれを建築というけれどちょっと違う。

竹山:いや、同じです。3つの伝達形式があって、光と音とにおいだと書いてあって、それはすごく説得力があると思ったんです。まあ光については、人間は視覚をすごく発達させたけど、夜は無力である。においはあまり空間を伝達するスピードが速くない。それで人間が確実に身体のスケールで選び取ったのが音であるというところが、非常におもしろいとこだと思う。もう一つ僕は、フロイトのこの言葉が好きでね、人間の最初の文化的行為は道具の使用、火をてなづけたこと、それに住居の建設だったって言うんですね。やっぱり、集団をコントロールする、外敵から身を守る、そして内部をさらに充実させるため、これも一種のミーム表現形ですけど、建築というファクターはすごく大きかったんじゃないかなと。で、その身体的スケールに対応する群れのスケールを音っていうものは割と本質的に規定しているんじゃないかという気はしますね。

布野:さっき建築について否定的なことを言ったけれど、シェルターの有無は別として、ホームステッドという根拠地を設けることがヒトの進化に繋がったことを僕は否定してるわけではありませんよ。

竹山:レクっていうバスク語があるんですけど、これはホームなんですが、もともとの意味はカマド、あるいは囲炉裏。つまり火を囲んで皆が集う場所のことです。やっぱり、ヒトの群れが集まる場所を築くことが文化の基点にあるいうこと、それと音の広がりがヒトの群れを存続させてきたということが、この本にはずっと響いている感じがしますね。

布野:横尾先生が五感って仰ったことで、僕は腑に落ちたのだけれど。

横尾:人間にとって音は重要だと思うんですけど、でも一番重要なのは運動だと思うんですね。動物として原理的でね。運動と言うのは素朴な一番元になる。音はどうなんでしょう人類にとって、言葉は音からですからね。

伊勢:僕は音を全面的に前に出しちゃっていますが、もちろんそれだけではないと思っているんですね。

竹山:身体だよね。この言葉を使うとね。

伊勢:身体。はい。音を出すこと自体が身体運動で、例えば僕は今、喉を震わせて音を出していますよね。体をこう動かしてコミュニケーションをしているんです。僕は聴覚的快感を中心にして考えていますが、身体全体を動かしてコミュニケーションを今とっているわけです。竹山先生は視覚的快感が中心にあるように感じるんです。布野先生もまた違いますよね。

竹山:布野さんは観念的快感だよね(笑)

伊勢:ただ竹山先生の視覚的快感というのは、言い換えると空間を知覚する快感というのかな、それはおそらく目だけではなくて、体の動きと、やっぱり運動も含まれていると思うんですね。だから空間を知覚する快感というのが、やっぱり僕が言っている聴覚的快感とは別に働いていて、それが建築を駆動する原動力になってきたと思うんです。

 

4.ミーム論

石田:もう議論がどんどん白熱していて全然言葉を挟めないんですが、僕がこれを読ませてもらった最初の感想を言いますと、一つはやはりこれだけの大きなストーリーを作りあげていておもしろかったということ。もうひとつは、同僚として見るとよくこういう本を今の仕事の中で形にしたなという。

布野:よくこんなことを考えてたなって思う(笑)

古阪:隣でまだ考えている(笑)

石田:横尾先生にしてもね、皆さんそういうことをずっと考えているんですね。

横尾:僕が考えたのは暇人になってからなんだから(笑)。伊勢さんは他の仕事をしながらだから。

石田:いや横尾先生も学園紛争の頃から考えていたとおっしゃっていたし。これだけの形にするというのは、あるスイッチが入らないとたぶんできないことだろうと思うんで、それはすばらしいなと思ったことなんですけどね。それから内容もおもしろくて、いろいろ新しくわかったこともありました。ただ、僕が少し違和感を感じたことを一つ言うと、何か目的ありきというのかな。人間の進化とか行動とか、いろいろなふるまいとか、それらは要するに快感を得るために駆動されるという考えが根底にある。それはそうなのかなと思います。例えば、クジャクはメスの関心を引くために羽をきれいに進化させたのではなく、きれいな羽をもった個体がより多く繁殖の機会を得て残ってきたと解釈すべきではないでしょうか。だから、音声によるコミュニケーションをたまたま獲得したある種の霊長類が、周りとのせめぎあいの中で有利な立場にたって進化の過程で残ってきたと、純粋な進化論だとそういうふうに捉えると思うんですよね。伊勢さんの場合は進化のプロセスで音声コミュニケーションによる快感があって、それをヒトの進化の駆動力にしている。そこが伊勢さんのおもしろさでもあり危うさでもあるなと思いました。

布野:栗本先生の前書きもそういうオリエンテーションをしているからだけれど、僕はそういう風には読んでいない。コミュニケーション論が遺伝子レベルから群れのレベルや言語のレベルで語られている。でも、石田さんの言ったような印象を受けますよね。

石田:そうですね。

布野:でも、こういうタイトルをつけたのだから、責任をとらなければいけないよね。

伊勢:そうですね。いわば挑発的で怪しい雰囲気をもたせて、本に少しでも興味をもってもらえればという戦略があったわけですが、それに対する違和感も当然でてくるとは思っていました。それとヒトが進化して、存在する理由を言ってしまったわけですが、そのように理由を考えて言ってしまう性質をヒトがもつ理由もこの本に含めています。だから循環的な論理が含まれているんです。

布野:でも、まず進化論については決着をつけたい。決着はつかないとは思うけれど、言った方がいい。まだ曖昧なことがいっぱい有りますよね。ヒトとチンパンジーの遺伝子との1.2%の違いとか、スイッチがどこで、なぜ入ったのかとかね。しかし、要するに一万年くらい前に、人間の進化は止まってしまっているわけでしょ。その先の話もしたい。

伊勢:身体的にはね。

布野:身体的には止まっている。だから我々は進化のない世界に生きているわけでしょう。

古阪:蒙古斑は消えてきてるんじゃないの。

布野:(笑)それは進化って言うの?

古阪:それも進化だよ。

布野:まずは進化の話を。水性類人猿説の話もあるけれど。建築とはあまり関係ない?

石田:水生説はチンパンジーの進化系統と分かれる前に、人類がどういう身体システムを選んだかという話ですよね。数万年前には現生人類の遺伝子、すなわち身体的な進化はほぼできあがっているわけですね。そして、その後人間は言語を駆使して、文化を蓄積して、ミームを伝達できるようになった。そこで身体的な進化とは別のメカニズム、全く別ではないのだけど、一つのサイクルに入った。そのサイクルは遺伝子や身体的な制約に規定されないミームの複製による進化で、そのサイクルでは人間の進化はまだ続いていると考えるのでしょ。

布野:僕はミームの成立根拠を一番聞きたい。遊びの共有性とか、ドーパミンがどうして出るのかということ。それが伝える喜びなんでしょう。

伊勢:ミームの成立根拠ですね。僕はその根底に暗黙知を置いているんです。暗黙知を置くというのはどういうことかというと、モノあるいは空間、建築でもよいのですが、それらを身体の延長だと捉えているんです。空間やモノを身体の延長として道具化して、それをオプションとしてとっかえひっかえして、僕らは生きている。例えば携帯電話という道具、これは声と耳を空間的に延長した道具で、電波を用いて非常に遠くの人と会話をするための一つの道具で、これも身体なんですね。僕が持っている声と耳というのは標準装備で、携帯電話はオプション。とることもできるし、壊れたら取り替えることもできる。これが進化しているんですね。

布野:だけど人間は進化していない。

伊勢:物理的な人間の身体は進化していないのだけど、代謝が可能な怪我したら壊れてしまうような身体としては進化していないのだけど、道具を進化して脳の中でそれを維持することによって群れとしては進化していると。

布野:それは進化論とは違うんじゃないの。

竹山: 3万年くらい前にネアンデルタール人は死に絶えたけど、現生人類はそのまま生き延びた。これは、なぜならば現生人類の場合はコミュニケーションにおいて快感物質が脳内で出て、それによってコミュニケーション能力が飛躍的にのびたからだ、というような論理ですべて文化を規定している。でも、ネアンデルタール人に快感物質が出なかったっていうことは証明できない。そこが出発点としての仮説の面白さであり、危うさでもあるんだけど、僕はそういう仮説ありだなと思う。

布野:それは鳥とか犬は快感物質は出ないとか言う話にも繋がるの?

竹山:雄の鳥がうまく歌うのを聞いて、雌の鳥がそれを理解する能力があるらしいんですよね。それは雄にはないらしいんですが、そういうのはひょっとすると快感物質がでているのかもしれない。

伊勢:それは快感物質というよりは、情動系としておそらく科学的に分析されていくんでしょうね。

布野:鳥も群れを作るじゃないですか。ある種のコミュニケーション手段を持っている。そうすると、人間の群れとの違い、遺伝子の違いは何か。

伊勢:でもヒトと鳥とは遺伝子はかなり違うじゃないですか(笑)

布野:(笑)遺伝子は違う。じゃぁ快感物質は?

横尾:ちょっと話を戻しますが、DNAのレベルでの身体的な遺伝とは別で、群れの中で型がずっと伝承されていくことがありますね。形質的には変化がないのだけれど、群れの中で何かが伝承されることがある。例えば日本人のDNAとアメリカ人のDNAが違うという言い方をする人がいるわけだけど、それは生物学的にいうとそれはおかしいと思う。でも、日本の文化とアメリカの文化があたかも遺伝子が継承されるようなかたちで、伝承をしていく。そのように文化を変化させていくのが人類だと思うんですよ。その文化の発達というのか変化というものを進化と言うのならば、進化といってよいと思う。だけど生物学者のいう進化というのはそこじゃないんです。それは自由だけどね。言葉の使い方は。

布野:ミームは進化するんですか?

横尾:それは定義の仕方で違ってくるし。

伊勢:横尾先生のおっしゃっていることをミームという言葉で置き換えれば実体として脳の中に文化を記憶するものがあって、それが進化していると言えると思うんです。

横尾:脳の中に進化が起こっているかどうかということは、これは生物学的に実証していかなければならないし、あるいは今は仮説の世界で。

布野:ミームは後天的なものでしょう?

伊勢:個体のレベルでは後天的ですが、群れのレベルでは常に維持されていて、我々が生まれる前から群れの中で維持されているミームがたくさんあるわけです。

石田:ミームが駆動しているある種の進化と、DNAが駆動してきた進化は、自己複製システムというレベルで考えると同じということですよね。ミームは文化遺伝子と呼ばれて、ようするに文化が次の世代に伝承して、それが変化しつつまた伝承して。

布野:今西進化論で鴨川のメダカが群れでなわばりを作るというのがあって、メタファーとしてなわばり理論と人間の集合住宅理論を関連させて、あまり根拠なく議論していたことがあったのだけれど、その先があるのかどうかっていうことですよ。さっきの鳥の話にしてもミームの共有性とかが僕は気になるんだけれど。

横尾:人間をひどく愛するか否かによって変わってくるのじゃないか

布野:それは伊勢さんが書いているんですね。結局こうやって議論が成り立っているのもね、好きか嫌いかとかね、こいつには伝えたいとかね、そういうことがある。ただ、理論的にはどういう話になるのかっていうのを聞きたい。

 

5.中書島のツバメ

古阪:話が違うかもしれないけどバードイドっていう進化経済学の世界で非常に面白い話題がある。京都の例でいうとツバメが、渡り鳥として飛んでいくときに、この辺ではいろんなところから中書島に集結して、そこからどこかへ飛んでいくんですよ。それを数学的に解こうとかね。これを群れの話として考えると、伊勢さんだったらどのように考えるのかな。

布野:カラスやってほしい。

古阪:カラスはない。

竹山:いや、中書島に集まるっていうのはなんで?

横尾:遊ぶところがあるんじゃないの?(笑)

古阪:もちろんDNAに中書島という情報がはいっているわけでもない。

竹山:魚のメバルが地磁気で動いているって話しありますよね。

古阪:鳥が群れで飛ぶときは先頭が決まっているわけではなくて、うまいこと入れ替わっているわけだけど、距離も瞬間的に感じ取っている。そこまでのモデルはできる。ところが、それがなぜ中書島かっていうのがわからない。

竹山:アトラクタがあるとか。

古阪:伊勢さんの本の中にもいろんな各論があって、大きな筋があって、それにいろんなものを組み合わせて良いとこ取りをしているわけですよね。進化経済学もかなりそれに近い。サンタフェでやっているから、たまたま物理学者がいたり哲学者がいたり、いろいろな学者・研究者がやっているんですね。

布野:進化経済学って結構いいかげんじゃない。

古阪:いい加減といえばそういうところもあるが、面白い。

布野:経済学者がいると怒られるだろうけれど、そういうモデルを使って計算して、どうなるの。

古阪:モデルだけではないし、ある固まったストーリーがあるわけじゃなくて、たまたま創発的におこった考えというものがおもしろい。この本も自由大学の中で伊勢さんが感じたこと、おもしろいと思ったことをうまくまとめた。

布野:それは大事なことじゃない。

古阪:それは非常にうまいわけですよ。そうするとさっきの話に戻ってバードイドの話は伊勢論の中でどういうふうに解けるのか、あるいは解けないのか。初めての問題だから今後考えてもらったらいいんだけど。なんとか解いてやろうと思っているんだけど、解けない。

伊勢:僕は中書島にツバメが集まるのを解こうという話を聞くと、それに興味を持つ人間に興味を持ってしまうんですよ。なぜサンタフェにヒトが集まってしまうのかって。(笑)

横尾:動物のビヘイビアも人間のビヘイビアも、神様が遠いところから見た賢さにおいては変わりがないように思う。ただ人間はなんでやろうとかね理屈を考えたり、選択の幅が非常に広がっていたりする。動物の賢さというのはすごいと思うんだよね。昨日だったかな、たまたまテレビで見たんだけど、脳の中で忘却のための化学物質が作られているらしい。感覚から入力される情報はたくさんありすぎるからそれらを忘れさせるための化学物質がでるらしいの。でも、それが出ない男がいたという。だからなんでもかんでも覚えているんだって。ただね、その人は論理性が全然ないらしい。それで脳の記憶領域の中でも、コンピューターのROMのように忘れない部分と、RAMのように忘れる部分がある。他の動物と異なってRAMが大きいのが人間じゃないかと思うんです。ただ、そういう部分では人間は能力をもつけど、運動能力では他の動物のほうがすごい。

布野:速いし。飛べるし。

横尾:だけど人間というのはいろんなことを考えるから、こういう本ができてくるのかもしれないけどさ。

古阪:ツバメの話に戻るけど、鮭のような帰趨本能とはちょっと違うでしょ。

横尾:人間は中書島へ行くときは、ずいぶん考えて、あそこには何があってとか考えるのだけど(笑)。

古阪:そこに集結する数というのが、すごいらしいんですよ。

石田:中書島になぜツバメが集まるかということは私もよく分かりませんが、そこに何か目的があるはずだというように思うと、やっぱりちょっと目的論的なんですよね。

竹山:いや今、目的を求めているのではなくて、原因を求めている。

石田:何かたまたまそこに集合するのが都合がよくて、それが伝承して、同じ行動を繰り返すのではないかと。

竹山:やっぱり川が集まっているというような何か。

石田:いや理由がないといっているんじゃないんですよ。

竹山:僕は石田さんの問題意識よくわかるし、同意するけれども、目的っていう言葉を使わないほうがいい。ここで目的というとTheology(神学)になっちゃうから目的という言葉で語らない方がいいんじゃないかと思いますけどね。

石田:じゃ、理由。

竹山:理由の方がいいですよね。理由だったらわかりますよ。

布野:ツバメの話を茶化したけれど、興味は大いにあるんです。僕らは、都市のかたちを考えている。例えば家を建てるときに、隣から文句言われたり、喧嘩したり、土地を買ったり、一生懸命あれこれしている。それを地球の上のランドサットくらいの位置から歴史的に見ているとどうなるか。2000年という時間のスパンで見ると、都市ができてくる形が一瞬に見られるでしょ。遺伝的アルゴリズムとか使って解いてみると、似たような感じで都市ができてきちゃうんじゃないか。これは結構ショックなんですよ。現実の世界では喧嘩したり、快感物質だしたりしながら、生きているんだけれど。

古阪:それは個々の間隔が適当な距離で収まるというのではないかな。

竹山:やっぱりコミュニケーションの装置って事でしょうね。

古阪:経緯で見るといろいろ複雑なことがあるのかもしれないけど。

布野:マクロに見たときにはおさまっている。

古阪:2メートル離して置けば問題ないとかね。

石田:美しい秩序ができてきたり、何か特別な振る舞いを見ると、それは偶然に起きているというふうにはなかなか思いませんからね。何か意図があるはずだと、理由があるはずだと見てしまう。でも、実はそうではなくて、なんらかのちょっとしたローカルなルールで動いているだけで、全体として特別なパターンができてくるというのはよく聞く話です。だから、あまり過剰に何か意味があるはずだと追うと間違った方向に行ってしまう気もします。

古阪:いや素朴な疑問で。

石田:それともう一つ気になったこととして、伊勢さんの本がというわけではないのですが、人間のことを扱っていると、よく分からないことも多くて、そこにニューサイエンスというか、ある種怪しいものが入ってくる余地があるわけです。そこでいろいろなストーリーを組み合わせて、作り出して、ある方向に引っ張ろうとしているように思えることもある。だから、人間に関わる研究者は、ある種ストイックな姿勢で、あまり理論のふろしきを広げないようにしている側面があると思います。

古阪:それはそれで必要だけど、僕はこういうことぶちあげて、もっといろいろな人が本当にものになる学説を区別していけば快感進化論という学説がもっと洗練できるんじゃないかと思うけど。ただ、この本の範囲だけだと伊勢論あるいは伊勢さんが勝手にやっているという話になってしまう。この場も全体が見えているわけではなくて、建築関係に偏っている人しかいないけども。

布野:僕が一番興味があるのは、知と心のモデルのところなんです。例えば石田さんが研究しているような心理モデルとの関わりでも、音の心理にしても、何を根拠に研究が成り立つのかということを、かねがね不思議に思っているわけですよ。計画系では、せいぜいSD法とか、そういうツールしかない。伊勢さんの本には、そのあたりの基盤が書かれているような気がしたわけです。

石田:研究というのは最初にこういうものがありきなんですよね。こういうアイデアがあって、後はそれをみんなにどのように説得するか。一つは本を書くというのもあるし、専門的な人だったらもっと実証的に研究するということになると思うけれど。SD法というのは研究のための一つの道具、実験の道具ですから。

布野:SD法といっても、いかがわしい部分もあると思っているんです。それで、そこから先を聞きたいわけです。音なら音で。

伊勢:SD法は統計的分析手法の一つですが、結局、何を観察したいのかによってSD法の結果も違ってくると思うんですね。それほどきちんと実験をしなくてもSD法を使えば数値は出てくる。数値が出てくると一見研究をしているように見えるけど、必ずしもそうではないんです。例えば音の美しさについて心理実験をすれば、なんらかの数値は出てくるけど、その実験尺度は実験者の方で決められるわけですから、客観的な美しさというものはいえないわけです。実証的に確実なものはつまらないですし、怪しいところにおもしろさがあって、そこに暗黙的に研究が成り立つという根拠ができてしまう。だから僕は暗黙知理論を中心においています。例えば、古阪先生が中書島のツバメとおっしゃいましたが、ある分野でそこに魅力があれば、人が集まってきてコミュニケーションが交わされる。その結果として学会が楽しくなる。そして、さらに何かあるんじゃないかと人が集まってきて、多くの人を巻き込んで経済効果が生まれるというようなね。そういう研究のサイクルのメカニズムが僕は大事だと思うんですね。だから、知と心のモデルで暗黙知理論を中心においたのは、それを中心におくことによって、何かここにあるぞと思えるような研究の種がまけると思ったんです。例えば音響メーカーがそれを使ってオフィスの音環境モデルについて何かできないかと声をかけてきたりする。そして社会的なコミュニケーションが生まれる。怪しさというのは、周縁的な魅力でもあるわけです。

古阪:この本の著者としての答えは出ていない。

布野:技能の問題とか、学習の問題とか、無意識・意識の問題とか、かなり興味深い。

伊勢:もう少し直接的に答えると、例えばヒトの文化の多様性の原因として脳内の快感物質という極めて単純な原理をこの本の中で仮定してしまったんですね。つまりとても複雑に見える現象も実はごく簡単な法則に支配されていることが多く、ヒトの文化も同じでその単純な原理が何かを言ってみた。それと同じでツバメが中書島に集まることについても、原因を調べて見ると驚くほど簡単な身体メカニズムがあるような気がします。それを発見することが一つの研究テーマになりえていて、多くのヒトを惹きつけてもいる。

 

6.凍れる音楽

竹山:僕はひとつはコミュニケーションの問題として読んでいますこの本を。もうひとつ伊勢さんのオリジナルがあるとすると、いろんな進化の原因を「快感」であるとして、その根拠を実際の物質に求めている。実体であるという言葉が何度も出てくる。それから、ミームというのは一応文化的なモデル、一種の理論モデルで、これを実体としてみている人もいれば、単なる仮説であるとしてみている人もいる。これも、脳に転写されたシナプスのパターンの変化だと断言してしまった。そういうふうにして理論モデルを生理学的なものに強引に位置づけてしまったところにある。だから一番のコアはそれを人間の身体と脳に実体としてあるんだって言ったところにあると思う。

布野:全部そこへ遡って、心理や心のモデルというよりも、生理学的に実証していく作業になるのかな、ということをさっき聞きたかったのです。だけど違うでしょ。暗黙知って言っているのだから。それと脳のメカニズムはそう簡単には解けないでしょ。

伊勢:実証科学との境目に来ていて非常に苦しんでいるんですね。SD法のような統計的な心理学的手法では解けないんです。ミームは人によって違うから。物理的に同じ刺激を身体に与えても、生じる実体としてのミームは違ってくる。人によって経験が違うから、同じ刺激を与えても厳密には知覚が異なる。例えばあるミームを観察するために群れの中にいるヒトの脳内をMRIで測定してみようというのができないんですね。実証科学と暗黙知とがお互いに相容れない、非常に厳しい限界がある。

布野:理論的にもうちょっと踏み込む必要があるんじゃないの。ミームが違いますよ、って言うけれどやっぱり群れの中で共有されている。少なくとも一定の言語をしゃべる範囲とか。言葉の問題をもってきちゃうと難しいのかもしれないけれど。全部ドーパミンにいっちゃうと極端な話になっちゃう。

竹山:根っこがそこにあるけれど、そこから先の分析は難しいですね。でも僕は研究に引きつけて語る必要は全くないと思うんですね。研究として読んじゃいけないと思うんですね。

布野:ないない。もちろん(笑)。

竹山:中沢新一が東大に行くかっていう時に、蓮見重彦が応援演説をしたと。他の先生がみんなあんなもんは研究じゃないっていったら、『当たり前ですよ。これは小説なんだから』って言って応援をしたんだけれども、それで僕はいいと思ってるんですよ。そういうフィクションの喜びがあれば。そういうようなところからフィードバックして、伊勢さんが音の問題を考える手がかりになればいいし、僕は比較的リラックスして楽しめるところを楽しめばいいんじゃないかというスタンスをもっていますけど。僕の建築観が布野さんとは違うというような話がさっき出ましたが、僕は建築ってコミュニケーションの装置だと思ってるんですよ。人間はいくら大きな家に住みたいと思っても100m×100mの家は造らない。やっぱり人間の身体と音が到達する、あるいは人間同士のコミュニケーションがある程度とれるような空間を造る。それから壁を造るのはコミュニケーションを遮断するためでもあるけれども、いい形でコミュニケーションをとるためでもあるんですね。四六時中、顔をつき合わせて同じ部屋にいればケンカになってしまう人間が、別の部屋にいることによって、かえってコミュニケーションがうまくいく。そういう意味では実体としての建築と、コミュニケーションの装置としての建築は、ロジカルタイプを別にして考えています。例えば19世紀のはじめに建築は「凍れる音楽」だと言われました。凍れる音楽とシュレーゲルやヘーゲルらがいったのはゴシックのカセドラルなんですが、やっぱり音というのがコミュニケーションの装置として機能している。ゴシックのカセドラルが、音響によって神の国を臨在させるようなコミュニケーション装置だとすると、これもまた人類が築き上げた壮大なフィクションです。あるモチベーションで何事かが起こった時に、後で意味を付与して、それに目的という名前をつけたりしますが、実は目的を持って何かをしているのではない。つまり、神の国を臨在させるためにゴシック建築を造りましたというのは、途中から目的化しましたけど、あくまでも建築というのは僕はコミュニケーションの装置として出発する。これが、この本を読みながらずっと感じていたことです。

 

7.建築空間の暗黙知

竹山:暗黙知は能動性というのが基本にあって、脳は網膜に映ったものをそのまま転写するんじゃなくて、実は見たいものを見ている。人間は何か取捨選択をして見ようと思うものを見るし、そこでは能動性によって、あるいは身体の運動によって、世界を知覚している。僕はこういう暗黙知があるから設計ができるなって思った記憶がある。つまり、建築を構想するときに必須の空間加工のイメージというものは身体に即していて、全体的な構想の中である種のイメージを投射する能動性をもつ暗黙知に支えられていないと、逆にいうと出来ない。

石田:実は暗黙知について竹山先生にぜひお聞きしたかったことがあるんです。建築設計について。それは、大学へ入って設計という技能を身につけるための練習をするわけですが、学生にはある段階で何か掴んだという実感があるのか。そういうことがまずあるのかという話がひとつです。それから例えば自転車という技能で言うと、自転車を操る方法を明示的には教えられないけど、一週間も自転車にまたがって押してもらったり転んだりしていれば、大体乗れるようになるという習得の方法はわかっている。だから、みんな一生懸命練習しますよね。それと同じように設計教育でこういうことをあなたは3年間繰り返せば何かつかめるはずだというね、そういう方法論はあるのかということです。その辺はどうなんでしょう、実感としては。

竹山:設計演習やってて、図面をある程度描いている学生は、途中で自転車に乗れるようになったなという感覚はもつと思います。いくらプランをプランとして描いていても自転車に乗れないんですよね。だけど、プランと同時にポンと全ての立体が立ち上がる場面がある。立体がどう貫入して、それをどうセクションに落とし込み、プランに落とし込むかっていうことをやるようになる。立体がたちあらわれるようになった段階が自転車に乗れるということであるならば、それは身体全体の暗黙知として成立する時点があるかも知れません。

古阪:そういうところは文章も同じでしょ。同じというのはレベルは違うけれども、文章だって、皆さんを含めて稚拙な段階から始まってね、ある瞬間からうまくなっている。瞬間でなくても、結果としてね。どこかに分岐点がある。

布野:文章なら僕が答えてもいいから言うとね。基本的にありますよ。例えば、論理的な組み立てとかいうような、基本的な部分はある。僕は国語なんか大嫌いな質だったけれど、20歳くらいからトレーニングさせられたわけですよ。例えば新聞に書くとかね。だからある意味で言うと、トレーニングで文章は書けるようになる部分がかなりあると僕は証言できます。本を書いたりして校正を受けてね、これ伝わりませんって真っ赤っかにされてね。特に朝日とか読売とか新聞社でやられると、もぅ「くそーっ!」っていいながらやっぱりそっちの方がいいなって直されて。そういうトレーニングで一定程度の文章術を身につける。だから建築の話も僕が答えるとしたら似たようなところがあって、例えばスケッチを描いたりする能力っていうのは、ある人が言っていたのだけれど2歳ぐらいまででほぼ決まってしまうっていうような世界がある。ベーシックなところはね。だけど建築をどうするかというのは、一方でトレースを何回も繰り返すというようなレベルもあるけれど、僕の経験で言うとやっぱり物を見る事ね。良いと言われている作品を徹底的に見る。そして、建築の「造る」ことと「見る」ことの往復をやる。これはトレーニングで上がっていく。だから素人だっていっぱいいるわけですよ。建築家顔まけにすごく詳しい奴もいる。全然、空間音痴もいるし。

竹山:造るっていう観点でみる事も必要ですね。伊勢さんはスキーの事語ってたけど、スポーツにしたって「俺、野球ファンなんだよ、サッカーファンなんだよ」ってずっとテレビで見てるだけの人は絶対野球もサッカーもできないんでね。自分がプレイしているかのように身体を同調させながら見てる人は、ある程度のプレーヤーになる。建築もそうだと思う。

布野:そりゃそうだ。基本は、その気にならないとだめ。

石田:設計の話で言うと、技能を修得する過程は、いろいろあるということですか?

竹山:暗黙知というのは身体に埋め込まれた能動性の問題だから、例えばトレーニングも、トレースだけずっとしてたって全然だめで、知識だけいれたって全然だめ。これを身体化すること。ピアノも最初は一生懸命譜面をおって、目で音符を見ながら弾いている、身体と意識が全然バラバラなんです。ところが下手は下手なりに毎日同じ曲ばっかやっていると、そのうち指が動くようになってくる。もっとやっていると今度は音を聞きながら、全然手も見ないで、身体全体で音を表現するようになる。ここが、暗黙知に到達したとこだと。

石田:大学の教育の話に戻すと、いろいろカリキュラム変えたり、プログラム作ったりするけども、要するに身体的に身につけるレベルのものは、マニュアル化してこうすればできますよって説明できるものでもないでしょ。

古阪:設計の問題?

石田:例えばわかりやすい問題として設計としているんですがね。

竹山:それでまたこの本にひきつけていうなら、快感物質が出るような気がする。きた!ピタっといったっていう時がね。

石田:最近はイチローとかスポーツ選手の話もよく見かけるけど、彼だって飛んできたボールに対してバットをこう振ってなんて考えていないですよね。その瞬間はパシッとやっているだけなんだと思う。そのときの体の形、動きがそれこそ身体化している。

布野:個人技は、今の説明で僕はいいと思うのだけれど、一番面白いのは、サッカーみたいなやつだと思う。あれは言葉を介さずに瞬間的に反応しているじゃないですか。しかも集団で。みんなどうしてサッカーをみて快感を得るのか、というか面白がるのかというと、一番良いモデルなんだよね。もちろん言葉も出しているのだろうけれど、瞬間的に反応していくのを組み立てているわけでしょ。

竹山:センタリング来る前にブァーっといくんだよね。そこにボールが来るんだもん。

布野:だから集団の身体性みたいなの。これが僕は面白いと思う。個人でトレーニングをするのは、一方である種、文章を書いたり自分で設計をしたりする個人レベルの身体的な能力の獲得なわけだけど、群れのレベルでの身体運動は、集団暗黙知みたいなものでしょ。もちろん個人のトレーニングも要るけど、瞬間に全部判断しなければならないわけだから。群れの位置とか、相手の能力まで感知してパス出したりしているわけでしょ。失敗するのがほとんどなんだけど、うまくいったときに点が入る。

石田:時々中田のパスが全然誰もいないところにいってるけどね。

布野:それは感じあっていないわけですね。

伊勢:今の石田先生の議論、僕も設計教育を受けていないので、そのへんすごく興味があったところなんですけどね。ただ僕の研究室に来る学生は、やっぱり挫折してくるのが多い。設計の技能の獲得ができないと。建築というのはもちろん設計だけではなくて、構造系、環境系、それぞれの技能があると思うんですが、その中でどの技能を得るのに快感を感じるのかというところを自分で発見するのにかなり時間がかかっている。ロスが大きくて、かわいそうだなという気もするんですね。例えば数式に快感を見出す人もいます。言語能力や空間知覚能力はそれほど高くないかもしれない。でも数式という一つの言語には非常に快感を感じるような人もいるんですね。やっぱりその技能を伸ばして社会に放り投げる必要があると思います。卒業までにそれを発見できればよいのですけど、自分がどこに快感を得て能動的に技能を得るものがあるのかという部分で。

布野:そんな数式に快感を覚えてそれだけだったら別に建築じゃなくてもいいんじゃないの。

大崎:それは入ってみないとわからないですね。18歳のときにそういう判断はできないですね。

古阪:答えがでることに快感があるんでしょ。数式に快感があるんじゃなくって。

伊勢:数式だけに興味を持つんだったら数学科に入ればよいのですよね。でも、そうじゃなくてやっぱり現実と関わりをもちたいんですよ、多くの人はね。数式とか数学というのは一つの言語的な手がかりであって、日本語で建築に関わる人もいれば、数学という言語で建築に関わりたい人もいる。建築という現実と関りたいというのは多くの学生の望みなんですよ。

竹山:例えば大崎さんはどうして構造の道にいって、そこにどういう快感を見出したのか。

大崎:さっきの数式の話でいうと例えばまったく違う方法で式を作って同じ結果になると非常に快感を感じる。計算でもそうですけど、全然違う方法で同じ結果になると非常にうれしい。その魅力を持っている人は構造系にはいると思います。

古阪:方法がいくつかあっても答えが同じになる。僕の場合はそれとは逆なんだよね。いろんな解があるんじゃないかという。つまり、人系をいじると同じ答えはまずありえない。

布野:環境系の先生とかは数式と実験が一致する快感があるとも言いますよね。

古阪:工学の実験系の研究分野では実験した結果と数式とが一致するというのは一番大事なことですよね。

伊勢:実験の結果というのは現実の世界で、それと数学という理念上の世界、自分が獲得した数学という言語の世界を付き合わせたときに、同じだという快感があると思いますよ。自分の言語表現で良かったんだという快感。大崎先生もおそらくそうだと思うんですね。

布野:複雑な式よりも簡単な式の方が良いというのもあるでしょ。同じ現象に対して。そういう美学もあるのでは。

大崎:それはあるでしょうね。

古阪:脳の研究だって、必ずしも数式だけじゃなく、記述モデルを描いて、ここを刺激してこういう結果でれば想定したモデルと一致するとかいうのが快感になると思う。

布野:竹山さんはどう考えているの?

竹山:やっぱり快感物質がでるかどうかってことだと思うんです。上手かろうが下手だろうが。だってルイスカーンとか篠原一男とかへたですよね。それでも喜びをもってやるっていう方が偉大になる。最初に器用にうまく描ける奴なんてのは大建築家にはならないですよ。

布野:磯崎さんも絵そんなにうまくないよ。

竹山:僕も最初にバイトに行ったときにそう感じました。

古阪:大学の教育の中で快感を得るというより、いろいろなところで経験することによって快感を得るわけでしょ。トレーニングというか、その快感の味をどれくらいしめているかによるわけで、その場合にはわりとちょっとした刺激によっても大きな快感を得たり、反対にあまりそういう経験がない人だとかなり感動してもいいはずのものが、快感を得られない。いわゆるさめているという状態ですね。

石田:面白い結果が近くに見えているものは取っ付きやすいだろうけど、例えば3年くらい同じようなことばかり繰り返さないとものにならないような場合、3年間この図面をひたすら描けと言われれば、途中で挫折する学生も出てくるでしょうね。だけど3年やれば大体はどこかで設計の感覚が立ち上がってくるぞということを最初に言うことができれば、それじゃがんばって修行しようかとならないでしょうかね。

布野:身体的な技能はそうだよね。例えば大工とか、左官の技能はね。身体的な技能はやっぱり繰り返しのトレーニングでよいけれど、設計の技能は10年トレースしても駄目なものは駄目というのがある。

古阪:それはある程度は当然できる。大工だってね、トレーニングで本当に有能な大工になれるかっていうと、一通りのことができる普通の大工にはまずなれる。センスっていうのは、図面にしたってセンスはある。大工だってそうだし。そこがちょっと違うと思うんだけどね。

大崎:全員が有名なデザイナーになる必要は全然なくて、落ちこぼれても仕事はある。

古阪:(笑)そんな悲観的に考えることはなくて、もっと前向きに考えればいい。

布野:それは建築のいいところじゃない。すごい幅があって、裾野が広くていろんなことで参加できるじゃないですか。それこそ、ゴールキーパーもいればフォワードもいて、ボランチもいて、っていうようなことでできるのだから。

竹山:まあ、現実に建築を造る段階までは大学では教えないですけど、現実に建築をつくる現場へ行くと、ディティールをどうやっておさめるかっていうのは、ある意味で面白い。ただ全体を構想するというようなこととかアイディアを出すというところに快感を覚えるタイプの建築家は細かいディティールは現場のディティール家さんにまかせればいいじゃんというようなことにもなる。それで現場に行ってみると施工会社の下請けあたりでディティールばっかり書く人がいるわけですよ。でも僕割とそういう人好きで、いといろ話をするんだけど。やっぱりディティールがものすごくうまくおさまったというだけでも、ものすごく快感があるしね、様々なんですよ。

布野:あのね、調子に乗っていうと(笑)、二つなの。建築はコンセプトがあってディテールがあれば良い。これは立派な建築家になれる。あとは集団作業かな。

竹山:ほんとコンセプトとディテールだと思います。ディティールについては、トレーニングすればするほどうまくなります。ある程度のセンスがいらないとはいわないけど。

布野:物を知っていないといけない。

竹山:だから、さっきの設計教育の問題についていうならば、大学の間にお前才能ないとか、むいてないんじゃないかというようなことはいえない。

布野:窓口だけは広くしておかないといけない。

古阪:それは自分で感じる。大崎さんみたいにね。あきらめるとかね。俺はこっちよりこっちだってね。

大崎:あきらめたわけではない。

石田:選び取ったわけだよね。

古阪:それはやっぱり大学教育で一番重要なことじゃないかな。

伊勢:窓口は広くないといけないですよね。いろんなことを試してどの自転車が一番気持ちよいのかというような。

 

8.目的とメカニズム

最後に建築生産のことで古阪先生に聞きたいことがあります。やっぱり古阪先生の研究分野も視点がヒトじゃないかなと直感的に感じるんですね。ヒトの流れっていうのか。ある技能をもったヒトがどういうふうにヒトの群れの中で流れていて、それを合理的に流しながら現実である建物を作っていくという視点ではないだろうかと。

古阪:僕らのしていること、いわゆる建築生産に関していえば、組織を作ること、建築全体をどうやって創りあげるかということ、労働者の問題や全体のマネジメントを含めて、やっぱりコミュニケーションは非常に重要なんです。音によるコミュニケーションが極めて重要なんですね。そのコミュニケーションの上手い下手が、やっぱり技術的にうまく達成できたり、あるいは商売としてうまくいったりする。ところがそのトレーニングがどのようにできるのかということに関しては、他の分野も含めて学問的な基盤がない。例えば集団心理とか、個々の意思決定論とか、経済の様々な問題とか、雑学的に勉強しなければならない。だから、この話は非常によくわかる。それから僕は進化経済学とか、数理の方ではオペレーションズ・リサーチとか、いろんな分野の方とネットワークを持って勉強しているわけだけど、そのくらいやらないといけない。単にハードな技術だけではだめ。そういう意味でいうと建築の教育のあり方としては、学生をどう囲うかということではなくて、学生がどのように自由に外へ勉強しに出て行けるのかという問題として捉える必要がある。

伊勢:僕はその視点が、ある意味で建築の原因になっているのではないかなと思ったんですね。竹山先生がさっきカセドラルの話しをしましたけど、それと似た話があります。吉村作治先生がピラミッドがなぜできたかという理由として、あれは労働対策だったと言っています。

竹山:公共事業。

伊勢:そう。公共事業。ピラミッドを作るための神秘的な目的はわからないのだけど、とにかくヒトを動かすメカニズムがあったからあんなでかいものができちゃったんだというね。

竹山:いや、これ大いに勇気付けられるのは、建築家の存在っていうものを逆説的に根拠付けてくれる。つまり、面白いことをやるっていう無目的な奴がいていいんだっていうね。それが、総体としては人類の進化に貢献するのであるっていうような事が言われている。

伊勢:それは自己弁護でもあるんですけどね。

布野:そういう読み方だけで良いのかな?

竹山:冒険っていうのがあるでしょ、本の後半に「中心-周縁理論」で、森の中の村、森の人っていう、これも分かりやすいメタファーでいいと思ったんですが、このリスクをとるという行為を敢えてするという人間のさが。これも、個の遺伝子としてはマイナスだけど、集団のミームとしては成立する。リスクの中にエロスを持ってしまうわけです。僕は快感物質をエロスって言っているんですが、リスクの中にエロスを見るっていう性向が人間の進化の過程で組み込まれてね、それもミームなのかもしれないですけど、これが人類をこれだけ地球上に広げたわけだし、新しいことにチャレンジして、目的が何かわかんないけど、宇宙にも行くし、まあコロニー造るのが目的だとか言えば終いだけど、月に行ってみたいっていう気持ち、そういうようなことを特にポジティブに論じているあたりが、元気付けられる書物だなって感じがします。

古阪:月に行くのはソ連に負けたくなかったからじゃないの。(笑)

竹山:それも同じような・・・

古阪:理由にならないね。(笑)

石田:人間の具体的な活動の中では、目的を意識している行動とか計画というものが大部分でしょうね。だけど全部に全部、何か明確な目的があってやっているというふうには考えないほうがよいかもしれませんね。そう思っちゃうと、私の目的はなんだろうということでね、どんどん考え込んでしまう。

古阪:だけど工学でも計画系を除いて工学部全体がそうだし、建築でも構造とか、いわゆるシステム工学というのがそうじゃないですか。目的ありきでね。ところが目的関数がかけないものがあるんですね。社会システムのシステム論というのは目的があるかどうかわからない。大きな違いはそこにある。制約条件とかは数式でかけるけれど、目的関数を数式で表現するのを許すのか許さないのか。そこが工学部とそうじゃないところの大きな違いだよね。だから、建築の中で目的をもちろん持たないといけない学問もあるわけだけども、目的が何ぞやとか、目的すら変わっていくというようなこともある。

竹山:最初の小鳥のコミュニケーションでも、目的が仮に想定されるとすると、性的な、より広く良い異性を得るためのさえずりであるということになるかもしれないけど、そのうち、さえずり自体が自己目的化して。

石田:そうですね。そこはサイクルになるんでしょうね。

竹山:歌を作ることにことにせよ、演劇にせよ、文学にせよ、なんにせよ元はといえば異性へのメッセージだったかもしれない。それがだんだん自己目的化していく。ヒトが有性生殖する生命体と考えれば、多くの人間の文化的・芸術的な活動の目標が生殖であるという説明はすごく分かりやすい。ただ、そこの間に距離を膨大にとっていくっていうのが文化ですよね。そうした性向が人間を進化させてきた。直接的に目的に行かず、目的に距離をおくっていうね。

A-10神経のオートレセプターが欠如しているから過剰がでると。結局ピラミッドだとか、バベルの塔だとか、もうわけの分からないものを造り続ける。それに喜びを感じるっていう建築的欲望ってあると思うんですね。人類は、何かに突き動かされて。

石田:ただその欲望に従ってどんどん動いた結果、何度もひどい目にあっている。人間の根底にそういう駆動力があるというのを認識した上で、それとどうつきあうか。この本には戦争の話も最後に書いてありますが、そんなこともあるんじゃないですか。それから工学部で、最近工学倫理などで問題にしていると思いますが、おもしろいとか楽しいからだけでみんながどんどん進んだ先に何があるのかということには注意が必要だと思うんですよね。

0 件のコメント:

コメントを投稿

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...