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2026年2月16日月曜日

京大を建築学のコアに 巽和夫 名誉教授インタビュー, traverse03, 2002

 

京大を建築学のコアに

巽和夫 名誉教授インタビュー

 

聞き手  布野修司

高田光雄

古阪秀三

                大崎 純

記録:  永冨 賢

 

 

建築は形が現れる:ものを作っていくのが好きで建築学科へ

−:巽先生は京都のお生まれで、京大に入られたわけですけれども、なぜ建築に入られたのですか。

巽:あんまり根拠がないんです。子供の頃から建築にあこがれていたとか、絵が上手だからとか、建築家になりたいからという人がいますが、僕の場合はそうではないんです。ちょっと前の話になるけれども、僕は昭和23年に旧制中学(桃山中学、現桃山高校)の最後の卒業生になります。それで旧制の第三高等学校に入ったんです。ところが1年で学制改革があったものだから、また京都大学に入り直しました。それが昭和24年です。その頃は工学部というところまでは入学時に決まってるんだけど、その後は何も決まっていませんでした。学科を選ぶんですが、最初は化学系にしようか、それとも他のことにしようかと思っていたんです。今はもう無くなったかもしれませんが、吉田キャンパスに新徳館という大きな講堂がありまして、学科に配属するときに各学科の先生がやってきて、うちの学科はどういうことをやっていて将来の見通しはどうか、というようなことを説明する会が当時ありました。そういうのを聞いて進路を決めるんです。その頃おられた森田慶一先生が、昭和24年頃というと戦後の復興が始まったばかりですが、まだ焼け野原もあるという状態で、これから建築は非常に需要が大きいし、どんどん建物を建てていく時代が来ると、こう言われたんです。それに非常に感銘を受けました。僕はものを作っていくということが好きなものですから、それはいいな、と。それから建築というのは具体的にものが形に表れます。電気とか、化学とかとはその辺が違っている。それから、図面を描くこと、教養でも図学などありましたが、図面を描くことが割合好きだったし、友達も建築に進む人がたくさんいたこと、そんなことがあって、何となく建築に行きました(笑)。

−:当時の学生数は工学部で何人くらいだったんですか。

巽:学生数、どのくらいでしょうね。学科にして10いくつかあって、ひとつの学科で30人として350人程度でしょうか。

−:各学科の話を聞いて選択するという形ですが、旧制から新制ということですけれど、それは今でいうと何回生から何回生のときですか。

巽:2回生から3回生です。

−:そうすると、図学はあったけれど、製図は選択してやるということですか。

巽:厳密にいうと1年半くらいかもしれないけれど、いずれにしても入るときは工学部で、建築学科ではなかったと思います。

−:その時代の学生の雰囲気というのはどうでしたか。同級生でいうとどんな先生方がいらっしゃって、スタッフにはどんな方がいらっしゃいましたか。

巽:寺井(俊夫)君とか亡くなられた防災研の南井(良一郎)君とかが同級生です。それから竹中工務店に行って設計部長になった大辻(真喜夫)君なんかも同級生です。それから西川(幸治)君は1年下です。

 

旧制から新制へ

−:新制と旧制はどうだったんですか。

巽:僕は新制の昭和28年卒なんですが、新制と旧制の昭和28年卒が同じ年に卒業するんです。従って、その頃景気が良くなかった上に、その年だけ2倍出たわけで、ものすごい就職難で、そうなると我々新制の方が非常に不利なんです。僕らが新制の第1回だからどういう教育をするかということがいろいろあるんだけど、とにかく急造でやってますから、旧制のカリキュラムの体系をちょっと簡略にしたような恰好のものを新制のカリキュラムにしたんだと思うんです。我々もどことなく1年少ないというコンプレックスもあるし、旧制に対してはどことなく引け目がありました。就職も当然不利ですよ。大学院が新しくできるんだから、大学側もできるだけ大学院に行かせようと、無試験ですから来て下さい、というような感じでした。

−:西暦でいうと卒業は1953年ですよね。カリキュラムはそういうことですけれども、卒業の直前で研究室を選ぶ段階が次に来るんじゃないかと思うんですが、それは3回生から4回生になるときですか。

巽:4回生だと思います。ただ僕は研究室にはいる前に西山先生の調査に加わっていました。熊野灘の調査なんかです。調査に行ったのは4年生の時ですが研究室の活動には以前から参加していました。この調査について『住宅』という雑誌に書いた論考が僕が最初に書いた文章です。

−:それは何回生の時ですか。

 

熊野灘調査

巽:4回生です。

−:熊野灘調査などの西山研のその当時の調査の大方針などはどのようなものだったのか、またどのような雰囲気でしたか。

巽:主旨からいえば、あのときは漁村でしたが、農漁村の遅れた生活環境、住環境をよくするということですけど、僕は学部の学生でただ調査があるのに付いていったわけだけれど、多少社会工作的な意味合いがあったように思うんです。

−:西山先生なり先輩の先生方は、学生をオルグするという面もあったのでしょうか。

巽:西山先生にはある程度そういう意図があったんじゃないかと思います。でも、結局農村だったら地主の家に泊まったり、漁村に行ったら網元の家に泊まったりするんです。網元の家に泊まったんだけど、網元のヒエラルキーの利益に反するようなことをやるわけですよ。その辺に僕は大変抵抗を感じて、そういうことをするのなら網元の家に泊まらずに野宿してでもやるのが本来の姿ではないかと思いました。泊まるということは向こうは歓待してくれますから、いろいろご馳走出して世話してくれて、それに乗っていながらしかも、その漁村社会を批判するようなことは、僕としては非常に抵抗がありました。

−:西山先生は平気だったんですか。

巽:それが割合平気でしたね(笑)。

−:巽先生だけじゃなく何人か学生が行かれたと思うんですが、当時の西山研のスタッフとしてはどういう人がいたのですか。

巽:スタッフには助手に扇田(信)さんがおられて、それから絹谷(祐規)さんが旧制の28年卒で、僕の直上の先輩にあたるわけですが、彼が実質的に調査にしても何にしてもリードしていたと思います。やってるうちにそういう意図でやってるということが分かってきて、それなら僕は外に出てもっとしょぼくれたところに行かないといけないのではないかと言って外へ出たんです。そしてうろうろして帰ってきたら、もう絹谷さんなんかが風呂に上がって飯食って待ってるんです。何だこれは、おかしいんじゃないかと思ってそれで大いに議論したこともあります。彼とはよく議論しましたね、そういう点で。

 

教室の構成と配属

−:そうすると、3回生くらいでもう西山研に行くことは決まっていた?

巽:そうですね。『これからの住まい』とかいろいろな本もあったし、社会的影響力の大きい先生でしたから、僕もよく知ってました。

−:その当時の計画講座は、意匠は森田(慶一)先生で、計画は西山先生ですか?

巽:森田先生が教授で西山先生が助教授という状態がずっと続いていたんですよ。

−:そうすると森田先生は、先ほど志望するときに少し影響を受けられたというか、学科を選ぶときに森田・西山研が影響があったということですね。他にスタッフで印象にある先生とかありますか。

巽:そりゃあ、全部印象にあります(笑)。構造でいえば、坂(静雄)先生、それから棚橋(諒)先生、それから計画の森田先生、後は村田(治郎)先生が建築史でおられた。僕らが教授だった頃に比べればその頃の先生は、学生から見た印象では随分高齢で、重鎮の大家という感じでした。だけど今、僕はその先生の現職時代よりも高齢になっている。何だこんなもんかな、という感じも年齢的にはします(笑)。学術的な業績はそれらの先生の方が遙かに立派ですが。

−:当時は何講座くらいでしたか。

巽:当時は6講座ですね。入ったときは確かに建築でなかったことは確かなんだけど、どこで分かれたのかということははっきりしません。

−:希望すればいける状況だったんですか。

巽:それは第1志望、第2志望という形です。

−:それは試験で決まるんですか、それとも成績ですか。

巽:あれは成績でしょうね。希望者が多いから。

−:そうすると1年生、2年生の成績で序列があって、上位から第1志望をとっていくということですね。

巽:その頃は今みたいに学科数も多くないし、そんなに偏るということはなかったと思います。例えば化学だったら、化学だけで5教室あったんです。工業化学が一番人気があったけれども、工業化学がだめだったら繊維化学とか化学機械とか合成化学とか燃料化学とかいろいろあったから、うまく配分されていたんだと思います。その頃は建築はたぶん真ん中くらいの人気ですね。化学とか機械とかが人気が高かったですね。

−:戦後まもなくは、航空から一気に建築にシフトしたという話がありますが。

巽:航空は一度名前が変わって、確か「応用物理」になったんじゃないですかね。大学院になってから移ってきた人がいましたね。

−:西山研に3回生の時に決められたということですが、定員があるとかじゃないんですか。

巽:今思い出すと、本館の一階の掲示板に研究室がどういう研究テーマで研究しているのかという一覧表が掲示されていたので、それが出ていたということは結局それを見て志望していたということでしょうね。僕は前から調査に参加していたもんだから自然に行ったけれども、そうでない人はそういうので選んだんじゃないでしょうか。

−:一方で旧制も同時並行であるわけですが、そういうシステムは違うんですか。

巽:旧制はどうだったんでしょう。旧制の人に訊かないと。

 

大学院時代

−:巽先生は3回生の時とか西山研の熊野灘調査に参加されていたときに旧制の人も同じ年代にいたわけですよね、絹谷さんとか。その関係はどうだったんですか。

巽:新制と旧制の関係ですか。それは同じ研究室の中ではやっぱり1年先輩と後輩という関係ですよね。

−:卒業年次は一緒だけれども旧制の方が1つ上ということですか。

巽:1年余計にやってますからね。僕らの頃は旧制の3年と新制の2年ちょっととはっきりとしてましたから、その辺では非常に不利でした。だから、僕らの同級生でいいところに就職しているというのは非常に少ないです。例えば竹中工務店、大林組、これ1人ずつでしょう。それから建設省が案外3人くらい入っていて、大手のゼネコンといえども1人ずつやっと採ってくれるくらいで、大成建設はなかったし、清水はいたかなぁ。

−:次の年からはいいんじゃないですか。

巽:大学院に行ってから就職した人は割合よかった。

−:大学院には何人くらい進まれたんですか。

巽:大学院は結局11人ですけれど、よその大学から34人入ってきてます。京都工芸繊維大学からとかね。だから内部からは78人ですよ。やはり僕らの時代というのは、構造系が非常に強かったですね。

−:いや今もそうですよ(一同笑)。学生の人数では圧倒的に計画が多いですが。

巽:僕らの時は、研究・教育組織としても構造系が強かったし、学生もそうでした。それで就職がよくなかったから、計画に行っても就職できんぞ、といった感じの雰囲気が先生の側にもこちらの側にもありました。

−:それは京大に限らないんじゃないですか。社会情勢からいえば、戦後復興ではどうしても本当のエンジニアが必要となるから。全体的な傾向でしょう。

巽:構造、環境とあったけど、実際のところはエンジニアリングなんですよね。エンジニアリングを「構造」という名前で代用しているんですよね。実際に構造設計をするかというとそうでなくて、大体現場に行くのが多いでしょう。その辺は違ってるんだけれども。

−:今みたいに、構造と環境と計画の間のハードルは高くなかったんじゃないですか。人数も遙かに少ないわけでしょうし。

巽:大学院生11人がどこにいたかというと、今はもうないのかな、本館の東隣にあった東別館の2階に大学院生が一緒にいたんです。構造とか計画とかに関係なく。修士課程にはいるのは僕らが初めてでしょう。大学側もどう扱っていいのやらわからないわけです。だからもう、いつもとりあえずこうしておこうという。カリキュラムにしても指導にしたって、それから場所にしたってそうでしょう。今みたいに講座間とか専門間で仕切りがあるという感じではなかったですね。それで構造の人だって設計演習を取ってましたし、コンペにも参加しましたしね。

−:大学に入られて、ドクターに行かれて助手をちょっとやられるんですよね。

巽:ええ助手をちょっとしましたね。

−:それでその間割と研究的なことはいろいろありますからいいんですが、スタッフと学生の関係とかスタッフ同士の関係とか、あるいはその間のプロジェクトなどで印象に残っていることがあれば…。例えば1950年代のことなど。

巽:プロジェクトは西山先生がいろいろ引き受けてこられるのをやったりしました。例えば公団の香里団地というのがありますね。あれはね、昭和30年というのは公団ができたんですが、30年というと僕が大学院の修士を卒業して博士課程に入った頃ですが、公団がスタートするにあたって、はたして公団住宅が売れるだろうかというので、家賃4000円で需要者があるかという調査をしてくれというような、調査プロジェクトもいろいろありました。それから香里団地の計画を、あそこは火薬庫の跡なんですが、あれを計画するので何か提案しろ、ということで、僕は今でも思い出すけれど、斬新な提案をしたんだけれど通りませんでした。火薬庫だから火薬庫と火薬庫の間が空いていて山−谷−山−谷になってるんです。現在、全部ならして使ってるんですが、山−谷を利用しようというのが僕の提案で、そこに1階部分はピロティにしてそこに共用空間をおいて、その上に住戸部分を上げるという提案をしたんですよね。その頃、竹中の大辻さんが非常勤講師で来てまして、これいいなぁと言ってましたから、芦屋浜のASTMにね、あのアイディアがどうも関係してるんじゃないかと(笑)。そういう提案をしたこともあります。

−:そのときは構造や環境の先生は参加されたんですか。

巽:環境はどうだろう、あれは西山先生のところだけかもしれませんね。それからコンペは、国立国会図書館コンペをやりました。今でも覚えてるけどね、こういう太鼓型をした、コアシステムで真ん中に書庫をおき、外周部に閲覧室を配置しようというアイディアで、構造の人達とも一緒にやりました。これは確か、大学院の演習課題でもあったように思うんですよ。あの頃は今みたいに構造とか環境とかいいませんから、興味があれば設計の単位を取っていいわけです。だからそういうコンペが出てくるとみんな 参加してたんです。

−:あれは著作権問題でもめましたよね。あれはとったのは前川事務所でしたよね。それは印象には残ってないですか。

巽:それは記憶にないですね。どんな風にもめたんですか。

−:確かその通りに実施されなかったと思います。それで「新建築」とかジャーナリズムが問題にしたんです。

巽:そんなのでね、僕は個人的には住宅の設計とか、頼まれてやった設計とかいくつかやりました。

−:それは個人、それとも仲間とですか。

巽:それは個人でもやったし、仲間ともやりました。今は設計といってもとてもできませんが、そのころは設計をするのは当たり前でね、それで、研究は少し違う方向に行ったけど、何をやるにしても、設計をしてそこからどういう問題があるかを見つけるんです。僕もある種の建築家だと思っていますけれども、やはりものを作る経験がなければ、本当には研究課題はでてこないし、物事はわからないというふうに思っている。研究をしてそれを実際にやってみる。やってみるといろいろな問題がわかるから、またそれを研究する、と。それは最初は今のような時代じゃないから設計っていう行為そのものが非常に包括的で総合的な行為でしたよね。今はもうかなりいろいろわかってきてますけれど、そのころはそういう包括的な経験をすることによって、所謂狭い意味での「デザイン」ももちろんありますけどね、計画的な問題、経済的な、社会的ないろんな問題がそこにあるということが、それを通じて体得できたんじゃないかと思います。

 

調査と設計

−:それでその辺で、吉武研との関係を聞きたいんですけれど。むしろ吉武研は巽先生がおっしゃるような立場で、研究は設計に還元できなきゃだめだという立場で、西山研はむしろ調査が大事だという構図で議論をされたと聞いていますが、その辺は具体的にどうだったんでしょうか。

巽:西山先生は「調査無くして発言無し」というふうによく言われてました。西山先生は庶民住宅の研究を柱とした研究をしておられましたから、その流れの中である意味では設計をするという行為と、研究をするという行為は大分違うんです。研究するという行為は分析的な行為ですよね。ものすごく膨大な量の調査をしても、わずかなことしか出てこないという性質のものでしょう。設計という行為は、よくわからないけれどとにかくものにするためにはまとめないといけないから、いろんな情報を集めて総合するという作業ですよね。だから研究するということに非常に没頭して行くと、設計するということがしんどくなるし、やりにくくなりますよね。逆に設計を一生懸命やっていくと、多分もう研究なんてやってられないというふうになる。西山先生はどちらかというと、前者の方で研究の方を非常に強くやってこられたし学生の指導もそちらの方にやってこられたわけです。ただ、当時は今のように建築設計事務所とか、ゼネコンといったものがそんなに発達していなかったので、新しい課題について大学の先生に頼むとか相談するということはよくあったわけです。そういうものを先生は断ってはおられなくて、例えば城崎温泉の旅館の浴場の設計なんてありますよね。

−:あれは調査も絡んでるんじゃないですか。

巽:調査なんかやってるとね、相手が設計して欲しいと要請してくることがあるでしょう。それに引きずられますよね。それで研究室の中でも、「なんでそんなもの引き受けるんだ」なんて議論もあるんですよ。それを先生はものすごく理屈を付けるように、「いや、これからは労働組合の大会を開くときには、温泉くらいの規模の旅館がたくさんある所じゃないと開けない。従ってそこの温泉をデザインするんだから、この仕事はいいんだ」と、こういう理屈を言われるんです(笑)。

−:その辺をもうちょっと聞きますと、吉武先生は西山先生の梗概を戦時中ものすごく読まれてるんです。西山先生の論文とかをものすごく意識されて始められている。それで住宅から公共施設へとか彼なりの戦略があるし、鈴木成文さんみたいな、住宅を担当した先生もいたんで、すごく意識してやっていて、設計と研究との関係については、これは西山先生も書かれてますけれども、例えば今の標準住戸の設計みたいなものは、これは中央に近い東大に任せて、だけど京大はそっちがやらない、やれない調査や、むしろ領域を拡げて地域計画に行くんだといった、割と理屈っぽく守備範囲みたいなことを書かれてますが(笑)、具体的に例えば、吉武先生が何回かこっちに来て議論をされたんですか、もしくは向こうに行って。

巽:僕自身はあまり参加していませんが、絹谷さんは研究室のチーフのような形でかなりやっておられたと思います。

−:例えば九州大学におられた青木先生なんかは、ものすごく怖がって、今でも京大に来るのが怖くて足がすくむみたいなこと(一同笑)を言われていて、そういう緊張関係があったようです。

巽:やっぱりやりたい調査、研究がいっぱいあって、まだまだ先にいっぱいやらないといけない、ということで西山先生はやっておられた。弟子にもやらせていましたが、自分としても問題意識をたくさん持っておられた。それをさっき言ったように設計という行為は、一応この辺でわかっている範囲の中で、形にしてみようという作業ですよね。研究的に言うと一度立ち止まる感じがあるじゃないですか。そうしても僕はよかったと思うけれども、先生はそう考えずにですね、これは僕の推測ですよ、もっと次の、もっとわからない、明らかにしないといけないことをやりたいと思われたんじゃないですか。それから、先生の『日本のすまい』などの本を見てると、日本の住宅の現在の姿というものを、できるだけ網羅的に収集して記録したいという、そういう意欲が強かったと思います。だから調査も研究のための調査というよりも、そういう現状を明らかにするための調査、そういうところに忙しくなり始めると、どこかの成果をまとめてこれを設計にして、という考え方で無くなったのかもしれません。それはいい面もあったし、悪い面もあったし、我々学生にとっては、実践的な方向についてもっとトレーニングする機会があった方がよかったと思いますけれど、そういう一つの京大の西山研究室のカラーだったというよりほかないですね。

 

西山研究室 

−:聞きたいことはたくさんあるんですが先に進めます助手になられる頃には後輩が入ってきてますよね。研究室の運営については、混然としていたんですか、役割分担みたいなものが既にできていたんですか。例えば絹谷先生がヘッド格でおられて…。

巽:絹谷さんは大学院生だったんです。それで結局、森田教授−西山助教授という体制が長く続いていまして、助手すら西山先生は自由に取らせてもらえなかった時代なんです。それで絹谷さんは大阪市大に行かれたんです。

−:今の話は三村先生の世代から、もう既にユニットがあってという話は聞いたことはあるんですけれども…。

巽:その頃はまだそんなふうに分かれていませんでした。

−:混然と設計やったり、調査やったり?そうすると設計やりながら調査にかり出されるということもあったんですか。

巽:それでね、例えばこんな笑い話があります。先生は自分で何でもやるんですよ。雇ってる人がいるのだから、その人にやらせればいいのに、わざとじゃないんだけどやらせないで自分でやってしまわれるタイプなんですよ。それであるとき、その女の子が「先生、どんなことをしたらいいのか指示して下さい」と言ったら、「忙しくてあなたのやることまで私は考えていられない」と言われたというのです。事務的なことは人にやらせて、自分は肝心なことだけやればいいでしょう。そうでなくて、とことん自分がやりたい。だからものすごく忙しくて、ものすごく精力的にやられたから、先生がやられた研究の後には何も残っていない、という感じもあるんです(笑)。先生のやったような分野でトレースしようという人はいないですよね。三村さんも最初はレクリエーションの研究をされてましたし、僕は生産問題とか経済問題をしましたし。「西山先生の後はもう草木も生えん」といって、みんな違う問題に取り組んだのです。それ僕はよかったと思ってるんです。組織という面から言うとね、西山先生は建築計画という分野について吉武先生に近いけれども、都市計画という分野については高山(英華)先生に近い。年齢的には高山先生と大体同じなんですよ。だから、高山研とも比べられたことがありました。高山先生と西山先生はまったく対照的だった。高山先生は組織を率いて、弟子を育ててピラミッドを形成して…。まあ都市計画という分野がそういう分野でもあるんだけれど、西山先生は弟子たちが先生を支えて(笑)、先生が勝手なことやってもね、それを支えていってるというふうなことを、東京の方からはそういうことを言う人がいましたけどね。それはタイプが全然違いますよね。

−:研究費はどういうふうになってるんですか。

巽:研究費は、「講座費」というのがあって、今もそうだと思うけれど「講座費」の中で共通にしたものを引いて、各講座に分けてましたけど、助教授でしたからあまり多くないですよね。それで、それをベースにして、まあ委託研究みたいなものもあったし、今はどうなってるか知らないけれど、その頃は委託研究や調査費がなかったらやっていけないような状況でした。そこへ公団ができたりなんかして、多少調査費が出てきたと、という状況ですよ。

−:それは調査の実費として西山先生が仕切られた、ということですか。

巽:そうですね、後半になってくると当然、行政の事務の担当者が居ましたから、事務的にはその人が取り仕切っていました。

 

建設省建築研究所

−:先に行きますが、建研(建築研究所)に行かれますよね。それはどうしてだったんですか。助手は一年くらいされたんですか。

巽:助手は1年やってません。昭和33年の3月に一応大学院の博士課程に在学し所定の単位を修得ということになったんです。今どういう扱いになってるか知らないけれど、学位論文を出して学位を取らないといけないんだけど、僕は博士課程の第1号ですし、3年で学位を取るという雰囲気ではなかった。旧制並と言うことになってましたから、誰もそんなことを考えなかった。だけど制度上はそうなると具合が悪いので、所定の年限在学し、所定の単位を修得ということで一応出たわけです。それで出たけれども就職の当てがなかったんです。それで西山先生森田先生なんかと交渉して下さったんです。それからその頃は、講座も少なかったから、他の先生も僕のことを知ってるし、お互いに博士課程に行く学生くらいのことは知ってるわけです。いろいろやりとりがあったと思うんですね。それで、5月からというので、1ヶ月遅れで助手になったんです。ところが一方、建研の第1研究部の部長が新海悟郎さんといって、この人が西山先生と同級生なんです。その下に2つ室があって、建設経済研究室と都市計画研究室ですが、建設経済研究室に宮崎元夫さんという人がおられて、宮崎さんが京大の出身でこの人が千葉大学の造園学科に移られるということで籍が空いたんです。それで入ることになったんです。

−:そうしますと、建研に入られて戻られるまでの話を伺いたいんですが、そこで古川(修)先生とかお会いになられて、学位論文も結局建研で書かれたんですね。想像するに充実してたんじゃないかと思うんですが。

巽:楽しかったですね。

−:建研にはどのくらいおられたのですか。

巽:7年ですね。1年間イギリスに留学していたのを入れて7年です。

 

建築経済に関する研究

−:城谷先生もおられたんですよね。その辺りのお話も伺いたいのですが。

巽:大学院では何を研究しようかというので西山先生のサジェスチョンもあって建築の経済的な側面、あるいは生産的な側面を研究しようとしていたんです。修士論文は「建築経済に関する予備的研究」というものでした。これは大分苦心しましたが、うまくいったとは思わないんですが、そういう研究をやっていたのでちょうど建研の建設経済研究室にぴたっと合ったわけです。僕としてラッキーだったと思うのは、大抵就職すると、そこの研究テーマに合わせてやらないといけないでしょう。また大学に行ったとしたらせいぜい若くして行くんだから助手くらいですよね。助手で行くと多分いろんな雑用もしないといけない。それからそこの先生の研究室の研究をしないといけない。そういうことから言うと、建研は僕の研究テーマにぴたっとして居たというのが一つ。それともう一つは建研は金はないんだけど割合平等でして、研究員になると各研究員に研究費を平等に割り振るんです。大学だったら教授、助教授、助手と階層別になっていてなかなか若い人は金を使いにくいかもしれないけど。

−:いや平等なところも増えていますよ。東工大は序列が無くなったと言いますし、東洋大なんかは助手まで完全に平等ですよ。

巽:そうですか(笑)。僕は研究所というのはもともと研究所の方針があって、研究テーマを部長が差配してそれを下の室長がブレークダウンしてそれを研究員が実施するんだと思っていたんです。イギリスはそうなんですよ。僕はイギリスに行って、非常に違うなあと感じたんですけど、ところが日本の建研は何やっても自由なんですよ。何やっても、というのは極端だけれども。その代わり自分で責任を持てっていうことですけどね。研究テーマに関してはあれこれ言われなくて自分でやりたいことをやる、あまり金はないけどやれる。今は大分状況は違いますけど、今は研究費が少なくなってプロジェクト研究が増えて、そのプロジェクト研究に乗らないとなかなかちゃんとした研究ができないようになっています。僕がいた頃はまだ牧歌的な時代でね(笑)、古川さんはああいう建設業の研究でスタートされて、城谷さんは最初は少し困っておられましたね。城谷さんはもともと住宅問題といわれる領域のことをやってこられたんです。研究に悩んでおられたように気がしましたけど、しかしその後プレハブ住宅が出てきたのでそういうところに研究をシフトしていかれたんです。そういう研究体制の中に僕が入った。僕は一番若手でしたから、非常に楽しかったですね。今ずっと思い返すのに、やはり建研時代の7年間が、その後、こちらに帰ってから現在に至るまでの行動様式や研究テーマに大きな影響を与えているなと思います。建研での研究というのもそうだけど、東京に行って生活したということ、それから建設省とか公団とかと非常にいろいろなコミュニケーションがありましたから、あの頃関西にずっと居たらどうなっていたのか、時々比較して考えて見るんです。僕は未だに東京といろんなことで縁が切れませんから、そういうことを考えると関西だけにいたのでは今のようにはなっていなかったと思います。今も東京の大学や行政の人達との人間関係があり、自分の研究テーマが建築や住宅の生産問題とか経済問題とか社会問題にあったことが今日の僕の活動につながっています。

 

京都大学へ帰る:38歳で教授に

−:その間こっちでは、第2学科ができて、今僕が居る地域生活空間計画講座というのができて、そこに絹谷先生が呼び戻されたんですよね、確か。それですぐに亡くなられて、西山先生がそちらに移られて、それで巽先生が戻ってこられたんですよね。上田篤先生も同じタイミングですか。

巽:そうです。僕の下におられたんです、上田さんは。上田さんは助教授で入ってこられて、僕も助教授で入ったんだけど、僕が先に教授になって、上田さんは僕の下になるような形で。同じ講座です。

−:そうなんですか。西山先生の方になるんじゃないんですか、上田先生は。

巽:西山先生の方じゃないですね。西山先生の下は三村(浩史)さんです。

−:それで、戻られてから後の話は。

巽:戻ったのは、昭和41年です。それで助教授で戻ったんですが、昭和43年に教授にしてもらいまして、今なら考えられないくらい若い、38歳ですか。36歳で帰ってきて、その前の1年間はイギリスに留学して、それで建研に戻ってきた途端にこちらに来ることになったんで建研が怒りまして(笑)、当然ですよね。それはもう平謝りに謝って。

−:先生は謝る必要はないんで、教室が謝るべきで。

巽:それで帰ってきたんですよ。僕にとって一番の大きな問題は、やはり建築計画講座ですから、建築計画講座にふさわしい研究、教育をやらないといけないということでした。それで、講義の方は何とかなるにしても、研究の方をどう切り替えるのか、そうかといって、大体20年近く経済・生産問題をやってきたんですが、それを全部捨ててしまって所謂在来的な計画の方に行くというふうには、ちょっとやりにくかったんでね、そういうことをしたら自分も一からやり直しになりますから。そうじゃなくて、何かこれまでやってきた研究の経歴が生きるような、そういう計画にしたいと思ったんです。僕の計画論というのは、まあ計画論なんていうほどのもんではないけども、これからの計画はデザインのための計画というよりは、人の生活との関係を、空間を考えるということだけではなくて、それをどう社会に実現していくかということが非常に重要になるんではないかと。そこでの建築家の役割とか、生産者の役割とか、学位論文は生産・供給に関する研究でしたから。その流れで新しい計画論というものを作りたいな、思っていたわけです。そこで、僕の研究室でやったのは、結果的にいうと一つはハウジングの問題、もう一つは建築企画です。ハウジングの問題も先ほど言いましたように西山先生が既にやっておられるんで、ああいうタイプのハウジング論はやってもしょうがない。それで、公共住宅供給の問題から「二段階供給方式」の研究へ展開した。建設省がこの研究に注目してくれて、「躯体−住戸分離方式」ということになりました。この新しい住宅供給方式は、実例としてはたくさん無いけれども、理論としては非常に広まってきました。今日では「スケルトン−インフィル・システム」といわれてます。これなんかは狭い意味での計画の考え方ではでてこなかったものです。それはこれまで建築の生産組織の問題だとか、建築家の役割だとか、公共建築とは何かとかいろんなことをやっていたことが反映されています。集合住宅の問題を扱うことになりましたが、集合住宅も郊外型の集合住宅から都市型の集合住宅になってきまして、そうすると都心居住とは何か、とか、都心居住における集合住宅のあり方は、とか、平面の社会の中で石塔のような高層住宅を建てて、入り口をオートロックで仕切っているような、こんな異様な居住形態はおかしいというような考え方が出てきたんです。

−:建研の時の、こっちの方では西山研に言われて、かつそういう中で設計とか生産とか経済とかについて研究して、建研の中で城谷さんととか関連のことをやってる人たちの中にいる、そこでまた巽先生の考えがどちらかの方に動いているはずなんですよね。それが今度は建築計画ということで変えられている。そこの変化についてほとんど説明がなかったのでその辺りのお話をお話いただけないかと。建築計画、建築経済の中の建築生産の定義とか、あるじゃないですか。

巽:僕は東京での建研時代は、建研の中にはもちろん古川さん、城谷さんはおられたけれども、それだけと言ってはなんだけど、もっとこの考え方を広めていこうと思うと建研の中だけではだめなんで、建築学会を舞台にしたんですよ。僕はこの建研時代というのは、建築学会を大いに舞台にしていろんな人と交流したような気がします。それで、今の建築経済委員会でいうと長老は、徳永さんとか、それから岩下さんとか、若手に土谷さんとか、そういう人達です。徳永さんにしても、岩下さんにしても、土谷さんにしても全て京大出身の人というのは居ないんです。そういう中で、別にどこの出身でも構わなくて、広いそういう世界の中で建築生産というものをね、どう良くしていこうかな、ということの議論をしました。その頃の僕は30代でしたから、ものすごくがんばったと思います。それでその結果、こっちに帰ってきた直後に、「建築生産論の提起」をまとめたのです。学会の研究委員会での議論の一つの成果なんです。あれが僕の拠り所になっています。

−:1968年、昭和43年ですか。

巽:昭和43年です。帰ってきた年です。

 

ハウジング論と建築企画:建築生産

−:建築計画で戻られて、それまでの、特に建研での経験がベースになって建築計画を見直した、見直すというか、巽研の建築計画論の展開があって、それの柱がハウジング論と(建築)企画論ですね。僕は、その頃からもう巽先生の研究室の動きをずっと見てましたけれど、東大で見ると例えば鈴木成文さんなんかは、住戸計画の袋小路に入り込んで、僕は先輩連中見ててわかるんだけど、住宅地計画に展開ができなかったんです。それは「領域論」って言うのでやろうとしたんだけれど、なかなか論理的にならなかった。一方で住戸内だけを考えているから「順応型」みたいなことしか思いつかない。スケルトンシステムをおいて、中を間仕切るくらいの発想しかでないわけです。京大見てみろ、と。もっと広い。だから内田研のデザインシステムと足してやったらどうだ、というくらいのことを生意気にも言ってたんです。計画が、住戸計画、プランニングの話に縮こまってる。計画というのはもっと広い。「広義の計画」と「狭義の計画」があると言い出して、それは建築生産全体の問題があるといった議論をしてたんです。(布野)

巽:建研の生産論の問題は、僕は「建築生産」という概念を創ってそれを押し出していこうとしたというのは僕の建研時代です。

−:その概念が広かったために、何でもそこに入っていけたということですね。

巽:それまでは、計画−設計−施工だったんですよね。それで、施工というのは学会で言っても「施工」という分野がありますね、「材料施工」という分野もあったしね。で、古川さんが一番力入れていたのは、悩んでおられたと思うんだけど、そういう施工に関わるんだけど、ものの施工の話じゃなくて、もっと人と組織でものを作るという、そのことを対象にされたわけですよね。これが建設業という形になったわけですよ。古川さんは建設業をやったけれど、僕はさらにもうちょっと広く、建築主、つまり、需要から始まって、計画、設計、それから生産してさらに管理すると、その辺まで全部含めて一連のものとして考えたらどうかと。まあ管理の所は、なんというか利用・管理の所は別かもしれないけれど、そこまでの間を、全体を「設計」という概念で捉えたらどうかということでした。建設業の所を古川さんはやっておられたけれど、僕はもうちょっと、前の方をやりたいなと考えていました。それで建築家の問題とか公共の役割とは何かとか、そういうことをやって京都に帰ってから『行政建築家の構想』という本を出しました。あれなんかはまさに、一体「営繕」の役割はなんなんだ、と。本当は重要な話なんだよね。ところが今まで営繕というのは役所の建物だけ、民間とは切り離して、それでまた民間の建物を需要とする人とはなんの関わりもなく予算が付いたり建てたりすると、こんなことやってはだめだ、ということでそうでない営繕のあり方を検討しました。それから本来「建築指導行政」といわれる確認行政というのは、もう圧倒的に9割以上は民間の住宅なんですよね。それが住宅行政の枠の中に入ってなくてですね、住宅行政といったら公共住宅を建てるだけの話でしょ。それで圧倒的に大きい、違法性にかなり富んでいるようなものも含めて、これを何とかしなきゃいかん、という発想だったんですね。だから古川さんはちょっと別だったかもしれないけれど、僕の生産概念はもうちょっと広がりを持ったものとして、生産論の定義もそういうつもりで書いたんです。従ってそれが現在の計画の方にいっても、そんなに違和感は感じてない。それからもう一つの動機は、僕は建研時代にイギリスに行ったでしょ。“Building Research Institute”というところに行ったんです。そこに行って、現場にしばしば調査にいったんですよ。そうしたらしばしばストライキが起こるんです。コンクリート工のストライキが起こるでしょ、それが終わると今度は煉瓦工のストライキが起こる。こんな風にストライキを次々にやっていたら、工事は全く進まなくなる。そこで、ストライキをやる職別組合をどううまく使いながら建物を造るかという技術として、建築生産の生産管理の技術というのは発達してるんだなということに気がついたんです。そこを日本はまあまあ何とかうまくやっていくようなルールでストライキを起こさずにやってきたわけですね。これのいい面もあるし悪い面もあるんだけど、こういう生産管理の技術というものを本当に確立するんだったら、そういう難しい状況の中でどう技術化するかというのが大事で、僕はイギリスでその頃そういうタイプの本も読んだし、それから建築経済の問題についても経済学者がいくつか本を出してましたから、ああいう現象というのは日本に無いわけですよね。その後の話とはちょっと別になるけれど、そういう経験があったものだから生産問題をそういう広く捉えた形でいたということです。

 

建築計画研究の終焉?

−:ちょっと話題が変わるんですけど、建築計画の研究はほとんど終わっている、つまり計画手法の研究というのは非常に矮小化した形になってるのが多すぎて、新しい展開がみられないというふうにみえるんですが。それはつまり、巽先生が今おっしゃったような生産とかあるいは設計とか、もう少し広い概念で「計画とは」という、攻めの姿勢が無くて全て後付になっている感じの研究が多い。その辺がもう少し広い視野でできないのか、このあたりに今の建築計画の問題があるんじゃないのか。これらの点について、巽先生の世代の人たちが見て、今の建築計画について意見があるんじゃないかと思うんですが。(古阪)

巽:僕は今の建築計画について不勉強なもんだから。しかし、研究は確かに、僕は吉武先生の研究は一時代を築いたと思うんですよね。それで非常にすばらしい研究成果を上げられたと思うんですが、その後の方が鈴木さんに象徴されるように、やはりさっき言われたのと同じような印象を持ってるんですよね。それでこの学校だ、病院だ、図書館だって言ってる時代はまずかなり前に終わってると思うんです。それから後いろんな研究をして相当皆さん苦しんでいるんでしょうね、そう思います。だから、そこでどういう切り口がいいのか僕にはよくわからないけれど、しかし建築学会は建築計画分野は非常に隆盛でしょう。発表の数は非常に多いでしょう(笑)。

−:発表の数は非常に多いかもしれない。一方で今の縦割りの施設研究がとっくに終わってると言うのもそうなんです。だけど、切り口という意味では例えば高齢者の問題とかハンディキャップドの問題とか、その立場に立って施設の問題、素朴な手法かもしれないけど、きちんと調査をしてそこから問題を出すという役割はずっとあると思います。(布野)

巽:僕が不満に思うのは、施設別はいいし、一つの大きな成果を上げたと思うけれどその施設をよく見てみると学校、図書館、病院と皆公共施設なんですよ。公共施設は皮肉に言うと比較的調査がしやすくて調査の成果が設計に反映されやすい。ところが、公共建築というのは、一体日本の建築の中でどのくらい割合を占めているかというと、量から言うとしれているわけです。圧倒的に多いのは民間の建築でしょう。ところが民間のオフィスビルとかホテルとかそういうタイプの研究はあまり無いんです。それはなぜかというと、研究しにくいから。それから、これはコマーシャルな建物だということでどことなく偏見があって、大学の先生がそんなコマーシャルなことについて首を突っ込むことについて強い抵抗があります。実際ホテルの研究をしてる人はホテルのビジネスをしてる人の関係者だったりして、その辺のホテルの関係はそうだし、オフィスビルはオフィスビルの研究で、所謂大学のプロパーな研究者じゃなくてもうちょっと実務畑のところでやってる研究なんですね。それを大学の研究者は大いにサポートして、それらの持っている、例えば不動産の評価の問題とか、経済的な問題とか、いろんな社会的なプラスマイナスあるけどいろんな問題を含んでいるのに、そういうところは実務の話だといって押しやってしまっているところにやはり、建築学者の怠慢があるような気がします。計画学というのはそこら辺まで切り込んでいけるようなものでなくてはいけません。公共建築のような割合穏やかな調査しやすい、調査結果が反映されやすい、成果が出てきやすい所ばかりやっていたんではだめなのです。

−:明確に戦略化されてまして、吉武スクールでは。意見として吉武先生がおっしゃっていたのは、要するに繰り返し建てられる可能性があって不特定多数が利用するという意味で、病院、図書館や学校、公共建築をやります、ということは宣言しています。2つありまして、1つはそうやって担当を決めて、イギリスならイギリスの情報を集めた方がいいだろう、専門家をつくった方がよかろうということ。もうひとつ、巽先生がおっしゃったように、成果が出ますよという意味では「学校」で学位論文3人いけるでしょうとか、それはもう明快に、吉武先生から直に聞いたわけではないけれど周辺は明快に言ってましたね。(布野)

巽:なるほど(笑)

 

大学紛争

−:本題戻りますけど、紛争時代の話にはどういうものがありますか。

巽:紛争時代というと、どういうことを言えばいいの。

−:どういう議論をされたかとか、当時の学生、あるいは教官がどういう風に対応していたかとか。ぼくは、その直後に入学した世代ですが。(古阪)

巽:僕は教室主任でしたから、教室主任という立場での苦労はあったし、それから教授としては教授会がもう開かれず、開くとやってきて潰されますから。バスに乗って、どこにいくかわからんけど、とにかくバスに乗ってくれと言って、バスに乗るとどこかにつれていってくれて会議を開く。ところが会場も跡をつけられていてそこでもまた潰されたり。そういうことがよくありました。また民青と新左翼との対立はよくありました。西山先生が部屋で随分とっちめられて、やられたということもあったし、僕が教室主任をしているときに僕の部屋をめちゃくちゃ潰されたけれど、これは今から思うとえげつない感じもあったけれども、西山先生がやられたようなやられ方ではなかった。ただ管理職やってましたからそういう意味でそういうことをされた。あまりそういう思想の面でやり合ったということは僕自身は無いですね。

−:それは組織対組織になるんで、建築の学生ではないですが、建築を学ぶとか、あるいは建築を志すという意味では、その範囲では共有できてるわけですよね。そうすると建築の学生対建築の教官という所での軋轢とか、そういうのはあまりないんですか。大学の教授会対新左翼の学生とかあるいは民青の学生とか、そんな構造だけなんですか。(古阪)

巽:そう思いますね。あまり、新しい建築学とはなにか、とかそういうふうにはなっていかなかったですね。

−:僕は紛争直後に入って、その時には新左翼であれ民青であれとにかく集ろうということにして、随分議論したんです。授業もない代わりに毎日議論したんです。その時にはそういう組織対組織の抗争とかあったんですが、建築の中の学生間という意味ではかなり共有できていたというふうに思います。だから一番紛争が激しかったころはどういう状況だったんだろうと今まで疑問だったんです。(古阪)

巽:建築の中でそういう議論があったと思えないですけどね。あまり愉快な話じゃなかったから、もう忘れてるね(一同笑)。何回もやってるから、何をその時議論したか…。

−:東大は荒れてるとき入試無くしてるからちょっと事情が違いますけど、吉武研、計画学的な話でいうと、学問的というと大げさですけど、やはり建築計画学批判でしたよ。吉武先生がいろいろ、例えばワンフロアー・ワンナースユニットからツーフロアー・ワンナースユニットですね、合理化案を東大病院に出したら、看護婦さんが労働強化だ、と言って後を追っかけ回されたりって、それが最初の授業なんですよ、2回生くらいの。吉武先生は偉かったなあ、と思いますけど、それを講義でしゃべって後はずっとディスカッションです。その時にいた助手の松川さんなんか、一緒に座り込んでで捕まったんですよ。彼女は看護婦さんの立場に立って、計画学は使う側の立場でやるじゃないかっていう話で座り込んで、それは教室は不問に付しましたけどね。。そういうかなり計画の基本についてずっと議論したんです。僕はかなりそれが下地になりました。面白かったし、原点になってます。(布野)

巽:僕はあまり西山先生がやられたのは中身を聞いてないんだけど、建築学と計画学の中身の話と言うよりもセクト間の代表として、それが強かったと思います。だから何言ってもだめなんですよ、そういうときに。

 

 楽しく気軽に議論したい

−:最後にお訊きしたいのは、今の、例えば京大の教室に対する期待とか、今の学生とか、そういった話について言うと、どうですか。

巽:この建築学科に、ここに来たのは何年かぶりですよね。あまり足を向けたくない感じですよね(笑)。今回はこういうことがあったから来たけれども。それから洞竜会も年に1回有るけれどあまり行きたくないですね。どう言ったらいいかわからないけれど問題があるな。楽しくないですよ、少なくとも。で、僕の立場から言えば、もうちょっと楽しく気軽に来れて、誰かと話しようかな、と。

−:もっと、来て下さいよ(笑)。

巽:それはともかく、そういう気分がある。ただ京大は、非常に重要な位置関係に学会の中ではあると思いますよね。講座の数も全体として言えば多いからそういう総合力を発揮して欲しいなと。そういう意味でこの企画は非常にいい。僕のいた頃も『建築学研究』を復活したらどうかという意見もありましたけれども実際にはそうならなかった。

−:まだ教室全体のメディアというふうにはなっていないんですけれど・・・。

巽:学術研究の発表という舞台は、建築学会もあるし、他にもたくさんあると思うんですよね。ジャーナリズムも随分ありますし。やっぱりそれとの関係で言うと、このジャーナルは、いわば建築学科の建築学の広場という感じがするんですね。ですからむしろ他の分野の人に自分たちの分野の研究を理解してもらおうという、一つのネットワークづくりのような気がするんです。そういうことにむしろ徹してね、無理矢理学術論文をあなたの分野で何でもいいから書いてくれ、というような頼み方じゃなくて、もうちょっと共通の広場に対して何が寄与できるかということでやってもらったらいいな、と思うのが一つですね。それからもう一つは、本を出すだけでなくて、年に1回講演会とかシンポジウムとか、そういうものをやってもらったらどうですかね。これは京大建築会でもいいし、あるいは洞竜会がやってもいいかもしれないけれども。そして一人だけじゃなくて、3人くらい立って、共通のテーマについて3人くらいの専門の違う人から、まあシンポジウムのようなもんですね、なんかそういうものをして、そして京大の卒業生だけでなく広く発信する。要するに京都の京大の建築学科を一つのコアにする、それこそ西日本のコアにするくらいのものにしていただいたら、これは生きてくると思うんです。それともう一つ、『traverse』はどうしてこんなに字が小さいんですか。字が小さくて、もうちょっとバリアフリーにしてもらわないと、芸術的な表現かもしれないけど。高齢化対策は、建築や住宅の分野では熱心ですけどね、そういいながら例えば今の字の問題もそうだけど、この頃カメラとかコンピュータとか全部小型化するでしょう。小型化すると部品の全てが小型化してね、例えばスイッチなんかも小型化する。カメラを買ったらね、カメラのフィルムを取り替えるためにはね、爪を立てて小さいのをこうカチッと開けないとね、開かないんですよ。これ、高齢者が一番不得意な操作ですよ。集中してどこかに力を入れるなどは非常につらいのです。だから極端なことを言えば、小さくなればなるほどカメラはもうボタンだらけ、スイッチだらけというのが明瞭なね、デザイン上はまずいかもしれないけど、そういうものでないと高齢者向きにならないよね。ところが現実は小さくなってしかも黒のボディにネズミ色の字が書いてあってしかも、英語で書いてある。これはもう最悪です。これはやっぱりデザインのポリシーがなってない。

−:いや、我々もだらしないんだけど、如何ともしがたいこともありまして。名誉教授室も無くなってしまったし。

巽:そうですよ。来てもね、居るところがないし、それから皆さんをディスターブしてもいかんなという気もあるし。

−:我々外に出てることが多いから。

巽:そうでしょう。居ないことも多いでしょう。だから、こういう機会を年に1回か2回作って頂いたら喜んでやってきます。

−:ちょうど時間です。またお呼びしますので。

巽:はいはい、また。

traverse 巽先生インタビュー 2002.3/8(金) @建築新館318号室

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布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...